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ヨコアナ
31.竜の虜囚
熱心に縋りつくその男の要求を、私は撥ね付ける事ができなかった。
今、私はそれを少しだけ後悔しながら。しかしこれも、その男が筆頭魔剣士としてあり続けるためには必要な事だったのだと、自分に言い聞かせていた。
獅族門で起こった、小さな諍い。その報告書に纏められていた、ただの銀狼の名前を聞いて。筆頭魔剣士であるヤシュバは目の色を変え、そうして次にはその人に会いたいと、私に懇願してきたのだった。理由を
問い質せば。それこそがヤシュバの求めていた人物なのだと。その銀狼の名であるゼオロというのは、ヤシュバが捜し求めていたハルが、よく遊びで使っていた名前なのだという。私は最初それを聞いた時に、たまたま
名が同じなのではないかと。そう思った。本名ならばともかく、遊びの席で用いる名なのだし、ゼオロという名前が特段に珍しい物だとは到底思えなかった。とはいえ、極有り触れた名である、という訳でもないが。
会いに行きたい。そう言ったヤシュバを、私は全力で止めなければならなかった。時勢を考えろと言いたいし、そうでなくともヤシュバはランデュスが誇る筆頭魔剣士なのである。たった一人の存在を求めて、関係が険悪に
なりつつあるラヴーワに乗り込むなど、許されるはずがなかった。しかも、お目当てのゼオロはあのスケアルガの手元に居るのだから。傍から見れば、ジョウス・スケアルガに会いにヤシュバが単身でラブーワに向かう事に
なってしまう。それだけは、断固として私は止めなければならなかった。しかし、どうにかヤシュバを言い含めて、単身で向かわせる事を止めさせたは良いが。それでもヤシュバの気持ちが治まらぬ事。そうして、放って
おけば本当に一人であろうとラヴーワに出ていってしまう事を、私は充分に理解していた。何よりも、ヤシュバが筆頭魔剣士を今まで続けていたその理由こそが、ハルという存在であり、またゼオロという存在に他ならないの
だから。この世界に居るはずだと、望みの薄い願いであろうと、それに縋って。ハルを捜す手伝いをする代わりに、筆頭魔剣士を務めろと。その様なやり取りが竜神との間にも成立していたのだ。今まさに、待ち望んだ
その相手の出現を前にして、ヤシュバが己をどこまでも抑えられる訳がなかったのだった。そのために、そのためだけに、ヤシュバは今まで走り続けて。どれ程その本来の優しい心根にそぐわぬ事を期待され、時に強要
されても、必死にそれを受け止めていたのだから。
しかし、それでも。ヤシュバをそのままゼオロに会いに行かせる訳には、ゆかなかった。筆頭魔剣士が単身で乗り込んできたとあれば、当然そこで激烈な死闘が繰り広げられる事は、火を見るよりも明らかだった。
「お気持ちはわかります。しかし、急いてはなりません。あなたは自分の立場を、今更理解できぬはずがないでしょう」
「わかっている。しかし」
そう言って、ヤシュバは瞳を潤ませて。それでも会いたいと。ハルの傍に居たいと。そう懇願したのだった。私は大急ぎでヤシュバを繋ぎ止めている間に、竜神に相談をしに行き、そうして竜神も頷かざるを得ない理由
である事を改めて確認してから、次にはどうやってゼオロとヤシュバを会わせるかと苦心しなければならなかった。常識で考えて、ヤシュバをラヴーワに渡らせる訳にはいかない。如何にヤシュバが無双の強さを
誇っているとはいえ、単身で乗り込ませる訳にはいかない。またヤシュバが直接乗り込む事で、同時にゼオロという存在が、ヤシュバにとって掛け替えの無い存在であるという事が相手に察知されてしまえば。当然相手は、
のこのこ一人でやってきた筆頭魔剣士を無力化するためにゼオロを人質に取るだろうし、その上でヤシュバは首を取られるだろう。その結果がわかりきった場所に、ヤシュバを行かせられるはずもなかった。
考えに考えた結果、結局私がしたのは手紙を認め、それをあらゆる手を駆使してゼオロの下へ届くようにした事だった。この際ヤシュバがラヴーワに乗り込んでしまうという最悪の展開さえ回避できれば、それに勝る物は
なかったのである。手っ取り早いのは、ゼオロを拉致してしまう事だが。非常に残念な事にゼオロはスケアルガの者と居る。それも、クロイスだけならまだしも。その父であるジョウス・スケアルガと同じ館に居るという問題が
あった。更には獅族門から、ワーレン領の中央に近いフロッセルに移動してしまったので、余計に手が出しづらくなっていた。どうやってゼオロがその様に、スケアルガの者と深い関わりを持っているのかは流石に
わからなかったが、これは非常に厄介だった。本来ならば、狼族の、しかも銀狼ともなれば。スケアルガというのは、ともすれば敵として対している我々竜族よりも尚怨みも何もかもが募った相手であるはずなのだから。これに
関しては、ゼオロがハルという、異世界人であるという事で大分説明は付くが。しかしそれと共に居るというクロイスが、そして狼族の全てから怨まれていると言っても決して過言ではないはずのジョウスが、銀狼のゼオロが
傍に居る事を許しているというのは、なんとも奇妙で。こんな時ではあるが、私は少し興味を引かれてしまっていた。或いは、ゼオロがハルという存在である事をあちらも理解しているが故に、銀狼という部分を不問に
しているのかも知れなかったが。それにしても、随分面倒な相手とゼオロは知り合ってくれたと、この場合私は愚痴の一つも零したくなってしまう。
また、手紙の内容にもかなり気を遣わなければならなかった。ヤシュバの正体を記し、そのヤシュバがゼオロ、もといハルを求めている。この様に書けば、ゼオロ自身は乗り気になってラヴーワを出てきてくれるかも
知れない。しかしゼオロは既に、ジョウスの傍に居るのだった。その様に記した手紙の内容が、向こうで広まってしまうと。結局はゼオロを人質に取られてしまう。それは、今後の展開にとって非常な問題となる事は
あまりにも明白だった。通常ならば。いや、普通なら。筆頭魔剣士が、一人の想い人のためにその剣を鈍らせる事など、あってはならない。そんな事は斟酌する必要も無い事だ。しかし今の筆頭魔剣士は、ヤシュバなの
だった。ここでゼオロを人質として取られれば。それは今後の対ラヴーワとの戦争において、非常に厳しい状況を迫られかねなかった。下手をすれば、ヤシュバという存在が無力化されかねないのだから。かといって、
ゼオロにだけ手紙の内容が知られる様にする事もまた難しかった。ジョウスの傍に居るゼオロが、例え己だけが手紙の内容を知ったとしても。そこからヤシュバに会うためにラヴーワを抜け出す、というのはかなり難しい
と言わざるを得ない。ジョウスと、その息子のクロイスの実力はわからないが。その二人の目を掻い潜って出てこられるとは思えなかった。また、最悪出てきてくれない場合もある。
悩みぬいた末に、結局は手紙の内容は酷く曖昧に記し、また手紙事態が露呈する様に、ある程度手を抜いて送り届けるという形を取るしかなかった。有体に言えば、詳細はわからないがヤシュバが呼んでいるから来い、
という内容にする事で。ゼオロを人質に取られる事も避けたのだった。細かいところは省いてヤシュバに伝え、ヤシュバを渋々と頷かせて手紙を送った。ともすれば、この手紙によりゼオロは反逆の疑いを掛けられるかも
知れないという疑念を私は抱きながら、しかしそれはヤシュバに伝える事はできなかった。そこまで伝えれば、どうせ一人で行くと言ってきかぬだろうから。
苦心に苦心を重ねた茶番は、しかし私の淡い期待を他所に、成功を遂げた。ヤシュバをラヴーワに踏み入らせる事を避け、その上でゼオロがヤシュバと会う事を肯い、そうして竜族の迎えを寄こす事を承諾させる事が
できたのだった。そこまで計画が進んでから、私は、今や腹心となりかけているドラスを部屋へと呼び出した。
「頼みがある。何も訊かずに、ヤシュバ様に付き添い。そして、今から言う者をラヴーワから連れ出してはくれないか」
「それは、また。難儀な事を」
口調こそ呆れた様だったが、ドラスはただ、にこりと笑っているだけだった。すまないと、一言告げてから。私はドラスに最低限の情報を与えて、ヤシュバに同行させた。他にヤシュバに同行するのは、竜の牙の中に居る、
翼を持つ空兵の中から、ヤシュバに心酔している者を選りすぐった。ヤシュバの力を考えれば、一人で行こうが問題は無いだろうが、流石にそういう訳にもいかなかったのだ。その上で、決して他言するなと釘を刺して、
それを忠実に守る者ともなれば。竜の牙の一部の者に限られる。そうして、彼らはヤシュバに深く心酔しているからこそ。何も持っておらぬ私がヤシュバの傍に居る事は快く思っていない。それ故に、私はドラスに、
私の代わりにその場の監視と。そしてゼオロを場合によっては守れという命令を下したのだった。ドラスは、今は私の部下であり、竜の牙から爪へと異動はしたものの。いまだに牙の者には顔も利く。私の望みを忠実に
こなせる人材は、ドラスをおいて他には居なかったのだった。
そうして、ドラスを面倒が山積みの茶番の部隊に大抜擢した後で。今度はドラスがラヴーワに侵入し、ゼオロを迎えに行ける状態にするために、またあらゆる細工を施す必要があった。ランデュスが自身の力で行使する
物と比べれば児戯にも等しいが、ラヴーワにも空からの侵入者を察知するための結界が張られている。それに見つからぬための細工をし、またドラスに必要な魔導を教え。そうしてあまり長い事ヤシュバが抜け出す事も
問題であるために、ドラスには敵地の中で魔導を駆使しながら全速力でゼオロを運んでもらう必要があった。反動があるために普段は使いもしない魔法まで、態々ドラスに掛けてやる必要があるのは、大分骨が折れた。
それというのも、この計画は内密に事を運ぶ必要があるからだった。計画の全容を知っているのは、筆頭補佐である私と、筆頭魔剣士であるヤシュバと、それからそれを許可した竜神ぐらいの物だろう。故に、今回の
計画で必要な細工の全ては、私手ずから施さなければならないのだった。この様なお遊びのために、私の魔導の腕がある訳ではないというのに。
「すまないな。この様な事まで押し付けてしまって。本来ならば、既にお前の方が私よりも上であるというのに」
全てを整えて。先に指定の場所へ向かったヤシュバを追う形になったドラスに、私は正直に謝罪をする。ドラスは本当に細かい事は何も訊かずに、ただ私の願いを聞いてくれていた。こんな時、私に翼が無いのがなんとも
歯痒いと思う。私は結局この場に残って。それをただ見ている事しかできぬのだから。とはいえ、筆頭魔剣士と筆頭補佐が、二人揃って城から抜け出しては。流石に目立ちもするし、誤魔化しも利かない。私が誤魔化している
間に、ドラスもまた死にもの狂いでゼオロを運ばなければならないのだから、堪った物ではないだろう。
「いいえ。リュース様の、願い事ですから」
空へと飛び立った金の竜を、私は見送った。それはもう、十数日前の事だっただろう。
そして、今。無事といえば無事に、しかし無事でないといえば無事ではない姿で、ヤシュバは戻ってきたのだった。表向き、ヤシュバは何も変わらない様に平静を装ってはいるものの。流石に、私の目が見ればその違いが
わからぬはずはなく。また、ヤシュバがこの件について私に何一つ話をしにこないのも、それを裏付ける事となる。それから、当然同行したドラスは自分の知る限りの事を私に報告しているのだから。
「俺は、クロイス・スケアルガを。殺すべきだったのでしょうか」
ドラスが報告を終えてから、ぽつりと、そう零す。ゼオロという、ほとんど少年の姿をした銀狼の事を考えていた私は、それで現実へと引き戻されてドラスの顔を見上げた。今回の事でかなり無茶をして、少し臥せっていた
というが、少なくとも今目の前に居るドラスはそんな素振りを微塵も見せる事はなかった。若さ故だろうか。
「そうだな。その方が、私としては助かったかも知れんな」
結局のところ、ヤシュバはただゼオロに会いに行き。そうしてそれは良い結果を招く事もなく、ゼオロを連れてくる事もできずに、何もかもが徒労に終わっていた。どうせなら、無理矢理にでもゼオロを連れてくれば良い物をと
思わずにはいられなかった。ヤシュバのあの性格と。今までそのためにこそ筆頭魔剣士をしてきた事実を鑑みれば。例えどの様な仕打ちをゼオロから受けても、そう簡単にもはや関係の無い相手と未練を断ち切れる訳もなく、
結局それは、いずれはゼオロという存在がランデュスの、ヤシュバの剣を鈍らせる結果を招くのではないかと。今から案じてしまう事でもあった。
力尽くで事を成せば良かった物を。その力があり、それが許される立場でもあるというのに。
「ままならぬ物だな。何事も」
「は?」
「いや。クロイスの事は、良い。お前は、そうしたくはなかったのだろう?」
「……はい。俺は、不意打ちの様な真似は好きません。無防備に相手が出てきたと、そう考えればそうなのですが。ただ、ゼオロ様を案じていた男を、そうする事は」
「そうか」
ヤシュバが、それをできないのなら。一層、ドラスがそうしてくれれば良かったのだが。クロイスをその場で切り捨てて、嫌がるゼオロを攫う事など、あまりにも容易かっただろうに。そうすれば、ヤシュバも不快さを露わに
するのかも知れないが。二度とは会えぬ相手をみすみす逃して良いのかと。お前はなんのために今筆頭魔剣士をしているのだと。私から言えば、ヤシュバは大人しくなる。
「申し訳ございません。リュース様」
「そう、気負わずとも良い。それに……私はつい、忘れてしまうが。お前も、まだまだ若いのだな。いつまでもそのままとはゆかぬやも知れないが。その素直さは美徳でもある。あまり、気にするな。ご苦労だったな」
後ろ暗い考えを捨て去って、ドラスに労いの言葉を掛ける。もう済んだ事でもあるし。何より、ドラスもまた素直な性格の青年であるのだと、私は受け止めなければならなかった。私の考えを伝えて、そうしろと言えば。多分、
ドラスは従ってくれるだろう。しかしそうする事で、ドラス自身に不必要な傷を付ける事も今は躊躇われた。既に私は、目の前の若い青年に敗れた身だ。今はまだ、経験が浅い故に私は筆頭補佐を続けられてはいるものの。
いずれはこの男がヤシュバを支える事になるのかも知れない。その時に、私の考えた様な事をさせてしまうと。ヤシュバとドラスの不仲を招く事にもなりかねなかった。もっとも、それを差し引いてもクロイスとゼオロ、二人分の
頭痛の種を排除してくれた方が良かったのかも知れないが。少し調べたが、クロイスはジョウスの一人息子でもある様で。クロイスが死ねば、ジョウスにも多少の影響はあるだろう。
それから、ゼオロも。どうせなら死んでいてくれれば、私にとっては色々とやりやすい。そういう意味でも、やはり今回は良い結果を迎えられたとは到底言えない物であった。下手をすれば次からゼオロを盾にされかねない。
それを避けるために、態々あれこれと工夫を凝らして、訳のわからない手紙を送ったというのに。
「あとはヤシュバ様だけだな」
「調練では、いつも通りではある様ですが。やはり、気を病んでおられますか」
「普段通り過ぎるからな。私には何も言ってこぬし」
それからドラスの報告の中にあった、ヤシュバの力が結界に作用した件の事を鑑みれば。ヤシュバの内心が相当に荒んでしまっている事は、想像するに難くなかった。その時ドラスは空を飛んでいたからわからなかった
そうだが、ヤシュバの近くに居た者の証言によれば、ヤシュバの居た天幕が吹っ飛び、その勢いで大地が揺れた様にも感じられたという。怯えながら、それでも敵襲か何かと兵が集まった先では。天幕の残骸の中で、
茫然と立ち尽くすヤシュバが居たという。ヤシュバはそれ以上騒ぐ事はせずに、ただ帰城を告げたという。
「まあ、これについては放っておこう。私から詮索しても、良い結果が得られるとは限らない。だが、あまり長引くと困るな。ラヴーワとの戦は近い」
少し冷たいのかも知れないが、帰ってきたヤシュバに私は必要以上に近づく事はしなかった。一つには、荒んでいるであろうヤシュバに根掘り葉掘り聞く事は、ヤシュバからは鬱陶しい事この上ないであろうし、それとは
別にやはり私からあれこれと世話を焼いて、そうしてヤシュバを私に依存させてしまう事が怖かったからだった。先日の一件で、それまでとは違い大分打ち解けて、再び公私共に過ごす事が増えたとはいえ、それでも私の
立場がもうそれほど長くはない事は明白なのだから。
ドラスを下がらせて、それから私は部屋の窓を開けると、空を見上げる。ヤシュバが揺らがせた結界は、今は静かにそこにあって。しかし目で見る事は叶わない透明を保っていた。
「ままならぬ物だな、本当に」
ゼオロが喜んでこの城に来てくれる事があれば良いのにと。そう思ってしまう。ヤシュバがずっと求めていたのは、そのゼオロなのだから。ゼオロさえ頷いてくれれば、全てが丸く収まっただろうに。二人が手を取り合って、
どちらかの国に付くか、或いはどちらの国をも見捨ててしまう方が、余程自然だというのに。会うだけ会って、何事もなく二人ともそれぞれの国に戻ってゆくのだから、お前らは私の苦労をなんだと思っているのかと、
少しは言いたい。
一人で思慮に耽っている私の下に、ヤシュバが訪ねてきたのは。それから更に、数日の後の事だった。
いつも通り、ドラスに調練を任せながら。それでいて、翼族の一件から既にラヴーワとの衝突は避けられない物として、またヤシュバが不在だった事もあって滞っていた物事と会議を済ませて。部屋に戻ってきた私に
告げられたヤシュバの訪問。普段ならば、ヤシュバは先触れを出す事はないし、また先程まで一緒に居たのだからその時にでも言えば良い物を、態々回りくどく使いを寄こしたところを考えて。私は小姓も含めて、全てを
遠ざけてからヤシュバの訪れを待っていた。その内に、扉が数度叩かれる音がする。
「お待ちしておりました」
扉を開けて、ヤシュバを迎える。ヤシュバは、黙って頷いていた。この男はまた少し変わったなと、それを見て思う。
「何か、飲み物でも出しましょうか。ヤシュバ。……そうですか」
静かに首を振るものだから。私は、一度背を向けて。広げていた書類を適当に片付けてから、本格的にその話を聞こうとしていた。
「リュースさん」
不意に、そう声を掛けられて。身体を震わせてから、私は慌てて振り返る。まっすぐに私を見つめているその黒い竜の姿を、目に焼き付ける。
ヤシュバでは、なかった。そこに居たのは。普段は、決して表に出てくる事のない、ヤシュバの本当の姿が。今はそこに。それを見て、私は深く一礼する。
「これは、失礼しました。タカヤ様」
声の調子も、表情も。見慣れたヤシュバとは、違っていた。頼りなげに私を見つめるその姿は。見慣れているはずなのに、そうとは思わせない。それが、本当のヤシュバの。いや、タカヤの姿だった。タカヤはしばらく
押し黙ってから、ぽつぽつと、ゼオロに会いに行った事を私へと伝えはじめる。それを聞きながら、私は何度も頷いた。こうして、タカヤと。ヤシュバの中のタカヤと話をするのは、本当に久しぶりに感じられた。筆頭魔剣士という
仮面を被ったタカヤは、ヤシュバとなり。そうして私を筆頭補佐として従えて日々を送っていたのだから。竜神に乞われて向かった先で、私が出会ったのはこの男だった。けれど、それから私が共に歩いていたのは、
この男ではなく、ヤシュバであった。同じ人物である事に違いはないのだが。それでも私は、ヤシュバとタカヤを別の物として扱っていた。また、そうする事で。ここは彼が人間という存在のまま生きていた世界とは違うの
だという事を、常に教え続けようともした。そうして、様々な事があって。ヤシュバに焦がれる日もあって。しかし突然にまた顔を出したタカヤに、私はなんと口を利いて良いのか、迷ってしまった。
そんな私の考えを他所に、タカヤの独白が続いてゆく。ゼオロは、やはりタカヤがずっと捜し求めていたハルだったのだと。しかしハルは、筆頭魔剣士のヤシュバの成した事を快くは思わず、またそれをしたタカヤと共に
行く事はできないのだと。そうして、これだけの事をしてまで会いに行ったというのに。ただそれだけで、戻ってきてしまったのだという事を。
「すみません。リュースさん。とても、色んな事をしてもらったのに」
「いいえ。その様な事は、仰る必要はございませんよ」
「俺は……ずっと、ハルのために、筆頭魔剣士を続けてきたと思っていました」
私の言葉を然程耳に入れた様子もなく。タカヤはそう続ける。そうして話していると、やはりヤシュバの面影は無かった。元の姿を私は知らないが。見ていると、元の姿がどんな物なのかと、少し興味も湧く。
「けれど。ハルに言われて、よくわかりました。俺が今までしてきた事は、全部。ただ、俺が、俺自身のためにしてきた事でした。ハルのために。そう思って、俺は沢山の人を手に掛けて。そんな俺を、ハルが許せないと
思ってしまうのは。当たり前の事、ですよね。俺は、そんな事も気づかないまま。ここまで来てしまって」
一筋だけ、黒い鱗の上を流れる物を見つめながら。私はタカヤの言葉を黙って聞いていた。全てを言い終えた事を、確認してから。私は静かに頭を下げた。
「申し訳ございませんでした」
「……え?」
タカヤが、狼狽えた様な声を出す。見なくても、私にはそれがどんな表情をしているのかもわかった。頭を上げて、まっすぐに私はタカヤを見つめる。
「あなた様に、そうする様にと仕向けたのは。他ならぬこの私です。何をもっても、償う訳にもゆかぬでしょう。どうか、あなた様が望むままに。私を裁かれるとよろしい」
「俺は、そんなつもりは」
私はただ、タカヤを。ヤシュバにして。そうして筆頭魔剣士としてふさわしい男にするために、必死だった。それができなければ、ヤシュバは何も知らぬままに、この世界を彷徨う事になってしまう。私にできる事は、
それしかなく。しかしそれが、結果として今の事態を招いたと言われても、否定はできなかった。タカヤとハルが、それぞれ別の国に辿り着いてしまった事が、不幸の始まりだったのだろう。
「俺は、そんな事はしたくありません。ただ。リュースさんには、きちんと話しておこうと。ここに来た俺を、ずっと助けてくれたのは、リュースさんだったから」
「その様な事は。私は、結局あなた様の望みを、叶えて差し上げる事もできなかったというのに」
ままならない物だと、本当に思った。凄まじい力を持った黒い竜として現れて。まさに神話か何かの様にこの世界に漂着した男が、たった一人の想い人すら手にできぬというのは。そうして、今まで必死に成し遂げていた事の
全てが、自分に返ってくるとは。
「それで、タカヤ様。この後は、どうなされるおつもりですか」
「この後、ですか?」
「あなた様にはもう、筆頭魔剣士を続けられる理由はおありにはならないはず。あなた様の望む方は、ラヴーワに。しかしあなた様が筆頭魔剣士として成した事に怒ってもいる。あなた様が、望まれるのならば。筆頭魔剣士の
座を下りる事も、今ならば許されるでしょう」
「しかし、今の情勢では」
「勿論。そうされると、とても困る事になるのは確かですが。しかしあなた様が筆頭魔剣士をお続けになられる理由がありません。竜神様も、あなた様がそうされたいと仰るのならば。止められないでしょう。筆頭魔剣士で
なくなったあなた様を、そのゼオロ様が。いえ、ハル様が、受け入れてくださるのかはわかりませんが。もし一縷の望みに賭けるというのならば。あなた様は……やはり、筆頭魔剣士を今、下りるべきでしょう」
とても困る、どころではなかった。今ヤシュバが筆頭魔剣士を辞してしまえば、竜族は戦の際の拠り所を失う。竜神ランデュスという存在はあるにせよ、それは戦場にその姿を現す訳ではない。戦場において、生と死の
間に生きる兵を安堵させ、同時に勇猛にするのは、ヤシュバの様な上に立つ存在に他ならなかった。それを欠いたまま、ラヴーワと再びの戦争を始めるのは難しい。かといって、この様な状況になって、再び休戦を
申し出ても。相手が呑むかもわからず、国内からも良い声は聞かれないだろう。ヤシュバが戦死するのならまだしも、この状況では、なんの理由もなく姿を晦ましてもらう他はないのだから。
私の言葉を、タカヤは一つ一つ噛み砕く様に聞いていた。
「……いや。俺は、筆頭魔剣士を続けようと思う。リュース」
不意に、いつもの声が戻ってくる。それを聞いて、私は口元に笑みを浮かべる。
「おや。そうなのですか、ヤシュバ。てっきり私は、そうするのかと思いました。また、そうされるべきだとも」
「俺が今、こうしているのは。他ならぬ俺が決めた事だ」
「そうでしょうか」
「今、お前を責めても。なんにもならない」
「あなたを散々利用したと。そう責められても、致し方ないかなとは思うのですがね」
「お前には、お前の立場があった。俺は、それをよくわかっているつもりだ。それから、改めて謝ろうと思う。すまなかった。俺は、本当は。ランデュスの事にあまり関心が無かった。この世界の者にも」
「存じておりました」
「怒らないのか」
「そんな事を言われても。それは私も変わりません。私は竜神様に乞われ、忠誠を誓い。そうして今は、あなたにもそれを誓い。けれど。ただ、それだけ。それだけの事なのです。私のこの姿は、同じ竜族からは歓迎されぬ物
ですからね。それを鑑みれば、別の世界から来たあなたよりも、私の方がずっと問題児と言うべきでしょうね」
「そういえば、そうだったな。不義理な筆頭魔剣士と筆頭補佐も、居たものだな」
そう言って、ヤシュバが笑う。笑いながら、しかし再び涙が零れているのを、私は見ていた。諦めきれるはずがない事を、ヤシュバが諦めようとしているのは、わかっていて。しかし私には、それをどうする事もできなかった。
「俺は、ラヴーワを滅ぼすのだろうか」
「このまま順当に行けば、そうなるのではありませんか」
「そうか」
その時、ゼオロはどうなるのかと。ヤシュバは言っているかの様だった。数多の獣の屍が積み上げられた、その上で。この黒竜が、赤く汚れたその手で銀狼を抱き上げるのか。それとも、その銀狼すらも屍の一つとして
しまうのか。それを求めてここまで来たというのに。手にしたいのは、温かな血が通ったそれであって。硬く、冷たくなったそれではないであろうに。
「泣いているのか、リュース」
「歯痒い物だと、思いましてね。ただ、望みたい物を望んで。そうして生きていても。手に入らぬ物が多すぎるなと」
最強の筆頭魔剣士と、その補佐が揃っていながら。ただ、そうするしかないとは。
「あなたの望むままに。お供しましょう、ヤシュバ」
その手を取って、囁いて。そうすると、ヤシュバは私の肩に手を掛けて、そのまま抱き寄せてくる。
違うだろうに。本当にそうしたいのは、私ではないだろうに。そう思いながら、私はその腕から逃れる事もしなかった。
馬の背に揺られて、流れる雲を追いかけて。私は街道を移動していた。空には、雲と並ぶかの様に、翼を広げた竜族の姿がある。
ランデュス軍の、進軍だった。私の指揮する竜の爪の兵が、粛々と道を行く。
ラヴーワとの休戦は、ついに正式な終わりを告げた。かつて行われた様に、再び布告が出され。今私は、前線への道を行軍している。
道を行く兵を見ていると、不思議な感情が私を包み込んだ。二十数年、待っていた。この時を。本来ならば、ようやくあの獣共を打ち倒せる事に胸を躍らせても不思議ではなかったのかも知れない。事実、兵達には
その様な気概が溢れんばかりだという。それなのに、私はあまり浮ついた感情を抱く事ができないでいた。
一つには、ヤシュバと離れなければならない状況になってしまったからなのかも知れなかった。とはいえ、少数の小競り合いならまだしも、この様な大規模な戦に臨んだ経験の無いヤシュバである、完全な放任という訳には
ゆかなかった。今、筆頭魔剣士のヤシュバが率いる竜の牙は、涙の跡地の中央を西へ。そして筆頭補佐である私、リュースの率いる竜の爪は、南のヴォーラスの沼地を少しずつ渡渉する事になっていた。竜の牙は
中央とはいえ、厳密には僅かに北上をして迂回する。そのまま進めば、呪いの地と囁かれているカーナス台地へと差し掛かってしまうからだった。彼の地は先の戦で、大勢の犠牲と死者を出し、特に銀狼と狼族は、
味方から半ば裏切られる様な形での戦死を遂げたがために怨みは深く。その様な状態になった場所は、大抵の者には通る事のできない地と成り果ててしまうのだった。今回の戦では通り道としても、とても使えた物では
なかった。そして、竜の爪は南側の沼地を攻略してゆく。こちらは元よりあまり使われぬ道だが、双方共に攻略する事ができて、カーナス台地よりも西に出てしまえば。そちらで牙と爪の軍は合流を果たせるのだった。最北の
翼族の谷のルートが、翼族がランデュスを警戒して完全に道を閉ざしてしまった今。ラヴーワに至る、軍の通れる一応の広さを確保した道はこの二つと、それから空に限られていた。
そして、私自身はカーナスの近くでしばらくは留まる事を考えていた。沼地の渡渉は、まずは道を切り開き、整地するところから始まるので時間が掛かる。人だけならまだしも、物と馬を通らせるには、それなりの道という物は
必要だった。輜重隊は泥濘と戦って物資を運ばなければならない。空兵を一時的にその任に当たらせ、沼地を回避する事も考えたが、それで運べるのは細々とした、一人が持てる程度の荷物が限界だった。複数人で持つ
必要のある物などは、それぞれが大きく翼を広げる必要がある以上飛行が困難であり、相当の練度を必要としたし、そこまでの訓練と重労働に耐えられる条件が揃った者は稀有な存在と言っても良かった。結局のところ、
陸の輸送を補助する事はできても、代替とまではなりきれない。それでもここを通るのは、南側からの攻略という意味もあるが、それ以上にラヴーワがこちらの道を使う事を避けるためだった。それ故に、私がその場に
居る必要性はあまりない。先の通り、ヤシュバは未だ一人で行かせるのは心許無いが故に、私は全体を見渡せる位置に留まって、必要ならば口を出す必要があった。こういう時に、今更な事を語っても詮方ないとはいえ、
ガーデルがどちらかの軍を率いていた時を懐かしく思ってしまう。少なくともガーデルならば、私が心配をする必要はまったく無いだろう。
空に、金の光が瞬いた。私はそれで、思考を止めてその竜を見上げる。それから、一度兵の様子を見る。
「全軍停止。小休止を。軽く兵糧も取ってよい。ただし、武装は解かず、歩哨と空兵は辺りの警戒に当たり、交代をしながら休め」
特に、それ程の危機が今周辺に潜んでいる訳ではなかったが。私はそう命じて、それから馬を下りる。そうして少し歩いた私の下に、金の竜が宙から舞い降りて。私の前で膝を着いた。
「どうかしたのか。お前が態々、報告に来る必要があるのか」
私がカーナスの近くに留まるまでは、ドラスには空兵を率いさせ。その後は竜の爪を預けようと決めていたし、それは既にドラスにも伝えてある。故に、今ドラスが態々私の下へ報告に上がる必要は無い。偵察に使っている
空兵の中から一人寄こすだけで、大抵は済むのだから。
「申し上げます。先行していた空兵から、南西の位置に爬族を発見したとの報告が」
「爬族か」
「……先頭に、族長のマルギニーと思しき人物が居る事も、複数の証言が寄せられております」
それに、私は目を細めた。爬族の族長であるマルギニーは、先の嫌竜派の一件で大分憔悴した様で、近頃では音沙汰も無かった。それは爬族全体にも言えていた。嫌竜派の爬族が誅滅された関係で、今の爬族には
親竜派が多く残っているはずだが、かといってまさかマルギニーがここで私を歓迎している訳ではないだろう。
「ラヴーワに渡ろうとしているのだな」
「御意にございます。現在残っている、爬族のほとんど全てを率いている物と思われます」
「そうか。……今、マルギニーが動くとは。少々遅すぎるが。はて」
恐らくは、マルギニーは竜族に見切りをつけたのだろう。親竜派だのなんだの言っても、所詮爬族は爬族であるし、何より嫌竜派の爬族との掃討の後に、末席であろうと竜族として数え上げられると夢見ていたあの愚か者が、
それは決して叶わぬ事だと知ったのならば。さっさとラヴーワに鞍替えをする事は想像できない訳ではなかった。ただ、それを討つ大義名分が無いのと、ギヌスが預かるというものだから放置していたが。それも、翼族の
事実上の壊滅という現実を見て、マルギニーも己の行く末を案じたのだろう。
「どうせ向かうところが一緒ならば。あの憎たらしい男の尻尾だけではなく、その首を切り落としてしまうべきかな」
ただ、そうなると進軍は少し急がなくてはならなかった。爬族は元々ランデュスよりは南の場所に、それから、今から向かう沼地をも一部は拠点としていた。先の戦で、親竜派と嫌竜派に爬族が別れた時に、竜族に抵抗を
示していた爬族は、数の不利を沼地と、それから元来からの習性である穴蔵に潜む事で補っていたのだ。それを考えて、私は鼻で笑ってしまう。
「穴蔵からも、沼地からも。あの生意気な死に損ないを追い出してしまうのは、私は大いに賛成するが。さて、そうなると……ヤシュバ様には、教えられんなこれは」
ドラスが、黙って頷く。元より、爬族の一件はヤシュバの失策の一つでもある。もっとも私はそれを、失策などとは思っていないが。ギヌスなどは、今でも心の中ではそう思っているだろう。そして、嫌竜派の爬族を切り捨てた
事をゼオロに責められたヤシュバも、今は同じ気持ちのはずだ。そのヤシュバがマルギニーの事を聞けば、どういう行動に出るのかはわからない。
ヤシュバには、黙っていよう。そう決めた私は、しかし次にはすぐにそれを諦める事となる。後方から、ざわめきが起こっていたからだ。振り向いて、そちらを見れば。黒い鱗が、陽の光に照らされて鈍く輝いていた。
「ヤシュバ様。何故、こちらに」
「……爬族が、近くに居るそうだな。マルギニーも」
私は努めて平静を装って、それを迎えた。ただ、ヤシュバは重苦しい表情をしながら、私がひた隠しておきたい事を早速口にする。竜の牙とは途中まで同行をして、つい数日前に別れたばかりだった。ヤシュバは
ヤシュバで、己で空兵の斥候を飛ばして、それを知ったのだろう。まさかこちらの方まで飛ばしているとは思っていなかったが。元々竜の牙には、ガーデルが直々に鍛え上げた者が揃っているから、その者達ならば、
こちらより練度に勝るのでその様な芸当もできるのだろう。空兵同士でぶつかり合う事もなく情報だけ掠めてゆく様は、大分私の肝を冷やすが。それでも私は表情を変えずに静かに頷いた。
「ご安心ください。あの死にぞこないの老いぼれぐらいは、私が片付けてみせましょう」
「俺も、行こう」
「……それは、困りますね。今あなたは竜の牙を率いているのですから。軍の象徴であるあなたが、その様な振る舞いをされてしまうのは」
「元より、俺は馬車で揺られているだけだ。構わんだろう」
そういう意味ではないのだが。しかし、言っている事は事実だった。総大将と言っても過言ではないヤシュバだが、まさか前線に出て戦う訳でもなく、またラヴーワ軍の動きは今のところ派手な物は無かった。あちらはまだ
緩衝地帯にすらほとんど足を運んでいないのだから。その上で、当然ヤシュバを補佐するために、かなりの人数がそちらには割かれている。
「あなたのお勉強のためにも。できればこのまま、竜の牙を率いて頂きたいのですがね」
「少し早い戦があるから、俺もこちらに来た。それでは、駄目か」
「物は言い様ですねぇ。あなたがそこまでマルギニーに固執しているとは、思いませんでした」
「俺が撒いた種だから。俺が刈り取るべきだろう」
束の間、私はそれを聞いて瞼を閉じていた。その言葉は、ヤシュバというよりは。タカヤが口にした様に聞こえて。溜め息を吐く。
「仕方がない方ですね。マルギニーを片付けたら、すぐにお帰りになって頂きますよ。いくら問題が無いと言っても、兵の士気には関わります。今後、この様な事は控えてください」
「ありがとう。リュース」
私が許可を出すと、ヤシュバが微笑んでくれる。本来ならば、あちらが私に命令を下すべきなのだが。その辺りは、どうしようもなかった。
「伝令。すまないが。少し早めに出るぞ。休めていない者は休んだままで良い。この際、遅れても構わん。マルギニーがヴォーラスの沼にまで達してしまう方が厄介だ」
残った爬族のほとんどが、それに従っているというのならば。こちらの行軍よりも移動はずっと遅くなるし、長蛇の様になっているだろう。戦える者も、マルギニーの側近以外はかなりばらついているはずだ。今ならば、
容易くマルギニーの首を取って、そのままヤシュバを帰す事ができる。これが、ヴォーラスに逃げ込まれると厄介だった。沼地の中に隠れられては、視界も悪く。空兵を用いてもそう簡単には見つけられなくなる。それまでに、
方を付けたかった。
「ヤシュバ様。馬車に乗る余裕など、無くなってしまいますが。よろしいのですか」
「そんな事を、今更俺が嫌がると思っているのか」
そう言って、ヤシュバが翼を広げる。その気になれば、どこまででも飛んでゆける翼がヤシュバにはあった。私には無いそれが、何故だか今は、無性に羨ましいと感じてしまう。
「ならばよろしい。ですが、決してお一人で行こうとはなされないでくださいね。それが守れないのであれば、ここでお帰り頂きます」
「お前の言う通りにしよう、リュース」
ヤシュバを加えて、竜の爪は先を急ぐ。爬族を追うと聞いて、その上ヤシュバが加わったとあっては。兵の士気は嫌でも上がる。ヤシュバの前で不甲斐無い戦いを見せる様な真似は、誰であれ避けたいし、その上で
爬族を嫌う竜族は非常に多かった。今回のラヴーワとの戦でも、爬族はまた邪魔をするのかと。そう思う者もかなりの数居ただろう。後顧の憂いを断つためと気持ちを切り替えれば、今マルギニーを追うのも、悪くはない。元より
ヴォーラスの沼地を通る竜の爪は、戦う事よりも、ただ進軍を目的としている部分が多く。それは兵にも理解されているが故に、思わぬ戦に兵は昂りを見せていた。
昼夜を通して進軍し、最低限の休息だけを貪って。どうにか遠くに移動をする爬族の姿を捉えたのは、数日後の、夕暮れ時だった。間に合ったのかは、微妙なところだった。既に、更に先の地平線には、沼地を覆う木々が
僅かに望めるのだから。
「行くぞ。目的は、マルギニーの首。雑魚は放っておけ」
馬を走らせて、それ以上の指示を出す事もなく。私は先頭を行く。ヤシュバには悪いが、ヤシュバを突っ込ませる訳にはゆかない。遅れている部隊はドラスに任せたので、今先陣を切るのは私以外にはありえなかった。馬上
からでも届く長剣を構えて、馬を駆けさせる。爬族の中からかなりの騒ぎが起こっていた。目に映るのは、爬族ばかり。舌打ちをしながら、私は突っ込む。こんな時でなければ、爬族なんぞに関わりたくはなかったというのに。
遮ろうとする爬族の兵を無造作に切り捨てながら、私は爬族の全体を何度も確認していた。思っていたよりも、数が多い。そして、集団の外側は兵が固めていたが、中の方は女子供、老人などを含めた者が多い様
だった。問題なのは、深くフードを被り、顔のわからぬ者だ。爬族は薬学に長けている。それに携わる者は、その様な恰好をしている者が多いのだと、ぼんやりと考えていた。普段ならばそんな事はどうでも良いのだが、
今はその顔のわからぬ者の中に、マルギニーが紛れているのではないかという懸念がどうしても出てきて、こちらの動きを鈍らせていた。それに執拗に囚われていては、このまま沼地へと爬族を逃がしてしまう事にも
なる。既に、先頭が沼地に差し掛かっている。先の報告ではマルギニーらしき人物は先頭に居たというが、こちらが追っていると察知したのならば、当然マルギニーは同族の中にその身を晦ませた事だろう。このまま
大部分の爬族の方を捕らえて、マルギニーが出てくるまで殺し尽くすというのも手ではあるが、先行してきたが故にこちらの兵力もさまで多いとは言えなかった。相手がほとんど武装をしていないから、負ける様な事は
ありえないが。やはり今は、どうにかしてマルギニーを見つけなければならない様だった。
爬族の中から、悲鳴が上がる。
「怨むなら、その様な状況を自分達に招いた哀れな族長を怨むのだな」
馬を駈って、私はマルギニーだけを捜した。とはいえ、邪魔をする者は女だろうが子供だろうが、黙って切り捨てる。切り捨てた身体から、赤い血が飛び散っていた。ああ、やはり。爬族は竜族とは違う。こんなにも血は赤く、
そうして力も竜族には及ばない。よくこの様な態で、自分達も竜族に加えられたいと、馬鹿な事を願っていた物だ。本当に、度し難い。追いついてきた後続の竜族も、私に続いて爬族を呑み込もうとする。目的はマルギニー
だが、こちらは幾分今までの鬱憤を晴らすかの様に、見境なく爬族を襲っている者も多かった。私の爬族に対する憎しみは、マルギニーが原因であって、或いは私怨とも言えるが。しかし結局のところ、その兵の様子を
見れば。如何に爬族が竜族にとって目障りであったり、また不躾にすり寄っていたのかを証明するかの様だった。
「どうしてこの様な事を」
私の道を塞いだ、爬族の男がそう訊ねてくる。相手は、私が何者であるかを理解している様だった。その身形からして、マルギニーの近縁に当たるのだろう。私は、その問いに笑みを浮かべる。
「この地が、貴様らの涙を欲しているからだ。ここは涙の跡地。貴様らの瞳と。身体を刻んで出てくる赤い血を。誰よりも望んでいるだろうな」
馳せ違い様に、武器を構えていた男の首を刎ね飛ばす。また、悲鳴が起こった。舞い上がった首から糸を引く様に飛び散った血が、私の頬を濡らした。青い鱗が、赤く汚れる。
その後も、私はマルギニーを捜し続けた。しかし、結局それは徒労に終わってしまう。すぐに陽は沈み、夜が来る。そして、爬族は沼地へと消えてゆく。自分が先行し過ぎている事を充分に理解していた私は、それ以上兵を
進ませる事はできなかった。
「申し訳ございません、ヤシュバ。マルギニーを見つける事は叶いませんでした」
少し西に寄って、大分昔に討ち捨てられた廃村の近くに野営し、後から追いついてきたヤシュバを私は迎える。こんな時ではあるが、ヤシュバが興味を示したので、今はその村の教会の中で、外を固めさせて私は
ヤシュバと対峙していた。
「そうか。見つからなかったか……。それにしても、随分殺してしまったな」
随分という言葉に、私は苦笑してしまう。それでも、全ての爬族を含めた内の、精々二割に届くかどうかといったところだ。マルギニーという目当てがある以上、それ以外に時間を割く余裕は無く、道を阻む者を仕方なく
切り捨てるだけだったが故に、それ程の被害が爬族側に出たという訳ではなかった。この辺りはやはり、平和な世界からやってきた男の感想という気がしてしまう。
「お嫌でしたか」
「……仕方がない事、なのだろうな」
マルギニーの首を取ると決めたその時から、こうなる事は決まっていたのだった。ヤシュバもそれに頷いて、以前の様に、穏便に事を済ませようなどと、言わなくなった。
外から、野営の物音が聞こえてくる。それ以外は、今は何も聞こえない。打ち捨てられた教会の中に居るのは、私とヤシュバだけだった。ヤシュバは、風化してゆく教会の中で佇んで。一部が割れて風通しの良くなっている
窓から覗く月を見上げていた。
「不思議な場所だな、ここは」
「そう、思いますか」
「この世界の種族には、それぞれに神が居るのだろう。ここは、どんな種族が使っていたのだろうか」
「多分、共用の施設として設けられた物だと思いますよ。この辺りは少数部族が多いですが、少数故に、別の種族が入り混じる事も多い。また、ラヴーワでは少族と片付けられてしまう様な種族とかね。ですから、そうなると
信仰する神もそれぞれ別になってしまう。そういう者達を、昔はひっそりと迎えていたのだと思いますよ。少し見ただけでも、いずれかの種族の色が濃い様な造りではない事は、私にもわかりますからね」
造りは、全体的に質素な物だった。特別な祭壇も、神像も、見当たらない。願いたい者全てに開かれた、ひっそりとした祈りの場として使われていたのだろう。
「それも、この村自体が過疎ったか何かして。その役目を終えた様ですがね」
「そうか。……そういえば、リュース。カーナス台地について、教えてはくれないか」
「カーナス、ですか。それはまた、突然な事ですね」
「この後、事が済んだら。お前はその手前で待機するのだろう?」
「ええ、まあ。予定より大分南に来てしまいましたがね。あそこはラヴーワの者達は特に忌み嫌う呪いの場でしてね。ともすれば、私達よりも、ラヴーワ軍に牙を剥く呪いが蔓延している事でしょうし」
掻い摘んで、私はカーナス台地の事をヤシュバに説明する。先の戦で、竜族と狼族がぶつかり合い、そしてラヴーワの方で齟齬があったのか、一歩も引かなかった狼族、特にその中心となっていた銀狼のほとんどが
戦死した事を。怨みを呑んだ狼族と銀狼の魂が、今はその地に留まっている事。
「地縛霊、という奴なのかな。そうやって、土地に呪いが染みつくというのは。よくある事なのか」
「そうあるという訳ではありませんね。まあ、そうそうあっては。使えない土地ばかりになってしまいますよ。カーナス台地は、丁度涙の跡地を覆う結界の中心の位置にあり、また結界がある故に、死者の魂が安らぐ事を
知らずに。救われぬ魂が集まっているのではないか、そう言われています。元々呪いというのは、より強い呪いの前には無力となり。そうして食われて、更に肥大化する物ですから」
「確か、それは俺達には有害な物でもあるのだな」
「ええ。大抵の者は呪いに近づけば、生者を嫉む死者によって、そのまま取り殺されると言います。その呪いの強さにもよりますがね。ですから今のカーナス台地には、誰であろうとおいそれと近づきたいとは思わぬ
でしょうね。あえて近づいて、平気な者が居るとすれば。狼族の族長である銀狼のガルマ・ギルスくらいのものでしょうか。狼族の怨みも、銀狼の怨みも。彼を呪う事はないでしょうからね。とはいえ、それ以外の者は、
基本的には近づけません。ラヴーワにとっては、それは尚更の事。現在の狼族を見れば、直接にカーナス台地で彼らを屠った竜族よりも、騙まし討ちの様な真似をした味方の方を、寧ろ嫌っている節がありますからね」
「そうか。なら、お前がカーナスの手前に居るというのは。近づかなければ、寧ろ安全なくらいなのだな」
「そうですね。まあ、私自身はカーナスに足を踏み入れても、なんともありませんがね」
ヤシュバが、少し驚いた顔をする。それを見て、私は少しだけ、得意気に微笑んだ。
「そうなのか? 今のお前の話を聞くに、その死者の群れが心を許す様な相手でなければ。何人であろうと呪いに呑みこまれてしまいそうに聞こえるのだが」
「ええ、そうですよ。ですが、実は私にはそういう呪いの類は、効果がありません。幼い頃からそうでしたから、自分でも不思議なのですが。もしかしたら、竜神様の祝福のおかげかも知れませんね。どの様な呪いに
触れても、それは私には害を成さないのですよ」
「そうなのか。なら一層、カーナスに引き篭もると安全なのか」
「それは流石に、遠慮したいところですがね。それに私だけが安全になっても、意味がありません。外界と遮断されてしまう。ああ、ヤシュバ。あなたも変な気を起こして、入ってみようなどとは思わないでくださいよ。生者が
相手ならばほとんど無敵と言っても良いあなたでも。呪いの前では、どうなってしまうのかわかりませんからね」
「安心しろ。俺は、お化けは怖くて嫌いだ」
「余計に心配になる様な事を言って、私をからかうのは止めて頂きたいのですがね」
そこで、一度会話を切ってから。ヤシュバはまた、窓の月を見上げていて。私はそれを見ながら、近くの壊れた部分のある長椅子に座り込む。私なら平気だが、ヤシュバが同じ事をすれば、耐えられそうにない程に傷んでいた。
「明日。勝負は付くだろうか」
「難しいところでしょうね。マルギニーが今、ヴォーラスの沼地を昼夜兼行で進んでいるのならば、望みは薄い。かといって、流石にランデュスから出てきた我々が、夜にあの沼地に入るのは危険と言わざるを得ない。こちらは
マルギニーを追うために、急行した事で今は少数でもありますからね。後続の到着を待たねばなりません。こうなれば、当初の予定通りに沼の渡渉を試みて、様子を見て私はあなた共に北へ。カーナスの手前で、あなたを
更に北へと送り出す事になるやも知れません。ヤシュバ。マルギニーの首を取ると言い、あなたがここまで来る事を許してしまいましたが。もしマルギニーが完全に逃れる様な状況になっていたら、その時は申し訳ありませんが」
「わかっている。俺の我儘で、ここまで来てしまった。もう、我儘を言うつもりはない」
遠くから、音が聞こえる。兵達の囁き交わす声。火の爆ぜる音。吹いた風が、この教会の窓を通り抜けた際の奇妙な音。その中で、私はただ、月明かりに照らされているヤシュバを見ていた。
「俺は、筆頭魔剣士になったのだな」
「ほとんど最初から、あなたは筆頭魔剣士だったでしょう。ヤシュバ」
「そうだったな」
それを見つめながら。明日、マルギニーを殺す。私はそう決心した。
夜明け前、空が白みはじめた頃に。私は目を覚ました。それと同時に、私の使っている天幕に兵が入ってくる。
「何事だ」
「後方に、我が軍ではない集団が見えます」
「後方だと?」
嫌な予感を覚えて、飛び起きる。同時に眠気も醒めた。今はこの陣にヤシュバを迎えているところだ。万に一つの事も、あってはならない。
「後続の軍ではないのは、確かなのだな」
「はい。背格好からして、我々よりも小物であり、その線は薄いかと。まもなく、夜が明ければもう少し様子も明らかになりましょう」
身支度を整えて、剣を取って。私は天幕を出た。外では、まだ眠っている兵も多い。マルギニーを追い詰めるために、ここまで駆け通しだったのだ。流石に、他種族とはあらゆる点で優れている竜族といえども、多少の
休息は必要だった。
「状況を報告しろ」
「我が軍の後方を、囲む様にして不可解な軍の姿が確認されております。また、前方のヴォーラスの沼地からも、昨日沼地に入ったと思われる爬族の姿が」
「……ふむ。少し、意外だな」
どうやら、一杯食わされたという事が段々と明らかになってくる。マルギニーは自らを囮にして、私をここに誘き寄せたのだった。確かに今考えれば、あの老いぼれてはいるものの抜け目の無いマルギニーならば、自分の
保身を考えるのならもっと早く、ヴォーラスを経てラヴーワへと落ち延びていただろう。恐らくは私が近くに居る事を察知して、この様な真似に出たに違いなかった。
「リュース」
兵の報告を受け、指示を出しながら忙しくしている私の下にヤシュバが速足でやってくる。それに向けて、まずは一礼した。
「申し訳ございません、ヤシュバ様。どうやら、罠の様でございます」
「その様だな」
「ですが、あなた様に危害は決して加えさせません」
「そんな事は、俺は。それよりも、どうする」
「今、探らせているところです。しかし、それ程の事ではないとは思います。今私達は分断されている態ではありますが、やはりぶつかり合いとなればこちらが圧倒的に強いですからね」
「それは、そうだが。……後ろに居る者達は、どこから来たのだろう? 確かに俺達は、マルギニーを急いで追っていたとはいえ。斥候の類はある程度は放っていたはずだが」
「……穴蔵か」
少し考えてから、私は相手が爬族である事を今更の様に思い出す。
「爬族は元々穴蔵に住む習性がありますから。今でもそうしている者は多いし、また穴掘りを得手とする者も多い。恐らくは、空兵の目でも見つけられぬ様に周到に作った穴蔵に、兵を伏せていたのかと」
「埋伏か」
てっきり、逃亡をするだけかと思っていたが。なるほど、マルギニーにもその様な意地はあったのだなと、私は少しあの死に損ないの爬族を見直す気持ちになる。いつも遜っているばかりで、その本質を見せようともしない
老人ではあったが。意外にもこの様な能力には長けていた、という事だろうか。
「ただ、私にもわからない事があります。どうも、敵の数が多い。昨日私達がヴォーラスに追い立てた爬族だけでも、数千はおりました。爬族の規模からすれば、あれでほとんど全部と言っても、差し支えないでしょう。
それなのに、今はそれが後方に居るというのは、どうも」
「夜の間に、沼地から出て回り込んだのでは?」
「流石に、それは余程遠回りしないとこちらもわかりますよ。今完全に包囲されている事を考えると、その線は薄い。それに、その沼地からも爬族はしっかりとした人数で出てきては我々を迎えています」
やはり、どこからこれ程の爬族が湧いて出たのかが、わからなかった。そうしている間に、陽は顔を見せて、地平を照らす。それから僅かな間を置いて、空兵の斥候が大慌てで私とヤシュバの下へとやってくる。
「申し上げます。我らの後方に居るのは、爬族ではありませんでした」
「何」
「どういう事だ」
「少数部族の、群れです。様々な部族が、手に思い思いの武器を取って。武装もまちまちのままに、我らを包囲しております」
「馬鹿な。何故、爬族以外がここに」
「それは、そんなにおかしな事なのか。リュース」
ヤシュバが、わからないならわからないなりに、それでいて平静を装いながら訪ねてくる。それに、私は頷いた。
「彼らを従える者が、おりません。マルギニーでは荷が重い。今はこうして、追われる立場になったとはいえ。マルギニーは元々親竜派。マルギニーの言葉で、他の少数部族が手を貸すとは思えません」
「しかし、実際には」
「……仕方がない。口惜しいが、ここは引きましょう。もう少し陽が昇れば、後方のドラス達にも私達の様子が伝わるはず。一丸となって後方を一気に駆け抜ければ、それ程の被害は出ますまい。この際、マルギニーの事は
諦めます。ドラスと合流できれば、例え全ての敵を合わせたところで、それ程辛い戦いにはなりますまい」
いくら数合わせに兵を集めたとしても。それでも所詮、竜族には劣る者達だった。ここから脱する事すら、それ程難しい訳ではない。そうと決まれば。そう思った矢先に、また新たな斥候の空兵が、舞い降りてくる。こちらは
息を切らして。目を見開いて、まるで化け物でも見たかの様な慌て様だった。
「も、申し上げます! こ、後方からの攻撃が始まりました」
「それはわかっている。そんな事で、慌てるな」
「い、いえ。それだけでは。その中に一人、一人……あ、ああ」
がくがくと震えながら、怯えた表情で空兵は頭を抱えていた。ヤシュバと一度顔を見合わせてから、私は歩み寄って、その兵の頬を張り飛ばす。
「おい。報告は簡潔に済ませろ。何が、来ている」
私が殺気を籠めて問いかけると、気の毒な斥候はまた大分肝を冷やした様だが、それでも徐々に落ち着きを取り戻す。それでも、声は震えていたが。
「あ、赤い竜が……あれはきっと、ガーデル様だ……」
「ガーデルだと……?」
斥候と、ヤシュバがその言葉を呟いた時。私は心臓が跳ね上がる思いをしながら、しかし素早く周りに視線を配る。今の話を聞いていたのは、斥候の二名と、私とヤシュバだけだ。他を遠ざけていたのは幸いだった。
「それは、まことなのか。見間違いだった、などとは許されぬ事だぞ」
「はい。何度も確認しました。しかし、間違いなく少数部族を指揮しているのは、あのガーデル様なのです」
「……そうか。ご苦労だったな」
斥候から離れて。私はしばらく目を瞑って思考に耽る。そうしているだけで、敵陣に飛び込んで暴れているガーデルの姿が見える気がした。
「リュース……?」
ヤシュバの、不安そうな声が聞こえる。はっとして、瞼を開いた。私の目の前に居るヤシュバは、特に怖気づいた様子など見せはしなかったが。それでも突然にガーデルが現れたと聞いて、やはり動揺は隠せない様だった。
それを見た瞬間に、私の中に、言い様も無い気持ちが溢れ出してくる。私は精一杯の笑みを、ヤシュバに向けた。
「ご安心ください。何があろうと。あなたの事は私が守ってみせます」
不思議な気分だった。幾度となく、ヤシュバを見てこの気持ちを私は味わっていたが、今はそれが殊の外強く感じられる。しかし、長くはその気持ちに浸らなかった。目の前に迫る危機を、私は命に代えても、退けなければ
ならなかった。それができなかった時、私が死ぬのならまだしも。ヤシュバまでも討たれかねないのだから。
ガーデルの出現に私は口を閉ざしたが、それ程の時が掛からず全軍に知れ渡る事となった。それも仕方がない事だった。少数部族の中にも、また爬族にも。ガーデルの背丈と並ぶ様な者は居なかったし、またガーデル
自身もそれを狙って、顔を隠す事もせずに堂々と構えているという。全軍に動揺が走った。流石に、ガーデルはランデュスの英雄と言われるだけの事はあった。竜の牙、爪を問わず。ガーデルが現れ、しかもそれが今は
自分達に立ちはだかる壁だと知れ渡ると。私はともかく、あれ程ヤシュバを崇拝しているにも関わらず、兵は明らかに狼狽えていた。脱走にまでは至らなかったのは、幸いだっただろうか。囲まれているから、その様な気が
起きないのかも知れなかったが。加えて、こちらはマルギニーを追い続けていたせいで、少数で、また疲れも取れてはいなかった。
「申し上げます。ドラス様がガーデルとぶつかり、負傷された様です。ドラス様は一度引かれ、向こう側の我が軍は膠着状態にあると」
「そうか」
入ってくる報せは、芳しくはなかった。ドラスは真っ先に私とヤシュバの状態に気づき、駆けつけようとしたところをガーデルに捕まったのだろう。流石に、まだガーデルと張り合える状態ではなかっただろうか。万全の状態なら
わからなかったが、ガーデルの突然の出現には、やはりドラスも惑わされたという事か。まだ若いから、それも仕方がない事かも知れない。
「それは、私も同じか。まんまとこの様な所まで誘き出されるとは」
円陣を組んだ中央で、私は死の足音を感じながら。自嘲気味に笑った。まさか、ガーデルが今になって出てくるとは。それも竜族でありながら、竜族に牙を剥くとは思いもしなかった。
「どうして、ガーデルは俺達の事を襲っているのだろうか」
「さて、どうしてでしょうかね。しかしドラスまで退けたとあっては、冗談という訳ではないでしょう。ああ、困った。流石にガーデルが居る中を、突破できるのかはわからない」
兵だけなら、突破はできるだろう。ガーデル一人だけが強くとも、限界があるからだ。
しかし。
私は、またヤシュバを見つめた。ガーデルが何故か今ここに現れて、そうして何かに固執しているとするのならば、私と、そしてヤシュバだろう。その中を通ろうとすれば、当然ガーデルはこちらへと向かってくるはずだ。しかし
正面から堂々とガーデルと戦うのも、難しい。兵は皆が浮足立っていた。少し前までは、ガーデルこそが自分達を導いてくれる筆頭魔剣士だと仰いでいたのだから、それは無理からぬ事ではあった。そしていくら現在の
筆頭魔剣士であるヤシュバがここに居たとしても。ヤシュバに用兵の経験が無い事は、兵達には察せられている。少なくとも、ヤシュバがその様な機会を見せる場は無かったのだから、ガーデル程の信用は置けない。それでも
ヤシュバの戦闘能力の高さを、兵は崇拝してもいたが。
ここで手を拱いていても、仕方がなかった。確実にガーデルはこちらへと向かってきているという。ドラスの方が、一度引いているのだから尚更だ。ドラスはそれでも出てこようとしているだろうが、あちらもやはりガーデルの
気迫に押されていると見るべきだった。ヤシュバの竜の牙さえ呼び込めればなんとかなるだろうが、それはもっとずっと北の所で、こんな事がこちらで起こっているとも知らずに行軍をしているだろう。それでは間に合わない。
「致し方なし。これも私の不甲斐無さ故だな」
迷っている時間は、もはや無かった。私は兵に、必要以上に抵抗を見せる必要はなく、落ち延びる指示を出す。抜けた先でドラスの方へ集まれと。ガーデルの狙いは私かヤシュバなのだから、その前にいくら兵を出しても、
無意味に死なせるだけだった。
その上で、空兵の中から精鋭を選び出し、ヤシュバの護衛の任を与える。
「もしもの時は身替りになる覚悟がある者だけで良い」
そう言ったが、誰も辞さずに頷いていた。ヤシュバを崇拝している心が、今は有り難い。
それから、私は少ない兵に手順を伝えてから伏せさせて。村の廃墟へと移ると、昨日ヤシュバと話をした教会の中へと入る。私の後ろに、ヤシュバを連れて。
「こんな所に今更入って、どうするんだリュース。戦わないのか」
「残念ながら、勝機が薄いと判断しました。いえ、私とあなたで死力を尽くせば、別でしょうけれど。それはあなたも無事では済みませんからね。申し訳ございません、ヤシュバ。全ては私の責任です」
「そんな事は。俺も、無理矢理ここまで来てしまったのだし」
首を振って、ヤシュバをまっすぐに見つめる。今は、こんな話をしている場合ではなかったな。
「ヤシュバ。今、この時をもって。わたくしリュースは筆頭補佐の座を下ります。これよりは、ドラスが筆頭補佐となり。あなたの支えとなる事でしょう」
私の言葉に、ヤシュバは目を見開いて、それから口を開けて。しかし、しばらくは何も言葉が出せずに居る様だった。
「……どうして。今、お前が筆頭補佐を辞める理由が、どこにある」
「ここで。あなたとは、お別れをするからでございます」
「何を、言っているんだ。戦わないのなら。俺と一緒に逃げよう。リュース」
「軽々しく、筆頭魔剣士が逃げるなどと。申されてはなりませんよ」
「説明をしてくれ。どうして、お前と別れなければならないんだ」
「そうせざるを、得ないからです。間もなくここに、ガーデルはやってくるのですから」
ここまで来たら、あとはもうヤシュバをとにかく逃がす事を優先させるしかなかった。しかしそのためには、どうあってもガーデルの足止めをする必要が出てくる。私はそのために、ここに残らなければならなかった。
ここで、ヤシュバとは別れる事になる。
「まもなく、ここにはガーデルがやってくるでしょう。それと同時に、あなたはあの窓から。空を飛んで。ドラスの居る場所まで向かってください。私はガーデルを止めます。いいですか、必ず、ガーデルがこの教会に
足を踏み入れてからです。あなたは、空を飛べる様になった。けれども、それは飛翔に長けた竜族からすれば、まだまだ甘い。ガーデルともなれば、尚更です。空の上では、あなたはガーデルには決して勝てない。しかし
地に落ちてしまえば、雑兵とはいえ、かなりの敵に囲まれてしまう。その上で、ガーデルと戦って勝てるのかはわかりません。ですから、私がきちんとガーデルの足止めをした事を確認して。それから、あなたはその翼で
空を行くのです。おわかりですか」
「嫌だ。俺だけ逃げるなんて。リュース、一緒に行こう。お前を抱えて飛ぶぐらい、今の俺ならできる」
嫌々と、首を振って。ヤシュバが手を差し出してくる。黒いごつごつとしたその手が、その中に、見た目よりもずっと繊細な心を持っている事を、私は既に知っている。その手を取って。しかし私はやんわりと、その手を
下ろさせた。ヤシュバの瞳に浮かんだ涙が、とても情けなくて。愛おしく思える。できるだけ安心させる様にと、私は微笑んだ。
「それでは、ガーデルが出てきてしまう。空中で、私の様な荷物を持っては。決してガーデルから逃れる事はできません。爬族と少数部族ならば、空であなたの邪魔をする者は他には居ないはず。例え翼族がどこかに
混じっていても、護衛の兵だけでどうにかやり過ごせるでしょう。ヤシュバ。どうか、私の言葉に従ってください。他に、術はないのです」
或いは、ヤシュバが私を抱えて、抱えられた私があらゆる魔法を行使して空中でガーデルと戦うという事も、できなくはなかったかも知れないが。それも、翼族の谷で竜神の魔法を使った後遺症に悩む今の私の身体では、
心許無かった。ガーデルの足止めさえ、満足にできるのか。今はわからないのだから。
「ご安心ください。多少、衰えたとはいえ。私の力ならば。ガーデルと刺し違えるぐらいの事はできるはずです。あの忘恩の徒にして、売国奴のふざけた男に、思い知らせてやりましょう。本当は私の方がずっと
強かったのだという事もね」
虚勢を張った。今の私に、果たしてガーデルが討てるのか。わからなかった。ガーデルとて、怠けていた訳ではないだろう。それと比べて、私は衰えてしまった。それでも、決して負けられなかった。いや、負けても
良い。負けて首を取られ様が、ヤシュバにさえ手を出されなければ。ヤシュバだけは、守り抜かなければならなかった。ヤシュバだけは。私の全てで、守らなければ。
「嫌だ。リュース……嫌だよ……俺。リュースまで居なくなったら、俺は」
「ヤシュバ。どうか、生きてください。今度こそは」
話はそこまでだった。遠くに聞こえていた歓声が、迫ってくる。それを聞いて、私はヤシュバから離れて、教会の入口の方へ一歩出る。全身に力を込めた。剣を抜き、その刀身に全ての魔力を集める。
「合図をしたら。振り返らずに。わかりましたか、ヤシュバ」
返事は、聞こえなかった。その代りに、ヤシュバの翼が広がる音がする。
荒々しく、扉が開かれた。先陣を切る爬族には、目もくれなかった。その先に居る、赤い鱗の竜族。ガーデル。確かに、それはガーデルだった。筆頭魔剣士だった男。かつては、私が仕えた男。そうして、ランデュスに
仕えていた男。今は、ただの敵だった。それも、爬族に手を貸すなどという、くだらぬ事をしている馬鹿な男だ。
ガーデルが、周りの爬族と比べれば緩慢な動作で足を踏み入れる。一歩。二歩。
「ヤシュバ!」
五歩数えたところで。私は剣を、床に突き刺した。その途端に、剣から広がった魔力が、椅子も壁も、見境なく凍らせてゆく。凍った箇所から氷柱が飛び出して、私に切りかかろうとした爬族を串刺しにした。目に力を籠めて、
魔力の制御を最優先にする。扉だ。ガーデルを無視して浸食した魔力の奔流は、乱暴にぶち破られた扉の代わりに氷の壁となって、新たな扉となり。ガーデル達の退路を塞ぐ。
翼が風を掻く音がした。ヤシュバが、飛んでゆく。ヤシュバが。
「リュース。命令だ。死ぬな」
一部の硝子が残っていた窓をぶち破りながら、それでもその音に掻き消される事なく、ヤシュバの声は私へと届いた。ヤシュバが去ったのを確認して、私は窓も塞いだ。私の周り以外が、凍り付く。最後に残った魔力が、
ガーデルを襲った。しかしガーデルは私と同じ様に剣を床に突き刺すと。その浸食が止まる。
剣を抜いて、私はガーデルを睨みつけた。そうしても、ガーデルは無表情に私を見ているだけだ。周りで串刺しにされている爬族にも、然程関心があるとも思えぬ様子だった。流石にその辺りは、戦好きの前筆頭魔剣士
である。味方の死に、少なくとも戦場に立つ間は心を動かされるのを己に禁じては、その覇気を衰えさせる事もない。
「よく、のこのこと私の前にその顔を出せた物だな貴様は。ええ? 竜神様への恩も忘れて、薄汚い爬族に味方するとは」
「別に、構わんだろう? 俺はもう、筆頭魔剣士ではないのだから」
そう言って、ガーデルが不敵に笑う。その仕草が、癪に障る。かつては厳めしい鎧を身に纏っていたその身体は、今は襤褸切れを乱雑に巻いただけの様な恰好をしている。仙人か、乞食のそれの様だった。それでも本人の
雄渾な体躯もあって、卑しい風体には見えなかったが。
「そう、怒るな。せっかく久しぶりに会ったというのに。元気でいたのか、リュース」
「たった今貴様が、何もかも台無しにしやがったがな」
「それは、悪い事をした。マルギニーが、良い機会をくれてな。戦をさせてくれると。それから、お前と戦わせてくれると。俺が筆頭魔剣士だった頃は、そんなに本気を出して、お前とどうこうという訳にはゆかなかったが、
今は丁度良い機会だと思ってな」
「私も、そう思っていた。落ちぶれた貴様を屠るのは、私の仕事だ」
ガーデルが、大剣を構える。私では両手でどうにか扱えそうなそれを、片手で軽々と持ち上げて。一歩踏み出す度に、私の魔力を退ける様に、凍った大地が溶けてゆく。私も構えた。しかし、既にさっきの魔法で、私の
力の大部分は損なわれていた。決してガーデルをここから逃すまいと使ったせいもあるが、やはり私の力の衰えは、深刻な様だった。
「どうした。来ないのか、リュース。お前はいつも、俺を不満そうに見ていた。今なら、俺は筆頭魔剣士を下りたただの男だ。遠慮なぞ、要らないと思うがな」
「奇遇だな。私もたった今、筆頭補佐の座を辞したところだ」
「死ぬ気か。お前らしくもないな」
ガーデルとの会話は、そこまでだった。ガーデルは大剣を構えて、突進してくる。振り上げた剣を正面から受け止めて、私は呻いた。やはり、膂力では到底敵わない。かといって、今の私の身体と魔道は、かつての
それではなかった。初めから、勝機の見えない戦いだった。それでも、与していてよくわかる。この程度だ。ヤシュバには、敵わない。やはりヤシュバこそが、第一なのだった。お前ではない。筆頭魔剣士にふさわしいのは、
お前では。
数度ぶつかり合ってから、私は退く。自分の荒い息遣いが、鬱陶しい。
「どうした。随分、弱くなったなお前は。以前のお前は、俺に負けた時でも、そんなに辛そうにはしていなかった様に思えるが」
「……うるせぇな。黙って戦えねぇのか」
「お前こそ。死に急ぐ様な戦い方をするには、まだ若いと思うがな」
呼吸を整えて、身体を落ち着かせる。それから、魔力を解放した。途端に周辺を凍らせていた氷が、弾け飛ぶ。もう、必要無かった。ヤシュバが逃げるだけの時間は、充分に稼げたはずだ。
「止めるのか」
「好きな様にしろ。私は、あとはヤシュバ様の命令に従うだけだ」
「随分、あの男を買っているのだな」
死ぬな。あの言葉が、聞こえなければ良かった。命令と称して最後に叫ばれたその言葉は、私の行動を縛っていた。もっとも、今全力で向かったとしても、ガーデルに叩き伏せられて死ぬ未来しか見えていないという事も
あったが。だったら、ヤシュバの言葉を守る方が。私には優先すべき事だった。
「爬族に与するという事は。ガーデル、お前はラヴーワに行くのか」
「そのつもりだ。お前も、連れてゆく。丁度良い手土産になるだろう」
「好きにしろ。私には、もう力は残っていない」
足止めのための、魔法だった。かなり力を使うとはいえ、それでも以前の私ならば、充分に余力が残っているはずだった。剣を収めると、ガーデルも同じ様にして。それから一度外に出ると、待機していた爬族を呼んでくる。
拘束されて連れられる直前に、私は教会の窓へと視線を向けた。長く見る事はしなかった。
痛みを覚えて、瞼を開けた。薄暗い世界に、淡い月明かりが射している。
四肢と、それから尾の感覚が無かった。拷問の果てに、切り捨てられたのか。そう思ったが、身動ぎすれば、閊える様な感じがして。かろうじてまだ、それがある事がわかる。
爬族の捕虜となった私は、そのままガーデルの監視の下にヴォーラスの沼地を超え、ラヴーワへと連行されていた。当然、ラヴーワはかなりの混乱を見せる事になる。先の戦では最大の敵として立ちはだかっていたはずの
ガーデルと私が、仲違いをして。しかもガーデルは私をそのまま差し出したのだから。当然といえば当然だった。しかしガーデルは既に筆頭魔剣士ではない事を鑑みて、結局それは受け入れられる事となる。また連行
されている間に盗み見た範囲での事なので、推測ではあるが。どうやら今のガーデルは、爬族の指導者の立場をどういう訳だか受け持っている様だった。本人の性格を考えれば、恐らくはかなり強く、懇願されての事
だろうとは思うが。ランデュスを完全に見限った爬族は、八族の中に組み入れるのかはわからないものの。ラヴーワの一員として迎え入れられた様だった。時勢を考えれば、今は少しでも味方が欲しいラヴーワからすれば、
これは朗報だったろう。先に一応は味方という形になった翼族は、ほとんど使い物にならないのだから。その上に、その爬族をガーデルが纏め上げている。ガーデルがどこまで本気でラヴーワの味方をするのかは
わからないが、それでも敵として出てくる事がないだけでも。ラヴーワはガーデルの申し入れを受け入れるに足ると踏んだのだろう。
私が推察できたのは、そこまでだった。捕虜としてラヴーワに引き渡された私を待っていたのは、当然だが拷問の日々だった。既に筆頭補佐の座はドラスへと譲っていたし、ランデュスでもその様に扱われているはずで、
そうなるとここに居るのは、ただの青い竜が一人。それでも、ランデュスの内情には通じている。そうなればラヴーワのやる事は、立場も何も失った私に遠慮をする必要もなく、ありとあらゆる情報を聞き出す事だけだった。
爪を剥がれ、指を折られ。それから先は面倒なのと、下手に口を開ければ余計な事を口にしてしまいそうだったので、私自身の力で心を閉ざしてしまったので憶えていないが、とにかく相当な事をされた様だった。ほとんど
気を失った状態で今寝かされていた石の寝台の上で、目覚めた自分の身体を確認してみたが、到底動ける様な状況ではなかった。叫び声を上げたい程の熱が、途端に身体を襲う。
それでも、私は生きていた。それは、実に不可思議な事だった。私は、神声を聞くために竜神ランデュスとは深い繋がりを持っている。必要ならばランデュスは私の身体を自由に操る事もできるのだった。これ程に
ランデュスと距離が離れている関係で、神声を聞く事はできないし、竜神の操作もそれ程には受付はしないかも知れないが、それでも私の息の根を止める事ぐらいはできたはずだ。既に私は筆頭補佐ではなく、そうなれば
ラヴーワに捕らえられた私は、すぐにでも消してしまいたいはずだが。竜神はそうしなかった様だった。まだ私が生きる事を、望んでくれているのか。そういう事ならば、私ももう少しは生きてみようと思う。
そして、何よりも。黒い竜の言葉が、私の中に甦る事になる。死ぬな。ヤシュバは今、何をしているのだろうか。無事に逃げ切れただろうか。それだけが、心配だった。
「ヤッ……ガ、ァ……」
名前を口にしようとして。喉が潰れている事に気づく。余計な事を喋らない様にと心を閉ざしても、身体はそういう訳にはゆかなかった様だ。瞼を閉じて身体の中にある魔力を確かめる。そちらの方が、衰えたとはいえ、
ここまでは一切使わずにやってきたのだから問題は無かった。体内を巡らせて、少しずつ治療へと切り替える。こういう時、魔導に長けておいて良かったと思う。少なくともこの程度ならば死にはしない。それでも、血が
巡る様に魔力を巡らせる度に、忘れていた身体の痛みが甦って。その度に記憶に留めていなかったはずの拷問の瞬間も脳裏に甦る様は、どうしようもなく不快で、吐き気を催す。
最低限の治療を済ませて、それからは動かしたい部分を集中的に。とろとろと微睡みながら続けた治療は、やがて射し込む光が月光から、陽光になる頃には一段落付く事になる。どうにか動かせる様になった右手を
伸ばせば、手首に嵌められた手枷と鎖がそれに続いた。高い位置から牢獄に射し込む光に、その手は届かない。無機質な石の壁が見えた。すぐ右側は、壁になっていて。黒い染みが、いくつもいくつも線を引いたり、
飛沫となった跡が残されている。過去にこの牢獄を使った者の置き土産だろう。拷問の果てか。はたまた死ぬまでここを出られぬと知った上でか。それは定かではないが、狂った囚人の虚しい抵抗の跡は、そのまま
そこに残って私を歓迎していた。ゆっくりと首を反対側に向ければ、少し離れた場所にある糞尿のための僅かな箇所。あとは何も無い。四角く切り取られた牢獄の中にあるのは、それと、固く閉ざされ錆びついた金属の
扉と。そうして実物を見なくとも、そこがどうなっているのかわかる、長方形にいくつもの縦の線が刻まれた日光だけだった。散々な拷問を受け、早めに心を閉ざしていたからほとんど聞いてはいないが、私の竜族としての
身体の不出来を謗られた後は、ただここに放り込まれていた様だった。一応、立場は無くなったとはいえ。それでも私が持っている情報は有用である事から、殺すのはどうにか避けたのだろう。もっとも私が今まで
ラヴーワにしてきた数々の事を思えば、この程度で済んだのは幸いだと思わねばならなかっただろうが。両足を切り落とされてから、鱗を剥がされ。獣の前で晒し者になったところで、それは当然の報いであっただろう。
さて、どうしたものか。大分落ち着いてから、それを考える。脱獄は、流石に無謀だった。手枷には、ある程度の魔力を損なわさせる細工が施されている様だった。私の身体の中で巡らせる分には支障が無いので、治療の
邪魔はされなかったが。いざ破るとなれば、それなりの力が求められる。獣の国であっても、思っていたよりはまともな物が用意されているのだなと素直に感心する。これを破るだけなら、そこまで辛い訳でも
なかったが。今自分がどこに居るのかがわからない以上、闇雲に飛び出すのは危険だった。とはいえあまり手を拱いていては。情報が聞きだせないとわかれば私は用済みになる。いつまた拷問が始まるのかは
定かではなかったが。もう少しだけ治療に専念してから、集められるだけの情報を集める必要がありそうだった。脱獄をするのは、それからでも遅くはない。或いはランデュスからの働きかけも、あるのかも知れないと
思ったが、すぐにそれはないなと思い直す。筆頭補佐が捕らえられたというのならば、ランデュスの方から何かしらの取引が持ちかけられる事もあるだろう。法外な身代金だの、軍を引くだの。そういう事をラヴーワは
要求できる。しかし私は、それをさせないためにも、筆頭補佐の座をドラスへと譲り渡したのだった。ドラスにも事前にそれは伝えてあるし、竜神とも話し合っているので、私の言葉をヤシュバが呑み込んでいたとしても、
ランデュスでの今の私はただの一兵卒の扱いだろう。
そんな価値の無い者に、ランデュスは動かない。というより、動かれると私の立つ瀬がない。自力でどうにかして。それができないのならば、潔く死ぬ必要があった。いずれにせよ、やはり傷の治療から入るべきだろう。
傷の治療に専念しながら、牢獄に繋がれて数日。獄卒は、私の回復力を気味悪がっている様だった。死すれすれの身体が、今は平気な顔をして寝台に座って思案に耽っているのだから、気持ちはわからないでも
なかったが。最初は下卑た笑みを浮かべて私を小馬鹿にしていたのが、やはり竜族は竜族なのだと思ったのか。今は最低限の食事を運び入れる時に、怯えた顔でそれを差し入れてくるだけだった。例えどんな状態に
なろうと、私は筆頭補佐を務めていたのだから。そんな顔をされるのは今更な事ではあったのだが。
筆頭補佐だった。
その事実が、私に重く圧し掛かる。できればまだ、筆頭補佐でありたかった。一度譲ってしまった以上は、これからランデュスに帰国する様な幸運に恵まれたとしても、もう筆頭補佐に戻る事はできないだろう。流石に
それはドラスにも悪い。今頃は、慣れぬ筆頭補佐の任に追われているのであろうし。なるたけ私の仕事を手伝わせて、教えてはいたものの。それと戦の兼任となると、いきなりは厳しいだろう。私の残した手勢が、
どうにかそれを補佐してくれれば良いのだが。ドラスには人望があるので、その辺りは心配はしなくても良さそうだ。
私が一日の行動は、そんな物事を考えるのが精々だった。耳を澄まして、少し遠くにまで意識を飛ばしても。聞こえるのは獄卒同士のたわいもない会話と。私が恐ろしいという言葉くらいの物だった。ここが
どこであるかとかは、流石に軽々しく口にはしない。外に意識を飛ばしても、話し声など目立った音が聞こえぬところと、風の音がよく聞こえるので、割と背の高い建物に捕らえられているのかも知れなかった。
陽が、沈みかけた頃。扉が開かれる。食事の時間ではなかったので、何か用事があるのだろう。入ってきた獄卒は、私の身体をじろじろ見てから、精一杯の虚勢を張って鼻で笑う。今更だが、今の私は一切の服を
身に纏っていなかった。腰布ぐらいはあっても良かったのかも知れないが。嫌がらせか、見えないから良いだろうと思ったのかは定かではないが、よくわからない化け物を飼う様な扱いを受けているのは確かだった。
「こんな奴に、必要だとは思えんがなぁ」
「何か、用なのか」
「医者が来ている。お前を診るんだそうだ。俺には、必要ないとは思うがな」
「確かに、そうだな。それに、私を診る事のできる医者が、ラヴーワに居るとは思えんが」
奇妙な意見の一致を見せて、僅かに獄卒と会話をする。とはいえ、すぐに獄卒は引っ込んでしまうが。それにしても、私の身体を診る医者が居るというのは、疑問だった。竜族と、それ以外では身体の造りは違う。それこそが
強さの違いにも繋がるのだから、ラヴーワで普段は獣を診ている医者なんぞでは、私を診てもわからぬ事ばかりであろうに。
「おい。あんたはまだいいとしても。そっちの奴も入るのかよ」
そんな事を考えていると。出ていったばかり獄卒の、呆れ声が私に届いてくる。それに、意識をそちらに向ける。何か少しでも情報が得られればと、そう思って。
「助手だ。許可は貰っている」
あからさまな舌打ちが聞こえて。それから、足音が。部屋に医者と思しき男が入ってくる。
最初。私はそれを見て、あからさまに顔を顰めた。爬族だ。確かに、一部の爬族は竜族の事を知っているだろうから、私を診る事はできるかも知れないなと思う。
しかし私がそうして、目の前の爬族を冷めた目で見ていられたのは、そこまでだった。黄土色の、爬族にはよくある色合いの蜥蜴。別に、何かが取り立てて優れている訳でもないその造形を見て。それでも私の中では
火花が散ったかの様な衝撃が走る。その男が、本当は医者ではない事を、私は思い出した。
「ファンネス……?」
私からの呼びかけに、爬族の男は少し驚いた様に瞳を大きくしていた。
「ほう。私の事を知っているのか。つくづく、筆頭補佐とは縁があるのかな。ああ、今はそうではなかったか」
そう返すだけで。その男は。ファンネスは。特に気にした様子もなく私の下へとやってくる。私の方は、そうではなかった。胸が異常な程に高鳴って、鎖に繋がれている事も忘れて、立ち上がる。
「ファンネス。ここに。こんな所に、居たのですか」
「なんだ、急に。馴れ馴れしいな。私はお前の事は知らんぞ」
「私が、わからないのですか。ファンネス」
胸の中から、叫びが迸る。やっと会えたのに。やっと会えたというのに。頭の中に、声が溢れてくる。狂ってしまいそうな気分だった。そのまま、ファンネスへと私の身体が突き動かされる。手が、伸びかける。
しかし、そこまでだった。何者かが、私とファンネスの間に入って。私を遮ろうとする。
それを睨みつけようとして。私はまた、固まってしまった。
僅かに射し込む日光に照らされた、その艶やかな姿。翡翠の鱗が陽を受けて、宝石の様に煌めいては、私の目を焼く様に燦然と輝いていた。瞳には、その輝きに負けず劣らずの意志の光が宿り、今は敵意を剥き出しに
して、私をねめつけている。翡翠の鱗に包まれた美しい竜が、私とファンネスの間に立っていた。
「止めて! ファンネスに乱暴しないで!」
両腕を広げたその姿は、どこまでも美しかった。その姿も、その心も。純粋無垢の塊の様で。そうして自分の後ろに庇っている男を、心の底から慕っている事が、全身から迸る様に感じられる。
「ツェルガ・ヴェルカ」
「なんだ。ツガの事も、知っているのか。流石に筆頭補佐をしていただけはあるな。ツガ、私は無事だ。退いていろ」
冷静なファンネスの言葉が聞こえる。それよりも。私は、目の前のツェルガの姿に、目を奪われていた。ああ、そうだった。ファンネスが居るのだから。ファンネスが、まだ生きているのだから。その傍にこれが居るのは、
当たり前の事だった。
それを受け止めた瞬間に、私の心の疼きは、あっという間に鎮まってゆく。爬族の薬師を見て高鳴った心も、目の前の翡翠の竜族を見て揺らめいた心も、全てが大人しく。諦念を抱えて、胸の底へと。沈んでゆく。
「……失礼しました。私を診るために来た、医者だそうですね。お願いします」
俯いて、私はそれだけを言って。そのまままた寝台に腰かけた。爬族の医者が、翡翠の竜族を退けて、私を診る。その間、私は一言も口を利かずに。ただされるがままに診察されていた。
程無くして、私に異常が無い事を確認して。ただ栄養が不足しているとだけ告げて、去ってゆく。ファンネスと、それから翡翠が。
重い扉が、甲高い悲鳴を上げて閉められる。足音が遠退いてゆく。獄卒の者も、少し遅れてから。全てが、遠くなってから。私は両手で頭を抱えた。
何もかもが、遅かった。私は既に、大勢の爬族に手を掛けてしまった。今の私には。今の私にも。もう、あの爬族の傍に居る権利はありはしなかった。
「さようなら。ファンネス」
誰にも聞こえない私の呟きが。獄中に響き渡った。