ヨコアナ
30.咎の在り処
重苦しい空気の中で、俺は俯いたまま、自分に向けられる二つの視線に耐えていた。
おずおずと顔を上げれば、鋭い目つきを容赦の欠片も無く俺に注ぐジョウスと。そして、そこまでではないにしろ、困った様な顔をしているクロイスの顔があった。こうして並べると、なるほどクロイスはやっぱり父親で
あるジョウスによく似ているんだなぁとか、そういえばお母さんはどんな顔なんだろうなとか、勝手な事を思わず考えてしまう。今、全力で現実逃避したい。
「とにかく……まずはこの手紙を、どうするかだな」
沈黙をどうにか破ろうと口を開いてクロイスは言う。けれど、その顔は相変わらず沈痛なままだ。
フロッセルの街中の、ジョウスの館で、悠々自適とまではいわないけれど、久しぶりに安穏とした日々を送っていた俺の下に、降って湧いた様にやってきた一通の手紙はその日の内に大問題となっていた。差出人の
存在が、あまりにも大きすぎるのだから。仕方がないのだけれど。
ランデュスの筆頭魔剣士、ヤシュバ。
その存在は、敵として対する国で生きているだけで、今のところ一歩たりともランデュスに足を踏み入れた事がない俺でも、名前だけは知っていた。新星の様に現れて、ランデュスの英雄と讃えられていたガーデル・プツェンを
筆頭魔剣士の座から退かせ。そうして、新たな筆頭魔剣士として君臨している。恐らくは、その存在があまりにも不可思議であるが故に、正体のわからない竜神ランデュスを除けば。個人としては、この涙の跡地の中の
誰よりも強いと囁かれている男だった。どの様な男であるのか、という事はラヴーワに居る限りではわからないけれど。でも、その振る舞いの一つ一つが問題を起こしているという事は、俺の目から見ても明らかな
存在だった。ガーデルからヤシュバに代替わりして、まだ一年も経っていないというのに、その間に起きた出来事と言えば。嫌竜派の爬族の蜂起と、それを治めるためとはいえ、ほとんどの嫌竜派の爬族を惨殺したり、
またそれまで中立の姿勢を保ち続けていた翼族に対して何かしらの工作を働いたとする疑いにも、根本にはこの男の存在があると思えた。勿論、それが本当にあったとしても、その上には竜族の全てを束ね、また竜族の
中において、他の何事よりも第一と優先されるべき存在である、竜神ランデュスが君臨していたけれど。それでも、ヤシュバが現れる前後での、国としてのランデュスの動きが、あまりにも違っているのは認めざるを
得ないだろう。それがヤシュバの力なのか、それとも竜神であるランデュスがその様に定めたからなのかは、わからなかったけれど。ただ、実際に筆頭魔剣士を務めていたガーデル・プツェンと、ひょんな事から知り合った
俺から見れば。やっぱりその、新しい筆頭魔剣士であるヤシュバに問題があるのではと、思ってしまうのは仕方がない事だった。少なくともガーデルは、このラヴーワであっても実直な武人として知られているし。反面、
ヤシュバについては情報という物がとても少なく、不気味な存在として見られている事が多かった。赤く、炎の様に煌めく鱗を全身に鎧うガーデルと比べると、その身体は黒に覆われていると言う。なんとなく、不吉な
印象を受けてしまう。この涙の跡地では、黒は縁起が良いと言われているそうだけど。それは、涙の跡地を覆う結界がいつか無くなる事を告げたユラの託宣の中で、黒き使者と、白き使者という存在が出てくる事から
来るものだという。
それでも、ラヴーワでのヤシュバの評判は当たり前だけどよろしい物とはとても言えなかった。ヤシュバが来てから二国の関係はかなり悪化しているし、爬族と翼族に至っては、壊滅的な被害を受けたと言っても
良かった。爬族に限れば、親竜派の爬族の方はその手を逃れたのだから、まだましと言わざるを得ないだろうけれど。翼族はそうじゃなかった。この館で暮らしながら、クロイスに何度か訊ねて、俺が後にしてきた
翼族の谷の事を調べてもらったけれど。翼族の受けた被害という物は、予想に違わず相当に深刻な物であったという。谷の表側、つまりは外部との接触の多い一帯に居た翼族は、先の強力な魔法の影響を受けて、
ほとんど廃人の態で。ラヴーワ軍が救助のために駆けつけた時には虫の息で。そうして生きていても、もはやまともに施しの手を受ける事すらままらなずに、衰弱して死んでいった者が多いと言う。竜族がその原因を
担ったのかは、いまだに俺の耳にははっきりとした事は届いていないけれど。やっぱりあれは、竜族絡みの線が強いのだろうな。
それを聞いて、俺はヒュリカの事を心配せずには居られなかった。ヒュリカを助ける事には成功したけれど。でも、今のヒュリカは、きっと辛い局面に立たされているだろう。できれば、今からでも翼族の谷に戻って、それを
支えてあげたいという気持ちも、俺にはあった。ジョウスの呼び出しは、紆余曲折の果てにどうにか済んだのだし。フロッセルで充分に休んで、元気になったら。クロイスの謹慎の様子を見て、それから許可が出るのなら、
ヒュリカの事も助けたいと。けれど、それも。ヤシュバからの手紙が俺の下に来るという、到底予想できない出来事のせいで、お流れとなっていた。
災いを呼ぶ、黒い竜。筆頭魔剣士の敵となる者達の口から、ヤシュバはそう言われているという。俺も、そう思う。俺の下に手紙なんかが届いたせいで。
俺に届いた手紙を一番に発見したのは、今は俺と同棲状態にあるクロイスだった。俺はまさか、自分宛てに手紙が届く事があるとは思っていなかったし、その手紙はクロイス宛ての物の中に混ざっていたという。
それを見て大慌てで飛び込んできたクロイスを宥めるのに、俺はまずかなりの時間を奪われてしまった。同時に、精神的な苦痛を受ける事にもなった。ランデュスの筆頭魔剣士である男から、俺を名指しした手紙が
届いたのだ。当然クロイスは、俺がランデュスと通じているのではないか。俺が、ランデュスの間諜ではないかと。そう疑う結果になった。俺は、クロイスの事を友達だと思っていた。いや、今でもそう思っている。だけど、
クロイスはそんな俺を、疑ったのだった。クロイスの疑いに、真向から反論する前に。そう思われた事が、俺は何よりも辛くて。疑いを解く事も忘れて、その場でしばらく声も上げずに泣き出してしまった事は、落ち着いた
今になって思い返しても俺を憂鬱にさせた。そして、俺をそういう風に見てしまったと、クロイス自身もまた相当に傷ついてしまった様だった。冷静に考えれば、例え友達であろうと、クロイスが俺を疑うのは当然の事
だった。俺は、異世界人なのだから。はっきり言ってしまえば、氏素性が知れなくて、そうして本当は誰と繋がっているのかなんて、わかりはしないのだから。自分が疑われて当然の存在であるという事を、俺は、
あまりにも都合良く忘れていたのかも知れなかった。馬鹿だと思う。それで、泣きだして。当然の事をしたはずのクロイスにまで、余計な傷を付けてしまって。本当なら、クロイスは落ち着いて俺と話をしようとしたはず
だったのに。俺が涙を流しながら、そんな事は知らないと言い続けているのを見て。俺の無実を晴らす事よりも、俺を落ち着かせる方にばかり感けてしまって。だから、その分余計に時間を取られてしまって。
ある程度、落ち着いてから。クロイスがおずおずと切り出したのは、ジョウスに相談をするべきだという言葉だった。それには、俺も頷くしかなかった。ジョウスと俺の関係は、決して良い間柄とは、言えなかったけれど。でも、
こうなってしまったら、とにかく一度話す必要がありそうだった。何より、こんな手紙を敵であるはずの筆頭魔剣士から届けられて、それを黙っていた事が知られてしまえば。それこそ俺は、何一つの反論をする事も
許されずに、内通者としてその場で首を刎ねられても文句は言えなかったし、クロイスもまた俺を疑ってしまった事を悔やんで、けれど俺の無実を確信した訳でもないが故に、心の中で葛藤があって。だからこそ自分が
冷静な判断を下せる状況ではない事を自覚したのだった。俺も、クロイスも。どれだけ冷静な振りをしても、まだまだ若くて、そうして甘いのだという事が嫌でもわかってしまった。
内密の用事があるとクロイスがジョウスの下へ出かけて、それから大急ぎでジョウスの使いが俺を迎えに来て。俺とクロイスとジョウスが、ジョウスの執務室に詰めた頃には。既に陽はとっぷりと沈んで。もうすぐ
真夜中になるであろうという頃合いだった。けれども、少しも眠気なんて物を俺は感じてはいなかった。泣き出してしまった時と比べれば、大分平静で居られる様になったけれど。クロイスに疑われたという事が、今に
なってもまだ俺を苛んでいた。そうして、クロイスもまた。同じ様な気持ちなのだろう。クロイスは悪くないと、俺は何度も言ったけれど。その表情は少しも変わらなかった。
「手紙の内容を、そのまま受け取るのならば。特にゼオロ殿が、謀反を働いた、という訳ではないみたいですが」
俺を擁護する様な事を、ジョウスが言う。ただし、その瞳の鋭さは少しも衰えずに、俺を射抜くかの様で。内心ではちっとも俺の事なんて庇うつもりはないのがわかるから、尚更俺は辛い。でも、今ここで言いたい事も
言えないのでは。怪しまれて、ジョウスとの間に交わした取引なんて物すら無かった事にされて、殺されかねないので、どうにか俺は自分の無実を訴えていた。ラヴーワの裏切り者、という肩書を背負ってしまえば、
もはやジョウスと交わした約束や、俺が銀狼であるが故にある程度慎重に扱わねばならないという事実は、全て吹き飛んでしまうのだから。
「改めて訊ねますが。ゼオロ殿は、まったくヤシュバという人物との関わりはないと」
「ありません……。名前を知っているくらいで」
「そうなると。やっぱり獅族門の事で、ゼオロに目を付けたって事なのか?」
手紙の内容は、その宛て名と差出人だけでとんでもない破壊力を齎してくれたのとは裏腹に、あまりにも単純というか。拍子抜けする様な物だった。突然に手紙を寄こした事を詫びる言葉と、俺の存在を知って、
ぜひ一度会いたいという、はっきり言って意味のわからない内容だった。どこで俺の事を知ったのか、が書いていないから、余計に話がややこしくなってるし。まずどこで俺を知ったのかっていう話だ。
「ここに。今ゼオロ殿が居る場所にこの手紙が届けられたという事は。つまりは獅族門から、ここに来るまでの間にゼオロ殿の存在が向こうに知られて。そして、何故かヤシュバがゼオロ殿に興味を抱いて、この手紙を
寄こしたと。状況と文面から察すると、そうなるが。さて、それでもさっぱり意味がわからんな」
「あの。私から言うのは、どうかと思うのですが。そもそも、それは本当に筆頭魔剣士からの手紙なのでしょうか? 偽造とか。その、悪戯とか」
「それは無いんじゃない。ここに、ランデュスの印が捺されている。正式な文書である事を示す物だ。強力な魔導の力を感じる。竜族は魔力に秀でているから、必要な時に使う物には、偽造できない様にこういう仕掛けが
施されている。少なくともランデュスの、それもきちんとした所から送られてきているのは確実じゃないかな。なんでそんな大層な物なのに、中身がこれなんだよって感じだけど。何がしたいんだよマジで」
ちょっと怒った様にクロイスが言うのは、俺を疑ってしまった事を後悔しているのかも知れなかった。もっとも、それは誤解とまではいまだ言えずに、疑いが晴れた訳でもないのだけど。
「それに、残念ですが。これが筆頭魔剣士から来た物であると頷ける証拠があります。それはこの手紙が、先にクロイスが気づいたとはいえ、ゼオロ殿。あなたの下へ、無事に届けられたという事です。本来ならば、敵国の、
しかも筆頭魔剣士からの手紙などというものが、おいそれとこちら側に届くはずはありません。無論、正式なやり取りであるのなら話は別ですが、これは内密の物で。それも、私の館の中に。恐らくは、目当ての人物に
届くまでは、外見や宛て名など、知られては困る物の全てが怪しまれぬ物へと見える様な魔導が施されていたのでしょう。推測ですが、クロイス宛ての手紙や報告書にこれは紛れていた。そうなると、やはり獅族門の
一件かな。クロイスとゼオロ殿が、共にある事を把握していなければならないだろうし。それから、微かに魔力の片鱗を感じます。しかし、これはかなり巧妙な物ですね」
言いながら、ジョウスは鋭い豹の瞳で、封筒をじっと見つめている。その目には、何が見えているのか。落ち着いたその物腰が、頼もしいと。そう思えたら良かったのにな。今疑われているのは、残念だけど俺だ。
「偽造の効果が切れたから、私でもどうにかそれが施されていた事がわかりますが。その効力の内である間は私でもわからなかったかも知れない。これ程の腕となると、やはり竜族からの手紙でしょう。自惚れて
言う訳ではありませんが、私とて本来は魔導に携わる身。竜族以外の細工ならは、ある程度見分ける事は容易い。しかし竜族だけは、そうではない。それ程に、彼らの力、事に魔力は、あまりにも我々と比べて、
秀でているのです。身体的な強さというものにも、かなりの差はありますが。それよりも尚恐ろしいのは、魔導に対する適正なのですよ。先の翼族の一件も、やはり竜族絡みでしたからね」
「竜族絡みだった?」
「……ああ。あなたにはまだ、話していませんでしたね。生き残った翼族の者の口から、翼族に異変が訪れるよりも少し前、ランデュスの筆頭補佐が、爬族の一件で色めき立っていた翼族との関係を苦慮して、谷へと
訪問したそうですよ。結果は、あなたも知る通りの事でございます。ですので、やはり翼族の谷の一件は、竜族の、延いては竜神の差し金かと」
隠していても仕方がないと思ったのか、疑われている俺にもジョウスは教えてくれる。それに俺が竜族と内通しているとしたら、どうせ知っている情報だろうし。いや知らないし内通してもいないけど。そんな事よりも、
あれもやっぱり、竜族だったのか。ほとんどそうだろうなとは思っていたけれど。はっきりと告げられると、なんとなく憂鬱になる。そんな事をする相手から手紙が来たのだから。筆頭補佐が訪れたという事は。それに指示を
与えたか、少なくとも筆頭補佐がそうする事を頷いたのもまた、この手紙を寄こしたと思われる筆頭魔剣士だろう。もしかしたら筆頭補佐の独断でもあるのかも知れないけれど。竜神から命じられたとか。いずれにせよ、
そんな相手が俺を今呼んでいるというのは、不気味でしかなかった。
「親父。正直なところを聞きたいんだけど。どう思う?」
「先にお前の意見を聞こうか」
このまま根掘り葉掘りを続けて、その度に俺の表情がどんどん曇ってしまう事を察したのか。クロイスが助け船を出すかの様にジョウスの考えを訊ねると。ジョウスは嫌らしい笑みを浮かべながら、クロイスへと問いを返す。
「ちぇっ。……そうだな、俺が言っても説得力に欠けるかも知れないけれど、やっぱりゼオロは、ランデュスと通じている訳ではないと思う」
「根拠は」
「そんな時間が無かったから、かな。そもそもゼオロがミサナトに現れてから、今に至るまで。おいそれと国境を越えて、筆頭魔剣士のヤシュバと繋がるっていうのが、まるで想像できない。そもそも偶然で出会う様な
状況でもないよ、国さえ違っているのに。もしかしたら、それよりも更に前から、通じていたって可能性が無い訳ではないけれど……そうなると、俺が出会った頃のゼオロは、あんまりにも物を知らなさ過ぎて不自然だしな。
それに、仮にゼオロが内通していたとして。この手紙の送り方は明らかにおかしいでしょ。偽造したからと言って、俺宛てに出してしまったら、今の様に俺が見つけて混乱するに決まってる。だったらもっと内密に、確実に
ゼオロ本人に届く様にするはず。内容もおかしいし。まあ、これに関しては、この手紙に特殊な読み方があるとか。或いはこういった旨を記した物が送られてくる事が、なんらかの合図になっているとか。他人に読まれても
良い様な細工をする場合もあるから、これはゼオロの無実を証明する根拠には至らないだろうけれど。それから、手紙が送りつけられてきた時機もおかしいな。だってさ、この手紙が来るまで、親父はどうだか知らないけど、
まさか俺はゼオロがランデュスと通じているとか、そんな風には一度も思わなかった。ミサナトで初めて会った時は、右も左もわからない様な状況だったし、異世界人というのは本当で、この涙の跡地の国をどうこうする
なんていう余裕もまったく無かっただろうし。話を戻すけど、獅族門からここまで俺とゼオロは一緒に来て、この館に住む事が親父から許されて。言ってしまえば、ゼオロが諜報活動をもしするとしても、それってまだまだ
これからの事だろ? 俺はともかく、親父ともっと話したりとか、これからラヴーワとランデュスがぶつかり合うから、何度も軍議を重ねて、布陣をどうするかとか。今まさに潜伏に成功した相手が、これから信用を得て、情報を
集めるかも知れないその真っ最中に、こんな手紙を送りつけて。いくらこういう形で手紙を送るにせよ、それはもっと後になるべきなんじゃないの? もしかしたら、何かしらの都合があって、ゼオロがなるべく早く間者で
ある事を露呈させて、その……始末させたいとか。何かしらの考えがあるのなら、別だけどさ。いずれにせよ、今ここでゼオロが黒だと決めつけるのは、無理矢理だろう」
一息に言い切ってから、クロイスが深く呼吸を繰り返す。さっきまで混乱していたのが嘘の様に、その頭の中ではあらゆる可能性が検討されて、それでも俺が内通していると決めつけるのは早計だという結論が
出されていた様だった。ジョウスは相変わらず笑いながら、それを聞いている。今更だけど、こういう時でも余裕がある辺りは、流石に長年軍師を務めてきただけはあるなと俺は感心してしまう。
「後顧の憂いは断った方が、良い事はあるぞ」
「それは、そうだけど。それで親父はどうなんだよ」
ジョウスが、押し黙る。それに、俺だけではなくクロイスもまた、息を呑んだ様に見つめていた。クロイスがいくら意見を並べても、例えクロイスとジョウスの関係が、親子であったとしても。この場においては、クロイスの
立場は、ジョウスの部下という事に他ならない。それも謹慎中の、正式には部下とも言えない様な。ジョウスが意見を下したのならば、それに抗う事はできないだろう。
「ゼオロ殿が、白か黒か。それは別として、処断をするのは早計。まあ、そんなところかな」
「親父」
クロイスが、愁眉を開いて笑みを浮かべると。俺の肩からもようやく力が抜ける。ただ、疑いが晴れたとまではいかないのが残念だけど。俺とクロイスを見てから、ジョウスは静かに頷く。
「疑いというだけでゼオロ殿をどうこうするというのは。やはり狼族の反発を招くだろう。残念な事にゼオロ殿は既に評判であらせられるからな。処断しようとすれば、当然狼族の方にもあれこれと情報が渡ってしまうし。これが、
決定的な証拠でもあれば。それを公表する事で処断するのは、あまりにも容易いのだが。現時点では、どうにもな。それに、クロイスが今言った様に。この手紙には不審な点が非常に多い。やはり、単にゼオロ殿の事が、
ヤシュバの目に留まり、どこに興味を引かれたかは判然としないが、それ故に手紙を寄こしたと見るべきではないかな。そうなると、何に興味を示したのか、だが」
「銀狼、或いは異世界人か」
すかさず、クロイスが相槌を打つようにそれを述べる。その表情は、さっきまでとはまるで違って、生き生きとしていた。俺を疑う事から脱して、ただ頭を使う事に専念できるのなら。クロイスにとっては寧ろ得意な分野
なのだろう。
「獅族門の事も、把握しているだろうが。しかしそれに関しては、別にゼオロ殿の行動が目に留まる程だとは思いません。それから、銀狼である事も。勿論ゼオロ殿の銀は、確かに優れた物だとは私にはわかりますが。
しかし、それで相手が動くとなると、それもどうかな。ゼオロ殿が異世界人である事を、向こうは知っている。知っているとは言わないまでも、確信に近い物を持っている。そういう事ではないのかな。だから、手紙を寄こして
きた。一目会いたいと。そういえば、具体的にどう会うかという事についてはゼオロ殿にはお話していませんでしたね。呼びかけに応じるのならば、この手紙を破り、その十日後の朝に、街の外に、手紙の残骸を本人が
持ってくる事。その際に竜族の向かえが行き、ゼオロ殿だけをヤシュバの下に連れていくと、そういった事が書かれております。それから、断る場合は手紙をそのまま燃やしてほしいと」
破るか、燃やすか。そう言われて、俺は正直燃やしたくなる。俺から会う理由が、特に無いし。というか燃やすか破るかの違いで、相手に対する返答になるというか、あっちでそれを察知できるんだな。流石に、魔導に
長けているという竜族だけの事はある。渡した手紙が、そのまま返事の役割も兼ねられるのか。
「ゼオロが異世界人だから、ただ興味がある。そういう事なのかも知れないのか……」
「まあ、わからんでもない。という程度かな。あちらでも同様に、結界を排除する術は探しているのだろうし。さて、一番最後に残った問題なのだが」
ジョウスが指先で、軽くテーブルを叩く。爪先が当たったのか、思ったよりも高い音が上がって。それで、考え込もうとしていた俺とクロイスは再び、ジョウスに視線を集中させる。
「ゼオロ殿。この誘い、乗りますか?」
はっきりとした物言いに、俺は思わず身体を震わせる。会いたくない、と思う。相手がなんで俺なんかを見つめて、そうして呼んでいるのかも、よくわからないのに。
「ちょっと待ってくれよ。態々、会いに行かせるのかよ。それも、手紙からすると、ゼオロ一人しか行けないのに」
焦った様に、クロイスが半ば立ち上がって。それから、クロイスとジョウスの丁度間に置かれたままの手紙を覗き込む。
「それに、親父はそれで良いのかよ」
「別に構わないが。今のところ、私はあちらに知られて困る様な情報をゼオロ殿に渡していない。もしゼオロ殿があちらの者で。そうしてこれが、盛大に趣味の悪いお出迎えで。ゼオロ殿がそれに導かれてあちらに戻る、
という事態に陥ったとしても。私が困る事はない。寧ろ、私としてはそれは都合が良い」
そりゃ都合は良いだろうなと、俺は内心思う。俺はクロイスを人質の様に扱って、ここに居座っているのだし。ランデュスに渡ってしまえば、もうそれについて悩む必要もなければ、また俺の存在の事で、狼族の方から
何かを言われる心配も無くなる。ヤシュバの下に行った結果、俺が実際にはあちらで捕らえられる様な事があっても。ジョウスならば、それをどうとでもラヴーワ側に吹聴する事は容易いのだから。それを聞いて、クロイスが
俺の代わりとでも言うかの様に、牙を剥き出しにする。
「なんだよ、その言い方……。親父はそうでもな、俺がもしかしたら、ゼオロに話してるかも知れないぜ。親父が知られて困る様な事をな」
「安心しろ。お前に伝えた事が全て洩れていても、困らない様な事しか、お前にも伝えなかったからな。要はお前の考えが聞ければ私はそれで良かった。今のところはな」
テーブルを、殴りつける音が聞こえた。クロイスが目まで見開いて、本気で怒っている。叩きつけた拳もそのままに、ジョウスの事をまっすぐに見て。その姿は本物の豹のそれで。威嚇だとかそんな物を飛び越して、
それに視線を向けられている訳でもないのに俺の方が思わず怯えてしまうくらいの迫力があった。とうのジョウスは、まったく涼しい顔をしていたけれど。
「それに。私としては、これは譲歩でもある。この珍妙な手紙、今回は私の方で揉み潰しても良い。知っているのは、私と、クロイスと、ゼオロ殿ぐらいだ。しかし次また、どの様な手段でゼオロ殿に似た様な誘いが
来るのかは、わからんぞ。その時、それが外部に漏れて公の知るところとなれば。誰であろうとゼオロ殿を庇う事はできないだろう。ゼオロ殿。この意味は、おわかりでしょうね」
鋭い目で見つめられて、俺は静かに頷く。結局のところそれなんだよな。ヤシュバの狙いがよくわからない以上、今回の様な事がまた起こらないとは誰にも保証できなかった。断りたければ手紙を燃やせと書いては
あるけれど。この誘いが一回切りだなんて事は、誰にもわからない。それこそ、この手紙を寄こしたヤシュバにしか。
ジョウスは、はっきりと俺にそう告げた上で。お前が内通者なら重要な情報は特に与えていないし、帰ってもらう方が自分にも都合が良いので見逃してやるから出ていけ。もしそうではなく、本当にヤシュバからの勝手な
接触であるというのなら。行って、こんな物は二度と寄こすなと言ってこいと。そう、言っているのだった。元よりヤシュバの下に連れていかれるのは、俺だけであるというのだし、仮にそれで俺が死んでしまおうが、
今のところ軍関係者とまでは言えないから痛くも痒くもなく、また取り繕う事も容易いのだと。
そして、また。面倒事をあまりにも増やすのなら、この手紙を公にする事で。ジョウスは俺をはっきりとした反逆者として吊し上げる事も、あまりにも容易いのだった。ジョウスには、それまで培ってきた軍師としての力と、
そして実績があるのだから。それを盾にすれば、いくら俺がガルマに匹敵する銀狼で、そうしてガルマの気に入りの存在であろうと。全てを退ける事は可能だろう。
詰んだ。割と真剣に、詰んだ。会いに行かないという選択肢が、無い。いや、一つあるとするのなら。手紙を燃やして、そうしてこの館からも去って。誰にも近づかない様にする事くらいだろうか。俺がここに居るから、
ラヴーワ軍に、クロイスを通してとはいえ今は関与する存在であるから、ジョウスも何かしらの行動を起こさなければならないのだから。ラヴーワに生きる民草の一であるというのならば、そこまではジョウスが口を出す
権利は無いだろう。
「……会いに行きます」
「ゼオロ」
けれど。それ程悩まずに、俺は返事をする事ができた。だって、仮に今から一人になっても。その先でこの手紙の主が待ち構えていないとは限らない。俺が一人になったら、それこそ相手は俺に手を伸ばしてくる
可能性もあるだろう。だったら、このまま乗り込んでやる方がまだ良い。少なくとも、きちんと言いたい事を言って、戻ってきて。こんな手紙を止めさせる事さえできれば、俺の危うい今の立場は無くならずに済むのだから。
それに。どの道ここを後にして、一人で生きてゆく算段などあるはずもない。かといって積極的にランデュスの、そのよくわからない筆頭魔剣士にかどわかされるのもごめんだ。今、行くしかないだろう。
「ならば」
立ち上がったジョウスが、手紙を取って。そうして、俺の下まで歩み寄ると、差し出してくる。立ち上がって、俺はそれを受け取った。この時になって、俺は初めてその手紙を自身の目で確かめる事になる。内容は、
クロイスとジョウスが散々議論を交わしていた事がそのままに記されていた。突然の手紙を詫び、それでも俺に会いたいと。そうして、承諾するのなら、この紙を破れと。
「もし、これが暗号である可能性を考えるのなら。今私に渡したのは、よろしくないのではありませんか」
「そんな手間を掛けなくとも、私には他の手がありますから」
まあ、そうだろうな。事を公にして、俺を処断する方が楽だろう。少なくともこの短い文章から、何かしらの意味が隠されていたとしても、それ程長い文章にはならない上に大した内容にもならなさそうだという事は
わかるし。そして別の意味が記されていたとしても、今度はそれが正しいどうかという事に時間を取られる。ジョウスには、そんな暇は無いだろう。
「ゼオロ」
クロイスが立ち上がって、思わず手を伸ばそうとする。俺はそれを見ながら、しかし構う様子も見せずに、両の手で手紙を持って。上手く動かない左手に、懸命に力を籠めて。
「では、十日後に」
手紙を、破ったのだった。
前を歩くクロイスの、揺れる尻尾を俺は見つめていた。
ジョウスの部屋の、帰り道。クロイスは一言も俺と言葉を交わす事をせずに、ただただ急ぐ様に、自室への道を辿っている。
俺は、なんて声を掛けようかと。そればかりを考えていて。けれど、上手い言葉が浮かばずに。仕方なく、クロイスの揺れている尻尾を目で追うばかりだった。
怒っているのかな。手紙を破る直前、クロイスは俺を止めようとしたから。けれど、俺にもそこは譲れない物があるというか。他に選択肢が無かったというか。できれば察してほしいなとか。段々と自分勝手な事を
考えている自分に、気づいてしまう。クロイスは頭が良いから、察してくれるだろう。そういう事を、最近続けてしまっている様な気がしてしまって。
部屋に着いて。扉を閉めて、もう俺達を見る一対の目がどこにも無いという状況になった時に。俺は決心して口を開けると。それよりもずっと早く、振り返ったクロイスは身を屈めて。そのまま驚いている俺の身体を、
強く抱き締めてきた。
「ごめん。ゼオロ」
「……何が?」
クロイスの行動に、言葉に驚いて。俺はそう訊ねる。クロイスは目を伏せて、それから俺の事を、また更に強く抱き締めてくる。ちょっと、苦しい。
「お前の事を、疑った」
「そんなの、当たり前の事じゃないの。クロイスの立場からしたら」
「そうじゃ、ない」
別に俺は、クロイスが俺を疑った事に腹を立てたりはしていない。クロイスの立場を、そして、この館には父であり、またラヴーワにとっての要人であるジョウスが居るのだから。それを守るためにも、少しでも疑わしい人物が
そこに紛れているというのならば、寧ろ疑わない方が心配になる。勿論、クロイスに疑われた事で俺は悲しい気持ちになったのは事実だけど。けれど、それはクロイスが悪い訳じゃない。クロイスが謝る必要はどこにも
無かった。
「クロイスは悪くないよ。ジョウスさんも、嬉しそうな顔してたし」
最後の方は大分剣呑な雰囲気になっていたけれど。でも、ジョウスのクロイスを見る目は、決して実の息子を邪険にしたり、蔑んだりする物ではなくて。ただ、クロイスが披露する考えを、楽しそうに聞いていて。でも、
俺がそれを口にすると。クロイスは一度俺との距離を取ってから。俺の服を少し引っ張って、左肩を露わにしようとする。そうすると、服が引っ張られて、それでもどうにか肩が露出する。被毛の中に隠れた、消えない
傷跡も。クロイスは黙ったまま、それに口を寄せて。もう俺がそこから痛みを感じない事も知っているのに、震えながら、舌先で微かに触れてくる。そうされると、被毛越しでも、少し棘の付いた猫の舌の感触が
わかって。俺は僅かに呻く。
「俺は、わかっていたのに。お前が。ゼオロが、そんな事する訳がないって。そんな余裕はどこにも無かったし、俺を庇って、こんな傷を負って。それでも俺を責める事もしなかった奴だって。なのに、俺」
「クロイス」
思っていたよりもずっと、クロイスは俺を疑ってしまった自分自身に、打ちのめされている様だった。それが少し、意外というか。でも、クロイスらしいというか。そんな気がしてしまう。とても頭が良くて。相手の気持ちを
察するのが上手くて。相手の好みを把握するのも早くて。いつも俺を楽しませよう、笑わせようとしてくるクロイスだから。そんなのは仕方がない事だと、気持ちの整理をつけていてもおかしくはないのに。
「クロイスは当然の事をしたんだよ。ラヴーワを、ジョウスさんを守るために必要な事をしただけだよ」
俺は、そう思って。そう告げて。でも、クロイスはゆっくりと首を振っていた。
「ゼオロは、嫌じゃなかったの。俺にあんな風に見られて」
「仕方がない事だったよ」
「嫌かどうか、俺は訊いてるの」
「……辛かったよ」
「そうだよな。泣いてたもんな。俺、ゼオロの事を、泣かせて」
そうじゃないのになと、言いそうになる。言っても多分聞いてくれなさそうなので、仕方なく俺は、おずおずとその豹の頭を抱き締める。
「仕方がなかったんだよ。クロイス。そもそも私がここに居る事だって、本当は良くない事なのは確かなのだから」
クロイスには相変わらず黙っているけれど。俺はジョウスを脅してしまったし。それを差し引いても、やっぱり俺が胡乱な存在であるという事実は、決して揺るぎはしない。この涙の跡地で生まれて、生き続けて、今目の前に
居る人達が、俺が余所者だからと疑うのは。あまりにも、真っ当な理由と言う他はなかった。ともすれば俺という存在は、ラヴーワが敵視している竜族よりも、その上に存在する竜神よりも、もっと異質な何かでしか
ないのだから。何かが起きたら、俺を疑うのがそんなにも理不尽な事だとは思わないし、俺から理不尽だと叫ぶ訳にもいかなかった。
でも、クロイスはそうじゃないんだな。疑って、当然なのに。疑ってしまった自分に傷ついて、悔やんで。優しいんだなって、見ていて俺は思う。こういう人が、本当に優しい人で。だから簡単に傷ついてしまって。だから
俺は、クロイスの事が好きなのかも知れない。恋人とか、そういう意味ではなくて。ただ目の前に居る、一人の存在として。そして、クロイスは俺を時には邪な気持ちで見ていて。本来なら、冗談じゃないと言って
押しのけてやるところを、応援したい気持ちになってしまうのは。きっと俺が、どれだけ勉強をして、立場ができても、まっすぐな部分を持ち続けているクロイスが好きだからなんだろうな。
「俺、変なのかな。ゼオロの事疑うなんて」
「変じゃないと思うけど」
俺の気持ちとは裏腹に、クロイスの自責は止まらない。今もまた、少し鼻をすする様な音がして。それから、小さな溜め息も聞こえる。
「だってさ。恋は盲目って言うじゃん? なのに俺、ゼオロの事凄い疑ってたし。俺って、恋してなかったのかな、ゼオロに」
それを聞いて、俺はしばらく固まって。それから、堪えきれなくなって噴き出してしまう。そうすると、クロイスはそれが大層不満だったのか、顔を離そうとするから、俺も腕を解いて。さっきまでの悲しそうな顔もどこかへ行って、
ちょっと怒った様子で俺を見ていた。
「なんだよ。そんなに、笑うなよ」
「無茶言わないでよ。笑うなって方が無理だよ」
一頻り笑ってから、俺はさっきまでの暗い気持ちもどこかに行ってしまった自分に気づく。笑って目に涙が溜まるのは、ヒナに人間の絵を見せた時以来だな。あれもかなり面白かったけれど。
「クロイスって、子供だね」
「……どうせ、子供だよ俺は。ゼオロの方が本当は年上で。だから俺の方が、餓鬼なんだ」
「拗ねないでよ。悪く言ってる訳じゃないのに」
こんなに頭が良いのに。そういうところがとんでもなく子供なんだよな。知ってたけれど。知っていた、つもりだったけれど。俺が馬鹿にしている訳じゃない事が、少しずつ伝わったのか。クロイスも今は少し落ち着いた様な、
でも俺に笑われている事が今度は恥ずかしいのか、耳を伏せて。少し居心地が悪そうにしていた。改めて、俺は手を伸ばして。俺の腕だと丁度良く抱き締められる豹の頭を抱き寄せる。そうすると、クロイスと俺の頬が
触れ合って、ここぞとばかりに、それを擦り合わせる。満更でもないのか、クロイスが僅かに喉を鳴らした。猫だな。
「クロイスの、そういうところ。私は凄く好きだよ。とても、安心するの」
伝わる様に、伝わる様にと。俺はゆっくりと、なるたけ優しく呟く。だって、本当にそういうところは好きだったから。俺にセクハラするところはよろしくないと思っているけれど。まっすぐな子供の部分が、クロイスにはまだ
沢山残っていて。だから、まっすぐな夢を見て。まっすぐだから、その分傷ついて。いつもは自分が有利に事を運ぶために回るその頭が、時には自分自身を傷つけてしまって。そうして落ち込んで。それでも俺みたいな奴の事を
信じようと精一杯になって。頭の良い部分と、子供子供した部分がぶつかって、混乱してしまって。だから俺は、そんなクロイスに少しでも何かしてあげたくなるんだろうな。ここに来て、この涙の跡地に来て。大分俺も
自分で行動する事ができる様になったと、ちょっとだけ自信も出てきたけれど。それでも元の俺は、何もしようとしない、冷めきっていた自分だったから。そんな俺と、クロイスは、とても懸け離れていたから。
だから、クロイスを見ていると。眩しくて、照れ臭くて。羨ましくて、恥ずかしくて。いつの間にか、声に出して笑うなんて事をしなくなっていたはずの自分が、クロイスと同じ様に笑っていて。だから、もっと笑っていてほしくなる。
俺の言葉が、クロイスに伝わっているのかどうか、俺は抱き締めている豹の様子をじっと見ていた。今は、俺が抱き寄せているから表情は読めなくて。いつの間にか、喉の音も止まっていて、俺とクロイス、二人分の
微かな息遣いが、聞こえるだけで。それで、ほんの少し不安になる。普段からこういう言葉を使い慣れている訳ではないから、やっぱり足りないのかな。
そう思っていた頃に、音が聞こえる。軽く息を吐く音と。それから、また喉の鳴る音が。なんかさっきまでより大きい。いきなり耳にすると、なんの音なのかと混乱してしまいそうだ。聞き慣れたから、もう平気だけど。
「好きなの? 俺の事」
「え、そうだけど」
突然問いかけられて、俺は反射的にそう答えて。答えてから、それはちょっと早まったなという事に気づく。顔を離したクロイスが、目をきらきらとさせているものだから。
「あ。友達としてだよ、勘違いしちゃ駄目だよ」
「やったー両想いだー」
クロイスが飛び込む様に腕を伸ばして、俺を抱き締めてくる。あ、これ聞いてない。割と聞いてない。失敗した。ていうかちょろいなクロイス。いいのかそれで。
さっきまでの落ち込みは、もしや俺をこの流れに誘導するためなのかと思わず勘ぐってしまう程に、今のクロイスは全身で喜びを露わにして、俺へと縋ってくる。嬉しそうに喉を鳴らして、鼻先を俺の首筋に当てながら、
匂いを嗅いだり。肩越しに見える尻尾が、やたらとくねくね動いていたり。
「クロイス。友達として、だよ」
「わかってるよ」
聞いてないと思って、もう一度言うと。意外にもはっきりとした返事がクロイスからされる。
「わかってるけど。嫌われたんじゃないかって、怖かった」
「そんな訳ないのに」
「だって、心配だったし……。じゃあさ、今まで通り、もっとくっついててもいいんだよね」
「待ってそれは話が違うと思う」
違うと思うのだけど。でも、俺の身体に手を出すとか、そういう事をする訳じゃなくて。ただただ全身を喜びに染めて、じゃれついてくるその姿は、まんま猫で。そういう態度だと、俺は強くそれを拒絶できないというか、
猫は好きだし。本物の猫は道で会っても、餌付けされた猫じゃないとすぐに逃げてしまうけれど。目の前の特大の豹は逃げるどころかくっついてくるしで、そうされるとやっぱり動物は可愛いなというか。いや相手は男として
男の俺を好いているのだからもっと何かしらの対処をしなければならないのだろうけれど。元来の動物好きという俺の性格が、それをする事をなんとなく躊躇ってしまう。こうして抱き締められている分には、俺はそこまで
嫌という訳ではなかったし。出会ってからのクロイスが、ずっとこんな風に俺に接していたからなのだろうけれど。
一頻り、仕方ないからとクロイスに好き勝手させて。やがて喉の音も大分治まってきた頃。俺は様子を見て、おずおずと口を開く。
「クロイス。私、ヤシュバに会いに行ってくるよ」
「……本当に、行くの」
心配そうな顔をして、クロイスは言う。とはいえ、もうとっくに手紙は破ってしまったのだから、それは今更の会話だったけれど。誰だか知らないけれど、恐らくは手紙に細工を施していた竜族には、俺の返事はとっくに
伝わっているだろう。それでも改めて話を戻すために、そう俺は切り出したのだった。
「心配だよ、俺。ゼオロ一人で行かないとなんだろ。竜族の迎えが来るって言ってたし。そうすると、多分翼を持った竜が来るんじゃないかな」
さり気無く、そんなところまで見当を付けてくれるクロイスに感心しながら。俺は頷く。
「それでも、行かないと。ジョウスさんも言っていたけれど、こんな事が何度も続いたら。私はどの道、長くはここには居られない。ここを出て、一人になるしか。でも、この筆頭魔剣士の行動力を考えると。一人になった所を、
狙われるんじゃないかって気がするんだよね。今、例え手紙を燃やして、無かった事にしても。それが無かったとしても、私一人で生きてゆく力は無いから」
「行くしか、ないのか……。俺、なんにもできないんだな」
「クロイスがそんな事考える必要はないと思うけど」
「だって。ゼオロは友達としてここに居るけれど。それでも言ってしまえば、俺のお抱えの相談相手って事でもあるだろ」
それは、そうなんだけど。この館に居て、軍師の卵であり、まだまだ力があるとはとても言えないけれど、それでもいずれは軍師か、そこまで行かなくても参謀とでも呼ばれるクロイスの傍に居る俺は。立場としては、
その相談を受ける一人として既に館の人には認識されている。ジョウスにはその様に扱って、傍に置かせてくれと言って、クロイスとは特にそういう話はしていなかったけれど。それでも長く一緒に暮らせば、当然クロイスの
方からも、俺がどういう存在であるのか、という事をある程度ははっきりとさせなくてはいけなくなって。とりあえず結婚を前提に付き合っていると公表しようとしたクロイスを張り倒して、今の立場にしようと改めて俺から
お願いして、今のところはそれで落ち着いているのだった。危なかった。とても、危なかった。さり気無く周りからそうやって見られる様に誘導しようとする辺りは、流石に抜け目のないクロイスだった。
「なのに、俺は何もできなくて。しかも一人で行かせる事しかできないなんて……」
「仕方ないよ。それに、竜族はとても魔導に長けているんでしょ。私一人で、小細工もせずに行くしかないよ」
例えば、俺に特殊な魔法を掛けて会話を盗聴したりとか。いっそ俺を爆弾に仕立て上げてヤシュバと会わせてその場で爆破するとか。なんかとんでもない発想はできなくもないのだけど。そういう事は全て竜族にとっては
あっさりと看破されてしまう物でしかないのだと言う。魔導の才を多分に持つが故に、竜族からは、翼族にした魔導の洗脳など、ありとあらゆる行動ができるけれど。こちらから竜族に対してというのは、まったくの徒労に
終わる事がほとんどだという。だからこそ、竜族は、竜族だけでありながら。今に至るまで最強の名を欲しいままにし、また滅び去る事もなかったのだけど。
「あと、爆破しても多分ヤシュバにはまったく効果が無いと思う。だって筆頭魔剣士って事は、最強の男って事でもあるんだよ。ただの竜族ならまだしも、筆頭魔剣士じゃ」
面白半分で俺を爆弾にしてみたらと言ってみると、クロイスは笑う様子も見せずに、寧ろちょっと怒って。更に理詰めで論破してくる。確かに、ちょっとした爆発じゃどうにもならないよな。前筆頭魔剣士のガーデルも、俺は一目
その姿を見たけれど。本当に俺と、ラヴーワに住む獣とは違っていて、何かしらの攻撃が通じる様にも見えなかったし。というか今更だけど、ガーデルとの関係を話し忘れていた。今話せる空気ではないけれど。現筆頭魔剣士の
ヤシュバと通じているのかと疑われているところに、前筆頭魔剣士のガーデルと実は知り合いなんです、なんて言ったら。もはや証拠も何も必要なく処断されてしまいそうだ。穴に落っこちて、助けてもらって、ちょっと話を
しただけだというのに。
「それに。私も、ヤシュバに会いたいんだよね。今回こんな手紙を渡してきたのだから。どうしてなのか、それをはっきりさせたい」
それも、俺がヤシュバに会おうと決めた理由の一つになっていた。どっち道選択肢はないけれど。でも、その上で。筆頭魔剣士として、ランデュス軍の頂点に立つ存在が、なんで俺なんかをと思うし。異世界人絡みである
という事は、ほとんど確信に近い物を持っていたけれど。そうでなければ、向こうが俺に接触しようとする理由が無いし。だとするのなら、相手が俺を、どうするつもりなのかはわからないけれど。今のままでは、相手の
目的も何もかもが、わからないままで。そのまま、その内に相手の手にかかるというのは、俺としては大いに不本意だった。例え飛び込んだ先で、帰れなくなったとしても。
「行かせたくないな。相手が何をするのか、わからない」
「別に、いいよ。私としては、ヤシュバにする事は決まったし」
「何かするの」
「とりあえず二十発くらい殴りたい」
「気持ちはわかるけど。寧ろ応援したいけど。それじゃゼオロちゃんが休戦に終止符を打つことになっちゃうよ。もうあって無い様な物だけど、一応休戦は続いているし」
言われて、確かにそうだと思い直す。でもどの道、もうそれ程この状態は続かないだろうという事は。俺とクロイス、そしてジョウスとの一致した考えだった。だったら俺がそれに止めを刺してやる。というのは流石にどうかと
思うので、苦笑して冗談で済ませる。それに、それはクロイスの夢が、とても遠退く事でもあるから。結果がわかっていたとしても、俺からそれをするのは気が引ける。
「せっかくだから、見てくるよ。ランデュスに新星の様に現れたとかいう、噂の筆頭魔剣士のヤシュバを。本当のところは、ヤシュバがどんな人物なのか、それを知りたい人はかなり多いだろうしね」
「そりゃ、まあね。ヤシュバの情報は、あまりにも少ない。これから……ラヴーワとランデュスがぶつかり合うのなら。一切の情報が無い男と渡り合うのは、危険だと思う。ヤシュバがどんな人物であるのか、それが
わかるだけでも、大分違うだろうね。親父も、そこのところは喉から手が出る程欲しい情報なんじゃないかな。とはいえ、親父の事だから。ゼオロの言う事は、全面的に信じてくれないかも知れないけれど」
どうせ、戦が再び始まる事が避けられないのなら。せめてヤシュバの人と形だけでも。なんとなく、俺はそんな気分になった。もっとも会いに行った先で、ヤシュバが俺を生かして帰すのかはわからなかったけれど。異世界人
としての興味のままに俺を呼んだというのなら。ミサナトで今俺を血眼で探している様な連中の方へと放り込まれる事もあるのかも知れないから。クロイスが危惧しているのは、そこなんだろうな。そんな場所に、何一つ
わからぬ人物の下に、俺をたった一人で行かせなければならないのだから。俺はなるたけ笑顔をもって、安心させる様にクロイスを見つめる。
「こんな流れになってしまったけれど。でも、少なくともこの役は私でないとできない事でもあるんだよね。だったら、私はそれでいいよ。他に道も無いしね」
「……気を付けてくれよな」
気を付けて、どうにかなるレベルではないのはわかっていても。クロイスは、そう言ってくれて。俺は何度も頷いた。もしかしたら、これでもう、会えなくなってしまうのかも知れないけれど。
それを、互いに口に出す事はしなかった。
手紙を破ってから、十日後。俺は早朝のフロッセルの街中を、深くローブを被って目立つ銀を隠しながら、クロイスに手を引かれていた。今はクロイスも俺と同じ様な恰好をしている。クロイスはただの猫族の中の豹だけど、
スケアルガといえば充分な知名度を持っているし、しかも今はまさに、その力が求められている時でもある。ジョウスは元より、その息子であるクロイスにもかなりの注目が集まっているのだろう。ジョウスの館から外に出て、
少し待つ様にと言われて。その場を離れたクロイスを大人しく待っていると。その内にクロイスが、馬を一頭連れて戻ってくる。ヒナとの旅で馬にも大分慣れたとはいえ、その馬は俺が乗り慣れていた大きさの馬よりも
二回り以上も大きい馬で、ゆっくりとクロイスは馬の背に俺を乗せてから、自身も乗って。俺を前に座らせる恰好にすると、軽快に朝靄に包まれたフロッセルの街中へと馬を速足で駈ってゆく。陽はまだ上りきるどころか、
その姿を見せてもいなくて。でも、遠くの空は少しずつ夜から朝へと色付いて、朝の早い商売人達の姿がちらほらと見えていた。何度か歩いただけのフロッセルの街は、ワーレン領、虎族の地であるというのに、俺の瞳に
映る種族は、今はそれなりにばらついている。まだランデュスとぶつかり合ってはいないし、いざランデュスが攻めてきたとしてもここは少し後ろの方だから、今はまだ穏やかな空気を保っているけれど。いずれはここにも、
兵の練り歩く姿が見える様になるのかも知れない。今のところは、それはジョウスの館の周辺に、ジョウスを守るための最低限の人数に抑えられているが。
背の低い建物ばかりの街並みを、馬が進む。すっかり冬と言っても差し支えない早朝の冷え込みは、冬毛に生え変わったとはいえ俺には少し寒く感じられて。僅かに震えていると、クロイスが馬上である事も構わずに、
俺の身体を引いて、そうすると俺はクロイスに凭れかかる状態になる。
「大丈夫なの、馬の上で」
「平気平気。こいつは身体はでかいけど、大人しい奴だし」
寒さをどこかへと逃がす様に、クロイスは俺が離れる事を許さなかった。もしかしたら俺が戻ってこない事も、考えているのかも知れないけれど。それでも昨晩よりは、その様子は落ち着いていたから良かった。昨日は
それこそ、俺が戻ってこなかったらどうしようと、ひたすらおろおろしていて。ヤシュバの下に向かうのは俺だというのに、俺が取り乱す暇もなかったし。寝る前になると、離れようとしないから仕方なく添い寝になったし。
「恰好つけたがりなのにそういうところは見せるんだね」
「幻滅されようが俺は今一緒に居たいの」
そこまで言い切られると、断ったらその分を朝余計にべたべたしてくるかなと思ったから、昨日は結局クロイスのベッドで身を寄せ合って寝たんだった。何かされるんじゃないかと思ってたけれど。とうのクロイスは最初は
俺の心配をしていたけれど、その内に大分落ち着いたのか、一人っ子だからこんな風に寝るのが楽しいだとか暢気な事を言っていて。意地悪して、連れ込んだ相手とはよくこうしてるんでしょって言ったら、怒ったのか、
結局意識を手放すまで、俺はクロイスの腕に包まれたままだった。
フロッセルの街の、外へと続く門が見えてくる。既に俺達がこの時間に外に出る事は告げられているから、その門に詰めている衛兵に何かを言われる事もない。なんのために俺達がそこを通るのかまでは、知られては
いないけれど。
街の外へと出ると、目立つ事を避けながら静かに道を外れて。人目が無い事を確認したクロイスが、一気に馬を飛ばす。
「どの辺りが良いのかな」
「とりあえず、街からもある程度見えない位置が良いだろうな。竜族の迎えなんて、下手に見られたら妙な噂になるし、しかもその場に俺が居る事も知られたくない」
「……だったら、他の人に連れてきてもらうか。私を門の所で下ろして一人で行かせたら良かったんじゃないの」
「ゼオロちゃんを一人で行かせるなんて、できる訳ないでしょ」
いや、どの道一人で行くんだけど。竜族の迎えがきたら。
「それに、他の奴には知られたくない。今のところはね」
「そうだけど」
今回の事を知っているのは、俺とクロイスとジョウスぐらいの物で。そうなると、俺をこうしてここまで送り届けるのは、クロイス以外にはありえないという事になる。まさか長年軍師を務めて、今再びラヴーワを守るために
その手腕を遺憾なく発揮するであろうジョウスが、のこのこと竜族の前に姿を現すなんていくらなんでも馬鹿げているし。そういう意味では、俺はクロイスにも下手に出てほしくはなかったのだけど。そしてジョウスもまた、
それを止めたのだけど。
「他の奴に知られたくないんだろ。でも親父は出られない。なら、俺しかいないでしょ。それに、俺には知られて良い情報しか出してないんだろ?」
と、手紙の一件で言われた事を根に持った様な言葉をジョウスに叩きつけて、結局俺の事をここまで連れてきてくれたのだった。
馬を走らせて、しばらくすると。ようやく人目に付かず、街からある程度は離れて、しかし同時に離れすぎてもいない距離へと到達する。そこまで来ると、クロイスは馬を止めて先に下りてから、俺を下ろしてくれる。
「……ほら」
それから、懐から取り出した物を俺へと。それを受け取って、まじまじと見つめた。破られた手紙の残骸。
「ありがとう、クロイス」
「今からでも燃やして無かった事にしたいわ」
「駄目だよ。あっちだって、もう私の返事を受けて、準備しているんだろうし」
それをするのは、多分少しだけ遅いだろう。この手紙の残骸を持ってこい、というだけで場所の指定は割と曖昧なのだから。手紙に何かされた事がわかるのなら、この残骸を持っている者の場所も相手は把握していて、
だからきっと、迎えの竜族が今まさに俺を探している最中だろうから。
そんな俺とクロイスの考えを肯定するかの様に、僅かな物音が聞こえた。クロイスが静かに空を見上げる。東の空から光が射していた。丁度日の出の時刻だったのだろう。俺とクロイスが、陽の光に照らされはじめた頃に、
空に瞬く者の姿を捉える。昇る太陽に追いやられて消えてゆく星々の一つの様だったそれは、陽が強くなればなる程に、薄れてゆく星とは対照的に、空の中でただ一つ輝きを増していた。それは思っていたよりもずっと近くに、
俺達の近くに来ていた様で。そのまま天高く、俺達が真上を見上げる様な状況にまでなると。不意に光が広がったかの様な錯覚を俺に覚えさせた。翼族が空を飛ぶ時の様に、大きく、大きくその翼が広げられて。静かに
下りてくる。翼の持ち主よりも何倍にも広がった翼は、顔を見せた太陽の輝きを受けて、黄金色に瞬いて。まるで太陽の中から、その人が現れたかの様にさえ思えてしまう。金色の鱗を持った、竜だった。身に纏う簡素な
白い鎧よりも、それに守られていない黄金の鱗の方が、よっぽど輝いていて。思わず俺は、自分がどちらの側に属しているのかも、今の状況がとても辛いという事も、今だけは全部忘れてその姿に見惚れていた。俺が
読んでいた沢山の本の中には、きっとこれに似た状況が沢山あって。読んでいた時の俺は、それを想像するだけでワクワクした物だけど。それを今の俺は、自分の目で見る事ができているのだった。竜が俺の下へと
近づく度に、その翼もどんどんと近づいて。益々強まった陽の光の中に居るその人は、本当に物語の主人公の様な、あまりにも眩しい存在だった。
ゆっくり、ゆっくりと下りてきたそれは、やがて俺とクロイスの前の地面へと着地する。クロイスは、暴れている馬をどうにか宥めていたけれど、その騒ぎを聞いても俺が反応を示す事はなかった。目の前にやってきた、
十中八九俺の迎えであろうその金の竜に、俺は瞳を奪われたままで。気づけば、着地する際に吹いた風で、俺の被っていたフードは取り払われていた。
「ゼオロ様でございますね」
突然聞こえた声に、俺は身を震わせた。首が痛くなる程に見上げれば、金色の竜は俺をじっと見つめて、それからその場に跪く。そうされても、俺が見上げなくてはならない程にその体躯は大きくて。クロイスと
比べても、頭一つ分以上は大きいのだろうな。あんなに大きく広げられていた翼は、翼族のそれとやっぱり仕組みは似ているのか今は縮む様に折りたたまれて、降下していた時の様な大きさにはとても見えない。それでも、
充分な大きさをそれは持っていたけれど。俺が思わず息を呑んで、それから翼をじっと見ていると。ドラスは俺の視線を察したのか、僅かに翼を動かしてくれた。それを見つめながら、けれど俺はその内に、自分に向かって
言葉が投げかけられていた事に気づいて、慌てて視線を金竜の顔へと戻す。そうすると、それはそれで精悍な竜の凛々しい顔があるものだから、やっぱり見惚れてしまったけれど。
「はい。私が、ゼオロです」
「お初にお目にかかります。私は、ランデュスの竜の爪の隊長。ドラスでございます。以後、お見知りおきを。筆頭魔剣士であり、竜の牙の団長でもあるヤシュバ様の命を受け、お迎えに罷り越した次第でございます」
そう言ってから、ドラスは更に頭を垂れる。それで、また俺は固まってしまう。竜族を見るのは、ミサナトに、薬師であるファンネスの助手っぽい何かであるツガが居たから、初めてではないけれど。それでも優雅に翼を
広げながら空を飛ぶのは初めて見たから、どうしても目が離せない。一応、ガーデルが飛ぶ姿は見た事はあるけれど。でも、あれは本当に一瞬の事で。それも、遠くへ行ってしまったから。今こうして、俺の目の前にゆっくりと
飛んできてくれたドラスの迫力は、筆舌に尽くし難い衝撃をもって、俺に感動を覚えさせてくれた。俺の隣に居るクロイスも、それは同じみたいだった。クロイスはクロイスで、産まれた時には既に休戦に入っていた関係で、
竜族といえばやっぱりツガぐらいの物なのだろう。とはいえ、そのツガも思わず見ていて固まってしまうくらいに綺麗な竜族だったけれど。
ツガのそれは、艶めかしい部分もあって。でも当人の朗らかな振る舞いがあったから、それも大分弱められていたけれど。それと比べると、このドラスという男は、雄大で、勇ましいという言葉がぴったり当てはまる様な
状態だった。全身が金の鱗に覆われていて、頭部から後方に向けてまっすぐに伸びる二対の角も立派な物で、人型のドラゴンといえばこれ、と想像したらでてくる様な、まさに理想的な竜族の姿をしていた。
「ラヴーワ軍の、クロイス・スケアルガだ」
しばらくそれを見ていた俺は、いい加減に失礼だなと思い直して口を開けようとしたところで。俺を下がらせる様に腕を出して、前に出たクロイスが名を名乗る。それに、俺は思わず顔を上げてしまった。今この状況で、
その自己紹介は決して褒められた行為ではないのは、クロイスにはわかっているだろうに。すっかり見惚れてしまったけれど、相手はランデュス軍の中で隊長を務める男なのだから、その気になれば、この場でクロイスを
手に掛ける事はとても簡単だろう。クロイスもある程度戦えはするだろうけれど、相手は武人の、それも竜族なのだから。
心配する俺を他所に、名乗られたドラスは、少し表情を硬くしたけれど。一度身を起こすと、軽く一礼した。
「本日は、事を構えようというつもりは少なくとも私の方にはありません。クロイス様」
少しだけ、ドラスが俺を見つめてからそう言う。俺の不安気な顔を見て、察してくれたのだろうか。そう言われて、俺は少しほっとするけれど。クロイスの方は、それで引くつもりも無い様だった。
「ゼオロを、どうするのか。それだけをお聞きしたい。返答次第では、此度の件は白紙にさせていただく」
「先に差し上げた、手紙の通りでございます。ヤシュバ様は、この先の緩衝地帯に設けられた天幕の中で、ゼオロ様がいらっしゃるのをお待ちしております。具体的に、ヤシュバ様がゼオロ様とどの様なお話を望まれているのか
までは、私の知るところではありません。申し訳なく思いますが」
僅かに目を細めたクロイスと、ドラスが、黙ったまま見つめ合う。お互いに相手の事を推し計ろうとする気持ちが強いのだろう。俺はそれを長く見つめる事をせずに、クロイスの腕を取る。クロイスが俺へと視線を移したところで、
その腕を下ろさせて。そうして、俺の方がドラスへと近づいた。
「ドラス様。私の方は、準備は整っております。ヤシュバ様がお待ちでおられるのならば、早速、私をお連れになってください」
「ゼオロ」
クロイスが、尚も食い下がろうとするのを、俺は見上げて首を振った。
「連れていけるのは、ゼオロ様だけでございます」
俺達の様子から、更に察した様な事をドラスが口にする。それに頷いて、俺はゆっくりとクロイスの手を離して。その金竜の前に立った。
「待ってくれ。事が済んだら、ゼオロは当然、帰してくれるんだろうな」
「それも、ヤシュバ様次第です」
思わずクロイスが腕を伸ばそうとすると、それよりも先に、俺はドラスに抱え上げられていた。体格からして、俺と、竜族のドラスではまるで違う。片腕で軽々と俺を持ち上げると、そのまま閉じていた翼が広げられて、途端に
強風が吹き荒れる。クロイスのフードもその拍子に取れて、腕を前に出して、自分を襲う風に耐えている様だった。ドラスには、そのつもりは無いのだろう。広げられた翼が広がり切るのと同時に、大地を蹴ると。そのまま俺は
突然の浮遊感に襲われて、思わずドラスの鎧の掴めそうな部分を掴んで目を瞑っていた。
「しっかりと、お掴まりになってください。このまま、ヤシュバ様の下へお連れします」
声が聞こえて、それからおずおずと俺は目を開く。目に映ったのは、小さくなった街の姿だった。フロッセルの街。それが見渡せる程の高度に、既に達していた。慌てて下を見れば、手を伸ばしたクロイスも小さくなっていて。
風は既に止んでいるのか、そのフードが揺れる事もなかった。
充分な高さに到達すると、ドラスが軽く何かを唱える。そうすると。俺とドラスの周りに薄い膜ができて。急に高い所に上がった事と、風の吹き付けに呼吸が苦しかったのが、一瞬にして解消される。
「息苦しくはありませんか」
「大丈夫です」
確認を終えると、ドラスは俺の身体にそっと残った腕も添えて。そのまま移動を始める。目まぐるしい速度で、景色が移り変わりをはじめていた。最初に現れた時の様な、ゆったりとした動きではなく、あっという間に俺は
フロッセルの街から。そうして、クロイスから遠ざかってゆく。それ程の速さだというのに、息苦しさも、被毛を撫でる風の感触もなかったし、ドラスの言葉は俺の耳にきちんと届いていた。これも、魔法に依る物なのだろう。
景色の全てが、小さくて。それなのに、どんどんと近づいては、通り過ぎて、遠ざかってゆく。それはとても不思議な光景だった。鳥が普段は見ているのがこれなのかなと思ったけれど、ドラスが今飛んでいるのは、小鳥では
とても到達できなさそうな高さだったし。さっきフロッセルの街を過ぎたばかりだというのに、少し経てば、また別の街の姿が見えてくる。早い。ただ、ドラスは街の上空を飛ぶ事を避けている様で、少し迂回をしていた。
「あの、ドラス様。これ、下から見えたりは」
今更だけど、かなり高い位置を維持しているとはいえ、翼を広げた金竜はとてつもなく目立つだろうと思って訊ねると、ドラスの笑い声が聞こえる。顔を向ければ、穏やかに、それでも少し子供っぽく笑う竜がそこにいて、
さっきはクロイスが居て、その上で使いとして来たのだからと肩肘張っていただけなのが、なんとなく伝わってくる。
「ご心配なく。余程魔導に長けた者でない限りは、視認できない様に細工をしております。今、ゼオロ様が息苦しくない様にと私が使っている物の効果の一つでございますね。ですが、街の上は、街からもう少し高度な
術が掛けてある場合もありますので、避けてゆきます」
「そうなんですか」
ここにきて、空を飛ぶ事と同時に魔導の威力を見せつけられて、俺は自分の立場も忘れてあちこちに視線を向けては、つい堪能してしまう。こんな高い位置も、本当に自分が翼を持っているかの様に飛ぶのも、初めて
だったし。ヒュリカに掴まって、何度か飛んだ事はあったけれど。それとも、やっぱり違っていた。ヒュリカ一人なら、こんな風に飛ぶ事もできるのだろうか。やっぱり、空が飛べるって羨ましいな。
「ゼオロ様。あまり、動かれてしまうと、危険でございますよ」
「ごめんなさい」
笑い声交じりの注意が飛んできて、我に返って、慌てて俺は謝る。ドラスは気を悪くした様子もなく、再び速度を上げる。こんなに飛ばして、しかも魔法まで使って。疲れないのだろうか。
「それについては、少し助けを借りておりますので。ご心配なく」
訊ねてみると、そう返される。ドラスの様な隊長を務める竜族でも、全てを一度に行うのは難しいのだろうか。かなりの勢いで飛んでいるところも、本当はもっとゆっくり飛ぶ物を急いでいる様にも見えるし。まあ、ゆったりと
飛ばれては、ヤシュバの待つ場所へ行くのに何日も掛かってしまうのだけど。フロッセルの街は、まだラヴーワの中央に近い方だから、大地を行くのは馬でもかなり掛かるだろうし、それを一息に飛んで超えるといっても、
そんなに簡単な事ではないのかも知れない。そんな事を考えている間にも、また次の、今度は宿場が見えて。ドラスの翼はその上を悠々と通過してゆく。
「……本当に。竜族と、それ以外では。何もかも違うのですね」
「そう、思われますか」
だって。こんな風に簡単に上空を舞ってしまうのが、そもそもラヴーワに居る、翼を持たない者達には到底できかねる事だったし。それに、確か獅族門で翼族と対峙していた時に聞いたけれど、一応国境にはこうした
翼を持つ者達が侵入してもわかる様にと軽い結界の様な物が張られているはずだった。ドラスはそれを、まったく何事もなく通ってきたのだろう。手紙一つにあれだけの細工を施せるのだから、それもやっぱり可能なの
だろうけれど。これだけの機動力を持っていて、それでいて身体は他種族よりも丈夫で。魔導にも秀でていて、その関係で寿命も長い。人口がその分少ないそうだけど、なるほど確かにこれだけの物が揃っていれば、
竜族一つで他の全てと対するのは決して無謀という訳ではないし、また事実それが可能だったが故に、今日のランデュスとラヴーワの関係があるのだなと今更の様に俺は理解する。
「あの、ドラス様。先程助けを借りたと仰られていましたけれど。それは、どの様な方に手伝っていただいたのでしょうか」
景色を見ている事にも大分慣れて、そうなると俺はただドラスにしがみ付いている事しかできないから。せっかくだし、ドラスと話をしようと質問をする。それを聞いたドラスは少し考える様な沈黙の後に、また柔らかく
笑っていた。
「不思議な方ですね、ゼオロ様は」
「え?」
「失礼ながら、筆頭魔剣士であるヤシュバ様がお呼びであらせられるのですから。ヤシュバ様の事を訊ねてくるのかと、私は思っていました」
「それは、まあ。この後会う事ができる人ですから」
言われると、確かにそうではあるのだけど。でも、どうせなら俺はこんな細工を事も無げにしてしまった相手の方を知りたかった。謎の多いヤシュバについて訊ねる良い機会であるのは、間違いがないのだろうけれど。
「筆頭補佐である、リュース様でございますよ。今回、この様な形でヤシュバ様とゼオロ様がお会いになるために尽力してくださったのは」
「リュース様」
何度か、名前は聞いた事がある存在だった。けれど、耳に入れた中で一番印象の薄い竜族でもあった。今はもう筆頭魔剣士の座を追われたガーデル。そして、その代わりに新星の如く現れたヤシュバ。有名な竜族の名と
いえば、まずこの二人だろう。それから、その上に君臨している竜神ランデュス。それらと比べると、筆頭補佐のリュースという名前は普段は聞かない物だった。スケアルガの人にとっては、苦い記憶を思い起こさせる相手では
あるのだろうけれど。考えてみれば、俺は筆頭補佐のリュースの事は本当に名前ぐらいしか知らないな。誰も、その名をあまり口にしないからかも知れないけれど。
「どの様な方なのでしょうか。私は、お名前しか知らないのですが」
「そうでございますね……。とても、気難しいお方ですね。ですが、とてもお強い」
「ドラス様は竜の爪の隊長と仰られましたね。えっと、そうなると……」
「竜の爪は、リュース様が団長でございますね。ヤシュバ様が、竜の牙です」
相手にとっては、常識に近い事ではあるけれど。それでもドラスは丁寧に教えてくれる。それで、俺は大分この金竜の事を気に入った。敵国の、それも隊長ではあるのだけど。それでもドラスの言葉の一つ一つには、
嫌味などという物は到底なかったし、自分の本心を包み隠す様な響きも感じられなかった。それから、リュースについて語っている時には笑みを浮かべていて。ドラスがリュースの事を慕っている事が、それだけで
伝わってくる様だった。
「リュース様は、これから向かう所に、いらっしゃるのでしょうか」
「いいえ。リュース様には、そのう。翼が無い物でして。ですから、今回の場には。それに、筆頭魔剣士と筆頭補佐の二人揃って、ランデュス城からも飛び出して、その上緩衝地帯にまで足を伸ばされては。かなり大きな
騒ぎになってしまいますから。ヤシュバ様だけでも、それは大層な苦労が伴いましたが」
「確かに、そうでした」
今俺達が向かっているのは、ランデュスではない。あちらからも、態々出てきたという事になる。それなのに、筆頭魔剣士と筆頭補佐の二人が揃って出てくる訳にもいかないだろう。それにしても今の状況を考えれば、
その片方だけとはいえほとんど軍の頂点に立つ人物と言っても過言ではないヤシュバがやってくるのだから、まったく変な話だった。少なくともドラスの口振りからして、それを充分に承知しているみたいだし。今の筆頭
魔剣士はよっぽど横紙破りな人物なのだろうか。
「竜族には、翼を持っている人と、持っていない人が居るんですよね」
「ええ」
「翼が無いから来られない、と先程仰られたという事は。ヤシュバ様には、翼があるのですね」
「そうでございますね。どうしても、ゼオロ様とお会いしたいと仰られて。ご自分で飛んでこられたのでございます」
迷惑な話だなそれは。そう思ったけれど、俺はできるだけそれを表に出さない様に気を付ける。少なくとも、目の前のドラスは大分常識人みたいだし、俺がドラスに怒っても、どうしようもないだろう。この上はさっさと
ヤシュバと会って、用事があるというのならばそれを済ませて。さっさと帰らなければ。
「まもなくラヴーワを抜けます」
いつの間にか、獅族門と並んで外敵の侵入を阻む、虎族門を抜けていた様だった。本来ならば魔導による細工が施されているから、何かしらの感触を得られたのかも知れないけれど。それも、今俺とドラスを包んでいる
膜が防いでしまった様だった。ドラスに言われて目を向ければ、随分と自然豊かな景色が眼下には広がっていて、街道が一応はあるけれど、既にここはラヴーワから緩衝地帯へと至る部分だから、どちらかと言えば
少数部族などの二国に属さない人達の住処になる。とはいえラヴーワに近い関係で、それらも見る事はなかったけれど。もう少し手前なら、ランデュスに備えたラヴーワの人達の姿が見えたのかも知れなかったなと
思う。帰りは、余裕があれば見ておこう。
緩衝地帯を抜けると、更にドラスは速度を上げる。目まぐるしく流れる景色は、直接風を受けていたら、到底見ていられなかっただろう。
「見えました。あそこで、ヤシュバ様がお待ちです」
ドラスに告げられて、俺は指差された方を見るけれど。生憎俺にそれは見えなかった。視力も多少は違う様で、少しだけ遅れて俺にもそれが見える。平地にぽつんと立っている、天幕。思っていたよりもそれはずっと
質素な物で、とても今話題の、ランデュスの筆頭魔剣士がそこに居る様には思えなかった。それに、その天幕を守っているのも、翼を持った竜族が精々十名といったところだった。
「不用心、なのでしょうか」
「そう見えるかも知れませんね。ですが、それでも余程の事がない限りは、ヤシュバ様お一人でも問題が無い程です。それ程に、あの方のお力は我々とも、まったく別の所にありますから」
「我々とも、ですか」
同じ竜族のはずなのに、ドラスがそう形容するのは、俺には違和感を覚えさせる事だった。思わずそう表現してしまう程に、ヤシュバの力がとんでもないのだろうか。確かに、嫌竜派の爬族の件では、たった一人で爬族の
大群に突撃して全てを一瞬にして屠ってしまったとか。剣の一振りで数十人が消し飛んだとか、根も葉もない噂は聞いた事があるけれど。所詮そんなのは噂だと思っていたので、今更だけどちょっと怖く感じる。
「ですが、ご本人はとても温和な方です。それほど、怖がられる必要は無いと思いますよ」
俺の怯えを察したのか、そうドラスが付け足してくれるけれど。でも嫌竜派の爬族を一掃したのは、そこにどの程度ヤシュバ当人の力が介入したのかはわからないけれど、本当の事なんだよな。それに、翼族の一件
もある。温和だとか、優しいだとか言っても、それは所詮身内に対する物でしかない。いや、それは当たり前の事でもあるのだけど。だって敵同士なんだし。相手が誰であろうとまず話し合いから、なんて暢気な事を
言っていられる様なのが、筆頭魔剣士を務められるはずもないのだから。そんな妄想の産物でしか存在しない平和主義者を今求めても仕方ないだろう。
天幕がある程度近づくと、ドラスは膜の魔法を解除する。途端に、風の音と、俺の被毛が強く撫ぜられる感覚が戻ってくる。同時に、天幕の前に居た竜族の兵が身構えてから、自分達が見つけた相手がドラスである事を
察知したのか、すぐに警戒を解く姿が見られた。ドラスは一度俺をしっかりと抱えている事を確認すると、降下しながら、さっき俺が見惚れていた様に翼を広げきって、そのまま大地へと着地する。そのまま俺は解放されて、
ゆっくりと下ろされると、それほど長い時間ではなかったのに随分と久しぶりに感じる地面を踏む感覚を満喫する。空もいいけれど、やっぱり地に足が着いているって良いな。
「着きました。ゼオロ様、ただいまヤシュバ様にゼオロ様の訪いが告げられているはずです。しばしお待ちください」
その言葉通り、慌てた様子で竜族の兵が天幕へと入っていく様子が見える。それを見ながら、俺はふと、荒い息遣いに気づいて振り返る。さっきまで平気な顔をしていたはずのドラスが、片膝を着いていた。今はその鱗の
合間から汗が出ているのか、金の鱗がてらてらと陽に照らされて余計に輝いて見える。
「大丈夫ですか、ドラス様」
「申し訳ございません。少々、無理が過ぎました。お帰りになるまでには、万全の状態になっております故、どうか、お気になさらず」
どの辺りが、ドラスに大きな負担だったのかは俺にはわからなかったけれど。どうやら隊長であるドラスの力でも、短時間で物凄い速度で飛びながら、魔導を駆使するのは相当な負担が掛かる様だった。そもそも俺の
下まで飛んできて、そのまま休みもなくここまで飛んできたのだから。やっぱり無理があったのだろう。俺を送り届けた後は、ゆっくりしてほしいな。ラヴーワの中では難しいだろうけれど。
「でも」
「これは、私がまだまだ未熟であるが故です。元々、あまり魔導には触れる機会がなかった物でして。おお。今、ヤシュバ様の方もゼオロ様を迎える準備が整った様でございます。さあ、ゼオロ様」
促されて、天幕を見ると。さっき天幕に駆け込んでいった竜族の兵が戻ってきて、そして今は俺の目の前で、ドラスと同じ様に跪いていた。ただ、その瞳はあまり俺を良い感情をもって迎え入れている訳ではない事が、
伝わってくる。当たり前か、俺は、敵国の民なのだから。
「ドラス様。ありがとうございました」
一度ドラスの方を向いてから、俺は丁寧に一礼する。こんな俺の事を、とても丁重に扱ってくれたドラスにできる事は、これぐらいしかないけれど。俺がそうすると、ドラスは僅かに目を細めてから、黙って頷いてくれる。
促されて、俺は天幕へと案内を受ける。その先に居るであろうヤシュバの気迫が、ここからでも伝わってくる様だった。心なしか、天幕を守護する竜族の顔は緊張に包まれている様にも見える。温和だとドラスは言った
けれど、それだけではやっぱり部下に舐められてしまう事もあるから、必要であればまた別の顔を見せる事もできるのだろうかと、ぼんやりと考えて。やがて俺は、天幕へと達する。
「ヤシュバ様。ゼオロ様を、お連れいたしました」
先に立っていた竜族が、そう告げると。少し遅れて、短い返事が戻ってくる。
「二人きりにしてほしい」
「しかし……」
「お前は、俺が他種族に遅れを取ると。そう、思っているのか」
凛とした声が、響く。それで、俺を先導していた竜族はあからさまに身体を震わせて、そうして怯えを滲ませていた。慌てて俺へと一礼してから、その場を立ち去る。革張りの天幕は、中へ入ると、途端に外の無骨な様子とは
違う顔を見せてくれる。大地の上に立てられた物であるというのに、しっかりとした敷物があって。土足で良いのかと迷った挙句、俺はおずおずと靴を脱いでその上に足を乗せる。被毛越しでも、ふわっとした感触がする、
かなり上等な物の様だった。正面には、入ってすぐに奥が見えない様に赤い絹の幕が下げられていて。俺はそこで一度、立ち止まる。
「ゼオロです。筆頭魔剣士であるヤシュバ様の下に、ただいま馳せ参じました」
「そのまま、こちらへ来てくれ。ずっと、待っていた」
息を呑んで、俺は少しの間迷う様にその場に立ち尽くしていた。
この先に、筆頭魔剣士のヤシュバが居る。涙の跡地の中では、最強と謳われている男が。
今更だけど、なんでこんな目に遭っているのだろうか俺。ちょっと前まで、精々が獅族門に入ってちょっとクロイスと話をするだとか、その程度が良い所で。到底、敵国の、それも軍の頂点と言っても過言ではない相手に
今招かれているなんて。そりゃジョウスやクロイスが俺とランデュスが繋がっているのではと疑ったってなんの不思議もないよな。
「……失礼します」
赤い幕に手を掛けて、それをすっと退ける。その中は、それ程広いという訳ではなかった。中央に黒いテーブルがあって、その近くに、とても大きな椅子が向かい合う様に置いてあって。テーブルの上には、口寂しさを
埋めるために簡単に切り揃えられた果物が、手つかずに乗っていて。それと、何かの飲料が入っているであろう容器と。
けれど、それに手を付けるために座る椅子には、今は誰も居なかった。俺が視線を遊ばせると、天幕の隅にとても大きな男が居る事に気づく。男は背を向けていて、そうするとその背にある黒い翼が俺の目に
飛び込んでくる。それから、着ている物も黒っぽくて。
男が、おずおずと振り向いた。その仕草が、なんとなくその姿に似合わないなと、俺は見ていて思う。俺よりも、下手をすれば三倍近い上背があるのに。その振り向き方も、そして振り向いて見えた表情も、なんだか、
自信の無さそうな顔をしていて。けれど、その身体から発せられる迫力は、外に居るドラスを含めた全ての竜族が到底及ばない物を秘めているのが素人目の俺にもわかる。天幕の中、少し薄暗い中であっても。その身体を
覆う黒い鱗の方がずっと暗い印象を受けた。それでもその瞳の猛々しい光が、この男が外見の印象のままの陰鬱な性格ではない事を物語っている様で。まあ、この外見の印象を悪く思うのは、黒にあまり良くない印象を
持っている俺くらいなのだろうけれど。
「本日は、お招きいただき光栄に存じます」
「あ、ああ……」
とりあえず、失礼の無い様にと俺から挨拶をして一礼する。黒い竜は、その角がグレーの色に染まっている以外は、本当に全身が黒だけの様で。なんとなく、烏か何かの様な印象を受けたけれど。それよりも、俺が
名乗っても浮ついた返事しかしないのが、俺には気になっていた。
「どうか、されましたか」
さっさと本題に入りたい俺は、俺よりもずっと背の高い筆頭魔剣士であろうその男を見上げる。少し後に、男ははっとした様だった。それから、男も軽く会釈をする。
「すまない。……俺が、筆頭魔剣士のヤシュバだ」
なんとも歯切れの悪い自己紹介を、その男がする。その男に充分な迫力が無かったら、これは替え玉か何かではないのかと、俺が疑ってしまうかの様な。
俺とヤシュバの顔合わせは、そんな風に、なんとも奇妙な雰囲気の中で始まったのだった。
ぎこちない仕草が、少し滑稽で。けれど、その動きが警戒していた俺の心を和ませてくれた。
筆頭魔剣士のヤシュバは俺を丁重に扱う様に、挨拶を済ませるとまずは椅子に掛ける様にと言い、俺がお言葉に甘えて大きな椅子に頑張って座ると、いそいそと俺を持て成そうとする。そう、持て成そうとはしていた。
「えっと……どうするんだったかな、これは」
そう言って、新しい容器を用意して、そこに飲み物を注ごうとして。不慣れなのか、予め用意されていた品を前に首を傾げている。でっかい竜が。なんだこの光景は。
「ヤシュバ様。それなら、私が」
クロイスの下で持て成されていた関係で、俺はそれをどうすればいいのかわかっていたので、そう告げる。ラヴーワとランデュスで多少勝手は違っていても、こういう品は共通している部分も多いのだし。見た感じ、
これは粉末の茶を淹れる様にまずは容器に粉を入れて、湯を注いで。それから、その中に特別な丸い、飴玉の様な物を入れる飲み物だった。最初は粉が溶けて広がる味が主だけど、その内浮かべた飴玉が溶けて、
その分の味も染みだすから、最後まで飽きずに様々な味を楽しめるとか、小金持ちは好みの味をブレンドした飴玉を用意してそれを披露するだとか、そんな感じの、最近流行っているんだとクロイスが教えてくれた物だった
気がする。俺は、興味が無いから話半分に聞いていただけだったけれど。
「いやいや。俺が招いた客なのだから。どうか、ゼオロ殿は楽にしていてくれれば良い」
そんな事言われても。容器にいきなり飴玉を放り込んで、そのまま手に取って、首を傾げながらカラカラと音を立てさせている時点でまったく期待できそうにないんだけど。この筆頭魔剣士は、どうやら流行にはかなり疎い
様だった。俺もクロイスの影響がなければこういう物の事をまったく知らないし、そもそもそんな物に手を出す懐の余裕もなかったのだから、別にヤシュバを悪く言うつもりもないけれど。俺から教えても良かったけれど、
今懸命にどうにかしようとしているヤシュバの事を考えると、それもしづらい。それはそれで恥を掻かせてしまうのかも知れないし。いやカラカラさせてる時点で駄目だけど。なんかリズミカルになってきてるし音が。
結局その内に諦めたのか、ヤシュバは飴玉を取り出しては替わりに粉末を入れて、そこにお湯を注ぎ。至って普通のお茶の様に振る舞ってくれる。それから飴玉の使い道がわからなかったのか、試しにとそのまま口に
放り込んで強靭な歯と顎で粉砕して、その後に苦い顔をしている。そりゃ、少しずつ溶けてゆくのを味わうための物なんだから、そのまま噛み砕いたら味はかなり濃いだろうな。吐き出す事もできずに、苦い顔を続けたまま、
どうにか飲み込んでいるところまで見送ると。俺は、この筆頭魔剣士には大分威厳という物が欠けているのだなと、勝手な事を思いながら、悪戦苦闘していたせいで半ば湯が冷めかけていたのもあって、まだ粉末の残る
飲み物を一口飲んでから、表情に出す事を堪えてそれをテーブルの上に戻す。頑張った。
「ええと。この度は、俺の招待を受けてくれた事をとても感謝している。一度、会って話がしてみたかったんだ。ゼオロ殿と」
「そうなんですか」
本題に入ろうと、咳払いをしたヤシュバが話をはじめる。ようやくきたと、俺はその顔を見上げる。お互いに椅子に座って向かい合っても、相変わらずヤシュバの顔の位置は高い。身体がでかすぎる。大き目の椅子が若干
悲鳴を上げているのがここに居ても聞こえてくるくらいだ。
「ヤシュバ様。お訊ねしても、よろしいでしょうか」
「ああ、どうぞ」
「ヤシュバ様は、どこで私の事をお知りになられたのでしょうか……? 突然、ランデュスの筆頭魔剣士の方から、お手紙を頂いて。その、こちらとしては、とても混乱してしまって」
言外に、お前のせいで大変な目にあったんだが、という意味を込めてみるけれど。ヤシュバはそんな事よりも俺の言葉を素直に受け止めて、腕を組んでうんうんと頷いている。なんというか、その。ガーデルとは随分
違うんだな、この人は。ガーデルは寧ろ、こういう話を振るとにやりと笑って、それでも誠実な答えを返す事ができる感じだったけれど。
「それはだな、ゼオロ殿が、獅族門に居たという報告を聞いたんだ」
「そうだったんですか。……何故、私をこの様にお呼びに?」
「それは、会いたかったからだな」
「そ、そうですか」
何故会いたかったんだと、訊いたつもりなのだけど。なんだか、大分言葉が通じにくい気がする。あんまりしつこく言うのも失礼かなと、俺は場を紛らわす様にまた飲み物を手に取って、そういえばこれは飲めたもんじゃ
なかったなと戻そうとして、ヤシュバが寂しそうな顔をするものだから慌てて微笑んでから一口飲んで。畜生辛い。なんだこれは。なんとなく、やり難い。なんというか、もっとジョウスとか、あとはガルマみたいな。充分に
齢を重ねて、その分狡猾で、けれど押さえるところは押さえておけば割と攻めても問題無い様なタイプと比べると、この男は大分違っていた。本気でそういう事をしたら、たじろいで。それどころかまっすぐにしょんぼりとした
顔を見せてきそうで。やり難い。とても、やり難い。てっきり俺は、そういう狡猾な男が俺を迎えるのだとばかり思っていたから。嫌竜派の爬族を殲滅して、そうして翼族にも手を下す事を指示した男として想像するヤシュバと、
今目の前に居るヤシュバは、あまりにも掛け離れていて。けれど、最初に天幕に入った時に味わった迫力が、この男が筆頭魔剣士のヤシュバ以外ではない事も俺には充分に伝わっていて。だから、どうしたらいいのか
わからなくなってしまう。さっさと話を進めたいのに。どうして俺を呼んだのかを知って。そうして俺をこの様に呼ぶ事は迷惑だから、金輪際止めてほしいと言って。無事に帰れるのならば帰って。あとはもう、それきりで。
それでいいのに。
「ゼオロ殿。突然の事で、この様に言うと。混乱されるとは思うのだが。ゼオロ殿は、ランデュスに来るつもりはないか」
「は?」
突然の事でと、ヤシュバは態々断ってくれたけれど。唐突に切り出されたその話題に、俺はまったくの素の状態で応えてしまう。口にしてから、大分失礼な返し方をしてしまったなと反省したけれど、正直大目に見て
ほしい。何を考えて今それを口にしたのかが、俺にはさっぱりわからないのだから。それともやっぱり俺が異世界人である事も実は掴んでいて、その上で俺の存在が貴重だからほしいとか、そういう過程の話を全部
すっ飛ばしてその言葉が出たのだろうか。
「俺は、そのう。ぜひとも、そうしてもらいたいのだが。俺はもっと、ゼオロ殿と話がしたいし」
「は、はあ」
そう言って、少し照れた様に俯くヤシュバは。なんというか、今までで出会った誰よりも何を考えているのかがわからなくて。思わず混乱しそうになってしまう。それでも、俺に好意を抱いている、という事だけは辛うじて
わかるのだけど。でも、どうして出会ったばかりだというのに、こんなに好感度が高いのかがわからない。恋愛シミュレーションゲーム状態かよ、と思ったけれど否定できないのが悔しい。割と撃ち落としてきた事実があるので。
「お話は、わかりましたが」
とはいえ、いつまでもこうしている訳にもいかなかった。要は、ただ気になったから俺を呼んだ。それだけみたいだし。だったら、俺の返事は決まっている。
「私は、ラヴーワに生きる者です。そして、銀狼でもあります。ヤシュバ様のお気持ちは、わかりましたが。しかしランデュスに共に参る訳にはゆきません。その様なお話であるのならば、私は帰らせていただきたいのですが」
「えっ……」
ヤシュバが、あからさまに寂しそうな顔をしてくる。なんというか、全然竜っぽくないというか。寧ろ犬っぽいというか。外に居る、ヤシュバの事を尊敬したり、畏敬の念を抱いたりしている人達には悪いけれど。俺には、
ヤシュバという男がよくわからないし、その上でこんな事をされては迷惑だった。
「それから、この様に手紙を出される事も、できればこれきりにして頂きたいのです。ヤシュバ様の純粋なお気持ちは、嬉しく思いますが。あの様な手紙を、筆頭魔剣士であるヤシュバ様から送られた私は、ラヴーワでは
ランデュスと内通しているのかと、その様に疑われて。危うく首を刎ねられかねない思いをしました。あなた様が、私の事を思うのであれば。私に、関わらないでください」
やんわりと言っても、どうにも通じていない様だから。俺はもう我慢する事も止めて言いたい事を言ってしまう。ただ、ヤシュバにはそれは衝撃的な事実だった、のだろうか。俺が疑われて下手したら死んでたと知ると、
あからさまにその顔が驚愕に包まれていた。なんというか自分の立場と、その権力を行使する事がどの様な結果に繋がるのかをまるで理解していない様な、そんな印象を受ける。よくこんな状態で、ガーデルの後釜に
座る事ができたなこの人は。よっぽど、この人の傍に居る筆頭補佐のリュースという男は苦労しているのだろうな。
「お話が、私をランデュスに招きたい。ランデュスの者になってほしい。そういう事であるのならば、私はこれで失礼します。ありがとうございました」
無駄な時間だったな。本当に。でも、良いか悪いかで言えば、悪人という感じはしなかったから。俺がとても迷惑して、だからもう連絡を寄こすなと言えば。それは請け合ってもらえるだろうと思う。帰り際に、ドラスにも
頼み込めば大丈夫だろう。あっちはまだ話のわかる人物に思えたし。
「待ってくれ」
席から立ちあがって、一礼して。さっさと帰ろうとした俺に声が掛けられる。
「まだ、何かお話がおありなのでしょうか」
大慌てで立ち上がったヤシュバは、テーブルに自分の身体をぶつけながら、そんな事はまるで気にしていないかの様に大慌てで俺の下へとやってくる。倒れた容器から、残っていた物が流れて。綺麗な敷物を汚している。
「俺は、お前と一緒に居たい」
「……失礼ですが、私はそうは思いません。あまりにも、全てが突然に過ぎます。あなた様のお気持ちが、私にはまるでわかりません。ヤシュバ様が、私の事を好いてくれていると、それだけはわかるのですが。けれど、
私にはもう、ラヴーワで共に居たいと思う方が沢山居ます。突然にあなた様にその様に言われても、それに頷く訳にはゆきません」
今まで俺が歩いてきたのは、ラヴーワの中だけだったけれど。それでも、沢山の人と会って。そうして、その人達の事が俺は好きだから。好きになってしまったから。だから、突然こんな風に、俺自身を乞われても。俺が
決心するはずがなかったのだった。
そんな事もこの男はわからないのだろうか。まるで、まるで。自分こそが、俺の事を一番に知っていて。そうして、隣に居るのが当たり前だと。そう思っているかの様だった。よく、わからないな。
「失礼します」
また背を向けて、俺は天幕の外へ出ようと。けれど、俺の足が踏み出せたのは、たったの数歩までだった。腕が掴まれて、無理矢理振り向かされる。掴まれた腕が、痛みを覚えて。俺は思わず呻いた。膂力が、まるで
違う。逆らうなんて事はできそうになくて。振り向いた先で見たヤシュバは、目をぎらつかせて、俺を見ていた。
「待ってくれ。話を、聞いてくれ」
「離してください。腕が痛いです。こんな風になさるのが、あなた様のやり方なのですか」
最悪の展開だなと、内心溜め息が出そうになる。そうだよな。その気になれば、俺の事なんて力付くでどうにもでもできるんだよな。やっぱり、ヤシュバという男はそうだったのかと。俺は落胆する。落胆して、その顔を
思い切り睨んでやろうとして。そうしようとした直前に、ヤシュバが口を開けた。
「待ってくれ、ハル」
ヤシュバの言葉に、俺は目を見開いた。逆らおうとして無駄に入れていた手の力が、抜ける。俺が固まったのを確認したヤシュバも、力を弱めて。けれと、俺を解放しようとはしなかった。それよりも。それよりも、今、この
男が口にした言葉が。俺の心を捉えていた。
「俺だ、ハル。わからないのか」
目の前の男の言葉が、俺の耳の中で、何度も何度も跳ね回る様に響き渡る。ハル。聞き間違いじゃなかった。この男は確かに、俺の事をそう呼んだのだった。途端に、ずっとわからなかった謎が、一瞬にして俺の中で
解き明かされてゆく。どうしてこの男が、俺を事を偶々知って。そうして、異常な程の執着を示していたのかを。そして、その正体がなんであるかを。
けれど、俺はそれから、逃れようとした。
「人違いです。私は、そんな名前じゃない。私は、ゼオロです」
「それは、お前が昔よく使っていた名前だろう。だから俺は、ゼオロと聞いて。お前をここまで呼んだんだ。ハル」
駄目だった。わかっていたけれど。目の前の男が、何を確信して何度もそれを口にしていたのか、俺はとっくに理解していたのに。
「……タカヤ……?」
怯える様に、俺はその名前を呟いた。最近では、この世界で銀狼のゼオロとして生き続けているが故に、思い出す事も少なくなっていたその名前を。目の前に居る黒い鱗を持った竜は、静かに頷いた。
「どうして、タカヤが」
なんで。どうして。それを考えながら。気が付けば、俺の両目から、涙が流れ落ちている事に気づく。信じたくなかった。タカヤが、ここに居る事を。
「ハル。俺は、お前が居ない所なんて、嫌だった」
ばつが悪そうな顔をして、ヤシュバが。タカヤが、そう言った。違う。こんなのは、違う。タカヤは、こんな顔をしていない。これは、ヤシュバだ。だから、タカヤじゃない。タカヤなんかじゃ、ない。
「ずっと。ずっと、お前を捜していたんだ。ハル。お前の……ゼオロの名前を聞いて。もしかしたらと思って。でも、やっぱり思った通りだった。お前は、俺の知っているハルだった」
「ちが、う……俺は、ハルじゃない」
「姿が変わって、声が変わっても。俺には、わかるよ。ハル」
俺を絶望に突き落とすかの様に、ヤシュバだった者は、そう言った。信じたくなかった。けれど、信じるしかなかった。どちらにせよ。俺がここに居て。そうして、タカヤもまたここに居る事実には、変わりがないのだから。俺が
どれ程信じたくないと駄々を捏ねても。もう、何もかもが遅かった。
「ハル。改めて言うよ。俺と、一緒に居てほしい。もう、ここにはお前を責める奴は、居ないんだろ。また、昔みたいに」
優しく、タカヤはそう言う。タカヤは、俺が何に苦しんで。そうして、毎日を苦痛に感じていたのか、もうわかっているのだろう。例え大人になって、お互いが頻繁に会う事もなくなって。そうして、あの時。突然の告白から
俺が逃れて。それきり会っていなかったとしても。子供の頃から一緒だったタカヤに、わからないはずがなかった。そうして、この世界まで俺を追ってきて。今、俺の目の前に居て。
「本当に、タカヤなの……?」
無駄な確認だとわかりながらも、俺はそう、呟いてしまう。だって、ここにタカヤが居るって事は。そう考えるだけで、俺は喘いで、また涙が溢れてくる。そんな俺の様子を察したタカヤが、黒い腕を伸ばして俺を抱き留める。
黒い腕、太い腕。硬い鱗に覆われて。それはもう、俺の知っている、俺の頭の中のタカヤの面影などどこにもない姿だった。そして、俺も。元の俺と比べれば。ずっと華奢で、幼くて。そうして互いにもはや、人の顔を
留めてはいなくて。それでも、優しい言葉が。今俺を抱き締める、優しい力が。人間だった頃のタカヤを、俺に思い出させてくれる。ずっと、忘れていた存在を。もう会う事はないのだろうと。何よりも、この世界で生きてゆくのに
あまりにも必死だったから、そんな余裕も無かった俺の中に、鮮やかにそれは甦る。
「俺は。今度こそ、お前を守りたい。あの時、いつも辛そうなお前を見ているのが嫌で。お前に告白したのは、間違いだったんだろう。そのせいで、結局俺はお前を追い詰めて」
「……そうじゃないよ。ただ、俺が。駄目な奴だったから。それだけだよ」
俺がそう返しても、タカヤはただ、黙って俺の身体を包んでくれる。それが、なんとなく心地良くて。けれど、ずっとそうしている訳にもいかない事は、俺にはわかっていて。
「ハル。俺と、一緒に居てほしい」
「……それは、できないよ。タカヤ」
はっきりと、タカヤが震えるのを俺は感じ取る。ゆっくりと見上げれば、タカヤは今にも泣きだしそうな顔をしていた。威厳のある黒竜の顔が、台無しだった。
「どうしてだ。俺が、嫌なのか」
「そんな訳ない。けれど、タカヤ……タカヤは、筆頭魔剣士のヤシュバなんだよね。そして、俺はもう、ラヴーワに居るゼオロだから」
「それがなんなんだ。そんなの、どうでもいいじゃないか」
「どうでも良くない。俺は、ヤシュバとしての、タカヤの行動には、賛成できない」
ヤシュバが、タカヤだとわかってしまえば。当然俺は、それを考えざるを得なかった。嫌竜派の爬族を、翼族を、排除しようとしたのは他ならぬタカヤの意思だというのなら。俺にはもう、翼族にも、爬族にも知り合っていて、
そしてヒュリカは友達にもなっていた。なのに、筆頭魔剣士のヤシュバは、それを悉くその手で握り潰してしまった。そして今。筆頭魔剣士として、ラヴーワと対峙してもいる。
俺がそう告げると。タカヤは僅かに沈黙をして。けれど、すぐに口を開いた。
「そんな事……この世界の事なんて、俺には」
「本気で、言ってるの」
俺は固まって、思わずそう呟いてしまう。束の間、俺の目の前に居るのは、本当にあの、俺の親友だったタカヤなのかと思ってしまう。タカヤは、誰にでも優しくて。だからこそ、誰からも好かれる様な存在だったはず
なのに。そのタカヤから、今はそんな言葉が吐き出されている事に、俺は思わず混乱してしまう。
「それに。どう転んでも、いずれ全てはランデュスの物になる。竜神ランデュスは、それだけの力を持っている。だから、ハル。俺と」
「俺だけを引き取って、ラヴーワを滅ぼすつもりなの。タカヤは」
それを切り出すと、タカヤは。いや、ヤシュバは。目を細めた。そこに居たのは、もう俺の知っている親友の男ではなかった。
「俺と来てくれ。決して、お前に手出しはさせない。例えランデュスの中であっても」
その言葉を聞いて。俺は衝動的に、黒竜の身体を力任せに突き飛ばした。本来ならば、俺とヤシュバの体格差を考えれば、それで何かが起きる訳ではなかった。けれど、ヤシュバはそれで、俺が暴れた事に驚いて。思わず
身を引いた様だった。その隙に、俺は素早く後ろに下がりながらどうにか体勢を立て直す。そうして、ヤシュバを睨みつけた。
「ハル」
目を瞑った。暗闇の中に、今でも鮮明にタカヤの姿を思い出せる。人間だ。人間の姿をして、人間の顔をして。いつも俺に優しくしてくれた。大人になるにつれて、どんどん人との付き合いが上手くいかなくなって、勝手に
一人になって、勝手に人生に絶望している俺に優しく接してくれているタカヤがそこに居てくれた。ずっと、俺を支えてくれた人だった。人が苦手になっても。タカヤだけは、別だった。友達として、大好きだった。あの時までは。
タカヤが、俺に想いを告げるまでは。
瞼を開いた。
そこにはもう、タカヤは居なかった。黒い鱗に覆われた、巨漢の竜族の男が一人居るだけだった。
「本日は、貴重な時間を割いて頂き、ありがとうございました。ヤシュバ様。私は、これにて失礼します」
「待ってくれ、ハル。俺は」
「私には、この地で既に友と呼び合える者が沢山居ます。あなた様のお誘いに、私一人だけが乗って。そうして、助かる訳にはゆかぬのです。何より、あなた様がされた事を考えれば」
「俺は、お前のためにここまで」
お前のために。その言葉が、深く俺の胸に突き刺さった。耳を塞ぎたくなる。どうにか堪えていた涙が、また勝手に溢れてくる。吐き気も微かに、込み上げてくる。
「俺のため……? 俺のために、あんなに沢山殺して。そうして今から、ラヴーワも滅ぼすつもりなの」
段々と自分の心が冷えてくる様な心地になる。途端に、目の前に居るヤシュバが、どうしようもなく鬱陶しいと、俺の心が主張を始める。
「……ふざけんなよお前! そんなの全部、自分のためだろ!」
思い切り捲し立てる。怒鳴りながら、こんな風に怒鳴るなんて自分らしくないなと思ってしまう。普段は決してこんな事しないのに。無闇に怒鳴って、怒りを相手にぶつけても、本当の意味で解決する事は決して多くは
ないだろうと気取っていたけれど。今だけは、そういう訳にもいかなかった。
お前のために。何よりまた、俺自身が。その言葉から、逃れたかったのかも知れなかった。その言葉を今正面から受け止めたら、この場で動けなくなってしまいそうだったから。
息を荒らげて、言いたいだけ言って。それから、俺は背を向ける。ヤシュバが、また俺を呼んだ。
「私は、ゼオロです。ヤシュバ様」
ヤシュバは、俺に突き飛ばされた体勢のまま固まっていた。それへ、俺は一瞥をくれて。それから、懐に持っていた物をその場に放った。手紙の残骸がひらひらと舞いながら、敷物の上へと落ちてゆく。
「……ごめんね、タカヤ。ここまで来てくれたのに。でも、でも……俺のためを思うのなら。俺のために、生きたりしないで」
それだけを言って、入ってきた時と同じ様に幕を退けて俺はその場を後にする。ヤシュバが俺を呼ぶ声が、聞こえていたけれど。もう振り返る事もしなかった。声が変わっても、俺への呼びかけ方は、昔のままだったから。
それ以上聞いていたら、足を止めてしまいそうな自分が嫌だった。
外に出る直前に、涙を乱暴に払って。天幕から出ると、外で控えていたドラスが、驚いた表情で俺を迎えてくれた。
「もう、よろしいのですか」
「はい」
その言葉からして、天幕の中にも、外に音が漏れない魔法が掛けてあった事を理解する。俺の怒鳴り声が聞こえたら、誰かしらが入ってきていただろうし。それから俺は頷く。
「もう、帰ります。申し訳ない事ですが、また送って頂けますか」
「少々お待ちください」
慌てた様子で、今度はドラスが天幕の中へと入ってゆく。ヤシュバに、俺が帰る旨を告げるのだろう。その返答次第では、ここからラヴーワに、クロイスの下に戻る事も難しいのだろうな。
けれど、意外な事にドラスはすぐに出てきてくれて。そうして一礼してから、俺を再び抱え上げて、その場から大空へと舞い上がってくれた。
帰りの空の旅を、俺は来る時と同様に楽しむ事はできなかった。放心状態の俺を、ドラスは心配そうに見つめてくれたけれど。出過ぎた真似をする事を恐れているのか、それ以上は何もせずに黙って送ってくれる。
「ヤシュバ様は、どんなご様子でしたか」
「少し、お気を塞がれてましたが。あまりご様子におかしなところは」
ふと、それが気になって。俺は訊ねてみる。ドラスは露骨に顔を顰めて、けれど俺を睨みつけたりとか、そういう事はせずに俺へと告げてくれる。ヤシュバは、俺に対する態度を、俺以外へ見せるつもりはなかったのだろう。
「タカヤは、どうしてあんな事になってしまったんだろう……」
今はただ、そう思って。俺は呟く。俺と同じ様にこの世界に来たのなら。その中で、ただ俺と再会を果たせたのなら。こんな風にはならなくて済んだのに。どうして、筆頭魔剣士なんかになってしまったのだろうか。
「タカヤ? 失礼ですが、それはどなたの事でしょうか」
その言葉にはっとして、俺は見上げる。戸惑う表情のドラスは、今俺が口にした言葉の意味すら、理解できていない様だった。ああ、そうなのか。この人は、何も知らないのか。何も知らないまま、筆頭魔剣士である
ヤシュバに従わされているのか。
「……いいえ、なんでもありません」
俺が口を閉ざすと、ドラスはあえてそれを聞き出そうともせずに、また黙って。再び俺達の間に沈黙が訪れて、それが送り届けられるまで続くのかと思ったその時だった。不意に、どん、というとても鈍い音がして。俺が
身体を震わせる。ドラスもそれを聞いたのだろう。少し速度を緩めて辺りの様子を窺う。何が起きたのかわかっていない俺とドラスを他所に、それは訪れた。
「空が」
空が、波打っていた。それは俺達の後方から現れて。そうして、俺達をあっさりと抜き去って、彼方へと消えてゆく。初めて俺が肉眼で捉えたそれ。涙の跡地を覆う結界だろうと、理解する。何かしらの力が、その結界に
襲い掛かって、そうして結界が敏感に反応を示したのだった。ドラスが移動を止めて、振り返る。
「ヤシュバ様」
その言葉で、俺は今の現象が、ヤシュバの引き起こした事だと知る。竜族の中において、最強を謳われるヤシュバの力。俺がその場に捨て置いてきてしまったあの男が、身体中から発した力なのだと。それが怒りに
満ちているのか、それとも悲しみに満ちているのか。俺には、わからなかった。
「失礼しました。先を、急ぎましょう」
ドラスは僅かに引き返したそうな様子を見せたけれど。俺が居る事に気づいて、ならば早く送り届けてしまおうと思い直したのか。全速力で空を駆ける。
それから後の事を、俺はよく憶えてはいなかった。ただ、ドラスは俺を丁重に扱って、そのままクロイスの下まで送り返してくれて。ずっと待っていたクロイスは、俺の様子を見て、何をしたんだとドラスを怒鳴りつけて、
謝っているドラスがそこに居たから、クロイスの腕を引いて。ただ、帰りたい。そう告げたところまでは、かろうじて憶えている。
気づけば、自分の部屋に戻ってきていて。堪えていた分の涙が溢れるのに任せて、俺はその場で泣き崩れていた。
どうしてこんな事になってしまったのだろうか。どうして、タカヤは。あんな状態に。けれど、もう戻れなかった。筆頭魔剣士になったあの男は、もう俺の知っていた親友ではなくなって。
そうして。ラヴーワの最大の敵として。眼前に立ちはだかっていた。
扉が開かれる音が聞こえた。
ベッドの上で、上半身を起こしたまま茫然としている俺は。それを聞いて、静かに顔を上げる。薄暗い部屋の入口に、クロイスの姿があった。灯りを付ける事もしない今は、向こう側の部屋と。それから、カーテンの
隙間から僅かに射し込む光だけが、部屋を僅かばかりに照らしてくれていた。俺の様子を窺って、それからクロイスは床へと視線を移して。その後に深い溜め息を吐いていた。
「また、食べなかったのか」
ここからは見えないけれど、クロイスが何を見ているのかを俺は知っていた。部屋から出なくなった俺のために、クロイスが態々毎日持ってきてくれる料理が、冷えて手つかずのままそこに置かれている。
「食べたく、ない。食べられないの」
乾いた口内が気持ち悪くて。けれど、黙ったままという訳にもいかなくて。俺はどうにか、そう返す。
あの日から、筆頭魔剣士のヤシュバに会ってから、三日が過ぎた。フロッセルのジョウスの館に戻ってきてからの俺は、ただ部屋に閉じ籠って。何もしない日々を送っていた。食事も、あの日から喉を通らなくなった。心配
したクロイスが、何か少しでもと持ってきてくれた物を口に入れると。途端に吐き気に襲われて、その場で吐き出して、そのままかろうじて接種していた水まで一緒に嘔吐してしまうものだから、俺が落ち着くまでクロイスは
食べ物を持ち込まない様に決めてくれたけれど。それも二日過ぎて、三日目にもなれば。そういう訳にはいかなくなってくる。食べられる時に食べてくれとクロイスが置いてくれた物を、俺はほんの少し見つめただけで、
あとは触りもしなかった。
いつもなら、それで終わりだった。けれど、今日のクロイスはそれでは終わらなかった。ずかずかと部屋に入り込んできて、ベッドに身を乗り上げると、俺の肩に手を掛ける。
「本当に、食べてないんだな。元々細かったのに、これじゃその内……」
とても。とても、苦しそうにクロイスは言う。対する俺は、それを少し見るだけで。あとはただ視線を遊ばせてから、ベッドの上に。俺が被っているから、その中に俺の足があって。そうして僅かに膨らんでいる毛布の上を
じっと見つめているだけだった。
「何があったんだよ、ゼオロ。いい加減に教えてくれよ」
「一人にさせて」
クロイスには、何も言わないままだった。どうしてヤシュバに会いに行った俺が、こんな状態なのかも。ヤシュバの正体が、なんであるかも。言える訳がなかった。言いたくなかった。ヤシュバは、タカヤで。俺を追って、
ここまでやってきて。そして今、敵として存在して、この世界の全てを破滅に追い込もうとしている様な状態なのだとは。
早く一人にしてほしかった。けれど、やっぱりクロイスはもう、そんなつもりはないのだろう。俺の肩を掴む手の力が強まって、そのままクロイスの方へと引かれると。俺の顎の先に手を当てて。無理矢理に俺の視界を
奪う。厳しい表情をしたクロイスが、そこに居た。そんな風に見つめられるなんて、滅多に無いのに。
「ゼオロから話してくれるまで、俺は待つつもりだった。でも、もう駄目だ。このままじゃ死んじまう。そんなの、見たくない」
「いいよ。もう、それで」
「ゼオロ!」
怒鳴り声が、聞こえる。それもまた、遠く感じる。もう、良かった。それで良かった。目を瞑って、また眠りたい。今はもう、そう思うだけで。だから、一人にさせてほしかった。
けれど、クロイスはもう、いつもの様に部屋から出ていく事はしなかった。
「話してくれ。そうしないなら、俺はずっとここに居る。お前が死ぬなら、俺も一緒に死んでやる」
「駄目だよ、そんな」
ふっと、少しだけ現実に戻されて。それから俺は気づいた。クロイスも、少しやつれている事に。それに気づいた途端に、俺は何度も首を振る。
「放っといて。もう、私の事は忘れて」
「できる訳ないだろ、そんな事」
できるのなら、俺がこの場から立ち去れたら良かった。けれど、既に数日は飲まず食わずの俺は、碌々歩く事もできなくなっていた。力を振り絞れば、それでもどうにか歩けたはずだけど。そんな気力も、今は無かった。気力の
衰えが、そのまま全身に回って。俺か何をするのも阻害して。ただ、起きては目を瞑って、眠る事を繰り返しているだけだった。
クロイスの目を、じっと見つめる。目だけが、ぎらぎらと輝いている様だった。金色の豹の瞳が、俺を苛む様に、けれどそれと同じぐらいに、案ずる様に見ていた。それを見て、俺はおずおずと口を開いた。このままでは、
俺のしている事に、クロイスまで巻き込んでしまうから。だったら、全てを話して。クロイスを遠ざけてしまいたかった。
ぽつり、ぽつりと。俺はクロイスの腕の中で、今までにあった事を伝えはじめる。筆頭魔剣士の正体が、元の世界の、タカヤであった事を。クロイスには元々、ミサナトで俺に告白をしてきた親友が居たという話をしていたから、
クロイスはヤシュバの正体にはかなり驚いた様子を見せていたけれど、それでも混乱にまでは至らず、俺の話を理解してくれる。続けた。タカヤは、ヤシュバとなって。竜族の姿になって、この世界に現れた事。詳細は
わからないけれど、そのヤシュバはランデュスの筆頭魔剣士となって。ずっと俺を捜していた事。だから今回、俺へと手紙を送りつけてきた事。ヤシュバが俺に気づいたのは、俺のこの、ゼオロという名前が。元の世界の
本名ではなく、子供の頃に、ゲームを遊ぶ際などに使っていた名前だという事。幼い頃からの付き合いであるが故に、ヤシュバはそれを憶えていた事。だから獅族門の一件で俺に目を付けたという事。
そして、そして。
「俺のためにこうしてきたって」
この言葉を告げた時、最初クロイスは、だからなんだという表情をしていた。けれど、俺にとってはそれは、破滅と同じ意味が含まれていた。
俺がここに居るから、ヤシュバもまたこの世界に居て。俺から始まった出来事が、今この涙の跡地を散々に引っ掻き回していた。嫌竜派の爬族は殺されて、翼族もまた大人数が洗脳を受けて廃人になって。そうして今度は、
それらを経たせいでラヴーワとランデュスがぶつかり合う。
「俺が、居なければ。こんな事にならなかった」
気づきたくなかった。だからあの時、ヤシュバにそれを言われて。俺は怒鳴りつけて、その場を後にした。でも、部屋に戻って一人になると、もう駄目だった。この世界に来てからの事が、津波の様に俺へと押し寄せて、
そのまま押し潰そうとしてくる。
「でも。それは、ヤシュバが勝手にやった事だろう」
クロイスは顔を顰めながら、それでもそう言ってくれた。それは、正しい意見だった。正しかった、けれど。俺が居なければ起きなかった事実である事には、変わりが無かった。
「それに、例えヤシュバが居なくても。所詮休戦は休戦だ。例えガーデルがまだ筆頭魔剣士を続けていたとしても、いずれは起きていた。ゼオロが悪い訳じゃない」
「本当に、そう思うの? もっと後だったら、それまでにクロイスは、自分の夢のためにもっと準備ができたのに?」
俺の言葉に、クロイスが言葉を詰まらせる。今のクロイスは、まだまだ若い。もっと経験を積まないといけない。筆頭魔剣士がガーデルのままだったら、少なくともあと数年は、休戦は続いていただろう。それを見越して、
ジョウスもまたクロイスに視察を命じたのだから。軍の中で下積みを重ねて、クロイスは徐々に頭角を現すはずだった。夢を掲げても、それだけではなんにもならないと。そのために軍の中で、己の居場所を確保して、
その地盤を固めて。それでも尚、休戦のままだったならば、クロイスは自分の意思でラブーワとランデュスの和平の道を探る事だってできたはずだ。それが上手く行くかは別として。それでも、その道を探って、それに
賭ける事ができた。なのに、それを台無しにしたのは俺だった。俺が来た事で、同時にこの世界にやってきた、ヤシュバだった。この世界に現れて、まだ一年と経っていないというのに。ヤシュバはガーデルの
代わりに筆頭魔剣士となって、全てを残虐な手段で捻じ伏せて。仮初とはいえ、少なくとももうしばらくはこの世界に生きる人が送るはずだった平和な日々を、散々に壊してしまった。俺が現れた事で、クロイスは夢を
叶えるための道を一つ失ってしまった。応援したい。手伝いたい。そのはずだった俺が、何よりもクロイスの邪魔をしていたのだった。
そこから先は、もう俺は自分の考えを止める事ができなかった。俺はヒュリカに、なんて言ったのだろう。頑張って、だってさ。俺が来た事で、翼族は壊滅的な被害を被ったのに。少なくともガーデルは、ヤシュバとは
違って爬族や翼族にはそれなりに接していたはずだ。なのに俺が来たから、ヤシュバの手が伸びて。そんなヒュリカに、俺はまるで、自分がヒュリカを助けられたみたいな顔をして。俺は。
止まらなかった。止められそうになかった。一度そう考えてしまえば、俺はもう、自分の思考を止められない。全部が全部、俺のせいじゃない事はわかっている。わかっていたけれど。でも、俺がここに存在しなければ、
起こらなかったのもまた事実だったから。いずれラヴーワとランデュスが再びぶつかり合うにせよ、もっと違った形を辿っていたのかも知れないし、もしかしたら、そうはならなかったのかも知れない。たらればを語っても
仕方ないのに。もしかしたら。そう思うだけで、俺は叫び声を上げたくなってしまう。
爬族が、翼族が、沢山死んでしまった。避けられたかも知れないぶつかり合いで、これからも沢山の人が死ぬ。クロイスの夢を、壊してしまった。ヒュリカの家族も、故郷も、滅茶苦茶にしてしまった。
「いい加減にしろ」
ぶつぶつと呟いていた俺の頬が、叩かれて。クロイスが俺を見ていた。だけど、その表情は、なんとも言えない顔をしていた。わかっているんだ、クロイスだって。俺が居なければって。
「そうだとしても……そうだとしても! ゼオロはただ、懸命に生きていただけじゃないか! ヤシュバが悪いのを、自分のせいにするな」
ああ。この期に及んで。クロイスは俺を助けてくれようとしている。自分の夢が、ともすれば潰えてしまうのかも知れないのに。怒りを露わにして、俺を責めたてたって、至極当然の事なのに。
「ハンスさんは?」
ヤシュバのせいにするなと、クロイスは言ってくれる。けれど、俺にはまだ残っている事があった。ヤシュバは関係無くて。そうして、やっぱり俺がここに居なければ、不幸にならなかった人の名前が、自然と浮かんできて、
俺はそれを口にしてしまう。それには、クロイスは流石に反論できなかった。俺が居たから。異世界人として、この世界に現れてしまったからハンスは関係を疑われて、今姿を晦まして、そうして息を潜めている。魔導が
好きで、魔導の才の無い俺にはあまり教職に就いている自分の事をハンスは話したがらなかったけれど。でも、いつも穏やかに微笑んでいたハンスが、自分の仕事を好きでいた事を、一緒に暮らしていた俺は知っていた。
俺さえ居なければ。また、それが浮かんでくる。俺さえ居なければ、ハンスはこんな事にはならなくて。それで、やっぱり、ヤシュバもまたこの世界に存在しない事になって。ああ、だから。全部が。
全部が、俺のせいだったのだと。
「ごめんなさい、クロイス」
いつの間にか流れていた涙も、もうどうでも良かった。今の俺にできるのは、ただ謝る事しかなかった。目の前に居るクロイスに、まずは謝らなくてはならなかった。手伝うと言った癖に。役に立ちたいと思っていたのに、
実際に俺がしたのは、できたのは、なんなんだ。クロイスの夢の邪魔をして。こんな所まで付いてきて。ジョウスに自分を身の安全を保障してもらうために、クロイスを人質に取る様な真似をして。なんだよそれ、俺は、
何をしているんだ。邪魔しかしていないじゃないか。何をしていたんだろう。俺は。
俺が不幸にしてしまったのだった。皆は俺に、優しくしてくれたのに。ハンスも、ヒュリカも、クロイスも。
それから、ハゼンを。ハゼンだって、そうじゃないか。ハゼンは俺を利用して、俺はハゼンを、ガルマの下へ導いて。でも、あれが無ければ、ハゼンはまだ生きていたかも知れなかった。俺が、殺してしまった。
俺さえ居なければ、死ななかった。ハゼンは。名前も知らない、爬族も、翼族も。そして、これからもまた死ぬ人が増えてゆく。
「ごめんなさい……」
どうして、こうなってしまったのだろう。俺がこの世界で生きている事が、ただただ間違いだったのだろうか。俺が、人間のままだったら良かった。この世界に来なければ。俺だけが、我慢していれば。そうすれば、
少なくとも今の様な状態にはならなかった。俺一人がそうするだけで、もっと生きていられた人が、沢山居たのに。
少しずつだけど、前向きになれる気がしていた。自分の事をほんの少しだけ誇る事ができて。自分に接してくれる人のために、何かをしてあげたくて。そうなれると思っていたのに、現実はそうじゃなかった。俺さえ
居なければ、この世界に来なければ。皆はもっと、幸せだったんだ。俺がもっと、まともな人間だったら。俺はここに来なかった。人間のまま生き続けて。両親からも、良い息子だと見られて。モテたりはしないかも知れない
けれど。その内に良い人を見つける事もできたかも知れなくて。そして、タカヤも。タカヤも、ここには来なかったのに。俺さえ、普通の人間として、普通に生きていられたら。それで全てが、丸く収まったのに。
弱弱しく、手を上げて。俺はクロイスの胸を懸命に押した。一人にしてほしかった。一人になりたかった。死にたい訳じゃない。ただ、消えてしまいたかった。このまま目を瞑って、俺の意識が途絶えたら。俺なんかどこにも
居なくなって。それから、それから。皆が俺の事を忘れてしまえば良かったのに。この部屋には、クロイスの知り合いか何かがこの間まで居て。でも、そいつはもう出ていって。それからはもう誰も使ってなくて。俺に優しく
してくれた人も、俺を憎んでいた人も、皆俺の事を忘れて。俺の意識も、無くなってくれれば良かった。それができないのなら、一層、頭がおかしくなってしまえば良かったのに。不思議と、そうはならなかった。人間だった
頃も、そうだったけれど。どんなに辛くて、泣いていても。俺の意識はそのままだった。何もかもが変わって、今ここに、ゼオロとして存在していても。それだけは変わらなかった。
「ゼオロ」
クロイスが、俺を呼ぶ。薄れて、そのまま消えてしまいたかった俺の意識を、現実へと引き戻すかの様に。どうしてなんだろう。どうして、そんな事してくれるんだろう。俺の事なんて、嫌いになっても不思議じゃないのに、
こんなに面倒臭い考え方の奴なんて、殴り飛ばして、その辺に捨てて。そのまま忘れてしまいたいだろうに。俺が全ての引き金で、災厄の元凶だったのだと、公表して。そのまま死刑にでもしてくれれば良いのに。
まだ俺の事を見つめ続けてくれているクロイスに、俺はおずおずと顔を上げて。そのまま、ゆっくりとクロイスの口に、自分の口を合わせる。突然の事に、クロイスの身体が跳ね上がっていた。
「……もう、いいよ。クロイス」
俺からの接触に、クロイスが困惑した様に身を引く。いつものクロイスだったら、俺がこんな事をしたら、そのまま離れるなんて事はしなかっただろうに。
「沢山、迷惑を掛けてしまったから。もう、いいよ。俺の身体、好きにしていい。こんな、こんな俺じゃ……嫌かも知れないけれど。もう、我慢しなくていいよ」
ジョウスには、悪いけれど。俺にできる謝罪なんて、もうこれぐらいしかない。クロイスはずっと、そうしたかったのだから。クロイスには本当に、迷惑を掛けてしまったのだから、もう良いだろう。一回や二回、そうしたところで
返しきれない程に、クロイスは俺の事をいつも気に掛けて、接してくれたのに。今に至るまで、俺は何一つ返してなかったんだよな。本当に、酷い。ここに残るために、人質として利用までした癖に。
「ゼオロ。俺は……違う。俺は、俺は」
クロイスの手が、俺の肩に掛かって。軽く押されるだけで、俺は逆らう事もなく、どの道逆らう力もなく、倒れてしまう。クロイスが覆い被さって、俺を見下ろす。
「俺は、こんな事がしたいんじゃない。俺がお前を好きな様に。お前を、振り向かせて。全部、それからだ。それからなんだよ、ゼオロ」
「嘘つき」
膝を、少し持ち上げた。上げた膝が、俺に跨っているクロイスへと触れる。短い呻き声が聞こえた。服越しでも、わかる。こんな時でも、クロイスの身体が反応をしているのが。男として、俺に欲情しているのが。ずっと、
我慢していたんだな。そう思うと、こんな時なのに少しだけ嬉しい。まだ俺の事を、欲しがってくれる事が。もう、とっくに嫌われていても不思議じゃないのに。それでも尚、自制しようと努めているクロイスの姿も。
「ずっと我慢させて、ごめんね。クロイスは、ずっと俺にどうしたいのか。俺とどうありたいのか。はっきりと伝えてくれていたのに。俺が曖昧な事ばかり言って、逃げていたから」
クロイスの手が、少しずつ伸びてくる。服越しに、俺の腹に触れて。温かいなと思う。何日も飲まず食わずだったから、力の籠った誰かに触れられる事が、ただそれだけで新鮮に感じられる。
けれど、そこでクロイスは手を引いて。そのまま俺の膝からの刺激も避けるかの様に、身体を勢い良く上げた。あの時と同じだなと、ぼんやりと考える。ミサナトの時と。あの時は、俺が下がらせようとして、そうさせたのに。
「やっぱり、駄目だ。ゼオロ。俺は、お前に元気になってほしい。今のお前に手を出したら。俺は……そんな事も、忘れてしまいそうで怖い」
「そう」
クロイスが何もしないならと、俺は目を瞑る。そのまま寝てしまおうと。クロイスが、おずおずと俺の名前を呼んでくれる。
「……私は、どうしたら良かったのかな」
何度目かに名前を呼ばれた時、俺はただ、それを呟いた。クロイスが何かを言っていて、けれどそれを理解するよりも、睡魔が俺を包み込んで。一時の闇の中に引きずり込んでくれる。あと何度、これを繰り返すのだろう。
次の日、だろうか。時間の感覚もよくわからなくなった頃。俺の部屋の扉が、また開かれた。
クロイス。そう思って、俺はもう顔を上げなかった。
「ゼオロさん」
別の声が聞こえて。俺は一瞬だけ我を忘れて。今までゆっくりとした動き方しかできなかったのに、顔を跳ね上げる。視線の先に、背の高い男が居た。クロイスではない。猫族ではなくて、犬族の男がそこに居た。俺が
初めてこの世界に現れた時に、現れたスケアルガ学園で教師を務めていて。そのまま俺の事を預かって、何くれとなく面倒を見てくれたハンスが、俺の前に居た。
「ハンスさん」
幻覚でも見ているのかと思った。どうしてここにハンスが居るのか、わからなくて。でも、わからなくても良かった。次に俺は、ただ謝った。例え他の事が、どれだけ俺のせいではないと言い繕う事ができたとしても、ハンスの
事だけは、そうはならなかったから。ヤシュバを介する事もなく、俺が迷惑を掛けてしまった人だったから。
「しっかりしなさい。こんなに、痩せてしまって。元々痩せていた方だったのに」
部屋の椅子を借りて、ハンスが俺のベッドの横に座って、俺をじっと見ている。ちょっとくすんだ白い犬の穏やかな目が、俺を捉えている。そうさせるのも、今は辛かった。お前のせいで酷い目に遭ったと言ってくれれば、
まだ良かったのに。そうする事もなく、ハンスは寧ろ俺の心配をする様子だったから。
「どうして、ハンスさんがここに」
だから俺も、謝るばかりではなく、ハンスの事を知ろうと思った。少なくとも俺の目の前に居る、久しぶりに見たその男は、幻でもなんでもなかったから。
「私は今、ジョウスの手伝いをしていましてね。まあ、ミサナトに残り続けるのは少々危険でしたし。今の情勢を考えたら、その手伝いをするのも悪くはないかと思って。だから、本当はあなたの傍近くに居たのですよ。あまり
目立つ訳にはいかなかったから、それでも隠れていましたけれど。クロイスに、お願いされましてね」
どうやらクロイスは、ハンスがジョウスの下に居る事を知っていた様だった。俺が自分を責めてばかりいるから、それを口にする事はしなかったみたいだけど。
「あなたはファウナックに行って、その後ミサナトに戻ってきたのでしたね。その辺りも、窺いましたよ。あまり何も知らない様では、あなたの話に付いてゆく事もできはしないからと」
「ハンスさん。迷惑ばかり掛けてしまって、申し訳ないです」
「そんな事は」
「いえ。私は、特にハンスさんには、謝らなければと。ハンスさんは、身寄りもない私に親切にしてくれたのに。私は何もできなくて」
「あなたは、変わりませんね。そういうところは少しも。変わらないから、今そんな風になってしまっているのかも知れませんが」
ふう、と溜め息を一つ吐いて。ハンスが曖昧に笑う。怒っていない事だけを確認して。それでも、そんな事でハンスに与えてしまった苦労と面倒は、少しも揺るぎはしない事を、俺は理解していた。
「あなたに言った言葉を、憶えていますか。ゼオロさん」
「私に……?」
「誰かに迷惑を掛けるのは、当たり前の事だと。生きてゆくのは、誰かに迷惑を掛けてしまう事と同じであると。だから、自分も誰かに迷惑を掛けられる様になって、支えてあげられる様になれと。私は、そう言いました」
色んな事を言われたから、どれの事かと考えていると。ハンスが、そう言ってくれる。それは今の俺には、とても重い言葉だった。
ハンスのその考えは、理想的な物だと思う。生きてゆく上で、誰にも迷惑を掛けない生き方なんて、できはしない。それこそ、霞を食べる仙人の様な存在以外では、ありえない生き方であると言わざるを得なかった。自然の
中で逞しく生きても、結局は自分以外の命を食らって、迷惑を掛けて生きるしかないのだから。誰にも迷惑を掛けない生き方なんて物は、どこにも無いのだと。ハンスはそう言いたいのだろう。
「ですが。それも……あの時と、同じです。私は、他人に散々迷惑を掛けているのに。その分相手を支える事が、できそうにありません」
あまりにも多くの物に、俺が影響与えてしまった事は確かだった。そして、死んでしまった人が居る事も。死んでしまった相手には、もう何もできない。
「あなたは、不思議な人ですね。ゼオロさん。あなたは他人のしている事になら、とても冷静に物事を見ていられるのに。そして、必要以上に責め立てる事もしないのに。それが、自分の事となると。途端にそうして、
全部自分が悪いのだと。そういう風になってしまう」
「それは」
だって、事実だった。俺がまともな人間じゃなかったから、色んなところが狂ってしまった。そもそもの始まりからして、そうなのだから。
「全部、私が」
「いい加減になさい」
頬を、軽く叩かれる。痛みはなくて。でも、ハンスに手を出された事が、なんとなく変な感じがして。俺はただ、ハンスをじっと見つめていた。
「あなたのそれは、ともすれば傲慢な考え方ですよ。全部が自分のせいだ、などと。私は、ヤシュバの事も聞いていますが。それだってあなたのせいとは言い切れない。勿論、まったく、何一つとして、あなたのせいで
ないとは言いません。しかし、大半はそのヤシュバが自分でしでかした事です。そしてまた、ヤシュバが全て悪い訳でもない。竜神ランデュスという存在が、そこには居るのですから。ヤシュバの独断で全てが動く訳でも
ありません。そして、ヤシュバがそうしようとしたところで、誰も付いてこようとしないのならば。結局ヤシュバ個人にできる事は、そこまで大きな事ではありません。無論、彼は私達とは、まったく桁違いの強さを持っているのは
確かなのでしょうが。それでも、ヤシュバに付き従う者達が居て。その者達もまた、そうする事を肯定して動いたのです。あなたはもっと、それを知って。いや、知ってはいるのでしょうけれども。それを受け止めるべきです。
あなたはこの期に及んで、こんなに大きな事態を前にして。たった一人の悪人を捜す事に夢中で。そうして、それは自分だと思い込もうとしている。いい加減にしなさい。そんな事をして、何か意味はあるのですか。そんなに
何もかも自分のせいにする事は、心地良いのですか」
「でも」
でも。俺が居なければ。俺さえ、居なければ。
「あなたはそのつもりで、行動していたのですか。今の様になればいいと、そう思っていたのですか」
「……違います。私は、ただ」
この世界では、前の時とは違う様になりたいと。自分に親切にしてくれる人に、自分もまた、親切にしたいと。それから、それから。
「あなたはただ、生きようとしていただけでしょう。その時、その時に自分ができる事を考えて。あなたはただ、そうしていただけではありませんか。ミサナトで、ヒュリカを助けて、クロイスを庇って。それから、ファウナックへと
旅立って。生きようとしてした事が、また新しい物事を呼んで。それでもあなたはただ、生きようとしていただけです。あなたに非が無かったとは、言いません。生きてゆく上で、そういう形に陥ってしまう事は、往々にして
よくある事です。ですが、だからといってあなたが今、そんな状態になる必要はどこにもありません」
とても、当たり前の事をハンスは言っていた。クロイスもそれに近い事は言っていたけれど、取り乱していた俺の耳に、それは届かなくて。でも、今は。誰でも弁えていそうな事を、今更。それが俺の心に染み渡るのを、
俺自身が感じてしまうのは。俺が、そんな事すらわからなくなっていたからなのだろうか。
「あなたは、聞き分けの良い方だと思っていましたが。それは撤回しましょう。あなたは、とても我儘なんですね。何かがあった時に、自分の方が悪かったのではないかと。そう思わずには居られない。どうせ我儘になるのなら、
もっと自分が楽しめる様な我儘を言いなさい。あなたには、そのくらいが丁度良いと思いますよ」
黙ったまま、俺はハンスの言葉を聞き続けていた。なんというか、ハンスの前だと、クロイスの時の様に錯乱できない自分が居る。俺が直接的に被害を与えてしまった相手でもあるし、同時に俺が取り乱してみせても、
ハンスはまったく動じずに。俺の駄目なところはきちんと言って、必要なら手も出して。すぐに正気に戻してくれるからだろうか。
「……ハンスさんは。私の事、怒っていませんか?」
「怒っていますよ。せっかくあなたを匿ったというのに、今こんな姿を見せられてはね。それこそ私のした事が無駄になってしまった気分ですよ」
「それは、怒るところが違うと思うのですが」
なんだろう。ミサナトに居た頃と、今のハンスはちょっと違う様な気がしてしまう。教職を追われたが故に、ハンスの考え方も多少は変化を見せたのかも知れなかった。ミサナトに居た時のハンスは、どちらかと言えば
俺の意思をとにかく尊重してくれて。それから、いつも見守ってくれる様な姿勢を取っていたけれど。今のハンスは、それとも違う。優しさだけは、そのままだったけれど。
「異世界人であるあなたを引き受けた事。そうして、この様な結果を招いた事。それについては、特に私から言う事はありません。どちらかと言えば、あなたが無事で……いや、今のあなたはとても無事ではありませんが。
あなたが捕まる事もなくここに居る事は、嬉しく思っています。だから、もういいでしょう? 私が怒っていないのだから、それについてあなたがそんな顔をする必要は、もうありませんよ。それに、ほら。そろそろその考え方を
改めないと。あれも限界の様ですし」
そう言って、ハンスが扉へと視線を向ける。そうすると、ゆっくりと扉が開いて。そこには、俺が最初に予想していたクロイスが居て。俺の事を心配そうに見つめていた。
「本当は、私はあなたに会うつもりはありませんでした。あなたの性格を考えたら、私が出ていったら、きっと余計に自分を責めてしまうと思いましたし。それに、私はやはりあなたを匿った事で目を付けられてもいます。
ジョウスの下に身を寄せていますが、私がそうしているというのは、本当にごく一部の者にしか知られていませんでしたし。……まさか、クロイスに土下座までされてお願いされるとは、思いませんでしたけれど」
「クロイス」
そこまでしたのかと、俺は思わずその名前を呼んでしまう。ばつが悪そうな顔をしながら、それでもクロイスはつかつかと室内に足を踏み入れて、そのまま俺のベッドの隣までやってきて。跪くと、俺の左手を取ってくれる。
「できれば、こうしたくはなかったけれど。俺じゃ、ハンスみたいに上手く言えないと思ったから。少しは、落ち着いた?」
「うん。大分……取り乱してばかりで、ごめんなさい」
「それはもういい。これ以上謝られると、俺がどうかなりそうだわ」
そんなに謝ったっけと、思ってしまう。ああでも、ハンスにも既に何度も謝った後だった。それぐらいしか、俺にできる事はもうないのだと。そう思っていたから。
「ゼオロ。俺は、お前がどうしてそんなに自分を追い詰めているのか。少しはわかっているつもりだけど……。その上で、こう言ったら。また考え込んでしまうかも知れないけれど」
細い銀の手を、クロイスの両手が包んでくれる。怯えて、手を引きそうになった。そうするのは許さないと言いたげに、少しだけクロイスの力が強くなる。
「それでも俺は、お前に居てほしいよ。ゼオロに、生きていてほしい」
口を開けて、咄嗟に俺は何かを言おうとして。けれど、何も出てこなかった。怖いと思った。クロイスや、ハンスが俺を認めてくれても。そうは思わない人も、きっとどこかには居るはずだから。俺から始まったのだという
事実を知ったら、二人の様には思わない人も居る事が、わかっていたから。
それでも、少なくともこの二人は、そうではないと教えてくれたから。俺は、おずおずと言葉を。言うのは簡単なはずなのに、ずっと言えなかった事を、口にしようとする。
「私は、ここで生きていても、良いのですか」
ずっと、ここで生き残るために我武者羅にやってきた。自分が好きになった人のために、自分が何かをするためにも。まず自分が生きなければならないと、そう思って。けれど、ヤシュバの事があって、それも揺らいで。俺さえ
居なければと、何度も何度も思って。そんな俺に、迷惑を掛けられた側なのに。居てほしいと、目の前にいる人は言ってくれて。
「当たり前じゃないですか。そんな事は、悩む必要も無い事なのですよ」
ハンスが、優しく笑って言う。それから、クロイスは。クロイスは、無言のまま。にこりと笑って。たったそれだけだった。それだけなのに、嫌っていう程、伝わってくる。それを見たら、もう限界だった。あっという間に視界が
滲んで、嗚咽を漏らしながら、俺は涙が流れるのに任せて、その場で泣き続ける。ゆっくりとクロイスが俺を抱き寄せて、それだけじゃ足りなくて、俺の方から豹の身体に縋りついた。
人間だった頃から、今まで生きてきて。こんな風に泣いた事なんて、あったのだろうかと思う。嬉しくて、俺は泣いているのだった。自分の事を受け入れてくれる相手が居る事が、申し訳なくて。けれど、それよりも更にずっと、
嬉しいと思ってしまって。悲しい気持ちで泣く事が、あまりにも多かったから。嬉しくて泣く事なんて、自分にはありえない事なのだと、どこかで思っていたのかも知れなかった。
頬をクロイスの胸に寄せて、泣いている俺に。上から雫が降りかかる。嬉しくて泣いているのは、俺だけじゃなくて。だから今は、遠慮なく口元を緩ませられる。
笑いながら、泣く事ができるのだった。
ベッドの上で、俺は白い目をクロイスに向けていた。とうのクロイスは、満面の笑みで、スプーンに乗せた御粥っぽい食べ物を俺に差し出している。
「ほら、もう熱くないから」
「自分で食べられるんだけど」
「駄目だよ。俺はきちんと、ゼオロが食べるところを見て。少しでもゼオロが良くなるところを見届けないといけないんだからな」
「だったら私が食べてるのを見てるだけでいいよね」
「それじゃ面白くないじゃん?」
本音はそっちじゃねえかと言いたくなる。けれど、我慢して俺は口を開けた。お腹空いてるし。そうすると、途端にクロイスは真剣な顔をして、慎重にスプーンを俺の口内へ。開けられた狼の口の中へと進ませてゆく。マズルが
長い俺にこうして食べさせるのは、結構難しいらしい。手前過ぎると、下手したら落ちるし。かといってそれを気にし過ぎて奥に入れすぎると、喉に痞える感じがしてえずいてしまうし。だから自分で食べたいのに、よくわからない
クロイスの拘りが炸裂している。人間の口だったらその辺りは楽なのにな。
程無くして上手く俺が食べられると、それを舌で転がす。噛まなくても崩れてくれるので、しばらく断食の様な状態にあった俺には胃に優しくて助かる。味はほとんどしないけれど。
「少しずつ慣らしていかないとな。いきなり食べると、下手したら吐くかも知れないし」
そう言って次の一口を用意しようとするのへ、俺が手を伸ばすと、鮮やかに避けられてしまう。溜め息を吐いてから、仕方なくとまた口を開けようとした頃に、部屋の扉がノックされて俺の食事が中断される。クロイスが俺の
手の届かない机の上に御粥を置いてから、来客を迎えようとするのを恨めしそうに俺は見つめて。けれどクロイスがその客を迎えて僅かに驚きの声を上げたから、俺もそれどころではなくなった。扉の先に居たのは、
クロイスの父であるジョウス・スケアルガだったから。俺は思わず居住まいを正してしまう。ベッドの上だけど。
「お身体の調子は如何でしょうか。ゼオロ殿」
「……はい。申し訳ございません、ジョウス様。ご迷惑をお掛けして」
「いえいえ。構いませんよ。寧ろ、あなたの事情を考えれば。致し方ない面もあるのは否めない」
俺が落ち着いたのを見計らってから、多少遅れてしまったけれど、ジョウスには俺とヤシュバの事は素直に伝えていた。というよりも、まずジョウスからの疑いを解かない事には、俺はここに居る事はできないの
だから。どれだけそれが嫌で、そうしてその結果によってはやっぱりここに居られない事になるのかも知れなくても、伝えない訳にはいかなかったのだった。誤魔化すのも、相手がジョウスとなると難しいし。ただ、意外にも
ジョウスは俺の説明を受けて、頷いた後はそれ程しつこく何かを訊ねる事もなかった。
ただ、一つだけ。
「あなたはラヴーワに付き、そうしてランデュスに付いたそのご友人の成れの果てであるヤシュバを、敵と見る事はできるのですね」
そう訊いてきたのだった。俺は、静かに頷いた。勿論、敵と見做したからと言って、直接俺がどうこうする訳ではない。そもそも俺は厳密には軍に所属している訳でもなければ、その様な腕を持ってもいない。ジョウスが
聞きたいのは、俺の心構えと。それから、ランデュスとはやはり繋がってはおらず、今回の一件は国同士の話を抜きにして、ただ俺の友人が、俺に接触を図った事であるのを明白にしたかったのだろう。それさえ済めば、
あとはジョウスは俺に対する興味を失くしたかの様に。何も言う事はなかった。それが今、改めてやってきたのだから、思わず俺が身構えてしまうのも仕方ないと思ってほしかった。クロイスもジョウスが来る事を
知らされてはいなかったのか、姿勢を正しながらもその表情は険しさを覗かせている。
「親父。何か、用があるのか」
「そう、邪険にするものではないと思うがな。困った息子だ。私より、ゼオロ殿を取ってしまうのだから」
そう言ってから、鋭い目でジョウスが俺を見つめる。まだ骨抜きにしていない、はず。でも一回誘惑してしまった。俺は曖昧に微笑んで、とりあえずまだ大丈夫ですよと必死に伝えてみる。そうすると、ジョウスが溜め息を
吐いていた。
「まあ、互いに好いているのならば、構わんが。……そう、そんな事を話している場合ではなかったな。どうやら、程無くしてランデュスとの休戦は終える事になりそうだ。もっとも、充分に予期していた事であるし、寧ろ
遅すぎるというくらいだがな」
ジョウスの言葉に、にわかに俺とクロイスは目を見開く。ついに、この時が来てしまったのかと。思わず互いに目を交わしてしまう。それは、一つにはクロイスの夢が、決定的に遠退いた事を意味していた。今まではまだ、
何か手立てはあるのかも知れないと。それを考える事もできたけれど。ジョウスがそう言うからには、もはやそれは避けられないだろう。
「クロイス」
俺が不安気な顔をして名前を呼んだ事の意味が、クロイスには即座に理解できたのだろう。俺をしっかりと見つめて、それから首を振ってくれた。
「伝える事は、まあそれだけです。ゼオロ殿の疑いは晴れたのだし、その上で臥せっておられるから、クロイスも看病をしているというので。どうせなら手間を省こうかと思いましてね。それでは、私はこれで失礼しますよ」
丁寧に、ジョウスが一礼する。そうすると、いつも付けている銀のネックレスが、豹の被毛の上で乾いた音を立てた。振り返る事もせずに、ジョウスが部屋を後にする。それを見送ってから、クロイスが大きく息を吐いた。
「クロイス」
「ゼオロのせいじゃない」
さっきは口にしなかった言葉を、クロイスが言う。そして、すぐに俺の下へと戻ってきてくれる。やっぱり、始まってしまった。これが今後どうなるのかは、わかりそうにもない。これから、どうなってしまうのだろうか。この国は。
けれど、今はそれよりも。俺はクロイスがそう言ってくれた事に微笑んでから、首を振った。
「私のせいでもあるよ。だから、何かできる事はないかな」
そう返して。それを聞いたクロイスが、噴き出す様に笑ってくれる。
「なんだよ。なんかいきなり強くなったんだけどゼオロちゃん。元から強い時は強かったけどさー」
「クロイスの事を弄んだり?」
「そうだよ。それだよ。ああもう酷いわ……やっぱこれだよなぁ」
速足で戻ってきたクロイスが、そのままベッドに乗って俺を抱き締めてくる。俺のご飯はどうなってしまったのか。お腹空いた。
「ところでさぁ、親父から聞いたんだけど。ゼオロちゃん、親父を脅したんだって?」
ご飯の事と、抱き付いているクロイスの事を考えていると。突然にそんな事を言われて、俺は身体を震わせる。何故ジョウスはそれをクロイスに伝えてしまったのか。いや、話すなとは一度も言わなかったけれど。俺が
ゆっくりとクロイスを見上げると、クロイスは狡そうな顔で俺をじっと見ていた。
「しかも、俺を骨抜きにしないでやるって? ふーん。ゼオロって、そういう奴だったんだな。俺の事、人質みたいにして」
「ご、ごめん。そうしないと、ここに置いてもらえないかなって思って」
今更だけど、とうのクロイスからそれを切り出されると。とんでもない事してしまったなと思う。
「……怒ってる?」
「すっげー怒ってる」
「ごめんなさい」
「……嘘だよ。というか、どうでもいいんだよね、そこは。それよりも、さ」
ベッドの上から動けないままの俺の腕を取って。それから俺の頭に手を回したクロイスが、自分の方へと俺の顔を向かせる。間近に迫ったクロイスは、ただ笑っていた。
「俺の事、人質に取ったんだろ。だったら、俺はゼオロの物って事だよな」
「そうかなぁ」
「……そこは肯定しよ? 俺泣いちゃうよ?」
「だったら、なんなの」
「ゼオロの物になるよ。だから、ゼオロも俺の物になってよ」
ああ、そうくるのか。なんて思って、俺はまた白い目を向けて。クロイスはちっとも怯まずに、それどころか今は、笑みも消して俺をまっすぐに見つめてくる。だから俺も、ふざけようとする気持ちがどこかへと行ってしまって。
「……どうして、そんなに私の事、好きでいてくれるの」
そんな事も、つい訊いてしまって。クロイスは少しだけ考える様に目を瞑ってから、ゆっくりと口を開いてくれる。それに、俺にとっても不思議だった。自分の事を、こういうのは大分駄目だなと思うけれど、正直なところ俺は
世間的に言う、面倒臭い性格の奴、である事は疑いようがないから。その上で、クロイスには曖昧な態度を取ったり、危険だと感じたら遠ざけてしまったり。その癖自暴自棄になって身体を差し出そうとしたり、やっぱり何を
言うにも面倒だと思われても仕方がない事ばかりしてしまったから。
「俺も、実は考えてたんだよね。一度、離れてさ。それでもゼオロの事、忘れられなくて。またこうして会ったら、やっぱり一緒に居たいって思って。それが、どうしてかなって」
無言のまま、俺は少し頷く。クロイスがどうしてまだ、俺の事を想ってくれているのかと。確かに今の俺は、銀狼としての俺は。他人からそういう目で見られる事は多いし、クロイスもそれに惹かれたのは事実なのだろう
けれど。それでも、それだけでは済まないくらいに、色んな事があったから。
「ゼオロが……異世界人で。それなのに、俺の事に、俺だけじゃないな。この世界の色んな事に、熱心になってくれたからかな」
それを聞いて、思わず俺は意図を測りかねて首を傾げてしまう。俺がそうすると、クロイスはまた柔らかく笑ってくれる。
「ゼオロが、ヤシュバの話を俺にしてくれた時に。俺もようやく気付いたんだよ。他の世界から来たヤシュバは、ゼオロの事が大切で。だから、この世界の事なんて顧みる事もなくて。……だからこそ、あんな風になっちまったん
じゃないかなって。なのに、ゼオロはそうじゃなかっただろ。俺は別の世界に行くなんて事、想像するしかなかったけどさ。よく考えたら、そうなんだよな。ヤシュバの考え方も、別に悪いとは言わないし、もしかしたらそれが
普通なのかも知れないけれど。いきなり別の世界に来て、その世界に、色んな人が居るって知ってもさ。自分は別の所から来たんだって思えば、実際そこで生きる事になっても、中々実感が湧かないっていうか、本気に
なれないっていうか。上手く、言えないけど。とにかくそんな気持ちになると思うんだ。でも、ゼオロはそうじゃなかったんだなって。知り合って数日の俺を、庇ってくれたり。それどころか、その日知り合ったばかりなのに、
ヒュリカのために危険な事にも手を出したり。それで怪我をしても、俺の事を責めもしないでさ。……なんていうか。だから、なんだろうな。その。やっぱり、上手く言えないんだけど。えっと」
クロイスが言いよどんでいる。それが、とても珍しいなと俺は思ってしまう。大分失礼な事を思ってしまうけれど、口説き文句なら、クロイスはいくらでも出てくるタイプだろうから。それなのに、今は口をもごもごとさせたり、
視線を泳がせたりしていて。クロイス自身も、上手く言葉を伝えられていない感じがしているのだろう。それでもその内にうんうんと頷いてから。クロイスばまた口を開ける。
「別の場所から来たんだから、当たり前なのかも知れないけれど。ファンネスやツガとも、自然と話せたりさ。俺は、それが夢だから当たり前だけど。爬族や、竜族となんとも思わずに話ができて。ファウナックに行って、
戻ってきても。スケアルガの家の者である俺と、前と同じ様に、きちんと話をしてくれるところとか」
クロイスが笑う。子供みたいに。豹の顔でも、そんな風に笑えるんだなって。俺はそう思う。
「ゼオロの、そういう所が。すっげー好きだよ俺。ゼオロがこの世界の事、好きだっていうのが、伝わってくるみたいで。だから、一緒に居たいって思うんだ。ゼオロに生きてほしくて、それから」
「待って、クロイス」
思わず、俺は声を出してしまう。クロイスの事をまっすぐに見つめながら、俺はそれを、止めたかった。止めないと、いけないと。何故だか思ってしまって。でも、クロイスは止まってくれなかった。
「ゼオロと一緒に生きていきたい。ゼオロの事が、大好きだから。この世界に来てくれて。ここで、生きてくれて。ありがとう。ゼオロ」
なんの効果も上げられなかった言葉を吐き出して、口を開けたまま。俺はそれに、聞き入っていた。じわりと、また涙が出そうになる。狡いと思う。そんな風に、言うのは。また、嬉しくて泣いてしまいそうだった。クロイスは
俺に構わずに、頬を擦り付けてきて。そのまま満足そうにしていて。
「ねえ。キスしてもいい?」
「口以外ならいいよ」
クロイスが言い放った言葉に、反射的に俺はそう返す。ここまで来ても、相変わらずそんな事を言ってしまうんだな、俺は。それでもクロイスはそれで満足なのか、俺の頬に頬を擦るだけではなく、口付けをしてくる。一回、
二回じゃ済まなくて。何度も。
そうされている間に、俺は顔を上げてから、手を伸ばして。クロイスの顔を固定させると、少し自分の方から顔を傾けて。思い切って顔を寄せる。クロイスの口に、自分の口を重ねた。もう、いいや。もういいよね。
「ゼオロ」
一度口を離すと、クロイスが驚いた顔で、俺を見つめている。それを見て、やってしまったなって思って。俯いた。
「……ねえ、恋人として好きになるのって。友達とは、どんな風に違うの?」
「えっ。今更、そこなの?」
呆れた様に、クロイスが言う。そんな事言われても。そんな事、言われても。
「だって。私、そういう風になった事ないから。クロイスみたいに遊び人じゃないし」
「悪かったね遊び人で」
「悪口言っている訳じゃないよ」
「悪口にしか聞こえないんですが……」
そうじゃないんだけど。だから、今それを確かめてみたくて。俺からしてみたいと、はっきり思った上で、初めてしてみたキスなのに。でも、それで少しだけ、わかった気がする。
「嫌じゃなかった。クロイスと、するの。クロイスが、喜んでくれたら、嬉しいって思えるし」
豹の耳が、ぴんと立った。目を見開いたクロイスの瞳があった。金の瞳が、こんなに間近で。金の中に、銀の俺が居て。でも、その内にクロイスが、いつもの様に。けれど、少しだけ違った様に、ちょっとだけ嫌らしく
笑ってくれる。
「それってつまり、どういう事かな」
言わせんな恥ずかしい、と言いたかったけれど。多分そうしたら、クロイスは俺がそうするまでずっと攻撃してきそうなので。俺は観念して、でも悔しいから、俺もクロイスを真似て笑ってみる。
「クロイスと同じ気持ちになりたいから。教えて」
クロイスの身体が、震える。表情は、そのままだったけれど。生憎全身の毛が逆立った上に、その尻尾が暴れてベッドの上を跳ねまわる音が聞こえるので、中身はそのままじゃない事が伝わってくる。
一度、クロイスが口を開けて。何かを言おうとした。でも、それはすぐに閉じて。それから、また開いて。気づくと今度はクロイスの方から、何も言わずに俺の口を塞いでくる。
やっぱり。もう嫌だなんて、まったく思わなくなってる。男同士なのにな。変だな。クロイスだからかな。
ああ、でも。もういいか。