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5.神に手向かいしその国は

 晴れ渡る空。澄み切った風。眩い陽の光。
 肌寒い季節らしいけれど、ぽかぽかとした陽射しのおかげで、それほどの寒さは感じない。こんな日に、家の中に引き篭もっているのは、勿体ないだろう。
 前の俺だったら、そう思って。でも、そう思うだけで、実際に外には出なかっただろう。リヨクの散歩は、唯一の例外だったけれど。
 けれど、今は進んで外へと出ていた。少し前を歩く、豹男に導かれて。
「どうだぁ? 別の世界の、外の風景は」
「クロイス。あんまり、外ではそういう事、言わないで」
「おっと、こりゃ失言だったわ。まあ、誰も聞いてないから、許してくれよ。それで、どう?」
「うん。やっぱり、全然違うや」
「それって、良い意味?」
「うーん……両方、かな?」
「そっか」
「言い方、悪かったかな。ごめん」
「いんや。お世辞言われるよりも、俺は好きだな」
 白い街並みだった。ミサナトの街は、丘が段々と続いており、ハンスの家は高い位置にある。ここから見えるのは、下へと続いて広がってゆく世界だった。この辺りは、居住区なのだろう。それも、ハンスの家は、結構
良い所にあった様だ。ファンタジーな街並みっていうと、もっと下町の、ごちゃごちゃとして、家々の犇めいた物を想像していたけれど、ここはそうではなかった。そうして、下りるための階段が、無数にある。区切られた白い枠。
その敷地の中にそれぞれの家はあって、綺麗に整頓されている様な感じだ。そして、その全てから、下へと、或いは上へと続く白い階段が作られている。白い枠を、白い線が繋いで、それらが無数に連なって、遠く、遠く、
下の方へと続いてゆく。蜂の巣の様なイメージが頭に浮かんだ。今まさに、俺とクロイスはその白い道を下へ、下へと進んでいるのだった。
「ちょっと階段を下りる必要があるけど、そしたら、ゼオロの予想していた様な街並みに出られるさ」
「そうなんだ。これ、上の方には何があるの?」
 そっと、見上げてみる。ハンスの家は高い所にあったけれど、まだまだ上には上があるらしく、壁に阻まれて、その先に何があるのかは窺い知れない。青く澄んだ空が、どこまでも広がっているだけだ。
「お、興味ある? んじゃ……ああ、あそこだな」
 そう言って、クロイスが先を歩く。階段続きの途中にある、広い踊り場。その端の方へと向かい、クロイスは俺へと手招きをする。俺は慌ててそれを追った。
「ほら、ここからなら、なんとか見える。あの、屋根。見えるかな?」
 壁の上をクロイスが指差す。言われた通り、ここからなら壁の向こうに何があるのかがわかった。青い、巨大な屋根。空と混ざりそうで、けれど丁度通りかかった雲が、その屋根の存在を教えてくれる。
「あれは?」
「あれが、スケアルガ学園だよ。ここは、学園の裏手なんだ。富裕層の多い地域だから、こんな風に仕切られて、贅沢に使われてるんだわ」
「そうなんだ。ああ、だからハンスさんも、様子を見に、すぐに来られたんだね」
「そうそう。これで遠かったら、昼に戻ってきたりはしないって。そんで、あのスケアルガの正面には、ここみたいな小さい階段があちこちにあるんじゃなくて、でかいのがあってな。そっち側が、下町さ。ここからだと、ちょっと
迂回する感じだけど、まあのんびり行こうか」
 こちらも、向こうも、階段続き。それって、凄い事だけど、苦労もしそうだと思った。荷物一つ持ってくるのすら、容易じゃないだろう。
「だからこの街だと、荷運びの仕事がすっげぇ重宝されてるんだよね。まあ、あそこに学園があるおかげで、周りの奴らはそんなに不自由してないけど。あの学園で大口の取引をして、周辺はそのついでって感じで仕事を
頼まれてるから、実際はそこまで不便な訳じゃないし」
 尋ねてみると、そう返された。魔法でぱぱっと解決、とは流石にいかない様だった。できない事はないのかも知れないけれど、そういうのは使い手がかなり厳選されるのだろうか。
「そういえば、クロイス。留学生の事について調べるんだよね? どこに行くの? 学園?」
「いんや。そこはもう見たから。今日は、ミサナトの北の入口に向かおうと思うんだ。戦時下でもないし、ミサナトはラヴーワの、どっちかって言えば中央の方で、ランデュス側でもないから、出入りする奴をそんなに調べたりは
していないけれど、それが国の外。翼族の、しかもスケアルガに留学する奴なら話は別さ。きちんと身分を証明して街に入っているはずだ。なんせ、何かあった時の責任がどこにあるかって話になっちまうからな」
「そっか。そこに行って、ミサナトにもう入っているかどうか、調べるんだね?」
「その通り。そもそも今はまだ、学園でその留学生が来るのを待っているだけだからな。当の留学生が、街に入ったけれど学園に来ていないのか、そもそも事情があったり、遅れたりして、ミサナトの街自体に入っていない
のか。それだけでもわかれば、その後どうするかも決めやすいだろ?」
「いつ頃来るのかっていう事は、わかってなかったの?」
「それは結構曖昧なんだよね。まあ、翼族の谷までは大分遠いし。しかもあいつら、翼族だから。当然、空を飛ぶ奴も居るんだよ。飛ぶのが下手でって奴も居るけどな。飛ぶにしたって、速さも個人差があるし。歩いてくる
奴らと違って、いつ来るのかってのが、ちょっと予想しづらい訳。一応、翼族側からは、間もなく谷を出る。二月もすればっていう話は受けてるんだけどな。で、そろそろ来るだろうっていうこちらの予想から、もう十日以上、
本人が来る気配が無いって訳」
「そうなんだ。心配だね」
「いや、全然」
「えっ」
 心配してるから、こうして探りにいくのだろうと思っていた俺は、その返しにちょっと驚く。クロイスは俺から少しだけ目を逸らしてから、小さく溜め息を吐いた。
「さっきも言ったっしょ。責任がどこにあるかって話になっちまうって。俺が気にしてるのは、そっちの方さ。これで留学生君に何かあって、翼族の方から非難されたら、堪ったもんじゃない。俺としては、遅れに遅れていまだに
どこかをほっつき歩いてるか、ホームシックになってとぼとぼお家に帰ってくれていたら、ありがたいね」
「そっか。大変なんだね、クロイスも。自分達で経営している学園の事だし」
「……あれ? 俺、言ったっけ? そんな事」
「あ」
「……ははーん。ハンスか。まあ、いいけどさ。スケアルガの事を言ったんだから、いずれわかる事だったし」
「ごめん。ちょっと、気になって」
「いいっていいって。俺の方こそ、ゼオロが何者なのかって、随分あれな事もしちゃったしさ。その辺は、お互い様。さて、まあ、そんな訳で。どこに行くのか、どうしてそこに行くのか、わかってくれたよな。でも、それはそれ、
これはこれ。ゼオロがせっかく外に出られたんだ。楽しくやろうぜ~? 買い食いとか、買い食いとかな!」
「お金、無いよ」
「あいや待たれい。ご案じ召されよ。拙者、この様な事もあろうかと、これこの様に路銀の用意万事抜かりなく」
「どこの人?」
「なんか、南東の方ではこういう人もいるらしいぜ。本で読んだけど」
 そんな時代劇の中の様な人が、居るのだろうか。というかクロイスが今口にした言葉の翻訳のされ方が、不味かったのだろうか。今更だけど、その辺りは使い魔用の力が働いて勝手に翻訳されている、とハンスが
言っていた物だから、実際にはなんと言っているのかが気になるところだ。
「それにしても、クロイスと並ぶと……」
「ん?」
 改めてクロイスの服装をまじまじと見つめる。服装は、昨日までとはそれ程の違いはない。それでも細かい部分では違いがあって、控えめにお洒落を主張している。コートは同じだけど。対する俺は、相変わらずゲームの
初期装備よろしく、上下ともに地味な色合いの布の服だった。外に出るからと、ズボンの丈が伸びた事で、守備力が一か二くらいは増えたんじゃないだろうかってくらいの変化だった。
「クロイス、とっても派手だから」
「派手? え? ちょっと、マジで言ってんのそれ? こんなに地味なのに!!」
「地味なの?」
「そうだよ! 俺の持ってる中でも、選りすぐりの地味な服! 学園の関係者の家に行くなら、粗相の無い様にって、こういう服じゃないと外出許可が下りねぇのよ! マジありえねーわ。こんな上から下まで暗い色
じゃねーとなんて。仕方ないからこうやってちょっと寒いのに胸まで開いてるってのに」
「そ、そうなんだ。私は、今でも充分派手だと思うけれど」
 履いているブーツも、服と同じで色は暗いが、造形は凝っていた。すらりとした豹の足に、ちょっとごつめのブーツの対比が、中々似合っている。当然、俺は室内用のサンダルに毛が生えた程度の編み上げサンダルである。
 いや、正直これでも結構自分ではお洒落なサンダルだな、なんて思ってしまうけれど。足に絡みつく様な紐の具合とか。人間だった頃にやったらボンレスハムみたいだなって絶対思ってたな。
「こんな枯れ葉みてーな色合いで統一なんて、もっとジジイになってからでいいっしょ~? まったく、年寄り連中ってのはどうしてこう、がみがみなのかねぇ」
 俺からすれば、今のクロイスよりも派手な服装は、怖くて手が出ないなと思えてしまう。俺はその性格の通り、服も地味目なのが好きだった。というかもう、目立たなければそれで良かった。恰好良いとか、似合うとか。選考
基準がそもそもそれではない。目立たない。とにかく、目立たない。それが第一であって、他の基準があるとすれば、値段くらいのものだろう。あと丈夫さか、機能性辺り。
 やっぱり、俺とクロイスでは、お洒落に対する認識がまるで違っていた。とても、今更だと思うけれど。やっぱり彼が、爆発してほしいタイプの人種なのは、間違いがないのだった。炎を使うし。
「じゃあ、どんな色が好きなの?」
「そりゃ勿論、赤でしょ! 情熱的な赤! 俺にいっちゃん相応しいに決まってんよー」
「真っ赤な嘘って言うしね」
「おい」
 ほんの一瞬、クロイスから殺意が立ち昇る。どうやら、ファッションの事には真剣の様で、からかってはいけない様だ。
「にしても、ゼオロの服もなんとかしないとなぁ」
「別に、いいよ」
「うう、本人にそう言われると、いじれねぇけど。でも、せっかく綺麗なんだから、服も綺麗にしないとなぁ。ハンスもこんなボロ渡さなくたって、いいじゃんかよ」
「それは仕方ないよ。ハンスさんとじゃ、体格差があり過ぎるし。とにかく着る物をって出してくれたものだから」
「なんか買いたいよなぁ。服も。ああでも、あんまり目立つ格好はできないよなぁ……」
 その通りだ。目立つのは、この世界で生きる事に、もっと適してからでも遅くはないだろう。俺が頷くと、クロイスも渋々と言った様子で応えてくれた。
「……さ、行こうゼオロ。あんまり話してると、階段下りるだけで陽が暮れちまいそうだ」
「うん」
 駆け足で、見知った道をクロイスが転がり落ちる様に移動する。俺は慌ててそれを追った。追いながら、物凄い勢いで巡る景色を視界に入れては、一々驚く。クロイスは俺を置いていく様な速さかと思いきや、俺が何かに
気を取られたり、見惚れていると、少し先で待っては手を振ってくれていた。なんというか、デートと当人が言っていた割には、自由な案内の仕方である。もっとも俺には、その方が楽な部分があったのは否めない。途中で
振り返ると、飛び出してきたハンスの家は、大体の位置はわかるけれど、既に視界には見えなくなっていた。首が痛くなりそうな程に見上げて、ああ、あの辺りなんだろうなって、そう思うくらいで。俺が二日も閉じ籠っていた
家は見えなくなっていた。前を向くと、階段の手摺に手を置いて、風にコートを靡かせているクロイスの姿があった。快い風が、吹いていた。それはクロイスの被毛を撫ぜては、さわさわと豹の顔の、細かい毛が揺れている。
風を受けながらミサナトの街の眺めているクロイスの表情は、晴れ渡る空の様にきらきらとしていて。それが俺の方に向くと、またにこりと笑っていた。

 階段を下りて下りて、また下りて。下りた先に出ると、今までとは打って変わって、風景ががらりと変わる。雑多な街並み。少し、薄暗くて埃臭い感じ。行き交う人々。ほとんどの人は朗らかだけど、剣呑そうな人も居る。
 そこまで来ると、クロイスが恭しい仕草で手を差し出してきた。
「ここからは、ちょっと危ない。絶対に、手を離しちゃ駄目だ」
 頷いて、俺は手を出した。クロイスは俺の手を、とても大事な客でも迎えるかの様にそっと掴み取って、歩き出す。
 そのまま、どれくらい歩いただろうか。気が付くと俺は、街の入口に。クロイスの目当ての場所へと来ていた。歩いていたのは、本当に一瞬の事だった様な気がしたけれど、階段を下りていた時よりも長い時間が経っていた
様だった。余裕が無くて、そんな事には気づいてはいられなかったのだ。だって、道を歩く人々の頭が、やっぱり人間じゃないんだもの。犬だったり、猫だったり、虎だったり、ライオンだったり、熊だったりして。口を開けて
それらを見ていると、あんまりじろじろ見ない方がいいとクロイスに注意されて。それで後は、横目で、それでも興味深々で眺めていて、そうしていたら、あっという間に目的地に着いてしまったのだ。
 尊大に、傲岸に構えた大門が、目の前に聳え立っている。風雨に晒され、表面が剥げたり欠けたり、変色したりしているのが年季を感じさせる大門だった。その先が、ミサナトの街の外なのだろう。門の中からは、片側に
別れて、外と内へ向かう人々の流れができていた。一見すると、外に出るよりも、内に入ろうとしている列の方が人が多く見える。手荷物の確認などがあるのだろうか。反対に、内から外に出る分には、それは然程重要な
事ではないのか、スムーズに人の波が移動しているのがわかる。
 クロイスに手を引かれて、俺は顔を上げる。
「こっちだ」
 クロイスが目指したのは、その開かれた大門の少し横の部分。重苦しい石造りの階段が、俺達を迎える。門の中へ続く階段の様で、俺はちょっと、息を呑んだ。こんな所に入るなんて、まったく心の準備ができていない。車で
移動していたら、街の入口なんて曖昧な世界とは、当然ながら違っているのだ。こんな施設も、普段は足を運ばない場所で生きてきた。
 硬い階段の質感を一歩一歩踏みしめて、確かめながら上ってゆく。一時的に手を離されて、先を行くクロイスの後ろ姿に見える尻尾が、俺を誘う様にゆらゆらと揺れていた。十段、二十段。次第に、外の喧騒が遠くなる。
明かりは、それ専用の窓が入口の方には開いていたけれど、それも遠くなって、暗くなる。丁度、足元が覚束なくなりそうな距離になると、壁がぼんやりと光を発しているのに俺は気づいた。足音だけが、俺を現実に繋ぎ
止めるかの様に、さっきから煩く聞こえている。そのせいで、暗くても孤独という気はしない。イヌ科万歳。
「壁、光ってるね」
「ああ。よくある奴だよ」
 よくある奴なのか。そんな一言で済まされてしまって、クロイスも立ち止まらないから、俺も歩調を少し緩めるくらいで、その場を後にする。三十段辺りで折り返しになり、ごくごく狭い踊り場の後に、また段。足が、ちょっと
辛くなってきた。そもそも下町に出るために、散々階段を下りたのだ。ただ、それであっても意外と自分が疲れていない事に気づく。人間だった頃なら、下町の辺りでもう限界が来ていたかも知れない。初めて見る世界で
いくらはしゃいでいるからといっても、それだけでは説明がつかない。やっぱり、この身体のおかげだろうか。細くて、他人から見ると華奢に見えるこの身体でも、やっぱりきちんとした獣の強靭さを備えているのだ。どちらかと
いうと、現代社会の不摂生な生活に慣れ切っていた俺の身体が、惰弱なだけだったのだと思うけれど。何より、身体が軽い。贅肉、運動不足、運動音痴の三重苦から一気に解放されたのだから、当たり前だけど。一歩、
一歩がまるで羽根のように軽いので、その分体力がありそうな身体には見えないのに、負担はずっと少ないのだった。
 階段を上って上って、また上って。ふと、明かりが見えてくる。さっきまでの、うすぼんやりな壁のあれとは違う、はっきりとした明かり。
「着いたぞ」
 クロイスの声。暗闇で、声もほとんど上げていなかったから、不意に聞こえたクロイスの声は俺を安心させてくれる。
「この上は?」
「門の上に出ちまう。不用意に行かない方がいいよ」
 まだ階段には先があったので尋ねると、そう言われて。態々自分一人で行く訳もなく、俺は素直にクロイスの向かう先へと、暗い場所から明るい場所に出て、目を細めてしばらくその場に立ち止まる。ようやく周囲の状況が
理解できる様になると、視界に映ったのは、ごく普通の役所といった風景だった。思ってたよりも、なんだか地味。雑多に詰まれた書類とか、小分けして管理できる棚とか、事務用の木造の机とかがあって、その間を細々と、
働いている人達が行き来していた。その外見が人間ではない事を除けば、大体が頭で簡単に想像できるそれとの違いはないだろう。
「ここは?」
「大門の管理所さ。妙な輩が街に入ったり、また外に出ない様に見張る所。といっても、さっきも言った通り、別に物々しい検査なんかをしている訳じゃないけどさ。でも、商人とか。何かしらの荷物を抱えている奴は、結構厳しく
見られるよ。それから、留学生の様な、外国からの訳あり君もな。あと、街の入口はここだけじゃないけれど、ここが一番でかい。だから、書類とかも基本はここに集められる。じゃあ、俺はちょっと、その留学生君が来たか
どうか、確認しにいってみるから。ゼオロはあっちで待っててくれよ」
 指差された場所を、俺は視線で追う。大門に穿たれた窓を指差されて首を傾げるけれど、よく見るとその先にも、入れる場所がある様で。丁度、バルコニーの様な物が設えられてあった。
「あそこから、外が見える。まあ、ミサナト側だから、街の外は見えないけどな」
 反対側は駄目なのだろうかと振り返ると、そちらにはそういった造りの物は見当たらない。
「そりゃ、大門を通らずに外に出ていこうとする様な奴も居るかも知れないしな。態々こんな所に入って出ていくのが本当に居たら、すげぇ変人だけど」
「そっか。それじゃ、待ってるね」
 本当は、クロイスに付いて回ってもみたかったけれど、それは流石にお邪魔になってしまうかなと思って、俺はすごすごとクロイスに言われた場所へと向かう。そこへ向かう俺を、大門を管理する人達が軽く見つめてきた
けれど、特に何も言わずに通り過ぎる事ができる。ちょっと、ほっとする。声を掛けられても、俺は碌に話なんかできそうにないし。そうなったら早速、クロイスの助けを借りるしかないのだ。
 バルコニーに出る扉をゆっくりと開けると、ふわりと風が吹く。外へと一歩踏み出して辺りを見渡すと、備え付けの椅子がいくつか置いてある程度の、殺風景な場所だった。誰も居ない。そのまま手摺まで駆け寄って、身を
乗り出してその先を見下ろす。
 広がっていたのは、たった今まで俺達が歩いてきた場所だった。それでも、受ける印象はまるで違う。道を行く、人、人、人。そして思い思いに形どられたその顔。その中を歩いていた時よりも、もっとよくわかる。本当に色んな
種族がそこに居て、そうしてお互いを特に気にする様子も見せずに、入り乱れている。これが、獣の連合国、ラヴーワなのだと、自分に言い聞かせた。胸が、高鳴る。人間の時に、同じ事をしても、似た様な黒髪の群れがあって、
その中に染髪をした少数の人が見えるだけだっただろう。今は、違う。どこを見ても、動物頭が居るだけだ。あれ、そういえば、人間は居ないのだろうか。思い立って改めて、舐める様に見渡すけれど、見つけられない。どうやら、
この世界に居るのは、尻尾が当たり前にある様な人達がほとんどなのだろう。しばらくはその人の波を、ただじっと眺める事に没頭する。クロイスと一緒に歩いていた時に見た種族が大半だったけれど、中にはちょっと
珍しい人も居た。
「あ、鮫」
 思わず声を上げてしまう。だって、魚じゃないか。陸に上がって平気なのだろうか。確か、ハンスが言っていた。ああいうのは、水族だ。そうして、陸ではなく、海を自分達の縄張りとしている種族。翼族と同じく、国を持たず、
それでも同じ種族で固まって生きている。そうか。陸に、上がっても平気なのか。魚なのに。なんだか、シュールだ。いや、今更か。鮫の周りには犬頭や猫頭がうようよ居る訳だし。まるで百鬼夜行だ。日本の古い絵巻にでも
描かれている様な、珍妙な異形の行進のそれが、ここでは至って普通に繰り広げられている。
 もうちょっと、詳しく観察する。そういえば、竜が見当たらないな、と眺めていて気付く。それは、当然といえば当然だけど。断片的な情報しかまだ知らない俺でも、竜はランデュスという竜の国に居て、そしてそちらは敵国
なのだ。こんな所を堂々と歩いている竜は、やはりそんなに多くはないのだろう。一応、今は休戦中の様だし、別に居ても不思議ではないだろうけれど。そう考えると、まだ見ぬ、そして知らぬままでいるランデュスという国の
事も、気になった。どこを向いても、歩いているのは竜族なのだろうか。なんだか、恰好良い。それからとてつもないファンタジーを感じる。なんか俺、ここに来てから、ファンタジーを感じるどうかばかり考えている気がする。
ハイファンタジーな世界そのものにやってきたのだから、ある意味当然なんだけれど。
 いつか、ランデュスにも行けたらいいな。狼族の俺が、入れてもらえるのかはわからないけれど。
 そこまで考えて、思わず俺は苦笑する。ああ。俺、今、自分の事を狼族だって思ったんだ。そう、思えたんだ。掌に視線を落とす。銀の被毛の生えた、銀の手。何度見ても、違和感があって、でも俺の心は既に、自分が狼族で
ある事を。人間ではない事を、理解するという事よりも、ずっと早く受け入れていたんだな。それも、当然か。嫌で嫌で仕方がない場所から、来たのだから。ここでは、元の世界であった、嫌な事は、全て遠くて、あまりにも、
遠くて。会社で鼻摘み者だった事も、親の期待を裏切りまくって独りぼっちだった事も、親友から告白されて、混乱の内に会わなくなった事も、全てが、遠かった。
 一人苦笑をしていると、不意に後ろから、身体を抱き締められる。俺の身体に回った腕が、俺をぎゅっとする。
「捕まえたー」
 間の抜けた声が頭上から聞こえて、頭を上げようとすると、俺の立てた両耳の間にジャストフィットする様に、豹の顔がぽふんと乗ってくる。
「……クロイス。もう、終わったの?」
「うんうん。こういう事しても、全部無視してそういう事言っちゃう。流石ゼオロちゃん」
 クロイスの喉がごろごろと鳴る。猫みたいだ。猫みたいなものだけど。俺の後頭部の辺りでごろごろが炸裂して、ごろごろ、ごろごろしている。ただ、猫よりも強烈なごろごろだった。本気を出されたら思わず身を震わせて
しまう、あの肉食獣のごろごろが炸裂したりするのだろうか。あれはもう唸り声だけど。
 振動で頭が震える様な気がする。手を上げて、人差し指を伸ばして、俺の頭の上に我が物顔で居座っている、怪人バイブレーション豹男の鼻を突くと、ようやく俺は解放される。
「何見てたの」
「人」
「深いなぁ。うんうん、実に深いね」
「の頭」
「前言撤回だわ。なんだよ、もっと面白いの、見てるかと思ってた」
「面白いよ。私の元居た世界とは、それだけで違うから」
「そういえば、そうなんだっけ。なんだっけ、人間っていう種族しか、いないんだって?」
「そう。ああして」
 視線を下へ向ける、行き交う人々の姿が、はっきりと見えた。街の入口というだけあって、あまり大仰なやり取りは行われてはいないけれど、それでも隅の方では、露店やら何やらが、いくつか出ていて。品を値切ろうと
必死になる犬のおばちゃんを、困った風に笑って迎える猫のおじさんが宥めている。おばさんの手に繋がれているのは、そんな物はいいから、もう帰りたいという顔を丸出しにした、小さな犬の子が。繋いでいない手には
買ったばかりの飴を持っていて、退屈しのぎに長い舌でぺろぺろとそれを舐めていた。ちょっと、視線を動かす。そっちの方では、喧嘩が始まったのか、ごつい体型の虎と狼が睨みあっている。途端に周りからは冷やかす様な
声が上がって、それから何人かが手を上げて、小銭を見せつけていた。多分、賭け。虎が自らの着ている服を破り捨てて、その体格を露わにすると、それを見ていた男からは歓声が。女からは黄色い声が、ちょっと歳の
行った人達からは、やれやれというかの様な反応があって。それから、とっくみ合いの喧嘩が始まる。騒然となった場からは、目立たぬ様に痩せた兎の男が、にやにやしながら、大分遠回りをして出てくる。馬鹿にした様に
後ろを向いた彼の手には、いくつかの小銭が握られていた。突然に、その顔が驚きに包まれて、彼は大慌てで遁走する。誰かが、自分の金が盗まれた事に気が付いて、声を上げたのだろう。さっきまでの賭けも忘れて、
そこで追いかけっこが始まる。
 歩く人。走る人。歓声を上げる人。悲鳴を上げる人。人。人。人。
「ああしてはしゃいでいるのは、皆、人間なんだ。外国の人が居ても、肌や髪の色が違っていても、結局は、人間」
「ふーん。なんか、怖いな」
「怖い?」
「だってさ。俺に言い換えたとしたら、この下を歩いている人は、皆猫族の中の、豹しか居ないって事なんだろ。ちょっと毛色やら何やら、具合が違ってもさ」
「そうだね。もしくは豹ではないけれど、皆猫族、かな」
「こんなに沢山、ここには色んな奴が居るのに。そうじゃなくなったとしたら。俺は、怖いよ」
「確かに、そうだね」
 既にある物が、無くなってしまうから怖い。もっともな意見だ。それしかなかった世界から来た俺には、はっきりとはわからない事でもあったけれど。
「この世界には、人間は居ないの?」
「初耳だな、そんな種族は」
「そうなんだ」
「がっかりした?」
 安心した。
 とは流石に言えなくて。俺は曖昧に言葉を濁らせる。
「そういえば、竜は居ないんだね」
「そりゃあ、敵国だしな。絶対に居ないって訳じゃないけれど、でも、中々居ないもんだよ。竜族と、爬族(はぞく)はね」
「爬族?」
「蜥蜴の事。蜥蜴も、居ないだろ?」
「そう言われると、そうかも」
 そもそも蜥蜴、もとい爬族という物が存在している事すら、今初めて聞いたのだ。慌ててまた人の波に目を落としてみるけれど、確かに見当たらない。毛むくじゃらが闊歩しまくっている真下の光景では、寧ろつるつるしている
方が目立っていて。そうして何人かつるつる状態のを探してみたけれど、その全ては水族だった。
「どうして、爬族も居ないのが当たり前なの?」
「爬族は、竜族の腰巾着みたいな種族だからさ。住処も、竜の国であるランデュスの、すぐ近くなんだ。だから、爬族は八族にも数えられちゃいない」
「八族って、前も聞いたけれど。何が入ってるの?」
「なんだ、そこからだったか」
 長くなるかな、と見て、クロイスが椅子に座る。俺も、並ぶ様に椅子に座ってみた。そうすると、俺の背の高さでは、手摺が邪魔で下は見えなくなる。晴れ渡る空に響き渡る喧騒だけが、見えなくなった彼らが、まだそこに
あって。当たり前に生きていて、日々を営んでいる事を教えてくれた。
 空を見上げて、クロイスが息を吐く。
「八族っていうのは、このラヴーワの構成する種族の全ての事を指すんだ。八族は即ち、犬族、狼族、猫族、虎族(こぞく)、獅族(しぞく)、兎族(うぞく)、牛族。これら七つの種族が、連合の主力を担い、そしていずれにも
属さず、それでもラヴーワに従った者を統括するのが、少族だ。少族は多数に満たない種族の集まりだから、先の七つに含まれていない奴らは、皆ここだな。だから、名前と違って、結構多いよ」
「クロイスは、猫族なんだよね」
「そうそう」
「やっぱり猫じゃない」
「違うのっ。豹はちょっと数少ないから、仕方ないのっ」
「じゃあ少族になるんじゃないの?」
「猫に近いから、猫族なんだよ。……その辺は結構、曖昧な部分もあるよ。少族も、数が膨れて、このまま少族のままは嫌だって言ってるのもいるし。その辺は結構、デリケートな問題だけど」
 猫族と言う割に、その中に虎やライオンが含まれてなくて、しかもその二つは独立しているんだから、確かに曖昧なのかも知れないなと思う。
「とはいえ、先の七つは本当に、このラヴーワがしっかりと国として動くために尽力してくれた種族なのは、確かなんだよ。だから、その辺りは分けられてるって訳。それに、昨日も言ったけど、狼族は犬族と一緒にされるのは
嫌って言ってるしな。というよりは、狼族は本当に他と一緒にされるのが嫌だってだけなんだけど」
「プライドが高いんだね」
「自分の種族の事なのに、随分な事言っちゃうね……」
「たまたま狼族になっただけだからね。他の種族って、どうなの? その、虎族とか、獅族って」
「そうだなぁ……狼族程ではないけど、やっぱ自分の族を持ってる奴らは、その辺はお堅い部分もあるかな? 猫族はまだ結構懐が広いけど、そいつらは違うからねぇ。それでも狼族よりはずっと付き合いやすいけど。
狼族が、同族意識が強いとすると、その正反対なのは虎族になるし」
「反対……誰にでも友好的なの?」
「いや、そうじゃなくて。そういうのは寧ろ兎族の方。それとは別で、凄く個人主義なんだよ、虎族は。強い奴だけが正しいっていう、所謂筋肉馬鹿。でも言い換えれば、種族なんてのは気にしない訳。何かしら認めてもらえる
物があれば……まあ、大体は腕力とかの強さなんだけどね? でも、認められたら、もう他人がどんな種族かなんて、一切気にしない。気楽なもんさ。その性質上、狼族とはあんまり仲が良くないけど……まあ、狼族と仲が
良いのなんて、同じ狼族か、兎族くらいのもんだけどさ。んで、獅族っていうのは、丁度、狼族と虎族の間かなぁ。一番纏め役に適している種族でもあるよ。実際、ラヴーワ建国の祖である、ラヴーワ当人は、獅族だしね。もっとも
ラヴーワは、皆をどうにか纏め上げた時に、病で亡くなったそうだけど。でも、余程人望があったんだろうな。自分が死ぬのと入れ替わりに生まれた国に、その名前が付けられるんだから」
「ふ、ふーん……」
 やばい、唐突にクロイスから始められた説明が、思っていたよりも難解だ。憶えられるだろうか。俺がまごついていると、クロイスが安心させる様に笑う。
「憶えられなくても、大丈夫だよ。ハンスの家なら、そういう本もあるから。今は、大体どんな種族が居るのか。それだけわかればいいさ。大体この話は本題じゃないし」
「ありがとう」
「いいっていいって。大体、本当の他所から来て、いきなり全部憶えろだなんて、いくらなんでも無理だって。勉強する余裕なんて無いのも、わかってるから」
 それはまったくその通りだ。今はまだ、生きているので精一杯。たった今まで歩いてきた街並みだって、途中でちょっと買い食いした事でさえ、既に俺の脳では壮大な冒険の一幕に入っているくらいだ。
「その辺は程々にして、爬族の事だったな。爬族は竜族に対する憧れが強い種族でさ。まあ見た目は結構似てるからね。だから、もっぱら竜族の傍に居ようとしてるんだよ。ただ、内には色々問題もあるみたいだけどさ。
先の戦争の時も、爬族の半分はラヴーワに味方をしてくれたんだ」
「竜族に憧れが強くて、近くに居るのに?」
「それが全てではない。そういう事さ。それに、爬族の本当の目的は、自分達も竜族を名乗る事だからな。でも、やっぱり竜族とは違うし、竜族からしたら、自分達の仲間としてはともかく、同族とまでは見られないって事情が
ある。そうなると、それぞれの部族毎に独立しながらも、きちんと国の一員として数えられるラヴーワの方に属したいって奴も、かなり増えた訳さ。元々ラヴーワができたのが、この涙の跡地を併呑しようと目論んだ、竜族の
決起に対する、蜂起だからね。結局爬族は、中途半端なまま、休戦中の今も竜族の傍に居るけれど」
「そうなんだ。ラヴーワに来てくれれば、良かったのにね」
「まあ、そうなったらそうなったで、八族が九族になってたのか、少族に入ってたのか、気になる所ではあったね。とはいえ、半数が味方でも、半数は敵。やっぱり、爬族を迎えるのは難しかっただろうな。特に向こうには、
神様も居る訳だし」
「神様?」
 どうしよう。話を切り上げたかったのに、神様なんて言葉が飛び出すものだから、つい聞いてしまった。まさかこれを華麗にスルーなんてできる訳がない。クロイスもにやっとしているところからすると、そろそろ俺が
だれてくる頃合いだろうと見て、餌を仕込んだ様だった。やっぱりこの豹男は、狡賢いと思った。飽きさせない話し方をするのが、上手いのだ。
「そ、神様。ゼオロの世界には、神様って、居た?」
「うーん……宗教や、神話や、昔話、ゲームには沢山居たけれど」
 あとネット上にも沢山居たけれど。それは言わないでおこう。
「実在はする?」
「居ない……かな。多分」
 無宗教に近い俺からすれば、居ないも同然。居ると思っている人には、居ると思われる。でも、目の前に居たりとか、そういう訳ではないなと思う。
「ここには、居るんだよ。神様。まあ、この国には居ないんだけど」
「向こうにはって言ったよね。という事は、ランデュス?」
「そうそう。大正解。ランデュスに居る……というか、ランデュスが、神なんだ」
「ランデュスが、神?」
「そう。ランデュス。ランデュスには、意味が二つあるんだ。一つは、国としてのランデュス。そして、もう一つ。神の名前。ランデュスは、神の名前でもあるんだ。そして、彼は竜の神なんだ」
 竜の神、ランデュス。長い会話に疲れていた俺の脳に、その名前が刻まれる。
「竜の、神」
 呟いた俺の言葉に、クロイスは満足そうに何度も頷いた。
「他には、居ないの?」
「居ないよ。今はね」
「今、は」
「昔は、居たと言われていたそうだけど。ラヴーワができるよりも、ずっと昔、大昔の話さ。その頃は、神はもっと沢山居て。そうして自分の種族と同じ者を引き連れていたって話だ。神は珍しくないし、俺達が神と接する事も
また、珍しくはなかった。それぞれの種族に、それぞれの神が居て、俺達は、神に仕える事を誇りとしていた。今とは、まったく違うよな。今は、俺達が全部仕切っているのに。昔は俺達よりも上が居て、全てを預けて
いたんだから」
「でも、今は居ないんだよね」
「ああ」
 少し、寂しそうにクロイスは言う。神が居た。それも、目の前に、自分達を導く様に。それは、どんな光景なのだろうか。神話などに目を通せば、そういう話は見られるけれど。今ではそれも叶わないのだと言う。ただ一つ、
竜族という例外を除いては。
「どうして、ランデュス以外の神様は居なくなってしまったの?」
「わからない。いつ居なくなったのか、どうして居なくなったのか。それは、わからないんだ。ただ、竜の国には、竜の神が居る。ランデュスだけが、この狭い涙の跡地の中で、神と呼ばれる者として、存在し続けているんだ。
ランデュスなら、何か知っているかも知れない。しかしランデュスは、竜の神。竜神だ。決して、俺達には口を開いたりはしないだろうな。だからこそ、ランデュスは竜の国を統べながらも、竜族を従えて、この大地を併呑しようと
戦を仕掛けてきたんだが。それも、もう百年以上も前の話だけど」
「神様、かぁ」
 神っていうから、俺はもっと、人々の生活を優しく見守っている様な存在を想像してしまうけれど、どうやら竜神ランデュスは、そういう類の物ではなさそうだなと、クロイスの言葉から感じ取る。どちらかと言えば、王様とか、
それに近い様だ。それも、とてつもなく息の長い王様。
「国としてのランデュスに、神としてのランデュスが居る。ランデュスは、この地に残った唯一の神。……そう考えると、それと戦争をしていた俺達は、神に歯向かう者なのかも知れないな。なんとも、罰当たりなもんだな。仕方が
ない事とはいえ。ランデュスはランデュスで、自分の一番のしもべである竜族を導かなければならないのだろうし」
「本当に、場所の奪い合いなんだね」
「ああ。本当。嫌になっちまうよな。どちらが先に仕掛けたとか、どちらが悪いとか。そういう話にすらならないよ。生きるために、殺したくなくても、何かを殺して食わないといけないのと同じ様に、獣が増えれば竜が邪魔に
なって、竜が増えれば獣が邪魔になって。もう、そんな話さ。どっちも正しくて、嫌になっちまうね」
 クロイスは椅子に座っていた身体を両腕を上げて伸ばし、大欠伸をする。大空を食ってしまいそうな、豹の口が開かれる。そうしていると、本当の豹の様だ。
「だからさ、ゼオロ。俺、いつかは、ランデュスと仲良くなれたらいいなって思うんだ」
「え? だって、今」
 戦うのは、仕方がない事だと、言ったばかりだ。それも、どうしようもない事情で。俺が言わなくても、クロイスは充分に俺の言いたい事を察していて、苦笑しながら頷いていた。
「わかってる。それが難しい事だっていうのも。でもさ、俺達はもっと、別の事に注目するべきなんじゃないかって、思うんだよな。今この涙の跡地を覆っている、あの結界の事もある。これ以上世界が決して広がらないのなら、
それはやむを得ない事だけど、でも、そうじゃないだろ? あの結界さえ、なんとかできれば……もし外に出ても、外にも誰かが居て、それでその先で、また奪い合いになるのかも知れないけれど……。少なくとも、陸続きに
なっている方から、外を観測したっていう話では、何か人の居る気配や、誰かがこちらを窺っていたという話もないんだ。だから、少なくともこの大地の周辺は、きっと……俺達が生きてゆくのに、利用できる場所のはず
なんだ。だったら、こんな狭い世界で争っているよりも、手を取り合って、あの結界をなんとかした方が、俺は良いと思うんだ。それに、ユラの予言の事もある。かつて存在した、預言者ユラは、こう言ったんだ。黒き使者が、
白き使者を見出した時、真の悪は滅び去り、また世界を覆う結界も消え去るだろうって。結界以外は、何を指しているのか、当時は散々騒がれたそうだけど、結局何もわからなかった。でも、預言が現実の物になるの
なら……あの結界は、いつか、壊れるんだ。だったら、今この時代で、ラヴーワとランデュスが争うのは、あんまりにも無意味なんじゃないかって、時々思うんだよ。争うよりも、もっとやるべき事があるだろって」
 そこでクロイスは言葉を切る。空を眺めたまま、しばらく無言の時が過ぎる。俺達の間には言葉もなく、ただ眼下で繰り広げられている人々の営みの喧騒だけが、後から後から、決して耐える事はなく轟いていた。それを
心地良い音楽でも聞いているかの様な顔で耳を震わせているクロイスは、口元に笑みを浮かべていて。彼が本当に、目の前の光景を愛しているのだという事が、伝わってくる。
「俺は、スケアルガの者だ。だから俺にはいつか、選択を迫られる日が来る。俺の判断で、できる事も出てくるはずだ。そうなったら俺は、ランデュスと和平の道を探るんだ。二つの国が、争わずに、もっと本当に大事な事を
成し遂げられる様に、俺はしたいんだ。それが、俺の夢なんだ」
「夢……」
 夢と言われて、俺は耳を震わせた。なんだか、ゲームの世界の話の様だ。途方もなくて、荒唐無稽で。だって、もうとっくに戦争が始まっていて、とても今更の様な意見だというのは、別に間違った見方ではないだろう。
和平を探る時期はとっくに過ぎて、あとはただ、どちらかが倒れるまで武器の振り合い、殴り合い。今はただ、束の間の休戦に過ぎない世界。
 それでもそれを馬鹿にした顔ができないのは、クロイスの持っている夢が、普通の人なら、考えてもすぐに捨て去ってしまう様な夢だからだろうか。クロイスが今まで、誰に、どれ程夢を語ってきたのかはわからない。けれど、
その反応が芳しくなかったのは、少し寂しそうなクロイスの表情から、よくわかった。現実は、甘くはない。唐突に思い出した。前の世界の事を。何もかも、甘くはなかった。甘ったれた自分だけが、溺れそうになる中で、
もがいているだけだ。
「ゼオロ」
「え?」
「そんなに泣く程、俺の話って、つまらなかったかな」
 問いかけられて、俺は自分が泣いている事に気づいた。ああ、視界は少し歪んでいたけれど、被毛の上を滑る涙は、人肌の上を滑るよりも刺激が少なくて、よくわからなかったんだ。俺は手を伸ばして、流れた涙を丁寧に、
片方ずつ払いのける。こんな時も、マズルがあって、腕で乱暴に顔を覆うなんて事はできはしなかった。
「ごめん、つまらない話だったよな」
「そうじゃないよ」
 ああ、そうじゃなくて。クロイスの夢が、ただ純粋に、まっすぐな物だったから、俺は思わず、途方も無くそれが眩しく感じられたんだ。俺の居た所は、少なくとも、俺の居た環境では、夢なんて、子供の頃に見るだけの物
だった。身体が大きくなるにつれ、大人になるにつれ、夢なんて、見ていられなくなる。夢見ていた自分と、現実との自分の乖離に、苦笑して、それきり。夢を見る時間は終わって、夢を見る日々ではなく、夢に逃げる日々が
始まる。夢を語れば、呆れた顔をされて、現実を見ていない、それではやっていけないと説教をされ、それでもそれらは、自分のためを考えて言われている言葉なのだからと、嫌々ながらも受け止めて。夢を踏んで、夢を
置いて、夢から遠ざかってゆく。遠ざかった先で、夢を見ている人を見つけて、今度は自分が諭す番になる。
 自分に何ができて、何ができないのか。それすら知らない子供の間だけが、夢を見ていられる、短い期間だった。
「じゃあ、なんなのさ」
「……クロイスの夢が、叶うと、いいなって。私も、いつか役に立てる時が来たら、クロイスのお手伝い、したいな」
「ん。……ありがとう、ゼオロ」
 椅子から身を起こしたクロイスが、にっこりと笑う。俺にはとてもできなさそうな、満面の笑みだった。
 クロイスの夢が叶えばいいなと、俺は何度も思った。何もかもに絶望して、リヨクに泣きついていた俺にとっては、本当に、眩しかったから。クロイスには、俺みたいになってほしくなかったから。

「さて、と。そろそろ行きますかぁ。なんかすっかり話し込んじゃったわ」
 しばらくの間、静かに空を見上げては、街の喧騒に聞き入っていたクロイスが、不意に跳ね起きる。俺も、それに釣られて立ち上がった。
「そうだね。でも、おかげで色々勉強になったよ」
「そうでしょそうでしょ。ああ、ランデュス……竜族とも友達になってみたいなぁ! 水族もだけど、毛が無いからその分エロ……おおう、男も女も、恰好良いもんな!」
 あ、やっぱり駄目だこの人。あんまりまっすぐな夢じゃなかったみたいだ。下心丸出しだったわ。
「そんな顔するなよ。夢は夢。こっちはこっち。我慢は身体に毒って言うし? 異種族恋愛、それも敵国同士! うわぁ、これは燃え上がりますなぁ」
「別にいいけどさ。夢の前に刺されて死んじゃったりしない様にね」
「うわ、なんか現実になりそうで怖いわ……怖い事言うなよ」
「だったらもうちょっと浮気な部分は直した方がいいよ」
「浮気じゃないし。本気だし。勿論ゼオロにも本気だし」
「そういう物言いが、良くないと思った」
「えー……。なんかハンスみたいな事言うなぁ。やっぱ同じ家に住んでると、似た様な物になっちゃうのかなぁ」
「もう。それより、留学生さんの件はどうなったの。ずっとここで話しているけど」
「あ。忘れてたわ。いやー、うっかり」
 そう言って、本当に忘れていたのかクロイスは懐から紙切れを一枚取り出す。
「それは?」
「現在雲隠れ中の留学生様が、この街に入るにあたって書いたと思しき書類にござい」
「……つまり、留学生さんはこの街にはもう来てるって事なんだ」
「そう。しかも、五日も前ですわ。あーあ……どこ行っちゃったんだって話だよ、これ。困ったわ。困り過ぎて、ついゼオロちゃんに逃げちゃったわ俺」
「学園には、来てないんだよね」
「そ。寄り道してるっていっても、いくらなんでも遅すぎる。街に着いて、五日も何してるんだって話だ。一度くらい顔見せに来るのは当然だろ。なのに来てない。この街に来て、何かがあった可能性が高い。あー頭
痛いわ……スケアルガの責任にはならないけど、翼族との関係が悪くなるのも、よろしくないわ」
 たった今、竜族との和平を夢見ていたクロイスだ。当然、翼族とも仲良くはしたいのだろう。頭をぼりぼりと掻きむしっている。短い豹の毛が何本か抜けて、ふわふわと宙に漂っている。
「その紙、見ても良い?」
「ん? ああ。別にいいよ。そんな隠すもんじゃないし」
 失礼して、俺はクロイスの傍へ寄って、差し出された書類に目を通す。
「ヒュリカ・ヌバ……。変わった名前、なのかな?」
「そうだね。翼族は少し変わったのも多い。この辺りは、ラヴーワができて、命名も混ざった部分があるし。ヌバっていうのは、翼族の中では最大勢力を誇る部族の事だよ」
「ああ、だから頭が痛いんだね、クロイス」
「そうだよ。ただのぱんぴーなら、どうでもよかった! とまでは言わないけどさ。よりにもよってヌバ族の息子かよって話。これが知られたら、一体ミサナトの街はどうなってしまうのでしょうか」
「そんな、他人事みたいに」
「俺がスケアルガの家の者じゃなかったらさっさとずらかるのになー、いや、残念だわ」
 さっきの和平に夢を見ていたクロイスはどこに行ってしまったのだろう。今のクロイスは、もう面倒が面倒で面倒臭くて仕方がない、という表情を隠しもしない。そういう素直な方が、俺は好感が持てるけれど。
 書類を俺はじっと見つめる。歳は、十四歳。凄く若いんだな。こんなに若いのに、一人でこの街に留学に来るなんて、心細いだろうに。残念なのは、本人の顔が載っていないところだろうか。こういう所は、不便だなと思う。
わかるのは、本人の歳と、所属と、それと筆跡くらい。これが元の世界の書類だったら、顔写真はまず間違いなく貼り付けられていたから、わかりやすかったのにな。
「顔って、わからないの?」
「んー。流石になぁ。あ、でも種族はわかるわ。翼族ってのはわかってるけど、ヌバ族だろ。なら、顔は鷹のはずだわ。確か、ヌバ族の族長の、一番下の息子だったっけな? だから養子で種族が違うとか、そういう事も
ないし。だから、鷹の子供だね」
「鷹って、この辺りでは珍しいの?」
「まあ、程々か……? 翼族はラヴーワには属さずに居るから、この国に居るのは自分から単身出てきた様なのがほとんどだ。その中で鷹だけっていうと……うん、珍しいな」
「なんとか、捜せないかな」
「おっと、ストップストップ。そいつは駄目だね」
「どうして?」
「どうしても何も、ゼオロちゃんには危険だから。この話は一旦、持ち帰ってスケアルガ学園に報告しなくちゃ。目的の人物であるヒュリカは、もう五日も前にミサナトに着いている。だのに、連絡一つ来ないときたもんだ。これは
もう、何かしら厄介な事に巻き込まれている可能性がある。そんな中に、ゼオロちゃんみたいな銀狼を連れていける訳ないでしょ」
「それも、そうか」
 何か役に立てないかなと思ったけれど、確かにクロイスの言う通りだ。今の俺はこうして外を出歩くのだって、クロイスやハンスと一緒じゃないといけない。俺の秘密があって、それから銀狼としての価値があって。そんな奴が
のこのこ歩いていたら、このヒュリカの二の舞になりかねないだろう。
「何か、できる事ないかな」
「いいって。今はまだ、自分の事で精一杯なんだから。自分の事で精一杯な人は、まず自分に余裕ができるくらいにならないといけないよ」
「……そうだね。クロイスにまともな事を言われちゃった」
「ええー」
 仕方なく俺は、もう二回は見た書類を、また上からぼんやりと眺める。その途中で、ふと気づいて、鼻を鳴らす。
「あれ、何かこの書類、臭うね」
「臭う?」
 言われて、クロイスも嗅ぐ仕草をするが、首を傾げている。あれ、クロイスには、わからないのだろうか。
「もしかして、かなり弱い臭い? ゼオロちゃん」
「うん。ほんの少し。今気づいたところ」
「ああ、それじゃ俺は駄目だ。犬族とか狼族じゃないと。なるほど、ゼオロもやっぱり狼族なんだなぁ。それで、どんな臭い?」
「なんだろう。そう言われると……」
 これ、と言いづらい。鼻につんと来て、少し甘い感じ。でもちょっと酸っぱい感じもする。はっきりとは言えないけど、そんな感じ。
「そりゃ、カルファの実かも知れないなぁ」
「カルファの実?」
「翼族の使う、魔除け道具の一種さ。臭いはキツいけど、凶暴な動物やら何やら、そういう類を寄せ付けないっていう。まあ、話に聞いただけで、俺もはっきりとは知らないんだけどね。確か向こうでは、染料にも使われていた
かな。鮮やかな橙色に染まる物、だったはず。この辺りじゃ採れないから、珍しいんだよね。確かに、翼族の谷から来たヒュリカが持ってても、おかしくない臭いだな」
 ああ、だから柑橘類の様な臭いがしているのか。俺の記憶にあるその臭いよりも、結構鼻に来る物みたいだから、実際にはそのまんまの物ではないのだろうけれど。
「なるほど、お手柄だねゼオロ。もし捜索が入ったら、この事は伝えてみるよ。ありがとうな」
「ううん。このくらいしか、できないし」
「卑下すんなよ。俺じゃ、気づけなかった事だ」
 でも、特徴を口にしただけで、凡そそれがなんなのかを即座に言い当てたのは、クロイスなのでは、とは言わずに俺は黙って頷く。それに、これが本当にそのカルファの実なのか、という事もまだ正確にはわかっていないの
だし。
「さて、帰りますかぁ。もう少し買い食いしてから。あ、ついでになんか身に着けるのも見ていこうか」
 用事は完全に済んだのか、そのままクロイスは一度中に戻り、書類を返却すると、俺の手を引いてまた大門の下へと出てくる。
「それにしても、どこに行っちゃったんだろうね。そのヒュリカっていう人は」
「気を付けてな、ゼオロ。こういう事が起こるんだ。ゼオロだって、狙われる可能性があるから」
「そうだね。なんだか、怖いな」
 元の世界だったら、そんな危険は皆無と言って良かっただろう。冴えない駆け出し社会人。貯金もそんなに持ってない。そんな俺が、誰かに狙われて、あまつさえかどわかされるとか。笑い話かっていうくらいだ。
 それが今は現実に起こってしまうのかも知れない、というのは流石に怖い。捕まったら、どうなってしまうのだろう。ファンタジーを読破した俺の脳は、まさかまったく何も考えつかないという程平和呆けはしていない。奴隷、
処理係。そんな物だろうか。あとは、銀狼がどういう扱いをされているか、だろう。神聖な物、とかなら或いはとも思うけれど、神聖なるが故に、その臓物や血液、被毛には使い道が、なんていう話になると、これはもう生きては
いられまい。とんでもない。愛玩用として人気、だったら奇跡だろうなってくらい、それ以外の方向に走られると、俺の命はあっという間に無くなってしまうだろう。
 帰り道、同じ道ではなく、少しだけ道を変えて。でも、安全な所から外れる様な事はせずに、クロイスと一緒に歩く。途中、アクセサリーを売っているという店に寄って、小さな腕輪を買ってくれた。鈍い銀の腕輪。かなり
薄い造りなのか、腕につけても別に重く感じたりはしない。表面には複雑な模様と、飾り石が小さく嵌められている。そんな事よりも俺はクロイスのセンスの方が心配で仕方がなかったけれど。シルバーアクセとか、
そんな爆発系男子から更にバンドやってます系に派生進化した人達の付けるアイテムとしか思ってなかったから、自分に付けられると違和感がとんでもない。でも周りをよくよく見れば、歩いている人達は割と、さりげなく
何か付けている、という事も多かった。なんだかそういう所は、現代よりもお洒落なのでは、という気がしてしまう。単に俺がなんにも付けていないのが普通だったからなのかも知れないけれど。
 下町を抜けて、階段を見上げてうへぇと声を上げて。頑張ってどうにか階段を上り終えてハンスの家に着く頃には、朝早くに飛び出したというのに、既に昼は過ぎ、僅かに陽が傾くくらいになっていた。
「ハンスさん、お昼は置いておくって言ってたけれど。クロイスはどうする?」
「んー。いいや、流石に四連続は怒られそうだし」
 もう怒ってたよ。
「それに、俺は今日調べた事を一応報告しないとね。ついでに説教も食らわないと」
「何かしたの?」
「首を突っ込みました」
「……そういえば、ハンスさんにも言われてたね」
 苦笑いをして、クロイスがじゃあと手を振って、帰ろうとする。俺は、咄嗟に手を上げた。
「クロイス」
「んー?」
「クロイスは、私の事……興味ないの?」
「えー? すっげぇ興味深々じゃん。すっごい誘ってるじゃん。わかるっしょ」
「あ、そうじゃなくて……ごめん、言い方が悪かった」
 咄嗟に出した言葉だから、上手く言えなくて。誤解させてしまった。俺が複雑な顔をしていると、クロイスも戻ってくる。
「結界をどうにかしなくちゃって、クロイスは言ったよね」
「……ああ」
「外から。この場合、別の所から、だけど。そこから来た私の事を、もっと調べたりしなくて、いいの」
 本当は、さっき話されてからずっと気になっていた事を、口に出す。言いたくて、ずっと言えなかった。世界を隔離する結界を、どうにかしたい。そういう類の者達に、自分の存在を知られる事は、なるたけ避けなければ
ならない。ハンスの言葉を思い出す。でも、クロイスにはもう知られてしまった。クロイス程の人物なら、俺が世界を超えてきた、という事を聞いて、まさかそれで終わりと思ってはいないだろう。本当は、とても気になって
いるはずだった。
 どうして、それについて何も言わないのだろう。
 俺がじっとクロイスの顔を見上げていると。クロイスはふっと笑ってから、手を伸ばして、俺の頭をぽんぽんと叩く。
「そんな顔、しないでよ。それじゃ俺が、それ目当てでゼオロと友達になったみたいだ。順番は、そうじゃなかったでしょ。俺はそんな事知る前から、ゼオロと友達になれたよ。だから、そんな風に俺を見ないで。確かに、
ゼオロがもしかしたら、あの結界をどうにかする力を、もしくは方法を。持っているんじゃないかって、思わない訳じゃない。でも、ゼオロは今で精一杯じゃない。俺の都合を今押し付けたって、仕方がないよ。それに、もし
何かしら方法があって、ゼオロはそれでやってきたっていうのなら。俺はそれを、いつか自分で見つけたって良い。一番に知りたかったところは、知る事ができたんだし」
「一番知りたかったところ?」
「外、或いはもっと別の場所から、誰かがやってきた。つまり、あの結界は絶対に、何一つとして通さない訳ではないって事。それがわかっただけで、大きな進歩だ。もっとも、それを大々的に発表する事も、できないけどさ。
それに、ゼオロの居た世界では、魔法なんて無かったんでしょ? そうなると、あれはそういう類の行動でも、超えられないのかな。だとすると、何をするのかって話だけど」
 クロイスの言葉に、俺は俯く。そうだ。例え俺が結界を超えてここに来たという事実があっても、俺から教えられる事は、今は何も無いのだった。
「まあ、そんな訳だから。ゼオロはそんな事考えてないで、もっと自分の事を考えてて良いよ。さっきも言ったけれど、まずは自分の事で、余裕ができてから。それからだよ、何事もね」
「うん。ありがとう、クロイス」
「そんじゃ、またな」
 クロイスが再び背を向けて歩いてゆく。俺は黙って家の中に入り、置かれていた昼食に少し手を付ける。今日は、ハンスは昼に戻らない事は予め教えてもらっている。夕方になると戻ってくるハンスを迎えて、街を
案内された事、クロイスに銀の腕輪を買ってもらった事を報告する。
「銀の被毛に、銀の腕輪ですか。どうせなら、別の色にしてもよろしかったのでは」
「あんまり目立ち過ぎるのも良くないって、言っていましたので」
「それでもお洒落を勧めるのは止めないんですねぇ。いやはや、クロイスらしい」
 困った様に、ハンスが笑う。中年のハンスは、クロイスとは違って穏やかな様子が強く。それはそれで、俺にとっては最近では安心できる場所になりつつあった。何事も大らかな人物が居ると、やっぱり違う。とはいえ、
いつまでもお世話になっていても仕方ないのだが。
「ハンスさん。今度、本を貸してもらっても、構いませんか」
「ええ。……そういえば、ゼオロさん。文字は、読めるのでしょうか?」
「……あ」
 そういえば。読めたっけ。そう考えて、クロイスの見つめていた書類を読めた事を思い出す。とても自然に読めたから、気づいていなかった。少なくともあれは、日本語ではない。それでも、何が書いてあるのか、日本語を
読んでいる様にわかったのだ。簡単な物なら、不自由はしないのだろう。
「読めるみたいです。なんだか、自然に」
「ふむ。言葉と同じ扱い、という事でしょうかね。益々興味深い」
 それから、今日捜していた、ヒュリカについての話題に移る。ハンスはまだクロイスから事情を聞いていなかったのか、神妙な顔をしてそれを聞いていた。
「それが本当なら、確かにヒュリカさんを捜す必要がありそうですね。しかし、ゼオロさんも、よくよく気を付けなければ。他人事だと、思ってはいけませんよ」
「はい。それは。クロイスにも、強く言われました」
 ハンスが、ふっと笑う。安心させる様な笑みに、俺はまた、心がほっとする。
「少なくとも、私と、クロイス。二人はあなたの事を、とても心配しています。だから、無理はしないでくださいね。自分が、迷惑を掛けていると、思い悩まないでください」
「……ありがとうございます」
 俺の内心を見透かした様な事を言われる。ハンスも、クロイスも、相手の気持ちを忖度する事は、本当に上手い様だった。
 いつもの様に話を終えて、いつもの様にベッドに横になる。窓の外からは、月明かり。ぼんやり眺めて、今日の出来事を思い返す、やっぱり今日も、とても充実していた。ただその辺りを歩くだけなのに、どうしてこんなに、
充足を感じているのだろう。何も知らないからではないか。ふと、結論に達する。何も知らないから、何を見てもドキドキして、ハラハラして、でも、楽しいのだった。
 不便さが、今の俺には心地良い。画面越しに見た世界を、まるで何もかも知ったつもりになって。でも本当は知らなくて、それでもいざ目の前にしても、やっぱり知っている部分があるから物足りなくて。そんな世界とは、
この世界はまるで違う。その景色は、その場所に直に足を運ばなければ、見られはしない。あの角を曲がった先に何があるのか。自分の足で、自分の意思で、角を曲がらなければ、わかる事はない。その先に
どんな危険があって、どんな出会いがあって、それがどんな風に自分の人生に干渉してくるのかも、わからない。曲がってみるまで、破裂しそうな心臓を抱えたままの繰り返し。今日だって、そうだ。クロイスの夢を聞いた時も、
クロイスに、自分に興味は無いのかと尋ねた時も。俺はずっとドキドキしていた。その先に待っている顔が、わからなかったから。過ぎてしまえばなんて事はない一幕も、過ぎる前は、とてつもなく重たい物に思える。そうして
全てが終わった今になって、また振り返って。ああ、楽しかった。そう思った。それから、良かった、と。
 クロイスと、友達になる事ができて、良かったと。

 四日目の朝。そろそろ、数えなくても良い気がする。いや、一週間は数えよう。こっちに一週間の概念があるのかはわからないけれど。いや、あるとは思う。一週間の日数は違うのかも知れないけれど。
 そういう細かいところも、いまだにわからない。カレンダーの様な物は、特に置いてはいない。日付も、そういえば訊ねていなかった。そんな余裕が無いし、何よりハンスは忙しい。今朝もまた、朝食を一緒に食べると、
そのまま足早に行ってしまった。
「慌ただしくて、申し訳ない。つい起きるのが遅くて。時間が」
 それは多分、二人分の朝食を用意する手間が増えてしまったからだろうなと想像して、申し訳なくなる。一人分だったら、というより、自分で食べる分だけだったら、適当な物でも口に突っ込んで、そのまま通勤できるけど、
俺が居るから、俺が来る前と同じ様に朝起きると、当然朝食なんて用意する暇はなくて。眠たそうな顔で朝食を用意しているハンスを眺めるのが、申し訳なくて、最近は辛い。料理を今度、教えてもらおうと思う。俺自身は
決して料理が作れない訳ではなかったけれど、まずこの家の台所事情がわからないから、下手に使う訳にもいかなくて。そういう所を含めて教えてもらえれば、俺が朝食を用意する事だって、可能なはずだ。どうせ、
ハンスが出ていってしまっては、俺はもう何もする事が無い身。勿論、勉強だのなんだの、したい事、やらなければならない事は山積みだけど、それでもまだ、ここに来てから十日も経っていない身の上だ。ハンスや
クロイスは、もう少しこの世界に身体が慣れてからでも、良いだろうと言ってくれる。とても甘やかしてくれるのは有り難いけれど、それに頼りきりになってしまいそうな自分が、ちょっと怖い。
 陽射しの強い、朝だった。それから、風が強い。昨日クロイスと出かけた時よりも、ずっと強くて、俺の被毛がふわふわされるし、尻尾も風でゆらゆらと揺れている。
 そんな訳で俺は、出かける直前のハンスを呼び止めて、掃除道具の場所を教えてもらい、とりあえず家の前の掃き掃除に勤しんでいるのだった。これなら俺でもできる。嬉しい。それは良かったけど、タイミングが悪く、
風が強い。俺が必死に掻き集めたゴミは急いで回収しないと、時折吹く強風に飛んでいってしまうし、その度にどこからか飛来した新参者の葉っぱ達が、白い道に陣取っている。それらとの格闘は程々にして、ふと箒を
置いて、外へと視線を向ける。ハンスの家も、この辺りの例に洩れずに、白く区切られている。家の様子はファンタジーよろしく、外側は石造りの柱があって、柱には何かしら難しい模様が刻まれていたりする。それでも
家自体はこじんまりとしているし、クロイスの言う様に富裕層の多い住宅地という事もあって、少し離れた場所にある家々は中々に豪奢な造りをしていたけれど、それと比べてもハンスの家は控えめな印象を受けた。
「あんまり派手なのは好きじゃなくて。それに、私がここに住んでいるのは、学園が近いからですし」
 そう言って照れ臭そうに笑っていた犬男の顔が甦る。
 風が吹いた。立てかけていた箒が、かたんと倒れて、少し転がる。階段の方に行ってしまいそうになって、俺は慌ててそれを追って、箒を掴み上げた。風は、吹き続けている。
「……あれ?」
 微かに感じた、何か。なんだろう。顔を上げる。音ではなく、視界に映る物でもなく。それでも、何か引っかかる様な。そう思って鼻を鳴らす。そうだ、臭いだ。鼻が敏感になり過ぎている事に、俺自身がまだ慣れて
いなくて。違和感を覚える程に強い印象を受けているのに、中々それが臭いだという事に気づかないのだった。
 鼻を鳴らして、俺は階段を。その先にある、下町を見つめる。
「この臭い……」
 あの臭いだ。昨日、クロイスの持っていた書類から臭っていた。カルファの実の臭い。どうしてそれが、今臭うのか。風が、運んできたのだろう。強い風が、昨日の俺には気づかなかった事を、今日の俺に気づかせて
くれた。振り返った。ハンスの家を、眺める。どうしよう。どうすれば、いいのだろう。ハンスやクロイスを呼ぶべきだ。当然の答えが、浮かぶ。でも、風はいつまで吹いているのかが、わからなかった。それに、ハンスは
ともかく、クロイスが学園に今居るのかもわからない。そして、学園に行っても、ハンスをどう呼び出したら良いのかも、わからない。あちらからしたら、顔も何も知らない俺が突然現れるのだ。そんな事をしている間に、
ようやくハンスかクロイスが現れるまでに、この風は止んでしまうのかも知れない。止んでしまったら、もう追えない。あと、俺は学園の人達にも秘密にされている様な存在だ。ハンスが俺の事を、呼び出した生徒達に口止めを
しているのだから。そんな場所に、ハンスの許可も無く不用意に近づいて良いのか。
 追うか、追わざるべきか。束の間考える。走って、掃除用具を元あった場所に戻して、家の中へと駆け込む。紙を引っ手繰って、殴り書きをする。臭いを追います。良かった。文字が書けた。今そんな事に驚いている
場合じゃないけれど、やっぱりいきなり文字が書ける事に気づくっていうのも、凄い光景だなと思う。書き置きを机の上に投げる。外へと、また飛び出す。風が吹いていた。臭いが、まだあった。カルファの実の臭い。その先に
居るはずの、ヒュリカの匂い。最後にもう一度、行くのかと、自問した。自分にとっては関係無い相手だ。ハンスやクロイスから、厳しく言い付けられたばかりだ。この臭いの先に、本当にヒュリカが居るのかもわからないのだ。
 クロイスの言葉が、思い出される。カルファの実は、この辺りでは、珍しいのだと。だったら、やっぱりこの臭いは。
 立ち竦んだ俺の視界に、ふと宙に舞う何かが目に留まる。くるくると器用に回り続けて、それが俺の下へと降りてくる。軽く跳んで、それを手に掴んだ。白い羽根だ。誰かの、羽根。熱心にそれを嗅ぐ、今までよりも、一層
強い、カルファの実の臭いだった。もう、立ち止まってはいなかった。翼族の羽根なのかどうかの判別は、その臭いだけで充分だった。駆けだして、階段の所で、また振り向いた。捕まったら、戻れない。そこで終わり。始まる
はずだった何もかもとは、お別れになるかも知れない。
 それでも。駆け足で、階段を下りる。どうしてこんなに急き立てられているのだろうか。ハンスやクロイスの、役に立ちたいと思ったからだろうか。この羽根の持ち主が、自分が想像した様な目に遭うのが、可哀想だと
思うからなのだろうか。
 はっきりとした理由を自分自身に突きつけられずに、しかしそれでも俺は、足を前へと踏み出した。

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