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37.ランデュスの進軍

 一人ぼっちの帰路を、俺は馬車の中で堪能していた。
 なんとなく、あの時と同じだなって思ったけれど。でも、今回は死別したとか、そういう訳じゃなくて。相手が待ち望んだ迎えが来てくれたのだから、まだましかなって、そうも思う。
 馬車の窓から外を見れば、馬を駈ったクロイスが、時折背後を振り返りながら兵の様子を確認していた。
 カーナス台地からの帰り。俺はぼんやりとそれを眺めてから、また正面を見て。来る時はそこに座っていた人の不在を、今更ながらに少しだけ、寂しくも感じていた。
 カーナス台地を俺が呪いから解き放ったと同時。ランデュスの筆頭魔剣士であるヤシュバはこの時を待っていたと言わんばかりに、その黒い翼を広げて飛来しては、高台に居る全員を退かせて、首尾よく俺と共に居た
リュースの手を取って、悠々と空を飛んでその場を後にしてしまったのだった。あっという間の出来事が過ぎ去って。けれど、場に広がった空気は安堵のそれだった。それは、ヤシュバと戦わずに済んだという安心もあれば、解放
されたとはいえ、つい先程まで暗黒の地として幅を利かせていたカーナス台地の上で、新たな死者が出る事を皆が恐れていたからでもあった。クロイスは兵の動揺を見て、即座に彼らを落ち着かせて。それから帰還命令を
下していた。クロイスが直にそれを告げると、兵達はヤシュバを前にして何もできなかった事を恥じ入る様子を見せながらも。それでも表情には安心の色を滲ませていた。元々が、今回は戦をする様な備えをしていた訳
じゃない。そもそもリュースが本気で暴れても、どうしようもできない程度の兵しか居なかったし、ガーデルが駆けつけるまでの時間稼ぎという態だったのだから。そこに突然に現れた筆頭魔剣士のヤシュバと戦わずに
済んだのならば、誰もが心から安堵しても、それは責められるべきではなかった。
 ただ、一人だけ。ヤシュバがカーナス台地へ下り立つ前に、直接交戦したというガーデルの存在が、俺は気がかりだった。
「少し休んだら、俺も戻る。気にせずにお前は戻れ。今ヤシュバが戻ってきては。それこそ、誰もお前を守る事ができない」
「でも、ガーデルさん」
「安心しろ、空を飛ぶぐらいはできる。すぐに、追いつく」
 青い血に汚れたガーデルが、そう言う。ガーデルの心配をしながら、俺はその青い血が、なんだかとても不自然に見えて。ちょっと戸惑ってしまう。赤い鱗に覆われた、炎の化身の様なガーデルの身体からも、竜族で
あるのだから当然とばかりに青い血が流れていて。どれ程今出血しているのかが嫌でもわかってしまう。
 ガーデルの言葉は、強がりかと思ったけれど、それは嘘ではない様で。だから俺は、心配だったけれど結局はガーデルをその場に残して戻る事になる。確かに俺を狙ってヤシュバが戻ってくるのは、とても困るし。できれば
ガーデルを連れていきたかったけれど、生憎俺の使っている馬車にはガーデルを乗せる程の余裕が無いし。翼もあれば、体格も勝る分。リュースよりもずっとガーデルは重いし、そもそも馬車の造りがちょっと合わない
状態だ。ランデュスなら、ガーデルの体格を考慮した馬車があると思うけれど。少なくともこの場にはそんな都合の良い物は置いてはいない。
 そんな訳である程度の後始末を終えて、ガーデルを残した俺とクロイスは先に帰途へと着いていた。時々クロイスが馬車に乗ってきては、俺の相手をしてくれながら。やがて俺はラヴーワへと戻って。そしてまた、
ワーレン領に入ると、フロッセルの街へと。ジョウスの館へと戻る。
「ただいま戻りました」
 俺を出迎えたのはジョウスとクランで、ジョウスはいつも通りといった様子だったけど、クランはそれとは比べようも無い程にきらきらと輝いた瞳で俺を迎えてくれた。既に早馬の報せもあって、俺がカーナス台地の解放を
やり遂げた事は伝わっているのだろう。俺が馬車から下りると、待ちきれないと言った様子でクランが走り出して、俺の手を取ってくれる。
「おかえりなさい、ゼオロ様。無事に、カーナス台地を解放されたんですね」
「う、うん」
「良かった。これで、ゼオロ様が狼族の族長ですよ。もう、誰にも文句は言わせませんし、ガルマ様も安心して養生できますね。準備ができたら、ここを発って。まずはガルマ様にご報告にあがりましょう。ガルマ様の
下にも既にカーナス台地の報せを出してはおりますが、こうなった以上、ゼオロ様が直接報告に向かい。そしてガルマ様に、正式な狼族の族長になる事を言い渡していただかないと。えっと、それから」
「クラン。ごめん、疲れているから。少しだけ、待っていてくれないかな」
「あっ。ご、ごめんなさいゼオロ様。私」
 実際、俺が疲れているのは事実だった。行きも帰りも、まあ落ち着いた旅ではあったけれど。だからといって、疲れない訳じゃない。クランは俺の様子を改めて見て、とても失礼な事をしてしまったと、耳も尻尾も下げてから、
慌ててまた後でと言って俺を中へと案内しようとする。そうすると、俺が次に顔を合わせるのはジョウスになって。その頃には、馬を預けたクロイスも俺の隣へと来ていた。
「おかえりなさいませ、ゼオロ殿。カーナス台地の解放、おめでとうございます」
「ありがとうございます。ジョウス様」
 出迎えたジョウスは、本当にいつも通りに俺に接してくる。けれど、俺はその相手をする自信が今は無かった。カーナス台地で見せられた光景は、あまりにも凄惨な物で。そんな事は、わかっていたはずなのに。それを
思い出すだけで、ジョウスの顔をまっすぐに見つめられない。ジョウスだって、それを気に病んでいたから。今回無理をして俺を送り出してくれたのは、わかっているというのに。
「けれど、申し訳ございません。リュースが、ヤシュバの闖入によって」
「ええ。それも聞き及んでおります。ですが、この際それは良しとしましょう。ともすれば、そちらだけが果たされていたかも知れぬというのに。カーナスの解放を成し遂げられた。それだけで、もはや私から言う事はありません」
 短い挨拶を済ませて、ジョウスは姿を消す。残りは、また後で会った時だ。表でこんな話は長く続けて良い物ではなかったし。
 クロイスと一緒に、その部屋へと戻って。俺はようやく肩の荷が下りたと、そのままベッドに飛び込んで惰眠を貪る。それはクロイスも同じ様で。この時ばかりは一緒に寝ようとか。そんな恋人らしい甘い言葉を、でも
甘いが故にちょっと面倒臭い事も言わずに。別々の部屋で黙って眠ってくれていた。なんかもうそういう余裕も無いし。
 次の日の夕方。長々と眠っていた俺は、部屋の外へと出ると。丁度同じ様にでてきたクロイスと共に今更な朝食を共にして。それからジョウスに連絡をしてもらい、頃合いを見て会いにゆく。クランも俺に会いたがっていた
そうだけれど、生憎そちらの相手は後回しにせざるを得ない。クランも、ジョウスが先だと断れば、仕方ないと納得はしてくれた。それに早馬で届けた以外は、入口で軽く言葉を交わしただけで。到底ジョウスに全ての
説明ができたとは言い難かったし。
「俺も、行こうか?」
「ううん。少し、ジョウスさんとも話したい事があるから。クロイスは、悪いけれど。クランが妙な事をしないか。そっちの方をお願い」
 クロイスに見送られて、俺はジョウスの使いに案内されて、その部屋を訪ねる。扉を開ければ、ジョウスが一人で窓から外を眺めているだけだった。俺が扉を閉めた頃に、ジョウスが振り向いて。それから、静かに
一礼してくれる。なんとなくその態度だけが、少しだけ浮いて見えた。いつもなら、皮肉そうに笑って、すぐに何かを言うだろうに。
「お礼を申し上げます。カーナス台地の狼族の呪いを、解き放ってくださった。ありがとうございました、ゼオロ殿」
「いいえ。私は、自分にできる事をしただけです」
「仔細をお伺いしても、よろしいでしょか」
 それに頷いて。俺はカーナス台地の顛末をジョウスへと伝える。とはいえ、ハゼンの事は相変わらず伏せて。それから、アララブの事も伏せたけれど。あれは口にしてもややこしくなるだけだと思って。それから更に、リュース
からの発言である、俺が白き使者ではないか、という事も伏せた。これは確証が無いし。第三の異世界人の存在も気になる。これは後で、ミサナトの一件をそれとなく聞いて、それからでも遅くはないだろう。そんな訳で、
結局のところ俺が口にしたのは、グンサの霊に会った事と。グンサに、当時の様子を幻の様に見せられた事。それから、呪いが晴れた後の、ヤシュバの登場についてだった。
「ふむ。呪いの事は、当然興味深いし。また今回の主な目的はそれだから良いのですが。まさか、あのガーデルが本当にヤシュバに遅れを取る、というのは。末恐ろしい物ですねぇ。あなたのご友人の、ヤシュバも」
 若干棘を織り交ぜながら、しかしジョウスの興味はそちらへと向いている様だった。とはいえ、カーナス台地は今回の事で無事呪いから解放された訳だし、興味がヤシュバへと。これから向かい合わなければならない壁へと
移るのは、仕方がない事だったけれど。できれば俺は、そんなにあっさりと興味を切り替えたりしないで。狼族の事を、もっと見てほしいなって。そう思ってしまう。別に、どちらか一方に味方するつもりはないけれど。カーナスで
見せられた幻だけを取り上げるのなら、今俺の目に前に居る元凶であるジョウスなんて、本当にどうしようもなく嫌な奴で、最低だって。そう言うのは簡単だけど。ただ、今の狼族がひたすらに銀狼を崇拝する傾向も、決して
褒められた事ではないのを俺は知っているし、また体験もしていたから。ここに立っても、露骨にジョウスを睨みつけたりとか、そういう事はしないで済んだ。赤狼の件もあって、俺だって狼族の全てに賛成するとか、そういう
状態ではなかったから。
「リュースの件は、よろしいのでしょうか」
「ええ。ただ殺してしまうよりは、有意義な使い道だったと思いましょうか。それに、どうもガーデルが言うには。リュースは以前よりも力が衰えたそうですからね。それから、元々青い竜として、同族からも良い顔はされぬ
身の上ですから。失脚をした彼は、もはやランデュス軍の中で上に立つ者としては扱われない。それだけでも、充分と見做すべきでしょう」
 だから、あんなにあっさりとリュースを連れだす事を許可したのだろうか。とはいえカーナスを案内できるのもまた、リュース以外には居なかったのだから。この点も俺からどうこう言う訳ではないけれど。
「ジョウス様。……これて、狼族からは歩み寄った形となります。ガルマ様も、狼族とスケアルガの和解をと、確かに仰ってくださった。今後は、どうなされるおつもりですか」
「さて。とりあえずは、ギルス領の、ガルマの私兵の力を借り受けられるか。まずはそこからでしょうか。戦を前に、兵は出さぬと領地に引き篭もられても、到底和解とは口ばかりと言わざるを得ない」
「それは、わかりますが。……その。ジョウス様からは、何か」
「何もする気はありませんよ。というより、例えカーナス台地が解放されたとしても。私から何かをする、というのは。相も変わらずに、狼族の方が嫌な顔をするでしょう」
 そう言われて、俺は少し俯く。それは、その通りだと思う。例えば今からジョウスがファウナックまで訪いを入れて。病床に伏したガルマの手を取り、これからは共にラヴーワを支えていこう、なんて言ったとしても。それはなんの
茶番だとしか思わないし、また周囲もその様にしか受け取らないだろう。俺でもそう思う。というか、あまりにも白々しい。カーナス台地のあの光景を見た今となっては、寧ろそんな事をジョウスがする様なら、俺は軽蔑したと思う。
「ゼオロ殿が今回の件で粉骨砕身してくださった事を、無駄にする訳ではありません。ただ。私が何かをする事は、余計な反発を招く事を。私程、知っている者は居ない」
 なんとなく、言いたい事はわかる。でも、だったらそれを盾にして何もしないのだろうかと、俺がジョウスを見ていると。その厳しい豹の顔が、不意にふっと笑みを湛える。
「ゼオロ殿。あなたに、こんな事をお願いするのは、正直なところ気が引けるのですが。クロイスの事は、お願いしますね。あれはまだまだ、若輩の身。あなたを追ってカーナスに出向いてしまうくらいには、周りも見えては
いないですけれど。それでも、狼族との和解を確実な物にするには。今後は、クロイスの様な人材が必要ですから。もし、クロイスが苦しい時は。その時は、どうか。あれを支えてあげてください」
「……ジョウス様は。このまま、軍師を辞するおつもりなのですか」
 驚いて。俺は思わずそれを口にしてしまう。けれど、ジョウスはしばらくは、意味深な笑みを浮かべているだけだった。その口が、やがて開く。
「狼族と、スケアルガの和解。己の死期を悟ったと思われるガルマは、今だからこそあなたを呼び寄せて、そしてカーナスの呪いも解放させた。呪いと、ギルスの直系であるガルマ。その二つが消えるというのならば。あと
一つだけ。今後の狼族の動向を左右し、また狼族の和解の妨げとなる人物として、私が残ってしまう。時至る事があるのならば。私は軍師を辞して。軍からも去りましょう」
「正直、驚きました。ジョウス様が、そこまでお考えであるとは」
「勿論、それは今ではありません。というより、今私が軍師を辞してはそちらの方が問題となってしまう。人材の育成もしておりますが、やはり戦時とは違い、休戦時となると。これはと思う人材をすぐに見つけられはしないし、
また戦を実際に経験しない事には、全幅の信頼を寄せる訳にもゆかないですからね。それはクロイスとて変わらない。相談相手とするには、中々に良い息子ではありますが。しかしあれにはあれの理想があって。そのために、
私の後任となり得る器に育たぬというのならば。私はあれを軍師としていずれ推挙するつもりはない。そういう訳で、狼族の方々には申し訳ない事ですが。私はもうしばらくは、軍師を続けさせていただきますよ。今まさに
ランデュスとぶつかり合うという時になって、そんなに簡単に辞められる物ではありませんしね」
「そのお言葉だけで、私には充分です。ジョウス様が、狼族の事を考えてくださっているのならば。狼族であり、また銀狼でもある私がこう言ってはなんですが。あとは狼族と、ジョウス様の問題なのでしょうからね」
「そうですね。異世界人であるあなたは、充分な程に私の言葉を耳に入れてくれたし、また手を貸してもくれました。改めて、それにはお礼を申し上げなければなりませんね。クロイスの事は、本当はまだ少し、気になって
いますがね。あなたが、狼族寄りにならなくて良かった。もしあなたがそうであって、それでいてクロイスを籠絡せんとするのならば。やはり私は、あなたに何かしらの手を打たなければならなかったでしょう」
「そうですね。ところで、このまま順当に行けば。私は狼族の族長になってしまいそうです。早速、手を打っていただけますか。私の昇進を、阻んでいただきたいのですが」
「皮肉な物ですね。あなたが乗り気ならば、私は言われずとも喜んで手を打ったでしょうに。それが今は、あなたから乞われてしまうとはね」
「先程、ジョウス様が仰られた通りです。狼族が、独立の道を進むのではなく、ラヴーワの民として生き続けるのならば。私が狼族の族長になるのは、やはり好ましくない。せっかく、カーナスの呪いを解き放ったというのに」
「それが故に、あなたを族長にとの声が高まるのだから。尚皮肉な物だ」
 本当に。皮肉な話だなって思う。俺は狼族とスケアルガの因縁に決着を付けるために奔走しているというのに、その結果で俺は狼族の族長として乞われて。それに素直に頷けば、俺自身がまた、因縁の片棒を担ぐ事に
なってしまうのだから。けれど俺はそうする訳にはいかなかったし。またそのための事も、ジョウスには事前に伝えてあった。
「ですが。本当に、よろしいのですね。私はあなたの交友関係がとても広い事は知っておりますが。その全てに、まったく問題が発生しないとは、請け合えません。少なくともあなたの身の危険などは、私の力の及ぶ限りでは、
払わせていただきますが。あなたが狼族の族長を辞退してくれる事と比べたら、あまりにも細やかですが」
「それで構いません。それに……それに。仕方がない事ではありましたが。私はこれ以上、誰かを騙していたくはありません」
「そうですね。あなたは異世界人ではあるけれど。もう、この世界の人でもあって。そうして、ここで生きておられる。元の世界に戻られるおつもりも無いと言う。いつまでも、嘘の仮面を被っていても詮方ない。では、数日
時間を下さい。最低限の根回しは必要ですから」
「お願いします」
 ジョウスと軽く打ち合わせをした後に、俺はその場を後にする。なんだか、どっと疲れた気がする。まあ、まだカーナスから戻ってきて一日しか経ってないというのに。今度は俺の身の振り方についての相談が待っていたの
だから、仕方がない事だけど。
 部屋に戻ると、クロイスと。それから、いつの間にやってきたのか。クランが相変わらずにこにこ笑いながら俺を迎えてくれる。
「クラン、来てたんだ」
「はい。ジョウス殿とのお話が終わるのを、待っていました。それで、いつ頃ゼオロ様はファウナックへお戻りに」
「もう少し、待ってほしいかな。いきなり帰るのも、なんだから」
「そうですか。まあ、私の方はもうしばらくはここに居ても問題ありませんので。それでも、ガルマ様がお待ちですから。どうかお早めに」
 そう言って、じゃれついてくるクランの相手を適当にしてから帰すと。二人きりになってからクロイスが盛大な溜め息を吐く。
「疲れたわ」
「ごめん。そんなに煩かった? クランは」
「煩いっていうか。ゼオロが族長になったらどうな風になるのかをただただ並べ立てるから、しんどかったわ」
「……お疲れ様」
 クロイスの部屋へと移動して。それからいつもの定位置で、ベッドに座ったクロイスの膝の上に俺は連行される。俺のベッドが凄く遠い。
「それに。ゼオロ様が族長になったら、もうここには来ないですねとか。別れないといけないですねとか。ああもう、なんなのあれ。嬉しそうな顔して言うなよ。割とむかつくわ」
「ご、ごめん。そこまで言うとは」
「ゼオロちゃんに謝ってほしい訳じゃないけどさぁ。それに、まあ。それだけゼオロが来てくれるの、待ってるんだろうけどさ」
 そこまで言って、クロイスが俺の身体を抱き締めてくる。なんだかいつもよりも強い力で。
「わかってたつもりなんだけどさ。周りから、よく見られない事くらい。でも、あんな小さいのにまで、あんな風に言われるのって。結構辛いもんなんだね」
「そうだね。私も、クランが最初にそう言ってきた時、嫌だったし」
「……なのに、ゼオロちゃんは族長になっちゃうの?」
「それは、心配しなくていいよ。そんなつもりじゃないし」
「親父となんか話してたっけ、そういえば。じゃあ俺、まだまだゼオロの恋人で居ていいんだね」
 なんとなく弱気な発言。多分、カーナス台地で俺がグンサと言葉を交わして、何もかもを見たから、なんだろうな。クロイスにも、カーナスでの事は話したし。なんというか、俺がこう思うのもなんだけど、不憫だと思う。別に
クロイスは、ジョウスの息子であるというだけなのに。こんなに肩身の狭い思いを今しないといけないのだから。
「クロイス」
 俺が少しだけもがくと、クロイスは腕の拘束を解いてくれて。そのまま俺は振り返ってから、クロイスの胸に頬を寄せて見上げる。
「カーナスの事も、何もかもを知っても。私はクロイスと一緒が良いよ」
「ゼオロ……」
 少なくとも、俺はクロイスと一緒に居たい。もしもリュースが口にした様に、俺が白き使者であって、そうしていつかは離れなければならなくなる日が来るのかも知れなくても。今だけは、こうしていたい。
 そんな事になったら、クロイスはどっちを取るのだろうか。俺が白き使者として、ヤシュバと手を取り合えば。この涙の跡地を覆う結界は無くなって。だから、戦争をする理由もほとんど無くなって。それはきっと、和平へと
繋がる大事な一歩になるだろう。でも、そうなったら俺はもうここには居ないのかも知れない。ヤシュバと一緒に行く、というのが。どこまでも一緒、という事なのかはわからないけれど。そうなったら。クロイスは俺と、和平と、
どちらを選ぶのだろうな。俺は、どちらをクロイスに選んでほしいのだろうか。それも、よくわからない。俺を選んでほしいと言ったら。やっぱり俺は、クロイスの夢の邪魔をするだけなのかも知れないから。
「クロイスは。もし私が狼族の族長になったら、もう恋人では居てくれないの」
「……それは、流石に親父も許してくれないと思うよ。それから、狼族も」
「クロイスがどうしたいか。訊いてるんだけど」
「離したくないに、決まってるだろ」
 片手で、俺を抱いて。そのままクロイスがもう片方の手で俺の頬を捉えて、口付けをしてくる。俺はされるがままに、それを受け入れて。クロイスは角度を変えて、何度も、何度も俺の口を貪ってから。俺が息切れを
してきた頃に、俺を押し倒して、その上へと覆い被さる。
「誰にも渡したくない。ヤシュバにだって、渡さない」
 また、口付けをされる。息が、苦しい。苦しいのに、苦しければ苦しい程に、それが求められている証なんだって、今はわかるから。だから、嬉しいとも思えた。
 一度離れたクロイスが、自分の服に手を掛ける。上半身が裸になって、少しほっそりと。それでも俺よりはしっかりと、被毛越しでもわかるくらいに筋肉の付いた、若い豹の身体が現れて。それからまた、俺の上へと
降ってくる。少し硬い毛の感触が、脱がされて露わになった俺の被毛に擦れて、くすぐったい思いを俺はする。
「クロイス」
 豹の手が伸びて、俺の敏感な所に触れて。声を上げるために開いた口が、またクロイスの口で塞がれて。
「もし、そんな事になっても。明日、無理矢理に引き離されたとしても。俺はお前だけの物だよ。だから、ゼオロ。今お前を、俺の物にしたい」
 大丈夫だよ。そんな事には、ならないから。そう、言いたかった。けれど俺はもう、必要以上の言葉を吐き出す事もできなかった。ただ、クロイスと。その豹の名前を呼ぶ事だけが、今の俺には許されて。
 鋭い快感を何度も与えられて、何度も射精をさせられて。ぐったりとした俺の身体の上に、苦しそうに息をして、目を細めたクロイスから出された粘つく液体が被さった辺りで。俺は意識を手放した。

 俺がフロッセルの街に戻ってから数日後。毎朝きちんと俺に挨拶という名の急かしをしにくるクランをのらりくらりとかわし続けていると、ついにジョウスが動きはじめる。
「ねえ、ゼオロちゃん。本当に良かったの、これで」
「良いよ、別に。言ったでしょ、私は狼族の族長になるつもりなんて、さらさら無いって」
 ジョウスから発信され、また広まる情報を耳にしたクロイスは、大分戸惑う様子を見せたというか。俺を心配する様な顔をしていた。
「でもさ。これ、絶対クラントゥースが怒り狂うと思うんだけど。というか多分、今日中に来るでしょ」
「それは仕方がない。どの道クランは私の傍に居続けて、族長の席に座らせる名目で私をファウナックへ連れようとしているのだから」
 そう言って、俺は落ち着いて使用人の淹れてくれた紅茶を、僅かに傾けて。マズルから零れない様に注意しながら喉へと流し込む。実のところ、全然落ち着いてなんかいられなかった。ジョウスの発表を聞いたクランが
乗り込んでくる事なんて、他の誰でもなく俺が知っている事だったから。
 そう思っていると、部屋の外から早速悶着をする音が聞こえる。それ程待たずに、扉が乱暴に開かれて。息を切らしたクランが部屋へと飛び込んでくる。
「ゼオロ様」
 ソファに座って、表面上だけは優雅に紅茶を味わっている俺へ速足で近づいてくるクランの表情は、正直怖いくらいだった。狼って怒らせると本当に怖いと思う。まだ子供なのにな。俺にはあんな表情、できないと思う。
「クラントゥース様」
「私に触らないでください」
 クロイスが大慌てでそれを押し留めようとするけれど、クランはそれを振り払って。その頃になって俺は飲み物をテーブルに戻してから、軽く一息吐いて。それから、ようやくクランを見つめる。
「おはよう、クラン。どうしたの、そんなに血相……というか。焦った顔をして」
 人間だったら、きっと今のクランは顔が真っ赤なんだろうなとか。そんな事を思いながら俺は微笑んでそれを迎える。当然、クランを余計に怒らせるためだけに。とはいえ、まだまだクランは子供だから、別にそこまでする
必要は無いのかも知れないけれど。俺の真似をして、今はこんな風に振る舞っているっていっても。所詮真似は真似でしかないのはもうわかっているし。最近の、にこにこしながら俺の所へやってくるのなんかは、まさにもう
自分を繕わなくて良いと安心しきっているからなのだし。
「私を、騙したんですね」
「人聞きの悪い事を言うんだね。一体、なんの話?」
「ゼオロ様!」
 俺へと飛びかかりかねない勢いのクランを、またクロイスが止めようとして。俺は片手を上げてクロイスを制止する。
「良いよ、クロイス。それから、クランも、クロイスには何もしないで」
 俺からの言葉に、クロイスは大人しく下がってくれる。正直申し訳ない。この部屋の主も何もクロイスなんだけど、今は俺がそれを独占しているし。とはいえ、ここでクロイスをクランにぶつけても仕方がないので、クランの
相手は俺がしようとする。クランはその内に座っている俺の前まで来ると、そのまま両腕を伸ばして俺の肩をがっしりと掴んで、顔を寄せてくる。
「異世界人だ、なんて。嘘ですよね? ゼオロ様」
「ジョウス様のお言葉に、間違いはないはずだけど」
「そんな。そんなの、何かの……間違いです。ゼオロ様は、こんなに綺麗な銀を持っているのに」
「それが、異世界人として現れてたまたま得た物だとしたら? 私が遠縁、というか。ガルマ様ですら知らぬ存在であるにも関わらず、これ程の銀を持っている事は、全てその偶然の産物だとしたら。その方が、納得できるよね」
 俺から、ジョウスへの頼み事。それは俺が異世界人であるという事を、大々的に公表するという内容だった。いつそれを公表するべきか、悩んだけれど。多分、このタイミングが一番良いと思って。カーナス台地を解放した
俺は、もはやありとあらゆる意味でもって、狼族の族長にふさわしい存在となってしまった。ギルスの血を絶えさせまいと遣わされたかの様な銀に。そうして、その見場だけではなく、現在の族長であるガルマ・ギルスに
認められ、それどころかカーナス台地に赴いては、カーナスの亡霊に受け入れられ、先代の族長であり、また狼族の英雄でもあるグンサ・ギルスにすらその存在を認められた。グンサが直接俺を認めたかどうかなんて、
他の人にはわからないだろうけれど、それでも俺がカーナス台地に足を踏み入れられた事と、その呪いの全てを解放した事を鑑みれば。概ねそれは納得してもらえるだろう。また、ガルマも。恐らくはその様にカーナス台地が
解放された事を発表する腹積もりだったはずなのだから。
 今の俺は、ガルマの後釜となって族長になる者として、何一つ不足の無い存在であると言えた。そして、だからこそ。俺はジョウスに頼んで、自分が異世界人であるという事を公表してもらったのだった。
 異世界人である、という事が知られれば。当然俺を族長にという声はかなり抑えられる。カーナス台地を解放したという功績があったとしても、それでも所詮俺は余所者である事に変わりはないのだから。少なくとも、
満場一致で俺を、という状態は避けられる。また、既にジョウスから早馬を出してもらったから。ファウナックには俺がカーナスを解放した事と、俺が異世界人であるという情報は、それ程の時間の差も無く広まるだろう。狼族を
ぬか喜びさせてから冷や水を浴びせかける事も、どうにか避けられそうだった。だからあとは、俺の目の前に居るクランだけだ。
「私は信じません。ゼオロ様が、異世界人だなんて。そんな事は」
「その割には、声が震えているね。本当は、私が異世界人であると知って。納得したんじゃないの? 私の振る舞い方は、凡そ狼族の、そして銀狼としてはふさわしくないと。誰もが言っていたしね」
 他種族と仲良くする事も、クロイス・スケアルガを恋人とする事も、そして赤狼と共に居る事も。俺の振る舞い方は、狼族からは決して良い顔をされる物ではないだろう。確かにガルマは俺を認めてくれたけれど、だからと
いって、狼族の全てが俺を肯定する様な事はない。寧ろ、俺が異世界人であるという事は、彼らにとってはもっけの幸いなのかも知れなかった。今までは、ただ俺の振る舞いが、狼族としてはよろしくないというだけで、俺
自身の、俺の身体は。これ以上無い程に、狼族の族長としては向いていたのだから。そこに来て、ようやく異世界人という、真向から俺の存在を否定できる口実を、態々こちらから与えてあげたのだから。
「これが、後継者も定まらぬ間ならば、また話は変わったかも知れないけれど。今はクランが居るものね。私を連れて、ファウナックへ戻ろうとするのは、要らぬ混乱と騒動を招くだけだと思うよ、クラン」
 今のクランに、どれ程狼族が付いていくのかは定かではないけれど。でも、少なくともガルマが認めた存在である事に変わりはない。そのガルマが、俺が異世界人であると知って、どういう態度を取るのかは、今後を左右
するのかも知れないが。ただ、その辺りもジョウスに任せた部分が効いてくるだろう。ジョウスは俺の事を異世界人であると公表した上で、今の自分には、つまりは軍に必要な存在であるから。魔導の研究のために俺へ
手を出す事も禁じる様にという事も同時に伝えていたから。それは俺を、異世界人を求める手から守る事にもなるし、その上でジョウスが求めているという事実は、やはり狼族の族長としては良くない目で見られる。
 クランは段々と、俺の言っている事も何もかもを、呑み込んできた様だった。今はただ、静かに俺を睨みつける様にして。けれど、その目には薄っすらと涙が浮かんでいる。
「嘘つき。一緒に帰るって。族長になるって、言ったのに」
「私は族長になるのを嫌がっていたのに、その上でカーナスの解放を引き受けた。その意味を、もっと重く受け止めるべきだったね、クラン。私が何も考えないで、そうすると。本当に思っていたの? ……子供だね、本当に」
 ぽろぽろと、クランの頬を涙が伝ってゆく。そこまでいくと、もうクランの表情も、何もかもが崩れて。それから、わっと泣き出して。俺の胸へと銀狼の少年が飛び込んでくる。
「酷い。お兄ちゃん、酷いよ……」
 そういって、すんすんと泣き出してしまうから。俺は今更になってかなり罪悪感を覚える。とはいえ、ようやくクランがいつも通りに戻ってくれて、ちょっと安心もしたけれど。クロイスなんてあからさまに驚いてクランを見ているし。
 耳を伏せて、俺の胸に頬を擦り付けながら泣きじゃくるクランは。いつぞやファウナックで俺と過ごしていた頃のクランその物で。自分が次期族長と決まってからは、やっぱり色々と苦労をして、それから他人にも馬鹿に
されない様にと必死に振る舞っていたんだろうな。俺が背中をぽんぽんと叩くと、こんな時ではあっても、クランは僅かに尻尾を揺らして。鼻を何度も鳴らしはじめる。凄い匂い嗅がれてる。
「ゼオロお兄ちゃんと一緒に、また暮らせるって。そう思っていたのに」
「ごめんね、クラン。でも、私も。いつまでも狼族に嘘を吐いたままなのは、嫌だったから。クランも、ガルマ様も、ずっと騙したままなのは嫌だったんだよ。それに、そんな私が、黙ったまま族長になるなんて。それも、
良い結果にはならないでしょ? それだけは、わかってほしいな」
「そうだけど……。でも、僕」
「私が、銀狼なんてなんの関係も無い、異世界人であっても。クランは良いの?」
「別に、良い。僕だって、銀狼、好きな訳じゃないもん」
 そういえば、そうだったなって今更思う。クランだって、ギルスの遠縁にあたるから、両親も兄弟も銀の被毛を持っている訳じゃなくて。クランがたまたま、そうなっただけで。だから寧ろ、自分が銀の被毛を持っている事は
嫌がっているのだし。
「ごめんね。でも、その内ファウナックに一度は戻るつもりだよ。勿論、族長になるためじゃないけれど。ガルマ様のお見舞いも、改めてしたいから。だから、悪いけれど。今のところは、ファウナックには一人で帰って
もらえるかな。今私がファウナックに入るのは、余計な混乱を招くだけだから」
「どうしても。一緒には居られないの」
「少なくとも、今はね。クランがここに残るなら、別だけど。そういう訳にも、いかないんでしょ」
 カーナスが解放されて、ガルマの意向通りに、狼族とスケアルガの和解への道が開かれるのならば。クランのやる事は、今から山積するだろう。それに、これで次期族長はクランに、ほぼ決まったともいえるのだから。とても
可哀想だけれど、ガルマの身体の事も考えると。それはクランの、次期族長の役目となってしまうだろう。クランは遠縁の銀狼だから、クランが族長となる事は、ギルスの直系に拘ろうとする狼族にとって、ほんの少しだけ
それから脱する事にも繋がるのだから。
 クランが、静かに頷く。自分がこれから何をするべきか。もうわかっているのだろう。それでも、改めて俺に抱き付いて、そのまま寝てしまいかねない程の体勢になるけれど。
「今しか、一緒に居られないなら。もう少しだけ、僕にこうさせて」
「いいよ。今だけ、ね」
 それでも、クランはもうそれ程長い事、そうしてはいなかった。その内に顔を上げて、それから身繕いを済ませると。少し恥ずかしそうな顔で俯きながら、それでも俺に一度笑いかけて。一礼してから、去ってゆく。
「ようやく、落ち着いたかな」
 クランか去って、扉が閉まってから少しすると。壁に腕を組んで凭れていたクロイスが、口を開く。随分長い間、待たせてしまった。
「それにしても、クラントゥースって、あんなだったんだね。なんか全然違ってたわ」
「だから、言ったでしょ。全然違うって」
「ちょっと可哀想だったわ」
「それは、言わないで。私も罪悪感に潰されそうだったから」
 泣きじゃくって、お兄ちゃんと一緒に居たいと。ただそう言って俺に縋るクランは、正直とてつもなく可愛かった。純粋に狼の顔が可愛くて、そのまま撫でてしまいたくなるくらいに。とはいえ、そうする訳にもいかなかった
けれど。丁重にお帰りいただかないといけないので。でもやっぱり、可哀想な事してしまったなと思う。
「それにしても、ゼオロちゃん。今後は大丈夫なの。異世界人だって、公表して。一応、異世界人の研究については国が決めた事だから。親父の力だけじゃ、万全とは言えないかも知れない」
 一息吐いて。俺の隣へと腰かけてから、俺の肩を抱いたクロイスが。心配そうにそれを伝えてくる。そこなんだよな。俺がまだ少し、安心できないなって思っているところは。
「ジョウスさんは、猫族の方には根回しをしてくれたそうだけど」
「んー。まあ、それなら大丈夫なのかな? 親父とは仲良いし。ちょっと心配だけど」
 国が定めた、という事は。八族の長が定めた、という事を意味する。それに対して、異世界人ではあるが、必要な存在であるが故に、手を出すなとジョウスが主張をしても。それはまだ予断を許さぬ状況と見なくては
ならなかった。ジョウスの事だから、猫族以外にも脅せそうなところはやってくれそうだけど。とはいえ、俺個人の事であるから、そこまでは無理強いはできないし。
「でも、狼族の族長になる事を回避するには、こうするしかなかったから」
「それはわかるんだけどね。他の八族ならともかく、狼族だと。確かに異世界人であるゼオロを族長にするっていうのは、かなり反発が出るだろうし。これが虎族辺りだったら。寧ろ拍が付いたとか思ってくれそうだけど」
 なんだその受け止め方の差は。とはいえ、虎族は力が全てだから。俺が相応の力を持っていれば、そんな事はどうでもいいのかも知れないな。
「もしもの時は、ここにも居られなくなってしまうけれど。まあ、その時はその時だね」
 もしかしたら、それを経て、俺は居場所を失って。ヤシュバの下へ流れ着くのかな、なんて。今となっては思ってしまう。あとは残りの族長次第だけど。もし強硬にジョウスの弁に反論して、俺を捕らえるべきだという意見が
強まると。これは、どうなるかわからない。
「そうなったら。ゼオロが、出ていかないといけないなら。俺も一緒に行くよ」
「嬉しいけど。でも、駄目だよ。そんな事したら」
「言っただろ。夢も叶わないなら。ゼオロだけでも、守りたいって」
 できれば、俺はそうしてほしくはないなと思ってしまう。もう、戦も始まった様なものだけど。それでも、いつだってきらきらした瞳をしているクロイスが、諦めた様な顔をするのは、とても、嫌な事に思えたから。
 けれど、俺の心配は杞憂に終わる事となる。更に十日程経つと、今度は予想外のところから、俺の存在を肯定する声明が発表される。
「リスワール様が?」
 最初、その名を口にされて。俺はしばらくの間固まってしまう。リスワール。リスワール・ディーカン。誰だっけ、と一瞬思ってしまったのは、とてつもなく失礼な事だったけれど、どうか許してほしい。一緒に居た時間も、精々
十日と少し程度で。立場もあってそこまで会話をしたとは言えない間柄だったし、そもそも俺に対して直接そんな事をしてくれる族長が出てくるなんて、思っていなかったのだから。
 兎族の族長である、リスワール・ディーカン。ファウナックで出会った黒兎のその男は、狼族族長のガルマとは友であって。当時、狼族独立の気運を鎮めるためにファウナックを訪れたものの、ガルマが取り合ってくれぬと
言って、俺へと協力を仰いできたのだった。俺とリスワールの関係は、本当にその時きりで。その後は俺が。ハゼンが、あんな事になってしまって、ファウナックを飛び出してしまったから、付き合いもなかったけれど。第一
後継者候補ですらなくなった俺では、族長に気軽に会いに行けるはずもないのだから。
 その報せを俺の下へと大急ぎで持ってきたクロイスによれば。リスワールは俺が異世界人である事を承知した上で、ジョウスの言に同意を示して。俺に手が出ない様にするべきだと。その様な発言をしたのだと
言う。それから、俺個人へと向けて。借りは返したという発言も添えられていて。
「俺、リスワール様と知り合いだなんて聞いてないんだけど」
「あれ、言ってなかったっけ?」
「聞いてない。どうなってんのゼオロちゃん」
 そういえばリスワールと知り合いだって事は、言ってなかったんだっけクロイスに。その辺りは、その。ハゼンの事がどうしても入ってしまうから、適当にぼかしたのだった。必要な犠牲だった。仕方ない。
「ガルマ様が気を病んでおられたのを、リスワール様が心配してね。そう。その時に、少しね」
「少し、ねぇ。その少しで、族長同士で決めた事を覆す様な発言は、そんな簡単にはできないと思うんだけど。しかもなんか一言添えられてるし」
 そんな事言われても。そういえばリスワールにも、あの時はお礼を言われたんだったな。俺はただ、ハゼンの事で頭が一杯だったから。そんな事すら、忘れていたけれど。
 そしてリスワールの声明から、更に少し遅れて。今度はガルマの声明が発表される。こちらも、主張はリスワールと同じだった。多分、ガルマは迷っていたんだろうけれど。リスワールがその様にするのに、倣ったのかも
知れなかった。ガルマの方からも、それが飛んでくるとは思わなかったけれど。それに、いざそうされると。やっぱり俺はいずれ、ガルマの下へ顔を出さない訳にはゆかなくなるのだから。そして、かねてからジョウスが根回しを
していた事もあって、猫族の方から急使が出されて、ジョウスの考えに同意を示す旨を記した書状が届けられる。それから、これは最初から当てにしていたけれど。無事に爬族の下へ戻ったガーデルからも、新参である
自分がこの件に口を出すのはと断りながらも、やっぱり俺を肯定する意見が飛び出してくる。そこまで行くと、最初はジョウスの声明でざわついて、今後はどうなるのかと思われた空気も途端に静かになった。八族と、爬族を
足した九つの内、狼族、兎族、猫底、爬族の指導者達からのとりあえずの支持を受けて、その上で軍師であるジョウスの監視が付くのだから。残りの族長は強く反対とは言えないだろう。そもそも、ミサナトのあの騒動が
どれ程大きな物に発展したのかはわからないとはいえ、他の族長にとって俺の存在は寝耳に水だから、そこまで騒ぐ必要性も無いのかもしれない。カーナス台地を解放したという件で、それを成し遂げた俺の知名度は
一瞬にして高い物となったけれど、元々馴染のある相手ではないしな。一番こういう事に興味がありそうなのは、スケアルガを含んだいくつかの魔導を専門に学ぶ者達みたいだし。そちらには、ジョウスがいくらでも顔が
利くのだから。そして、残りの族長に対してはリスワールが顔が利く物だから。少なくともそれ以上の心配は必要なさそうだった。流石にガルマと、気難しい狼族と付き合うだけあって、リスワールは顔が広い。影響力
という点では、八族の合意の上で軍師の任に就いているジョウスに引けを取らない。
 そして、そこまできて。最後にダメ押しとばかりにヒュリカから俺を応援する旨の手紙を預かった、翼族の使者がやってくる。翼族は、ラヴーワに寄ったとはいえ。それまでの経緯もあって、肩身の狭い思いをしている
けれど。それでもヒュリカは、翼族を纏めていたヴィフィルと、上の兄達が纏めて竜神の魔法に掛かり再起不能の状態である事もあって、現在はヌバ族の族長にはなっているし、ヌバ族以外の翼族をもある程度は纏めている
状態だから。これもまた、翼族の族長としてある程度の振る舞いができる存在になっていた。
「つまりは、翼族も一応の数に数えて考えると。十の内の半分の族長、或いは王と。そして親父が、ゼオロの存在を認めた訳なのか」
 全部の情報をまとめたクロイスが、書類を読み進めて。それから安堵の溜め息を吐く。そうしながらも、俺へ送られる視線がなんだか刺す様だ。
「……ねえ。ゼオロちゃん。なんでこんなに凄い事になってんの? 前も言った気がするけど、どうなってんの? 心配してた俺が馬鹿みたいに思えるくらい安泰になってるんだけど?」
「そんな事言われても。猫族はジョウスさんのおかげだし、ヒュリカとガーデルさんはたまたまな上に、二人が頑張ったから今の地位に居る訳だし。残ってるのはリスワール様とガルマ様だけだから。そんな顔して見ないでよ」
「その二人だけでもとんでもないって言いたいんだけど、俺は。なんか親父もいつの間にかゼオロちゃん贔屓してるし。なんなの? また何かしちゃったの?」
 もしもの時にはクロイスを任された、とはまだ言えない。あれがどこまで本気なのかもわからないし。また、ジョウスが軍師を辞するつもりでいる事も、クロイスに伝えるのはまだ早いだろうと思って。
「何もしてないよ。というより、私が族長になる方がジョウスさんとしては困るだろうから、そのせいでしょ」
 俺がもし族長になったら。スケアルガとの友好を築こうとする姿勢はあるから、多少はなんとかなるのかなとも思うけれど。やっぱり俺の銀は、禍根を残しかねないので。それを踏まえると、やっぱり今の形が一番良いと思う。
 くどい様だけれど、異世界人である俺が族長になった事が後で知られる方が困るし。
「そういえば、ファウナックの方は大丈夫なのかな。その。私に対する様子って」
「今のところは、半々ってところみたいだけど。ゼオロがカーナス台地を解放してくれたのは、やっぱり狼族にとっては、喜ばしい事だったけれど。そのゼオロが、異世界人だって事で。まあ、ガルマとグンサ、二人の銀狼が
認めた存在だから。表立って批判する様な動きは一切無いけどね。その上でゼオロは、狼族を騙して族長になるのは嫌だって。そう言ってくれたから。好意的な意見の方が多いよ。ただちょっと、好意的過ぎて。族長で
なくてもいいからファウナックに招くべきだ、とか。異世界人であるからゼオロ当人は族長になれなくても、銀狼の女とくっつけて。その子が変わらずにその銀を持つのなら。その子こそまさに族長になるべきだとか。そういう
意見も出てきてるけど」
「えっ。やだな、それ」
 ちょっと、狼族の銀狼を求める声を甘く見過ぎただろうか。どちらかと言うと、異世界人の癖にガルマとグンサを謀った罪人とか、そういう風に見られるんじゃないかなと心配していたのに。それどころか俺に子供を作らせたい
とか、そういう方向になるなんて。俺は断固として断るけれど。それに、それは自ら子供を作る事ができない身体であるガルマには、耳に入れるのも辛い意見だろうな。後で会えたら、そのところも謝っておかないと。ガルマも
結局は、俺を族長にする事を断念して。それでも俺の事を認めてくれた様だし。
「まあ、でも。これでようやくゼオロちゃんと、大手を振っていられるって訳だし。あんまり俺から言うのは良くないな」
 書類を適当に放り投げて、クロイスが俺の事を抱き締める。そう言われて、そうなんだなって。俺は遅れて理解する。なんというか、どうするか、こうすれば良いのか、どうなったのか。そんな事ばかりを考えていて、手元に
残った物の事を考える余裕が無かったというか。ジョウスの下に俺が居る、という話が広まって。だから当然、俺がクロイスと一緒に居る事も、その内には広まる。俺は狼族で、銀狼だけど。異世界人である事も周知されるから、
少なくとも以前よりはずっと、クロイスと一緒に居る状態を咎める様に見られる事もなくなる訳だ。狼族の方は、まだまだこれからだけど。クランが次期族長になっても、問題が何もかもすぐに解決される訳ではないから。
 それも、今だけは考えないで。クロイスの胸の中で俺は深呼吸を繰り返す。思っていたよりも、俺は疲れていた様だった。ずっと、異世界人であるという事をひた隠しにして。今になってようやく、それを周りに大声で
言える様になったから。
 やっと。やっと、自分の居場所を。誰の事も騙さずに、手に入れられたんだなって。そう思った。

 けれど。俺がようやく手に入れた居場所と平和は、長続きはしてくれなかった。というより、俺がいくらその様になったところで、現実はまさに、ラヴーワとランデュスがぶつかり合うところまで来てしまったのだから。
 カーナス台地が解放された事で、二十数年振りに切り開かれた道は。早速また、戦のために使われ様としていた。皮肉な物だと思う。戦のせいで呪われてしまった地を、俺が解放したというのに。それはまた、戦のために
使われてしまうのだから。また、呪われたりしないといいけれど。
 ただ、良い事もあって。俺をミサナトで匿ってくれていたハンスが、俺が追われる立場ではなくなった関係で。自由の身になれたという話をクロイスが持ってきてくれた事だった。ハンスは俺に会うために一時的に出てきて
くれはしたけれど、それでもスケアルガ学園の方から、身元もわかった上で追われていたから。どうしても表に出る機会に恵まれなくて。けれど、それもようやく終わりを告げた事になる。だから俺は、再びハンスとも会って、
共に自由の身に、というか。もう追われる心配もない事を、喜びあった。とはいえ、ハンスはジョウスの下に居るのだからと、変わらずジョウスの手伝いをしているそうだけど。なんというか、そういうの恰好良いと思う。普段は
教鞭を取っているハンスが、必要なら軍師であるジョウスの下に馳せ参じるというのは。それはジョウスもまた、同じだけど。招聘に応じて、軍師の椅子に座っているのだから。
 そういえば、ミサナトに現れた第三の異世界人の事について、ついでにジョウスにも訊ねてみたけれど。それはやっぱり、見つかっていないらしい。今、どこに居るんだろうな。
「ミサナトに戻るのは、いつでもできますしね。それに、できればジョウスにも戻ってもらいたいですから。私が手伝う事で、少しでもそれが早まるのなら。私はそれで、構いませんよ」
 別れ際に、ハンスは俺にそう言って微笑む。なんだか、あの時ミサナトに居た俺達が、今度はフロッセルの街に揃っているのだから、不思議な物だと思う。
 とはいえ、それもやっぱり、長くは続かない。カーナス台地が解放された事と、またランデュス側はリュースが戻ったから、だろうか。今度はランデュスに遅れを取る事を避けて、互いに軍を出し合う恰好となる。そうして再び、
両軍はカーナス台地を挟んで睨み合う形になっていた。ジョウスはフロッセルからもう少しだけ前線に近く移って、その様子を見ては細々とした指示を出している。本来なら、ジョウスはやはりフロッセルに籠っているそうだった
けれど。翼族がラヴーワに寄って、翼族の谷からランデュス側の道が封鎖された事で北が。爬族がガーデルに率いられてラヴーワに寄って、今はガーデル自身が南側から睨みを利かせている事で南が。それぞれに
ランデュス軍が陸から来る事を阻んでいるので、もう少しだけ前に出られる様になったらしい。とはいえ北はともかく、南はその気になれば突破されるかも知れないが。そのためにはガーデルを相手にしないといけないのだから、
相手もかなり迷うだろう。本当はガーデルにはそれこそ中央に躍り出てほしいと思っている人も、多いのかも知れないけれど。それはガーデルの、場合によっては竜神の詐術に惑わされるという懸念から叶わぬ事となっていた。
「あちらの英雄が、今はこちらの英雄となって。そうして戦を終わらせるというのも、中々素晴らしい英雄譚になりそうではありますがねぇ。そういう事では、中々重用する訳にもいきませんね」
 そんな事を、ジョウスも言っていた気がする。ガーデル恰好良い。
 そんな訳で、両軍は今のところ、カーナス台地を挟んで向かい合い、またそこから少し北の街道でも、似た様な状況が繰り広げられていて。ジョウスの見渡す必要のある範囲が減った事で。多少は余裕が生まれた
らしい。とはいえ、竜族には空兵があるのだから。防備の甘い所に出てくると、奇襲を受けて一息に首を取られかねないというから。あまり前に出る訳にもいかないそうだけれど。翼族がその辺りは警戒をして巡回に
当たってくれているけれど、それに割かれている翼族の数は、決して多くはない。ヒュリカが少し無理をして増員してくれたそうだけれど。それでも空を我が物とできる者の数は。いまだにあちらの方が多いという、何より
戦闘力に差があるし。
 そんな、緊張状態が続く中で。実のところは俺はフロッセルに留まる事はせずに、少しだけ前に出ていたりする。それは、クロイスが兵の指揮を任されたからだった。ジョウスとしても、多少はクロイスにそういった事を経験
させておきたいのだろう。それはいずれ、ジョウスが自らが退いた時の事を考慮しているからだと、俺も思う。そもそもジョウスだって、自分の父親。つまりクロイスの祖父から、その立場を引き継ぐ形で軍師となったのだから、
クロイスがその時と同じ様に跡を継ぐ事ができるのかは、それこそこれからのクロイスの成長振りに掛かっている訳で。
「駄目だよ。連れていくなんて」
 だから、クロイスはそう言ったけれど。俺は無理を言って、後方部隊の中で。雑用でもなんでもいいからと使ってもらっていた。
「もしもの時は、どれ程の効果があるのかはわかりませんけれど……。私を人質にしても、構いません」
 それから。クロイスには言わなかったけれど、そんな事をジョウスには伝えていた。だから俺の周りには、ある程度の護衛も居る。俺がここに居る事で、少しでもヤシュバの矛先が鈍るのなら、それでいいと思う。下手すると
攫われかねないけれど。でも後方に居ても意味ないし。悩ましい。とても、悩ましい。戦いになっても俺はおろおろするだけだし。迷惑になってないと良いけれど。
 ただ、俺の事が大々的に公表された関係で。俺が従軍する事で、ガルマの命を受けた狼族部隊が出てくる形になった。最初俺は、それにはとても戸惑ったのだけれど。やってきた狼族の将軍は、俺の前に跪いて、まっすぐな
瞳で俺に忠誠を誓ってくれた。少し話をすると、その将軍の父親は、カーナス台地で亡くなったらしく。俺がカーナス台地に赴いて、呪いから狼族の魂を解放した事を知って。自ら志願して、態々やってきてくれたんだとか。その
将軍の手下も、何かしらカーナスで亡くなった者の関係者であったり、或いは俺のした事に感銘を受けた者がほとんどで。それとは別にガルマの兵は、本人が戦に出られる状態ではないという事もあって、ジョウスに預けられる
形を取っているらしい。俺の下に来てくれたのは、嬉しいけれど。素直に喜べないのは、そのせいで、もしかしたら戦争の中で死んでしまうのかも知れないという考えが、俺の頭を過ぎったからなんだろうな。どの道、ぶつかり
合えば。誰かが命を落とすのは、当たり前の事でしかないのに。この辺りが、やっぱり俺は甘いなって思う。俺が得意そうな顔つきで、何かするのは。いつだって、命のやり取りなんて物はまったくするつもりもない時が
ほとんどだったから。
「そこまで言うなら。私の事は、もう知っているのでしょう。私は純粋な狼族でも、銀狼でもないというのに」
「構いません。それが、なんになりましょうか。私にとって、ゼオロ様はただ一人。父の魂を解放してくださった恩人でございます。ガルマ様に忠誠を誓うのは当然の事ではありますが。それと同じ程に、私はゼオロ様にも、
忠誠を誓おうと思っております」
 ほとんど崇拝を籠めた眼差しで、黒い被毛の覆われた、逞しい身体つきの将軍は言う。そこまで言われると、俺は苦笑するしかなかった。とはいえ、そのおかげで俺が後方に存在している事を誰にも咎められる謂れは
なくなった上に、必要ならば遊軍として動き回る事もできるようになったのだけど。ただ、もう少し前線に居るクロイスは。きっととんでもない顔してそうだけど。ごめん。とはいえ、兵が居たところで、俺から何かしらの指示を
出す、という事はなかった。そもそも戦と言われても、まったくわからないし。口喧嘩とはったりでどうにかできる場ではないのだから。今のところ、俺にできるのはただ後方で備えて、必要であるならば将軍に頼んで
加勢させたり、輜重に滞りがないかを調べて、必要に応じて手助けや、また余っている物資を提供するくらいだった。なんだかあんまり役に立っている感じがしない。ただ、俺が時折兵の様子を見に行くと。正直引くくらいに
熱烈な歓迎を受けたりするので、傍から見ると気持ち悪いくらいに狼族の士気は高かった。なるほど確かに、ジョウスが銀狼崇拝の声に手を焼くのもちょっとわかってしまう。
 十六の月。この世界の一年の、終わりの月。刺すような寒さに俺が襲われる頃に。ランデュス軍に動きがあったとの報せが届けられる。
「カーナス台地への進軍ですか」
「ええ。まだ、前線は様子を見ているところでございますが」
 実のところ、こうしてカーナスを挟んで睨み合いをしているのは、仕方がない部分もあった。つい先日までは、狼族の呪いに支配されていた地だったのだから。だから、ラヴーワ側としても、ランデュス側としても。その地に
軍を進めるという事に、抵抗があったのだった。特に、ラヴーワ側はそれが顕著だ。ランデュス側は意を決して、カーナスに寄る事を決めた様だった。
 それから、ヤシュバの姿が戦場で確認されたという。それを聞いて、俺は溜め息を吐く。
 直接ぶつかり合う事は、ないとは思うけれど。
 それでも。こうして戦場の上で。俺とヤシュバ、それぞれの異世界人が向かい合う戦が。ついに始まりを迎えたのだった。

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