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36.カーナスの亡霊

 俺の目に映った青い竜は、少なくとも俺の目からすれば、決して誰かから謗られるべき相手には見えなかった。
 青い鱗は、拷問を受けた後だから流石に艶やかとは言い難かったし。その声も、掠れていたけれど。それでも俺の目の前に現れたその竜族は。姿勢を正して、まっすぐに俺を見つめるその竜族の姿は、少なくとも
見苦しいとか、そんな物とは無縁に俺には見える。ガーデルやヤシュバと比べるとほっそりとした身体は、けれども俺と比べれば充分に筋肉の塊と言えて。しなやかな筋肉に覆われている、というのはこういう事を言うの
だろうなと思う。羨ましい。凄く羨ましい。俺も筋トレしたらこうなれるだろうか。顔の造りも、角などが無い分ごてごてしていなくてすっきりとしているし。だからこそその、青い鱗よりも幾分和らいだ瞳が強い主張をしていた。
 前筆頭補佐の、リュース。
 この男が、或いは全ての元凶であると。そう見做さなくてはならないのかと、そう思ったりもしたけれど。実際に話をしてみると、リュースは思いの外話がわかる相手だった。こういうと悪いけれど。狼族よりは話しやすいかな、
なんて思ってしまう。ガーデルもそうだけど、彼らは竜族としての誇りは充分に備えていたけれど、長生きをしている事と、それから要職に就いていただけあって、流石に相手の意見をしっかりと聞く耳を持っていた。耳どこに
あるのかよくわからないけど。
「カーナス台地の亡霊を、解放するお手伝いをリュース様に頼みたいのです」
 だから俺は、一度目の面会で言うつもりがなかったその言葉を躊躇いなく口にしてしまった。それは、リュースの処遇がいつまでもこのままではないかも知れないという危惧があったからでもある。何かしらジョウスの考えが
変わったり、或いは圧力の様な物がどこかから掛かる事を懸念しなければならなかった。リュースがどれ程ラヴーワの人の怨みを買っているのか、それを察するのは難しい事ではなかったし。だから、さっさと俺の方から手を
打ってしまいたかった。幸い、リュースの話を聞いて。俺は少なくともある程度は信じられる男だと、リュースに対してそう思ったし。クロイスが言う、性格の悪さという物も、少なくとも俺を前にして畏まっている間は、特に
見えるという事もなかった。結局は相手を選んで。俺にはそう接するのは適当ではないと、そう判断したのだろう。それを貫いてくれるというのならば。俺から言う事もない。
 そんなリュースの協力を得て。それから一度フロッセルのジョウスの下へと戻って。改めて準備を済ませてから旅に出る頃には、随分な時間が経ってしまっていた。とはいえ、ジョウスには止められなかったのが幸いだろう。
「本当に、リュース様を連れていっても構わないのですね」
 再びフロッセルを発つ前に、俺はそれだけをジョウスに確認する。ジョウスは静かに頷いてくれた。
「ええ。構いません。必要なのでしょう?」
「リュース様は、カーナス台地の案内もできるそうですから。確かに、私ではどういう風に歩くべきか。それも、わかりません」
「そうですね。多少入り組んだところはありますし。やはりゼオロ殿一人、という訳にはいきませんね。こちらも、やれる事はやりましょう。どうか、お気になさらずに」
 やれる事、というのを俺は訊ねる事はせずに頷いた。俺がリュースを伴ってしまう、という事は。当然反対をする者が出る事でもある。そして、俺がリュースと共にカーナス台地へと赴くためには、少なくともここからカーナス
までの道のりを治める、虎族の族長などの了承は必要不可欠だろう。せっかく生け捕りにしたリュースを、ともすれば逃がす様な真似を肯うのかという問題があった。端的に言って、ジョウスはまずは説得を、それが無理なら、
脅しまで駆使するのだろうなと察したので、俺は何も言わないのだった。当時のカーナス台地で、狼族を見捨てて、虎族と獅族の軍に援軍を送り、現在の事態を招いてもジョウスはラヴーワの軍師のままだから。ならば、
今度はそれを用いてそういう手を打つ事は、容易かった。あの時お前達もそれには同意をしただろうとか。そのおかげで虎族と獅族の兵の被害は押さえられただろうとか。また、カーナス台地を解放する事、そして狼族との
和解という二つの点は、確かに無視できない物であるし。俺は何も知らない顔をして行こう。そうしよう。
 ただ、そうして俺が旅立とうとすると。意外にも付いてきたのがクロイスだった。そして、クランも付いてこようとしていた。
「悪いけど、クラン。ガルマ様にも、言われているから。クランは連れていけないよ」
 そう言うと、とても残念そうな顔をクランはする。一度ガルマと顔を合わせてからのクランは、なんというか、大人しくなったなって思う。俺がガルマときちんと話を済ませた事に、安堵したのかも知れなかった。
「では、私はゼオロ様がお戻りになられるまで、ここでもうしばらく厄介になります」
「ガルマ様の下に戻っても良いんじゃないの?」
「そういう訳には行きません。それに、もしゼオロ様が本当にカーナス台地を解放されるというのなら。その時は、ゼオロ様。わかりますよね?」
 そう言って、クランはにこりと微笑む。その笑みは、ファウナックで見ていた、あの人懐っこい笑みその物で、そうしていれば可愛いのになと言わざるを得ない。俺にも言える事だけど。
 俺がカーナスを解放した暁には。俺は言い訳をする余地も与えられずに、狼族の族長になるだろう。この上、亡霊にまで真の銀狼と認められれば、それは俺にもわかる。
「まあ、そんな簡単に私が認められるとは思わないけどね」
「認められますよ。きっと」
 そう太鼓判を押してくれるクランを後にして、俺はクロイスと共にリュースの待つ虎族門へと再び向かう。それから、ガーデルには予め話は通したので、リュースに気取られない距離を維持して付いてきてくれる様にと
頼んでいた。爬族の方も気になるけれど、今はこちらの方を優先するべきという判断もあって、ガーデルも引き受けてくれる。それからあまりガーデルが顔を突っ込むと、爬族も上手く回らなくなると言って。
「クロイス。飛び出してきて、良かったの」
「良くないけど。なんか最近、親父も煩く言わなくなってさ」
「それは諦めたって言うんじゃないのかな」
 ともすれば、危険な旅路になるのだから。ジョウスの息子のクロイスを連れるなんて、俺は反対したかったんだけど。クロイスはちっとも引く素振りを見せなくて。俺も諦める破目になる。
「それに、リュースがもし暴れるなら。その時は俺でも、足止めくらいはできる。ガーデルのおっさんが来る時間を稼がないとな」
「そんな事になったら、さっさと逃げてほしいんだけど」
「ゼオロちゃんを置いて逃げる訳ないでしょ」
 そう言ってから、馬車の中なのに抱き付いてくるから。俺は逃げようか迷ったけれど、そのままいつもの様にクロイスの膝の上へと案内されて、大人しくされるがままにする。それにリュースと合流したら、俺はリュースと同じ
馬車に乗るつもりだったし。クロイスが絶対に反対するだろうけれど、可哀想なので今だけはと俺を堪能させてやる。なんか凄い上からな言い方だ。
 そしてリュースを無事迎えに行って、予め準備を整えていたリュースを拾うと。クロイスが出るという事もあって、纏めた兵を連れて、俺はリュースと共に今度は馬車へと乗り込む。
「兵を纏めておかないといけないよね、クロイス。流石、クロイスは話がわかる男だね」
 物凄い不満そうな顔をしているクロイスに、そう言って。俺は笑顔で手を振って、馬車に乗る。横でそれを見ていたリュースが、なんとも言えない顔をしていた。
「おい。ゼオロになんかしたら、ぶっ飛ばすからな」
「クロイス」
 変な事を言いそうになったので、俺はさっさとリュースを招いて。そのまま馬車に揺られて、揺られて。連なる虎族門と街を超えて、やがてはラヴーワの外へと出る。まともにラヴーワの外に出るのは、初めてかも知れないなと
思った。獅族門から、翼族の谷に出向いたり。ヤシュバの案内を受けて、竜族のドラスに抱き上げられたまま飛び出したりした事はあったけれど。正直、ラヴーワの外に今居るんだ、なんていう気分を味わう余裕も、時間も
あの時はまったく無かったし。それが今、前筆頭補佐との旅でラヴーワの外に飛び出しているのだから、よくわからない物だった。
 馬車の中でリュースとする話は楽しかった。リュースは俺が知らぬ事を色々と知っていたし、また俺が知らない事を、丁寧に教えてくれもした。ガーデルとも旅をしたけれど、それとはまた一味違う。それに、空を飛んで俺を
運んでくれている時に、あまり気が紛れる様な話をするのも失礼かと思って、ガーデルとの会話はそこまで多くはできなかったし。俺の向かい側で座るリュースは、落ち着いた物腰で、また言葉も丁寧であるから。なんとなく
彼が筆頭補佐を務めていた武人であるという事を、ともすれば俺は忘れてしまいそうになって。互いの身の上話をしたりする内に、リュースは大分自分の身体を嫌っている事がわかったけれど。俺はそんな事ないのになと
思ってしまう。寧ろ、俺が人間だった頃と比べれば、絶対良いと思うのだけどな。確かに鱗は青で、角も無く、翼も無いとは言っても、その身体は整っていたし、面会していた時に見えていたはずの傷も見当たらない。それは、
竜族の能力の高さなのだろうけれど。リュースはそれこそ、魔導にはかなり通じているというし。囚人だった時とは違って、今は服も与えられていて。そうして整えると、やっぱりリュースは充分に見栄えがする様に俺には
見えた。今は、季節柄寒いのもあって。首回りにはふわふわとした動物の毛で飾られた灰色の上着を羽織っていて。その下は、ほとんど身体にぴったりと吸い付く様な、深緑色の服を着ていた。なんというか、白い衣一枚
だった頃と比べると、途端に悪そうな感じが伝わってくる。恰好良い。
「ところで、ゼオロ様。その肩の事なのですが」
 旅の途中で、今日も一日馬車に揺られて、どんな話をしようかと考えていると。不意にリュースがその事を口に出す。それに俺は少し驚いてから、左肩を押さえる。
「リュース様には、お話ししなかったと思いますが。おわかりになられるのでしょうか?」
「ええ。馬車の乗り降りをする時など、少しぎこちないですね。それは?」
 ミサナトで、クロイスを庇ってできた傷。それをリュースは話題にしたのだった。最近では左腕も、あまり力が入らないという以外はなんともなくなって、まっすぐ上に手を上げる事もどうにかできる様になっていたから、俺も
あんまり気にしなくなった事だったけれど。リュースの目は、それすら見抜いている様で。俺は観念して事情を説明する。武人特有の観察眼という奴だろうか。恰好良い。
「そうですか。ゼオロ様がよろしければ、少し私が診て差し上げましょうか」
「何か、わかるのですか?」
「上手く行けば、治せるかも知れません。如何しましょうか」
 治せると言われて、俺は思わず飛びついてしまう。服が邪魔なので、その場で失礼して脱いで。
「申し訳ございませんが、そちらへ行っても?」
「はい」
 向かい合って診る、というのは馬車の中なので、ちょっと体勢が覚束ない。仕方なくリュースがそれを申し出て、俺はそれを快諾する。そうすると、リュースが一礼して俺の隣に来てから。更にもう少し見やすく
しようと、股を広げて。その間に俺に座る様に言う。ちょっと怖いかな、と思ってしまったけれど。結局俺はそれに乗ってしまう。クロイスのせいで大分慣れてるし、その扱い。
 ただ、リュースは別に下心も無い様で。俺がその前に座ると、すぐに一言断ってから俺の左肩に手を触れて、傷口を確認したり。俺の左腕を持ち上げて、俺に辛くないかと訊ねてくる。痛みはほとんど無くなっていたから、
あとはどうにも力が入らぬところだけが問題だと言うと。更にしばらく俺の観察をリュースはしてくれて。
「これなら、どうにかなりそうですね。よろしいですか」
 そう言うから、俺が頷くと。手を差し出したリュースの掌から、光が迸る。
「こういう魔法は、使う人にも負担が大きいって聞いたのですが。リュース様は、大丈夫なんですか」
「ええ。私は慣れておりますので、ご心配なく」
 その光が、俺の肩へと沈んで。光が消える。それからリュースは肩の傷を、何度も丁寧に撫でてくれる。竜の、俺とは違う被毛の無い手に撫でられるというのは、なんだか不思議な気分だった。人間だった頃の俺も、毛に
覆われてはいなかったけれど。その代りリュースは竜族だから、鱗に覆われているし。
「これで、よろしい。すぐには効果は実感できないかも知れませんが、直に良くなりますよ。……どうか、されましたか? どこか、気分が悪く?」
 見上げたリュースは、穏やかに微笑んでいて。俺のじっと見つめる視線を受けて、心配そうな顔を俺に見せる。なんだか、こうして見ていると本当に武人だなんて思えないな。戦場に立てば、それこそ凄まじい勢いで
敵の命を刈り取る様な武人であると、ガーデルからも聞いたはずなのに。その辺りは、ガーデルもそうだったけれど。なんというか、時代がこうだから、他人を殺したりする事もするけれど。それはただ、時代がそうであるから、
というだけなんだなって思う。誰かの命を奪うから、ただ残虐であるとか。そういう訳じゃないんだなって。その辺りは、少なくとも日常生活において戦とは無縁の世界から来た俺には、驚くべき事で、また嬉しい事でもあった。
 それに。俺ももう人殺しにはなったのだし。
 リュースの言葉通り。その日から俺の左肩は、徐々に調子が良くなっていった。元から痛みという物は感じていなかったのだけど、なんというか、朝起きた時に左肩の辺りがすっきりしているというか。
「血が、奥の方で滞っていたのですね。傷は塞がっても、その様な傷を負うとよくある事ではあります。傷は残るとは思いますが、それ以外は支障は無くなると思いますよ」
「ありがとうございます、リュース様」
 俺の様子を診てから、リュースはそう言ってくれて。俺は嬉しくなって、何度も礼を言う。医者に掛かっても、これ以上はと言われていたのに。こんなにあっさりと治してしまうなんて。やっぱり魔法って凄いんだなと思う。それも、
リュースの様に魔導に通じた竜族だからできる芸当ではあるのだけど。クロイスにも、後で教えてあげよう。そうしたらクロイスももう少しはリュースと、素直に接してくれると思うのだけど。
 リュースに肩を治してもらったり、話をしている内に、俺はすっかりリュースとは会話が弾む様になっていて。馬車に揺られるという、もう大分慣れ切っていた、少し退屈かも知れないと思っていた旅も楽しむ事ができて
いた。考えてみれば、色んな人と旅をしているなって思う。ハゼンと、ヒナと、クロイスと、ガーデルと、リュースと。本当に、色んな人と旅をして。時には危険な事もあったけれど、そのどれもが、楽しかったなって思う。
 そうしている内に、やがて俺達はカーナス台地へと辿り着く事になった。遠くから見上げたカーナスは、話に聞いていた以上に、なんというか禍々しくて。俺は思わず、あんな所に踏み入るのは嫌だなって。そう思って
しまった。だって、元がどんな姿なのかがわからない。真っ黒な墨を上から被せて。その上で、黒い靄がその周りを覆っていて。到底、そこが元はどんな場所であったのかなんて、俺には想像も付かない様な状況
だったから。
「ゼオロ様。お手を」
 そう言って、リュースが屈んで手を差し出してくれる。それを見て、俺はここまでなんとなくとは思っていたけれど。その仕草に、ハゼンの事を思い出してしまう。物腰が柔らかなところも、丁寧で、また俺を気遣ってくれる
ところも、リュースはとても似ていたから。それから、その境遇も。それでも、リュースにもやっぱりハゼンの事は話していなくて。だから、首を傾げたリュースの手を、俺は慌てて笑ってから取って。
 そして、青い竜と一緒にカーナス台地へと向かった。

 二人分の足音が、聞こえる。手を繋いだまま、俺は時折リュースを見上げた。リュースは特に動じる様子も見せずに、それどころか大分余裕を見せていて。なんとなく、俺はそれに圧倒されてしまう。
「リュース様。怖く、ないのですか」
「え?」
 俺が声を掛けると。リュースは俺を見下ろしてから、少し意外そうな顔を見せて。それから、苦笑してみせた。
「怖い、ですか。すみません。あの闇の中が、どんな風になっているのかと。そればかりを考えておりました。それから、あの闇に、あなた様が無事受け入れられるだろうかと」
「強いのですね、リュース様は」
「そういう訳ではありませんが」
 そういう訳だと思うけれど。今の俺とリュースの装備だって、決して安心させてくれる様な代物じゃないのに。俺はいつもの様に、ただ俺の銀が映える様にと。少しだけ暗めの服だったけれど、それ以外はいつも通り。必要
以上の刺繍が施された服は嫌だからと、胴に幾つかの線が引かれている程度の物に、ベルト一本で身体を締めている様な感じのを。冬毛なので、そこまで厚着をしていないのに割となんとかなっている。それに、寒いのも
緊張してそれどころじゃないし。それから、護身用に銀のナイフを持っているくらいだ。そしてリュースはリュースで、相変わらずちょっと悪そうな恰好に、渡されたのは兵に支給されている剣一本だけで。それ以外は
何も持たされてはいない。
「まあ、あまり仰々しく武装しては亡霊を刺激するだけですからね」
「それはそうですけれど」
「それに。受け入れられさえすれば、それ程の危険がある、という訳ではないはずですよ」
「そうなんですか?」
 俺が聞いた亡霊の、というか呪いの話っていうと。とにかく近づくだけでやばいみたいな感じの物ばかりだったから。そんな風に言われても、俺は今一安心できなくて困ってしまう。
「ええ。そうですね、私も専門という訳ではありませんが……。この様な形になった呪いという物は、己に近づく者にとにかく襲い掛かり、そうして自分達の一部とし、より強大な呪いへと膨れ上がろうとする物なのです。現に、
当時よりもこのカーナスを覆う呪いは肥大化しているという報告がありますからね。とはいえ、膨らみ続ける、という訳でもありませんが。そんな様子が知られれば、もはや誰もがこの地を避けるという物でございますからねぇ。
丁度、硬い殻の様な物を想像していただければ、よろしいかと。中に踏み込みさえすれば、存外に脆い。とはいえ、この場合中に入るには私の様な特殊な身体を持っている者か。呪いが内に入る事を許す程の存在で
なければなりません。ゼオロ様は、後者でございますね」
「今更ですけれど。受け入れてもらえるのでしょうか」
「さて。それは、もう少し近づいてみなければ。駄目でしたら、致し方ない。一度戻るしかないでしょう。私一人が入ったところで、確かに呪いの作用は受けないでいられますが。この怨念を晴らせる訳ではない。あなた様が
中へと赴ければ、あとは呪いの中心に居る者の話を、伺えば良い」
「中心に、誰かが居るんですか?」
「……恐らくは、グンサ・ギルスが」
 グンサと言われて、俺は目を丸くする。だって、グンサはとっくに死んだ人物だ。それも、この場所で。俺の顔を見て、リュースも頷く。
「ええ、その通りです。グンサはとうに死んだ身。しかし彼は浮かばれぬ魂となって、確かにここに存在し続けているはずです。というよりも、他の怨念達が、グンサが居なくなる事を許さぬのだと思いますよ。グンサに従った銀狼、
そして狼族達は。あの日、この地で無惨な死を遂げて、亡霊と化し。この地を染め上げた。彼らには、死して尚グンサという存在が必要だったのです。そうして、彼らが望めば望む程に。グンサの魂はこの地に縛り付けられ、
自由を得られずに。そのグンサの嘆きが、より一層の呪いの肥大化を促して。そうして、全てを呑み込んでゆくのです」
「なんだか……悲しい話ですね」
 なんというか。スケアルガの事を呪う気持ちは、確かにあるのだろうけれど。それ以上に、ただただ行き場の無くなった思いがぶつかり合って。決して解消される事の無い苦しみがどこまでも折り重なってゆく様な。そんな
印象を受ける。呪いなんて物は、現実には存在しない方が良いんだな。
「そうですね。それにこの地では、確かに竜族も死んだはずだというのに。狼族の想いが、あまりにも強すぎるが故に、竜族の魂すら、ここではそれに従わざるを得ない様ですからね。それを思えば。確かに私も、今はこの地が
解放される事を望みますよ。同胞の魂を救いたいとは勿論思いますが、それよりも。もう、死んでしまった者は潔く、この地から去っていただかなければなりませんからね。生きている者を巻き込む事も、ただでさえ狭い世界を
亡霊に明け渡している事も。私は良い事とは思いません。さあ、行きましょう。グンサを捜しに」
「はい」
 少しだけ、リュースの手を強く握って。俺達は更に前へ、前へと。カーナス台地へと近づいてゆく。もうすぐ、黒い靄の場所に着いてしまう。怖い。いきなりそれに飛びつかれて、触られたらそのまま死んでしまう。そんな事が、
ないといいけれど。
 少しずつ。それが近づいてくる。いや、近づいているのは俺達なんだけど。黒い靄が、視界を覆い尽くす。もう、後ろを振り向かないと。この靄からは逃げられそうになかった。
 リュースが掌に僅かな光を灯してくれる。あまり強い光は、亡霊を刺激すると言って、最低限の物を。
「大丈夫ですか、ゼオロ様。一度、引き返しますか」
「……このまま行きます」
 本当は引き返したかったけれど。今すぐ引き返して、やっぱり俺はこの地の狼族の霊に受け入れられなかったと。そう言ってしまいたかったけれど。でも、俺にも引けない理由がある。この地を解放して、狼族とスケアルガの
関係がほんの少しでも改善するのなら、それはとても喜ばしい事だ。クロイスと一緒に居ても、嫌な顔をされる事もなくなるかも知れないし。それに、俺はクロイスの顔も見てしまったから。狼族の呪いが、ここまで大きな物
であるという事は。それだけ、スケアルガの。ジョウスのした仕打ちが惨い物だったという事だ。クロイスは必死に、平静を装っていたけれど。自分の父親がした事を、何度聞いて、理解したつもりになっても。ここにきて、
大きな衝撃を受けた事は間違いなかった。皮肉な物だと思う。ジョウスの息子である、というだけで。当時は産まれてもいなかったクロイスがこの地の亡霊からは殺したい程に憎まれていて。そして、とうのクロイスは。きっと
俺とリュースが入っていった場所を眺めながら。懸命に狼族の魂が救われる事を願っているのだろうから。
「戻ったとしても。誰も、あなた様を責めたりしませんよ」
 柔らかく微笑んで、リュースがそう言うのへ。俺も、懸命に笑顔を向ける。
「怖いけど。でも、クロイスのためにも。ガルマ様のためにも。やり遂げたいんです」
 リュースより、ほんの少しだけ前を歩く様に俺は足を踏み出して。慌てたリュースが、それを追って。そうして、ようやく辿り着く。カーナス台地へと。近くまで来た今は、靄の中に、かろうじて道が見える。奥へと続く坂が、
俺達を呑み込むかの様にぽっかりと口を開けている様で。その周りに、黒い靄が漂っていた。ただ、その靄は今は、それまでと少し違って。まるで突然やってきた俺達を品定めするかの様に、僅かに身動ぎをした後、俺達の
周りを囲む様に蠢きはじめる。
「静かに。それから、私には何かしらの危害が加わるかも知れませんが。ゼオロ様は、取り乱されてはなりません」
「え?」
 俺がそれを言うよりも先に、黒い靄から、まるで棘か何かの様な物体が飛び出して、それがまっすぐにリュースへと飛んでゆく。俺が呆気に取られているその前で、それはリュースの身体を貫く様に。けれど、その直前で、
何かに弾き飛ばされたかの様に離れてから、そのまま消えてしまう。リュースはそれを涼しい目で見つめていた。
「私には、呪いは効かない。その事を、まずはわかってもらう必要がありますね。ご心配なく。この様に、私に不用意に近づく呪いは、弾かれてしまいますから」
「なんともないのですか?」
「ええ。まあ、一々襲い掛かられては面倒なので、少しこちらの力も伝えておく必要がありますがね。それよりも……ゼオロ様も、大丈夫なご様子ですね」
 リュースの言葉に我に返って、俺が正面を見つめると。いつの間にか、坂の靄は更に晴れて。どうにか歩ける程の道を俺達に晒していた。通って良いと、そう言いたいのだろう。
「これが私だけだったら。まずこの靄の中を漂う様に行かなければなりませんからね。やはり、ゼオロ様は狼族の亡霊にも、受け入れられる存在である様ですね」
 その言い方はちょっと複雑だなと思いながらも、苦笑して俺は先へ進もうとする。亡霊は、感情的だというし。通してくれる内に進まないといけない。
「あとは、グンサ様の魂を捜すだけですね」
「そうですね。問題は、どこにあるのか、という事ですが。この闇の中を求めて彷徨うのは、些か骨が折れる」
 今更だけど、今は昼間だ。だというのに、ここはとても薄暗い。靄が、陽の光さえ奪い取ってしまっているのだった。外は晴天だったというのに、このカーナスの上空は今にも雨が降り出しそうな曇天というか、それもやっぱり
靄で。そしてこの場所には、ほとんど光が射し込まない。本当に、何もかもここにある物は拒んでいるかの様だった。それでも、俺は受け入れてくれるみたいだけど。
「グンサを捜しているのかい」
 坂に差し掛かって、俺達が会話するのに、突然別人の声が交ざる。途端に、リュースが物凄い速さで剣を抜いて構えながら、俺を後ろへと庇う。俺はどうにか転ばずに、竜の後ろに隠れるので精一杯だった。
「何者だ」
「そんなに怖い顔、しなくていいのに。せっかくここは、程良く呪われていて。だから、そう。余計な奴の目も届かない。そんな場所なのだから」
 靄の中に、渦が現れる。その中から、黒い塊がふわりと舞い上がって。けれど、次の瞬間にはそれは、細身の身体になって。そのまま俺達の近くへと片足で着地する。その頃になって、俺はようやく目が慣れて相手の
事がわかる様になる。黒っぽいけれど、紫の被毛で。背は、俺はこの世界に来た時よりも伸びたけど、相手は前のままの様で。だから俺よりも小さい。クランと良い勝負かなって思ってしまうくらいで。そして、その瞼が
開かれると、暗い色の被毛から、突然光が灯った様な印象を受ける、金の瞳が露わになる。猫族の顔が、そこにあった。相変わらず、陰気な黒いローブに身を包んでいて。見た目は可愛い猫族のはずなのに、胡散臭さが凄い。
「アララブ。どうして、ここに」
「どうして? それは、今言ったじゃない。余計な目が無いから、ここなの。ここしかないの。わかる?」
 現れた細身の、猫族のアララブは。相変わらず俺の言葉をちゃんと聞いてるのか、聞いていないのか。そんな素振りで、俺の問いに答える。それを見つめながら、俺はリュースがまだ剣を構えたままだという事に気づいて、
慌ててリュースの腕に触れる。
「リュース様。大丈夫です、味方……のはずです」
「ゼオロ様。こやつは、一体」
「変な方だけど、悪人ではないと思います」
「酷い言い方するね。少なくとも僕は、君に何か危害を加えた事もなかったし。君が落ち込んでいた時は、少しは頑張って、君を慰めたつもりだったのに」
「それは、そうだけど。でも、ちょっと神出鬼没過ぎるよ、アララブ」
 なんでこう、いつもふらっと現れるんだろうなと思う。前に会ったのは、俺がファウナックから、茫然自失とした状態で帰る時だ。馬車の中で、ふと気づけば俺の向かい側にアララブは座っていて。そのまま落ち込む俺を
慰めるだけ慰めてから、さっさと消えてしまったのだった。
「ああ、そうだ。こんな言い方じゃ、駄目だったね。つい、いつもの様に。今までの様に。君に、接してしまった。そうじゃないのにね」
 不意に、アララブが明るい声を上げてからそんな事を言って。それから、ふわりと舞い上がってから俺の傍までやってくると、その場で跪く。
「ようこそ、呪われた台地であるカーナスへ。あなた様を苦しめるこの場所に、何も知らぬあなた様がこうしてやってくる事があろうとは。私は思いもしませんでした。とても、因果な物でございますね。傍観者に成り果てた
今の私では、到底あなた様の手助けとはなれぬ事、お詫び申し上げます。どうかこの上は、速やかにこの地を解放し。苦しむあなた様が、一刻も早く安らげる事を。心より願っております」
「どうしたの? アララブ。突然、そんなに畏まって」
 アララブのその姿に、呆気に取られてしまう。先程までの、俺の言葉なんて聞いているんだか聞いていないんだかよくわからない態度もどこかへと行って。小さな猫族は、今はただ俺の足元に跪いて、熱心に俺へと言葉を
投げかけてくれていた。俺が首を傾げていると、アララブがにこりと微笑む。
「いつも通りで良いのに」
「……そう? じゃあ、そうするね。どの道、僕は長い事ここには居られないのだけど」
「そういえば。ここはもう、カーナスの呪いがあるのに。アララブは平気なの」
「今のところはね。でも、僕の持っている力では。この呪いを退けるには至らない。僕は元々、戦闘は不得手だしね。だから、そう。一つだけ君に、教えてあげるために来たの。グンサの居場所を」
「グンサがどこに居るのか、知っているのか」
 黙って俺とアララブの様子を見守っていたリュースが、アララブの言葉に反応をして詰め寄る。そうすると、アララブは一度姿を消して。また別の場所からふわりと現れては、近づいてきたリュースを嘲笑うかの様に
見つめていた。
「そんなに、慌てないで。きちんと教えてあげるよ。主役は君なんだから」
「ふざけていないで、必要な事はさっさと言え。亡霊達は今は大人しくとも、それがいつまでも続くとは限らんのだからな」
「そうだね。じゃ、教えてあげる。と言っても、リュース。君も薄々、どこにグンサが居るのかは感付いているんじゃないのかな。グンサが居るのは、このカーナス台地の一番上だよ。そこはね、他よりも更に一段高い場所
なんだ。だから、そこへ至る道以外からは、崖の様になっているし、遠くを見渡せる。それが、グンサの居る高台だよ。グンサがあの日、死んだ場所。追い詰められた狼族が、グンサが戦死した事に絶望して。身を投げたり、
或いは竜族から突き落とされた場所。ここはさ、場所が悪かったなって、僕は思うんだよね。だってさ、彼らは崖から落ちて、そうして叩きつけられて。潰れて死んでしまうまでにさ。見てしまうんだもの。自分達を助けにくるはず
だと、硬く信じていたラヴーワの軍が、こちらへは来ずに、北へと向かっているところをさ。誰一人、自分達を助けになんてこない事を、彼らは最期に知ってしまった。それを信じて無惨な戦死を遂げてしまった、自分達の英雄
であるグンサへの痛ましさも、彼ら自身が感じた無力さも、絶望も。まさに頂点に達したその瞬間に、彼らは皆、潰れて死んでしまった。竜族も、少しやり過ぎたね。その場で、首を刎ねて上げれば良かったのに。態々、
そんな風に殺してしまうから。崖の下から、おぞましく膨れ上がり、登りつめる呪いにも気づかずに。結局、そのまま竜族も呑み込まれてしまった。以来、ここは呪われた場所なんだよ。だから、そう。グンサが居るのなら。きっと、
そこだよね。いや、きっと。そこから、あまり動けないと思うよ。死したグンサもまた。己が守ろうとした者達が、呪いに食われてゆくのを見ていただろうから。呪いに変わり果てた同胞の手が、己に伸びて。そうしてこの台地に
縛り付けられたのだから。ほら、ゼオロ。教えてあげたよ。グンサの場所。今日は、邪魔者が居ないから。僕も少しは、君の役に立てたって訳。だからさ。そんなに、泣かないで? 早く、行ってあげなよ」
 アララブの言葉に、俺はゆっくりと手を上げて。自分の頬を濡らしていた涙を拭った。知っていたはずなのに。どんな風に、狼族が裏切られたかなんて。それでも、ここに来て。この台地の様子を見て。アララブの口から語られる
狼族とグンサの最期は。あまりにも、あまりにも、惨たらしかった。わかっていても、俺は自分の瞳から流れ落ちる涙を止める事ができなかった。乱暴に何度か拭って、改めてアララブを見つめる。深い紫色の猫族は、今は瞼を
閉じていて。そうしていると、本当にこの闇の中に同化してしまうかの様だった。
「それじゃ、僕はそろそろ行くよ。ここは安全だと思うけれど。それでも君がここを救ってくれたら。きっと僕の足跡もわかりやすくなってしまう。早めに行かないとね。それじゃ、ゼオロ。頑張ってね」
 一礼して、アララブがまたふわりと、重力に逆らうかの様に宙返りをしてから。再び渦が現れて、それへと呑まれてゆく。
「今の猫族は、一体……魔道士の類の様ですが」
 その場に残されたリュースは、冷静にそれを見ていたのか。アララブの挙動を見て、魔道士だと口にする。やっぱり、魔道士なんだな。俺からは直接訊ねた事もなかったけれど。なんだかいつも、そんな事より優先するべき
事が目の前にあって。だから強烈な印象を残す癖に、アララブの事は深く考える暇も無いまま通り過ぎてしまう気がする。それは今も、変わらなくて。
「リュース様。行きましょう。一番上に、グンサ様が居るのなら。私は、そこに行かなければ」
「……畏まりました。ゼオロ様。私が、お連れいたしましょう」
 リュースも、今はもうアララブの事を考えるのは諦めた様だった。どの道、あんなに神出鬼没に現れる相手の事を深く考えても、どうしようもない。あれと同じぐらいの力を持っていれば、また違うのだろうけれど、流石の
リュースもそういう訳にはいかない様だった。もしリュースが同じ事ができるのならば、とっくに一人でランデュスへと戻っている訳だし。そう考えると、猫族であるというのに、アララブの力は相当な物なんだなと思う。
 再び歩き出した俺達は、坂を上る。踏み出す度に、俺が動く度に。黒い靄は、俺に道を空けてくれるけれど。それと同時に、後方は再び靄の中へと閉ざされてゆく。歩く度に、開ける視界と、閉ざされる視界は常に一定で
あって。まるで、足は動いていても。どこにも移動をしていないかの様な。そんな錯覚を俺は覚える。一人でなんて、絶対に歩いていられないと思う。こんな中に、ずっと。グンサは閉じ込められているのだろうか。もう、
とっくに死んでしまっているのに。
「不思議な物ですね」
 不意に、そう呟いたリュースの声が聞こえて。俺は顔を上げる。
「何が、でしょうか」
「いえ。その。そんなに、嫌な気がしないものなのだなと。そう、思いましてね」
 そう言われて、なんとなく俺にも、それは理解できる事だなと思う。暗くて。本当に、暗くて。陽の光も届かないこの場所だけれど。なんだか、とても静かで、落ち着いてもいた。辺りを見渡せば、ざわつく黒い呪いが目に
ちらつくのだから、そんなに穏やかな光景とは言えなかったけれど。瞼を閉じると。別に、嫌な感じがする訳ではなくて。
「それに。それに……。今、私の隣に居るのは。あなた様なのですね、ゼオロ様」
 瞼を閉じてその言葉を聞いたのが悪かったのだろうか。リュースは、自分の隣がヤシュバではない事を口にしたに違いないのに。俺には。今の、俺には。なんだかそれは、別の人の言葉に聞こえる。俺の手に伝わる
相手の感触も、俺と同じ狼族の。いや、狼族じゃなくても。被毛を纏った者の手ではないのに。
「まさか私が、こんな所に来るとは。思っていませんでした」
「……そうだね」
 とぼとぼと、歩いてゆく。目を瞑ったまま。リュースが手を引いてくれるから、転ぶ事もない。けれど、その内にリュースの足取りが止まるから。俺もおずおずと瞼を開く。隣を見れば、青い竜が立って。ただ、前方を
見据えていた。
「なるほど。確かに、少なくともガルマには。この先へ行く事はできなかったかも知れませんね」
 リュースのその言葉に、俺は疑問を抱いてその先を見て。そして、目を見張る。黒い靄ばかりだったはずなのに、今はそこに、はっきりとした人型の、淡い光を発する何かがあった。俺達が近づくにつれ、それは次第に
形作られてゆく。そうして、それから色付いて。それに、俺は思わず声を上げてしまった。
「赤狼……」
 色付いた被毛。それは、銀でも、また一般的な狼族のそれでもなく。赤い炎の様な色合いとなって。そして、俺とリュースがこれ以上先へと立ち入る事を阻んでいた。丁度、二人分の赤狼の姿が、そこにあって、それから
それに続くかの様に、その背後にも少しずつ赤狼が増えていた。
「私も、赤狼の事は存じております。彼らはこの地に呪いとなって残りながらも、彼らだけの矜持を持つが故に、他と混ざり合う事もなかったのですね。呪いの本質とは異なる動き。それ程までに、彼らは、彼らだけの想いを
持っているのでしょうか。さて、どうした物か。私の力で、どうにかできればよろしいのですが」
 リュースだけが通るのならば、何をする必要も無かった。しかし俺が通るには、この赤狼の亡霊はどうにかしなくてはならなくて。リュースは静かに手に灯す光を強くしていた。
「待ってください、リュース様。例え、赤狼が相手でも」
 戦いたくはないなと思ってしまう。アララブの話を聞いた今ならば、尚更だった。ここでは、俺は戦いたくはない。前に出ようとするリュースの腕を俺は懸命に引いて、止めようとする。リュースが、困った顔をして俺を見ていた。
「ゼオロ様。それは」
 不意に、リュースが少し表情を変えてそんな事を言う。そう言われて、俺はリュースの見つめる先へと視線を移す。リュースが見ているのは、俺の懐だった。最初、俺はそれが何を意味しているのか、わからなかった。けれど、
少し考えてから慌てて自分の身体を弄って。そして、それを取り出した。銀のナイフと、金のエンブレムを。取り出す事で、俺にもようやく事態が呑み込める。それらは、淡い光を讃えていて。リュースはそれを感じ取ったの
だった。
 二つの物から発せられる光が、強くなって。俺は目が眩んで、思わず目を瞑ってしまう。けれど、すぐに光は止んでくれた様だった。おずおずと瞼を開くと。いつの間にか、俺の視線の先に居る赤狼の数がまた増えていた。
 けれど。その赤狼はさっきまで俺達を遮っていた奴らとは違っていて。俺に、背を向けていて。それから。それから、長い、真っ赤な髪が流れる様に伸びていて。
「ハゼン……」
 見間違えるなんて事はなくて。俺は、その名前を呼ぶ。そうすると、一度だけ。その赤狼は振り返ってくれた。振り返って、ほんの少しの間だけ俺を見てから。けれど、すぐにそのまま歩いて、赤狼達の下へと行ってしまう。
 そうすると、徐々にその場に居る赤狼達の影が薄くなってゆく。ハゼンの物も。
 ハゼンが、消えてしまう。
「待って」
 俺は、慌てて駆け出した。ナイフとエンブレムもその場に置いて。何も要らなかった。ただ、右手を伸ばして。
 けれど、俺の手が届くよりも先に。左腕を掴まれて、俺はその場で体勢を崩す。そのまま引き寄せられて、視界が一転すれば。俺は、青い竜の腕の中に居た。
「ゼオロ様。いけません、近づいては」
「離して。ハゼンが」
「あれは。もう死んだ者達なのですよ」
 厳しい口調で、リュースが言う。そんなの、どうでも良かった。そんな事、知っていた。それでも。
「ハゼン」
 俺は懸命に顔を向けて、手を伸ばした。その頃にはもう、ほとんど赤狼達は消えかかっていて。ただ、もう一度だけ振り返ったハゼンが。とても、寂しそうに俺を見ていたから。だから、俺もそれを見て。もう、何もかもが
終わりなんだなって。そう思った。
「ハゼン。ありがとう……ハゼン……」
 できるだけ、笑ってみた。俺が、笑ってる様に見えたらいいなって。そう思った。消える直前のハゼンの顔が笑っていたから。だから、俺もきっと。そうなれたと思って。
 ふっと、全てが消える。淡い光が消えて。また、暗闇に閉ざされて。俺は堪えていた物を全部吐き出すかの様に、声を漏らして泣いていた。
「ゼオロ様……」
 リュースが、俺の身体を抱き締めてくれている。その腕の中で、俺はもう我慢もせずに、ただ泣き続けた。あやす様に、鱗に覆われた掌が俺の背を何度も撫でてくれる。そうされながら、少しずつ落ち着くに従って。俺は
リュースに、ハゼンの事を話していた。ファウナックに俺を連れていってくれた、赤狼の事を。今はもう、死んでしまったハゼンの事を。
「ずっと。あなた様の事が気掛かりだったのでしょうね。こんな所にまで、付いてきて」
 一度、リュースが俺から離れると。俺が置きっぱなしにしてしまったナイフとエンブレムをすぐに持ってきてくれる。銀のナイフと、金のエンブレムを抱いて。俺はまたしばらくの間、泣いていた。
 泣きながら、それでも俺は必ずこの先まで辿り着くと。そう決心していた。グンサの下に辿り着く事ができる銀狼は、最初から俺だけだったのだから。ハゼンが道を切り開いてくれたのだから。
 必ず、そうするから。だから、今だけは。ハゼンのために、ただ泣いていたかった。

 上へ。上へと、坂を上ってゆく。時折それは、急な段差になっていたりして。その度に、俺はリュースに助けてもらう。せめて視界が良ければ、どこか手や足を掛けられそうなところが探せるのに。それもこの闇の中では、
難しかった。リュースの力で照らしてもらう事はできるけれど、あまり亡霊を刺激しない方が良いかも知れないと思うし。
「昔は、こんな事はなかったのですがね。こちらのラヴーワ側。そして、あちらのランデュス側。双方共に、緩やかな坂が続いて。その途中に、あのアララブとかいう魔道士が口にした、高台があって。ただ、それだけの
道なのですが。流石に数十年もまともに、それも怨念が跋扈するに任せて、生物の触れていない地というのは。どの様な変化を辿るものか、もはや想像する事も難しいのですね」
「道は大丈夫なんですか? その、遠くが全然見えないのに」
「それは、ご心配無く。少なくとも方角は合っております。ここに立ち入る前に、目印を付けておきましたので。私は、その位置から今私達がどの方向に居るのか。それを知る事ができますからね。例えこの闇の中であろうと、
最低限進むべき方角は弁えておりますし、また目印からの距離も把握できますので。着実に、前進しておりますよ」
 それを聞いて、俺は安心する。それにしても便利だと思う。俺も魔法使えたら良かったな、今更だけど。
「とはいえ。この呪いの中では、通常は上手く魔法も操作できないでしょうね。私は呪いを退けられるから、その点は問題ありませんが。ただの魔法使いでは、恐らくはほとんどの魔法も行使できないかと」
 うん。リュースに付いてきてもらったのは、どうやら正解の様だ。いくら呪いから俺に手を出す事がないと言っても、こんな前後すらわからなくなりそうな黒い靄に包まれた闇の中で、たった一人。当てもなく歩き続けろなんて、
流石に無茶だった。その点リュースなら、呪いが効かない上に、方角も距離も筆頭補佐を務めていただけあってきちんと弁えている。そこの所は本当に助かった。だって、今からこのカーナス台地の事を勉強しようと
しても、その歴史などは把握できても。実際に足を踏み入れる事ができなくなって二十年以上経っているから。どんな資料を漁っても、それは到底参考になるとは言えなかった。実際、思っていたよりも道は荒れているし。
「少し、休憩しましょうか」
 急な段差を、リュースに持ち上げられたりして何度か上っている内に、俺は息が上がっていて。そんな俺の様子を察して、リュースがそう言ってくれる。
「でも」
「こんな所で倒れられる方が、どうしようもなくなってしまいますよ、ゼオロ様。そうなったら、戻るしかなくなります」
「そうですけれど」
 でもこんな所で休憩って言われても、それはそれで休めない気がしてしまう。とはいえ、休まない訳にもいかないので、仕方なく休憩を取るけれど。疲れた俺とは対照的に、リュースの方はまったくそういう素振りを俺に
見せる事はなかった。流石に筆頭補佐を務めていた上に、竜族なだけはある。俺とはまったく身体の出来が違う。羨ましい。
 たった今よじ登った段差の上で、俺とリュースは並んで腰かけて。遠くを見つめる。遠くを見渡せば、一面に広がる景色が、無かった。闇しか広がってない。お先真っ暗過ぎる。今更だけど、亡霊に受け入れられているとは
いえ、こんな所を歩いている俺はかなり異常だなと思う。普通の人は、ここに来るまではおろか、最初の坂の辺りで呪いに憑りつかれて、そのまま狂ったり、死んでしまうそうだけど。なんというか、それはそれで心配な気が
する。もしかしたらここの亡霊達も、俺が異世界人だという事はわからずに。ただ銀狼であるから受け入れてくれているだけで。もしぼろが出たら殺されてしまうだろうかとか、今更そんな考えが過ぎって怖くなる。
「大丈夫ですか、ゼオロ様」
 けれども。こんな暗闇の中でも、俺の隣には人が居てくれたから。どうにか正気を保っていられた。隣へ視線を移すと、少し心配そうな顔で、俺を見下ろすリュースがそこに居る。リュースは、決して大柄という訳では
なかった。少なくとも、俺が知っている大柄な竜族である、ヤシュバやガーデルと比べると、かなり細い方で。でも、俺の華奢な身体と比べたら、やっぱり立派な体格をしていて。だから今は、そんなリュースが傍に居てくれる
事が、とても有り難く思える。
「はい。……リュース様。訊きたい事があるのですが」
「なんでしょうか。私で答えられる事なら、できる限り、あなた様の問いに答えたいとは思いますが」
「ヤシュバの事、好きですか?」
 俺が、そう訊ねると。リュースは俺の顔を見たまま、しばらくの間固まってしまう。
「どうして、その様な事を」
「えっと、その。色々、気になって」
 例えば、ガーデルが。リュースを変えたのはヤシュバだと言った事とか。それから、こうして出会ったリュースは俺には優しい人だったけれど、ヤシュバの名を口にする時はもっと優しそうな顔をしている事とか。そんな
リュースが、俺はヤシュバと共に居るべきだという時に。ほんの少し、寂しそうな顔をしている事とか。だから、そう。好きなのかなって。好きなら、俺とヤシュバを、なんて事。願わなくても良いのになと思ってしまう。少なくとも
俺は、ヤシュバと。その、タカヤとどうこう、という考えは無いし。あっちはどうだか知らないけれど。
 俺が理由をはっきり言えないままで居ると、その内にリュースの方から微笑を浮かべて。静かに頷いてくれる。
「好きですよ、とても。だからこそ、私はあの方が筆頭魔剣士で居続けられる様にと。いつも、お仕えしてきました。今、私だけが筆頭補佐でなくなってしまった事は、とても残念に思いますが。これでは、到底ヤシュバ様に
合わせる顔が無い。ただでさえ、私はこんな姿だというのに。それが今は、立場の差までも生まれてしまって」
「それって。ヤシュバが、筆頭魔剣士でなければいけない事なんですか」
「ええ?」
 リュースの言葉を聞きながら、俺は気になっていた事を、つい口にしてしまう。なんというか、リュースはやたらとヤシュバが筆頭魔剣士である事に拘ろうとしている気がして。俺がそう伝えると、リュースは驚いた顔を
してくる。とても、自然な表情で。なんというか、そんな話は考えた事が無いと。そう言いたげな顔だった。
「あの。えっと。リュース様が、筆頭補佐を辞した事をとても気に病んでいて、ヤシュバに会えないと。そう仰っている様に思えたので。でも、話を聞く限りでは。ヤシュバは元々筆頭魔剣士はそんなに乗り気じゃなくて。それも
私を見つけるために必要だからしてきた事じゃないですか。だったら、今になっても筆頭魔剣士を続ける理由も無いし、リュース様もそんな風に気にしなくて良いのになって。そう、思うのですが」
 なんというか。だったらヤシュバも筆頭魔剣士を辞めてしまえばいいのになって、俺は思う。ランデュスの弱体にも繋がるし。俺はヤシュバと戦わずに済むし。いや戦ったら片手で捻り潰されるのが俺だけど。
「そういう訳にも参りません。それに、今ヤシュバ様は、まさにランデュスを背負って立つ身でございますから。それも、ガーデルまでもがラヴーワに寄った今となっては。益々ヤシュバ様への期待は高まっていましょう。
ヤシュバ様も、ご自分が選んだ事だからと口にされておりましたし。今更筆頭魔剣士を下りるだなんて、そんな事は」
「リュース様は、どうなんですか。ヤシュバに、どうなってほしいのですか」
「それは」
 そこで、リュースの言葉が途切れる。そのまま沈黙が続く。表情を窺うと、なんとなくリュースは悩んでいる様な素振りを見せていた。
「やはり。ゼオロ様とご一緒に、というのが。一番ヤシュバ様のためになるのではないかと。そう思ってはいるのですが」
「ご自分が、とは思われないのですか」
「まさか、そんな。というより、私はただの部下ですよ。勿論、今となっては、ただ上司を慕うというよりも、ヤシュバ様を好いているのは事実でございますが。しかし到底、私では……。確かに、ヤシュバ様は一時は私を
必要としてくれる事もございましたけれど。しかしそれも、所詮は間に合わせでございましょう。ヤシュバ様が、そんな。私には、とても恐れ多い事です。ゼオロ様、あまり、私をおからかいにならないでください」
「……」
 ぽかんと、口を開けて俺はそれを聞いてしまう。あんまりにもリュースが焦った様な様子で、捲し立ててくるから。とりあえず、リュースが果てしなくヤシュバの事を好いている事だけはしっかりと伝わってくる。そこに俺を
捻じ込もうとするのは止めてほしいのだけど。
「それに。ゼオロ様が、白き使者だというのならば。この世界のためにも、お二人が、というのは自然な形でございます。それから。例えヤシュバ様が筆頭魔剣士の座を退いたとしても。それでも、とても私では……。あの様に
お強い竜族など、私は他に知りません。何もかも持っておられる様な方に、私の様な何も持ってはおらぬ者では。到底、釣り合えた物ではございませんよ」
「そうなんでしょうか。リュース様がそんなに、なんにも持っていないなんて。私は思いませんけれど」
「お戯れを」
 そう、リュースは返してくる。その逃げ方は、なんとなく聞き覚えがある。その辺りは本当に似ているなって、俺はリュースを見て、ハゼンを思い浮かべる。ただ、この二人が似ている様で決定的に違うところは、自分に誇りを
持っているのかどうかなんだって、今の俺にはわかる。ハゼンは、赤狼だったけれど。自分が赤狼だった事を嫌がっていた訳じゃなかったし。ハゼンが嫌がっていたのは、自分が赤狼であるが故に、銀狼である俺が、周りの
狼族から酔狂な人物であると憐れみや蔑みを受けていたからだ。だから、俺がハゼンの赤を褒めると。ハゼンは俺がからかっていると言って白い眼を向けてきたけれど。実のところ満更ではない顔をしていた事を、俺はまだ
憶えている。けれど、目の前のリュースはそれとはまるで正反対だった。自分の身体的な特徴の全てが嫌いで。だから、ヤシュバと自分では釣り合えないと思っているし、もし今ここで俺がリュースの青を褒めても。きっと、
リュースは静かに礼は言っても、内心ではとても複雑な気持ちを抱くだろう。それを口にした俺の事は好いてくれるかも知れなくても、それでも決して自分自身を好きになろうとはしない。それは、なんとなく昔の俺を見ている
様な気分にさせられた。リュースの方が、ずっと年上なのにな。
「そういえば、リュース様。一つ言い忘れていたのですが」
 どうにもリュースの考えは変えられそうもないので、俺は話題を変える。それから、それが気になってもいたから。
「リュース様は、私が白き使者ではないかと。そう仰られていますけれど……それは、私がヤシュバと揃って、異世界人であるから、という事も根拠としてはあるのですよね?」
「ええ、そうですね。ヤシュバ様がまさに、黒き使者といった風体でございますしね。その力といい、見場といい」
 確かに。俺も、ヤシュバはそうなんじゃないかって思う。それぐらいヤシュバの力がぶっ飛んでいるのは事実だし。百年以上筆頭魔剣士を続けていたガーデルを、あっさりと退ける実力。ちょっと想像できない。でも、俺の
言いたい事はヤシュバの事ではなくて。俺が白き使者であるのか、という事だった。
「……もう一人、異世界人が居るって言ったら。リュース様は、どう思われますか?」
「え?」
「確証は無いし、私はその人がどこに居るのかもわからないのですけれど。実は、もう一人。ヤシュバと、私と、それ以外にもう一人だけ。異世界人として現れた人が居るみたいなんです」
 俺はミサナトでの出来事を思い出してリュースへとそれを教える。この辺りは生い立ちとして話をした時には省いていたけれど、今となっては寧ろそっちが重要かなって思ってしまう。
 俺がファウナックからミサナトへ戻った時に、ミサナトで起こっていた異世界人絡みの騒動。それがあったから、俺はミサナトから、ヒナという獅族の少年の力を借りて抜け出したのだ。あの時、爬族の薬師であるファンネスは
確かに、俺以外の異世界人が現れたからこそあの様な騒動が起きて。その巻き添えを食う形で、ハンスは疑いを掛けられたのだ。疑いというか、俺も異世界人な訳で。そんな俺を俺を匿っていたのだから。それは事実では
あったけれど。とにかくハンスと俺は問題なかった状態なのに、巻き込まれてしまった形にはなったのだ。俺は自分が逃れる事で精一杯だったし、今は今で、こうしてクロイス達と一緒に居ると。もはやラヴーワの中心で
起きている異世界人騒動なんて物はとても遠い物に感じられていたから、すっかり忘れていたけれど。少なくともジョウスの監視下に居る限りは、俺がそれに見つかってどうこうという事も今のところは心配する必要も無かったし。
 でも、リュースの白き使者の話を聞いて、俺は第三の異世界人の存在を思い出さずにはいられなかった。だって俺には到底、ヤシュバと並べる程の力が無かったし。リュースが言う様に、俺がなんらかの事柄を経て、力を
失ってしまったという事を考慮するのなら別だけど。それでも俺の被毛は、やっぱり銀であるのだし。ヤシュバが真っ黒なのだから、やっぱり真っ白なんじゃないかなと安直な事を思ってしまう。
「……つまり、もう一人異世界人が存在しているかも知れないと。そう、仰られるのですね。ゼオロ様は」
「はい。私が、白き使者なのかはわかりませんけれど。もしかしたら、その人かも知れないなって。そう思いまして」
「それは、また……。意外ですね。まさかあなた様が、その存在を知っているとは。私は思いませんでした」
 リュースが動じていたのは、束の間だった。その内に、リュースは僅かな笑みを浮かべてそう返してくる。それに、俺は目を見張った。
「リュース様は、知っておられたのですか?」
「ええ。まあ。とはいえ、ゼオロ様程に詳しい訳ではありません。それも、私が知ったというよりは、竜神様のおかげでございますからね。竜神様は、涙の跡地を覆う結界には、常に目を光らせておいでですから。当然、結界を
超えてこの地に降り注いだ者もまた察知されたのでございます。ですから、異世界人が三人。それだけは、それを知らされた私にもわかる事なのです。ですが、ランデュスの外へと落ちていった、ゼオロ様。そして、ゼオロ様が
今仰られた、もう一人の異世界人の方。この二人は、それ以上の事は何もわからずじまいでした。それ故に、ランデュスへと現れたヤシュバ様と。今まで共に、歩いてきたのでございますが。そうして今度は、ゼオロ様と共に
私は居る訳ですが。その第三の方はといえば、いまだに音沙汰も知れず。ですから私は、とうにどこかで野垂れ死にでもしているのかと。そう、思っていたのです。居ない者を当てにしても、仕方がないと」
 リュースの言葉を聞いている内に、俺も納得する。確かに、居ない者は当てにしても仕方がない。俺が言うまで、それに対して素知らぬ振りをしていたのは、ちょっと狡いと思うけれど。俺に、ヤシュバをぶつけたいという
気持ちがあるからなんだろうな。
「まさか、三人目がラヴーワに。それもゼオロ様の近くに現れていた、などとは。確かにその方が白き使者ならば、私の、お二人を一対と見て、使者だとする根拠も崩れてしまいますね。ゼオロ様は、その第三の異世界人に
ついては、何も知らないままなのでございますか?」
「はい。その時は、本当にミサナトから出る事で精一杯で。とても、その異世界人の事を気にする余裕もありませんでした。そのまま、獅族門まで流れて。あとは、リュース様もご存知の通りです」
「なるほど。ふむ、三人目の異世界人……ですか。興味深いですが。いまだに行方がわからずとあっては、どうしようもありませんね」
 リュースの言う通り、結局その人の行方ってわからないんだよな。もし行方がわかってというか。その人が捕まっていたりしたら。それはジョウスの耳にも入る事だろう。軍師としてのジョウスではなく、スケアルガ学園を
切り盛りするジョウスの耳には、間違いなくそれは届けられるはずだ。それも、ジョウスの息のかかったミサナトでの出来事なのだから。ジョウスが何も話題を振ってこない、という事は。やっぱりその人も、俺と同じ様に無事に
ミサナトを逃れてしまったのだろうな。そうなると、リュースの言う通り見つける事は難しそうだと思う、特に目印などがある訳でもないのだし。
「もしかしたらその、行方を晦ました者こそが白き使者……ううむ。そういう事も、考えられるのですかねぇ。私はやはり、ゼオロ様だと思うのですが。しかしそうなると、ヤシュバ様にはもっと頑張ってもらわなければなりませんね。
何せ、白き使者を見つけるのは、黒き使者だと言いますから。私はそれが、獅族門の一件であなた様の存在を知って、ゼオロ様の下にヤシュバ様が向かった事だと思っているのですが。今のところ、ヤシュバ様はラヴーワには
足を踏み入れてはおらぬ故に、到底その行方不明の第三の者を見つける切っ掛けにも乏しいですからね。そういう意味では、ゼオロ様を見つけ出したのは、まさに僥倖でございましたね」
 そこで、一度話は終わってしまう。結局のところ、第三の異世界人の存在を伝えて。だから俺は白き使者ではないと思う、という主張を通すのは難しい様だ。俺も、それでリュースの主張を跳ね付けるのはあまりにも無理矢理
だと思っているし。しかし、そうなると俺がいつかヤシュバに手を差し出す日が来るのだろうか。この間フロッセルのお祭りに行く時に、クロイスと一緒に仮装をして、クロイスは言っていたけれど。白き使者が、手を差し出すと。
「……そろそろ、参りましょうか。とても、興味深い話ばかりでしたが。いずれも、ここでこうしているばかりでは、到底解決しようのない事ばかりでございますからね」
 俺が再び、白き使者であったとした場合の憂鬱さに囚われていると、リュースが出発を促してくれる。そうして改めて、今居る場所を見渡す。真っ暗闇だった。
 こんな中で恋バナしてた俺達って一体。いや、リュースがヤシュバの事をどんな風に思っているのか、俺が知りたかっただけとはいえ。もうちょっと場所選べと言いたい。とはいえ、このカーナス台地を解放する事が
できたら。その後にどんな事が待っていても、きっと、リュースと長くは一緒に居られないだろう。結局のところ、今はただ俺が協力を仰いで、リュースがそれに頷いてくれたから一緒に居るだけで。俺達は立っている
国すら、それぞれに違っていて。そうして、その国同士が今は争っているのだから。
「さあ、参りましょうゼオロ様」
 また、リュースが手を差し出してくれる。今はもう、それはハゼンと重なる事もなかった。リュースは、リュースだと思っていられる。
 少しだけ、今まで歩いてきた道を振り返った。俺が見ていた幻の人が、今もまだそこに居やしないかと。
 けれど、やっぱり何も見えなくて。だから俺は、空いた手で懐の銀のナイフの鞘を、ぎゅっと握って。また先へと進みだした。

 今までよりも、更に少し開けた場所へと出た。そこから、更に上へと坂が続いている。
「着きましたね」
 坂の先を、見えもしないのに見上げたリュースが。俺の隣で言う。
「この先が、この台地の……まあ、頂上と言っても差支えはありませんかね」
「そうですね」
 上級者向けの山登りかよってくらい荒れた道を進んできたので、俺もそれには賛同する。何回リュースに持ち上げて、押し上げてもらった事か。とうのリュースは、それこそ脚力も尋常ではないので俺が精一杯よじ登っている
隣でさっさと跳んでいってしまうのに。バッタか何かに見えた、とは口が裂けても言えない。脚力が違い過ぎる。翼が無くて、空が飛べないからこその身体能力なんだろうな。跳躍を繰り返す度に、青い尻尾が優雅に揺れていて、
それはとても綺麗だと思う。ほとんど俺の後ろで、俺を押し上げる役目を任せてしまったから、そんなに見る事はできなかったけれど。
「ここは、そうですね……。西と東を直接行き来する分には、ほとんど通る必要の無い場所です。ただ、一番高いが故に、周りを一望できる。それは、あのよくわからない猫族の魔道士も言っておりましたね。だからあの日、
ここからは。狼族の絶望を促す光景が見えたのだと」
 アララブの言葉を、俺は思い出す。ここに来るまでも、視界は悪かったけれど。今はそれに輪を掛けて酷い状況と言えた。坂の上が見えないのはいつもの事だったけれど。今はそこから、もっと鬱屈とした何かを感じる。厚い
雲が、間近に迫っている様で。しかもそれが、手を伸ばせばそのまま掴めてしまいそうな。そんな印象を受ける。この先に、グンサ・ギルスが。ガルマの兄が、居るのだろうか。
 辺りは不気味な程の静けさに包まれていた。俺と、リュースが立てる物音以外は、風の音すら聞こえない。ここでは、風を感じる事もない。風すらも、遮られてしまう。今この、涙の跡地を覆っている結界よりも、ともすれば
もっと厄介な物にそれは思えた。少なくともあれは、自然の物は通すから。雨の恵みも、風に吹かれる事も、俺達は感じられるけれど。ここでは何も、感じられはしないから。感じるのは、ただ、厳かとも言える程の静寂と。そして
瞼を開けば、嫌でもわかる。暗闇に囚われて、ここで果てた狼族の無念さだけだった。ここには、生き物の気配を感じない。草も木も、見当たらない。枯れた木の残骸の様な物が、時折見える時もあるけれど。それらは乾き
きっていて。本当にここには、恵みを齎す物とは無縁の地と化してしまって。それが長く続いている事を、俺に教えてくれる。
「生きている者を貶める。まさに、ここは呪われた地でございますね」
 俺が辺りを見渡しているのに気づいて、リュースがそう付け加えてくれる。その言葉通りだった。今更だけど、俺一人でこんな呪いをどうにかできる物なのだろうか。ここまで足を踏み入れる事を許されたとはいえ、この先に
居るグンサは、俺を見て何を口にするのだろうな。けれど。それをここで考えていても仕方がない。考えるよりも、この先へ行けば。欲しい答えはそのままに得られるのだから。
 俺が歩き出そうとすると、リュースが手を離す。思わず、俺は振り返ってリュースを見上げてしまう。
「この先は、私もお供しますが。ですが、手を繋いでとはゆきません。グンサが、あなた様を見てどの様に思われるのかが、わかりません故。どうか、お許しください。亡霊とは、妄執の塊。グンサの怒りは、この地の亡霊
全ての怒りとなりましょう。彼らはグンサを縛る代わりに。グンサの意に染まぬ相手には、何をしようとするのかわかりません」
 仕方なく、俺はそのまま頷いて坂を上る。最後の坂は、意外な程にあっさりと、短く感じられた。先が見えないから、それがどこまで続いているのかがわからなくて。もう少し続くだろう、なんて思っていたらそれは不意に
途切れてしまう。カーナス台地の、高台。最奥へと。俺とリュースはついに辿り着いたのだった。
「誰も居ないみたいですが」
 最初、俺が漏らした感想はそれだった。開けた場所、だと思う。それもやっぱり、闇に閉ざされていたけれど。ただ、俺の足が。肉球と靴越しに大地の感触を捉えた限りでは。坂は既に終わりを告げて、ここは平らな場と
なっている事を報せてくれた。これ以上は無く。ここが終着である事は、察せられたけれど。だからといって、そこは今まで歩いてきた場所と、別段なんの代わり映えもしない様な場所だった。
「いいえ。正面に、確かに妙な気配を感じます。恐らくは、あれが」
 リュースに促されて。俺はまた少し頷いてから歩を進める。俺とリュースが歩く度に、靄は晴れて道を示してくれる。そうして足を運ぶ内に、俺は不意に、踏みしめる大地が柔らかな物へと変じた事を悟った。思わず足を
止めて、足元を見下ろしてから。俺は思わず呻いてしまう。丁度、俺が足を踏み入れて数歩経った状態で、その辺りは白い土へと変わっていた。俺が足を上げると、靴に付着したそれが僅かに宙に浮いて。足から離れると、
ふわりと舞って、また大地へと。白い物の中へと帰ってゆく。白い、粉が舞っていた。
「骨、でしょうか。とても細かく砕かれて、粉末状になっていますが」
 できればそれ明言してほしくなかったな、と俺がちょっと微妙な表情をしているのを他所にリュースが口にする。
「お身体に異常は」
「ありません」
「そうですか。ならば、よろしいのですが。特に、これから力を感じるという訳ではありません。恐らくは、呪いの影響なのやも知れませんが」
 俺には大分ダメージがあったとは言えなくて。俺はそのまま、また歩く。できれば迂回して、踏みつける事を止めてあげられないかと思ったけれど。生憎進行方向は、視界の開けている場所全てがこの白い粉で満ちていて、
諦めるしかなさそうだった。
 さく、さく、と。足音が変わってゆく。白い砂の量が増えて。だから、踏み出した足も相応にそれに沈んで。だから、さくさくと。さっきから音がしている。まるで、ここでだけは違う色を奏でられる様にするために、それが
敷き詰められているかの様に感じられた。なんという悪趣味。
 その、音のせいだろうか。不意に、前方の靄が一気に晴れる。それまでは俺が進む度に、その歩調に合わせるかの様だったのに。それとは違って、急に視界が開けた印象を受ける。それから、光が射し込んでくる。
 こちらの、リュースの灯す僅かなそれと最初は似ている様で、しかし足を踏み出す度に、着実に光は強まってくる。俺は顔を上げて、そちらへと視線を送った。
 そこに、それは居た。いつの間にそこに居たのかは、わからなかったけれど。ただそこに、静かに佇む狼族の姿があって。そしてその身体は、俺と同じ様に。銀に覆われて、更には妖しげな光を灯して、この闇の中で、
俺達を除いては、ただ一つの光源となって俺達を迎えてくれる。若い、銀狼の男だった。服はガルマが着ていた物に似ていて。だからそれは、グンサ・ギルスに他ならないはずだけど。その身体はまだ若い男のそれで。
「グンサ様……?」
 思わず俺は、歩み寄りながら。少しだけ疑問を籠めて、その名前を呼んでしまう。そうすると、静かにその銀狼の男は閉じていた瞼を開いた。現れた瞳も、やっぱり銀の美しさを湛えたままで。だから俺は、これがグンサ
なのだと確信する。グンサでなければ、こんな銀を持つ者は存在しないだろう。その内に成長する俺を除いては。
「誰かが来ると。他の者が、ざわついていた。お前達なのだな?」
 ゆっくりと開かれた口からは、低い声音で、男の言葉が発せられる。僅かな間を置いて、俺は頷いた。
「お前は……。いや、言わずとも、ある程度の事は俺にはわかる。何せ、ここまで辿り着いたのだからな。道中の者達全てが、通る事を肯う。お前は、そういう存在なのだろう」
「ゼオロと、申します。グンサ・ギルス様に、相違ないですか」
「ああ。懐かしいな、その名を、生きている者から呼ばれるというのは。ここには、誰も来ないからな」
 そう言って、グンサ・ギルスはふんと鼻を鳴らす。なんというか、亡霊という割にはずっと生きている感じがするし。それからちょっと尊大だなって思う。とはいえ、俺はその場で居住まいを正した。後ろのリュースも、それは
同じで。なるたけ失礼が無い様に振る舞おうとしている俺達の事を、グンサは変わらず厳しい瞳で見つめていた。
「お前。いや、ゼオロ、というのだったか。お前は、俺の弟であるガルマの息子なのか?」
「いいえ。その、ガルマ様は。子が遺せぬ身体でございまして」
「なんと。それはまた、悪い事をしてしまったな。俺は、あいつが無事ならば。後事を託しても問題なかろうと、そう思っていたのだが。ふむ、少し興味が湧いた。詳しく話してくれないか」
「その前に、グンサ様。私達の目的は」
「それは良い。というより、察している。だが、この地が解放されれば俺も消える。その前に、お前の話が聞きたい」
 そこまで言われてしまってはと、俺は肩の力を抜いて、狼族の事、銀狼の事、そしてガルマの事を話しはじめる。グンサはその内に、そのまま胡坐を掻いて。俺はこの砂の上で座るのは嫌だったので、そのまま話を進める。
「そうか。俺が死んでから、もうそんなにも時が過ぎてしまったのだな。ここでは、時の流れも把握する事ができぬ。俺は外へ行く事もできないからな。ガルマには、苦労を掛けてしまったな」
 全て話し終えてから、グンサはしみじみという様子でそれだけを口にする。
「あの、グンサ様。私の目から見て、グンサ様はとても、亡霊というか。死者である様には見えないのですが。グンサ様は、本当に」
「死んでいるよ。俺はもう。ただ、この場はあまりにも呪いの力が強くなり過ぎた。だから、この中では生と死の境目を飛び越える様な事ができる。といっても、それは俺にだけできる事であって。他の者にはほとんどできは
しないが。ここに来るまでに、狼族の姿を見なかったか? あいつらは、何かの弾みや、感情の起伏によって、一時的に己を形作る事ができた者達だ。それも、長くはもつまい。俺は、違う。ここで死した、俺を望む狼族の想いが、
俺をこうして、生前の姿で現れさせている」
 やっぱり、グンサは死んでしまっているのか。それを聞いて、俺は少し残念に思う。こんなに元気そうなグンサなら、外に連れ出せる事ができれば。また違った道も開けたかも知れないのにな。ジョウスがもしかしたら嫌な
顔をするのかも知れないけれど。
「それにしても。お前は、変わった奴だな。ここには、赤狼の霊も居た。だから、俺はここには誰も来られぬと。そう思っていた。少なくともガルマでは、無理だ。それが、お前は事も無げにここまで辿り着いて。しかも、その
案内をしているのが。まさかあのランデュスの筆頭補佐であるリュースとはな。お前は一体、どの様な手妻を用いたのだ」
「それは。私がただ、案内をお願いしただけです」
「何を考えている。筆頭補佐のリュース」
 話題が、リュースへと移る。そうなると、グンサは鋭い顔を剥き出しにして、俺の後方に今まで黙って立っていたリュースを睨んでいた。とうのリュースは、俺には見せなかった皮肉そうな笑みを浮かべてから一礼をする。
「お久しぶりでございます、グンサ様。とはいえ私は、あなた様とは戦場で、遠くから眺め合っただけに過ぎませんでしたが。質問にお答えしますが、私もただ、カーナスを解放したいと。そう思っているだけでございますよ。ええ、
二言はございません。それに、ゼオロ様が心配でもありますからね。この様な場所に、ゼオロ様お一人では。迷い疲れてしまうという物」
 リュースが、俺に対する態度とは大分違う様子でグンサへ返事をする。なんか大分違うな。クロイスの言う本気の俺みたいな感じというか。自分で言っといてなんだけど、今凄く納得した。
「それが、どこまで本心かはわからんがな。竜神は、考えている事がわからん存在だからな。もっとも俺も、その存在を知っている訳ではないが。お前は、竜神と直に見える力を持った竜族だ。お前の言葉を、そのまま相手が
信じてくれるなどとは思うなよ」
「元より、その様な期待はしておりません。私はただの案内役。それから、その様に脅される様な口振りをされても、無意味でございますよ。呪い、などと。私にはなんの効果もありはしないのですから」
「呪いの効果が無い、か」
「ええ。お試しに、なられますか?」
「いいや。その必要も無い。哀れな物だな。その様に強がっていられるのも、己の力という訳ではないであろうに」
「元より私は、竜神様の駒の一つ。そうして、既に舞台を下りた死者から、その様に哀れまれる謂れはございません。死者が生者を哀れむとは、実に滑稽。大人しく、哀れまれていれば良い物を」
 不意に、周りの空気がざわつく気配を感じる。黒い靄が、一段と濃くなって。それから、明らかな敵意を孕んだ様な。俺はそれに、僅かに身体を震わせる。
「……この辺りにしておこうか。俺とて、周りの者全てを押さえられる訳ではない。お前の目的にも、今は目を瞑ろう。どの道、俺はもう死んだ存在に他ならぬのだからな」
「それには、同意見ですよ。それに、私も。既に筆頭補佐ではなくなった身。舞台から下りたという意味では、何も変わりはしない」
 そう言ってから、グンサとリュースはお互いに笑みを浮かべる。なんだかよくわからないけれど、喧嘩にはならなかった様だ。喧嘩になったら確実に俺は巻き込まれて死ぬので、良かったと思う。
「さて、ゼオロよ。待たせてしまったな。生者との会話は、俺には久しぶりに楽しめる出来事だった。もう、よい。ここにも、未練は無いしな」
「未練は無いのに、まだこの地は呪われているのですか」
「俺に未練はなくとも、周りはそうではない。そういう事さ。俺は呪われてこの方、ずっとここで一人、考える時間だけを与えられてきた。長く時が経てば、結局は呪わしいという気持ちも、薄れてしまう。しかしこいつらは、
そうではない。そしてまた、この地を面白がって探検しにくる馬鹿者や。また、うかうかと迷い込んでしまった生き物達。それらはこの地に食われ、また新たな呪いの源となっている。本音を言えば、俺はスケアルガを。いや、
ジョウスを憎んではいるが。しかし何を言うにも、もう死んでしまっているからな。そして、まだ生きているガルマは、この地を解放したいと言い。そして、後に生きるお前達の手を煩わせたくないと言うのなら。俺は兄として、
ガルマを応援してやりたい。俺が押し付けてしまった事で、あれは随分と苦しんでしまった様だからな。こんな事なら、俺が生き残るべきだっただろうか。とはいえ、例えあの時、それがわかっていても。俺は、ガルマには、
生きていてほしかったが。小さい頃から、何かと俺の背を追ってばかりで。そうであるが故に、俺と比べられて育った男だ。自由な身の上に、してやりたかったが。それも、ギルスの直系と産まれた宿命があっては、
そういう訳にもゆかなくてな」
「あの、グンサ様。この地を呪いから解き放って良いと。グンサ様の口から仰っていただけた事は、嬉しいのですが。私は、何をすればよろしいのでしょうか。それが、よくわからなくて」
「知ってくれ。それだけで、良い。お前ならば、それで良いはずだ」
「知るって、何を」
 そこまで言った途端に、不意に叫び声が聞こえて。俺はそちらへと慌てて視線を移す。ぶらりと垂れ下がった身体があった。首を掴まれて、既に虫の息のまま、身体から血を流す狼族の姿がそこにあった。その首を掴んで
いるのは、竜族だった。そのまま、竜族の男が笑い声を上げながら、歩いてゆく。そうして、ゴミでも投げ捨てるかの様に。狼族の男を放ると。絶叫を後にして、その声は遠く、遠くへと消えていった。
「あの日からここは、ずっとこのままだ」
 グンサの言葉に、俺は我に返る。もう、声も、そして狼族を投げ捨てた竜族の姿も見えなくなっていた。俺と同じ様に、リュースも見ていたから。今のは俺だけが見ていた訳ではなかったのだろう。
「あの日からここに存在している俺とは異なり。短い間だけ形作られるこいつらは。ただ、あの日を繰り返しているのさ」
 視界が、揺れる。途端に靄が更に晴れて。そうして俺の視界一杯に、それが広がる。仰向けに大地に倒れて、腹に剣を何本も突き立てられたまま動かないグンサの姿が。そしてその背後の、ほとんど崖と言っていいほどに
切り立った場所から、狂った様に笑った竜族が、狼族の戦士を切り捨てたり、または傷一つ付けずに捕らえて、豪快に放り投げている姿が。いくつもの絶叫と、悲鳴が、あちこちから上がって。俺は思わず耳を塞いで、砂の
上に座り込んでしまう。こんな時、耳の良い狼族になったのは失敗だった。耳を伏せて、両手で塞いでも。その声は少しも静かになる事はなかった。寧ろ今は、頭に中に響いている気がする。吐き気を覚えて、片手を口元に
持っていって、懸命に堪える。視線を上げれば、滲んだ視界の中で、仰向けになったまま死んでいる当時のグンサの姿を、相変わらず胡坐を掻いたまま見下ろしているグンサの姿があった。
「悪趣味な物だな」
 いつの間にか、屈んで俺の背中を撫でてくれていたリュースが、冷めた口調で言う。
「その悪趣味な世界を作り上げているのは、竜族でもあったのだがな」
「だからこそ、だ。位の低い者達は、すぐに血に酔ってしまう。戦が彼らを変えるのは、わかっているが。それを押し留める者が、この様ではな」
 リュースの瞳は、竜族の兵の中に居る隊長に向けられている様だった。その隊長は、兵達の動きを諫めるどころか、率先して今も、狼族に手を掛けている。グンサと同道していた銀狼を捕らえては、拷問を加えて。動かなく
なったら、これもまた放り投げて、次の獲物へと目を向けていた。
「まあ、こいつもこの後呪われて死んだのだから。まだ良いが」
「さあ、ゼオロ。俺の下へ来るが良い」
 グンサが、妖しく笑って俺へと手招きをする。俺はゆっくりと立ち上がって、そちらへと歩を進めた。すぐそこが、もう崖になっていた。グンサが何事もなくそこで座っていたから、俺はそんなに近くだという事も、今狼族が
放り投げられるまではわからなかったけれど。
「ほら、見てみろ。今は、遠くにも。あの時俺達が見ていた光景が広がっている。ラヴーワ軍の姿が、見えるだろう」
 グンサの言葉に、間違いはなかった。震えながら見た俺の視界には、確かにラヴーワ軍の姿が見えた。しかしそれは、こちらへはやってこない。俺は吐き気を堪えて、息を呑んで。崖から、真下を見つめた。けれど、そちらは
黒い靄に覆われていて何も見えなかった。今も投げ込まれている狼族達が、闇へと消えてゆく。闇へと消える間際、彼らは叫び声を上げて。そうしてその目は見開かれて、血走り。あの、遠くの軍へと向けられていた。
「俺は、お前を苦しめたい訳ではない。ここに眠る者達も、それは同じだ。ただ、知ってほしかった。あの時俺達が、どんな目に遭い。そして、どれ程に惨めだったのかを。誰もが近づけぬが故に。ただ、知ってほしかった」
 ふらふらと、ともすればそのまま落ちてしまいそうな俺の身体を、グンサが引き留めてくれる。死んでいるはずなのに、その身体は冷たい訳でもなくて。だから俺は、余計に。その隣で、冷たくなっているあの時のグンサを
見てしまう。ふらふらとした足取りでリュースの下まで戻って、俺は立っていられなくなって、また座り込む。大地に手が触れると、柔らかな砂の感触が俺を迎えてくれた。それを、片手で掬う。指の隙間から、さらさらと白い粉が
流れてゆく。俺の銀よりも、白いそれが。
「俺は呪いが充満した中で、こうして一人取り残され。そして、この下で潰れた奴らを、ここまで連れてきてやった。俺一人だけが、こうしているのが嫌でな。けれど、皆が風化してしまった。結界よりも、更に強固に。ここは
何物もを寄せ付けぬというのに、風化というのは違うのかも知れないが。黒い靄に包まれている内に、気づけばそいつらは腐る事も通り越して。ただの白い粉になってしまったのさ」
 さらさらと流れた砂を、俺はまた掬う。掬い上げた砂の小山の上に、俺の流した涙が流れてゆく。
「何もしなくて良い」
 グンサの声が、陰々と響いてくる。その口から発せられたのではなく、俺の頭の中に、今はそれは広がる。
「何をせずとも良い。けれど。知ってくれ。悲しんでくれ。泣いてくれ。それだけで、良い。お前がそうしてくれるのならば。俺もそれを受け入れよう」
「私には、こんな事しかできないのですか」
「何を言っている。お前の言う、こんな事、というのを。一体他に、誰がしてやれるというのだ。そして、してやれた者が居たとしても。お前以外を受け入れる者とてここには居ない」
 粉を掬い上げる。今度は、両手で。さらさらと、粉が落ちてゆく。けれど、それが次第に、まっすぐには落ちなくなってゆく。少しだけ、流れてゆく。
「ゼオロ。お前が、ここに来てくれて良かった。俺も、ようやく解放される。この呪われた地から、銀狼から、狼族から。礼を言おう。やはり、お前でなくてはならなかった。ギルスの直系など、何程の事。お前こそが。お前だけが」
 気づけば、グンサの声は遠くなっていた。それから、光が射してくる。さっきまでのよりも、ずっと強烈な。それから、強い風が。流れていた砂が、今度は俺の掌からだけではなく。俺の周りの物も含めて、宙へと舞う。俺は、
咄嗟にそれに手を伸ばした。けれど、すぐに俺の腕が掴まれて。振り向けば、リュースがそこに居て、ハゼンの時と同じ様に俺を捕まえていた。改めて前を見れば、そこにはもう、大地は無くて。崖すれすれのところから、
俺は飛び出そうとしていた様だった。
「呪いが、消えてゆく」
 リュースの呟きで、更に光の射し込みが激しくなる。外はまだ、昼だったんだな。なんだか、この闇の中に居ると、何日もここに居た様な錯覚を覚えていたけれど。
 雲間に光が射すよりも、ずっと強烈に、そして性急に。闇は晴れて、光が射してくる。目が眩んで、俺はしばらくの間目を瞑っていた。そうしていると、快い風が俺の頬を撫でてくれて。それから、目を瞑っていても、俺には
よくわかった。周りがもう、明るくなっている事に。ゆっくり、ゆっくりと瞼を開いて。俺はリュースに掴まりながら、辺りを見渡す。
 そこにはもう、何も無かった。ただ、平たい、カーナス台地の高台が、暗闇の中で思っていたよりもずっと大きく広がっているだけだった。一片すら見当たらない緑が、ここが呪われて、生物の存在しない土地だった事を
僅かに教えてくれるだけで。それ以外は、もう何も無い。
「グンサ様……」
 俺が呟いた人も、もう、どこにも見当たらなくなっていた。
 何を遺す事もなく、グンサは呪いと共に、この地を去っていったのだった。

 快い、新鮮な空気が俺の胸を満たしていた。快晴の空の下、殺風景なカーナス台地の上に立っているのは、俺とリュースだけで。
 この場所が、さっきまで呪われていたなんて。なんだか信じられないと思う。快い風に乗って、既に鳥の姿が近くに見えている。とはいえ、啄む物もないから。彼らはただの通り道として、ただちに過ぎ去ってしまうだけだった
けれど。それでも、生き物がこの場所を通っているという事実が。次第に俺の中に、呪いを払ったのだという実感となって湧き上がってくる。
「お見事でございました、ゼオロ様。やはり、あなた様はやり遂げられましたね」
「いいえ。リュース様が、ここまで連れてきてくださったおかげです。私一人では、到底ここまでは来られませんでした」
「……まあ、それはそれですよ」
 あ、否定してもらえなかった。辛い。とはいえ、事実だから仕方なかったけれど。俺一人だったら、多分まだ迷ってたし、戻る事もできなかっただろうから。あとここの崖からも落ちてたと思う。
 改めて俺は、解放されたカーナス台地を見渡す。予想通り、殺風景な景色だった。殺風景な景色である事を視認できる様になったのだから、それは大きな前進だったけれど。
「もう、どこにも呪いの力を感じませんよ」
 リュースが、付け足してくれる。狼族の呪いは、無事に解放された様だった。だからこそ、俺は辺りを見渡してしまうのだけど。ハゼンも、あのままどこかへと消えてしまったのかなって。そう思って。
「ありがとうございました、リュース様。ラヴーワの事なのに、ここまで一緒に来てくださって」
「いいえ。私の力が、ほんの少しでもゼオロ様のお役に立てたのならば、それで」
「ゼオロ!」
 カーナス台地の新しい姿を見ながら、休憩をしてリュースと話をしていると。その内に、元気な声が俺の名を呼んで。俺が慌てて立ち上がると、坂の方から大慌てで走り寄るクロイスの姿が見える。その後ろにも、クロイスの
連れている兵の姿が。
「クロイス」
 それを見て俺は立ち上がると、クロイスの下へと駆け寄る。クロイスは俺を優しく抱き締めてくれた。
「随分、早いね」
「当たり前じゃん。黒い靄が、どんどん晴れていくんだから。これはもう行くしかないって、大慌てで来たんだよ。でも、まさか本当にゼオロがカーナス台地を解き放ってくれるなんてな」
「信じてなかったの?」
「そういう訳じゃ、ないけど。でも、一人でできる事には、限度があるだろ」
「一人じゃなかったよ。リュース様が、手伝ってくれたし。それに」
 それに、ハゼンも。それから、グンサ自身も。グンサがその気にならなければ、この地は解放できはしなかっただろうから。結局俺は、彼らの力を借りただけだった。
「グンサが、ここに居たの?」
「うん。会ったよ、グンサ様に」
「そうか……」
 そこまで言うと、クロイスは途端に表情を曇らせてしまう。
「どうしたの? クロイス」
「ゼオロは、全部見たんだよな? ここの事も。俺は、話に聞くだけでしかなかったけれど。その……それでも、スケアルガの俺と……」
 そこまでクロイスが言って、俺はようやくクロイスが何を考えているのかに検討を付けて。そして、暗闇の中で見せられていたあの光景の事をまた思い出してしまう。確かに、あの光景を見てしまっては。少なくとも、ジョウスに
対して今まで通りに接するのは、難しいかも知れない。クロイスはそれを気に病んでいるのだろう。
 だから俺は、できるだけ笑顔を見せて。大丈夫だって、クロイスに言おうとして。
 けれど、それを言うよりも先に。背後から凄まじい音が聞こえて。事態が把握できない俺を他所に、クロイスは素早く俺を後ろに庇おうとする。遅れて俺が、クロイスの隣から首だけ伸ばして様子を窺うと。丁度、俺が今
立っていた場所には、黒い翼を広げた竜が居て。たった今、そこへと下り立った様だった。その竜と、俺達の間に、俺の後を追おうとしていたリュースが立ち尽くして、その姿を唖然と見つめている。
「ヤシュバ様……」
 静寂を、リュースの声が破る。その途端にクロイスが身体を震わせた。
「何をしている。囲め」
「近づくな」
 怯えた兵が、黒い竜を。ヤシュバを取り囲もうと動きかけた時。鋭いヤシュバの声が聞こえる。それから、俺は違和感を覚えて。開かれたヤシュバの瞳から、淡い光が漏れている事に気づく。ただ、それで慌てたのは俺よりも、
俺達の間に立っていたリュースだった。明らかにリュースは狼狽えて、それから俺の方へと視線を向ける。
「ゼオロ様、見てはなりません! あれは、私が翼族に仕掛けたのと、同じ竜神様の魔法です。あれに囚われては」
 リュースのその声に、その場に居た全員に恐怖が広まる。リュースが翼族の谷に、翼族に掛けた魔法の事は、既に知られていた。リュースはそれを、竜神の魔法だと言う。それを今、ヤシュバが宿してやってきたと。
「近づくな。これは、翼族だけに作用していた物とは違うぞ。お前達を廃人に変えてやる事も、難しくはない」
 その恐怖を後押しするかの様に、続けてヤシュバが言う。クロイスが呻いて、それから俺を伴って下がろうとする。それよりも俺は、ヤシュバの狙いがなんなのかを考えていた。いきなり、呪いが払われたこのカーナスに
現れて。しかもその目には竜神の魔法を宿しているという。また、俺を連れようと現れたのだろうか。
「リュース。帰るぞ」
 けれど、ヤシュバの口から放たれた言葉は、それだけだった。とうのリュースは、ヤシュバにそう言われて、戸惑う様子を見せている。何度も俺へと視線を送っていて。ヤシュバと俺を、交互に見つめている。
「ですが、ヤシュバ様。ゼオロ様が」
 俺の名前が出ると、クロイスがまた、俺を庇う様に前へと出る。下手をしたら、クロイスが竜神の魔法に囚われてしまうかも知れないというのに。俺は懸命にクロイスの腕を掴んで、今度はクロイスが前に出ていって
しまわぬ様に気を付けなければならなかった。
「行かせない。絶対に」
 クロイスが呟く。俺はクロイスにしがみ付いて、小さく返事をした。けれど、ヤシュバはそれ程長く待ってはいなかったし、また俺を狙ってもいなかったのだろう。その内に、つかつかと歩み寄って。戸惑うリュースの腕を
掴んでしまう。
「ヤシュバ様」
「俺は、お前を連れ戻しにきた。それだけだ」
「しかし私はもう。それに、ゼオロ様があそこに」
「黙れ」
 強引に、ヤシュバは更にリュースの腕を引いて。そのまま抱き上げると。黒い翼を広げる。途端に物凄い風が俺達を襲って。けれど、それは俺達が何もできない言い訳にも、丁度良い物だった。誰も、ヤシュバに近づこうとは
しなかったから。
 晴れ渡る空に、真っ黒な翼が広がって。それは陽の光を受けて鈍い輝きを見せていた。空を飛んだヤシュバは、そのまましばらくは俺達を見下ろしていたけれど。その内に興味を失ったかの様に、リュースを抱いたまま
飛び去ってしまう。俺は、俺達はそれを茫然と見つめていた。
 ヤシュバがその場から飛び去って、黒い小さな点も青空の彼方へ消えた頃に。また新たな生物が飛来してくる。赤い鱗を持つ竜族。それは、俺達の前に現れると、かなり荒っぽく着地というか、そのまま落ちてきた。
「すまない。後れを取った」
「ガーデルさん」
 リュースが逃亡する恐れもあるので、様子を見ていてほしいと頼んでいたガーデルは。今はその衣装を青い、自らの血に染めて、苦し気にそう呟いていた。俺は慌てて、クロイスの後ろから飛び出して駆け寄る。
「しっかりしてください」
「大事ない。だが、まさかリュースのために待機していた所に、ヤシュバが来るとはな。俺も少しは腕を磨いたつもりだったが、やはり、敵わんなあれには」
 ガーデルの傷の具合を確かめながら。俺は、空を仰いだ。
 ヤシュバが去った東の空には、既に何も見えず。ただ青い空と、流れる雲だけが漂っていた。

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