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27.連なる運命

 耳に響いた言葉を、俺は何度も、何度も反芻しては理解しようとしていた。
 けれど、理解できても。納得できない事があるんだなって、それだけをただ痛感している。俺は今、どんな顔をしているのだろう。俺を見下ろすクロイスの表情だけが、とても辛そうに歪んでいて。きっと、良い顔は
していないんだろうなって。それだけは、伝わってくる。
「どうして、なの」
 ヒュリカを、討つ必要があるかも知れない。殺さなくてはならないかも知れない。クロイスの言葉を聞いて、固まったままだった俺がどうにか絞り出せた言葉は、本当に僅かな物でしかなくて。
「……ヒュリカは、今前衛として出ている翼族の中で、格の高い人物と見て良い。頭を狙うのは、戦の基本。当然の事でしょ」
「そうじゃないよ」
 そうじゃない。そんな言葉が、聞きたい訳じゃない。わかっている癖に。そんな事、クロイスはわかっているだろうに。俺がどんな事を考えて、どうして、と。訊ねた事を。クロイスが、気づかないはずがないのに。
「クロイスは、和平のために頑張るんでしょ。それが、夢だって。なのに、それじゃ」
 咄嗟に口にした言葉は、きっと、軽々しく言ってはいけない言葉だったんだろう。俺の言葉を聞いたクロイスは、更に顔を歪めて、俯いて。とても、とても辛そうに呻き声を上げていた。
「そうだよ。でも、今は。そういう訳にはいかない。もう、戦は始まってしまった」
「話し合いは」
「駄目だったよ。というより、聞く耳を持たないんだ、あの翼族の兵は。いくら呼びかけてみても、まったく反応が無い。様子がおかしい。覇気が無いって、言っただろ。あれは、そういう事なんだよ。まるで、野生の生き物を
相手にしているみたいだ。少しずつ、この獅族門へと近づいては。俺達を見つけると、そのまま襲い掛かってくる。仲間がやられても、気にした素振りも見せないで、突撃してきて。ある程度押し返した時だけ、一斉に
引いて。その繰り返しだよ。多分、何かしらの原因があるんじゃないかとは、思っているんだけど。それも、よくわからない。翼族との交流が今まであったと言っても、翼族の谷の中までは、中々知る事はできないでいたし。
今からそれを探るのは、とても時間が掛かる事だ」
「だから、殺してしまうの。ヒュリカまで」
「全員を殺す訳じゃない。でも、ヒュリカは……少なくとも、ある程度翼族の兵にも指示を出しているみたいだ。このまま放置する、という訳にはいかない」
 翼族が蜂起した理由は、ここでも、よくはわからないみたいだ。なんの話し合いもできずに、この戦は開かれて。そうして、翼族には聞く耳が無いと、クロイスは言う。
「ゼオロ、わかってほしい。俺だって、殺したくて、殺す訳じゃないんだ。でも、どうしようもない。俺にできる事は、ただ守りを固めて。それでも、付け入る隙があるのなら、そこを突くぐらいの事しかない」
「そんなの、変だよ。だって、クロイスの夢は」
 平和のために、頑張るって。夢があるから、それを実現するために行くって。あの時は。ミサナトに、俺と二人で居た時は、確かにそう言っていたのに。それが今は、あの時、クロイスと共に俺の傍に居てくれたヒュリカを、
殺そうとするなんて。
「俺だってそうしたかったよ!」
 不意に、クロイスが叫んだ。叫んでから、見開かれた目からは、涙が流れていて。そのまま、クロイスは膝を着く。
「そうしたかったよ、ゼオロ……。俺はランデュスとも、竜族とも、仲良くなりたいって。ずっと。そう思って。それができると思って。親父の後を追うのだって、いつかはそれをするために、しっかりとした地位と、権力が必要だと
思ったからだよ。ただのクロイス・スケアルガじゃ、誰も俺の言葉なんて、聞く訳がない。だから俺は、まずは手柄を立てないといけないんだ。今度の事は、俺には、好機なんだよ。ただの視察だと思っていたのに、そこに、
こんな形で翼族が敵になって。親父は出られそうにないから、間に合わせで俺はここへ呼ばれて。今回の事で、手柄を立てられれば。何年も親の七光りだって馬鹿にされて、我慢しているよりも、ずっと早く、俺は認めて
もらえるんだ。失敗だけは、できないんだ。それこそ、軍師としてのスケアルガは、ジョウスまで。そう言われるだけだ。そうなったら、俺はもう、何もできなくなっちまう」
「他の方法は、無いの。翼族の様子がおかしいのは、事実なんでしょ? その原因を突き止められないの」
 それができれば、少なくとも翼族を必要以上に殺す必要は無くなる。何が原因なのかはわからないけれど、明らかに翼族の様子がおかしいのは、事実なのだから。
 でも、俺の言葉を聞いたクロイスは。そのままかぶりを振って、項垂れていた。
「時間が無いんだよ、俺には。ただの軍師の卵。役に立つかもわからない俺がここに入ったからって、それで全て良くなるなんて、誰も期待しちゃいないんだ。もうすぐ、俺の代わりに、親父の部下が来る手筈になってる。
俺がここででかい面をしていられるのは、誰も居ない、今の間だけだ。俺にはもう、時間が無い。それに、翼族が攻めてきているのは事実なのだから。黙って味方が殺されるのを、見ている訳にもいかない。翼族のために、
味方を見殺しにするくらいなら、俺は……」
 目の前で、苦しみながら心境を吐露するクロイスを、俺はただ見つめていた。同時に、クロイスの扱いは、やはりこういう物だったのかと納得をする。いくらラヴーワの軍師として招聘されたスケアルガ家であって、父親、
祖父が実際に采配を振るい、それが評価されていたとしても。クロイス自身は、そうではなくて。それは、最初にこの獅族門に来た時から、なんとなく兵の様子からして、察せられる事ではあった。無理もない。いくら父親
であるジョウスが、軍師であり、また猫族の英雄と言われる様な身であっても。クロイスはまだ、こんなに若くて。緊急事態だからと言って、突然に現れたクロイスからの指図を受けろと言われても、誰もそれを受け入れられる
はずがなかった。そして、突然に与えられた機会は、短い期限付きの物で。今ここでクロイスが際立つ様な成果を上げられなかったら、次があるのかは、わからない。少なくとも、今回の事で、ラヴーワとランデュスの関係は
相当に悪化するのは確実で。今後の事を考えたら、クロイスはここでの機会を逃したら、もう本当に、クロイスの夢である和平を結ぶ事など、夢のまた夢となって消えてしまうだろう。
 一つだけ、それでも気になる事があるのなら。それを理由に、急いている事だろうか。
「クロイスの言う事は、わかったよ」
 俺がその言葉を吐き出すと。はっとした様に、クロイスは顔を上げて。膝を着いているせいで、今は俺よりも少しだけ低い位置にある顔が、俺の目前にあった。
「クロイスは、ヒュリカを殺すつもりなんだね」
「ゼオロ……」
「……ごめんなさい。こんな言い方をして。正しいのは、きっとクロイスの方だよね」
 相手は既に、その手に刃を持って、ひたひたと歩み寄ってくるのだから。いくら呼びかけをしても、なんの反応も示さずに、その凶器を振り下ろそうとしているのだから。そんな状態で、これ以上、何ができるはずも
ないのに。そんな事、わかっているのに。それなのに、クロイスを詰る様な事を言ってしまった俺は。俺自身の事が、酷く嫌味な奴に思えてしまう。
 俺だって、同じなのに。ファウナックで、同じ事をしてきたのに。俺を殺そうと走り寄ってきた赤狼の首を切り裂いて、殺して。そして、そして。ハゼンの事も。結局は何もできずに、見殺しにしてしまった癖に。それなのに、
今クロイスの事を責める権利なんて、俺にあるはずもないのに。
「私が、クロイスを責めるのは。変だよね」
「そんな事、は……」
 クロイスは、何も知らない。何も知らないから、そう言ってくれて。だからやっぱり、クロイスは、クロイスのまま。優しいままで。それでも、どうしようもなくて、悩んでいたんだなって思う。クロイスが、翼族の事を、
ヒュリカの事を。なんの躊躇いもなく殺してしまえと言えるはずがない事くらい、察してあげるべきなのに。俺は自分の感情の動きに負けて、クロイスの事を傷つけてしまった。
「頑張ってね、クロイス」
 そう言って。俺はその場から立ち去ろうとする。そうすると、慌てて立ち上がったクロイスの手が、伸びて。俺の腕を掴んだ。
「ゼオロ。どこに、行くんだ」
「ヒュリカの所に。私は、ヒュリカからも話を聞きたい」
「駄目だ、そんなの。危険だよ。ヒュリカだって、話ができるか怪しいのに」
「クロイスは、ヒュリカと話はしたの?」
「……いや。とても、近づけなかった。それに、ヒュリカの方も俺の所には。まあ、今の俺の立場を考えたら。それは仕方がないけれど」
「そう。でも、私はそれでも、行きたい」
「駄目だ」
 クロイスの手に、力が籠る。俺を行かせたくないという気持ちが、そのまま伝わってくる様で。痛みに俺は顔を顰める。けれど、それは極短い間の出来事だった。不意に、クロイスの手を誰かがこじ開けて。俺を
解放してくれると。そのまま俺は、その相手の後ろに庇われる。
「ヒナ……」
 クロイスとの、そしてヒュリカの事ですっかり忘れていたヒナの存在を。俺は今更の様に思い出す。ヒナはただ、俺を後ろに置いてクロイスの前に立ちはだかっていた。
「そこを、退いて頂けますか」
 さっきまでの雰囲気が、がらりと変わって。クロイスは鋭くヒナを睨んでいる。その顔が、やっぱり豹そのもので。そういえばクロイスは豹だったな、なんてよくわからない理解を俺の胸に届けてくれる。それと対峙する
獅子は、最初から今まで、ずっと変わらない表情のまま。今はクロイスの睨みを正面から受け止めている。
「お前達が言い合っても、この件について解決はしないと、俺は思うぞ」
 とても短い、ヒナの言葉。それでもクロイスは、それにはっとした様だった。それは俺も同じだ。クロイスを責めたって、仕方ないのに。責められたって、クロイスだって苦しんでいるのに。
「……ヒナは、どうしたらいいと、思う?」
 とても、他人任せだけど。俺は思わず、訊いてしまった。俺達の言い合いを聞いても、静かなままで。それでいて、仲裁が必要だと判断したら、即座に行動に移せるくらいに冷静なままのヒナだから。
 ヒナが、横顔で俺を見つめる。それから、口元を吊り上げて、にやりと笑う。そこまではっきりと笑う姿を見るのが初めてで、思わず俺はそれに釘づけになる。
「好きな様に、やれるだけ。やればいいんじゃないか。聞いているだけでも、よくわかる。お前達は、こうだと決めたところは、絶対に譲らないだろう。特に、ゼオロ。お前はな」
「そう、かな」
 クロイスがそれ以上、動かない事を確認して。ヒナは身を引く。再び俺とクロイスは向かい合って。けれど、長い事そうしてはいなかった。
「ヒュリカに、会いに行くよ」
「それは、許可できない。俺としては」
「お言葉ですが。私はクロイス・スケアルガ様の部下でも、またラヴーワ兵でもありません。その様な指図を受ける謂れは、私にはありませんね」
 クロイスが、目を丸くする。それに俺は微笑んで見せてから、一礼して。その場を後にする。ヒナは黙って、俺の後に付いてきてくれた。部屋の外、廊下の少し離れた位置で待機していた、獅族の隊長であるドルネスが、
俺に気づくと慌てた様に走り寄ってきた。
「ゼオロ様。如何なされましたか。先程は、怒鳴り声の様な物が聞こえましたが……」
「心配ありません。ごめんなさい、騒いでしまって。ところで……」
 部屋の前に居る衛兵に視線を送ってから、俺は少し歩いて。付いてきたドルネスに、翼族と会うにはどうすれば良いかと、相談する。当然、ドルネスは大反対をした。そりゃそうだ。今まさに戦っている相手と、話を
しにいくと言いはじめる俺の事なんて、気でも狂ったかと思われても仕方がない。
「ヒュリカとも、私は友達なんです。ヒュリカの言葉を、聞いてみたい」
「しかし」
「私が戻らなかったら。その時は、その時です。どの道、クロイス様に代わる方が来られるまでは、このまま膠着状態を続けるおつもりなのでしょう? お願いします、ドルネス様。私を、門の外へ。私が出たら、そのまま
門を閉じてしまって構いませんから。本当に危なくなったら、私は戻らず、そのまま逃げますから」
 獅族門が閉じられても。南へ逃げれば、やがては虎族領の方へと達する事はできる。そちらの方で、どうにか中に入る事はできるだろう。俺がそう告げると、ドルネスは散々迷った挙句に、力無く頷いてくれた。
「ありがとうございます、ドルネス様」
「申し訳ございません。クロイス様のご友人であらせられるゼオロ様に、この様な」
「とんでもない。充分な事をしてくれたと、そう思いますよ。それに、ドルネス様は、クロイス様の事をとても気にかけてくださっている様ですから。将軍からは、良くない目で見られているかも知れないのに」
「そこまで、おわかりでしたか」
 そう、ドルネスは、隊長。隊長であって、将軍ではない。この砦には、まだ将軍が居るはずだった。クロイスがこの獅族門で孤立している様な口振りをしていた事を考えると。当然、この獅族門を本来預かる将軍からも、
良い様には見られていないだろう。ドルネスは隊長の身であり、つまりは将軍の部下であるというのに。クロイスの事を何かと心配してくれている様だった。
「ゼオロ様のお覚悟は、このドルネス。充分に理解しました。ですが、どうか翼族にお会いになられるのは、明日の朝にされていただけますか。あなた様のお願いを叶えて差し上げるためにも、準備が必要です」
「わかりました。ドルネス様が、そう仰るのなら」
「その間は、少々狭苦しいかも知れませんが、私の部屋に。勿論、お連れの方も」
 ドルネスの好意を甘んじて受けて、俺はその場を後にする。一度だけ、振り返って。クロイスが今籠っている部屋の、大きな扉へと視線を送った。俺がそうしていると、俺の後ろに付いていたヒナも、そうしていて。それに
気づくと、俺はドルネスの後を追った。ドルネスの部屋へと案内されると、ヒナと二人きりでしばらく過ごして。それから、仕事を終えたドルネスが一度戻ってきて、しばらくクロイスの事について、それから翼族の事についての
話をする。クロイスが言った通り、翼族の異変が起こっているのは確かな様だった。ドルネスの部屋は思っていたよりも広くて。それから、客間も用意されていたから、三人が詰めても狭く感じる様な事はなかった。
「ゼオロ様。どうか、ご無理だけは、なさりませんように」
 少し黒寄りの鬣を、困った様に指で梳きながらドルネスが言ってくれるのへ。俺は薄笑いを浮かべて、小さく頷いて答えた。

 翌日。どうせ将軍の耳に入ったら断られるだろうと言い切ってくれたドルネスは、外へと繋がる門の守備隊に根回しをして、こっそりと門を開けて俺を出してくれて。更に一時的に塀の歩哨にも、自分と通じている兵を
さり気無く配置させて。短い時間だったけれど俺の事が見咎められぬ様にして、俺を送り出してくれた。なんという有能。バレたら首が飛ぶのではと心配してしまったけれど、俺がそういう顔を見せただけで、ドルネスは
牙を見せてにこりと笑ってくれた。気になって問い質したら、ドルネスもバンカの出身だと教えてくれた。やっぱりな。バンカ出身の奴は危険だと、憶えておこう。
 門が固く閉ざされる音を耳に聞いて、俺は歩き出す。俺一人では馬を操る事はまだまだ無理なので、預けて。今は無人の広野を、俺は一人とぼとぼと、進んでいこうとして。後ろに居るヒナへと振り返る。
「ヒナ。本当に、いいの?」
「もう門は閉じただろう」
 俺がまさに門から外へ行こうとした瞬間に、ヒナは駆けつけて、一緒に行くと言ってくれた。朝、ここまでで。この獅族門にまで俺を連れてきてくれただけで良いと、言ったのに。
「そうだけど。もう私は一文無しだし、ヒナに何もあげられないのに」
 というより、今まで世話になった分ですら、到底俺が出した金で受けられる待遇ではなかったと思う。とうのヒナは、俺を見て。少し微笑む様に笑っていた。なんだか、昨日からヒナがよく笑っている気がする。この旅の
間中、接しているから俺はよくわかっていたけれど、ヒナはほとんど笑ったり、というより、表情の変化に乏しかったから。
「個人的に、興味が湧いた。お前が何をするのか」
「何もできないと思うけど。襲われたら逃げるくらいしかできないよ」
 俺はただ、ヒュリカの話を聞きに行くだけで。それすら叶わないとなれば、あとはもう、ここを去るしかないだろう。クロイスはどうやら無事みたいだし。今後の、多少の展開があったとしても、ヒナがここに来る前に
言ってくれた通り、クロイスの身に危険は及びそうにないし。だったら、俺はまたどこかへ行けばいいのだろう。
 でも、それをする前に。ヒュリカの事だけは、どうにかしたかった。それから、翼族の事も。その異変がなんなのか、少しでも知る事ができるのなら。今後翼族と戦う必要も無くなるはずだし。それを俺が解き明かせるのかは、
やっぱり不安な訳だけど。問答無用で襲い掛かられたら、逃げるしかないし。できれば、ヒュリカの顔を一目見たかった。
「ゼオロ。一つだけ、訊いていいか」
「何? 私に答えられる事なら、いくらでも構わないけれど」
 俺の隣にきて、一緒に歩いているヒナが俺の顔を覗き込む。風に揺れる鬣が、こうして至近距離で見つめていると、本当に綺麗だった。それから他の獅族とは違って、真っ黒なその瞳。覗き込むと、吸い込まれて
しまいそうで。他は普通の獅族と同じなのに、その一つだけで、ヒナの印象は大分違う物に俺には見えていた。
「報酬の代わり、と言ってはなんだが……。お前の、その名前は。前の世界の物を使い続けているのか」
 意外な事を訊かれて、俺は思わず足を止めてしまう。そういえば、そういう事は今まで訊かれた事がなかったな。初めてハンスに会った時に、名前を教えてほしいと言われて。その時に、咄嗟に出した今の、ゼオロ
という名前が。俺の、銀狼としての、俺の名前になって。そうして、それからずっと。俺はただ、銀狼のゼオロとして振る舞い続けていたから。そういえば、他の人には今の名前が、偽名というか。その場で新しく付けた
名前だという事は、口にしていなかった。相手も、それを口にはしなかったし。まあ、俺の元居た世界で、一般的にゼオロという名前があると思ったのかも知れないけれど。俺の口から発せられる、言葉から想像する事しか
できない断片的な世界の姿では、到底そこにまで考えが及ぶものではないのだし。だからこそ、今ヒナがそれを訊ねてきて。俺はちょっと、驚いてしまった訳だけれど。
「違うよ。よく、そういうところに気づいたね。どうかしたの?」
「いや。ただ、ふと。そう思っただけだ。それで、どうなんだ」
「……違うよ。本当の名前は、ゼオロじゃない。と言っても、もうほとんど、ゼオロが本当の名前みたいなものだけど」
「そうだな。今のお前は、ゼオロなんだろうな」
「前の名前、知りたい? 別に、教えても良いけれど」
 別に、知らせたからといってどうなるものでもないだろう。ヒナにはもう、俺の正体は知られてしまっているのだし。そう思って、俺はヒナに訊いてみたけれど。ヒナは少し考えて、微笑んでから首を振った。また、笑ってる。
「いや、いい。今更知っても、仕方がないだろうし。俺はお前を、ゼオロだと思っていたい」
「そう。ヒナが、そう言うのなら」
 よくわからなかったけれど。まあ、ヒナがそう言うのならいいかなと、俺も納得する。それに、そうやって自分の前の名前を口にしていると、確かに自分は一体なんなのかと、そんな気分になってしまいそうだった。ヒナは、
俺の事をゼオロだと思っていたいと言う。俺も。今の俺も、そうだ。俺はもう、人間ではなくて。ゼオロという名を持つ、狼族の銀狼なのだから。もう、それでいい。
「ありがとう、ヒナ」
「何がだ」
「なんとなく、私も。今のヒナの言葉で、自分がゼオロなんだなって。そう思ったから」
「よくわからんな」
「自分で言っててもよくわからないや」
 よくわからないのだけど。でも、ヒナのその言葉で俺はなんとなく、自分が本当に人間ではなくなってしまったのだという事を、噛み締められる気がした。
 気分を新たに進み続ける。前方の道は既に、次第に坂道になって。それから、少しだけ険しくなっている。元々が翼族との繋がりのために使われていた道だから、整えられてはいるけれど。それでも、道から少し外れれば、
大きな岩だのが平気で転がっていて。どんどん人里から離れてゆく様な気分を味わえる。
「あれが、イルス山だ」
 見上げれば。遠くには、雲を突き抜けて聳え立つ山が見える。同じ様に見上げたヒナが、そう言ってくれる。
「正面が、大イルス。それから、向こうの大イルスと比べたら小さな山々が、小イルスの連山になる」
 ヒナが、右を。方向で言えば南東の方を指差して、更に教えてくれる。そちらに目をやれば、これも大イルスと言われた山程ではないにしろ、大きな山があって。それは長く長く、南の方まで続いている様だった。
「翼族は、その間の谷のところに居るんだよね」
「そうだな。それから、空を飛べるから。大イルスの山肌にもそれぞれ住処を作っているそうだ。翼族は便宜上、ヌバ族の長であるヴィフィル・ヌバを翼族全体の族長という態で扱っているが。実際はヌバ族が最大勢力で
あるから、他の部族がその長であるヴィフィルの顔色を窺っているというだけで、それぞれに族長が居るそうだがな」
「ヴィフィル・ヌバ、か」
 現在の翼族の長が、そのヴィフィルなら。つまり、ヴィフィルはヒュリカの父親という事になる。戦を始めたというのなら、当然そこには、そのヴィフィルの意思があるはずだけど。何を考えて、ヴィフィルはこんな事を
したのだろう。それから戦に参加させるために、ヒュリカに戻る様にと連絡を寄こしたのだろうか。実際にヒュリカは戦場にも立ってはいるそうだけど。まだ、あんなに若くて。俺といくつも変わらないだろうに。
「とにかく、翼族の谷の方へ。危ないかも知れないけれど」
「本当に危ないと思ったら、俺はお前を無理矢理にでも連れて帰るぞ」
「ありがとう。でも、本当に危なかったら。ヒナだけでも、逃げて」
 俺からの言葉に、ヒナが不服そうな顔をする。まあ、俺の護衛だもんな、今は。ただ、ヒナにはもう充分過ぎる程の事をしてもらっているので。もしも危険が迫っているというのならば、無理に俺に付き合う必要はないと
思っていた。そう思っていても、ヒナはこんな所まで来てくれたけれど。
「この程度の危機を乗り越えられないのなら。俺は所詮、それまでで。そんな俺じゃ、どうせなんの役にも立てないだろう」
 それが、ヒナの言い分だった。確かにヒナが慕っている相手は、話を聞くだけでも本当に強い事がわかるから、そうなのかも知れないけれど。そう思いながらも、俺は無理にそれを咎める事はせずに、足を進ませる。
少なくとも、今はそんな事で足を止めて言い合いをしている時ではないだろう。改めて道を進むと、何かしらの異臭がその内にしてきて、俺は顔を顰める。
「なんの臭い……?」
 俺の声に、ヒナは瞳を鋭くしていた。その内に、俺はその正体を知る。道から少し離れた場所で、蹲った翼族の姿が見える。近づかなくても、それがもう生きてはいない事は伝わってきた。遠くを見渡せば、ぽつり、
ぽつりと、同じ様な死体が見えて。俺は顔を顰めて、目を背ける。
「今はたまたま、相手が引いているみたいだが。味方を弔う余裕も無いみたいだな」
「……酷いな。わかっていたけれど」
 ここはもう、戦場なのだから。こういう物を見る事もあるのだろうと、予想はしていたけれど。視界に映るだけなら、間近で見なければ、まだ耐えられる。けれど、それ以上に辛い臭いが俺の鼻を襲っていた。敏感な嗅覚が、
今だけは恨めしい。俺達が近づくと、野晒しにされた翼族の兵の死体から、中型の鳥が数羽飛び立つ。何をしていたのかは、確認するまでもなかった。それでも、現金な物で。臭いにさえ慣れてしまえば、それから
近づかなければ。その内にはなんとも思わずに歩く事もできる。ここで尻込みしていたら、何もできないで終わってしまうし。ただ、動かない翼族を見つける度に。それがヒュリカではないかと、俺は不安になって。そうでは
ない事を確認して、安堵の溜め息を吐いていた。薄情かも知れないけれど。目の前で死んでいるのが、関係の無い人と、ヒュリカだったら。ヒュリカじゃない方が、俺には嬉しい事だった。
 少しずつ、道が狭く。傾斜が厳しくなってゆく。今はもう両側に山肌が、少しずつ近づいてきていて。それから、寒さが身を包みはじめていた。獅族門の辺りは、少し涼しいかなって程度だったのに。ここに来て、急激に
温度が下がりはじめている事に俺は気づく。見上げたイルス山も、雪に覆われている箇所が見えるし。年中寒いのだろうな。朝起きて、然程寒くなくても毛布の温かさと離れるのが恋しい俺としては、住み心地は決して
良くはないだろうなと思ってしまう。翼族は普段からこういう所に居るのだから、その分寒さには強いのだろうけれど。
 無人の道を、ただ歩いた。本当にこの先に翼族が居るのかと思ってしまうくらいに、道はしんと静まり返っていて。そして今は、もう生き死にも関係なく、翼族の姿も見えなくなっていた。臭いも、今はしない。寒くなって
きたから。臭いも大人しくなっているのかも知れないと。大変嫌な想像をしてしまって、俺は一人で顔を顰めている。吹き付ける冷たい風だけが、場違いな程に存在を主張していた。
「ヒナは、本当に堂々としてるね」
 隣を歩いてくれるヒナは、動じる事もなく歩いていた。この獅族に怖い物はないのかと、俺は思ってしまう。
「一度や二度、死にそうな目に合っていると。このぐらいの事では動じなくなるもんだ」
「嫌な慣れ方だね……」
 かくいう俺もファウナックで襲撃されたりなんだったりしたおかげか、今のところは平静を装う事に問題はなかった。胸は、さっきからドキドキとしているけれど。どこから翼族が仕掛けてくるのか、わからないのだし。
 道が、更に細くなる。俺がそこへ、足を踏み入れようとした時だった。ヒナが無言で腕を上げて。俺の身体を遮って前に出る。それから、少し遅れて金属同士のぶつかる鈍い音が谷に響いた。俺は何が起きたのかも
わからずに茫然と前を。俺を庇って前に出たヒナを見ていた。ヒナの手に握られている大き目のナイフ。それから、ヒナがたった今弾いたと思われる、小型の槍が大地に突き刺さっていた。それで、どうやらどこからか
それが投げ入れられて。それに気づいたヒナが素早く俺の前に出て、それを叩き落としてくれたのだと遅れて俺は悟る。
「ヒナ」
「動くな。下手に動くと、庇いきれん」
 言われるがまま、俺はヒナの後ろから動かずに。それでもヒナの邪魔にはならない様に気を付けながら、注意深く前方へと視線を送る。道は相変わらず閑散として、そこには誰も居ない。それから、ようやく俺は
落ち着きを取り戻して、改めてヒナを見ると。ヒナは道から外れた、山肌の方へと視線を送っていた。俺には突然の事だからわからなかったけれど。ヒナには、どこから槍が放たれたのかも、しっかりと見えて
いたのだろう。その方向に目を走らせて。俺は思わず、声を上げてしまった。雪の様に白い、鷹の翼族が。山肌の影から、身を翻しては宙を舞っていた。その手には、今ヒナが弾いた物と同じ、小型の槍がもういくつか
握られていて。でも、そんな事よりも。俺にはその翼族の姿の方が大事で。
「ヒュリカ……ヒュリカ!」
 俺はただ、その名前を叫んだ。とうのヒュリカは、大きな翼を動かして。やがて俺達の行く道の上へと舞い降りる。思わず俺が前に飛び出そうとすると、ヒナの強い手に腕を取られて、それ以上は進めなかった。
「不用意に前に出るな。今、槍を放ったのは。あいつだぞ」
「そう、だけど」
 今更ながらに、俺はヒュリカに攻撃を受けたのだと気づいて。耳を伏せる。やっぱりもう、ヒュリカは俺達を。ラヴーワを敵と定めてこうしているのだろうか。
 それでも、そうであっても、言いたい事があるからと。俺はヒナよりほんの少しだけ前に出て。道の上に立ってからは動かずにいるヒュリカを改めて見つめて、絶句する。
「ヒュリカ、どうしたの……?」
 俺の目の前に居るヒュリカと。記憶の中の、ミサナトで一緒に日々を過ごしたヒュリカは、まるで別物だった。目の周りを、橙色の塗料か何かで染めていて。露出している白い羽毛の部分にも、いくつかの線が
走っている。それだけなら、別に俺は少し驚いただけだっただろう。戦に出る者のする、化粧の様な物だろうから。でも、そうじゃなかった。ヒュリカは比較的軽装で、和服の様な服を着ていた。いつか、ファウナックで
顔を合わせた、狼族族長であるガルマ・ギルスも着ていたそれに近い物を。ただ、色は鼠色の、極質素な物で。俺が絶句したのは、服から覗くその身体が、明らかに前にあった時よりも痩せ細っているからだった。元々の
ヒュリカだって、健康的な男の子と言った風ではあるけれど、少し痩せていたくらいだったのに。今のヒュリカは、げっそりとやつれ果てた様な状態で。服から覗く腕も、足も、枯れ木の様な状態だった。そして、顔も。羽毛が
あるのだから、余程痩せるか太るかしないと、そこまでわからないはずなのに。顔にも膨らみが感じられないのに、その目ばかりが、ぎらぎらと輝いて。それだけで俺は、威圧されてしまいそうになる。
「近づくな、ゼオロ。そいつは正気じゃない」
「でも」
 腕を引かれて、俺はヒナの顔を見つめる。ヒナの顔を見て、ヒナが何を言いたいのかは充分に察せられる事だった。少なくとも今のヒュリカは、もう俺がかつて友達と呼び合って、笑いあっていた様な存在では
なくなっていた。ヒナはそれを、ヒュリカの状態と、その狂気に満ちた目から察したのだろう。俺が次の一手を拱いていると、不意にヒュリカの翼が、閉じている状態から、何倍にも膨らんで。白い翼が大空へ飛び立つかの
様に広がる。それから、ヒュリカは天を仰いで。金切声の様な音をその口から発する。まるで、鳥そのものの様な奇怪な声だった。その声が響いて、少し後に、羽ばたく音がいくつか聞こえてくる。ヒュリカの呼びかけに
応じた翼族の兵が、集まってくる。思わず俺が後退ると、ヒナも、俺を庇いながら数歩下がった。
「これ以上は無理だ。ゼオロ」
 ヒナの言葉に、俺は再度ヒュリカを見つめる。声を上げる事も止めたヒュリカは、今はまた俺の事を、冷たく見下ろしていた。そうしている間に、ヒュリカに呼び寄せられた翼族の一人が空を飛ぶと、俺の下へと猛然と
突き進んでくる。咄嗟にヒナはまた俺の前に出て、ほとんど無造作と言っていい程に、本能的にそれを迎えて。そして、切り払った。赤い血が辺りに飛び散る。切りつけながら、更にヒナは蹴りを食らわせたのか、翼族の
身体は俺達の横へと落ちて、そのまま勢いに任せて、しばらく大地の上を滑る様にしてから止まった。
「ヒナ」
「殺すな、なんて言うなよ。そんな余裕は無い」
 そう言われて。俺はとにかく、自分ができる事をしようと。たった今ヒナが切り捨てた翼族の様子を見る。これも、ヒュリカと同じ状態だった。身体が極限まで痩せ細り、一体どこにあんな、空を飛ぶ力が残っているのかと
思わせる程の状態で。それから、残りの翼族とヒュリカへと目を移す。誰も、なんの変化もなかった。たった今、仲間が切り捨てられたはずなのに。翼族の兵はどこか呆けでもしているかの様に、その視線は宙を
彷徨っていて。そしてヒュリカは、変わらずに俺の事を見ている。
「まるで、催眠にでも掛かってるみたいだ」
 俺がぽつりと呟くと、ヒナは俺の顔をじっと見つめて。けれど何も言わずに、次の攻撃に備えてナイフを構えていた。俺は少しずつ、後ろへ、後ろへと下がる。とりあえず、クロイスがおかしいと言っていた通り。翼族に異変が
起きているのは確かな様だった。そして、今のヒュリカとの会話は難しい。だったら、ここは一度引くのが妥当だろう。ヒナも、そうするべきだと言っているし。
「……ゼオロ」
 けれど。俺が、背を向けて。ヒナもそれに続こうとした瞬間に。とてもか細い声で、俺の名前が呼ばれた。忘れもしない、ヒュリカの声だった。少し掠れていたけれど。俺の記憶の中にあるそれと、変わらない。声だけは、
あの時と変わらずに俺の名前を呼んでいた。俺は逃げようとした身体を止めて、振り返る。さっきまでと同じ様に、ヒュリカは俺を見ていた。同じ様に、俺には見えた。
「ヒュリカ」
 逃げたい気持ちと、逃げたくない気持ちがぶつかり合って。結局俺は足を止めたまま。ヒュリカの名前を、また呼んだ。俺の隣に居るヒナは、迷った様子を見せていて。俺は静かに手を上げて、その身体を押す。
 ヒナは、動かなかった。
 からんと軽い音を立てて、ヒュリカの手に握られていた物が地に落ちる。最初に俺に投げつけてきた槍だった。見た感じ、とてもそういう風に扱える様には見えないのだけど。魔法を駆使して使っているのかも知れないなと
暢気な事を少し考えながら、俺は踵を返して。逃げようとした足を、ヒュリカへと。ヒナが僅かに止める仕草を見せたけれど、俺が黙って頷くと、今は俺に任せてくれた。
 少しずつ、少しずつ。ヒュリカへと近づく。それ程の距離がある訳ではないのに、今はそれがとてつもなく遠い物に感じられた。ヒュリカはまだ、茫然と立ち尽くしたまま。けれど、徐々に近づく俺の事を、熱心に
見つめている。やがて、距離がほとんど無くなって。ヒュリカの前へと達すると、俺はヒュリカを見上げている自分に気づいて、少し驚く。身体は痩せて、吹けば折れてしまいそうな程なのに。その背は、俺がかつてミサナトの
街で一緒に過ごした鷹の少年ではなくて。もう充分に背が伸びきった、大人のそれへと変わっていた。今はそれが、余計に痛々しく思えるけれど。それだけ背が伸びたというのに、この有様では、体重はほとんど
変わらないか、下手をしたら減っていても不思議ではなかったから。
 ヒュリカが嘴を開けて、何かを言おうとして。けれど、それは言葉にはできないみたいで。何度か嘴をぱくぱくとさせても、乾いた息が出るだけだった。
「ヒュリカ。しっかりして」
 ここまできたら。俺はもう、躊躇いを捨てる事にした。手を差し出して、ヒュリカの細い腕を取る。俺だってこの身体になって、かなり細い方だというのに。そんな俺よりも、更に細い。今ここで、自分の力で立っていられるのが
不思議な程の身体だった。俺が触れると、ヒュリカの身体が震える。それで、束の間俺は、あの時の事を思い出した。初めてヒュリカに会った時。ミサナトの街で、留学生としてミサナトの、スケアルガ学園に来たというのに、
顔を見せるよりも先に、暴漢にかどわかされて。そんなヒュリカを、俺が見つけた時の事を。あの時も、ヒュリカは怯えていて。俺はかなり無理矢理に、ヒュリカに接触して、どうにかその場からヒュリカを助け出したのだった。
 あの時の実績が、俺に力をくれる。その後刺されて倒れた事は今は忘れよう。ヒュリカの事だけを取り上げれば、あの場は非常に上手く事を運べたのだから。
 俺が手を取ると、ヒュリカはその一点を、じっと見つめてくれていた。俺はただ、見上げる。それにしても、ほんの少し会わなかっただけで、こんなに背が伸びるなんて事もあるんだな。種族的な特徴かも知れないけれど。
「大丈夫?」
 不思議と、今はヒュリカの周りに居る翼族も、動く事はなかった。これ幸いとばかりに、俺はヒュリカをどうにか説得できないかと試みる。ヒュリカの呼びかけに翼族の兵が応えて出てくるくらいだ。ヒュリカ一人をどうにか
するだけでも、具合は大分変わるだろう。それが本来の、ヒュリカの意思で。そうしてラヴーワとの戦をも受けて立つと言うのなら。とても辛いけれど、諦めるしかないと、俺は密かに思っていたけれど。今のヒュリカは、
そうじゃない様に見えたから。
「ゼオロ……助け、て」
「ヒュリカ」
 助けて。その言葉が、聞こえた。何から助けてほしいのか。それがわからなかったけれど。俺はヒュリカの言葉で、逃げる事を完全に諦めた。今のヒュリカが、助けを求めているのなら。俺にできる事は、してあげたかった。
 俺がヒュリカの身体に縋ろうとすると、それよりも早くヒュリカは膝を着いて、頭を抱える。そしてまた、叫び声を上げた。間近で聞くと、頭が割れそうな気がするけれど、堪えた。こんな声を。まるで、断末魔の悲鳴とか、
そういう風に例えるのかも知れないと思ってしまう程だった。俺はヒュリカの身体に、抱き付く。こんなに身長差があるのに。やっぱり、その身体はとても、とても細くて。俺の細腕でも、包み込んでしまえる程だった。俺が
ヒュリカを大人しくさせようと努力していると、ヒュリカの叫びを聞いた翼族の兵が、よろよろと身体を動かしはじめる。それにも、さっきまでの機敏さは、どこにも無かった。皆、ボロボロなんだ。その顔を見れば、もはや、
自分がなんのためにここに居て。そうして武器を手に持っているのかも、わかってはいない様だった。ただヒュリカの声に反応して、のたのたと、死ぬまでその身体を動かしているだけだ。無情にも、その中の一人をヒナが
また、切り倒す。人形の様に動く翼族の兵は、ヒュリカの声を聞いて俺を襲おうとしていて。そして、俺が今抱き締めているヒュリカの存在にすら、気づいていないかの様だった。ただ声を聞いて、邪魔者を排除しようとして、
その邪魔者のすぐ近くに、ヒュリカが居る事にすら気づいていない。ヒナが翼族を切り倒す光景を、俺は震えながら見守っていた。ヒナが、怖かったのではない。こんな風になってしまった、翼族の姿を見るのが怖かった。一体、
なんなのだろうこの景色は。こんな風に扱われて、ボロボロになって。最後は無惨にも切り倒されるために生まれる命が、あっていいのだろうか。俺も、彼らも、なんにも変わらないはずなのに。今更、ここまで生きてきて。
人間として生きて。そして今は、狼族として生きている俺が、命の価値は平等だとか、そんな事さらさら自分が思っていないのなんて、よくわかっていたつもりだったけれど。それでも、今目の前の光景を見れば、そう
思わずには、いられなかった。彼らは、なんだったのだろうか。彼らは。俺の腕の中で、狂った声を上げ続けているヒュリカは。
「ヒュリカッ!!」
 ヒュリカの頭を抱き締めて。俺は懸命に、落ち着ける様に、何度も何度もヒュリカを呼び続けた。だって、壊れてしまいそうだったから。これ以上叫び続けたら、ヒュリカは本当に。いつの間にか、俺とヒュリカの周りを、
風が覆いはじめていた。ヒュリカの身体から溢れる力が、どんどん強くなっているのかも知れない。魔法に疎い俺は、それすらわからないけれど。
 周りの翼族が、一層強いその声に促される様に再び躍り狂う。ヒナはまだ戦いを続けてくれていたけれど、声に合わせて全ての兵が動くと、流石に余裕が無くなる。ヒナの隙を縫う様に、ヒュリカの使っていたそれとは
違い、大振りの剣を持った翼族が、剣を振り上げて、それを俺に。そしてヒュリカごと、切り伏せようと迫っていた。俺は咄嗟にヒュリカを抱き寄せながら、大地を蹴り飛ばす。軽いヒュリカはそれでどうにか動いて。けれど、
それで体勢を崩した俺は、そのまま仰向けに倒れてしまう。俺の上に、覆い被さったヒュリカが居て。そして、その先に、また剣を振り上げた翼族が。俺はどうにか動こうともがくけれど、流石にヒュリカが上では、いくら
軽くても咄嗟にどうこうという訳にはいかなくて。せめて、ヒュリカの下から離れられないかと試してみるけれど、やっぱり上手くいきそうになかった。相手が狙っているのは、多分俺なのだから。俺が離れれば、少なくとも
ヒュリカは安全になりそうだというのに。
「ゼオロ」
 もがいている俺に、声が。ヒュリカの声が聞こえる。俺ははっとして、その白い鷹の顔を見つめた。いつの間にかヒュリカの叫び声は止んでいて。その瞳も、今は澄んで俺をまっすぐに。いつか見たそれの様で。それから、
穏やかな笑みを浮かべている様に、俺には見えた。沢山、沢山変わってしまったけれど。変わってしまったのかも知れないけれど。ヒュリカは、やっぱりヒュリカのままで。
「来てくれて、ありがとう」
 そう言って。ヒュリカが、身体を少し持ち上げる。すぐ後ろには、翼族が。ヒュリカは身体をどうにか振り向かせると、俺を庇う様に、両腕を広げた。
 嫌だ。
 俺が、手を伸ばす。嫌だ、こんなのは、嫌だ。このまま、またあんな気持ちを味わうのは。それだけは。
 手を伸ばした。その先で不意に、爆発が起こる。一体何が起きたのかわからなくて、俺は目を見開いた。爆発と、そこから生じる煙が消え去ると。剣を振り下ろそうとしていた翼族は、後ろに倒れていた。どうやら、かなり
小規模な爆発だったらしい。俺はヒュリカの下から抜け出して、ヒュリカの無事を確認する。
「ヒュリカ、大丈夫?」
「あ、うん……」
 ヒュリカにも何が起きたのかわからないのか、混乱している様だったけれど。それよりも俺にとっては、ヒュリカが無事で、そして正気に戻ってくれた事が何よりも嬉しくて。俺はそのまま、今の状況も忘れてヒュリカに
抱き付いてしまった。ヒュリカはよろけながらも、俺を抱き留めてくれる。それでも、長い事そうしてはいなかった。再び、爆発が聞こえる。周りに居る、ヒナの手から逃れた翼族へとそれは襲い掛かっている様だった。その内に
ヒュリカは、その力の持ち主を見つけたのか、俺が上ってきた道を見ていて。俺がそちらへと視線を移すと。そこに、兵の集団が見えた。そして、その先頭に。馬に乗って、掌をこちらに向けている、豹の姿が見える。
「クロイス」
 俺が名前を呼ぶと、クロイスは軽く手を上げて。それから馬から下りて走り寄ってくる。その間にも、クロイスは素早く魔法を唱えているのか。爆発と。そして翼族が固まっているところでは、その掌から炎が飛び出して、
翼族の兵をあっという間に倒してゆく。
「ヒュリカ。ヒュリカには、翼族の人は止められないの」
 その光景を見ながらも、俺は咄嗟に、ヒュリカにそれを訊ねた。既にヒュリカが正気に戻った今、また翼族はよろよろと、それでも武器を構えたままだった。それをどうにかできないのかと、問いかける。ヒュリカはただ、
首を振った。
「ごめん。僕にも、どうにもできないんだ」
「そんな」
「心配しなくて良いよ。そんなに強くは撃ってない」
 俺とヒュリカの下へやってきたクロイスが、そう言って。俺達を助け起こしてくれる。それから、遅れてヒナが戻ってくる。
「ヒナ、傷が」
「問題無い。それよりも、引くなら今の内だ。新手が来ないとは限らない」
 ヒナは、肩から血を流していた。無防備の俺とヒュリカを守るために、大分無理をしたのだろう。俺がそれを見咎めると、それを遮る様にヒナが言う。クロイスもそれに頷くと、後方から、さっき別れたばかりのドルネスが
走ってきた。
「クロイス様。今のところは、翼族に動きはありません」
「引くぞ。戦果は、充分にあった」
 そう言って、クロイスはヒュリカを見ていた。それがまるで、捕虜か何かを見る様な目つきで。俺は束の間、それに狼狽えて。けれど、促されながら、俺達は全員で獅族門へと引き返す事になった。

 獅族門の砦の中を、俺は歩いていた。あれから数日が経って、俺とヒナは獅族門へと引き返すと、ドルネスの部屋ではなく別の部屋を宛がわれて、そこで待機させられていた。俺は、それに異存がある訳では
なかった。ヒナは怪我をしてしまったし。それに、ヒュリカの事も心配で。今どこかへ行こう、という気持ちになれるはずもなくて。まさか獅族門に留められる事になるとは、思わなかったけれど。それも、クロイスから直々に
ここに居てほしいと。そうして、俺の意思は別として。俺をその様に扱うと。そう言われてしまっては。結局のところ、軟禁に近い状態と言っても良かった。
「良い様に、使われたな。俺達は」
 部屋の一室で、ヒナの肩の包帯を取り換えながら会話をしていると。ヒナは今回の事をそう評していた。上半身が裸のままのヒナは、何かを深く考える様な仕草をしていて。俺はただ、新しい包帯をヒナに巻いていた。幸い、
怪我はそれ程の事では無い様で、俺の様に引きずる事もないという。それだけは、本当に良かった。俺が残り続けたから、ヒナもそれに付き合ってくれたのだから。
「怪我は気にするな。俺が未熟だったからだ」
「そう言ってくれると、安心……できないね。不便な事があったら、言ってよ。私の方は、もう日常生活くらいなら、問題ないんだから」
 軽い会話をしながら、それでも俺はヒナの言葉を噛み砕いて考えていた。上手く、利用された。確かに、結果としてはそうだと認めざるを得なかった。クロイスは、俺の事を上手く利用したのだった。俺がヒュリカの事を
聞いて、飛び出す事も。止めても俺が聞きはしない事も。クロイスの事だから察していたに違いない。だからそれは、クロイスが悪い訳ではないけれど。でも、飛び出していった俺を利用したのは、クロイスの案なの
だろうな。それから、ドルネスも。クロイスは、自分の下にヒュリカは近づいてきてくれないと言っていたから。自惚れた言い方だけど、俺が翼族の谷へ足を運んだ事で。様子がおかしくても、ヒュリカは俺の前へと
やってきたのだから。クロイスとしては。軍に属する、クロイス・スケアルガとしては。これを利用しない手はなかっただろう。その作戦は功を奏し、ラヴーワはほとんど痛手らしい痛手も受けずに、ヒュリカを捕らえる事が
できた。俺の見た様子からでも、ヒュリカの声に翼族は反応し、そうして従っていたのだから。当然その事実は、クロイスの方でも把握していて。だから、言ってしまえば。クロイスは敵の将の一人を。それは言い過ぎだ
としても、統率を取れる相手を生け捕りにする事に成功したのだ。
 ヒュリカは今、どうなっているのだろう。あの日から、それきりだ。扱いとしては捕虜で。そうして軍とは無関係と言って良い立場の俺が、おいそれと会えないのは、当たり前の事だけれど。
「殺しはしない」
 獅族門に戻って、別れ際。詰め寄った俺に、クロイスは短くそう言い放った。ただ、それからクロイスとも会ってはいなかった。俺が訪れた事で突然に齎されたこの戦果に、獅族門の砦を預かる者達は、狂喜しているかの
様だった。俺とヒナへの扱いは、丁重な物だったけれど。まるきり、蚊帳の外の様で。これではなんのために危険を省みずに翼族の谷へ足を運んで、ヒュリカを連れだしたのかわからなくなりそうだ。ヒナだって、怪我を
してしまったのに。ただ、路銀がもう底をついていたので、そこのところは実はとても助かっている。現金である。
「ゼオロ様。クロイス様が、お呼びでございます」
 それでも、クロイスの沈黙はそれ程長くは続かなかった。いつもの様に砦の一室で、ヒナとのんびり過ごしていると。俺達の部屋を、ドルネスが訪ねてきてそう言った。俺はドルネスに、ただ礼を失しない態度を
取る。俺達を翼族の谷へと行かせてくれたのは、ドルネスだけど。あの時クロイスが登場した事を考えれば、これもまた、クロイスの差し金ではあるのだろう。俺がそういう態度を見せても、ドルネスは優しく微笑む
だけだったけれど。そういう風に迎えられてしまうと、俺は自分がまだまだ子供なんだなって、自覚させられてしまう。
「ヒナ。ここで、待っていて」
「一人で良いのか」
「何かされる訳ではないし。それに、ヒナは怪我してるんだから」
「もう大分良くなったがな」
 ヒナはそれ以上は食い下がる事をせずに、素直に頷いてくれる。実のところ、クロイスが呼んでいる、というのならば。今はクロイスと二人きりで話したいと思っていたところだった。
 けれど、俺がドルネスに案内されたのは、あの総司令官が居座ってそうな部屋ではなくて。そこから近いには近いけれど、別の部屋だった。俺はドルネスに訊ねる事もせずに、案内された部屋の入口に屯する五人
ばかりの衛兵達を見て、その部屋に何が待っているのかを察する。扉を開かれて、中に入れば。予想通り、そこにはクロイスが居て。そしてその近くのベッドの上には、上半身を起こして相変わらず弱々しい姿のままの
ヒュリカが居たのだった。牢屋に連れていかれていなければ良いなと思っていたけれど。ヒュリカの身体の事を考えたら、ここになったのだろうと察する。
「ヒュリカ」
 俺は、ヒュリカへと駆け寄って。ベッドの傍で、その身体を見つめる。細い。細すぎる。それでも、数日前よりその身体は健康的になったと言えるかも知れなかった。それぐらい、あの時は病的で。このまま死んでしまっても、
おかしくはないだろうと思えてしまう程だったから。俺が詰め寄ると、ヒュリカが薄く笑う。
「ゼオロ。夢じゃ、なかったんだね。ゼオロが来てくれたのは」
 ヒュリカは、意識がかなり朦朧としていたのだろう。あの時俺が来た事すら、夢の中の様な。おぼろげな記憶で留めていた様だった。そんな事まで言われてしまうと。俺はもう、抱き付いて。俺はここにしっかりと居るんだぞと、
教えてやりたくなってしまう。ヒュリカも、俺の身体を迎えてくれて。そのまま抱き合っていた。しばらくして、わざとらしい咳が聞こえて。クロイスが存在を主張してきたので、渋々と離れる。
 クロイスの顔を見て、俺はなんて言葉を掛けたらいいのか、迷ってしまった。
「まずは謝るよ、ゼオロ。利用する様な事をして、ごめん」
「……いいよ。クロイスは、自分にできる事をやったんでしょ」
 ちょっと素っ気ない返事になってまったけれど。でも、別にクロイスに対して俺は怒っている訳ではなかった。寧ろ、あれだけ取り乱して、ボロボロの様に見えたのに。やる事はきちんと済ませている、というところは、
やっぱりクロイスらしいなと思ってしまう。
「それに。言い方は、悪いけれど……こうしてヒュリカを捕らえた事で、多少は、翼族の異変がどこから来るものなのか。わかったんでしょ?」
「ああ、そうだ。ヒュリカ」
 クロイスが促すと、ヒュリカが少し表情を曇らせてから。それでも俺をまっすぐに見て、嘴を開く。
「僕も、事の起こりから翼族の谷に居た訳ではないから、わからないのだけど」
「谷から連絡があって、ヒュリカは戻ったんだよね」
「うん。あの時から、翼族はもうおかしくなっていたみたいなんだ。上手く、言えないけれど。何かに操られている、というか」
 それは、俺も薄々と感じていた事だ。だって、明らかに一人の人として、怪しいとしか言えない状況に、ヒュリカも、また翼族の兵達も陥っていたから。それでも武器を取って襲い掛かってくる以上、中々事態が好転
しなくて。けれど、今回の事で多少の事がわかればいいと思った。
「どうして、翼族はあんな事に?」
「わからない。けれど……問題は、目なんだ」
「目?」
 首を傾げる俺に、ヒュリカ頷く。
「僕が翼族の谷に戻った時、最初に、父さん……ヴィフィル・ヌバに会った。ヴィフィルは、体調を崩しているから、ぜひ見舞ってほしいって。そう言われて。でも、横になっている父さんの目を見たら、なんだか突然、頭が
痛くなって。目が、熱くなって。……それからなんだ。他の翼族と目を合わせる度に、それが起こるのは。そして、頭の中でひたすら獅族門を攻めろって。誰かの声が聞こえる様になるんだよ」
「催眠……?」
「いや、もっと高度な魔法なんじゃないかな。情報が足りていないから、なんとも言えないけれど」
 俺とヒュリカのやり取りに、クロイスが口を挟む。俺はそれを見て続きを促した。この三人の中で、一番魔導に詳しいのはクロイスだ。魔導に関する事なら、クロイスに説明をお願いする方が何事も円滑に進むだろうと思って。
「いくら催眠や暗示を掛けても、普通はここまでの効果は得られない。まして、自分が死ぬ事すら恐れないで、突き進む様な真似は。これはもう、洗脳に近い」
「そんな事、できるの?」
 クロイスが、苦々しい顔をして首を振った。
「一人に掛けるくらいなら、できなくはない。けど、時間がとても掛かる。一つの事柄から始めて、少しずつ、少しずつ。相手の知識と常識を壊して。新しい物を入れて。まるで、子供に勉強を教える様なやり方が
必要だろう。いくら魔法でも、そんな簡単にはできない。けれど、この魔法は……ヒュリカの言う事が、本当なら。とてつもない威力の洗脳である上に、人から人へと伝染する物だ。こんな物、伝説に名前でも残って
そうな魔道士でも、そう簡単に扱える物じゃないよ。俺なんかじゃまったく無理だね」
 目を介して相手を染め上げる魔法。そうして、武器を持たせて。一つの所へと進軍させる魔法。魔法っていうと、もっと派手な物を想像してしまいがちだけど。確かに、よくよく考えればそういう魔法の方が、恐ろしいと
思う。それで、翼族はこんな状態になっているみたいだし。そこまで考えて、俺はふと懸念を口にする。
「伝染するって。大丈夫なの? ヒュリカは、ここに居るけれど」
「身も蓋も無い言い方をするけれど、今俺達が平気なんだから、平気だろうね。今まで翼族と戦った兵にも、異常は見られないし。特に俺なんかは操れるのなら、すぐに操るべき相手だろうし。仮にも兵を預かる身なのだから」
 確かに。これが広まったのが、翼族だったからまだ良かったと言わざるを得ないだろう。ラヴーワで広まったとしたら、それは、とんでもない事になる。そうして、それが成されていない時点で、少なくとも今は平気な様だ。
「元々の魔法が、薄れてきているのかも知れない。どうも、ヴィフィル・ヌバを介してその魔法は動いているみたいだ。強力な魔法でも、そんなに何人も操り続けたら、次第に効果が薄れてきても不思議じゃない。翼族の
今の動きから察するに、魔法を掛けたのは翼族ではないだろうし。掛けた本人がどこかへ行っても、これ程威力のある魔法となると、末恐ろしいな。或いは、翼族以外には効果の無い魔法なのかも知れないな。
無差別に広まり過ぎる事を、懸念したのか。あまりに無差別だと、自分やその身内にも被害が及ぶかも知れないから。いずれにせよ、今のヒュリカはもう大丈夫だろう。しばらく様子を見たけれど、本人も大分安定
しているみたいだし」
 そのためにヒュリカとしばらくの間会えなかったのかと、俺は納得する。確かに様々な事を考えたら、ヒュリカを捕らえたといっても、まずはしばらく様子を見るしか方法は無いだろう。クロイスの心配した通り、それが
ラヴーワ軍にまで広まる様では取返しのつかない事になるのだし。
「じゃあ……ヒュリカの事を、殺したりはしないんだね?」
「ああ。その点は、約束するよ」
 それを聞いて、俺はようやく安堵する。洗脳だのなんだの抜きにしたって、ヒュリカは他の翼族を動かす事ができていたみたいだから。そんなヒュリカが、どうにかされてしまうのではないかと。それだけは、とても心配だった。
「寧ろ、ヒュリカには協力してほしいくらいだ。これが、まだ断定するには早いかも知れないけれど、洗脳だというのなら。そして、翼族の現在の在り方が、その本心とかけ離れているのなら。このままラヴーワと翼族が
ぶつかるのは、良い事じゃないのは明らかだろ?」
「そうだね。それで、その。問題の洗脳っていうのは、どうにかできないものなの?」
 一番大事なところを切り出すと、クロイスもヒュリカも、俯いて無言になる。それだけで、俺にも充分に察する事ができて。思わず俺はヒュリカを見つめてしまった。だって、このままではヒュリカは、故郷を失うに等しい
状態に陥ってしまうだろう。例え洗脳されていて、そして翼族が本当は助けを求めていても。襲ってくる相手である以上、排除しなければこちらがやられてしまうだけなのだから。
 それでも、クロイスは気を取り直す様に顔を上げて。それからヒュリカの身体を見つめながら口を開いた。
「今のところは、決定打と言える物は何もないよ。けれど、この状態も長くは続かないだろう。それはヒュリカの今の身体を見れば、わかるだろ? 掛けられた側が、ここまでの状態に陥ってしまう。どうして翼族の兵が、
それ程の数押し寄せてこないのかは、それで充分にわかる。長くは、持たないんだろうな。あまりにも、この洗脳の魔法が強すぎて。肉体的な負担が大きすぎる。いずれにせよ、翼族の谷では、もっと深刻な状態になった
翼族で溢れているだろう」
「どうにか、ならないの」
「少しずつ、翼族の兵を大人しくさせるしかない。幸い、日に日に翼族は弱っている。それは喜ぶべき事ではないかも知れないけれど……。でも、俺達が翼族の谷へ足を踏み込む事が、その内できる様になるはずだ。
それから、翼族がこの状態になったからといって、何も全ての翼族がこうなったとは限らない。大イルス山は、広い。恐らく、戦に参加しない者、また、身内の異変を感じ取った洗脳から逃れた奴らは、山の深くに
籠っているはずだ。こうなると、翼族とはもっと親密になっておくべきだったかも知れないな。そいつらが、ラヴーワに助けを求めてくれれば、もっと早く手を打てたかも知れない」
 結局、それができなくて。翼族の大半は、翼族同士で集まるが故に目から目へと魔法が伝わり、その魔法が薄れても、兵同士で顔を合わせるとまたその魔法が掛かってしまう。そんな状態であるらしかった。
 翼族の、全滅。そう言っても、差支えが無い程の事態なのかも知れなかった。少なくとも、俺が翼族の谷へ向かう道中に見掛けた、見捨てられた死体の様な惨状が。翼族の谷の中でも繰り広げられていても、
おかしくはなかった。身体に相当の負担が掛かるのだから、屈強な成人の男ならまだしも。女子供は、もっと早くに身体が付いていかなくなっても、不思議じゃないのだから。
「……どうして、こんな事を」
「誰がやったのか。まあ、見当は付くけれど。今は、それを言うのは止めようか」
 クロイスが言わずとも、俺にもわかる。翼族以外で、翼族が邪魔で、そして強大な魔法を事も無げに行使する事ができる者。竜族以外では、ありえなかっただろう。もしかしたら、竜族以外でも、とても腕の立つ
魔道士の仕業かも知れないけれど。どちらにせよ、そういう恐ろしい相手が存在している、という事実には変わりなかった。
「ヒュリカ……」
 気づくと、静かに涙を流しているヒュリカが目の前に居た。俺はまた、ヒュリカに抱き付いて。その身体を何度も抱き締める。翼族が今、崩壊の危機に瀕している。すぐそこで。なのに、ヒュリカも、この砦に居る者達も、
何もできないのだった。不用意に翼族の谷に踏み入れば、どこにまだ身体を動かせる、それでいて洗脳された翼族が居るのかわからないのだ。とても。とても、残酷な言い方だけれど。ラヴーワはここで、翼族が
洗脳の影響で、その身が朽ちてゆくのを静観するだろう。少なくとも谷に踏み込んで、どうにか生き残った翼族を助ける事に専念できるまではそうするしかなかった。ラヴーワの兵力を、もっとここに注げば、今すぐに
でもそれは叶うのかも知れない。けれど、それは情勢が許さない。翼族がこの様な状況になって。そして裏で糸を操るのが、ランデュスであるという疑いが強まっている以上、今は他の場所にも備えが必要なの
だから。そして、翼族の命さえ見て見ぬ振りをすれば。ここには兵力をそれ程割く必要がない事も、きっとその内にわかってしまうのだから。
「できるだけ、早めに翼族の谷に入れる様に。俺からは進言しておくよ。それがどのくらい、効果があるのかはわからないけれど。俺の立場じゃ、やっぱり本格的に軍を動かすには至らないだろうから」
 クロイスの言葉に、ヒュリカは僅かに頷いて。それから、また涙を流していた。
「きっと、罰が当たったんだね。ラヴーワとランデュス。どちらにも良い顔をして。自分達が傷つくのを、避けていたから」
「そんな事」
 ヒュリカが、まるで今の状況を肯定するかの様な事を言うから。俺は思わず、顔を上げて。そんな事はないと、言おうとした。けれど、ヒュリカは首を振るだけだった。
 しばらくヒュリカを抱き締めた後に、俺とクロイスは、一度部屋を出る。それから、クロイスの部屋へと。ヒュリカの部屋と比べると、やっぱり内装はかなり華美に整っていて。控えめな花の香りが、俺へと届いていた。
 振り返ったクロイスは、俺を丁重な仕草で椅子へと座らせて、向かい側の椅子へと腰かける。こうして、改めて向かい合うと。本当に今更だけど、クロイスの下へと俺は帰ってきたのだなと、そう思った。ミサナトで出会って、
話をして、友達になって。クロイスが、俺を好きだと言って。けれど、自分の夢のために一人で旅立って。なんだかあの頃が、とても遠く感じる。あの頃は、ヒュリカも居てくれたから。ミサナトでそれぞれ別れたクロイスと
ヒュリカが。そして、俺自身が。それぞれに道を辿って、今はこの獅族門の砦に、一堂に会しているのだから、不思議な巡り合わせもあるんだなと思う。
「改めて、謝るよ。こんな風にゼオロの事を利用して、ごめん」
「もう、いいよ。ヒュリカが助けられた。それだけで、私は。私とヒナだけでは、ヒュリカをここまで連れてくる事は、できなかったし。……ヒュリカには、とても辛い目に遭わせてしまったけれど」
「ヒュリカの事は、手厚く扱うつもりだよ。勿論、そんな事でヒュリカが受けた傷がどうにかなるとは、俺も思わないけれど」
 今のヒュリカは、とても辛い状況だろう。それなのに、その辛さはこれから更に増してゆく。ラヴーワ軍が救護のために翼族の谷に入るのは、まだ少し先の事で。その時に、翼族の本当の被害が明らかになって。ヒュリカが
心の底から傷つくのは、きっとその時だ。
「話を、変えようか」
 打ち切る様に、クロイスはそう言う。ちょっと素っ気ないけれど。ここで俺達がどれだけ気に掛けても、何も変わらない事はわかっていたから、俺も頷く。しばらく無言が過ぎてから、クロイスは微笑む様に俺を見て口を開いた。
「本当に、久しぶりだね。改めて今、そう思うよ、ゼオロ。よく、ここまで来られたもんだ」
「そうだね。私も、そう思う」
 この間は、出会ってすぐに翼族との戦の事を聞いて、そのまま飛び出してしまったから。こうして落ち着いて話をするのは、本当にミサナトで言葉を交わしたきりだった。俺はクロイスの事を、じっと見つめる。ミサナトに
居た頃より、また少し背は伸びたかも知れない。俺も背は伸びたけれど、相変わらずクロイスには届きそうにないな。それでも、以前よりは身長差は確実に狭まったけれど。以前は、身長だけならそれこそ親子とか、
歳の離れた弟だとか。そんな感じだったし。
「大きくなったな。その内、俺と同じぐらいになるのかな、ゼオロも」
「どう思う?」
「ちょっと、残念かも」
「じゃあ、もう私の事が好きだなんて、言わないね」
「それは別だから。今も。今だからこそ、好きだよ。あの時の、本当に俺が手を貸してあげないといけないなって思える様なゼオロちゃんも、可愛かったけれど。今のゼオロは、もっとしっかりしている様に見える」
「そうかな。私は結局、何もできなかったけれど」
 ただ歩いて、場所が変わっただけじゃないのか。誰かからそう言われたら、きっと否定できない。
「そんな事、ない。少なくとも、今回ヒュリカを救ったのはゼオロの功績だよ。もっと堂々として良い。俺が出ていったって、本当にどうしようもなかったんだ。そういう意味では、今回は俺も助けられた。少なくとも、このまま
ずっとここに閉じ籠って。俺の代わりが来て、そのまま翼族の兵を全滅させてしまうよりは、ずっと良い結果が出た」
「そんな事言って。本当は、ある程度は察していたんじゃないの」
「……まあ、それは否定しないけれど。でも、今後の方針が固まったのは、大きい事だよ。もっとも、俺の代わりがそれに頷くのかは。また、別の話だけど」
 そこで言葉を切って、また、無言が。クロイスはただ、俺の事を見つめていた。俺もただ、クロイスの事を見ている。今までずっと離れていた分。その間を埋めるかの様に。目の前のクロイスは、やっぱり、そんなに
変わった様には思えなかった。ただ、以前よりは幾分、落ち着きが備わった様には思えたけれど。
「俺のあげた腕輪。まだ、してくれてるんだ」
 クロイスが言う。俺の左手に輝く、それを見て。
「そういえば、肩。もう大丈夫なの。随分平気そうにしているから、つい訊くのも忘れちゃったけれど」
「もう、ほとんど。もう少しだけ頑張れば、大体は元に戻るくらいじゃないかな」
「そっか。時間ができたら、俺も手伝うよ。そういう、約束だったよね」
 憶えていたのか。ミサナトでした約束を。思わず、俺は笑みを浮かべてしまう。それから、腕をまた眺めて。それから。
「ごめん。クロイスに貰ったコートは、駄目にしちゃったよ」
「いいさ。あれを着こなすゼオロも、見てみたかったけれど」
 それから俺は。今まで伏せていた事を、もう少しだけ詳しくクロイスに説明する。ファウナックに行った事を。ガルマ・ギルスの館で、世話になった事を。けれど、ハゼンの事と、エンブレムの事は話さなかった。俺の
胸の中で、大事にしまっておければ。それで、いいと思う。
「そうか。ガルマと、会ったのか」
「スケアルガと、銀狼の事も学んだよ」
「当然だね。あそこなら、少なくとも銀狼側としては、いくらでも資料はあるだろう」
 居住まいを正して、クロイスがまっすぐに俺を見つめてくる。少し、寂しそうに笑った。
「それでも、ゼオロは。俺と、友達で居てくれるのかな。俺は、銀狼に、あんな事をしたジョウスの息子なのに」
「忘れているかも知れないけれど。私は元々、銀狼じゃないんだよ、クロイス」
「そうだね。忘れたつもりは、なかったけれど。ゼオロの、その銀を見ていると。俺はどうしても、スケアルガのした事を、思い出して。ゼオロに触って良いのか、迷いそうになる」
「ベタベタ触ってる癖に」
 俺が突っ込みを入れると、クロイスは思わずと言った様子で、笑い声を上げる。
「クロイスは。ジョウスさんのした事を、どう思っているの」
「必要な事だった。……と、までは言わない。けれど、あの一件で。大分風通しは良くなかったと。そう思う。こういうと、嫌われるんじゃないかって、怖いけれどね」
「それだけ、狼族は動かしにくい存在でもあったんだね」
「ああ。結局は今も、その時の一件が禍根となって。それ程変わらないのかも知れないけれど。けれど、当時の狼族は。まるで今の竜族の様だったと言うからな」
「竜族だけが、神を頂いていて。他種族を下に見ている様に。狼族は銀狼を仰いで、似た様な状態になっていたと」
「そう。銀狼、いや、ギルスという存在が。元々は昔、どの種族にも存在していたという神の、血を引く者と言われる事もあるくらいだったからね。もっとも、当時の狼族の姿勢が本当のところ、どの様な物であったのかは。俺も、
そしてゼオロも、知る術はないけれど。ただ、親父が。ジョウス・スケアルガが。戦の最中であるというのに、そういう手段を取らざるを得なかった事。そしてそれらを経ても、スケアルガはまだ軍師という大役を任されるくらいに、
ガルマ以外の族長からはそれなりに支持を集めているという事実から、ある程度察する事はできるのかも知れない」
 クロイスの言葉を、俺はただ熱心に聞いていた。今までは、ただ。銀狼側からの言い分を聞くだけだった。今は、スケアルガの側に立つクロイスからもそれを聞く事ができる。
「ゼオロ。ゼオロが、本当は銀狼ではない事も承知の上で、それでも訊くよ。スケアルガが、憎い?」
「……わからない。私はやっぱり、その時は居なかった身だし。その上で、たまたま銀狼になった、というだけだし」
「そうだよね、ごめん。訊かれても、困るよね。それにしても、綺麗な銀だと思っていたけれど。ガルマに取り上げてもらえる程だとは、俺も思っていなかった。……親父が、あんまり良い顔をしない訳だな」
 ガルマに匹敵する程の銀狼と、狼族のほとんど全てから憎まれていると言っても良いくらいの自分の息子が、親しくしている。確かにそれはジョウスにとって、良い気分とは言えないだろう。息子であるクロイスに、
何かしらの危害が及んでもと、心配するに足る問題だろう。結局はクロイスが俺と一緒に居る事を望んで、そして、軍での下積みのために旅立つ事を決めたから、ジョウスも必要以上に俺に何かを言う事はしなかったけれど。
「ゼオロ。今後の事は、もう決めてあるの」
「今のところは、まだ。ヒナの傷の事も、ヒュリカの事もあるし」
「そう。また、一緒に居たいな。けれど、やっぱり、難しいかな。もう砦の中は、ゼオロの噂で持ち切りだから。スケアルガの俺と居る事も、含めてね。それに俺は、臨時でここに居るだけだ。次はどこに行くのか、まだ
わからない。こうなった以上、やっぱり竜族との戦は避けられる物とも思えない」
 それは、クロイスの夢が終わる事を意味しているのだろうか。とうのクロイスは、ただ目を瞑って。瞑想的に今の状況をただ呟いているに過ぎなかった。その顔からは、どんな感情も読み取れそうにない。
 クロイスの夢が、続けば良いと思った。けれど、こんな形では。
「諦めないで、クロイス」
 クロイスが、瞼を開く。じっと、俺に視線を注いでいる。表情からは、やっぱり何も読み取れない様で。それでも今は、ほんの少しだけ。その瞳が揺れている様に見えた。
「私も、手伝うから。何ができるのか、わからないけれど」
「傍に、居てくれるの」
「わからないけれど。それは、今後の展開次第なんでしょ。でも、クロイスが諦めないなら。私も、クロイスの事を、手伝うよ」
「……ありがとう、ゼオロ。俺も、もう少し頑張るよ。それに、今はまだ俺はここを任されたままの身だから。とりあえず今は、少しでも翼族の命が助かる様に、尽力してみよう」
「それでこそ、クロイスだね」
 それから俺は、立ち上がって。少し早いけれど、クロイスとの会話を切り上げる。そうしながら、ヒュリカの部屋に居ても良いかと訊ねる。クロイスは少し迷った様子を見せたけれど、承諾してくれた。クロイスの部屋を
後にして、一度ヒナの待つ部屋へと戻って。ヒナに事情を話して、了承を得てから、今度はヒュリカの部屋へと。結構時間が経ったというのに、ヒュリカは相変わらず上半身を起こした体勢のまま、茫然としていた様だった。
「背、凄く伸びたんだね。ヒュリカ」
「うん」
「前は、私と同じくらいだったのに。立派になったよ」
「そうだと、いいけれど。僕は、何も」
 そういうところが、俺と似ていると思った。ヒュリカと会話をしていると、その内に夕食が。クロイスから話が行っていたのか、二人分届けられて。ヒュリカはそれを、少しずつ食べている様だった。ヒュリカの身体を考えたら、
いくら食べても足りないくらいだろうけれど。そもそも食事をする体力も、それほど無い有様で。俺もこの身体では小食だというのに、ヒュリカが食べたのは、それよりも少なかった。それでも大分、無理をして食べた
みたいだけど。食事を終えると、俺はヒュリカに断ってから、ヒュリカの寝かされているベッドで一緒になって横になる。ミサナトで、ハンスの家で、一緒に過ごした夜の事を思い出すと。そうするべきか、悩んだけれど。今の
ヒュリカは、そんな事を考える余裕も何も、無い様で。俺が一緒に寝ようというと、ただ嬉しそうに笑って、僅かに翼を動かしていた。
 夜中に、ヒュリカから震えが伝わってきて、俺は目覚める。ヒュリカは涙を流して、ただ震えていた。まるで、いつかの俺の様だった。なんとなく俺は、ヒュリカがそうなる事を察したから、こうしてヒュリカの下へ
やってきたのだなと思う。ほとんど無意識で、ヒュリカの部屋に押しかけていたけれど。一人きりにしたら、ヒュリカが、壊れてしまいそうで。それが、怖くて。ヒュリカの身体を抱き締めると、ヒュリカも目を醒ましたのか、
それでも何も言わずに、俺の身体に腕を回して。そのままぴったりとくっついて、俺達はまた眠りに落ちていった。

 砦に立てられたラヴーワの旗が、風の中で翻っていた。
 俺の見つめる先には、馬を連れたヒナが居て。傷も癒えた今、再び旅行用のマントに身を包んで。いつもの様に黙って俺を見つめていた。
「本当に、行っちゃうの。ヒナ」
「ああ。今回の事で、どうやら本格的にランデュスとラヴーワの関係は悪化しそうだからな」
「そう。……本当に、ありがとう。今まで一緒に居てくれて。ヒナが居てくれなかったら、私はここまで来られなかったよ」
「そうかな。お前だったら、他の奴とでも。ここまで来たと俺は思うが」
 そうかも知れないけれど。でも、ヒナが俺をここに連れてきてくれたのは事実だから。俺は笑って、ヒナを見送ろうとしていた。
 ヒナは身体の傷が癒えて、そして俺の今後を知らせると、一人で旅に出ると言って。そのまま準備を済ませたのだった。慌ただしい中で、どうにか俺はヒナを見送る事ができて、ほっとしている。
「お前はこれから、あのクロイスと。ジョウスの下に行くのだったな」
「うん。どうなるのかは、わからないけれど」
 俺が獅族門でした事は、当然ながらクロイスの父であるジョウスの耳に入る事となって。そうして、ジョウスから直々に俺は呼び出しを食らってしまったのだった。ただの、スケアルガ学園を運営しているジョウスの
言葉ならば、それは無視できた事だけれど。ラヴーワ軍の軍師である、ジョウス・スケアルガの呼び出しであると。そう言われては、俺は断る訳にもいかなくて。そして、それはクロイスも同じだった。数日前にジョウスの
部下が獅族門へとやってくると、クロイスに一時的に預けられていた権利などは、全てはそちらへと譲渡され。臨時の役職からも、解任という形になった。あと数日もしない内に、俺はクロイスと共に、ジョウスの下へと
向かう事になっていた。
「お前がラヴーワに付く事を決めたのなら。俺は、何も言わない」
「どういう事?」
「お前は、異世界人だろう。だから俺は、お前が最終的にランデュスに付くか、ラヴーワに付くか。それとも、どこの味方もせずにただ生きてゆくのか。それを気にしていた」
「そっか。確かに、そうだね。私は狼族の身ではあるけれど。場合によっては、そういう事もあり得たね」
 今までは、あまり考えた事がなかったけれど。確かにクロイスと一緒にジョウスの下に行く、という事は。本格的に俺はラヴーワの側に立つという事を、意味しているのかも知れなかった。まあ、ジョウスと話をして、それから
その辺にポイされる可能性も否定できないけれど。
「けれど。少なくとも、今回の事を考えると……ランデュスの方には、あまり行きたいとは思えないよ。それに、私は銀狼だしね。ランデュスからすると、それはあまり良い顔はされないと思うし」
「そうだな。確かに、お前はここに。ラヴーワに居た方が、良いのかも知れないな」
 ヒナが、一度背を向けて。そうして、自分の行く道を確認するかの様な仕草をしてから、馬へと跨る。俺は少し歩いて、ヒナを見上げた。
「ヒナ。危険な所に行くのなら。どうか、無事で居てね」
「……ああ。ありがとう、ゼオロ」
 初めて、そんな風に礼を言われた気がして。俺は笑った。ヒナも今は、少しだけ笑みを浮かべている。
「ヒナの、大切な人が。守れるといいね」
「ああ。俺が、どこまでできるのかはわからんが……」
 ヒナが、また遠くを。遠くの空を見上げた。その先に、ヒナの大切な人が居るのだろう。ヒナも、その人も。無事で居てくれたらと、俺は思った。
「世話になったな」
「世話になったのは、私の方だよ」
「お前との旅は、悪くはなかった」
 ヒナが、馬を飛ばす。軽快に走り出した馬は、その主を背に乗せて。その目的の場所まで、連れてゆくのだろう。俺はそれを見送って、寂しいけれど、でも笑ってしまった。あんまりにも、ヒナがあっさりと別れを告げて
いってしまうから。それでも、今までのヒナを振り返ったら。それはヒナにしてはとても頑張って、俺へ言葉を投げかけてくれていた事が、わかったから。
 振り返りもしないヒナに、手を振って。それも済ませると、俺は獅族門の中へと戻る。俺が戻ると、ドルネスが待っていて。俺を、俺とヒナの、今は俺だけの物になった部屋へと連れていってくれる。軽く着替えを済ませると、
今度はヒュリカの部屋へと俺は向かった。ヒュリカはここ数日で、大分体調を持ち直したのか。段々と元の、俺の知っているヒュリカの姿へと近づいていて。まあ、背は高いけど。それを見る度に、俺は安心して。それから、
このためだけであろうと、ここまで来た自分を褒めたい気分になった。
 けれど、俺にとってはやっぱりヒュリカは、心配の種だった。だってあと数日で、俺はクロイスと共にジョウスの下へと行かなければならない。当然、ヒュリカを連れてはいけなかった。ヒュリカにはこの後も、翼族の谷の事に
ついての協力を仰ぐ必要がある。谷の内部の事を知っているのは、ヒュリカと、あとは獅族門から近い街に居る翼族が居るけれど。族長の息子である、という事と。また洗脳はされていなくても、残った翼族を説き伏せ、
味方に付けるのにも、ヒュリカの存在はどうしても必要不可欠な物になっていた。何より今のヒュリカの身体は、例え馬車に揺られるだけであってもかなり苦しい物がある。いずれにせよ、ヒュリカを伴う訳には
いかなかった。だからこそ、俺はヒュリカをたった一人でここに残していかなければならない、という事が。どうにも気になってしまって。ジョウスの呼び出しにも、中々応えられずにいたのだった。それ以外では、俺に
ジョウスの呼び出しを断る理由はないし、またそんな権利も無いのだけど。クロイスもそこのところはかなり心配して、少しだけこの獅族門に俺が残る時間を作ってくれたのだった。
「もうすぐ、ゼオロは行っちゃうんだね」
「うん」
 それから。ヒュリカにも俺の正体を、改めて伝えた。ずっと、ヒュリカには隠していた事だから。それに、クロイスは当然の事だけど。俺がジョウスに呼ばれて行ってしまう、というのは。はたからすれば多少首を傾げる事で
あるのは確かだった。クロイスともこの事については話し合ったけれど、ジョウスはとっくに俺の正体の事など、わかっているのだろう。ミサナトでの騒動をジョウスが知らぬはずはないし、知っているからこそ、ハンスに
手を貸して、雲隠れもさせたのだから。ただ、俺の正体を知らない者からすれば、確かに俺は銀狼ではあるけれど。クロイスと肩を並べて、ジョウスの下に行くというのは、やはり腑に落ちない。他人だったら、好きな様に
思わせていただろうけれど。それがヒュリカとなっては、話は別だった。それに、今のヒュリカは、やっぱりまだ不安定な部分がある。俺が余所余所しく、秘密を秘密のままにして離れるのは。きっとヒュリカの目には、
良い様に映るはずがなくて。そして、ヒュリカを傷つける事になるだろうと思ったから。俺は正直に、俺が本当は、銀狼などとはなんの関係も無い存在で。そうして、今までずっと。ヒュリカを騙し続けていた事を告げて、
謝ったのだった。
「そうなんだ。確かに、ゼオロって、中々その辺りには居ない感じの人の印象はしてたけれど」
 とうのヒュリカの反応はといえば、実のところそんな程度で。あとは微笑んでいたから、俺は大分拍子抜けをしてしまう。とはいえ、安心したけれど。騙していたなんて酷い、なんて言われても、謝る他はなかったし。
「ヒュリカを一人で残したくはないのだけど……」
「仕方ないよ。それに、ゼオロだって、大変なんだから。……ずっと、頑張ってきたんだね」
 頑張ってきた。そう言われて、思わず俺はそれを否定しそうになったけれど。口を噤んだ。少なくとも、今俺の目の前にヒュリカが居る事くらいは。俺のした事と、誇っても良い気がした。ほんの少しだけど。自分の事を、
自分のした事を。誇れる様になってきたのかな。今はまだ、自信も持てないけれど。
「ヒュリカ。また、会おうね。負けないで、頑張ってね」
「うん。ありがとう、ゼオロ」
 少しでもヒュリカが元気になる様にと、俺はまた抱き付く。これから大変なのは、互いに同じだから。少しでもヒュリカが、強くいられる様にと。出歩ける様になったヒュリカと、お互いに立ったまま抱き合うと。すっかり
できた身長差が、憎らしく思える。ヒュリカが屈んで高さを合わせると、昔に戻った様な気がした。昔って言っても、一年も経ってないのに。それとも俺の身長が伸びるのがもしかして遅いのだろうか。
 数日後。俺はクロイスと共に、用意された上等な馬車へと乗る。見送りには、ドルネスと。その他数名が居るだけだった。少し寂しい気もするけれど、クロイスは役職の全てを解かれた態であるし、翼族との事はまだ解決に
至ったとは言えないから、仕方がないのかも知れなかった。ヒュリカも、今は居ない。まだ外を出歩く許可は、貰えていないのだろう。形の上では、いまだにヒュリカは捕虜の態であるのだから。
「ドルネス。世話になったな」
 クロイスがそう言うと、ドルネスは獅子の厳つい顔に、涙を溜めていて。続けて俺も、静かに頭を下げた。ドルネスは俺の正体は知らないから、本当はもっと俺を怪しんでもいいのだけれど。クロイスの事を信頼しているのか、
何も言わずに、この獅族門に居る間はずっと俺に親切にしてくれていた。
「こんな形で、ゼオロちゃんとまた一緒になるなんて。思わなかったな」
 馬車が走り出すと、クロイスが口を開く。本当に、俺もそうだと思う。
「そうだね。いつかまた会えたらいいなって、思っていたけれど。思っていたより、ずっと早かった」
 馬車に揺られながら、窓から外の景色を眺めた。馬車に乗っている、という事が。いつかの自分を思い起こさせる。忙しい日々の連続で、少しずつ、少しずつ。思う事の少なくなってきた人の事を。
 その代わりに、俺は懐にある金のエンブレムを、ぎゅっと握った。
 遠くに、小さくなった獅族門が見えた。

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