ヨコアナ
35.白銀
終わる事なく続く拷問の日々が、辛い訳ではなかった。
ただ、死ぬ事を許されずに繰り返される責め苦は。いくら心を閉ざしたところで、徐々に私の心を蝕みはじめていたのは確かだった。
牢獄で一人、目を覚ました途端に身体中に走る激甚な痛みに呻く時、満足に声を出す事も、痛めた喉では許されなかった。
微睡んで、痛みから目覚めて。また、微睡んで。その繰り返し。そうしている間に見る夢だけが、今の私を慰めるかの様に、ただ優しかった。
ランデュスの夢を見た。私がまだ、筆頭補佐だった頃の夢を。今思えば、それは幸せな事だったのだと思う。産まれた途端に、周りの全てから失望の目を向けられた私が、まさか竜神に取り上げられて。そうして要職を任されて。
そして、あの男と出会った事は。まさに幸福な事だったのだと思う。
帰りたい。そう思っている自分に気づいた時、私は、狼狽えた。私の役目は、もう終わった。いや、終わっていなくとも。もはや、ここから脱する術もない。ヤシュバを庇い、どうにかヤシュバをランデュスに帰す事が
できた。それだけで、私の役目などはもう、何もかもが終わったに等しかった。
だから私は、死を選ぶべきだった。少しずつ蝕まれた心故に、その内に無意識に支配されたまま、都合の悪い事を口にしてしまうよりも先に。
それでも。気を抜くと、思い出してしまう。黒い竜の事を。今となっては、もはや目の前に居てさえ、触れる事すら許されなくなってしまう程に、身分の違いができてしまったヤシュバの事を。
ヤシュバは、何をしているのだろうか。ガーデルから逃がす事には、成功したはずだ。だから今は、ランデュスでまた力を蓄えているはずだ。私が筆頭補佐から退き、そうしてその後釜となったドラスと、改めてラヴーワに
攻め入るために。再び調練を始めている頃かも知れない。それともラヴーワの方から、今度は攻める事もあるのかも知れなかった。ガーデルがランデュスに背反し、そうして私を捕らえてラヴーワに寄ったとなれば。当然
勢いという物は、全てラヴーワにあると言っても良かった。今まさに、ラヴーワはその好機に恵まれている。
しかし、実際にはどうなっているのか。そんな事はこの牢獄に繋がれている私には、知り様のない事だ。日がな一日、微睡んでは。おずおずと自らに治療を施して。私の身体の様子を見てから、何度目か、数える事も
しなくなった拷問が始まる。その繰り返しでしかなかった。
そういえば。ふと思う。そういえばドラスには、ヤシュバの正体を話していなかったなと。それは、どうなったのだろうか。晴れて筆頭補佐にドラスはなったはずであるから、必要ならば、ヤシュバか。或いは竜神の方から、
それを口に出しているだろうとは思う。ドラスは、神声を無事に聞く事ができる身になれただろうか。そういう事をするには、ドラスはまだ魔導という分野においては甘いと言わざるを得なかった。総合的な戦闘力では、既に
筆頭補佐としてはケチの付けようもないのは、確かなのだが。
ヤシュバは、どうしているだろうか。私が居なくて、不安になっていないと良いが。ドラスは割と強かだから、大丈夫だろうと思う。ギヌスとユディリスは、多分怒っているだろう。意気揚々とでかけていった筆頭補佐が、
あっさりと捕らえられてしまった事には、失望を抱くかも知れない。
そして、竜神は。
考えを止めて、薄く瞼を開く。ここでは光を感じない。何も無い暗闇を、私は見ていた。私が最初に入れられた場所は、間に合わせのそれで。その時はまだ明かり取りの窓が申し訳程度にあって、そこから光が射し込む事も
あったが。今は、それすらもない新たな牢獄へと移された。拷問の後、気絶をしている間に移されたから推測をするしかないが。恐らくは地下なのだろう。それは余計に、私の精神を踏み躙るかの様な扱いだった。もっとも、
それが不当だとは思わないが。
あと、どれだけ。ここでこうしているのだろうか。一層、持てる力を振り絞ってしまおうかと思う。私の衰えはいくらかましにはなったとはいえ。脱獄して、一人でランデュスに帰るまでには至らないだろう。
せめて、翼があったのなら。そう思う。ずっと、私には無い物だった。青い鱗に、角も無く。そして翼も無い。無い事に絶望はしたが、どうしようもない事だと、欲する真似はしなかったが。それでも今は、翼が欲しかった。それが
あるだけで、私はここを飛び立って帰る事ができるというのに。帰ったところで、既に私の居場所などどこにも無いのだとはわかっていても。
牢に入れられて、どれ程の月日が流れたのだろうか。意識を失い、取り戻しても石の寝台の上で呻く事を繰り返す日々では、それを推し計る事もできなかった。
それでも。それはある日突然に起きた。いつもと同じ様に、獄卒が牢へと踏み入ってくる。拷問には、少し早いなと私はそう思った。時間の流れがわからずとも、我が身の傷の具合でそれがわかる様になってしまう
というのは、皮肉な物だった。最近では諦めて、自分の治療も最低限に留めていたが。治りが早く、強靭であるという事は、大抵の場合においては有利であっても。ここにおいては、過剰な暴力を受けるだけでしかなかった。
「こちらに来い」
短く、獄卒は言う。死刑にでもするのかと思う。それをするならば、まず日取りを告げられるはずだが。それも、悪くないなとは思った。死にたい訳ではなかったが、ここで生きているよりかは、死ぬ方が楽である事は確かだ。
ただ、意外にも私は通された先で、一枚だけ着る物を与えられた。竜族である事と、また私を辱めるためもあったのだろう。寒さは自身の魔力でどうにでもなったものの、飼われている様な扱いを受けていた私に施された
それは、途端に私の意識を現実へと。牢獄と、硬い壁と、拷問の上に成り立つ物でしかなかった日々の中で、私から奪われていた正常な思考を取り戻させてくれる。
「お前に、面会だ」
「面会?」
久しぶりに発した言葉に、自分の声だというのに驚いてしまう。随分、掠れていた。もっともそれは聞き苦しく、哀れみを乞うかの様な響きではあったものの、とうの私は弱っているというには程遠いが。それを頭の隅に
追いやって、私に面会したいという相手の事へと考えを移す。このラヴーワにおいて、私に会いたいと言い出す者。十中八九、軍の関係者であろうし、またそれ以外では許されはしないだろう。
「詳しい事は、俺も知らん。お偉い方の決めた事だからな。ただ、とても高貴な方には違いない。目を見張る様な、銀狼だったからな」
銀狼と聞いて。私は完全に自らの意識が覚醒するのを感じていた。それが誰なのか、告げられなくとも。私には誰が私を呼んでいるのかがわかったからだ。
それからは、相手に失礼の無い様にと身体を清める事も許された。傷だらけの身体に被せられた冷や水は、声を上げたくなる程に傷みを走らせたが。それでも私の考えは、そんなところにはなかった。身体を清めつつ、
いまだ残る深い傷を慌てて治療する。服を着ても、そこから血が滲みでる様な真似だけは避けたかった。
準備を済ませて、一度拘束が解かれると。私は渡されていた服に袖を通す。白くて、無地の。そして丈の長い服だった。私の身に、ただ袋を被せるかの様にそれが吸い付く。なんともみすぼらしい恰好だと言わざるを
得なかったが。裸のままよりはましだろう。
「良いか。決して、暴れるなよ。その時点で、お前を殺す許可はもらっているのだからな」
「そんなつもりはない」
少なくとも、その相手が私の思う人物であるのなら。私にはそのつもりがなかった。或いは必要ならば、そうする事もあるのかも知れないが。今はただ、知りたかった。何か、ではなく。ただ漠然と、その相手を。
牢から出ると、一気に私を取り囲む者の数が増える。獄卒だけでなく、兵を増やしている様だった。促されて、背を小突かれるままに私は歩いて。そうして、一つの部屋へと辿り着く。細々としたやり取りの後に、扉が
開かれた。途端に、目に光が射し込んで。外にでも放り出されたのかと錯覚してしまう。そうではなかった。その部屋は陽の光ではなく、魔導の力によって充分な光で満たされていたのだった。
光に目が慣れた頃に、私の目は一人を捉える。豪華に設えられた部屋の中、牢獄である事を忘れそうな景色の中に一人だけ。ソファに座って、ただやってきた私の事を、じっと見つめている銀の狼がそこに居た。それを
見て。私はしばし、その姿に我を忘れる。そうしている内に、銀狼の方から立ち上がって。私の方へとゆっくりと歩み寄ってくる。それから、丁寧に頭を下げて。私に挨拶をしてくれた。
「お初にお目にかかります。リュース様。ゼオロと、申します」
「ゼオロ」
私の中で、ほとんど確信に近かったその男の名が、肯定される。私もまた、その名を口にして。それから改めてその銀狼の事を、目に焼き付けるかの様に見つめた。
若い。最初に思ったのは、それだった。そして、美しいと。その銀は、かつて私が戦場で見た、美しい銀狼の戦士の銀に、少しも見劣りする事はなかった。しかしその身体はあまりにも華奢で、そして幼いとも言えた。私は、
私の中でゼオロという存在は。もっと青年の様な状態なのだと、そう思っていた。何故なら、ヤシュバが。いや、ヤシュバの正体である、タカヤは。ゼオロの正体であるハルとは、幼馴染であったと聞いたから。そしてその
ヤシュバは、私よりは若いとはいえ立派な体躯を持って、この世界に黒鱗のヤシュバとして顕現したのだから。だからこそ、それと同じ存在であると言っても過言ではないゼオロもまた。その様な印象を受ける青年
なのだろうと。
しかし目の前に居るゼオロは、それとはまったく異なった印象を私に与えていた。ともすればその身体は、少年のそれで。まだまだあどけなく、そして何も知らぬかの様だった。細い肩に、細い腕に、細い腰があって、
柔らかな物腰があって。それでも、その瞳を見れば。私が今考えているのと同様に、この目の前の銀狼の頭の中でも目まぐるしく考えが巡っている事が察知できる程に煌めいて。またそれは少しだけ、不安の色も
滲ませていた。服は私と似て、白く、地味な物で。それは私に対して一切の敵意も、また企みも無い事を伝えるかの様だった。腰に一本だけ巻いている黒いベルトだけが、妙に目立つ様に感じる。
そこまで見て、私は一度考える事を放棄した。周りには、誰も居ない。この部屋自体が兵に囲まれているのだろう。だから私も遠慮なく、自分の好きな様に振る舞う事ができる。その場に跪いて、ゼオロと顔を
向かい合わせる。
「まさか、この様な形であなた様に会う事ができるとは。私は、思っておりませんでした。ようやく、見える事ができた。ヤシュバ様……いいえ。タカヤ様。タカセタカヤ様の、対となられる方に」
言葉を吐き出しながら、私はただ、ゼオロを見ていた。ヤシュバ、タカヤと続ければ。当然目の前のゼオロは、僅かに変化を見せる。それでも、怯む者のそれではなかった。なるほどと、思う。私に面会をしにきたのだから
当然だが。この少年はとっくに、何もかも覚悟をしてここまで来たのだろう。
「ハル様。ハルカハル様。あなた様に会えた事が、私の生かされた理由なのやも知れませんね」
タカヤに教えてもらったハルの名を口にして、私も頭を下げる。ゼオロは、しばらく黙っていたが。それでも私が顔を上げた頃には、その顔は笑みを湛えていて。
「座って、お話をしませんか。お身体が、辛いでしょうから」
そう言って、私と会話をする事を望んだのだった。
互いがソファへと身を沈めて、向かい合う。硬い感触に慣れきった私には、なんとなく落ち着かない様な気がして。それでも本当に落ち着かぬのは、私の目の前に。私がずっと知りながら、しかし本当には何も知らずにいた
存在が居るからなのだと思う。
「何から、話すべきなのでしょうか」
話すべき事は山の様にあって。それでも相手の事を、互いに何も知らぬ訳ではないから。流石の私も苦笑をするしかなかった。私の目の前に居る銀狼のゼオロも、それは同じだろう。私がした事は承知しているで
あろうし、また私がヤシュバを時に導き、時にかどわかした事も恐らくは知っているはずだ。それを考えるのなら、私に良い感情を持っていないとしても不思議ではなかった。その上で、私はこの様な身体であるのだし。そして
それと比べると。その銀の、なんと美しい事かと思う。銀狼をこんなにも間近で見た事はなかったので、尚更にそう思う。あったとすれば、戦場で、土と血に汚れて、動かなくなった者を見たくらいだろうか。それでも、それを
差し引いても。あの時に見た銀狼の銀とは、あまりにも桁外れの物であると言わざるを得なかった。つい、その銀を褒めそうになって。また私は苦笑をした。ヤシュバもそうだったが、それが彼らの本来の姿ではないから、
そのままに褒めても、あまり良い顔はしないのかも知れない。少なくともヤシュバはそうだった。贅沢な話であると思うのは、私の僻みでしかないのだろうな。
「お話をする上で、齟齬があると困ります。改めて、自己紹介をしたいと思うのですが」
そんな私の考えも知らぬと言いたげに、ゼオロはそう言ってまたにこりと微笑む。無邪気と言っても良い程の笑みに、思わずそれが本心なのだと思いそうになるが。ヤシュバと対峙して、その手を振り払い、決別を口にした
事実を鑑みれば。それが全てだとは、到底思えなかった。
「そうですね。色んな話を、私もしたいと思っています。お互いに身の上を語って。確かに、全てはそれからですね」
そう返すと。意外にもゼオロの方から話を始めてくれる。最初はそれを笑って私は聞いていたが、途中からは表情を繕う事も忘れて、聞き入っていた。それは、あまりにも興味深い話と言わざるを得なかった。この涙の
跡地に現れた事。その時に人間という種族、ヤシュバからも聞かされたが、私には上手く想像できないその姿から、今の銀狼の姿になったと。そうして、ランデュスに現れたヤシュバとは違い、ラヴーワの、ミサナトという街に
現れたという事。その様に現れたが故に、様々な問題に巻き込まれてここまで必死に生きてきたという事。聞けば聞く程に、それは興味深く。そしてまた作り話めいてもいた。以前の私ならば、一笑に付すどころか、
睨みつけてから、与太話をしたければ他を当たれと邪険に扱った話かも知れなかった。しかし今は、違う。タカヤを知り、ヤシュバの手を取った今となっては。ゼオロの口から聞かされる言葉の全ては、ただの、そして
たった一つの真実でしかない事を、疑う余地はなかった。
「とても、苦労を重ねられたのですね。ここに来るまでに」
興味深いのは、たまたまに銀狼の身体となったという部分だろうか。そのたまたまが、狼族の族長であるガルマ・ギルスの目に留まり。その目にすら、ギルスの直系の血筋であると見られているという。それを訝しみながら、
しかしまた、そういう事もあるのかなとも思ってしまう。何を言うにも、こちらにもヤシュバという存在が居るのだから。そしてまた、ゼオロは戦う力を持たぬというのも、驚くべき事だった。それではあまりにも、ヤシュバとは
対照的であったから。この世界に現れたその瞬間から、あらゆる竜族を退ける素晴らしい力に恵まれたヤシュバと比べれば。まるで赤子にも等しき力しか、ゼオロは持ってはいなかった。確かに私の目から見ても、ゼオロから
何かしらの力を感じるという事はなかった。照れ臭そうに、まったく魔法を扱えないと言うゼオロの言葉にも偽りは無かった。何故かと思う。まったく魔導の素養が無いというのは、決して珍しい訳ではなかった。事実、竜族で
あるにも関わらず、その様な者が居る事も私は知っていた。しかし何故、ゼオロに限ってと。そう思わずにはいられない。その見た目もそうなのだが、私はヤシュバが、竜神に受け止められ、初めてその存在を知った時から
今に至るまで、ヤシュバの力にはただただ驚嘆と畏怖を抱いていたから。当然ゼオロも狼族の身体であるから、それには及ぶべくもないかも知れないが、相応の力を持っているだろうと。そう思っていた。
あれこれと推察をしている内に、ゼオロの話が終わる。ミサナトに現れ、ファウナックに赴き、戻り。そしてここまで至った事を。過ぎた月日を考えれば、その足取りはあまりにも険しかった。よく、ここまで歩いてきたものだと思う。
「次は、私の番ですか。とはいえ、私の。ただの竜族の話など。とても、あなた様の冒険活劇に比べれば。一笑に付して然るべきものでしかないとは思うのですが」
私の番になって。途端に、なんとなく自分の事を口にするのが、気恥ずかしく思えてしまう。また、事実恥ずかしかった。私という、青い竜。同族からも蔑まれる様な存在の生を、自らの口で語るのは。私には、苦痛だった。
「リュース様の事を、知りたいです。それから、ヤシュバと会ってからの事も。でも、まずはリュース様の事から」
ヤシュバと出会ってからの事だけでは駄目だろうかと考えていた私の逃げ道を塞ぐように、ゼオロは言う物だから。私は腹を括る。私を知りたいと言われては断る訳にもゆかなかった。ただ、不思議と嫌な気分だとは思わずに
いられて。自分でも、それは驚くべき事だった。相手が、竜族ではないからなのかも知れない。考えてみれば。私は。私自身は。竜族以外との交流など、まともにした事もなかった。竜族を相手にするから、己の身体の
不出来をより辛く、苦しく思い、感じてしまうというのに。しかしランデュスに産まれて、その上軍に所属しているとなれば。その様に他種族との関わりを持たぬのは、当然と言わなければならなかった。
「面白い話では、ありませんよ」
それを付け加えて、話を始める。母の胎の中に居た頃から、竜神は私の存在を感じ取って。父と母を呼び出して、まだ産まれる前の私に祝福を与えた事。それ故に、周囲は産まれてくる私に、大層な期待を掛けていた事。
しかし産まれた私は、青い鱗を持つ竜で。それは別段、不幸を招くとか、そういう事ではなかったものの。竜族の血液の色をした不吉な竜には、掛けた期待の分だけ、大きな失望を周囲に招いた事。
自分で口にしていて、流石に私はここまで話す必要は無かっただろうかと思ってしまう。しかし筆頭補佐を務めていた私の日常などを語っても、詮方ない。また、ゼオロが聞きたいのは私のその部分だというから。堪えた。
「そんなに辛い境遇なのに。とても、努力されたのですね」
「……ええ。竜神様が、いずれは私が力を見に付けて会いにきてくれる事を待っているのだと。その様に伺いましたから。どの道、誰からも好かれぬというのならば。私はただ、竜神様に仕えようと。竜神様だけは、私の青を
厭う事もなく。それどころか、私をこの様な。いえ、今はもう、失ってしまいましたが。筆頭補佐という座にまで、就けてくださった。本当に、何をしても。到底返しきれぬ恩なのでしょうね」
竜神が必要としてくれなかったら。その事を考えると、私はぞっとして。そのまま震えてしまいそうになる。周りの全てから厭われた幼子の私に、一体何ができたというのだろう。竜神が私を、求めている。その事実が、他ならぬ
竜神の口から発せられたからこそ。私は生かされて。生かされ続けて。その間に、死にもの狂いで腕を磨いて、私はついに産まれた場所を飛び出したのだった。ランデュス城に詰めても、苦しみは何も変わらなかったが、
それでも力を示し、地位を得る内に。少なくとも正面きって罵倒される様な事は、ずっと減っていった。私の仕事振りを見て、極僅かではあったものの口を利いてくれる相手もできた。ユディリスという友が居てくれた事も、
大きかったと思う。だから、ユディリスの事もゼオロへと伝えた。別段、話して困るという訳でもない情報だった。私の出自と生い立ちに関する話ならば、硬く口を閉ざす理由などどこにもなかった。あったとすれば、それは
これ以上、謗りを受けるのを嫌うが故の防衛に他ならなかったが。それも、目の前の銀狼の少年には不必要な事だった。ゼオロは、少しも嫌な顔を見せずに。それどころか、私が苦労していると知れば、自分がそれを経験
したかの様に辛そうな顔をしては何度も頷いてくれた。それが、私には快い物に感じられる。こんな風に話を聞いてくれる相手にも、私はやはり飢えていたから。ヤシュバは、それを聞く姿勢を見せてはくれたものの。必要以上に
私自身を伝える事は、憚られていたから。
「そして。私はあの日、ヤシュバ様と会ったのです」
途中途中を飛ばしながら、私は本題へと入る。ゼオロが一番に聞きたいと思っているのは、きっとそこだと思って。私の話を聞く内に、ゼオロもやはり余裕を失くしていたのか。ヤシュバの名が飛び出すと、僅かに身を乗り出す。
「……あなた様になら、お話しても構いませんでしょう。寧ろ、私としては。ヤシュバ様を。この世界に現れたタカヤ様を、もっと知ってもらって。できるのならば、お二人が共に居てくださる方が、喜ばしいと思いますから」
素直に思ってそう言った。しかしそれには、ゼオロは微妙な表情を返すだけで。やはり決別した事実は、今更覆せないのだなと思う。
「あの日。私は竜神様に呼び出されて向かった先で、黒い竜と引き合わされたのです。まったく見知らぬ竜だった。竜神様から、紹介されたのですよ。ヤシュバ様の事を」
「竜神様が、ヤシュバを。……ヤシュバは、どんな風にランデュスに現れたのですか?」
「それが、実のところ私も、さまで詳しい訳ではありません。私が招かれた時、竜神様は既にヤシュバ様と言葉を交わして。そして、約束を交わしておられたのです。私は、それを聞かされた。ヤシュバ様は、ハルという名の
人物を求めてここにいらっしゃったのだと。そして、その方を見つける手助けと。この世界で生きるための様々な物を都合する代わりに、ヤシュバ様が筆頭魔剣士の席に座る事を求めた。つまりは、その時点で既にヤシュバ様の
お力はあまりにも凄まじい物だったのですね。竜神様はその力を見抜いて。当時の筆頭魔剣士のガーデルとヤシュバ様に、筆頭魔剣士の席を賭けた試合を設けた。勿論。それより先に前座として私も戦いましたが。結果は、
まったく話にならぬ程に、ヤシュバ様が圧勝されてしまいましてね。その時から、ヤシュバ様はランデュスの筆頭魔剣士となったのです」
そこまで言い終えてから。私は、ゼオロを観察する。予想はしていたが、その表情は先程までの、私の生い立ちを聞いていた時とは違って。ただ曇り切って、俯いていた。
「ゼオロ様。……あなた様には。到底良い話ではない事は、わかっております」
ハルのために。たったそれだけのために、ヤシュバはここまで来た。私はただ、竜神より預けられたヤシュバを、筆頭魔剣士にふさわしい男になる様にと接し続けた。そうしてできあがった筆頭魔剣士のヤシュバは、
気づけば同じ様にこの世界に現れて、そして懸命に生きていたゼオロに。ありとあらゆる厄災を届けるかの様な男になっていた。それも、全てがハルのためと。ハルを見つけるためなのだと。ただ、それだけのために生きた
結果でしかなかった。だからあの時、ゼオロは迎えに来たヤシュバの手を跳ね除けて。そのまま、ラヴーワへと戻ったのだった。
「ですから。どうか怨むのならば、私にしていただきたいのです。もし、今のヤシュバ様を見て。変わってしまったとお思いになられるのなら。それは、私がその様に差し向けてしまった。それだけの事なのですから」
「どういう、事ですか」
狼狽えているゼオロに、私はまた続きを口にする。ヤシュバが筆頭魔剣士になった事で、ガーデルはランデュスを出奔し、故に私は筆頭補佐のまま、それからヤシュバを支えていた事を。ヤシュバは確かに、当初は腕は
立っても、決して暴力を振るう事も、他者の命を奪う事もしない男だったと。それどころか。あまりにも筆頭魔剣士にふさわしからぬ、優しい気性でもって。私は呆れる事が多かったと。
「だからこそ私は。あの方を筆頭魔剣士にふさわしい男にしなければならなかった」
そうして、爬族の事を口にする。私が爬族を殺させた事を。ゼオロは何も言わずに、私の言葉を聞いていた。
「悪いのは、私です。ゼオロ様。ですから、どうかヤシュバ様と、また」
「いいえ。リュース様」
また。ヤシュバと。タカヤと共に。私は、そう言いたかった。何故今、それを思うのか。それは、私はもう筆頭補佐の座を下りてしまったからなのかも知れなかった。
私はもはや如何なる意味であっても、ヤシュバの隣に居るのにふさわしい存在ではなくなってしまったから。そして、元からふさわしい事などありはしなかったのだから。異世界からやってきたというゼオロに、それを追って
現れたヤシュバ。一対という言葉が当て嵌まるのならば、この組み合わせこそが、正しい形であると思えた。
しかし私の言葉は、とうのゼオロに遮られる事となる。ゼオロは、いつの間にか瞼を閉じていたが。それが、静かに開かれて。そうして、私を射抜くかの様に今は鋭く。そうされると。私は最初に出会った時のこの少年の
印象が、吹き飛んでゆくのを感じる。ああ。やはり、そうだ。この少年も、やはり一筋縄ではゆかぬ。ヤシュバがそうなのだから。そして、そうでなければ。ここまで歩いてくる事も、ままならなかっただろう。
「私は。リュース様を怨んだりしません」
「ですが。私が唆さなければ、ヤシュバ様は」
「例え、そうであったとしても。それを選んだのは、ヤシュバでしょう。そして今、筆頭魔剣士を続けている事も。違いますか」
「……いいえ。あなた様の、仰る通りです」
そして他ならぬヤシュバも、そう言ったのだった。全て投げ出しても構わないと言った私に、自分が決めた事だからと。
「それに。リュース様は、筆頭補佐だったのですから。自分の上に付いた男が、何も知らなくて。だから少しでも筆頭魔剣士にふさわしくなるために、やれる事をやっただけでしょう。確かに、その手段は。私は反対だとは
思うし。できる事なら……タカヤには、タカヤのままで居てほしかったけれど」
ゼオロの声音が、少しずつ弱まってゆく。それでも、長くはそうする事はせずに、また顔を上げて。まっすぐに私を見つめてくる。
「でも。今のタカヤも、きっとタカヤなんですよね。ヤシュバになった、タカヤで。人間だった頃、私の親友だった頃のタカヤだけが、正しかったのだと。そういう風に見る事は。きっと失礼なのでしょう。ヤシュバには」
「……あなた様は。もう、全てを受け止めておられるのですね。タカヤ様の事も。そして、ヤシュバ様の事も」
「私も、もうハルではなくて。ゼオロになりましたから」
遠くまできたのだなと。ふと、そう思った。私が、ではなく。ゼオロと、ヤシュバの二人が。もはや交わる道すら失くしたとしても。時々は、違う道に行ってしまった相手を眺める様にして。それぞれに今は歩いているのだった。
「あなた様が、そう仰るのならば。私も、この話はここで止めにしておきましょう」
情に訴える様に、ヤシュバの方へ向かわせるのは難しい様だと悟る。またヤシュバも、今はあれほど求めていたハルへは、向かっていなかった。ヤシュバがそうしないのなら、ゼオロを炊きつければ良いと思っていたが。
「どうやら、見込み違いでした。あなた様は、ヤシュバ様よりも手強いのですね」
「そうでしょうか。私は、ヤシュバの事はあまり知りませんので」
狡そうな顔をして、ゼオロがそう返してくる。そういう言い返し方ができるから、手強いと思うのだが。純朴で優しいヤシュバが、内気で優しいと評していた男だったから。もっと御しやすいのかと思っていたのだが。
「ゼオロ様。あなた様と、この様な話ができて良かった。虜囚となった私は、もはやいつまで生きていられるかもわからぬ身。それも、致し方ない事だとは思いますが。私がラヴーワにしてきた事を考えれば。民の溜飲を
下げるためと言い、首を刎ねられ様が、それはまったく自然な成り行きと言わなければなりませんからね」
「……その事なのですが、リュース様」
どうせなら、こうなる前にもう少し早くゼオロと会いたかったと思って呟いた言葉に、ゼオロの言葉が重なる。その表情を見つめて、思わず私は身構えた。そこに居たのは、既に先程までの銀狼の少年ではなく。目を細めて、
妖しく、蠱惑的な笑みを浮かべる銀狼の青年だった。ゆっくりと上げた手の、細い指先が。テーブルの上に伸ばされる。その動きに、目を奪われる。微かに笑う声が聞こえて、私は視線を戻した。
「確かにリュース様が仰った通り。今のままでは、いずれリュース様は処刑されてしまうやも知れません。私も、そう思います。今私は、ジョウス様と。その息子であるクロイス様のお傍に居ますから。あなた様の処遇に
関しても、ある程度の事はわかっておりますので。……そこで、物は相談なのですが。長らえる道があるとすれば。リュース様、興味はおありですか」
長らえる道と言われて。私は束の間、ゼオロを見つめる。相変わらず、その姿は先程までのそれとは違って。急に十、二十と歳を取ったかの様に見えた。小さな身体だから、かろうじてそれが錯覚であるのだという事は
わかっていたが。
「私は、リュース様に興味があってここまで来ました。リュース様の事を知りたいと。けれど。もう一つだけ、別の用事もあってきたんです」
私は、黙ったままだったが。食い入る様に見つめていたからか、ゼオロはそれを返事と受け止めて。続きを口にしはじめる。
そのまましばらくの間。ゼオロの声だけが、豪華な牢獄に響き渡る事になる。
最初の面会を終えて。ゼオロの言葉を受け止めて。戻された獄中で、私は今交わしたばかりの、そしてゼオロから切り出された話を反芻しては、煩悶としていた。
「カーナス台地の亡霊を解放するお手伝いを、リュース様に頼みたいのです」
切り出された内容は、私が予想していた物とは大分違っていた。私に態々願い事をするというのなら。私を介して、ヤシュバを説得するだとか。或いは、それこそ私がラヴーワの者達に口を割らない事柄についてを
聞きだしたいとか。そういう事なら、私はゼオロから切り出された時にすぐに察しはしたが。
「私に呪いが効かない。その事を、誰から……いえ、ガーデルですね。ガーデルから、聞いたのですね」
「はい。リュース様なら、大丈夫だろうと」
「確かに。私ならば、恐らくは大丈夫でしょう。しかし私だけでは、到底呪いを解く事までは」
「それは、私がします」
そこから、ゼオロは改めて何故私に面会を乞うてここまで来たのかについての説明をしてくれる。本来ならば、狼族の族長であり、またギルスの直系の最後であるガルマ・ギルスがこの役を担うはずであった事。しかし
ガルマの容体は芳しくなく、ゼオロに白羽の矢が立った事。もしかしたらゼオロはカーナスに眠る狼族の亡霊に、その正体を見破られてしまうかも知れないが。しかし他に適任となる者は存在しない事も。
「ガルマの事まで、私に話されてもよろしいのですか」
「どの道次期族長が正式に発表されれば、わかってしまう事ですからね」
全てを聞いて、私はしばし考える。確かにゼオロの正体を考慮すれば、それは難しい事かも知れないが。しかしこの目で見ても、その銀が眩く、そして美しい事にはなんの異存も無かった。その上で、私に目を付けたのも、
悪い事ではないだろう。どちらかと言うと、私に呪いが効かぬという話を、ガーデルが憶えていた事の方が驚きではあったが。確かに私に呪いの類は効かない、竜神の祝福のおかげだとは思うが。その私ならばカーナス台地を
案内する事は充分に可能だった。呪いに晒されて、彼の地は変化した部分もあるだろうが、地形などが劇的に変わる訳でもなし。この涙の跡地の中心であり、互いが互いの国を攻めるに辺り、まず使われる要所となる事は
確実であるからして。私は呪われる前のカーナス台地を歩いた事があるし、またその情報を頭に叩き込んでもいた。呪われてからは、流石に私一人が入り込んだところでどうにもできぬ呪いであるし、他者は近づけぬの
だから、態々足を運んだりはしなかったが。
「今のリュース様が、処刑されてしまうというのなら。ラヴーワに恩を売って、それを回避する事に使えると思うのですが」
「そんなに生易しい物ではないと思いますがね」
「ならば。カーナス台地に訪れて呪いを解いた後に。或いは私が彼の地の亡霊に阻まれて、踏み込めずとも。そのまま、ランデュスへ戻られればよろしいのではないかと。私は、そう思います」
「それは。あなた様だけのお考えなのですか。それとも、ジョウス・スケアルガの」
当然、ここに来るに際して。ゼオロがジョウスの指示を受けていないはずはないと思い、私はそれを口にする。ゼオロは、僅かに笑みを深めた。
「ジョウス様は、何も。私に任せると仰られましたから。でも、私はカーナス台地を解放したい。リュース様は、ランデュスに帰りたい。……いえ、ヤシュバの下へと、帰りたいとお思いです。如何でしょうか」
的確に、それを言う物だから。私はつい、噴き出しそうになってしまう。嫌に鋭いなと思ってしまう。ランデュスに帰りたいのではなく、ヤシュバの下に帰りたい。まったく、その通りだった。少し、話をし過ぎただろうか。
「確かに。あなた様の仰る通りです。しかし私としても、おいそれとそれを肯う事はできません」
カーナス台地の解放は、どちらかと言えばランデュスにとっては不利になる事だ。その事も、ゼオロは説明をしてくれた。確かに新たな道が今できあがるという事は、数の上では有利なラヴーワにとって、戦の際には有利に
働く事はよくわかる。とはいえ、ランデュスに何もかも不利という訳ではないのだが。特に今はカーナス台地の上空すら、呪いの影響下にあって。竜族であろうとその上を飛ぶ事はできないが、呪いが無くなれば、それは
可能となるのだから。それでも、狼族とスケアルガの諍いなど。放置しておいた方が、こちらには得になる事が多い。私の判断でそれをしてしまって良いものか、悩む事ではあった。場合によっては、それこそ売国の謗りを
受ける可能性もあった。
「一つだけ、お聞きしたい。仮に、私が断ったとして。ゼオロ様は、どうなさるおつもりですか」
「その時は。私一人でも、カーナス台地へ行こうと思っています。とにかく、私が狼族の呪いに対して、どの様な状態であるのかを確認するだけでも行く価値はあるでしょうから」
「そうですか。では、すみませんが。もう少し考えてみたいので、時間を頂けますか」
「それは、勿論。私も、こうして一度リュース様と会っただけで、全てが丸く収まるとは思っておりません」
その後は、軽い話をしてからゼオロは帰っていった。そして今私は、元の獄中に戻されて。ゼオロの言葉を振り返っては、カーナス台地解放の是非を自らに問うていた。しかしいくらそれを自分に問いかけても、答えは
出てこない。それは、当たり前の事と言わなければならなかった。私の基準とは、即ち竜神の基準であり。私の判断だけで決めて良い規模の問題ではないのは明白だったのだから。既に筆頭補佐ですらないのだから、尚更。
しかし今は、行ってみたいとも思っている。ゼオロが、一人でも行くと。そう言ったからだと思う。ほんの少し触れ合っただけでも、ヤシュバの時と同様に、私はゼオロを気に入っている自分に気づいていた。もっとも、ゼオロは
ヤシュバの様な強さを示して私を従えさせた訳ではないから。そこのところの差はどうしてもあるにはあったが。
しかしその気持ちに任せて、大事を決める訳にもゆかずに。煩悶としていた私に不意に衝撃が走る。慌てて顔を上げて、闇の中を見つめる。獄中は変わらず闇に閉ざされていて。私の目に移る物もなかった。
「ランデュス様」
しかし私には、それが何であって。そうして今私に接触してきているのかがわかる。頭の中に、途端に声が広がる。激しい頭痛を覚えて、思わず蹲る。竜神からの、神声だった。ただ、酷く声が掠れて聞こえるし、私にも
負担が大きい。やはりこの距離を、しかも力の衰えた今の私が受けるからには、ただでは済みそうにない。それでも私は、懸命に竜神の声を聞き取る事に専念する。
「カーナス台地を……そうですか。畏まりました」
呻きながらどうにか返答をすると。それで、竜神からの波動が途絶える。徐々に治まる頭痛に安堵しながらも、私は少し意外な思いに駆られていた。こうして離れていても、竜神の祝福を受けた私が感じた事を、ある程度
竜神は察知する事ができる。竜神は、恐らくはゼオロの存在に興味を引かれて。先程までの話をある程度聞いていたのだろう。そして今、カーナス台地を解放するべきだと。その様に私に伝えてきたのだ。また、私が
そうするのであれば。ランデュス軍を進めるのは今しばらく待とうと。
竜神にその様に言われては、私はもはやそれに従うしかなかった。元より、私自身も行きたいと思っていた事だ。ただ、何故竜神がカーナス台地をと、その思いはある。彼の地は涙の跡地の中心である事から、以前から
ある程度それを気にしていた素振りを見せていた事を私は知っているが。それでも、ラブーワの事を考えると。あまり良い事とは言えない。ならば。ラヴーワとは関係なくそれをしたいという、何かしらの目的があるのだろう。
ゼオロに協力する事を決めると。あとは、私にできるのは次にゼオロがやってくるのを待つ事だけだった。ゼオロが私との会話を求めている、という事もあって。その日から拷問も止み。私も万全の状態を整える事ができた。
それ程の日数を跨ぐ事なく、二度目にゼオロが訪れた時。最初はたわいも無い話をした後に。
「ゼオロ様。カーナス台地の事について、なのですが。確かにあなた様の仰られる通り、私が生き残るためにも。今はあなた様に協力する方が得策というもの。また、あなた様をお一人で彼の地を向かわせるのは、私とて
心配です。ですから、私もあなた様と共に参りましょう。それで、よろしいでしょうか」
そう言って。素直に喜んだ表情をするゼオロの手を取って。私はゼオロと共に、カーナス台地へと。狼族の怨念に塗れた地へ足を運ぶ事を承諾していた。
豪奢な設えの馬車に、私はゼオロと共に乗り込んでいた。それは、捕虜として扱われ。ともすればそのまま死を待つだけだった私に対する扱いとしては、破格の物だと言わざるを得なかった。一応、馬車の周りには
ゼオロを護衛し、また私を監視するためにいくらかの兵は居るのだが。それも、少し心許無い程だった。
「確かに、リュース様は捕虜ではありますが。だからといって、これから向かう先では。唯一私と共に歩いてくださる方でもありますから」
そう言ってゼオロは微笑んだが。私としては寧ろ、私の身をその様に扱う権力に近い物をゼオロが所有している事の方が、大分気になっていた。ヤシュバの様に稀有な力を示す事もなく。この銀狼の少年は既にラヴーワで、
少なくともスケアルガの傍で確かな地位を固めている様だった。
「それに。せっかくリュース様と一緒になれたのですから。私は、もっと色々とお話したいです」
「それは、また。とても、有り難い事ではありますが。しかし、そのう。彼は」
揺れる馬車には、ゼオロが私と向かい合う様に座っていて。他に兵の姿すら無い。私の両腕には相変わらず手錠が。魔導を阻害する効果もあるそれが嵌められていたが。しかし逆に言えばそれだけであって。その気に
なれば、いくらでも逃げ出せる様な状態であった。
そして私が今口にしたのは、走る馬車の窓から外に、馬車と併走して馬を駈っている猫族の青年だった。その顔は、なんとなく見覚えがあって。しかし見覚えがある顔よりも、若く思えるのは。多分私の見間違いでは
ないだろう。私の目を追って、ゼオロも外を見ると。豹の青年が視線に気づいて、何か口を開けて言っている。生憎、聞こえはしないが。
「気にしないでください。ただのクロイスです」
「ああ。あれが、件の」
ゼオロの、ラヴーワでの事は既に聞き及んでいる。あれがゼオロの恋人であり、またあのジョウス・スケアルガの息子であるクロイス・スケアルガなのだろう。
「心配しないで、待っててほしいとは言ったのですが」
「それは、心配するなという方が無理だとは思いますがねぇ」
何しろ、同席しているのは私なのだから。クロイスからすれば、気が気でないだろう。だからといって、ジョウスの息子ともあろう者がこんな所まで来てどうするのかとは思うが。とはいえ、竜神からカーナス台地を解放
する様にとの命を受けた今の私では、確かにそれに手を出す訳にもいかなかった。ここで下手を打って、ゼオロをカーナス台地に導けぬ様になっては困る。私では、彼の地の呪いを解き放つ事はできぬのだから。
「煩いので閉めてしまいますね」
ゼオロが身を乗り出して、カーテンをさっさと閉めてしまう。閉まる間際に大分切なそうな顔を豹がしていた気がするが、私は苦笑するだけだった。
「下手に話し声が聞こえても、困りますね。少し細工をしましょうか」
「その状態でも、可能なのですか? できるなら、お願いしたいですけれど。クロイスは前科もあるので」
「そうですか。では、失礼して」
一言断ってから、私は手錠に指先を伸ばして触れると、そのまましばらく念じてから両腕を離す。一瞬だけ鎖が引っ張られる様に伸びたが、それはすぐに千切れる。
「獄中でされていた物よりも、いくらか優しい物の様ですから。少々あなた様を不安にさせてしまうかも知れませんが」
「いいえ、構いません。それに、カーナス台地に入るというのにそんな物を付けて、力を制限したままという訳にもいきませんから。どの道現地に付いたら、外してもらう予定でした」
鎖が外れれば、あとは簡単な物だった。更に指を掛けて、今度は輪の部分を同じ様に破壊して、すぐに私は自由の身となる。あとは他の者の目がある時だけ、細工をして見た目だけはそれらしくして戻しておけば良い
だろう。それを、ゼオロは恐れる様子を見せるどころか。感心した様に見つめていた。
「本当にあっさり外せてしまうのですね。普通は外せない物だと、そう聞いていたのですが」
「ええ。まあ、私は竜族ですし。魔導にも通じておりますからね。これはラヴーワで使われている、魔法使いの首輪と原理は同じ物ですから。あれらは目に見えぬ様に造られているので、何もかもが同じという訳ではないにしろ」
「リュース様は、そんな事まで知っているんですね。ラヴーワの事なのに」
「魔導について、ですからね。狼族には、馴染が無い物でしょうけれど。あれを作ったのも、確かスケアルガ等の、魔導の探求をする者達ですし。だから、ガルマ・ギルス等は区分すれば。野良の魔法使いと。その様に
言われる事もありますね」
「まあ、確かに野良みたいな物ですけれど。狼族は」
中々辛辣な事を言うなと、それを聞いて私はつい笑ってしまう。もっともその基準で言うと、竜族も野良の魔法使いという事になってしまうが。ラヴーワでしか普及しておらぬ物であるから、そんな事を言われる筋合いも
無いとはいえ。手錠を外すと、そのまま掌に光を灯してから、馬車の中を軽く照らす。
「これで、音は聞こえません。ようやく好きにお話ができますね」
「そうですね。……リュース様。改めて、申し上げます。今回は私の頼みを聞いてくださって。本当にありがとうございます」
「いいえ。私も、気にはなっていた事ですから」
竜神の事は伏せて、私は笑う。大抵の事は、ゼオロには伝えてしまいたい様な気がしてしまうが。それでも立っている国が違う以上、どうしても全てを伝える事はできずにいた。どうせなら、カーナス台地を解放した後に、
ヤシュバの下へ連れていけたらと思う。それも、決してゼオロは頷かぬ事を知っているから。結局私は何も言えずに居たが。
「……それにしても。先程馬車に乗る前に、外に出て陽に照らされたあなた様を見たのですが。あなた様の銀は、本当に美しい物なのですね」
「そうでしょうか。自分では、もう慣れてしまった物なのですけれど。確かに、ちょっと出来過ぎなくらいだなって。そう思ってしまいますね」
「やはり、元の自分の姿ではないと思うと。素直に喜べぬ物なのでしょうか?」
「そうですね。私は、元の自分の姿はもうあまり思い出したりはしませんけれど。それでもその時は他人から、そんな風に褒められたりした訳ではなかったので。この姿になって、突然にそうやって、褒めそやされても。
どうにも、素直には受け止めきれない物がありますね」
「やはり、そうなのですね。ヤシュバ様も、あの様な雄々しく、素晴らしい竜族の姿ではあるのですが。やはり、容姿を褒められても良い顔はされませんでしたので。本来の姿とは違う、等という物は。どうしても私なんぞには、
想像をしてみるのが精々で。本当のお気持ちを理解してさしあげる事ができなくて。私からすれば、羨ましい物だなと思ってしまいますし」
「青い竜、ですか」
「ええ。それに、私には角も、翼もありませんから」
そこまで言ってから、ゼオロが一度じろじろと私を眺めてくる。普段ならば、そんな事をされれば私は飛びっきりの睨みを利かせてやっただろうが。ゼオロの目には、ただ私の言葉を聞いて、改めて私を見ようという気持ちしか
浮かんでいなかったので。どうにか堪えて、私は黙ってそれを見守る。
「そんなに、いけない事なのでしょうかね。私はリュース様も、とても整ってると。そう思いますが」
「そうでしょうか」
「はい。それに、私と違って身体つきもしっかりとしていますし。自分でよくわかるのですが、私のこの身体は少し小食なのもあって。どうしても、力も何も無いので。でも、ヤシュバやガーデルさんみたいに大きすぎるのも
大変だろうなって思うから。だから、リュース様ぐらいが、きっと丁度良いんだろうなって。そう思うんですよね。翼も、普通に生活する分には邪魔になる事も多そうですし。そう考えると、理想的だと思いますが」
「ありがとうございます」
角も引っかかりそうだと言っているゼオロの言葉を聞いていると、私は自然に笑みが零れてしまう。どちらかと言うと、この少年は私の身体が機能的かどうかという事を見ている様だった。それも、日常生活を送る上でどうか
という点で。そういう目で見られるのは、とても珍しい事で。私は笑わずにはいられない。竜族であるならば、立派な体格、立派な容姿こそが、その誇りを更に大きくし。優れた竜族はいつだって羨望の目を向けれられて、
そうではない、私の様な者は。例えどの様な理由があろうと、蔑まれていた事を考えると。そんな風に、冷静に私を見て。そして私が、自分のどうしようもない部分に悩むばかりではなく、持っている物を整えておこうと
密かに努力していた部分も取り上げて、羨んでくれるものだから。今の言葉で、大分私はこの少年の事を好いてしまっていた。
他種族と触れ合う、という事も。悪くはないのかも知れない。もっとも、この少年の住む国を潰そうとしているのが、私ではあったのだが。
「ありがとうございます。ゼオロ様。あなた様に、そう言って頂けると。なんだか私も、ほんの少しだけ。自分の身体の事が、好きになれそうな気がします。あなた様も、ヤシュバ様と同じ事を仰るのですね」
「ヤシュバも、そう言いましたか」
「私の青い身体を、綺麗だと。なるほど。確かにあなた様と、ヤシュバ様は。異世界人であるが故に。この世界の常識も、そして竜族の常識も、通じないのですね。だから私は、会ってそれ程の時も経っていなかったというのに、
ヤシュバ様の事をとても好いてしまったのかも知れません。あの方はいつもそうやって、さり気無く私が辛いと思っている事を払拭してくれましたから。もっとも、そんな方を変えてしまったのも、私ではあるのですが」
「ヤシュバになっても。その辺りは、変わらなかったんですね。今はどうなのかはわからなくても。タカヤも、よくそうやって。落ち込んでいる私を励ましてくれました」
「それなのに、今は離れてしまった。私がそれを、決定的な物にしてしまったのですね」
「そんな事は」
「ハル様」
呼び方を変えて。私は、ゼオロをまっすぐに見つめる。そうすると、ゼオロも居住まいを正した。
「この様な事を、今あなた様にお話しするのはよろしくはないのかも知れませんが……。しかし、この先。私とあなた様が、いつまでこうして言葉を交わす事ができるのか。それは私にはわかりません。ですので、この際ここで、
伝えたい事を私から申し上げておきます」
「伝えたい事?」
「黒き使者と、白き使者の伝説を。ご存知でございますね」
「ええ。そのぐらいは。よく、聞きますから。本でも読みましたし」
「ならば。話が早い。私は、ヤシュバ様が黒き使者だと思っています」
ゼオロは、私が突然に切り出したその言葉に驚いた様だった。少しだけ瞳を大きくして。しかしそれから、少し柔らかい笑みを浮かべてくる。
「それは、ヤシュバが黒い鱗に覆われているから、でしょうか」
「それもあります。ヤシュバ様のお力は、まさにこれまでの如何なる竜族よりも強い物。そんな方が異世界より突然に現れて、今はランデュスの筆頭魔剣士として君臨している。まさにあの方こそが、黒き使者であると。
そう思うのに、なんの不思議がありましょうか」
いつか、爬族の族長であるマルギニーがヤシュバに会った時にも。ヤシュバにその様に言った事を思い出す。確かに私も、そう思う。あの死に損ないも、そういう所を見る目はある様だ。
「早計ではないでしょうか」
「そう仰られる気持ちもわかります。しかし、ヤシュバ様のお力は。それこそこの涙の跡地を覆う結界にすら作用する物です。ヤシュバ様がランデュスに現れた時。あの方は、結界の一部を壊して。ランデュスに舞い降りたのです」
「結界を、壊した? ……私も、それは小耳に挟んだ事はありますが」
「その時ヤシュバ様が破壊したのは、結界のごく一部。それはすぐに跡形もなく塞がってしまいましたが。それ程までの力を持つのならば。ヤシュバ様の力があれば。いずれ、結界は破れる可能性があるのです」
「確かに、そうかも知れませんね」
「そこで一つ、お訊ねしたいのですが」
呼吸を繰り返す。私が知りたいのは、そこだったから。
「その様な力を見せつけて、ヤシュバ様はこの世界に現れた。では、ゼオロ様。あなた様は、どうだったのでしょうか? あなた様もまた、この世界に至る、まさにその時に。あの結界を壊して現れたのでしょうか?」
「それは」
ゼオロが、僅かに言いよどむ。ずっと、気になっていた。ゼオロには、そんな力は無い。それは、今私がゼオロを見つめていて、わかる事だった。なのに、何故ゼオロはあの結界を超えてここに至る事ができたのか。
もしかすれば、結界を通る必要は無かったのかも知れない。だが、そうなると。ゼオロは通らずに、ヤシュバは通った事になってしまう。どの様にしてこの世界に現れたのかが定かではないが故に、推測に推測を重ねるしか
ないのだが。ヤシュバが結界を壊して、要はそれを超えて現れた以上は。ゼオロも同じ道を辿ったのではないかと、私はそう思っていた。しかし肝心のゼオロには、その力の片鱗すら感じられない。それが、気になっていた。
「私は、その様な事は何も。ただ、私が現れた時期に、結界に揺らぎがあったと。私が知っているのは、それだけです。私はそれも、私がした事ではなくて。ヤシュバがその様に結界の一部を壊して現れたから、ラヴーワでは
それを揺らぎとして観測したのではないかと。ヤシュバの正体と、今リュース様の話を聞いた上では、そう思っているのですが」
「なるほど、なるほど。では、あなた様にはその様な力は、一切無いと」
「どうして、そこまで私の力の有無を確認するのでしょうか?」
流石にある程度の勘の良さを発揮して、ゼオロがそれを口にする。それを受けて、私は頷いて。そして、口を開けた。
「それは。異世界人であるヤシュバ様が黒き使者ならば。当然、その対となられるあなた様は白き使者であると。私がそう思っているからですよ」
「そんな馬鹿な」
私の言葉に、ゼオロが狼狽える。しかし私にはこれも、ある程度の確証があった。
「それに。ヤシュバが黒い鱗を持つからその様に言われるのなら。私の色も、そうでないといけないじゃありませんか」
「わかっています。しかしあなた様は、銀を持っている。銀は白に近い色です。どうして、あなた様がその様な美しい銀を持っているのか。ヤシュバ様と同じ様に考えるのならば、それは、そういう事なのではないでしょうか」
異世界から来た二人が、揃って使者である。そう見るのは自然な事であったし、またゼオロが何故かギルスの直系の銀を持っている事にも、ある程度は頷ける。
「でも。私には、ヤシュバの様な力が」
「そうですね。だから、私はそれが気になったのです。ですが、あなた様は結界すら壊さなかったという。もしかしたら、あなた様は本当はとてもお強い力を持っていて。しかしその力は、結界を壊すのではなく。結界を通り抜ける
ために使われてしまったのかも知れないですね。あくまで、全てが私の推測でしかありませんが」
「そうなのでしょうか。私が、白き使者である、なんて。突然過ぎて」
「もう一つだけ、私が言いたいのは。もし、そうであるのならば。あなた様はやはり、ヤシュバ様と共にあるべきだ、という事です。託宣は、ご存知でしょう。あなた様とヤシュバ様は、やはり共に居て、伝説を実現する存在
なのではないでしょうか」
「それは」
とても。とても、苦しそうな表情をゼオロがする。その心中を察して、私も一度言葉を切った。揺れる馬車の動きだけが、私達を襲っている。もし、そうならば。ゼオロはその宿命のために、ラヴーワを捨てなければ
ならない。或いはヤシュバがランデュスを捨てるか、だが。いずれにしろ、ヤシュバの手を取るという事は。ラヴーワで積み上げてきた全てを捨て去るという事だった。ヤシュバの正体は、既にジョウス辺りは知っているというが、
例えそうであったとしても、ヤシュバはもはやラヴーワに受け入れられる存在とは言えない。或いはゼオロとヤシュバの二人が、使者であると公表するのならば話は変わるかも知れないが。この話には確証が無かった。そして
それを証明するには、二人が力を合わせて、結界を壊す事ができるかどうかという事になってくる。結局、証明をするのは後の話という事になる。
「この様に二国が争っているのも、結局は結界に全てが阻まれているからです。外に、どの様な危険が孕んでいるのかはわかりませんが。結界が壊れるという事は、少なくとも我々が争う理由は無くなります。もっとも、
ランデュスに関しては。それでも竜神様の意見という物がありますが。ラヴーワにとっては、そうではないでしょう。ですから。もしも、次にまたヤシュバ様となんらかの繋がりを持つ事ができたのなら。その時はどうか、
ほんの少しだけでも、私の言葉を思い出して頂けないでしょうか」
「……私は。そうしなければ、ならないのでしょうか」
「わかりません。あなた様が。ヤシュバ様が。この世界に最初から生まれ落ちた存在であったのならば。私はぜひともそうするべきだと、そう言ったでしょう。しかし、お二人ともそうではありません。それに、ヤシュバ様の今の
お気持ちも、私にはわかりません。あなた様のそのお姿を見て、あなた様が白き使者ではないかと私は考えるに至ったものですからね。捕らえられてから、ヤシュバ様とは当然、会う事もできておりませんし」
それに。それに、今の私はもう。以前の私ではなくなっていた。ガーデルを前にして、何がなんでもヤシュバを守らなくてはならぬと決めた時から。今はただ、ヤシュバが幸せになる道を選んでほしいと思っている。今の
ヤシュバは、恐らくはまだゼオロを、ハルを求めているだろう。ならばぜひとも、ゼオロにはその期待に応えてほしかった。しかしゼオロにそうさせるには、全てがあまりにも遅かったと。そう、言わざるを得なかった。無理矢理に
ラヴーワから連れ出しても、この銀の花は簡単に枯れてしまう。強い芯を持っている様に見えても、足元がぐらつけば。どうなるのかはわからぬ物だった。何よりも、ゼオロは既に完全に、ヤシュバとは決別したという
気持ちを持っているであろうから。私と話をしていて、タカヤの事を、必要な時以外はひたすらにヤシュバと。そう呼んでいる事からも、それは伝わってきた。
ゼオロは、その後は何も言葉を発しくなくなった。私も、そんなゼオロをじっと見つめているだけだった。どうするのか。あとは、ゼオロに委ねなければならぬ事であった。
黒い闇が、天を貫くかの様だった。
実際には、そうではなかった。如何に呪いの塊とはいえ、その力はこの涙の跡地を覆う結界を破壊するまでには至らなかった。とはいえ、それは有り難い事だと言わなければならなかっただろう。もしそれが、結界を破るのに
有効な手段であるというのならば。恐らくはここで、呪いを高めるためのありとあらゆる忌まわしい行為が繰り返される事になっていたのだから。それを思えば、例えどれ程見た目にはおぞましくとも、まだましと言えただろう。
カーナス台地。
世界の、いや、この涙の跡地の丁度中心に位置するこの地は、少し離れた位置から臨んでも、その異様と異相は明らかだった。黒い靄に覆われたその場所は、もはや根っこの部分がどうなっているのかなど、ここからでは
把握する事もできない。その黒い靄の一つ一つが、かつては今ここで、恐れ戦く目で見ている者達と同じ生き物であったなどとは、到底考えもつかぬ程だった。死して尚浮かばれぬ魂がある事を、知ってはいても。普段は
必要以上にそれ認識する様な出来事がある訳ではなかった。それが、ここでは違う。カーナスを取り巻く怨念は明確に、それを臨む人々の目に映り。永劫の苦しみを訴え、また近づく者全てを、それに誘うかの様に、不気味に
そこに蟠っていた。暗黒の呪いは、台地へと続く坂の部分から既にその地を呑み込み。そうして、私達が今立っている場より、カーナスが高い位置にあるからなのか。或いは、呪いが結界に向けて手を伸ばしているから
なのかは定かではないが。黒い靄は天へ、天へと昇っていた。その先にある、涙の跡地を覆う結界には、時折光の波紋が現れては、消えてゆく事を繰り返していた。私達を拒む結界は、例え呪いであれ、それが死者の
発する物であれ、差別する事なく。冷酷にその手を退けている様に見えた。
「あれが、カーナス台地」
私の隣で、それを眺める銀狼の子が、そう呟いた。私はそれを見てから、ゆっくりと頷く。
「そうです。あれが、カーナス台地。というよりは、それに渦巻く怨念と言った方が正確でしょうか。あまりにも強い呪いとは、あの様に我々の目にすら明確に確認できる程となって。そうして土地に染みついたあれは、
もはやカーナスの上に汚れの様にこびり付いて。彼の地がカーナスであった事など、誰の目にもわからぬ物にしてしまう」
私の説明に、ゼオロは何も返事をする事が無かった。ただ、その小さな身体が、小刻みに震えている。それは無理からぬ事と言わなければならなかった。ゼオロだけではない。たった今、馬を下りた猫族のクロイスも、
ようやくゼオロの隣に立つと。この旅で多少は私にも気安い口を利く様になっていたはずだが、今は何も言わずに。しかし怯えの色を滲ませていた。クロイスの乗っていた馬などは、とうに後方へと引き離されている。理性
よりも本能で生きる生物にとってこの闇を見る事は、非常な恐怖となって恐慌状態を招くだけだった。そして、また。ここまで護衛と、私の監視を兼ねて付いてきたラヴーワへの兵達もそれは同じだった。ワーレン領から
ここまで来たが故に、武勇でもって己の力を誇示する虎族の兵は多かったが。その中の誰一人として、あれを見て、尚もその腕っぷし一つでどうにかなるという顔をしている者など見当たらなかった。
「あれをこうして、遠くから臨む事は、私は初めてではありませんが。それでも、恐ろしい物ですね。我々の心が、普段は理性によって抑えられているからこそ。理性の歯止めが効かぬ事態を経て、怨みを呑んだまま死んで
しまえば、斯様な姿に堕ちてしまう。ここに居ても、嫌という程に感じる。強い怒りを。そして、最初はそれは何かに向けられていたはずなのに。今はただ。まだ生き続けている我々をただ嫉んでいるという事も」
「そんなにも。狼族の怨みは、深い物だったのでしょうか」
ゼオロが呟く。それを聞いたクロイスが、怯む様子を見せた。それは、無理もない。狼族の怨念が、今まさに牙を剥くとしたら。それは今この場に居る、ジョウスの息子であるクロイス・スケアルガであろうし。また、銀狼の
ゼオロからすれば。その死者の怨念は、決して理解できぬ物でもないからだった。
「狼族の怨み、というだけではないでしょう。あれ程に強力な呪いは。もはや、弱い呪いを吸い上げて、更なる肥大化を遂げるだけなのですから」
「私に何ができるのでしょうか……。あんなにまでなってしまった、人の心を」
「それは、行ってみないとわかりませんね。私は平気ですから、このまま二人で参りましょうか」
その言葉で、ようやくゼオロは私へと視線を移す。いつの間にか、その瞳には薄っすらと涙が浮かんでいた。狼族の霊にでも、当てられたのかも知れない。
「俺も」
「それは、いけませんよ。クロイスのお坊ちゃん」
咄嗟に。本当に何も考えずに、クロイスはそう言ったのかも知れなかった。それは、わからぬ訳ではなかった。あんな禍々しい様子の場所に、愛しい相手を行かせなければならぬ等と。肯える訳もなかった。しかし私も、
流石に純粋な気持ちでそれを今は止められる。私が止めた事で、むっとした表情をクロイスは浮かべたが。それでもすぐに、私が何を言いたいのかを察した様だった。
「あなたこそ、あそこに一番近づいてはならぬ人物なのですから。寧ろあなたが居れば、あの場の亡霊達は、怨敵の時ならず訪問を受けて、にわかに沸き立ち、ざわめいて。私とゼオロ様ごと、あなたを呑み込みかねない。
亡霊に、正常な判断を求めてはいけません。刺激となる者は、近づいてはならない。そう言う意味では、竜族である私も似た様な物ではありますが。まあ、私はカーナスを案内する役目がありますからね。ですから、
私は仕方がないとしても。これ以上亡霊を刺激してしまう様な方の同道はご遠慮いただきたいものですね、ええ」
「ちぇっ。わかってるよ……なら。俺達はここで待ってるよ。それで、良いだろ」
「できれば、もう少し後方がよろしいかも知れませんね。兵が、怯えていますよ。そんな場所で野営をするものではない。勇み足の馬鹿が、乗り込んでくる様な真似を起こしても阻止できる様にね。あれをずっと見て、怯え
続けるくらいなら。一層乗り込んでしまいたいと思う様な奴が、出ないとも限らない」
「わかってら。伝令。全軍後退。あとはここでゼオロと、ご立派なリュース殿がカーナスに何かしらの変化を起こすまでは待機とする。念のため、周辺への警戒も怠らずに」
必要な指示を、クロイスが出しはじめる。周辺の警戒は、必要無い事を私は知っていたが。かといってそれを口にする事もできずに見守っていた。竜神がこの地を解放する事を望んでいる、という事は。少なくともこいつらに
教える訳にはいかない。それを済ませると、クロイスはゼオロの下へと歩み寄って屈み。その場でゼオロを抱き締めていた。
「……なんかさ。最近、思うんだけど。俺の方が腰巾着みたいになってるよなって」
「いきなりどうしたの、クロイス」
カーナスの事に気を取られていたゼオロが、正気に返って。苦笑しながらクロイスの事を見ていた。
「だってさぁ。獅族門の事もそうだけど。ヤシュバだの、ガルマの呼び出しだの。それが終わったと思ったら、何、今度はカーナスの亡霊? なんか俺、全然なんにもできてなくない?」
「それは仕方ないんじゃないの。特に今回は、スケアルガ絡みなんだし」
「そうだけど、そうだけどさぁ……俺、なんにもしてないよ、ゼオロ」
「そんな事、ないと思うけれど。元気出してよ」
そう言ってクロイスをあやすゼオロは。なんとなく、道中で私に見せていた顔とは、少し違う顔をしている様に私には思えた。抱き付いているクロイスの頭を撫でては、笑いかけてそんな事はないと言って。私だったら
蹴り倒しているだろうなと思う事も、辛抱強くしている。
「それに……クロイスが居るから、やっぱり私はラヴーワに戻りたいって思ってるよ。だから、待っていて」
それから、少しだけゼオロは私を見て。それがどういう意味で口にした言葉であるのかを、まるで私に教えるかの様だった。
「行きましょうか」
私が言うと。ゼオロは頷いて、クロイスから離れる。クロイスも、名残惜しそうにしていたのはそこまでだった。離れて立ち上がった時には、既にその顔は精悍な豹のそれとなって。残りの指示を与えると、あとは一礼して
自身も去ってゆく。あとは私とゼオロが、歩いてゆくだけだった。馬も恐れる彼の地には、ここからは自らの足で行かねばならぬ。
「ゼオロ様。お手を」
少し屈んで、私は手を差し出す。ゼオロはそれを見て、少しだけ寂しそうな顔を見せて。私が首を傾げると、笑ってから手を取ってくれる。
「この先、何があるのか。流石に私にもわかりません。私には、呪いは作用しない。多少は呪いを退ける効果もありましょう。どうか、決して離れずに」
「わかりました。行きましょう、リュース様」
ゼオロの小さな手を取って、歩き出す。呪いの波動を受けるのか、辺りには緑はなく。殺風景な大地の上を、私とゼオロだけが歩いている。
そうして、闇に覆われたその地へと。私達は誘われて消える。
カーナス台地へと、足を踏み入れたのだった。