ヨコアナ
28.見出されし青
森閑とした世界の中。私は、私に立ち向かうその金竜を、ただ見つめていた。夕陽に焼けた金が、眩く輝いている。
足元には、半ば荒れた大地が。そして、金竜の向こう。見渡す限りは一面の壁が。私の背丈より、二倍程は高い壁が見える。私と金竜を囲む様に、それは設えられていて。そこが闘技場だという事を。そして、今。私と、
その金竜の男との試合が繰り広げられている事を、一目見て、わからぬ者とて居ないだろう。
いつぞやも、私はここに立っていた。その時私の目の前に居たのは、黒い竜だった。ヤシュバという名のその竜に、私は親切そうな声を掛けながら。内心では、くだらない事だと、少し馬鹿にもしていた。剣を交えるまでは。
しかしそのヤシュバは、驚くべき剣の使い手であり。そうして、思わずここがどこであるのかも忘れた私が、本気で切りかかっても。結局のところ、それ程勝負を長引かせる事もできずに、私は敗北を喫して。そうして、
私の次に剣を交わした、当時の筆頭魔剣士であるガーデルも、またヤシュバの前に敗れたのだった。
あの時は聞こえていた、熱狂的な歓声は、今はどこからも聞こえない。本来ならば、そこに居並ぶべきであるはずの観客達。ランデュス城に詰める者と、それから、幸運にも抽選により選ばれた市井の見物客の姿は、
どこにも見えなかった。ただ、それでも。広い観客席の中に、ただ一つ作られた豪奢な場所には。あの時私とガーデルを下したヤシュバと、そして宰相であるギヌスが、私と金竜を食い入る様に見つめている。そして、
審判役を務めために、私達から少し離れた位置に、紫紺の鱗を持つユディリスが立っていた。私と、私に対する金竜の試合を見届けているのは、今はこの三人だけだった。
私は。剣を構えて、荒い息を吐く金竜を。ドラスの事を見つめた。息が上がっているのは、私も同じだった。こうして剣を打ち合って、既にどれ程の時が経ったのか。それを知る術もなかったが、今も戦いは続いていた。
ドラスが私に、決闘を。筆頭補佐の座をかけた勝負を挑んできたのは。季節がそろそろ、冬の訪れを告げる様になった頃だった。目を傷めて臥していた私は、私の仕事をドラスに手伝わせながらも治療に専念して。その内に、
どうにか視力を回復させる事には成功したのだった。それを殊の外喜んでくれたのは、私の世話を甲斐甲斐しくしていたドラスで。そうして、また私が回復したからには。私は再び、筆頭補佐としての役目を全うしてゆく
だろうと。ドラスは疑ってはいなかった。しかしここで、一つ問題が生じる。私の目は、確かに従来の機能を取り戻す事に成功した。十全に働くと言っても、過言ではなかった。しかし本当の問題は、私の目ではなく、それ以外の、
私の身体に訪れはじめていた。治療に専念するために、魔法を行使しているからこそ。私にはそれが良くわかった。自分の身体から、力が少しずつ損なわれている事に。もっとも、それですぐに、私の強さの全てが
失われてしまう、という訳ではなかったが。しかし、まるで老いる様に私の力が日々弱まっているのは、事実だった。
目の治療を終えると、私は精力的に鍛錬に励んだ。翼族の谷から、このランデュスに帰ってきて以来、碌々身体を動かす事もなかったのだから、そのせいかも知れないと。しかし本当のところは、わかっていた。例え
その様な生活を送ろうとも、私の魔導の力が衰えを見せているのは、まったく別の事が原因であるという事は。竜神の魔法をその身に抱えて。そうして発動したが故の、後遺症と見るべきだった。
筆頭補佐として復帰してからも、一目を盗んでは、私は己を鍛える事に躍起になっていた。こんなはずはない。そう、思っていたかった。しかし、やはり成果は芳しくはなかった。魔力の衰えに続く様に、身体能力にも、
多少の翳りが見えていた。
「リュース様」
思い悩む私の下へとドラスがやってきたのは、いつだっただろうか。ドラスは、私の異変に気づいていた様だった。それも当たり前の事だ。ドラスもまた、ランデュスに戻ってからは。私の前に居ない時間は、鍛錬に
明け暮れ、そして私が筆頭補佐として復帰してからは、それは更に激烈な物へと変じていたという。私を下し、筆頭補佐の座を手に入れると言い放ったドラスの言葉に、嘘偽りは一つとしてなかった。私や、そしてヤシュバ
さえも驚く程に、最近では腕を上げていた。
「どうした」
ドラスはしばしの間、口を開く事を恐れている様だった。それでも、その内に私の目をまっすぐに見据えて。
「俺と。筆頭補佐の座をかけて、勝負してください。正式な決闘を申し込みます」
そう、言ったのだった。私は少しの間ドラスを見てから、静かに頷き、それを受け入れた。いつかはやってくると思っていた時は、意外にも早く来てしまった。そう、思った。
そうして、気づけば闘技場の中。本来であるならば、多数の観客に囲まれて行われるその試合は、私とドラスの決闘を許可した竜神が何かの意図でもって、招いたのは三名だけに。即ち、筆頭魔剣士であるヤシュバ、
宰相であるギヌス・ルトゥルー、副宰相であるユディリス・トワリスのみとなった。それから、姿こそ見せはしないが。竜神もまた、この試合の様子を感じ取ってはいるだろう。
かくして始まった試合は、私の想像以上の物だった。翼族の谷に向かう途中でドラスとは何度か手合わせをしたはずだったが、あの頃よりも更にドラスは強くなっていた。そして、対照的に。私は、万全とは
言えなかった。しかし、今更無かった事にしてほしい、とも言えなかった。それに、今の私で及ぶ限りの事をしているのは、わかっているのだ。私はもう、以前の私には戻れなかった。
ドラスが、飛び込んでくる。不意に、私は目の霞みを覚えた。こんなところで。試合が長引いた私の目は、完全に治ったのではなく。長い戦いには、耐えられない物になっていたのだと。今更の様に悟った。
気づけば、腕に痛みが走り。私の剣は取り上げられていた。ドラスに組み伏せられ、私の喉元に、剣が突きつけられている。
「……あ……勝者、ドラス」
黙り込んでいたユディリスが、遅れて審判の役目を果たす。観客も居ない今は、歓声も何も、起きる事はなかった。ただ、私とドラスの荒い息遣いだけが。場所が場所であったならば、またドラスの熱でも取って
やろうかという、その始まりであるかの様に聞こえていた。
ゆっくりと、ドラスが私の上から身を引いて。そして、私を助け起こす。立ち上がった私は、ドラスを見つめていた。ドラスもまた、目を見開いている。自分が勝った、ということさえ。この金竜は感じていないかの様だった。
私は。自分の掌を見つめた。痺れた手。一度、強く握る。そうして、顔を上げた。呆けたままのドラスへと、声を掛ける。
「よくぞ、私を破った物だ。お前の成長振りは、末恐ろしいな。ヤシュバ様程とは言わないが。お前ならば、ヤシュバ様の隣に居ても。誰も、咎めはしないだろう」
少なくとも、今の私よりもドラスは強い。ここは潔く、ドラスの強さを讃えるべきだった。それに、ドラスが予想以上に強くなったのは、本当の事だった。まだガーデルか筆頭魔剣士だった頃のドラスは、私の記憶にも
無い様な、その後ヤシュバが取り上げるまでは名前も知らぬ相手だったというのに。それが、まさか。この短期間でここまで強くなるとは。それだけは、感嘆に値するものだ。
「リュース、様」
「お前は、まだこんなに若いというのに。こんなにも早く、負けてしまうとは。私は思っていなかったぞ。ドラス」
ドラスが、口を閉じては開く事を繰り返していた。それから、その瞳から、涙が流れ落ちる。それを見て、私はできる限り笑みを作った。
「おめでとう。いや、違うな。……おめでとうございます、ドラス様。新しい筆頭補佐の誕生を、この目で見る事ができた。私にとって、望外の喜びでございます。どことも知れぬ地で果てる事もなく、こうして無事に筆頭補佐の
役目を終える事ができた。私の最後の仕事として、ふさわしい物でございました」
ドラスは、何も言わない。ただ涙が、止め処なく溢れている様だった。私は隣に来ていたユディリスに向き直る。
「それでは、ユディリス様。後の事は、お願いします」
「リュース」
ユディリスがその手を上げかけるのを最後まで見ずに。落ちた剣を拾い上げて、背を向けて歩き出した。後ろから、ドラスの嗚咽が聞こえる。
「リュース」
闘技場から出ると。重い足音が聞こえてくる。振り返るとそこには、ヤシュバが居た。
「これは、ヤシュバ様。お見送りにでも、来てくださったのでしょうか」
「どういう、事なんだ」
「何が、でございましょうか?」
「俺は、こんな話は。聞いていない」
「そうでしょうね。あなたには、話した憶えもありません」
ヤシュバとこうして、必要以上に口を利くのは。それこそ、私が翼族の谷に向かう前まで遡る程で。私はつい、これまでの事も忘れて。からかう様な口をヤシュバに利いてしまう。また、それはヤシュバも同じ様子だった。ずっと
沈黙を守る様に、私や、他の者の前で硬い顔をしていたのは、やはりただの仮面で。今のヤシュバは、いつぞや見ていたかの様な頼りなさと、不安気な様子を滲ませていた。それを見ると、私はなんとなく、初めてヤシュバを
筆頭魔剣士として迎えた時の事を、思い出してしまう。今となっては、筆頭補佐でなくなった私では、もはや近づく事もできはしない相手となってしまったが。
それ以上、続けて言う事もなくて。私はそのまま速足で行く。ヤシュバが、私を呼んでいた。
闘技場から、外へと出る。ランデュスの闘技場は、街の外れにあり、街までは多少の距離があった。観客も居なかったせいで、今その道に、他の者は見当たらない。夕焼けが、私を照らしていた。そうすると、私の
忌々しい青も。少しだけ鮮やかに見える気がする。
「リュース!!」
怒鳴り声と、風。見上げれば、翼を広げたヤシュバが、私の前へと降り立って。道を塞いでいた。
「どうやら、大分飛べる様になった様ですね。おめでとうございます」
「そんな事は、どうでもいい。俺と、話をしろ」
荒々しい身振りと一緒に、ヤシュバは私を睨みつける。私は負けじと、それをねめつけてやった。
「うるせぇな。俺はもう筆頭補佐でもなんでもねぇんだよ。さっさとそこを退け」
面倒になって。そう言ってやった。ヤシュバの表情が、はっきりと驚愕に包まれる。それでも、ヤシュバは道を空けようとはしなかった。
「リュース……。どうして」
「どうしても、何も。ドラスが勝ったんだ。これからは、ドラスがあんたを支えるだろう。俺は、あとはもう竜神様の下へ行って。必要な事を済ませて、それで終わりだ。やっとお前のお守りからも、解放される」
「嫌だ。俺は、リュースが良い」
「それを決めるのはお前じゃねぇだろ」
筆頭補佐を決めるのは、ヤシュバではなかった。勿論今の筆頭補佐が気に入らなくて、それをすげ替えるとか。そういう事は、できなくはないだろうが。それも、少なくとも当人との話し合いが必要だ。そして私は、
これでお役御免となったのだった。筆頭補佐でもなんでもない、ただの青い竜である私には。もう何も無い。できる事など、残ってはいなかった。筆頭補佐という地位があったからこそ、私はこの様な身でありながら、
神声を聞き、ヤシュバや、ギヌスや、ユディリスと軽々しく口を利く事も許されていたのだった。ただの青い竜となった今の私では、それは許される事ではなかった。
ヤシュバが手を伸ばして、触れようとしてくる。それを、私は乱暴に払い除けた。
「退け」
「嫌だ」
戸惑いながら、しかしその内にヤシュバは、決心をしたのか。佩いていた剣を、抜いた。それを、私は嘲笑ってやった。
「口で駄目なら、そうやって脅すのか。つくづく、餓鬼だなてめぇは」
「どうせ、俺は餓鬼だ。お前の半分も生きちゃいない。俺と、戦え」
笑ったまま、私はヤシュバの事を見つめていた。口調を変えて、脅しても。ヤシュバは引きそうになかった。仕方なく、私もまた剣を抜く。
「筆頭魔剣士である、ヤシュバ。何を望む」
「俺が勝ったら。俺と、話をしろ。勝手に行く事を、俺は許さない」
「では。俺が勝ったら。二度と俺の前にその面を見せるな。不愉快だ」
ヤシュバが構える。それへ、私は地を蹴って。回り込む様に駆け寄る。とはいえ、それは半ば絶望的な戦いと言わなければならなかった。例え以前の私が、全力で。剣だけでなく、魔導にも頼り切って攻めたとしても。本気の
ヤシュバを倒せるはずがないというのに。それどころか今の私は。言葉にするのならば、衰えていた。そうして、ドラスとの戦いの後で傷つき消耗している。勝てる道理など、存在していなかった。
それでも、どうせならばと。私は残った力の全てをぶつける。これで最後だというのならば。ヤシュバが、私と戦う事を望むのならば。最後まで、私はヤシュバの望む私でありたかった。
目に寄る魔法は、今の私では到底使えそうにない。代わりに、足先に神経を集中させた。踏み抜いた位置から、細く、長く。氷柱が飛び出す。私か駆ければ駆ける程。大地を踏む程に、それは大地から突然に現れて、
そうしてその鋭い切っ先の全てがヤシュバに向けて一直線に伸びてゆく。今まで見せていなかった使い方だが、予想通り、ヤシュバが怯んだのは一瞬だった。すぐさま構えていた剣で、氷柱を順に切り落としてゆく。氷柱が
いくつも切り落とされた頃に私はヤシュバまで辿り着き、なんの躊躇いも無く切りかかった。ヤシュバが私の剣を受けた瞬間に、仕掛けるだけ仕掛けて、伸ばしていなかった残りの氷柱を動かす。丁度、ヤシュバの背後に
当たる位置の物を。ヤシュバが、雄叫びを上げた。それと同時に、とてつもない熱を感じて私は引く。翼を大きく広げたヤシュバの姿が、揺らめいた。相変わらず地肌と服がどちらも黒いせいで、まるでそこに黒い彫像が
立っている様な印象を受ける。それでも、その瞳もまた、同じ黒であるはずなのに爛々と輝いていた。夕陽を受けたその身体の全てが、まるで燃え盛っている様に見える。翼を広げたヤシュバが吠えると、ヤシュバに
向かっていた氷柱が全て弾け飛んで。水となった物からあっという間に蒸発してゆく。ヤシュバが魔法に頼る姿を見るのは、今までずっと傍に居た私にとっても中々に珍しい事であった。魔法というよりは、ほとんど
気迫に近い使い方ではあるが。ヤシュバが吠え狂えば、その意図を汲み取った身体に眠る力が、周りを焼く。或いは、全てを吹き飛ばす。高度な詠唱などとは無縁の、あまりにも暴力的で、無差別で無理矢理な
使い方ではあったが、一人で多数を相手にする際であろうとも、ヤシュバが無類の強さを誇る理由にもなっている。調練の時は、流石に死者を出しかねないので自重しているが。そもそも、そんな物を使わずとも、
誰もヤシュバに勝てはしなかった。
私の小細工は、ヤシュバのそれによってあっさりと打ち砕かれる。真面目に魔導を修めて、苦心しながらも応用して使える様にした私が馬鹿みたいだ。それ程に、ヤシュバと私では、素質という絶対的な壁が隔たっていた。
あとはもう、私に成す術はなかった。元よりドラスとの勝負に敗れ、体力も何も、戻りきってはいない。飛び込んで、幾度か打ち合えば。それだけで私の腕に籠る力は弱まり、平静を装っていた姿は無くなり、すぐに
荒い息を吐きはじめる。ヤシュバが瞳を輝かせて、突進してくる。一度、二度と受け止めたところで。恐ろしい速さで払われた剣が、私の剣を弾き飛ばした。その途端に私は体勢を崩し倒れ、転がる。数度転がったところで、
大地を渾身の力で蹴り飛ばして。その勢いでヤシュバの懐に飛び込むと、更に体勢を変えて、ヤシュバの腹を蹴り上げてやった。ただ、それでもヤシュバが動じる事はなかった。そもそも私とヤシュバでは、あまりにも
体格に差があり過ぎる。その上で、ヤシュバの鱗は剣すら通さぬ様な硬さを持っていた。腹の方はいくらか柔らかいはずだが、それでも私の蹴りでどうにかなる相手ではなかった。ヤシュバは私の足を掴むと、そのまま
乱暴に放る。宙で体勢を立て直し、着地しようとしたところで。飛び出したヤシュバが手を伸ばして、私の胸を掌で突いた。地面に下りるはずだった身体が、また宙を舞って。そのまま私は、受け身も取れずに、仰向けのまま
大地に叩きつけられる。
何度か咳き込んでから、呼吸を繰り返す。わかっていた。わかっていたが、まるで歯が立たない。どうにか身体を起こそうとしたところで、私の顔の横に、ヤシュバの剣が突き立てられる。完敗だった。
大地に横たわる私の上に、ヤシュバが覆い被さっていた。その瞳は、先程の激昂した様子は既に鳴りを潜めて。静かな光を湛えて、ただ私を見ていた。
「殺せ」
息を整えてから、私はただ、そう言った。あまりにも、無様な姿だった。竜族ともあろうものが。筆頭補佐を任されていたはずのこの身が。今はただ、その座を追われ。血と土に塗れている。
ヤシュバは、目を細めて私を見ていた。それが尚、私を苦しめる。憐れむ様な目を向けられる事が、私を狂わせる。
「俺は、お前に勝ったぞ。俺の話を聞け、リュース」
「そんな物は、必要無い。今すぐに、俺を殺せ。俺はもう、筆頭補佐じゃないんだ」
「どうして、そんな事を言うんだ。そんなに俺が、嫌いになったのか。確かに、お前をそんな風にしてしまったのは。俺の責任ではあるが」
そうではない。そうでは、なかった。ただ。今の私に、ヤシュバが構う事が。私には、言い様がない程に苦痛だった。ヤシュバがおずおずと私へ触れようとするのを、乱暴に振り払う。そうすると、ヤシュバはあからさまに
悄然とした顔を見せる。
「お前に嫌われるだけの事をした、自覚はある。お前が俺を、許せないと思うのは」
「違う」
本当にこいつは鈍いなと、こんな時ではあるが、私は内心溜め息を吐かずには居られなかった。そんなはずが、ないというのに。ヤシュバを嫌う事など、今の私にできるはずがないというのに。そんな事すら、こいつは
わかってはくれない。それがわからないから、嫌われたくないという顔をして、私に近づいてくる。竜じゃないな。犬だ。この男は。
「俺はもう、筆頭補佐じゃねぇんだ。俺にはもう、何も。何も残っていない。醜い身体と、歪んだ性格しか。筆頭補佐でなくなった俺には、なんの価値も無い。なあ、わかるだろ。俺はもう、必要無いって」
腕を上げて、そのまま自分の目を隠した。何も見ていたくなかったし、見られたくもなかった。堪えていた気持ちを、こんな風に吐露してしまう無様な自分も。ヤシュバの見ている前では、決して流すまいとしていた物が、
私の目から伝うところも。どうして今、こんなにも私の心は荒れているのだろうか。ドラスが私を乗り越えて、筆頭補佐になると口にした時。私はこんな気分にはならなかった。ドラスの成長を素直に喜ぼうとしたし、
もしもその時が来たら、心から祝福しようと思っていたし、そうして、静かに自分は消えようと決めていた。ユディリスにも、そう言ったはずだ。必要とされる時だけ、ヤシュバが私を求めてくれれば良いと。私が何も持たぬ日が
来たのならば、潔く身を引こうと。それが、こんな風に。こんな風に、惨めな姿をヤシュバの前に晒す事など、絶対にしたくはなかったというのに。
「あんたはもう、立派な筆頭魔剣士になった。俺の助けなど必要が無いくらいに。そこに、ドラスが来て、俺を負かして。俺を負かしただけじゃなくて、あいつは、あんなに。あんなに……綺麗で……」
言いたくはなかった。口にしたくはなかった。嫌だ。こんな姿を、人前に晒すのは。それも、ヤシュバの前に晒すのは。それでも、ヤシュバに引き留められた私は、自分の言葉を止められなかった。無様に負けた私に、
もはや居ない方が良くなりつつある私に、縋るヤシュバを見て。それでも、もはや敗者となった私には何一つしてやれる事などなくて。そうして、私はただ、醜い嫉妬をドラスに抱いていたのだった。ドラスがなんのために
筆頭補佐を志したのか。私を見て、私を守るためであったというのに。この期に及んで、私の本心は。筆頭補佐でありたいと。筆頭補佐であって、ヤシュバの役に立ちたいのだと。たった、それだけの事しか考えては
いなかった。こんな時になるまで、私は気づいていなかった。自分の身体よりも尚、自分の心の方が、醜く浅ましい事に。私ではなく、ドラスが筆頭補佐になれば。もう、ヤシュバが妙な陰口を叩かれる事もないだろう。あんな
筆頭補佐に感けている、などと。誰も言わなくなる。二人揃って、ランデュスの英雄と讃えられる。全てが丸く収まる。全て、という言葉の中に。私さえ含まなければ。私さえ、堪えていれば。
「殺して、ください……ヤシュバ様。あなたに、こんな私は、見せたくなかった。こんな姿を見せて、あなたを迷わせたり。同情心を抱かせたくなど、なかった」
一層、蔑んでくれれば良かった。こんな事に心を乱して。何十年と筆頭補佐を続けてきたというのに、醜態ばかり晒して。自分でも、理解できぬ程に、私は取り乱していた。それでも、その理由はわかっていた。ヤシュバ
だからだ。その理由はわかるのに、何故ここまで心が惹かれているのか。それが、やはりわからない。それだけは、わからないままだった。
長い沈黙が、続いた。堪えきれなかった、惨めな私の零した嗚咽だけが、時折静寂を破っては、虚しく消えて。腕を退けたら、ヤシュバなどそこに居なければ良いとさえ思ってしまう。
「リュース」
ヤシュバの声が。ヤシュバの声が、聞こえる。私を呼ぶ声が。まだ聞こえた。
「お前は、俺の事をそんな風に思っていたんだな。俺はずっと、お前の事を。本当には、理解していなかったのだな。お前が苦しんでいた事は、知っていたのに。俺は意地を張って」
「あなたが謝る事ではありません。私が、あなたにそうする様な事を、させてしまった。ただ、それだけの事なのですから」
全て、自業自得だった。そして、私がドラスに敗れたのは、結局は多少時機がずれようとも、いずれは起こり得た事だとも言えた。ドラスのあの才能は、まだまだ花開いたばかりだ。所詮私は、その程度でしかなかった。
「聞いてほしい、リュース。こんな事を言っても、お前はきっと、嫌な顔をするかも知れないけれど。俺には、お前が必要だ」
「私はもう、筆頭補佐ではありません」
「筆頭補佐でなくてもいい。筆頭補佐でなくても。俺の傍に居てほしい」
そんなのは、嘘だと言いたかった。筆頭補佐でない私には、もはや何も無いのだから。何も持っていない私を求められても。何一つとっても、釣り合えぬ私は。ただ負い目を感じている事しかできないのだから。
それでも、ヤシュバの言葉の響きだけで。今の言葉が嘘などではない事は、既に充分にヤシュバを知り、そして共に時を過ごしてきた私に、わからぬ訳がなかった。わかるからこそ、尚。釣り合えぬ自分が恨めしいのだった。
「ヤシュバ殿のお気持ちを、汲んでやるべきではないのか。リュース」
突然に、ヤシュバとは違う声が聞こえて。私は思わず腕を上げて、声の主へと視線を移す。ヤシュバの後ろから顔を覗かせているのは、ギヌスだった。
「ギヌス、様……どうして、ここに」
「お前を心配して。それでは、いけないのか」
「ですが」
「それに。お前はいい加減に落ち着きを取り戻せ。神声が、今のお前に届かぬと。竜神様から私の方へお言葉が届いたぞ」
「竜神様から、ですか?」
唐突に出てきたその言葉に、私は今までの事も一時忘れて、面食らう。ギヌスが微笑んで私を見下ろしていた。
「竜神様が、こうして遠くに言葉を飛ばす事は、珍しい。心を乱したお前は、それを聞こうともしないし。竜神様の意見を、それから私の意見を言おう。リュース。お前には、まだ筆頭補佐を続けてもらわなければならない」
「何故。私は、ドラスに敗れたのに」
ぽかんとした表情を、私は浮かべているのだろう。ギヌスは少し呆れた様な表情をして、そして、ヤシュバはただ微笑んでいた。
「考えてもみろ。ここにヤシュバ殿が居るから、この様に言うのは失礼だとは思うが。筆頭魔剣士と、筆頭補佐。その二つが、新参のまま。今のランデュスは歩む訳にはいかんのだぞ。それはお前とて、重々承知していた
だろうに。大体情勢を悪化させたのは、お前とヤシュバ殿だろう。きちんと責任は取れ」
「しかしそれではドラスが」
それでは。ドラスの立場は、まるでガーデルが居た頃の、私の様になってしまう。実力で凌ぐというのに、従う事を余儀なくされて。あんな惨めな思いを、ドラスにまで味わわせさせたいとは思わなかった。
「ドラスも、了承している。というより、ドラスの方も大分取り乱しているぞ。確かに筆頭補佐になろうとは、思っていたみたいだが。お前のあんな顔を見てはな」
あんな顔。私は、そこまでドラスに心配をさせてしまう様な表情をしていたのだろうか。微笑んで。祝福して。あの場を後にしたはずだったというのに。
「ドラスの方は、ユディリスが見ている。ドラスの了承があれば、問題はないだろう。そもそも、筆頭補佐の任から今お前を解く訳にはゆかぬから、今日は私達以外に決闘を見守る者が居なかったのだぞ。お前は、
そんな事すら気づかぬ程に混乱してしまっている。もう少し、冷静になれ。戦の最中の方が、お前は余程冷静であったというのに」
今更、私は不思議に思い。しかしそれだけに留めていた事の真実を知る。それ以上言う事はないのか、ギヌスは一息吐いていて。
「リュース」
そして、ヤシュバがまた、私を。
「今、聞いた通りだ。確かに俺は、筆頭補佐ではないお前でも構わないが。それでもまた、筆頭補佐であるお前の事も、必要としている。俺は、まだまだなんの経験も無いしな」
「ヤシュバ、様」
「もう一度言う。俺の傍に居てくれ、リュース」
ヤシュバのその言葉に、私は再び、涙を零す自分を感じていた。ただ、今はそれよりも。私を見て笑っているヤシュバの顔の方が気になっている。
「……おかしいですね。こんな気分になるのは」
「リュース?」
「今、初めて。あなたを見た様な。そんな気分です」
「そうか。俺も、今日は色んなお前を見たから。お前と同じ気分だと思うな」
そう言って、ヤシュバが笑い声を上げた。久しく見る事のなかった姿のヤシュバが、そこに居た。
緊張感を漲らせた表情で調練に励む兵を、私は見つめていた。
翼族に私を介して伝えられた竜神の魔法は、恐るべき威力を発揮したと、既に第一報は受け取っており。そうなると、当然ラヴーワ側は、ランデュスの介入を疑っただろう。それまでの翼族は、嫌竜派の爬族の一掃
という出来事を考慮すれば、どちらかと言えばラヴーワ寄りだった状態で。それが突然にラヴーワに牙を剥くとなれば、こちらからの仕掛けを疑わぬ方がどうかしている。となれば、当然今までは小康を保ち、
表向きは矛を収めていたこの二国の間に、再び激烈な争いが生まれるのは火を見るよりも明らかだった。もっとも、それを厭わぬ覚悟で翼族には手を下したに過ぎないのだが。休戦は、二十年続いた。既に、
ランデュスは充分に戦う力を蓄えたと見ても良い。その上で最も避けなければならない事は、北と南にそれぞれ不安を抱えたまま、戦端を開く事だった。そして、北の翼族、南の爬族。この二つの問題は、ほとんど
片付いたと言っても良かった。北の翼族は、先頃私が手を下した様に、今はほとんど戦力としては数えられぬ態になっているだろう。先の戦の時、どちらにも与せずにいた翼族をその様に扱う事には、国内でも
賛否はあった様だが。しかしランデュスが勝ち進み、ラヴーワの喉元に剣を突きつけた時。翼族が静観していると思う者は、少なかった故に、強い反対意見というのは見当たらなかった。なんといっても、我らを導く
存在である竜神が、この涙の跡地を竜族の国として併呑する事を望み、それを達成する上で、どうあれ他種族という存在は最終的に竜族の支配下に置かれなければならない対象でしかなかったのだから。そして、
それに対するラヴーワの意向は、それぞれの種族がそれぞれの土地を分割統治する様な物だった。或いはそれは、ラヴーワが成立する前の、各々の部族が、各々に好き勝手し、時には衝突していた時代と似ていたが、
それでもあの頃よりは他種族との衝突は避けられ、付き合いも盛んに行われているだろう。そうでなければ、主だった部族の長と、そうして少数を束ねる一人を八族と呼び、ラヴーワと名乗った事に意味が無くなって
しまう。そして、中立を保ち続けていようが。翼族が翼族として、要は他者に支配と指図を受けぬ身であり続けようとするのならば。必然的に翼族が最終的に与するのは、ラヴーワ以外はありえなかっただろう。故に、
今ここで多少の反対を受けようが、翼族に先手を打つ事は必要で、また重要な事であったし、そういう事もあって、ランデュス内での今回の件は、概ね好意的に捉えられていた。ただ、国内に僅かに居る翼族には、
それなりの反発を招いたのは致し方なかった。それでもランデュスに住み続けている者の中には、ランデュスに残ろうと思う者も、少なくはなかったのだが。結局のところ、この竜の国。言い換えれば、竜族だけが正統な
扱いを受けられるという事があまりにもはっきりとしている国に、他種族でありながら存在しているという事は、それだけで何かしら、元居た場所では後ろ暗い理由があって、そうしてそこへは帰られぬ何かしらの事情を
持っている者ばかりだった。
ランデュスとラヴーワの衝突が、再び始まる。その空気はもはや国内に満ちているし、またラヴーワでも同じ様な状態だろう。その空気が、戦の匂いが。兵達にも乗り移ったかの様だった。数十年に及ぶ仮初の平和を
満喫しきって、大分私が、そして最近ではヤシュバも薄々は抱いていた失望を吹き飛ばすかの様に、調練は激しく。またそれを受ける兵達も、以前よりは大分逞しくなっていた。古株の者は忘れていた気概を取り戻し、
若い兵を叱咤激励し、若い兵は日々の調練の積み重ねが、ようやく戦へと繋がる事を喜び勇む様だった。負ける事など万に一つもありえぬ爬族が相手の時とは、その受け止め方からして違う物だ。また、負けても取返しが
つく爬族とは違い、ラヴーワを相手に決定的な敗北を喫すれば。自分はおろか、その家族にまで、無慈悲な白刃が届く事は想像するに難くない。竜族は、強い。個々の力を恐れるあまり、例えどの様な身分であろうと、
戦に負けてしまえば。その思いが、兵の気持ちを更に昂らせていた。とはいえ、竜族が、そしてランデュスが。負ける事などありえないとは、私も思っているが。それ程までに個々の能力には差があるし、ラヴーワの
利点とは、言ってしまえば複数種族の寄り集まった形であるが故に、数に勝るという、ただそれだけの事にしか過ぎなかった。そうするが故に数の上で有利であろうと、結束は竜族には遠く及ばず、また今も、とかく
孤立しがちな狼族、一人一人の力は中々に見るべき物があるが協力という考えに乏しい虎族など、問題は尽きないだろう。こういう時、一種族のみの集まりであるランデュスは、強かった。その上で、竜族は竜神を
頂いているのだから。神の加護を受ける我々と、今はそれを損なったラヴーワでは、常に集団での戦いとなる戦場においては、団結力の違いが致命的になり得るだろう。それを鑑みれば、やはり爬族を竜族の一員と
するというのかどれ程に愚かしいのかがよくわかる。自らの強さを捨て、相手と同じ弱点を携えてしまうなどと、甚だ愚かと言わざるを得ないのだから。
そして、また。私の視線の先に居る金竜が、今は居る。溌剌と兵に指導を出し、また自らも更に腕を磨く、ドラスの姿がそこにあった。私はそれを今、眺めている。ドラスが指揮しているのは、竜の牙ではなく、私の担当
である竜の爪の者達だった。決闘の後、改めてドラスとは話し合い、そうして元の立場へと戻ったドラスであったが、私はヤシュバと、そしてドラス本人の許可を貰ってから、ドラスを竜の爪へと異動させていた。元より
ヤシュバに散々に扱かれたドラスであるから、竜の爪に入れば当然上位に位置する事になるし、またドラス自身が実力に伴う噂と評価を備えていたために、大きな混乱は見られなかった。それに、皮肉な話だが
何かしらの事があり、抜擢を受けた人物が突如として現れる、という意味では。もっと大層なヤシュバという前例が出たばかりである。ヤシュバの後であるからして、ドラスがさまで目立つという訳ではなかった。そうして今、
ドラスは隊長の一人として、先輩の竜族の指図を良く聞き、少しでも私の代わりにいつか筆頭補佐になるために。竜神やギヌスの懸念など吹き飛ばす状態になるために、懸命に調練に臨んでいる。書類整理などは、
私が臥せっている間に無理矢理投げつけてやったので大分手慣れてきたが、こちらの方は今しばらくは時間が掛かりそうだった。何よりも、実戦の経験に乏しいというのは致命的だった。そういう意味では、ドラスは
これから忙しくなるだろう。前線へ赴き、何度も戦の指揮の経験を重ねてもらう必要がある。今私が見ている限りでは、指揮も中々に上手い物だとは思えるが。しかし実戦を経ていない者を信用しきるのは、危険だった。
どれ程威勢が良くとも、他者の命を奪う前後でその者の心境が変わる様に。指揮を預かるという事は、その指図の一つ一つに、兵の命が左右される事を意味するのだから。その重圧に耐えられなければ、如何に
優れた頭脳を持っていても。その内に精神を摩耗して、使い物にならなくなるだけだった。駒遊びでいくら良い成績を収めようが、武人として認められる道理はない。とはいえ、ドラスに足りないのは、あとはそれだけだった。
ここのところの体調不良を理由に、私はドラスの事をじっと見定めていた。とはいえ、既に私がそれをする必要性は無いのかも知れなかった。見ていれば、わかる。ドラスはまだ、強くなるだろう。いずれは、本来の私
ですら追い抜いてしまうのかも知れなかった。今はただ、それが現実となり。そうして今度こそ、私がこの座を追われる時に。そこにドラスが居座るのが、ごく自然な事であり、周りからも頷かれ。そうして、私が。私自身が、
取り乱さぬ様にならなければ。
調練を一通り済ませると、私は自室へと退き、細々とした事務を済ませる。そうしていると、部屋の扉が軽く叩かれて。
「俺だ」
「どうぞ」
軽い会話の後に、開かれた扉には。あの黒い竜が居た。筆頭魔剣士である、ヤシュバ。
「随分早くいらっしゃるのですね」
「いけないだろうか。リュース」
「……いいえ。そうでは、ありませんよ。ヤシュバ」
砕けた様子でやってきたヤシュバは、椅子に座ると朗らかな様子で私を見て、話を始める。まるで、いつもそうしているのが当たり前だと言う様に。実際には、そうなったのはまだごく最近であり、また少し昔の事では
あったのだが。私はじっと、ヤシュバの言葉に聞き入りながら。ヤシュバの態度の変化を見ていた。翼族の谷に私が向かう前後の時とは。もっと言えば、嫌竜派の爬族を全滅させた後のヤシュバとは、すっかり
変わっていた。結局あのヤシュバは、自分の気持ちの整理をつける事ができずにいただけなのだろう。
「こんな事を言うと、失礼ですが。随分、お変わりになられましたね」
「……すまない。やっぱり、都合が良すぎるだろうか」
「いいえ。そうではありませんが」
「お前に、どう接したらいいのか。ずっと、わからなかったんだ。俺は……ただ、お前の望む筆頭魔剣士である様にと。それだけの事しか、考えられなかった」
その本音は、子供のそれの様だった。しかしまた、それも仕方がない事かも知れなかった。あの時の私は、ヤシュバをその様に扱ったのだから。筆頭魔剣士ではないお前など、出てゆけと。筆頭魔剣士として、ふさわしい
実力と。そして暴力を実現させられるヤシュバであったとしても、それ以外の事に何かが秀でているという訳ではなかった。それどころか、それまで平凡に生きてきて、突如として争いの場に放り込まれた心優しいだけの
男でしかなかった。
「そうでしたね。申し訳ございません。あなたを害してしまったのは、私であったのに。こんな事を口にしてしまうとは」
「もう、いいんだ。今こうして、お前と口が利ければ」
厳つい黒い竜が微笑むと、可愛さなどどこにもないというのに。見ている私は、堪らない気持ちなる。胸の中が、満たされてゆく様な。つい先日は、あんなに邪険にして、剣をぶつけ合ったというのに。本当に、不思議
だった。自分でも、自分の気持ちの方向が制御しきれない様な、そんな気分だ。
「ところで、そのう。一つよろしいでしょうか」
「なんだ」
「やっぱり、私があなたを呼び捨てにするというのは。とても落ち着かない物なのですが」
「でも、俺はそうしてもらいたい」
そう言われて、私は困ってしまう。今まではずっと、ヤシュバ様と呼んでいたというのに。再びこうして私の前で笑顔を振り撒きはじめたこの男は、私にただ一つ、それを要求してきたのだった。
「俺はずっと、お前をその様に呼んできたのだから。お前が俺の事を呼んでも、いいだろう」
「良くないと、思いますがねぇ。立場の違いという物が、ありますから」
「それに、何か一つくらい変わった事があった方が。仲直りできたと俺も思える」
「そういう言い方は本当に子供ですね、あなた」
「嫌だろうか。リュース」
「……はぁ。困った方ですね。公の場では、きちんと呼ばせていただく。それで、よろしいですね、ヤシュバ。私はこんな身なのですから、他の者が居る前でまでそうしてしまったら。益々白い目で見られてしまいます」
「それでいい。どんどん呼んでくれ」
「嫌ですよ」
「照れているのか」
「ふざけないでください」
呆れて、私は視線を逸らす。照れている訳では、ないはずだ。ただ、むず痒い気持ちがあるし、落ち着かない。今までずっと、そうしてきたというのに、突然に呼び方を変えろというのは。
しばしの沈黙が流れた後にそれを破ったのは、私でも、ヤシュバでもなく。新たな客人だった。扉が叩かれて、私が声を掛ける。聞こえてきたのは、ドラスの声だった。
「お待ちを」
ヤシュバをその場に残して、私は扉を開ける。眩い金竜が、途端に視界に入ると。その金竜は笑ってから、書類の束を差し出してきた。
「おやすみ中のところ、失礼します。リュース様。こちらを」
渡された書類に目を通す。翼族の地で起こった出来事を記した物だった。既にある程度の結果などは受け取っていたが、その上で、ラヴーワに居る間諜からの報告を受けて改めて一つに纏めた物だった。とはいえ、
その信憑性はそれ程高いとは言えない。ラヴーワに潜る間諜は、必然的に竜族以外の種族でなければならなかった。竜族がそのまま、竜族としてラヴーワに居れば。当然ながら、軍に近づく事などできるはずもないし、
騒動の起こった翼族の谷、及びそこから獅族門に至るまでは、尚更だった。既に平時の状態以上にラヴーワ軍が駐屯している場に潜り込ませられる間諜は、ラヴーワを大っぴらに歩く事のできる種族に限られる。そう
である以上、齎される情報もまた、結局は彼らを信用するしかなくなってしまう。そしてそれは、あまり鵜呑みにし過ぎては危険に繋がる事でもあった。
「ご苦労。と、言いたいが。どうしてこれを、お前が持ってくるのだろうな」
「それは。リュース様のご様子を見るためですね」
悪びれた様子も見せずに、ドラスがそう言うのへ。私は呆れた様に溜め息を吐く。
「暇ではないだろうに、まったく」
「そういうリュース様も、あまりお暇という訳ではない様ですね」
部屋の中に居るヤシュバの事を言っているのだろう。ドラスはそれを、把握している様だった。思わず私は、ドラスを睨んでしまう。ただ、そうすると。ドラスもまた僅かに表情を硬くした。
「大丈夫だ、ドラス。ヤシュバ様は、もう」
「そうですか。それなら、よろしいのですが」
ドラスが、ヤシュバの私に対する今までの態度に良い感情を抱いていない事は、明白だった。私の口からそう言えば、ドラスの表情も少しは和らぐ。今のところは次期筆頭補佐であるドラスと、筆頭魔剣士であるヤシュバの
不仲など、あってはならなかった。しかも原因は私である、などと。これでは筆頭補佐を辞めるに辞められない。私が居る間に、どうにかこの関係を改善してもらわなければ。もっともヤシュバの方からすれば、ドラスは腕を
大分見込んでいるし、ドラス自身もまた、ヤシュバの腕には全幅の信頼を置いているのだから。それ程大事という訳ではないのかも知れないが。それでも、ガーデルとの不仲のまま、鬱屈とした筆頭補佐の日々を送っていた
私は、ドラスがもし私の後任になるというのなら。その様な事態に陥ってほしくはないと思ってしまう。
「時に、ドラスよ」
「なんでしょうか」
「……本当に、良かったのか。私が筆頭補佐のままでも」
そう、私が訊ねると。ドラスは苦々しい顔を見せたが、少しすればそれは苦笑へと変わっていた。
「無念では、ないのか。お前は私を見事に打ち破ってみせたではないか」
「それは、いいのです。俺は、ただ……リュース様を守りたかった。けれど。俺のした事は。結局はただ、リュース様を傷つけただけでしたね」
「そうではない。それは、私が弱かったからだ。力だけではなく、それ以外もな」
「俺は、急いではいません。それに、確かにギヌス様やユディリス様が俺に言ってくれた通り。今の俺では、まだまだ筆頭補佐には早い。こうして竜の爪の、隊長の一人にもなれました。今はあまり急いても、良い結果は
得られないのではないでしょうか」
「そうだな。確かに。……お前は、まだまだ若い。焦る必要もなかったな」
「ええ。そうですよ。リュース様が耄碌されたというのならば、話は別ですが」
その言葉に、ほとんど発作的に私が手を上げてドラスの肩を掴もうとすると、ドラスは優雅な身振りでそれを避けて、一歩下がった。
「それでは、リュース様。どうか、お幸せに」
「……ドラス」
にこりと笑って、ドラスが背を向ける。手を上げかけた私は、それを引っ込めて。自分の掌をしばらく見つめていた。それから、待たせていたヤシュバの下へと戻る。
「遅かったな」
「申し訳ございません。少し、話をしてしまいまして」
「ドラスが来ていた様だな」
「ええ。報告書を」
ヤシュバは、ドラスの事については特に触れはせずに。私が手に持っている書類の方へと視線を移していた。
「なんの報告書だ?」
「翼族の一件について、ですよ」
それを聞くと、ヤシュバはあからさまに表情を曇らせる。私はそれを、何も言わずに観察していた。
「やはり、後悔されておいでですか」
「……少しは、な。だが、俺が筆頭魔剣士である限りは。いずれはどうあれ、俺が判断を下さなければならない事の一つではあっただろう」
「確かに、その通りではありますね」
爬族の一件から、ヤシュバは他者の命を奪う事も、平気とまでは言わないが。初めて爬族を殺した時の様な反応を見せる事はなくなった。それは翼族に対する姿勢にも、現れていた。私はそれに、少し引け目を
感じながら。しかしそれもまた、筆頭魔剣士としては必要な事なのだと言い聞かせる。
「でも、それについては既に報告を受けていなかったか」
「これは、もう少し仔細な情報を記した物ですよ。間諜から寄せられた情報を纏めた部分もあります。現在の翼族の谷。それから、翼族が攻めた獅族門の砦の様子。更に大まかなラヴーワ軍の動きなど、探れる物は
探った、という事ですね」
改めて、私はヤシュバに竜族ではない間諜がした仕事についての説明をする。竜族による偵察では、翼族の谷のその後と、翼族の様子ぐらいしか満足に見る事はできなかった。そのために、信用できるかは
別として間諜の必要性があると。これはこれで貴重な情報ではあった。私は机を挟んで、ヤシュバの反対側に座ると、失礼して先に報告書にざっと目を通す。
「翼族は、やはり多大な被害を被った様ですね。少し、予想外と言ったところでしょうか」
「そうなのか?」
「竜神様の魔法が、どこまで効果があるのか。実は、そこのところには自信が持てなかったのですよ。だから、今回それで翼族が獅族門を攻めても、こちらの軍で同時に攻める様な事はせずに、密かに防備を固める
だけに終わりました。結果は、まあ。やはり翼族の身体では、想像以上に耐える事ができなかった、という事ですね。こちらから翼族を恃んで攻めなかったのは、良い判断でしょう。どれだけ、もはやあってなきに等しい
としても。形の上では休戦のままでございますからねぇ。まあ、そんな物もいつまで続くものじゃありませんがね」
厳密には、こちらから翼族に何かをしたという決定的な証拠も無い。勿論私が翼族の谷を訪れた事は、その内に翼族の生存者からラヴーワに伝えられる情報ではあるが。そんな物は知らんと言ってしまえばそれまで
だった。今はただ、僅かに稼いだ時間の内に。必要な準備を済ませてしまう事だろう。とはいえ、翼族がこの様な形になった以上、長い時を稼げるとは言えなかった。なんといっても、以前の爬族の一件と違うのは、
爬族はその一部の、嫌竜派の連中側の方から決起したからランデュス側でどうにか対処せねばならぬという事態に陥ったからだ。今回の事は、そうではなかった。宣戦布告と取られても仕方ないだろう。別に、
構いはしないのだが。
それよりも、翼族の、現状の方が大切だった。概ね満足できる結果にはなったが、やはり突撃させる兵隊としては、ほとんど役に立たなかったと言っても良い。竜神の魔法は強力ではあるし、相手を意のままに操る事も
不可能ではないが、しかしそれは相手の身体に多大な負担を強いるという問題も抱えていた。魔法を行使した私でさえ、目を痛め、また今は魔導の衰えを迎えている始末だ。専門ではないとはいえ、私も魔導には
通じている。その私が今この有様なのだから、竜族と比べて身体の造りからして及ばぬ他種族では、廃人の態になってしまう事は、仕方がないという他なかった。
「翼族は、ほとんどこれからの戦いには出られないでしょう。既に翼族の谷から、こちら側に繋がる道は完全に封鎖された様ですね。門を硬く閉ざし、また谷の道も、崩して。ほとんど山の様にしてしまったと」
「こちら側が、翼族の谷を通路として北側から攻める事を警戒したのだろうか」
「そうですね。ラヴーワ側にとっても、あの道はこちらへ至る道の一つではあったのでしょうが。その辺りは、これ以上翼族の谷を踏み荒らされぬ様にという配慮もあったのではありませんか。ヴィフィル・ヌバとそれに
近しい者は多大な影響を受けたとは思いますが、イルス山は広大で。翼族が全滅したとか。そういう訳ではありませんからね」
あの時、ヴィフィル・ヌバに直接竜神の魔法が掛けられたのは、好都合だった。翼族側が言を左右にして、ヴィフィルに会わせぬとなれば。ヴィフィルは早い内から対策を講じて、被害を抑えたかも知れなかった。翼族と
言っても、内包する様々な部族を纏める立場のヴィフィルを攻めたからこその戦果と言えた。
「翼族が鎮まるのを見て、ラヴーワ軍は谷に足を踏み入れた様ですね」
そして、それもまた好都合な事だった。こちら側への道を閉ざした以上、翼族はどうあれラヴーワに頼るしかないし、またラヴーワはそれを受け入れる姿勢を示してしまった。主な戦力になる者を欠いた翼族を、だ。それは
ラヴーワにとって大きな負担になるだろう。また八族でもなく、今までのらりくらりと中立を保っていた翼族がその様に扱われる事に、ラヴーワの内では疑問の声が上がる事も予想される。批判を恐れずに行くのならば、
ラヴーワは寧ろ、翼族を見捨てるという選択を採る事もできただろうか。いずれにせよ、こちら側ではまったくするつもりもない後処理の全てを押し付けるという形になっていた。
「あとは爬族の事でしょうかね。それから、翼族、爬族には及びませんが、それぞれ少数部族もおりますし」
「爬族の事、か」
爬族は今のところ、沈黙を貫いていた。これもまた、静観している問題の一つだった。ヤシュバが排除したのは、嫌竜派の爬族だけである。しかし、だからといって残った親竜派の爬族が、そのまますんなりと竜族に
従うのかと言うと、疑問が残る。その辺りはギヌスが当たっているはずだから、今のところはどちらに転ぶのかはよくわからなかった。また翼族に対する、騙まし討ちに近い今回の私の行動が、より爬族の疑念を生む事は
承知している。翼族にした様に、今爬族に近づく事は、難しいだろう。第一、爬族の長であるマルギニーが見える位置に私は近づきたくない。顔も見たくない。早く寿命でくたばってほしい。
「ふむ。そんなところでしょうかね。翼族がラヴーワの手を借りた以上、事実上翼族はあちら側になったと見てよろしいでしょう。もっとも、それで何かができる訳ではありませんが」
「今更だが。竜神の魔法というのは、とてつもない物なのだな。それを使えば、もっと簡単にこの涙の跡地は治められるのではないのか」
「流石に、竜族以外の全てに掛ける力はありませんよ。多数の種族に掛ける場合、その度に負担は増えます。今回は翼族にだけ効果がある様に魔法を掛けた、というよりは。その方が負担が少なかったから、ですし」
その上で、私の身体を介するのにも限界がある。翼族に掛けるだけで、この有様なのだから。これ以上は魔法の発動すら怪しい。竜神が直に赴けば、或いはと思わないでもないが。
「それに、今の竜神様は確かに強力な力をお持ちですが。そのお姿を見る事がなくなって随分経つと言います。やはり、多少の衰えに近い物はあるのではないでしょうか」
「神であっても、万能ではないのだな」
「まあ。こういうと、とても失礼ですし。私の首が飛ばないか心配ですが。万能の神であるというのならば。この涙の跡地を覆う結界を、解いているのではないかと言わざるを得ませんねぇ」
「それは確かに、そうだな」
それに。自らの肉体を介さずに動き回る今だからこそ、という部分もある。神声にしても、そうだ。竜神が強く念じる事で、竜神の姿を目の前に見る事もなく、言葉を交わす事ができる。その状態で、翼族を戦闘不能に
陥らせる魔法を行使できるのだから、やはり末恐ろしい存在であるし、また神という存在であるという事にも頷けるのだが。
「それと。翼族や爬族には、竜神様にも見ていただいて、それらしい人物が居なかったから、それで良かったですけれど。ラヴーワ全体に対してその様な魔法を掛けてしまったら。あなたの求める方が、どうなってしまうのか。
保証できませんよ」
「そうだった。それは、困る」
「できれば、このまま戦が激烈な物になる前に、見つけて差し上げたいところですがね」
すっかりそれを失念していたヤシュバの事を、笑いながら。私は続きを。
報告書を読み進めて、最後の方に差し掛かる。獅族門についての事柄が書き連ねてあった。ただ、こちらは少々おざなりな内容となっている。そもそも、翼族との本格的な戦が回避された状態に落ち着いた以上は、
ラヴーワ側も獅族門には必要以上に軍を割く事はないだろう。翼族の谷からランデュスへと続く道を閉ざしたなら、尚更だった。一時は翼族との攻防を経て賑わった獅族門も、少しずつ落ち着きを取り戻しつつある。特に今、
見咎めてどうこうと意見を述べる様な事が記されている訳ではなかった。
ただ。その中の一つに目を留めて。私は声を上げる。
「ほう。クロイス・スケアルガ、か。初めて見る名、というところを考えると。あのジョウスの息子と見るべきでしょうか」
「スケアルガ、と言うと。確か、ラヴーワの軍師だったな。ジョウス・スケアルガか」
私の読み上げた報告に反応を示して、ヤシュバがそう言う。
「よくできました。お勉強はきちんとできている様ですね」
「流石に自分が戦うかも知れない相手ぐらいは、そろそろ憶えたぞ。俺も。それで、その。クロイスというのが、どうかしたのか」
「いえ、ただ。獅族門の砦で、翼族との小競り合いの時に。そのクロイスが居て指揮を執る事があったと。とはいえ、然程目覚ましい戦果を挙げたとか、そういう事ではありませんが。ただ、私は知らない人物でしたので。
どうやらかなりの若造の様ですね。ただ、指揮を任された、という事は。やはりスケアルガの一員である事には間違いがないでしょうし。ジョウスの息子であろうかと思いまして」
「そうか。そんなに若いのに、軍の指揮ができるなんて。凄いな」
「それは、どうだかわかりませんがね」
つい、嫌味っぽく私はそう言ってしまう。スケアルガには、あまり良い思い出がある訳ではなかった。先の戦で、私との読み合いをしていたのは、このジョウスと、それからその父親が多かった。勝つ事もあれば、負ける事も
あって。ただそれは、相手がラヴーワであるから、と言っても差支えなかっただろう。つまり、こちらには纏まりがあるが、相手はそうではない。血気に逸る虎族や、閉鎖的な狼族など、多種多様な種族が入り乱れる場で
音頭を取りながら戦わなければならぬのだから。その分、私にとってはかなり有利に運べた事は多かったが。その分を差し引けば、スケアルガを軍師として据えている八族の見る目は確かな物だろう。
「ジョウスの息子。そうでなくとも、近い関係で。そして、まだ若い、か。なんだか、気の毒になってしまいますねぇ」
「気の毒?」
ヤシュバが、首を傾げる。軽く口にするだけでは、ヤシュバにはわからないだろうなと、私は承知していても。つい、それを見て笑ってしまう。
「寿命が、違い過ぎるなと。そもそも私が最初に相手をしたのは、このジョウスの、更に父ですからね。それが、相手が老いて。それに代わる様に、ジョウスが出てきて。そうして今度は、このクロイスとかいう若造が来て。
私は私だけだったというのに。本当に、短い時しか生きられぬ、というのは。中々に気の毒な事でしょうね。自らがこのような場に立つのだから、尚更です。自分の息子が大きくなるまでは、大きくなったとしても、自分の
手で戦を終わらせたい。そういう覚悟が無かった訳ではないでしょうにね。それが、息子が引き継いだのに、その代で終わる事はなく、そうしてまた、更にその息子にまで戦が引き継がれる、というのは」
ヤシュバは、何も言わなかった。ただ、私の言葉を聞いて。静かに頷いている。
「お前は、本当に長い間、戦っていたのだな」
「ええ、まあ。でも、そんな風に言われたくはありませんね。私だって、まだまだ若いんですよ? 竜族以外と比べたら、死にかけのじじいの様な年齢であってもね」
「それはわかっているが。辛くはなかったのか」
「そうは思いませんね。もっと別の事の方が、私は辛かったですからね」
敵と戦う事など、私が筆頭補佐になる前に舐めさせられた苦渋と、そうして筆頭補佐になった後に嫌という程出くわした侮蔑の瞳と、自分は筆頭補佐までなのだという思いに比べれば。まったく取るに足らぬ事柄に
過ぎなかった。
「そうか……。お前の身体が悪く見られる事を。俺が、どうにかできればいいのだが」
「その様な事は。そのお気持ちだけで、私はとても嬉しいですよ。ありがとうございます、ヤシュバ」
元気付ける意味も込めて、私はヤシュバの名前を呼ぶ。そうすると、ヤシュバも少しだけ相好を崩した。それを確認してから、私は残り僅かとなった紙の字を目で送り、それを読み耽る。
「あとは、何かあったのか」
「さて。あったと言えば、あったとは思うのですが。それ程大事とは思われない事ですね」
「気になるな。読んでくれ」
「ええ、あなたがそう言うのなら。その、件のクロイス・スケアルガと共に居た者について、記されていますね。これもまた無名らしいですが。私は知りませんし」
「どうしてそれが、報告書に?」
「それが。なんでも、とても美しい銀の狼だから、だそうでございますよ。それから、スケアルガと銀狼の関係の事もありますからね」
「スケアルガと銀狼の関係?」
「……ああ。詳しい説明は、省きますけれど。仲が悪いのですよ。銀狼、というより、狼族と。スケアルガの属する猫族はね」
狼族の族長を代々務めるギルスの血を引く者は、先の戦、カーナス台地で大半は命を落としたはずだった。狼族の英雄である、銀狼にして、前狼族族長であるグンサ・ギルスにしてもそうだ。残ったのは、現在の
族長である、グンサの弟のガルマ・ギルスとなる。私の記憶にも、ギルスの血の濃い銀狼の姿は焼き付いていた。彼らの銀の被毛は、眩いばかりに輝き。戦場にその姿があれば、一目でわかる程だった事を
憶えている。その銀狼が、スケアルガの者と一緒に居る、というのは引っかかる物があった。カーナスの一件は、直に銀狼を屠った竜族よりも、そうなる結果を招いたジョウスの方へと、狼族の怨みが向いている事は
わかっている。銀狼ならば、例えジョウス本人でなくとも。スケアルガの者と共に居るというのは、不自然な事だった。
「とても美しい銀狼、というのが。その姿なのか。それとも銀なのかは、わかりませんが。それが人目を引いて、またクロイスと共に居たから。とりあえず報告された様ですね」
「銀狼か。一度、見てみたいな。ランデュスだと、竜族ばかりだし」
「不満ですか」
「そうではないが。そんなに綺麗だと言うなら、気になるだろう」
「まあ。それには同意しますがね」
綺麗な姿。僅かに、私の中の劣等感が顔を見せようとする。それでも、相手は狼族なのだからと言い聞かせた。同じ竜族だからどうこういう状態と比べれば、然程気にするに値しない。
「その銀狼の名も、記されていますね。ゼオロ。銀狼の少年だそうです。私も、初めて聞く名ですね」
それで、報告書は終わりだった。読み終えた書類を適当に机の上に放って。さてこの後は、何をするか。こうしてヤシュバと話のできる関係に戻った事であるし、夕食にでも誘おうかと思っていた頃だった。
「……ゼオロ……?」
ヤシュバが、呟く。私は顔を上げた。
「どうか、されたのですか」
ヤシュバの、その黒い竜の顔は。最初、呆けていた様にぽかんとしたままだった。その目が見開かれて、口を開いたまま。しかしその表情が、次第に喜色に彩られてゆく。
「ヤシュバ……?」
訳もわからぬままに。私はそれを、見つめていた。