ヨコアナ
32.爬族の王
古ぼけた革張りの天幕へと、足を踏みいれた。俺からすれば、それは少し小さい物だから。窮屈な印象を受ける。
中は、外の肌寒さを感じぬ様に、心地良く過ごせる様にと整えられて、いくつもの動物の毛皮が敷き詰められていた。その上に胡坐を掻いて座しているのは、暗緑色の鱗を持つ爬族の老人だった。
「久しいな、マルギニー」
俺の記憶の中にあるいずれの姿とも、似つかわしいとは言えぬそれに。声をかける。老いた爬族は、ゆっくりと。深く頭を下げて俺を迎えた。
「再びこうして、見える事があろうとは。よもや、思ってはおりませんでした。ガーデル様」
「俺も、今はそう思う。随分、痩せたな」
「何。爬族の、寿命というものでございます」
「そうか。俺は、そこまで爬族に詳しいという訳ではないが。考えてみれば、お前も随分な歳ではあったのだな」
マルギニーとの付き合いは、それこそ五十年以上には及んでいるはずだった。流石に竜族である俺の方が長く生きるが、マルギニーも相応に生きてはいる。いつもは遜る様子を見せながらも、腹の中では何を考えて
いるのか、今一つ掴ませる事はしないこの老獪な爬族の族長は。今はどちらかと言えば、道端や街の中に居る大人しい老人のそれと、寸分違わぬ雰囲気を纏って俺を見つめている。
「用件を、聞こうか。お前の息子は、随分必死に俺を捜していた様だが」
いつもの様に、気儘に生きていた。筆頭魔剣士を追われてからの俺は、そうして日々を送っていた。戯れにラヴーワに渡り、獣のくだらん罠を誤魔化しては、筆頭魔剣士の頃であればさぞや問題になるだろうなと思い、
見る事も叶わなかった獣の地をこの目でゆっくりと眺めて。あとは、その繰り返しだった。丁度、南の辺りを見るのも良いかと放浪を重ねていたところで、俺の姿を見たという噂を聞きつけたマルギニーの息子達が俺を
訪って。そうして、乞われるままにここまで来たのだ。
「この地に、あなた様がいらっしゃるとは。最初に聞いた時は、我が耳を疑ったものです」
「悪くはないな。少なくとも、寒い北の地よりは。春が来るまでは、この辺りに居ようかと思っていたところだ」
少し湿気はしつこいが。それも乾燥した地域よりはずっと好ましい。鱗にも良いしな。
たわい無い会話をしながらも。しかしマルギニーはその内に本題に入ろうと思っていたのだろう。俺に、傍に腰かける様に言い。俺はようやくその場に腰を据える。俺の体格からすれば、天幕は狭く。だから俺は、自らの
背から広がる翼をなるたけ縮める様にする必要があった。それに悪戦苦闘して、どうにか落ち着くと。マルギニーはその場で身を投げ出してくる。
「爬族を、助けていただきたいのでございます。ガーデル様」
「よく、そんな頼みを俺にできた物だな。かつての俺は。筆頭魔剣士だった頃の俺は。到底お前に信用される様な振る舞い方をしたとは、思えないが」
「それでも、公平でありました。あなた様は、他のどの竜族よりも。公平に爬族と接してくださった。竜族の中で、それをする事のできた者がどれ程居たのか。私は。いえ、私だからこそ、それを重々理解しております」
「爬族を助けろ。お前は、そう言ったな。俺に、何を望む。お前の力では、不足なのか」
「この様に、私はもう老いてしまいましたから」
「お前が本当に老いたとは、俺は思わんがな。嫌竜派の一件にしたところで、お前の画策であったであろう」
「ご存知でしたか」
「東だけ、空けただろう。その地で嫌竜派が騒ぎやすい様に。そして速やかに沈められる様に。あの一件には、様々な思惑があったのだな?」
「左様でございます。強国同士が休戦をし、時を経た今。爬族の中で親竜派、嫌竜派の態度をはっきりさせぬ者達の中から、力ある者の与する側を見定める事。また嫌竜派を暴れさせる事である程度の不満を解消し、その上で
鎮圧を経てその意気と声を弱める事。また、その鎮圧に私が責任の一旦を担う形で参加し、竜族の……。いえ。これは、あわよくばという話であって。あまりにも無理な願いという物でしたが。いずれにせよ、あの騒動には
それなりの意味がありました」
「誤算は、リュースだけではなく。ヤシュバまでもが、嫌竜派の爬族を惨殺する方に傾いてしまった事だろうな」
「その様になる事も、あるのではないかとは思いましたが。しかしいずれにせよ、あれらの声を私が抑えさせるのも、単純に限界ではありました」
「そして裏目に出たか」
「我々は」
そこで、マルギニーは言葉を切った。投げ出して伏せた顔から、滴がいくつも敷物の上へと落ちてゆくのを見つめる。ふと、老いたなと。それを見て、俺は本当に思った。今まではただ、その様に見せたいが故に、そうして
いるだけにしか見えなかったが。
「我々は。いえ、私は。竜族になりたかったのでございます。どれ程その竜族から、蔑まれ様と。謗られ続ける爬族でありたくはなかった」
「お前が本当に成すべき事は。竜族に阿るのではなく、爬族がその様に軽んじられるという事実が無くなる様に。爬族をもっと誇り高い種族にするべきだった。お前達は決して、何一つ、自らの誇る物を持たぬ種族では
なかったはずだろう。マルギニー」
「あなた様の仰る通りでございます。しかし私は、そうする事ができなかった。私の浅はかさ故です。竜族と特徴の似た爬族として産まれたが故の、虚しい夢だった。私はそれに、一族の全てを巻き込んでしまった」
「後悔しているのか」
「いいえ。後悔などと、その様な物は。……ですが。見える物が、見えなくなった。そう思っております。いえ、それすらも私がただ、自分には道が見えているのだと。そう思っていたに過ぎないのでごさいますが。親竜派として、
竜族に遜っていた頃の私には、己の成すべき事、進むべき道が、はっきりと見えていた。しかしそれは、ただ見えていたに過ぎず、私が踏み入る事を決して許さぬ道だったのですね。今の私には、何も見えそうにない」
マルギニーの気持ちが、わからぬ訳ではなかった。マルギニーが産まれたその時から、既に爬族は竜族に羨望を抱く種族であったのだから。それを全てマルギニーのせいにする事は、できなかった。しかし。どれ程に
羨望を抱き、手を伸ばそうが。竜族に届く物ではなかった。近しいが故に、眼前に広がった蜃気楼に魅せられて。この男は、ここまで来てしまったのだろう。所詮は見えているだけで、掴む事のできぬ物でしかないというのに。
「夢を見るのならば、それが実際に届く物かどうか、よくよく推し計るべきであったな」
静かに、マルギニーが頷いた。それから、姿勢を正す。
「我々は、竜族から離れて。ラヴーワに付こうと思います」
「そうだな。それが、懸命だろう。ここに居ては、竜族と比べられるだけだ。お前達はもっと早くに、そうするべきだった」
「そのために。あなた様のお力を、お貸しいただきたいのでございます」
「何故?」
「追手が、掛かるやも知れませんから。昨今の事情を考えれば、ラヴーワの力が増すのは良しとはされぬでしょう。竜族の追手が掛かった時に、あなた様に、我々を守っていただきたいのです」
「虫の良い話だな」
「お望みとあらば。私が差し出せる物ならば、何もかもを差し上げましょう。どうか、それで手を打ってはいただけませんか」
「そんな物は、俺にとってどの様な意味も持たぬな。邪魔なだけだ」
気儘に足を運んだ先で、生きている今の俺にとっては。価値のある物と渡されても、困る物ばかりだ。マルギニーが俯く。
「この老いぼれの命、という訳にもゆかぬのでしょうな」
「まあ、そうだな。別に俺は、お前を殺したい訳でもなんでもないのだし」
しばらく、互いの間に沈黙が流れる。しかしその内に、マルギニーは首を振って。そうして再び俺を見た目には、猛々しい光が宿っていた。昔のマルギニーが、そこに居た。爬族とはいえ、隙を見せてはならぬ相手。束の間、
俺はその快さを懐かしんだ。そういう相手でなくば、面白くもない。
「ならば。戦を、あなた様に差し上げましょう」
「ほう」
思わず、自分の口が綻ぶのを俺は感じていた。気儘に生きる中で、唯一欠けていた物。闘争心を燃やすそれを、マルギニーは俺にくれると言う。己の腕を、己のみで磨くという日々の中に生きている俺にとって、それは
麻薬の様な甘美さでもって、忍び寄ってくる。
「もうじき、ランデュス軍はラヴーワ軍とぶつかり合うために動く。その時に、私の動きが知られれば。恐らくは、追手が掛かる。それも兵を率いた誰かが、いらっしゃる事でしょう」
「くだらん竜族の追手ではなく。俺が戦いたいと思える様な相手が、か」
「左様でございます」
「悪くはないな」
それも、かつては俺が居た軍で鍛え上げられた兵が相手だ。そしてこちらは、それには到底及ばぬ者を率いる。それは中々に困難を伴う事が約束されている戦いと言わねばならないだろう。
「面白そうだ。だが、マルギニー。そうすれば確実に、爬族に犠牲は出るだろう。それを考えるのならば。俺の力を借りずに、今すぐにでもラヴーワに落ち延びた方が賢明だと思うぞ」
「先程、あなた様は仰ったではありませんか。爬族を、誇り高い種族にするべきだったと。今のまま、ラヴーワに向かえば。爬族はさまで良い顔をされる訳ではありません。私自身が長年親竜派であったのだから、尚更です」
「堂々と、ラヴーワに乗り込みたいのだな。竜族に一矢報い、自分達は、決して竜族に遜るだけの種ではないのだと」
「そうするために、他ならぬ竜族の。それも、前筆頭魔剣士のあなた様の力を借りるのは。あまりにも虫の良い話だとは、思うのですが」
「お前の言い分は、わかった」
俺の心は既に、ここには無かった。マルギニーを餌に呼び寄せられてくる竜族の姿が、今から目に浮かぶ様だ。多分、リュースが来るはずだ。ヤシュバに突撃させる様な真似はさせないだろう。どうせならヤシュバをと
思わないでもないが。しかしリュースと戦うのも、面白そうだと思ってしまう。久しぶりに、こんな気分を味わった気がする。戦の匂いが、俺の全身に活力を与えるかの様だった。
「ランデュスを出る際に、竜神から余計な物を外してもらったのは正解だったな」
「引き受けて頂けるのですね。そういえば。高位の竜族は、竜神に縛られると聞きますが。あなた様は」
「大丈夫なはずだ。もっとも、あれは狸だからな。本当に全てが、とは俺も思わぬが。ともあれ、そうだな。そうと決まれば、マルギニーよ。お前にいくつかしてもらいたい事がある。何せ、爬族だけでは人数が足りぬやも
知れんからな」
「ところで。そこまで派手になされると。あなた様ももはやランデュスに戻る事は叶わぬと思うのですが。それは、よろしいのですか」
「構わん。それに、ラヴーワに居る友人に会いに行きたいと思っていたところだ。お前達を利用して、俺はその口実を手に入れる。それで良かろう」
そうして、遅くまでその日はマルギニーと、天幕の中で戦の事で話し合った。マルギニーは、今まで決して竜族に戦を仕掛ける様な事はしなかった。それは、いつだって嫌竜派の爬族がする事だった。その男が、今は
竜族と戦いたいと言う。華々しく散る場でも、探しているのかも知れなかった。
それも、俺にはどうでも良かった。戦ができる。本能の様な意思に、たまには浸る事が。俺は好きだった。
居並ぶ少数部族の長を、俺はじっと見つめていた。
彼らの俺を見る目には、恐れと。しかし期待が入り乱れている。それを見て、俺は静かに口を開ける。
「集まってくれた事に、礼を言おう。まずは、名乗ろうか。ランデュスの前筆頭魔剣士である、ガーデルだ。今は、ランデュスに属しているとは到底言えないがな」
俺の発する言葉以外には、何も聞こえない。誰もが口を閉ざして、一心に俺を見つめているかの様だった。
マルギニーに俺がまずさせたのは、人員の確保だった。爬族だけで全てが成せるのならば、それで良かったが。しかし爬族だけでは、足りないのだ。近くの少数部族を率いる者達に、極秘で使いを出し。俺は今それを
迎えていた。
「お前達ももう知っているとは思うが。近々、ランデュスはラヴーワに仕掛けるつもりだ。以前の時の様に、日和見が許されるのか。お前達は、俺にそれを訊きたいのかも知れんが。生憎、俺は知らん。俺はもう、ランデュスを
出奔した身だからな。ただ、今のランデュスが爬族や、翼族に対してした事を考えれば。不安に思う者は多いと思う。どうだろうか」
声を出す事もなく、頷く者は多かった。皆がそれぞれに、数十から数百の命を預かる身である。自ずから、今回のランデュスの動静には目を見張らざるを得ない者達なのだ。
「爬族は、ラヴーワに付く。そのために俺は今回、助力を乞われてここに居る。故に、俺はランデュスの敵に回る」
ざわめきが起こった。訝しむ色が強いのを、即座に見て取る。それは、無理からぬ事と言わなければならなかった。俺とて、筆頭魔剣士を百年以上は務めた身だ。今更他の顔を覗かせて、それを信じろと言って、それが
すんなりと通るなどとは、思ってはいない。
「俺の今の立場をお前達が信じるか、信じないか。そんな事は、今は瑣末な事として扱おう。要は、俺は今だけは爬族を預かる身となり。そうして、一時ではあるものの。竜族に一泡吹かせてやろうという魂胆だ。そのために、
お前達にも声を掛けた。予め言おう、無駄に死人は出るだろう。お前達は、自分達の身だけを考えるのならば。この俺の誘いに乗るべきではない。潔く全てを諦めて、ラヴーワに逃げるか。ランデュスに阿るか。今まで通りの
日々が続くと信じて、ただ戻ってゆくか。好きにするが良い。どの選択をしても、誰に責められる謂れも無かろう。もっとも、爬族と翼族の事を考えて。ランデュスに寄ろうと考えている者は多くはないと思うが。その上で、
それでも俺はお前達の助力を乞いたい。ただラヴーワに逃れれば良い。早い話は、そうだ。だが、このままラヴーワに身を寄せても、肩身の狭い思いをするのは明白だろう。お前達は今まで、何かと理由を付けたり、
或いは束縛を恐れたり。もしくは己の信ずる神の啓示であると言い、今の状態である事を選択した者達なのだから。爬族にしても、そうだ。しかしいつまでも、それが続けられるとは思わぬ事だ。その上で、ラヴーワに行く
者があるのなら。共に行こう。しかし、ただ行くだけでは駄目だ。ラヴーワに行ったところで、何を今更と。下風に立たされる事になるだろう。それは、仕方がない事かも知れない。だからこそ、今。竜族と戦う者を俺は
求めている。どうせラヴーワに行くのなら、華々しい戦果を見せつけてから行きたくはないか。堂々と顔を上げて、かの国の下風に立つのを肯ずるものではないと。そう、言いたくはないか。俺は、お前達は誇りある者達
だと思っている。お前達が真から楽な暮らしを欲するのであれば、ラヴーワができた際に八族のいずれかに属する事で、どの様にも生きられた事だろう。だが、そうはしなかった。己と、己の立場と、己の生き方に矜持を
持っているからだ。それでもラヴーワに頼らざるを得ないのは、不本意かも知れない。しかし強大な相手が押し寄せてくる前では、致し方ない部分もあるだろう。もう一度言おう。例えこの後、どの様な道を選ぼうと。それは
謗られるべきではない。どの道もまた、生きるために選ぶ物でしかないからだ。その上で尚、華々しい戦果を上げて。己の誇りを、ただ自身で思うだけでなく。ラヴーワとランデュス。双方に見せつけてやりたい奴だけが、
俺に付いてきてくれれば良い。俺からの話は、以上だ。あとは、お前達が決めろ。ただし、一度決めたのならば。俺は裏切りを、決して許しはしない」
言いたい事だけを言って、俺はその場から立ち去る。翌日、呼び出した頭達の様子を、マルギニーが直々に報せてくる。
「ほとんどの者は、残った様でございます。少し、意外でしょうか」
「まだ、期待を見せるな。奴らは不利となれば、躊躇いなく逃げるだろう。そういう相手には、如何なる顔も見せてはならない。底を知られた時が最後だ」
「肝に銘じておきましょう」
「本心では。奴らも、俺に従いたい気持ちがあるとは思う。しかしそれでも、奴らは奴らだ。自らの抱える手勢が、全てだからな。中々踏ん切りはつかないだろう。今残っている者の何人かは、残るとはっきり意思を示した者の
手前、中々そうする事ができないでいるだけだ。それぞれに好き勝手に生きていたとはいえ、少数部族同士での付き合いはあるのだからな」
「流石に、我ら爬族を相手にされていただけあって。ガーデル様はその辺りの事は弁えておられるのですね」
「そのつもりだ。だが、どの程度使えるのか、という事はわからんな。実際に、各々の使える者達を出してもらわない事には」
「部族間の小競り合いはあります。勇敢さでは、決して正規の軍人などに引けを取る物ではありません。しかし、何を言うにも少数。それでいて他と連携する、という様な事は不得手でしょう。こう申してはなんですが。やはり
数合わせでしょうな」
「それでも良い。今日明日で精兵になって竜族と対等に渡り合え、などとは。俺は言うつもりもない」
そんな事は、期待しても無駄だった。
更に数日後。戦いに参加する意思を見せた部族から、兵として働く若者達が集まる。女や子供、老人などは、既にランデュスの動きを待つまでもなく、ラヴーワに移動を始めているという。爬族の中からも、戦う意思を
持たぬ者はこれを良い機会と行かせた。ただ、それでも爬族の方はかなりの部分が残っていた。結局は皆があの嫌竜派を惨殺された事に、少なからず怒りを抱いているのだった。それだというのに、いまだにマルギニーを
頭としているのだから、その辺りのマルギニーの手腕は中々に侮れない。
集まった少数部族と、それから爬族の若者の調練が始まった。調練と言っても、然程厳しい物ではない。体力を調べ、脚力と胆力に優れた者を隊長として。俺が下す命令を、兵全体に行き渡らせる事。主な調練といえば、
その程度で。武器の扱いという物はおざなりだった。ただその辺りは、元々家族を守るのは自分達しかいないと心得ている者達である。獲物はばらばらではあるが、決して戦闘能力を持たぬという訳ではなかった。そのため、
武器の扱い方を知らぬ者に、それを教えるぐらいが精々だった。我流で磨いていた連中に、武器と動きの統一を促しても一朝一夕でどうなる物ではない。その辺りは今回は、不問としなければならない。
それからランデュス軍が動くまでにそれ程の時間は掛からなかった。手筈通り、少数部族には爬族の用意した穴蔵への埋伏を命じる。この戦の囮役は、あくまで爬族だった。爬族がそうしている、という事が竜族の
目を引くだろうし、また結局のところ少数部族の者達というのは、戦に便乗している態に過ぎない。囮などの無茶をさせれば、途端に三々五々になって逃げてしまう様な。その程度の者が多かった。爬族には、かなりの犠牲を
強いる事にもなるだろう。
「もう、腹は括りました。残った者に、命の保証はしないとも言い渡しました。それでも、これだけ残りました。あとは、ガーデル様のご命令を待つだけでございます」
「竜族が動いたら、手筈通り、お前達はヴォーラスに命懸けで走れ。遅れれば死。それを、忘れるな。それから、ここからはお前が命令を出さなければならん。俺が先に見つかれば、全てが台無しだからな」
「心得ております」
餌である爬族に食らいついて、竜の軍団が現れるまでは。俺自身が見つかる訳にはいかなかった。俺の存在が知られれば当然向こうは軍を止めて、少なくとも俺が何故ここに居るのかを探ろうとする。俺が爬族の
味方である事まで察知できる様な慧眼を持つ者が居るのかはわからないが。やはり餌より先に俺が見つかるのは、作戦に支障をきたすと言わねばならなかった。特に、自分で育て上げた空兵の斥候の力は、何よりも
俺が知っている。特別に造らせた穴蔵の中で、俺は爬族の斥候を使い、様子を探らざるを得なくなった。そうなれば、当然残りの爬族の指揮は全て、マルギニーが取らなければならなくなる。俺が現れた後も、俺が
率いるのは少数部族の方なのだから。
「まあ、上手くやりますよ。やれなかったら、そこで終いではありますがね」
そう言って、マルギニーは不敵に笑っていた。痩せ衰えても、そういう蜥蜴の嫌らしさという物は、少しも無くなりはしないのだなと見ていて思う。
更に数日後。斥候の報告が、慌ただしくなる。竜の軍団が、マルギニーと爬族を補足し、食らいついたという報せを持ってきた。
「どこの軍だ。先頭に、誰が居る」
「リュースと思われます。ですが、空に黒い竜と思しき人物が居るとの証言が」
「そうか。二人とも、かかったか」
「マルギニー様を追って、一部の軍が強行軍となっている模様です」
思わず、笑っている自分に気づいてしまう。そうか。片方だけでも、楽しめそうだったのに。二人も来てしまったのか。下手をすれば負けかねないが。そのぐらいの方が、俺も楽しめそうだ。
「ご苦労。深くは、探らずとも良い。空兵の目は誤魔化すのが難しい。何人かそのままマルギニーと合流して、ヴォーラスの沼地まで逃げてほしい。動ける者は居るか」
「俺が行きます」
爬族の若者の中から、数人が名乗りを上げる。その中に、マルギニーの息子の一人が居た。
「持ってゆけ。ヴォーラスまで逃げきれたら、これを握り潰せば良い」
爬族の青年が差し出した掌の上に、俺は手を翳して念じる。程無くして、赤い宝玉がいくつか産まれた。それを、青年は不思議そうに見ていた。
「強く握れば、僅かに抵抗を見せる。更に握れば、簡単に壊れる。それが、俺への合図と心得よ」
「はい」
青年と、その後を追って数人が駆け出す。駆けながら、ローブを取り出してそれを深く被っていた。それで、集団に紛れるつもりなのだろう。
「残りは空兵を充分に警戒し、日没後にランデュス軍が通り過ぎた後の穴蔵を巡って、伏せていた者達に動く様に指示を出せ。強行軍ならば、後続が居てそちらの斥候も出ているかも知れない。それには気取られるな」
預かっていた爬族の若者の全てをそれに動員して。俺も穴蔵を後にする。特別に造らせた深いローブを被って、そのまま翼を広げた。ローブを突き破って翼が広がる。多少動かし難いが、問題はない。そのまま空へと
飛び立つと、南東に向けて、戦場から離脱する様に大きく動く。そのぐらいの迂回を見せなければ、空兵に捕捉されかねなかった。
充分な距離を取って、再び潜伏をしていると。真夜中に爬族の青年に渡した合図の反応を受け取る。かなりの距離があったはずだが、休まずに駆け通した様だった。それができなかった場合は、もう少し爬族に犠牲に
なってもらう必要があったので、一安心する。爬族と少数部族とで連絡を取り合う事はできないし、また俺が下手に動く事もできないのだから。もし後方を動かせない場合は、数日は爬族に踏ん張ってもらうしかなかったのだ。
夜に紛れて、俺は一人空を飛んだ。もう、隠す必要も無かった。手筈通り、爬族はヴォーラスの沼地に入りランデュス軍をやり過ごして、ランデュス軍は夜の間に沼地に入るのを危険と踏んで、丁度良い位置で野営を
していた。その後方に竜族以外の姿を持つ集団をどうにか見つけて。俺はそこへと下りてゆく。少数部族をそれぞれに束ねる長達が、俺を見て僅かに声を上げたが。すぐに鎮まる。
「準備は、整っているか」
「多少遅れている者が出ていますが、大多数は揃っております」
「すまないが、待つ余裕は無いぞ。今夜だけが勝負なのだ。爬族にも、その様に伝えてある。闇に紛れて、竜族を包囲せよ」
直ちに命令が実行される。兵はなるたけ目立たぬ場所で待機させられていたのだろう。大地から這いずり出てくるかの様に、少数部族の兵が集まっては。闇の中に消えてゆく。
そして、朝になった。ランデュス軍は、かなりの混乱を見せていた様だった。改めて軍を見て、俺はそれが竜の爪のごく一部である事を悟る。
「流石、マルギニーだ。リュースからあまりにも嫌われているのが、今回は功を奏したな」
マルギニー本人にはとても言えない事を俺はその場で呟く。どういう訳だか、マルギニーはあのリュースの事を気に入っている節があった。リュースの方はといえば、蛇蝎の如く嫌っていたが。
そこから後は、簡単な物だった。俺が久しぶりに振るう剣を持って、戦場に立てば。当然竜の爪は浮足立つ。やがて後続から残りの竜の爪もやってくるが、それも同じだった。
その中で、俺は金の竜の姿を見て。懐かしさに思わず笑みを浮かべてしまう。しかし、逃しはしなかった。ここに居るというのならば、後続の中では恐らくは一番厄介な男に成長しているであろう相手だ。
「ガーデル様……」
「久しいな。ドラスよ。随分、立派になったな。その姿は、隊長か」
剣を構えながら、暢気に語り掛けると。ドラスは俺の事を穴が開く程見つめてから、構える事もせずに立ち尽くしていた。
「どうしてガーデル様が、ここに」
「何。自分で鍛えていた軍……という訳ではないか。竜の爪であるからな。まあ、どちらでも構わん。この涙の跡地で最強の軍とぶつかり合うのも、悪くはなかろうと。そう思ってな」
「そんな」
「何をしている。戦場で、そんな風に呆けて。それではすぐに死んでしまうぞ。お前を買っていた俺を、失望させてくれるなよ」
構えた剣で、そのままドラスへと襲い掛かる。慌てて剣を抜いたドラスとぶつかり合う。良い力だった。良い男に成長したと思う。現在の筆頭魔剣士であるヤシュバは、剣の腕では俺を凌ぐ。そのヤシュバに、鍛えられたから
こそここまで強くなれたのだろう。
数度のぶつかり合いの後、ドラスは後方に下がって。そして、宙へと舞い上がる。
「俺の技を、真似るか」
正面から、迎え撃った。空を飛んで打ち合っても良いが、どうせなら兵の見える場所で戦っていたかった。勢いと体重と膂力を乗せた大振りは、素晴らしい一撃だった。
「しかし、若いな」
剣が、僅かに鈍っている。迷いが現れていた。流石に俺がここで出てくるとは、思っていなかったのだろう。剣を受け止めて、弾き飛ばし。そのままドラスの胴を薙いだ。ドラスはそれを察知して後方に飛んだが、避けきれずに
青い血を飛び散らせて、膝を着いた。
「ガーデル様。何故なのですか。あなた様は、筆頭魔剣士であったというのに」
「それはもう、過去の事だ。さあ、ドラス。どうする。このまま、俺とまだ戦うか。俺としても、お前の命を奪う様な真似は、些か気が引ける」
ドラスは、まだ何かを言いたそうな顔をしていたが。結局は翼を広げて、自陣の方へと去っていった。それなりの傷は負わせたので、しばらくは出てこられないだろう。今の戦いを見ていた竜族の兵は、明らかに俺に恐怖を
抱いていた。本来ならば一飲みにしてしまえるであろう少数部族の兵にも、迂闊に近づく事を恐れているかの様だった。指揮官を欠き、この場を預かるドラスまでもが負傷しては、それは仕方がないとも言えた。
「すまないが、ここは頼む。俺はリュースの方を片付けねばならん。もし、相手が全力で来たら。無理に耐えずとも良い。もう少しだけ踏ん張ってくれれば、俺の用事も済むだろう」
そうして、今度はヤシュバとリュースが待つ場へと飛ぶ。そちらでも結果は同じだった。そちらは更に兵が少数で、疲労の色も濃い。また、俺を避けてそのまま戦場を離脱する兵の姿が目立った。怯えて逃げている
というよりは、それを指示されたのだろう。それを見て、一層小気味好い気持ちになる。俺と対するのに、下手な兵の浪費を避けた。その辺りは、見事な物だった。
爬族と合流し、廃村の教会に立て籠もっていたリュースと対峙して、それを生け捕りにする。ヤシュバは逃がしたが、どの道ヤシュバの相手をするつもりはあまり無かった。戦を知らないからだ。どうせやるなら、戦を知った
ヤシュバの方が面白かった。それに直接戦っては、やはり俺の方が不利だろう。その戦闘能力の高さだけは、認めぬ訳にはいかなかった。
リュースは、抵抗らしい抵抗もあまり見せなかった。久しぶりに会ったリュースは、どうにも力を削がれた印象を受ける。抵抗も見せないというのなら、俺の戦に酔った行動は、そこまでだった。
筆頭補佐を生け捕りにして、ラヴーワに向かう。生き延びた者達にそう告げると、歓声が上がった。堂々と顔を上げて、自らを誇ってラヴーワに入る事ができる。その表情は、眩しい物だった。
革張りの天幕に、いつかの様に足を踏み入れた。幕を退けて入った途端に、血の臭いが鼻をくすぐる。天幕の中に、それが充満しているのだった。
「合流した時に、姿が見えないと思っていたが。随分、酷い様だな。マルギニー」
天幕の中で、息子に付き添われてマルギニーは横になっていた。その胴からは夥しい血が溢れて、止血をしても、止まらぬかの様だった。
「診てやろう。リュース程、得手ではないが。多少は長らえる事ができるやも知れん」
「結構です。死ぬのは、避けられないのでしょう。意地悪でございますね、ガーデル様は」
「そうだな。その傷では、そうして爬族では。生きてはおられぬな。話の途中で死なれるのも癪だから、お前をもっと苦しめてやろうかと思った」
「死にません。あなた様との話を終えるまでは」
「そうか」
その傍に、腰を下ろす。マルギニーは震える手で、息子達を追い払った。天幕に二人きりになると、俺は改めてマルギニーを見下ろす。老人だった。それでも、今は悪い顔はしていなかった。
「戦ったのだな。無理をするものだ。さぞ狙われたであろうに」
「若い者だけを、死なせる訳にはゆきませんから。それに、もう私は、私自身の命をそれほど惜しんではおりません。少々、病も得ていましてね。ですから、あなた様がリュース様を追い詰めようとした時に、私も少しでも、
助けになればと」
「お前に助けられる様な俺ではないが」
「わかっております。ただ、そうしたかったのです。愚かでございますな。こうして竜族を見限り、ラヴーワに身を寄せると決めた今となっても。私はやっぱり、竜族になりたかった。あなた様が、同族である竜族に立ち向かって。
そうして、その見事な赤い鱗を、青い返り血で染めながら空から舞い降りてくる姿を見た時。私は、それに見惚れておりました。こんな風に、なりたかったと。何もかもが、私にとって理想であり、夢でした」
「生まれ変わる事があるのなら、竜族になれると良いな。もっとも、俺はあまり勧めないが」
「……リュース様は、どうなりましたか」
「元気にはしているが。あれを見張るためにも、俺はあまり他には行けない。もっとも、あれももう観念して。大人しくラヴーワまで連行される気にはなっている様だがな」
「そうでしたか。最後に、お会いしたかった」
「止めておけ。悪態を吐かれて、そのまま踏みつけられるぞ。お前は、嫌われ過ぎだ」
「やはり、そうなのでしょうか。私はリュース様の事は、決して嫌いではないのですが」
「どうして、その様に?」
「竜族でありながら、竜族の中で孤立されておられる。それが、なんとなく。竜族に憧れる私の目には、不憫に見えたのでしょうな」
「本人が聞いたら、さぞ怒り狂う事だろう。お前が死んだ後で、憶えていたら、伝えておいてやろうか」
「いいえ。私の口から、伝えられぬのならば。どうか、そのままに」
そこで、一度会話が途切れる。咳き込んだマルギニーの口からも、赤い血が流れていた。傍にあった布で、その口を拭いてやる。もう、自分の身体も満足に動かす事ができないでいる様だった。
「お互いに、もっと正直になるべきだったのかな。マルギニー」
「なんの事でしょうか」
「こうして、今お前と話をしている事を。俺はそれ程、悪くはないと思っている。筆頭魔剣士だった頃、お前は親竜派であったから、お前だけを立てる訳にはゆかず。何を言うにも、逐一嫌竜派の事まで気を遣わねば
ならなかったから。あまり深い話などはできそうにもなかった。もっと、胸襟を開くべきだったのではないかな。嫌竜派も交えて。たった、それだけで。何もかもが上手く行っていたのかも知れない」
「そうかも知れません。しかし、あの時の私にはそれはできなかった。そしてまた、あなた様も」
「そうだな」
手に持っていた酒の瓶を、傾けて中身を飲む。俺が飲んでいる間に、またマルギニーが咳をした。拭ってやる。
「お前も、飲むか」
「有り難い申し出ですが。吐き出してしまいそうです。あなた様で、全てお飲みください。勝者は、美酒に酔うものでございます」
「敗者は、無様に死んでゆくな」
「まことに」
「お前、本当にもう死ぬのか」
「朝日は拝めぬと、それだけを言われました。こういう時、薬学に通じているというのは、厄介でございますな。同族を見る事ぐらいならば、容易く。そうして、手が付けられないと断ずる事も、またあまりにも早い。なるが故に、
息子達とも別れを済ませて。今こうして、あなた様とお話をする時間を設ける事もできましたが」
だから、この部屋に充満する臭いに、薬の臭いが混じっていないのだなと。ぼんやりと俺は納得をする。
「そうか。長い様で、短かったのかな。お前との付き合いは」
「いくら申し上げようと、感謝の念は尽きませぬ」
「そこまでの事を、俺がした訳ではないが。爬族にも、かなり犠牲が出ていたぞ」
「私の言葉に、耳を傾けてくださった。そのお力で以って、真に歩ける道を切り拓いてくださった。あなた様以外では、誰もそうしてはくださらなかったでしょう」
立ち上がった。それ以上、何か言葉を交わすつもりもなかった。
「お待ちくだされ」
背を向けた頃に、そう声を掛けられて。振り返ると、動けないはずのマルギニーが、必死に身体を起こそうとしていた。その場に戻ると、その身体を支える。
「最後に。これだけは、あなた様にお願いがあります」
「お前の頼みは、もう聞いた」
「わかっております。返事は、必要ありません。その気がおありならば、そうしていただければ。無理な頼みである事も、承知しております。この後、あなた様はラヴーワへ向かわれますね」
「そのつもりだ」
「しばらくの間だけでも、構いません。どうか、爬族の面倒を、見て頂けないでしょうか。私に代わって」
その言葉の意味するところを、俺は違える事なく理解して。そうして、首を振った。マルギニーが口元を懸命に緩めて、笑おうとする。
「それはできない。俺は、爬族ではない。族長にはなれんぞ。第一、それは他の爬族が承知せんだろう」
「族長になれ、などとは申し上げておりません。私は。ただ、爬族を率いてほしいと。そう言っただけです」
「虫の良い話だな。本当に」
「ええ。私も、そう思います。そうして、そう。族長ではない。それでも、爬族を率いられる。だから、私はあなたに、爬族の王になってほしい」
「王、か。随分、聞き慣れぬ様になって久しい言葉だな」
「しかし、あなた様にはよくお似合いになる」
くだらぬ事を言う物だと思った。今際の際に、つまらん事を。
「つまらん事を、言うのだな。そんな事を俺に頼むとは。第一、族長ではないとしても。王としても、やはり他の爬族は」
「もう、伝えてあります。息子達には、ガーデル様を王と仰ぐ様にと。しかし決して、爬族の全てを乗っ取られてはならぬと」
「お前、俺を態よく利用したいだけだろう」
「その通りでございます。……どうか、もう死ぬ者の願いと。聞き入れてはいただけませんか」
束の間。どうするのか、俺は迷った。爬族を率いる。悪くは、ない。ただ、今までの一人で気儘に生きていた生活とは、別れを告げなければならない。もっとも、担ぎ上げられて、何かを成す様な事にはならないだろうが。爬族は
これから、ラヴーワに属するのだろうから。
「何も、ずっとそうしてほしいという訳ではありません。ラヴーワで、爬族が落ち着くまで。それまでの間で、構わぬのです。あなた様のおかげで、爬族は誇りを持って、ラヴーワに行く事ができる。いくら感謝をしても、
とても足りない程の事をあなた様はしてくださいました。しかしそれでも、爬族の行く末を案じてしまうのが、族長という物の性分なのでございます。どうか、それまで。爬族を、見守ってほしい」
「逆に、腫物扱いをされかねないが」
「その時は、遠慮なく爬族を見捨てられるとよろしい。それだけです。私の言いたい事は」
「……わかった。引き受けてやろう。そろそろ、お前も話せなくなりそうだからな」
「ありがとうございます。ガーデル様。これで、もう思い残す事は、何も無い」
そっと、その身体を横たえる。今ので、余計な出血を招いただろう。軽い魔法を掛けた。痛みが和らぐ物だった。延命には、ならない。
「さらばだ、マルギニー」
「ありがとうございました。ガーデル様」
そのまま、天幕を出る。外で待機していた息子達が、大慌てで天幕へ入ってゆくのを、黙って見つめていた。
「あの、ガーデル様。ありがとうございました」
その中に、一人だけ残った爬族の青年が、俺を見上げてから深く頭を下げる。斥候として預かっていた爬族を纏めていた、マルギニーの息子の一人だった。マルギニーに似て、暗緑色の鱗から受ける印象は良くない。
「俺は、何もしていない。俺をこの様に動かしたのも、お前の父の力だ。立派な族長を持ったのだな、爬族は」
爬族の青年が、その場で泣き崩れる。それを、長く見つめる事も無く。俺は与えられた天幕に入り、眠った。
翌日。整列した爬族の中に、マルギニーの姿は無かった。案内を受けて、向かうと。丁度、マルギニーの死体が埋葬されるところだった。周りには、何も無かった。何も無い場所に、無造作にマルギニーの墓穴が
掘られている。
「ここに、埋めるのか」
近くの、爬族の青年に声を掛ける。
「はい」
「不憫だな。俺が、全て燃やし尽くしても良いが。戦場で、時に竜族の勇者の亡骸は、そうする事もある。マルギニーは、何か言っては居なかったか」
竜族になりたかったと、マルギニーが言っていたから。それを俺を提案する。青年は、首を振った。
「ここで、良いと。死んで土に帰るのが、爬族なのだからと。そう言っていました。父は」
「そうか。爬族で居る事が、受け入れられたのだな」
マルギニーの死体が、持ち上げられる。なるたけ綺麗な布で、包まれていて。花で少しだけ、飾られていた。味気の無い葬儀だった。棺もなく、それは穴に収められて。そのまま土を被されて、消えてゆく。少し待てば、
見えなくなる。墓石も、何も無かった。荒らされた大地の跡だけが、そこにマルギニーが眠っている事を、今だけは知らせて。そうしてやがては、誰にも知られる事もなくなる。
短い間だけ、残された爬族はそれを見ていたが。やがては出発の合図を待つかの様に、各々が散ってゆく。そこへ、俺は歩み寄る。
「早いな。俺より後に産まれて、俺より先に老いて。そうして、俺より先に死んでしまう。とても、早いのだな。他種族の一生というものは」
そんな事は、知っていたし、沢山見てきた。今更な感想でしかなかった。
持っていた酒瓶を傾ける。酒が、宙に注がれて。当てもなく落下して、荒れた大地を濡らして、すぐに土へと消えてゆく。
「酒を断られたのは、久しぶりだ。少し飲んでから行けば良い」
一口分の酒を、掛けてから。酒の残った瓶をその場に置いて、背を向けた。振り向いた先で、数人の爬族が。マルギニーの息子達が、黙って俺を見ていた。
「行こうか。いつまでもここに居ても、もう何も無い」
全員が、静かに頷いていた。誰も声を上げずに、その場で泣いていた。指で目元を払って、俺も自身の変化に遅れて気づいていた。
思っていたよりも、自分がマルギニーの事を好いていたのだと。今更、俺は知った。