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34.狼が見た夢

 ゆらゆらと焚火が揺れていた。けれど、怪しく踊るそれよりも、今俺はその先で座っている男の方を気にしてばかりいるけれど。
 赤い炎に負けないくらいに、赤い鱗が。炎に照らされては、てらてらと夜の今も激しい自己主張をして。その姿を俺の目に焼き付かせる。
 見上げても、まだまだ顔が遠い。お互いに座っているのにな。旅行用のマントを乱雑に広げた上で、俺は体育座りをしながら。さっきから炎と赤い竜を見比べている。
 前筆頭魔剣士のガーデルは、そうして静かに佇んでいると。本当に神話か何かの絵姿の様に俺には見えた。なんていうか、ゲームのオープニングとか。ゲームを進めている途中で出てくる、厳かな雰囲気の中で表示される
壁画だのなんだのみたいな。とにかくそんな、日常とは切り離された存在の様な印象を、俺に与えてくる。俺が今まで見た中でも一番に入る立派な体躯も、その身体を覆う灼熱の鱗も、闇の中で夜空の星々よりも尚強く、
炯々と輝く深紅の瞳も。そうしてそんな大きな存在が、どっしりと構えて、空を飛んでいる時とは違って物静かに座している事も。夜が更に深まって、すっかり冬になった今は虫の鳴き声ももう聞こえなくて。だから、今
無言のまま俺がガーデルを見つめて、ガーデルもまた無言で焚火を眺めている今は、時折強く吹く風と、踊る炎の舞台ぐらいしか、俺の耳は捉える事もなくて。
 そんな中で、俺の他にその場に居るのは、ガーデルだけだったから。落ち着き払ったその物腰と、その中に眠る、俺よりも何倍も生きて成熟した魂が、本当に神話に描かれる様な存在その物であるかの様に俺に思わせる。
「食事は、口に合ったか」
「はい。ありがとうございました」
 携帯できる食料は、多少は持っていたけれど。それだけでは味気ないと、ガーデルは暇を見ながら狩りもしていて。そうして、捕らえた獲物の下拵えをぎこちない動作でした後は、焚火で丁寧に焼いて俺に振る舞って
くれていた。これは間違いなく俺に気を遣ってくれているな。ガーデルならなんかもう、生肉で食べてもなんともなさそうだし。それはちょっと酷いだろうか。
 そんな事を考えながら、俺は改めてガーデルの様子を見つめる。クランが悪知恵を働く時間を与えるのも好ましくなかったので、慌ててフロッセルの街を飛び出してきてしまったけれど。こうして見てみると、ガーデルの服は、
爬族の王を名乗っている割には、随分質素だなと思う。地味な色合いのローブは、一応は整えられていたけれど。それでも俺が今まで見てきた身分の高い存在の人達が身に着けていた物と比べると、ずっと質素な
仕上がりで。ただ、そうしていてもそれを纏っているガーデルの存在その物が異彩を放っていたから、別にみすぼらしいとは感じなかったけれど。一つだけ、それらしい物があるとしたら。その首から下げている金の装飾
だろうか。金の鎖で首元を彩るそれは、複雑な模様で編み込まれた物で。ガーデルの筋肉で逞しく盛り上がった胸の上で薄い円盤の様に広がっては、その中に一つだけ赤い宝石が、その持ち主に負けぬくらいに輝きを
放っていた。魔法使いが使いそうな見た目だけど、それよりもずっと高級そうな物だ。
「ガーデルさんの服って、思っていたよりも質素な物なんですね」
「そう思うか」
 俺から話しかけてみると、焚火を眺めていた瞳が、俺へと移る。まっすぐに見据えられるだけで、俺の考えている事が全て見透かされている様な気分になる。
「はい。爬族の王と、仰っていたので。それなりの恰好をしているのかなと。ちょっと失礼な言い方ですけれど」
「爬族は、穴蔵で生活を営む者が多いからな。土に汚れる事が多い。爬族の権力者は、服には頓着しないものだ」
「だから、その首飾りがあるんですか」
「ああ。本来なら、王冠を被る物かも知れないが。これ以上高くなると困る」
「穴蔵に入れませんもんね」
 そもそも通常時でもほとんどの穴蔵に入れないだろうしな。爬族が使うために作った穴蔵となると。こうして爬族を率いてラヴーワまでやってきた以上は、もうあまり穴蔵の生活をする訳ではないのだろうけれど、そういう
事情があって、ガーデルは王の証を別の形で身に着けている様だった。
「そういえば、ガーデルさん。今更ですけれど。どうして私をファウナックに……いや、あの時都合良く出てきてくれたんですか?」
 今更だけど、フロッゼルでガーデルが出てきたタイミングも、大分出来過ぎていたので。俺はそれを訊ねてみる。それから、ガーデルが俺を連れていってくれる事も。ガーデルが自由に動ける時間をジョウスがその根回しの
早さで稼いでくれたというけれど、かといってガーデルには俺を連れる理由も無いだろうし。爬族の王になったのだから、尚更だ。自分が率いている爬族の下に、早く戻りたくはなかったのだろうか。そういえば、そもそもなんで
爬族を率いているなどと決めたのだろうか。一人旅も楽しんでいた様に俺には思えたけれど。
「実は、あれはジョウスの方から頼まれた事なんだ」
「ジョウスさんから?」
 意外な事を言われて、俺は少し驚く。あの場では、どちらかと言えばガーデルが押し切る様にクランを退けてくれた様に見えたけれど。
「元々、ジョウスとは数日前から会っていてな。最初は、街の外でだが。それから、ふとお前の事を少し話されてな。ファウナックから、ガルマの使いが来て。息子と一緒に居る銀狼を連れ帰ろうとしていると。気になって、
少し話を窺ったら、それがお前だと言うから。その後は、どの様にしたいのかと直接訪ねて。俺はその通りにした。ジョウスの立場からすれば、真向からクラントゥースと対立するのは避けたかったのではないかな。その点、
俺ならば多少は横紙破りな振る舞い方をしても問題は無い。ジョウスは取り成す形で、クラントゥースに多少の恩を売る事もできるしな」
 そうなのか、と納得しながら。俺はさり気無くジョウスの行動力の方に戦慄する。今の話を考えると、世間話の様に何も考えずに、俺の事をガーデルに話した訳ではないだろう。恐らくは、俺がヤシュバとの関係があるから、
ならばガーデルにもそれがあるのではないかと軽く探りを入れて。ガーデルの方は特に隠す必要も無いからそれに食いついてきたから、色々と任せたんだろうな。実際、俺とガーデルが旧知なのは事実だし。あの人怖い。
「それから、俺がこうする理由は。もう忘れてしまったかな。俺はお前と、旅がしたいと。以前言ったはずだが」
「それは」
 まだ、その事を憶えていたのか。ファウナックの近く、闇の中で歩きながら、たわいもなく交わした約束を。それに、俺は嬉しくなって。思わず尻尾を振ってしまう。
「私は、銀狼なのに」
「そんな事は、ランデュスから出た俺には瑣末な事だ。それに、俺は爬族の王になってしまった。今を逃せば、もうお前と旅をする様な余裕は、しばらく無くなるだろう。俺はジョウスの望みも叶えたが、それよりも尚、俺の
望みを叶えたかった。それだけだ。もっとも、俺もまたジョウスに一つ貸しにしてやる事ができたがな」
「そこまでしていただけて、とても嬉しいです。その恩に、私が報いられるとよろしいのですが」
「畏まらずに、ただ話してくれていれば良い。俺は、形がこうだからな。どうしても、対等に話せる相手には飢えている。それ、お前の恋人だとかいう、あの小僧も。中々見所がある奴だったな」
「クロイスですか。そうですね。クロイスは、本当は戦争なんかしたくなくて。竜族とも手を取り合えたらと思っていますから。だから私も、そんなクロイスの手伝いをしたいんです。私も、色んな種族と友達になりたいので」
「そうか。それは、辛い道だな。ジョウスの息子であるというのに、その様な物の考え方をするあの小僧も。そして、それを助けようとするお前にとっても」
 静かに、俺は頷く。ガーデルの言葉は、重々しくて。けれどどこか親しみの湧く話し方でもあって。一緒に過ごした時間はとても短いのに、すっかり安堵してしまっている俺が居た。どっしりとした見た目が、見た目だけでは
なくて、寄りかかっても大丈夫なんだなって。そう思わせてくれる様な。
「ガーデルさん。もう少し、色々とお訊ねしたいのですが。その前に、私の事を話しても構いませんか」
「それが、必要な事なら」
 ガーデルから聞きたい事は、色々とあった。純粋に興味を引かれた事もあれば、後でクロイスに伝えて役立てたい事もあって。ただ、その全てをガーデルから聞きだすのには、俺の情報を伏せたままでは通らない事も
あると思って、俺から切り出す。それにしてもジョウスは、その辺りは巧妙に隠してガーデルを手伝わせてたりするのだから、やっぱり大分計算高いんだな。俺はまたボロが出てしまいそうなので、もう素直に語るけれど。それに
ガーデルの事は、もう信用できると思っているし。
 ガーデルに、俺は異世界人である事。そうして、この銀狼の姿はギルスの直系の血を引いている訳ではなく。偶然の産物である事を伝える。それから、この間のヤシュバとの一件と。更にヤシュバの正体の事も。
「お前の、友人だったのだな。ヤシュバは」
 俺の正体については、ガーデルは特に反応を示さなかった。まあ、これだけの銀を持って、それでいて銀狼の振る舞い方としてはかなり怪しい事ばかりしている俺だから。寧ろ納得してくれたという方が大きいのかも
知れないけれど。それでもヤシュバの正体については、ガーデルは興味深そうに聞いて、何度も頷いてくれる。
「道理で。まったく見知らぬ竜が突然に現れて。しかも、それに負けるはずだ。あの男は、本当に強くてな。あっという間に俺を捻じ伏せて、筆頭魔剣士になってしまったな」
「そうだったんですか。……ごめんなさい。私がここに来たから、ガーデルさんにまでご迷惑を」
 今まで知らなかったけれど、筆頭魔剣士の座を賭けてガーデルはヤシュバと戦って、敗れたせいで放浪をしていたと聞いて。とても申し訳なくなる。今のガーデルは落ち着いた物腰をしか俺には見せないけれど、それでも
その時は動揺したり、信じられなかったり、きっと色んな事があったのだろうし。ただ、ガーデルは僅かに首を振るだけで、俺を咎める様な事はしなかった。
「お前に謝られる謂れはない。俺が弱かった。ただそれだけであるし。それに、いつかも言ったが。俺は、旅をするのも中々に気に入っている。今の生き方も、悪くはない」
「そう言っていただけると、助かります。ところで、旅をしていたのに、どうして今爬族を率いられているのですか? それに、爬族の王って」
 クロイスが、前に教えてくれたけれど。今は王を名乗る者はほとんど居ないって。まあ、国として存在するのがラヴーワとランデュスで、ラヴーワは八族の族長の手に委ねられて王は居ないし、ランデュスは竜神のランデュスを
仰いで、それ以外は全てその下に存在しているに過ぎないのだから、これも王とは言えないし。竜神ランデュスは、ともすれば王とも呼べるけれど。神様だしな。寧ろ王と呼んだら失礼な勢いだろう。
「マルギニーに、頼まれてな」
「マルギニーというと……確か爬族の、族長さんでしたっけ?」
「ああ。だが、リュースとのぶつかり合いで死んだ。だからこそ今、爬族は族長を欠いている状態で、その爬族を一時的に俺が預かっている状態だ。いずれは、マルギニーの息子か、もしくは他の爬族かも知れんが。爬族の
族長が現れるだろう。落ち着くまでは俺を爬族の王として迎えるし、またその様に振る舞ってほしいと」
「マルギニーさんは、どんな方だったんですか」
「食わせ者だな。死んだと言ったが、寧ろ死にに行った様な物だ。自分が死ぬ事で、俺に爬族を押し付けていった」
 ガーデルの言葉は、なんとなくだけど俺には理解できる事だった。そもそもリュースとのぶつかり合いも、ガーデルは堂々とラヴーワに行くべきだと主張して。周りがそれに同調したから成せた事だと言うし。そのせいで
ジョウスは爬族の扱いに今苦心しているだろうけれど。本来なら爬族の扱いはもっとおざなりになるはずだったのに、リュースを捕らえたという華々しい功績まで持ってこられては、そうする事はできないし。その上で、相手が
前筆頭魔剣士で、現在は爬族の王になってしまったガーデルだ。これがマルギニーの息子だとか、とにかく爬族の誰かであったなら、元は親竜派の爬族がほとんどなのだから、もっと足元を見た接し方もできただろう
けれど。ガーデルとなると、そういう訳にもいかない。かといってマルギニーが生きた状態でガーデルと共にラヴーワに行っても。マルギニーが居るのだから、ガーデルはその場に残らなかったかも知れないし、ジョウスもまた
マルギニーの方に話を通そうとするだろう。その場合は結局、ガーデルは用心棒の態であったのだろうし。
 自分が死んで。また次の族長を空位のままとする事で、マルギニーは爬族の全てをガーデルに託したのだろうな。
「爬族の下に、すぐに戻らなくても大丈夫なんですか」
「先にも言ったが、ジョウスが時間を作ってくれたからな。それに、今ラヴーワにまで辿り着いたのは、爬族の主だった者と、捕虜となったリュースだ。どうしても大の男と比べて歩みが遅れる者は出ているからな。そいつらを
どの道待たなければならない。俺は王になったとは言っても、それでも爬族の何から何まで面倒を見る訳ではない。それは、マルギニーの息子達の仕事だろう。ジョウスとの約束は取り付けてあるから、なんとかなるはずだ」
 それに、俺は頷く。爬族の全てがこちらへ、という事は。当然老若男女問わずなのだろうし、しかも南の沼地を抜けてきているというから。確かに足腰の弱い人達が通るのには時間が掛かるし、それを助けるためにも
男手が必要だしで、完全に纏まったままラヴーワまで来る事は難しかったのだろうな。
「その人達に、危険が無いと良いのですが」
「まったく無いとは思わんが。だが、それも爬族に課せられた試練と見做すしかないな。それに合わせてリュースを留めては、寧ろそちらの方が竜族の空兵に目を付けられかねない。それは困る。確かに俺は、一度は
ヤシュバとリュースを退けたが。それもヤシュバの方で改めて空兵を率いて出てこられてはな。あくまで奇襲をして、更に俺が居る事を隠していたから、リュースを捕らえる事に成功したに過ぎないのだから。言い方は
良くないが、リュースと、爬族の主だった者……この場合はマルギニーの息子達や、それ以外の知恵者などだな。爬族の中でも狙うに足る者を全員連れる事で、残った爬族には襲う価値などないと、はっきりと示すしか
なかった。もし、ヤシュバが憂さを晴らすためだけに。嫌竜派の爬族の時の様に、再び爬族を手に掛ける様な輩であるのなら、かなりの被害は覚悟しなければならなかったが。リュースを捕らえて、その穴を
埋めるためにあの後筆頭補佐になったというドラスにも手傷は負わせておいたから、やはり大人しく引いた様だランデュス軍は」
 なんだか、思っていたよりも危ない橋を渡っているんだな、爬族は。とはいえ、それぐらいの事はしないと到底リュースを捕らえるなんてできなかっただろうけれど。確かにここまでしてラヴーワに付こうとする爬族を、
かつては親竜派だっただろうと邪険にするのは難しいのかも知れない。少なくとも虎族などの、武勇に秀で、また尚武の気質に富んだ種族には爬族を受け入れる事は歓迎されたというし。本来ならガーデルが一人で
纏めてやってしまった事ではあるけれど、ガーデルが使いこなした爬族にも、相応の犠牲が伴ったのだから。この辺りは、なんとなく翼族とは違うなと思う。翼族の方は、あまり立場が良いとは言えないから。翼族にも、
ガーデルの様な頼もしい人が居てくれたら、また違ったのだろうか。とはいえ、それはいずれヒュリカがする事ではあるのかも知れないけれど。ガーデルだって、いつまでも爬族の王で居続ける様な口振りはしていないし。
「この旅が終わったら、俺は爬族の下に戻らなければならない。お前と旅ができるのは、本当に短い間でしかないのだな」
「それでも。ずっと、爬族の王という訳ではないのでしょう。また、いつかをお待ちしています」
「それが、早く来ると良いが。お前達、獣の者は寿命が短い。いや、竜族以外は、という方が正しいか。そう思うと、難儀な物だな。あまりにそれが遅くなれば、お前は老いてしまう。それから、本当はお前の友だという
ヤシュバも、お前の話を聞いた後ならば不憫にも思える。あれは、竜族になってしまった。お前とはもう、生きる時間も違うだろう」
 なんでもない様に、ガーデルは竜族の寿命の長さに触れて。それから、ヤシュバにも言及して。それで俺は、今更になってそれを知る。そうだった。タカヤは、竜族のヤシュバになってしまったんだな。竜族がどれくらい
生きるのかはわからないけれど。ガーデルにしたところで、百歳は余裕で超えているというし。そう考えると、きっとヤシュバもそうなんだろう。青い血の流れる竜族は、とても長生きをして。対する赤い血を持つ、俺の様な
獣の頭を持つ者は。魔道士になったり、魔導の素質を示す事ができなければ、到底竜族の様には生きられない。そうなると、いつかは俺もヤシュバを置いて、死んでしまうのだろうな。その時、あの竜は、どうするの
だろうか。俺のためにと言って、ここまで来たのに。俺がまた、その手から。腕を掴んで引き留める事もできずに、消えてしまったら。
「どうせなら、皆同じくらいの寿命だったら、良かったんですかね」
「竜族の中でだけ交流を持っている間は、俺はそれを気にした事はなかったが。竜族以外との関係を持った時、俺はそう思った。マルギニーに対しても、そうだ。あまりにも脆いのだな。そんな事は、わかっていたはずだが。
お前とまた旅に出られる様に、俺もやるべき事は急いで済ませよう。とはいえ爬族を纏めたといっても、俺がそのままランデュスに突撃する様な真似はしないがな。爬族とて、今後を生きなければならない。そのためには、
改めてラヴーワの領土の中に、しっかりと根付かなければならぬし。それに、俺は竜神と対峙したくはない」
「竜神ランデュスですか。私は、名前ぐらいしかわからないのですが。本当に、神と言われる程の存在なのですか?」
 話題が竜神ランデュスに移ったので、俺は少し居住まいを正す。以前、穴蔵の中でガーデルと話した時もそうだけど。竜神についての情報というのは、とても貴重だった。そしてまた、そうする事で。気の毒な黒い竜への
思いを追いやった。俺の様子を見てから、ガーデルは重々しく頷く。
「間違いなく、ランデュスは神だ。そして、それ以外の言葉では説明の付かぬ存在とも言える。その姿も、今は謎に包まれている。実体をもって、あれは現れる事がなくなったという。俺とて、ランデュスの真の姿などは
知らんがな。そういう事は、どちらかと言えば俺よりも、神声……つまりは竜神の声を聞くために、竜神の加護を強く受けているリュースや。それから宰相のギヌス・ルトゥルー辺りの方が詳しいだろう」
「神声、ですか。それは、どういう物なんですか」
「有体に言えば、竜神の言葉を賜るのだな。実体を持たぬが故に竜神はその口を開く事はなく、ただ竜神の精神が宿されているという空間に、加護を受けた者は跪き。その場で竜神の声を聞くという。加護を受けずとも、
ある程度の言葉を聞く事はできるがな。俺が筆頭魔剣士になった直後は、筆頭補佐は空位だったから。そういう時に俺は竜神の待つ場へ出向いて、必要な指示を受けたものだ。加護を受ければ、それはより一層容易い
事となる。また、ある程度距離が離れていても。竜神がその気になれば、言葉を伝える事も可能だそうだ。その場合、受けた側から返すのには、相応の訓練が必要だと言うがな」
「どうしてガーデルさんは、神声を聞く立場にはならなかったのですか。筆頭魔剣士だったのに」
「俺が、竜神ランデュスが好きじゃないからさ」
 僅かに言いよどんでから、しかしガーデルは不敵に笑う。目をぎらつかせて言うその様は、まるで今口にした言葉が、竜神に聞こえてしまう事を少し恐れている様でもあり、それでもその言葉には挑発が含まれていた。
「俺は、戦が好きだ。そして国としてのランデュスも好きだし、竜族も好きだ。だが、竜神は好ましいとは思わぬ。それでも俺が筆頭魔剣士になったのは、ランデュスが俺に、腕を磨く場も、戦場も、ご丁寧に用意して
くれたからに過ぎない。それも百年以上続ければ、流石に筆頭魔剣士としての自負も芽生えたがな。だが、それでも竜神は好かぬ存在だ。あれは、自らがあまりにも他と違い過ぎるが故かは知らんが。竜族を縛る
存在でもあると、俺は思う。リュースや、ギヌスなどの。神声を聞く者達に対する加護などは、その良い例だ。加護とは言うが。その実は、そいつらが裏切りそうになったら、その精神すら我が物とする事のできる、呪縛の様な
代物に近い。だからこそ、神声として自らの声すら伝えられるのだからな。互いに精神の一部を差し出して、繋がりを保つ。あれは、そういう絡繰りの下に成り立っている。正直に言おう。俺は、それが恐ろしい。奴らは、
それは当然の事だと思っているがな。また、確かに。そいつらが裏切ったとしても、自分のしもべである竜族に頼るより、自らが力を行使すれば一息に解決できるのだから、合理的かも知れないが。それでも俺は、それが
気に入らない。俺は、神として存在するランデュスの事は認める。ただし、その神に自分の持つ全てでもって従う気は毛頭無い。竜神ランデュスは、それを承知の上で俺を使っていたがな」
 ガーデルの口から語られる竜神の姿を、俺は心に刻みつける。こうして聞いてみると竜神という存在は、何をしているのかわからない様で。実際にはしっかりと自分の足場を固めて、竜族を掌握し。そうしてきちんと
欲という物を持っているんだな。今まで耳に入る竜神の情報というのは、あまりにも漠然としていた物が多くて。竜神が、どういう人物であるのかが、よくわからなかったけれど。それも爬族や翼族の件で、ある程度は窺う事は
できたけれど。決して、穏便に事を済まそうという存在ではない事だけは伝わってくる。とはいえ、竜族にとっての神なのだから。別にそれは悪い事ではないのだろうけれど。
 ただ、なんとなく。竜の神であって、同胞たる竜族ではない。ガーデルの口振りからはその事が強く意識されている様に感じた。そこも、神という存在であるからなのかも知れないけれど。
「だから、俺はランデュスとは戦えない。高位の竜族は、多寡はあれど何かしら竜神からのしがらみを受けている。俺はあの日、突然に現れたヤシュバに敗れた後。ランデュスを出る前に、密かに竜神の下へと向かい、その
全てを竜神に返した。そうしなければ、今回の様にリュースを捕らえる事も叶わなかっただろう。だが、本当にあの日に返した物で、竜神の詐術の全てが俺の中から消えたとは、俺は思わない。俺がこのままランデュスの
攻略に臨めば、その時こそ何かしら、取り返しのつかぬ事になりそうで。俺は、それが怖い。この事は、ジョウスにも伝えてあるが。だから俺は、あとは爬族の王を気取って。南側からの牽制を掛けるくらいが精々だな」
「それでも、充分過ぎると思いますよ。ランデュス軍は、南からも進軍しようとしていたのでしたし。南の押さえとなるだけでも」
「あとは、お前達獣の手に委ねられる事だ」
 そうは言うけれど。実際にはガーデルがこちら側に立っている、というだけでかなりの効果はあるのだろうな。特にランデュスの国民にとってはそうだろう。元々ガーデルはランデュスの英雄と讃えられる程の名声を
得ていたのだから。それがラヴーワに付くというだけで、ランデュスの人には計り知れない重圧になるだろう。実際リュースを捕らえた時だって、ガーデルが居たから竜族はかなり浮足立ったというし。けれど、その効果を
当てにしてガーデルを使い続けるのは、今のガーデルの言からすると確かに危険な事だった。これからは、ラヴーワ軍の力が試されるのだろうな。
「それにしても、ガーデルさんとジョウスさんは敵同士だったのに。随分仲良くなったんですね」
 ふとそう思って、俺はそれを口にする。さっきから、ジョウスとの話は詰めるところは全て詰めている様な感じだし。ジョウスがガーデルを語る時も、ある程度信用をしている様な素振りだったし。
「長い付き合いだからな」
「敵同士だったじゃないですか」
「敵同士だからさ」
 焚火にガーデルが手を翳して、念じる。そうすると、燃やす物も無いのにその炎は勢いを増した。炎が揺れる度に、その向こう側に居るガーデルの瞳に映るそれも、また揺れて。それに、俺は目を奪われる。
「喧嘩する程仲が良いという事ですか」
「まあ、そんな感じかも知れないな。互いに、相手がどの様な腹積もりであるのかなど。今更計る必要もない。もっとも、それ程顔を合わせた訳ではないが。前に会ったのは、休戦を申し入れる時だったか。あの時俺は
一人で陣地を出て。竜神ランデュスの旨を伝える使者となり、ジョウスとその部下が待つ場所へ向かったのだったかな。もう、二十年以上も前の話だが。あの時はラヴーワの兵が大勢いたから、碌に話もできなかったが」
「そんな場所に、よくガーデルさんがお一人で向かいましたね。休戦のためとはいえ」
「いざ戦えば。死ぬのはあちらである事には違いないからな」
 その言葉に、俺はちょっとぞっとする。竜族の強さを、俺はまだはっきりとは知らない。そんな状況ですら、ガーデルの方が上になってしまうのか。そしてそのガーデルよりも上であるというヤシュバの強さは、どれ程の
ものなのだろうと思ってしまう。当たり前だけど、タカヤは戦闘訓練なんて物を受けている様な人物ではなかったのにな。運動はよくやっていただろうけれど。
 ガーデルは、俺の怯えを察した様だった。少し悲しそうに、その竜の顔が笑う。見慣れない竜族の笑みは、ともすれば怒っている様にも見えたけれど。
「お前は。それでも俺と旅をしてくれたな」
「約束しましたから。それに、旅は楽しいです」
 旅は、今までもしてきた。ハゼンやクロイスと共に馬車に揺られる旅もあれば、獅族のヒナに連れられて馬の背に揺られる旅もあって。けれど今は、そのどちらでもなく、竜の腕に抱かれた空の旅だった。本当なら、
俺も少しは歩きたいところだけど。そうして空から見るだけではわからない場所も、もっと見たかったけれど。生憎用事が用事で、そういう猶予を持つ事はできなかった。空からの景色を眺められるだけで、俺にとっては
とても満足できる事ではあるけれど。飛行機と比べたら、もっと低い所も飛べて。だから、地上に生きている物が沢山見えて。あんまり人が居る所は、ガーデルも気を遣って高く飛んでしまうけれ、一つ一つの景色を見て
楽しんでいる俺が居て。それから俺だけが楽しいのかと思っていたら、ガーデルも同じ様にそれを見て、楽しんでいたから。ラヴーワにある程度堂々と足を踏み入れる事は、今までのガーデルの立場だと難しい事だったから、
新鮮なんだろうな。だから、旅はとても楽しい物だった。ひたすらガーデルの腕に抱かれて空を飛んでいるだけなので、ちょっと申し訳ないけれど。
「そうか。楽しんでくれているのなら、それで良い。俺も、楽しいぞ」
 俺は、できるだけの笑顔でそれに応える。
 それからも、旅は続いて。やがて俺とガーデルはファウナックへと到着する。空の上から眺めたファウナックの街は、道中の街もそうだったけれど。あまり色付いた、綺麗な街とは言えなかった。フロッセルの街などと比べて、
見場に優れるとは到底言えない。空から見ただけでもわかるぐらいに、狼族の考え方が銀狼を崇拝し、そうしてそれ以外を、特に他種族からの物を拒む傾向にある事を示しているかの様だった。土色の建物が多い街並みは、
お世辞にも華やかとは言えない。その中で、一角だけ。一際目を引く場所がガルマの館だった。広大な敷地に、外郭の部分と、内郭の部分があって。そこだけがまるで、まったく別の場所から切り取られて持ってきた様な
印象を俺に与える。銀に近い色の館と、内郭を囲む池とが、あの日俺が歩いていた場所なのだと教えてくれる。
「まるで、銀狼以外は贅沢をしてはならんという触れでも出ているかの様だな」
「そんな物は出していないのですけどね、私の知る限りでは。多分、自主的にそうしているのかも知れないですね。それぐらい、銀狼の扱いはここでは違うんです」
「ジョウスも、さぞ悩んだだろうな。もっとも、自分の撒いた種でもあるのだろうが」
 短い言葉を交わして、ガーデルがガルマの館へと向かう。多分騒ぎになるだろう。それは承知の上で、俺からもそうする様にとお願いしていた。だって街の入口にガーデルがやってきても、絶対入れてくれないだろうし、
かといって俺一人でファウナックに足を踏み入れても。どうなるのかわかったものではない。赤狼の一件もあるのだし。
 ガーデルが、翼を広げて一気にガルマの館の庭へと舞い降りる。当然、衛兵達が大慌てで駆けつけてきた。俺は素早くガーデルの腕から飛び降りると、そのままガーデルを一度空へと戻してから、衛兵を相手に丁寧に
一礼する。普通なら問答無用で捕まるか、下手したら殺されてしまうかも知れないけれど。そこは俺の持つ銀の効果がある。丁重に名乗ってから、火急の様のため、またガルマに呼び出された事を告げて、取り次ぎを乞うと、
衛兵はかなり戸惑った様を見せたけれど。そうして騒いでいる内に、俺を知っているという人が現れて。またクランが俺を捜しにここを出た事もある程度は知られていたのか、すぐに相手の方から態度を改めて俺に接して
くれる。俺の事を憶えてくれていたのか、自信がなかったけれど。内郭の方に勤めている人には、当時はそれなりに噂になっていたから、それは問題なかった様だ。ある程度騒ぎが落ち着いてから、俺は空で待機している
ガーデルを見上げてそれの説明もする。流石にその場にガーデルまで居ては、話も通じないと思ったし。空に居るガーデルには、魔法使いでもない限り手は出せないだろう。ガーデルがラヴーワ側に付いたという情報は、
どうにかこの街までも知れ渡っていた様で。俺が説得を繰り返すと、どうにかその件も落ち着きを見せる。検討の結果、ガーデルを再び俺は呼び寄せて。地面に降り立ったガーデルに圧倒されながらも、思わず武器を
構える狼族を宥めてから、ここで待つ様にとお願いする。するとまだ難しい顔をされるものだから。
「その気になれば、ガーデル様は空を飛んで、ガルマ様の下に向かう事も可能です。ならば、ここでお待ちいただいた方が、よろしいと思うのですが」
 俺がそれを告げると、流石にその意見を撥ね付ける者はいなかった。ちょっと脅す様な事を言ってしまったけれど、ガーデルが目の届く場所に居る方が安全なのは確かだ。お互いに。あといつまでも空を飛んでいると、
街の方でも流石に騒ぎになるし、不安に思う人が多いだろう。
「それでは、行ってきます」
「あまりに帰りが遅い様なら、何かあったと見做すぞ」
「どうしても遅くなりそうなら、一度戻ってきます。もしそんな事があったら、申し訳ない事ですが、お願いします」
 ガルマの狙いがまだわからないので、俺とガーデルは用心を重ねる。俺に次期族長になってほしいから、もうファウナックの外には出さない、なんて事になると困る。もし無理矢理にでも俺を捕まえようとするのなら、
多少手荒な事にはなっても良いと。これはジョウスの許可ももらっていた。そんな事にならないのが一番とはいえ。
 内郭から来た、もっと位の高い使用人と衛兵に俺は案内をされて、館の中へと足を踏み入れる。途端に、俺の目に広がる景色には、懐かしさを覚えて。足を前に踏み出す度に、それは更に強まってゆく。この辺りは
まだ外郭だから、そんなに歩き慣れたとは言わない。図書室に行く時に、通ったりとか。それ以外は、あんまり通る事がなかったから。けれど、内郭に至れば話は別だった。湖とも言ってしまえる程の広さの中、中央に
内郭の建物があって。そこへ繋がる一本の道が通されていて。
 ここからは、もう見慣れた景色ばかりだった。見慣れて、親しんで、歩き慣れた道。
 けれど、少しだけ振り返って、少しだけ溜め息を吐く。今の俺は、一人になってしまったんだなって。あの時俺の後ろにいつも付いてくれていた狼族が、今は居ないから。
「ごめんなさい。先を急ぎましょう」
 俺が立ち止まった事を訝しむ様に見ていた狼族の使用人に、俺は先を促して。やがては内郭へと足を踏み入れる。薄暗い内装は、銀を目立たせるためにあって。だから、この中に入れば。周りの狼族の姿は
霞む様で、けれど俺の銀は一層際立って。こんな時だというのに、俺の銀を見て笑みを浮かべる狼族の使用人は多かった。俺は、それをあまり好きではなかったのだけど。
 ガルマ下へと、案内される。あの日。ハゼンが、凶行に及んだあの日の事が、思い出されてしまう。吐き気を堪えた。今堪えないと、ガルマの部屋に辿り着いたらどうなるかわかったものじゃなかった。あそこでハゼンは
死んだのだから。
 ガルマの部屋の前まで辿り着くと、俺はそこでしばし待たされる。すぐに会えるのかは、微妙なところだ。前もって訪れる事も伝えてはいないし、クランが首尾よく俺を連れてここへ戻るにしたところで、馬車ではもっと時間が
掛かる訳で。だからガルマにしてみれば、俺の訪問は本当に突然の事だろうから。というか、一応朝早くに近くの川で身体を綺麗にしたし、服もなるたけ清潔な物を用意して身に着けていたとはいえ、それでも通常ガルマに
対する際の用意としては、かなりおざなりな状態だ。怒られないだろうかと思う。真冬の川は冷たかった。ガーデルが魔法ですぐに温めてくれたけれど。
 待たされている間に、俺は軽い身体検査を受けて。持っていた銀のナイフを一時的に取り上げられる。それ以外は大丈夫な様だった。
「お待たせいたしました、ゼオロ様。ガルマ様が、すぐにお会いになると」
 けれど、意外にも俺の訪問は、ガルマに快く受け入れられた様だった。てっきり明日まで待つ様にとか、そのぐらいは覚悟していたのだけど。そうなったらガーデルには一度、外で野宿でもしてもらわないといけないから、
ちょっと申し訳ないなと思っていたのに。
 案内されるがまま、ガルマの部屋へと足を踏み入れようとして。俺は、俺を見つめる狼族の者達の視線に気づいた。さっきまでの、俺を見て微笑んでいた表情はどこにもなくて。今はただ、悲しそうに俺を見ていた。その
理由もわからずに、俺は開いた扉に身を滑り込ませて、扉を閉める。
 中は、薄暗かった。それも、いつかの時と同じだった。俺が来ると知っているのだから、明かりぐらいと思ったけれど。この部屋の持ち主が、それを嫌ったのかも知れない。けれど、それが今はありがたかった。あと数歩前に
歩きだせば。あの時、ハゼンが倒れた場所だって。そんな事はとっくにわかっていたから、薄暗い部屋は、あの時をそのまま思い出してしまいそうでもあったけれど。
「ガルマ様。ゼオロです。ただいま参上しました」
 暗闇に言葉を投げかける。そうすると、ふっと、俺の目の前に小さな青の炎が生まれる。
「ゼオロか。ようやく、来てくれたのだな。私の下に」
 暗がりから、声が聞こえる。聞き慣れたという程ではないけれど、知っているガルマの声。けれど、声一つとっても、それは以前の時よりも更に弱々しい響きを帯びていた。
 炎が揺れる。それが俺を導くかの様に、少しずつ移動を始めて。俺もそれに続く。
 やがて、豪華なベッドへと辿り着く。その上には横たわる狼族の、そして銀狼の男が居た。それを見て、俺は息を呑む。毛布からはみ出た部分と、今は俺に伸ばされている腕が、おぼろげな俺の記憶の中のガルマよりも、
更に細くなっていて。
「ずっと、待っていたぞ」
 そう言って、俺を見て微笑む狼族の族長であるガルマ・ギルスの顔は。かつての様な凄みかどこにも感じられない、老人のそれの様になっていた。

 横になったままのガルマを、俺は見下ろしていた。自分の目と、そして記憶を疑ってしまう程に、その姿はあまりにも衰えていて、俺は何度も唾を呑み込む。
 ガルマは、俺の態度を見ても特に機嫌を損ねた様子も見せなかった。それが今は、辛く思える。きっと、俺以外の、外に待っている人達の反応も同じ物なのだろうな。
「すまないな。こんな恰好で、お前を迎えてしまって」
「いいえ。私こそ、たった今到着したばかりで、少々ガルマ様の御前に立つには、整った状態とは言えませんが」
「良い。私は、それよりも。お前の顔をすぐに見たかった」
「クランから、事情は聞きました。お身体の具合が悪いと」
「ああ。それにしても、随分早く来てくれたのかな。クランが前にここを出て、どれくらい経ったのか。私はこうしているので、その辺りが今はよくわからんのでな」
 それを聞いて、俺は今のガルマにどう説明をして良いのか迷ったけれど、仕方なくありのままを伝える。どの道、ガーデルの事を完全に伏せたままという訳にもいかなかったから。俺が説明をしている間、ガルマは静かに
頷くだけで。ガーデルの事を口にしても、その表情に変化は見られなかった。その辺りは、流石に族長なのだろうな。こんな姿になっても、最低限の情報は耳に入れている様だった。
「そうか。ガーデルか。あれが、今はラヴーワの味方になったか。……とても、口惜しい物だ」
「口実を、失くされましたか」
「そうだな。兄の敵と、あれに向かう訳にもゆかぬ。まあ、どの道この身体では、何もできんがな」
「そこまで、悪いのですか」
「気力の問題かな。別に、どこかが苦しいとか。痛みを感じるとか。そういう事ではないのだ。ただ、あまり物を食べられん。少し食べると、もう良いと。そんな気分になってしまう。周りからは、とにかく栄養を付ける様にと、
散々に言われてしまっているがな。それも、今の時勢を考えれば致し方ないが」
「クランが、次期族長に決まった。だから、ガルマ様の養子にもなった。私はその様に聞きましたが」
「その通りだ。あれは、まだ若いというのに。随分としっかりしているだろう」
「少し刺々しすぎると思いますがね。人が変わってしまった」
「お前が、出ていってしまったからな。私も、そしてクラントゥースも。本当は、お前に族長になってほしかった。いや、それも少し違うが。ただ、お前に。傍に居てほしかったのだろうな」
 傍に居てほしかった。そう言われれば、クランの気持ちもわかる気がした。
「あれは、あの時。自分が不甲斐無いから、お前に何もできなかったと。そう悔やんでいた様だ。あれからまだ一年も経っておらんし、そもそもあんなに幼いというのに、その思いだけで今はああして振る舞っている。
魔導の才にも恵まれているし、まだ若いが、私が助けてやれば充分に狼族の族長としてはやっていけるだろう。もっとも、実際に族長ともなれば。ギルスの血の薄い銀狼と、さぞ苦しむ事になろうが」
 ガルマが面白そうに笑う。陰険だと思う。それを俺は、目を細めて見つめる。
「酷い事を言われるのですね」
「しかし、私の判断は間違ってはいない。他の銀狼よりも、クラントゥースの方が族長には適任と見た。お前を除けばな」
「だから私を、ここにお呼びになったのですか。ガルマ様の用件とは、その事なのですか」
「族長になれ。ゼオロ」
 微笑みを消して、ガルマが真顔に戻るとまっすぐに俺を見つめてくる。その顔も、今は痩せて見えた。首周りも細く感じる。被毛があるから、痩せ細った人間の様なみすぼらしさは無くても、その毛並みも、流石にこんな
状況では幾分衰えた様に見えた。怪しげなガルマの炎に照らされているから、まだ良かったけれど。陽の下に出れば、やっぱり以前の様にはいかないのかも知れない。
「クラントゥースが苦しむのは、嫌だろう。お前が族長になれば良い。そうすれば、悪く言う者などはおらん」
「それは」
 そうだけど。俺が異世界人という事実を除けば。戸惑う俺に、ガルマが腕を上げてゆっくりと伸ばしてくる。細い手だった。以前ならば筋肉に覆われていた部分が、露骨に細くなって。ともすれば、今はか弱いとさえ
思える程で。身体が細い俺と、良い勝負ができそうなくらいだった。体格は随分と違うけれど。
 それでも、ガルマの動きが俺の目で追えたのはそこまでだった。突然に、ガルマは動きを速めて俺の腕を掴むと、引く。逆らう事もできずに、ベッドの中へと引きずり込まれて。気が付けば、俺の上にガルマが跨って
いた。その頃には、掛けていた毛布もずり落ちて。ガルマの姿を露わにする。服の合間から覗く身体は、やっぱりかなり肉が落ちていた。
「捕まえたぞ。ようやく、お前を」
 俺の様子とは裏腹に、ガルマは子供の様にはしゃいで。その後ろから、尻尾が波打ってベッドを叩く音が聞こえる。
「お前は、私を前にするとのらりくらりとかわしては、すぐに逃げてしまうからな。今日こそ、お前を私の物にしてやろう」
「ふざけるのは、止めていただきたいのですが。ガルマ様」
「連れない事を言う。私が一体、お前を何度この寝所に誘ったと思っているのだ。だのにお前は、それを無碍にして。そうして最後には、このファウナックからも出ていってしまった。今でもあの時、お前を行かせてしまった事を、
私は後悔している。お前の苦しみを酌んだのは、間違いだった。そのせいで、自分がこんなにも苦しむ破目になると、私は思っていなかった。こんな事ならば、やはりお前を族長候補などではなく、小姓の一人としてでも
召し出してやるべきだったかな」
 ガルマの身体が、少し下りてきて。俺はそれを遠ざけるために手を伸ばして、その身体に触れて。気づいてしまう。身体に触れれば、被毛でわからなかった浮き出た肋骨が、はっきりと掌に当たる事に。
「お身体が悪いのですから、そんな無理はお止めください」
「お前まで、そんな事を言うのか。ならば、教えてやろうか。年の功をという物を。嫌がるお前が、積極的に私を求める様になる程に。お前を淫らにしてやる事など、私にはあまりにも容易いのだからな」
「退いてください。あなた様に腹上死されて、暗殺しただなんて騒がれたくありません」
「その時は。好きな様に言い逃れれば良い。ギルスの直系であり、また族長でもある私の精をお前がその身に受ける。そう言えば、なんとでもなるのではないかな。お前が族長になる口実にも使えそうだ」
 なんだその不条理は。犯された上で族長不可避とは。
「いい加減にしてください。あなた様を心配して、ここに来たのに。そんな事を仰るのなら、私はもう帰ります。あなた様が思っていたより元気なのは、わかりましたから」
 大分別の意味で元気な事を知ってしまった気がするけれど。ガルマの用件がそれならばと、俺はその下から逃れようとする。そうすると、また腕を掴まれる。ただ、ガルマはもう落ち着きを取り戻して。それから俺を
じっと見つめているだけだった。
「本当に、お前は美しい銀狼だな。私とそれ程の違いもない。とても、不思議だ。お前は直系の血筋ではないはずなのだが」
 突然にそんな事を言う物だから、俺はしばし固まって。けれど、それに少し頷いてから、口を開ける。別の話題に移れるのならば、それで良かったし。
「私も、そう思っています。私にもわかりませんが」
「お前は、両親などは居ないのか」
「知りません。私は何も」
 この姿の両親は知らない。それは、確かだった。そもそも赤ちゃんの時期が無かった訳だし。
「ゼオロ。お前に、頼みがある」
「頼みはもう聞きました。それから、お断りします」
「そうではない。そうではないのだ」
 また族長になれの繰り返しかと思ったけれど。俺がそう言うと、ガルマは何度も首を振る。それに、今までとは様子の違いを感じて。それから、ゆっくりとガルマが起き上がる。それに続いて俺も起き上がると、そのまま
ベッドの上で互いに座ったまま向かい合う。
「何か。他に用事があるのですね。だから、クランを使いに出した」
「ああ、そうだ」
「……なら、本題に入ってください。これ以上からかわれる様なら、本当に帰りますよ。ガーデル様にも、あまり時間は掛けないと言ってしまいましたし」
 ガルマは一部目を瞑って、それから何度か呼吸を繰り返す。しばらくしてから開いた目には、以前の様な光が灯っていた。今だけは、老人の様な、という気配は感じられない。けれど、その被毛は別だった。ガルマが
意識して、明かり取りのための炎を増やすと。ガルマの身体が更に照らされて、その様子が俺にもよくわかる様になる。ガルマの身体の銀は、今は色が落ちたかの様に、白かった。銀というよりも、白に近い様な。
「無様な物だろう。私の銀も、もうこの有様だ」
 俺の視線に気づいたのか、苦笑してガルマが言う。
「それでも。あなた様が一番であるのには、変わらないと思いますがね」
「いいや。今は、お前が一番だ。お前の銀こそが、ギルスの血が濃い事の照明であるかの様だ」
「その話をするのなら、帰りますよ」
「待てというに。……お前の銀が、必要なのだ。お前ならば、もしやと。そう思って、私はお前を呼び出した。これは、私の口からクラントゥースには伝えられなかった。あれはお前に族長になってほしいとは思っているものの、
次期族長に選ばれた事にも、それなりの自負を持っているからな。だから、クラントゥースにも内緒にして。ただお前を連れる様にと、その様に言い渡したのだ」
「私の銀、ですか。どうして、今それが必要なのですか」
「カーナス台地を、知っているな」
 突然に出たその言葉に、俺はしばし言葉を失いながら。けれど、頷いた。
「以前、お話してくださいましたね。世界の中心……いえ、この涙の跡地の、中心に位置する所だと」
「そうだ。そして、多くの銀狼と狼族が死に、死してなお浮かばれぬ彼らの魂が跋扈し、呪われた地と恐れられる場所だ。カーナスは」
「それが、どうかしたのですか」
 カーナス台地の説明を受けても、それは今更な事で。それが何故今ここで、ガルマの口から出てくるのかと。俺は首を傾げる。俺がそうしていると、ガルマが少しだけ口元を緩める。
「彼の地を。彼の地に眠る狼族達の魂を、安らがせたい。そのために、お前の力を貸してほしい」
「そんな事が、可能なのですか」
「わからない」
 わからないって。俺が呆れた顔を向けると、ガルマもそれは当然の事だと言いたげに頷いてから、僅かに呼吸を整えて。それから少しだけ居住まいを正す。
「先に。今、私がカーナス台地の呪いをどうこうしようと言い出すのは、良い事とは言えまい。それは彼の地が、呪われた地だという事を除けば、世界の中心に位置する場所であるからだ。つまり、ラヴーワとランデュスが休戦を
終え、そうしてぶつかろうとしている正に今。彼の地が呪いから解き放たれるという事は、互いの国に向かう新たな道を拓く事になってしまう。だから、もしかしたら。私のこの声は、ジョウス・スケアルガに掻き消されて
しまうかも知れない。立場上は私の方が上だが、それでもあちらは軍師ではあるのだから、いくらでも他の族長を説き伏せて、反対させる事など容易いだろうしな」
「そうでしょうね」
 実際に会ってきたから、俺はそれがよくわかる。いまから竜族とぶつかり合うという状態になって、戦場が増える、なんて事は。勿論良い事もあるだろうけれど、不都合になる事も多いだろう。個人的には、有利になる
部分の方が多いとは思うけれど。特にラヴーワには、竜族の言うところの、空兵に該当する物が存在しない。ほんの一部の翼族が、ヒュリカの命を受けて、偵察をしてくれているのが精々で。それと比べて竜族というのは、陸路
ではなく空路でもって攻められる部分がある。そのためにも、ラヴーワの進路が増える事はある程度は歓迎してもいいと思う。それに人数だけならば、ラヴーワの方が勝っているのだから。狭い一本の道で、先頭同士が
ぶつかり合う、などという展開をある程度は避けられるだろう。その場合いくら人数が多くても、戦うのは先頭だけなのだから。当然戦闘力の図抜けている竜族の方が有利になるのは明白だったし。
「その前に。ゼオロ。お前は、ジョウスの下から来たな」
「はい」
 もう、ガルマの耳にもそれは入っているのだろうから。俺は偽る事もせずに、その問いにも頷く。
「一つだけ、訊いておきたい。お前は、どちらの味方になるのだ」
「銀狼、或いは狼族と。そしてジョウス様と。という意味でしょうか」
「そうなるな」
 ガルマの顔を、俺はじっと見上げる。そうして見ていると、もうそこには、さっきまでの老いた様なガルマも、その後の子供の様なガルマも見当たらなかった。ただ、両の目で俺を睥睨して。ともすれば威圧的に、けれど俺の
考えを何もかも推し計ろうとするかの様な、聡明な顔つきがあるだけだった。そうしていると、流石にガルマは今まで狼族を率いていた族長の貫禄が出ていた。
 誤った返答をすれば。多分、ガルマはここで俺を始末しかねないなと思う。ギルスの直系に似た銀を持つ俺が、完全にジョウスの味方となる事は、ガルマにとっては当然面白い事であるはずがなかった。しかも、俺はここに
しばらくの間滞在していたのだから。俺の存在がもう少し知れ渡れば、少なくとも狼族にとっては、ガルマとジョウスを見比べて、ガルマは見限られてしまったのだと。そういう印象を与えてもおかしくはない。
「少なくとも、私はどちらかの味方になろうとは思いませんね」
「つまりは?」
「私がしたい事をします。それだけですね。目的が合えば、もしくは頷く相応の理由があるのならば。私はガルマ様のお手伝いをしながら、ジョウス様のお手伝いをする事もやぶさかではない。そういう私を、気に入らないと
仰るのなら。私はこのまま何も聞かなかった事にして帰るか、或いは大人しくあなた様の手に掛かって差し上げますが。ただ、外にはガーデル様が待っている事だけは、お忘れなきよう」
「相変わらず、可愛くない奴だな。見た目にはケチの付けようがないというのに」
「そう思うから。ガルマ様が手を伸ばされぬ様に振る舞おうと、必死なのでございますがね」
「だがそういう者をこそ躾るのも、中々に面白い」
 駄目かよ畜生。とはいえ、ガルマは一応は俺の返答に納得した様だった。
「お前が、全てにおいてジョウスの味方になる訳ではないというのならば。私はそれで構わない。……やはりお前は、お前なのだな。ハゼン・マカカルという赤狼を従えた、ゼオロに相違ない。だからこそ、お前に
頼みたかったのだが。話を戻すが、お前をここまで呼びつけ、その上でしてもらいたい事とは。ジョウスを説得し、カーナス台地の呪いを解き放つ事を、頷かせてほしいのだ」
「よく私がジョウス様の近くに居るから、というだけで。そんな大それた事を頼もうという気が起きた物ですね」
「私には、時間が無い。私は遠からず死ぬだろう。それはもう、わかっている。今更、それが嫌だとは言わぬよ」
 そう言われて。俺は途端に寂しい気持ちになる。こんな風に、死を受け入れようとしている姿を見るのは、俺にはとても辛い事だった。死にたい訳じゃなかったと思っている俺には、尚更。
「何をもって、ジョウス様を説得すればよろしいのですか」
「狼族とスケアルガの和解」
 それは。かなり、難しいのではないだろうか。異世界人の俺ですら、狼族とスケアルガの問題がそんな簡単に解消する訳ではない事を弁えているのに。まさか、とうの狼族の族長であり、また銀狼でもあるガルマの口から、
それが飛び出すなんて。
「それは、難しいのではないでしょうか」
「わかっている。何も、完全な和解とは言わぬ。ただ、ランデュスとの戦が近いというのならば。狼族はいつまでも、このままでは居られん。かといって、独立という事もな。その様な騒ぎをしている間に、ランデュスに呑まれる
のが関の山だ。それ程にランデュスの力は、竜族の力は、とてつもない。そんな事は、わかっている。わかっていながら、しかし私は今までそうはしなかった。私が狼族を率いていたからだ。そして、いずれは私の
子が……狼族を率いると信じていたからだ。しかし今は、それは叶わぬ願いである事を知っている。ならば、狼族はもはや、ラヴーワの中で孤立している状態から脱しなければならぬ」
「カーナス台地の狼族の霊を解き放つ事を、和解の足掛かりにしたいのですね」
「その通りだ。狼族が何故これ程までに誇り高いのか。それはギルスの直系を引く銀狼の存在があるからだ。しかし今、他種族との距離を取ろうとするのには、結局はカーナス台地の一件が大きい。英雄であり、また私の
兄でもあるグンサが戦死し、その供であった銀狼と狼族達も死に。あまつさえ、彼らは亡霊となって彼の地を生ある者が踏み込む事の敵わぬ地としてしまっている。狼族は、銀と亡霊に囚われてしまっている。だからこそ、
この際その二つを解消して、新たな道を歩むべき時が来たと。私はそう思う。私は、もうすぐ死ぬ。そうなればギルスの直系の血は途絶えて、少なくとも狼族は銀からは解放される。勿論、真の意味で解放されるのか
どうかは、もっと後の族長になるまではわからんが。それでも、少なくともギルスという存在からは解き放たれるだろう。しかしその時に、カーナス台地の霊が人々の心を縛るだろう。近しい者を、崇拝するグンサをその地で
亡くしたからこそ。その安らがぬ魂の存在を知って、狼族は頑なであり続けるだろう。そして、私も。私が死ねば、私の魂は飛び出して、そうしてカーナスの一部となったと。その様に言われるだろう。実際に、そうなるのかも
知れない。こればかりは死んでみないとわからんがな。だが私は、そうなりたくなどない。己が死んでからまで、後事を託した者達の足を引っ張りたくはない」
 初めて触れるガルマの本音を、俺は黙って聞いていた。今までに聞くガルマの言葉は、どちらかと言えば、自分が族長としてきちんと務められていたかとか。子を遺せない自分を責める気持ちだとか。そういう事が多かった
から。ガルマの口から、積極的にスケアルガをどう思っているのか。今の狼族はどうなのか。そういう話は、あまり語られた事はなかったし、また避けてもいたのだろう。けれど今のガルマは、その状態を変えたいと思って
いる様だった。
「私が死んでも。カーナス台地の亡霊が解き放たれても。事態は変わらぬかも知れぬ。しかし、それでも今カーナスの亡霊を解き放たなければ、彼の地は永遠に呪われたままであり。そうして、それがあり続ける限り、
狼族の心には暗い陰を落とす事になるだろう。私は、ジョウスのした事を許すつもりはない。しかし私のこの想いを。お前や、クラントゥース。これからを生きてゆく狼族達に、押し付けるつもりもない。私の想いも、銀狼を
失った悲しみも。スケアルガへの憎悪も。私は全てを、終わりにしてしまいたい。例えそれが、スケアルガを憎んでいるであろう、彼の地の亡霊達。それから、兄の心に背く事であったとしても」
「どうやって、呪いを鎮めるというのですか」
「彼の地に赴いて、話をするしかあるまい。死者との会話を。力技で払える程、弱い霊でもない。亡霊は、死した瞬間の気持ちに囚われている。だからこそその言葉を聞いて、悲しみを受け止めてやれば、彼らは安らぎも
するし、また消滅する事もできるのだ。しかし呪いがある以上、それは他種族では成し得ない。それができるのは、その霊が、自分に近づかれる事を頷く相手でなくてはならない。普通の狼族では駄目だ。狼族が
彼の地を探った事はあるが、受け入れられなかったという。だが、銀狼ならば。だから、今カーナス台地の亡霊を解き放つ事ができるのは。私と……そして、ゼオロ。お前だけしかもう居ないのだ」
「ちょっと待ってください」
 動揺して、俺は思わずガルマの言葉を遮ってしまう。
「私は、ギルスの直系ではありません。遠縁です」
 遠縁かどうかも、実は怪しいけれど。しかしどちらにしても同じだった。俺では、その役目は全うできないだろう。戸惑う俺の様子を見ながら、しかしガルマは微笑んで静かに首を振る。
「お前ならできるはずだ。ゼオロ。……私が行けと、そう思っているな? すまないが、私にはもう長旅をどうにか果たす力も残っていない。動かずで良いならば、魔導などは行使できるが。到底、彼の地まで足を運ぶには
及ばない。また族長である私が、その様にカーナスへ向かう事は、きっと皆には許してもらえないであろうし。ランデュスの方でも黙ってはおられんのやも知れぬ。だからこそ、お前なのだ。私はお前の持つ銀が、遠縁の
物だなどとは、一度も思った事はない。真に、私の持つ物と同じ……いや、それ以上の銀だと思っているよ。お前ならば彼の地に赴いても、狼族の魂から襲われる様な事はあるまい。兄も……恐らくは、認めてくれるはずだ」
「ですが」
「頼む。ゼオロ」
 ゆっくりとした仕草で、ガルマがその場で頭を下げる。思わず固まってしまう。狼族の族長である、誇り高い銀狼のガルマが、俺に頭を下げるなんて事が信じられなくて。
「顔を上げてください」
「もはや、お前にしか頼れぬ。いや、他の者では絶対に成し得ぬ事なのだ。私は次にまた、お前の様な存在がどこからか突然に都合良く現れる事があるなどと、なんの根拠もなく思ったりはしない。今しかないのだ。今を
おいて、もはや彼の地から亡霊を解き放つ時は無い。今以外をもって、その時ではない。どうか、彼の地へ赴いて。狼族を。そして、グンサを。もう休ませてやってはくれぬか。二十年以上にも渡って、苦しんでいる同胞の魂を」
「私に、できるのでしょうか」
 できるのならば。俺が、それを成し得るのならば。そうしたいとは俺も思う。狼族の抱えている物が少しでも軽くなって、ギルス領から外へと出ない狼族が他種族と仲良くなれるのなら。俺とクロイスが一緒に居ても、
嫌な顔をされない様になるのなら。俺だってそうしたい。けれど俺は本当には、銀狼ですらないかも知れないのに。そんな俺に、できるのだろうか。
「無理なら私も諦める。お前以外には、どの道誰にも任せられぬ事なのだからな。ゼオロ。どうか、私の最後の願いと思って。聞き入れてはもらえないだろうか」
 静かに頭を上げて、ガルマは懇願する様に俺に言う。散々考え込んでから、けれど結局自分がカーナス台地に眠る狼族達に受け入れられるかは、そこに行ってみなければわからないのだから。その内に、俺は渋々と頷く。
「わかりました。私に、できるのならば」
「頼まれてくれるか」
「ですが。本当に、呪いを解く事はできないかも知れませんよ」
「それは、仕方がない事だ。お前の立場を考えれば、お前がカーナスに踏み入る事ができない方が、良いのかも知れないが」
 僅かに、ガルマがばつが悪そうに呟く。その意味は、今の俺にもわかる。だって、ガルマはクランなどには、この事を頼まないのだから。それはつまり、真の銀と他者から賞賛される様に。カーナス台地に足を踏み入れる事が
できるのは、ガルマだけ。唯一残った、ギルスの直系であるガルマだけなのだから。それ以外に直系の血を引く銀狼は、ガルマよりももっと老いていてその代わりにはならない。けれどこの世界に唐突に現れて、しかも
ガルマと肩を並べる程の銀を持つ俺がカーナスへ赴いて。そしてもし、そこで亡霊に受け入れられて、それだけでなく呪いを解き放ってしまったら。俺はガルマだけでなく、グンサにも認められた銀狼という事になる。そうなれば
もはや俺という存在は、途絶えるはずだったギルスの血を絶えさすまいと遣わされた奇跡の存在だとか。そんな風に扱われる事は目に見えていた。ギルス領の、銀狼を崇拝する心を目の当たりにすれば、俺にもそれは
想像できる。
「そうなれば。もはやお前が狼族の族長にならぬ、などという事は。誰も納得せんだろうな」
 そこまでわかっていて。それでもガルマは、今しかないと。俺にそれを頼むんだな。ちょっと、溜め息を吐きたくなる。
「……わかりましたよ。引き受けます。そちらについては、私にも考えがありますから。では、そういう事でしたら。私はすぐにでも、戻ります」
 用件は済んだと、立ち上がろうとすると。ガルマの腕が伸びて、俺を抱き締めてくる。こうして抱き締められると、やっぱりガルマのその身体が痩せ細ってきているのがわかる。
「少しは、食べた方がよろしいですよ。私も、そんなに食べる方ではありませんけど」
「すまない。面倒事ばかり、押し付けて」
「いいえ。狼族の問題は、私もどうにかしたいと思っていました。私にしかできない事があるのなら、やってみましょう。どうなるのかは、わかりませんが」
 一層、カーナスの亡霊に追い返されてしまえばそれはそれで都合が良い。やはり見た目がどれだけ美しい銀でも、認められる物ではなかったと。そう言い訳もできるし。
 そっと伸ばした手で、ガルマの背を軽くあやす様に軽く叩く。そうして抱かれていると、なんだか酷くガルマの腕の中は落ち着く事に俺は気づく。同じ銀狼だからだろうか。本当は、同じじゃないかも知れないけれど。
「そうだ。これ、お返しします。ありがとうございました」
 しばらくしてから、そっと離れて。それから俺は懐に手を突っ込んで、銀のエンブレムを差し出す。それを見てガルマは顔を顰めた。
「もう、使わぬのか。役には立たなかったのか?」
「いいえ。とても役に立ちましたよ。ジョウス様を脅すのに、使いましたから」
 それを聞くと、ガルマはしばらく固まってから不意に噴き出して、そのまま腹を抱えて笑う。一頻り笑ってから、目に浮かんでいた涙を払うと、また抱き締められる。あんまりやらないで欲しい。ガルマ自体は、俺の事を
狙っているから、ちょっと怖いけれど、このもふもふした感じは一級品なので。それから、笑ったまま俺の差し出したエンブレムを手に取ってくれる。金の方は持ったままでも良いかと訊ねると、それにも頷いてくれた。
「まさか、私の与えた物を。事もあろうにジョウスを脅すのに使うとはな。いや、痛快だな」
「怒らないのですか」
「まさか。ああ、それが聞けただけで。なんだかもう、私からジョウスへの怨みなんぞは、晴れてしまったな。立場を考えて強く出る事もできなかったというのに。お前はまた、そんな事をしてしまうのだな。ああ、本当に
面白い。だからこそ、お前に族長を。もしくはなんでもいいから、傍に置いてお前を見ていたくなるのだが。そうか、行ってしまうのか、お前は」
「待たせている人が居ますから。クロイスという、恋人が」
「なんとまあ。それは、ジョウスの息子の小僧じゃないか。これは、ジョウスも怖い者を懐に入れてしまったのだな。あいつが呆気に取られているところを、この目で見たかった物だ。それで、その小僧はどうなのだ」
「良い人ですよ。竜族とも、和平を結びたいと考えられる様な。そんな人です」
「なるほど。確かに、赤狼も従えさせたお前とは馬が合うのやも知れんな。それにしても、お前も、そのクロイスとかいう小僧も。随分困難な道を選ぶ物だな」
 ガルマのその反応を見て、なんとなく俺は嬉しくなる。狼族を束ねるはずの男が、俺がクロイスとの関係を持っていると知っても、特に嫌がる素振りも見せずに話してくれていたから。ガルマにとっては、それ程までに
スケアルガを憎む事よりも、族長としての責任の方が大きかったのだろうな。
「では、ゼオロよ。部屋を出たら、少し待っていてくれぬか。ジョウス宛ての手紙を私が用意する」
「わかりました。……クランには、どの様に伝えるべきでしょうか?」
「知りたいと言うのならば、知らせて構わん。あれはあれで、中々に自尊心が強いからな。だが、カーナスには伴わぬ方が良いだろう。あれは多分、お前に付いてゆくと言うだろうがな」
「では、その様に」
 ゆっくりと、ガルマから離れようとする。そうして離れてから、ガルマはまた俺の事をまじまじと見つめて。それから、ほんの少しだけ口元を緩めて。
「それにしても。お前は随分変わったな。いや、それが本来のお前なのかも知れないが。あの時は。ここを出ていった時のお前は。本当に、今にも砕け散ってしまいそうに儚げで。だから私も、無理に引き留める事も
できなかった。あれから、まだそれ程に時が経った訳ではないというのに。もう、お前は立ち直ってしまったのだな。あの時お前を見送った私は、然程変わる事もできずに。こうして、ここで、くたびれてしまったというのに。
それ程に、お前は誰かに恵まれていたのかな」
「確かに。私は人には、恵まれたとは思いますが。沢山の人が助けてくれて。そうして、誰か一人の手が足りなくても。きっと私は、ここで。こうしてはいられなかったでしょう」
 本音だった。ミサナトに現れたその時から、この街に来て。この街を出て。ミサナトに戻って。そこから、今度は追われて。いつだって、誰かが手を差し出してくれていた事しか、憶えていない。
「だから私は、お前がほしいのかも知れない。お前がそんな事は望んでいないのだと、そうわかっていても。お前に誰かが居てくれた様に。私に、お前が居てくれたらと。そう思って」
「申し訳ございません。今は、そういう訳にはゆきません。私はまだ、色んな人に受けた分の物を返しておりませんので」
「だから。私の頼みも引き受けてくれたのか」
「そういう部分はありますが、それ以外の部分もありますね」
「そうか。どちらかと言えば。私はお前に、借りを作ってばかりだが」
「そうお思いになるのなら。次に私が来る時まで、生きていてください」
「お前がそうしてくれると言うのなら。善処してみよう」
 ベッドから抜け出して、ガルマの方を向いて一礼してから。俺は部屋の外へと出ようとする。ガーデルが痺れを切らしていないといいけれど。
「ゼオロ」
 扉の取っ手に手を掛けた瞬間に、名前を呼ばれて。振り返る。ベッドの上で座っていたと思っていたガルマが、いつの間にか立ち上がって。ゆっくりと俺の方へと歩いてくる。その足取りは覚束なくて。やっぱり、さっきまでの
明るさも何も、もはや繕われたそれでしかない事が如実に伝わってきて。それが、辛く感じる。
「無理をなさらないでください」
「いいや。どうせ、ジョウスへの手紙を認めなければならんからな」
 ガルマが歩く度に、その周りに青白い炎が舞って。その数がどんどん増えて、やがては部屋全体が見える様になる。ガルマから、目を逸らさなかった。逸らしたら。ずっと自分の目で見たくなかった場所を見てしまいそう
だったから。
「どうして。お前はそんなに、強くなれるのだ」
 考えていると、ガルマからそんな事を言われる。それを聞いて、俺は首を傾げる。
「私のどこを見て。強いだなんて思えるのですか。相変わらず、武器もまともに扱えませんが」
「そういう話ではない。さっきも、言っただろう。傍に誰かが居てくれたとしても。そう容易く、立ち直れる物ではない。それでもお前が今、そんな風に精力的に動けるのは。お前自身の強さだと、そう思うが」
 そうなんだろうか。俺は相変わらず、なんにも変わってないと思うけれど。泣くのを堪える事もしないし、嫌だと思う事はしないし。ただ誰かが居て、俺を励ましてくれたから。俺はここまで来られたのだと。そう思うのだけど。
 それでも。ガルマが言う様な部分が、俺にあるのだとしたら。それは。
「自分の命を。自分が一番使いたいと思える事に、使えているからではないでしょうか」
「自分の命を、か」
「はい」
 相変わらず泣いてはいるけれど、けれど、誰かの前で泣く事ができる様になった。人間だった頃は、精々人前で泣くとしたら、タカヤの前で、どうしても堪えきれない時とか。その程度だっただろう。でも今は、
そうじゃなくて。例えばクロイスの前では自然に泣いたりできるし。クロイスが泣いても、それは同じだっただろう。俺が辛い時は、クロイスが助けてくれて。だからクロイスが辛い時は、俺が助けたくて。それから、クロイス
じゃなくても。俺が辛い時に、色んな人が助けてくれたから。だからやっぱり、俺も何かしてみたくなって。何ができるのかも、わからないけれど。それでも何かしたくて。
 誰だって、辛い時は泣いたりしたいはずなのに。そんな事をするのは未熟だと。男らしくないと。言われてばかりだったけれど。ここでは、そんな事もなかったから。だから、誰かの前で泣く事もできる。
「だから、私にできる事をします。ガルマ様の頼みも。それに、これは確かに、私以外には任せられない事でしょうから」
 もう一度、軽く頭を下げて。俺はガルマの部屋を後にする。とはいえ、ガルマも用事があるのだから一緒に出てくるけれど。俺とガルマが部屋から出ると、使用人達が大騒ぎをはじめる。ガルマ様が部屋から出てきたと、
大慌てしている。引き篭もりだったのか。というよりは、起き上がる気力が無かったのだろうけれど。ガルマもそれを聞いて苦笑いをしながら、俺を待たせまいとすぐに姿を消してしまう。
 そのまま俺は、近くの使用人に館の入口で待っていると伝えると。内郭から外郭へ、外郭から外へと出る。そこで、ガーデルが待っていた。細かい話をガーデルに話して、少し待つ必要があると伝える。
「ごめんなさい。少し、用事があるので外しても大丈夫ですか」
「俺は構わんが」
「すぐ戻りますから」
 申し訳なく思いながらもガーデルに留守番を頼んで、俺は最初にガーデルが降り立った庭へと向かい、更にその奥へと向かう。そちらは、然程規模の大きくない墓地だった。広大なガルマの館の一角に設けられたそこには、
人影も今は無い。ここに埋葬されるのは、ギルスの血筋を継ぐ者と。それから、館に詰める使用人の内、遺体の引き取り先がなかったり、もしくは死した後もここに居たいのだと、熱い忠誠を誓う様な者が埋葬される
くらいなので、それ程利用者が居る訳ではないのだった。
 いくつも建てられた墓の前を、通り過ぎて。そうして俺は、目当ての場所を見つける。その辺りは、使用人などの身分の低い人達の場で。だから墓石として上に置かれている物も、質素な、眠っている人の名前が
刻まれているだけの、豪華さとは無縁の物ばかりだった。銀狼が眠っている墓石とは、こんな所でも扱いが違っていて。
 でも、俺にはそんな事はどうでも良かった。真新しい墓の中、見間違えるはずもないその場所へ辿り着くと、俺は墓の前で座り込む。墓石に刻まれたその名前を見て、軽く一息吐く。
「もう、戻らないって。そう決めたのにね。ただいま、ハゼン」
 ハゼン・マカカルと刻まれた墓石を見て俺は呟く。同時に、戻ってきてしまったんだなって、今更の様に感じる。そうしてから、墓石の前に備えられている枯れた花束を見つける。クランが供えてくれたのかな。周りを
見てみると、今は人影が居ないけれど、それぞれにきちんと花が添えられていて。けれど、そっちの方の花は綺麗なままの物が多かった。それは当たり前の事なのだけど。この墓の隣に眠っているのも、使用人や
衛兵で。それはあの日、ハゼンがガルマの部屋に入るために殺してしまった人達なのだから。周りの墓に花を添えてくれる人にとっては、ハゼンの墓がここにある事が納得できないと思う人も、多いのだろう。それは
責められないけれど。
 もう一度、辺りを見渡して。墓地にひっそりと咲いた小さな花を見つけて、俺はそれを少しだけ拝借して墓に沿える。使用人にでも頼めば、豪華な花を用意してもらえるだろう。でも、きっと、嫌な顔をされる。嫌な顔は
見せなくても、内心は穏やかじゃないだろう。彼らにとっては。そんな人達が用意してくれた花を、供える気にもならなかった。だからここには、俺が自分で摘んだ花を置ければそれで良かった。名前も知らない花だったけれど。
 墓石をじっと見つめて。けれど、俺にはそれ以上の事は何もできなかった。ここを出ていた間の事とか、ぽつぽつと口にしたら、恰好でも付くのかなって。そう思っていたけれど。いざそれを目の前にしてみると。そんな
気分じゃなくなる。この墓石の下に埋められた棺の中に、ハゼンは眠っていて。そしてもう、時間が経ったから。その身体はもう、とっくに腐っていて。だからもう、俺が大好きだったハゼンではなくて。
 ただ。死んでしまったら。それで全部が、終わりなんだなって。それが伝わってくるだけだった。死んでも伝わる物があるとか。何かが残るんだとか。そんな事もない。死んだ相手のために、立派な墓を建てるだとか。そんな物は
全部、切なくなるくらいに。ただ残された自分達が、死んでしまった相手に、少しでも何かをしてあげたのだと。そう錯覚していたいだけなんだって。それがわかってしまう。こんな形で、わかりたくなかった。こんな形でなんて。
 結局、ハゼンには何も言えなかったなって思う。俺が異世界人だという事すら、伝えられなかった。伝えたら、怒っただろうか。死んでしまったハゼンと、話ができたら良かったのに。俺が異世界人だった事も、そうして
やってきたせいで、もしかしたらハゼンの死期が早まったのかも知れない事も。全部話して。それから、なんて言うのか知りたかった。ここで何も口にできないのは、何を口にしても、俺に向けた返事が無いからだった。
 薄っすらと浮かんできた涙が、俺の頬を伝う。あの時とは、違うなって思う。あの時は、もっと泣いていた。居なくなってほしくなくて。一人にしてほしくなくて。悲しい事よりも、離れてしまう事が嫌で。昨日までの関係が、
その日限りで。明日からは違う生き方をしなければならない事が、嫌で。けれど今は、ただ悲しかった。ハゼンが居ない事も。あんなに悲しんでいた癖に、いつの間にかまた元気になって、暢気に生きている自分も、
ただ悲しかった。ずっと沈んで、ずっと思っていられたら良かったのに。そんな事はなくて、どんどん思い出さなくなって。どんどん、忘れてしまうんだなって。大好きだったハゼンの声も、仕草も、匂いも。少しずつ遠退いて
いる事を、俺は知っていて。最近では、クロイスと一緒に居て、幸せだなんて思って。
 俺だけが、幸せになってしまって。
「ごめんね」
 一つだけ、そう呟いた。それから、俺が異世界人としてやってくるのが、もっと早ければ良かったなって思う。以前の俺だったら、自分がこの世界に来なければって思っていたけれど。でも、ここではそうじゃなかった。もっと
早く、俺がこの世界に来られたら。もっと早く、ハゼンと出会えていたら良かったのにって。そう思う。そうしたら、ハゼンの弟を助けるのは難しかったかも知れないけれど。ハゼンが銀狼に手を掛けるよりも先に、その手を
止めさせる事ができたのかも知れないって。だからといって、実際にそうなったとしても。若く、復讐に駆られたハゼンが俺の言葉を聞いてくれたのかは、わからないけれど。もしかしたら、その時こそ俺はハゼンに殺されて
しまうのかも知れないけれど。もしくは、もっと後だったら。そうしたら、今度はハゼンと会う事もなかっただろうから。あんなに一緒に居て、あんなに大好きになってしまったのに。なんにもできずに終わる事も、なかった
だろうから。もし何もかもがやり直せて、そうしてこの世界に現れる時間すら、変えられるのなら。俺はやっぱり、そうしたいなって。そう思ってしまう。そうしたら、クロイスとも会えなくなってしまったかも知れないけれど。
 ハゼンと、幸せになりたかったと思う。ハゼンに、幸せになってほしかったと思う。ハゼンの事を、恋人とか、そういう意味で好きだった訳じゃない。ハゼンもきっと、そうだったと思うし。そうじゃなくて。そうじゃなくて、ただ、
あの日に交わしたきりの約束が、ただ叶って。色んな場所を見て。辛い目に遭ってしまったハゼンを、少しでも元気付けたかったって。そう思う。俺も、恵まれた方じゃなかったけれど。人間だった頃も含めて。そうだった
けれど。それでも今は、幸せだったから。誰かに必要とされて、その人のために何かしたいって思えて。この世界の事を知れば知る程に、そんな人が増えていって。だから、さっきまで会っていたガルマにも、元気に
なったと言われるぐらいになれて。幸せだったから。俺だけが一人。幸せに、なってしまったから。
 懐から、金のエンブレムと、それから返してもらった銀のナイフを取り出して。それを抱き締める。零れた涙が、抱えたそれに降りかかる。話がしたいなって、そう思う。そんな事すら、叶いもしないけれど。亡霊が
居るのなら、出てきてくれればいいのに。亡霊でも、なんでもいいから出てきて。忘れかけている俺の頭に、今度はもう、忘れない様に。しっかりと教えてほしいのに。
 けれど、それだけだった。何かが出てくる事も、誰かが声を掛けてくる事もないまま。その内に俺の涙も止まる。冷たく、なってしまったのかな。あの時は一日中泣いて。それが何日も続いていたのに。
 涙を拭って、ゆっくりと立ち上がる。口を開けて、何かを言おうとして。けれどやっぱり、余計な言葉は何一つ出てこなかった。だから、精一杯笑顔を向けてから、踵を返して。
 墓地から戻って、庭に辿り着く頃には。俺はもう、いつもの様に振る舞っていられた。

 俺がガーデルの下へと戻ると、その傍には怯えきった狼族の姿があって。それがガルマの使いである事を察した俺は、慌ててその対応に追われる。差し出されたジョウス宛ての手紙を受け取ると、礼を言ってから、すぐに
ガーデルに頼んでまた庭から空へと飛び立つ。
「休まなくとも良かったのか。それにガルマも、体調が良くないと聞いたが。心配だろう」
「いいんです。用件を済ませてからで」
 本当は、ガルマの事も気にならない訳ではなかったけれど。かといってガーデルをいつまでもファウナックに置いておく訳にもいかなかった。ガルマの館に居る人達は、どうにか俺の説得と。ガルマからもある程度の指示が
出されたのか、ガーデルを怯えた目で見ているだけで済んだけれど。街の人達はそうじゃない。空から飛来した俺とガーデルの姿を目撃した人は当然居て。俺が戻った時には、館の閉ざされた門の向こうから、心配する様な
ざわめきが起こっていたから。そして俺がガーデルに抱えられて飛び立った瞬間には、また騒ぎがあって。これ以上ガーデルを留まらせる方が俺には心配だった。もっとも、危害を加えられるとか、そんな心配をしていた訳では
ないのだけど。
 一日すら留まる事もなく、ファウナックを飛び出したから、すぐに陽は暮れて。結局今日も野宿になる。他種族の領地ならまだしも、このギルス領の中でガーデルを連れて足を踏み入れる事のできる街など、どこにも
なかった。ガーデルが味方になったという噂は、充分に広まっているだろうけれど。狼族にとってガーデルは、やっぱりカーナス台地の事が尾を引いているのだから。あれで一番に狼族から嫌われたのは、間違いなく
スケアルガと、それを擁護する猫族だろうけれど、かといって実際に息の根を止めた竜族が嫌われていない訳ではない。ガルマの様な理性的な反応を示してくれる方が、珍しいだろう。寧ろ、ガルマは静かに俺の話を
聞きすぎたくらいだった。グンサ・ギルスはガルマにとっては実の兄なのだし、その点で考えれば、ガーデルを兄の敵と見做してもっと喚いても、不思議ではないのに。
「それすら、今は不問とする程に。ガルマは弱っているのかな」
 焚火を囲んで、俺はガーデルにガルマとの会話を伝える。ガーデルは知りたそうな素振りは微塵も見せなかったけれど、俺が話せば丁寧にそれを聞いて、また的確な助言もしてくれた。
「多分。今は、何よりもカーナス台地の亡霊を解放する事を望んでいるのやも知れません」
「カーナス台地の亡霊か。また、厄介な事を押し付けられた物だな」
「呪いというのは、それ程に強力な物なのでしょうか?」
 俺が訊ねると、ガーデルは頷いてくれる。呪いと一言で言われても、俺にはそれがよくわからない。いや、呼び名としてはとてもありきたりな物であるし、それこそ人間だった頃ですら、呪ってやるだのなんだの、誰の口から
でもともすれば聞こえてきそうな言葉ではあるのだけど。でも、それが実際に効力を持つとなると、これはわからない。以前、ミサナトに居た時に爬族の薬師であるファンネスが少し教えてくれたくらいだろうか。その時の事を
思い出して、俺はそれを口にしてみる。呪いは生ある者を貶める事と、また強い呪いは、弱い呪いを屈服させる事と。あとは、なんだっただろうか。
「概ね、お前の理解は正しいと言える。よく、そんな事まで憶えていられる物だな」
「元々好きでしたから。魔法とか、そういう話が。私自身は、生憎そういう物は扱えませんが。カーナス台地の呪いは、それ程に深い物なのでしょうか?」
「そうだな。とても、深い。本来ならば、狼族の呪いなどという物は、竜族にはそれ程の害とはならないはずだ。生前の実力が、あまりにもはっきりとしているからな。しかしカーナスは違う。あの地にこびり付いた呪いは、
もはや大抵の竜族の力を凌ぐ。俺でも、不用意には近づけんな」
「そこまで酷いのですか」
「何百という無念を抱いた魂が、呪いの源となって。そうして、周辺の呪いを吸い上げて、更に肥大化した物だ。本来ならば、あの地では竜族も命を落としたのだから、竜族の呪いもあって然るべきなのだが。死んだ数の
違いなのかな。それとも、竜族はそれ程の無念を抱いてはいなかったのかも知れないが。狼族は、どちらも竜族より上だ。数多く死んで。それから、お前が教えてくれた通りならば。味方の到着を信じて、しかしそれが
来ないまま絶望して死んだのならば、その怨みは根深い物だろう。狼族の呪いが、竜族の呪いを平らげる程の物となってあの地に残っている。確かに、ガルマの言う通り。その呪いの中を歩けるのは、正統なギルスの直系
であり、狼族から崇拝されている銀狼以外にはありえないのかも知れないな。或いはカーナス台地に集まった呪いよりも、更に強い呪いでもって打ち勝つしかない。そんな事は、生半可な力ではできないが。呪いという物は、
その様な特殊な状況ではない限り、基本的には一人で掛ける物だからな。呪術師を大量に集めて、一人を呪わせたところで。真の怨恨と呪詛を孕んだ亡霊達を退けるのは、容易い事ではない」
「では。どうあっても、私一人でカーナス台地に行かなければならないのですね」
「そうだな。……と、言いたいが」
 ガーデルが、肯定してからそれを覆す様な事を言うから。俺は驚いて顔を上げてしまう。揺れる火から、ガーデルの顔へと視線を移す。
「僥倖と、言わなければならないのかな。俺は、呪いが効かない男を知っている。そいつなら、お前と共にカーナス台地へ赴く事ができるやも知れん。とはいえ本当にそいつに、カーナス台地の恐ろしい呪いが効かぬのかを
俺は知らんし、また事実そうだとしても、その男がそう易々と協力してくれるとも俺は思わんのだが」
「それは、どなたなのですか」
「前筆頭補佐、リュース」
 その名前を聞いて、俺は目を見開いて。けれど、少し考えると苦笑して首を振る。ガーデルも似た様な表情をしていた。
「それは、また。到底協力を仰げる様な相手ではないですね」
「そうだな」
 現在、前筆頭補佐のリュースはラヴーワの捕虜としてこちらの手の内にある。そういう意味では、まだどうにかなるのかも知れない。だからと言って、協力しろと命令する事は難しい。拷問を受けても何一つ情報を口にする事の
ないリュースが、この上どちらかと言えばラヴーワが有利になる、カーナス台地の亡霊の解放を手伝う等という事が、まるで想像できないからだった。加えて、仮に俺とリュースがその地に赴いたとして。相手は筆頭補佐だった
男だ。その気になればその場で俺を殺して、さっさと一人で逃げる事ができる。いや、俺を殺す必要もないだろう。だってカーナス台地に入った時点で、俺以外の誰からも、呪いを隠れ蓑とする事でリュースは咎められる事が
なく自由に歩けるのだから。そんな場所にリュースを連れていく事を、ジョウスが許すはずがなかった。いや、もしかしたらジョウスの事は、ガルマからの条件もあって説き伏せられるかも知れない。俺一人では心許無いと
言えば、それはまあ頷いてくれるだろうし。しかしそれにリュースが従うかはまったく別の事だし、そもそも従う必要がどこにも見当たらない。だったら最初から俺一人でカーナス台地に赴く方が良いだろう。リュースを
ランデュスに、みすみす逃がしてしまう訳にはいかないだろうし。
「俺が見張っておく事はできるかも知れん。もしリュースが、ランデュス側へ逃れる様な事があるのなら、そこで奴を殺す事はできるだろう。しかしカーナス台地の中では何があろうと、俺も近づく事はできん。カーナス台地に
赴くだけでも、充分に身の危険があるだろうに。その上で、更にお前が死にそうな方へと追いやるのは、流石に気が引けるな」
「ありがとうございます」
 ガーデルが、大分面白そうに笑って言う物だから、俺も途方に暮れてしまう。筆頭補佐を務めていた男だ。俺なんて片手で殺せてしまうだろう。そんな相手と、まったく面識も無いと言うのに。いきなりカーナス台地に行く、
なんて事はいくら俺でもお断りしたい。でも俺一人でカーナス台地に行くのも、それはそれで危ない気がしてしまう。今更だけどガルマの頼みは無茶振りだと断っても良かった気がしてしまう。そもそも俺が、彼の地の亡霊に
受け入れてもらえるのかという心配もあるのだけど。もう亡霊から立ち入り禁止を食らったと嘘を吐いてしまうべきだろうか。ガルマはそれで納得するだろうし、ジョウス辺りの、俺の正体を知っている人からすれば、それは
当然の結果だと受け入れてもらえるだろうし。
「しかし、知らぬとはいえ。異世界人であるお前が、狼族の亡霊に受け入れられるとは。俺も思わんがな」
「そうですよね」
「つくづく、どうしてそんな姿になってしまったのか。不思議な物だな。俺は銀狼に対しては、それ程詳しいという訳ではないが。それでも戦場に立つ銀狼の姿と。それから、狼族の英雄であるグンサ・ギルスの姿は見た事が
ある。遠目からでも、よくわかる美しい銀だった。確かにギルスの直系と、遠縁の銀狼の銀では、訳が違うな。あのクラントゥースとかいう小僧の銀では、到底お前には及ぶまい。ガルマが直々にお前を指名する気持ちは、
わからんでもない。確かにお前の銀ならば、カーナス台地の亡霊すら騙せるやも知れんがな」
 できればこれ以上騙す相手を増やしたくないのが正直なところなんだけど。狼族の身でありながら、俺はとことんまで狼族を騙している訳だし。最近では異世界人であると、少しずつ、少しずつ広めているから、俺が
騙す相手も減ってきたけれど。それでも狼族は違う訳で。しかも今度は死んだ後の狼族まで騙そうというのか。なんという詐欺師。
 とはいえ、乗り気ではなくても。ガルマの頼みというだけでなく、それで得られる狼族とスケアルガの和解は、俺も欲しているのは確かなのだから。なんとかやれるだけはやらなくては。
「ガーデルさん。リュースさんというのは、どういう方なのでしょうか?」
 そんな訳で、無難にリュースの情報収集に入る。この流れになった以上、俺がリュースの事を訊ねるのはごく自然な事だし。そして俺の目の前に居る人程、俺がリュースの事を訊ねるにあたって、適当な相手も
いないだろう。もう一人居るとしたら、それはヤシュバなのだろうけれど。そんな簡単に会えないし。多分、もう会う事はないかも知れないし。そもそも連絡取れないし。
「冷静な男だ。表面上はな」
「表面だけですか」
「中身は……そうだな。実のところ、俺はリュースをよくは知らない。とはいえラヴーワの連中よりは、遥かに見知っているのは確かなのだが。だが、あれは青い竜として産まれて。同族である竜族からも疎まれる様な
奴だ。だから俺と対する時も、あまり心を開いた様子を見せてはくれなかった。有能なのは保証する。何をやらせてもそつが無いし、魔導にも造詣が深い。それでいて、俺が暴れている間は後方をきちんと受け持つ事も
できる男だ。底知れぬ男だと思う。あいつが心を開くのは、いや、心を開くというよりも。全てを露わにするのは。竜神ランデュスだけだと、俺は思うな。俺は、竜神の事は好かんが。あいつにとって、竜神とはほとんど
全ての様な存在だ」
「どうして、そこまで?」
 そう言うと。ガーデルはリュースの出生を、教えてくれる。リュースの存在というのは、悪い意味で噂になっている様だった。産まれる前、親の腹の中に居た時から既に、竜神の目に留まっていて。そうして祝福を受けた
存在だという。しかし産まれたリュースは青い竜であるが故に、忌み嫌われた存在でもあったと。青い竜が、不吉だと言うのが俺にはよくわからなかったけれど。青い血を持つ竜だからこそ、青い竜は忌み嫌われて
いるのだという。
「だからあいつは、竜神に自分の全てを捧げる事が当然だと思っている節がある。同族や、実の親からも疎まれるリュースを、竜神だけが求めてくれたのだからな。だからこそ神声を聞くのも、俺ではなくあいつである事が
ほとんどなのさ。俺はそれで構わなかったから、というのもあるがな」
「そうなんですか。竜神が、リュースさんを」
 ここにきて、ようやく俺は竜神の事が少しだけ好きになれた気がするなと、今の話を聞いて思う。今まで俺の耳に入る竜神の話といえば、敵であるから仕方ないのだけど、良い物は聞かなかったし。けれど、その話はまさに
美談のそれだった。リュースの力を、産まれるよりも先に見抜いて。そうして産まれたリュースがどんな姿であっても、そんな事は瑣末な事だと扱って。それどころか筆頭補佐の地位まで与えてくれたのだというのだから。勿論
リュースに相応の実力があったのだろうけれど。確かにリュースが、竜神に全てを捧げようとしている事は俺にも理解できる。
「だからあいつは、俺の事が嫌いなのだろうな。俺はいつも、ランデュスの英雄だなどと、持て囃されていた。自慢ではない。事実そうだった。そしてあいつは、神声を聞き、竜神に全身全霊でもって尽くしているというのに。青い
竜というだけで、決して他の者からは正統な扱いを受ける事はなかった。ごく一部の者は、あいつの仕事振りを見て認めもしたが、しかしそれだけだった。俺はそれを、良く知っていたが。しかしどうする事もできなかった。俺が
近づけば、いつも辛そうな顔をするだけだったからな。まあ、あいつはそれだけの産まれでありながら。自分の力にしっかりとした矜持を持っていたから。他人からその様に憐れまれる事など、到底許しはしないのだろうがな。
俺どころか、マルギニーからもその様に思われていたなどと。知ったら暴れるだろうな」
「誇り高い方なのですね」
「まあ、それは竜族全般に言える事だが」
 狼族みたいなものだろうか。狼族も、そういう特徴はあるけれど。銀狼なんてまさにそれだし。でも、それを聞くと。なんとなくリュースの事を、ハゼンと重ねてしまいそうになる。青い竜であるが故に、忌み嫌われていると
いうのは。赤狼であるが故に、忌み嫌われていたあの姿と、似ているから。赤と青で、色は正反対の様であるというのに。
「そんな人が、ヤシュバの近くに居たんですね。私は名前しか、知りませんでしたが」
「……ああ、そうだな。そう言われて気づいた。その、タカヤだったか。ヤシュバの本当の名は。異世界人であるヤシュバの面倒を見ていたのは、リュースだったのだな。そういえば、対峙した時、リュースは何があろうと、
ヤシュバを逃がす事に躍起になっていた。あの時のリュースの姿は、俺にはとても意外な物に見えたな。あいつが仕えるのは、いつの時も竜神ランデュスであって。それ以外の何者でもないのだから。てっきり俺は、リュースは
ヤシュバが相手だろうと、俺が相手の時の様にしているのかと思っていた。だが、そうではなかったな。例え俺に殺され様と、ヤシュバだけは守ろうと。そういう風に見えた。俺が筆頭補佐を辞めて、放浪している間に、
あいつも随分変わったのだな」
「そうなんですか。ヤシュバを、守ろうと」
「ヤシュバが。リュースを、あそこまで変えたのかも知れないな」
 とうのヤシュバの口から、リュースの事は一つも聞けなかったけれど。それだけで、なんとなくヤシュバとリュースの関係が見えてくる様だった。少なくとも、リュースはヤシュバの事をとても大切に思っているんだなって。そう
すると、リュースの事も少しだけ見えてくる。リュースの後に筆頭補佐となったドラスは、リュースの事をとても慕っていたから。ガーデルの話を聞くだけで浮かんでくるリュースは、竜神以外の事など、なんとも思わぬ様に
思えるし。またそう思う様になってしまう事も仕方がないくらいに、ぞんざいな扱いを同族から受け続けていたのだろう。
 そんなリュースを。ヤシュバが変えたのかも知れないと。ガーデルは、そう言っているのだった。
「……会ってみたくなりました。リュースさんに」
「そうか」
「元々ヤシュバの近くに居た人だというから、気になってはいたのですが。会えるでしょうか」
「それは、わからん。ジョウスの判断を仰がなくてはならんだろう。俺からは流石に言い辛い。元は俺の部下であるからな。あまり、俺からそれを勧める様な真似は、余計な疑心を招きかねない」
「わかります。とにかくカーナス台地の事と、それからその地に同行できる人物としてリュースさんの事を。戻ったら、ジョウスさんに話してみます」
「そうだな。どの道リュースは、処刑せざるを得ない存在だ。少なくともこのまま何もせずに解放して、ランデュスに帰す訳にはゆかない。だったら、ここは考えを変えて。何かしらに利用できる物と見て。その何かしらが、
カーナス台地であると。そう言っても良いかも知れん。まあ、それを差し引いても。やはりカーナス台地に伴った場合の危険性は高い」
「その辺りはまずはジョウスさんと話をして。それから、できるのならリュースさん本人と話をして、私が決めたいと思います。何かあったとして、私一人では責任が持てないので、どうなるのかはわかりませんが」
「もし、リュースをカーナス台地に伴うのなら。俺も掛け合って、見張れる様にしようか。リュース一人ならば、俺でも対処はできる」
「ありがとうございます。ガーデルさん」
「何。俺は、カーナス台地に共に入る事もできん。俺にできるのは、それぐらいの事でしかない」
 話は、そこまでだった。それからは、行きは急いでいたのだから。用事を済ませた帰りは少しはゆっくりしたいと思っていたのに、結局はカーナス台地の件を任されたせいで帰りも急ぐ事となって。それでも精一杯ガーデル
との二人旅を、次がいつかもわからない旅を満喫して。俺はフロッセルの、ジョウスの館まで戻ったのだった。
 館に戻って、心配顔で飛び出してきたクロイスを適当にあやしてから俺は身体を清めて、すぐにジョウスに時間を作ってもらって、ガルマから託された手紙を渡してその要件を伝える。その場に居るのは、俺と、ジョウスと、
クロイスと、ガーデル。そして、これは後で話をする必要がありそうだと思って、大人しく館で待っていたクランの五人だけだった。結論から言うと、この話はかなり揉めた。そもそもカーナス台地を解放するという事が、まず
ランデュスとぶつかり合う今になって、新しい道が、しかもお互いの国にまっすぐ向かえる部分の道が切り拓かれるという事だから。これはもう二日三日でその是非が決まる事などありえなかった。ジョウスとクロイスは長々と
これについては議論を交わして。その時ばかりは、俺の応援をするはずだったクロイスも安易にカーナス台地を解放するべきという意見を口にせずに、ジョウスと冷静に語り合っていた。ともあれ、狼族との和解の道を
探りたいと思っているクロイスにとっては、やはりこちらに傾かざるを得ない部分はあって。またジョウスもギルスの直系が途絶えて、狼族の怨恨も晴らせるというのならと。悪い顔はしていなかった。ジョウスの懸念が
あるとすれば、俺が無事にカーナス台地を解放する事ができたら、俺が狼族の族長として祭り上げられて、また狼族の銀に対する執着が大きくなってしまう事だけど。これについては俺から内密に伝えた考えがあって、
そこには目を瞑ってくれて。ただ、そうなると今度はカーナス台地に俺を行かせるのが良いのかどうかという事になってしまう。竜族はガーデルの奇襲が成功して一度は引いたから、寧ろ行くなら今しかないという状況では
あるものの、俺一人で行かせて大丈夫なのかという心配がある。特にクロイスは、そこに至ると今度は途端に大反対を始めた。気持ちはわかるけど。呪いなんて物に、魔導の素養が欠片も無い俺がもし襲われたら
どうしようも無いのは明らかだったし。
 しかもそこに、ガーデルから聞いたと、リュースの存在が飛び出すのだから。
「無理だろそれ」
 話を聞いた途端に、クロイスが結論をさらっと口にする。知ってた。寧ろそうならないとおかしい。ジョウスも流石に、然程考える様子も見せずにそれに同意を示す。ガーデルも、無理にそれに意見をする事はなかったし、
クランの方はそれまでは大人しく、俺がガルマに託された話を聞いていたけれど。これも俺の事となるとやっぱり反対を示していた。
「ゼオロ様は自分の身も守れない方なんです。ガーデル殿はともかく。敵である事に変わりないリュースと共に行かせるなんて。ゼオロ様を見殺しにするだけではありませんか」
 と、強弁に主張してくれた。さり気無く自分の身も守れないという言葉で俺が傷つく。事実だけど。
「ところで。リュースは今のところ、どうなのかな。ジョウス殿」
「今も大人しくしていますよ、ええ。相変わらず、無言を貫いていますがね」
 ある程度話が落ち着いたところで、ガーデルが問いかけると。ジョウスは苦々しい顔をしてそう返す。リュースは相変わらずランデュスについては何一つ語らぬまま拷問に耐えている様だった。どうせ殺すなら少しは
利用してはという事は既に伝えたけれど、カーナス台地に足を踏み入れた後にリュースがこちらから手を出しづらい状況になる事が、ジョウスの決断を鈍らせている様だった。また当然、そうなった時俺の身の危険が更に
増すから、クロイスとクランは大反対している。ガーデルは相変わらず、それを黙って聞いていた。
「ゼオロ殿は。どうされたいとお思いですか」
 意見が充分に出たと思った頃に、ジョウスがそう言う。そうすると、その場に居る全員の視線が俺へと集まる。辛い。それでも、俺は引かずに胸を張った。
「今のままでは、なんとも。私はリュースという方を、話で聞くだけであって、まったく存じておりませんので」
「……それは。会わせろ、と。そう仰っておられるのですね」
「駄目だって、反対!」
「そうですよ。危険です」
「お静かに。……話をさせるくらいならば、できなくはありません。向こうが口を開くかは、わかりませんがね」
 意外にも、ジョウスはあっさりとそれを口に出してくれた。まるで俺がそうしたいと思っているのを、完全に見透かしている様だった。とはいえ、俺がリュースに興味を引かれているという事は、ヤシュバとリュースの関係も
今や知っているジョウスにとっては、理解できる事なのだろう。またそうである以上、リュースも俺に対してまったく口を利かないという事はないと見当をつけてもいるのだろう。俺も、そう思う。そして俺は、リュースと
話がしてみたいのだった。
「リュースと。話をさせていただけますか」
 騒がしくなる二人をぴしゃりと跳ね除ける様に、俺は少しだけ声を大きくしてジョウスにそう告げる。それでも、ジョウスは僅かに迷う様子を見せていた。けれど、すぐにその顔に笑みが浮かぶ。
「よろしいでしょう。まずは、それで様子を見ます。リュースに、何故こちらが今協力を求めているのか。それをいつ伝えるのかも、ゼオロ殿に任せましょう。というより、この件は任せます。どの道私が顔を出しても、決して
リュースは聞く耳を持たぬでしょうからね。それは、ガーデル殿も同じでしょう。このラヴーワにおいて、リュースとまともに口が利けるのは、あなただけなのかも知れません。実際にカーナス台地に何かをするのは、まだ
保留とさせていただきますがね」
「ありがとうございます、ジョウス様」
 結論とまでは言えないけれど。それで、緊急の会議は終わりを告げた。ガーデルを除いて、居並ぶ人の顔にも疲労の色が濃い。そもそもカーナス台地を解放するかの是非を問うところから始めて、既に五日はこの席を
用意させている。とはいえ、大半は途中で俺達が退席して、クロイスとジョウスが遅くまで二人で様々な検討をしていたのが大半なのだけれど。それに、カーナス台地を解放して、新たな道ができあがるという事は。いくら
なんでもこの場だけで決められる事ではない。八族それぞれに通達するにしても、一方的な通達だけでは、狼族以外は納得しない者も居るだろう。多少はジョウスの力が働くとはいえ。そちらは、ジョウスの今からの
課題という事なる。忙殺されているのに、また仕事を増やしてしまったのは申し訳ないとは思う。
「ゼオロ。マジでリュースに会うの?」
 部屋に戻って一息吐いていると、すぐに追ってきたクロイスがベッドに座る俺を持ち上げて、膝の上に置いてからその話をする。俺のべッドが遠い。
「心配?」
「そりゃ、心配だよ。相手はあのリュースだよ。親父もなんでこういう時さっさと撥ね付けてくれないかなぁ」
「でもカーナス台地を解放する事には、クロイスも結局は賛成だったじゃない」
「それはそうだけど。でもリュースと二人だけで行かせるなんて、なあ。いや、だからってゼオロちゃん一人でなんて。俺は絶対嫌だけど。俺が行けたらいいのにな……ファウナックにゼオロとガーデルが行った時と一緒で、
俺こそまさに立ち入るべきじゃないっていうのが、歯痒いわ」
 狼族の巨大な呪い、なのだから。当然怨むべきはスケアルガな訳で。クロイスはそれこそカーナス台地なんてまともに近づける状態ではないだろう。クロイスがやった事じゃないというのに、不憫だと思う。
「まあ、まずは会うだけだからさ。それだけなら、良いでしょ?」
「それだけでも心配なんだよなぁ……。本当、無理しないでね? 俺、ゼオロに何かあるのが、一番嫌なんだけど」
「そういう物なのかな」
「そういう物だよ」
 クロイスが、ぎゅっと俺を抱き締めてくる。最近では、すっかりこれも嫌じゃなくなってきた。抱き締められるのも、喉がごろごろするのも、クロイスの匂いがするのも。全部クロイスなんだなと思えるし。俺が旅から戻って
きたものだから、いつもより激しいのはあれだけど。もう五日目だからそろそろ弱くしてほしい。
「俺、どうせ戦争が避けられないのなら。ゼオロだけでも守りたい。なのに、俺はなんにもできなくて。一人で行かせるしかないなんて」
「そうだけど。でも、私にしかできない事があるんだなって。結構乗り気なんだよね」
「だから心配なのに」
 クロイスには悪いけれど。銀狼の俺にしか、これはできそうにない事だった。あのガーデルの様な強靭な竜族の中の、更に頂点に立っていた様な人物ですら立ち入る事ができない地に。もしかしたら俺が立つ事が
できるかも知れないのだから。もしかしたら駄目かも知れないとはいえ。
「なんかゼオロちゃんって、一人でなんでもやっちゃうよね」
「え。そうかな?」
「そうだよ。獅族門の事だって、そうだし。普通は、戦なんだから。一人で行ったって仕方ないのにさ」
「そんな事、ないと思うけど。それに獅族門の事をよくクロイスは言うけれど。あれだって、いざって時に助けてくれたのはクロイスだよ。クロイスが居なかったら、ヒュリカも。あの翼族の兵に切られて、死んでしまった
かも知れないし。だから、クロイスもそんなに変わらないと思うんだけどな」
「そうかも知れないけどさぁ……ああ。心配だわ。ていうかまたあのクラントゥースがこの館に居る状態で、ゼオロちゃんが居なくなるのか。すっげー嫌だわ」
「……クランは、相変わらずだった?」
「まあ、ほとんど口利かないけどさ。別に持て成す義務がある訳じゃないし。最低限の事は、俺以外が勝手にやるし。その辺りは寧ろ親父が、根掘り葉掘り聞いてるみたいだけど。クラントゥースも表面じゃあんな風だけど、
中身はやっぱり歳相応だから。親父からすると、面白い玩具みたいに見えるみたいだし」
 可哀想。クラン可哀想。ジョウスの怖さは俺も知っているので、割と苦労してそうだ。ジョウスはジョウスで、このまま順当に行けばクランが狼族の族長になるかも知れないから。今の内に弱点でも見つけておきたいのだろうな。
「なんだかんだで、親父はクラントゥースの事は嫌いじゃないみたいだし。今回の事も、思っていたよりは乗り気に見えるな俺には」
「ガルマ様の書状が、効いたのかも知れないね」
 ジョウスと、ガルマ。厳密にはカーナス台地で戦死した狼族達だけど。この二者はまさに、カーナス台地を舞台とした一連の流れの当事者だ。それが今、被害者と言っても良いガルマの方から、禍根を残して終わりたくは
ないという要請があったから。ジョウスの方も、頷かざるを得ない部分はあるのかも知れない。それに、ガルマが口にした通り。ガルマと俺。二人の、言ってしまえば真の銀を持つ二人の内、カーナス台地に赴く事ができるのは
もはや俺だけだから。今を逃したら、カーナス台地は永久に呪いに閉ざされた地となってしまうかも知れない。ジョウスからすれば、それは改善したいところだろう。彼の地で狼族の怨みが跋扈する様に仕向けたのは、
ジョウスと言っても良かったけれど。かといってそれを狙ってやった訳ではないのだから。
「本当は、親父もカーナス台地の事は。銀狼と狼族の事は。自分の行いが全部正しいだなんて。思ってないと思うな。俺が言うと、庇ってる様にしか聞こえないかも知れないけれど」
「わかるよ。だから、ジョウスさんは銀のネックレスをしてるんでしょ」
 銀の剣のネックレス。ジョウスは、今もそれを欠かさずに付けている。ミサナトで初めてあった時から、今に至るまで。いつのジョウスを見ても、その胸元にはそれが煌めいていた。ジョウスの様な壮年の男がするには、
どうにも子供らしいとも言えるその装飾品に、なんの意味もないとは俺は思っていなかった。俺の頭上で、クロイスが頷いてくる。
「気づいてたんだ。俺が物心付いた時から、あれ付けてるんだよね。多分、カーナス台地の事があったあの時から、ずっとだと思う。だからって、親父のした事が何かしら許される様になるとは、思わないけれど。本人も、
それを忘れない様にしてるんじゃないかなって、思うんだよね。少なくともあれは親父の趣味じゃないのはわかるし」
「ガルマ様だけじゃなくて、ジョウスさんもカーナス台地を解放する事を心から望んでいるのなら。私は行くよ。そのためにリュースの助けが必要であってもね」
「そう言われると、俺からはもう何も言えないけれど」
 その後は俺が居ない間の話を聞いて。それからクロイスの寂しさが募っていて、結局その内に今度はクロイスの部屋に俺が連行されて、そのまま一緒に眠る事になってしまったけれど。それでも俺はどうにか
クロイスも納得させて、リュースに会う事ができる様になった。あとはリュース次第だな。肝心のリュースが、俺が面会を求めても会いたくないと言ってしまえばそれまでだから。

 重苦しい石の壁を俺は見上げた。石の壁は高く続いて、四階分くらいの高さはあるのかなって思う。
 フロッセルの街から、東に五日程馬車に揺られた場所にそれはあった。虎族門の砦の、中央部。獅族門の砦とは違い、虎族門の砦はいくつかに別れている。獅族門の砦が、向かい合うのが翼族の谷だけであるのに対して、
虎族門はそういう訳にはいかない。ラヴーワから東の全てを。そしてその最奥にあるランデュスを睨む恰好になるのだから。故に、国境付近にある部分を一とし、そこから複数の虎族門が、ラヴーワの中央への侵入を
阻むかの様に、道なりに造られている。俺が、捕虜となったリュースと会う事を許されて、迎えと言われたのは。丁度、そんな虎族門の、三の砦に当たる場所だった。
「意外と、近くにリュースを捕らえてあったんだね」
「東寄り過ぎると、ランデュスに攻められた時が怖いし、脱走してもすぐに逃げられる。かといって、中央に寄り過ぎるのも良くない。そうなると、丁度この辺りが良いって事だよ」
 俺の隣で、馬車を下りたクロイスがそう説明してくれる。今回、クロイスは完全に俺の付き添いという形で付いてきてくれた。なんだか最近、俺の方がクロイスを振り回してしまっている気がするけれど、本人が言うには、もう
クランと一緒に館に取り残されるのは嫌なんだとか。とはいえ俺一人で出歩いても、何ができる訳ではないのだけど。フロッセルの街では多少はクロイスと居る事で知られてきたし、ジョウスの館でも相応の扱いを受けている
けれど、俺は正式な軍の関係者とは言えない。捕虜に会う、など口にして俺一人が向かっても、面会が許される訳ではない。
「でも、ジョウスさんが近いと思うんだけど」
「その辺は、まあ。リュースは翼が無いし? 仮に脱獄しようが、すぐにフロッセルまでは来られない。これでガーデルみたいに空が飛べたなら、それこそ翼を切り落とすくらいしないと。ここには置かなかっただろうけれど」
 それはまた。翼が無くて良かったなと思う。それは流石に可哀想な気がしてしまう。もっとも翼を持たない事でも、リュースは竜族の中で肩身の狭い思いをしているというけれど。
「行こう。ゼオロ。中に入ったら、リュースの居る場所へ俺が案内する」
 クロイスが促してくれる。促しながらも、クロイスは決して必要以上の情報を漏らそうとはしなかった。それは、俺が相手でも同じ。その辺りはしっかりしているなと思う。俺も、別にあれこれと訊ねたりする訳ではないけれど。
 虎族門の砦に入って、敬礼する兵達の間を通り抜けて。クロイスは門を守る将軍に軽く挨拶を済ませると、そのまま俺を案内してくれる。この三の砦は、獅族門のそれよりも背が高くて。だから俺は、リュースはどの辺りに
捕らえられているのだろうかと思ったけれど。クロイスが案内したのは、地下への道だった。地下牢って言うと、ありきたりだと思うけれど。最初に案内された時、俺はそっちなのかと思ってしまう。
「他種族なら、地下牢じゃなくてもいい。でも、竜族は地下が鉄則だよ」
「翼があるから?」
「そう。リュースには、それは無いけれど。でも、竜族は空兵を用いるからね。だから、罪人を幽閉するために造られる塔だの、そういう場所には。竜族は入れない様にするんだ。そんな所に入れたら、空兵がやってきて、
簡単に脱獄させてしまうからね」
 階段を、何段も下りる。なんだかこうしていると、ミサナトの出入り口にある門を思い出してしまう。この世界に来てすぐに、クロイスと歩いた狭い階段。あんな感じだ。もっとも漂う臭いや緊張感は。あれとは大分異なって
いたけれど。音にしても、そうだ。あの時は、外の喧騒が聞こえていた。今は不気味なくらいに静かで。廊下に出て、獄卒がそこに居ても、彼らは無駄口を叩く事もせずに彫像の様に佇んでいるから。なんだか怖い。
 黴臭さが、俺の鼻をくすぐる。ずっと嗅いでいたら、くしゃみでも出てしまいそうで。ここに居る間、ずっと堪えていなければならないのかと思っていたけれど。意外にも、クロイスが案内してくれた先の部屋は、一転して
整えられた一室だった。ソファも何も、まるでジョウスの館の一室にあるそれを思い出す様な、そんな部屋だった。
「本来、ここは特別な罪人を放り込むための部屋なんだけど。今回はここを使う」
 身分の高い人を入れておくための部屋だと、クロイスが教えてくれる。空気も清められていて、廊下の息苦しさも何もここでは感じない。地下だというのに、魔法で灯された光があるおかげで、充分な明るさが確保されている。
 その部屋で、クロイスはソファに俺を座らせると。途端に寂しそうな顔をする。
「今、リュースがここに連れられてくる。けれど……俺は、ここには居られない。それは、許されていないんだ」
「わかってるよ、クロイス。もしリュースが暴れたら。どうしようもないもんね」
 なるたけ安心させる様に、俺はクロイスへと微笑みかける。そんな場所に俺を一人置き去りにする事を、クロイスはとても悩んでいる様だった。立場を考えたら、それは仕方がない事だった。鉄格子越しに話をする、というのも
今は違う。必要ならば、リュースに協力を仰がなくてはならないのだから。だからリュースも、ここへと招かれる。その際にクロイスの様な立場の人が、ここに居る訳にはいかないのだった。言ってしまえば、クロイスと比べれば、
俺の命の価値は軽く、また重要とも言い難いから。でも、だからこそこの様な席を設ける事も可能なのだった。クロイスは俺をその様に扱っているという事実もまた、嫌で仕方がないと。そう言いたげな顔をしている。
「心配しないで。向こうだって、すぐに暴れたりする様な相手じゃないと思うから」
「そうだといいけれど……」
 嘘を吐いた。俺が今何よりも恐れているのは、出会いがしらにリュースが俺を殺そうとする事だったから。ラヴーワに捕らえられたリュースは、ランデュスからは半ば見放された存在だとも言える。そしてリュースは、
ヤシュバの事も、ヤシュバの口から聞いた俺の事もきちんと理解している相手だから。俺とヤシュバが顔を合わせる場を用意したのも、リュースと言っても過言ではなかった事を今の俺は知っている。その上で、俺は
ヤシュバと共に行く事をしなかった。二つの国、それぞれに別れた俺達は。いわば互いが互いの弱味となっている。俺は、例え今の状態をお互いが望んだ事であったとしても。ヤシュバが。タカヤが死ぬのは、嫌だと
思うし。それは多分、向こうも一緒で。だから言ってしまえば互いが、人質としての価値がある事になる。そして俺は、それで引き留められる様な武力も何も持っていないけれど、ヤシュバはそうではない。筆頭魔剣士であり、
またヤシュバ自身も強大な力を持った存在であるという。だから、俺の存在はヤシュバの手を鈍らせる事が可能なはずだ。この事は、当然ジョウスもよくよく知っているだろう。いざとなれば、俺をその様に扱う事も考えて
いないとは俺は思わなかった。そしてまた、俺がこれから会うリュースもその事は重々承知しているだろう。どの道、あとはラヴーワで処刑されて終わりなのだと、リュースが覚悟を決めているのならば。その前に俺が
現れれば、例えその後自分がどの様な責め苦の果てに殺され様が、俺を殺そうとしても不思議ではなかった。少なくともそれで、俺を使ってヤシュバを脅す手を封じる事はできるのだから。
 だから、俺にとっては。リュースとまずは言葉を交わす事が、最初の課題だった。一応、魔法が使えない様にリュースには細工と拘束が施されているというけれど。それが竜族相手にどれ程効果があるのかもわからないし。
「何かあったら、すぐに呼んで。外に、何十人も居るし。それから砦にも、かなり詰めさせてある」
「ありがとう」
 それでも、この部屋に残るのは俺だけだった。話す内容が内容であるし、兵が目をぎらぎらとさせても、俺が話しにくいだけだし。その上で、やはり実力のあるリュースにはそんな物は居ても居なくても変わらない。だったら、
話しやすい状態に持っていく方が俺としても有り難い。
 クロイスが名残惜しそうに、俺の手を握ってくれる。俺も、本当は怖いからその手を握って。それでもその内に離すと、クロイスが頷いて部屋から出てゆく。
 次に扉が叩かれたのは、少し後になってからだった。多分、クロイスが安全な場所に移動する時間が必要だったのだろう。
「どうぞ」
 俺が、一声掛ける。
 扉が開かれた。静かに開かれたその先に立つ、その男を俺は見つめる。
 青い鱗が、全身を覆っていた。俺の様な獣とは違って、被毛ではなく、鱗にその男は覆われている。着ている物は、真白な丈の長い服だけだった。布地から覗く身体には、生々しい拷問の跡が僅かに見え隠れ
している。両腕は前に揃えられて、手錠のそれが嵌められていて。けれど、その効力はそれだけではなくて、魔導を制限する物だという。説明を受けたからそうだとわかるだけで、俺の目にはよくわからない物にしか
見えなかったけれど。
 青い竜が部屋に入ると、扉は重く閉められる。座っていた俺は、ゆっくりと立ち上がって。数歩歩み寄って、その竜族を見上げた。青い竜は、ほんの少しだけ目を細める様にして俺を眺めるだけで、何も言わずに佇んでいる。
 微笑んでから、俺は頭を下げる。少し待って頭を上げる。上げきれた。そう思った。少なくとも、今俺を楽に殺せる機会はくれてやったつもりだった。もっとも、その気になればいつでもあっさりと、俺の事をその竜は殺せるの
だけど。
「お初にお目にかかります。リュース様。ゼオロと、申します」
「ゼオロ」
 初めて、青い竜が。リュースが口を利いた。低くて。けれど、掠れていた。拷問の影響なのだろう。その顔は少し訝しげに俺を見ていた。それから、ゆっくりと首を振って。その場にリュースは跪く。そうすると、俺とは丁度
目の高さが合う感じになる。
「まさか、この様な形であなた様に会う事ができるとは。私は、思っておりませんでした」
 開かれた口から飛び出した言葉は、意外な程に丁寧で。それから、声音は僅かに震える様で。俺は食い入る様にリュースを見つめる。そうしていると、ようやくリュースは僅かに口角を吊り上げる様に笑った。
「ようやく、見える事ができた。ヤシュバ様……いいえ。タカヤ様。タカセタカヤ様の、対となられる方に」
 タカヤの名前を、リュースが口にする。それで俺も、やはりリュースこそが、何もかもを知っている存在なのだと理解する。
「ハル様。ハルカハル様。あなた様に会えた事が、私の生かされた理由なのやも知れませんね」
 そう言って、前筆頭補佐のリュースは頭を垂れる。俺はその言葉を噛み締めながら、しばらくの間は何も言えずに、ただリュースの姿を見つめ続けていた。

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