ヨコアナ
26.重なる道程
揺れる鬣が俺の瞳にいくつも、いくつも飛び込んでいた。優雅に棚引く鬣を持つ獅族の男が、あちらこちらに垣間見える。別にその数が、とてつもなく多いという訳ではないのに。鬣のせいで、なんとなく見た目以上に
多い様に俺には思われてしまう。
バンカの街。それは獅族領、つまりベナン領の中にあった。ベナン領の中で言うと、南西寄りの、中央から逃げてきた俺が丁度差し掛かるその位置に。
いつかミサナトで別れたきりの、クロイスが産まれた街だという事を。俺はバンカを目前に控えて、ヒナから街の名前を告げられた時に悟ったのだった。
「バンカって、ベナン領にあったんだ」
「他に、どこにあると思っていたんだ」
ヒナが呆れた様な顔をしていたけれど、俺は苦笑いをして誤魔化した。クロイスが産まれた街だというから、それはてっきりもっと南西の、猫族領の中にある街かと思っていたのに。まさか、正反対のこんな位置に
あったなんて。獅族の領地であるベナン領は、そのまま虎族領と繋がって。東の緩衝地帯に。戦争時は、前線となっていた場所へとぶつかる。それを考えると、軍師として活躍していたジョウスが、ある程度前線に
近い位置に家族を呼んでいたのかも知れないなと、ぼんやりと考える。戦の間に、遠い猫族の領まで戻る訳には中々いかないだろうし。
バンカの街は、ベナン領の中に入っていて。そうなると俺にとってはギルス領で見た街並みを想像してしまうけれど、それとは大分異なる様子を見せていた。道を歩く人々の恰好はこざっぱりとしていたし、垢抜けていて、
こういうのを瀟洒って言うんだなと思ってしまう。特に、獅族の男はそれが顕著だった。すっきりとした、身体のラインが浮き出る様な服を好んで、身体をびしっと絞めているのが多い。そして、身体が締まれば締まって
いる程に、顔の周りにある豊かな鬣が見事な対比となって。獅族の勇ましさを一層引き立てているかの様だった。赤や青の色味の強い生地に、金や銀の線。もしくは何か、ワンポイントの印をあしらった服を着こなす
獅族の男達は、児童書の挿絵の様な不思議な印象を振り撒いていて。一言で言って煌びやかで、そして伊達男で。もっと言うと、俺が久しぶりに感じた爆発しそうな気配をたっぷりと持ち合わせていた。
「そこの君。とても綺麗な銀色だね。どこから来たの?」
「え、えっと……」
そしてその見た目だから想像するに、当然その振る舞いも伊達男な訳で、それから爆発しそうな訳で。ベナン領に入り、もう黒く塗り潰さなくてもよくなった銀を惜しげもなく晒した俺が街中に入ると。早速それに気づいた
獅族の男が俺へと猛然と突き進んで来るのだから、堪った物ではなかった。
「バンカの街は初めてなの? よろしければ、お連れの方も一緒に。僕が案内してあげようか」
「い、いいえ。そんな。結構です」
「そんなに、つれない事を言わないで」
そう言ったライオンの顔が、片目を瞑って。吊り上がった口角からは、見事な牙が覗いていて。ああ、これはナンパなのかと。そして本場のナンパなのかと俺は思って。ヒナに助けを求めると、ヒナは無視して俺の乗った
馬を進ませようとしていて、慌てた相手の男がヒナを止めようとすると、そのまま片手で捻られて、せっかくの衣装も台無しになっていた。
「ごめんなさい。急いでいるので。でも、声を掛けてくださった事は、嬉しく思います。ありがとうございました」
俺にできるのは、精々そんな言葉を掛ける事ぐらいの物だった。揉め事は良くないと思って。あまりに目立つと、まだ俺の事を捜す連中が居るのかも知れないと、気になってしまうし。
「余計な事を言うな。余計な奴がまた増えるだろう」
ヒナに注意されて、辺りを見渡すと。一部始終を目撃していた別の獅族の男達が、俺へと熱い視線を送っていた。何それ怖い。なんだこの街は。クロイスが一杯じゃないか。そうか、クロイスのあれは、ここで仕込まれて
しまったのか。可哀想に。もっと別の街で育っていたら、あんなに爆発しそうなナンパ男にはならなかっただろうに。きっと優しい子に育っていただろうに。いや、今も優しいと思っているけれど。ジョウスもなんでこんな街で
クロイスを育ててしまったのか、とても疑問だ。ある意味虐待なのでは。ぱっと見た限りでも、俺の銀が陽を受けてきらきらと輝いているせいで、もう五人くらいは俺に把握できるだけでも、その視線を感じている。バンカは
ミサナト程出入りが厳重ではないからか、良さげな相手でも探そうとしている奴も多いのか。入ってすぐの少し開けた場所に居る今、視線がとてつもなく痛い。露店を巡っている人込みの中から。喫茶の様に開かれた店の、
開け放たれた窓際のところから。露店そのものを運営している店主の中から。なんとなく、見られている様な。いや、見られている。俺が顔をそちらへ向けると。目が合った獅族の男達は、目を伏せるどころか。にっこりと
微笑んで。それから人によっては、片手を差し出す様な仕草までしていて。誰が行くかよと俺は慌てて視線を逸らす。そうすると、酷く残念そうな。けれどまだ笑みを浮かべて、俺を眺め続けているのだった。これではまるで、
俺が照れて視線を逸らしてしまったみたいじゃないか。
今日の宿を探し求めながら、馬を引くヒナを俺は見つめる。ヒナはといえば、こんな街の様子もどこ吹く風で。相変わらずのいつもの様に平静に、冷静だった。いっそヒナに言い寄ってくれれば、面白い物が見られそう
なのに。と思ったけれど、多分さっきの捻られた男と同じ道を辿る事になりそうだな。
「変わった街なんだね、バンカって。それとも、獅族は皆こうなの?」
「俺に喧嘩を売っているのか」
「よし、獅族だからって訳じゃないんだね。良かった」
「……まあ、獅族の男は、ああいうタイプも多いがな」
駄目じゃないか。やっぱり獅族の問題じゃないか。
「私は獅族について詳しくないけれど。ああいうのが、普通なの?」
「この街特有だと思いたいが。ただ、獅族はラヴーワの建国に携わった、ラヴーワ本人の種族だ。だから、獅族は他種族との調和を計ったり、代表として前に出ようとする気概を、持とうとする者が多い様だな」
「どうしてそれが、どこを間違って、あんなナンパ男になってしまったのか」
「他種族と仲良くなれるという事は、それだけ食える相手の数も増えるという事だからな」
お願いだから、さらりとそんな事言わないでほしい。食われにきた訳ではないというのに。
石畳の道を、抜けてゆく。歩いてみてやっぱり思うのは、ギルス領の街の中とは違うなという事だった。それに、道を歩く種族もそうだった。ギルス領の中は、それこそ狼族、狼族、狼族。狼族の盛り合わせ状態で、
狼族以外が歩いていたら目立ってしまう程で。それはガルマの住むファウナックへ近づけば近づく程顕著になっていたけれど。この街ではそうではない。獅族以外の種族も、万遍なく道を行き来している。俺と同じ
狼族の姿もある。ただ、その中でも相変わらず獅族の、特に男は鬣を持っているせいでかなり目立つ。そして自信満々の顔で俺に熱い視線を向けてくる。その自信はどこから来るのか、少し分けてほしいくらいだ。
「一人で出歩くなよ。街の端から端まで歩いただけで、数十人は引っ掛けてきそうだからな」
「自分の事をこういうと、自惚れている様に聞こえそうだからあんまり言いたくないのだけど。私、そんなに……ナンパしたくなる様な見た目なのかな」
「ナンパしたくなるかどうかはわからんが。見た目がか弱いからな。銀じゃなくても、結局は同じだろう。染めなくて良い分楽だが。余計な虫を払う必要があるから、とんとんと言ったところか」
「ご迷惑をお掛けします」
仕方なく、俺は息苦しいし、そもそも季節柄まだまだ暑い上に、俺は俺で自前の被毛があるというのに真昼間から被りたくもないフードを被る。これはこれで、怪しく見られてしまうけれど。でも言い寄られるよりはましだな。宿を
特定されて突撃でもされたら、堪ったもんじゃないし。ようやく視線の波から解放されて、俺はほっと一息を突く。突き刺すような視線だったら、まだ良かったのに。ねっとり絡みつく様な視線で、それを飛ばしてる奴らは無駄に
爽やかな感じだから、なんとなく落ち着きを無くしそうになる。
程無くして、今日の宿を見繕うと。部屋へと通されて、俺はフードをかなぐり捨てて、ベッドへと飛び込んだ。
「暑かった……」
「ようやくバンカに着いたな。これで、ラヴーワの中央からは無事に抜け出せたと見て、良いだろう」
ばてている俺の事など、まるで知らぬかの様に。ヒナはそう言う。それを聞いて、俺は長くベッドに沈む事も忘れて起き上がった。
「とりあえず、お前との契約はここまでという事だが」
「そうだね。ヒナ、ありがとう。ヒナが居なかったら、きっと、ここまで来られなかったよ」
とにかくミサナトから出たい。落ち着ける場所に行きたい。漠然とした俺の注文を、ヒナは忠実に遂行して。ベナン領まで無事落ち延びさせて、そうしてこのバンカの街まで案内してくれた。馬に乗ってとはいえ、先導を
するヒナは徒歩だし、俺が旅慣れていないせいもあって。とっくに数ヶ月の期間は過ぎていて。それでもまだ夏の暑さはそのままだった。もう、十の月を回っている。元の世界なら、そろそろ夏の暑さも治まりを見せる
頃だけど。生憎この世界は十六の月まであるせいで、季節の移り変わりも少し遅い。寒くなるのは、まだ、もう少しだけ先の話になりそうだった。そんな事を考えながら、俺は手持ちを確認する。道中の食費と宿代を
含めると、もうそれ程残ってはいない。できるだけ安宿で、できるだけ質素に生活していたし、小動物を狩ったりもしていたけれど。それでも、野生の中で生きてゆける器量と逞しさは俺には無い物だから、どうしてもお金は
減ってしまう。さて、どうしようか。順当に行くのなら、ここでヒナと別れて。そしてこの街で、日銭でもなんでもいいから稼がなくてはいけないのだけど。でも生憎、ここにはクロイスの師匠が沢山居そうで。そんな中で、
俺は果たしてやっていけるのだろうかと、とてもとても不安になる。クロイス一人ですら、そんなに上手くは。いや、割と弄んでいた時もあったけれど。でもあれは、クロイスが手加減してくれていたからだしな。やっぱり駄目だ。
「……ヒナ。残りのお金もあげるから、もう少し一緒に居て」
「お前がそれでいいなら、構わないが」
「できればバンカ以外のもう少し落ち着いた街に連れてって」
ヒナも、俺が何を考えてそんな事を口にしたのかは、察してくれたのだろう。この街は、危険だ。ちょっと違う意味で危険だ。銀狼である俺を敵視する様な視線は感じなかったのに、身の危険を感じてしまうとは。
「そういえば。獅族領は、ベナンって言うんだね。確か、獅族の族長さんはベナンじゃないんだよね?」
残りの金を渡して。それでも最低限の食事の分をヒナは返してくれて。それに何度も何度も頭を下げてから、遅い昼食を取って。一息吐いたところで、宿の部屋でヒナと言葉を交わそうとする。せっかく獅族の治める
ベナン領にまで来たし、ヒナには俺の正体も知らせてしまったのだからと、気になった事を訊ねてみる。テーブルを挟んだ先に居るヒナは、昼食を終えて、丁寧に口元を拭いていた。意外と、そういうところは行儀が
良い。旅の間は野兎の肉をがっついて食べたりしてるけど。
「……ベナンは、ラヴーワの姓だ」
「ラヴーワ・ベナン?」
「そうだ」
「へぇ。流石に、そこまでは知らなかったな」
ファウナックに居た頃に、ある程度の事は本を読み漁っていたけれど。国であるラヴーワについては調べていても、その建国に携わったといわれるラヴーワ本人の事は、俺はあまり知らない。獅族であったという事
くらいだろうか。だからこそ、その流れを汲んで、獅族は今もリーダーシップを取ろうとして。勇敢でありながら、仲間との協調性も大事にしているらしい。まさに百獣の王だった。ただ、それが狼族の勘に障るらしく、
狼族とはそんなに仲が良い訳ではないけれど。というより、狼族のプライドがとてつもなく高いから、なんだろうけれど。自分達に命令を下していいのは、あくまでギルスの血を色濃く受け継いだ、銀狼であって、それ以外
ではないと。俺ももう、よくよく思い知っているし。
「今の獅族の長は、ハグラ・メトゥスだ。だが、メトゥス領とは、言わないな」
「それだけ、獅族がラヴーワの事を大切にしているって事なのかな」
「そういう事だな。ベナンも獅族の中では由緒ある家柄で、当時のラヴーワも、メトゥスを立てていたそうだから」
「そうなんだ」
領の名前と、治める者の姓が一致しないのは、他にもあったなと。ヒナと話しながら俺はぼんやりと学んだ事を振り返る。このベナン領に隣接する、牛族と虎族は、確かそうだったはずだ。牛族は話し合いの結果、
治める者を決めていて。虎族は虎族で、腕っぷしの強い者を立てる関係で、そうなっているらしい。そう考えると、それぞれの領に、それぞれの特色があるんだな。一つの国って言っても、やっぱり元がそれぞれに独立した
大部族の集合体でしかないから、種族ごとの違いがあって。そうして、違いがあるから軋轢があって。区別と差別があって。自国であるというのに、歩ける場所もある程度決まってしまうというのは、なんとなく不思議な
感じだ。自分の産まれた国で、自分が所属する国なのに。そういう風になってしまう、というのは。
そういう意味では、このベナン領はまだ大丈夫だった、表向きが、ラヴーワの考えをそのままに受け継いだのが今の獅族なのだから。そうして、そんな流れの一つが、あのナンパなんだろう。銀狼である俺に対しても、
ちっとも憶する事もなく、とてつもなく気安く話しかけてくる獅族の男達。もうちょっと閉鎖的になるべきではないだろうか。いや、そうなると今度は、俺が歩いていたら睨まれかねないけれど。何せ、狼族は閉鎖的と
評判なのだから。だからこそギルス領から出て、その辺をほっつき歩いている狼族はそこまで閉鎖的ではないという証になるのかも知れない。ギルス領に入って、ファウナックで暮らしていた後に、ベナン領に
移動して、このバンカの街に居るからこそ、それはよくよく俺には理解できる事だった。この街には獅族以外の種族も、きちんと居るというのに。ファウナックや、そこに至るまでの道中の街では、ほとんどが狼族しか
見られないのだから。如何に狼族が他種族との間に壁を設けているのかがわかってしまう。その原因の一つは、狼族が崇拝する銀狼であり、ギルスという存在にあるのかも知れないけれど。狼族にとっての誇り、
象徴とは、結局のところ銀狼だった。それは狼族領が、ギルス領と呼ばれ、そして治めるのもまた、ギルスの名と血を受け継ぐ者であって、そして後継者問題に、現在の狼族族長であるガルマ・ギルスが散々に頭を
悩ませている事からも明らかだった。例え他の領では、様々な理由で治める者の家が変わろうとも。それは狼族にはまったく関係の無い事で、狼族はただ、ギルスの名の下に集まり、そうして銀狼を誇り続けている。狼族と
他種族との軋轢は、その誇りがあまりにも強いからなんだろうな。そこまで考えると、先の戦でジョウスが狼族を切り捨てるどころか、ある意味では騙まし討ちの様な真似で、銀狼を葬る形を取った事に、一つの理解が
示せる気がした。要は、銀狼にばかり拘って、八族の一つでありながら、他種族との軋轢の原因になる狼族は、八族を手足の如く動かして、戦の采配を取る軍師であるジョウスからすると大分頭の痛い存在なんだろう。
だからと言って、そんな簡単に狼族と銀狼を見捨てるのもどうかと思うけれど。ただ、ジョウスの頭の中には、きっとこの事があるには違いないのだろうな。銀狼、ギルス、この二つだけでも、その存在は目立つだろうに。
ガルマ・ギルスの兄で、戦死したグンサ・ギルスは、目覚ましい戦いぶりを見せつけて、狼族の英雄とまで呼ばれているのだから。実際に色々と、いざこざもあったんだろうなと想像してしまう。こういう時、一方からしか
話が聞けないのが、少しもどかしい。ただ、そういう事があっても、スケアルガは今まで通りに振る舞う事ができて、そしてジョウスの息子であるクロイスも、軍師の卵として活動を始められているところを見るに、ジョウスの
影響力か、そうしたジョウスの行動を支持する何かしらの動きはあるのだろうなと察せられる。
「流石、ヒナも獅族だけあって、獅族の事には詳しいんだね」
「そこまで詳しい訳ではないぞ、俺も」
「そうなんだ? そういえば、ベナン領に入ったけれど。ヒナの故郷って、どの辺りなの? せっかくなんだから、里帰りでもしてみたら」
軽い気持ちで、俺はそう言ったけれど。俺のその言葉にヒナは固まったまま、何も返さずに少し俯いている。あれ、不味い事を訊いてしまったかな。
「ここには、無い」
「そっか。獅族は他種族とも、交流があるから、他の所なんだね。故郷かぁ」
「……お前には、無い物か」
「そうだね。初めて現れたミサナトが、そうかも知れないけれど。でも、もう足を踏み入れる事もできそうにないし」
少なくとも、今の俺ではもうミサナトに戻る事は難しいだろうな。そう言えば、戻ってすぐに異世界人の話題を出されて、そのまま出てきてしまったけれど。俺にその事を教えてくれた、とうのファンネス達は、大丈夫
なんだろうか。俺との繋がりも、ハンスとの繋がりもあるのだし、しかも爬族で、そのお供は竜族であるツガなのだし。まあラヴーワの国民ではない以上、その気になればあの二人はどこへでも行けそうだけど。ファンネスは、
身体が旅に向いていないと言っていたけれど。大丈夫だろうか。もしかして、あの二人にも迷惑が掛かっていないと、いいのだけど。
「ゼオロ、お前は……」
皿を重ね終えて、テーブルの上が片付いた頃に。俺をまっすぐにヒナが見つめてくる。こうして改めて見つめてみると、ヒナもきちんとした獅族なんだな、なんて思ってしまう。背が俺とそれほど変わらないどころか。旅を
して、またほんの少しだけ俺の背はいつの間にか伸びていたのか、今はヒナと同じくらいで。この世界に現れた俺は、基本的には子供の扱いを受けていたから、まじまじ見つめないと、俺と同じぐらいの相手はまだまだ
子供だと思ってしまう。ヒナは子供なんて言って良い程弱くもないし、逞しいのだけど。その辺りはやっぱり、ここに来て随分慣れたとはいえ、動物頭だからという問題がある。ぱっと見ても年齢がわからないし。ヒナは鬣は
きちんと生え揃っているから、もう立派な大人の獅族の男として見てもいいのだろうけれど。
茶色い鬣と、黄褐色の被毛が、並んでいる。真面目な顔して見つめ合っているけれど、やっぱり冷静に考えると、ライオンと向き合っているって、変な感じだ。俺も狼だけど。
「故郷に。元の世界に、戻りたいとは。思わないのか」
「え?」
ヒナの事を見つめながら、あの鬣の触り心地はどんな感じだろうなとか。実物のライオンなんて直接お目に掛かれないのに、今目の前に居るのはそんなライオンで、しかも動物のそれの様な危険性は無いからいいなとか、
そんな事を考えている俺の耳に、ヒナの言葉が飛び込んでくる。
「元の世界、か。うーん。別に」
最近では、元の世界の事を考える事も、大分少なくなってきたと思う。この世界で何かを視界に収めた時に、元の世界の知識や経験、それから印象などと照らし合わせて、ああ、こうなんだな。そうなんだな。そんな風に
思う事は、相変わらず多いけれど。でも、ヒナが今言っているのは、そうじゃないだろう。元の世界に。今の、銀狼のゼオロとしてではなく。ただの、一人の人間として、戻りたいのか。そういう意味合いの言葉だった。そして、
大してヒナの言葉を噛み砕く必要もなく、俺はそれをあっさりと拒否してしまっている。
「随分、苦労をしただろう。命の危険にも晒されて。お前の言葉の上にある、お前の元居た世界は。決して、悪い場所ではなかった様に俺には思えるが」
「そうかな。確かに、言葉にすると。良い場所なんだけど……」
それは否定しない。少なくとも、明日食べる物に困るとか。そういう状況にはほとんど陥らないし。変なナンパも受けないし。これは俺の身体の変化のせい、と言いたいけれど。今日このバンカの街に訪れて、気質の
違いも充分にあるんだなと、察せられた。同性愛、異種愛に、それ程の偏見、区別、差別の概念が無いからなんだろうけれど。あんなに大手を振って、男の俺をウィンクしながら誘いに来るなんて。今思い出しても
怖いと思う。異世界怖い。でも、そんな風潮だからこそ。物の考え方も、ずっと自由なんだなって思った。勿論この世界にはこの世界での、常識だのなんだのは、あるけれど。今はまだまだ、俺がそれを知らなくて、
だからただこっちの方が良いんじゃないかな、なんて思ってしまっている部分があるのは確かだろうけれど。けれど一つだけ確かなのは、交友関係はこちらの方がずっと広がっている、という部分だろうか。これは
まったくもって、俺が銀狼で、つまり見た目がずっと良くなったからそうなっただけだろって言われたら、そうなんだろうけれど。そう考えるとちょっと切ない気もするけれど。でも、もうそんなところはとっくに気にならなくなる
くらいに、色んな人と出会って。大人になった俺の口から、普段だったら絶対に飛び出す事がないはずの、友達になろう、なんて言葉が飛び出ちゃってるくらいの相手が、俺の目の前に居てくれた訳で。
「どっちが良いか、とか。冷静に見比べたら、そりゃ色々あるのかも知れないけれど。でも、私はこっちの方が好きだよ。それに、今更こっちは嫌で、元の方が良いって言ったって。戻る方法も無いんだし」
そんなちょっとコンビニ行ってくる、みたいな勢いで行ったりきたりできる訳がないし。戻る方法は俺も、はっきりとはわからないし。向こうからこっちに来るのだって、それは同じだろう。
「勿論。不便だなって思う事も、あるけどさ。でも、もうこっちに居るしかないんだから、無い物の事ばかり考えても仕方ないよ」
「それは確かに、そうだが」
「ヒナは、興味ある? 私の居た世界の事」
「話に聞くだけでも、色々と違うのはわかるからな。俺の様な存在も、居ないんだろ」
「そうだね。だから、ここでは皆が当たり前で。私も大分それに慣れてきたから。振り返ると、ちょっと変な感じ」
「俺には、想像できそうにないな。こんな姿の奴らなんて」
そう言って、ヒナは俺が暇潰しもかねて紙に描いてみせた、人間の造形を指差して、嘆息する。ちょっとディフォルメ入った絵だけど、まあ概ねこんな感じ、みたいな人間の顔がそこに描かれている。
「目がでかいな。どういう事なんだこれは。威嚇をするためにこんな進化をしたのか」
「あ、本物はもっと小さいよ。絵だから、つい」
リアル寄りに描けとか言われても、無理なので。なんとなく記憶の中のアニメなどから引きずり出してみたけれど。うん、もう少し頑張るべきだったな。画力なんて無い俺に、これ以上は無理そうだけど。そんな事より、
ヒナの感想に俺は噴き出しそうになって、慌てて口を押える。目がでかいまでなら耐えられたけど、威嚇のためにって。ヒナは俺が笑い出しそうになっているのを意味がわからんと言いたげに白い目で見つめているので、
どうにか堪えながら。俺は紙の絵を塗り潰して、そのまま紙を丸めてヒナに投げると。掌に炎を灯したヒナがそれを受け取って、そのまま焼き尽くしてくれる。証拠隠滅は大事。そういえば、炎に対する恐怖も、最近では
完全に無くなってきていた。道すがら、野宿ともなれば火はどうしても必要になる事も多いから、流石に慣れない訳にもいかなかったというか。そのおかげで、俺の妄想力による妨害の様な真似も、大分控えられる様に
なってきていた。
「戻りたくない、か。俺と、同じだな」
掌の燃えカスに目を落としながら。ヒナがそう呟く。俺はそれを見て、少し覗き込む様に、ヒナへと視線を送った。
「ヒナも、故郷には戻りたくないの?」
「戻りたい、という気持ちもある。でも、今の俺では、駄目だ」
「もしかして、ヒナが役に立ちたいって思っている人が、そこに居るの」
「ああ。故郷に、あの人は居る。俺にとっては、故郷とはほとんど言えない場所だが」
少し濁しながらそう言うヒナに。やっぱり良い思い出は無かったのだろうかと、俺は考えてしまう。まあ、だからこその傭兵家業なんだろうけれど。普通の家に、普通に生まれられたら。こんな風にはなっていないのかな。
普通の家に生まれる事ができたのに、なんでかこんな事になってる俺が言っても、説得力皆無だけど。
「でも、帰る場所があると、やっぱり安心するよね。一つだけ、ここに居て、ちょっと足りないかなって思う事があったら、それかも知れない」
最初に俺が現れたのは、ミサナトの街で。でも、今のところ一番長く過ごしたのは、ファウナックの、ガルマの館で。けれど、その二つのどちらとも、今は帰る事はできそうになくて。なんとなくそれが、俺の心に小さな
不安となって、旅の間も、俺を蝕む様に残り続けていた。お話の上での、風来坊が、自由に、気の向くままに歩いている姿が、まさに今の俺かも知れなくても。とうの俺からすれば、明日の保証が無いというのは、中々に
心細くて。明日の安全が。明日食べる物が。保証されているかどうかというのは、やっぱり大きな事なんだなと思った。
それでも、帰りたいとは思わないけれど。
バンカの街に来てから、数日が過ぎた。本当はこんなナンパ男が跋扈する街は、さっさと出ていきたい気もしたんだけど。俺の身体に溜まっていた疲れは、思っていたよりも深刻で。宿で一晩寝た次の日には、明らかに
体調を崩してしまい。それからずるずると、街で過ごす破目になってしまう。元々ファウナックを出て、馬車で一月揺られて戻ってきて。ミサナトでも一日、隠れる様に怯えて過ごして。その足でラヴーワの中央からの脱出を
試みて、ここまで旅を続けてきたのだから、寧ろ、俺にしては良く我慢できた方だと思う。
「ごめんね、ヒナ」
ベッドで、仰向けになった俺は。まだまだ暑いというのに、それほどの暑さを覚える事もできずに、毛布に包まったまま。黙って俺の看病してくれるヒナに、謝っていた。
「気にするな」
「でも。お金、そろそろ無くなっちゃうよね」
最後に出せるお金で、ヒナを改めて雇ったばかりだというのに。こんな所で足止めを食らっていたら、当然出した物はそれで無くなってしまう。
「お前はバンカではなく、他の街へ連れていってほしいと俺に言った。俺はそうするだけだ。だから、気にするな」
「ありがとう。ヒナ。無愛想だけど、やっぱり優しいね」
「お前は。俺が思っていたよりも、ふざけた奴だな」
数ヶ月旅を共にすれば、それなりには打ち解ける物で。ヒナにも、多少の冗談は言える様になっていた。クロイスやハゼン相手に口にした様な、振り回す事は言えないけれど。
ヒナの看病を受けて、それも済むと。俺は一日中ベッドの上で休む事を繰り返すばかりだった。やっぱり長旅続きだから、それが祟ったんだろうな。今のところは、とりあえず追われる心配もないと思い込むと、俺の身体は
貪欲に休息を求めてしまって、寝たきりの状態が続いてた。質素な宿の一室も、今は心が落ち着く要素の一つになっている。ファウナックでは、目を丸くするくらいの贅沢な部屋を宛がわれて。そこをすっかり自分の
部屋として使い続けていたけれど。やっぱりああいうのは、肌に合わないし。この宿の一室の、五倍、六倍は余裕であっただろう。夜中にふと目覚めた時に、がらんとした部屋の中を見渡した時は、ここが自分の部屋なのだと
言い聞かせても、心細く思った物だし。今泊まっている宿はそんなに広くはないし、隣のベッドにはヒナが居て。俺をあまり一人にする事は危険だと考えてくれているのか、なるべく傍に居てくれるから、とても心強かった。
「ヒナは、優しいね。私は傭兵って、物語の上でしか知らなかったから。もっと荒々しい感じの人なのかなって、そう思っていたのだけど」
「雇い主を気遣うのは、当たり前の事だと思うが」
「充分な報酬を支払う事ができていたら、そうかも知れないね」
「俺は、お前が出した額で不満は無い。それに、お前に今の額が不満だから稼いでこいと言っても、碌な事にならないだろうしな」
確かに。一体どこで手籠めにされるのか、わかったもんじゃない。落ち着いたら身体を鍛えたい。落ち着いたら腕を磨きたい。そんな事を考えてはいても、それを実行に移す日は中々来ないのだった。一つの場所に
留まる事が許されないのだから、仕方がないと言い訳をするのは簡単な事だけど。それでも、その先延ばしが、後になって俺自身に返ってくる事もわかっているんだよな。今が丁度、そんな感じだった。周りに居る人が、
手厚く俺の事を支えてくれている内に、さっさと自立に必要な事を済ませなければならなかったのに。怪我をして、寝込んでからは、もうそんな事をする余裕も無いままここまで来てしまった。
俺の傍に居るのは、今はもうヒナだけで。大して歳も変わらないというのに、それに頼り切るしかない自分がとても情けなく思える。
「ヒナは、故郷にはいつ頃帰るの?」
「わからない。でも、そう遠くはない気がする。それに、丁度。街の様子もおかしいしな。戦の匂いがしはじめた」
「……そういえば。この部屋に居ても、わかるよ。窓の外の景色が少し変わったよね」
ナンパ獅族に絡まれたり、熱い視線を受けながらこのバンカの街に入った俺だからこそ、よくわかる。この街に来た初日と、寝込んでいた二日目は、街の様子はそれまでと変わらなかったのに。三日目からは、
なんとなく、緊張感の様な物を感じていた。朗らかだったはずの道を行く人々の顔が曇りがちになっていたり。三々五々に集まって、何かしらの会話があちこちで繰り広げられていたり。俺は臥せったままだったから、
それが一体、どんな理由から起こっているのか知る事もできなかったけれど。ヒナも俺に余計な事を聞かせるのを避けるかの様に、黙って俺の看病をしていたし。
「一体、何があったの? ここは国境に、そこまで近い訳でもないのに。それに、今は休戦中のままなんでしょ?」
どちらかと言えば、このバンカはまだラヴーワの中央に近い。ラヴーワとランデュスで多少の小競り合いがあったとしても、それ程の騒ぎにはならないだろう。休戦とは言っても、いずれは決着をつけなければならない
間柄ではあるのだし。それが、俺から見ると浮かれた様に見えるこの街ですら、なんとなく人々がぴりぴりした空気を醸し出すくらいになっているとは。
「ヒナ。知っている事があったら、教えてほしいのだけど」
「今は、お前の身体を良くする事を優先するべきだと。俺は思うんだがな」
「……お願い。知らないままは、嫌だから」
知らないまま、このまま過ごして。また何もできなくなるのは嫌だった。それに、何か危険に巻き込まれるのなら、今は逃れるために手を尽くさないといけないだろう。もっとも、直接的にそういう事が起こり得るのなら、
ヒナは俺を連れてさっさと出ていこうとするだろうから。そういう危険性は無いみたいだけど。
上半身だけを起こして、熱心にヒナを説得していると。その内、諦めた様な溜め息の後に、ヒナが口を開いてくれる。
「翼族が、敵に回った。ランデュスとラヴーワが休戦している今の状況で、戦闘態勢に入って。この獅族領に対して構えたそうだ」
「翼族が……?」
その言葉に、俺はしばし固まる。何が起きたのかと思えば。ランデュスがどうこう、ではなくて。翼族の方だとヒナは言う。
「突然、どうして。翼族は、どちらにもはっきりとは与しない形を取っていたのに」
「それは、俺の聞いた噂話からでは到底推し計れなかった。確かなのは、翼族がこれまでしてきたラヴーワとのあらゆる繋がりを完全に断って。北東の獅族門の砦と何度かぶつかり合っている、という話だけだ」
「だから、このバンカの街もざわついているんだね」
ベナン領と、虎族領は、少し細長い形を取って。そのまま東へ伸びている。虎族領は、位置的にはここから東で、獅族の領地であるベナン領の方が北よりに、緩衝地帯にぶつかっている。という事は、ラヴーワと
ランデュスの間の、丁度真北にある翼族の谷との取引を一番に引き受けているのは、今俺も居るこのベナン領に他ならなかった。ただ翼族が敵になったというだけでなく、いつもならば来るはずであった交易の
品々が来ない事が、このバンカの街まで噂となってやってきたのだろう。
「でも、どうして今の時機なんだろう。爬族の事を考えるなら、寧ろ翼族は味方になってくれると思うのだけど」
「それは、わからないな。ランデュスは強い。爬族の二の舞にならない様に気を付けながら、ランデュスに従う事を決めたのかも知れない」
ここに来て、翼族が決断を下す材料があるとするのなら、それは当然、先の嫌竜派の爬族による蜂起と、それを武力でもって全滅させたランデュス軍との一件だろう。戦争に直接参加する事を拒んで、両国との繋がりを
持ち続けた翼族と。二派に別れて、それぞれの国に与した爬族は、同じ様で大分違う姿勢のまま、ここまで来ていて。そうして、爬族が武力で制された以上は、翼族だって穏やかな顔をしてランデュスと付き合う訳には
いかなくなってくるだろう。だから、もし翼族が戦争に参加するのなら。手を取り合う相手として選ぶのは、ラヴーワの方が自然なはずだった。それが、まさかまったく逆の状況になってしまうとは。
「今のところ、この街まで危険が差し迫っている訳ではない。安心しろ」
「……そうだけど」
ヒナは、なんでもない事のようにそう言ってしまう。確かにその通りだけど。これでは、本当に休戦を終えて、また戦火が巻き起こるのは時間の問題だろう。
「ランデュスには、今のところ動きはないの?」
「そういう話は、聞かなかったな」
それがいつまでそのまま大人しくしているのかは、甚だ疑問と言わざるを得ないだろう、翼族が、ベナン領へと攻めるというのなら。ランデュスは当然、攻撃の機を窺うはずだ。翼族が単独で行動を起こす事は流石に
考えられないし、ラヴーワにせよ、ランデュスにせよ。それらと比べたら、翼族は小さいと言っても、過言ではないのだし。国という態を成しているこの二国と、ただの部族である翼族では。だから、翼族が今動くのなら、
それは当然ランデュスとの繋がりがあって。だからランデュスも、何かしらの行動を起こす事と、誰もが予想するだろう。
「翼族が、敵に……」
沈み込んだ俺の頭の中に、不意に、白い鷹の少年の姿が甦った。ヒュリカ。そういえば、ヒュリカはどうなってしまったのだろう。俺がファウナックからミサナトに戻ってきた時に、翼族の谷から連絡があって、谷に
帰っていったと聞いたけれど。それが確かなら、ヒュリカはもう翼族の谷に入っているはずだ。俺とは数日の差しかなくても。俺は馬に揺られてゆっくりと。そしてヒュリカは持ち前の翼があって、火急の用件だと
言うのだから、急いで飛んでいったはずだし。だとするのなら、今頃ヒュリカもラヴーワの事を睨んでいる翼族の中の一人になっているのだろうか。翼族を纏める、ヌバ族の長の息子なのだから。当然翼族がこうなった
以上、ヒュリカもそれに組み込まれているのだろうな。
嫌だな。あのヒュリカと、敵同士の関係になってしまうかも知れないなんて。でも、まだまだ子供なんだから、戦になんて加わっていないと良いのだけど。
「戦況は、わかるの?」
「今のところ、まだラヴーワは様子を見ているそうだ。突然だったそうだからな、翼族が攻撃してきたのが。ただ、結局のところ翼族がどちらの味方になるのかはわからない以上、獅族門ではいつでも翼族と戦える様に、
ある程度の準備はされているはずだ。すぐにどうこうという結果にはならないだろう。ただ、翼族は空を飛べるから、多少の被害はあるかも知れない。それでも決定打には欠けるだろうな」
「そうなんだ」
流石に、戦の分析は傭兵であるヒナは鋭いなと思ってしまう。俺には精々、ファウナックで学んだ偏った知識と、今まで読み漁ったファンタジーな本の影響で、最大限に妄想力を働かせる事しかできないけれど。
「一つ問題があるとすれば、今獅族門にははっきりと戦の指揮ができる奴が居ない事だな。考えてみれば、休戦の前から翼族とは取引があったのだから、まさか実際に攻められるとはと、多少後手に回るのは、
仕方ないかも知れないが。爬族の一件で、最近の翼族はラヴーワ寄りだと思われていたのだし」
「司令となる人が、不在なの?」
「一応、獅族の将軍がいるはずだが。堅実な守りはできても、現状の事もあって大規模な反撃には移ってはいない様だな。翼族の真意がわからない以上、下手に動いて、それが中央の意にそぐわぬ行動となって
しまう事を恐れているのだろう。こういう時、獅族の物の考え方は後手に回る事を後押ししやすいしな。それから、経験の浅いのが居るという話もあった」
「こういう時って、軍師のジョウス・スケアルガが出たりはしないのかな」
戦になる、というのなら。ジョウスの出番なんじゃないだろうかと、俺は口に出してみる。先の戦の時から軍師として招かれているのなら、それに当たるのが仕事なんだろうし。でも、俺の言葉にヒナは静かに首を振って、
俺の意見を否定する。
「こういう時だからこそ、ジョウスは動けないだろう。いつランデュス側が休戦を反故にして動くのかが、わからない。今ジョウスが向かうとしたら、虎族領か、もう少し後方で。ランデュスの進攻に備えながら、全体を
見渡そうとするはずだ」
「そっか。翼族の事だけでは、ないもんね。後の事も考えないと」
確かに、全体を見渡して、どこに兵力を当てるのかを考える必要は出てくるのだし。そうなると司令塔となる人物が、翼族が武器を取ったからといって、獅族門の方まで行ってしまうのは良くないのだろうな。今のところは
小競り合いくらいで、膠着状態だと言うし。
「ただ、ジョウスの代わりに。今言ったが、経験の浅いのが居るから。そいつが急遽獅族門へ回されたらしい。そいつに何ができるのかは、わからんが」
「経験の浅いの? そんな人が、どうして」
「そいつが、軍師であるスケアルガの血筋を引く者だからだ」
「えっ……」
また、俺は固まる。スケアルガの血を引く。ヒナの言葉が、俺の耳に何度も響いてくる。
「名前は、忘れたな。参謀としては、まだ無名だ」
「……クロイス。クロイス・スケアルガ。それで、合ってる?」
「ああ、確か、そんな名前だったか。……ゼオロ?」
俺が固まったままでいる事に、ヒナは怪訝そうな顔をして。少し身を屈めて、俺の顔を覗き込んでくる。俺は思わず身を乗り出して、ヒナへと縋った。
「ヒナ、お願い。連れていって」
「どこへだ」
「獅族門」
「駄目だ。お前が出ていっても、何かができる訳じゃない。それに、今のお前はもう少し休むべきだ」
ヒナの言葉に、俺は何度も首を振る。ヒナの服を掴んで、逞しい胸に、食い下がる様に手を掛けた。
「お願い。お金も、何も。私にあげられる物は、全部あげるから。どうか。連れていって」
「どうしたんだ。突然。その、クロイスと。知り合いなのか」
「……友達、だから」
僅かに言いよどんで。それから俺は、おずおずとクロイスとの関係を告げる。
「驚いたな。スケアルガの家の奴と、銀狼であるお前が知り合いで。それも、お前がそんな風になるなんて」
「だって。クロイスが今、戦って」
「別に、直接そいつが戦う訳じゃない。身の危険はほとんどないと思うぞ。基本的に参謀が身の危険に晒される様では、戦い方が悪いとしか」
両肩を強く掴まれる。それ程年齢は変わらないはずなのに、ヒナの手は、少しごつごつとしていて。それが武器を振るう者の手だという事を、俺に知らせてくれる。
「仮に負けたとしても、そいつが無茶をしなければ。問題はないはずだ。それから、もう一度言う。今のお前に、何かができるとは。俺は思わない」
「そんなの。行ってみないと、わからないよ」
無理に俺が反論をすると、ヒナの目は鋭くなった。ヒナの方が正しい事はわかっている。戦の最中に、ナイフ一本すら満足に扱えない俺が飛び込んだって、何かができる訳じゃない事くらい。俺のこの衝動が、俺が
助けるどころか。何一つ手を差し伸べる事ができなかった、あの赤狼を思い出してしまうところから来る、発作の様なそれでしかない事も。俺は充分に、わかっていた。わかっていたけれど。
「お願い、します。連れていってください。獅族門に」
もうあんな思いはしたくなくて。いつの間にか、涙が溢れて、俺の頬を伝っていた。この旅の間はほとんど泣く事がなくて、そんな自分に密かに自信を持っていたというのに。僅かに芽生えた自信は、あっという間に霧散
してしまっていた。
俺が縋りついて、何度も何度も繰り返していると。その内に、ヒナの溜め息が聞こえて。それから、俺の身体が少し強く抱き締められる。俺より少し上で、背もそれ程変わらない相手だとは思えないくらいに、その腕は
しっかりとしていて。今はそれが、俺に安堵を教えてくれる。
「わかった。お前が、どうしてもと言うのなら。でもその前に、泣き止め。それから、今すぐという訳にはいかない。明日からだ。明日まで休んで、明日の朝、落ち着いてからも獅族門に行きたいとお前が言うのなら。俺は
お前を、獅族門へと連れていこう」
「ありがとう、ヒナ」
ヒナの了承を得ると、俺は礼を言う事を繰り返してから。ヒナに促され、また横になる。横になっても、すぐに眠れる様な事はなかった。クロイスが、戦っている。その事実だけが、俺の胸の中で木霊し続けて。俺の気持ちを
否が応でも逸らせていた。ヒナは落ち着いた俺を見下ろして、勝手に行く事だけはするなと言ってから。旅の準備をするために、部屋を出ていった。
一人になった俺は、ただクロイスの無事を願った。身の危険に晒される様な事はないと、ヒナは言ってくれたけれど。そんな言葉だけでは、俺の不安は少しも解消されはしなかった。
翌日。飛び起きた俺は、ヒナに開口一番に獅族門へ行く事を告げて。呆れるヒナに頼み込んで、バンカの街を足早に後にしたのだった。
細長い獅族領を、落ち着いて見る余裕もなく。俺は北東へ、北東へと進んで。獅族門へと向かっていた。
「もう少しで、獅族門に着く。本当に、いいのか」
「勿論」
「獅族門に着いたとしても、お前の目当ての相手に会えるのかは、わからないぞ」
「それも、わかってるよ」
急ぎ足でベナン領を抜けてゆく内に、辺りに漂う空気は、段々と殺伐とした気配を滲ませる様になっていた。戦が行われている場へ向かおうとしているのだから、それは当たり前の事で。そちらを目指す俺とヒナを、
何度声を掛けて止めようとする親切な人が居ただろうか。それも仕方がないかも知れない。傍から見れば、子供二人の旅路。まさか、戦場へ赴くようには見えないだろう、ヒナだけだったら、もしかしてそういう風に見て
取られたのか知れないけれど、俺はといえば、相変わらずまともに戦える様子には見えないだろうし、事実、そうでもあったし。
ぴりぴりとした空気が、辺りを包んでいる。獅族門の手前の街は、既に兵の姿がちらほらと見えていた。獅族門に詰めていた兵が、時間をもらって一時休みに来ているのだろう。見た限りでは、やっぱり獅族の兵が
多い様に思える。朗らかな顔をしていても、ガチャガチャと、歩く度に身に纏う鎧が音を立てる様は、やっぱり戦時下のそれで。街に居る時であっても、必要があればただちに獅族門から先での戦いに赴ける様にという
覚悟が伝わってくる様だった。
街を抜けて、獅族門へと続く街道は閑散としている。幅広のそれは、平時だったら翼族の谷との交流で賑わっては、隊商の行き来も激しいのだと、ヒナは教えてくれた。それも、今は途絶えたまま、それきり。もっとも、
今翼族の谷に向かう隊商が居れば、当然獅族門で止められるし、逆に翼族の谷から来る者は、追い返されるだろう。荷の中に、何があるのかわからないと言われて。実際に戦が行われている現場を見るよりも尚、こういう
光景を見ている方が。より戦いの臭いを、俺は感じられる気がしていた。手前の街でも、翼族の谷から近いという関係で、当然、普段なら翼族の姿はよく見られたはずだ。ラヴーワに、八族に属してはいないと言っても、
翼族とはそれまでの長い付き合いがあるのだし、そうでなければヒュリカが留学生として、スケアルガ学園に来る事もなかったのだから。けれど、今通り過ぎた限りでは。その翼族の姿も見られなかった。翼族が揃って、
谷へと帰っていったのか。それとも、今外に出ると何を言われるのかわからないと、怯えて姿を隠しているのかも知れなかった。それもやっぱり、いつかの、ヒュリカの姿を俺に思い起こさせる。ラヴーワの民ではない事を、
そうしてラヴーワとランデュス。どちらとも関係を持ち続けている立場である事を気にしては、俺を縋る様な瞳で見つめていたヒュリカの事を。ヒュリカは、今何をしているのだろうな。やっぱりあの時と同じ様に狼狽えて、怯えて
いるのかも知れなかった。
「本当に、翼族との戦が始まっているんだね」
「そう言っただろう」
「そうだけど。今までずっと、翼族は中立を貫いていたのに。どうしてかなって」
俺の前で、いつもと変わらぬ様子でヒナは馬を引いてくれる。馬に二人乗りをしてもいいけれど、何かしらの危険があった時まで馬の体力を温存しておこうと。普段は俺だけが乗っている状態が、ここでもそのまま
続けられていた。翼族が、もしかしたらどこかに潜んでいるかも知れないという用心は、必要だった。彼らには翼があって。夜に隠れてラヴーワに侵入するくらいは、容易い事だろう。一応、空からの侵入に対して
魔法である程度それを察知できる様に細工はしてあるそうだけど。それもどこまで信用できるのかは、まるでわからなかったし。
「事情が変わったのかも知れないな。とはいえ、俺も翼族については詳しくはない。ここで考えるより、お前のその友達と話ができるのなら。それが手っ取り早いな」
「そうだね。クロイスに、会えるといいけれど」
バンカから、更に二月近くかけて、こんな所まで、何も考えずに来てしまったけれど。今更だけどクロイスに会えるのかが、わからなかった。まともに取り合ってもらえず、危ないから帰れと追い返されるのは一番に
ありえる事だし。その上で、俺は銀狼だから。そして、クロイスは。クロイス・スケアルガで。スケアルガの者なのだから。当然、そのクロイスの周りに居る人は、銀狼が訪ねてきたと聞いたら。良い顔はしないだろう。そっちの
理由で追い返されるかも知れない。その辺りが全部片付いて、クロイス本人にあっても。危ないからと相手にされない気も、今更だけどしてしまう。
本当に、なんにも考えずに来てしまったなと。思わず俺は笑ってしまう。旅の空で、クロイスはどこかで頑張っているだろうなって考えていた頃は、こんな事はなかったのに。今そこに居て。そうして、戦っているんだって
知ってしまうと。どうしても一目でいいからと、会いたくなってしまう。だって、もしかしたらって事があるのかも知れないから。それに、経験が浅いとヒナが口にしていた通り。本来ならクロイスはまだ戦に参加するはず
ではなくて。視察が目的でミサナトを発ったはずだった。それが、今回の翼族の。元を辿れば、爬族の事から始まる不穏な空気のために、獅族門に立ち入る事になっているのだから。それだから余計に、心配は募る。
俺がもう少し強ければな。例えば、ヒナぐらいに戦えれば。そうしたら、今のクロイスの助けになれたのかも知れない。そう思うと、ヒナが強さを無心で求める気持ちも、それ以外の方法を探す気が無い事も、理解できる
様な気がした。何をするにも、今目の前に横たわる事実は。敵国と向かい合い、剣を抜いた状況なのだから。休戦を掲げて手を繋いでも。もう片方の手にはまだ力強く抜き身の刃を持った状態なのだから。こうして現場に
赴けば。必要になるのは、整然な武力と、純粋な暴力でしかないのだろう。クロイスの立場を考えたら尚更だ。どこかの街で、細々と暮らす青年だったのなら。もっと他の事で役に立つ事はできたのかも知れない
けれど。新参の、軍師の卵とはいえ。クロイスの手にはもう、ラヴーワの兵の命が握られているのだろうから。勢いでバンカを飛び出してきてしまったけれど。俺にできる事は、何かあるのだろうか。相談に乗るとか。世間話
するとか。駄目そう。
「見えてきたぞ」
クロイスに会ったら、なんて言葉を交わそうかとか。目前に迫る獅族門を前にして、俺は必死に考えていたけれど。結局考えは纏まらないまま、やがては巨大な門が見えてくる。高い壁が、視界の端から端まで
伸びていて。程無くしてその先が、ラヴーワの支配下から免れた、外の地である事を教えてくれる。そして、その中央。街道が続くその先に、冷たく聳え立つ門が見える。獅族門は砦でもあるというから、あの中に、
相応の数の部隊を収容する場もあるのだろう。こちらから見る限り、兵の姿はそれほど見えないし。
「思ったより、大規模な砦ではないんだね」
「それだけ、翼族との関係が良好だったからだろう。今後の展開次第では、もう少し砦を大きくする事も考えられるかも知れないな」
それが今は、悲しく思える。あまり物々しい造りにはせずに、翼族へと開かれた門戸が、固く閉ざされているのだから。もっとも先に仕掛けてきたのは、翼族の方なのだけれど。
門へと、近づく。こちら側の門は開け放たれてはいたけれど。その前には一個小隊程の人数が居て。当然、ぽくぽくと馬に乗ってやってくる俺と、歩くヒナの事などとっくに相手は認識して、怪訝そうな顔をしていた。
「止まれ」
その中の、隊長と思しき獅族の男が。鎧をガチャガチャと言わせながら、俺達へと近づいてくる。
「こんな時に、獅族門へやってくるとは何事だ。今は翼族との戦の最中。物見遊山ならば、それが終わってからにしてもらわんと。命の保証はできないぞ」
そう告げられて。ヒナは、黙って俺を振り返る。俺は頷いて、被っていたフードを取り払った。途端に、周りから僅かにざわめきが起こる。それを無視して、俺は馬から下りた。そうする俺を、いつもはしない癖に、ヒナが
恭しく助けてくれる。
「こんにちは、勇敢な獅族の皆さん。私はゼオロと申します」
そう言ってから、深く礼をすると。相手の隊長の態度が、露骨に変わった。僅かに居住まいを正して、俺をまっすぐに見つめてくる。
「これは。どんな命知らずが来たのかと思いましたが。見事な銀の被毛をお持ちですな」
「ありがとうございます」
「して、何用で。生憎ですが、先程申し上げた通り。今は関係者以外の立ち入りは禁じております。観光でしたら、どうかラヴーワの中でお済ませください。あなたの様な方なら、バンカの街にでも行けば、大層な御持て成しを
受けられるでしょう」
そこから来たんだよ、とは言えなくて。俺はにこりと微笑んで獅族の隊長を見上げる。流石に、きちんとした正規の軍人であるからして。俺よりもずっと背が高くて、恰幅も良い。獅族の顔もあって、とてつもなく
強そう。それから恰好良い。俺もこんな風になりたかったと言わざるを得ない。
「突然の事で、申し訳ございません。ラヴーワを守るために、剣を取って立ち上がっている皆様の貴重な時間を無駄にしないためにも、単刀直入に申し上げます。こちらに、クロイス・スケアルガ様が居られると聞いて。私は
こうして足を運んだ次第でございます。如何でしょうか」
「これは、また。確かにクロイス様は、こちらで現在、指揮を取っておられますが」
隊長である獅族の言葉を聞きながら、俺は素早く辺りへと視線を彷徨わせる。流石に隊長だけあって、目の前の男は自分の感情をおくびにも見せなかったけれど。しかし部下の全てがそういう訳ではなかった。クロイスの
名前を俺が出した途端に、数人の兵は明らかに、鼻白む様な態度を露わにしていた。なるほど。とりあえず、ある程度の事はそれだけで充分に伝わってくる。
「会わせては、いただけませんか」
「それは、如何ともし難い事です。あなた様の素性もよくわからぬというのに、クロイス様にお引き合わせするのは」
もっともな言い分を言われて、俺は少し考え込む。確かにいきなりやってきた奴が、どんな奴であれ。兵を動かす立場にある者と会わせろと言って、はいそうですかと行く訳がなかった。
束の間、俺は懐の中に隠し持っている銀のエンブレムに意識を向けた。これを使えば、あっさりとここを通る事はできるだろう。ガルマ・ギルスに認められた証。それも、銀は最上級の物と言っても良かった。けれど、
ガルマの力を振り翳して通る事は、今は良い結果を招くとは思えなかった。それで会おうとしている相手が、スケアルガの血を引く者なのだから、当然の話だ。
「もっともな言い分でございますね。突然にやってきて。会わせろと言っても、罷り通らぬ事は百も承知ではあるのですが」
「失礼ですが、クロイス様とは……スケアルガとは、どの様な関係なのでございましょうか?」
「友達、でしょうか」
躊躇なく言い放つと、隊長は僅かに、目を大きくさせていた。それを軽々しく口にする事が、銀狼の俺としては中々に重たい事実でもあるのだと。察してくれているのだろう。
「では、せめて。お伝えいただけますか。ゼオロが来ている、と。その上で、クロイス様がお会いになるとお決めになる分には、問題は無いかと思うのですが。勿論、クロイス様が会いたくないと、もしくはそんな奴は
知らないと仰るのでしたら。大人しく引き下がる事にしましょう。どうか、お願いできますか」
俺の言葉に、隊長の男は大分迷った様子を見せていた。それでも、結局はその内に声を上げて。呼ばれた兵の一人が、指示を受けて砦の中へと走ってゆく。その返事には、然程時間は掛からなかった。息を切らせた
兵が戻ってきて、隊長の男に耳打ちを済ませると。その場で隊長が、跪く。
「どうか、ご無礼をお許しください」
「いいえ。それに、私はただの狼族です。その様に畏まられる必要は、ありません」
「……クロイス様が。すぐにでも、お会いしたいと。ただいま、ご案内します」
「ありがとうございます。ところで、私の連れは、一緒でも構わないでしょうか」
「それも、伝えてあります。一応、そちらの方は手荷物を検めさせてはいただきますが」
俺はヒナへと視線を送る。構わないのか、ヒナが頷いてくれた。そのまま、俺とヒナは隊長の男手ずから、砦の中へと招かれて案内を受ける。門を通れば、見えなかった兵の姿が、そこかしこに見受けられた。ベナン領の
中にあるだけあって、やっぱり獅族は多くて。けれども、他の種族もきちんと兵の身形をしている者が居て。俺が入ってゆくと、少し珍しそうに見られてしまう。その視線を受けながら、俺も兵の様子をまじまじと
観察する。怪我をしている兵も見受けられるけれど、その表情は決して悪い物ではなく、まだまだ意気盛んという態だった。翼族の蜂起に、多少の混乱はあっても。やはりラヴーワに属していない相手の事だから、
覚悟はしていたのかも知れない。とりあえず、士気はそれほど悪い訳ではなさそうだった。
隊の合間を抜けて、中央にある砦へと通される。黒い石造りのそれは、無骨で、まるで大きな棺の様だと思った。ただ、中に入ると、廊下には赤い絨毯が敷き詰められてるし、壁には象嵌が施されていて、角には調度品も
飾られていたから、なんとなく拍子抜けしてしまう。とはいえ、砦として存在はしていても。実際にその機能を、敵を迎えて働かせる事はずっとなかったのだから、仕方ないのかも知れない。翼族との戦となると、それはもう
ずっと前の。ラヴーワが、ラヴーワとして成立する前の話だ。群雄割拠の時代、と言ってもいいのかも知れなかった。それぞれの種族が、一つの部族として闊歩し、その族長が、同時に王の役目を果たして権勢を
振るっていた時代。それが今は、八族が定められて。ラヴーワという国になって。竜の国と対峙しているというのだから、今を生きている身でこんな事を思うのは不謹慎だなとわかっていても、面白いと思う。
廊下を進む。直立した兵が時折、俺達へ視線を送っていたけれど。ここまで来ると、よくよく訓練の行き届いた兵だけが立ち入りを許されているのか。表情を変えたりはしないし、俺が愛想笑いを浮かべても、特に
反応を示す事もない。
「それにしても、驚きました。まさか、スケアルガの者であるクロイス様に、この様な、銀狼の友がいらっしゃったとは」
前を歩く隊長が、世間話をする様にそんな事を口にする。廊下を歩く上で、無用な音は立てないから。さっきからその鎧の音が、煩く聞こえる。慣れないと辛そうだな。
「クロイス様は、なんと?」
好奇心に駆られて、俺は訊いてみる。そうすると、隊長の男は笑い声を上げていた。
「行かせた者の話によれば、本当に驚かれていたそうでございますよ。ゼオロ様の名を聞いて。それは、銀狼の。とても綺麗な銀狼なのかと。もしそうなら、間違いはないと」
そんな風に言わないでほしかったな。他の人の前で。いや、そう言う気持ちはわかるけれど。俺が嫌だなとか、余計だなとか思っていても。この銀狼の身体は時にとてつもない効果を発揮しているのは、わかっているし。
でもやっぱり落ち着かない。
「その。押しかけておいて、こういう事を訊くのはどうかと思うのですが。迷惑そうな様子は、ありませんでしたか」
「その様な事は。今すぐにでも、会うと。笑っておられたそうです。クロイス様は、この獅族門に来てから、とかく塞ぎ込みがちでしたので。私としては、良い息抜きになってくださればと」
行き詰っているのか。そう訊いてしまいそうになって、俺は慌てて口を閉じる。それは、この隊長に訊くべきではないだろう。
階段を上って、奥へと進んで。やがて、大きな扉が見えてくる。如何にもなんか、ゲームのラスボスでも居そうな雰囲気だ。居るのはお久しぶりの猫男だけど。
扉の前に居る衛兵に、隊長が改めて事情と、俺の訪いを告げると。隊長はゆっくりと扉を何度か叩く。
「クロイス様。ドルネスです。ゼオロ様を、お連れしました」
中から、僅かに声が上がる。隊長が静かに扉を開いて、俺を中へと案内する。そのまま、扉を抜けた。足を踏み入れた部屋は、これまでよりも更に豪奢な設えになっていて。空気からして、違っていた。僅かに、
何かお香をたいた様な匂いもしている。もっと部屋の中を観察しようとして。けれど、俺は目当ての人物を見つけてしまったから。それ以上の事をしている余裕はなかった。俺の視界に飛び込んでくる、黄色と白。黄色には、
黒い斑点があって。
「……ゼオロ」
静かに、その男が口を開いて。俺を呼んだ。豹の顔から、豹の口から。俺の名前が。
「クロイス」
俺は一瞬、ここがどこなのかも、そして隊長の男が居る事も忘れて。クロイスの事を呼んだ。豹の青年は、俺をじっと見つめたままで。それは俺も、変わらなくて。けれど、長い間、そうしていた訳ではなかった。
「ドルネス。外してくれ。用事が済んだら、また呼ぶから」
「畏まりました。ゼオロ様のお連れの方は、如何いたしましょうか」
「そのままで。ゼオロを、ここまで連れてきてくれた方だ。俺も、少し話をしてみたい」
ドルネスと呼ばれた隊長の獅族はそのまま一礼して、俺とヒナを残して部屋を出てゆく。扉が閉められるまで、重苦しい静寂が室内を包んでいて。
けれど、それは扉が完全に閉められるまでだった。
「……ゼオロ!」
突然、飛びかかる様な勢いで、クロイスが一気に俺との距離を詰めて。そのまま抱き付いてくる。
「うわ。すっげ。本物だ。すげー……なんでこんなとこに居るの?」
「緊張感が無いね、クロイスは」
「うわぁ、やっぱ本物だぁ」
どういう意味だそれは。俺は呆れて、溜め息を吐く。俺の後ろに居るヒナは、更に呆れている様だった。塞ぎ込んでいるとか、隊長のドルネスが言っていたから。どんな状態かと心配していたのに。少なくとも、
軟派なクロイスはちゃんと健在の様だ。残念な事だと思う。
とりあえず抱き付いているクロイスを無理矢理引き剥がして。名残惜しそうな顔をしているクロイスを宥めてから。俺はここまでの経緯を掻い摘んで話す。ヒナも居るから、相変わらずファウナックでの事は伏せて
いるけれど。ガルマの事は、下手に漏らしたら面倒な事になると思うし。ヒナの事を、信用していない訳じゃないけれど。その証拠にヒナには俺の正体を伝えてあるし。その事をクロイスに言うと、クロイスはヒナの方を
見てにこりと笑ってくれていた。
「まあ、ゼオロちゃんが認めた相手なら、大丈夫っしょ」
そう言って。それを聞いて、ああ、この軽率な物言いは、やっぱりクロイスなんだなぁと俺も思った。大分失礼だけど。
「初めまして。クロイス・スケアルガです。ゼオロがとても世話になったみたいで。俺からも、お礼を言わせてください。ありがとうございます」
「……ヒナだ」
ヒナは、相変わらずだった。クロイスが微妙に、どう扱うべきか悩んで。でもヒナが傭兵だと聞いて、畏まった様子で接してくれたけれど。ヒナは俺と初めてあった時と変わらずの無愛想を貫いていた。ヒナが畏まる様子なんて
想像できないし、俺はそれで良かったけれど。クロイスはちょっとおかしそうな、でも困った様な顔をしていた。
「そっか。ミサナトで、異世界人の騒動が起きちゃったのか……」
次にクロイスが飛びついたのは、やっぱりそこだった。俺は、顔を伏せて、それからクロイスの事を見上げる。
「クロイス。ハンスさんは、大丈夫なのかな。私の事で、迷惑を掛けてしまって」
「まあ、その辺は親父が多少は根回ししてくれてるはずだよ。あの二人は友人の関係だし。ほとぼりが冷めるまでは、やっぱ表には出てこられないだろうけれど。そんなに気にする必要はないと思うよ」
「でも」
「ハンスも、ゼオロを預かった時から、そうなる事は充分に予想していたはずだよ。だから、そんな顔しないで。次にハンスに会えたら、思いっきり謝って。それからお礼を言えば良い。ハンスなら、それで充分許してくれるよ」
そうなのかな。そんなに、簡単な物なんだろうか。学園の教職すら、追われたというのに。そもそも次にハンスと会える日は、来るのだろうか。
「悩んでても仕方ない事は、その時になったら考えなって。もっと建設的にいこうぜ?」
「相変わらずだね。そういう所。……ところで、翼族との戦だって聞いたけれど。一体、何があったの? 少なくとも、翼族と事を構える様な情勢ではないと、私は思っていたのだけど」
俺が本題を切り出すと、クロイスもそれを聞いて、難しそうな顔をしながら軽く頷いてみせる。
「それなんだよな。なんか、変なんだ」
「変……って?」
「対峙している、翼族の奴らさ。今一、覇気が無いっていうか。まあ、こんな事ゼオロちゃんに言っても、仕方ないけどさ」
「ふうん……?」
今聞いた話だから、よくわからないけれど。覇気が無い、というのなら。兵同士のぶつかり合い自体では、圧勝しているのだろうか。
「そうだな。ドルネス……ああ、さっきの隊長なんだけど。あいつは結構、俺にも色々と親切にしてくれる奴でさ。だから、実際にぶつかってみて、どうだったとか。そう言う事も教えてくれるんだけど。ドルネスが言うには、
そんな感じらしいんだよな。だから、今のところはこっちが守っている状態だけど、それほど苦戦している訳でもないな」
「そうなんだ。その、こういう事を聞くのって、どうかと思うけれど。負けたりはしないよね」
「それは、今のところは心配しなくて良いな。そもそもこっちは砦で。言っちゃえば、半分は籠城している様な形だ。勿論必要なら打って出る時もあるけどね。城攻めには、三倍の兵力が必要っていうのが常識だけど。
そもそも翼族と俺達じゃ、数はこっちの方が多いし。別にこの砦が囲まれて、孤立している訳でもないから、兵糧などの供給にもまったく問題はないし。その気になれば何年でも相手をしていられるくらいさ。ただ、それでも
あんまり油断できないと言えば、そうだけど。あっちは翼があるから、単純な兵力差を全てに当て嵌められないし。それにいくら翼族の兵が、ラヴーワの兵力に及ばないのが当たり前だと言っても。どうも少し、少ない気が
するんだよな」
「そうなんだ」
俺の目の前で、クロイスがつらつらと、戦況について語る。当たり前だけど、軍師の卵なんだなぁと、それを聞きながら俺は関心してしまう。こういう話題をさらっと口にできる辺りが、やっぱり違うんだな。でも、とりあえず
劣勢とか、今すぐに負けてしまうとか。そういう状況ではない事には安心する。
「そういえば、クロイス。ヒュリカの事、知らない?」
そうなると次に気になるのは、やっぱり今敵に回ってしまった翼族の下へと帰っていったヒュリカの事で。俺がそれを訊ねると、クロイスが耳を震わせて、目を鋭くする。
「ヒュリカ、か」
「うん。翼族の谷から、呼び出しがあって。それで、帰ってしまったそうなんだけれど。だから、きっと今は谷に居ると思うんだよね」
俺の言葉を聞いて、クロイスは顎に手を当てて。しばらく考える仕草をする。
「なるほどね。どうしてかと、思っていたんだけど。そういう話だった訳」
「クロイス……?」
一人で納得しているクロイスに、俺は説明を求める様に、その名前を呼ぶ。そうすると、クロイスは悩む顔をして、俺を見つめていた。
「ゼオロ。言い難いんだけど……俺も、ヒュリカを見たよ。それも、今この、獅族門へと仕掛けてくる翼族の兵の中で」
クロイスの言葉に、俺は一瞬、思考が停止する。ヒュリカが。ヒュリカまでもが、すぐそこに居る。それも今は、敵という形で。
俺の表情は、余程衝撃を受けていたのだろうか。クロイスが露骨に表情を曇らせて。けれど、その瞳にある光は、揺らいではいなかった。
「場合によっては、俺はヒュリカを討たなければならないのかも知れない。ヒュリカ・ヌバは。ヌバ族の族長である、ヴィフィル・ヌバの息子なのだから」
続けて浴びせかけられた言葉には、俺はもう反応はできなかった。
ただ、視界が薄暗くなる様な。そんな気分が、どこまでも広がって。そのまま俺の事を、呑みこんでしまいそうだと。そう、思った。