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ヨコアナ
4.狼に豹
「友達や恋人になるなんて、簡単な事さ。そんな事で、苦労なんてしたことが無いね」
「でも、いつも長続きしないんだ。俺はいつも通りなのに、相手がいつも通りじゃなくなってくる」
「そうして、最後はいつもそう。顔見知り、に戻るんだ」
「……少しだけ。寂しいかな」
ベッドの上を我が物顔で占拠して、にやにやとしながらこちらを見る豹の男を、俺は茫然としたまま見つめていた。動物の、豹の顔をしているのに。そうして口角が吊り上がって、牙が薄っすらと見えている様は。相手が
明確な知性を持った人物であるという事を、俺によくよく教えてくれる。
それを見つめながら。どうしよう。そう、咄嗟に考える。だって、昨日ハンスに言われたばかりだ。自分が違う世界から来た者である事を、知られてはならないと。そのために、これから様々な事を知り、学んで、この世界の
人として生きてゆく必要があると。それなのに、今目の前に居る侵入者の豹と突然顔を合わせても、何を、どう対応したら良いのかが、わからない。
そもそも、この男は信用しても良いのだろうか。まずはそれだった。ハンスの様に、少なくとも俺の事情を知っても、俺に危害を加えない相手だったのなら。そう考えて、俺は運が良かったのだなと、暢気に思う。初めて
会ったのが、ハンスではなく、異世界から来た俺に目を付ける様な相手だったら、今こうして悩む事もしていられなかったのかも知れなかった。
「どうしたんだよ。そんなに、固まっちゃってさ」
黙ったままでいると、豹の男が先に口を開く。そうすると、幾分その視線が和らぐ。そうして話しかけた豹男の表情も、さっきまでのからかう様な状態から、親切そうな、そんな表情へと移り変わる。動物の顔って、思って
いたよりもがらりと変わるんだなと、見つめていて思う。ペットとして飼っている犬が、笑ったりするのは、人の真似をしているからだともいうそうだけれど、こうして人と変わらぬ知能を得た彼らは、やっぱり人の様に、表情が
ころころ変わる様だった。なんとなく、それが新鮮に感じられる。
いけない。今は、そんな余裕はなかったのだった。
「あなたは、一体」
「んん? 聞こえなかった? さっき、外でハンスと話してたっしょ。君の耳なら、きっと聞こえてたと思うんだよなぁ、俺」
「……少しだけ」
「ん。なら、わかるっしょ? ハンスの恋人だよ」
「別れたって、言ってましたよ」
「ははは。やっぱり、ちゃんと聞こえてたんだな。少しだけ、なんて。結構意地が悪いな」
そう言いながらも、豹男の表情は少しも変わらない。それが、なんとなく今は、恐ろしい物に感じられる。こういうのを、ポーカーフェイスって言うのだろうか。今見せている表情が、本当の表情ではない。それは、俺が
人でありながら、人嫌いになっている原因の一つでもあった。それから、動物好きに拍車を掛けている部分でもある。動物は、基本的には考えと行動が一致しているしな。物語の上で躍る人々も、基本的にはまっすぐな
性格をしていて。だから俺は、そんな人達を、つい応援してしまったり、共感して涙したりするのだった。
目の前の豹男は、それらとは、まったく別物の様な気がしてしまう。
豹男が、立ち上がる。
「そんなに、怖がらないで。俺は、何もしないよ。ハンスが何か隠しているっていうから、ちょっと嫉妬して、こっそり侵入したら、君が居た。それだけさ」
思わず後退った俺を見て、豹が口を開く。
立ち上がった豹の背は、俺よりも高く、ハンスと同じくらいだろうと思った。平均的な成人男性の身長というのは、多分そのくらいなのだろうか。人間だった頃の俺よりも、少し高い。百八十から百九十ぐらいが、多いのかも
知れなかった。長身で、すらっとしていて。なんていうか、モデル体型って、こういう事を言うんだろうなぁと思う。服も、地味な布の服一枚の俺と違って、黒い薄着を一枚。それは胸元まで裂けていて、豊かな獣毛が
見えている。その上から、更にコートの様な、薄茶の薄物を一枚。これは首回りは革が当てられていて、そこにだけ金色の飾りボタンが付いていた。一見すると地味、でもよく見ると手が込んでいる。そんな感じだった。
長い足の通ったズボンは紺色で、腰の所で複数のベルトにより止められている。この世界で見た人の中で、今のところ圧倒的にお洒落に気を遣っているのが、痛い程使わってくる。一言で言うと、爆発しろと言われる様な
類の、元の姿の俺からしたら遠くで眺めているだけで関わり合いになるのを避ける様な人物だった。
「だからさ。友達になろうぜ。ゼオロちゃん」
「どうして、私の名前を知っているんですか」
「……ああ。しまったな。つい、口が」
そう言って、笑いながら豹が口を押える。絶対嘘だと思った。言いたくて、言ったんだろう。思わず、俺は呆れてしまう。少なくともこの男は、俺に危害を加えたい訳ではない様だった。それよりも、俺をただからかいたいの
だろう。わざとらしいその笑い方からして、男が本気で俺をどうにかしようとは思っていない事は、伝わってくる。
「そんなに睨まないでほしいなぁ。せっかく可愛い顔してるってのに。台無しじゃないか」
「あなたがこういう顔をさせているんですよ」
「こりゃまた、手厳しいね」
「どこまで知っていて、ここに居るんですか」
「そうだなぁ……。ゼオロちゃんが、どこからか来て、ハンスの家に厄介になってる。そんなところかな」
「ササン君から、聞いたんですか」
「ササン? あいつ、なんか知ってんの?」
言ってから、しまったと思った。この男が、どこから情報を仕入れている。その事実に躍起になって、言ってはいけない事を言ってしまった。豹が目を細めて、笑みを浮かべる。そうすると、嫌らしいネコ科の様子が露骨に
伝わてくる。俺は別に、猫嫌いじゃないし、好きだけど。でも、人間と同じ様な知性を得た存在が浮かべる猫の笑顔は、正直何を企んでいるかのと思わずにはいられなかった。
「ははぁ。そうか。ササンも一枚噛んでるのか、なるほどねぇ」
「いい加減にしてください」
「……わかった。悪かったよ。白状する。白状しますとも。でも、まずは自己紹介からしようか。俺は、クロイス。クロイス・スケアルガ。よろしくね、ゼオロちゃん?」
「クロイス・スケアルガ……」
「そう。スケアルガ」
じっと、豹の男が俺の顔を見つめる。視線を逸らしたくて、でも、その瞳が気になって。俺もまた、その瞳を見つめていた。金色の、豹の瞳。野生のそれなら、獰猛そうで、誇り高い光を湛えているはずのその瞳も。この
クロイスという男のそれは、悪戯っ子の様にきらきらとしていて。なんとなく、俺が強い態度に出る事を引き留めようとするかの様だった。
やがて、得心がいったのか、男が何度も頷く。
「うんうん。よくわかった。それじゃ、素直に言うよ。本当はなんにも知らないの、俺」
「……え?」
「えへへ」
クロイスが、照れた様に笑い声を上げた。俺はしばらく、固まってしまう。
「本当はね、昨日、ハンスと話してて、それで別れて。そしたら、ちびっこ達が大慌てでハンスの下に走っていくのを見ただけなんだよ。気になってハンスに声を掛けてみたけれど、その時もはぐらかされてさ。だから、これは
何かあるんじゃないかなって思って。俺なりに、ちょっと調べてみたんだ。そしたら、ハンスの家には入れないし、こっそり入ったら、ゼオロちゃんが居るし? いや、もう、びっくりだわな」
「でも、名前を……」
「実は昨日も俺、ここに来たんだよね。その時に、ササンと会ってさ。勿論俺に事情を話すなんて事はなかったけれど、今からハンスの所に行くって言ったら、先客が居るからって言われてね。問い詰めたら、君の名前だけ
教えてくれたって訳」
という事はさっきササンについて素知らぬ振りをしたのも、演技だったのか。思わず目を鋭くすると、クロイスが苦笑する。
「悪かったって。君がどういう奴なのか、知りたくなっちゃってさ。でもまあ、大体わかったよ。君、少なくとも、ここに来て日は浅い上に、ここの知識も無いみたいだし」
「……そんな事まで、今のでわかったんですか?」
驚いて、素直に訊いてしまう。そうすると、得意げにクロイスは頷いた。凄い。猫が得意そうな顔してる。猫凄い。
「まず、君って狼……つまり、狼族(ろうぞく)なんだよね。狼族っていうのはね、このラヴーワに住む八族の中でも、一番同族意識が強くて、他種族とは距離を置きたがるんだよ。で、なんか君に関係のありそうな、ハンス。
それからササン。あいつらは犬族(けんぞく)。つまり、似てるけど、別なんだよね。まあ、俺には似た様なもんにしか見えないけどさ。でも、狼族は犬族と一緒に見られるのは、本当に嫌がるからな。だから、犬族の方も、
狼族にはあんまり近寄らないんだ。なのに、犬族であるハンスの家に、狼族の君が突然現れた。昔からの知り合いとかならわかるけど、少なくとも俺はハンスと知り合ってから、君の事を一度も見た事がない。それって、
何か事情があって、ハンスの所に君が来たって事だよね。それも、昨日の事を考えると、君は来たばかりと見るのは自然な事だし」
次から次へと、豹の舌が回る。よく喋る男だなと思いつつも、その目の付け所は侮れないと思った。俺の知らない情報、この世界の知識に基づいて、俺の存在がどういう物なのかを、一瞬にして計ってしまったかの様だった。
「それから、もう一つ。君がここに来たばかりだという事がわかるのが、さっきの俺の自己紹介。俺は、自己紹介したよね。クロイス・スケアルガだって」
「それが……?」
「クロイス……俺の名前は、いいんだ。問題は、スケアルガの方。スケアルガっていうのは、このミサナトの魔導学園の名前だ。あ、だからって、俺が嘘の自己紹介をした訳じゃないから。もうわかるよね? この街に
住んでいるのなら、スケアルガって言葉には、ぴんと来るもんだ。特別浮世離れしていれば別かも知れないけれど、でも君は、その学園の教師でもある、ハンスの下に居る。ハンスの下に居るというのに、スケアルガと
言ってもなんの反応も示さない。さっきの事と併せて、君が他の場所から来た事。ここに来て、日が浅いって事。両方を証明するのには、充分だと俺は思うんだけどね」
顎に手を当てて、被毛を弄りながらクロイスが続ける。俺は、何も言えなくなっていた。どうやらクロイスの目は、相当正確に相手を見ている様だ。誤魔化そうとして、誤魔化せる相手ではないという事を、俺は痛感する。
「さて、そうなると最後に残るのは、ゼオロちゃん。君が、どこから来たのか、何故来たのかって事だけど……。正直、これは少し、わからないな。ゼオロちゃんは綺麗な銀狼だから、浚われたりしてここに来たって言っても、
まあ頷ける話だし。ハンスが奴隷を使う様な趣味が無いのは断言できるけれど、君がどこかから逃げだしてきて、ハンスはそれを保護してるって場合もある。寧ろそれだと、俺を追い払おうとしていたのも、納得がいくしな。
ああ、でもそうなると、ササンはもう少し君の事を隠そうとするはずだな。匿っているって程、厳重な感じはしなかったし。それに君の反応も、なんか違う感じだよなぁ。あんまり、危機感が無さそうっていうか? もっと、
怯えていてもいいはずだ。もし箱入りの狼族だったら、他の種族、犬族ならまだしも、俺みたいな猫族が、それもスケアルガの者がこうやってきたら、気が気じゃないだろうし。うーん、そうなると、なんだろうなぁ。積極的に
他者とは関わり合うのは避けているけれど、絶対に駄目とまではいかない。そんな感じだよなぁ。それに、この家に厄介になってるのに、この部屋にはゼオロちゃんの荷物が置いていないみたいだし。そういう意味では
浚われたっていうか、何かしらの事情があって、ゼオロちゃんだけがここに来ちゃったって感じだよなぁ。空から降ってきたとか? まあ、空にはあの神様の作った愛情たっぷりの結界がある訳だから、違うんだろうけどさ」
「……クロイスさんって」
「ん? どうよ、俺の推理。結構、悪くないっしょ?」
「よく喋るんですね」
「おおぅ……そっちいっちゃう? うんうん、そういう返しができるから、なんていうか、余裕がある様に見えるんだよねゼオロちゃんは」
「それで、結局。あなたはどうしたいんですか」
「それは、さっきも言ったっしょ? 友達になろうって。だって、ここに来て日が浅くて、しかも狼族ときたら、きっと他種族の友達なんて中々作る機会も無かっただろうしさ」
中々も何も、まだこの身体になって二日目だ。友達とか、そんな物を作る段階には達していないのは当然だった。
「だからさ」
クロイスが右手を出しながら、丁寧に礼をする。そうしながら、顔を少し上げて、微笑みながらウインクを飛ばしてくる。
「俺と、友達になってください。ゼオロさん」
「……」
「……あれ、駄目かな? 結構頑張ったんだけど、俺」
「あの……。ハンスさんに、訊いてみないと」
「ははぁん。なるほど、一応、保護者の代わりみたいにはなってるのか。でもまあ、いいじゃん。誰と友達になるかなんて、保護者が決める事じゃないよ」
そう言われると、確かにそうだった。ハンスの言葉を重視するあまり、ちょっと人との接点に過敏になっていた事に気づく。少なくとも、クロイスは悪人という訳ではなさそうだし。
「じゃあ、お願いします」
「よっしゃ!」
大きくガッツポーズをクロイスが決める。そうしているところを見ると、なんとなく、さっきまでの雰囲気は感じられなくなって、大丈夫そうかな、なんて思ってしまう。
「ああ、やっと笑ってくれた。ずっと待ってたんだぜ、俺」
嬉しそうに、クロイスが言う。自然と笑っていた自分に気づいていなかった俺は、慌てて顔を逸らした。誰かと話して、こんな風に笑うのは、随分久しぶりな気がしていた。そんな風に気安く接する事ができたのか、タカヤ
ぐらいのものなのだ。
「うんうん。やっぱ、笑うと全然違うよなー。さっきまではきりっとしてたけど、でもとっつきにくくてさ。そっちの方が、絶対に可愛いのに」
「あの、そんな風に、言わないでください」
「お? 照れてる? 照れちゃってる?」
「……」
「へへへ。いや、面白いなぁゼオロちゃんは。そんじゃま、改めて。クロイス・スケアルガです」
そう言って、大きな手が差し出される。華奢な俺と比べると、クロイスの手はずっとごつい感じがする。クロイスだって、結構細い方だというのに。俺はおずおずと、手を伸ばして、指先が、指先に触れる。
思わず、引きそうになる。社交辞令以外で、こうして手を取り合う経験が俺には無い。僅かに浮いた俺の手を、クロイスが追いかける様に、それでも優しい仕草で捕まえる。
「よしよし。そんじゃ早速、俺の推理の、答え合わせをしてください!」
「それは、ハンスさんに許可をもらわないと駄目です」
「ちぇっ。じゃあ、いいや。もっと、他の話をしようぜ。知らない事が、やっぱり多いみたいだしさ」
そっと手を離すと、くるりと踵を返してから、クロイスはまた俺のベッドにぼふんと座り込む。それから、隣をぼふぼふと何度か叩いていた。
「さあいらっしゃい。お兄さんと、気持ちいい事しよ? ……すみません、冗談です。行かないでください」
俺がさっさと背を向けて部屋から出ていこうとすると、慌てたクロイスがまろびながら俺に縋りつく。足を引かれて、俺は仕方なく部屋へと戻ると、ベッドへ座った。隣に座ろうとしたクロイスに嫌な顔を向けると、クロイスは
両手を上げてから、反対側に回ってそちらに腰かける。腰かけながらも、片手を伸ばし、身を乗り出して、俺の顔をじっくりと見つめてくる。なんというか、一挙手一投足が一々鼻に付く様な感じがする。それでも嫌悪感とまでは
いかないのは、この豹男がどれだけ軽薄そうに見えても、それと同じくらい愛嬌に溢れていて、人懐こい印象を受けるからだろうか。
動物の顔をしているのに、その顔はとてもよく、ころころと変わって。出会ったばかり、言葉を交わしたばかりなのに、奇妙な慕わしさに似た物を感じさせられているのだった。人と仲良くなれる才能って、きっとこういう事を
言うのかも知れないなと、ぼんやりと考える。
「どしたの。そんなに俺の顔見て。惚れた?」
「もうちょっと真面目な事が言えたら、モテそうですね。クロイスさんは」
「え、ええー……」
俺の言葉に、クロイスは耳をぺたんと下げて、本気で落ち込んだ様に項垂れる。
おかしくて、俺はつい声を上げて笑ってしまった。
しばらくクロイスと話をした後、空腹を覚えて、俺達はそのまま部屋を出て、昨日ハンスに食事を振る舞われた部屋へと移る。クロイスはハンスの家の事はよくよく心得ているのか、鼻歌を歌いながら台所へ一人行くと、
しばらくして昨日の残り物と、それからあり合う葉物でサラダを作って持ってきてくれた。俺が座ると、テーブルを挟んだ向かい側に、クロイスも落ち着く。
「まあ、こんなもんでしょ。お口に合うといいけれど」
「ありがとう、クロイス」
話をしてゆく内に、まず最初にクロイスから言われたのは、敬語は止めにしてほしいという事だった。それから、名前も呼び捨てでと。
「友達なんだから、もういいっしょ?」
そう言って、クロイスはまた満面の笑みを見せてきた。俺は戸惑いながらも、言葉遣いを改めて会話に臨んでいる。こんな風に人と話す経験は、あんまりなかった。友達とはっきり口にできる相手すら、ほとんど居ない。今は
もう顔を合わせる事もなくなった、親友くらいだ。だから、敬語で話す方が、いつの間にか多くなっていたんだった。そうする必要のない家族との関係も冷え切っていたから、尚更だ。内に居る自分を、誰にも見せなくなって。
外に居る自分が、家の中でも顔を出す。そうしている内に、本当の自分がなんであって、どこへ行ってしまったのか、わからなくなってしまう。
そんな悩みは、社交的なタカヤと、そして目の前のクロイスには、少しも理解できない事なのかも知れなかった。彼らはいつも太陽みたいに微笑んでは、周りに人が集まってくる人種で。そうして俺は、いつも日陰で、
独りぼっちで居る。そういう風に生きているのは良くない。もっと社交的にならないと、人として未熟だ。そんな事は、わかっているのだった。責められるまでもなく、承知している。
それでも、一人で居る気楽さに、いつの間にか身体が呑み込まれている。放ってほしいのだと、叫びたくなる。
「ほら、せっかく温めたんだから。冷めない内に、早く食べちゃいなよ」
「……いただきます」
勧められて我に返る。ああ、またやってしまった。内へ、内へと籠るこの性格。世界を超えて、身体が変わっても、中身の俺自身は、なんにも変わっていないままなんだなって、ちょっと、寂しくなった。
口に入れたシチューの味は、昨日の様に我を忘れる程の美味さとはいかなかった。向かい側に座ったクロイスは、適当にサラダを摘まんでは、自分で作った特性のドレッシングに不備はなかったかと何度も頷いている。
「それにしても、ゼオロってすっげぇ細いな。ちゃんと食べてんの? 俺もそんなに肉がある訳じゃないけど、俺よりもずっと細いな」
「とりあえず、昨日は凄い食べたよ。お腹がぽっこり出るくらい」
「ふーん。でも、今は全然そうは見えないなぁ。あんまり太ってもあれだけど、それでももう少し肉は付けた方がいいよ。銀狼ってだけで、結構狙われるんじゃないかって、心配だわ」
銀狼って、そんなに狙われやすいのか。訊ねようとして、断念する。今はまだ、クロイスにどこまで自分の事を話していいのかがわからない。しかし、ただでさえ別の場所からやってきて、そのせいで狙われたりすると
言われたばかりなのに。この身体自体が狙われかねないとは。この身体の寿命を全うできるのだろうか俺は。
「クロイスって、この街の出身なの?」
しばらくは朝食をつつきながら、たわいのないやり取りを繰り返して、ふと俺は話題を変えようと訊ねてみる。さっきから、クロイスから俺への、一方的な会話ばかりだ。その上で、俺の判断だけで答えて良いのかわからない
物は、はぐらかしてばかり。そんなのは流石に退屈だろうと思って、尋ねてみる。
「いんや。俺はバンカの出身なんだ」
「へぇー」
しまった。街の名前っぽいけど、素直に返されても反応しづらい。もしかしたら街じゃなくて、地名だったりするかも知れないし。質問の内容を考えたら、街の名前だとは思うけれど。しどろもどろになっている俺に、クロイスは
微笑み掛けてくれる。ああ、なんというか、もう大体察してくれているんだろうな。なら、もう、言っちゃってもいいんじゃないだろうか。俺の秘密を。秘密と言って良いのかもわからない。俺の秘密。それでもどうにか話さずに
いられるのは、もし騒ぎに発展したら、俺の身を引き受けてくれているハンスに迷惑が掛かるからだった。例えば俺が今、全てを話して、何かしら悪巧みを抱いた相手に浚われるのは、まだ良い方だった。世界を超えた、
俺という存在がここに居る。その話が広まれば、当然俺の面倒を見ているハンスにも、何かしらの面倒や、迷惑が及ぶ事は想像するに難くなかった。俺がぎりぎりの所で口を割らないでいられるのは、偏にその考えが
あるからにほかならなかった。
「さっきから、俺の顔ばかり見てるね」
気づかれてはいないだろうか。気づかれたとして、ハンスに迷惑が掛からないだろうか。そもそも、クロイスは信用しても良いのだろうか。せっかく友達だと言ってくれたのに、こんな風に疑っている俺は、嫌な奴だな。
クロイスは、こんな俺の考えている事もお見通しなんだろうか。
千々に乱れた心のままクロイスを見つめていた俺に、クロイスがそう言って、頬を緩ませる。摘まんでいたサラダはいつの間か空皿に禿げ上がって、持て余したフォークを、教鞭か何かの様にクロイスは弄んでいる。
「……クロイスみたいな人、珍しいなって」
「ああ、そうか。確かに豹は、あんまり見ないかもな」
そうじゃない。俺が言いたかったのは。でも、あえて訂正はしなかった。とりあえず、今の質問で、怪人豹男は少し珍しい事がわかった。ちょっとだけ、優越感。
「……だから、じっくり見ても良い?」
「いいよ。顔と言わず、どこでもじっくり見て頂戴」
そう言って、クロイスが少し身を乗り出してくる。突き出された、ヒョウ柄模様の豹の顔は、人間だった頃の俺の記憶におぼろげに存在するそれと、それほどの違いはなかった。ちょっとでっかい猫の顔。猫とは違う斑模様。
猫よりもふてぶてしそうな印象を受ける造形。伸びた白い髭。少し白寄りの、金の瞳。動物のそれと、変わらない。一つだけ違うのは、その瞳は爛々と輝き、また俺の顔をじっと見つめている事だった。動物のそれと同じで
あるはずなのに、その瞳に宿る知性の灯火が、彼はクロイスという一人の人物なのだという事を教えてくれる。鼻筋はイヌ科の俺よりも短く、黒い鼻の下に、猫系では定番の少しふっくらとした口元がある。口を閉じていても
吊り上がる口角と、落ち着かなげに動く髭が、本人の愛想の良さを如実に伝えてきて、そうしているだけでも、何か良い事でもあったのかと訊ねたくなる様な明るい雰囲気を振りまいていた。
「どう? 俺、どう?」
「……凄く、猫」
「あのさぁ……そうじゃないでしょ」
だって、猫だし。凄く猫だし。ちょっと大きい、でも凄く猫だし。どちらかと言うと、今の俺はクロイスの容姿が良いかどうかとか、そんな事ではなく、自分も含めて人間の様に二足で歩く奴の頭が、それぞれ思い思いに動物の
形をとっている状態をしげしげと見つめている事で精いっぱいだった。ハイファンタジーな小説、昔ながらのRPG。そういう物ならよくある彼らの存在。世界を超えてやってきたここでは、それらが当たり前に存在していて。でも、
俺の意識の中では、それらは精々が映像作品の枠を飛び出す事はなかった。今は、違う。俺の目の前で、当たり前に、それが存在している。それどころか、もう友達にすらなってしまったのだった。自分の身がそれに
なってしまったという事も問題だけど、それよりも、自分の周りがそうなってしまった、という事の方が、視界に映る分、慣れが必要だった。現に、自分の身体に訪れた、大きな耳だとか、尻尾だとか、マズルだとか。そんな物の
違和感は、もうとっくにどこかへ行ってしまっている。一つだけ慣れていないとしたら、口の形が明らかに変わってしまった関係で、食事を取るのにコツが要るという事だろうか。人だった頃の様に口に近づけると、とっくに
マズルに到達するので、勢い余って鼻先に食べ物がくっついたりしている。それを綺麗に舐めとる、長い舌も所持しているのだから、それ程の問題は無いのかも知れないが、香辛料の効いた物を口にする時は、気を
付けないといけない。鼻が人だった頃よりもずっと良いから、もし刺激の強い物を鼻に突っ込んだりでもした日には、しばらく悶絶するしかないだろう。
「そうじゃなくてさぁ、恰好良いとか。イケてるとか。モテそうだとか。彼氏にしたいとか。あるっしょ? ほらほら」
何かを期待した様に、目を輝かせてクロイスが更にずいと迫ってくる。
「……夜遊び激しそう」
「ああ、そう」
がっくりと項垂れる、クロイス。それは、さっき見た。さっきも見たけど、面白い。
「中々手強いな、ゼオロは。なんていうか、いつでも余裕がある感じだし」
「そう見えるのかな。特に、余裕はないのだけど」
内心は、正直もっと困っていた。そもそも友達になってくれたとして、クロイスは退屈にならないのだろうかとか。自分が、面白味の無い人間、もとい獣人だという事は理解していた。自分からは声が掛けられず、人の輪にも
入れない。入っても、馴染めない。抜け出して、一人になった時に、途方も無い気楽さに安堵していたりする。俺は結局、そういう奴だった。俺を心配して沢山の人が声を掛けてくれたけれど、俺は結局、期待にも応えられず、
申し訳ないと思いながらも、どうする事もできずに一人になろうとする。どうしようもない奴だった。そんなにどうしようもなくても傍に居ようとしてくれた一人と一匹すら、今は置いてきてしまった。
「ありそうに見えるけどなぁ」
「全然、無いよ。今だって、そうだよ。退屈な返ししかできていないんじゃないか。クロイスは友達になってくれたのに、期待外れだと思われて、嫌われるんじゃないかって。怖いよ」
「ふーん……。そんな事、考えてるんだ。無駄な事してるな」
「そうかな」
確かに、無駄かも知れなかった。だって、その内にどうせ離れる。離れてゆく。
「そうだよ」
食べ終えて、ぼんやりと机に置いていた手を、クロイスに取られる。
「ゼオロ。俺は、少なくともゼオロがなんであれ、自分で決めて友達になった奴の事を、嫌いになったりしない」
「……」
優しい言葉、優しい仕草。心から、俺を慰めようとしてくれる姿勢。嬉しさと同時にも申し訳なさが、また襲ってくる。嫌われる事よりも、ともすればもっと強烈に、俺の胸を苛むのは、優しさだった。
俺を引っ張り上げて、一緒に行こうと腕を引いてくれる。並んで歩ける様にできていない俺はいつも、その内に、謝り続けながら脱落する。その時の相手の顔を見るのが、俺は何よりも怖かった。今更の様に、住む世界が
違うのだと悟った相手の顔。じゃあ、やっぱり一緒に居ても仕方ないのだと、諦念を浮かべるその表情。
他人が、自分を諦めた瞬間の表情。
クロイスにも、いつかそんな風に見られてしまうのだろうか。だから、友達とか、そんな関係を俺はいつも築かずにしていたんだ。あんなにはっきりと、まっすぐに、友達になろうと言われたから、思わず承諾してしまった
けれど。それでも、いつか、その時が来たら。
「大丈夫だよ」
クロイスが、笑う。さっきまでの、ちょっぴり下品な、けれど朗らかなそれとは違っていた。下心も何も無い様に見える。手を取る指先は、本当に僅かな力しか籠っておらず、俺が手を引けば、簡単に逃れられる様に
したまま。それでも俺を繋ぎとめているのは、今のクロイスの心が見えるかの様な、その真摯な挙措のおかげだった。
「ごめん。ちょっと、取り乱しちゃって」
「ん。いいって事よ。友達なんだからな」
なんでもない事の様に、クロイスが言う。僅かに手に力が籠ったのは、俺がまた、やらかしてしまったかと俯いた瞬間だけだった。
「という訳で、そろそろゼオロ君の秘密を教えてほしいな、俺」
「だから、それは」
「クロイス!!」
突然の、怒声。はっとなって、俺は慌てて手を引いた。クロイスは姿勢はそのまま、顔を、部屋の入口へと向ける。入口に立っていたのは、予想通り、仕事に行くと言い出ていったハンスだった。抱えている紙袋を潰しながら、
鋭い声を上げ、それよりも尚鋭い瞳でクロイスを睨み据えている。おっかない。犬の顔でも、あんな風になるんだ。威嚇をする時の、牙を見せる様な犬の顔とも、また違う。静かに佇んでいる様に見えるのに、全身から立ち昇る
気迫が、睨まれている訳でもない俺にも伝わってきそうだった。
「うわ、やっば……」
「どうしてあなたがここに居るのでしょうね。先程、丁重にお帰りいただいたはずなのですが」
うわ、口調がいつもと変わらないままで怒ってる。一番怖い怒り方だ。ハンスの事は、怒らせない様にした方が良さそうだ。
「え、えーと……おかえり、ハンスちゃん」
「私の質問に答えなさい。クロイス・スケアルガ」
「お邪魔してます」
「お邪魔して良いと、私は言った憶えはありませんが」
「……ごめ、じゃねぇや。申し訳ない。何か隠している様に思えたので、つい魔が差して。悪い事をしたとは、思ってるよ」
クロイスの回答に、ハンスは微動だにせずに、ねめつけた視線もそのままだった。
「あ、あの。ハンスさん」
場の空気に耐えられなくなって、思わず俺は声を上げる。ハンスに睨まれるかと思ったけれど、俺が声を掛けると、ハンスはすぐに睨みを解いて、俺へと視線を移してくれた。
「ゼオロさん。何も、されてはいませんか?」
「ああ、はい。大丈夫です。ちょっと、お話を。それから、ご飯も用意してもらって。ですから、あまり彼を責めないでください」
「……あなたがそう言うのなら。と言いたいところですが」
困った顔をしてから、ハンスが俺に手招きをする。言いたい事は、俺にもわかった。クロイスをその場に置いて、一度部屋から、廊下へと出る。クロイスもまた、察したのだろう。特に何も言わずに、俺を見送ってくれる。
「申し訳ない。クロイスがあそこまで軽薄だとは、思っていませんでした。まさか、勝手に家に入るなんて」
「いえ。それは、もういいんです」
「……ところで、どこまで知られてしまったのですか?」
「私からは、何も話しては……いないつもりだったのですが」
曖昧な俺の返答。けれど、ハンスにはそれで充分だったのだろう。盛大な溜め息を、白い犬が吐く。
「ああ、やっぱり。クロイスの事だから、勝手に状況から察してしまったのでしょうね。だから、追い返したかったのですが……あれは、異常に目が良い。勉学にそれが向いている間は、優等生ではあるのですが。他の事に
向いてしまうと、何かと問題を起こしやすくて」
だから、問題児なのか。確かに、俺の状態を見て何もかも即座に推理してしまう様なところは、ともすれば問題になる事もあるのかも知れなかった。
「隠し通せそうですか」
「いえ、無理だと思います。……ごめんなさい」
「あなたが謝る事は。それに、残念だけど私も同意見です。それから、私一人だけで、あなたの面倒見続ける事も、難しいとは思っていました。誰かには、事情話す必要があると。そういう意味では、悪くはない事なのかも
知れません。もっとも、それがクロイスとなると……やはり、不安は過ぎりますが」
「そんなに、信用できない方なのでしょうか?」
「信用はできますが、それでも首を突っ込むのは好きな性質でしてね。あまり、彼にはそういう事をさせたくはないのですよ」
「おーい、そろそろ相談終わったぁ?」
「黙っていなさい」
焦れたのか声を掛けてきたクロイスを、ぴしゃりとハンスが追い払う。クロイスは不服そうに席に戻り、またフォークを弄りはじめていた。
「仕方がないですね。話をするしか、ないみたいだ。下手に隠すと、あれはもっと大胆な事をしかねないし」
「私、ハンスさんの許可を貰おうと思っていたんです。私の事ではあるけれど、ハンスさんにもご迷惑が掛かるかもしれないと思って、自分一人では決められなくて」
「そうでしたか。ええ、大丈夫ですよ。ちょっと様子を見に戻ってきた程度でしたが、このまま話をしてしまいましょうか」
相談を終えて、二人揃って部屋へと戻る。椅子に凭れて尻尾をくねらせていたクロイスが、顔を上げた。
「クロイス。話があります」
「お、やっとその気になってくれたの」
「ええ。それから、それとは別に、説教をね」
「うえ。まあ、仕方ないか。それに、やっとゼオロの事が聞ける。頭の中でいくら考えても、答え合わせをしないと、すっきりしないもんな」
クロイスを向かい側にして、俺達は席へと着く。どこから切り出そうかとしていると、ハンスが先に口を開いて説明を始めた。俺の口からでは、説明しづらい事、また新たに余計な事が出てしまう可能性があるのを危険に
思ったのだろう。ハンスの話す内容に最初はそっけなく相槌を打っていたクロイスの態度が、徐々に真剣な物へと変わってゆく。
細かい説明を終えて、一息吐く。クロイスは話された内容を頭の中で反芻しているのか、顎に手を当てたまま、黙ったままだった。
「そういえば、仕事は良いの?」
一頻り考えた後にクロイスが発した言葉は、まったく別の事で。ハンスがここに居る事を訝る様に見つめている。
「お昼休みに、少し時間を多めにとりましてね。朝食はあなたのおかげもあって、済みましたけれど。お風呂を沸かそうかと思って。ゼオロさんに昨日は水浴びをすると良いと言ってしまいましたけれど、今日は少し肌寒いですし」
「そうだな。まだ二の月だし、寒い日も多い」
今で、まだ少し寒い季節。そう言われて、俺は納得した。朝方は、少し冷える。そんな感じだった。そういえば、元の世界はまだ夏の終わり頃のはずだった。丁度、正反対の季節を辿っているのだろうか。もふもふな毛皮が
あっても、朝はちょっと寒くて、毛布に包まってごろごろしていた事を思い出す。
「さて、クロイス。あなたは私達の話を聞いてしまいました。これで私達は一蓮托生。共犯。墓までご一緒の関係ですね」
「えっ」
そんな俺の考えを他所に、ハンスが笑みを浮かべてクロイスへと声を掛ける。露骨にクロイスが嫌そうな顔をしたのが面白い。
「おや。それともまさか、ゼオロさんを売るのですか? 友達になったと聞きましたが。あなたって、そういう人だったんですね。見損ないました」
「ち、違がわい。いきなりそんな事言うから、驚いちゃったんでしょうが。勿論、俺はもうゼオロとは友達なんだ。ゼオロのためになる事をするよ」
「では早速働いてもらいましょうか。湯を沸かしたいですからね。せっかく魔法が使えるんですから、あなた、ちょっと行って、火で湯を沸かしてください」
「なんで俺が!?」
「私は炎は苦手なんですよ。あなた、得意でしょう? 得意過ぎて困ってしまうくらいに」
「……なんか今日のハンスちゃん、意地悪だなぁ……あ、もしかして、妬いてる?」
「誰が、どうして、あなたのために妬かなければならないと?」
「ちぇ。こういう時少しは反応してくれたら、可愛いと思うんだけどなー」
椅子から勢いよく立ち上がると、コートをひらひらさせながらクロイスが部屋から出てゆく。その姿が見えなくなると、ハンスが溜め息を吐いた。
「さて、話してしまいましたね。これが、吉と出るか、凶と出るか。それは預言者ユラの様な優れた者にしか、わからない事だ。今は、良くなる事を願いましょうか」
「でも、話せて良かったと思います。私は」
「……短い間に、なんだか表情が変わりましたね。ゼオロさん」
「そうでしょうか?」
「ええ。クロイスの存在が、あなたには良い方向に働いたという事でしょうか。確かに、他人に心を開かせるのは、舌を巻くほど上手い。あなたにも、きっと色々な事を言ったのでしょうね」
「ええ。なんというか、今まで色んな人に会ってきたつもりでしたけれど……。あんなに軽薄で、土足で近づいてきて。それなのに、それがあんまり嫌に感じない人って、珍しいですね」
「これはこれは」
思わず笑いだしたハンスの顔を、俺はじっと見つめる。ハンスは一頻り笑ってから、少し謝って、それでもまた笑っていた。
「思っていたより、あなたも歯に衣着せぬタイプなんですねぇ。やっぱり、昨日まで、今朝までとは、違う印象を受けてしまいますね」
「クロイスが、そんな感じでしたから。上手く距離感が掴める様になったというか」
「そうですね。確かに、そうだ。私やササンは、あなたの事を気の毒な方、そして持て成すべき客人だという構え方をしていますからね。あんな風に、自然体で近づいてきて、騒ぐだけ騒ぐ様な相手だと、また接し方も変わるし、
接しやすいですよね。申し訳ない」
「ハンスさんが、謝る事は。私の身元を引き受けてくれたというだけで、とても感謝しています」
「そう言っていただけると、助かりますよ。さて、席を外してばかりで申し訳ないが、クロイスに説明するだけで時間も無くなってしまった。夕方には、戻ります。クロイスはまだ居座るでしょうが、程々に遊んであげてください。
癖のある人物ですが、暇潰しには持ってこいの相手でしょう。クロイスも、暇だからここに居るのでしょうしね。今だけは、ですけれど」
「あの、ハンスさん。一つだけ訊いても」
「どうぞ」
「外に出る事って、いけない事でしょうか? クロイスにも、一度外へと誘われたのですけれど。勝手に出ていって良いのか、わからなくて」
出ていこうとするハンスに、俺は一つだけ。それを訪ねる。他人の目に触れるのは、まだ早いのかも知れないけれど。それぐらいは聞いておいても良いだろうと思って。ハンスは俺の問いに、しばし考え込む様な様子を見せる。
「ふむ、そうですね……。あなたの身の安全だけを考えたら、当然今はまだ早いと言わざるを得ないのですけれど。それでも、いつまでも引き篭もっていては、外て生きてゆく事が遠退くばかり。私か、クロイス。とにかく
事情を知っている者となら、構いませんよ。その際は、必ず危険な場所には出入りしない様にしなければなりませんが。クロイスが言っていたと思いますが、あなたは銀狼ですからね。とても珍しい、という程では
ありませんが、それでも人目には付くものです。あまり治安の悪い所を出歩くのは、お止めになった方がよろしい。自分で自分の身を守れる程の力を持ってから、そういう所には行くべきですよ」
「そうですか。ありがとうございます。クロイスがまた誘ってくれたら、行ってみたいと思います。せっかく、別の場所に来たのですから」
「そうですね。不安もあるでしょうが、それを乗り越えれば、自分の知らない世界が広がっているという事でもあります。どうか、恐れずに、世界を見てくださいね」
軽い話を終えると、ハンスはまだ出てゆく。なんとなく、申し訳ない気分で俺はそれを見送った。小まめに俺の様子を見に来てはくれるが、教師というからには、暇ではないだろう。それなのに、せっかくできた余暇すら俺の
事に費やしていては、さぞ窮屈な生活を送らされているはずだ。なるたけ我儘を言わない様にと気を付けてはいるけれど、それでも何も知らない俺の面倒を見るというのは、並大抵の事ではないのも確かだった。とりあえず、
食費は嵩んでいる事だろう。なるたけ早く自立しなければいけないとは思いつつも、今の俺では、とても満足にこの世界で生きてゆけるとは思えなかった。いつか、俺が立派に生きてゆける事ができたら、恩返しをしたいと
思う。突然どこぞから現れた、良くわからない俺をあっさりと受け入れてくれた恩は、そんなに簡単には帰せるとは思えないけれど。
ハンスを見送ってから、俺は教えられた風呂場へと向かう。がらんとした木造の風呂場には、かなり大き目の浴槽が蓋をされて鎮座していた。こっそり蓋を開けて、中を確認してみる。水は既に張られていて、人差し指を
つけると、冷たかった。
「おーい。まだ火も点けてねぇよ? もうちょっと待ってなって」
声がして、顔を上げる。クロイスの声がしたけれど、姿は見当たらない。
「クロイス、どこ?」
「裏だよ。脱衣所に扉ついてるから、出てきてみ」
浴室から出て、脱衣所へ戻る。さっと辺りを見渡すと、確かに入ってきたものとは違う扉があった。取っ手を掴んで開くと、狭い石の床が建物の裏へ向けて伸びていた。その上を肉球越しの裸足で歩きながら、ふと空を
見上げる。真昼の青い空が、視界に広がっていた。それから、遠くにある街並み。あれが、ハンスの言っていた、ミサナトの街なのだろう。ここはどうやら、街並みをある程度見下ろせる高い場所にある家の様だった。
「どしたの、ぼーっとして」
「外をちゃんと見たのって、今が初め……て……」
声を掛けられて、振り返る。談笑でもしようかと切り出した言葉は、俺を迎えた豹男の顔を姿を見て途切れた。息をせいせいさせて、うんざりした様な顔のクロイスがそこに居た。
「……薪の補充から?」
よく見ると、その服には木屑がついていて。多分今まで散々抱えていたんだろう、視線を遠くへ向ければ、さっきの浴室の近くの壁が見えて。多少の仕切りは作られていたけれど、そこから風呂が沸かせる様になっている
らしかった。
「そうだよ。まったく、火点けるだけかと思ったら、なんにも用意してないし。しかもちょっと薪足りてねぇし。仕方ないから割ったわ」
割ったのか。結構、コツが必要だと聞いたけれど、薪割りというのも。もしかして結構慣れているのだろうか。
「ごめん。我儘言って」
「いや、それはいいって。つーか我儘でもなんでもないし。俺が不服なのは薪割りの事を伏せてハンスが言った事だから」
「今から、火を点けるんだよね? ……魔法で」
「ああ、そうだけど。もしかして、興味ある?」
ぶんぶんと、首を縦に振る。クロイスはちょっと驚いた顔をした後に、にやりと笑った。
「へぇ。なんか、意外だな。ゼオロがそうやって興味津々な顔を見せるのって」
「言ったでしょ。向こうじゃ、魔法なんて無いんだって」
「そういや、そうだっけか。でも、ちょっと話聞いただけだけど、魔法より便利な物がごまんとあるみたいだけどな。よくそんな便利な所から、こんな不便な所に来られたなぁ。俺だったら、絶対不満たらたらだと思うわ」
確かに、そう言われるとそうかもしれない。電化製品の類は当然ここには無いし。魔法である程度それに似た機能を有する物を作り上げる事はできるのかもしれないけれど。
何も無いところから、己の力で何かを取り出し、何かを成す。魔法に対する漠然とした憧れ。こればかりは、いくら説明しても、クロイス達には理解できないのかも知れなかった。
クロイスに案内されて、風呂の裏手へと足を運ぶ。クロイスが苦労したと言った通り、火を点けると思しき場所には、薪が詰まっていた。詰まっているといっても、ぎゅうぎゅうという程ではない。あんまり詰めると、それは
それで燃えないのだろう。思わずしげしげと、俺はそれを見つめる。なんというか、絶対に口に出してはいけないのだろうけれど、原始的だな、と思った。良い意味で。お風呂に入りたくなったら浴槽を適当に洗って、
栓をして。あとはワンプッシュで勝手にお湯を出して沸かしてくれていたあの生活が、とんでもなく眩しい物に思える。しかも保温機能が付いていた。
それと比べると、目の前の物は。なるほど確かに、本で読んでいていくら焦がれていたとしても、実際に目の当たりにすると、色々と覚悟が必要な様だった。
丁度、今隣で俺と一緒にそこを覗きこんでいる豹男の、豹頭に慣れないといけない様に。とはいえ、大分打ち解けたし、楽しく話す事もできるけれど。
「そんじゃま、早く入りたいだろうし。火点けちゃいますか。ちょっと、下がってな。そんなに危険じゃないとは思うけれど」
言われた通りに、数歩下がる。クロイスは正面に移動してから、ゆっくりとした動作で右手を少し上げる。
「……炎よ」
クロイスの言葉が、ぼそりと呟かれる。その言葉を聞いて、俺の頭の中にも炎のイメージが強く表れる。すると、クロイスの指先に、不意にぼっという音と同時に、炎が現れた。炎というよりは、灯火だったけれど、俺は目を
見張って、熱心にそれを見つめる。クロイスは振り返ると、ちょっと照れ臭そうに笑っていた。
「うわぁ。そんな顔、されると思ってなかったわ」
「そんなに変な顔、してる?」
「すっげぇ目がキラキラしてんの。さっきまでと全然違う。可愛いな。そんなに、魔法に憧れてたんだ」
「憧れて……うん、そうだけど。それよりも、手にいきなり出てきたのが。凄いなって。熱くないの?」
「平気平気。あ、ゼオロは触らない様にな。熱いから。俺が熱くないのは、こうやって指に灯している間、俺自身の身体を守る様に、それとは別に力を使っているからだから。……と、不味い不味い。あんまりこういう事、
生徒でもなんでもない奴に言っちゃいけないんだったな」
クロイスが指を踊らせる。指先が炎の出どころらしく、指が動く度に、炎がそれを追う。指でくるりと円を描くと、それを追う炎も円を描く。指一本で始めたそれは、次にクロイスが手の動きを止めた時には、五指へと移り、
それぞれが指先から炎を上げていた。まるで、手品の様だ。クロイスが、広げていた手を、掌を上に向ける様にする。すると、掌の中心へ向けて、指から炎が移動を始めた。中央で全ての炎が集まり、より大きな一つの炎へと
変ずる。そうすると、離れたここにも熱気が届いた。
「まあ、こんなもんでしょ」
そういって、無造作にクロイスがその炎を放る。まるで、小石でも放ったかの様に、炎は一切の抵抗を見せずに、薪の中へと消えていった。然程の時間を置かずに、黒煙が上がる。
「普通に火をつけたら、多少は突っついたりする必要もあるけど、俺のはそういう事は必要ない様にしといたから。あとは待つだけだな。……どうよ?」
「凄い。恰好良い」
「えへへへへ」
素直な感想に、クロイスは思わず表情を緩ませた様だった。耳を下げて、だらしが無く笑っている。先程までよりも、もっと年相応な感じの笑い方だった。
「詠唱……みたいな事をしていたけれど、思ったよりも短いんだね」
「まあ、薪を燃やすだけだしな。必要以上に火力を上げても、仕方ない」
「本気でやると、どのくらいになるの?」
「ん。まあ、この家くらいなら、燃やせるんじゃねーの? そんな事したらハンスに殺されるけど」
「……やっぱり、魔法って凄いんだね」
本で読んでいたそれ。ゲームで遊んでいたそれ。漠然と憧れていた物は、今当たり前の様に、視界に広がっていて。思わず柄にもなく、興奮してしまう。
「はは。そんなに興味があるなら、魔導を学んでみてもいいのかもな。といっても、そんな余裕が出るのは、もう少し後か。ほら、もう少ししたら風呂が沸くし、そうなったらこの炎も勝手に弱くなるから。もう行こうぜ」
クロイスに促されて、その場を後にする。湯が沸くまでの間、俺はさっきの事について、いくつか質問をしたけれど、クロイスは困った様な顔ではぐらかす事が多かった。
魔法を扱うには、それなりにきちんとして手順が必要で。生兵法で俺に教えるのは危ないと言われる。確かに、そうなのかも知れない。ちょっと残念に思いながら、俺は浴室の前で温まってゆく湯を眺めていた。ただ、
湯が沸くだけ。それなのに、魔法によって引き起こされた事象でそれが成されているのだと思うと、なんだか堪らなくファンタジーを感じてしまって、心がうきうきとしているのだった。クロイスは終始、そんな風にはしゃぐ俺を
見て、苦笑いをしていたけれど。
「そんなにはしゃぐ事、ないだろ」
「そうなんだけど」
そうなんだけど、嬉しかったんだ。
こんな物が、当たり前にある場所に来られた事が。
湯が沸いた頃、火の様子を一度確認するために、また外へと足を運びにいったクロイスを見送り、ずっと待っていた俺はいそいそと服を脱いで、浴室へと入る。
全面が木造の浴室は、蓋の隙間から立ち昇る湯気によって心地良い温度に保たれており、思わずほうっと息を吐く。
「ゼオロー、湯加減どう?」
声が掛けられて、慌てて風呂の蓋を開ける。備え付けの桶を手に取ってから、それに湯を掬う。直接手を突っ込むと、汚れた手をつけてしまうし、何より毛が抜けてしまいそうだった。今更だけど、人間だった頃とは比べようも
ないほどに、剛毛の剛毛だった。これ、俺一人が入ったらもうお湯は台無しになってしまうのではないだろうか。家族でよくある、誰から入って、次は誰が、なんてやっていたら、最後の人は多分、かなり毛が気になる
状況だろう。その辺りは、どうしているのだろうと辺りを見渡すと、細い網の様な物体が目に留まる。多分、あれをさっと潜らせて、ある程度毛を取るのだろうなとなんとなく予想がついた。それ以外に、人間の頃に入っていた
風呂と比べて、取り立てて違っている物は見当たらない。
「丁度いいよ、クロイス。ありがとう」
桶に掬った湯に手をつけて、温かさを確かめる。少し、熱いかも知れない。でも、それぐらいが良いだろう。一応ある程度は熾火によって保温性はあるだろうけれど、それでも機械によるそれとは比べようもないだろう。部屋の
造りもそうだし。だから、少し熱いくらいの方が、長くお風呂を楽しめると踏んでそう答える。
「了解。そんじゃこの強さで固定しとくからな」
そう言って、再びぶつぶつとクロイスが何か呟きはじめるのを他所に、俺は早速用意してもらった風呂を満喫する。備え付けの椅子に座り、まずは、桶に取ったお湯を軽く身体へと流す。勢いよく掛けられた湯は流石に熱く
感じられた。という事は実はあんまりなくて、一回目の湯は被毛が上手く弾いてしまったらしく、それほどの熱さは感じない。気を取り直して、桶から手で湯を掬って、全身に振りかけたり、被毛に馴染む様に、指で揉む様に
してみる。次第に被毛が湯を吸いはじめて、今度は温かく感じる。同時に、身体が少し重くなって、ちょっと驚いた。どうやら、お風呂の入り方一つとっても、毛のほとんど無い人間とは勝手が違うようだった。服を着た人が
水中では溺れやすい様に、その状態に慣れないといけない様だ。実際に水に入っても溺れるところまではいかないだろうけれど、動き辛い部分はあるのかも知れない。
「えっと……」
身体に湯が染みて、ぽかぽかとしてきた。次は、洗う番だった。また辺りを見渡して、今度は石鹸を見つける。良かった、何も無かったら、どうしようかと思っていた。その隣には、蓋をした小さな壺が置いてある。蓋をそっと
開けて、中を覗くと、半透明な液体と、僅かに爽やかな香りが漂った。なんだろう、コンディショナー的なあれだろうか。とりあえずそれは放置して、石鹸だけで泡立てる。適当に身体に当てると、しばらくして待ち望んだ泡が
出てくる。思っていたより泡立ちは良い。全身が、泡立ちに適した剛毛なのだから、選ぶところなく泡が立つ。人間だったら精々股間でしかできなかった様な芸当が、好きなところであわあわできるのだった。ちょっと、楽しい。
程良く泡立ったところで全身へと手を滑らせて、泡を行き渡らせる。これが結構、手間なのだった。お湯と同じく、深いところはやっぱり手で揉み込む様にしないといけない。唐揚げの下味でもつける様に、洩れが無い様に、
丁寧に揉みながら洗ってゆく。あと、耳が洗い難い。反射的に耳が動いてしまうのもそうだけど、下手に水が入ったら、上手くそれを抜く事ができるのかが心配だった。真上に近い位置についているという事は、顔を斜めに
したり、人の様に反対側から軽く叩いたりしても、上手くいかないかもしれない。逆立ちしろというのか、全裸で。
目元を避けて、顔を終えて。首に、胸に、肩に、腕に、足に、尻尾に。銀の被毛の上を、銀の手が走ってゆく。改めて見ても、やっぱりちょっと違和感がある。俺の手っぽい何かが、俺の身体ではあるけど俺の身体では
ないっぽい物の上を滑って、でも感触はしっかりと俺は感じる事ができる。上手く表現もできないけれど、そんな感じだった。そんな違和感と戦いながら、俺は全身を洗ってゆく。尻尾が洗い難い。付け根は手探りで洗って、
残りは腰に回す様にして前に引き寄せて、静かに洗う。風呂場で下着でも洗っているかの様な気分だ。
そして、最後に残る股間。
昨日も見てわかっていたけれど、人間のそれとは違う。犬のそれに近い。洗い方がわからない。かといって、クロイスを呼んで洗い方を尋ねる勇気は流石に無い。
仕方なく手を伸ばした。犬のそれに近い、という事は、外観からそこに陰茎が収まっているのはわかるし、その下には二つの睾丸が収められた陰嚢もある。人のそれの様に、だらんとは垂れ下がらず、そこも当然短めの
毛で覆われていた。適度に洗って、問題の陰茎へと向かう。軽く手先で引っ掛ける様にすると、もう先端が見えている。意を決して、指を突っ込む。途端に走る刺激に身体を跳ねあがらせながら、しかし今ここでする訳にも
いかないと、指を隙間に突っ込む。人よりも、内側の包皮のスペースはある様だ。それも当然か。人なら皮を剥いても、亀頭のところで止まってしまうけれど、犬はそうではない。肉色のペニスがあって、更にその先には俗に
亀頭球と言われる物がある。そこまで含めて、犬にとっては亀頭なのだ。人間に置き換えたらなんだか凄そうだなと思いつつも、走る刺激に声を上げながら、懸命に洗う。思ったよりも、汚れてはいない。昨日この身体に
なったばかりなのだから、当たり前なのだろうか。
悪戦苦闘しながら、どうにか股間周りの処理を終えて、湯を掛ける。勃起という程でもないけれど、露出してしまったそれを綺麗にして、どうにか元に戻そうとする。俺の意思だけでは上手く戻らず、ちょっと見える状態で
留まったそれを、無視した。その内戻るだろう。
身体を洗い終えて、さあと意気込んで。ようやく俺は浴槽へと足を踏み入れる。苦戦したせいで大分湯を使ってしまったと思ったけれど、浴槽の湯はまだまだ残っていた。かなり幅広で、思っていたより底も深い。シャワー
なんて便利な物がついていないから、その分ここに大量に湯があるのだろう。その辺りは、やっぱり文明の利器に慣れ親しんだ自分としては、感覚が違っているのだなと、素直に感心する。
足先に、湯が触れる。やっぱり、ちょっと熱い。それでも無理矢理入る。湯を被っていた時とはまるで違う、湯に包まれる感覚。結構お風呂は好きな性質なので、自然と安堵の溜め息が漏れた。ざぶんと全身が入ると、
湯の中でゆらりと自分の体毛が揺れている。腕を引くと、それに続く様に毛も揺れる。不思議な光景だった。
足の裏の肉球が、木の板を踏む。その下に熱された釜があるのだろう。大体、五右衛門風呂みたいな造りと見て良さそうだった。よく見ると、全部が足先の方まで沈んでいる訳ではなく、正面以外は座ったりできる様に
浅い部分も作られている。円形に造られた風呂はかなり大き目で、ハンスは一人でこの家に住んでいるみたいだったけれど、数人は纏めて入れそうなくらいだった。今の細い身体の俺なら、六人くらいは詰まっても
問題ないくらいだ。
寛げる場所をようやく見つけて、俺は一人、溜め息を吐いた。湯はとても温かくて、今朝は少し冷え込んでいた事もあって、俺をとてつもなく安心させてくれる。大体、こっちに来てから、確かにここに住みたい、生きてみたい
とは思ったものの、それでも何も知らぬ土地に、人に、住居なのだ。わくわくドキドキしても、安心していた訳じゃない。そういう訳で、俺は今、ようやく安心を享受できる状態になる事ができたのだった。
「ああ。やっぱり、お風呂は良いな」
長風呂ができる様に上半身は湯に入らず、のんびりとする。目を瞑れば、ここがもうどこで、自分がどんな姿なのか。そんな事を考えずに、リラックスもできた。
「いよーぅ!」
浴室の扉が、乱暴に開かれる。閉じていた目を開く。残念だけど、俺の平和な時間はほんの数分にも満たずに終わりを告げてしまった。
「……クロイス、入りに来たの?」
「勿論。だって火点けて、ちょっと煤が付いちまったし。そのためにお湯も多めに入れといたんだからな」
裸で現れた豹男の登場に、俺はどういう反応を示そうかと、束の間悩む。青い狸のアニメの様にお湯をぶっかけてもいいけれど、そもそも男同士だし、あんまり騒ぐのは変かも知れない。
出会ったばかり、という意見にも、もう友達になったのだから、という反論で論破されてしまう。
そもそも、お風呂を用意してくれたのはクロイスだ。水を張って、薪を割って、火を点けて、お湯を沸かしてくれた。そこまでしてくれたのに、入ってくるな、とは流石に言えない。
俺の考えを他所に、クロイスは手早く身体を洗いはじめる。実に手慣れた動きだ。彼にしてみれば、物心ついた頃からずっとしている事だから、当然なのだけど。俺は昨日からなので、洗い方をちょっと観察してみる。
「お。そんなに見つめちゃって、俺の身体に興味ある?」
「洗い方が気になって」
「……うん、知ってた。昨日からだもんな」
既に俺の素性を話したから、会話は非常にやりやすい。俺の言葉にも、クロイスは一つ一つ丁寧に返してくれる。ずっと、我慢していたのかも知れなかった。その鋭い目には、俺がまさか別の世界からやってきた上に、
姿も変わってしまった事は流石に見抜けはしなかったとは思うけれど、それでもある程度の事は察していたのだ。
「なんかわからない事ってあった? 俺で答えられるなら、答えるけど」
「ううん。大丈夫。ありがとう」
さっきの悪戦苦闘の事を訊こうかと思ったけれど、恥ずかしさが勝って、ちょっと考えて俺は首を振る。クロイスはにやにやと笑いながら、へー、とだけ返してくる。こいつ。
頭から湯を被ったクロイスが、立ち上がる。水をたっぷり吸ったクロイスの身体は、さっきまで見ていたよりも細くなる。豹はそれほど毛は長くないから、顔はそれほど変わらないけれど、流石に身体はそうではなかった。
ふわふわの猫が水に濡れた時のみすぼらしい姿ではなく、被毛に隠れて見えなかった、クロイスの身体の筋肉が、薄っすらと見える感じだ。すらっとした身体に、無駄な贅肉は当然付いていない。けど、もやしを想像する程の
細さもなく、筋肉も付いている。長い四肢は湯を吸った事で、更に当人の恵まれた、ある種の肉体的な美しさを余すことなく見せつけていた。
斑模様の下の被毛も、背中の黄色がかった色とは違って、口元から下の胸、腹、そして股間へと、流れる様に白の被毛が覆っている。まるで自然と視線がそこへ向かうかの様な被毛の色分けが、人によってはとてつもなく
そそられる物に見えるのかも知れない。今の俺にとっては、ああ、猫か立ってるなって感じだけど。猫人間凄い。
「結構鍛えてるんだね」
「当然。まあ、ほとんど毛で見えないんだけどさ。こうして風呂でも入らないと、中々なぁ。もっと筋肉増やせばいいんだけど、俺そこまでゴリラになるつもりないし」
なるほどゴリラは存在しているのか。とクロイスの会話とは関係の無い事を考える。
「ゼオロも結構……ああ、なんか、ごめんな」
「今のわざとでしょ」
「へへへ。だってさー、すっげー細いし」
言われて、自分の身体を見下ろす。あばらが浮き出そうな程、という所はぎりぎり回避しているが、それでもかなり細い。当然、濡れて筋肉が見える様に、という状態ですらない。それを考えると、クロイスが努力をしている
のがなんとなく察せられた。
「そんじゃ、お邪魔ー」
軽い口調で、それでもいざ入る時は、かなりゆっくりとクロイスが湯へ入ってくる。全身を湯に浸し、ふぅと一息吐いてから、俺と同じ様に浅い所を求めて、俺の隣へとやってくる。
「いや、相変わらず家の大きさに見合わないねここの風呂は」
「やっぱり、ここのって大きい? 私は他のお風呂見た事ないから、どうなんだろうって思ってたんだけど」
「まあ、普通の家にしてはかなりでかいよな。ハンスがゆったり浸かりたいって言ってたけど、まあそれだけって訳じゃ……いひひひ」
わざとらしい笑い声を、クロイスが上げる。そうしながら、手を上げて、顔に付いた水滴をいくつか払っていた。細くて長い豹の指先が、豹の顔を撫でている。やっぱり、変な光景。
「……気になってたんだけど」
「何?」
「クロイスやハンスさんって、男が好きなの?」
「お、そこいっちゃう?」
「だって……なんだか、さっきから」
「さっきから?」
「……」
なんとなく、わかっている。クロイスの言動とかが、なんとなく、俺をからかいながらも、それを滲ませている事には。俺が口をもごもごさせていると、クロイスはにぱっと笑い出す。
「悪い悪い。不快だったら、謝るよ。ごめんな」
「そういう訳じゃ。その、なんていうか。結構大っぴらなんだなって思って」
「ああー……そういう事ね。ゼオロの居た所じゃ、そうじゃなかったんだ?」
「……うん、そうだね。誰にも言わないのが、普通なんじゃないのかな」
「そうなのか。まあ、ここはそういう訳じゃないからさ。このラヴーワは、って話だけどさ」
「この国だと、当たり前の事なの?」
「当たり前……うーん、そこまでではないかも知れないけど。でも、別に白い目で見られるって程じゃないさ。なんせ、ラヴーワ連合国だからな。色んな種族が、入り乱れてる。そうなるとさ。種が違いすぎて、男と女で
くっついても、子供ができない事もあるんだよ」
「そうなんだ」
流暢に言葉を話して、好きになって、結ばれて、子供ができるのが、全て人間だった世界では中々考えられない事だった。個人の体質とか、そういう問題はあったかも知れないけれど。
「ラヴーワができる前までは、やっぱりゼオロの世界と似た様な感じだったそうだよ。でも、ランデュスの進攻に抵抗するために、このラヴーワが生まれた。それまでは、皆それぞれの種族ごとに、部族となって、好き勝手に
やってたんだよ。でも、いざこうして連合して種族が入り乱れるとさ、男女であっても、種族が違ったりする事で、言い方は悪いけど、子供は作れなくて。でも一緒に居たいっていうのも増えてきた訳だ。勿論それだって、
最初は結構言われてたそうだけどな。戦争の真っ只中で、子孫も残さなくちゃならないのにって。でも、今はもうランデュスとは休戦中だ。そうなると、戦争の間、ずっと我慢させられていたそういう奴らの声が大きくなってさ。
子供ができなくても、愛し合っているから、いいじゃないかって。そしたらあとはもう、流れっつーか。男女じゃなくても、男同士、女同士でも、良いんじゃないかって。結局そういう奴らが今まで肩身が狭かったのって、子供が
残せないって事が大半だったしな。一種族だけで構成される部族の中では、どうしても年頃になったら、子孫を残さないといけない。他種族に遅れを取るからってさ。けれど、他種族とは関係を持っちゃ駄目なんて、他種族との
連合となった国で言える訳がない。それじゃ連合をした意味が無いからね。勿論昔の考えの奴も多いから、誰も彼もって訳じゃないけど、結構認められてるんだ。他種族同士、同性同士ってのもな」
「へぇ……。良い事だったのかな」
「そうだなぁ。俺としちゃ、大歓迎! って感じだけど。男となら自由に付き合えるし? 女じゃ、色々うるさく言われてさぁ」
「クロイスの家は、そうなんだ」
「そうそう。だから俺、自由に恋愛してるって訳」
「それでハンスさんに振られちゃって」
「うう、ゼオロって本当に痛い所、あっさり言ってくるな」
落ち込んだ様に、クロイスが目元を覆う。なんというか、ついずばっと言ってしまう。クロイスには。そういう事が許容できる空気の人って居て、クロイスはまさにそうだった。
「だからさ、ゼオロ。俺と付き合ってみない?」
落ち込みをどこへ吹っ飛ばしたのか、顔を上げたクロイスが、隣に居る俺の肩を抱き寄せる。目の前に飛び込んでくる、豹の顔。細められた目は、優しい様で、それでも肉食獣のそれだった。
「え?」
「俺がさっきから、そういう顔を見せてるのがわかるんだよな? だったら、自分が狙われてるんだって、自覚しないとな」
「会ったばかりなのに」
「会ったばかりで何もできないなら、ナンパなんて誰もできやしないさ」
「……ごめん、わからないよ。そういうのは」
「……そっか」
ぱっと、クロイスの手が離れる。思ったよりも、あっさりと解放された事に、少し驚く。こういうタイプだと、あの手この手で攻めてくる様なイメージが強いのだけど。
「ゼオロは、男同士って、興味ない?」
「わからない」
そもそも、好きになって、付き合う、という状態が、よくわかっていない。元の世界の俺は、毎日を生きる事が精一杯で。そんな暇が無かった。毎日に打ちのめされて、家でリヨクに泣きついて、たまに会う、タカヤに寂しさを
満たされて。そうしてまた、毎日に帰ってゆく。その繰り返し。いつの間にか俺に芽生えていたのは、誰かに恋をする気持ちではなく、人を忌避する気持ちだった。
人が怖いのだ、俺は。悪意の籠った一言を囁かれる度に、辛くて、辛くて。誰かを好きになるとか、そんな事よりもずっと手前の方で、躓いていた。だから、タカヤに告白された時に、俺はまともな返事もできずに、どうして
俺なんかを好きになったのだと、思ってしまったのだった。
「こう言ったら、ちゃんと答えてないみたいだけど……。余裕が無くて、ちゃんと見た事がなくて」
「ん。そうか。じゃあ、これから次第って事だな!」
「前向きだね、クロイスは」
「勿論。それに、こんなに綺麗な銀狼なんだ。声掛けない方が、どうかしてるってもんだよ」
「そうなのかな。なんだか、それも、怖いな」
「怖い?」
「だって、この姿は、本当の私じゃないよ。本当の……俺は……」
消極的で、キモいと陰口を叩かれている様な、よくある駄目なオタクの様な奴。そりゃ、今は凄く綺麗らしい、銀狼の姿だけど。でも、なんだか騙しているみたいで。
この姿が、いつか元に戻ってしまう事も、あるのだろうか。だとしたら、それはとても怖いと思った。友達になってくれたクロイスも、思わず顔を背けるかも知れない。
怖い。
「なるほどね。やっぱ、姿が変わっちゃうと、色々あるんだなぁ……。悪かったよ。俺、ちょっと軽薄過ぎた。ゼオロはまだ、その身体に、慣れないといけないところなんだよな」
「うん、ごめん」
「いいっていいって。でもさ、自信持っていいと思うよ。本当に、綺麗なんだ。ゼオロは。そりゃ、本当の姿があるなら、複雑かも知れないけどさ」
「うん。ありがとう。今の自分も、きちんと受け止めないとね」
「そうそう。それに、ずっとそんな気持ちでいたら、誰とも恋ができないじゃん? うっわ、拷問かよそれ」
「クロイスだったら、もう慣れてそうなのにね」
「どういう意味かな、それは」
手をわきわきさせて、クロイスが襲い掛かってくる。脇腹を擽られて、思わず笑い声を上げてしまう。おかえしにと、俺も似た様な事をした。お湯が、激しい音とともに沢山跳ねている。
楽しいお風呂の時間は、そうやってあっという間に終わってしまった。湯から上がる頃には、長湯が実は苦手だったのか、ぐったりとしたクロイスを支えて、二人とも何も隠さずに脱衣所へ向かっていた。
陽が傾いた頃、ようやく戻ってきたハンスを二人で迎える。結局、クロイスは一日中俺の傍に居てくれて、何くれとなく面倒を見てくれた。三人でそのまま夕食を囲んで、それも済むとクロイスが立ち上がって、帰ろうとする。
「クロイス。今日は、ありがとう」
「いいって。俺も、気になってた事が解消できてすっきりしたし」
外へ見送りに出た俺は、クロイスを見送りながらも、ミサナトの街並みに目を向ける。夕食の間に陽は沈み切って、今は空に大きな月が昇り、優しい光で街並みを照らしていた。ミサナトの街は、丘が段々と続いている様で、
ハンスの家は高い位置にあるから、遠くには家々の灯りがぼんやりと夢幻的に広がっては、どこか物悲しさを煽る様にゆらゆらと揺れていた。
「街にも、出てみないとな」
俺の視線から察して、クロイスが言う。俺は軽く頷いたまま、また街を見つめる。
「あんまり、危ない所へは行けないけれど」
「そうだな。そういう所も、多い。行くなら誰かと一緒が良い。俺も、機会があったら、一緒に行くよ」
「良いの?」
「いいって。今は、そんなに忙しくもないしな。まあ、だからこうして、一日ゼオロと一緒に居たりもしたんだけど」
「そういえば、どうして今朝ここに来てたんだっけ」
「この家の本に用があってな。まあ、それはまた今度でも良かったから、後回しさ。ゼオロも、この世界の事、知りたいんだろ? 今度、一緒に見ような。それじゃ、また」
月明かりの下で、舗装された道を歩いて、ひらひらと手を振りながらクロイスが背を向けて歩いてゆく。階段を下りてゆくその姿が見えなくなってから、俺はまた街並みを見て、それから慌てて家へと戻る。あまり遅いと、
ハンスが心配するだろう。
「やっと帰りましたね。まったく、夕食まで食べられてしまうとは。また買い出しに行かないと」
席に戻ると、向かい側に座っていたハンスが、やれやれと言った様子で溜め息を吐いていた。
「すみません。一緒になって、食べてしまって」
「いえいえ。それに、昨日よりも、いくらか食欲が落ち着いたみたいですね?」
「はい。今朝も、そうでしたけれど」
俺が食べる量は、昨日とは打って変わって、この身体の外見から予想される量からそれほど逸脱しない程度になっていた。少し無理をして食べなければいけないと思うぐらいだ。
「あなたの身体はまだ成長期みたいですし、もう少し食べた方が、良いのかも知れませんね、背も伸びるでしょうし。外見で舐められる、という事も確かにあります。遠慮せずに、食べてくださいね」
「ありがとうございます。ハンスさん。……あの、聞きたい事があるのですが」
「なんですか?」
「クロイスについて。その、クロイスはよく話をしてくれたんですけれど、自分の事については、あんまり話してくれなくて」
クロイスには、俺の事をある程度は。俺が教えても問題ないかなって思った範囲では教えたけれど。逆に俺は、相変わらずクロイスの事はわかってなかったりする。流石に今日一日で全てを理解する程に時間がなかった
というのもあったけれど。そもそも友達になったのだって、今日なんだし。
「そういう事ですか。私から彼について語るのは容易い事ですが……できれば本人の口から聞いた方が、良いと思いますがね」
「すみません」
「いえ。でも、本人が話してくれないと、確かに不安かも知れません。少しは話しても構わないでしょう。まず、第一に。今朝も言いましたけれど、信用はできる人物ですよ。それは、あなたも話してみて、なんとなくわかった
のではないでしょうか。性格は、あんな感じですけれどね」
「そうですね」
そう言って、お互いにくすくすと笑い声を上げる。子供みたいにはしゃぐクロイスの姿は、微笑ましい物があった。はしゃぐだけはしゃいで、見るところは見ているので、馬鹿にできないのだが。
「それから、そうですね……クロイスとの話を私もさっき聞かせて頂きました。スケアルガ、そう、学園の名前ですね。クロイス・スケアルガは、学園の関係者でもあります」
「学校の名前と一緒……そうなると、クロイスの家の方が経営されている、という事でしょうか」
「それに近い状態です。スケアルガというのは、元々秀才を輩出し続けた家系であり、非常に名の知られた一族なのですよ。クロイスの鋭さも、そこから来たものです。また、クロイスの父や、祖父。その他数名は、先の
ラヴーワとランデュスの戦争において、軍師として招聘を受けました。輝かしい戦功もいくつか上げているんですよ」
「そうだったんですか。クロイスも、凄い人なんですね。とても鋭いし」
「そうなりますね。ただ、本人はあまりそういう事を言われるのは好ましいとは思っていないので、どうかあまり口には出さないであげてください。スケアルガから辿れば、クロイスの事なんてすぐにわかりますから、ここで先に
言ってしまいましたがね。……私に教えられるのは、この程度でしょうか。将来を嘱望されている人物でもありますが、それはこれからのクロイス次第でしょう。ちょっと、遊び過ぎていて、そこは目を付けられていますが」
「よく、わかりました。ありがとうございます。ハンスさん」
話をそこで切り上げて、食事の後片付けを済ませると、就寝の準備を始める。昨日はとにかく眠かったせいですぐ寝てしまったので、今日はハンスが諸々用意してくれた物についての説明を受けてから、挨拶を済ませて
自分の部屋へと戻る。
新しい世界。涙の跡地に来てから、二日目の夜。俺は、窓から外を眺めていた。さっきクロイスを見送る時にも見た光景が、この窓からも遠くに見渡す事ができる。
灯りの数だけ、その家々の中に、一人一人、色んな頭の人達が居るのかと思うと、わくわくした。ここは、ラヴーワ連合国。多種多様な種族が、自らを模様の一つとして織り成してできた国の、街の一つなのだ。外を歩けば、
もっと色んな種族を見る事ができるだろう。ちょっと怖い。でも、それよりももっとドキドキしている。
窓に背を向けて、ベッドへと沈む。今日は、色々な事があった。色んな事をした。ここでの、初めての友達ができた。本当に、色々な事ができた日だった。こういうのを、充足というのだろう。
元の世界で、こんな気持ちで眠る事ができたのは、いつの頃だったのだろう。今日はこんな事をした。明日はあんな事をしよう。そうやって、わくわくして眠っていたのは。
わかっている。この世界にも、辛い事は沢山あるのだって事は。今の俺は、この世界を無理矢理にでも良い物に見ようとしている事も。
それでも、あっけらかんとした様子で、軽薄に、軽率に。そうして自然に俺に手を差し伸べてきた豹の男が、俺の心に、はっきりとした喜びを灯してくれた。ハンスも、そうだ。
優しい人が居てくれた。それで、充分だった。そんな事を思って眠りにつける事が、何よりも幸せなのだろう。
三日目の朝。今日は遅れずにきちんと早起きして、ハンスと食卓を囲む事に成功した。そうしていると、あの元気な声がやってくる。
「あなた、三回もタダ飯にありつこうという魂胆なんですか」
鋭く言い放たれたその言葉にも、クロイスはへらへらと愛想笑いを返すだけだった。代わりに、朝市で買ってきたとお菓子を差し出してきたので、ハンスも渋々とそれを迎えていた。俺はと言うと、もらったばかりの、まだ熱の
籠ったパンを頬張っていた。口の中に、香ばしさと、パンの優しい香りが広がる。元の世界にあった物と比べると、ちょっとぱさついた感じはするけれど、焼き立てのそれは美味しかった。
「クロイス。まさか、今日もこの家にずっと居る訳じゃありませんよね?」
「まさかまさか。それに、ちょっと用事があるんだよねー。ほら、俺って忙しいし?」
「昨日一日ここに居たのに……」
「昨日は昨日。今日は今日さ。それに、本当に今日は用事があってな」
「私は知りませんでしたよ。あなたにそんな大事な用事があるだなんて」
「いや、大事って訳じゃねぇんだけどぉ……ほら、先生も知ってるっしょ? 留学生の話」
「ああ、あの……」
「留学生?」
話についていけず、俺が口を出すと、クロイスは軽く頷いた。
「そうそう。スケアルガ学園の方にさ、留学生が来るんだよ。まあそれだけなら別に、よくある話だけどさ。魔導をきちんと学ぶなら、ラヴーワか、ランデュスのどちらかな上に、ランデュスは竜の国だし? 別に珍しい事でも
なんでもない。でもさ、そいつはちょっとまた事情があってさ。翼族なんだよね」
「翼族……えっと、北の?」
翼族と言われて、俺は頭の中をひっくり返してどうにかそれを吐き出す。西にラヴーワ、東にランデュス。その間で、北部を住処としているのが翼族だった。
「そうそう。おお、物覚えがいいなぁゼオロちゃんは。そんでさ。そいつがもう来てるはずなんだけど……なんか、来ねぇんだわ。いくら待っても。そんで、気になるからちょっと探ってみようかなーって」
「それは、あなたのする事ではないと思いますがねぇ」
「いいんだよ。スケアルガの事なんだから、俺が首を突っ込んだって。そんな訳だから、ちょっとその辺ぶらぶらーっとしようかなって」
「あまり無茶はしない様にお願いしますよ。あなたと親しいからって、あなたのお父上から声を掛けられるのは私なんですからね」
「いいじゃんそんなの。愛してるぜハンスー」
「どうやらあなたをこのままお父上の下へ引き摺ってゆく必要がありそうですね」
目の前で、ハンスとクロイスの追いかけっこがはじまりそうな空気になる。俺はそれをじっと見つめながら、クロイスから貰ったパンを黙々と食べていたけれど、それを食べ終えてから、ぽつりと呟く。
「……私も、一緒に行ってみたいな」
「え?」
クロイスが、ちょっと驚いた顔をした後に、瞳を輝かせる。
「ああ、そうだ、それいいかも。せっかくだし、ゼオロちゃん一緒に行こうよ。街の中案内するのに、丁度いいわ。ハンス、良いだろ?」
名案だとでも言いたげに。クロイスが歌う様にハンスへと声を掛ける。当のハンスはと言えば、クロイスとは正反対に、難色を示す表情をしていた。
「……まだ、早いのでは」
「全然。ていうかもう、三日目なんだろ? ゼオロが来て。いつまでも家の中に閉じ込めてたら、塞ぎ込んじまうよ。ちゃんと外の空気吸わないとさぁ」
「それは、そうですが。けれど、まだ何も、身を守る術を知らないのでは」
「だから、俺が居るんじゃないか。その辺のチンピラはどうにでもなるって、俺の腕も知ってるっしょ?」
「私からも、お願いします、ハンスさん。外を、見てみたいです」
クロイスだけに任せておくのも気が引けて、俺も頼み込む。確かに、外がどうなっているのか。そこに居る人は、怖いのかも知れないけれど。先延ばしにすればする程、漠然とした怖さだけが膨らんでしまいそうで、だったら、
思い切って今がいいと。そう思ったのだった。今なら、クロイスが付いてくるし。なんか期間限定のおまけみたいな勢いで。
「困りましたね……。二人からそう言われてしまうと。……仕方がない。夜までには、戻ってきてくださいよ。私もあまり時間がなくて、何かあっても手伝えないし、そもそもあなた達の危険を察知できませんからね。勿論
暴漢などに追われて、こちらに来たというのなら、それなりの対処はできますけれど」
「さっすが、話のわかるせんせーは違うねぇ。そんじゃ、まあ」
椅子から立ち上がったクロイスが、振り返って俺に豹の手を差し伸べてくる。
「デートと行きますか。ゼオロちゃん?」
そう言って、いつもと同じ様にクロイスは笑ったのだった。