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39.赤い翼

 ランデュスとの戦を、俺はただ後方で見守る事しかできなかった。
 今はまだ、小競り合いだというけれど。それでも、その場で死ぬ人は、両者共に存在していて。そして俺にできる事は、何も無かった。ほんの少し、手助けをして。けれど、それだけで。俺が前に出る事は、誰一人として
賛成はしなかったし。狼族の兵だって、大多数はジョウスの下へと出されていて。今ここに居るのは、俺がカーナス台地を解放した事に、感銘を受けたと。半ば強引に駆けつけてくれた少数の狼族だけだったし。それに、そんな
風に駆けつけてくれた狼族に、死にに行けとは。言える訳がなかった。何より、出過ぎればそれは俺の危険へと繋がるというから。やっぱり必要以上に敵へと攻め込む様な真似は、狼族の将軍も頷いてはくれなかったし。
 戦場に居るはずなのに。なんというか、蚊帳の外に置かれている様な感じを、俺は味わっていた。俺が一人で戦うのは、どうせすぐ死ぬと思うので、虚しい夢を見る事も止めて。せめて後ろで何かしらの手伝いができればと
画策して、クロイスに無理を言ってここまで来たというのに。狼族に守られた形となった今では、俺が直接手を動かそうとするなんて、とんでもないと。そう撥ね付けられてしまうのだった。実際に、先頭同士でのぶつかり合いが
始まったとなれば、尚更だった。如何なる時でも、劣勢とあらば俺だけは逃がせる様にと、狼族の将軍などは考えている節があった。多分、ガルマから。その様に扱えとの命令も出ているのだろうけれど。
「前に出るなどと、とんでもない事でございますよ。ゼオロ様。ゼオロ様が、この様にお姿を見せてくださるだけで。狼族は強くいられるのでございますから」
 とかなんとか言って、やっぱり俺はお飾りの様に。ただ、飾られているだけだった。もっともジョウスの方に預けられている狼族の方は、俺が居る事で、本当にかなり暴れているそうだけど。狼族の象徴であり、また戦とも
なれば先陣を切って、敵へと突っ込むのが狼族の英雄であるグンサの姿だったというし。その弟であるガルマは、今は臥せっていて。だから、ギルスを思い起こす事のできる銀を持っていて。その上で、戦場に立っているのは
俺だけだったから。その存在は、狼族にはかなりの影響を今は持っているらしい。らしいっていうのは、将軍がそんな風に、俺がただ、居てくれるだけで良いのだと。力説して。俺が勝手にどこかへ行ってしまわぬ様にと必死に
留めているせいで。その発言から察するしかないからだけど。
 そんな訳で。結局俺は、後方にて。日がな一日戦況を眺めては。定期的に将軍自らの報告を受けて、ただ頷く日々を送っていた。とはいえ安全ではあるので、文句を言う訳にもいかなかったけれど。そもそも前に出ようと
したら、多分クロイスからも注意が飛んでくるはずだ。クロイスだって、俺が後方に居るから、戦場へ出てくる事をどうにか許してくれただけだし。本音を言えばさっさと俺には、街の中にでも引き篭もっていてほしいのだろう
けれど。でも、クロイスがここで、戦っているのに。俺だけが後ろに居るのは、やっぱり嫌だった。俺が居る事で、少しでもヤシュバの矛先が鈍るかも知れないと。そう言い切って、クロイスに付いてきた訳だけど。その辺りの
効果は、今のところはよくわからなかった。
 戦場に居て。今まさに、その場で命のやり取りがなされているというのに。蚊帳の外に居るというのは、どうにも落ち着かない物だった。だからって、いざ竜族を、敵を目の前にして。武器を構えて、殺してしまうなんて。今の
俺にできるのかわからなかったけれど。ファウナックで俺を殺そうとした赤狼を、確かに俺は首を切り裂いて殺したけれど。今同じ事をできるのかは、正直自信が無かった。そもそも、戦闘能力に優れていると言われる竜族から
したら、俺なんて子供同然だから。到底俺が直に手を下すなんて状況にはなりそうにないけれど。
 朝起きては、お守り替わりの銀のナイフを胸に抱いて。遠くでぶつかり合っていると思われる前線の軍を見つめる毎日だった。それが、歯痒い。なんというか、最近は結構、狼族の事だったりとか。カーナス台地の事だったり
とか。割と、正に俺でないといけない出来事が重なっていたから。多少は俺も動く事ができたけれど。こうして軍同士のぶつかり合う、純粋な戦争という事になってしまうと。もう俺には、見守る事しかできないんだなって
思った。ぶつかり合っているど真ん中に飛び込んで、絶対的な力を見せつけて争う事を止めさせたりとか。そういう如何にもな活躍ができたらいいのにな。悲しいかな、俺の力じゃ子供相手でも下手したら負けかねない。
「ゼオロ様。謁見を望む者が見えておりますが」
「えっ? どなたでしょうか?」
 その日も、いつもと同じで。俺は少しだけ憂鬱になりながら戦況を見守っていた。そんな俺に、将軍が直々にそう伝えてくる物だから。俺は居住まいを正す。誰だろう。邪魔だから帰れとかそういう話じゃないといいけれど。でも
そういう話だったらまず将軍に話が行くし、多分違うのだろうな。
「翼族の、ヒュリカ・ヌバ様でございますね」
「ヒュリカが?」
 ヒュリカの名前が出て、俺は驚く。だって、今のヒュリカは到底翼族の谷から抜け出せる様な状況じゃないと思っていたから。それが、態々谷から出て、南下して。こんな所に来るなんて。
「確かに、ヒュリカ・ヌバ様なのですね?」
「はい。身分を証明する物も、確かにお持ちでございまして。今は、お待ちいただいておりますが。如何しましょうか」
「会います。そのまま、ここへお連れください。心配しなくても、ヒュリカ様なら。私のお友達ですから」
 僅かに表情を曇らせた将軍に、俺は慌てて付け足す。とはいえ、俺が他種族とも平気で付き合いを持っている事を知った上で、彼らはそれでも俺の事を守ろうとここまで来ているのだから。それに強く反対を唱える気は
無い様だった。一礼して出てゆく将軍を見送ると。俺はとりあえず、俺のためにと作られた天幕の中をさっさと片付けて。それから身支度もする。本当なら俺の世話をする小姓なりが付くそうだったけれど。俺が嫌なので
断った。正直その辺りは、いまだに慣れないなと思う。ファウナックで、族長候補として生活していた時も。俺はハゼン以外にはあまり身の回りの世話を頼まなかったし。フロッセルでクロイスと一緒に居る時も、基本的には
自分で部屋の片づけなどはして。部屋に使用人は立ち入らせなかった。俺がそうしているのは、身の回りの世話をするのが仕事である彼らからすれば、首を傾げる事だったのかも知れないけれど。やっぱりずかずかと自分の
部屋に足を踏み入れられるのは、嫌だったし。それに、当たり前だけど彼らはきちんと生きていて。話をするものだから。ファウナックでは、赤狼を連れた銀狼の俺を。フロッセルでは、銀狼の身でありながら、クロイスと共に
居る事を、使用人達というのは面白おかしく話す傾向があるのだった。そんなに悪気がある訳ではないとは思うのだけど。
「いいじゃん! 見せつけてやりゃいいじゃん!」
 とかなんとか言ってた猫男の意見は無視して。俺は小姓などの使用人はほとんど使わない方針を取っていた。それは、ここでも変わらない。代わりに天幕の外では、俺が天幕に一人であるという事から。かなり物々しい
警備が付いているけれど。割と窮屈に思う。
「ゼオロ」
 準備を整えて、そんな事をぼんやりと考えていると。その内に狼将軍に案内されたヒュリカが、天幕の中へと入ってくる。確かにそれは、俺の知っているヒュリカだった。それでいて、狼族の谷で見た、痩せぎすの様子からも
幾分脱して。ようやく少しだけ肉が付いてきた様な、そんな感じの。俺は立ち上がって、ヒュリカの前へ行くと。その手を取って再会を喜んだ。
「ごめんなさい。二人だけに、していただけますか」
「仰せのままに」
 ほんの少しだけ、やれやれという顔を見せはしたものの。狼将軍はそう言って引き取ってくれる。俺が知っている狼族の中でも、割と話のわかる人だと思う。どちらかと言うと、俺のした事に感銘を受けた人だから。俺の
する事には強く反対はしたくないと、そう思っているのだろうけれど。二人きりになると、ヒュリカが早速俺に抱き付いてくる。背が高い。背が高い。ミサナトに居た時は、俺とヒュリカはそれほど背が変わらなかったはずなのに、
すっかりヒュリカの背が伸びてしまった事は、獅族門の一件の時に充分思い知ったはずなのに。それでもやっぱり、大きいなと思ってしまう。ヒュリカが俺をそのまま抱き締めると。俺の顔は、丁度ヒュリカの胸の辺りにある
くらいで。季節柄、肌寒いから、何枚も羽織っていたけれど。でも前は開いていて、中にぴったりと身体の線に沿う様な服を着ていて。胸元からはふわっとした白い鷹の、白い毛があるものだから。俺はそれに迎えられて。
 そのままくしゃみをする。
「あ、ごめん」
 慌ててヒュリカが苦笑して、俺から離れてくれる。正面から俺の鼻にふわふわの羽毛が突撃してくるんだから、耐えられるはずもなく。何度かくしゃみをしてから、俺は鼻を啜って。それから、気にしていないと小さく
頷いてみせた。
「ヒュリカ。身体は、もういいの? というより、翼族の谷から出てきても、大丈夫なの?」
 ヒュリカと会えて、嬉しいけれど。でも、俺はそっちも気になって、問いかけてしまう。痩せ細って、今にも死んでしまうんじゃないかと。あの時のヒュリカはまさにそんな感じだったし。どうにか助ける事ができた後だって、たった
一人で翼族の事に対処しなければならなくて。俺は、そんなヒュリカを気に掛けながらも。結局はジョウスの呼び出しもあって、クロイスと共にフロッセルへと行ってしまったから。先日、俺が異世界人である事を大々的に公表
してもらった時に。ヒュリカから手紙が来たから、少なくともきちんと身動きのできる状態である事はわかっていたとはいえ。
「身体も、翼族の事も。大丈夫だよ。本当はね、翼族から、もう少しだけラヴーワ軍の偵察として使える人員を回そうと思って。僕はそれを引き連れてきたんだよね。それはもう済んだから、そのままゼオロの所に来たの」
「ヒュリカは、族長みたいな形になったって聞いたけれど。良いの?」
「ヌバ族は、その。少し、被害が大きかったからね」
 そう言って、ヒュリカは僅かに表情を曇らせたけれど。それもすぐに消えて、朗らかな笑みを湛える。
「だから、今の翼族は。そうだね、小さなラヴーワみたいな物だと思えばいいのかな? 今までは、ヌバ族が一番大きかったから。他の翼族を纏めていたけれど。まだ僕の力だけじゃ足りないのもあって。だから、僕が
少しの間外しても、心配ないよ。それでもラヴーワに話を通したりする時は、代表が必要だから。そういう時は、僕が出ている状態だけど」
「頑張ってるんだね。ヒュリカ」
「ううん。僕がもっとしっかりしていれば、こういう形にはならなかったはずだから。今はまだまだ、他の部族の長の方々に、色々と面倒を見てもらっている状態なんだよ」
「そうなんだ」
 当時筆頭補佐であったリュースが、翼族の谷でばら撒いた魔法の最大の被害者が、ヒュリカの父親であるヴィフィル・ヌバで。瞳を介して伝染するその魔法は、当然その近くに居た人を。それこそヒュリカの兄達をも
巻き込んでしまったから。今のヒュリカには、そうやって自分の傘下と言えるヌバ族だけで、以前の様に切り盛りをする力が無いのだろうな。翼族を率いているというから、立派になったのかと思ったけれど。まだまだ、苦労も
問題も絶えない様だった。それだけの事を、リュースが。そして、竜神がしてきたのだから。当然とはいえ。
「身体、本当に大丈夫なの? まだ少し、細いと思うんだけど」
「そんなの、ゼオロだって一緒じゃない」
「そうだけど」
 それから、ヒュリカは少し屈んで。改めて俺の事をぎゅっとしてくれる。そうされると、ミサナトに居た頃の、背格好が同じだった頃のヒュリカを俺は思い出す事ができた。もう胸羽毛攻撃の心配も無くて。俺もそのまま、ヒュリカの
首筋に、自分の頬を擦り付ける。最近、これをしている自分が気持ちいい事に少しずつ気づいてきた気がする。段々俺が狼に慣れてきたのだろうな。その内臭い物が好きになったりしたらどうしようか。いやでも、香水を
クロイスが付けたりしているし。多分感性までは変わらないと信じたい。ゴミ箱が天国に見える様にはなりたくないと思う。
 ヒュリカの羽毛の柔らかさを堪能しつつも、おずおずと手を伸ばして、俺はヒュリカの背に。翼の生え際へと手を触れる。
「でも、あんまり飛んでないんだね」
「え?」
「筋肉が付いてないから」
 ミサナトに居た頃のヒュリカは、きちんと空を飛んでいる翼族らしく。子供の姿であっても、背にはしっかりとした筋肉が付いていたけれど。今のヒュリカは、あの時と比べると、触っただけでも筋肉の量が減っているなって、
そう思って俺は口にすると。ヒュリカがちょっと固まってから、笑いだしてしまう。
「怖いね。ゼオロ。そういう所は、見てるんだね。……うん。空、一応飛べるけれど。以前の様になるには、もう少し時間が掛かるかな。背が伸びたから、あとはしっかりと食べて、鍛えれば。僕もきちんと、大人の翼族の様に
飛べると思うんだけど」
「そういえばヒュリカ、まだ子供なんだったね」
「なんだと思ってるの、僕の事」
 そう言えば俺と、ゼオロとしての俺と。そんなに年齢変わらないんだった。
「だって。背が高い。狡い。私、あんまり伸びてないのに。なんでそんなに背高くなっちゃったの?」
 おかげでモフいのが俺の鼻にダイレクトに直撃してくるし。狡いと思う。俺だって背の高い、すらっとした銀狼になって。それからクロイスと一緒に歩いても子供扱いされない様になりたい。相変わらずクロイスの方がずっと
背が高いから、手を繋ぐと完全にお兄ちゃんと弟みたいになってるし。クロイスはそれが良いんだよって力説してたけれど。そのためにも俺は大きくなって、クロイスの犯罪に片足突っ込んできた感性を治したいのに。小さいまま。
「もう私とヒュリカじゃ世界が違うんだね」
「そんな事ないと思うけど。というより、僕もこんなに伸びると、思ってなくて」
「翼族はそれが普通、とか。そういう訳でもない?」
「うん。まあ、今の時機は背が伸びるのは確かだけど。ゼオロだって、前より少しは伸びたみたいだし」
 少しって言葉が、重い。どうして俺は背が低いのか。人間だった頃は、まあちょっと低いくらいで。あからさまに低い訳ではなかったのに。やっぱり低いじゃないか。もうこれは宿命だと思う。俺より少し背が高いだけのタカヤは、
今はヤシュバになって、とんでもない体躯になっている訳だし。ラヴーワとランデュスにそれぞれが居るし、今はもう、昔みたいに話もできないから。だから俺はそういうところも見ない様にしていたけれど。あれは凄く狡いと
思う。なんであんな、翼まで付いて、空を飛べて。戦えば誰より強くて。しかも恰好良い見た目なのか。凄く羨ましい。いや、今の俺の身体も大概だけど。少なくとも、同じ狼族と。それからクロイスにはとんでもない効果が
あるのはもう充分にわかっているけれど。やり過ぎるとクロイスは特に自制が効かなくなって大変な事になるくらいだけど。でもやっぱり背低い。みんな狡い。
「伸びたって言っても、本当に、少しだけだし」
 ちょっと背が伸びた時は、このまま大きくなるのかなと思ったけれど。最近大人しい気がする。いや、まだ早い。まだ、諦めるのは早い。多分あと三年くらいすれば良い感じになってくれるはずだ。
「これからだよ、これから」
「そうだよね。これから、背が伸びて。恰好良くなるよね」
「恰好良く……うん、そうだね。うん」
 なんか今、凄い言葉を濁された気がする。何故だろう。俺は狼族だし、銀狼だし。つまりは恰好良くなれるはずなのに。ガルマだって中身は変態なおっさんだけど、見た目は凄く恰好良かったし、ハゼンはもう完璧なくらい恰好
良かったし、今俺を守ってくれている、黒い被毛の狼将軍だって、その体格と所作がしっかりとした立場を持っている事を裏付けているのがわかるくらい凛々しくて恰好良いのに。そういえば俺、恰好良いって、言ってもらった
事がないかも知れない。人間だった頃はまあ仕方ないとして。別に見られる顔じゃなかったし、ちょっと肥満になりかけてたし。でも今の俺は、身体も狼族の、それも銀狼のそれとなって。まさに恰好良いと言われても問題ない
状態であるはずなのに。何故だろう。誰も言ってくれない。クロイスは大体可愛いしか言ってくれない。辛い。そりゃ俺の周りはみんな背の高い人ばっかりだから、それと並んだ俺が、隣に居る人と比べて恰好良いだなんて、
到底言えないだろうけどさ。
 そこまで考えて、大分自分が背の事に拘っているのに気づいて、俺は一度深呼吸をする。人間だった頃は背の高さなんて、どうでも良かったのにな。これ以上伸びたら使っているベッドから足がはみ出しそうだなとか、
そんな事を考えたくらいで。クロイスと並ぶとって考える様になった今は、それじゃ駄目だって思ってしまう。恋人ができると綺麗になりたくなるし、実際綺麗にもなるってこういう事なのか。でも背は伸びない。
 咳払いをしてから、ヒュリカにずっとくっついたままだったので離れると。用意されていた席へとヒュリカに座る様に促す。俺と、少数の狼族が居るのは、前線からは大分後ろの方だから。こうして天幕の中も、ある程度俺の
ために色々と整える事ができたので、ヒュリカを持て成すのに不足は無かった。それが余計に、後ろに無理矢理ついてきただけだなって印象を俺に感じさせている訳だけど。
「ところで、ゼオロはどうしてここに居るの? 僕はジョウス様に人を預けてから、ゼオロに会おうと思って。どこに居るのかって訊いたら、苦笑いしながらここだって教えてくれたけど」
「えっと、それが」
 クロイスが心配で出てきてしまった、というと。ヒュリカの表情も苦笑に変わる。それを見ると、勢いで出てきてしまったなって思う。とはいえ狼族の士気は上がっているので、無駄な訳ではないけれど。
「無茶するね、ゼオロ。それにしても、ゼオロがいつの間にか、こんなに狼族を率いていられる立場になっているなんて。驚いたな」
「別に、私が率いている訳じゃ。それに、カーナス台地を解放できたから、こうなっているだけで」
「でも、少しは僕も話を聞いたよ。狼族の族長になる事もできたんだって?」
「そうだけどさ。私は、やっぱり本当は、狼族でも銀狼でもないしさ」
 ヒュリカには、獅族門の一件の時に俺の正体については伝えてある。俺がそれを口にすると、ヒュリカもそうだねと、相槌を打ってくれる。そこまで見てから。俺はヒュリカにまだ話していない事があるのを思い出して、少しだけ
表情を曇らせる。
「どうしたの?」
「その。ヒュリカに言わないといけない事があって」
 ヒュリカは、すぐにそれに気づいてくれて。でも俺は、それが中々切り出せなくて。しどろもどろしてしまう。
「言いたくないなら。別に良いけれど」
「ううん。言わないと、いけないから」
 それから、俺はおずおずとヒュリカに、ヤシュバの事を伝える。ヤシュバの正体がなんであって、そうしてその後押しもあって、当時筆頭補佐だったリュースが、翼族の谷に訪れて。ヴィフィルに魔法を掛けていった事を。
 説明しながら、俺は段々と自分の声が小さくなっている事に気づいていた。一度は克服したと思った、あの気持ち。クロイスや、ハンスが支えてくれたから、俺はなんとか脱する事ができたけれど。それでも、ヒュリカを前に
すると。やっぱり、平気な顔をしていられなかった。俺がここに。この世界に居るから、タカヤもまたここにきて。それから、ヤシュバになってと。クロイスに伝えた事と、同じ事を俺は口にする。全部が、俺のせいじゃないって、
もうはっきりと言う事ができるけれど。でも、俺が居なければ。こんな事にはならなかったんだなって。それもまた事実であったから。俺が居て。ヤシュバが現れて。後押しもあって、リュースが動いて。そして、翼族の谷を
滅茶苦茶にしてしまった。クロイスはまだ、良かったかも知れない。けれど、ヒュリカは。自分の父親も、お兄さん達も、その被害にあって。まともな生活すら送れぬ様にされてしまったはずだから。ヒュリカには、きっと俺を
責める権利はあるのだろうなと思う。それから、爬族の人にも。俺が直接会った爬族はファンネスくらいの物だけど、ヤシュバが彼らを手に掛けた事を考えれば、爬族の人も、真実を知ったら俺の事を穏やかな目では見られない
かも知れないな。幸い、と言っていいのか。ヤシュバの正体が吹聴される様な事はなかったけれど。ランデュスでも、それは広まったりはしていないってリュースも教えてくれたし。まあ、それはあちらでも少し都合が悪い事
なのかも知れないな。竜神がヤシュバに筆頭魔剣士の座を任せたとはいえ、ランデュスの英雄とまで讃えられたガーデルを押しのけて、そこに座っているのが異世界人である、だなんて。誇り高い竜族からは首を傾げて
しまう者も出てくるかも知れない。とはいえヤシュバにも相応の実力がある訳だけど。
 俺が説明を終えると。ヒュリカは、黙り込んで。ただ、俺をじっと見つめていた。
「ヤシュバも。ゼオロと同じ、なんだ」
「……うん」
 沈黙が流れる。どうしよう。なんて言ったら、良いんだろう。とりあえず、謝るべきだろうか。謝ってどうにかなる問題じゃないと知りながら謝るのは、狡いと思うけれど。でも、他に俺に何ができる訳でもなくて。
「ヒュリカ。その」
「謝らないで」
 顔が見られなくて。目を伏せながら吐き出した言葉が、ヒュリカに遮られて。咄嗟に俺が顔を上げると。瞼を閉じたヒュリカの目尻から、静かに涙が零れていた。白い鷹が、静かに泣いている。
「でも」
「お願い。謝らないで、良い。謝られたら、全部、ゼオロのせいにしてしまいそうだから。僕は、ゼオロの事。嫌いになりたくない」
 まっすぐな言葉が、ぶつけられて。俺もその内、視界が滲んでくる。
「僕は、知ってるから。この世界に来たゼオロが、どんなに大変だったのか。出会った頃は、知らなかった事も。今は知っているから。それなのに、あの時僕を助けてくれたゼオロの事。僕は、好きなままでいたいよ」
「ヒュリカ。……ありがとう」
 でも。できれば、一度くらい。俺を詰ってほしかった。あんまりにも素直に、俺を受け止めようとするその姿の方が。一層、今は辛い。
「……でも。ほんの、少しだけ。嫌いになっても良いかな」
「え?」
「父さんは、死んでしまったから」
「ヴィフィル様が?」
「父さん、もう結構な歳だったのに。リュースから直接魔法を掛けられたから、負担が大きかったみたいなんだ」
 そうだったのか。俺は、翼族の族長であり、ヒュリカの父親であるヴィフィル・ヌバには、一度も会った事がなかったけれど。そっか。死んで、しまったのか。どうしてそれが、俺のところまで届かなかったんだろうか。既に族長
でなくなった人だから、なのかも知れない。ジョウス辺りは、確実に仕入れている情報だろうに。
「ヒュリカ」
「……駄目だな。嫌いだって、思っても。やっぱり、ゼオロの事。嫌いになりきれなくて。親不孝なのかな。僕は」
「そんな事、ないよ」
 静かに、ヒュリカが瞼を開いて。まっすぐにその瞳が俺を射抜く。止め処なく流れる涙よりも、今はその瞳の方が。ずっと俺は気になった。
「ヒュリカ」
「謝らないで。お願いだから」
「……それでも。……ごめんなさい」
 また、静かにヒュリカが泣きはじめる。俺も同じ様に泣いて。
 二人とも泣き止むのには、しばらく時間が掛かった。

 夜になる。
 真冬の今は、虫の声も聞こえない。代わりに、狼族の兵の囁き交わす僅かな声だけが、時折俺の耳を擽る様に聞こえてくる。人間だった頃なら、聞こえなかったのかも知れないけれど。狼族になった俺の耳に、それは
僅かばかりの騒音となって届いていた。
「眠れないの?」
 魔導によって照らされた、薄明りの天幕の中で。ゆっくりと瞼を開けば、俺の目の間には、白い艶やかな羽毛に包まれた翼族の少年。いや、もう少年というよりは、見た目は青年だけど。翼族の青年であるヒュリカが、
じっと俺を見つめているところだった。
「少し、物音が聞こえてね」
「そうなんだ」
 そう言うヒュリカには、多分聞こえていないのだろうな。狼族の俺の耳で、どうにか捉えられる物音でしかないのだから。音が聞こえる度、僅かに俺が耳を震わせる物だから。そんな俺が、ヒュリカには中々寝付けずにいる
様に見えたのかも知れなかった。
「ヒュリカは?」
「眠ったら、勿体ないかなって。そう思って。せっかく、ゼオロとまた一緒に居られるのに。僕もあんまり、長居ができる状態じゃないからね」
「今更だけど。そんな身分なのに、ヒュリカは一人でここに居るんだね」
「その辺りは、まあ。翼族の族長って肩書があったとしてもね。前にも言ったけれど、色んな部族が翼族の中にもあるから。ラヴーワの八族みたいなのとは、ちょっと違うんだよ。そんな状態で、今までずっとやってきたんだし」
 それももう、改めないといけないけどね。そう付け足してから、ヒュリカは少し寂しく笑う。確かに翼族は、今までは。というより、この間までは。ラヴーワとランデュス、どちらにも明確に肩入れする事なく存在し続けていたけれど、
今はもうラヴーワ寄りとなっている。というか、ラヴーワの庇護を受けずにいる事が、厳しい状況だ。ランデュスからの攻撃を受けて、かなりの被害を被った後に、ラヴーワの救助を受けたというのに、また以前の様になろう
とするのはかなりの批判を伴うだろうし、また以前の様にやってゆくだけの力も無い。いや、以前のままでも、駄目だった。それでランデュスに、竜神の魔法一つであっさりと壊滅的な被害を受けているのだから。あれも、
そう簡単に何度もできる事ではないとリュースは言っていたけれど。でもヤシュバはカーナス台地でリュースを迎えに来た時、その魔法を瞳に宿してきたと言っていたんだよな。その辺りは、よくわからない。リュースにも、
あまり竜神については話しかけなかったし。また話しかけても、流石にその辺りは如何に話の通じるリュースでも、敵国に属している俺に簡単には教えてくれはしないだろう。
「それにしても。良かったの? こんな風に、泊まるの」
「だって。他に、泊まる場所無かったんでしょ」
「そうだけど」
 泣き止んでから、今度は久しぶりの再会という事もあって。結局は、いつも通りに俺達は打ち解けて、好き勝手に話をしていた。最初の内、ヒュリカは俺を嫌いだと言った事もあって、少しだけ控えめにしていたけれど。俺は
改めて、ヒュリカがそうであったとしても。俺はヒュリカと話をしたいし、友達で居たいから。ヒュリカがあとは決めてほしいと。いつか、ミサナトで。自分が翼族で、俺が狼族である事から、少し引け目を感じていたヒュリカに対して
言った事と似た様な事を口にして。よくわからないけどヒュリカは観念した様な顔をして、いつもの様に話に花を咲かせていた。それに、獅族門の時の再会はお互いに時間の余裕が無い上に、ヒュリカはとても健康とは
言えない様子で。到底長話なんてできはしなかったし、またできたとしても、ヒュリカの精神がかなり不安定でもあったから。だから、俺からすると。ファウナックへ向かうと決まって、別れたきりのヒュリカと、ようやく再会を
果たせたような。そんな気分だった。そんな訳で、とりあえず俺は、どうやったら背が伸びるのか、その秘訣を根掘り葉掘り聞いて。体質、というヒュリカのとてもとても無慈悲な一言で打ちのめされたりして。そうこうしている
内に陽が暮れて、ヒュリカが明日また来るといって、帰ろうとするものだから。泊まる当てはあるのかと訊ねて。特に無いっていうから、俺の方からここに泊まってほしいと頼んだのだった。ヒュリカは最初、かなり迷っていた
みたいだけど。でも、ここ街中でもなんでもない、街道の途中、平地の上だし。だから当たり前だけど、宿なんて物は存在しない。一応、ラヴーワとランデュスを繋ぐ道でもあるから、平時なら、少数部族などが営む、極々
質素な宿場などが探せばどこかにあるかも知れないけれど。それもこの、今回の戦騒ぎで。訪ねてもやっているのかはわからない。そういう人達はお金が必要な時もあるから、そうしてささやかな商いをする事はあっても、
ラヴーワ、ランデュスという国に属さず、半分は流浪の民であるが故に、金銭に絶対的な価値観を抱いている訳でもないから。国同士の戦となって、それを結ぶ街道が不穏な気配に包まれたとあっては。取る物もとりあえず、
姿を消してしまうという事が多いという。纏めると、近場でどうにかしようとすると野宿か、ラヴーワ軍のいずれかの、主だった人を頼って。身分を明かして、寝る場所を貸してもらうしかない。
 そんな事をヒュリカに態々させるくらいなら、じゃあ俺の所に泊まっていいよ、という事だった。当然、狼将軍辺りはかなり渋い顔をしていたけれど。とはいえ、俺が他種族との交流が豊かである事は、既に知れ渡っている上に、
ヒュリカはヒュリカで、形の上だけといくら言おうが、翼族の族長という肩書を持っているものだから。到底無下にする事などできはしなかった。これを機に、狼族に、翼族という新しい友人ができたらいいな、なんて思って
しまうけれど、それは難しいかも知れない。距離も離れているし。狼族は南で、翼族は北だから。
「でも、クロイスさんに悪いんじゃないかなって」
「……なんで?」
「え? 付き合ってるんでしょ?」
「えっ。なんで知ってるの」
 ヒュリカの言葉に、俺は急速に眠気が薄れてゆくのを感じる。ちょっと、驚いた。ヒュリカがそんな事情を把握している事に。
「だって、ミサナトに居た時から、クロイスさんゼオロの事しか見てなかったし」
「そうだったっけ……?」
 ミサナトに居た頃のクロイスというと。まあ、ちょくちょく俺の下へと飛び跳ねながらやってきていた印象が強いけれど。そういえばあの時の俺は、まだ人目に付く事を避けていた上に。ヒュリカの一件で怪我をして、寝込みがち
だったから。外でのクロイスがどんな感じなのかとか、そんな事を考える余裕も、また知る事もなかったんだよな。やたらと元気な豹のお兄さん、みたいな印象があって。今それは大分音を立てて崩れたと言わざるを得ない
けれど。最近甘えてくるし。過剰にべたべたしてくるし。しかもあれは本人が楽しんでいるから、というのもあるけれど。それ以上に、俺と身体を重ねる際に、俺が男同士の事がよくわかっていないせいもあって、拒絶しない様にと、
今の内に慣らすためでもあると、この間知ってしまったり。している時も、大抵はひたすら俺だけを気持ち良くしてさっさと終わらせるのは、俺の性格を考慮して、いずれは俺の方からお返しをという気持ちを待っているからで、
最近それに乗せられてるし。そういう用意周到さはやっぱり親父譲りなんだなと思うしかない。あの頃はまだ恰好良かったな。いや今が嫌な訳じゃないけれど。
「獅族門で会った時も、親しそうにしてたし。それで、ジョウス様にも会ったから。訊ねたら教えてくれたよ」
「ジョウス様、余計な事を」
「それに。ゼオロはそういう反応するって事は知らないのかも知れないけれど。割と、有名だよ?」
「えっ」
「カーナス台地を解放した、銀狼のゼオロ。少なくともラヴーワでは、結構有名になってるはずだけど。そんなゼオロが、異世界人だっていうのも、当然話題になるし。しかもそんな銀狼が、ギルス領に居る事もしないで、
ジョウス様や、クロイスさんと親しく。特に、クロイスさんといつも一緒に居て、仲睦まじくしているのをジョウス様が許しているのだから。少なくとも、ただの知り合いとか、そんな浅い関係では絶対にないだろうって」
「え、ええー……。そういう物なの?」
 そういう物なのだろうか。いや、でも。わかる気はする。やっぱり俺、目立ち過ぎるんだよな。そしてクロイスも負けず劣らず、目立つ。今まで俺はクロイス個人の事ばかり見ていたけれど。こうして軍の関係者としての
クロイスの顔を見ていると。そちらにも、クロイスの存在という物は大分認知されていて。それは、父親であるジョウスの存在が大きい事は明白だったけれど。そんな俺とクロイスが並んで仲良くやっているというのは、
やっぱりとてつもなく目立つ事だったんだなと思う。クロイスは俺がそういう事を好ましいと思っていないのをわかっているから、フロッセルに居る時などは、好奇の目から遠ざけていてくれたけれど。それでもやっぱり、
外ではかなり噂になっていた様だった。
「それに。いくら異世界人だからって、ゼオロみたいな銀狼を、狼族は放っておかないでしょ。それも、ジョウス様の傍に居る、なんて。沽券に関わる事だよ」
 そういう物なのかな。確かに言われてみれば、そうだという気もする。それでもガルマは、俺がクロイスと付き合っていると聞いても、笑ってくれていたけれど。
「つまり、ジョウス様と、ガルマ様。それぞれが公認しているお付き合いなんだね」
 それをヒュリカに伝えると、そんな事を言われる。なんだその豪華過ぎる保護者の二人は。特にガルマ。ただ、それは間違ってはいないのは俺にもわかる。ジョウスは、猫族の族長ではないけれど。それでもその族長にも
話が通せるくらいに、猫族の中での地位はかなりの物で。そもそもクロイスの父親で。対するガルマは、これはもうギルスの直系の、狼族の族長であるからして。文句の付けようがない存在で。確かに、これだけ俺の存在が、
カーナス台地を解放した事で知られて、その上で俺とクロイスが一緒に居る、という事は。俺が異世界人であるという事を差し引いても、ガルマに匹敵する銀を持っているのだから。少なくとも狼族の方では、見過ごせない
状態ではあるのだろうな。怨敵であるはずのスケアルガと、親しくしている俺の事は。ガルマとジョウスが、それぞれに俺とクロイスの交際、というか。親しくしている事を許しているからこそ。俺はクロイスの恋人でも居られるの
だろうな。
 そんな状態の中で、俺とクロイスは一緒に居るのだから。確かに外から見て、それはただならぬ関係である事を疑うなという方が、無理があるだろう。納得した。
「だからさ。僕、ゼオロと一緒に寝ても、いいのかなって」
 なるほど。ヒュリカは、俺とクロイスの仲を知って。それで、遠慮しているのか。確かにクロイスからしたら、面白くない事、なんだろうか。
「良いんじゃないの? 友達なんだし」
「……ゼオロ。僕が、ゼオロの事好きなの、忘れてるでしょ」
「そうだったっけ」
「酷いな」
 ヒュリカが身動ぎをしてから、身体を起こす。そうすると、俺よりも大きくなってしまったその姿が、露わになる。横になって、頭を並べていると。背の高さなんて、どうでもよくなるのにな。いや、手足も大分ヒュリカの方が
長くなったから、手を伸ばされると。ああ、俺小さいなってわかってしまうけど。そんな事より、そうして起き上がったヒュリカは。淡い光に、白い羽毛に覆われた身体が照らされて。なんというか、とても神秘的に見える。それは、
俺も変わらないけれど。ヒュリカが白で、俺は銀で。どちらも淡い光の中に居る今は、他人から見れば。さぞ目を引くのだろうな。
 白い羽毛と。広がる翼をぼんやりと見上げた。俺は少しの間、リュースが口にした、白き使者の事を思い出す。黒き使者と、白き使者が居て。黒き使者と思われるヤシュバは、あんなに真っ黒なのだから。それの対となる
白き使者は、白いのだろうとか。なんかそんな、安直な話を。その線で行くと、俺の知る限りで一番それに近いのは、ヒュリカなんだよな。だからといって、俺はヒュリカが白き使者だなんて思わないけれど。俺の知る中で、
ヤシュバとの接点が無い人物として上位に食い込むだろうし。そんな事を考えていると、ヒュリカが横になっている俺に馬乗りに。といっても、身長差を考慮してか。俺に体重を預ける事はしないけれど。襲うのにも
相手に気を遣わないといけないとか、身長差って罪深いな。
「ミサナトでも。こんな事、してたよね。もう、忘れちゃった?」
「忘れた訳じゃ、ないけれど」
「じゃあ。誘ってるの?」
「そういう訳じゃ、ないけれど」
「……狡いね。本当に。今のゼオロって、なんだか結構、手強そう」
 それ、最近クロイスにもよく言われてる。出会った頃は言われなかったのに。なんでだろう。
「ゼオロが。この世界の事を、考えているからじゃない? 出会った頃のゼオロは。何を考えているのか、わからないなって。そう思う事も多かったから。今思えば、異世界人だから。前の世界の事を考えていたのだろうけれど」
 確かに。何かある度に、前の世界とは違うんだなとか、そんな事を考えている俺は、あらぬ方向を見つめて物思いに耽っているのだから。何かととっつきにくい印象を相手に与えていたのかも知れなかった。今はもう、
ほとんど思い返す事もなく。こうしてラヴーワとランデュスの行く末や、狼族の状態に頭を悩ませたりしているのだから。確かに今の俺の方が、何を考えているのかはわかりやすいのかも知れない。
「ゼオロに、余裕ができて。目の前の事をじっくりと見ると。なんとなく、手強いなって。そう思うな」
「そうかな。別に、今の私に何ができる訳でもないけれど。まあ、悲鳴を上げたら。狼族の兵が飛び込んできて、そのままヒュリカの事を滅多刺しにしてしまいそうで。そっちの方が、心配かな」
「そういう所が、手強いと思うんだけどな」
 例え今、どんな形でヒュリカが俺より優位に立とうとしても。流石に場所が悪いとしか言いようが無かった。ここは後方の、狼族だけの陣営で。しかもほとんど俺を守るためだけに、彼らはここにきているのだから。寧ろそんな
場所で、こんな事しようとするヒュリカも大概なのではないかと思ってしまう。俺にできるのは、悲鳴を上げたりしない事だった。悲鳴を上げたら最後、確実にあの黒い被毛の狼将軍が、血相変えて。多分武器は抜いたまま
駆けつけてくるだろうし。例え声を出さないであれやこれやと済ませても、この陣営からそんな簡単に逃げ出せる物じゃなかった。ヒュリカには空という逃げ道があるけれど、あの将軍なら万が一を考えて、弓兵や魔法使い
くらいは控えさせてそうだし。それこそ、アララブの様な。その場から掻き消えてしまうくらいの魔法が使えないと、難しいと思う。
「ヒュリカも、それくらいわかってるんでしょ」
「そうだね。……はあ。せっかく、ゼオロの事が気になってここまで来たのに。駄目だな、僕」
「ヒュリカなら、他にいくらでも良い人いると思うけど」
「それ、傷つくからやめて。ゼオロって、そういう所。鈍感だよね。僕は、ゼオロが良いから、こうしているのに」
「そんなに、私大層な事をヒュリカにしたのかな」
「してくれたよ。僕の事、助けてくれたでしょ。それも、二回」
「私が助けなくても、なんとかなったんじゃないかって。そう思うのは、いけない事かな」
「ううん。でも、僕は知ってるから。少なくとも一回目、ミサナトの時は。あの時ゼオロが来てくれなかったら、僕はどうなってしまったのか、わからなかったから。それぐらい、酷い事、されてたから」
 そうだったのか。そういえば、ファンネスも確か言ってたな。薬物の反応が出たって。俺を見下ろすヒュリカは、その時の事を思い出しているのか。苦々しい表情を隠しもせずに。とても辛そうに、その事を語っていた。そういえば、
身体はもう大丈夫なのかな。少なくとも今のヒュリカは、薬物だのに依存している様な感じには見えないけれど。至って健康的だし。いや、そもそも禁断症状みたいなのが出ていたら。遺族門の一件で保護した時に報告
されていただろうから。それはもう気にする必要は無いのかも知れない。
「ねえ、ゼオロ。……リュースは、どんな感じの方だったの?」
 少しの間を置いてから、不意にヒュリカが話題を変える。リュースの名前を口にした瞬間、ヒュリカの背にある翼が、少しだけ広がって。表情は変わらないけれど。ヒュリカの内心が荒れている事を俺に教えてくれる。
「どんな感じって?」
「なんでも、いい。ゼオロが見て、どう感じたのか。知りたい」
 そう言われて。俺は少しだけ、言葉を詰まらせる。ヒュリカにとっての、リュース。それは、翼族の谷を壊滅に陥れた張本人と言っても、過言ではなかった。実際には、リュースは更に上の、ヤシュバや竜神の命もあって
そうしただけで、しかも発動させた魔法も、竜神の物であるのだから。ただ遣わされてそれを行ったというだけではあったけれど。でも、ヒュリカにとっては。実の父であるヴィフィルをそれで失ってしまった息子にとっては、
どうでもいい事で。ヒュリカにとって、リュースは親の敵だから。だから、今。俺にそれを訊いているのだろうな。そんなリュースと、俺は力を合わせてカーナス台地を解放したのだから。
 できればリュースがカーナス台地に関わっている事は、極秘にしておきたかったけれど、それは無理な話だった。ガーデルが大々的にリュースを捕虜にした事を喧伝して、爬族と少数部族がラヴーワに加わる際に
箔を付けた関係で、リュースが捕虜となっている事は誰もが知るところであったし。そのリュースをカーナス台地の解放に協力させた事で、逃がしてしまったのも、また発表しない訳にはゆかなかった。そうでなければ、
ただリュースを捕まえたというのに、みすみす逃がしてしまったという事になるのだから。カーナス台地の解放という、ラヴーワ側にとっては決して小さくはない成果を喧伝する事で。ジョウスはその批判の声を
抑え込んだのだった。実際こうして、それまでは何かと理由をつけて協力を渋っていた狼族が、ガルマの声の下、きちんと加勢に加わり。また俺が居る事で士気も上がっているのだから。もはや誰も文句は言えない
だろう。とうのリュースはランデュスに戻っても、失脚したとして。結局筆頭補佐の座に戻る事もないみたいだし。元気にしてるだろうか。
「……私には、優しい人だったよ」
 それは、それとして。ヒュリカの問いに、俺は答える。無難な言い方かも知れないけれど。それでも、事実を口にする。リュースは、正直なところ俺には驚くくらいに優しかった。それは、俺がヤシュバと同じ異世界人であり、
ヤシュバが求める相手だったから、なのだろうけれど。それでもカーナスに赴く馬車の中で、リュースは何かと俺に優しく、また丁寧に扱ってくれたし。俺の左腕だって、リュースは治してくれた。あれから、もう左腕は初めて
この世界に現れた時のそれと同じく、なんの違和感もなく機能する様になって。その点では、俺はリュースにとても感謝している。一生、上手く力が入らないままなのかな、なんて思っていたのだから、それは当然の事で。そして
肝心のカーナス台地においても。挫けそうな俺を懸命に支えて、また守ろうとしてくれた。ヤシュバが飛来した時でさえ、咄嗟に竜神の魔法を口にしたのは、リュースだったし。それは或いは、リュースの策略だったのかも
しれないけれど。それでも、その場で発動して。こちらに。それからクロイスに、多大な影響を与える事もできたはずだから。そうして、さっさと助かる道もあったにも関わらず。自分ではなく、俺の方をヤシュバに連れる様に
口にしたりと。それは俺からすれば迷惑だけど。少なくとも自分のため、という思いを、リュースはほとんど抱く事なく。ただヤシュバの事を考えて。それから、俺の事を支えて。だから、そんなリュースを。俺は、優しい人
だと。そう思ってしまったのだった。ヒュリカに、翼族に、とてつもない被害を齎した人物であると、そんな事はわかっていたというのに。
「えっと……ヤシュバも、異世界人で。だから、リュースは。事情を知ってるって事だよね」
「うん。そうじゃないと、私に優しくはしなかったと思うけれど。竜族なんだし」
 苛烈なリュース、というものも少しだけ見てみたかった気がするけれど。俺の前だと、絶対にそういう顔は見せなかったし。クロイスが言ったり、ジョウスがなんとなく嫌そうな気配を滲ませたり、ガーデルの言を聞くに、相当
捻くれた印象を受けていたけれど。俺が直にあったリュースは、やっぱりそういうのとは到底結びつかない様な人物だった。
「なんだか、辛いな。全部が全部、嫌な人だったら。思い切り、憎めたのに」
「ヒュリカ」
「……そんな訳、ないのにね。そうだったら、良かったのにな。でも、リュースはゼオロと一緒に、カーナス台地を解放してくれたんだよね」
 少しだけ広がった翼が段々と閉じて。そのまま、俺を包むかの様に降ってくる。けれど、その内にヒュリカはまた俺の隣に戻ると、ふう、と大きく溜め息を吐いた。言わんとしているのは、俺にもわかる事だった。自分に対して、
厳しい顔をしたり。嫌味を言ってきたりする人が居て。その人が他の人に対しては別の顔を見せていると。なんとなく、こう。もやもやするっていうか。ちょっと違うだろうけれど。ヒュリカの場合とは。
「父さんの敵だって。そう思っていたけれど。なんだかな」
「……復讐、したいの?」
「わかんない。そんなのする暇ないくらい、今忙しいし。あと本人が目の前に居たとして、僕だとまず勝てないし」
 悲しいくらいに、竜族とそれ以外では戦闘能力という物には差がある。俺はそれを、最近ようやくわかってきたけれど。元々この世界に住む人にとっては、それはとても、当たり前の事なんだろうな。
「そういえば。ゼオロって、本当は狼族じゃないって言ってたけれど。それじゃ、元はもっと、別の姿をしていたんだよね」
 また、話題が変わる。それはまるで、ヒュリカの内心を映しているかの様だった。千々に乱れて。けれど、言葉は止められなくて。だから俺は、変わった話題を無理矢理戻す事もなく、静かに頷く。
「どんな感じだったのかな」
「うーん……。冴えない感じだったと思うけど。少なくとも、今の姿と比べると酷いね」
「その、そんなに? あ、ごめん。言い方、悪いよね」
 いや、寧ろ正しいのでいいんだけど。なんというか、今の、銀狼の姿にも随分慣れてしまったけれど。元の人間の身体を今更振り返ると、苦笑いしか出てこないな。ただ、銀狼の姿に慣れ切ったからか。前の自分の顔は、
あんまり思い出せない気がする。元々、自分の顔好きじゃなくて。毎朝鏡の前でも、ちょっと見るだけで。あとは寝癖が大丈夫かどうかとか。髪の方を気にするのが精々だったから。そして不摂生が祟って、またストレスにも
晒されまくった社会生活を送っていたせいで、いい加減に年齢では誤魔化せない程にだらしがない体型になりかけていたし。
「全然想像できない」
 それを伝えると、苦笑いをしたヒュリカにそう言われる。俺もそう思う。今の俺は、身体は細いし、余分な肉なんて物はどこにも付いていない状態だから。お腹触ってもむにってしない。ぺたってする。
「もし、前の姿のままだったら。誰かから好かれてる自信は無いな」
「そうかな。ゼオロが、ゼオロのままなら。僕は、大丈夫だと思うけれど」
「安心して。もし、前の姿のままだったら。多分私、ヒュリカの事助けられなかったと思うから」
 もし俺が元の姿のままこの世界に現れたら、という唐突に脳内で行われたシミュレーションは。足が遅いからヒュリカの下へは辿り着けそうにないな、という辺りで無事終了を迎えた。うん、無理。走るのなんて十分でも
ごめんだし。今の身体なら、一時間くらい余裕でいけるんじゃないかってくらい、旅を繰り返して体力も付いてきたし、元々が健脚の狼族だからな。身体はとても軽いから、走る事も楽しいくらいだ。なんだかそれだけでも、
今の身体になって良かったなって思ってしまう。運動が楽しいとか頭おかしいなって思ってた俺も、身体を動かすのが気持ち良いと思える様になりました。なって良かった狼族。というか、そもそもヒュリカを捜すために、
カルファの実の臭いを辿る事すら人間のままの俺には不可能な訳だけど。まず捜すところからすら始まらないとは。
「それに、前の世界だと、今みたいに好かれた事無かったし」
「そんな状態でも。その、ヤシュバの中の人は、ゼオロの事好きになってくれたんだね」
「……うん」
 中の人って言い方はどうなのかと思ったけれど。まあ、中の人だなと思ったので。突っ込まずに、俺は少しだけ目を細める。本当に、タカヤはなんで俺なんか好きになってしまったんだろうな。好きにならなければ、
こんな世界に現れて。今、あんな風になる事もなかっただろうに。俺が居なくても、いくらでも。誰とでも、上手くやれそうなのにな。
 次に会う事があったら。もう少しだけ、その辺りの話をしてみたいな。次に会う機会が、あるのかはわからないけれど。
「ヤシュバの事は、僕は嫌いだけど。でも、そんな風に行動できるのは、ちょっと羨ましいな。僕も頑張ってみようかな」
「頑張ったら外の兵が来るけどね」
 ヒュリカがちょっと手を伸ばしたので、俺はすかさず釘を刺す。そうすると、その腕が止まって。お互いに目を合わせてから、そのまま笑い出してしまう。
 一頻り笑ってから。いい加減に寝ようという事になって。投げ出された俺の手に、ヒュリカの手が重なる。そこから、じんわりと熱が伝わってくる。
「明日は、クロイスさんにも会おうかな。会えるか、わからないけれど」
「なら、私から話を通すよ。ヒュリカの立場なら、会えない事はないと思うけれど」
「不思議だね。あの時、ミサナトに居た僕達が。今はこんな所に居るなんて。まだ、こんなに若いのに」
「そうだね」
 クロイスは、俺達よりもいくらか年上だから省くとしても。俺とヒュリカが、こんな戦場に居る、というのは。やっぱり変な感じがしてしまうなと思う。それでもお互いに、ここに立っている事に意味があるのだけど。
「どうなるかわからないね。一生って」
「ゼオロが言うと、説得力があるね」
 説得力あり過ぎて困るわ。そう思いながら、俺は徐々に眠りに落ちて。最後に少しだけ、ヒュリカの手を強く握った。

 翌朝。俺が欠伸をしながら天幕の外に出ると。すぐさま飛んできた狼将軍に何も無かったよと何度も何度も説明をして、安心させてからヒュリカを天幕の中から手招きして。ようやくヒュリカを解放してあげられる。おかしいな、
泊まっただけなのに。
「ゼオロ様は、ご自分が今どの様なお立場であらせられるのか。よくよくお考えになられるべきでございますよ」
 拗ねた俺に、将軍が苦笑しながらの言葉をくれる。いつの間に俺はそんなに要人になってしまったのだろうか。いや、今俺の目の前に広がっている、ほとんど狼族の兵で構成させた陣は。全て俺のためだけに存在しているの
だから。それは要人の扱いという物に、確かに差し支えないけれど。とはいえ、戦う訳ではないのだしな。人数も、それ程多いという訳ではない。数百人といったところで、ぶつかり合う軍としては、少々心許無い数字だろう。
しかも運んでいる物資は、俺が不便な生活を送らぬ様にと。どちらかと言えば戦場に無縁な物も多い。これでも、控えめだそうだけど。ガルマは、ファウナックでの俺の、豪奢を嫌う暮らし振りを知っているそうだから。
「本当に、何をしにきたのか。わからないねこれでは」
「その様な事は。確かにこちらは、そのう。ゼオロ様をお守りする事を第一とした物でございますから。華々しい戦果をゼオロ様に捧げる事も叶いませんが。しかし別の狼族の部隊は、ゼオロ様が居てこそでございますよ。
カーナス台地を解放されたゼオロ様のご活躍は、それ程までに狼族にとっては衝撃的な物だったのでございますから。ですから、その様にご自分のなされ様を笑う必要はございません」
 熱く、狼将軍が語ってくれる。その後ろに控えていた小姓や、衛兵も。頷いて。それからうっとりとした視線を俺へとくれる。ファウナックでもそうだったけれど。この目は、ちょっと苦手だなと思う。悪気が無いのをわかって
いるから仕方ないけれど。それにしても、実際にこうして銀狼という立場でもって、この様な戦場にまで出てくると。本当にその存在の重大さ。そして、力を俺は思い知る事になる。他でもない、俺がそれを今行使している
というのに。誰もが俺の存在を、決して否定しない。否定する様な事を口にはしない。碌に戦えもしない餓鬼が何をしにきたとか。そういう事を言う方が、寧ろ正常な反応だろうに。俺は異世界人であるのだから、本質的には、
彼らが妄信する銀狼足り得ないはずなのに。その穴は、俺がカーナス台地を解放したという事実で埋められてしまったかの様だった。確かにそれで、俺は狼族の族長にはふさわしからぬ身の上にはなったけれど。ただそれば、
族長にはふさわしくないというだけであって。寧ろ、文字通り奇跡が起きた様にふらりと現れた俺が、ガルマと。そして、グンサ。二人の、真の銀狼からの支持を受けてしまった事も相まって。その二人とはまた別の、異質な力を
秘めた何かへと昇華されてしまった様だった。その上、ガルマは体調が芳しくないから、戦場には立てずに。グンサは既に死んでいるのだから。族長でなくとも、真の銀を持ち。ラヴーワの危機に颯爽と戦場に現れる事が
できるのは俺だけ、などという話が最近では飛び交っている。後ろに居るだけ、であったとしてもだ。それで狼族の兵が百人力になるのだから、構わないのかも知れないけれど。多分、ジョウスは今頃苦笑しているだろうな。
狼族の働き振りと、そうして、やはり銀狼に力と信仰が集まり過ぎているのは不味いと思って。ただ、それは一時的な物に俺には思えた。結局は次期族長はクラントゥースに。つまりは、遠縁の銀狼に決まる運びだから。時が
経てば。真の銀を求める声も次第に沈静化してゆくだろう。ただ、ガルマの様子を見にファウナックに戻る時期は、よく考えないといけないなと思う。少なくとも戦が、こういってはなんだけど、一段落するまでは、戻れない
だろうな。戦場に立っていられる銀狼が俺だけだから、俺を支持する声は高くとも。カーナス台地が呪われる切っ掛けとなったのもまた、グンサを戦場に赴かせた事に寄る物なのだから。今下手にファウナックの地を踏む事は、
今度こそ本当にありとあらゆる手を使って、俺を引き留めようとする者も出るかも知れなかった。その上で、クランの立場も微妙な物になってしまうだろうし。狼将軍にしたって、そうだ。ガルマに対する物と、変わらぬ忠誠を
俺に誓うと、そう言って。しかしその口から、クランの名などは一度たりとも出てくる事はなかったのだった。俺が族長になる事を嫌がっているから、察してそれを口にしないのかも知れないけれど。やっぱりクランの苦労は、
これからも続きそうだった。支えてあげたいけれど。俺が近くに行く事が一番邪魔をしてしまう。遠くから応援するしかなさそうだった。
 それはそうと、俺は早速狼将軍に、ヒュリカがクロイスに会いたがっている旨を伝える。異世界人だという事が知れ渡った今、こういう話は非常に通しやすくて助かる。クロイスとヒュリカ。二人とも、俺がミサナトの街に
現れた時に、それぞれ知り合った存在だと言えば。俺が他種族との関係を持っているのは当然だという事にもなるし。しかもクロイスと付き合っている事も今は知られてしまっているし。そのせいでクロイスの評判は、割と
極端な物になっているそうだけど。まあ、ぜひともファウナックに迎えたいと思われる俺が、クロイスと一緒に居るというのは。やっぱりまだまだ、周りからは難しい顔をされてしまう物なのだろうな。
「畏まりました。すぐにクロイス殿の下へと、使いを出しましょう」
 狼将軍が丁寧に一礼してから、狼族の兵を数人呼び出して。その命を受けた彼らが、馬に飛び乗って駆け去ってゆく。
「あとは、少し待てばいいかな」
 ヒュリカには翼があるのだから、そのまま飛んでクロイスの居る場所まで行きたいだろうけれど。そんな事したら、下手したら撃ち落とされかねないので、大人しくヒュリカには待ってもらう事になる。竜族の、空兵への警戒は、
竜族と対する際に最優先事項としていつも存在しているという。竜族と向かい合って陣を敷いたならば、夜は特に歩哨の傍には篝火を置いて。それでも、空を照らす事はできないというから。その度に土塁や望楼の類を
簡易的にでも設営して。そこから魔導の光によって、なるたけ歩哨の目に空をも見渡せる様にするのが定石なんだとか。確かに、その気になれば司令官の居る様な場所に、空兵は特攻を仕掛けて。あっという間に首を取って、
戦を、戦ではないものへと変えてしまうのだから末恐ろしい物だった。しかもその手段は、相手だけが使えるのだから。翼族の兵が増員されても、相変わらずその数は心許無く。だから偵察に使っている以上、こちら側から
同様の手段を取る事はできなかった。それこそ、魔道士と呼ばれる様な。姿を現しては、消す事も容易にやり遂げてしまう様な存在でない限りは。そしてそんな人材は、そうそう転がっていないし。また転がっていても、
俗世間の事なんてと。まるで相手にされない事がほとんどだという。そう考えると、俺の前にたまに現れるアララブは。まだ世間の事に関心を持ってくれているんだなって思う。直接的には、何も手伝う事はないけれど。
 クロイスへ出した使いの返事を待つ間、俺はヒュリカと、少しだけ陣の外へと出て。とはいっても、俺にはかなり護衛が付いていたけれど。少しだけ、遠巻きにしてもらって。それから、ヒュリカと二人で、カーナス台地を遠くに
見つめた。
「あそこが、カーナス台地か」
「ヒュリカは、見るのは初めて?」
「うん。翼族の谷でもね、決して、カーナス台地には近づかない様にって。もっと小さい頃から、言われてたよ。空を飛んでいても、カーナスの。狼族の呪いからは、決して逃れられないから。その上を飛ぶ事も、しては
ならないって」
「あの呪い、結界にまでぶつかってたしね」
「そうなの?」
「うん。近くに行った時に、リュースさんとも話したけど。でも、あんなに恐ろしい呪いでも。結界は弾いてしまってるんだって」
 俺達の見つめる先にあるカーナスは、今は静かな姿を。少なくとも遠目からでは保っていた。ただ、そこへ至る道にはラヴーワ軍が埋め尽くしているし。その人の塀の先には、これまた今はカーナス台地を押さえた竜族が
陣を敷いている事だろう。それでも、カーナス台地の高台。あの時、俺が立って。狼族の呪いを解放したあの場所は、静かだった。時折、空を飛ぶ竜族の空兵が優雅にその周辺を飛び回っているくらいで。ここから
見た限りでは、その高台の上などには、何も見えたりはしない。やっぱり竜族であっても、あの場所は避けたいのだろうな。ラヴーワが避けているから、先手を打つ意味でも、カーナスを取ったのだろうけれど。場所を譲る
形となってしまったけれど、それはこちらとしても、悪くはない選択ではあった。数十年前の当時であったのならば、あそこは涙の跡地の丁度中央に位置していて。そこを占める事には相応の意味と価値があったそうだし、
だからこそ当時のグンサ達もどうにかその場に留まろうとしたけれど、こうして呪われた地としての名を欲しいままにした今となっては、状況もまた変わっていた。特に、今俺を守っている狼族などは、他の八族よりももっと露骨に、
あのカーナス台地を見上げては顔を顰めたり。また、俯いて静かに涙を流す者も居た。この場の狼族を預かる狼将軍然り。ここに居るのは、俺がカーナス台地を解放した事で、俺を慕って集まってくれた狼族ばかり
だから。狼将軍の様に、実の父親があの地で亡くなって。それを無念に思った息子がすくすくと育って、今に至る事もあれば。家族や、友人や。もしかしたら、恋人や。何かしら、関係のある人物があの地で呪いによって
変わり果てた人が多くて。そんな彼らに、カーナス台地に立って。その場で弔うというのならまだしも。戦えと命じる訳にはいかなかったから。狼族以外にとっても、今のカーナスは決して不用意に足を踏み入れたい場ではないし。
「本当に。ここから見ていると、何事も無いみたいに見えるんだね。ゼオロが向かった時は、凄かったんでしょ?」
「うん。数歩先しか、暗くて、見えなくて。黒い靄に、あの場所の全部が覆われててね。呪いに受け入れられない者が、それに触れると。死んでしまうって」
「……よく、そんなの解放できたね」
「私もそう思う」
 今更だけど、よくあれ解放できたなって思う。ただ、あの高台に辿り着いただけな気がする。その、辿り着くという事すら。大抵の者には、できないのだろうけれど。精々が、リュースくらいの物なのだろうか。
 それからしばらくの間、ヒュリカと二人でカーナス台地を見つめ続けていると。その内に、クロイスの下へと出した使いの兵が戻ってくる。だけど、その報告を受けた狼将軍は、少し顔を顰めてから。やがては俺の前へと
やってきて、その場に跪く。
「お待たせいたしました、ゼオロ様。ヒュリカ・ヌバ様とお会いになると、クロイス殿が」
「ありがとうございます。それじゃ、ヒュリカ。準備して、一緒に」
「……その事なのですが、ゼオロ様」
「え?」
 突然、言葉を遮られて。俺はヒュリカに向けかけていた視線を、狼将軍へと戻す。将軍は、とてもとても申し訳なさそうな顔をして。それから耳まで下げて。俺よりずっと体格が良いし、黒い被毛に覆われたその姿はとても
勇ましくて、恰好良いというのに。耳を下げているものだから、なんだか情けない姿に見えてしまう。俺の事でそこまで露骨に態度が変わらなくてもいいと思うのだけど。
「申し訳ございません。クロイス殿から、直々のお言葉として。ゼオロ様はお連れせぬ様にとの事でございまして」
「クロイスが?」
「竜族との衝突が更に激しくなり、御身を案じた物と思われます。どうか、ヒュリカ様だけをと。失礼ながら、私も同意見でございます。よろしいでしょうか」
 そう言われて、俺は少し考え込む。前線に来てはいけない。まあ、言いたい事はわかる。けれど、少し前までは、そんな事は言われなかったのにな。クロイスとも、時折会う事はできているし。それだけ、前線の戦闘が激化
しているのだろうか。ただ、朝の報告からして、そういう気配は感じない。まだまだ小競り合いの態であるし、竜族だって、カーナス台地に拠っても、荒れ果てたその道を整えたりしているそうだし。また、その地に現れたという
筆頭魔剣士のヤシュバも今は沈黙を守っているそうだし。まあ、タカヤだしな。軍を率いて突撃する、なんて芸当の経験が無い事は、当然俺も知っている。攻めあぐねているのかも知れない。だから、今俺が来る事を禁じる、
というのは少しだけ、疑問に感じる事でもあった。とはいえ、それ程不思議に思う訳でもないけれど。寧ろ、今俺の目の前に居る将軍を含めて。周りの狼族が、気安く俺が前線に、そしてクロイスに会いに行く事を不安に思う
から。そちらに配慮しての言葉の様にも思えるし。
「せっかく、三人で話したいと思ったのに。それは、どうしても?」
「何があろうと。銀狼のゼオロだけは、通してはならぬと。その様に」
「……そう。仕方ないね。ヒュリカ、一人でも大丈夫?」
「僕なら、大丈夫だよ」
 正直なところ、ヒュリカは良くて俺は駄目だという事には、ちょっと納得できない部分もあるけれど。俺は渋々とヒュリカを送り出す事になる。まあ、ヒュリカは俺よりはまだ戦えるだろう。実際にどれくらい戦えるのかは、
わからないけれど。そもそもヒュリカだって、本来なら族長の役目なんて物とは無関係で、ミサナトに、スケアルガ学園に留学に来る様な人物なんだよな。それが、父のヴィフィルと。そして上の兄が全員、竜神の魔法に
倒れたから、仕方なく繰り上げで今は務めているだけであって。そんなヒュリカだから、戦う事はまだまだ得意じゃないと思うので。もし前線が本当に危険なら、俺は行ってほしくないなと。そう告げる。
「平気だよ。勿論、危険な時はすぐに戻るし。僕は後方で支援していた方が適任だろうしね。……ただ、どうもゼオロを妙に近づけたくないみたいだから。ちょっと、それも探ってみるよ」
「……ありがとう。気を付けてね」
 俺から何かを言う事もなく、ヒュリカは俺の心情を酌んで、そんな事を言ってくれる。ここは好意に甘えて、頼んでみようか。危なくなったら、すぐに戻ってくるというし。それにヒュリカの立場を考えれば、危険な場であっても、
最優先で守られるべき存在なのだから。今ヒュリカに何かがあっては、翼族との橋渡しとなる役目を担う者が欠けてしまう。特にヒュリカは、先の留学の件でジョウスなどとも顔見知りの関係であるからして、まさに翼族と
ラヴーワを結ぶのには適任と言えるだろうし。今はもう、翼族もほとんどラヴーワに寄ったとみてもいいけれど。それでもまだまだ、今後があるのだから。それを考慮すれば、クロイスもヒュリカの事は守ってくれるはずだから。
「戦況は、不利なのでしょうか?」
「いいえ。特に苦戦している、などとは、報告は受けておりませんが」
 案内されて、クロイスの居る前線へと向かったヒュリカを見送った俺は、仕方なく狼将軍との会話へと興ずる。とはいえ、物凄い堅物だから。到底冗談なんて言えないけれど。今も俺が床几に座っている横で、まっすぐに
姿勢を正したまま。どの様な事態が起きてもそれに備えられる様にと、峻厳な軍人の顔を崩しもしなかった。その上で、俺が何か言えば。即座にそれに明確な返答をしてくれる。できる男である。流石に狼族の将軍だけは
あるのだろうな。見た目は、まだまだ若いのに。
「……クロイスが、危険な目に遭わないといいのですけれど」
「ご心配には及びますまい。クロイス殿はクロイス殿で、あちらの将軍にしっかりと守っていただいておられるはず」
「そうですね」
 クロイスの現在の立場は、参謀に近い。後方で、全体に目を光らせているジョウスの意向を第一として。その上で、現場では実質的に指揮権を握る人物に、あれやこれやと献策をする。長く父であり、軍師でもあるジョウスの
言葉を聞いているクロイスには、まさに打ってつけの役所だろう。ただ、相手は虎族の将軍だし、まだまだクロイスが若輩である事。それから、獅族門の軍令違反に近い行動などを考慮して。参謀としてもそれ程重要視はされて
いないし、また当然手兵なども預かってはいない。有体に言ってしまえば。あちらはあちらで、場数を踏ませたいというジョウスの意向を受けて、前線に預けられている状態と言えた。よし、俺と変わらないな。そういう所から
考えて。やっぱり俺とクロイスは、まだまだ子供扱いなんだなと思う。実際そうだし、また大役などを任されても、それを全うできるとも思えないけれど。本当に、もう数年だけ、俺が来るのが遅ければと思わざるを得ない気も
してしまう。そうすればクロイスは、少なくとももう少しはきちんとした場に立っていたのかも知れないから。
「ところで。その、訊こうか迷っていたのですが。ガルマ様のご様子は、如何でしたか?」
「私が出発する際には、起き上がられて。出陣する兵を見送りになられておりましたよ。以前よりは、気力が戻られたご様子で。やはり、ゼオロ様の存在という物は、ガルマ様には大きな物となっているので
ございますねぇ。私は、詳しくは存じておりませんが。そのう、ゼオロ様は以前は、族長候補として。ガルマ様のお住まいになられる内郭で、共にお暮しになられた事もあるのでございますよね?」
「はい。あの時は、私はまだ異世界人である事は、隠していて。申し訳ない事をしてしまいました」
「なんの。例え、その様な身の上であろうと。ゼオロ様は、ゼオロ様でございますよ。できる事なら、カーナスで散った、私の父にも。ゼオロ様を見ていただきたかった」
「えっと。狼族は、とても誇り高いですから。私の様な、異世界人で。それでいて、たまたま銀狼になっただけの様な者は、好かないかと。そう思っていたのですが」
 実際、俺の耳には入らないだけで。そういう意見はあるだろうなと思って、俺はそれを口にする。特に最初の、族長候補の件などはそうだった。ガルマを謀ったと言われても、不思議ではないし。そうしてグンサの事も
謀ったのではとも。とはいえカーナス台地を解放した事実が、その声を退けてはいたけれど。それを聞いた狼将軍は、笑みを浮かべてから、首を振る。
「確かに、その様な意見もないとは言い切れませんが。しかしあなた様は、我が父の魂をも、救ってくださいました。私にはそれだけで、充分でございます。例えゼオロ様が、何者であろうと。瑣末な事です。勿論、狼族の
族長となられるからにはその辺りの事は無視できませんが。しかしそれと切り離して考えれば。ゼオロ様は、もっと正直に、その正体を口にされても良かったと思いますよ。少なくとも、異世界人に対する処遇がどうこう、
という様な。要は魔導の領域に対する、面倒な取り決めというのは。大抵がスケアルガや、それと並び立つ様な、魔導に没頭する者達の決め事であって。狼族にとっては、さまで気にする事ではありません故」
 力強く、言葉を吐き出して。俺の存在を肯定してくれる。そういえば、リュースもそんな事を言っていた気がする。魔法使いの首輪とか、そういう物も。狼族にとっては頓着するに値しない物であると。どこで怯えて、
どこで安心していいのかもわからなかった俺だから。あの時は、ギルス領をさっさと出てしまったけれど。それに、ハゼンの事もあったし。
「ありがとうございます」
「いいえ。当然の事です。どうか、自信を持ってください。あなた様が成し遂げた偉業とは、こんな事では到底、返しきれぬ物なのでございますから」
 黒い狼が、やわらかく微笑む。見た目は厳ついし、よく見ると生傷も多いから、迫力も凄いけれど。そうされると、その威厳はどこかへと行ってしまう。それから俺はまた、なんとなくハゼンを思い出して。なんというか、こういう
恭しく振る舞う態度というのは、狼族特有の物なのかなと思ってしまう。犬族の様に朗らかさが滲む事もなく、ただ自分の認めた相手にだけは、厳めしい顔も一時は鳴りを潜めて。思わず目を奪われてしまう様な微笑み方を
するものだから。狼族の、そういう所は好きなんだけどな。裏返せばそれは、妄信が過ぎる事を意味するのかも知れないけれど。銀狼に対してはやっぱりそれが行き過ぎているし。
 とはいえ、邪険にされるよりはずっと良い。二人でたわい無い話をしながら、ヒュリカの帰りを待っていると。その内に、遠くが少しざわついて。そうなると、また厳しい顔に将軍は戻って、俺に様子を見てくると言い、速足で
行ってしまう。程無くして、案内されて戻ってきたのは。ヒュリカと。そして、それと並ぶ様に歩いてきた、クロイスだった。クロイスは俺を少し呆れた様な目で見ていて。そして、その隣に居るヒュリカは、苦笑しながら俺を
見ていて。それで大体察する。これはあれだな。様子を見に行かせたのが、知られてしまったな。
「ゼオロ殿においては、ご機嫌麗しく存じます。翼族の族長であらせられるヒュリカ様を、斯様にお使いになられるとは」
 開口一番に、クロイスからとんでもない皮肉が飛んできて、俺は思わず笑ってしまう。周りの狼族が僅かにざわつく。とはいえ、実際のところは恋人同士であるというのはいい加減に広まっているから、それ程の騒ぎ
という訳ではないけれど。
「御機嫌よう、クロイス様。お使いにとは、また、なんの事でございましょうか? それにしても、クロイス様の方から、態々ご足労させてしまうだなんて。申してくだされば、私の方から、伺いましたのに」
 とりあえず乗ってみる。よし、正面衝突だ。クロイスが、受けて立つとにこりと笑う。
「先にお伝えしました通り、ただ今前線では両軍が鎬を削る状態。到底、あなた様を危険な場所へ向かわせる訳にはゆかないのです」
「私の記憶違いでなければ。数日前は何も言わずに、私を案内していただけたと思うのですが」
「それ程までに、前線に今は余裕が無いと。そう私は言っているのですが?」
「それはそれは。斯様な戦況であるというのに、態々、前線を、抜け出して。クロイス様がこの様に後方まで参られるとは。随分と悠長な戦場も、またあったものでございますねぇ? それとも、クロイス様も手持無沙汰であると、
或いは私の様に蚊帳の外であると。そういう事なのでしょうか。それでしたら、せっかくこうしてヒュリカ様もおられる事ですから。三人で仲良く、お茶でもしましょうか。今、用意をさせますので」
 クロイスの目が、一瞬本気で俺を睨みつけてくる。と思ったけれど、その内に逸らされる。よし、勝ったな。後で絶対仕返しされるな。
「……頼むから、今は大人しくしていてほしいんだけど」
「理由くらい、聞かせてほしいな。戦況がどうこう、なんていうのは。方便なんでしょ。ここに、こうして来るって事は」
 溜め息を吐いて。それから、俺は人払いを命じる。狼将軍以外は、その場を離れて。流石に将軍は下げられないので、クロイスに促すと。溜め息を吐いたクロイスが、観念して話をしてくれる。
「ヤシュバからの、接触があったんだよ」
「……ヤシュバから?」
 そもそも接触って。そう思って詳しく訊ねてみると。なんでも先頭でぶつかり合っていた部隊が、突然に現れたヤシュバに散々に追い回されて、敗走して。そうして捕まった者に、解放する代わりにと。ヤシュバからの手紙を
渡されたそうだった。命からがら逃げ延びた兵の持ってきた手紙に記されていたのは、銀狼のゼオロと話があるから、こちらへ来る様にと。そして、カーナス台地の高台。あの狼族の呪いが始まった場所で、待って
いると。それだけが簡潔に記されていた。
「こんなの相手にする訳ないだろ?」
「……ええ。私も、クロイス殿には賛成ですね。ゼオロ様を、どうしてたったお一人で、ヤシュバなんぞに渡さなければならないのでしょうか」
 もはや隠す必要も無くなったと強気で言うクロイスに、狼将軍も同調する。顔を合わせれば仲は悪いだろうけれど。俺のためを考えてくれるのは、二人とも一緒な物だから。この時ばかりは、手に手を取り合って。ヤシュバの
手紙を散々に扱き下ろしている。気持ちはわかるけど。
「ヤシュバが、呼んでる」
「……ゼオロ。まさか、行きたいなんて言わないよね? 流石にそれは、冗談抜きで許可できないよ」
「許可なんて、とんでもない! ゼオロ様を今失っては。私は到底ファウナックに戻る事などできませんし、また狼族も再び悲しみに暮れてしまう事でしょう。ゼオロ様。どうか、その様な事は決してなさらずに」
 狼将軍は、ヤシュバの正体を知らないから。クロイスはある程度抑えながら反対をしてくれたけれど。将軍にとってはそれで充分な様だった。まあ、俺を守るために態々こんな所まで駆けつけてくれたというのに。その俺が、
敵の総大将と言っても過言ではないヤシュバの下に行くなんて。誰であろうと反対するのが当然だった。とうの俺はというと。ヤシュバの話、というのが気になってしまうけれど。丁度、もう一度だけ話ができたら。なんて、思って
いたし。しかし目の前で目を尖らせて大反対する二人を前にすると、行きたいとは言えない。いや、言ったとしても。確実に許してはもらえないだろう。
 それでも、俺の様子を流石にクロイスは敏感に感じ取った様で。その内に、俺の目の前までやってくると膝を折って、周りの目を憚らずに、抱き締めてくれる。狼将軍が、なんともいえない顔をしているのが見えた。露骨に
顰めないだけ、まだ俺とクロイスの事を認めようとしてくれているのだろうけれど。それでも忠実に、狼族の将軍をしているのだから。やっぱり中々受け入れがたい光景ではあるのだろうな。
「行くなよ。ゼオロ」
 短く、クロイスが言う。残りの気持ちは、俺を抱き締める腕に籠めて。俺は場所も弁えずに、目を細めて。されるがままに、クロイスに身を預ける。こういうところ、クロイスは凄いなって思う。相手が如何に大事で、自分が大切に
思っているのかを。いつだってまっすぐに伝えてくれるから。俺の様な。俺みたいな。俺なんかが。そう思ってしまう、俺の心も。しっかりと繋ぎ止めてくれる。これがあるから、俺はクロイスと一緒になったんだなって、そう
思った。元の身体から、この銀狼の身体になって。今の姿で、大抵の相手は惑わせるけれど。それだけで俺の傍に居る訳ではない事が、嫌ってくらいに伝わってくるから。
「わかったよ。それに、行く手段も無いしね」
「それで良い。……あと、今の煽り方は俺もちょっとむかついたから」
 後半は小声で。ちょっと拗ねた様に言って、クロイスがまたきつく抱き締めてくる。
「クロイスから仕掛けてきたんじゃない」
 そう返すと、ますますきつくなって。やばい苦しい。仕方なく俺はどうにか片手を伸ばして、クロイスの背中をぽんぽんと叩いてから、少し拘束を緩めてもらう。それから、首元に埋めていた鼻先を上げて、クロイスの耳の方に
なるたけ近づけてから、口を開ける。
「ごめんね。ちょっと、言い過ぎたよ。……後で時間が取れたら、お仕置きしていいよ」
 クロイスにだけ、聞こえる様に言うと。その毛が逆立つ。堪えきれずに、俺は笑い出してしまう。クロイスは場数を踏んだ遊び人のはずなのに、なんでかこういう攻撃には割と弱いんだよな。大慌てで俺を離したクロイスは、
なんとも言えない顔をしてから、また溜め息を吐いた。
「と、とにかく。そういう訳だから、ゼオロは前に出ない事。というか、前に来ても行かせないからな。ラヴーワ軍も、ランデュス軍も陣を敷いてる中を抜けられる訳がないけれど」
「そうだね」
「だから念のため、前線にも来ない様に。俺も、狼族も、安心できないから」
「わかったよ。それで、話は戻すけど。お茶はしていくの?」
「……しない。もう帰る。ヒュリカとは、話は済んだから」
 慌てた様子で、クロイスは帰ろうとする。大分からかい過ぎたかな。ここに来てから、狼族の兵に囲まれて。クロイスともあんまり話ができなかったから、もう少し一緒に居たかったけれど。クロイスの方はそんな必要はない、
という訳ではないみたいだけど。それでも戦場に立って、参謀の役目を果たしているからか、かなり自分を律しているみたいだった。その割にはさっき、俺を抱き締めていた時のクロイスは、抱き締めながら遠慮も無く俺の
身体を弄っていたけれど。まあ、俺も頬を擦り付けて満喫していたから、いいけど。
 その後は結局、虎族の陣営に戻るクロイスを見送ってから。再びヒュリカを迎えて。旅の疲れもあるからと、もう一日だけヒュリカを泊める事にして、俺とヒュリカはまた天幕へと戻る事になる。
「ゼオロって、あんな風にも振る舞えるんだね」
「あんな風にって?」
 天幕で二人切りになると、早速ヒュリカが嘴を開けて、しかも何故かご機嫌な様子で言うものだから、俺は少し首を傾げる。
「クロイスさんと、凄く堂々と話してたからさ。あんなゼオロ、初めて見た」
「そうだったかな」
 そういえばヒュリカの前では、こういう俺は見せてはいなかったから。言われてなるほどと俺は思う。最近は自重してるけれど、クロイスにからかわれるから。と思いいつもさっき、思い切りクロイスにかましてしまったけど。
「僕の知ってるゼオロって。気弱で大人しい方がほとんどだから、意外だな。でも、よく考えたら。それだから、僕の事、一人でも助けにこられたんだよね」
 ヒュリカが褒めちぎってくれるので、俺は何も言えずに俯く。なんだか、照れ臭い。こんなに正面切って、褒められるのって。正面切って何かを言われる時って、大抵相手は厳めしい顔をしていて。反論も何も許されない
様な状況の、嫌な思い出ばかりだから。こんな風に褒められると、どうしたらいいのかわからなくなって。だから俺は、その話題を早めに切り替えて。そうして陽が暮れると、昨日の様にベッドにヒュリカと一緒に横になって、
そのまま目を瞑ってしまったのだった。
 けれど、横になって目を瞑ると。今度は、ヤシュバの事が頭に引っ掛かってしまう。俺を呼ぶ、ヤシュバの声。話があると言って。今更、なんの話があるんだって。そう思うけれど。でも、俺もまた。話がしたいって、
そう思っていたから。
「また、眠れないの」
 必死に目を瞑って、何もかも忘れて眠ろうとする俺の耳に、ヒュリカの優しい声。薄く瞼を開けば、白い鷹が、困った様に笑って俺を見ていた。思わず俺も少し笑って。
「耳、動いてた?」
「ううん。でも、目をぎゅって、してたから」
「ヒュリカは眠らなくていいの。明日には、戻るんでしょ」
「そのつもり、だったけれど。……ねえ、ゼオロ」
 俺とヒュリカが身を寄せ合っている毛布が、僅かに上がって。そうされると、部屋の空気に晒されて、ほんの少し身震いをする。とはいえ、真冬の今であっても俺のために心地よく整えられたこの天幕の中が、寒いなんて事は
なかったけれど。そう考えると、ちょっと申し訳ない。この様にするのは当然の事、と言われて。用意された物にも、せっかく用意してくれたのだからと文句を付ける事もしなかったけれど。外ではきっと、寒さに震える
狼族の兵が居るだろうに。俺だけ、ぬくぬくとしてしまって。後方に、何かしら簡単な手伝いでもいいから。クロイスの近くに居たいと出てきた癖に。いざ出てくれば、こんな風になってしまう。駄目だな。
「ヤシュバの事、考えてたの?」
「……うん」
 ヒュリカの問いに、俺は素直に頷く。否定したって、きっと信じてはもらえないだろうから。
「会いたいの?」
「うん」
「会いに、行かなくていいの?」
「……駄目だよ。それに、行こうとしてもいけないし。迷惑になるし」
 陸路はとっくに塞がれているし。そもそも俺が歩いてこの陣から今出ていこうとしたら。まず確実に狼将軍に見咎められる。それを説得したところで、この先の前線を預かる者。クロイスを含めた人達は、決して許可は出さない
だろう。だからこそ、俺を態々遠ざけようとしていたのだし。俺が余計な勘繰りをしない様にと、クロイスは途中から作戦を変えて素直に話してくれたけれど。それでも、決して俺を行かせはしないという、決意は。はっきりと俺に
伝わってくる。それが、心地良い、なんて言ったら殴られそうだけど。大事にされている、という事実が。とても、嬉しくて。
 でも、クロイス達が反対をしているのもそうだけど。今の状況で俺がヤシュバの下に向かうのは、難しい事だった。そもそも、ヤシュバの攻撃が鈍れば、なんて言って出てきた手前だし。そんな俺が、ヤシュバの手に落ちる、
しかも呼ばれて自分から会いに行くなんて。許されるはずもない。その上で、俺が狙った様に。俺を人質にされかねない。そうなったらまず確実に、今ここに居る狼族は無力化されるし、ジョウスの下に居る狼族の方も、
どうなるかはわかったものじゃなかった。俺が居る事で、士気が上がる。散々そう言われて、褒め称えられて。それがどれ程真実なのかはわからないけれど。それでも全てが嘘ではないはずだから。その影響は、計り知れない。
「偉くなっちゃったもんね。お互いに」
「私は、偉くなったつもりはなかったんだけど」
 そのつもりはなかったけれど。しかしいい加減に、認めない訳にもいかないんだよな。それに、そうであるからして。ジョウスにはっきりと、俺には価値があるから、異世界人としてあれこれと調べるのを止めて。手元に置いて
おきたいと。そういう風にしてもらったのだから。いや、仕向けたのだから。いい加減に、自覚を持たないといけなくて。
 ただ、それでも。許されるのなら、もう一度だけ。ヤシュバに。タカヤに、会いたいって思ってしまう。とても我儘で、身勝手な事だと思う。一度は顔合わせをする事ができたのに。その時は、俺は錯乱して、とっととその場を
後にしたのだから。そんなに話がしたいのなら、あの時、互いがこれで終わりと納得するまで話をすれば良かった。そんな余裕はどこにも無かったんだというのはわかっていても。今そう思わずにはいられない。
「まあ、どちらにしても。行ける物じゃないから。ほら、もう寝よう?」
「ゼオロ」
 さっさと、また切り上げようとする。続けても仕方のない話題を。そうしようとする俺を、咎める様にヒュリカが呼んだ。瞑ろうとした目で、それを見遣れば。まっすぐ俺をヒュリカは見つめていて。
「僕が、連れていくって言ったら。どうする?」
「それは」
 そう言われて、俺は顔を顰める。
「無理だよ。ヒュリカ、前の様に飛ぶ事もできないんでしょ」
 言葉を返しながら。俺は自分を内心責める。陸が駄目なら、別の道がある。そう、思っていたから。そして俺の目の前に、それを現実の物にしてくれる人も居るんだと。でも、ヒュリカからいざそれを口にされると。それは到底
頷けない事だった。病み上がりのヒュリカは、一人で飛ぶのがやっとの状態だろう。ここまで翼族の兵を連れてきたのだから、まったく飛べない訳ではないだろうけれど。でも、少なくとも俺を抱き上げてというのは、いくら
なんでも無理がある。それに、そんな事をしたら。俺は別に良いとしても、ヒュリカの立場が無くなってしまう。そんな事、わかっているのに。期待していた自分に気づいてしまうと、途端に罪悪感が押し寄せてくる。今更だな。
「行けるはずだよ、きっと」
「駄目だよ」
「会いたくないの?」
「会いたいよ。でも。そのために、ヒュリカに頼るのは」
「他の人には、頼めないんでしょ」
 そう言われて、俺は静かに頷く。一層、ガーデルが居てくれたらいいのかな。ガーデルなら、何も言わずに俺を担ぎ上げて持っていってくれるかも知れない。ただ、そのガーデルはこの場には居なかった。ヤシュバに
付けられた傷は大分癒えて、今ガーデルは南の押さえに出ているか。または爬族のために、何かしらの行動をしているだろう。他に頼れる人も、居なかった。あるとすれば、ヒュリカが連れてきたという翼族か。または既に軍に
加わっている翼族か。しかしいずれにしても、それらに協力を仰ぎたい、なんて俺が動けば。まずその動きからして、何をしようとしているのかが知られてしまって。結局何もできはしないだろう。もしかしたらクロイスも、それは
読んでいるかも知れないし。純粋な頭の良さで勝負すると、俺はクロイスには逆立ちしても勝つのは難しい。クロイスは俺が相手だと、つい手を抜いたりしてくれるけれど。さっきの様子を見るに、今それは到底期待できそうに
ないし。だから当然、ヒュリカが俺を、という事も考えただろう。それでもヒュリカと俺をまだ一緒にさせてくれるのは。それだけヒュリカの身体が、俺を連れて空を飛ぶ、なんていう芸当が甚だ困難である事を、よくよく知って
いるからなのかも知れなかった。俺とヒュリカは友達だから、必要以上に引き離したくないとも思ったのだろうけれど。
「そうだけど。でも」
「ゼオロ。素直に、言って。ヤシュバに会いたいのなら。僕の事を、頼ってよ。今じゃないと、ヤシュバに会えないし。今じゃないと、ここを抜け出す事もできないんでしょ」
 そうだけど。何もかも、ヒュリカの言う通りだけど。明日、ヒュリカが翼族の谷に帰る事は、周知されている。それなのにヒュリカが残ったら、まずクロイス辺りは何かしら行動を起こすだろう。もしかしたら、この天幕の外に
控えている兵も。狼将軍の指示でいつもより多いかも知れない。
 ふと、気づけば。俺がヤシュバに会いに行く機会は、今しかなかった。
 今会えなかったら、もう絶対に会えないかも知れない。本当に戦争が激化したら。もう、そんな余裕はどこにも無くなって。落ち着くまでは、決して叶わぬ事となってしまう。
「会いたい。ヤシュバに、会いたい。でも。私は、ヒュリカに迷惑は掛けたくない」
「迷惑掛けて、良いんだよ。ゼオロ。僕の事を、頼ってほしい」
「……どうして?」
 どうして、そこまでしようとするのだろう。そう思って、俺はヒュリカを見つめる。ヒュリカが俺の事、好きだって事は、もう知っている。でも、俺はもうクロイスと一緒になって。そして、クロイスを裏切るなんて事は、できそうに
ない。ヒュリカがいくら、俺に良くしてくれても。俺は何も、もう返せないのに。そんな俺から、ヒュリカに。一方的な迷惑を掛けるのは、どうしても気が引けたのに。
「昨日も、言ったのに。もう忘れちゃったんだね、ゼオロ」
「え?」
「助けてくれたでしょ、ゼオロは。僕の事を、二回も。それなのに、そんな事、無かった様な顔して。僕には、何もさせてくれないんだね。狡いよ。僕だって、ゼオロの役に立ちたいのに。役に立ちたいって思ったから、本当は、
少し無理を言って。谷を出て、ここまで来たのに。自分がした事なんて、なんにも無かった様な顔して」
「だって……それに、ヴィフィル様の事もあるし。これ以上迷惑は」
 これ以上も何も、ヒュリカは、父親を失ってしまったのに。そんな多大な迷惑を掛けておいて。どうして、それが頼めるというのだろうか。さっさと諦めて。さっさと寝て。朝になって、ヒュリカを送り出してしまえば。それで
良かったはずなのに。そんな事すら、俺はできないで。またこうして、相手から言わせているんだな。確かに、ヒュリカの言う通り。狡いなって思う。
「自分のした事に、もっと自信を持ってよ。確かにゼオロが来た事で、良くない事はあったかも知れないけれど。ゼオロが来てくれなかったら、僕は今、どうなっていたかわからなかったんだよ。父さんの事は。今でも……悔しく
ないって言ったら、嘘になるけれど。でも、僕は、僕を助けてくれたゼオロを、助けたい」
 まっすぐに。本当に、まっすぐに、ヒュリカは言う。戸惑ったり、混乱したり、自分を責めたり。そんな事ばかりしている俺とは、全然違う。もう、決めてしまってるんだなって思う。とっくに決めて。それから、後悔しないって。そうして、
俺を安心させる様に、少しだけ嘴を開いて。目元を和らげてくれた。
 それをしばらく見つめてから。結局は俺は、おずおずと頷いて。それから、ヒュリカに。全てを託してしまった。

 もうすぐ朝を向かえる戦場。静まり返っている様で。それでも天幕の外からは、僅かな物音が聞こえる。どんな時でも、起きている兵が居て。警戒をしてくれているのだろう。
「準備は良い?」
「良いけど。でも、本当に大丈夫なの?」
「行くって、決めたんでしょ」
「そうじゃなくて。いや、それも少しあるけれど。このまま、行くなんて。そんなの」
 俺とヒュリカが立っているのは、天幕の中央で。身支度だけを、音を立てない様に済ませて。さて行こうかとなったところで。当たり前だけど、外には見張りが居るから、うかうかと外に出てから空へ向かう訳にもいかなくて。
 どうしようかと考える俺に、ヒュリカはこのまま飛ぼうと。そう言ったのだった。
「天幕にぶつかって、飛べないんじゃ」
「いや。いけると思う。思い切り吹っ飛ばせば」
「吹っ飛ばすって」
 この天幕ごと、吹っ飛ばすつもりなのか。いや、確かに。外に出て、何かしら感付かれたら終わりだし、飛ぶために多少の猶予もあるのだから。いずれにしろこの中で全てを済ませるしかないのはわかるけれど。でも。
「……できるの? そんな事。私、魔法に詳しくないから、わからないんだけど」
「できるよ。僕と、ゼオロなら」
「私?」
「ゼオロ。強く、風をイメージして。ミサナトに居た時も、やってたでしょ」
 ヒュリカの言葉に、俺は思い出す。そういえば、そうだった。俺自身は魔法はまったく扱えないけれど。魔法を使われていたら、それを頭で強く考える事で。ほんの少し、後押しができる事に。普段はそれは、無意識にやったり
してしまって。正直生活の邪魔でしかないから、そんな物はどこにもなかったと、さっさと忘れて生きていたけれど。確かに、今ならその力が、役立てそうな状況ではあった。
「僕が、風を起こすから。ゼオロは強く、イメージして。そうしたら、一気に飛ぶから」
「ヒュリカ、身体は」
 俺が、おずおずとまだ残る懸念を口にする。小さく、ヒュリカが笑い声を上げてから。片目を瞑ってくる。
「信じて」
 そこまで言われて。ああ、今ってあの時と、同じなんだなって。そう思った。ミサナトで、暴漢に追われて。ヒュリカと街の中を懸命に走っていた、あの時と。俺がそんな事を考えている間に、ヒュリカは少し屈んで、俺の身体を
抱え上げる。細い身体のどこに、こんな力があるのだろうか。あの時とは違って、すっかりヒュリカの背が高くなって。俺はそのままだと、かなり苦しい体勢で首に抱き付かなければならなかったから、助かるけれど。
「掴まってて」
 お姫様よろしくな抱え方をされて。そうして、掴まれというから。俺はヒュリカの首に、両腕を回して。なんか違う気がする。いや、背中は翼の邪魔になるから、ただでさえ飛び辛いヒュリカの邪魔になるので駄目とはいえ。
「行くよ」
 俺がそんな事を考えている間に。ヒュリカはまっすくに立ち上がると、翼を広げる。天幕の中に、折り畳まれていた時からは想像できない程の大きさに、翼は広がる。というよりも、膨らむ様で。広がりきったと同時に、風を
辺りに撒き散らす。それは最初、天幕に押さえつけられて。僅かに天幕が膨らむ印象を与えた。ヒュリカが、小声で俺を呼ぶ。合図だった。ぎゅっと目を瞑って。俺は頭の中で、懸命に風を想像する。嵐の様に、とてつもない
風を。それが突然にこの場に現れて、吹き荒れては。天幕などという物を容易く吹き飛ばしてしまう様を。周りから、物音が聞こえる。にわかに、外から声が聞こえる。考えた。考えた。
「ゼオロ様」
 俺の集中力か途切れた。はっとなって、瞼を開けば。天幕の入口で、大慌てで駆け込んできたのだろう。狼将軍が立って。それから素早く状況を察すると、ヒュリカの事を睨みつけていた。
「貴様。ゼオロ様のご友人だというから、見逃してやったというのに」
 素早く、将軍が剣を抜く。けれど、それよりもヒュリカの魔法の方がずっと早かった。翼が僅かに閉じて、再び限界まで広がると。四方八方に向けて、それぞれ竜巻が発生したかの様に。天幕の中の物が宙を舞い、隅へと
吹き飛ばされて。やがては、天幕その物が揺れ動き。そうすると、隙間から外の僅かな光が、天幕の中へと入って。淡い魔導の光とは違う光源がその先にあるのだと。俺とヒュリカに教えてくれる。
 軽く、ヒュリカが床を蹴った。その拍子に、俺とヒュリカはまるで打ち上げられるかの様に真上へと飛びあがる。すぐに、天幕の天辺が。けれど、ヒュリカが手を伸ばせば。また風が吹き荒れて、次の瞬間には、それは物の見事に
ヒュリカが宣言した通りに、吹き飛んだ。僅かに裂ける音が聞こえる。風で持ち上げるだけでは、天幕の耐久性にもよるけれど。俺達は布を被せられた状態になって、結局は飛べなくなってしまうから。ヒュリカは鋭い風の刃を
巻き起こして。せっかく狼族の兵が俺のために作ってくれた天幕を、思いっきり台無しにしたのだった。ごめんなさい狼族の皆。途端に、外の冷気が俺達を包み込んで。身震いをする。朝を控えた今が、一番冷え込むから、
眠気も何もかもがどこかへと吹っ飛んでゆく。
「ゼオロ様」
 僅かに、狼将軍の声が聞こえる。けれどその頃にはもう、辺りは騒然となっていた。天幕をぶち破って宙に現れた俺とヒュリカを見て驚く声もあれば。真上が破られた事で、気の毒に天幕の近くで俺の護衛に勤しんでいた
狼族の兵は、崩れた天幕の下敷きになったりしていた。そんなに重くはないはずだから、大丈夫だろうけれど。
 真上まで。もはや誰にも、少なくともこの場に居る狼族には、俺とヒュリカに手を触れる事ができなくなった高度に達した頃。俺は大声で、真下に居て。襲い来る天幕の残骸などなんのそのと、華麗に避けては外に出てきた
狼将軍を見下ろして。口を開けた。
「ごめんなさい。どうしても、今行かないといけないんです。責めるなら、私を責めてください。誰も。自分の事も。責めないでください」
 俺からの言葉に、苦し気な表情を将軍が浮かべる。彼の性格だから。絶対に、自分を責めると思って。でも俺もヒュリカも、それを長い事見つめてはいなかった。すぐにヒュリカは、もう少しだけ高度を上げて。昇ってきた太陽に
照らされる空を飛翔する。まだ、朝は遠いと思っていたけれど。天幕の中で悩んでいる内に、随分時間は経ってしまった様だった。けれど、空にさえ飛び立てればこちらの物だ。遮る者は、少なくともラヴーワには、ヒュリカと
同じ翼族か。不在のガーデルくらいしか、居ないのだから。翼族なら、ヒュリカがどうにかしてくれるだろう。
 俺は真下の景色を改めて見つめていた。成す術もないのに、俺とヒュリカが移動する先。東へと。狼族の兵もわらわらと移動を始めて。それから、中には弓を番える者も居たけれど。それは大慌てで味方の手で止められて
いた。ヒュリカを止めるためならば、という思いはあるけれど。本当にそれをしたら、俺もこの高度から、大地へと叩きつけられてしまうから。それをする訳にはいかなかったのだろう。下手したら俺に当たるし。そうこう
している間に、ヒュリカは空を、白い翼で掻いて。どんどんと距離を離してしまう。また更に冷たい空気が、俺とヒュリカを包んだ。ガーデルに空へ連れてもらった時の様な、快適な物とは、比べようもない。そんな贅沢を
言うつもりはないけれど。
「ヒュリカ。大丈夫?」
 翼を羽ばたかせる度に、ヒュリカが呻き声を上げている事に、次第に俺は気づく。やっぱり、辛いだろう。当たり前だ。ミサナトに居た時よりも、ともすれば空を飛ぶのが辛いのだから。それなのに、俺なんかを抱き上げて、
飛んでいるのだから。わかっていてそう訊くのは、やっぱり狡いのかも知れない。
「大丈夫。それより、他の事は考えないで。風向きが良くないから、まだ風は必要なんだ」
「わかった」
 真白な翼が、空へ広がる。昇った太陽に、その翼は照らされて、きらきら、きらきらと瞬いて。それは、ようやく夜が明けて、朝を迎えて。空兵への警戒に疲れたラヴーワ軍の兵に、とんでもない影響を与えていた。けれど、
翼族の偵察を使っている彼らであるから。竜族だと見当違いをしていきなり弓で射ってくる様な真似はしない。それでも、ヒュリカに抱えられている俺を見たからか。歩哨の兵は慌てて、自分達の上官の下へと走ってゆく様が
見えた。
 人の波を、超えてゆく。その上を飛んで。
 やがて、見えてくる。クロイスの居る陣地が。下を見るか、迷ったけれど。俺は思い切って、下を。虎族の兵の中に。厳つい鎧を纏った者達の中に。確かに、鎧を着ていないから、それとわかる猫族の。豹の青年が居た。今
慌てて天幕から出てきた様に見えて。けれと。寝間着なんて事はなくて。だから朝早くから仕事をしていたんだろうなとか。そんなどうでもいい心配を、俺はしてしまう。
 俺を見上げる豹の青年が、口を開けて。何かを言っていて。けれどその声は、上空に居る俺には、届かなかった。俺に届かないのだから、ヒュリカにも、きっと。だから、俺はじっと、クロイスを見つめて。クロイスも、じっと。俺を
見つめてくれていた。僅かに、俺が頷く。そうすると、クロイスが両手を上げて。お手上げだって。そんな仕草をしたから。だから、笑ってしまった。
「良かったね。あんまり、怒ってなくて」
「いや、あれはかんかんだと思うけど」
 思わず、ヒュリカと一緒に笑ってしまう。凄い、勝手な事してしまって。帰ったら振られてしまうかも知れないな。
 けれど、俺達が馬鹿な事して笑ったりしていられる余裕があるのは、そこまでだった。クロイスの居る場所も抜ければ、すぐに最前線を抜けて。やがては竜族の陣営が。そしてその背後にある、カーナス台地が
見えてくる。そこまで来れば。当然空に居るのも、俺達だけではなくなる。竜族の、翼を持つ者だけで構成される、空兵の偵察が。当然ながら空を飛び交っていた。大地を埋め尽くす竜族とは違って、大空を舞う竜の姿は、
ただただ綺麗だった。澄み渡る空を舞う姿は、まるでカーナス台地が呪いから解放された事を喜んでいるかの様で、様々な色合いの鱗が、朝日を受けては煌めいて。自分の立場も何もかもを忘れれば、それは本当に、
目を奪われる素敵な光景だった。ラヴーワの立場を思い出せば、とんでもない恐怖を煽る物でしかないのだとわかっていても。束の間、俺はそれに見惚れた。その実。彼らはそこを舞台にして、再び戦を始めようとしているの
だけど。ただ、彼らは俺達の姿を認めても、まるで道を空ける様に、そそくさと他の方向へと飛んでいってしまう。
「流石に、ヤシュバから話が行ってるみたいだね」
 その辺りは、ヤシュバは徹底している様だった。俺が空から来るとは、思っていなかったかも知れないけれど。いずれにせよどこからか近づいた時、それを見咎めるのは空兵の確率が高いから、根回しはしたのだろう。今は
それが助かる。ここで侵入者だと、叩き落とされては目も当てられない。
 カーナス台地が、近づいてくる。朝日を受けて、白く輝くその姿は。本当に、つい最近まで呪いに数十年もの間包まれていた地とは、思えなかった。解放されたばかりであり、また冬場でもあるからして、その緑のほとんど
見られない姿である事が、僅かにその名残を見せるだけだ。その道なりに、ランデュス軍が詰めていて。けれど、あの時俺とリュースが登った方は。やっぱり兵の数は、かなり少なくなっていた。
 そこまできて、ヒュリカの呻きが大きくなって。俺は我に返る。
「ヒュリカ」
「大丈夫。もう少し、だから」
 そう言うヒュリカの息は、乱れていた。翼の動かし方も、どことなくぎこちない。
「もっと強く、考えて」
 言われて。俺はそうする。そうする事で俺達をカーナス台地へ運ぶ風は、より一層強さを増して。けれど、それがまた、ヒュリカの身体に負担を掛ける事にもなっていた。今はもう、翼を広げきって、風に乗る事で、残りの
距離を稼いでいる状態だった。ランデュスの陣営の上を、通ってゆく。竜族が、俺達を見上げていた。そちらでも、やっぱり俺達を見ているだけで。何かをしよう、などという様子は見られなかった。あちらからしたら、片手で
捻り潰せる様な存在が二人、やってきただけなのだから。ラヴーワ軍よりも、よっぽど静かな物だった。
 カーナス台地へと、到達する。けれど、高台までは、まだ距離があった。高さも。ここから、更に上へと向かう必要があって。ヒュリカはそこまできて、残っていた最後の体力を振る絞るかの様に。また翼をばたつかせる。いつの
間にか下がっていた高度を、少しずつ上げてゆく。
「もっと強く」
 俺の思いが、風となってヒュリカを苛んで。だから俺は、いつの間にか、それを弱めてしまっていたのだろう。それを叱咤するかの様に、ヒュリカの言葉が聞こえる。ぎゅっと、ヒュリカを抱き締めて。また俺は、風を思い
浮かべた。飛んでいるのは、ヒュリカなのに。辛いのも、ヒュリカなのに。俺はただ考えに、考えて。それに頼る事しかできなかった。
 一段、高くなった。視線を送れば、もう竜族の姿は、少なくとも見渡す限りでは見当たらなくなった。呪いの地に近いから、避けているのだろう。もう少し、もう少し、上に。
 けれど。俺がそう思った瞬間に。まるで翼がもつれる様に動かなくなった。途端に、俺とヒュリカはそのまま重力に誘われるままに、落下してゆく。短い悲鳴を上げる時間しかなかった。大地に叩きつけられて、俺は呻く。咄嗟に
目を瞑ったから、状況はわからなかったけれど。身体の痛みが、まだ俺自身が意識を手放してはいない事だけは、どうにか教えてくれる。おずおずと、瞼を開いて。そうすると、すぐ目の前に、俺と同じ様に目を瞑ったヒュリカが
居た。ゆっくりと、起き上がろうとして。伸ばした手に、何かが触れて。背中を震わせて、慌てて手を目の前に持ってきて。俺の目に。赤く染まった俺の銀が見えた。
「ヒュリカ」
 身体が、痛かった。でも、痛いだけだった。よく見れば。俺の身体の下に、白い翼が広がって。そしてそれは、その持ち主の下へ向かう途中で捻じ曲がって。一目見た限りでは、それが翼だなんて。さっきまで、俺とヒュリカを
空へ導いてくれていた物だとは、到底見えなかった。
「ヒュリカ」
 掠れる声で、また名前を呼ぶ。俺を抱き締めて。翼で俺を激突から守ったヒュリカの下から抜け出して。それからすぐに、その肩を痛くない様に揺さぶって。俺は何度も、何度も名前を呼び続けた。それから、辺りを見渡す。
 誰も居ない。
 いや、誰かが居ても。それは、竜族だ。到底頼る訳にはいかない。それどころか、見つかったら殺されてしまうかも知れない。俺はヤシュバに呼ばれているから。或いは見逃してもらえるかもしれないけれど。けれど、ヒュリカは
そうじゃなかった。浅い呼吸を繰り返して。隠れなければと。それだけを考えて。けれど、自分の真下に広がる、動かないヒュリカの姿を見ると。また頭が真っ白になる。こんな状態のヒュリカを、動かして良いのか。動かせたと
しても、既に血だまりになっているこの血の跡を、追われるだけだった。広がっているのは、赤い血だったから。竜族の青い血などでは、ないのだから。
「ヒュリカ……」
 どうしたら、良いのだろう。無駄だとわかっているのに、俺はまた、辺りを見渡して。都合良く。誰かが助けてはくれないかと期待して。けれど、すぐにそれは裏切られて。次第に、何もできない自分に苛立って、涙が
出てくる。泣いている場合じゃないのに。ヒュリカの身体が、飛行に耐えられないとわかって。それでも、こうしてもらったのだから。泣くのはあんまりにも自分勝手だって、わかっているのに。
「ゼオロ」
 すっかり動転してしまった俺の耳に、僅かに声が聞こえる。ヒュリカの声だった。俺は大慌てで涙を拭って、その身体を起こそうとする。せめて、応急処置でもしなければ。ほんの少しだけ、学んだから。何かできると思って。
 けれど、俺がヒュリカの肩に触れるよりも先に。片手を上げたヒュリカが、俺の胸をとん、と押した。突然の事に、俺はそのまま、後ろへ尻餅を突いて。少しだけ、尻尾を痛めて。そんな痛みは、身体中で感じている痛みに
比べたら、極僅かな物だったけれど。新しく加わった痛みが、俺の頭を少しだけ冷静にしてくれる。
「ゼオロ。行って」
「駄目だよ、ヒュリカ。血が」
「良いから。竜族が、来るかも知れない。そうなったら、ヤシュバの下に通してもらえるのかも、わからない」
「ヒュリカを置いて、行けないよ」
「ここからなら、ゼオロの足なら辿り着ける」 
 そんなの、わかってる。そうじゃない。そうじゃ、なかった。
 こんな所にヒュリカを置いて。一人でのうのうと。ああ、違う。それも違う。そんな事を、厭うのなら。最初から、ヒュリカに助けてもらわなければ良かったのに。ああ、本当に嫌だ。何もかも計算ずくみたいにして、この場に
今居る事も。
「ごめんなさい。ヒュリカ。私が、頼んだから」
 こんな風に、泣いて謝るのも。
「僕なら、平気だから。薬くらいは持ってるから、今は行って。落ち着いたら、僕も行くから」
 懸命に、ヒュリカが手を伸ばす。赤く汚れた、白い羽毛の長い腕が伸びて。指先が、俺の涙を払ってくれる。ひしゃげた動かない翼が、真っ赤に染まっているのに。そうするだけで、叫びたくなるくらい痛いだろうに。
「行って。早く。ここまで来たんだから、僕のした事。無駄にしないで」
 また、胸を押される。今度は軽く。優しく。そんな力も、無いのかも知れないけれど。俺はその手を取って、少しだけ、頬ずりしてから。手を下げさせて。ゆっくりと、立ち上がる。
 振り返って見上げる。カーナスの高台が、もうそれ程先という訳でもなく。俺の目にも近い物として映る。
「すぐ、戻るから。終わったら。絶対に、戻るから」
 また、ヒュリカを見て。そうするとすぐに視界が滲んで。何度も涙を払って。滲みと滲みの間に見下ろしたヒュリカは、笑っていた。なんで、笑えるんだろう。俺はこんなに、泣いているのに。情けないくらい、泣いているのに。
「頑張って。ゼオロ」
 最後まで、ヒュリカの声は優しかった。俺はどうにか頷いて。そのまま、走り出す。走り出した途端に、身体中に痛みが走って。叫びたくなった。堪えた。ヒュリカは、もっと、ずっと。痛かったのだから。
 戻らない。振り返らない。ここまで来て、何ができるのかは、わからなくても。
 振り返りたかった。
 けれど。やっぱり、振り返る事はしなかった。

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