ヨコアナ
29.銀の尻尾
暑い。
馬車が、揺れていた。規則的に回る車輪の音が、馬車の中に居ても聞こえて。それが時たま、何か小石にでも躓いたのか、車体ががたんと揺れている。
季節はもう十二の月を過ぎている。一年を通して寒さに包まれている翼族の谷から離れても、少し肌寒くなってきたと言ってもいいだろう。
それにしても、暑い。そして、煩い。
「クロイス。離れて。暑い」
「えー」
俺が暴れると、クロイスは心の底から残念そうな声を出して顔を上げる。
「いいじゃん別に。少し寒くなってきたくらいなんだしさぁ。俺は暑くないよ」
「私は暑いの」
最近俺の抜け毛が少し増えた様な、なんて思っていたら。どうやら僅かながらに冬毛になるらしい。何これ凄い。でも二足の動物達程、露骨に変わらないのは助かったと思う。今馬車の中だし、毛玉がそこら中に
転がっている様な事態は困るし。その上で、裸だったら丁度良い具合かも知れないけれど、俺は服を着ている訳だし。そして暑い。ちょっぴり冬毛モードになった俺に、猫族だからなのか、とにかく温かい方が好ましいらしい
クロイスが、今は俺を後ろから抱き締めて、そのまま馬車の席に座っている。俺はクロイスが開いた股の所に、座らされていて。馬車が出た直後は向かい合う様に座ってくれたのに、何故だ。
そして、ミサナトでの日々を思い出すかの様に。クロイスの喉ゴロゴロ攻撃がまた俺に炸裂していた。あと尻尾もそれに続いて、俺の身体に必死に巻き付こうとしている。相変わらず器用だな。
「クロイスって、全然変わらないね」
「勿論」
「獅族門ではへこたれてた癖に」
「それはそれ」
「泣いてた癖に」
「そ、それはそれだから……」
まあ、演技も含まれていたんだろうなと、その後の事を考えたら思ってしまう訳だけど。俺がヒュリカの所へ行くと確信していたから、その俺の勢いを利用してドルネスと共に俺の後を付けていたのだから。
「クロイスって計算高いよね。普通に話しているつもりだけど、私が気づかない様な事を見ていたり」
「やっぱり、嫌?」
俺が突然にそれを口にしても、特にクロイスは動じたりもせずに即座に会話を返してくる。こうしてじゃれあって、遊んでいても。クロイスの頭は常人のそれとは違っていて。俺の考えも、ある程度は見透かしているんだな。
でも、今のクロイスは少し不安そうな顔で。それだけは真実なのだろう。人の好意を。それが自分に向く事を。それだけは、クロイスでも簡単には読み取れない様だった。まして捻くれ者の俺の気持ちだし。
「ううん。それに、前も言ったと思うけれど。それでヒュリカが助かったのは事実だから。あそこでクロイスが来てくれなかったら、ヒュリカは仲間の翼族に切られていたかも知れない。だから、クロイスがしっかりとして
くれていて、良かったと思うよ。頼もしいね、クロイスは」
「どうしよう。素直に褒められると、それはそれでどういう反応をすれば良いのだろうか」
「素直に受け取ればいいのにね」
それはお互い様だろうと言いたげに、クロイスがまた俺の頭頂部に、自分の顔をぼふんと乗せてくる。ゴロゴロしてくる。
「そういえば、クロイス。視察はもういいの?」
ふと、その事を思い出して。俺は頭の上が煩いのを我慢しながら訊いてみる。元々、クロイスはいずれは軍師か、それでなくともジョウスの補佐となるべく視察に出ていたのだ。それには数年の時が掛かると、ハンスも
言っていたのに。それが、その道中で獅族門での諍いが始まってしまい、自由に動ける身であるからと一時的に遣わされたに過ぎない。それが済んだら、また視察に戻る必要があるのではと俺は思っていた。それが、
今は俺と共に、ジョウスの下へと移動している。
「うーん。俺もそう思ったけど。親父が呼んでるなら、そっちが優先っていうか。そもそも視察だって、親父が決めた事だしな。今はそれが優先なんでしょ」
「……私とクロイス、どっちに用事があるのかな」
「両方じゃないかな。多分、親父はゼオロちゃんの事、もう大体わかっているはずだし。その上で獅族門にまでゼオロちゃんが来たから、一度は会う必要があると思ってるのかも。俺は俺で、ゼオロちゃんについての話が
できるし。翼族の事についての話もあるだろうし」
ミサナトでの騒動があり、またハンスの件もジョウスが受け持ったという事を考えると。ジョウスが俺の正体を察しているのは、十中八九間違いがないだろう。ミサナトから消えた俺が、獅族門に現れて。そうして、居場所が
はっきりしているのだからと俺の事を呼びよせるのは、当たり前の事なのかも知れなかった。そこまで考えて、俺は耳を伏せて。自分がこれからどうなるのかという事を考えずにはいられなかった。ミサナトから落ち延びる時も、
ジョウスに今近づいて良いのかはわからないと、あの時は避けたのだから。それが、今は。そのジョウスからの呼び出しで。そしてラヴーワの軍師としての呼び出しとあれば、逃げる訳にもいかずに。あとは俺とジョウスが
まみえるだけとなってしまう。
「ミサナトでは異世界人を捜してたけれど。やっぱり私も、捕まえられてしまうのかな」
「その心配はないと思うけど。親父は軍師として、ゼオロちゃんを呼んだ訳だし」
「そうだけど」
それは、俺が逃げられないために策を講じただけかも知れなかった。ただのジョウス・スケアルガが呼んでいるというのなら。そんなのはいくらでも無視できたけれど。獅族門の砦に、つまりは軍の管轄である場所に、
軍師からの命令が届いたのだから。当然軍に属していないとはいえ、獅族門に居た俺がそれを断れる訳はないし、断る権利もまた無かっただろう。
「大丈夫だよ」
俺の怯えを察したのか。クロイスが、腕の力を強めて抱き締めてくる。そうされると、暑いのも、そもそもこんなにベタベタされるのも好きじゃない事も忘れて。俺は一時の平静を取り戻す。
「例えそのためにゼオロを呼んだとしても。そんな事、俺がさせない。そうなったら、もう逃げようか」
「駄目だよ。クロイスの立場が、無くなっちゃうでしょ」
「そうだけど。でも、俺さ。自分の夢が叶わないのなら。だったら、自分の好きな奴だけでも守りたいよ」
どうしてそういう事はっきり言ってしまうのかな。と、言いそうになって。今更の様に、俺は、クロイスとはそういう風に別れた事を思い出す。ただの友達と、久しぶりに思いがけぬ場所で再会を果たす事ができた。俺は、
そんな風にしか考えていなかったけれど、クロイスはそうではなかったんだって。クロイスの気持ちは、わかっていたけれど。でも、たったそれだけだったんだなって。今になって、よくわかる。
「どっち道、今の俺は軍に使われる程の器じゃない。今回の事だって、偶々獅族門の近くにこれって奴が居なかったから。ただそれだけで、俺が一時的に獅族門を預かったに過ぎない」
「視察の途中、だもんね。本当なら、クロイスがそういう風に振る舞えるのは、ずっと先だもんね」
「うん。だから俺は翼族の事で、ある程度の手柄を立てたいってあの時言ったんだけどさ」
あの時のクロイスの言葉もまた、嘘ではなかったのだろう。今回の翼族の一件で、ランデュスとの関係の悪化は避けられそうにない。仮に、ありえない事だとしても、百歩譲って今回の一件が、ランデュスから仕掛けた事
ではなかったとしても。現状がランデュスにとって都合の良い展開である事には、変わりがないのだから。
「今更だけど。獅族門での事って、評価はされてるのかな?」
抱き締められる腕の力を感じながら、話を逸らす様に俺は問いかける。それとは別に、気にもなっていた。結局あれは、クロイスの手柄となったのだろうか。俺が問いかけると、クロイスの苦笑いが頭上から聞こえる
だけだった。それから、軽い溜め息も。
「あー……どうかなぁ。正直なところ、余計な事は絶対にするなって。そう言われてたんだよね、俺。そりゃ、そう言いたい気持ちもわかるけど。俺は実戦に出た経験も無かったし。兵に指示を出す隊長や、獅族門を預かる
将軍にだって、当然良い顔はされなかったし」
「こう言ったら悪いけど、ひよっこだもんね」
「悪いと思うなら言わないでほしかった」
「事実は受け止めようよ」
喉ゴロゴロが強くなる。機嫌が良い時に出すはずだったのに。なんかもう今は無理矢理ゴロゴロさせてる気がする。
「まあ、認めるよ。俺がひよっこなのも、功を焦っている事も。でも、何もするなって言われて。その通りにするっていうのも、中々辛い物があるんだよね。実際、俺の指示なんて半分も通るか怪しいもんだから。思う様に
動けなかったのもあるけど。でも、戦いは既に始まっていて。何もしないで良いなんて。……だから、ゼオロが来てくれて。良かったよ」
クロイスがした事は、そういう意味では、軍令違反と見て取る事もできるのだろうな。はっきりとした軍令ではない事が、幸いだけど。だからこそジョウスは、クロイスを呼び戻したのかも知れなかった。
「クロイスは立派だったと思うよ。自分のできる事だけでも、しようとして。それに、黙って見ている事もできないって思うのは、私も同じだったから」
寧ろ俺は積極的に飛び出した方なので。少なくとも俺に、クロイスを悪く言う資格は全く無いな。
「見送っといてなんだったけど、ゼオロちゃんが翼族の谷に行くって出ていった時は。俺も、気が気じゃなかったわ。お互い様だけど」
戻ろうかとも、あの時は少し思ったけれど。でも、結局ヒュリカがその先に居るのだと聞いて俺は獅族門を飛び出してしまったのだった。今となっては、それは良い結果になったけれど。一歩間違えていたら、俺はこの世に
居なかったのだろうな。終わりよければ、と思うけれど。クロイスには大分心配させてしまった様だった。心配するだけじゃなくて、きちんとやる事をやるのはやっぱりクロイスらしいけれど。
「人って、簡単に死んでしまうんだね。わかってたつもりだったけど」
「そうだね。俺も、同じ気分だよ。こんなんじゃ、軍の中ではやっていけないなって何度も思ったわ」
そんなに簡単に、目の前に広がる光景を、それまで耳に入れていた時の様に割り切れる訳じゃないって、今回の事で俺はよくよく思っていた。人間だった頃も、どこか他の国で戦争が起きただの。もしくは自分の国の
歴史を振り返って、そういう事があっただの。頭の中に、情報として入ってはいたけれど。でも、目の前でそれが広がっているのとでは、あまりにもかけ離れていて。翼族の谷に向かうまでに、野晒しになっていた翼族の
死体の事を、今でも思い出してしまう。第一に思い出すのは、やっぱり死臭だった。あの時は、自分も身の危険を感じて、そんな余裕すら無かったけれど。今あの臭いを嗅いだら、そのままその場で吐いてしまうかも知れなかった。
しばらくそのまま、無言で時が過ぎる。いつの間にか、クロイスの喉の音も止んでいた。俺は俺で思う事がある様に。クロイスもまた、物思いに耽っているのだろう。
「あー。やめやめ。こんなの考えるの、後でいい。せっかく今は、二人きりだっつーのに」
でも、その内にクロイスはそう言って。必要以上に明るい声を出して。それが今だけは、俺にも有り難く感じられた。重く受け止める事は、大切だけど。それをずっと続けていたら、潰されてしまいそうだったから。親しい人の
死も、そうでない人の死も。俺はもう、見てしまったのだから。明るく言い放ったクロイスの言葉は、俺をそこから引き上げてくれるかの様だった。
そして引き上げられて、俺は現実へと戻ってくる。暑い。そしてまた煩くなってきた。
「やっぱゼオロちゃんは抱き心地が良いわぁ……。あと数年は我慢しないといけないと思ってたのに。こんなに早く再会できるなんて。ああー」
なんかあーあー言いはじめてるけど、大丈夫だろうか。俺は苦笑いして、そして脱出しようとする。だって暑い。
「暑いよクロイス」
「ん。もう少しだけ。……それにしても、綺麗になったよなぁ。前も綺麗だったけど。どっちかって言うと、可愛い感じだったのに」
「やっぱり、そうかな。自分で言うのもなんだけど」
俺の銀は。時が経つ毎に、どんどん眩さを増している気がする。俺がそう言うと、クロイスも何度も頷いてくれた。
「ていうかさー。ゼオロちゃん、結局どうなったの。あれは」
「あれって?」
クロイスの突然の質問に、俺はなんの事だろうかと首を傾げる。あれって言われても、どれだろう。そう思っていると、いきなり俺の視界がぐるんと回って。気づけば、クロイスの。豹の顔が、俺の正面へと来ていた。俺の
身体を少し倒して、右腕で支えて。左腕が、俺の右手を取っている。そうしてから、間近に迫って、息遣いさえ聞こえそうな豹の顔が僅かに口元だけで笑った。
「好きな人、見つかった? そんな余裕、無いって。よくわからないって。自立ができる様になるまでって。あの時は、俺にそう言って。そう言うから、俺も逃がしちゃったけど。今のゼオロちゃんは、どうなの」
「まだ、あれから一年も経ってないよ。まだ、変わらないよ」
「本当に? でも、久しぶりに俺が見たゼオロちゃんは、前とは全然違ってたけどなぁ」
「どんな風に?」
そんなに変わったかな。背は伸びたけど、それだって成人のそれには届きそうにない。今はまだ小柄なままだ。多少は、少年から脱してきたかなとは思うけれど。俺がそんな事を考えていると、クロイスが優しく笑いかけて
くる。笑いながら、でも俺の身体を扱う仕草は。俺の身体を狙う獰猛な獣のそれだった。相反する二つの顔が、クロイスが俺の事を、とても大切にしたいと思っている事と。それと同じぐらいに、俺に手を付けてしまいたいと
思っている事を、俺に教えてくれる。
「一人でも、俺に意見して翼族の谷に行こうとしたところとか。俺はね、あの時ゼオロがもっと俺を頼ってくれると思ってたよ。俺は形の上では、獅族門を預かる身だった。そこにやってきたゼオロは、傭兵を一人連れている
だけで。到底、そんな状態でどうにかできる訳じゃないのに。気が付いたら、自分一人でも行くって言って。それだけじゃなくて、実際にヒュリカの事も、説き伏せていて」
「助けてくれたのは、クロイスだよ」
「そうだけど。でも、それと同じぐらい。違うなって、俺は思ってるよ。俺は結局ゼオロちゃんが心配で、自分も出てきちゃったから。あの時。俺は、本当なら出ていくべきじゃなくて。翼族の谷に行ったゼオロの後を付けるにせよ、
それはドルネスに任せておけば良かった事なのに。仮にも獅族門を預かる俺が出ていって、翼族の伏兵があったら。俺の方が危なかったかも知れないのに。そんな事、わかってるのに。それでも、ゼオロの事が心配で。
結局俺は出ていっちまった。自分が甘いんだなって、よくわかるよ。でも、それ以上に。ゼオロはそうやって、誰かを動かす事ができるんだな」
「それと。今の事が関係あるのかな」
「それがゼオロちゃんの力なんだなって事。結果的に、翼族の一件は最小限の被害で治まった。少なくとも、ゼオロが来てからの展開としては、最上の物と見て良い。俺の中ではね」
「そうなのかな。そんなのが力だって言うのも、変だと思うけれど。私は結局何もしてないし」
後先顧みずに突っ込んでいった。そう言ってしまう方が、きっと正しい。それが偶々上手く行った。いつもそうなる訳じゃない。下手したら死んでる。きっと、現実はそうだろう。クロイスだって、それはわかっているはずだ。
「周りを動かすのも、力だよ。ゼオロちゃんは参謀向きだね」
「そういう頭の使い方はあんまり得意じゃないのだけど」
情勢がどうとか。そういう事なら、集めた情報と。それから読み漁ったファンタジーな小説のおかげで読み取る事はできるけれど。戦場に立って、戦の動きを見るとか。そんな事は到底できるはずもないだろう。頭では
いくらわかっていても、現実ではそう簡単に物事が上手く運ぶ訳ではないのだから。
「それで。今なら、俺の事を受け入れてくれるのかな」
「……悪いけど。やっぱりそういう余裕は無いよ」
俺の事を事を考えて。それから誰かと付き合える状態になるまで待ってくれているクロイスには、とても悪い事だと思いながらも。俺はやっぱり、今は余裕は無いなと。そう返してしまう。そもそも、クロイスと別れてからの方が、
そういう余裕は失われたと言っても過言ではなかった。そのすぐ後に、ミサナトにハゼンがやってきて。そのハゼンと、そしてガルマの目をどうにか誤魔化す事に集中しなくてはならなくて。でも、訪れたファウナックでは、
ハゼンの目を誤魔化すどころか、すっかり仲良くなって。銀狼と、赤狼に関係する事柄に振り回されて。気づいたら、失って。ミサナトへ戻って。そこでも、自分の居場所を今度は失って。そうして後は、流れるだけ流れて。ここに
行き着いたのだから。
「えー……いや、わからなくもないけどさ。ミサナトの騒動を考えたら。でも、そういう浮かれた話とか、なかったの? こんなにエロい身体してるのに? マジで? 周りの奴目腐ってんじゃねーの?」
「そこまで言わなくても」
「いいや。言うね。なんにも無かったの?」
「無かったとは言わないけど?」
まあ何度か、そういう事もあったよねと。思い返して俺は言う。何人かに押し倒されたり、ハゼンにも、段々雰囲気が妖しくなってきましたよと言われたし。ハゼンには効かなかったけれど。ハゼン強い。
「えっ……」
ただ、クロイスは思ったよりそれを強く受け止めたのか。途端に寂しそうな顔を見せる。ちょっと面白い。
「えっ。じゃあ、もしかして。もう誰かと? マジかよ……。羨ましい。そいつ殺したい」
もう少し本音隠せよと思いつつ、俺は笑ってそれを見上げる。
「そういう事してる様に見える?」
「誰と。誰となの。もしかして、あのヒナっていう傭兵なの。うわぁ、俺一人で出ていったから、こんな事になったのか……? せめて最後にやっちまうべきだったのか?」
「それしたら流石に絶交したと思うけど」
そう言っても、クロイスはとてもとても悔しそうな、苦しそうな顔をして。それから俺をぎゅっと抱き締めてくる。俺の首筋に顔を埋めると、何度も鼻を鳴らしていた。まるで、俺に誰かの残り香でも付いているのではないかと
確かめるかの様に。そこまできて、俺は思わず噴き出してしまう。
「冗談だよ。誰かとするとか。そんなのも、考えられないし。ただ、その……この身体って、やっぱりそういう目で見られる事が多くて」
危ない場面もありましたと言うと、クロイスはまた、俺の身体を離すまいとする。
「良かった……。でも、心配だわ。ゼオロちゃんを見て、ムラムラするのはすげー理解できるから」
そんな事理解しないでほしいのだが。とはいえ、それをクロイスに言っても仕方ないのだけど。何せ、クロイスこそがこの世界に銀狼の身体として現れた俺を、一番に誘った相手と言っても過言ではないのだから。俺の
身体を見てムラムラする奴の筆頭なのだから。どこぞの国の筆頭とは豪い違いだ。ムラムラの筆頭とは一体。
「大丈夫だよ、クロイス。安心していいから。私はまだ、そんな余裕は無いの」
「そして俺はまたお預けをくらってしまうのか……ゼオロちゃん……」
クロイスは、もしかしたら今度こそ俺をと。そう思っていたのかも知れなかった。そんな期待をされても。そもそも別れてまだ一年も経ってないし。その間に俺が歩いた道を振り返れば、そんな事をしている余裕なんて
どこにもなかったのだし。そんなに恋愛できる余裕が無いと、駄目なのだろうかと俺の方が思ってしまうくらいだ。あまりにも、ただ生きる事で精一杯過ぎたのに。
「ごめんね、クロイス。私にもっと余裕があれば、きちんとクロイスにも応えられたのに」
そういう事を、期待されているのなら。やっぱり俺も、いつかはそういう風にクロイスに接しないといけないのかな。今の、友達の関係の方が、俺は良いなと思ってしまうけれど。クロイスの方は、友達とは思っていないかも
知れないけれど。例え友達でいる事ができなくなっても、と。素直に告白してきたのは、クロイスなのだから。
ただ、俺の言葉を聞いて。クロイスはそのまま呻き声を上げていた。具合でも悪くなったのかと、俺はそれを心配して見ていると。その内に勢いよくクロイスが顔を上げて。
「ごめん。俺、久しぶりに会えたからって、浮かれてたわ。ゼオロがそうなら。俺はもっと、きちんと待たないといけないのにな。自分の事で手一杯なの、俺はわかってるのに。ミサナトの事もあって、今そんな余裕なんて、
どこにも無いのにな。……やっぱ俺って、まだまだ子供なんだなぁ。色々考えたつもりなのに。いざそうなると、ちっともそういう事が考えられなくて」
「クロイスは、充分考えてくれてるし、我慢してくれてると思うけれど」
のらりくらりとかわしているのは、俺の方だろう。もう俺は、クロイスが俺の事をどう思っていて。だから、その。結婚を前提に付き合ってほしいとまで言ってきている事まで、はっきりと経験しているのだから。そういう形で
接してきている相手に、友達だと思っているからと言い続けて。ある程度はされるがままを許している癖に、けれど肝心なところには至る事はないというのは。まあ、冷静に考えたら嫌がらせの様な状態だよな。
でも、友達としてなら。俺はもっとクロイスと一緒に居たくて。我儘だろうか。我儘、なんだろうな。
「今は傍に居てくれるだけでいいよ。それに、疲れただろ」
俺の表情から、ある程度の考えはやっぱり察する事ができてしまうのか。クロイスはさっきまでの様子とも、今はまた変わって。俺を労わる様に腕の力を弱めて、背中を何度も撫でてくれる。そうされると心地良くて、
控えめに尻尾を振っていると、クロイスも嬉しそうに笑ってくれる。それを見て、俺は少しだけ身を乗り出すと。クロイスの頬に、自分の頬を擦り付ける。
「動物って、よくこうするよね」
「匂いが付くからでしょ。自分の物だって、言いたいから」
「ふうん」
それを聞いてから、俺は腕を伸ばして。クロイスの豹の頭を抱いて、さっきより強く擦り付けてみる。
「ゼオロちゃん。俺、そろそろ我慢できなくなりそうなんだけど」
その言葉を聞いて、ぱっと離れる。恨めしそうにクロイスが俺を見ていた。
「なんか段々男の扱い方上手くなってない……?」
「気のせいじゃないの」
そのまま、クロイスの下から離れて。俺は反対側の席へと移動する。向かい合うと、クロイスは溜め息を吐いて窓から外を見つめていた。それに釣られて、俺も同じ様に。流れる景色は、然程変わった様にも
思えなかった。今俺とクロイスは、ジョウスに招かれてベナン領を通って。もうすぐ虎族の地へと至るところだった。ジョウスは今、そこでランデュス軍全体を見て、ランデュスがどう動いても対応できる様にと構えている
そうだ。行く先々で、クロイスは逐一情報を仕入れているけれど、今のところ休戦は形の上でも続いているというか。ラヴーワとランデュスが正面からぶつかり合ってはいない様だった。それについては、少し意外だと
クロイスが言った事を思い出す。翼族の事があるから、そのまま攻めてくるのかと。確かに、翼族と一緒に攻めた方が、効率的だったのに。実際はただ翼族が、使い捨てられる様に動いていただけだったんだよな。ヒュリカは、
今頃どうしているのだろう。クロイスの代わりに来た人が、翼族の谷の事を重く見て、ヒュリカを助けてくれると良いのに。それから、谷に踏み込んでも。ヒュリカの大事な人達が、無事だと良いのに。そんなに都合良く
行くものではないとわかってはいるけれど。そう思わずにはいられなかった。ヒュリカにとっては、大切な家族なのだし。
「そういえば、ゼオロちゃんはガルマ・ギルスに会ったんだよね。どんな人だったの?」
俺がヒュリカの事を考えて、目の前に居るクロイスの事すら一時忘れていると。不意に声が聞こえて、俺は我に返る。
「ガルマ様の事、聞きたいの?」
「うん。俺はまだ会った事ないし。視察の時に、近くに寄ったら顔合わせぐらいできるかなーなんて思ってたんだけど。まさか近寄る事すら許可されないとは思わなかったわ」
まあ、スケアルガだしな。今となっては唯一正統なギルスの血を引く銀狼のガルマに、ジョウスの息子であるクロイスが近づいても。まず絶対に周囲は会わせたいとは思わないだろうな。
「思っていたよりはまともな人だったけれど」
「何その言い方……」
そう言われても。俺から見たガルマの最初の印象なんて、何このエロ親父、だし。でも、接する内にガルマが苦労を重ねていて、それでも懸命に狼族の族長を務めている事は、理解できた。セクハラ親父だったけど。
「後継者候補としてガルマに会ったんだよね、確か」
「うん。そういえば、そこまでクロイスには言ったんだっけ」
「言わなくてもわかるよ。ガルマが子を作れない事と、跡取りを求めている事は、もう聞いてるし。ミサナトに居たゼオロちゃんが、突然ガルマの下へ連れていかれるとなったら。その事しかないっしょ?」
「まあ、そうだけど」
そういえば、ファウナックの騒動の後に、ガルマ自らその事については公表していたっけ。兎族の族長であるリスワールも一枚噛んで。あれからそれなりに時が経って、それがクロイスの耳に入っているのは、当然の
事だった。俺がファウナックへ連れられたと言えば、クロイスからすれば、そこから後を想像するのはあまりにも容易い事だろう。
「ゼオロちゃんの銀って、俺は凄い綺麗だと思ってたけれど。やっぱ、銀狼の中でも目立つもんだったのかな?」
「そうみたいだね。他にも銀狼の候補は居たけれど。私と同じなのは、ガルマ様くらいだったよ。ガルマ様も、そう言ってたし」
「マジか……ゼオロちゃん、そんなに貴重だったのね。俺、あんまり銀狼は見た事ないから」
そりゃ、スケアルガだしな。銀狼の方は徹底的に避けるだろう。ギルス領にだっておいそれと入る事ができるのかってくらいだ。俺は関係ないから、クロイスに近寄れたけれど。
「というか。ギルスの血を引いているから、ガルマとか、その兄のグンサはとてつもなく綺麗な銀狼なんだろうに。ゼオロちゃんの銀もそうなんだね」
「おかげでグンサ様の隠し子じゃないかとか、散々疑われたよ」
「お気の毒で……。でも、今ここに居るって事は。結局ゼオロちゃんは、狼族の族長にはならないんだよね」
「そうだね。それに、どこでボロが出るか、わからないでしょ?」
「そりゃそうだ。しかも、実際のところギルスの血を引いている訳じゃないだろうしな……うん、バレたら後が怖いわな」
ファウナックから飛び出してきてしまったけれど、やっぱりあそこに残らなかったのは正解だと思った。ちょっと居着いて、その後ハゼンの一件ですぐ出ていったのに、館の外で見送りに来ていた狼族の数も多かったし。あれ
以上長くファウナックに居たら、街での俺の声がどうなってしまったのかは、わからない。下手をすれば、それはこの涙の跡地に広く轟いて。いつか俺の正体が知られてしまった時に、逃げ場を失う事にすら繋がりかねなかった
だろう。かといって、残りの生を狼族の全てを騙したまま送るだなんて、絶対に嫌だし。
「あーでも、族長になったゼオロちゃんも見てみたかったなぁ」
「そうなったら、狼族をもう少し纏めて、ラヴーワのためにもなれたのかな」
「それは」
さり気無くクロイスが気にしているであろう事を、俺は率直に拾い上げて口に出す。クロイスと一緒にならずに、それでもクロイスの夢を助けようと思うのなら。俺はそうするべきだったのかも知れない。クロイスは僅かに
たじろぐ様子を見せたけれど、それでもそれ以上の変化は見せずに、話に乗ってくる。
「クロイスは、そうなったら良いと思った?」
「いんや。というか、そんな事になったら。俺はゼオロちゃんと結婚できないじゃん。駄目、絶対駄目。流石に狼族の族長との結婚なんて認めてもらえそうにない」
確かに、クロイスからしたらそうなるよな。それこそ狼族ぐるみでスケアルガの事は嫌っているのに、狼族を束ねる族長が、クロイス・スケアルガと一緒になるだなんて。
「それに。ゼオロちゃんが狼族の族長になるのは、多分親父も反対するだろうな。親父が反対してどうにかなる問題じゃないと思うけど」
「そうだね。せっかくギルスの血を引く銀狼が減って。残ったのは、ガルマ様だけで。それなのに、その後釜にガルマ様と同じ銀を持つ私が座ってしまったら。ジョウスさんは、きっととても困るだろうね」
ジョウスの狙いは、結局のところは狼族の、銀狼へ対する行き過ぎた信仰心をある程度抑える事だろう。それなのに、今ガルマと同じ銀を持つ俺が、族長になってしまったら。抑えるどころか、銀狼を仰ぐ傾向は更に
強くなる可能性が高い。今だってやり過ぎなくらいなのに。銀狼を警戒しているジョウスは、当然良い顔をするはずがなかった。もしかしたら、俺を呼んだのは。そういう後顧の憂いを断つためなのかも知れなかった。そうなると
俺は、この後捕まって、良くて一生幽閉、悪くて秘密裡に始末されてしまうのかも知れないけれど。
「そう、つまり……ゼオロちゃんが狼族の族長になんてならない、俺と結婚する未来の方を、親父も望んでくれるはず!」
かっと目を見開いたクロイスが、情熱的な声音と共に、踊ろうとでも言うかの様に片手を差し出してくる。そこか。結局、そこなのか。でもここまで来ると、それは悪くないかも、なんて思ってしまう。だってクロイスの嫁なら、
少なくとも殺されずには済みそうだし。結婚凄い。結婚怖い。そんな事を考えながら、俺は差し出された手をでこぴんで退治する。まあ、それとこれとは別だ。全然、別だ。
「ゼオロちゃ~ん……」
「待つんでしょ。クロイス・スケアルガは待てる男だと、私思ってたのにな」
「……待ってたら、いつか俺と結婚してくれる?」
「その時に、その気があったらね」
「うわぁ、すっげぇキープされた感がする……泣けるわ」
そう言って、クロイスは目を腕で覆うけれど。それはもう、さっきまでの。ただ俺を求めていたクロイスとは違っていて。ミサナトでよく見ていた様な、友達と接していたクロイスで。だから、いつかはまた。俺が判断を
下さなければならない時が来るのかも知れないけれど。今はそれに甘えて、俺は友達としてのクロイスを見て、思わず声を上げて笑ってしまった。
そうして、ジョウスの待つ下へ馬車が着くまで。俺とクロイスの楽しい旅が続いてゆく。
こういう楽しい日々が、ずっと続いていけばいいのにな。それが決して、長くは続かない事も。今の俺は、もうよくよくわかっているから。だからつい、今だけはと。クロイスに甘えてしまうのだけど。
重苦しい扉の前で、俺は一人ぽつんと立ち止まってそれを眺めていた。ラヴーワの印と、八族それぞれの印が刻まれた大きな扉は、獅族門の砦でクロイスが使っていた部屋のそれを俺に思い起こさせる。扉の両隣に、
一切の表情の変化もなく佇む衛兵も含めてそうだ。内装は、獅族門の砦よりももっと質素で。良く言えば無駄な物は一切無かったけれど、悪く言えば、あまりに地味と言えば地味で。それが、この場所はその様に長く
使われているのだという事を俺に教えてくれる。
フロッセルの街は、虎族領、正確にはワーレン領の中にあって、少し西よりの場所だった。涙の跡地を覆う結界から見たら、その中心にあるのが、狼族にとっての因縁の地であるカーナス台地で。そこから西に行けば、
ラヴーワの国境を抜け、ワーレン領に入る。いくつかの街を抜けて、更に西にあるのがフロッセルだった。ラヴーワの中央寄りのミサナトからも、ある程度近い位置にあると言ってもいい。今はもう、どこへ行ったのかも
わからなくなってしまった獅族の傭兵のヒナが、ジョウスの居場所を予想していた様に。ジョウスはこのフロッセルの街において、ランデュス軍の動きを注視し、どこにでも指示を飛ばせる状態を今は保っているらしい。
必然的に、俺とクロイスの目的地はこことなり。そうして馬車に揺られに揺られて、ベナン領からワーレン領へと入ってここに至る。ワーレンというのは、大昔の、虎族の神の名前だとクロイスが教えてくれた事を、ぼんやりと
思い出す。ただ、それが本当にその神の名前であったのか。今となっては疑わしい部分もあるそうだけど。たた、それを言うと。普段は武一辺倒の虎族が怒りを露わにするというので、あまり口にしてはいけないとか、
なんだとか。そんな事まで教えてくれた。虎族の神ワーレンは、今の虎族の姿を端的に表すかの様に、武に優れた力を持った神様だったらしくて。虎族の流れは、そこから来ているらしい。その領の名前の元となった本人が、
それぞれの種族にとって一番に信ずる相手だというのが、ちょっと面白い。そうなると、ギルス領はやっぱりああいう、銀狼崇拝になってしまうのだけど。それぞれの種族に、それぞれの神が居て。それは、とても昔、
昔の話だから。今となっては、その名前もわからない事が多くて。わかっていても、それが正しいのかを証明する術もないという。そう考えると、今この時代にまだ残り続けて。いまだに竜族を率いている竜神ランデュスの
存在という物は、本当に際立つなと思う。竜族が多少傲慢になるのも頷ける。自分達の上にだけ、神が残り続けていて。そうして他の種族には、もはや神の恩寵も何も、無いというのだから。
そんな事を、俺は待ちぼうけを食らいながら考えている。ここはフロッセルの街の、中心にある巨大な館で。そして目の前にあるのが、ジョウスが使っている執務室だった。必要であればこの館には兵が詰める事も
あって、休戦を迎えるまでは実際にそういう風に使われていたらしい。竜族の進攻をどうにか食い止めていたあの頃も、やっぱりジョウスはここに詰めて采配を振るう事があったと、それもクロイスが教えてくれた。そう
考えるとジョウスの事も、少しは好意的に見られる気がする。俺にとって、銀狼の俺にとって。ジョウスとは、銀狼に大きな被害を与えた人物であると。俺自身は怨みはなくても、俺は銀狼であるが故に、狼族の中での
付き合いという物もできてしまった今となっては、どうしてもそう思わずにはいられない部分もあるから。だからジョウスがこうして、懸命にラヴーワを守っていた姿を思い起こさせる場に居られるというのは、俺としては
嬉しいし、ほんの少しでもジョウスの事を嫌わずに済みそうであればと思っていた。別に、俺自身はジョウスを前にして、牙を剥きだしにするつもりもないのだし。
今俺は、その扉に先に吸い込まれていったクロイスの事を心配して大人しく待っているところだった。二人同時は駄目なのかと、自分の事より、俺の事を心配したクロイスは切り出してくれたけれど、それはジョウスに
あっさりと断られてしまって。クロイスが珍しく剣呑な顔をしながら、この扉の先に行ってからもうどれくらい経っただろうか。三十分くらいは、経っただろうか。その間、俺は待てを言い渡された犬の様に、大人しくして、
さっきから衛兵達の、表情は彫像のそれの様に硬いままでも、時折俺を見つめる目にちょっと怯みながら、頑張って耐えている。ここでも、そうなんだけど。やっぱり銀狼である俺が、大歓迎を受ける、なんていう事は
なくて。別に俺が悪い訳でもないのだけど、衛兵達はジョウスの立場を考えて、どうしても気にしてしまう様だった。仕事熱心で、良い事だとは思うけれど。でもあと二十分くらいが俺も限界かも知れない。ここで待って
いてくれとクロイスに言われたからには、勝手にどこかに行く訳にもいかないし。クロイス、早く戻ってきてくれないかな。でも、もしかしたら俺のために、懸命に説得してくれているのかも知れない。実際のところ、ジョウスに
とって。いや、ラヴーワ軍にとって、なのだろうか。今の俺の存在って、どうなんだろう。異世界人の扱いって、国や軍隊の視点からと言われてもよくわからない。ただ、ランデュスとの現在の状況を考えると、そんな事に
構っている暇はないと思われてそうだけど。でもそれとは別に、俺には銀狼としての価値があるから、それがあるとまたわからない。ジョウスからすれば、例え俺がガルマとの関係がある事なんてわからなくても。厄介な
銀であるとは思うだろうし。ここまで、クロイスが一緒だから来てしまったけれど。このままジョウスと会って大丈夫かな。でも、それ以外の魅力的な選択肢が今の俺にあるという訳でもないけれど。獅族門の辺りで
放り出されても、どこに行こうかという話になるし。それはこの、ワーレン領の中でも同じだ。とりあえず異世界人の事で騒いでいるであろう中央は避けるとか、そんな事しか考えられないけれど、位置的にこのワーレン領
自体が、これから戦になれば、真正面にある関係で危ないかも知れないし。でもだからこそ、異世界人の俺に感けている暇はないのかも知れないし。なんとも微妙なところだ。
がたん、と音がする。俺はそれに、はっとなって。慌てて顔を上げた。重苦しい扉が、僅かに開いて。そこから難しい顔をしたクロイスが出てくる。それに駆け寄りたい気持ちを懸命に抑えて、クロイスが俺の下へと
やってくるのを待った。扉の前でだと、衛兵に話が全部聞かれてしまうから、それを警戒して。クロイスも考える事は同じなのか、俺の肩に触れるとそのまま更に扉から離れる。
「どうだった? クロイスの事は、何か言われたの?」
「んー……今のところは、ちょっとした謹慎ってところかな。俺がじっとしてなかった事は、まあ、やっぱりバレちゃったから」
「そっか。でも、それだけで済んで良かったね」
一先ずは、それを聞いて安心する。俺の事だけじゃなくて、クロイスだってどうなるのかわからなくて。一歩間違えれば、もう軍を指揮する道も無くなってしまったかも知れないから。そうならなくて、良かったと思う。それは
クロイスの夢ではないけれど、その夢を実現させるために、必要な事でもあるというのは、俺もわかるし。それでも、クロイスには率先して誰かの命を奪う様な。それが例え、ランデュスの竜族であったとしても。簡単に
殺してしまえと言い放ってしまう様な人には、なっとほしくないと思うけれど。それは、これからのクロイスの課題なのだろうな。クロイスの夢がどうであれ、ランデュスとの衝突は、もはや避けられないところまで来てしまった。
「次は、ゼオロちゃんだよ」
「大丈夫かな」
「とりあえず、いきなり何かされるとか。そういう訳じゃないみたいだけど」
「そっか。それなら、さっさと済まそうかな。ここまで来たら、いい加減待ってるのも辛いし」
いつ死刑宣告されるかと、ここでがたがた震えながら待つつもりもない。ジョウスがそのつもりではなさそうならと、俺はジョウスの待つ扉へと向かおうとする。
「ゼオロ」
背を向けたところで、クロイスに声を掛けられて。俺は、顔を横にして、横目でクロイスを見る。ミサナトで見ていた頃とは違って、今のクロイスは、あの頃よりもいくらか落ち着いた色のコートを身に纏っている。そうして、
獅族門で悩みぬいたからか。あの頃よりも大人びていた。二人きりになると相変わらずだったけれど。衛兵の目がある今は、やっぱり凛々しい表情をしていて。
「俺は、味方だから。例えゼオロが、なんであれ」
「ありがとう」
それへ笑いかけてから。俺はゆっくりと扉の前に行き、自分の名前を告げる。衛兵は恭しく一礼してから、俺の訪いを中に告げて。すぐにそれは受け入れられて、扉が開けられる。クロイスの時と同じ様に、俺はその中へと
足を踏み入れる。視界に広がったのは、獅族門の砦とは、やっぱり大分違っていて。ひたすらに質素で、実用性だけを追求した様な部屋だった。正面には広めのテーブルとそれを囲むソファがあって。壁には、いくつもの
地図が張られていた。この涙の跡地を全て収めた地図と、それを拡大して、ラヴーワ、ランデュスで分けた地図と。拡大された方には、現実のその場所にある物を示すかの様に。壁に貼り付けられる駒の様な物が
くっついていて。暇さえあればそれを眺めて、状況が変わればそれも弄って。この部屋の持ち主が、絶えずランデュスとの戦の事に頭を悩ませ、またその想像に自分の頭を常に使い続けている事を示すかの様だった。
部屋の奥が、眩しかった。奥側は、ほとんど窓になっていて。そこから射し込む光が、部屋の中に不必要な明かりが何一つ無くても、充分な光源となって存在していた。そしてその光の束に、人一人分の線が
できている。頭部の部分が、俺が咄嗟に想像する影の大きさよりも小さいのは。俺の頭で考えてしまう頭部は、人間のそれで。そして、目の前で、俺がやってくるのをずっと待っていたその人の頭が、人間ではなくて。俺を
送り出してくれたあのクロイスと同じ、豹の頭をしていたからだった。豹の男が、振り返る。そうすると、その胸元にあるネックレスの先にある、剣を模った銀の小物が軽い音を立てていた。ミサナトで会った時とは違って、
その服は黒を基調にして、胸元に金の刺繍が施されている。黒が基本の種族はあまり見ないから、それはジョウスが自らが軍師であり、また全ての種族に中立である事を、示しているかの様でもあった。
「ようこそ私の部屋へ。一別以来、私が思っていたよりも、時が過ぎてしまいましたね。ゼオロ殿」
「再びこうしてお話をする機会を得る事ができて、とても嬉しく思います。ジョウス・スケアルガ様」
「まさか、あなたとこうして、この様な形で再び会えるとは。私は思っておりませんでした。さぞや、お辛い目にも遭われたでしょう」
「とんでもない。こうして、ラヴーワの軍を預かり、その手でこの国をお守りくださっているジョウス様と比べれば。私なぞ、とてもとても」
笑いかけて話しかけてくるジョウスに、俺も同じ様に返す。胃が痛くなりそうだ。なんだこのジャブの応酬は。言葉選びは上手くないのだからやめてほしい。今すぐ帰りたい。大体その、お辛い目にっていうのは。俺が
異世界人である事を暗に示して言っているのだろうから、とても嫌味がましく俺には聞こえてしまう。俺が内心そう思っていると、ジョウスの方も必要以上に俺をからかうつもりはないのか。ふと笑みを消して、それから、
ゆっくりと俺の下へと歩み寄ってくる。俺も、部屋の入口に居てはと数歩前に歩いて、向かい合う形になった。それでもジョウスは、ソファに座れとか、そういう言葉を口にする事もなく。ただ俺を、じっと見下ろしていた。ジョウスは
クロイスよりも、また少し背が高くて。本当に何から何まで、クロイスがあと数十年経ったら、こんな感じになるんだろうな、という事を幾度となく俺に思わせてくれる。できれば今のクロイスの性格のまま、大きくなって
ほしいけれど。違った。もう少し変態なところは抑えてほしい所存だ。そうなったら安心だな。
「本日は、どの様なご用向きで、お呼びになられたのでしょうか」
俺を見つめたまま黙っているジョウスに、俺は思い切って声を掛けてみる。どの様な、なんて言わなくても。俺を呼んだ理由なんて、わかりきっているけれど。俺が異世界人である事。それから、クロイスの隣に
居る事。それが、気に入らないのだろう。ミサナトでも一度、釘を刺されたし。
俺が率直に訪ねると、ふっと、ジョウスが笑う。なんというか、渋いと思う。嫌な顔で親父なんて言ってないで、この辺りをクロイスは見習うべきだな。後で言っておこう。
「いえ。ただ、あの時は。ミサナトでお会いした時は。あなたをよくよく見る時間もありませんでしたから。そうして、あの時はやはり。あなたがどの様な存在であるのかも、私は知りませんでしたので」
「私が異世界人である事、でしょうか」
「ええ、そうですね」
ジョウスが絶妙に言葉を濁したまま続けるから、俺ははっきりと、言ってやる。こちらから認める事は、妙手とは言えないかも知れないけれど。少なくともこんな腹の探り合いの様な会話をずっと続けている様な根性は、
俺には無かった。軍師としてラヴーワ軍を率い、味方と、時には敵とすら、交渉をする事もあるジョウスには、そういう舌戦からの粘り強い対応だのは、お手の物なのだろうけれど。そんなのは俺の知った事ではないし。
何より、あんまり長引かせると。その内クロイスが飛び込んできてしまうのではないかと。俺は僅かに、背後の扉へと視線を彷徨わせる。
案の定、ジョウスは俺が唐突に口にした言葉に、特に驚いた様子も見せなかった。
「おっと。失礼しました」
ジョウスの言葉に振り返ると、ジョウスは扉に向けて僅かに何かを呟いた後、掌を向ける。そうすると、扉の中心から。まるで水面に小石が投げ込まれて、波紋が広がる様に光の環が広がって。それは扉を乗り越え、部屋の
壁を伝い、やがては広がった輪が窓の方へと消えてゆく。そこから先は、窓からの光で見えなかったけれど。恐らく、輪が部屋全体の壁という壁を、舐め上げたのだろうという事は俺にもわかった。
「これで、外には物音は聞こえません。どうせ、今頃あれは。衛兵の注意も無視して耳でもくっつけているやも知れませんからね」
「確かに、そうですね」
流石父親だ。そう言われた俺も、今頃クロイスが俺達に気取られぬ範囲で、全力で扉から中の様子を探ろうとしているのが脳裏に浮かぶかの様だった。二人で顔を見合わせると、思わず少し笑ってしまう。なんだろう、
この共有している気持ちは。ちょっと残念な息子さんですねとか、今にもよくわからない会話が始まってしまいそうだ。面白そうだけど、怖いなそれは。
「話を戻しましょうか。何故ここに。あなたが聞きたいのは、それなのでしょうから。そうですね。できれば、私としては。あまり表立って行動していただきたくはないと、そう思っております」
「ミサナトで、私を捜している様に。私を捕まえるのでしょうか」
「いいえ。少なくとも、私はそのつもりではありません。それに、少なくとも私個人としては、今そんな事をしている余裕はありませんものでね」
至極当然の事を、ジョウスは言う。軍師として今ここに来て、そうして軍師の面をしているのだから。そんな異世界人だのなんだのというのは、もっと平和な時になってから興味の出る話だ。それに、ジョウスはハンスの事も
あるし。それから、獅族門から俺がここまて悠々と来られた事だって、ジョウスが今述べた事が、嘘ではない事の照明と見てもいいだろう。ジョウスは俺を呼びつけはしたものの、結局のところ、それだけで済ませているの
だから。その気になれば、獅族門に居る銀狼を捕らえろ、くらいの事はいつでも命令はできたし、クロイスもそれを止める事はできなかっただろう。そうしなかった。ただそれだけで、少なくとも今すぐに、ジョウスは俺をどうこう
しようというつもりではない事を、俺は今更だけど理解していた。馬車の中でクロイスにべたべたされたせいだと思う。おのれ豹男。
俺の頭の中で、多分今外でどうにかしようと四苦八苦しているクロイスの株がちょっと下がりつつある頃に。ジョウスが笑みを消して、再び俺を見つめる。見つめる、というよりは。その瞳はまるで、俺の心そのものを
見透かすかの様に細められていた。本気で射抜かれたら、それこそ俺みたいな、まだまだジョウスに比べたら経験の無い子供では、太刀打ちできない程に。
「ですが。あなたに必要以上に出歩かれる、というのも。困ってしまいますね。あなたのその身体を鑑みれば、あまりクロイスと居る事も歓迎できるものではない。それは既に、おわかりでしょう」
「そう、ですね」
親心が半分。それ以外もまた、半分と言ったところだろうか。俺という存在と、そうしてクロイス・スケアルガという存在は。傍から見れば、とても相性が悪い。二人で居るだけで、それぞれに猫族と狼族を刺激しかねない
事を、ジョウスは懸念しているのかも知れなかった。俺とクロイスからしたら、そういう関係があっても、いいんじゃないかって。そう思ってしまうけれど。特に、これからランデュスに立ち向かうラヴーワなのだから。
「それに、あれは大分あなたに熱心な様ですからね」
「そうですね」
特に否定する事もなく、俺は相槌を打つ。ジョウスはそれに、気を悪くした様子を見せる訳でもなかった。
「獅族門での事も、私は把握しております。できれば、クロイスにあの様な行動を、させたくはなかった」
それに、今度は俺の方で少し頷く。クロイスはあの時、俺を助けようとして自ら出てきてしまったから。ジョウスとしては、それは大分頂けなかったのだろうな。だからこそ、謹慎させるというし。しばらくは自分の手の届く
所に置いて、もう少し鍛えようとか、そういう魂胆なのかも知れなかった。そして、そうする上で。俺はやっぱり邪魔なのだろうな。でも俺をここで追い返しても、クロイスがどんな反応をするのかという事を、当然
ジョウスは考えているだろう。下手をしたら、俺が出ていって。その後を、クロイスが追いかけてしまう事を。それは、俺としてもあまり歓迎しない話だ。俺はクロイスの夢を応援したいのだから。なのに、俺に続く様な
真似をさせては。そうしたらクロイスにはもう、二度と自分の夢を叶える力など、与えられる事はないだろう。実際にクロイスがそうするのかは、俺は今一わからなかったけれど。
「ジョウス様。取引を、しませんか」
しばらくの沈黙の後に、俺は口を開いて。ジョウスにそう告げた。ジョウスは僅かに目を開いて、それから、俺を促す様に。右手の指先で、自分の首元にある銀の剣を遊ばせる。ちゃりんと、鎖にぶつかった剣が、
僅かな音を立てた。俺はそれを、少しの間見てから。続きを。
「もし、私の正体が、もっと公に知られる様になってしまった時に。私の後ろ盾になって頂きたいのです」
「と、言うと」
「私は、異世界人です。それははっきりと認めます。けれど、私一人では。ミサナトから出る事すら叶いませんでした。親切な傭兵の方に何度も、何度も助けられて。ようやく出る事ができて。私は、余りにも取るに
足らない存在です。異世界人だというだけで、血眼に捜し回られている方々には、大変申し訳ない事ですが。ですが、それを彼らに言ってどうなるという訳でもありません。彼らはただ、私を捕らえて。そうして、調べられるだけ、
調べたいのでしょうから」
道中、考えていた事を俺はジョウスに告げる。それを、ジョウスは特段驚いた様子もなく聞き入れていた。それは俺も、同じだった。そして、今の俺の身を守るためには、もうこれ以外の道は中々見つけられないだろうと
思っていた。この後俺が一人になっても、どこへ行こうかという話になるし。それに、それをいつまでも続けていられると思うのは、あまりにも浅はかだった。今まではただ、運が良かっただけ。そして、俺を助けてくれる人が
居てくれただけだ。このフロッセルで解放されても。俺は本当に一人きりになってしまう。もしかしたら、クロイスが付いてきてくれるのかも知れなくても。俺はそれを、望まない。それは俺が助かっても、クロイスが全てを
捨てる選択を取る事でしかなかった。
確固たる後ろ盾が、必要だった。結局そういう方向に頼ってしまう自分の弱さを、恥ずかしく思いながら。それでも俺は前を、ジョウスを見つめていた。
「そうでしょうね。私はスケアルガ学園を運営する身ですから。私の本来の立場から言えば。ゼオロ殿、あなたはとても、興味深い存在です。そして今は、あなたのその、振る舞い方もね。それにしても、そこまで
わかっていながら。それでも私に、後ろ盾になってほしいと。あなたはそう言われるのですか」
「私が求めているのは。軍師としての、ジョウス・スケアルガですから」
別に、ジョウスの本来の姿がどういう状態であるとか。そんな事はどうでも良かった。俺が欲しいのは、ラヴーワ軍の軍師を任されているジョウスが、例え俺の正体が誰もが知るところとなろうとも、軍師であるジョウスに
とって俺は必要なので、俺に手を出すなと。そういう状況でしかない。ジョウスが俺の正体を知っているのなら、ここはその庇護を受けられるのか、試してみても良かった。駄目なら、また流れるだけだろうから。
「それから、もう一つ。クロイスの傍に、居させてください」
「クロイスの。それは、また。困りましたね。正直に言えば、あなたとクロイスをどうやって穏便に、別々にさせようかと。そう、私は企んでいる最中でしたのに」
俺の話を、面白がっている様子でジョウスは言う。まるで、俺がどこまで頭と舌が回るのか、試す様な。駄目だったら駄目だったで、その時に俺を捕らえてしまえば良いと、思っているかの様な。底の知れない不気味さが、
伝わってくる。何十年もラヴーワを守っている要人として数えられる存在なのだから、それは当然なんだけど。今更だけど、ちょっと早まったかも知れない。でも今更引けそうにない。後ろ盾と、クロイスの傍に。この二つは、
俺には必要だった。例えジョウスの後ろ盾だけを得られても、その後どう扱われるのかは、わからないから。有体に言ってしまえば。俺を庇護しろ。それだけじゃ不安だからお前の息子も付けろ。そいつ人質にするから、
である。どんな無茶苦茶な要求だって勢いだろう。
「ですが、その二つを私が呑むとなると。あまりにも一方的過ぎますね。それだけの事をあなたにして差し上げる理由が、私にはありません。今のところはね。そうする代わりに、あなたは私に、何かを差し出せる
というのでしょうか? 失礼ながら、それはあまりにも虫が良い話だと言わざるを得ませんね」
「ありますよ。私にできる事なら」
そこまで言って。俺は一歩、後ろに下がる。それから、自分の服のポケットを弄る。手先にある硬い感触。それが、あれである事を。何度も触って確かめた。一度、深呼吸をする。ここからだ。俺が死ぬかどうかは。
顔を勢いよく上げて、俺はジョウスを見た。目を細める。そうして、口だけで笑みを浮かべて。ジョウスの事を、思いきり馬鹿にした様に俺は笑ってやった。
「クロイスを、骨抜きにしない事をお約束します」
ジョウスの目が、かっと開かれる。続けて振り上げた右手から、恐ろしい勢いで炎が巻き起こった。とんでもない熱が、俺へと届く。当たったら一撃で死ねそうだ。
もはや俺の言葉をそれ以上続けさせる事すら厭うかの様に。ジョウスは益々炎の勢いを増した右腕を今まさに俺に向かって振り下ろそうとする。それを見てから、俺もまた。しっかりと右手に掴んでいたそれを突き出した。
炎の燃え盛る音だけが、続いている。炎に照らされて、それが俺とジョウスの間で輝く。俺の手にしっかりと握られているそれは、赤々と照らされる事で、銀の鈍い輝きを、如何なくその場に主張していた。
ファウナックを出る際に、ガルマから渡された。銀のエンブレム。
今、それはそこで。その持ち主となった俺が、初めて使った事を喜ぶかの様に。自身を燦然と煌めかせていた。俺はただ、ジョウスの動きが止まった事だけを確認する。
「差し出口を、叩く様ですが」
俺の言葉に、エンブレムに目を奪われていたジョウスが、ゆっくりと俺へと視線を移す。俺はもう、笑ってはいなかった。それはもう、必要無かった。必要な物は既に揃っていた。ジョウスが、この銀のエンブレムを見て、
動きを止めた。それだけで良かった。
「今のラヴーワの状況で、狼族を完全な敵に回す事は。避けられた方がよろしかろうと愚考しますが。如何でしょうか」
お互いに、無言が続く。ただ、ジョウスの纏う炎だけが。俺の耳に届いていた。けれど、それも長くは続かなかった。ジョウスが軽く手を払うと、今にも爆発しそうな程だった炎は、あっさりと消えて。後には何一つ、
それがあったと思わせる物は残らなかった。
「……あなたの条件を、呑みましょう」
「ありがとうございます。ジョウス様」
あっさりとそう言ったジョウスに、俺は微笑んで、それから深く頭を下げた。死ぬかと思った。死ぬかと思った。
「その、エンブレムは」
「……本物ですよ。残念ですけれど」
ジョウスに言われ、俺は軽くそれを見せてから手早くポケットに戻す。奪われては、堪らないと。ただ、実際のところ、それはもはや問題ではなかった。大切なのは、ジョウスがこれを見て、動きを止めて。そして条件を
呑んだ事だ。つまり流石のジョウスも、俺がファウナックに行った事。そして、ガルマと懇意にしていた事は、把握しきれなかったのである。その上でこの銀のエンブレムは、多分ガルマから余程信用されていないと
渡されないものだから。それを持っている俺をこの場で始末する事は、それこそ狼族の今後がどうなるか、まったくわからない物になってしまう事を意味していた。ただでさえ、狼族の独立の騒動があって、しかしそれを
ガルマ自らが治めたばかりだ。そんな中で、銀狼であり、それもガルマの信を受けた俺がこの場で始末されれば。結局のところガルマの後継者候補である事を放り出してきた俺だから、ガルマが立ち上がるかは別として、
その事実が狼族に広がれば、少なくとも暴動は間違いなく起こる。既に俺の姿は獅族門で目撃されて。そうしてここまで招かれているのだから、今更俺なんかどこにも居ませんでした、なんて装って完全に隠蔽
できるのかは怪しいだろう。何せ俺は、それだけ獅族門では目立っていただろうし。その上で、最後にジョウスが探るべき事は。俺の持つこれが、本物なのか。そもそも俺がガルマにとって、どの様に大事な存在
であるのか。そして、それは真実であるのかという事になる。けれど、残念だけど。ジョウスにそれを確かめる術は無くて、俺を信じる他はない。だってギルスの銀のエンブレムを持った奴が来たから、これは本物なのかと
ガルマ・ギルスに問い質しては、当然ガルマには、ジョウスの下に銀のエンブレムを持つ誰かが居る事を把握されてしまう。そして、スケアルガと、銀のエンブレムを託される様な人物が、おいそれと出会う様な事は、
とても稀だ。ギルスに与する者が、ギルスの敵と見做されてもおかしくはないスケアルガの、それもジョウス自身にそう易々と会うはずがない。当然ガルマは、俺がここに居る事を察するか。もしくは、偽のエンブレムを
持った誰かが居るのかと思うだろう。そして俺はいくらこれを検められようとも、ちっとも構わない。だってこれ本物だし。手渡しされたし。そして、これの真贋は抜きにして、ガルマに連絡すれば俺という存在がここに居る事を
知られてしまう。そうなったら、少なくともジョウスの一存で俺をこの場で殺すなんて事は、できる訳がなかった。完璧に、確実に、俺がここに存在するという事実の全てを消し去らない限りは。ジョウスに打てる手は、
無いはずだ。しかもジョウスは、結局は俺がガルマにとってどの様な関係を持つ相手なのかという事が、わからない。後継者候補であるのかも知れない。それは、クロイス同様察しがつくだろう。しかしその後継者候補が、
何故かここに居て、そうして追い出されたとかならまだしも、銀のエンブレムを持たされてしまっているのだから。とうのガルマが、今俺の事をどう思っているのかは、俺にもわからないけれど。それでもガルマの信用と信頼を
受けた相手である事を証明するこのエンブレムを持つ俺に手を出すなどと、おいそれとできはしないだろう。
一つだけ懸念があるとすれば、ジョウスは俺が異世界人であると知っている事だ。ジョウスが今、咄嗟に俺を殺そうとしたのは。俺が異世界人であって、多少の無理を通してこの後クロイスが騒ごうとも、己の権力で
揉み潰せると思ったからだろう。けれど、既に俺はガルマとの繋がりを持っているから、そうする事ができずに条件を呑むしかなかった。しかしこれは後からガルマに、正直に相談される様な事態になると、困る展開
でもある。ガルマは俺が異世界人である事は知らないのだから、俺が異世界人である事を知ったガルマが、俺に失望して。そんな奴は好きにしろと言われては、困るけれど。でも、そういう結果が訪れるのは、ずっと
先の話だ。ジョウスが確認しようとしても、ジョウスからの使いなんてガルマにおいそれと近づける物ではないし、近づけたとしても、ガルマがそれを信じるまでにも時は掛かる。というより、そんな話をされてガルマが
信じるとは思えなかった。相手はあのジョウスなのだから。例えどれ程ジョウスが正しい事を口にしても、銀狼とスケアルガの因縁の当事者である二人が、そんな簡単に通じ合える訳がない。ガルマがそれに頷く事は
ほとんどないだろう。例えガルマがその気になっても、その周りの者もまた、決してジョウスに阿る様な真似はしない。そして、そこまでの事をするくらいなら。ジョウスは、恐らくガルマにこの事を告げない。英雄グンサを、
そして銀狼の数々が死に至る原因を担ったのは、他でもないジョウスなのだから。そんなジョウスの言葉が信用されるとは、外野の俺でも到底思えなかった。だったら、ガルマにはこの事を黙っていた方がまだ上手く、
俺を誤魔化したりして、いずれはどうにかという方を取るだろう。いずれにせよ、その間に俺は、俺が始末されない様に。必要そうな物の準備をすれば良いだろう。だから今ここでジョウスが頷いてくれた事で。少なくとも
俺の当面の安全は保障された様なものだった。
どうせなら、もう少しファウナックで暴れておいても良かったかも知れないな。ゼオロという名を、ファウナックで不動の物にしておけば。族長にさえならなければ、異世界人という事が知られても。俺の銀と相まって、
多少の効果はあったかも知れない。とはいえ、異世界人である、故にギルスの血を引く、狼族が求めている真の銀狼ではないという事が知られては。これもどう転ぶかわからないので、多分今が一番良いと思うけれど。
「私からのお話は、以上です」
「そうですか。私も、とりあえず今のところはありませんね。また、何度かゼオロ殿にお話をさせていただく事はあると思いますが」
「その時は、お茶でも飲みながらにしませんか。私は、こういう駆け引きという物は、まったく不得手でございまして。ジョウス様の様な方からすると、つまらない奴だと思われてしまいそうで。とても、心苦しく思ってしまいます」
「そんな事は、ありませんでしたよ。ええ。今日のところはね」
それで、ジョウスとの話は終わりだった。息苦しくて死ぬかと思った。
「お身体を大事にしてくださいね。それから、私みたいな奴にこう言われても、ご迷惑かも知れませんが……お仕事、頑張ってください」
それでも。俺は去り際に、もう声音を繕う事も止めて。ジョウスにそう言った。ジョウスは苦笑しながら、僅かに頷いてくれる。扉を開けて、部屋の外に出ると。俺は思わず、自分がどこに居るのかも忘れて。大きく溜め息を
吐いた。疲れた。十年分くらい頑張った気がする。ジョウスの事をかなり煽ってしまったし。ただ、ジョウスに手を出させる様に仕向ける事は、一歩間違えれば俺が上手に焼けてしまいそうだという危険はあったけれど、
必要な事だった。実際のところ、俺がああして煽ったからと言って、ジョウスはそれ程取り乱した訳でも、平静を欠いた訳でもなかっただろう。ただ、そこで突然に銀のエンブレムをちらつかせる事で、多少は揺さぶりを
掛けられたはずだ。少なくとも、部屋に入ってすぐにエンブレムを取り出して、自分はこういう者であるからと名乗るよりはジョウスに考える猶予を与えずに事を運べた。どれだけ聡明な人物といわれ様が、咄嗟の、
しかもある程度冷静さを欠いている時に、全ての判断を正しく下せる奴なんて居る訳ないのだから。それがほんの少しでも効果があれば良いなと思う。でもちょっと毛先がちりちりしている気がする。困った。
「ゼオロ」
とぼとぼと歩いていると、少し離れた位置から、ちょっとしょんぼりした顔のままクロイスがやってくる。やっぱり衛兵に怒られたんだな。
「どうだった?」
「……とりあえず。しばらくここに居て良いって。行く当てが無かったから、助かったよ」
「マジで。じゃあ、俺と一緒に居るのもあり?」
「うん。右も左も、わからないから。クロイスさえ良ければ」
「いいに決まってんじゃん。そんじゃ、行こうぜ。俺の部屋、もう用意されてるって言われてたんだけど。ゼオロちゃん来るまで待ってたから。このまま案内してもらおう」
そう言ってクロイスが振り返ると。既にクロイスを案内するための兵がそこに、数名佇んでいた。それに導かれて、俺はクロイスが当分は謹慎という名目で使う部屋へと案内される。謹慎とは名ばかりの、豪華な部屋
だった。それでも、この館にはジョウスも居るのだから、まあそういう意味ではクロイスにとっては息苦しいのかも知れないな。
「ゼオロ。部屋が無いなら、こっち使いなよ。なんかいくつも部屋あるみたいだし」
クロイスの部屋、と宛がわれたそこは。入ってすぐはリビングというか、テーブルを囲む様にソファがあって、そして壁には地図ではなく、絵画の類が飾られていた。丁度、ファウナックのガルマの館で、俺に与えられた部屋の
一部である、応接間のそれだった。その部屋を中心として、いくつかの部屋へと通じている様で、クロイスの部屋はかなり広く作られて調度も揃っている。獅族門でクロイスが使っていたあの部屋を思い出す。流石に
クロイスの親だけあって、ジョウスはクロイスが不満を零さないくらいの部屋を用意した様だった。クロイスなら、必要ならもっと質素な部屋でも耐えられそうだけど。でも根はかなり派手なのが好きみたいだしな。俺は、
断固拒否したいところだけど。
そして、クロイスが俺に使う様にと言った部屋はというと。クロイスの部屋と比べるとずっとこじんまりとしていて。多分使用人とか、もしくは客が泊まりの時に使う様な感じだった。清潔なベッドと、書き物に適した机と
椅子があって。あとは至って普通の家具と、壁に複雑な模様のクロスが掛かっていて、それからバルコニーへと繋がる大き目の窓があるだけの。俺からすれば、それでも充分に広いと思える一室。元の世界でも、旅行先で、
こんな風にファンタジーな匂いのする部屋に通されたら、しばらく現実逃避でもしながら心地良く過ごせそうな。そんな感じだった。
「それとも、俺の部屋に……来る?」
「それはいいや」
部屋を見渡している俺の後ろでいつの間にか跪いていたクロイスが、俺の手を取って振り返らせながら、熱っぽい視線を飛ばして情熱的に囁いた言葉をとりあえず無碍にして。俺はまた部屋を見渡す。クロイスは
がっくりとした様だけど、すぐに元に戻っていた。なんだかだんだんタフになっている気がする。
部屋を見るのはそこそこに、また応接間の方へと戻ると。とりあえずクロイスは人を呼んで、軽い飲み物を持ってこさせて。二人きりになると盛大な溜め息を吐いていた。やっぱりクロイスはクロイスで、色々と複雑な
心境だったんだろうな。
「いやぁ、それにしても。親父がゼオロの事を受け入れてくれて良かったよ。元々、ミサナトに居た時からあんまり良い顔はしてなかったし」
「まあ、銀狼だからね。それも今では、ガルマ様にまで目を付けられる様な。ジョウスさんからすると、穏やかじゃないだろうけれど」
「だよな。ああでも、なんとか無事に済んで良かったよ。思ったより親父も話がわかるんだな。てっきり俺は、ゼオロちゃんの事追い出すんじゃないかって。すっげー心配してたんだよ」
それを聞いて、俺は苦笑いをして誤魔化す。クロイスは、まさか俺がジョウスにあんな事を言ったなんて思っていないだろう。俺は思いっきりクロイスの事を人質にしてしまったけれど。お前の息子を誑かさない事を
約束する代わりに俺の後ろ盾になれと。思い返すととんでもない事言っちゃったな。その内毒でも盛られかねないなこれは。
飲み物を置いて、俺はソファか立ち上がると、向かい側に居るクロイスの下へと向かう。
「……ごめんね、クロイス」
「え? 何が?」
突然の事に、クロイスはぽかんとした顔をする。それを見て、俺はただクロイスの頭を抱く様にした。そうすると、俺から率先してする事は珍しいから、クロイスは目を細めて笑ってくれる。そういう顔をされると、尚更
自分がした事が後ろめたいのだけど。
「謹慎しないとだけど……ゼオロちゃんと一緒なら、悪くないなぁ。というか、これもう同棲だよね。結婚もまだなのに、俺達こんな関係に」
「悪いけど。ただ一緒に暮らすだけ、だからね」
「えー。こんなチャンス、滅多に無いのに。俺多分我慢できないと思うんだけど」
「駄目だよ。ジョウスさんにも、そう言われてるんだから」
「え? 親父が? なんだよ、今更俺が誰と付き合うかとか。手を出すかとか。そんな事、言われる筋合い無いのにな」
確かに。バンカ育ちのクロイスなら、そうなんだろうな。ああ、今でもあの街の恐ろしさを俺は思い出してしまいそうだ。クロイスが沢山居る街だ。怖い。
「私がまだまだ子供だからね。もっと大人になってからにしなさいって事だよ」
本当は違うけれど。でも、ジョウスとの約束は守らなければ。クロイスが暴走した限りは、請け合えないけれど。俺の手では、クロイスは止められないし。
「そっかー。そうだよなぁ。ゼオロちゃんの小さな身体じゃ、負担が大きいよなぁ」
なんの話をしているんだと、思わず俺は抱き締める腕を解いて軽く頭を小突く。小突いてから、拗ねはじめたクロイスを宥める様に、今度はその頭を何度か撫でてみる。そうすると、案の定喉が鳴りはじめていた。クロイスは
こういう表現がとても率直で、わかりやすいと思う。人を預かる身として、色々と考えたり、感情を表に出さない様にする事もしっかりと身に着けているはずだけど。根はやっぱり、素直なんだろうな。
ぱっと俺が離れると。クロイスは少し、名残惜しそうな顔をしていて。それを俺は、まっすぐに見つめた。
「いつまで一緒に居られるのかは、わからないけれど。よろしくね、クロイス」
「そんな事言わないでよ」
「だって、クロイスは謹慎しているからここに居るんでしょ。それが解かれたら、どうなるのかはわからないじゃない」
「まあ、そうなんだけど。俺も、ゼオロちゃんを戦場になんて、連れていきたくないし」
それは、嫌だな。俺が戦場に行くのが、ではなくて。クロイスが戦場に行ってしまう事が。獅族門の時の様に、クロイスの身に危険が及ばない可能性は高いのだろうけれど。でも、クロイスの本懐は。戦をする事では
ないのだから。本当は、戦うのは好きではないのだから。そんな状態で、戦う事を強いられたら。きっと、どこかがおかしくなってしまっても不思議じゃないと思うし。
「なんとか、できたらいいのにね。戦わずに済めば」
「そうだね。だけど、難しいな。俺がそれを言ったら、駄目なのかも知れないけれど……。少なくとも、ランデュスとの衝突は、もう避けられないだろうな。それもこれも、筆頭魔剣士のヤシュバのせいだけど」
ランデュス軍の、筆頭魔剣士のヤシュバ。筆頭魔剣士という呼称は、こちらでの物だけど。言い換えれば、総帥とか、そういう言葉が妥当なんだろうな。竜神であるランデュス自身は、戦場に出てきたりするのだろうか。俺は
まだ、その辺りはわからないけれど。そういえば、ガーデルは。前筆頭魔剣士のガーデルは、今何をしているのだろう。俺はよくわからない偶然で、一度知り合ったけれど。ガーデルが筆頭魔剣士のままだったら、休戦は
もう少しは、続いていたのだろうか。どうも爬族の事を切っ掛けに、色々と物事が動いている様にも見えるから。もしガーデルがまだ筆頭魔剣士を続けていたのならば、こんなに早く、事態は動かなかったかも知れないとは
思うけれど。
「いずれにせよ、休戦は休戦。終戦ではないから、いつかはまたぶつかり合う関係だった。あとは俺に、何ができるのか。それだけなんだな」
そう言うクロイスの顔は、さっきまでとは違って。重苦しい雰囲気を漂わせていた。よく変わる顔だなと思いつつも。やっぱりそれが、クロイスの本心で。だからこその夢なのだなと思う。それに、何か少しでもいいから、
俺が役に立てればいいのだけど。今のところ寧ろ足を引っ張った感じがしてしまう。ジョウスを脅してしまったところとか。
「まあそれはそれだ。んじゃゼオロちゃん、街に行こうよ。ずっと馬車ばっかで、退屈だったっしょ? フロッセルの街は、俺は何度か来たけれど。あんまり見て回れなかったからさ。俺も楽しみにしてたんだよね」
前言撤回。真面目なクロイスは、どこかへ霧散してしまった。
「謹慎なら、部屋で大人しくしていた方が良いんじゃないの?」
「外に行くなとは言われてないんだよなぁこれが」
そういう問題なのだろうか。そう思いながら迷っている俺の腕を、クロイスが取る。それが、なんとなく初めてクロイスと会った時の様な。ミサナトの街で過ごした、今は遠くなった日々を俺に思い起こさせてくれる。
「息抜きする事も大事だよ」
もっともらしい事を言って、クロイスが片目を瞑る。それから俺は、着替えを済ませて。そうして、待っていたクロイスと一緒に、フロッセルの街へと繰り出していった。いつかはやってくる、ラヴーワとランデュスの戦いの
事も、今だけは忘れて。フロッセルの街の空気は、少し緊張に包まれていたけれど。それでもクロイスは、然程気にした様子もなく。道をあまり知らないというのに、自信満々で俺を案内しようとしていて。次第に俺も、
街の様子を。クロイスと一緒に居る事を。純粋に、楽しむ様になっていた。
それでも、ジョウスとの話を思い返しては。無邪気に笑っているクロイスを見て、ちくりと胸が痛んだ。
フロッセルの街に来てから、半月程が経って。その日も俺は、いつもの様にベッドから起き上がると、小さく伸びをしていた。
今のところ、ジョウスは俺に何かをしようとする気配を見せないので、随分久しぶりにのんびりとした時間が送れている気がする。そもそも、ファウナックを出たところから始まって、ミサナトを大慌てで出て、ベナン領に
入ったら入ったで、今度はクロイスとヒュリカが居ると聞いて、更に急ぎで獅族門に行って。そっちを解決したら、今度はジョウスに呼ばれて、そしてこのフロッセルまでやってきて。あまりにも多忙続きだった。それが、
今ようやく落ち着ける場を得られたのは、とても喜ばしい事だと思う。俺の今の立場が、いつまで続くのかはわからなかったけれど、それでもゆっくりと身体を休める時も確保できなければ、その内倒れてしまうのは
わかりきっていた。バンカの街でも、一度そうして熱を出して。ヒナに迷惑を掛けてしまったし。
今の俺の立場は、クロイスの友人として周囲には知られていた。それから、一応は軍師の卵であるクロイスの相談相手としても。とはいえ、これが建前にしか過ぎないというのは、この館に詰めている人には
わかってしまうだろうな。それくらい、クロイスが俺にべたべたしているし。一応、俺は自分の、というよりクロイスに与えられた部屋からは極力出ない様にしているけれど。外で目立っては、それこそジョウスに
睨まれてしまうばかりだ。とはいえ、ジョウスも今はとても微妙な時機だから、あまり俺なんかに感けている時間は無いのだろうけれど。
そしてクロイスはというと。部屋に居る時は俺にべったりとしてくるけれど、謹慎中であっても必要な情報はきちんと集めて、場合によってはジョウスと直に話をしにいっていた。謹慎とはいえ、親子の会話まで他人に
口出しされる謂れは無いのを良い事に、結構深いところまでジョウスとは話をしているみたいだった。だからこそジョウスも、自分の手元にクロイスを置こうとしたのかも知れないけれど。クロイスはクロイスで、そういう時は
真面目になって臨んでいる様だった。
「ミサナトの時みたいに、ゼオロちゃんが居るから現を抜かしてるって言われたくないからね」
朝早くから、ジョウスの予定の関係で部屋を出てゆくクロイスを俺が褒めると、そんな事を言ってくるから。思わず関心してしまう。
「そして結婚を認めてもらう」
「認めてもらえないと思うけれど。あと私も承諾してないけど」
真面目な顔をしたままこっちに攻撃してくるの止めてくれないだろうかと思う。クロイスを見送ってから、俺は一人部屋に残って。いつもの様に、クロイスが差し入れてくれた本を読み漁っていた。見た目にそぐわず、
割と読書家でもあるクロイスは。俺が楽しめそうな本を見分けるのが非常に上手くて。フロッセルの街に行った時も、とにかく俺の興味を引く物を手に取ってくれたので、こうして部屋に引き篭もっていても、俺は退屈を感じる事も
なかった。そういうところは本当に、クロイスは凄いと思う。俺の事をよく見て、俺を知って。俺が何が好きなのかと、すぐに理解してしまう辺りが。反対に俺は、クロイスの好みはいまだによくわからなかったりする。何が
好きなのって訊ねると、俺をじっと見つめて、それから嫌らしく笑う豹男の好みなんてわかる訳がなかった。
読みかけの本を閉じて、窓から空を見上げる。晴れ渡る空は、まるで現在のラヴーワとランデュスの危うい情勢の事など、何も知らぬかの様に。そんな事は、何も無いのだと言うかの様に。清々しさだけを俺に
伝えてくる。平和を満喫しながら、それでも俺は、これで良いのかなと思ってしまう。今の俺にできる事なんて、これ以上何があるんだって話だけど。クロイスだったらまだしも。俺は結局、ただの銀狼で。何かしらの力が
ある訳ではないのだから。一般人と言っても差し支えないのだから。よしんば戦が始まったとしても、さっさと避難しろと言われるだけだろう。戦争その物を、止められれば。それが良いのにな。
そんな事を考えていると。ふと、遠くで扉が乱暴に閉まる音がする。応接間の扉だろうか。耳を震わせて、部屋の扉を見ていると。今度は俺の部屋の扉が勢い良く開かれる。一瞬身構えたけれど、それがクロイス
だという事を知ると、俺は肩の力を抜いた。
「おかえり、クロイス。どうしたの、そんなに慌てて」
「ゼオロ」
まっすぐに俺を見つめる、クロイス。その表情は、焦っているというか、困っているというか。なんとも形容し難い状態で。それがいつもと違っていたから、俺は思わず本をベッドに置いて、立ち上がって歩み寄る。
「どうしたの。何か、あったの」
「手紙は、見てないんだな」
「手紙?」
なんの事だろうかと、俺が改めてクロイスを見ると。その手に握られているのは、封筒だった。封を切られたそれは、既に中身をクロイスが読んだのだろう。何か、気になる事でも書いてあったのだろうか。
「ゼオロ。……俺に、何か隠している事なんか、ないよな?」
突然に、そう言われて。俺は咄嗟に、ジョウスとのやり取りを思い返す。隠していると言われれば、あれだけど。その事なんだろうか。
俺が首を傾げていると。クロイスは俺がまったく話を呑みこんでいない事に気づいたのだろう。一度謝ってくれて。それから、おずおずと。その手に握っている封筒を見せて。次には、その中にあった紙を取り出してくれる。
「ゼオロ宛ての、手紙なんだ」
「私? なんで、私に?」
俺に手紙を送ってくる奴なんて、どこにも居ないだろう。そもそも今、俺がこのフロッセルの街で、その中にある館で世話になっている事なんて誰が知っているんだよって話になる。知っているとするのなら、獅族門に
詰めていた人達くらいだろうか。クロイスと一緒に、ジョウスに呼ばれて俺はあそこを後にしたのだから。それ以外で知っていそうなのは、ヒュリカくらいか。でも、クロイスの表情と言葉から察するに。恐らくはその人達の
誰でもないのは、なんとなく俺にも察する事ができる。
「誰からなの」
その言葉で、クロイスはほんの少しだけ緊張を解いた様だった。俺がまったく思い当たらぬ事に、クロイスも気づいたのだろう。けれど、再びその表情は険しくなる。
「落ち着いて聞いてほしい。俺も、あんまり落ち着いてないけれど」
そう言ってから、クロイスは封筒と手紙を見下ろしていた。その手が、僅かに震えている。
「手紙の差出人は……筆頭魔剣士の、ヤシュバだった。銀狼のゼオロ宛てだ」
クロイスの言葉に、俺は固まる。今なんて言ったの。そう言うと、クロイスは復唱してくれた。聞き間違うはずもなく、それは今、俺が属するラヴーワの国が敵対し、そうしてもうすぐ休戦を終えて、再び激烈な戦を繰り広げるで
あろう敵国であるランデュスの。今全ての元凶とまで密かに俺が思っている、筆頭魔剣士のヤシュバの名に間違いはなかった。
「どういう事なんだよ、ゼオロ。説明してくれよ……。ゼオロは……ランデュスと、繋がってるのか」
苦しそうなクロイスの声が、聞こえてくる。そんな事はない。そんなのは知らない。そう言ってあげたかった。けれど、俺もまた。突然にやってきたその手紙に動揺していて。
結局俺がまともに言葉を返せる様になったのは、それからしばらく後の事で。それでも、クロイスを納得させてあげられる様な言葉は中々言ってあげる事ができないでいたのだった。