ヨコアナ
33.遊びに行こう2
鳥の鳴き声が、朝を告げていた。
朝を教えてくれる気持ちの良い声だけど、実際は縄張り争いをしているとかなんだとか。今更な事をぼんやりと思って。でも今外の声を上げているのは雀ではないだろうから、本当は違うのかも知れないなとか。
考えるのが面倒臭くなって、鳴き声で戻ってきた意識を再び眠りの中に沈めようとする。
「ゼオロ。朝だよ」
誰かの声が聞こえて。でも俺はもう少し眠っていたいので、それを無視する。
「そろそろ起きて、一緒に朝ご飯にしようよ。俺、今日は出かけないとだから。あんまりこんな風にしてられないし」
ぽんぽんと背を叩かれて。それが鬱陶しく感じられて、目の前に居るそれを遠ざけようと手を伸ばすと。掌に、少し硬い毛の感触が届く。
なんだっけこれと思って、ようやく目を開くと。俺と同じ様に横になった豹の顔がそこにあった。
「……昨日、一緒に寝たんだっけ」
「そうだよ。ちょっと飲ませたら、その場で寝ちゃうから。ゼオロってお酒は駄目なんだな」
「この身体だと、強くないみたい」
お酒の事を言われると。途端にちょっと頭痛を感じて顔を顰める。けれど、それで意識が覚醒したのは幸いだった。眠い瞼を擦って、どうにか起き上がる。
「おはよう。クロイス」
「おはよう」
「何かしたっけ?」
「おやすみのキスくらいはしたけど」
そうなのか。じゃあいいやと起き上がろうとして、クロイスに腕を掴まれて。そのまま口を合わせられる。
「おはようのキスも必要だよね」
「……そう」
正直慣れてないので、あんまりしてほしくないとは言い辛くて。でも俺の表情からある程度は察したクロイスは、苦笑しながら今度は俺の頭をぽんぽんしてくれる。
「服、ゼオロの部屋から持ってくるわ。そのまま出歩かれると、ちょっとな」
クロイスが立ち上がって、適当に着替えると部屋を出てゆく。それを見送ってから、俺は自分の恰好を見て。確かにこの姿をクロイス以外に見られるのは、という気分になってしまう。薄物と下着一枚。クロイスの部屋は、
本人が炎の魔法が得意という事と、魔力を糧にして動く僅かな暖房器具があるから、薄着でも心地良く過ごせるのでこんな恰好をついしてしまう。その上酒を飲んで酔っ払って。クロイスとくっついて寝るのだから、寧ろ
全裸な勢いじゃないと暑くて眠れないくらいだ。俺の部屋にも一応それらの器具はあったけれど、俺から魔力を渡す事ができないから、どうにも効き目が悪い。というよりこの部屋の暖かさの大分部は、クロイス自身が
居るから暖かい様な気がする。おかげでクロイスは、今日は冷えるからとよく俺に自分の部屋に泊まる事を勧めてくる。それから、もう付き合っているんだしと言って。俺からすれば暖房器具がついてくる様な感覚だが。
付き合っている。その言葉が、なんだか変な感じを俺に思い起こさせてしまう。人間としての生、そして狼族としての生の中でも。恋人を得る、などという話はおよそ縁遠い事で。それこそ親からは諦めと憐れみの視線を
向けられていた俺が、誰かと付き合う日が来るなんて。しかも男。しかも顔が猫。ちょっと意味がわからないし、訳もわからない。
でも、そんな訳のわからない猫、というより豹の男が。俺がどんな状態であっても傍に居て。一緒に生きていたいと言ってくれた事には、俺の心は揺り動かされる結果となった。この世界に現れて、結局俺は、綱渡りの様な
生き方をして、帰る場所も無い事を不安に感じていたから。旅の空で自由な生き方を満喫していても、やっぱり根っからの遊牧気質ではなく。それどころか都会っ子だったのだから、それは仕方がないのだけど。そんな
寂しさと心細さを、今は埋めてくれる人が居るのだった。とても不思議な物だと思う。自分には一生縁が無い物と思い、そしてそれは事実であったのだろうに。今ここで、こんな風にしているというのは。
問題なのは、俺かクロイスに性的な魅力とか、そういう物をさっぱり感じられないというか。よくわからないと言った方が適切で。そしてクロイスの方はというと、もういつ、どんな時であろうと両手を広げて俺を迎えて
くれそうなくらいには、俺の身体の方も好いてくれている事だけど。
とはいえ今のところクロイスは、とても大人しくして俺の傍に居てくれる。俺が病み上がりだから、という事もあるのだろうけれど。その内本気を出してきそうで怖い。クロイスの怖いところは、俺は男なんてと思っていたのに、
気づけば口説き落とされていた点だった。いや、口説いたというよりは。ただ一緒に居たいと、そう言われただけなのだけど。でも、俺からすればクロイスの傍に居る事は、今後もありとあらゆる口説き文句を受けるという
事なので、あんまり変わらないというか。とにかく、まあそうなってもいいかな、なんて思わせてしまうところがクロイスの強さだと思った。純粋な意味では、とても恰好良いと思っているし。あと可愛い。猫、可愛い。
「ほら。これ着て、朝ご飯にしよう」
クロイスが戻ってきて、適当に見繕ってきた服を俺に差し出してくれる。こんな派手なの嫌だなと、隠しておいた服が見事に掘り出されている。だから率先して取りに行ったんだなとか。この辺りのセンスの差だけは、
いまだに慣れない物だと思う。クロイスが勧めてくれるなら、多分良い物だろうからと。俺も最近では少しは派手になってきたけれど。
クロイスに連れられて、食堂へと移動する。とはいえ、他に一緒に食べる人も今は居ない。ジョウスともたまには食べる事もあるけれど、最近は情勢の関係で忙しいらしく、都合が合わなくなってしまったし。
並べられた朝食を、俺とクロイスの二人だけで食べる。病み上がりだけど、ご飯だけはどうにか食べられる様になってきた。
「そんなに見られると、食べ辛いんだけど」
向かい側で、俺の様子をじっと見つめている豹の顔を、俺は睨みつけてやる。さっきから、ずっとそのまんまだし。
「だってさぁ。本当になんにも食べてなかったじゃん? 見てて心配だったんだよ?」
「それはそうだけど。口に入れても、呑み込めなくなってたから」
「また少し痩せてるし。もっと食べてもいいんだよ」
そんな事言われても。流石にまだまだ、そんなにたらふく食べられる状態じゃないし。それに、なんというか。ちょっと気が引ける。今目の前に広がる料理の数々を改めて見渡す。ワーレン領は内陸だから、多分川魚と
思われる物を焼いて塩をまぶしたのと、寒さを和らげるために少し辛く味付けされたスープに、パンと、それに挟めるハムだのなんだの。ファウナックの朝食でも見た物が割と揃っている。それから、それだけではなくて。俺が
少しでも口にして多少は肉が付く様にと、それでも朝食だからしつこくならない様にと考えられたのか、茹でて解された鶏肉がサラダと一緒に添えられている。なんというか、至れり尽くせりだなと思う。それに昨日の夜も、
クロイスが元気一杯で良い酒が手に入ったからと持ち込んできたのを、振る舞われて。都合の良い時だけ俺の中身は大人なんだから飲んでも平気と言われて押し切られてお酒を飲まされたりとか。
「なんというか。こんなに贅沢して、いいのかな。私何もしてないのに」
目の前でとても美味しそうにクロイスがご飯を食べているのもあって、俺はぽつりと呟いてしまう。クロイスは謹慎が解けて、それでもやっぱりまだまだ学ぶ事が多いからと。今はジョウスの補佐に回っていた。忙しい時は
朝早くに出かけては、書類の整理やら、決めなければいけない事などを手伝って夜遅くに戻ってくる。流石に仕事の内容までは俺に話してはくれない。俺も、態々訊こうとはしなかったけれど。どんなに短い時間でも、
クロイスは会えば俺に構ってくれて。だから部屋に一人にされても、俺は別に寂しく思ったりもしないけれど。やっぱり大変そうだなって思う。それと比べて、俺のなんと何もしていない事か。
「いいっていいって。というか、そんなにゼオロがなんにもしてないとは、思ってないけどなぁ俺」
「そうかな」
「そうだよ。獅族門の一件だってある。あれでヒュリカを首尾よく確保できたから、ヒュリカが助かったし。その上で、翼族の事に時間を取られずに、他に兵を回せたんだよ」
そのせいでクロイスはちょっと出過ぎた真似をして、謹慎を食らってしまった訳だけど。その辺りは綺麗さっぱり忘れてしまっている様だった。
それからクロイスは、ヒュリカの事を話してくれる。今は翼族の谷の復興に務めているという。翼族の中での最大勢力であるヌバ族の被害は相当な物だそうだけど、他は早めに救い出せたのと、洗脳の魔法が薄まった
関係で。復興自体は順調だという。
「それから、そのおかげで翼族の協力を少し得られたんだよ。俺達には竜族が持つ様な翼が無いから、空の偵察を任せる事ができて。それは凄い助かってるってさ。今まではラヴーワに来て、態々ラヴーワの軍に入る様な
翼族はそこまで多くなかったけれど。今回の事で偵察をするのには充分な人数が揃えられたから、竜族が使う空兵の様な物を組織できるかも知れない。といっても代えは利かないから、役割はもっぱら斥候だし、
相手の竜族と鉢合わせしない様な使い方をしないといけないけれど。飛ぶ分には、翼族も決して劣るとまでは言わないけれど。やっぱりそのまま戦うのはかなり厳しいみたいだからね」
「そうなんだ」
「そう。だから獅族門の一件だけでも、実はかなり助かってるんだよ。空からの偵察なんて、向こうだけの特権みたいになってたし。こちらもそれを使えるってだけで大助かりなのよ。特に翼族は今まで、中立を保っていただろ?
だから親しくなっても、竜族に目を付けられるのを憚って。そういう兵を貸したりする、要は軍事的な面での関与は極力避ける傾向にあったからね。それから、翼族がそうやって協力してくれたのには、ヒュリカの口添えも
あったんだよ。谷の復興も確かに大事だけど、その間にラヴーワが負けてしまっては元も子もないってね。だから、ゼオロが居なかったらやっぱりこんな風にはならなかったよ」
「ヒュリカ、頑張ってるんだね」
「ヴィフィルの息子だからね。ヴィフィルやヒュリカの兄は、やっぱりあの件で、どうしても翼族を纏められる余裕が無いから。今はヒュリカが、補佐を付けてもらってある程度の物事は決めているそうだよ」
「凄い。あんなに若いのに。その内、様子を見にいけたら良いな」
ランデュスの筆頭魔剣士からの手紙のせいで、俺のその企みは一度空中分解していたけれど。ヒュリカがそんなに頑張っているのなら、やっぱり俺はまたヒュリカに会いに行きたいと思う。それに、俺から全てが始まって
しまったのだという事もヒュリカには伝えて、きちんと謝りたかった。全てが俺のせいとは言えないけれど。でも、やっぱりという気持ちは今でもあるし。
「お互いに落ち着いたら、行くのもいいかもな。今はこっちもあっちも、忙しくてそれどころじゃないけど」
「邪魔になっちゃうかな」
「そうじゃない、と言いたいけれど。ヒュリカは実質族長の様な状態になりかけているし。本当に忙しいだろうね。まあ、そんな訳で。ゼオロがなんにもしてないって訳じゃないよ。翼族の件だけでも、お釣りがくるくらいさ。
それに、今ここでこうして、俺と一緒に居てくれるだけでも。実は結構役に立ってたりもする」
「……銀狼と、スケアルガ?」
俺がそう言うと、クロイスは優雅な仕草で飲み物に口を付けて、口を拭いてから嫌らしく笑う。ぱっと見、悪の幹部か何かに思えてしまう。服のセンス的に考えて。今朝も派手だな。戦隊ヒーロー物にありそう。噛ませ
犬的な。猫だけど。いや豹だけど。
「流石に察しが良いね。俺はもうこの街では知られてるし。そうなるとその隣に居る、あの銀狼はって話にもなるっしょ? 結構話題になってるよ。まあ、とうの狼族は。まだまだ懐疑的っていうか、そんな感じだけど」
「そんな簡単には行かないよね」
これがガルマの耳に入ったら、さてどうなるのかという気もする。後継者は辞退して出てきたのだから、口を挟まれる筋合いはないけれど。でも、面白いとは思わないのかも知れないな。俺は、そんな事は気にせずに、
自分の好きな人と一緒に居たいだけなんだけど。そういう意味ではガルマの事だって今は好きだけど。中々上手くはいかないのだろうな。自分が友達だと思っている相手同士が、思いの外仲が悪かったりするみたいに、
人と人との繋がりというのはそんなに簡単なものではないのだから。
「そうだね。だからあとは俺と結婚するだけだね!」
「この戦争が終わったら結婚するんだ、で良いよね?」
「ちょっと待って。それは叶わない気がするし、もし順当に行っても最低でも十年くらい掛かっちゃいそうなんだけど。駄目じゃない? それ、駄目じゃない?」
「十年も甘い恋人生活が続くんだね」
「あっ、いいかも……その後に結婚するのもいいかも……」
軽く脱線を織り交ぜながら、クロイスをからかう。結婚か。俺の目の前に居るクロイスは、それこそ熱烈なまでに結婚願望があるっぽいけれど。俺まだこんなに若いのにな。いや、クロイスも若いけど。そんなに急いで
するものなのかな。でも、こうして戦争を目の前にして。いつ死んでしまうのかもわからないから、幸せな事は先にしておくのかも知れないな。その辺りの価値観というか、感じ方は人間だった頃とは大分違う気がする。後の
事を考えて二の足を踏むというのは、結局のところそれだけ今の生活に余裕があるからできるのだろう。
「……ヤシュバの事を教えたのも、私のした事になるのかな」
一頻りからかってから。話している内に、俺がした事として直近の出来事を口にする。クロイスが手を止めて、少し難しい顔をして俺を見る。
「そうだね。ほとんど名前と姿だけで、正体のわからなかった男の事が、こんなにはっきりとわかるとは。俺も親父も、思ってなかったよ。それでも、わからない事ばかりって言ったらそうだけど。でも、今まで対していた
竜族の様に考えるだけでは駄目だって。それがわかっただけでも、収穫だよ」
「ヤシュバの事も。必要なら、殺さないといけないんだよね」
「……ごめん」
「ううん」
それは、仕方がない事だった。もう敵同士なのだから。その上で、ヤシュバの力はラヴーワにとって。いや竜族以外にとって、あまりにも驚異的なのだから。自分の親友だった相手だから、殺さないでなんて。そんなのは
いくらなんでも虫の良い主張だった。けれどこの期に及んで、俺はヤシュバには。いやタカヤには、死んでほしくはないなと思ってしまう。俺をここまで追ってきたのだから、尚更だった。けれど、このまま行けば。どちらかが
死ぬまでという形に落ち着くのは、避けられないのだろうな。
「誤魔化さないで言ってくれる。クロイスの、そういう所。好きだな」
殺したりなんかしない、とか。言うのは簡単だけど。そう言って俺を安心させるのも、やっぱり簡単だけど。そんな事を、クロイスはしないから。それでも俺の事を気遣ってくれている事だけは、はっきりと伝わってくるから。
素直に好きだと言ったけれど、クロイスは微妙な反応の後に苦笑するだけだった。けれど、その内に話を切り替えようと瞑目して、深呼吸をして。再び開かれた瞼には、もう先の辛い事を吹き飛ばすくらいの光がきらきらと
宿っていた。
「ねえ、ゼオロ。祭りに行かない?」
「お祭り?」
「そう。丁度このフロッセルの街では、この時期祭りがあるんだよね」
「こんな時でも、お祭りするんだね」
「こんな時だから、だよ。それに戦争が激しくなったら、そんな事する余裕も無くなっちゃうでしょ? だから、寧ろそういう事ができる今の内に、盛大にやろうって話なんだよ。どう?」
「そうなんだ。クロイスの予定が合うなら、良いよ」
「合わせるって。というか、元からそのつもりだったんだけど」
「……ああ、そっか。クロイス、もうすぐ誕生日だもんね確か」
確かミサナトで、丁度今頃。十四の月辺りだったと聞いたのをふと思い出して口にすると。クロイスがあからさまに表情を緩ませる。
「うっそ。憶えててくれたの?」
「半分は忘れてたけれど。でも、確か今ぐらいだったなって。誕生日に、お休みもらったんだね」
「そうそう! 丁度祭りの日なんだよね! だからさ、ぜひゼオロと一緒に行ってみたいなって思ってて!」
途端に上機嫌になったクロイスが、もうさっきまでの緊張感もどこかへと投げ捨てて。でれでれとした表情でそう続けてくる。そんなに嬉しかったのかな。
「そういえば、ゼオロの誕生日っていつなの」
「いつだろう。この身体だと、わからないよ」
「ああー……そういえば、そうだったよなぁ。じゃあ、二の月かな。確かゼオロがミサナトに来たのはそのぐらいだし」
「人間だった頃なら、四の月」
でもこの世界の月が十六まである事を考えると。四の月になっても、俺の本名であるハルに合う季節には微妙に早いぐらいになってしまうんだよな。ちょっと残念だ。
「そっかぁ。じゃあ二回お祝いできるね」
「どっちかにしよ? 二の月で良いよね」
「ええー……まあ、いいか。二の月の方が早いし。うわぁ、今から楽しみだなぁ。その時になんか良い祭りが無いか、調べとかないと」
別にお祭りに限定しなくても良いと思うんだけど。
朝食を食べながら、クロイスがフロッセルの祭りについて説明をしてくれる。この世界の祭りって、そういえば参加した事もなかったな。そんな余裕が無かったし。クロイスの傍に居ると、そういう事を味わう余裕ができるのが、
嬉しいと思う。生きるのに精一杯過ぎて、せっかくのファンタジーを満喫できていないし。いやある意味では満喫しているのだろうけれど。
祭りのための衣装も用意しようとクロイスが意気込む物だから。その後は態々デザイナーを招いて衣装のために採寸をしたりと。なんだかどんどん大掛かりな物へと発展してゆく。あんまりお金を掛けるのは、と思ったし、
つい口にもしたけれど。
「ゼオロにこの世界の事、もっと知ってもらって。そんでもって、もっと好きになってもらいたいし!」
とクロイスが眩しい笑顔で言うものだから、押し切られてしまった。
お祭りの当日。館の窓から、街の様子を俺は見ていた。ここから見ているだけでも、今日になってにわかに街が活気づいているのが充分過ぎるくらいにわかる。いつもよりも煩い喧騒に、ひっきりなしにあちこちで巻き起こる
歓声。多分、乾杯したり、もしかしたら芸人でも居て、そこに居る人々を笑わせているのかも知れなかった。ジョウスの館は高い塀に囲まれているから、その騒動の中には入らなくて。二階に居る俺は、なんだか蚊帳の外に
居る様な気分だった。
「ゼオロ。服が届いたよ」
どうせ行くのなら、もう行きたい。そんな俺を押さえつけていたのは、お祭りのための衣装がぎりぎりに届くという話のせいだった。どうせなら一回外に出て、お祭りを堪能してから戻ってくればいいのにとも思うんだけど。
そんな事を考えている俺の背中に、クロイスが声を掛けてくる。
「ねえ。クロイス。服もういいからお祭り行きたい」
俺が我慢していた気持ちを思い切りぶちまけると、クロイスは苦笑して首を振ってくれる。なんでだ。
「夜に行くから、いいっしょ? そんな一日中遊んでたら、疲れちまうよ」
「おっさん」
「ゼオロ。それは冗談にならないから、やめよ? 割と俺、歳の差気にしてるから」
気にしてたのか。悪い事を言ってしまった。でも俺の身体の年齢を考えたら。精々五、六歳差だと思うんだけどな。強張った笑みで距離を詰めてくるクロイスが怖い。
「夜じゃないと、駄目なの?」
怖いので。ちょっと語気を弱めてクロイスを見上げる。直前までのやり取りを綺麗に忘れ去ったかの様に、クロイスはまた微笑んで俺を宥めようとする。
「俺達みたいな恋人同士は、夜に行くものだからだよ」
「そうなんだ」
「ゼオロの居た世界だと、そうじゃない?」
「うーん……お祭り次第かな」
お祭りっていうか。寧ろ十二月のあれとか。二月のあれとか。おしなべて爆発案件なイベントの夜は、確かにそうだったけれど。学生時代の夏休みの時にやる夏祭りだったら、確かに夜は恋人同士が集まってた
だろうな。年中恋人無しで、タカヤと遊んでた記憶しかないけれど。
「ほら、こっち来て。一緒に着てみようよ」
促されて、連れていかれたクロイスの部屋には既に俺とクロイスの衣装がきちんと揃えられていた。特に恥じらう必要も無いので、遠慮なくその場で着替える。なんかクロイスの視線が怪しいけれど。程無くして衣装に
着替えた俺とクロイスは。まさに対照的な色合いになっていた。俺が黒。クロイスが白を基調とした服で。
「……使者の衣装?」
「お、流石にわかる? 男女の恋人同士だとあんまりやらない仮装なんだけど、男同士ならこれがいいかなって思ってさ」
「気持ちはわかるけど」
「……嫌だった?」
「嫌じゃないけど。着た事ない服だから。似合う?」
俺が今着ているのは、上は前の開いたベストで。ただそれだと流石にと言いたいのか、胸当ての部分が付いているからどうにか着る事が我慢できる物だった。お腹周りは完全に露出していて涼しい。ズボンはぴったりと
俺の身体に吸い付く様な仕上がりになっていて。だから、その。お尻周りが非常にくっきりとしていて。何これ恥ずかしい。全力で尻尾を使えばある程度は隠せるけれど、はしゃいで走り回ったらとんでもない事になって
そうだ。ズボンにはかなり地味な刺繍が施されている。黒の生地なのに、刺繍も黒で。まるで俺を抱き寄せて、そのまま腿に手を這わせた相手にしか、それがわからないかの様な存在感の無さで。その上で左右で
ズボンの丈が違う。右足の方が丈が短くて、その分俺の銀の足が露出している。利き足はどちらですかって利かれたのはこのせいだったのか。恥ずかしい。なんというか、踊り子の着る様な服だな。
「大丈夫。すげー似合ってるし。あとエロいし」
「恥ずかしいからいつもの服にしたいんだけど。あとちょっと寒くない?」
「えー。せめて今日ぐらいはこういうの着てみようよ。ゼオロ地味なのばっかじゃん。それと寒いのは最初だけだよ、あんな人込みの中だと、結構熱気がね。着込まない方が良いよ」
「クロイスが派手なだけじゃないかな……?」
しかも俺の左腕には、クロイスから送られた銀の腕輪がそのままだ。元の世界でやったらさぞ痛々しい奴と見られる事請け合いだろうに、それが許されるって。ファンタジー凄い。何よりも凄いのは俺のこの、銀狼の
身体だけど。鏡の前で、自分がこんな恰好をしている事にちょっと引いてしまったけれど。でも銀の狼には、決して合っていない訳じゃなかった。どちらかと言うと、俺が今痩せているせいで。ちょっと背伸びしている感じが
出てしまっているけれど。
「ほら、いいじゃん。こういうの私服にしなよ」
「絶対に嫌。今日だけだからね」
そう言って、鏡を見ている俺の隣にクロイスもやってくる。クロイスの方は白を基調としていて、それからどちらかと言うとゆったりとした感じだった。前は俺と一緒で全開だけど。寧ろ胸も露出してるからより酷い。けど
クロイスの印象には合っているので、俺から特に言う事はない。これで余計な色が付いていたら、さぞその辺に居るチンピラみたいになっていただろうけれど。純白だからぎりぎりそこは踏み止まっている感じがする。前の
部分は本当なら閉じられる様に紐があるのに、そういうのを全部解いてだらしがなく垂れさせているのが、なんだか如何にもクロイスらしいなとか思ってしまったり。それから、俺には無い物として。白いフードがクロイスには
付いていた。豹の耳だけが飛び出している。フードはそれ一つで独立していて、目深に被れる様になっていて。首で止めるための紐が、やっぱり必要以上に長く垂れ下がっている。それから、首回りには魔法使いが
使っている様な何十もの紐と、小さな青い宝石が括りつけられていた。なんとなくそれが、ファウナックで出会った、兎族の族長であるリスワールの付けていた装飾品に似ているなと、ぼんやりと思い出す。
「どう? 俺、どう?」
フードをちょっと上げて、クロイスが目を輝かせながら訊いてくる。凄く邪魔そうだからそれ外したらいいのにと思うけれど。駄目なんだろうな。クロイス的には。
「あと五年経ったら厳しそうだね」
「ゼオロちゃーん……」
今朝クロイスの誕生日を祝ったばかりなので、ここぞとばかりに俺はそっち方面の話題で畳みかけてゆく。割と楽しい。
「でも、良いの? クロイスの誕生日なのに、ジョウスさんと一緒に居なくて」
「親父は忙しいからさ。まあ俺もそんなに暇じゃなくなってきたけれど。今日ぐらいはね。それにせっかく恋人と一緒に過ごせるんだから、恋人と一緒に過ごさないと」
恋人。と言われて。俺はちょっと固まってしまう。なんというか、慣れないな。もう付き合っているのだから。俺から、そうしてってようやく返事をしたのだから。だから俺がクロイスの恋人なのは、間違いないのだけど。
なんか、変。
「んじゃ。このまま行こっか」
「夜になってからじゃなかったの?」
「恋人の願いを叶えるのは俺の務めだからね」
そう言ってから、クロイスは恭しく一礼して。跪いてから、俺に手を差し出してくる。相変わらずだなそういうの。おずおずとその手を取ると、クロイスは満足そうに笑って。
「これで後は、悪しき存在が消えてハッピーエンドだね」
「なんの話?」
「あれ、黒き使者と白き使者の話、知らない?」
「大体は知ってるはずだけど……二人が揃ったら、悪い人が消えて。それから結界が消えるんだよね?」
正直うろ覚えなんだけどその辺り。俺がそう言うと、クロイスが苦笑しながらも説明をしてくれる。
「黒き使者が、白き使者を見出す。けれどね。本当に大事なのは、その後だって言われてるんだよ。白き使者が差し出した手を、黒き使者が取る。その時に、真の悪しき存在が消えるって。だから、そう。一見すると
白き使者を見つけ出す黒き使者の方が、白き使者よりも上に見えるけれど。肝心要の部分は、その逆なんだよね」
「それが今クロイスがした事なんだね」
「そう。だからこのまま俺達が結ばれれば万事解決って事だよ」
それはどうだろうか。今割と勉強になる事を言ってくれていたはずなのに、すぐそっちに持っていってしまうものだから。俺も苦笑いしてしまう。
「悪しき存在かは知らないけれど。こうしていたら怒り出す人が居るね」
「親父……そうか。親父の監視が、結界でもあったのか……」
堪えきれなくなって、俺は笑い出してしまう。それは流石にジョウスに悪い。いや、もう大分悪い事してしまっているけれど。クロイスの手を取って、立ち上がらせると。俺達は二人揃ってフロッセルの街へと繰り出す。祭りで
騒ぎ立てている場所までは少し遠いけれど。かといって馬車で乗り付けられる様なスペースなんてどこにもないから、俺達は館の入口で衛兵に見送られて徒歩で行く事になった。歩く度に、遠くの喧騒が徐々に大きくなって、
気づけばその中に居て。その頃には俺はもう、道を行く人々に目を奪われていた。昼を過ぎて、夕暮れが近づくなってきた今は。丁度俺とクロイスの様な恋人同士も居れば、まだまだお祭りを満喫していたい陽気な子供も
多くて。それから、夜の仕事を生業にする様な艶めかしい恰好をする人も居て。なんというかごった煮という表現がぴったりくる様だった。季節柄寒いはずだけど、これだけ人が密集していると、もう寒さなんて感じられ
なくて。あちらこちらからひっきりなしに笑い声と、乾杯をする声が上がって。大道芸人が居る辺りからは、笛の音や太鼓を叩く音がひっきりなしに聞こえてくる。通りには、普段なら両端に家々が見えるはずだけど。今は
家と通行人の間に様々な露店が連なって、新しい壁になっていて。フロッセルの街を何度か歩いた事のある俺から見ても、まったく別の通りに来てしまった様に感じられる。ワーレン領だから、虎族が多いはずだけど。祭りの
噂を聞きつけて色んな人がやってくるのか、今はミサナトの街で見ていた様な、様々な種族の人が入り乱れていて。その中を俺とクロイスが歩いても、そんなに目立つという事にはならなさそうだった。それから、仮装を
している人もやっぱり多い。俺とクロイスがしている、黒と白の使者と同じ格好をしている組もかなり多かったし、仰々しい無骨な鎧の、でもよく見ればそれは木で作られたハリボテで飾られている将軍の姿をしている人も
居て。それから、今話題のランデュスのヤシュバの仮装もあった。黒い被毛の大柄な牛族が、ハリボテの翼を広げている。本物はもっと大きかったけれど。思い思いの恰好に仮装をした人が通り過ぎてゆくのは、見ていて
少しも飽きなかった。画面越しにそれを見ていたら。きっと、ちょっとだけ見て、すぐに興味を失くしてしまったかも知れないけれど。自分の目で直に見ている今は、そうじゃなくて。目の前で繰り広げられている熱狂が、
そのまま俺にも伝染するかの様で。俺は少しも飽きる事なく、その仮装に見惚れていた。また、見ているだけじゃなくて。銀狼の俺が、黒き使者の仮装をしているのはかなり目立つらしく。時には見知らぬ人に拍手や喝采を
浴びる事もあって。さっきまでこの恰好をするのかどうか、なんて思っていた気持ちを吹き飛ばしてくれる。
「だから言ったじゃん。似合ってるって」
クロイスが俺を抱き寄せながら、そっと言う。丁度、俺に見惚れていた見知らぬ男が、俺に狙いを定めたところを素早く助けてくれた。それから、相手にウインクして。これは俺のだぞと注意してくれる。恥ずかしい。
「どう? 祭りは楽しめてる?」
「うん。楽しい。こんなに楽しいの、初めてかも」
「そんなに?」
「だって。お祭りって、今までは騒いでいるところを歩いているのがほとんどだったし」
元々が、積極性に欠ける俺だ。夏祭りに神輿が担がれても、見ているだけだし。浴衣を着てきたりもしなかった。ちょっと露店を巡って、たこ焼きを複数の店から買って、あそこの店はアタリだなとか、そんな事を考える
くらいで。それで飽きたら帰る様な、そんな感じで。でも今は、仮装までして全身全霊で楽しんでしまっている。楽しくない訳がなかった。また、仮装が今の自分に似合うというのも大きい。いつの間にか尻尾で隠さないと
なんて思っていた事も、気にするだけ損と決めて。気の向くままに尻尾を振っていた。それに、隠そうとして垂れさせたままだと。クロイスに楽しんでいるのが、きっと伝わらないと思うから。
「なんか、勿体ないね。ゼオロは本当は、色んな事を楽しめるのに。前は、そうはしなかったんだね」
そう言われて。なんとなく、そうだったんだなって俺も思う。本当は、色んな事を楽しめたはずだったんじゃないかって。でも、少し考えて。すぐに答えを見つける。
「クロイスが居るからだよ。私一人だったら、やっぱりここでも、見ているだけだったと思うから。クロイスと居ると、色んな事が楽しくなるんだね」
素直にそう思って、言ったら。今度はクロイスの方がきょとんとした顔を俺に向けてくる。でも、すぐにその顔が満面の笑みになって。それから人目も憚らずに、抱き締められる。俺はといえば、周りの目が気になって、
抱き締められている事よりも、そっちが気になってしまうけれど。
「すっげー嬉しい。でも、さ。俺も、同じだよ。ゼオロと居ると、楽しい。俺が言うとさ。ゼオロの事が好きで、その。あんまりこういう意味では伝わらないのかも知れないけどさ。俺も同じなんだよ。一人でだって、楽しく
やれるけど。でも、ゼオロが居た方が。ずっと楽しい。一緒に来てくれて、ありがとな」
人目を気にして、その身体を押しのけようとした俺の手が止まる。それから、おずおずと手を回してみる。俺から抱き締める事も、ほとんどないから。こういう時どんな風にしたらいいのかなって思ってしまう。とはいえ、すぐに
クロイスの方から離れてくれるけれど。そもそも往来の真ん中だし。道は広くなってきたから、それ程問題がないとはいえ。あんまり長くやっていると、流石に白い目を向けられるだろう。
「ちょっと、飲みにでもいこっか? 大丈夫。軽い物だから、ゼオロもすぐ潰れたりしない様な物にするよ。歩くのもいいけれど、せっかく来たんだから。色んな物を楽しもう」
そう言ってから、クロイスに手を取られる。さっきまでは俺が夢中になって人込みを見ていたから、クロイスは見失わない様に後ろから付いてきてくれたけれど。今は手を繋いでくれる。やっぱり、変な感じ。嫌じゃないけど。
屋台の一つに顔を出して、クロイスが注文を取ってくれる。木造の、如何にも即席でこしらえた様な台に、椅子に。大柄な虎族の店主が、快活な声でクロイスの注文を受けてくれる。
「もっとムードのある店の方が良かったかな?」
「でも。それだとお祭り見えないよ」
振り向けば。さっきまで俺が夢中になっていた光景が広がっている。一見して俺が見てもわからない仮装もあって。訊ねると、クロイスが一つ一つ丁寧に教えてくれる。神様の恰好をしている人も居るという。割と罰当たり
だなその辺は。実際そういうのは熱心な信仰者に絡まれて袋叩きにされる事もあるから、真似しちゃ駄目だとクロイスが教えてくれる。そこまでして仮装するのか。なんという仮装魂。そんな事を繰り返していると、注文が、
淡い水色のお酒が届く。鼻をすんすんと慣らして、慌てて離す。敏感な鼻でやるもんじゃないな。クロイスが笑いながら、先に一口飲んで大丈夫だと教えてくれる。吐き出された息が、お酒と、それから少し爽やかな
香りを放っていた。おずおずと呑んで見ると、口内で少しだけぴりっとした感触を残してから、それでも苦も無く飲み込める。お酒の臭いはするけれど、飲むのは然程辛くなかった。
「子供が飲んでも良い様な奴だから、安心して」
「クロイスには物足りない?」
「まあ、そうだけど。でもここで飲み明かしても仕方ないし」
続けてクロイスは、またお酒と。それからつまみとして食べられそうな物を注文して。それを受け取って食べ終える頃には、すっかり外は暗くなっていた。そうなると、道を行く人の姿もまた新しくなる。若い男女が多かった
けれど、同性愛がそれ程忌避されないラヴーワらしく。男同士、女同士の組み合わせも多くなっていた。若い人程、仮装をしていて。それから同性同士だと、その。同性同士だからこそとばかりに、どちらかが勇ましく、
どちらかがなよやかな恰好をする事も多くて。男装の麗人みたいなのも居れば、思わず目を背けたくなるオカマの様な人も居て。その頃には酒が回っていた俺は、笑いながら、今通った人の恰好が面白かった、なんて事を
クロイスに逐一報告していた。
「ゼオロも見られてるけどね。ほら、あそこに居る奴とか」
クロイスに言われて、そっちを見てみると。丁度俺の事をじっと見つめている虎族の青年が居て。それからその隣に居る兎族の青年は、それをかなり不満そうな顔をして見つめていた。妬かれている。終いには怒って
兎族の青年の方が速足で行ってしまう物だから、大慌てで虎族の青年の方が追いかけてゆく様の一部始終を目撃してしまう。
「変なの。そんなに、目立つのかな。私」
「目立ってるんだよなぁ……。そりゃ、こんなに綺麗な銀で。銀が映える恰好なんだから、当たり前なんだけど」
そうなのかな。俺はもう酔っ払いかけていて、他人の視線なんてよくわからないけれど。時々クロイスが俺を抱き締めたりするのは、どうやら無意味な事をしている訳ではなく。俺に狙いを定めた奴が居る気配に気づいて、
慌ててそうしているらしいという事が段々わかってくる。いつもの俺なら、そんなクロイスを遠ざけたりもするけれど。今はされるがままだった。
「そろそろ、戻ろうか。なんか思ったよりゼオロちゃんが見られてて、心配だわ」
「もう?」
「俺が悪かったです。こんな恰好させるもんだから、もう心配で心配で」
そうなのだろうか。でもクロイスが言うのなら、そうなんだろうな。支払いを済ませて椅子から立ち上がると。足取りが覚束なくて、クロイスに凭れ掛かってしまう。
「……やっぱり、お酒弱いね」
「ん」
心地良くて。クロイスに身を預ける。段々足から力が抜けてきて。見かねたクロイスが、俺を抱き上げてくれる。
「仕方ない。帰ろうか。やっぱり、酒はまだ早かったかなぁ」
そう言っているクロイスを見上げる。豹の精悍な顔が、それでも緩められた口元のおかげで、怖さを感じさせない。フードを被っているから、クロイスの顔は、抱えられて下から覗き込んでいる俺以外には見えなくて。それが、
なんだかクロイスを独占しているみたいで。いや、事実独占しているし、独占されてもいるのだけど。クロイスが俺を軽く揺さぶって、持ち手を確認してから歩き出すと。俺はその胸元に顔を寄せて。しばらくは仮装をする人々を
見つめる事も忘れて目を瞑って、身体を預けていた。
火照った身体に、夜風が心地よい。クロイスの立てる足音と、持ち上げられているから、ゆらゆらと揺れている感覚が、俺の睡魔を刺激する。
ぽかぽかして、ゆらゆらして、ふわふわして。なんというか、気持ちいい。なんというか、そう。
「こういうの、幸せっていうのかな」
「え?」
ぽつりと零した言葉に、クロイスが反応を示す。人込みからは、いつの間にか抜けていたのか。遠くに喧騒が聞こえるだけで、大きな物音は聞こえない。閉じていた瞼を開いて、またクロイスを見上げる。
「よく、わからないから。そういうの。どうなんだろう」
「……俺は、凄く幸せだけど。俺が好きになった奴が、ようやく振り向いてくれて。それから、こんな風に二人で出かけられて。毎日幸せだなぁって。そう思ってたよ」
「そっか」
「ゼオロは、そうじゃなかった?」
「楽しいなって、思ってるよ。それが幸せって事なのかな」
そういうのが、わからなくて。縋る様にクロイスを見つめる。人間だった頃なんて、毎日ボロボロだったし。勿論落ち着いたり、楽しいなって思う時はあったけれど。でも、幸せかどうかっていう風には、考えた事がなくて。それが
どうしてだろうと思うと、すぐに答えは出てくる。自分の事を不幸だと思ったり。ここは自分の居て良い場所じゃないと思ったり。自分だってこんな所好きで居る訳じゃないと思ったり。何かしら、そういう事を考えてしまう
からだ。そんな風に考えてしまう様な状態で、自分が幸せだなんて考える余裕があるはずがなかった。考えられる訳がなかった。
今はそうじゃないんだなって思う。俺がここに居ても良いって。俺と一緒に居たいって。目の前に居るクロイスは言ってくれたから。だから今の俺は、自分の事を不幸だとか。本当にやりたい事ができていないだとか。そんな
風には思わなくなったから。だから、今こんな風に。クロイスの腕に支えられて、ほろ酔い気分で運ばれているのが、楽しくて。それが、幸せだなって感じられるんだろうな。
「やっぱり、クロイスって凄いね」
「えっ。突然どうしたの」
「そう思わせてくれるって。言ってるの」
頬を寄せて、匂いを嗅ぐと。クロイスの匂いがする。俺の鼻に気を遣った薄い香水と。さっきお店で飲んでいたお酒と。それから、本当はちょっと無理しているのかな。俺を持ったままだから。少し汗ばんだ身体からの、その
匂いと。ちょっとだけ、獣臭いのと。全部が強かったら、大変な事になるけれど。全部が、ちょっとだけ感じられる程度だから。今はそれが安心に繋がる。すっかり俺も狼族になってしまったなと、それを嗅いでいて思う。匂いが、
心地良い。目の前に誰も居なくて。一人で歩いている時だったら、この匂いはどれ一つとってもしないんだなって。そう思った。
柔らかいベッドの上に下ろされて、ゆっくりと瞼を開ける。いつの間にか眠っていて。クロイスは、ここまで頑張って運んできてくれた様だった。
すぐ隣で、ベッドが軋んで。そっちに身体が動きそうになる。クロイスがベッドに腰かけたみたいだった。その手が、俺の頭を何度も撫でる。
「起きた? もう、部屋に着いたよ」
「……ごめん。ほとんど寝ちゃってた」
「いいよ。俺が飲ませたんだし。それに、あんまりゼオロちゃんを見る目が多くてさ。嫉妬でやばかったわ」
「そうだったのかな。私は、見るのばかりに夢中だったから。色んな人が居たね」
一度、クロイスが俺から離れて。部屋の窓を少しだけ開ける。開け放たれた窓から、冷たい夜風が入り込んで、俺の頬を撫でつける。平常時なら寒いくらいなんだろうけれど、お酒を飲んで火照った身体にはとても
気持ちが良い。
クロイスが戻ってきて、またベッドが軋んで。
「綺麗だなぁ」
「何が」
「ゼオロに決まってるでしょ。相変わらず、自分がどんな風に見えてるのか。わかってないんだね。こんなに薄暗くても、ゼオロの銀が眩しくて。でも、肝心な部分は服で隠れていて。本当に、綺麗だ」
「だって。この姿になる前は、そんな事無かったもの」
二十年以上も、そうだったんだよ。そう言うと、クロイスが微かに笑う声が聞こえる。
「元の姿だったら。クロイスもこんな風には好きになってくれなかったかもね」
「どうだろうな。顔も、俺達とは全然違うんだろ。ちょっと説明してもらったりもしたけれど。実際に会わないと、全然わからないな。でも、ゼオロなら問題ないと思うけどなぁ」
「クロイスと同じぐらいの背格好で今みたいに泣き虫でも?」
「うーんうーん」
ちょっと悩む声が、素直で、面白い。こういう時、まったく悩む様子も見せずに好きになれると言われても、多分説得力が無いなと思ってしまうし俺は。
「でも。あのヤシュバは、そうじゃないんだな」
「え?」
突然ヤシュバの名前が出て、俺は少し酔いが醒める気持ちになる。クロイスの顔を見れば、少し寂しそうな顔をしていて。
「ヤシュバはさ。人間だった頃のゼオロが好きで。それからここに来て、今のゼオロになっても。それでもゼオロが良いって言ってて。その辺り、すげーなって思うわ」
「……そういえば、そうだった」
ヤシュバと、タカヤと会った時は、そんな事を気にする余裕も無かったし、俺は俺で銀狼としての自分に随分慣れきっていたから、そんな事考えもしなかったけれど。それってさり気無く凄い事なんだな。
「一度だけ、訊いていいかな。ゼオロは、戻りたいって思う?」
「元の世界に? 別に」
「元の世界、というか。その。親友だった頃のヤシュバと、普通に会ってた頃に」
そう言われると、言葉に詰まってしまう。例えば今、この世界でもタカヤと楽しく過ごせるのなら、それはとても良い事なのかも知れないけれど。でも、もうヤシュバになったタカヤは、戻れないところまで来てしまっただろう。
「戻りたくないって言ったら嘘になるけれど。もういいよ。今更な事だし」
今更だった。せめて、この世界に来てすぐに、ヤシュバと出会う事ができていれば。今こんな風にはならなかっただろうにな。俺がラヴーワに辿り着いて、色んな人の事を好ましいと思って。それに害をなす存在に
ヤシュバがなってしまった以上、もう一緒には居られない。だからといって、ヤシュバに乞われた様に何もかも捨ててランデュスには行きたくないし、その逆もそうだ。それに、例え今筆頭魔剣士でなくなったとしても。短い間に
これだけあちこちを引っ掻き回したヤシュバは、ラヴーワではそう簡単に受け入れてもらえるとは思えなかったし。それはヤシュバにも辛い事だろう。
「もう、いいよ。その話は。そろそろ寝ようかな」
「そう」
「おやすみのキス、するんでしょ」
睡魔が、また襲ってくる。心地良い気分とは別に。何も考えていたくないって気持ちが、俺を眠らせようとする。クロイスが俺の事を受け止めてくれたから、大分最近は精神的にも落ち着いてきたけれど。それでも、
ヤシュバの事を考えると。やっぱり平静でなんていられなかった。すぐそこに。少なくとも、世界を隔てるなんて冗談みたいな距離と比べたら、ずっと短くて近い場所に居るのに。仲違いをしたって程でもないのに。一緒に
居る訳にはいかないなんて、変な話だと思う。それでも一緒に居られないと言ったのは、俺の方なんだけど。
俺の頭を撫でたり、頬を擽っていたクロイスが、一度手を引いて。それから、ゆっくりと覆い被さってきて、鼻先をまず合わせてから、少し角度を付けて俺に口付けしようとするのへ、俺は腕を伸ばしてクロイスの首を
捕まえると、噛みつく様に口を開けてそれを受け入れる。ちょっと驚かせてやろうと思って、そうしてみたけれど。いざそうすると、続きはどうするんだろうと思って。そうしている間に、今度はクロイスの方が舌を入れてきて、
俺が呻くのも構わずに、俺の舌に触れてくる。ざらざらとした触感の舌が、少し痛くて、変な感じがする。薄っすらと瞼を開ければ、俺の口内を貪る鋭い目の豹の顔が、すぐ近くにあって。その内俺が息苦しくなって首に
回していた腕を解くと、クロイスも離れて。何度も俺が呼吸を繰り返していると、頃合いを見てまたクロイスが襲ってくる。一頻りそうしてからクロイスが本当に離れる頃には、俺はすっかり息が上がっていた。
「駄目だよ、ゼオロ。慣れないのにそんな事しちゃ」
「……お酒臭い……」
「結構飲んだからね、俺も」
驚かせようと思ったのに、クロイスは余裕そうに微笑んでいて、なんだか悔しい。
「ねえ、クロイス。誕生日プレゼント、あげよっか」
俺は自分の腹に右手の掌を当ててから、それを上へと被毛を撫でる様に移動させて。胸を覆う黒い生地に触れて、それを少しずらす。多分これはこういう風に使うのだろうなと当たりを付けて。そうすると、クロイスは
再び俺に覆い被さって、俺の首元に噛みついてくる。動物的なその行動に、俺は思わず小さな悲鳴を上げてしまう。理性で動く部分と、本能で動く部分があって。本能で動かれると、どうしても俺の方は後手に回ってしまう。
俺が何か言おうとするよりも先に、クロイスの手が俺の身体を弄る。
「悪い子だね、ゼオロは。本当は凄く経験豊富だったりするのかな」
「このまま私としたら。わかるんじゃないの。どっちなのか」
顔を上げたクロイスが、舌なめずりをする。普段は決して見せない獰猛な仕草が、ちょっと怖くて。でも少しだけ嬉しい。
クロイスの手が、俺の腹を撫でて。その度に俺は、僅かに身体を震わせる。少し怖い。誰かに身体をべたべた触られるなんて、ほとんど経験が無いし。クロイスだから我慢ができるんだろうなと思う。こんな風に、下心を
持って触られるのも。その内に、滑る掌がズボンの中へと滑り込んで、直に俺に触れてくる。敏感な所に触れられて、俺はまた声を。
「クロ、イス……」
名前を呼ぶと、クロイスがまた口を合わせてくれる。そうしながら、俺自身を優しく手で包むと、小刻みに動かしきて。俺が上げた声をそのまま食らうかの様に、執拗な口付けが続いて。後処理が面倒だからと、この身体に
なってほとんど抜かないでいたせいか。あっという間にクロイスが触れている箇所から水の音が立ちはじめる。口が解放されると、俺はクロイスに縋りつく様にして、何度も声を上げながらクロイスを呼んだ。
快感が鋭くなって、息が詰まりそうになる。出そう。
「……おっしまい」
俺が射精の体勢に入るか入らないかというところで、クロイスは手を引いて。俺自身から散々溢れ出た先走りで濡れた手を、嫌らしい笑みを浮かべながら舐めていた。
「どうして……?」
「震えてたよ、ゼオロ。耳まで下げて。無理しなくていいから」
無理かどうかは別として。今まさに達しそうだったのに止められた俺は、他の気持ちを全部差し置いて、不満を覚えてしまう。そんな俺を宥める様に、クロイスがまた口付けをしてくる。首筋に、頬に、口に、耳元に。
いつの間にか浮かんでいた涙も、クロイスの舌に浚われる。
「焦らなくていいよ。俺も、焦らないから。少しずつでいい。ゼオロが怖くない様にするから」
「うん……」
「でも。ゼオロが本当に大丈夫だと思ったら。その時は。ゼオロの中まで、全部俺の物にしてあげるから」
そう言ってから、クロイスがまた俺の首を噛んでくる。ぞくりとする言葉と、行為に。俺は訳のわからない痺れを感じて、たどたどしくクロイスを呼ぶ事が精一杯になってしまう。
でも、そこまでだった。ぱっと離れたクロイスが、いつもの様に微笑んでくれる。たった今俺の事を食らおうとしていた様子がどこにもなくなって、ただ手をひらひらと振っていて。
「ま、俺はとっくにゼオロの物だけど。それじゃ、おやすみ。また明日」
俺が何か言うよりも先に、クロイスがさっさと窓を閉めて、それから魔法で室温を少し上げて、俺が風邪を引かない様に調節してから出ていってしまう。一人残された俺は、まだ発散しきれていない熱にむらむらしながらも、
結局睡魔に負けて何もせずに手を下ろしてしまう。抜いてる途中で睡魔の方が勝ったあの感じがまさに今来ている気がする。もういいや、眠ろう。
眠ろうとすると、クロイスが出ていった先で何かに躓いて盛大に立てた物音が俺の耳に飛び込んでくる。無理しないで良いのにな。それは俺も、同じだけど。
いつもの様に起き上がって、自分の部屋から居間の方へと出ると。そこに居る人物を見て、俺は眠気が吹っ飛ぶ思いをする。
「これは、ゼオロ殿。おはようございます」
「……おはようございます。ジョウス様」
物音がしていたから、クロイスが居るのかなと注意を払わずに出ていったのは悪かったと思う。ジョウスはにこりと笑っていたけれど、俺がだらしがなく着崩していた服がばっちりと見られてしまって。
「寒さがより一層厳しくなってきましたので、風邪など召されぬ様に、お気を付けください」
「はい。ご忠告ありがとうございます」
にこにことしながら、そう言われる。なんだその昨夜はお楽しみでしたね的なスマイルは。お楽しみだったら俺はクロイスの部屋から出てきてるわと言いたい。
「おはよ、ゼオロ」
「おはよう。クロイス。どうしたの? その。二人揃ってるなんて」
俺に助け船を出すかの様に、クロイスが声を掛けてくる。クロイスとジョウスが、二人揃って何やら机を囲んで、広げられた書類を見てうんうんと唸っている様だったから、話題を変えようとそれを取り上げる。その間に
素早く身繕いを済ませる。
「言っても構わないぞ。それが嫌なら、お前を私の方へと呼んだからな」
俺に問いかけられて、僅かに迷う様子を見せたクロイスに対してすかさずジョウスが言葉を発する。そういうところ、本当にしっかりしてるなこの男は。ジョウスに促されて、クロイスはそれでも少しは躊躇う様子を見せた
けれど、やがては俺を手招きしてくれる。ソファに座るクロイスの隣に、俺も腰を落ち着ける。
「ランデュス軍の筆頭補佐リュースが、つい先日こちら側の捕虜になった」
「え?」
さらりと言われた言葉に、俺は目を丸くしてしまう。筆頭補佐って、ヤシュバが筆頭魔剣士なんだから、それを助ける人だよな。
「なんでそんな人が?」
思わず、そう口にしてしまう。だって、筆頭魔剣士は軍の頂点らしいし。そうなると、それを補佐するリュースは二番目という事になるだろう。そんな人物が、おいそれとこちら側の捕虜になるのがよくわからない。だって、
ラヴーワ軍との戦いは今まさに火蓋を切って落とされたとはいえ、本格的にぶつかり合うのはまだまだこれからの事だから。それなのに、筆頭補佐が早速捕虜になるって。
混乱気味の俺に、クロイスは丁寧にそれを教えてくれる。今回筆頭補佐のリュースが捕虜となった経緯を。まずは親竜派の爬族が、いい加減に竜族を見限る事から始まって。そうしてそこに、何故か前筆頭魔剣士であり、
ランデュスから姿を消したと言われていたガーデルが現れて。爬族と、周辺に居た少数部族を纏め上げた後、リュースを陥穽に陥らせて捕虜にし、そのまま首尾よくラヴーワの門戸を叩いたという。そうして、ガーデルは自らを
爬族の王と名乗って、ラヴーワに加わる意思を見せているんだとか。
「……頭が痛くなりそうだね」
「本当にね。どこに行方を眩ましたのかもわからなかったガーデルが、まさかこんな形で現れるなんて。いや、敵として出てくるよりはずっと助かるけどね? ヤシュバの正体がわかった今、用兵に定評のあるガーデルよりは、
まだ与しやすい相手ではあるだろうし。ガーデルは用兵に関しては本当に抜きんでていたって聞くし」
「そうだな。加えて、ガーデル自身が必要なら前に出る事もできるタイプだからな。かなり厄介だった」
ジョウスが昔を懐かしむ様に、そんな事を口にする。
「それでは、近い内にジョウス様は、そのガーデルとお会いになられるのですか?」
「ええ。ガーデルが率いてきた爬族の待遇を考えねばなりませんし。少数部族の方は、まあ各々に八族の中で適当な所へ行きたい者がほとんどだそうですから、あまり考える必要はないのですけれど。捕虜になったリュースの
様子を見て、爬族に改めて指示を出した後に、こちらへ来ると連絡がありましてね」
「そういう訳で。朝から親父と、報告書を片手に睨めっこな訳だよ」
「それは、ガーデルとリュースが組んでいるかも知れないという懸念で?」
とりあえず一番最悪なパターンはそれかなと思って口にすると。クロイスとジョウスから物凄い鋭い視線が飛んでくる。やめて、そんな目で見ないで。
「怖い事言うね。ゼオロちゃん。肝が冷えるんだけど」
「まあ、それを心配するのはわからないでもありませんがね。ですが、その線は薄いみたいですよ。爬族のガーデルに対する信頼は並々ならぬ物があるみたいですし、少数部族の中にも、ガーデルの振る舞いに感服して、
ガーデルに仕えたいという者が出る始末ですから。ガーデルは余程彼らの心を掴む様にして戦ったのでしょうね。それに、これは敵としてずっとガーデルと戦ってきた私の意見ですが。ガーデルはやはり武人ですからね。戦は
好きですが、卑怯な真似はしませんよ。例えばその内にここにやってきて、私と二人きりになった途端に、私の首を切り落とすとか。そういう事はまず好まぬ相手です」
敵なのにそんな風に信用するなんて、ちょっと変だなと思ったけれど。俺はそれを聞いて黙って頷く。長年対峙していた関係だからこそ、そういう普通とはちょっと違った信用が生まれる事も、あるんだろうな。
「悩んでるのはさ、リュースの処遇でもあるんだよね」
「筆頭補佐の」
「その事なんですが。どうもランデュスの方では、新たな筆頭補佐が既に任命された様ですね。ドラスという竜族が、新たな筆頭補佐になったらしく。ですから、我々の手に落ちてきたあれは。既にただの竜族という訳でしてね」
ドラスの名前を聞いて、俺はヤシュバと会う時に、俺を空へと連れていってくれた金の竜を思い出す。そうか。あの人が、新しい筆頭補佐になったのか。
「ただの竜族、という事は。筆頭補佐として扱われたり、利用されたりする事を避けたって事でしょうか」
「そうそう。とりあえず情報が聞きだせるかどうか、色々と……試してはいるみたいだけど」
僅かに口籠ったクロイスの様子から、俺は今リュースがどういう目に遭っているのかをある程度察する。要は交渉材料には使う価値が無くなった存在だから、じゃあ知っている事を吐き出させるしかない訳で。そうなると、
どういう目に遭うのかは。まあ、わかる。辛いだろうな。
「ですが、あれが我々にしてきた事を思えば。良心が痛む、なんて事もありませんね。流石に」
冷ややかな言葉をジョウスが発する。ジョウスからしてみれば、リュースこそが因縁の相手と言えなくもないのだろうな。ガーデルもそれには当たるのだろうけれど。なまじガーデルが既に筆頭魔剣士を辞して、それどころか
ランデュスを脱して、今は新たに爬族の王を名乗り、爬族を纏めてラヴーワにやってくるというのだから。ジョウスの矛先は余計にリュースに向いてしまうのだろうな。
「でも、ガーデルが味方に付いてくれるのなら。必要な事はガーデルに訊けばよろしいのではないですか」
「それはそうだけど。でもガーデルだって、なんでもかんでも知っている訳ではないだろうしね。ガーデルがランデュスを出てから、そこそこに時間が経ったし。それから、いくら味方になってくれたといっても、やっぱりいきなり
その口から出るのをなんでもかんでも鵜呑みにする訳にもいかないでしょ。そういう意味でも、リュースの口から何かが出てきてくれれば、助かるには助かるんだよね。まあ、その辺は上手く行ってないみたいだけどさ」
もっともな事をクロイスが言う。
「……では、最終的なリュースの処遇というのは」
「聞きだせる情報が無いのならば。多少なりともラヴーワの民の溜飲を下げるためにも、公の場で処刑をするのが望ましいとは思いますがね。また、独房などで陰湿に殺してしまうのは、既に筆頭補佐の座を下りたとはいえ、
不名誉な事ではありますし。それにガーデルが爬族を率いてやってきた事は、かなり噂になっています。当然、リュースを捕虜として連れてきた事もね。今更隠して処分する訳にもいきませんね」
やっぱりそうなるのか。それを聞いて、俺は少し顔を顰める。クロイスも俺の表情を見て、ちょっと辛そうにしている。わかっていたけれど。相手は敵で、しかも竜族にとってはかなり中枢に居た人物なのだから。それでいて、
先の戦でラヴーワを散々苦しめた相手でもあるのだから。それがこちらの手に落ちれば、どんな風に扱われて、最期はどうなるのかなんて、わからないはずはなかったけれど。それでも、あまりにも血生臭い扱いに、
顔を顰めずにはいられなかった。その筆頭補佐のリュースが、翼族の谷に訪れて。翼族に災厄を撒き散らした張本人だという事もわかっていたけれど。それでも、ほんの少しだけ触れ合った竜族のドラスは、リュースの事を
とても慕っていた様子を見せていたし。
それから、ヤシュバの事があった。この世界で、筆頭魔剣士になったヤシュバを支えていたのは、きっと筆頭補佐であるリュースなんだろう。どんな人なのか、俺は興味が湧いていた。話としてなら、今目の前に居るジョウスに
聞く事はいくらでもできるとは思うけれど。そうじゃなくて。ヤシュバをここまで導いてきたリュースという存在と、直接話をしてみたかった。もっとも、それは到底叶わないだろうけれど。クロイスの相談役でしかない俺では、
お願いしても許可は下りそうにない。
「さて。私はこれで失礼しますね。ガーデルが来るというのならば、まずは爬族を当分どこに置くのかを決めなければなりませんからね。まあ、狼族は大分渋るでしょうし、獅族と虎族にそれぞれ掛け合ってみなければ」
書類を纏め、足早にジョウスが部屋から出てゆく。クロイスとの話は、既に済んでいたのだろう。
「忙しそうだね、ジョウスさん」
「まあね。元々忙しいのに、その上こうなったらね。でも、おかげでランデュスとぶつかり合うのは少し先になったよ。ガーデルがリュースを捕虜にして連れてきた事で、ランデュス軍の足並みが揃わなくて、新しい筆頭補佐を
任命したりするのもあって、結局は一度軍を引いたそうだから。本当に良いタイミングでガーデルは事を起こしてくれたとは思うな」
「ガーデルかぁ」
以前、ファウナックの近くで知り合ったガーデルの事を、俺は思い出す。あの時は一人旅を穏やかに楽しんでいる様な事を口にしていたけれど。それが爬族を率いる立場になったというのは、どんな事があったのだろうかと
思ってしまう。その内ここに。一度はジョウスに会いに来るそうだから、その時に話ができると良いけれど。
「リュースって人は。やっぱり処刑されてしまうの?」
「このまま行くと、そうなるのかな。今のところ、ランデュスから何かしらリュースを解放してほしいという旨の声も出てきてはいないし。それ次第では、条件を提示する事もできたけれど」
「なんだか、冷たいね」
「まあ、青い竜だからな。竜族には、青い色は不吉だって言われるそうだしね。彼らの血液が、俺らの赤色とは違って、青いところから来るそうだけど」
そんな生まれの問題で、嫌われてしまっているのだろうか、リュースという人は。なんとなく不憫な気持ちになる。
「気になる? ゼオロちゃん」
「うん。それに、ヤシュバを支えてきた人だと思うから」
「ああ、そっか。そうだよね。ガーデルの代わりに、ヤシュバが筆頭魔剣士になって今までやってきたんだから。当然リュースは、その隣に居てあれこれと教えてやってはいたんだろうな」
もしかしたら。ヤシュバの隣に居たのが、リュースではなかったら。ヤシュバはあんな風になってなかったんじゃないかと、そう思ってしまうけれど。とはいえ、それを今言っても仕方がなかった。それに、筆頭魔剣士で
ある事を決めたのは、他ならぬヤシュバなのだろうし。
「ガーデルさんなら、何か知ってるかな」
「……ガーデルさん?」
「あっ」
口が滑った。いや、誤魔化せるはずだったんだけど。クロイスが拾い上げた事に反応をしてしまった。クロイスの目が途端に鋭くなって、けれど俺をからかう様に、口元に笑みが浮かんでいる。
「まさかゼオロちゃん。ガーデルとも知り合いだなんて言わないよね? 現筆頭魔剣士のヤシュバと実は親友だったのに、前筆頭魔剣士のガーデルと知り合いだなんて、言わないよね?」
「えへへへ」
とりあえず笑って誤魔化そうとすると、クロイスが大きな溜め息を吐く。駄目でした。観念して、俺はガーデルと知り合った経緯をクロイスに説明する。別に、隠しておきたかった訳じゃない。ただ、この間まで内通者じゃないかと
疑われていた時には、とても口にする訳にはいかなかった事を添えると。クロイスは納得してくれた様だった。
「ガーデルが、ファウナックの近くにねぇ……。本当に、あちこちを放浪してたんだな」
「そうだね」
「なら、やっぱりガーデルはきちんとこちらの味方になるつもりみたいだね。リュースといまだに手を組んだりしているのなら、そんな所に態々行って。見つかったりしたら問題になってただろうし」
「そういえば、そうなのかな」
その辺り、あんまり深く考えた事がなかったけれど。確かによく考えたら、その気になったガーデルが、ガルマの近くに潜んでいた、なんていうのは割ととんでもない話なんだろうな。そして結局は何もせずに、それどころか
銀狼の俺を見てただ話をするだけでさっさと帰ってしまっているし。それこそ俺からどの様な告げ口をされても不思議ではない状況なのだから、ガーデルがいまだにランデュスと通じているのならば、あの時点で俺は口封じに
殺されていても不思議じゃなかったな。
「ゼオロちゃんの人脈怖いわ」
それは俺も割と怖いと思ってる。なんかいつの間にかヤシュバ、ガーデルとの繋がりができているんだけど。ガーデルはともかく、ヤシュバの方は本当に藪から棒にだし。
ガーデルとリュースの話題で盛り上がってから、更に数日後。今度は、また新しい来客の報せが届く。
「えっ。私に?」
部屋に入ってきたクロイスが、俺がここ、ジョウスの館に居るのかと、確認を取ってほしいと頼まれたという。また俺なのか。
「誰から? またヤシュバじゃないよね?」
「違う、けど……。うーん、それがさ。ガルマの使いだって言うんだよね」
「ガルマ様の」
狼族族長のガルマ・ギルスからの使いが、もうすぐここに来るという。俺を目当てに。もう少しで到着するので、もしゼオロという銀狼がそこに居るのならば、会わせてほしいと。そういう旨の先触れが届いたんだとか。
それを聞いて、俺は嫌な予感を思わず感じずにはいられなかった。今更ガルマからの使いだなんて。しかも、俺がここに居る事を聞きつけての事だろう。もしかして、スケアルガの人と一緒に居る事を、ガルマが怒って
いるとか。そんな事だと割と困る。ジョウスとの関係的にも困る。
「親父の事はもう気にしないでいいと思うけど。俺、その辺りも親父から聞いたけどさ。結局ゼオロちゃんがしてくれた事で、色々助かってるから。もう親父もゼオロの事をどうこうとは思ってないと思うよ」
そうなのか。その辺り全然、ジョウスは俺に言ってこないから、もしかしたらまだ機会を窺っているんじゃないかなって思っていたけれど。
「言わない方がゼオロが怯えて面白いって思ってそうだな」
「……やな人」
「まあまあ。それで、そのガルマの使いがもう数日で来るらしいけど。どうする? 追い返してもいいけれど」
「それはちょっと」
クロイスがなんでもない様に言うけれど。それは俺としては頷く訳にはいかなかった。そんな事して、益々狼族とスケアルガの軋轢を強める様な真似は、俺にとっても喜ばしい事とは言えなかった。
「用件とか、そういうのは、何も?」
「ゼオロが居るのなら、ゼオロに言う。だってさ」
「本当に私にだけ用事があるんだね」
ジョウスに用事があるとか。そういう事ですら無い様で。一応ジョウスの耳にもこの話は入ったそうだけど、ガーデルの事もあって忙殺されているから、それ程深く詮索される事もなく許可された様だった。
「まあ、流石に野放しにはできないかも知れないんで、俺が付くけど。ただ、俺が出ても嫌な顔されるから……難しいね」
まあ、ガルマの使いだしな。当然スケアルガの関係者は洩れなく嫌いだろうけどさ。
「うーん……。まあ、いいか。会うよ。私がここに居るって、返事を出しておいて。ガルマ様の使いなら、やっぱり蔑ろにはできないよね」
厄介事なら、断りたいかなとも思うけれど。狼族の族長であるガルマからの使いで、そして俺のすぐ傍にはジョウスが居て。だから、あんまり酷い事はできそうにない。とはいえ、するつもりもないけれど。それにしても、
ガルマの使いか。なんとなく、ハゼンを思い出してしまうな。あの時も、突然に俺の目の前に、あの赤狼が現れて。ガルマの使いだと言って、俺をファウナックへ導いてくれたのだっけ。また断れない様なやり方で、
ファウナックに招待されたりしないといいけれど。
「……そういえば、その使いの人って、誰だかわかるの?」
「ああ。そうだ。手紙に名前は書いてあったわ」
クロイスが、手に持っていた手紙に再び目を通してから、すぐに顔を上げる。
「クラントゥースだって。クラントゥース・ギルス。ギルスの家の者なんだな、この人は」
「……クラン?」
「知り合い?」
一瞬、俺は我を忘れて、その名を呼んでしまう。でも、遅れて正気に戻って、そして疑問を抱える。クランの本名は、クラントゥース・ティアだ。ギルスじゃない。俺がクランとの関係をクロイスに伝えると、クロイスは少し
考えてから、何度か頷く。クランはガルマの集めた銀狼の中で、俺と一緒に後継者候補の一人になっていた子だった。俺でさえ、集まった銀狼の中では若い方だったというのに。その俺よりも、更に若くて。不意に、俺は
とてつもなく懐かしい気持ちになる。ファウナックで過ごした、短いけれど楽しかった日々を思い出してしまう。クランが居て。それから。俺とクランを見守っていた、あの赤狼が居て。
「じゃあ、もしかしたら。このクラントゥースが、ガルマの認めた後継者候補なのかも知れないね。それならギルスの姓を名乗るのは、おかしな事じゃない。養子に入ったんじゃないかな」
夢を見ている様な俺の耳に、そうではないクロイスが、素早くクランの現在を推察して口にしてくれる。なるほど。それならクランの姓が変わっているのは納得できる。それにしても、あんなに他の銀狼の候補が居たのに、
その中から勝ち残ったのか、クランは。勝ち残るにせよ、そうでないにしろ。あんなに幼くて、ファウナックに居るのも寂しくて堪らなさそうな顔をしていたから。てっきり俺は、あの後。俺が一人でファウナックから出た後に、
クランも親御さんの下に戻ったのかと思っていたのに。そうはしなかったんだな、クランは。
「そっか。クランが、ガルマ様の使いなのか」
「なんの用事か、わかりそう?」
「ううん。余計わからなくなった」
でも、やってくるのがクランなら。会いたいな。早速俺はクロイスに返事を出してもらって、その日から、クランがやってきてくれるのが楽しみになった。
クランがやってくると、改めて使いが俺の下へと来た。昨日、このフロッセルの街に到着して。そのまま宿を取ったから、今日はこれからやってくるという。
それを聞いて、俺は随分急だなと思ってしまった。その性急さが、なんだか俺をどこにも逃がすまいとしているかの様にも思えて。とはいえ俺としては別に避ける理由も今のところは無いので、早速に準備を済ませると
ジョウスの館の入口で待たせてもらう事となった。どうせもうすぐ来るのなら、態々部屋で引き篭もって勿体ぶる事もなかったし。
それにしても、ファウナックから態々やってくるのがクランだとは思わなかったな。俺がここに居れば、その内俺と、スケアルガの人が一緒に居る事は嫌でもガルマの耳に入って。そうなったら、何かしらの事は起こるかも
知れないと思っていたけれど。それにクランは俺よりも幼くて、旅なんてとても辛いだろうにな。別の人が変わってやれば良かっただろうにな。とはいえ、それでまたクランに会えるのだから嬉しいけれど。俺がミサナトから
ファウナックに行くのだって、乗り物酔いだのなんだので、相当しんどかったというのに。このフロッセルからファウナックだと、まあミサナトよりはいくらか近いとはいえそれなりに距離はあるし。そういえば、クロイスは
俺がここに居るかどうか確認してほしい旨を綴った手紙だと言っていたけれど。この近くまで態々来てからそれをするって事は、どちらかと言えば俺がここに居る事には確信を抱いているのだろうな。ただ俺が、下手に
移動したりしない様にしたいだけで。そう考えると、やっぱりファウナックにまた来てくれとか、そういう事なのだろうか。単に招かれるだけなら、お断りしたいところだけど。もしやそのためにクランが使わされたのだろうか、
ファウナックの中で俺と親しくて、それでいてガルマの様に下手に動けないのは除いて、こうして身軽に動かせる人物となったら、何故かファウナックに残り続けていたクランしかいないのだし。そう考えると、大分面倒な事に
巻き込まれているのかと、ちょっと不憫になる。しかもガルマの招聘だったら、今度は丁重にお帰り頂きたいところだし。
「ゼオロ。お客さんは来た?」
俺が一人待ちぼうけをしていると。わかっている癖に、館の中からクロイスがやってくる。それに俺は苦笑いを返して。
「ううん。まだ」
「中で待っていたら? 寒いだろうに」
「でも、できれば私が一番にお出迎えしたいし。クランはまだ小さいから」
「そんなに若いの?」
「うーん……大体、私より二つくらい下なのかな?」
俺が厳密には何歳であるかがよくわからないので、その辺りは適当だけど。それを聞いて、クロイスも少し驚いた顔をする。
「へえ、そんなに若いのに、もうガルマの使いになって。しかも養子にもなれたのか。随分なものだね。そういえば、やっぱりその、銀はそれ程でもないの?」
「ガルマ様の様なって事? ……そうだね。後継者候補として集められた銀狼は、私は全員見ていたけれど。ガルマ様の様な銀は居なかったな」
「ゼオロを除いて、か」
「大いに不服だけど。本当に、ギルスの血統って大事なんだね」
「そりゃあね。だからこそ、色々あった訳だし」
その色々の中に、本当に沢山の出来事があって。その分ガルマも苦労しているんだなと、今更感じてしまう。ガルマも元気にしていると良いけれど。
ファウナックで起こった事を、前よりも少しだけ詳しく。クランが来るまでの暇潰しがてらにクロイスへと伝える。ハゼンの事は、やっぱり話さなかったけれど。そうしている内に、館の外が少しだけ騒がしくなって、少し経てば、
馬車が館の中まで案内されてやってくる。流石に、あの日俺を迎えにやってきたハゼンが使っていた物よりも、更に大きくて仰々しい物だった。ギルスの家紋も、しっかりと施されていて。それが正式なガルマの使いである事を
雄弁に物語っている。いつの間にか、クランはこんな事までできる様になっていたんだなと、俺はちょっと感慨深くなる。ファウナックで、俺と一緒に過ごしていた頃のクランは。とても引っ込み思案で、それから当たり前だけど、
子供子供していた部分があったから。
馬車の扉が開かれて、そこから銀狼が。俺はその顔をすかさず見て、やっぱりそれはあのクランなのだという事を理解する。それにしても、動物の顔の違いなんてあんまり見分けが付かないと思っていたのに、今となっては
それもある程度見分けられる様になってきている自分が、最近ちょっと面白い。俺も、彼らと同じ頭を持っているとはいえ。
「クラン」
馬車から下りて、そのままジョウスの館を見上げていたクランに、俺は駆け寄る。クランは俺を見て僅かに頬を緩めた様に見えたけれど、すぐにその表情は厳しい物になってしまって。俺は慌てて、その様子を改めて
観察する。着ている物も、後継者候補だった頃のシンプルな物ではなくて、上等な生地のガルマが着ていた和服に近い物に似ていた。流石にクランだから、その中にも一枚身に着けて、露出が激しいなんて事はなかった
けれど。駆け出した足を少しずつ遅くしてから、俺はクランの目の前へと辿り着く。相変わらずクランは俺よりも背が低かったけれど、いくらか身長差が縮まった様な気がする。その内追い越されてしまうのだろうか。ヒュリカも
そうだけど、ほんの少し見ない間に、この時期の子供ってすぐに背が伸びてしまうんだな。ヒュリカはちょっと伸びすぎだったけれど。
「クラン。久しぶりだね。元気だった?」
そんな事よりも。俺はクランに久しぶりに会えたのが嬉しくて、そう微笑みかける。けれど、クランの表情は硬いままで、俺は少し首を傾げてしまう。以前のクランだったら、そのまま俺の胸に飛び込んできて、全身で喜びを
表していただろうに。今のクランは、ただ冷めた様な目で俺を見ているだけだった。
「お久しぶりです。ゼオロ様」
「えっ。あ、うん」
「本日ここに、私が来たのは。ガルマ様の命を受けて、あなた様とお話をするためです。ですが、こんな所でお話という訳にもゆきません。どこか、案内して頂けますか」
「あ、はい。えっと、それじゃ私の部屋に案内するね」
話しながら、なんだかクランの印象が随分変わってしまったなと、俺はまた首を傾げたくなる。以前のクランなら、こんな話し方はしなかったのにな。ガルマの館に残っている間に、何かがあったのだろうか。とはいえ、クランの
言う事ももっともだった。ガルマの使いとしてやってきてくれたクランを相手に、立ち話という訳にもゆかないのは確かだ。
「ようこそ、クラントゥース・ギルス様。私はジョウス・スケアルガの息子で、クロイス・スケアルガと申します」
俺がクランの態度に戸惑っていると、助け船を出すかの様にクロイスも出てきて、丁寧にクランへと一礼する。俺が誰だお前って目を向けると、クロイスが片目を瞑ってる。良かった、いつものクロイスだ。
「ガルマ・ギルス様の使いであるクラントゥース様を迎えるにあたり、私では不足があるとは思いますが。生憎ジョウスは用事が立て込んでおります。どうかお許しください」
「……クラントゥースです」
饒舌なクロイスとは対照的に、クランはクロイスの事を見て、嫌な顔を隠そうともせずにぶっきら棒に言う。それを見て、俺はわかっていたつもりだけど。ちょっと寂しい気持ちになる。そりゃ狼族で、しかも銀狼なんだから、
スケアルガに属するクロイスに挨拶されたって嫌だとは思うだろうけど。クランは俺がハゼンを、つまりは赤狼と触れ合わせても、ちょっと怖がっていたくらいだったから。もしかしたらクロイスと会っても、嫌な顔は
しないかも知れないと俺は期待していたから。でも、それを期待するのは虫が良い話なんだろうな。それに、スケアルガのした事の全てを俺は否定するつもりはないけれど、かといってそれで狼族がスケアルガを嫌うのは
当たり前の事だとは思うし。ただ、クロイスはジョウスの息子であって。別にカーナス台地の事に関与している訳でもなんでもないのだから。やっぱりそんな風に見られるのは、辛い。
クロイスは俺の様子を見てから、それでも笑顔を崩さずにクランを館へと案内する。クランは供回りに付いていた狼族の男達にここで待つ様に言って。その狼族達を大分困らせていたけれど、涼しい顔でクロイスに
案内を乞う。供の狼族の方は、もっとあからさまにクロイスの事を睨んでいたから、それと比べるとまあ、クランでもまだましな方なんだなと俺は思う。ミサナトでクロイスと二人で過ごしていた時は、こんな事はなかったので、
やっぱりギルス領に居る狼族と、それ以外の外に出ている狼族とでは、大分意識に差があるんだなと痛感する。因みに俺の方を見た護衛の人達は、その場で跪きかねない程の敬愛を露わにしてくれた。それはちょっと
露骨過ぎるのではないだろうか。
「クロイス。ごめん、外してもらえるかな。すぐに呼ぶから」
俺の、というよりはクロイスの部屋へとクランを連れて。居間で向かい合って座ると。俺はとても申し訳ない気分になりながらも、クロイスにそれを伝える。クランがずっと不快そうな顔でクロイスを見つめている物だから、
とにかく少しその機嫌を良くしてからの方がいいかも知れないと思って。
「ごゆっくり」
そう言って、クロイスは自室へと引き上げてくれる。この部屋と、それから俺が使っている部屋まで含めて、クロイスの部屋だというのに。とても申し訳ない。
「久しぶりだね、本当に」
クロイスが入っていった部屋の扉を、クランが見つめたままだから、仕方なく俺から切り出す。そうすると、クランの視線がようやく俺へと戻ってくる。久しぶり、とさっきから言っているけれど、実際そこまで久しぶりという訳
ではないな。大体九ヶ月くらい前だろうか、俺がファウナックを出たのは。そう考えると、一年には満たないとはいえ。俺も随分この世界に順応して、生きてきたのだなと思う。
「そういえば、クラントゥース・ギルスって言ったけれど。やっぱりクランは、ガルマ様の養子に?」
「はい。今は、私がガルマ様の養子となって。次期族長として日々学んでいます」
「そうなんだ。後継者候補として、選ばれたんだね。凄いね、クランは。まだそんなに小さいのに」
俺が出ていった後、クランがどれだけ頑張ったのかはわからないけれど。他の銀狼の後継者候補を全て退けて、勝ち残り。その上でガルマの養子に迎え入れられるとは。クランが族長になるのが良いのではないかと
俺は当時、ちょっと思ったりもしていたけれど。まさか本当に、クランがその座に手を届かせようとしているとは思っていなかった。やっぱり何を言うにも、俺よりも若いのだし。
それにしても、やっぱりクランは随分空気というか、態度が変わったなと。じっと見つめながら俺は思う。口調も何もかも違うし。今だって俺が褒めても、どちらかと言えば嫌そうな顔をして、少し頷いただけで。かつての
クランからすれば想像もできない様な対応の仕方だ。そういう振る舞いも、次期族長としては不可欠な物なのだろうか。やっぱりそれはちょっと、寂しいな。
「そういえば。手紙には何も書かれていなかったけれど。私に用事があるんだよね? どうしたの?」
「ゼオロ様に、ファウナックに戻っていただきたいのです」
それを言われた途端に、俺は固まる。いや、予想していなかった訳ではないのだけど。でも、いざ戻れと言われてもな。戻りたくないし、戻らないと決めたし。
「それは、悪いけれど。聞き入れられないよ。私はもう、ファウナックには戻りたくない」
「ハゼンが、あそこで死んだからですか」
続けて放たれた言葉に、俺は思わず目を細めて、クランを見てしまう。
「……そうだね。だから、戻りたくない」
「お気持ちはわかりますが。しかしガルマ様が、ゼオロ様をお呼びなのです」
「どうして?」
「お身体の具合が、優れないために。もう、あまり長くはないのかも知れません。ですから、せめて一目ぐらいはゼオロ様に会いたいと。そう仰られて」
「そんなに、悪いの」
俺がファウナックに居た頃のガルマは、多少病んでいる様な部分は見受けられたけれど。それはどちらかと言えば精神的な物が主で。兎族の族長であり、また友でもあるリスワールの助けもあって、多少は立ち直れた
とばかり思っていたけれど。やっぱり、そんなに簡単にはいかなかったのだろうか。それも、長くはないとクランは言う。そう言われてしまうと、俺も強く断りにくくなってしまう。お見舞いに行くくらいは、良いのかも知れない。
「それから、個人的な頼みがあると。それについては、ガルマ様は教えてくださらなかったのですが」
「個人的な頼み、ね。また厄介事じゃないと良いけれど」
「それで。ファウナックに、お戻りいただけますね? ゼオロ様」
「どうしても行かないと駄目?」
「お断りになられるのであれば、相応の理由は必要ですね」
威圧的にそう言われて、ちょっと怯んでしまう。相応の理由と言われても、正直無いというか。いや、ハゼンの事があるから、戻りたくないという理由はあるのだけど。クランはそんな事は承知の上で、それでも今俺の
目の前で、俺を射抜く様に見つめながら帰ってこいと言っているのだから。多分頷いてもらえないだろうな。
「……私は。ガルマ様がゼオロ様を呼んでいるのは、次期族長になっていただきたいからだと思っています」
「え? どうして? それはもうクランに決まったのでしょう」
「それでも。私ではギルスの血統を絶やす事になる。いくら養子に入れられたところで、それは変わりありません。しかしゼオロ様ならば」
俺よりも幼くて、でもその幼さをどこかへ捨て去ってしまったかの様な瞳が、俺を。俺の銀を見つめる。それに、身震いがした。まるで、俺の銀に憑りつかれでもしてしまったかの様だ。自分だって、確かに俺やガルマ程では
ないにしろ、銀狼である事に違いはないのに。
「気持ちはわかるけれど……。でも、私だって遠縁の銀狼だよ」
「私はそうは思いません。ガルマ様も、本当にはそう思ってはいないでしょう。ハゼンの一件があったから、あなたをみすみす取り逃がしてしまいましたけれど。けれど、ガルマ様が本当は誰を望んでいるのかぐらい、
私にはわかります」
散々ファウナックで言われた事が、ここでも飛び出してくる。俺の銀は、遠縁の者の持つ銀とは違うと。ガルマのそれであると。本当に、なんでこんな銀なのだろうか。
「でも。それじゃ、私が戻ったら。クランはどうなるの。もう次期族長として、決まっていて。しかも養子にまで加えられているのに」
「私はゼオロ様が継ぐのならば、それで構いません」
あまりにもあっさりとクランがそう言うから、驚いてしまう。俺が今、その様な名目でファウナックに戻ったら。当然クランの立場なんて、何もかも無くなってしまうというのに。その上で、やはり遠縁の、ギルスの直系と
比べれば劣る銀などではいけないと。そういう風に見られてしまうのは間違いないのに。何故そんな事をあっさりと受け入れられるのだろうか。
「……駄目だよ。そういう事なら、私は尚の事戻れない。今私を、狼族の族長にするのは。ラヴーワのためには良くない」
けれど。俺が次に考えなければならないのは、結局のところそっちなのだった。今のファウナックは、狼族は。一時の独立の騒動が鎮まって、比較的穏やかな状態になっていると言ってもいい。ガルマが子を遺せぬ事、
だからこそ後継者候補の銀狼を求めている事が公にされ、それは混乱を招いたけれど。結局狼族にはそうするしか道が無くて。言い換えればそれは、ようやく狼族が、ギルスという、遠縁の銀狼とは異なる銀を持つ存在から、
脱しようとしている瞬間でもあるのだから。今までは銀狼と言えば、ギルスであったのかも知れないけれど。それが切り離されて。そうなれば、狼族とスケアルガ、延いては他種族との確執も、改善とまでは言わないけれど、
多少は穏やかな物になると思っていたのに。ここで俺が、ギルスの銀と比べて、遜色の無い銀を持つ俺が再び族長になってしまったら。例え実際にはギルスの血筋でなかろうと、一度は途絶えようとしていた銀への渇望を、
狼族は思い出してしまうだろう。それに俺は異世界人なのだから、それが知られたらやっぱりどうなるのかわからない。狼族はこのまま、遠縁であろうと銀狼を族長に仰ぐのが無難だし、今後のラヴーワのためにも良い事だと
俺は思っていた。ガルマの死が近づいているというのなら、またひと悶着ありそうだけれど。
「まあ、今私が言った事は、あくまで私がそう思っているだけです。せめてお見舞いだけでもしていただけませんか」
クランが、少し手口を変えてくる。俺が後継者になるつもりが本当に無い事を察してくれたみたいだけど、それでも一度はと。そう言われると、少し揺らいでしまう。
「クランはそのために、ここまで来たの」
はぐらかそうと、俺は少しだけ話題をずらす。
「そうですね。まさか、こんな所にゼオロ様が居るとは、思いませんでした」
「やっぱり。狼族からしたら、私がここに居るのはおかしいのかな」
「それは、当然でしょう。ゼオロ様の銀を見れば、スケアルガの者と一緒に居る事なんて」
「……クランも、そう思うの?」
束の間、クランは言葉を濁すかの様に沈黙を保って。けれど、すぐに口を開く。
「そんなのは、狼族に対する裏切りですよ」
そう、言い切ってしまう。それを聞いて、とても辛い気持ちになる。例えばこれが、ジョウスの事を取り上げて。それと一緒に居る俺を責めるのなら、まだわかる。でも、今クランが責めている相手は、扉一枚を隔てた先に居る
クロイスで。関係者ではあっても、当事者とまでは言えない相手だ。そして、今は俺の恋人でもある。
裏切り者と言われて。ふと、ハゼンの事を思い出した。ファウナックで赤狼の襲撃を受けて。俺を襲う赤狼を撃退したハゼンが、同族である赤狼から裏切り者と罵られた時。心底から傷ついた顔をしていた事を。あの時の
ハゼンの気持ちと、今の俺は。きっと、同じだと思った。自分が大切だと思えた物が、たまたま、本来ならば憎んだりするのが当然な物であっただけでしかないのに。それが当たり前の人達からは、どうしようもない
裏切りに見えてしまって。裏切り者と罵る相手の事だって、元々自分がそれの仲間なのだから、同じぐらい大事な事には変わりないのに。相手はそんな事を、斟酌する訳ではなくて。
けれど今となっては、ハゼンはとても凄いんだなって。ハゼンのあの時の気持ちを理解しながら俺は思う。俺は異世界人で、そうしてたまたま、この銀狼の身体になっただけだから。だから、クロイスの事を先入観も
無しに、友達として好きになって。それから銀狼の事、スケアルガの事を学んで。それでもクロイスが俺と生きたいと言ってくれた事で、俺も、クロイスと一緒に居たいと、そう思える様になれたけれど。でも、ハゼンは
銀狼の事をとても憎んでいたから。それなのに、例えどれ程銀狼を憎んでも、それと、俺という個人を切り離して接していたのだから。裏切り者と罵られても、それでも最期まで、俺の事を守ろうとしてくれていたから。
だから俺も、そうなりたいと思った。
「……ふうん。そういう風に言うんだ」
クランが、はっとする気配が伝わる。俺はそんな物は、もう見るつもりも無くなってしまったけれど。少しだけ、瞼を閉じて。心の中で深呼吸をする。クランに見せたら、俺が本当は怖がっているのも伝わってしまうから。
次に瞼を開いた時。俺は、ただクランの事をじっと見つめて。それから、少しだけ居住まいを正した。
「クラントゥース様。申し訳ございませんが、やはり私はあなた様と共にファウナックへ参る訳にはゆきません。あなた様が、私をその様に思うのであれば、それもよろしいでしょう。なんとでも、その様に仰ればよろしい。
しかし私は、私の生き方も、感じ方も、考え方も。あなた様とはどうやら違う様ですので。どうぞガルマ様にも、その様にお伝えください。ゼオロは狼族の裏切り者であると。そうして、到底族長が務まる様な器ではないと。
あなた様は私をその様に思われていらっしゃるのですから。私が族長に、などというのはあまりにも荒唐無稽な話でありますし、構いませんよね? それに、族長云々はまだガルマ様のお言葉と決まった訳でもありませんし。
重ね重ね申し訳ございませんが、そういう事ですので。お帰りいただけますか。今の私では、到底ギルス領に入るなどというのは、恐れ多くて、足が竦んでしまいます故。遠い地から、ゼオロはガルマ様のお身体を案じていると、
その気持ちだけは確かであると。その様にお伝えいただけますか」
「ゼオロ、様」
僅かに、クランが怯んだ表情を見せる。良い子だったのにな、どうしてこうなってしまったのやら。
「クラン。私の事は、いくら悪く言ってくれても構わないよ。実際、誇り高い狼族。それも、銀狼であるからには。他種族と仲が良いというのは、困る点も多いだろうからね。今クランが、私に言った様に。でも、私だけなら
いざ知らず。私が好きで付き合っている方を悪く言うのは、私は許さないし、許すつもりもない。……変わってしまったね、クラン。私は、クランがハゼンの事を恐れずに接してくれていたから、こういう子が次の族長に
なれば良いなと思っていたけれど」
本当に、残念だと思う。でもそれが狼族として、銀狼として。そして族長として振る舞うために必要な事ならば、それは仕方がないな。俺の味方になって、なんて簡単には言えないし。そうしたら、今度はクランも、自分の
立場という物を失ってしまうのかも知れないし。話せばわかり合えるとか。本当に幻想だなと思う。お互いに近づかない様にする事が、最大限にできる譲歩でしかないとは。
「もう、帰っていいよ。私は帰らない」
「そういう訳にはゆきません」
突然、クランが立ち上がる。俺を見る目が、さっきよりも更にぎらついていて。その様子に、俺は思わず身の危険を覚える。俺よりも若くて、幼くて。あんなに可愛いと思っていたはずの存在だけど。その気になれば、
そうやってきちんとした狼族の殺気を飛ばす事ができるんだなと。俺は今更の様に理解する。かといって、引く訳にもいかなかったけれど。
咄嗟に、その場から俺が逃げようとすると。俺の行く手に、青白い炎が生まれて、俺は慌ててソファから立ち上がろうとした姿勢のまま固まる。ガルマの使っていた炎と、似ている。目の前のそれが、クランの力が、ガルマに
匹敵するとは思っていないけれど。それでもあの時の、触れた物全てを即座に消滅させるかの様な印象が、俺の動きを鈍らせる。
「クラン」
「どうしてもあなた様には、ファウナックへ戻っていただきたいのです。例え、あなた様にその気がなくとも」
「随分、無理矢理だね。クランがそこまでする価値が、私にあるとは思えないけれど」
「それはあなた様が何もわかっていないからです」
少しずつ、テーブルを迂回したクランが歩み寄ってくる。どうしよう。ちょっとやり過ぎたかも。相手をブチ切れさせて暴力に訴えられたら、どうしようもないのだから。もうちょっと穏便に事を済ますべきだっただろうか。いやでも、
俺にも譲れない物はある訳で。ああでもどうしよう。
「クロイス……」
呼びかけて、俺は慌てて声を小さくする。それは不味い。今ここにクロイスが来るのは、そのまま銀狼とスケアルガの戦いに発展しかねない。それは避けないと。
じりじりとにじり寄ってくるクランに、俺はできるだけ後ろに下がろうとして。背後にある青白い、鬼火の様な炎の熱を感じる。これ触れたら不味いよな。
クランが俺に、手を伸ばしかけて。けれど、それがあらぬ方向へ向かうと、その場で光が眩く光る。同時に、俺は背後から炎の熱を感じなくなる。
「そういう事されると、困るんだけど」
もう少し後ろの方から、声が。クロイスの声だった。俺が名前を口にしてしまったのが、悪かったのか。それとも少し物音が立ったリ、口論染みてきたせいなのか。クロイスは俺とクランの剣呑な空気に気づいたのだろう。
「ゼオロ。こっちに」
振り返ると、クロイスが開け放たれた扉の所から掌を向けているところだった。青白い炎はどこにも無くなっていて、俺は慌てて、ソファから転げる様に飛び出してクロイスの下へと向かう。クロイスは俺の事を抱き留めてから、
すぐに後ろへと庇ってくれて。やってしまったなと思いつつも、今はそれが頼もしい。俺が戦っても、ただの子供にすら勝てるのか怪しいしな。いや戦うのは良くないけど。
「邪魔をしないでいただけますか。今はまだ、私とゼオロ様が話している途中なのですから」
「生憎ですが。脅して事を進めようとするのを、少なくとも私は話している、とは考えておりません故。その様な真似をするのならば、お引き取り願いたい。ここがどこであり、そうして今あなた様が働いているのは無法で
ある事を、どうかご理解くださいませ。クラントゥース様」
クロイスが掌に赤い炎を灯しながら、言葉を吐き出す。俺はクロイスの後ろに居るから、よくわからないけれど。多分俺が正面から見たら思わず悲鳴を漏らしてしまう様な状態なんだろうな。怒った肉食獣は怖い。
「スケアルガの者には、関係の無い事でしょう」
「……そういう訳にはいかないね。ゼオロは俺の恋人なんだから」
「恋人?」
明らかに動揺した様な声音が届いて。俺はそっと、クロイスの背中から顔を出してクランを窺う。訝しそうな目で、クランが俺とクロイスを交互に見つめていた。
「そんな馬鹿な話が。スケアルガの者と親しくしているというだけでも、狼族の面汚しと言われるのに」
「そんなの、知ったこっちゃないよ。なあ」
そう言って、クロイスが空いた手で俺を横に移動させて。それから肩を抱き寄せてくる。えっ。こういう流れなの。とはいえ、こうなった以上は腹を括るしかなさそうだ。
「それは、真なのですか? ゼオロ様」
「……そうだよ。私はクロイスと、付き合っているから。だから、クランがクロイスの事を悪く言うのも、私は嫌だった」
俺からもはっきりと伝えると。クランはまた目を細めて、膠着状態に戻る。
無言のまま、クロイスの掌の炎がどんどん大きくなる。それに気づいて、俺は少しだけ、最近ではすっかりやらなくなっていた魔法のイメージを行う。そうすると、明らかに水を得た魚の様に炎が勢いづいて、今にも
爆発しそうになる。クロイスはその変化に気づいて、そのまま炎を消してしまったけれど。クランにはそれで充分な様だった。いつの間にかクランの周りに舞っていた青い炎が、消えてゆく。
「……日を改めます。五日後に、またお返事を聞きに来ます」
それだけを口にして、クランは一礼して、さっさと部屋から出ていってしまう。本来ならクロイスが館の入口まで見送りをするべきだけど。そんな事は気にもしていない様だった。クランが居なくなってから、クロイスが慌てて
俺の方へ向くと、しゃがみ込んで。俺の肩を掴む。
「大丈夫だった?」
「うん。ありがとう、クロイス。助かったよ」
「何話してんのかなーと思ったら、あれかよ……困ったもんだね」
「私も、少し言い過ぎたから」
「それでもあれはないわ」
それから、虚勢を張ろうとしたけれど、なんだかんだでクランの形相に怯えていた俺は、クロイスの部屋に招かれて。そのままベッドの上で、すっかり定位置になってしまった、座ったクロイスが足を広げた箇所に収まって、
クランとのやり取りを説明する。それからクロイスの炎を大きくした事についても問い詰められる。そういえばミサナトでは、クロイスの魔法に俺はどうこうはしなかったんだな。危ない事するなと、怒られてしまう。
「ごめんね。迷惑かけて」
最後に、それを付け足して。結局クランとクロイス。つまりは銀狼とスケアルガの衝突を招いてしまった。それは避けなければならなかったというのに。
「何言ってんの、ゼオロちゃん。あんな風になってて、俺が助けない訳ないし。この際はっきり言ってやれて良かったよ」
「でも。クロイスに嫌な思いも、させちゃったし」
「いいって。それに、俺は狼族から嫌われるのは、もう慣れてるし」
「……一方的に嫌われて。それで、いいの?」
俺がそれを口にすると、クロイスがちょっと寂しそうな顔を見せて。それを見て、クロイスもやっぱり凄いんだなと俺は感心する。少しだけ形は違うけれど、クロイスのそれも、ハゼンと似ていた。狼族から嫌われて、クロイス
だってそんな状態で生きていたのだから、狼族の事が嫌いになってもおかしくないのに。それでもミサナトに居た時から、俺を好きだと言ってくれて。そういう勇気を、俺も少しは持てたのかな。
「良くないけど。でもさ。結局俺は、何も失ってないから。失ったのは、狼族の方ばかりで。だから、多少嫌われるのは、仕方がない事だと思ってるよ」
でもそれは、ジョウスがした事であって。クロイスがした事ではないのに。思わずそれを口にしようとして、けれど俺は口を噤んだ。クロイスとジョウスの関係は、傍から少し見ると良好な様にはとても見えないけれど。けれど、
何かがあればジョウスはクロイスの意見も聞きに来てくれるし、クロイスも、ここに居続けるって事はジョウスを必要としていて。勿論父親としても、しっかりと家族と思っているだろうから。そんな相手を、悪く言う事は
できなくて。でも、クロイスは俺が何を言おうとして押し黙ったのかを、察した様だった。
「俺は、いいよこれで。それよりもさ。ゼオロちゃんこそ、良いの。狼族から、そんな風に見られて」
「別にいいよ。それに、これで狼族の族長に、なんて声が止んでくれるなら。それが一番でしょ?」
「まあ、確かにね。ゼオロちゃんの言う通り。ギルス特有の銀が途絶えてくれた方が、今後のためには良いけど。ちょっと、酷い言い方だけどさ」
一番酷いのは、それを承知の上で、更に自分はその銀を持っているのに。銀狼から距離を取っている俺なんだろうけれども。
「でも、困ったな。また後で来るって」
「……ゼオロは。結局のところどうしたい?」
クロイスが、俺の意見を尊重しようと。そんな事を訊いてくる。それに、俺は少しだけ考える。確かにクランは今日は引いたけれど。これで終わりではないだろう。それに、それとは別にガルマの容体は気になっていた。
「族長になるとか。そんな話はまったく乗り気ではないけれど。でも、ガルマ様の事が気になるから、一度はファウナックに行ってみたいなって思ってはいる」
「問題は。いざ戻ったら、なんかもうギルス領から出してくれないんじゃね? って空気なところだよね」
俺が心配しているところを、クロイスがありのままに表現してくれる。まったくもってそうだ。本当にそれ。
「次に来た時に、少しはクランも落ち着いてくれていると良いけれど」
「そうだな。……ちょっと、俺も親父に相談してみるよ。忙しいから、できれば親父に負担をかけたくなかったけれど。でも、ゼオロが族長になるかどうかが、絡んでくるとしたら。流石に黙っている方が後で責められかねない」
それについて、俺からもう一度クロイスに謝って。そうすると、クロイスが気にするなと頭をぽんぽんしてくれる。なんだか最近これが多い。クロイスの中で流行っているのだろうか。
その日から、クロイスとはクランについてどうすれば良いのかと相談を重ねたけれど、結局良い案は出なくて。そんな事を繰り返している内に五日が過ぎて。また俺はクランを迎える事になる。五日前は、クランが
やってくるのが、あんなに楽しみで仕方が無かったのに。今はこうも正反対の気持ちを抱いてしまうとは。なんだか辛い。クロイスには争うつもりはほとんどないのだから、あとはクランが落ち着いてくれれば、それでなんとか
なりそうなのにな。
「それにしても、あのクラントゥースの態度は。なんだかゼオロちゃんに似てるね」
「……私、あんなに踏ん反り返って、クロイスの事馬鹿にしてた?」
クラントゥースが再びやってくるのを館の入口で待ちながら、クロイスと話をしていると。そんな事を言われて。思わずそう返すと、クロイスが面白い物を見たとでも言いたげな顔で頷く。
「そうじゃなくてさ。時々ゼオロちゃんが、親父とかと話す時の感じに似てるなって思って。クラントゥースっていうのは、ファウナックで会っていた頃は、そんなんじゃなかったんでしょ?」
「うん。普通の……って言って良いのかわからないけれど。とにかく小さい男の子って感じで。私の事も、お兄ちゃんって呼んでくれてたよ」
それがどうしてあんな事になってしまったのやら。あんなに可愛かったのに。動物の子供的な意味で。そう説明すると、クロイスがおかしそうに笑いだす。
「それじゃ。きっとクラントゥースは、ゼオロのそういう姿を見ていて、今はその真似をしているんじゃないの」
「……なんでそんな事するの?」
「さあ。よっぽどゼオロの事、好きで。それから憧れてたんだろうね。まあ、ゼオロちゃんがマジでそういう風に話してるのと比べたら、全然及ばないけどさ。俺は親父に話しかけているゼオロちゃんくらいしか見る機会が
ほとんど無いけれど。あれは結構怖いわ」
「お話があるのですが。クロイス様」
「やめて。俺に本気出さないで。俺まだ尻に敷かれたくない」
いずれ尻に敷かれる予感はしているんだな。それを察して、俺も笑ってしまう。それにしても、そんな風に見られているのを俺は気づいてなかった。クランの前では、あんまりそんな風には振る舞わなかったと思うの
だけど。夜会の席でとか。他の銀狼が居る時は、そうしていたくらいだろうか。あとは俺に遠慮しようとするハゼンをある程度怒らせながらからかう時とか。あ、多分それだな。
そうこうしている内に、約束通りにクランがまたやってきて。初めての時と同じ様に、部屋へと案内する。違っていたのは、あからさまに警戒するクランを見たからか、クロイスがにこやかな笑みを浮かべて、そのまま自分の
部屋ではなく。部屋の外へと出ていってしまったところだろうか。
「ファウナックに戻るつもりになりましたか」
二人きりになると、もはやクランは何一つ言葉を飾る事もせずに、そう口にしてきて。俺は困った様に笑ってしまう。
「そうだね。私も、少し考えたけれど。族長云々というのは別にして、ガルマ様の様子は気になるし。今はどんなご様子なの?」
それを訊ねた時だけ。クランの表情は曇るどころか、悲しそうな顔をして。本来のクランが覗けた様な気分になる。
「今はほとんど、ベッドに臥せったままで」
「それは前からじゃ?」
「いえ。それでも以前は、必要な行事などには顔はお出しになられていたではありませんか。けれど、今はもう一日のほとんどを横になっている有様で」
「病なのかな」
「気の持ち様だと、掻き集めた医師などは申してましたが。ゼオロ様に見舞っていただければ、多少なりとも持ち直すのではないかと思いまして。それからガルマ様としても、自分の口の利ける間に、ゼオロ様と言葉を
交わしたいと」
そこまで言われて、俺は考え込む。なんだか、思っていたよりガルマの容体は悪いんだな。元々あんまり良くはなかっただろうけれど。それにしてもガルマが気を病んでいるから来てくれとか。まるきり銀狼の候補者を
集めた時と同じ流れだな。
「この間は、私も少々無理矢理に過ぎました。今日は、決してその様な真似はせずに、ただゼオロ様の助けを乞います。どうか、お願いします」
クランが静かに頭を下げる。どうやらクランの中では、この間の事は大分反省する点も多かった様だった。俺が怒って、帰らないと言ったからだろうか。
「クランの言う事は、わかったよ。ガルマ様がそういう事なら、私も一度はファウナックに行きたいかな」
本当は、嫌だけど。もう戻らないって決めてたし。ただ、この辺りが落としどころなのは確かだろう。このままここで拗れて、またこの間の様になってしまうのは良くない。クランは子供だけど、ガルマの使いである事は
確かなのだし。気持ちを切り替えれば、ガルマの現在の様子を探るという風に捉える事もできるし。ガルマの存在は、今後の狼族の動きを左右すると言っても過言ではないのだから。その辺りの様子は、ジョウスやクロイスに
伝えられる物を伝えられれば。俺がここに居る意味もあるだろう。あとは純粋に、ガルマの事も気になるし。
「けれど。この間クランが言った様に私はこんな状態だから。こんな私でも、ファウナックに足を踏み入れるのは構わないのかな?」
「構いません。……できれば、あのクロイスとかいうのとは。離れていただきたいのですが」
率直な物言い。慣れてきたから、俺ももう苛立ったリはしないけれど。
「それでは、ゼオロ様がよろしければ。準備が整い次第、ファウナックへ参りましょう」
「行きと帰りと、しばらく滞在するのを考えたら。三月は掛かってしまうのかな」
「まあ、そのくらいじゃないですか」
クランが生返事をする。今の返答には帰らせねえよオーラが漂っていた。やっぱりそうなのか。困ったな。
「では、私はまた一度失礼して、旅の支度を」
「その必要は無い」
クランの言葉を遮るのと同時に、扉が開かれる。びっくりして、俺は身体を震わせて。それはクランも同じ様だった。利き慣れない低い声が、突然に聞こえてきたものだから。
けれど、顔を上げた俺が目にしたのは。扉を開いて、一歩部屋に足を踏み入れた赤い竜の姿だった。本人の姿を見たのは、ほんの短い間で、そうしてかなり前だったけれど。俺はそれが誰なのかを、今更見紛うはずもなく。
「……ガーデルさん。どうして、ここに?」
「ガーデル? この人が、あの爬族の王なのですか」
俺の言葉に、クランはすぐに自分を取り戻して乗ってくる。それを聞きながらも俺はクランの言葉を噛み締める。流石に、その辺りは耳聡いな。クランの耳にもガーデルの情報は、しっかりと入っている様だった。多分、
ファウナックからここまでの道中の事だったであろうに。
「どうやら、お前達二人は俺の今の立場も、よく知っている様だな」
とうのガーデルはというと。説明の手間が省けたという事を言外に示して。それから、俺の事をじっと見つめてくる。
「ふむ。あの時は、大して見ずにその場を離れたが。なるほど、ギルスの銀を持っていると言っても、差し支えないのだな、お前は」
「お久しぶりです。ガーデル様」
「ああ。そうだな」
ガーデルが、のしのしという表現がぴったりな足音を出しながら部屋へと入ってくる。でかい。改めて見ると、でかい。ヤシュバよりもでかいなこの人は。ヤシュバが今まで見た中で最大級だったのに、その上を行く
なんて。おかげで部屋に入る時、角が引っ掛かりそうになってかなり屈んでいたし、横幅も翼があるせいでかなりぎりぎりだ。辛そう。
「……ゼオロ様は、ガーデルとまでお知り合いなのですね」
「ま、まあ。ちょっとした縁でね」
早速クランから鋭い攻撃が飛んでくるのを、俺は苦笑して受け止める。やめてそんな目で見ないで。この間クロイスにもやられたから。
「それで、ガーデル様。お会いできたのは、嬉しいのですが。先程の言葉はどういう意味で」
「それはだな」
「おいおっさん。横にずれろよ! 入れないじゃん!」
大きな赤い竜の後ろから、声が。クロイスの声だ。ガーデルがうっかりしていたと、軽く手を振ってから身体を横にずらすと。今度はそこからクロイスが速足で入ってきて。更にその後ろから、こちらはゆっくりとした様子で
ジョウスが入ってくる。それでもこの部屋は狭くはならないとはいえ、俺はちょっと息が詰まりそうになる。なんだこの要人だらけの部屋は。俺の場違い感が半端じゃない。クランも本来ならそうだけど、今はもう次期族長としての
地位はあるのだし。そうなると俺だけが仲間外れな気がする。クロイスこっちきて。
「これは、また」
流石にクランが立ち上がってから一礼して、ジョウスを迎える。新参であり、まだまだ信用を勝ち得たとも言えないガーデルは別として、ジョウスが直に出てくるとなれば。流石にクランも座ったまま、俺と話を続ける訳にも
いかなくなる。
「初めまして、ジョウス・スケアルガ様。あなた様のお屋敷であるというのに、こうしてご挨拶が遅れてしまった事をお詫び申し上げます」
「その様な事は。私が忙しくて、クラントゥース様のお相手をできなかったが故の事。どうか、お気になさらずに」
「ガーデル・プツェンとの事が、おありだったのですね」
「ええ。ですから、他は全て後回しという事に」
クランとジョウスが話しているのを聞きながら。そういえば今更だけどどうしてガーデルがここに居るのかと思って、ジョウスとの話のために来たのだと理解する。でもいつ来るかとか、そんな事はまったく聞いていなかったな。
二人が話している間に、クロイスがさっさと俺の方へとやってきて、俺を立たせると少しだけ他の皆とは距離を取ってから、小声で説明をしてくれる。
「ごめん。あんまり言うのは良くないと思って。ガーデルはちょっと別の場所で、親父と話をしていたんだよね」
「そうなんだ。随分、早く来たね」
「ガーデルは飛べるからね。本当ならラヴーワの空の上を、今は味方とはいえ、前筆頭魔剣士が悠々と飛ぶなんて混乱を招くとは思うけど。かといって馬車を用意をして往復させるのは時間の無駄だから。ガーデルが
通る道すがらに居る者には説明をして、ガーデルが最短でここに来られる様にしてたんだよ。ただ、それでも飛んでいる以上どれくらいで来られるのかがわからなくて。こっちは親父がその用意をしていただけなんだけど」
「それで、ジョウスさんとのお話は済んだんだね?」
「そう。とりあえずは、ガーデルもラヴーワの味方という事になった。まあ、ここでガーデルを撥ね付けたり、敵に回すのは流石に得策じゃないのは確かだけど。本当ならこの後、八族の族長全てにその事でお伺いを立てる
物だけど。その辺りは流石親父っていうか。既に何人かからはガーデルの受け入れを承諾する返事ももらっているから。あまり手間を取らせずにガーデルには引き続き爬族を引き受けてもらおうって訳。まあ、爬族を指揮
できるのが他に居ないからっていうのが、大きいけれど」
「各々、話は済んだ様だな」
俺とクロイス、クランとジョウスの話が落ち着いた事を確認してから、ガーデルが切り出す。そうすると、立場的にガーデルはそれ程強くはないはずなのに、威厳が備わっている分、場に居る全身がそれに従わざるを
得ないかの様な空気になってしまう。筆頭魔剣士をずっと続けていて。そうして今は、爬族の王を名乗るのだから、それは当然の威厳と言わなければならなかったけれど。
「さて、それでは先程のゼオロ殿の問いに答えるが。クラントゥース殿には、今すぐの準備をしていただく必要は無い。ただし、ゼオロ殿にはファウナックへ行ってもらう。勿論、ゼオロ殿がこれを承諾すれば、だが」
「どういう事ですか。まさか、お一人でゼオロ様を向かわせるのですか」
クランが、早速ガーデルに口を挟む。縦にも横にも、三倍以上は大きいガーデルを相手に、少なくとも上っ面は冷静なままで話し掛けているクランは凄いと思う。俺でもちょっと尻込みしてしまいそうなのに。ガーデルはクランの
小さな身体をじっと見下ろしてから、微かに口元に笑みを浮かべていて。
「一人では行かせん。だが、クラントゥース殿と行かせるのは、俺は反対だ。これは、クロイス殿。そしてジョウス殿も同じ意見である。ゼオロ殿もまあ、そうだろう」
重苦しく、託宣であるかの様にガーデルは続ける。確かに、俺の意見もそうだ。ガルマの事は気になるけれど、でもここでクランと一緒に行くと。族長候補になれという圧力を掛けられて、そのまま帰れない様な。そんな気が
してしまって。だから行くかどうか、悩んでいるところだった。旅の間ずっとそんな話をされ続けるのだろうし、それは苦痛だ。
「であるならば。ここは俺から折衷案を提案しようではないか。ゼオロ殿には、ファウナックへ行ってもらう。ただし、一緒に行くのは俺だ」
「ガーデル様が……ですか?」
「俺の翼ならば」
そう言って、ガーデルがその背にある翼を広げて、更に大きくする。大きくし過ぎて風が起きて、テーブルの上の飲み物が入った容器が倒れてるけれど、俺以外は誰も気にしていない様だった。後で汚れを取る使用人が
大変そうだ。
「ファウナックへ向かうのに、飛ばせば十日も掛かるまい。ゼオロ殿を乗せても、少し伸びる程度だ。クラントゥース殿の本来の頼みはゼオロ殿をファウナックへ向かわせ、ガルマ殿の頼みとやらを聞いてもらう事だろう。それで、
異存はあるまいな」
「……まあ、ゼオロ様が、ファウナックに戻り、ガルマ様とお会いするのならば」
苦々しい表情で、それでもクランはそれには頷く。ただ、それでも納得していない部分はある様だった。
「ですが。あなたが。ガーデル殿がファウナックへ足を踏み入れるというのは。些か早計ではないでしょうか。非常な混乱を招く結果にもなりましょう」
「何。俺はもう、筆頭魔剣士でもなければ、ランデュスに属する身でもなく。そうして、八族の長である幾人かからは、既にその許可も得ている。ジョウス殿がその様に尽力してくれた事で、ファウナックのへの往復をするくらいの
時間も稼いでくれた。ここは俺が出るのが、もっとも円滑に事が運べると思うのだが」
「……信用して、よろしいのですか? ジョウス様」
クランが、ジョウスを咎める様に見つめる。けれど、クランの言う事ももっともだろう。長年ラヴーワを苦しめていたガーデルが、今味方になってくれたとはいえ。それをあっさりと受け入れられるのかは人に依るし、それが
狼族ともなれば尚更だし。というか狼族だと多分無理だろうなって俺も思ってしまうし。クランに問いかけられたジョウスは、僅かに考える表情をしていたものの。その内に不敵な笑みを浮かべてくる。嫌らしい。
「まあ、よろしいのではありませんか。どうもゼオロ殿は、ガーデル殿とも旧知のご様子ですし」
言葉に棘がある。刺さる。痛い。
「しかし。いくらなんでも、いきなりガルマ様に近づけるのは私は反対です」
「別に、俺は近づくつもりはない。ゼオロ殿を送り届けたら、あとはその場で待っていよう」
「そんな言葉が信用されるとお思いですか、ガーデル殿」
「クラントゥース殿。失礼だが、俺は爬族の王として、今爬族を率いる身だ。現在爬族は族長を欠いており、まあそれはその内に、マルギニーの息子の中から決まる事ではあるが。しかし少なくとも今だけは、俺は族長の様な
振る舞いをする事も許される。八族の族長と。それに含まれぬ俺では、釣り合わぬと。そう、申されるおつもりか」
「それは」
「少なくとも、族長ですらない貴殿に。その様な物言いをされる謂れは。俺には無いな」
クランの反撃は、そこまでだった。八族を筆頭として成り立つこの国で、ガーデルは例外とはいえ、それに肉薄する身分として現在はある上に。数人の族長からの承認を受けて、更にこの場を預かる身であるジョウスの
許しも出されたとあっては。クラン一人が反対をしたところで、それは通らないだろう。
「……私も、それで構いません。ガーデル様。私を、ファウナックへお連れいただけますか」
そして、俺も。それを否定する事はなく、受け入れるのだから。
旅の準備を済ませて、俺は館の外へ、クロイスとガーデルを連れて出てくる。準備といっても、空を飛ぶガーデルに抱きかかえられて、俺はただ揺られているだけなのだから、着替えをいくつか持つ程度だけど。残りは
ガーデルが持ってくるし。ドラスもそうだったけれど、ちょっとこの竜族の、タクシーみたいな扱いは良くないのではなかろうか。飲みの帰りにぜひ欲しい。
「なあ。もうちょっと頑張って、俺も連れてけないの? おっさん」
「無理ではないが。スケアルガの者がファウナックに足を踏み入れるのは、良くないのではないか」
「竜族のあんたにだけは言われたくない! ……けど、まあ。正直あんたより、俺が入る方が問題になるんだろうなぁ」
いつの間に打ち解けたんだお前らと突っ込みたくなる勢いで、クロイスとガーデルがさっきから話し込んでいる。クロイスはどうにかして俺と一緒にファウナックへ渡りたかったみたいだけど。やんわりとガーデルに断られて
しまう。一層この三人でファウナックに降り立ったらそれはそれで面白そうだけど。ギルスの銀と同じである、銀狼の俺と。ジョウス・スケアルガの息子であるクロイスと。前筆頭魔剣士であり、更に現在は爬族の王を名乗る
ガーデルの三人がファウナックに現れる。うん。駄目だな。大混乱だな。異色の経歴を持つお笑い芸人がチームを組んだみたいな訳のわからない感じが凄い出ている。更にガルマも加わる。世界狙えそう。
「駄目だよ、クロイス。それに、それはジョウスさんが許さないでしょ」
「そーだけどー。でもゼオロちゃんを一人で行かせるなんて……」
「俺が居るだろう」
「あんたが居るから余計心配なんですけど。いや、あのクラントゥースよりは大分ましだけどさ? でも、ゼオロと知り合いだって言うし、ゼオロも大丈夫って言うから任せるけどさ。先に言っておくけど、ゼオロは俺と
付き合ってるんだから。取るなよ。絶対取るなよ」
押されそう。
「安心しろ。俺は、俺と生きる時間の違う者に愛を囁くつもりは無い」
淡々とガーデルが否定してくれるのが、今は助かる。これでガーデルがクロイスとぶつかり合う様になったら、多分収集が付かないし。
館の庭に出て、充分な広さが確保できている事を確認すると。再びガーデルが翼を広がる。赤い翼が、陽の光を受けて輝いて。まるで地上に太陽が現れたかの様に眩い。やっぱり竜族って、ずるいと思う。恰好良い。
そうしてから、ガーデルが身を屈めて。俺に手を差し出してくる。
「行こうか。ファウナックへ」
それに頷いて、俺はその手を取って。ガーデルに抱きかかえられると、そのまま赤い竜が空を飛ぶ。ドラスの時と、変わらない。あっという間に、クロイスと館が小さくなって。俺は、天高く昇って。
「少し、高く飛ぶぞ。ここまでと違って、先触れも出せないからな」
そう言いながら、ガーデルが僅かに呟くと。俺とガーデルを薄い膜が包んで、息苦しさから解放されて。充分な高度に達した事を確認すると、ガーデルが南西へと。ワーレン領から、ギルス領へ。その中にある、ファウナックへと
向かいはじめる。
動いてゆく景色を見下ろしながら。俺は、これから向かう場所の事を考えていた。二度とは戻らないと決めた、あの街に。あの赤狼が眠る地に。俺は今向かおうとしている。
あの時俺を導いてくれたのは、赤い狼で。今俺を導くのは、赤い竜で。つくづく、赤色に縁があるのかなと。そう思った。