ヨコアナ
38.一度目二度目
頬を撫でつける風が、心地良かった。こんな風に、当たり前に風を感じられる事を羨んでいたのは、いつの私だっただろうか。そして、自分には決してできぬ事であると絶望したのも、また、いつの私だったのか。
銀狼のゼオロが、カーナス台地の亡霊を解き放った。
私はそれに協力する事をゼオロに求められ、また竜神の命もあって同道はしたものの。本気でそれが成し遂げられる事だとは、あまり考えていなかった。私自身が、ゼオロの正体が、異世界人であるハルであると。それこそ
獅族門の一件の時に、それがヤシュバの求める相手だと知らされた時から、知っていたのだから。他所の世界の者が、この地にやってきて。例え姿がどれ程の物であろうとも、竜族に匹敵する程に、己の矜持を大事にする
狼族の亡霊が。そう易々とその存在を受け入れるのは難しいのではないかと。そう思っていた。
しかし結果は。予想以上にあっさりと、狼族はゼオロという存在を受け入れて。そして、彼の地で散ったグンサ・ギルスまでもが、ただ事の顛末を見せるだけ見せて、さっさと消えてしまい、カーナス台地の呪いは全て
払われたのだった。
ゼオロは、自らが白き使者ではないと。そう思っていた。しかし私にしてみれば。その一件は更に、ゼオロこそがそうなのではないかという想いを強める結果になっていた。
そのゼオロに、もう一度だけその事を伝えようとした時に。私の背後から、突然に現れた黒い翼を持つ竜族は、戸惑う私の腕を取って。そのまま私を、念願だったランデュスへと連れ戻してくれたのだった。しかし私は、
いざ帰るという段になって、ランデュスに足を踏み入れて良い物か逡巡してしまう。既に私は、失態を経て立場を失くした竜族だった。いくら前筆頭補佐とはいえ、私が戻ったところで、その位が戻ってくる訳ではない。それに、
それは流石にドラスに申し訳が立たない。ドラスは既に、私より強いのだから。本来ならば、さっさと退くべきだというのに、私が居座っている形であったのだから。実際のところは、ほんの少しだけ違うが。しかし兵がそれを
忖度する訳ではなく。また兵からしてみれば、自らの上に立つ人物。つまりは、頭となり。また自らが属する場の顔となるべき者が。私とドラスの二人を見比べて、どちらが良いのかという話になる。そんな事は、確認する
までもない事だった。
最初は小さなその考えが。景色が見知った物となり、そうして遠くにランデュス城を望める場所まで来ると、際限なく膨らんでは。私の胸を締め付ける。
あれ程、戻りたいと思っていた場所だというのに。戻りたくないと、今は、そう思ってしまう。自らが筆頭補佐として懸命に築き上げた居場所など、もうどこにも残っていないのだという事を。この目で、この耳で、直に知る事が
恐ろしいのだと。私は今更になって、気づいたのだった。ガーデルに急襲をされ、ヤシュバを逃がすと同時に、筆頭補佐を辞した時はそんな事を考える余裕はなかったし、また虜囚となってからは国とヤシュバを恋しく
思うばかりで。実際に帰った時の事などは、まるで想像していなかった。それ程に、私は再びランデュスの地を踏む事など、諦めていたのだから。
だからこそ、今目の前に迫った見慣れた世界は。見慣れているというのに。今の私には。もはや筆頭補佐ですらなくなり、そうしてかつての力も損なった今の私の瞳には。未知の場所としても見えたのだった。
「ヤシュバ様。私は、やはり」
「黙っていろ」
翼が、大空を掻く音が聞こえる。その中で、私は浮遊感に襲われながら。私を抱き上げたまま、ランデュス城を眺めているヤシュバをじっと見つめていた。既に、私がランデュス城で自らの居場所を損ない、それが故に、
帰る場所も無いというのに尻込みをしている事は、ヤシュバには伝わっていた。ヤシュバは、私がその様に躊躇って。そうしてランデュスの地を踏まぬ、などという事は。決して許すつもりが無い様に見えた。
私が見上げても、ヤシュバは、私を見る事もなく。ただ、前を。これから私とヤシュバが向かう場所を、ただ見据えていた。
「どうして」
その顔を見つめたまま、私はぽつりと言葉を零す。僅かに、ヤシュバが震える様子が伝わる。けれどその目はまだ、私を見てはいなかった。
「どうして、あの時。ゼオロ様を。ハル様を、お連れにならなかったのですか。ヤシュバ様」
「俺に、二人を同時に担いで空を飛べと。そう言いたいのか」
「まさか。ゼオロ様の方をお連れになられるべきだと。そう言っているのです」
「そんな事をしたら、お前があの場で死ぬだけだっただろう。あいつは、あそこに残しても構わなかった。それだけだ」
「そう、ですか」
「それから、リュース。俺の事は、ヤシュバと呼べ。そう、言ったはずだ」
「……はい。ヤシュバ」
何故だろうか。あれ程、ヤシュバはいつの時も私の意見を聞こうとしたし、また大事にしようとしていたはずなのに。今のヤシュバは、少し、違っていて。
「そういえば、ヤシュバ。目は、大丈夫なのですか。竜神様の魔法を宿しておられたというのに」
「今のところは、問題は無いな。お前の様に、魔法の発動にまでは至らずに済んだからなのかも知れないが」
「無茶をする物ですね」
「だが、おかげであの場に居た全員の動きを止める事ができた。殺すのは、簡単だが。俺はまだ加減ができない」
「そうですね。ゼオロ様まで殺してしまっては、元も子もない」
それから、あのクロイス・スケアルガも。ヤシュバは、もう気づいているのだろうか。ゼオロが、あのクロイスの愛人となっている事に。あの時、クロイスは身を挺してゼオロを守ろうとしていたが。その事すら、ヤシュバは然程
見ていたとは思えなかった。ただ、私を威圧的に見つめては。私の腕を痛い程に握って、そのまま、高台から飛び立っただけだ。そんな事には、気づいていないのかも知れなかった。
不憫な男だと、それを見て思う。今度こそは、ハルを守りたいと。その一心でここまで来たというのに。いつの間にか、その相手を脅かす存在になってしまったのだから。
「ヤシュバ。一つだけ、お訊ねしてもよろしいでしょうか」
「なんだ」
「あなたは、まだ筆頭魔剣士を続けられるおつもりですか」
「当たり前だろう。それは、前にも言ったはずだが」
「それは、そうなのですが。その」
「それに。お前もまた、それを望んだのだろう。俺が、そうある様に」
「……そうですね。申し訳ございません、ヤシュバ」
やがて、ランデュス城が間近に迫って。ヤシュバが翼を広げて、城の庭へと着地する。大分荒っぽい入城だが、ヤシュバに対して小言を言う者もおらず。そのまま私は、案内されるがままに身体を清めて、支度を
済ませて。改めて私の後に筆頭補佐になったドラスや、それから宰相のギヌス、副宰相のユディリスへと挨拶をする事になる。本来ならば、今の私の身分ではそれは到底許されるはずもなかったし、そもそも今更一兵卒に
戻るつもりもないのだから。私は城に戻っても、ただ竜神に必要な事柄を伝えて。また私の預かる力を返上して。その後は、邪魔にならぬ様にと城から出ようとしていたのだが。ヤシュバはそれを許さずに、ただ顔を
出して。それが済んだら、自分の部屋に来る様にと。それだけを言い残して姿を消してしまった。仕方なく私は、筆頭補佐だった頃に付き合いのあった者達を順に巡る事になる。てっきり、小言や。ガーデルに無様に
敗北を喫した事を詰られるとばかり思っていた私だったが。実際に会ってみると、皆は私が戻ってきた事を素直に喜んで。また、無理をするなと。それだけを口にしてくれた。
それから。私がガーデルに捕らえられた際に、爬族の長であるマルギニーが戦死していた事を知らされる。とはいえ、それに対して私が言う事は、何もありはしなかったが。ようやく死んだのかと、そう思うだけだ。
「リュース様。リュース様は、もう筆頭補佐には戻られないのですか」
「そんな事、できるはずがないでしょう。ドラス様。別の者へと渡るのならまだしも。私とあなた様で、筆頭補佐の座を手渡しし合うなどと。要らぬ混乱を招くだけではありませんか」
「リュース様。お願いです。以前の様に、喋ってはいただけませんか」
「……そうは言うが。既に筆頭補佐の座も、権限も何も。全てお前へと移ったのだろう? お前こそ、もはや私に、その様に畏まる必要も無いだろうに。そんな姿は、他の者の前では見せられんぞ。お前は確かに力は
あるし、見場も良い。だが、ギヌス様が先に仰られた通り。ヤシュバ様と二人揃って、まだまだ新参の筆頭魔剣士と筆頭補佐という事になってしまう。だのに、私なんぞを相手に、いまだに畏まっている様では、部下に陰で
笑われるだけだ」
「そんな奴らは、笑わせるだけ笑わせてやればいいと。そう思うのですが。それに、少なくともヤシュバ様もまた、その様な事柄にはまったく頓着しないお方ですから。そんな事を仰るのなら、ヤシュバ様からなんとか
するべきではありませんかね」
「それはもう諦めたから、せめてお前だけでもと思うのだがな」
そもそも用済みとなった私を、筆頭魔剣士であるヤシュバが助けに行く、などと。それ自体は極秘に行われていた事であっても、今こうして救い出された私がここに居る以上は、どうしても噂という物は広まってしまうのは
避けられなかった。ランデュス側からは私を助けよう等とは、一切しなかったであろうし。
「そもそも、何故こんな事に? お前、何故ヤシュバ様を止めなかった」
「そんな事を言われても。俺に、止められる物ではありませんよ。ヤシュバ様は、何度も竜神様に掛けあって。どうにかリュース様を助けられぬかと話をされていた様ですからね。そして、好機が訪れたというから。供も連れずに
行ってしまわれて。まあ、竜神様ご自身が、ヤシュバ様に手を貸されたのですから。それ程の心配はしておりませんでしたが。寧ろ、リュース様がきちんと五体満足で戻ってこられるかの方が、俺は心配でしたし」
どうやら、ドラスの話を聞くと。ヤシュバがあの場に現れたのは、ヤシュバと、そして竜神の二人が手を組んだからである様だった。とはいえ、竜神の魔法をその瞳に宿して現れたのだから、それは当たり前の事なのだが。
竜神はカーナス台地が解放された、その瞬間こそが私を助ける好機だと。その様にヤシュバに伝えたのだろう。ヤシュバはまさに、亡霊が解き放たれ。彼の地が呪われた地でなくなったその瞬間を突いたのだった。
「リュース様。今後は、どうなされるのですか。できれば、俺としては。まだまだ、教えていただきたい事は山程あるのですが」
「わからんな。とりあえずは、落ち着くまでは待ってほしいが」
私自身は、城を出るつもりではあった。そもそも既に私は、この城の中を勝手に出歩いて良い身分ではなくなっているのだから。あとは竜神と会って、それで終わりと。そう決めていたというのに。ご丁寧にヤシュバは、顔を
出し終えたら、部屋に来るようにと言うものだから。仕方なくドラスに、竜神への目通りを願う使いを出してもらう。筆頭補佐だった頃の私ならば、必要はなかったが。今の私では、それもまた必要な手筈だった。
「ところでドラス。お前、神声は聞ける様になったのか」
「いいえ。俺はまだ未熟ですから。今はヤシュバ様が、必要な時に竜神様の下へ向かわれているそうですよ」
「早く聞ける様にしろ。どちらかが聞けないと、これから戦だというのに。支障が出るだけだ」
「リュース様がお戻りになられれば、万事解決すると。俺はそう思うのですが」
「黙れ。私を出しにして、自らの怠慢を許すな。……お前ならば。多少真面目に学べば、そちらの方も上手くできるはずだ。空を飛びながら、魔法を行使する事もできるのだからな」
別れ際に、短い言葉を交わす。ドラスは顔を顰めながらも、口元は僅かに緩んだままで。私はそれを思い切り睨みつけてやった。ガーデルに手傷を負わされたと、あの時報告を受けていたから。少しは心配してみたが、
それも不必要だった。それについて私が訊ねても、ドラスは苦笑をするだけだった。
ドラスと別れて、ヤシュバの部屋へと向かう。衛兵達には多少は怪訝そうな顔で見られはしたが、それでもヤシュバから話は通されていたのだろう。その間を私は黙って通り過ぎる。
「失礼します」
扉を軽く叩いて、返事を聞くと。私は随分久しぶりに感じるヤシュバの部屋へと、足を踏み入れた。
私が部屋に入ると。ヤシュバは丁度、窓から空を眺めている様だった。私が近づいても、ヤシュバは微動だにせず、また顔を動かす事もない。
「結界、でございますか」
「ああ。最近、よくあれを見ている。いや、見えはしないのだがな」
開かれた窓に、私も近づいて。同じ様に空を見上げる。晴天の今、清々しい程の青が、空には広がっていた。私と同じ様で、しかしそれを見る者の表情はまるで違う。青の色が。
涙の跡地を覆う結界は、今は私達の目には見えぬ存在となっていた。それが、我々の肉眼で確認できるのは、何かしらの衝撃を受けたりして、それを強く阻んだ時だけだ。だから今は、退屈と言えば退屈な景色が
広がっているだけで。私はその内に、ヤシュバへと視線を移す。黒い竜は、飽きもせずにそれを見つめていた。それは、或いはこの男が。あの結界を破ってここへ至ったからなのかも知れない。私には何も感じられない、
あの結界も。この男には、何かしら目につく事があるのかも知れないと。そう思って。
「本当に。あの結界を、俺は破ってきたのだろうか」
「それは、間違いないはずですが。そういえば、その時あなたは。ほとんど意識が無かったそうでございますね」
「憶えていないな。俺がこの世界で、最初に気が付いた時には。俺は竜神の居る、あの部屋の中だった」
「存じております。竜神様は、強い力が。つまりは、あなたが落ちてくる事を察知して、自らあなたを受け止めたと。そう聞き及んでおります」
それは、大変に珍しい事、と言わなければならなかった。そもそも今の竜神は、ほとんど人前に姿を現す存在ではなくなっている。その竜神が、どうやったのかまでは私にもわからないが。態々ヤシュバの力を察知して、
それを自らの下へ招いたのだから。
「あなたは、まだ力の制御ができていない。それで、筆頭魔剣士なのだから。末恐ろしい物ですね。あの結界を破った時、あなたはまさに、本気であったのですね」
「よく、わからないな。ほとんど無意識だったし。俺は、あの時。何もかもどうでもいいと。そう思っていた。それで、気が付けば、こんな身体で。それから、そう。お前が居たんだな」
ヤシュバの、真の力。実のところ、それはまだ計り知れぬ物であった。そもそもが、ガーデルと私を破り。筆頭魔剣士となってしまえば。ヤシュバ自身が力を出すなど。それも、本気でなどと。その様な事が必要な場が、
今まではなかったのだから。口惜しいが、私ではその相手はまるで務まらなかったし、また爬族などの雑兵ばらを相手にするには、ほとんど力を出す必要も無かっただろう。
「ええ。なんだか、懐かしく感じられますね。あれからまだ、一年は経っていないというのに」
「それが今では、ランデュスの筆頭魔剣士か」
それを口にしたヤシュバの表情は。お世辞にも、それに満足しているとは言えない物だった。苦笑交じりの。それでいて、何かを悔やむかの様な。
「後悔、されているのですか」
「後悔か。いや、少なくともこの身体になってからした事は、何も後悔していないな。俺が、後悔する事があるのなら。あの時ハルを一人にして。そうして、この世界にまで、行かせてしまった事だけだ」
「ヤシュバ。あなたは、ハル様を。……どうなされたいのですか」
「わからないな、もう」
窓を閉めて。そうして私と向かい合ったヤシュバが、溜め息交じりに告げる。
「ハルは、とても弱い奴だった。弱くて、優しくて。それで、やっぱり弱い様な奴だった。今でも、俺がもっと傍に居てあげられたら。今、こんな風にはなっていなかったのにと。そう、思う。けれど、この世界に来て。ハルは、
変わったんだな。ハルは、一人ぼっちな事が多かったのに。ゼオロは、そうじゃなくなっていた。変わってしまったんだな。俺も、大分変ってしまったが。こんな、化け物の様な姿になってしまって」
「ヤシュバ……」
「もう、いい」
何かを振り払うかの様に、ヤシュバが話を打ち切る。その内に、私へと近づいて。私の肩へと触れてくる。
「捕虜になっていたんだな」
「ええ、まあ」
「拷問もされたのか」
「それは当然の事でしょうね」
「脱いでみろ」
私は命じられるがままに、その場で服を脱ぎ捨てる。程無くして、私はヤシュバの目の前で、何一つ身に付けてはおらぬ姿を晒す事になる。他の者の前ならば、決してこの様な真似はしなかったが、それも、ヤシュバと
なれば今更羞恥を覚える事もない。この世界に現れたヤシュバに、私は自らの身体を差し出して、良い様に使っていたのだから。
「拷問を受けたという割に、傷は残らないのだな」
「自分で治療ができますからね私は。ここの」
手を上げて、私は自らの胸を軽く撫でる。その場所にも、傷は見当たらなかった。
「あなたに付けていただいた傷も、治してしまったのは勿体ない事をしてしまったなと思いましたが」
「態々残していたのか。もう治らないのかと、お前の身体を見る度に思っていたのに」
「そんな事したら面白くないじゃありませんか」
「……変わらないな。お前の、そういう部分は。今のお前は、俺に以前よりも畏まる様になったが」
「それは、仕方がありません。私はもう、筆頭魔剣士を支える筆頭補佐ではなくなってしまった」
「前にも言ったはずなのだがな。俺は、筆頭補佐でないお前の事も、必要としていると」
「ハル様を手に入れるまでの、間に合わせとしてですか」
かっと、ヤシュバの瞼が開かれる。口にしてから、私は少し後悔をした。別に、ヤシュバの事を怒らせたい訳ではなかったし、またその様な扱いを受けていようが、そんな事は一向に構わぬはずであったというのに。例え
どの様な形であったとしても、ヤシュバを支える事ができるのならば、それで良いと。そう思っていたはずなのに。今、私の口からつい言葉が出てしまったのは。ヤシュバが求める存在と、言葉を交わしたからなのかも
知れなかった。ゼオロは、ほんの僅かな間共に居ただけであったというのに。私の中に、確かにヤシュバとまっすぐに向き合うべきだという想いを残していってくれた。
「お前と、ハルは、違う」
「そうですね。何もかも、違う。あの方は、美しい銀狼であって。そして、私は」
「リュース」
ヤシュバの手が、乱暴に伸びてきて。私は続きを言う事もできなかった。寝台の上に押し倒されて、私よりもずっと体格に勝るヤシュバが覆い被されば、私にはもう何もできない。
「どこも、悪い所はないのだな」
「残念ながら」
「怒るぞ」
「ええ、本当に残念ですが。私に角や翼があれば、もぎ取られる事もあったのかも知れませんがね。尻尾もきちんと残っておりますし。まあ尻尾くらいなら、時間は掛かっても戻せますがね」
拷問の痛苦は、厳しい物ではあったが。それでも致命的な物はそれ程あったとは言えなかった。一つには、やはり私の力を警戒しての事なのだろう。拷問によって致命傷を与えれば、狂った私がどうなるのかはまったく
わからない事であるし、そういう事をするのならさっさと処刑をしていたはずだ。どの道私には帰る場所など無いのだからと、情報の方を期待していたのかも知れなかった。それも、大した物はくれてやらなかったが。
ヤシュバの身体が、降ってくる。何言わずに、私はそれを受け入れた。
その日から、私はヤシュバの傍へと侍る事となる。立場を失った私は、本来ならばヤシュバの近くになど居られるはずもなかった。勿論、前筆頭補佐という状態は、決して軽んじて良い物ではないが。その辺りは私の
生来からの見場の悪さが悪影響を及ぼす事となる。どの道、ガーデルに無様に敗北し、惨めな捕虜となり。ヤシュバの情けによって助けられた身に過ぎぬのだから、今更私に対して敬意を払おうとする者など、ほとんど
見られはしなかったが。今の私は、ヤシュバの傍に居る小姓に過ぎなかった。といって、私がヤシュバの世話をする訳ではなく。ただヤシュバが私を置く理由付けであり、必要ならば抱く事もする。言うなれば愛妾の様な
存在ではあったが。
その扱いは、私には一層小気味よい程だった。竜神に乞われ、必死に自らの腕を磨き、筆頭補佐という要職にまで就いた私が。今はただ、兵を見る事もなく。ヤシュバに求められれば、身体を差し出すだけの存在でしか
ないのだから。なんという惨めさだろうか。なんという皮肉だろうか。私にばかり感けずに、愛妾を抱えろと言い続けていたはずだというのに。今は私が、そこに収まっているというのだから。しかし私には、それに異を唱える力も
無い。それにドラスに敗れた後に、私を求めたヤシュバに頷いたのは私だったのだから。どの道、立場を失った私が、それでも尚筆頭魔剣士であるヤシュバの隣に居るには、この様な形を取るしかなかった。筆頭補佐だった
男が、今更他の役職を与えられても、それは大層扱い難いのは私にも理解できる事だったからだ。僻地にでも飛ばされるのが妥当かも知れないが、それではヤシュバが納得しない。
ただの小姓に与えられるには豪華過ぎる部屋で、私はただヤシュバを待つだけの身となった。そして、ヤシュバが私の部屋を訪れれば。たわいも無い話をする事もあったが、それも次第に減り。私を組み敷く日々が
続く。カーナス台地が解放されて、残すはランデュスとラヴーワの正面衝突となった今。ヤシュバとドラスは、それぞれに兵を率いて出てゆくのだろう。ヤシュバはその重圧に耐えているのだろうか。口数は減り、黙って
私を抱く事が多くなった。私もまた、何も言わずにそれを受け入れたが。元よりヤシュバ以外であったのならば、自分がこの様に扱われる事など、到底受け入れられなかっただろう。残念に思うのは、今の私では、ヤシュバの
助けとは、この様な形を取るしかない事だった。一兵卒に今更甘んじるつもりはなかったが、それでも、ヤシュバが前線で戦えと言うのなら、私はそのつもりだったが。ヤシュバは、そうする気も無い様で。
顔を上げて、それを見る。目を細めて、口を開けて呼吸を荒らげている、黒い竜の男を。今は腰を動かす度に、その背にある翼が広がり、閉じてを繰り返して。元々の体格差もあるが、それ以上に巨大な怪物に、ともすれば
私は犯されているのだという錯覚を覚えさせる。
「そんなに俺の顔がおかしいのか」
じっと見つめていると、ヤシュバがそう言って。私は自分が笑っている事に気づく。
「いいえ、そんなつもりでは。ただ、自分の事を考えていましてね。まさか私が、戦に赴くあなたを見送る立場になるだなんて。随分滑稽な物だなと思いましてね」
戦の前に、別れを惜しんで身体を重ねる恋人。今の私とヤシュバは、まさにそうだった。もうすぐ行ってしまうヤシュバが、黙って私を抱いて。私は抱かれながら、それ以上は何もできぬ自分を歯痒く思い、またヤシュバの事を
愛しく思い。そうして、やがては置き去りにされてしまう。
柄ではないなと思う。戦に行ってしまった恋人を想って涙を流す程、繊細でもない。
「心配要らない。俺は、負けないからな」
「まあ、そういう意味での心配は、まったく必要無いでしょうけれど。あなたを真向から捻じ伏せる程の力量のある方なんて、それこそ竜神様ぐらいの物でしょうか」
「竜神にも、負けるつもりはないが」
「止めてくださいよ。私の仕える方なのですから。あなただって、そうでしょうに」
ヤシュバは、この世界の事にそれ程の関心を持っていなかった、というのは今更だが。当然その中には、竜神その物も含まれていた。そこだけが、私とヤシュバでは、明確な違いがあるのだと思う。私もまた、この国や、
竜族にそれ程強い執着を持っている訳ではない。ただ、竜神に仕える上で、それは必要な事であるから、頭に叩き込んでいるだけだ。竜神という存在だけが、私とヤシュバでは、捉え方が異なっていた。
「……あなたは。ランデュスに来るべきではなかったのかも知れませんね」
「そんなに、俺は駄目な奴だろうか」
「いいえ。ただ、そう。ゼオロ様のお傍に現れる事ができたら良かっただろうなと。そう、思いまして」
「お前は、ゼオロとしばらく行動を共にしていたんだったな。カーナス台地の解放のために」
「ええ」
「どう、思った」
また、私は笑う。こうして交わりながら、たわいない会話をするのも、随分と久しぶりな気がする。思いつめた顔をして私を抱くヤシュバの邪魔をしてはならないと、最近の私は沈黙を守っている事も多かったから。
「あなたの言う通り、お優しい方だと思いました。けれど、あなたの言う様な、弱い方だとは。私は思わなかった」
「弱かったよ。ハルは」
「でも、今の彼はゼオロです。彼もまた、そう仰っておられましたよ。自分はもう、ハルではなく。ゼオロなのだ、と」
「変わらないで、うじうじしているのは。俺だけか」
「……ヤシュバ。これは、言うか悩んでいたのですが。そうまでして、ゼオロ様を。ハル様を、手にしたいのですか」
「手にしたい、のかな。もう、わからなくなってしまった。最初から、俺なんか、ハルには必要無かったんだなって。そう思う様にもなった。それでも、タカヤとしての俺には必要だった」
「あなたには、何もかもが揃っているというのに。いくらでも他人から好かれて、新しい方を見つける事も、決して難しくはないでしょうに」
一層、何もかも忘れて。ヤシュバという一人の男として生きてゆけば、幸せだっただろうと。そう思わずにはいられなかった。この世界に、別々に現れたというハルの事さえ求めなければ。ヤシュバはその腕っぷしと見場と、
それから優しい心根もあって。どんな竜族からも。或いはランデュスの外へと飛び出して、ラヴーワに行ったとしても。きっと、誰からも好かれただろう。
私が、それを伝えると。ヤシュバは身体の動きを止めて、ただ悲しそうに私を見つめる。
「リュース。お前も、ハルと同じ事を俺に言うんだな」
「えっ?」
「誰からも好かれる、とか。なんでもできるだろう、とか」
「実際、そうでしょう」
「そんなに俺は筆頭魔剣士として有能だったか?」
「いえ、どちらかと言えば無能でしたけれど」
この世界に来たばかりのヤシュバの事を思い出して、なんとなく懐かしい気分に浸る。あの頃は、良かったなと。何故だか、漠然と思ってしまう。ヤシュバが不慣れな筆頭魔剣士の仕事で躓く度に、私は溜め息を吐きながら
手を差し出して。仕方のない方だと、何故だか私は思ってしまって。腕っぷしも何もかもが、私よりも優れたヤシュバが、私に困った顔で頼ってくる事が、私は嬉しくて。少しだけ、得意気になって。
けれど、それを壊したのも。結局は私だった。
「でもそれは、異なる世界の、まったく想像の付かぬ役職の椅子に突然座れば。誰だって、そうなりますよ。そして今のあなたは、まあ満点を差し上げる程ではないけれど。少しずつ、着実に。筆頭魔剣士の座を、たまたま
座った物ではなく。確固たる物へと変えている事は。私にはわかります」
「それに。俺は、誰からも好かれる様な奴じゃないさ」
「そうでしょうか。あなたの事を熱く見つめている兵なんて、一体何人居るんだって話だと思いますがね。流石、ゼオロ様はその辺りの事はよくわかっておられると思いますが」
「お前は、ハルと似ているな。俺をそんな風に見て。それから、自分には何も無いと。そう思っているところも」
「……私には、何もありませんよ」
「そんな訳、ないのにな。ハルも、そうだったが。何も持っていないと、そう言って。俺はなんでも持っていると、そう思って。でも、本当は逆じゃないか。今の俺を見れば、そんなの誰だってわかるだろうに」
「ヤシュバ」
「お前が帰ってきた時の、ドラスや、ユディリスや、ギヌス殿の顔を。お前はしっかりと見たのか。特にドラスなんて、目に涙まで浮かべていたのに。狡いな、お前達は。そんな相手が居る癖に、自分には誰も居ないのだと、
そんな顔をして。上っ面だけの奴らが集まっている俺の事を、羨んで。俺はそんな奴らより、ハルを。お前を。ずっと、欲しがっていただけなのに」
「私は、あなたの物ですよ。ヤシュバ」
「竜神の前でも、そう言えるのか」
「それは」
つい口走ってしまった言葉に、今更後悔が募る。ああ、そういえばと。そう思ってしまう。自分は竜神の物であったのだと。竜神の、駒であったのだと。どうして、そんな事すら忘れて。今、それを口にしたのだろうか。竜神にも、
ヤシュバにも。失礼である事はわかっているというのに。浅ましい物だと思う。筆頭補佐を長年務め、またヤシュバにもランデュスのためにと口にしていた癖に。いざ筆頭補佐を辞めれば、こうしてそんな事を忘れたかの様な
言葉を口にしてしまうのは。
「申し訳ございません」
「もう、いい。……俺は、ラヴーワに勝つから。ランデュスのためになるから。だから、安心してくれ。リュース」
おずおずと、ヤシュバがまた腰を動かしはじめる。何かを言おうとした私の口から、途端に喘ぎが漏れる。こんな時でも。私の身体は、ヤシュバから求められている事に無上の喜びを感じて。話の続きなど、どこかへと
行ってしまう。ヤシュバもそれを望んでいるのだから、仕方がない事でもあったが。
それでも、ヤシュバが私の中に精を放つために、私の身体を強く抱き締めた時。私はそれに縋って、強くヤシュバを呼んで、求めた。今だけは、私の全てはヤシュバの物であって。それは偽りなどではないのだと。そう
伝えたくて。
それから、ヤシュバは軍を率いてラヴーワへと進軍を開始した。当然ドラスもそれに伴う事となる。北と南はそれぞれに塞がれる恰好となっているから、ほとんど正面からのぶつかり合いと言っても良い展開になっていた。
残された私は、茫然と部屋で過ごす事が多くなった。ヤシュバに戦場に来る事は禁じられてしまったし、また拷問の日々からそれなりの日が経ったとはいえ、ドラスにも充分に休養を取る様にと、そう言われたのだ。筆頭
魔剣士と筆頭補佐に揃ってその様に言われては、私に抗う術もなかった。その二人が私に態々構ってくるのは、いまだにどうかと思ってしまうが。
「竜神様が?」
ドラスから出してもらっていた謁見の許可が、ようやく出されたと。数少ない竜神からの使いが私の下へとやってくる。随分遅かったなと、それの話を聞きながらも私は思う。筆頭補佐だったのだから、それが通常よりも
大分遅れた状態である事など、私には容易く理解できる事だった。てっきり筆頭補佐ですらなくなった私など、もはや取るに足らぬ存在であるからして、会うつもりもないのかと。ヤシュバに抱かれる日々の中で、考えて
いたものだが。とはいえ竜神からの許しが出たとあって、私はすぐに身支度を整えて。竜神の待つ場へと向かう。
見慣れたはずの、大きな門があった。その中に、小さな。とはいえヤシュバでさえも楽に通れる程の門がある。首が痛くなる程高く見上げる必要のある大きな門と、小さな門が重なっているのだった。竜神が真の姿で
あった頃は、この大きな門をそのまま開く必要があったと言うが。その真偽も私にはわからない。私が門の前に立つと、ひとりでに小さな門が、私を誘う様に開く。
僅かに息を呑んで、私はその中へと足を踏み入れた。ここから先は、竜神の。神の領域だった。
背後で閉じた扉の音を聞いてから、私はふらふらと歩き出した。周りには、人気も無い。竜神は自らの周りに、必要以上に人が近づく事を。それが例え、竜族であっても、良しとはしなかった。また竜神自体が、そもそもが
肉体を持たぬ状態であるが故に、大抵の者では手を出す事もできぬ存在であるから、心配をする必要もなかったが。
ふらふらと、歩き続けて。私は豪奢に設えられた大廊下の、壁に寄って。そのまま壁に手を着く。疲れた訳ではないが、動悸が中々鎮まらなかった。それも、竜神からの言葉を振り返れば、致し方ない事ではあったが。
「ヤシュバ……」
名を、呟く。私の声が、神声の様に届けば良かった。そんなはずもない。きっと今頃は、ラヴーワの軍を見据えているであろうその黒い竜の名を、私は何度か口にする。
「申し訳ございません。ヤシュバ。私はやはり、あなたの物にはなれそうにない」
しばらくは、そのままで。けれどやがては落ち着きを取り戻して。私は顔を上げた。
一度部屋へと戻り、改めて身支度を。旅の支度を整える。それも済んだら、馬屋へと足を運んで。私を見て訝しむ馬番に、竜神からの使いの証を見せると。駿馬を都合してもらい、それに跨って。私はランデュスを後にする。
馬を駈り、西へ、西へと向かった。ヤシュバの翼で通ったばかりの世界を、今度は馬の足に我が身を託して、向かう。カーナス台地へと、向かった。
誰に咎められる謂れも、また誰に遠慮をする必要も無かった。筆頭補佐でなくなった私には、既に面倒を見る必要のある相手などは居ないのだから。たった一人、我が身だけが全てであって。それ以外など何もありは
しなかった。駆ける馬と、馬上の私の影を。陽の光が照らす。前に現れた影が、後ろへと移動をして。その内に闇に紛れた頃に身体を休めて。朝になって、陽が昇って。また影が、私の先へと。私を急かす様に現れては、
消える事を繰り返した。随分前に、ランデュス軍が通ったであろう街道を、私の駆る馬だけが、走っていた。
やがて、それが見えてくる。遠目からでも確認できる、新しい姿を得て、新鮮な印象を見る者に与えるカーナス台地が。しかし今は、竜族の軍が詰めているために、街道を進むのもそろそろ限界が生じてきた。街道を外れて、
私は馬上から魔導を駆使する。竜族の鼓動を辿って。その鼓動の感じられぬ場所を探り当て。そこを通る。それでも空兵の存在があるからして、その内に移動は夜だけとなり、なかなかはかのゆかぬ事となった。それでも、
やがてはそれも終わりを告げる。目の前に広がるカーナス台地を、私は見上げた。ランデュス軍が詰めているとはいえ、その全てを完全に覆っている訳ではない。私の力を駆使すれば、抜け道を見つけて近づく事はできた。
馬を下りて、繋ぎもせずに。労う様にその身体を軽く叩いた。つい先日、ゼオロと立ち寄った地だ。ラヴーワ側と変わりなければ、こちらも悪路。ランデュス軍は道を切り拓いているだろうが、私はそんな事をしている暇は
無い。馬での移動は、ここまでだった。ここまで来れば、昼間でも移動はできる。空兵の目だけに、注意を払えば良かった。今の私は、ランデュス軍にも見つかる訳にはいかなかった。ヤシュバはまだ、私がランデュス城で
大人しく帰りを待っていると、そう思っているのだから。
起伏の激しい大地の上を、私は身軽に飛び越えて、上ってゆく。視界の外から、僅かにランデュス軍のざわめきが聞こえて。私はその裏を通って、上へ、上へと。あの場所へと。狼族がこの地を呪った、最初の場へと
向かっていた。元よりその辺りはカーナス台地を超える際には回り道となる場所であるし、また狼族の呪いという事もあって、兵は気味悪がって近寄らぬ場となっているから。途中から、誰かに見つかる恐れを考える
必要も無くなっていた。空兵だけが、時折遠くから遠慮がちに偵察をしているのが見えるだけだ。その程度なら、私の力で見えぬ様にする事もできた。
カーナスの、高台が見えてくる。陽は上り、私の青の鱗を照らした。嫌な物だと思う。無心に、高台を目指している今でさえ。私の青は、私の集中を乱すかの様に。青く煌めくのだから。
最後の、高台へと通じる坂へまもなく辿り着く、その時。不意に、私は物音を感じ取った。それも、金属と金属のぶつかる音だった。この場には、ふさわしくない音。竜に限らず、獣に限らず。誰もがここで争う事は、それも
狼族があの日、大量に殺されたこの場では、避けたいと思うのが心情だろうから。
ヤシュバかと、そう思った。しかし何度もぶつかる音が聞こえるので、すぐにその考えを改める。ヤシュバを相手に、そんなに長く対峙していられる者が居るはずもない。
岩陰から、そっと目をやれば。そこに居たのは、全身をローブに包んだ、大柄で男と思われる者と。それに対峙するにはあまりに小さく、また幼く見える程の、獅族の少年だった。獅族の被毛は、通常の獅子のそれ
だったが。私はすぐに、それが誰なのかを察する。
私が、駆け出そうとした時。獅族がこちらへと視線を向けた。その僅かな隙が、いけなかった。相手の方は、その隙を見逃さなかった。飛び出す様に突き出したナイフの先が、少年の胸へと確実に抉り込まれる。小さな身体が
宙を舞って。けれど相手の方は、その身体が大地へ叩きつけられるのも見ずに、私の方へと向かってくる。素早く剣を抜いて、それにぶつかった。ナイフだが、かなり大振りなそれは、私の剣をしっかりと受け止めて、それどころか
弾き返さんとする勢いを持っていた。見掛け倒しではなく、その偉丈夫は確かに、相応の膂力を持っている様だった。正面からの力比べでは、私でも厳しいかも知れなかった。
しかしだからと言って、私が苦戦をする様な相手でもない。数度打ち合い、劣勢を演じるだけで良かった。舌打ちをしながら後ろへ跳ぶ私を、男が追いかけた頃に、ただ足を踏み鳴らせば。男が踏み越えた場所から伸びた
氷柱が、その腰を貫く。僅かに身動ぎをした男に、私は笑みを浮かべて。その懐へと飛び込んだ。ほとんど無造作に、空いた手を伸ばして。その腹へと触れる。それだけで良かった。私の手に集めた魔力が、そのまま相手の
腹に叩きつけられて。私の掌に、皮膚の向こう側、体内に仕舞われている内臓をすり潰す感覚が伝わってくる。頭上から、僅かに咳をする音が聞こえて。そのまま私は一歩下がってから、勢いを付けた蹴りをぶち込んで、
男を岩壁まで吹っ飛ばした。口元から血が溢れたのだろう。僅かに漏れ出た赤い血が、大地を模様となって彩った。
「身の程を弁えろ。竜族でもない、赤い血の者が。私に勝てると思うなよ」
岩壁に叩きつけられた男は、そのままずるずると座る恰好となって。何度か咳き込んでいる様だったが。私もまた、それを長い事見なかった。魔導に通じていなければ、それで死ぬし、男から感じられる気配で、男にその
素養が無い事は私にはわかっていた。所詮いくら身体を鍛えようが、それだけでは生き残る事もできはしない。
それよりも。私は、倒れたままの獅族の少年の下へと走った。それは、倒れたまま動かずに。しかし近づくにつれ、僅かに痙攣を起こしている事が見て取れた。
「ヒナ」
ぐったりとした、獅族の少年を。ヒナを、私は抱き上げる。胸の傷口から、血が流れていた。咄嗟に、それを治療しようとする。しかし私が治療を施すと、ヒナは何度も咳き込んで、その度に赤い血を口と、傷口から溢れさせた。
それは、半ば予想できた事だった。たった一撃加えただけで、あの男はヒナから私へと標的を変えたのだから。血の臭いに混じって、別の異臭を私は感じ取る。毒だった。あの男が、ヒナを態々襲う道理はない。ヒナには、
そんな価値は無いのだから。私を、或いはヤシュバでも、狙っていたのかも知れなかった。力では竜族を捻じ伏せる事は敵わぬのは道理であるから、この様に毒を用いて。竜族を殺すための毒を受けたヒナの身体は、もはや
私の治療を受け付けぬ状態となっていた。
「リュース様」
がくがくと震えながらも。ヒナは懸命に顔を動かし、口を開いて。私を見て、私の名を呼んだ。その表情から、もうこの少年が、それ程長くはない事を察する。
「お前、何をしに戻ってきた」
「無事、ですか? 怪我は」
「ある訳がないだろう。お前とは、違う。もう片付けたぞ」
「よかった」
そう言って、ヒナが笑う。笑いながら、しかし苦しそうに呼吸と呻きを漏らしては。その身体は、変わらずに震え続けていた。
「どうして戻ってきたんだ。私の下に戻る必要は無いと、そう言ったはずだ」
「守りたかったんです」
「お前に守られる私だと、本当に思っているのか。思い上がりも甚だしいな」
「ごめんなさい。でも」
そこで、また咳が出る。赤い血の量が、多くなった。不思議な物だ。赤い血は、いつだって竜族以外の血であるからして。それがいくら飛び散ろうが、流れようが。そんな事は、私には歓迎するべき事でしかなかったというのに。
それでも、その内にまた、吐き出す血の量も減ってくる。震えも、少しずつ治まりを迎える。そんな余裕すらなくなって。そうしたら、その内に。その身体も動かなくなる事を、私は知っていた。
「お前は、もう死ぬのだな。まだ、こんなに若いというのに」
ヒナが、乾いた笑みを浮かべる。目尻に、僅かに涙が浮かんでいた。
「ヒナ。どうせ死ぬのなら、私に教えておくれ。お前の、本当の名前を」
ヒナが。獅族の少年が、僅かに首を振った。
「ヒナ、です」
「それは、私がお前に付けた名だ。私の預かった、お前が。私の下から居なくなるまでの、仮の名に過ぎない」
巣立った雛には、その名前はふさわしくはなかった。けれど、私がそう言っても。ヒナは決して譲ろうとはせずに、何度も首を振って。それからまた、笑った。
「ヒナで、良い。ヒナが、良いです。俺。リュース様の付けてくれた名前が、良い」
「どうして、そこまで」
「……父親みたいに、思って、いました」
「お前の父親なら、ランデュスの下町で飲んだくれているか。適当にどこかで野垂れ死んでいるだろうよ」
「だから、です。だから、リュース様の事を、守りたかった」
「無駄死にだな。お前が居なくても、私にはなんの障害にもならなかった。勝手に戻ってきて、勝手に死んで。本当に、愚かとしか言えんな」
本当に、馬鹿な事をする物だと思う。居ても居なくても、変わらないのなら。さっさとどこかに行って。好きな様に、生きていれば良い物を。てっきり、そうしているのかと思って。私は思い返す事もしなかったというのに。
「良いんです。俺、どうせ、あそこでリュース様と、ヤシュバ様に拾ってもらえなかったら。きっと、そのまま死んでいたから」
「拾った命を、むざむざ捨てるというのか」
「だから、リュース様のために使いたかった。……生まれてきて、よかった。でも、リュース様の事は、守れませんでした。ごめんなさい、リュース様」
それだけ言って。僅かに震えて。それから、ヒナはもう何も言わなくなった。瞼を閉じて、口元に笑みを浮かべたまま。動かなくなった。
「ヒナ」
揺さぶって、何度か声を掛けた。先程までと変わらぬ様に見えて。けれど、それはもうなんの反応を示す事もなかった。
「もう、私の声も、聞こえないのか。ヒナ」
揺さぶっていたヒナの身体に、不意に変化が訪れる。獅子の、黄褐色の被毛が。徐々に黒く、染まって。いや、戻ってゆく。程無くして、それは私の記憶に中に僅かに残っている、本来のヒナの被毛の色へと。黒い獅子の
少年の物へと戻った。それは、私にはヒナが本当に死んだ事を伝える物に等しかった。私から、ヒナへと教えた魔法。ヒナは自分に掛けていたから。ヒナが死ねば、その魔法もまた役目を終える。黒い獅子は目立つからと、
私が伝えた魔法。
黒い獅子に戻ったヒナの身体を、少しだけ強く抱き締めた。
「不憫な物だな。あの時、お前を拾わなければ。お前は死んでいただろう。しかし私が拾っても、結局お前が若くして死ぬ事は、何も変わらなかったのだな」
どうせ、どう生きたとしても、私と比べれば短い命だった。私に対して、何をするにも力不足。居ないも同然だと。そう思ったから、最低限の事を教えて。さっさと放してやったのに。
ヒナの身体を、抱き上げる。背は低い癖に、身体はしっかりとした筋肉に覆われていて。拾った時の、今にも死に絶えてしまいそうな様子はどこにもなかった。それで、死んでいるのだから。一層滑稽だった。
「すまないな、ヒナ。今は、時間が惜しい。事が済んで、私がここに戻ってこられたら。その時は、改めてお前を手厚く葬ろう。しばらく、待っていてはくれないか」
ヒナの死体も、また岩壁へと預ける形になる。ただし、私が始末したあの大男とは反対側だが。丁度、カーナス台地への高台へ続く坂の両側に、それぞれが座る様な形になる。
座らせたヒナの身体の前で、私は一度跪いて。その手を取った。掌もまた、ごつごつとしていた。若いなりに、相当な訓練を自らに課していた事だけは、伝わってくる。それでも、所詮はその程度だった訳だが。
「どうしたら、良いのかな。獣の場合は」
黒い、獅族の掌に。私はおずおずと頬を擦り付ける。獣のする事は、わからなかった。竜族の事なら、わかるというのに。そうして、少し濡れたヒナの手を、やがては離して。それから私も、立ち上がって。数歩下がって、
ヒナから離れる。
皮肉な物だ。今なら、ヤシュバが私に言った言葉が、よくよく理解できる。理解したと同時に。失ってしまったが。
ヒナの事を、長くは、見つめてはいなかった。坂の上、高台へと。私は視線を移す。ヤシュバの気配が、この先からしていた。
坂を、ゆっくりと私は上ってゆく。途中、振り返った。俯いた、黒い毛むくじゃらの獅族の少年は、変わらずにそこに居て。
「生まれ方を選べないというのは、辛い物なのかな。私とて、それは変わらぬが。……だが、その生き方を。そうして、死に方を選んだのは。ヒナ。紛れもなく、お前だったのだな」
坂の上へと、視線を戻した。この先に、ヤシュバが居る。
私はもう、振り返らなかった。