ヨコアナ
40.青い涙
むかつくくらいの快晴だった。
空を睨みつけて。俺は足を止めもせずに、必死に。前へ、前へと。歩を進めては、荒く息を吐く。呼吸が苦しい。
走っている訳じゃなかった。道は悪くて。道とは、呼べない程で。目指す場所へ向かう度に、それは酷くなる。ここには誰も来ないから。もう、俺しか居ないだろうから。
自分の腹までありそうな段差を、何度も、何度も。飛びかかって。腕の力で身体を上げて、どうにか這い上がる。前に来た時は、青い竜が俺を助けてくれたから。こんなに大変だなんて、思ってなくて。けれど、前とは
違って視界はどこまでも開けていたから。俺一人の力でも、どうにか進む事ができた。
上へ。カーナス台地の、高台へ。
そこで、ヤシュバが待っていた。懸命に手を、足を前に出しながら。時折、なんでこんな所に来てしまったのだろうと。そんな気分になる。呼ばれた。たった、それだけ。たったそれだけで、我儘を言って、無理を通して。大切な
友人に大怪我をさせて。しかも、その場に置き去りにして。何してるんだろ。俺。
ずっとそう思い続けているのに、俺の身体は止まらなかった。上に行って。ヤシュバを目の前にして。具体的に何を言いたいのかも、はっきりとしていなかった。ただ、もう一度だけ会いたい。どんな結果が出て、その後
別れたとしても、会いたかった。それでもヒュリカの犠牲の下に、そんな事をするべきではないと。正しい言葉が、胸で躍っていたけれど。
結局、俺は考える事を止めた。どちらにせよ、もうここまで来てしまったから。戻る事は、尚更全てを無に帰す事にしか繋がらなかった。そもそも竜族の陣が、下には広がっているのだから。戻れるとも限らない。
指先や、肘や、膝を擦り剥いて。少しずつ、被毛を超えた傷で俺の皮膚が裂けて。銀の被毛に僅かに血が滲んでくる。元々、さっき全身を打ったばかりだから。ヒュリカが庇ってくれて、致命傷ではなかったけれど。じわじわと、
体力が削られている感覚がする。命に関わる程ではないけれど。早く辿り着かないと、その内疲れて動けなくなってしまいそうだった。身体が、熱い。寒空なんて関係ないくらい、身体が燃える様だった。
段々と、俺の息遣いが耳に煩くなってくる。走るだけなら、なんともないけれど。よじ登ったりするのは、かなり辛い。時折限界を迎えて、何度か咳き込みながら休んで。けれど、少し休むと、また先へと進む。
起伏の激しい道が、不意に途切れる。見覚えのある景色、というか。感覚に辿り着く。以前は暗闇に覆われていた場所に、今辿り着いたとしても、同じ場所に来たなんてどうしても思えなくて。けれど、俺の受けた印象は、
同じだったから。この先に、長い坂があって。そこを上りきれば。もう、カーナス台地の高台だった。俺は、どうにかそこまで辿り着く事ができたんだ。
激しく胸を上下させながら、少しだけ足取りを遅くする。こんな風に疲れたの、いつ以来だろう。前の世界で、マラソン大会にでも出た時だろうか。あの時も、胸が痛くて。お腹も痛くて。呼吸が上手くできなくて。それから、
もうこんな辛いのは嫌だなって。ちょっと泣きながら考えてた気がする。どうでもいい時に、思い出すんだな。まだ、人間だった時の、そういう出来事。もう、思い出す事もないだろうって、そう思っていたのに。ちょっと
面白くて。ちょっと、懐かしい。
けれど、俺の視界に本来なら映るはずのない物が見えて。俺の思考がそれに奪われる。人が、居た。高台へ続く坂に、人の姿があって。座り込んでいる。誰だろう。竜族、だろうか。
もう少しだけ近づいて。それが、二人居て。けれど、二人とも座り込んだまま動かない事に俺は気づく。それから、辺りに散らばる赤い血の跡に、血の臭いに。だから、それで。その二人が竜族ではなくて。そして、もう
生きてはいない事を、なんとなく察してしまう。
なんで、こんな所で。
そう思って。けれど、俺はその内に。動かない二人の内、小柄な方に目を奪われる。黒い鬣に、黒い被毛に。なんの種族だろうって、そう思った。また、近づいて。もっと、よく見て。それが、獅族だって気づく。
獅族の、少年だった。そこに居たのは。壁に背中を預けて、座り込む様にして、死んでいた。胸に、傷があった。多分、それが致命傷だったのだろう。俺はそれに、間近まで近づいて。それから、息を呑んだ。黒い被毛を持つ、
獅族の友人なんて、居なかった。そんなのは、俺は知らなかった。知らない、はずだったけれど。その少年の小柄さと。それに不釣り合いなくらいに、その身を覆う筋肉と。その服装と。それから、色が変わっても。顔つきまでは
変わらないから。そのままだったから。
「ヒナ」
俺はその名前を、呟いて。それから、屈んで。じっと、その身体に触れてみた。まだ、僅かに温かくて。でも、少し硬くて。それがもう、死んでいて。それ程に、時間が経っていない事を知った。
静かなその場所に、まだ俺の息遣いが続く。俺はただ、ヒナの顔を見つめているだけだった。あまりに突然の事で、どうしたらいいのか、わからない。いや、何も、できないけれど。ただ、泣く事ぐらいしか。
「どうして、ここに」
目の前で、ヒナが死んでいるのに。俺はそれを悲しむよりも、どうしてここに居るのかと。そちらの方に気を取られてしまう。あまりにも、突然の事で。俺の心の方が、混乱してしまって。ただ、どうしてと。そればかりが、頭の
中でぐるぐると巡っていた。だって、ヒナは。大切な人を守るために行くって。そう、言って。獅族門から、一人で旅立ったのに。それなのに、どうしてこんな、カーナス台地の。高台を目前に控えた場所で、死ななければ
ならなかったのだろうか。
ゆっくりと、首を動かして。俺はヒナとは反対側の壁で、動かなくなっている相手を見つめる。それから、また辺りを見渡して。この人が、ヒナの守りたかった相手なのだろうか。でも、それは違うと。辺りに散らばる血の跡と、
そしてヒナが使っていたナイフもその上に転がっているのを見る事で、どうにか理解する。ヒナは、この相手と戦って。そして、相打ちの形でも取ったのか。お互いがここで、死んでしまったのだろう。
高台の方を見つめる。この先に、ヤシュバが居るはずだ。だったら、ヒナは。ヤシュバを守りたかったのだろうか。それに、この被毛の色も。これは多分、俺の知っている、黄褐色の被毛を、ヒナが魔法で染め上げていたから
なのだろうと、その内に納得したけれど。実際にヒナはその魔法で、俺を助けてくれた事もあったのだし。多分、そうなんだろう。
わからなかった。わからない事ばっかりで。でも、俺の目の前で。俺を助けてくれたヒナが、死んでしまっている事だけは唯一の事実として、そこにあった。
「ヒナ」
名前を、呼んでみて。やっぱり、何も返事は無かった。記憶の中に確かにある、仏頂面も、今は無くて。その代わりに、俺が見た事もないくらいに、その顔は微笑んでいて。どんな風に、なんのために、ヒナが死んで
しまったのかもわからなかったけれど。ただ、ヒナは。ここに居る事も。ここで死んでしまう事にも。満足して、死んだかの様だった。
「大切な人は、守れたの?」
それだけ、知りたかった。それをするためだけに、ヒナは行ってしまったのだから。ヒナの手を取ってみる。硬い。一筋、俺の瞳から流れた涙が。その上へと落ちる。
自分が、それ程取り乱していない事に俺は気づいて。酷い奴だなって思った。二回目だから、なのかな。ハゼンを失った時の様に、正体を失う様な事もなかった。ただ。ヒナが。好きだと。守りたいと俺に語った相手を、
守りきる事ができたら良かったなって。そう思った。死んでしまった事も、仕方ないって思えるくらいに。ヒナは笑って死んでいたから。こんな風に死ぬ事もできるんだなって。そう思って、羨んでしまうくらいに。笑ってた。
涙を払って。静かに、ヒナから離れる。わからない事は、ここに居てもわからないままだから。それを知りたいのなら、俺はこの先に、進まないといけないのだと。そんな事、わかっていたけれど。
けれど、その前に。俺はヒナに背を向けて。そうして、反対側で。同じ様に動かずに居る相手の下へと歩いた。ヒナに気を取られていたから、その相手の事まで見る余裕はなかったけれど。ヒナの様子を見て、こう言っては
なんだけど、満足したから。今度はそちらが、気になってしまう。その相手は、大きな身体をした、多分、男で。辺りの大地を染める血も、青い物は交ざってはいなかったから。だから、この人も多分、竜族ではなくて。なのに、
どうして争わないといけなかったのだろうな。そう考えると、やっぱりヒナの守りたかった人は、ヤシュバなのかな。
大きな身体をしたその人も、やっぱりヒナの様に動かなかった。顔は、見えない。フードを深く被っていて、見えなくて。
「カハルさん……?」
思わず、俺はそう呟いてしまう。記憶の中に居るカハルに、それはそっくりで。いや、顔が見えなくて。いつもすっぽりとフードに包んで。更にその中も別の布で包んでいたから。もしかしたら、別人なのかもって。そう思った
けれど。でも、この体格は。確かにカハルの物だと思う。勿論、まったくの別人であるのかも知れないけれど。
そして、やっぱりこう思う。なんで、こんな所に居るんだろうって。ヒナよりも、もっとわからない。この人がカハルだとしても。そうじゃなかったとしても。こんな、ついこの間までは、狼族の呪いに満ちていた場所で、この涙の
跡地に生きる人なら、絶対に避けるとしか思えなくて。それでいて、今は竜族が占拠するこのカーナス台地に。なんで、居るんだろうって。
そっと、その肩に触れてみる。座り込んでいても、体格のせいで俺が屈む必要もない。やっぱり、死んでいて。それから、それ程時間は経っていない様だった。俺はヒナを振り返って。もう少しだけ、俺がここに早く来る事が
できたのなら。何か、変わっていたのかなって。そう思った。どんな事情があるのかわからないけれど、それでも二人には争う理由があったのだから。助けるのは、難しかったのかも知れないけれど。
視線を、前へと。カハルだと思われる相手に戻す。どうして、こんな所で死んでいるのだろう。やっぱり、わからない。
それから、俺は。少しだけ気が引けたけれど。でも、ほんの少しでも、知りたくて。どうしてこんな所で、こんな風に終わってしまったのを、理解したくて。小さな声で、謝ってから。そのフードに手を掛けて、取り払う。すぐに、
三角の黒い耳が見える。フードに押さえられていたから、それは倒れていたけれど。それから、口周りを器用に覆っている布が露わになる。形で、わかる。犬族だったんだな、この人は。暗い色の布には、また別の、暗い
染みができていた。それが、吐き出した血だという事に、遅れて気づく。ヒナは、胸に傷を受けていたけれど。この人は、よくわからなかった。見た感じ、細かい傷があって。それがローブにも血の染みになっていたけれど、
致命傷になった様には見えなくて。
俺は、ゆっくりと手を伸ばす。器用にマズルを覆っている布の紐を、解いて。それを取り払って。
「あっ……」
布が、はらりと。驚いた俺の手から離れて、落ちてゆく。大男の顔が、露わになる。俺は、心臓が鷲掴みにされた様な衝撃を受けて。悲鳴を上げる様に、僅かに声を上げただけで。そのまま、固まってしまった。目を細めて、
俯いて。虚ろな目をしたまま、その男は死んでいた。口の先から、喉元にかけて。固まった血がこびり付いていて。黒と、黄褐色の被毛を、赤黒く染めていた。
頭が痛かった。わからない事ばかりだと、思っていたのに。また、わからない事が増えて。でも、その謎は、すぐに解けて。今度はそれと同時に、俺の中にどうしようもない後悔の念が押し寄せてくる。全身から力が抜けて、
俺はそのまま、もう死んでいるのはわかっていても。その身体に縋りついて、あっという間に溢れてきた涙は流れるに任せるしかなかった。
「リヨク」
思わず、俺はその名前を呟いてしまった。俺が、人間だった頃の愛犬の名前を。目の前で死んでいるのは、まさに、それそのものだった。ただ、人型というか。俺と同じ様な姿になっていたけれど。黒と、黄褐色の被毛に
覆われた。ジャーマン・シェパード・ドッグの、それ。
別人かも知れない。そう思った。だって、リヨクはきちんとした犬だったのだから。けれど、別人ではない事を。俺の中の考えが認めてしまう。だって、この人は。カハルは。初めて俺に会った時に。俺の事をハルと。そう、
呼んだのだから。誤魔化して、自分の名前だと言って。それから、カハルと言ったけれど。そうじゃなくて。あれは、やっぱり俺の名前を呼んでいて。だから、そう。今俺の目の前で死んでいるカハルは。やっぱり、リヨク
だった。被毛の模様も、俺の憶えているそれと一致している。仔犬の頃から、ずっと一緒に居た俺だから、それがわかる。どうして、俺と同じ様な姿になったのかは、わからないけれど。でも、俺や、そしてタカヤが、別の姿に
なったのだから。犬であるリヨクは、それをある程度反映した姿になったんだと、そう思って。
だから俺は、理解したのだった。ほとんど面識も無いはずなのに、何くれとなく、俺の世話を焼いてくれた理由も。俺と同じくミサナトに現れたという、第三の異世界人の事も。俺の事を、よく知っているかの様に口にして、
優しく慰めてくれた事も。全部、リヨクだったからなんだって。ずっと俺の、駄目な飼い主の泣き言ばかり聞いていたリヨクだから。俺の何もかもを知っている様に振る舞ったり、元気付けたりする事だって、できたんだ。
どうしてここに居るのか。それは、わからなかったけれど。どうしてこの世界に居るのかは、それでわかった。タカヤと、同じなんだろう。リヨクも、俺に付いてきてしまった。俺のせいで、リヨクは、こんな所で、一人で死んで
しまったのだった。
そこまで、考えると。不意に身体の中から突き上げてくる衝動を覚えて。俺は、慌ててリヨクから距離を取った。身体を投げ出して。口元を押さえたけれど。我慢できなくて。その場で、込み上げてきた物を全て吐いて
しまった。涙と、鼻水と、吐瀉物が溢れて。全部、枯れるまで流した。一度、引いたかと思ったけれど。すぐにまた、吐き気がして。何もでなくなっても、俺は身体をがくがくと震わせたまま、動けずにいた。
申し訳なくて。自分が、不甲斐無くて。嗚咽を漏らす事しかできなかった。リヨクは、ずっと。この世界に来て、この姿になってからも。俺を見守ってくれていたのに。俺はリヨクの事を、いつの間にか思い出さなくなって
いたから。タカヤの事は、ヤシュバになって、俺の前に現れたから、考える事もあったけれど。けれど、リヨクは。もう前の世界の事で。それから、俺が居なくなっても。きっと両親が可愛がってくれているだろうと。そう思って
いたから。それが、突然目の前に、リヨクが居た事に気づいて。それも、とうに死んでしまった後で。更には、自分がリヨクの事を、何一つ思い出さなかったのに気づいてしまって。
吐き気が、ようやく治まって。よろよろと、這いずる様にリヨクの下に戻ると。俺はその身体に抱き付いて。
「ごめんなさい。リヨク。ごめん……俺……」
なんにも、してあげられなかったのに。それなのに、リヨクはたった一人でここにきて。ずっと、俺の事を守ろうとしてくれていたのかな。なのに、俺は本当に、何をしているのだろう。何もかも、遅いのに。人間の時は、後悔を
する事が多かったから。だから今度は、そうはならない様にって。そう思って、生きていたはずなのに。罰が当たったんだと思う。ここに逃げてきた俺に、罰が当たったんだって。
せめて。もう一度、言葉が交わせたらって。そう思った。カハルは、リヨクで。だから俺は、ずっとリヨクに頼ってばかりだった、人間の頃の事をリヨクに謝って。それから、ありがとうって。そう言いたくて。けれど、今の俺に
言えるのは。ただ、ごめんなさいと。謝る事だけだった。俺があの日、拾った命は。決して軽い物ではなかったはずなのに。俺の身勝手で、何もかも、駄目にしてしまって。
リヨクの身体に身を預けて。俺はただ、謝って、泣いて。そればかり、繰り返していた。このまま、眠ってしまいたくなる。眠って、何もかも、終わりにして。無かった事にしてほしいと、また、身勝手に思って。けれど、どれだけ
泣いても。どれだけ謝っても。もう、何も変わらなかった。俺が突然にこの世界に現れた時の様な奇跡は二度とは起こらなかったし、俺が身体を預けるその相手が、死んでしまった事で。身体が、少しずつ、硬くなってゆくのが、
わかるだけだった。ああ、死んでしまったんだな。皆。ヒナも。リヨクも。ここで、死んで。俺だけが、取り残されて。
手を伸ばして、その頬に触れた。どんな顔、してたんだろう。俺を見つけてくれた時。俺みたいな馬鹿な飼い主は、きっと愛想を尽かされても仕方がないって。そう思うのに。リヨクはそれでも、俺の事を陰から見守って。俺が
どうしようもなくなった時だけ、助けにきてくれて。どんな顔して。俺を見ていたんだろう。どんな顔して。あの日、ミサナトで俺を助けて。それから背を向けて、さっさと行ってしまったのだろう。どうして俺は、こんなにも、なんにも
できないのだろうか。こんなに尽くしてくれる人が、沢山居るのに。いつだって俺は、何もできなくて。もう何もできなくなった頃に、勝手に泣いて。そればっかりだ。嫌な奴だ。駄目な、奴だ。どうして、俺。なんにも。
なんにも、変わってない。人間だった頃の、俺から。なんにも変わっていないんだ。俺。
「リヨク……。ごめん、なさい」
死んでからも、泣きじゃくる飼い主に抱き付かれてるなんて。いい迷惑だろうに。俺はまた。生きてからも、死んでからも。リヨクに抱き付いては。情けなく泣きじゃくってばかりだった。
どれくらい、そうしていたんだろう。急がないといけない。そんな事すら、頭の中から忘れてしまって。リヨクの胸が俺の涙でぐっしょりと濡れた頃に、俺はようやく、リヨクから離れる事ができた。いや、無理矢理、離れただけ
だった。涙はまだ、流れたままで。どうしたらいいのか、わからなくて。けれど、この先に。高台を目指さないといけない事だけは、まだ、かろうじて憶えていた。それは、そこにヤシュバが。タカヤが、居るからなんだろうなと
思う。こんな思い、もう、嫌だ。何もかも、終わりにしたい。俺が、タカヤに会って。何かが変わるとも思えないけれど。それでも、こんな思いはもう嫌だ。死んだ相手を前にして、泣いている事しかできないのは。
ゆっくりと、立ち上がる。足が、ふらついた。ここまでやってきて、身体は既に疲れ果てている事も忘れていた。数歩下がって。何度も目元の涙を。拭っても、払っても。それはすぐに、後から後から、止め処なく溢れて。俺の
視界を滲ませたけれど。それでも、俺は懸命に。目の前に居るその姿を焼き付けた。リヨクが、ここに居るのなら。この世界に来てからも、俺のために何かと世話をしてくれたリヨクだから。だからきっと、これも、俺のための
行動だったのかも知れなかった。それを確認する事もできなかったけれど。それから、ヒナへとまた視線を送る。もしそうだとしたら。きっと、ヒナを殺したのは、リヨクなんだろうな。また、俺がここに来た事で。死なせてしまった
人が増えたのかも知れなかった。俺なんて、どこにも居なければ良かったのにって。そう思わずには、居られなかった。
それでも。足を、前に。ほんの少しずつでも良いからと。俺は、坂へと足を踏み出した。最後の坂。カーナス台地の高台へと通じる坂を。
だらりと、手を下ろして歩いた。目が、痛かったから。涙は変わらずに流れていたけれど、もう目元に触れる事もしなかった。流れるに任せて。涙は俺の衣服に染みを作ったり、そのまま、大地へと落ちて。僅かな跡になって
消えたりしていた。視界が滲んだままだから、何度も、転びそうになるし。実際に、転んでしまう。立ち上がって、また、歩いて。坂の上を目指した。
それが、とても遠い物に感じる。あの時は。このカーナス台地が、暗闇に閉ざされていた時は。こんなに長く、感じなかった。暗闇の中を歩くよりも。晴れ渡った空の下で、たった一人で歩く方が。ずっと困難で、長く、俺には
感じられた。
それでも、それは不意に途切れる。あの時の様に、暗闇に閉ざされていないのだから。不意に、なんて事はないはずだけど。滲んだ視界では、やっぱり不意に、だった。痛みを訴える足が、坂を超えた事を報せてくれる。
風が、吹いてきた。呪われた地で吹かない風が、呪いから解放された今、吹いて。俺の全身を包む。涙も払うかの様に、一度強く吹いたそれは。その内に穏やかになって。やがては、消えていった。
最後に、涙を払った。もう、出てこないと思う。思うだけで、出てくるんだろうなって。そうも思ったけれど。ようやく晴れた俺の視界の中に、空を見上げる、黒い竜の姿が映った。また、背を向けてる。
歩み寄ると。その身体が、振り返った。何も言わずに、俺を見ている。俺も、何も言わなかった。ただ、その前へと。足を。前に、前に。
黒い竜の前に辿り着いて、見上げる。大きいなと思った。小さな俺とは、大違いで。不思議な物だと思う。元は、そんなに差が無かったのに。今はこんなにも違う。
「……何から、話そうかな」
「考えてなかったの」
「考えていた。けれど、それ以上に。ただ会いたくて、ただ口が利きたくて。そう思うと、纏まらなくなった」
「私も。……いや。俺も、同じ。色々、言いたかったのに」
ここに来るまでの、坂の下の二人の事とか。言いたかったけれど。俺の事をじっと見つめる、その男の姿を見ていると。不思議と、今はそれを言う気にもならない。その様子を見て。なんとなく、二人の事は知らないのを
感じ取ったからなのかも知れないけれど。
筆頭魔剣士のヤシュバは。俺の親友の、タカヤは。まっすぐに俺を見つめて。ほんの少しだけ、頷いた様だった。
時折吹く風を感じて。俺はヤシュバをじっと見つめる。飛ぶのに邪魔だからか、その服装も。鎧なんて物は身に付けずに、至って質素な、黒い上着と、黒いズボンと。それぞれに金の刺繍が施されて、胸の所には、ランデュスの
印が縫われていたけれど。それ以外は取り立てて目立つ所も無い様な、そんな服だった。なんとなくそれが、昔のタカヤを思い出させる。そういえばタカヤも、あんまりお洒落に興味は無さそうだったな。素材は良いのだからと、
俺が何度か言った事もあるくらい。俺はといえば。素材が悪いのでと諦めていたけれど。そんな俺からお洒落したらと言われるタカヤも、まあ割と大概だったなって。今更思う。
あとは、一振りの剣を佩いているだけだった。見た目が変わっても、そういう所、タカヤだなって思う。
「よく、こんな所に呼び出そうなんて思ったね」
「ここが良いと。教えてもらったから。ここなら、他の奴は気味悪がって、誰も来ないだろうからって」
「確かに、そうだけど」
「身体、痛むのか」
「え?」
「血が出ている」
「……ああ」
言われて、俺は自分の服を見下ろす。銀狼の、そして華奢な俺の身体に合う様に態々用意された、薄い絹の服は。純白の美しさも、今は見る影も無く。土に汚れて。血にも汚れていた。ヒュリカやヒナやリヨクに触れた時に、
まだ乾ききっていない血が僅かに付いたり。ここに来るまでに肘や膝から出血して擦り付けたりしたから。今の俺は、ヤシュバと比べると、大分無惨な恰好をしていた。
「平気。少し、痛いけれど」
「そうか。リュースが居てくれたら、治してあげられたのにな。俺は、そういうのはどうも苦手で」
「タカヤも、魔法は上手く使えないんだ」
「ハルは、まったく使えないらしいな」
「そう。せっかく、こんな世界に。魔法が実在する場所に来られたのに、勿体ないよね。ちょっと、タカヤが羨ましいかも」
「そんなに、羨むものでもなかったよ。強くても。ただ、強いだけで。思い通りにならない事ばっかりだから」
妙に実感の籠った事を言われる。確かに、その通りだったけれど。リュースから、爬族の一件も俺は聞いていたし。例えばタカヤが、どれだけヤシュバとして、とてつもない力を持っていたとしても。それで全てが良くなる、
なんて事はなかっただろう。それは、今だって変わらない。一人がどれだけ力を持っていたって、周りの全てが、思い通りになるなんて事はなかった。
「それでも、羨ましいな。この世界に来て、まだ短いけれど。もっと、俺に力があったら良かったのにって。そう思う事が、多かったから」
俺が、ヤシュバの様に戦えたらな。そうしたら、もっと色々と、展開は変わっていたかも知れない。後悔する様な出来事も、起こさずに。
「羨ましい、か。ハルの時にも、そんな事を言われた気がする。俺はなんでもできるって」
「そりゃあ、そうだよ。だって実際、タカヤなんでもできたでしょ。頭も良かったし」
人間だった頃のタカヤを、俺は今一度振り返った。本当に、優等生という言葉がぴったりな青年。子供の頃は、親の都合で引っ越しをしていたから、人見知りの気があったけれど。成長するに従って、どんどん社交的な面が
育ってきて。俺はそれを、小さい頃からずっと近くに居た親友が、どんどん遠くに行ってしまう様な。そんな疎外感を覚えて。けれど、俺が足を引っ張ってはいけないとも思ったから。なるたけ笑顔でそれを送り出して。でも、
結局成人すると。お互いの都合が付かなくなって、会う事も難しくなったんだっけ。そして。そして、いつか二人で会った時に、俺はタカヤに告白されて。
「……タカヤは。どうして、俺の事。好きになったの」
そこまで、思い至って。俺は思わず、それを口にしてしまう。この世界に来て、クロイスと出会った時も。思い返しては、考えたけれど。もう別の世界に居るのだから、考えても仕方ないと。その内に、考えなくなってしまった
けれど。今なら。その相手もまた、俺と同じ様に、ここに居るから。
俺の言葉に、黒い竜が苦笑を見せる。器用に動くんだなって、なんとなく思う。形は違うのに、仕草はタカヤの物だから。なんだか、変な感じ。それは俺も、同じなのだろうけれど。
「あんまり言いたくないな」
「せっかく会えたんだから、教えてほしいな」
「こんな所まで来て、する様な会話なのか?」
「いいじゃん。会う機会、少ないんだから」
「……中学の時の事、憶えてるか。二年の」
「二年? の、何?」
「クラスで、女の子の私物が無くなった時の事」
「……ごめん。全然憶えてない。クラスは一緒だったはずだけど」
「だよな。俺も、実はもうほとんど憶えてないんだ。どんな物が無くなったのか。それももう」
まあ、俺が憶えていないのだから。タカヤもそこまで憶えてないよなと思う。なんていうか、この世界に来て、短い間だったけれど、色んな事があって。新しく覚える事も山盛りだったから。昔の、人間だった頃の。それも古い
記憶なんて物は、どんどんと闇の中に葬られていて。本当に大切な思い出以外は、ほとんど憶えていないくらいだ。自分の顔だって、忘れてきてるし。それはまあ、今鏡を見れば、そこに映るのはもう狼の顔をした銀狼で、
これが自分の顔なんだなって、何度も思うから。余計に前の姿なんて、忘れてしまうせいなんだけど。
「それが、どうかしたの」
「その時、さ。誰かが盗んだって。そういう話になったんだよ」
「ふうん」
「それが、俺の机の中から出てきてさ」
「えっ」
あっただろうか、そんな事。憶えていても、良さそうだけど。タカヤに今言われて、当時の事を思い出そうとしてみるけれど。不思議と何も出てこない。どうしてだっけ。俺はもうとっくに人見知りを完璧に会得して、ぼっち主義に
なっていたからだろうか。丁度多感なお年頃な訳だし。
「勿論、俺が盗んだ訳じゃなかったさ。俺だって、いきなり出てきて驚いたし。あんまり驚いたから、後でこっそり返してあげれば良かったのに。思わずその場で取り出したし」
「正直だね」
「取り出して、すぐ後悔したよ。クラスの皆が、俺がやったんだって顔して見てたからさ。被害者が可愛い女の子だったから、余計にさ」
「タカヤがそんな事する訳ないのに」
「それだよ!」
突然、タカヤがぱっと顔を輝かせて。俺の言葉に食いつく。迫力のあるでっかい竜が、牙を見せて笑顔を浮かべる様は。なんかちょっと怖い。いや、可愛いのかも知れないけれど。迫力が。迫力がとんでもない。
「それって?」
「だから、それだよ。俺、その時。凄く怖かったんだよ。いつも仲良く話してる友達が、俺の事、凄く嫌そうな顔で見てるのが、怖くて。……でも。ハル。お前はその時、そう言ってくれたんだよ。俺がするはずないって」
「そうだったかなぁ」
物凄い興奮しながら言ってくれてるタカヤには、悪いけど。全然憶えてない。いや、ちょっと思い出してきて、なんかぼんやりとそんな事、言った様な気がするけれど。でも、とてもはっきりした記憶とは言えなかった。
けれど、タカヤはその内に段々と笑顔を消して。それから、悲しそうな顔をする。俺が憶えていないのが、そんなに悲しかったのだろうか。ごめん。
「ハル。憶えていないなら。これも、忘れてるのかも知れないけれど。俺、その頃さ。ハルから、距離を取ろうとしてたんだよな」
「え? あ、ああ……そうだ。そういえば」
タカヤの言葉に、俺は今度こそ思い出す。とはいっても、先の件の事は忘れたままだけど。ただ、当時。タカヤが段々と俺から離れようとしていた事は、憶えていた。小さい頃から一緒だったタカヤが、他の友達と仲良くなって、
俺よりも、そっちを優先して。俺はそれが、とても寂しかったけれど。俺と違って、色んな人に好かれるタカヤだから、それも仕方がないかなって。確か、そんな風に思ってたんだ。それで寂しがったりするのは、とても自分勝手な
事で。それに交ざれない俺の方が悪いだけで。だから、仕方ないって。でも、結局タカヤは程無くして、また俺の傍に居る様になった気がする。中学時代の、ほんの少しの間の、空白。丁度、その時に起こった出来事
だったんだな。タカヤの今口にしていた事件は。俺はタカヤが居なくて寂しいと思っていた方にばかり気を取られて。すっかり、忘れていたみたいだった。
「学校から帰るのも、別の友達を待ってるからって。確か断られたっけ」
「あの時は、ごめん」
「いや、いいけど」
そもそもタカヤ以外とは気まずいかなと、じゃあいいかとさっさと一人で帰ったの、俺の方だし。寧ろ俺が、合わせるべきだっただろう。なんというぼっち。小さい頃から一緒だったタカヤ以外とは、俺はとことん、馴染め
なかったからな。今、この世界に居る俺とは、本当に別人の様だ。この世界だと、また同じ様になるのはと思って、割と頑張ったり。もしくは、俺もあの頃よりは歳を取って。もう少しだけ柔軟に動ける様になったり。それから、
何を言うにも今の、自分でも綺麗だなって思ってしまうくらいの銀狼の姿になったし。或いはクロイスの様な、追い払っても付いてくる勢いの存在が居てくれるからかも知れないけれど。蠅みたいに言うのは可哀想だから
止めてあげよう。とても、感謝しているし。
「あの頃さ。俺、調子に乗ってたんだ。丁度、中学に上がってから。どんどん友達ができてたから」
しみじみとした仕草で、竜がそう言う。なんというか、口にしている内容と、その見た目が、大分釣り合ってないなって思う。まあ、最初にヤシュバとして出会った時から、割とそうだったけれど。だからといってガーデルみたいに
振る舞うのは、難しいだろうけれど。俺も、そうだけど。どんなに姿が変わっても、まだ精々二十数年生きた程度でしかないから。実際に百年以上生きたガーデルの様な、大人の振る舞いは、中々難しい。
「中学に上がってから、タカヤはどんどん明るくなったもんね」
中学に上がる前のタカヤは、親の都合で引っ越しを繰り返していて。友達もその場限りの、短い付き合いが多くて。だから、いつの間にか友達を作るのが、苦手になってしまったんだろうな。俺が初めて出会った時も、
そうだったし。やっと一つの場所に落ち着ける様になって。俺が丁度、その場に居て。だから俺から、勇気を出して。友達になってと言って。怖がっていたタカヤが、ゆっくりと頷いてくれたのは、まだきちんと憶えている。それから、
少しずつ、少しずつ明るくなって。中学に上がった頃には、もうそんな過去も忘れて。生来の明るさと優しさを持っているのだから、どんどん友達ができて。そして、さっきの。俺と距離を保つ様な状態になったのだろうな。
「友達が、増えていってさ。だから、俺。ハルから、離れようとしてた」
とても、罪深い事を告白するかの様に、タカヤは言う。俺からすると、別に良いんじゃないかって感じだけど。根暗な俺と居るよりも、その方がタカヤのためにもなるだろうし。実際、タカヤもそう思ったんだろう。明るい性格に、
明るい友達が集まってきて。それと比べれば、根暗なままの俺はそぐわないから。俺は少し避けられる方だったし。虐められる、とまではいかなかったけれど。それもまた、タカヤが友達であったからなのかも知れない。
「俺が、邪魔だった訳ね」
「……そう、だな。あの時の俺は、そう思ってたんだろうな」
「別に、いいんじゃないの。実際、あの時の俺。タカヤ以外にまともに友達居なかったし。いや、その前後でも居なかったけど」
改めて、振り返って。俺って大分酷かったなって思った。なんというか、今もう友達が居ない状態だから。だからこのままでもいいやって。漠然と、そう思う感じ。友達との触れ合いが、楽しいのはわかっていても、面倒臭さの
方が先立ってしまう様な。けれど、小さい頃から一緒だったタカヤだけは、例外で。でも、そんなタカヤが俺と居るのが嫌だって言うなら。それも、仕方ないって。それくらい、俺が酷かったので。
でも、結局その後タカヤは。また俺の下に戻ってきてくれたんだよな。
「あの時。ハルが、俺はそんな事しないって。その場で言ってくれてさ。そうしたら、クラスの皆も。そうだねって。そう言ってくれたけれど。でも、一瞬だけでも。皆から、疑われたのが。俺、凄く辛くて」
まあ、そうだろうなと思う。例えば俺が同じ状況で、しかもタカヤからそんな目で見られたとしたら。やばい、不登校になりそうだ。きついわ。考えるだけで嫌な気分になる。
「馬鹿だなって、そう思ったよ。上っ面だけでいくら仲良くなったって、仕方なかったのに。ハルは最初から、俺の事信じてくれてたのに。それなのに、離れようとしてさ」
「そんなもんじゃないかなぁ」
俺は適当に相槌を打つ。なんか、さも俺がとてつもなく一途にタカヤを信じてたみたいに言われているけれど。いや、それは間違ってはいないんだけど。でもそれは、俺にはずっと、タカヤしか居なかったから、そう思えるだけ
であって。到底、美談のそれの様な状況ではないんだよな。とうのタカヤは。それで大分救われたみたいだから。良かったのだろうけれど。
「それから、かな。無理に離れないで、また一緒に居る内に。いつの間にか、好きだなって。そう思ってた」
そこまで言うと。少し気持ちが楽になったのか、身体の力を抜いてタカヤが微笑む。昔を懐かしむ様なその表情に、俺も当時の事を少しだけ思い出した。だからあの時、タカヤは少しの間俺から距離を取って。そして、その内に
戻ってきてくれたんだな。俺が寂しさを短い間我慢している内に、タカヤの一大事は過ぎ去ってしまったみたいだけど。
「だから。好きなんだ。好きで、好きで。それから……守ってあげたかった。ハルはいつも、泣いてたから」
「タカヤの前では、あんまり泣かなかったと思うけれど」
「酔い潰れてた時は、よく泣いてたよ」
顔が、熱くなる。そうだったのか。知らなかった。リヨクにはよく、泣きついていたけれど。タカヤにそんな風に泣きつくのは、悪いと思って。いや、リヨクにも、悪いとは思っていたけれど。もう一度会えたら、ごめんなさいって、
ちゃんと言いたいのにな。言えたら良かったのに。もう、言えないんだよな。また次が、いつかはあったりするのかも知れないけれど。
「お互いに、姿が変わっても、それは変わらないんだね」
「ああ。……ハルは、随分痩せたな」
「それは言わないで」
太ってた時期の頃が、恨めしい。だって、食べる事でしかストレス発散できなかったし。今思うと、なんであんなに食べていたんだろうって。そう思う。多分、満腹感なんて、馬鹿な物でもいいから。満たされたかったのかも
知れないな。外に居る時は、自分を守るために。なんにも感じない様に。感じていない様に装わないと、泣き出してしまいそうだったから。そんな態で、家に帰って。リヨクに泣きついては。落ち着いた後に、満腹になるまで
物を食べて。家の中でも、やっぱり孤立していたから。何か一つだけでもいいから、満たされていたくて。
それが今は、不思議と必要じゃないから。凄いなって思う。飽食とは到底言えない期間があったというのもそうだけど。今は、友人が居て。それから、恋人が。クロイスが居て。俺の事を好きだって言って。大切にしてくれる
から。もう、余計な物を口に捻じ込んで、つまらない錯覚で自分を慰める必要も無くなったから。だから俺にはもう、そんな風になる理由も無くて。
「タカヤは、大きくなったね。本当に」
「そうだな。周りが、小さくて。最初は困ったよ」
「ちょっと狡い」
「そう言われても。それに、不便だぞ。寝るのも大きなベッドじゃないとだし。翼も邪魔だし。空を飛ぶのは、思ってたより疲れるんだ」
そんな事を、気を取り直したタカヤが、呆れた様に言ってくれる。なんだろう。この。見た目恰好良い竜族の語る。色々と幻滅な内容は。夢が壊れるなぁ。もうちょっとこう、嘘でも良いから恰好付けてくれてもいいのにな。まあ、
俺の前で恰好付けるタカヤなんて、滅多に見た事ないけれど。お互いに小さい頃から一緒だったから。結局、本当はどんな姿をしているのか、知っていて。繕っても、仕方ないっていうか。それでも俺は、タカヤの前では
泣かない様にしていたけれど。いや、していた、はずだったのだけど。
でも、それがやっぱり。タカヤらしくて。こんなに、姿は変わってしまって。それは俺も、同じだったけれど。砕けた口調も、さり気無い仕草も。全部が全部、あの頃の様で。だから俺も、思わず笑ってしまって。さっきまでの、
辛かった気持ちも、忘れる様に。無理に笑って。タカヤも、笑い声を上げて。けれど、その内に。また俺の瞳からは、涙が零れる。それを見て、タカヤが静かになる。
「目が、赤いな。そんなに、泣いてたのか」
「うん」
「……ハル」
ヤシュバが、その場に跪く。立派な体格の、黒い竜が跪いても。俺よりもまだ、少しだけ頭は高い所にある。本当に、俺とは全然違うんだな。大きさが。それでも、その瞳に宿る俺への信頼は。あの頃のままで。
それから、おずおずと。ヤシュバが手を差し出してくる。
「俺と、来てくれないか。俺は。お前を、泣かせたり。苦しませたい訳じゃ、なかった。ずっと、そう思ってた。お前を、守りたくて。……だから俺は、あの時。お前に好きだって、言ってしまったけれど」
差し出された、黒い手を見つめる。大きくて、ごつごつとしていて。それから。沢山、人の命を奪ってしまった手。俺はそれを、悪く言うつもりも、権利も無いけれど。俺だって、そうだったから。細い、俺の銀の腕でも、人は殺せた。
「俺が告白した事で、お前を傷つけてしまったのなら。あの時の告白は、無かった事にしてくれて良い。お前が俺を、友達としてしか見てくれなくても。それでも、良い。友達のままでも、俺は」
ゆっくり、ゆっくりと。俺の前へと差し出される、タカヤの手。いつか、クロイスとした話が俺の中で、ふわりと甦った。好きだから、友達じゃなくなってしまうけれど。告白するんだって。本当に、そうだったんだなって思う。
俺も、ゆっくりと手を上げた。間近に迫ると。本当に、手の大きさがまったく違う事に驚く。これで元は、同じ人間だったなんて。到底、信じられないな。手が近づくと。俺は次に、リュースの語った、黒き使者と白き使者の事を
思い出した。俺とタカヤが、手を結ぶ。今が、その時なのかも知れなかった。
俺が、タカヤの手を取れば。この世界は救われるのだろうか。結界が、無くなって。争う理由も無くなって。俺はもう、ラヴーワには。クロイスの下には、戻れなくなってしまうかも知れないけれど。それでも、この世界が平和に
なって。クロイスの夢が、叶うのだろうか。
俺は一度を目を瞑る。
「ハル」
暗闇から、声が聞こえる。ヤシュバの声。タカヤの声ではない。仕草が、以前の様でも。声はやっぱり、違うから。
静かに、瞼を開いた。目の前に居るヤシュバを、俺はじっと見つめて。俺は手を少し前に。ヤシュバの手に触れる様にして。
それから。
それから。その手を振り払ったのだった。
「ハル」
「……悪いけど」
黒い手を払った、その手で。そのまま、自分の涙も払う。それから、できるだけ頑張って。俺は笑ってみた。無理に笑う様な事はしないで、ちょっと意地悪そうに。
「私は、もう。ハルではないから。ゼオロだよ」
「同じじゃないか。そんなのは」
「そう、思われますか。ヤシュバ様。やっぱり、あなた様とご一緒にとは、いきませんね」
「ハル……」
言ってしまった。断って、しまった。大丈夫なのだろうか、これ。もしかして今、俺、とんでもない事をしてしまったかも知れない。リュースの言う事が、本当なら。俺はたった今、ユラの託宣とやらを、台無しにしてしまったのかも
知れなかった。けれど。俺はやっぱり、タカヤとは。ヤシュバとは。一緒に行く事は、できなかった。だって、俺はもう、ゼオロだから。タカヤがどんなに、ハルを好きでいても。それはもう、俺だった物であって。俺ではないのだから。
ハルはもう死んで。今の俺はゼオロとして生きているんだって。俺は、そう言いたかった。いつまでも、ハルを追いかけているタカヤには、悪いけれど。それから、やっぱり。クロイスの事を裏切りたくない。俺のこの選択は、
クロイスの夢に対する、裏切りなのかも知れなくても。クロイスが俺を好きだと思っている気持ちは、やっぱり裏切りたくはなかったから。
後先考えずに、断ってしまった俺とは対照的に。ヤシュバはその場で膝を着いて。静かに涙を湛えていた。気の毒な事だと思う。こんな所に居るのも。俺を追いかけてきてしまった事も。けれど。それは、俺にはもう、
どうする事もできない物でしかなかった。今のヤシュバを好きだと言う、リュースと。一緒に居てほしいと。静かに思うだけだ。
「なんのために。俺は、こんな姿になってまで、ここまで……」
絞り出す様な、苦痛に満ちた、ヤシュバの声。途端に、俺はその身体に触れて、慰めてあげたくなる。それも、堪えたけれど。本当は、抱き締めたい気持ちだってある。俺を追って、ここまで来てくれた。その一人、というか、
一匹であったリヨクを。俺は知らないままに失って。そうして目の前には、もう一人。そして、ただ一人の。タカヤが居るのだから。
「タカヤ。前にも、言ったけれど。こんな所まで、俺を追ってきてくれたタカヤに言うのは、酷い事なのかも知れないけれど。俺のために、生きたりしないで。タカヤは。タカヤも。もう、ヤシュバになったんだから」
しみじみと、そう思って。俺は言う。俺はもう、ハルではなくて。ゼオロになって。タカヤももう、タカヤではなくて。ヤシュバになって。俺はゼオロとしてだけ生きているのに。タカヤは、そうではなくて。そこだけが、俺とタカヤで、
決定的に違ってしまっているんだな。ヤシュバの傍に居る人達に、タカヤが、気づいてくれれば良いのに。それではいつまで経っても、この世界で生きている事にもならないのに。それすら、タカヤには。どうでもいい事なのかも
知れないけれど。俺はもう、この世界の事だけを考える様になってしまったから。だから、やっぱり。その手を取る事ももうできはしなくて。
「ゼオロ、か……」
「そう。ゼオロだよ。私は」
よろよろと、ヤシュバが立ち上がる。首が痛くなるくらいに、黒い竜を見上げて。俺が少し笑うと、ヤシュバも。まだ涙を流していたけれど。それでも、少しだけ、笑って。これがしたかったんだなって。俺は思った。タカヤに、
ヤシュバとして、生きてほしいって。そうじゃないと。俺も。ゼオロとして、本当には生きていけない気がしたから。
ハルも。タカヤも。もう、ここには居なくて。ここに居るのは、銀狼のゼオロと。ランデュスの筆頭魔剣士であるヤシュバの二人だけで。
「そういえば。以前にお会いした時には、きちんとしたご挨拶もできませんでしたね。簡単に、名乗っただけで。改めて、申し上げます。……ヤシュバ様。私は、ゼオロと申します」
「……酷いな。本当に、今初めて会ったみたいに、言うのかよ」
俺の言葉に、ヤシュバが軽く笑い声を上げる。もう、親友同士でも、なんでもない。けれど。今からまた、新しい繋がりになってくれれば良いと思った。生憎俺はもう、恋人が居るから。そういう意味では一緒には居られそうに
ないけれど。
「俺は」
ヤシュバが、口を開いた。
けれど、言葉はそこで途切れて。途端に、耳を劈く様な轟音がして。俺は慌てて、耳を塞ぐ。ヤシュバは笑みを消して。そしてすぐに鋭い眼をする。何事かと、そう思った。突然の事で、俺にはよく把握もできなかったけれど、
それは俺とヤシュバの近くの地面が、突然に小規模の爆発をいくつか起こしたのが原因だった。爆発と言っても、俺達に危害が加わる様な物ではなくて。ただ、鋭い音と。それから、煙を巻き上げて。あっという間に俺と
ヤシュバは煙に包まれてしまう。
けれど、その煙もすぐに。この場を流れる風に吹かれて、風と同じ様に流れてゆく。視界が僅かに晴れた時。俺は、まるで煙を纏うかの様に。突然に現れた青い竜が。剣を抜き放って、俺の下へ突進してくる事に気づく。僅かに
息を呑む事しか、できなかった。次には、剣と剣のぶつかる音が、高台に響いた。それは幾度か続いて。その間に、煙は完全に晴れて。
「リュース」
いつの間に、ヤシュバは剣を抜いたのだろうか。俺の目にきちんと映った光景は。俺を庇う様に前に出て、背を向けたヤシュバが。煙に紛れて襲い掛かってきたリュースの剣を受けているところだった。今の短い間に、俺の
耳から入った情報だけでも、かなりのぶつかり合いがあったのだろうけれど。俺にはそれがさっぱりわからないでいた。
「なんのつもりだ」
ヤシュバは、戸惑いながら。リュースへと声を掛ける。戸惑っていても、まるで機械の様に機敏に身体は動いて。まったく相手の動きを封じているのだから。俺は目の当たりにしたヤシュバの強さを知る事になる。ただ、
今は。それよりもヤシュバの言う通り。俺達に襲い掛かってきたリュースの方が、余程気になった。どこに隠れていたのかは、わからない。ただ、リュースは突然に現れて、そして襲い掛かってきたのだった。とうのリュースは、
ヤシュバからの声など知らぬと言いたげに。一度引いて、更に切りかかろうとする。
「止めろ。リュース」
ヤシュバからの、鋭い声が飛ぶ。その言い方もまた。俺の知らないヤシュバの一面だった。対するリュースは。舌打ちをしてから、後方に跳んで。一度距離を取る。
二人のやり取りを、訳がわからないまま俺は見つめていた。筆頭魔剣士のヤシュバと、つい先日までは筆頭補佐だったリュース。この二人が、剣をぶつけ合うなんて。いや、俺を襲ったから、なんだろうけれど。
ヤシュバは、まだ戸惑っている様だった。リュースが距離を空けた事で、剣を下ろしたけれど。じっとリュースを見つめていて。対するリュースは、まるで睨むかの様に。こちらを鋭い瞳で見ていた。
カーナス台地の上に、黒と、青の竜族が立って、向かい合っていた。
僅かな沈黙の後に。不意に、リュースが。青い竜が、溜め息を吐く。
「まったく。強すぎる、というのも。実際、困った物ですねぇ。ヤシュバ」
「どういう事だ、リュース。いきなり襲ってくるなんて。それに、お前はランデュスに置いてきたはずだ」
二人の会話を、俺は耳に入れる。相変わらず、ヤシュバは俺を守る様にしてくれていたから、俺は助かったけれど。それでも、どうしてなのかと。落ち着いた今は俺にもその気持ちが芽生えていた。リュースは、俺と一緒に
カーナス台地を解放してくれて。その間。ずっと俺には親切にしてくれていたのに。たった今、切りかかってきたリュースは。間違いなく俺の命を狙って、全力で突撃してきたのだった。それも、ヤシュバに阻まれてしまったけれど。
それが、俺にはわからなかった。この二人は、俺の受けた印象では、常に意見を交わして、繋がっている様な印象を受けたのに。今のリュースの行動は、ヤシュバにも理解できていない様だった。
ヤシュバの問いかけに、相変わらずリュースは答えようとはせずに。ただ軽く剣を払って。不敵な笑みを浮かべて、俺達を見ている。
「あなたには、本当に隙という物が無いのですね。ずっと、窺っていたのに。いや、隙だらけではあったのでしょうけれど。ゼオロ様とお話をされているあなたは。それでも、ほんの少しの殺気でも。あなたは瞬時に、その本来の
力を出す事ができてしまう。私はあなたが見ているその目の前で、事を成さなければならないというのに。本当に、厄介な物だ。どうしてあなたは、そんなにお強いのでしょうねぇ? 実際、ゼオロ様とお話されている時の
あなたときたら。本当に、どうしようもない糞餓鬼の様な事ばかり仰られて、思わず私も呆れてしまうくらいですのに。それが、どうしてこんな、最強の戦士になれてしまうのやら。首を傾げてしまいますね。天は二物を与えず、
という物なのでしょうかねぇ? 本当に、困ったお方だあなたは」
呆れながら、笑いながら。リュースが続ける。初めて見る、リュースの姿だった。ただ、それを言われているヤシュバは。そのリュースの言い方には慣れているのか、今度は途端に落ち着きを見せる。
「そんな事を俺に言われてもな。すまないが、俺はこの身体では強い。それだけだ」
「ああ。そういう所が本当に、癇に障る。最近は多少風格が出てきたと。そう思っていたのに。蓋を開けたらこれだ。やっぱり、所詮は私の半分も生きていない様な子供なんですねぇ」
「今更言わなくても、お前はよくわかってくれていただろう。どうしたんだ、リュース。今のお前は」
「……そこを、退いていただけますか。ヤシュバ。私はゼオロ様を、手に掛けないとならないのですから。あなたのためにね」
はっきりと、リュースがそう告げる。ヤシュバが唸り声を上げて、また剣を構えた。
「それを、俺が許すと思っているのか」
「あなたの許しなど、関係ありませんよ。それが竜神様のご意思なのですから。そして、また。あなたのためにもなるのですから」
「訳がわからんな。ゼオロが死ぬ事が、俺のためになるとは」
「実際、そうじゃありませんか? あなたときたら、そんな図体をして、ゼオロ様の前でめそめそと泣いて。なんて女々しくて、無様なんでしょうねぇ? 筆頭魔剣士とあろう者が、情けない」
「お前が、俺を不甲斐無く思う気持ちはわかる。だが、それにゼオロを巻き込むな」
二人のやり取りを、俺は黙ったまま聞いていた。どの道、俺にどうこうできる問題ではなかった。リュースは何故か、今は俺を殺そうとしていて。そしてヤシュバは、それから全力で俺を守ってくれている。今はただ、二人の
やり取りを見守る事しかできなかった。それでも、俺はリュースをじっと見つめていた。俺だって、短い間だったけれど、リュースと一緒に旅をして。それから、一緒にカーナス台地を解放したのだから。リュースの全ても、
リュースが抱えている物も、知らないけれど。俺の目の前に居たリュースは。少なくとも俺に、こんな事をする様な人ではなかったから。
また、溜め息が聞こえる。それから、リュースが僅かに、ヤシュバから視線を逸らして。俺を見つめた。目が合うと。何故だか、リュースは微笑んでくれた。その笑みも、すぐに消えて。リュースはまた、ヤシュバを見つめる。
「ヤシュバ」
リュースが、空いた手を差し出す。
「こちらへ、来ていただけませんか」
差し出された手を、ヤシュバはしばらくの間見つめていた。それよりも、俺は。リュースのその手を見て。それから、リュース自身へと目を奪われる。よく見れば。リュースのその腕と、身体は。小刻みに震えている様だった。
俺がそれを見ていると。その内に、ヤシュバが首を振る。
「リュース。お前に、どんな目的があるのかはわからないが。お前がゼオロを手に掛けようとするのなら。俺は、お前の言いなりにはなれない」
「そうですか」
ゆっくり。本当に、ゆっくりと。リュースの手が下りてゆく。それと同時に、リュースが瞼を閉じて。閉じたその場所から、静かに。一滴の涙が流れた。
「……さようなら。ヤシュバ」
その言葉を。リュースが言い終わらぬ内に。その胸から、肉を突き破る音と共に、青い刃が生える。細長い、棘の様な刃が。青いリュースの胸を突き破って。青い。竜族の血が、そこから溢れる。
「リュース」
剣が、がしゃんと落ちる音が二度聞こえた。胸を貫かれたリュースの手から、零れ落ちたそれと。ヤシュバが、持っていた物を投げ出したのと。二つ分の音が。ヤシュバが、走り出す。そうしている間にも、リュースの胸の
刃は、大きくなって。その度に、リュースの口からは、悲鳴ともつかない様な、苦し気な呻き声が漏れていた。
俺は、ヤシュバの様に走り出す事もできなくて。それをただ、見つめていて。それでも次第に、リュースの変化に気づいた。リュースの胸を突然に貫いた、青い刃が。次第にはっきりと見えてくる。いや、そうじゃ、なかった。胸を
貫いた刃の周りの青が、色褪せてゆくのに、気づいたのだった。リュースの、青い鱗の色が、薄れてゆく。薄れて。薄れて、次第に、それは真白な物へと変わってゆく。痙攣を起こしていていたリュースも、自分の身体に訪れた
変化に気づいて、我を取り戻したのか。自分の胸から飛び出している刃と、雪の様に白い自分の身体を、何度も見つめて。
「畜生。なんだよ、これ……」
そう呟くと。そのまま、リュースが倒れる。ヤシュバが、何度もリュースの名前を叫ぶ様に口にしながらようやく辿り着いて。その身体を抱き起す。
いつの間にか。リュースの胸を貫いた青い刃は、消えて。その胸には、貫かれた分の穴がぽっかりと空いていた。そこから止め処なく、青い血が溢れていて。俺は、震えながら。ようやく足を踏み出して。少しずつ、二人の
下へと近づいて。けれど、俺が歩み寄れたのは、途中までだった。黒い翼が、広がる。ヤシュバが、リュースを抱き締めて、叫び声を上げていた。それは到底、その口から言葉が出てくるとは思えないくらいの。さっきの爆発音
など、比べようも無い程の竜の咆哮で。ヤシュバはもう、リュースの名前すら口にすらできないまま。翼を広げて。悲しみを示すかの様に、啼いていた。その声が大きくなる度に、俺は吹き飛ばされそうな衝撃を全身に受けて、
また、その場に蹲る。そうしないと、後ろへと身体が浮いて。この高台から、落ちてしまいそうだった。あまりの声の大きさに、耳を手で塞いで。それでも、目だけは見開いて。それを見つめる。大地が揺れていた。とてつもない
地震が起こってでもいるかの様に、揺れて。俺は手を、今度は大地に触れさせて。投げ出されそうになるのを堪える。不意に、ヤシュバの声に負けないくらいに、別の音が俺の耳に飛び込んできて。眩暈を覚えた。真上から
聞こえたそれに釣られて、空を見上げれば。青い空に、亀裂が走っていた。瞬時に、俺はそれが何を意味しているのかを理解する。結界。この涙の跡地を覆う、目に見えない結界に。ヤシュバの狂った様な叫びが、
届いていた。そして、俺がそれ以上に何かを考えるよりも先に。更に一層、大きな音が轟いて。一瞬、俺は意識を失いそうになる。耳に直撃する音の大きさに、耳に届いた音が、どんな物であるのかすら、把握できなくて。
思わず、呻いて。けれど、俺の目に映る光景は、俺の心を奪うには、充分過ぎる物だった。亀裂が走った結界は、そのまま光の破片となって飛び散る。結界が、破れた。やがて、音が消えてゆく。空は先程までと何も
変わらずに、青々と広がっていて。けれど。その空から。きらきらとした、光の破片が、静かに落ちてくる。飛び散ったそれは、意外な程に早く地上にまで落ちてきて。俺の周りへと降り注いで。けれど、そのまま何事も無く、
消えてしまった。光が消える頃には。ヤシュバの声も、徐々に弱まって。あれ程連続していた騒音の全てが、止んで。その内に、控えめな風の吹く音が、また俺の耳へと戻ってくる。大きな音が連続していたせいで、そんな
小さな音すら、俺の耳は拾うのにも苦労していた。耳が、痛んだ。
「ヤシュバ」
微かに、声が聞こえる。リュースの声。はっとなって、俺は顔を上げて。ヤシュバは、腕に抱き締めた竜を。今は、全身が真白に。そして真白の上を、青い血が染めているリュースを、見下ろした。
リュースは。ただ、空を見ていた。
「空が、綺麗ですね。あんなに、青くて」
「リュース……」
「嬉しい。私でも、良かったんだ。あなたの、大切な物は。私でも……ああ、けれど。あなたが綺麗だと言ってくれた、私の青も。結局は……私の物では、ありはしなかった……」
瞼を閉じたリュースの瞳から、溢れた涙が、流れてゆく。
俺は、立ち上がって。ふらふらとした足取りのまま、そこまで辿り着いて。静かになった、白い竜を見つめた。
白い竜を抱き締める、ヤシュバの呻きと。時折呼びかける名前だけが。いつまでも。いつまでも、聞こえていた。