ヨコアナ
25.来客日和
薄暗い視界の中、私は寝台に一人座っていた。
あの日。私の目を介して、翼族の族長であるヴィフィル・ヌバに竜神の魔法を掛けてから、私はドラスに案内をさせて、どうにかランデュスへと戻っていた。その日から私は、筆頭補佐としての仕事にしばらくの休養を
もらう事になる。竜神の魔法を伝えた負担は、やはり一介の竜族でしかない私には大きく。一時的な物だと思っていた失明も、すぐに治る事はなかった。それでも私は、私に対して魔法の治療を試みる事ができたので、
これ幸いとばかりにあれやこれやの魔法を駆使して、少しずつ視力を取り戻してきていたのだが。どの道、やる事が無くて退屈だという事もあって。眼球が潰れなかったのは、幸いと言わなければならないだろう。
その甲斐あって、完全な失明状態からは脱し。光を感じたり、ぼんやりと物を見るくらいならば、どうにか行える様になってきていた。ただ、しばらくの間機能していなかった目を、魔力を通して利用している部分が
まだまだ大きいが故に、強い光には耐えられず。結局は布を、目の周りに巻いて光を遮る事が多くなった。本来ならば失明を免れない物を無理に機能させているのだから、この様な事態になるのも無理はないが。
「リュース様、すみませんが」
ほとんど見えない視界の中、声が掛けられる。ドラスの声だった。
「書類の事で、少し」
「読み上げてくれ。私が言った通りに」
「畏まりました」
紙を捲る音がして、それからドラスが内容を読み上げる。私は一つ一つを丁寧に聞いて、必要な決定をドラスへと口答で伝える。ドラスは私の答えた通りに、書類を処理してゆく。
休養を申し渡されたからといって、私は実家に帰ったりはしない。こんな姿を親に晒しても、使えなくなったから帰ってきたのかと言われるだけで。そんな事は百も承知だから、筆頭補佐の部屋に籠っていた。そこへ
見舞いとしてやってきたドラスを、私は早速捕まえて。自分の仕事を押し付けていた。
「お前、筆頭補佐になりたいのだろう」
「ええ、まあ。そうですけれど」
「だったら、丁度良い。私の仕事を代わりにやれ」
「いいのですか、そんな。俺は、竜の牙の隊長なのに」
「構わん。それに、別に秘匿しなければならない事などは、ほとんどない。竜神様との会話はそれに当たるかも知れないが、お前はまだ神声を聞けはしないだろう。いずれ筆頭補佐の席を望むのならば、今の内に
慣れておくと良い。ヤシュバ様の事もあるしな」
ヤシュバの事、という言葉は、ほとんどドラスに聞こえない様に私は呟いていた。筆頭魔剣士であるガーデルを下して、その後釜に座ったヤシュバの問題は、最近では大分落ち着いてきたと言っても良い。私が態々
手を貸さなければならない仕事もほとんど無くなり、今ではヤシュバも、筆頭魔剣士が板に付いてきたというところだろう。ただ、それでも。今私が筆頭補佐を下りて、それをドラスにさあどうぞと座らせる訳にはいかない。武官の
要である筆頭魔剣士の経験が浅いというのは、中々に不安な事である。文官達がヤシュバの力を認めながらも、それでも素直になりきれないのは、そういう点からであるし。だというのに、ここで私まで居なくなっては、
ランデュスの軍は危ういと思われかねなかった。またドラス自身も、それほど長く伺候したとは言い難い。ヤシュバよりはいくらかまし、という程度で。仲間の兵達からは、既にその腕っぷしもあり、人気はあるものの、
文官などとの繋がりは皆無と言っても良かった。今ここで、すぐさま筆頭補佐になる様な事は、難しいと言わざるを得ない。元より筆頭魔剣士と、その筆頭補佐が、会議の場では文官と口を利いていて、いつぞやはヤシュバも
沈黙を破りはしたものの、基本的には黙して、会議の流れをただ追っている事が多い。ガーデルが居なくなった今、文官との橋渡しの役目を会議の場で担える武官は、今のところ私しか居ないのだから、ここで私から
ドラスに安易に筆頭補佐の座を譲り渡す事はできなかった。宰相のギヌス、副宰相のユディリスの二人は、ドラスを出してもまず納得はしないだろう。竜族は強さに心を奪われやすいのは確かだが、それでも彼らは文官で、
ランデュスを支える政を一手に引き受ける者達であるからして、ヤシュバ程にどうしようもない強さと、そして竜神に選ばれたという特別な条件が揃わないドラスでは、取り合ってもらえるはずもなかった。これでドラスが
文官の分野にも長じているのなら話は別だが、片田舎から出てきた土いじりをしていた青年に、そんな事まで要求しても詮方ない。ドラスは今のままでも、充分にその腕っぷしは竜族の中では上位であり、よくやって
くれているのだから。
そういう訳で、最近では大分気安くなり、嫌がる声を露骨に出していたドラスに私は仕事を押し付けていた。筆頭補佐になると大見得を切ったのはお前だと言ってしまえば、ドラスも反論のしようがないのか、今のところは
大人しく慣れぬ仕事をしている。とはいえ、いきなりなんの経験も無いドラスに全てを任せる訳にはいかないので、結局のところ目の見えぬ私に代わり、私の目になってもらうのが主な仕事ではあるのだが。流石に
今の私の目では、細かい文字を正確に読み取るのは難しい、それ以上に消耗が激しいし。それでも筆頭補佐とはこういう物なのだという事が伝われば、ドラスの今後のためにもなるだろう。
「それにしても、お前は隊長になったのだったな。お前に仕事を押し付けた私が言うのもなんだが、それは大丈夫なのか」
私の仕事の肩代わりをしながらも、ドラスはそれ以外の時も私の部屋に残り、何くれとなく、私の世話もしてくれる。その辺りは若干面白がっている様で、私としては不服なのだが。
「大丈夫です。それから、ヤシュバ様にも許可をもらいましたから」
「ヤシュバ様にも、話したのか。まあ、お前は竜の牙の隊長の一人なのだから、許可もなくこんな真似はできないか」
「はい。快諾してくれましたよ。リュース様が居ない間は、自分が竜の爪の面倒も見ると。それから、しっかりと養生して。戻ってきてほしいと」
「そうか。ヤシュバ様は、その様な事を」
「ヤシュバ様は……こちらには?」
「いや、今のところは、お見えにはなられないが」
ランデュスに戻り竜神に報告を済ませてから私はヤシュバに、会ってはいなかった。視力を損なった故、しばらく出る事はできぬと遣いを出しただけで。それを了承したとの返事はきたものの、それきりで。
「ヤシュバ様は、リュース様の事を……どう考えておられるのでしょうか」
「どうも、何も。私が筆頭補佐としての役目を果たせぬのだから、お怒りであるとは思うが」
「しかし。それは。リュース様がこの様な事になるというのも、ヤシュバ様は承知されていたのでしょう?」
「全てを承知だったとは言えまい。それに私が不甲斐無いから、結局は竜神様の魔法を完璧には使いこなす事もできずに、この様になっている。ほんの少しの負担があるだけだと、思われていただけだ」
「しかし……」
「それ以上は、言うな。ドラスよ。……もっとも、私のこんな姿を見て。筆頭補佐などごめんだと思うのならば、構わんがな。そう思うのなら、今すぐにこの部屋を出て。またいつも通りの日々を送るが良い。お前は既に
隊長であって、部下をその手に引き受けているのだから。例え筆頭補佐にならずとも、遠くない内にお前は頭角を現すであろうし。それだけでも充分な出世ではあるだろう。故郷の家族も、喜ぶのではないか」
「俺は、筆頭補佐になります。ええ、なりますよ。それに、リュース様がこんな状態だというのに。一人にさせるなんて俺にはできません」
「おかしな事を言う。たかが目が見えないだけではないか。まだ私は、剣を振るう事も、魔法を行使する事も、できなくなってはいない。この状態でも、お前に遅れは取らんぞ。一つ、勝負してみるか」
「お断りします。それで剣が上手く防げないと知ったら、きっとリュース様は俺が避けられない様な魔法ばかり使ってくるでしょう。そんな地獄は見たくありません」
「負けられないからな、私もまだ」
悪くはないと思うのだが。そういう戦い方も。ドラスは魔導にはあまり詳しくはないみたいだが、それもまた一つの課題だった。ヤシュバはそれなりの適正を持ってはいるものの、魔導を学ぶ暇はあまり無い事もあって、
そちらは私の方がずっと上の状態のままだ。戦場に赴くからには、ある程度魔導にも長じていてほしい。もっとも、ラヴーワの者達の使う児戯にも等しいそれと比べれば、ヤシュバでも充分過ぎる程ではあるが。
「それにしても、お前は随分と変わったな。ドラス」
仕事を片付けて一息吐いた頃に、軽食を取りながらドラスに向けて言う。部屋の中はカーテンを閉め切り、かなり薄暗くしてある。そうしないと、私の目はとてもその機能を果たせそうになかった。目隠しの布を取り払い、
僅かに見える物を頼りに、私は少しずつ食事を取る。そうしていると、私を見ているドラスの姿も。金の竜の姿も見える。薄暗くても、どことなくそれは眩しくて。私には辛い物に感じられる。それが目による辛さなのだと、
自分に言い聞かせた。本当は、そうではなくて。ただ羨望を抱いている事は百も承知なのだが。しかし今だけは、私の青く、地味な鱗の存在がありがたく感じられる。自分を見つめて、目が眩む様な事もなかったからだ。
「そうでしょうか。俺は、いつも通りですが」
「私は、お前がこんな風に、私の身の回りの世話まで申し出てくるとは思わなかった」
仕事以外でも、ドラスは居られる時はこの部屋に居て。己に治療を施しながら、あれやこれやと魔法を使っている時以外は暇な私の無聊を慰めてくれる。ヤシュバも来ない今、私の部屋を訪う者は居ない。小姓や
侍女も、遠ざけたままだ。内心では私の事を疎んじている者達に、自分の世話を任せたいとは思わなかった。彼らはただ、最低限の事をしてくれるだけで良い。私がこんな状態であろうとも。
ドラスを傍に置くのは、ヤシュバのそれと。初めて出会った時のヤシュバと、ドラスが似ているからだった。片田舎の出だからか、ドラスはあまり鱗の色など、竜の特徴を気にする様子を見せない。或いはそれは、
ドラスが何もかも持っているからなのかも知れないが。そういう点では、ヤシュバも同じだった。そういう物を見たくなくて、一層目が見えない方がと時折思ってしまう事もあったが、実際にそうなると、それはそれで
やはり困る事が多かった。
「さっきも言いましたけれど。俺は、リュース様がこんな状態だというのに、放ってはおけません」
「お前は、最初は。ヤシュバ様を見ていて。ヤシュバ様の傍に居たい様に思えた。今のお前の実力なら、ヤシュバ様に願えば、いくらでもその相手をしてもらえると思うのだが。それに、私は私で、こんな状態で
あるからな。ヤシュバ様も、流石に今の私を抱こうとはなされない」
私がこの状態になってから、ヤシュバとは会っていないのだから。当然抱かれてもいない。城に戻って半月以上は経過しているが、処理はどうしているのかと、多少気掛かりになっている。誰か他に、適当な
相手を見つけてくれていれば良いのだが。ドラスの様に。
「俺は……ここで、いいんです。もう、ヤシュバ様の事は」
「嫌いになったのか」
「そうでは、ありませんが……。それでも。リュース様が、こんな状態だというのに。それを、まるで気にしていない様で」
「それは、当たり前だろう。というより、私がこうなったからといって慌てている様では、兵達からどんな目で見られるのか、わかった物ではない。今のヤシュバ様は、非常に正しい振る舞い方をされていると思うぞ。別に、
ヤシュバ様を必要以上に庇っている訳ではないがな」
寧ろ、以前の様に気安く話しかけている間柄であったならば、そうなっていたかも知れない。だから、これで良いのだった。そうしてできた私の空白に、まさかこのドラスが飛び込んで来るとは、予想していなかったが。
「だったら、それでもういいですよ。ヤシュバ様が来られない分も、俺はここに居ますから」
どことなく、拗ねた様な口調でドラスはそう言う。思わず、私は笑ってしまった。
「すまないな。面倒を掛けて。なるべく早く、元に戻れる様に善処しよう」
「元に、戻れるのですよね? リュース様……」
「今のところは順調ではあるな。とはいえ私も治療が専門という訳ではないから、時間は掛かるが。急げば、今度は魔法の負担が大きくなる」
「こんな時ですけれど。そんな事までできてしまうのですね、リュース様は。剣だけではなくて」
「剣を扱うだけが、全てではないからな。それに神声を聞くのにも、相応の腕は必要だ。そういう意味では、ドラス。お前はてんで駄目だ。筆頭補佐になるのならば、魔導も学べ。この部屋で調練をせずに怠けているのなら、
これも丁度良い機会だ。幸い私は、いくらでも教えを授ける事ができる」
露骨に、嫌そうなドラスの声が聞こえて、私はまた笑う。軽く見た程度では、ドラスもそれなりの才はある様だが。やはり一兵卒として志願してきたに過ぎない田舎の青年故に、どうしてもその辺りは疎かな様だった。
鍛え甲斐がありそうだと、考えていた頃に、部屋の扉が軽く叩かれる。
「俺が出ます」
そう言って、ドラスの足音が聞こえて。私は座った姿勢のまま、全てを任せる。
「リュース様。その……」
しばらくすると、困った様な声音を出しながらドラスが戻ってきて、私は顔を上げる。
「どうかしたのか」
「お客様です」
「客? ヤシュバ様、ではなさそうだな。お前の反応からするに」
「……ギヌス様と、ユディリス様です」
予想外の名前が出て、私はしばらく固まる。それでも、私よりも更に困っているであろうドラスの手前、取り乱す訳にもゆかずしばし思考する。
「そうか。では、すまないが私を、椅子まで連れてくれるか」
そう言うと、一度断ってからドラスが私の手を引いて。それを頼りに立ち上がると、私は仕事用の椅子へと座り込む。再び布で目を覆い、ドラスに命じてカーテンを開けさせて、部屋を明るくする。
「ドラス。席を、外してくれるか」
「ですが」
「少なくともあの二人が帰るまでは、外してくれ。今のお前には、まだ早い。いずれは引き合わせるつもりだが、今は遠慮してくれるか」
「……仰せのままに」
それから、ドラスは少し散らかった部屋を手早く片付けてから、用事が済んだ後に、まだ余裕があるのなら呼びつけて構わないと言い、私の部屋から出てゆく。一人になった私は、そのまま腕を組んで、のんびりと
二人がやってくるのを待つ。程無くして、扉の開く音が聞こえる。
「リュース……」
最初に聞こえたのは、恐らく先頭で入ってきた、ギヌスの声だった。視界を損なっている分、その声が私にはよくよく聞こえる。足音もきちんと二人分で、余計な者は連れていない様だった。
「これは、ギヌス様。それから、ユディリス。お揃いで、私の部屋へようこそおいでくださいました。ですが、申し訳ございません。見ての通り、私はこの様な有様で。本来ならばきちんと出迎えなければならぬというのに。
どうか、非礼をお許しください」
「その様な事は、私は気にしない。しかし、お前……本当に、目が見えなくなってしまったのか」
「ええ。残念ながら、今のところは、まったく。ですが、治療を続けておりますので、その内には元に戻るかと」
嘘を吐きながら、私は布を取り払う。僅かに開いた目に、射し込む眩しさに、思わず呻いてしまいそうだ。視界に僅かに見えるギヌスと、その後ろに居るユディリスの事を、眼球を動かさぬ様に観察する。無表情に
近いが、取り乱している様子ではなかった。詰問をしにきた訳ではないという事だけがわかれば、それで良かった。元より文官は舌戦に長けていて、表情を読ませぬ事もお手の物であるので、それ以上の事を
察するのは難しい。そういう意味では、この二人を。特にユディリスを謀るのは、私には中々に難しい事だった。
「この様に、今私の瞳は濁っております。とても、本来の役割を果たせるものではありません」
観察を終えると、私は再び布で目を覆い、隠す。
「それで、本日は一体、どの様なご用向きでございましょうか? 宰相であるギヌス様と、そして副宰相のユディリス。二人揃って、休養をしている私の下へいらしてくださるとは。お見舞いであるのならば、歓迎致しますが。
しかしどうやら、花の匂いはしませんね。まあ、私はあまり、ああいう物は好きではありませんから、助かりますがね」
「リュースよ。お前のその誤魔化し方は、もう沢山だ。それから、私達をからかうのを止めろ」
「これは、また。手厳しい事を仰られるのですね、ギヌス様は。文官の頂点であるあなた様と、その側近である男を相手にして、私一人では分が悪く。会議の時の仕返しをされるのではないかと、私は内心、とても
怯えているというのに」
「リュース」
足音が近づいてくる。机越しに話していたはずだが、ギヌスは私の横まできて、私の腕を取っていた。意外な程に強い力が、私の腕へと伝わってくる。
「くだらん猿芝居は、止めろ。私はお前よりも長く生きた。くだらん振る舞い方で、私を誤魔化せると思うな」
「では、何がお聞きになりたいのでしょうか。何を目的で、今私の目の前に。おっと、そうしていただいたのに、それを私が見る事は叶いませんがね」
「城に戻ってきても、お前は顔を見せにも来なかった。まさか、こんな状態になっているとは思わなかった」
どうやら、誰もギヌス達には私の事は話さなかった様だった。私が態々報告をしたのは、竜神とヤシュバの二人だけで、またこの件に関しての説得は竜神が自らすると言い放った手前、それ以上の事をするつもりも
なかったのだった。竜神は、ギヌスの説得はしたのだろうが、私についての事は口に出さなかったのだろう。
「私の力が及ばぬばかりに、この様な事になってしまいましてね。恥ずかしくて、到底誰かに見せる訳にはゆかなかったのでございます」
「私はただ、お前の事を心配して来ただけだ」
「心配? これは、また。ああ、もしかして。翼族に対して、私がきちんとやり遂げられたか、という事でしょうか。それなら、ご心配なく。程無く翼族は、我々にとっての脅威ではなくなる事でしょう」
「リュース……」
腕の力が、強くなる。私はただ、笑みを浮かべるだけだ。ギヌスに対して、こういう振る舞い方をするのは良くないとは思いつつも、この老人の相手を真面目にするつもりはなかった。結局のところギヌスは今回の翼族の件、
延いては爬族の件には反対の姿勢のままであり、竜神の説得を受けたといっても、その本質がそう簡単に変わる訳ではない。今ここで、この様な状態に陥った私の事を、気遣わせるのは。ギヌスの身にも響く事に
なりかねない。
「ありかどうございます、ギヌス様。私の様な数ならぬ身の者に、その様にお心をお掛けくださって。本来であるのならば、直接口を利く事さえ、汚らわしいと避けられても、なんの不思議もないところを」
「お前は、筆頭補佐なのだぞ。リュース。それを、この様な……これでは、まるで。ただの捨て駒ではないか……」
「他に、適任がおりませんでしたので。竜神様の魔法を介するのは、それなりの使い手である必要があり。そしてまた、竜神様の信の厚い者であり。そうなると、私達の誰かとなりますが。その中で、唯一しばらく動けずとも
問題ない者となると、私しかおりません。寧ろ、誰を行かせるのか竜神様が悩む様でしたら、私自ら志願していたでしょう。その様な事は、お気になさらずに」
「しかし」
「それに。例え捨て駒であろうと、それで構いません。私達は、神の先兵であるのですから。言い方が多少変われど、意味は変わりません。それは、ギヌス様。あなた様もよくご存知でございましょう。我々は、偶々。各々が
力を持っているが故に、竜神様の手となり足となる事を許されてはいても。結局はその存在を崇めている、市井の者達と、何も変わりはしないのですから」
「それは、よくわかっている。だが、私は」
「この様な事を、態々私が言う必要があるとは思いません。最年長はギヌス様であるからして、あなた様は、よくよくご存知なのでございますからね。それでも今、その様に仰るのは。何か、気がかりな事でも
おありなのですか。それとも、何かがあなた様を、変えてしまったのでしょうか。例えば、そう。前筆頭補佐の、ツェルガ・ヴェルカとか」
私の腕が下ろされて、代わりに身動ぎする音が聞こえる。ギヌスが振り返って、後ろに控えていたユディリスを睨んだのだろう。見えずとも、どうなっているのかはよくわかる。ギヌスはツェルガの事を私に対して詳しく
話す様な事はしなかったのだから。ツェルガの記録など、ほとんど残されてはいないのだから。私がそれを知っているのは、ユディリスが喋ったのだという事に、ギヌスは当然気づいたはずだ。
「もう、良い。私は帰るぞ」
「ありがとうございました。ギヌス様。態々、お見舞いにきていただいて」
「この次には、花を持ってきてやる。覚悟しろ」
「それは、困りましたね。その様な事が起こり得る前に、復帰しなくては」
それ以上の事は何も言わずに、大きな足音を立ててギヌスは行ってしまう。扉が閉まってから、溜め息が聞こえた。どうやらユディリスは残った様だ。
「酷いよ、リュース。ツェルガの事を持ち出すなんて。思いっきり、睨まれてしまったじゃないか」
「口止めされた憶えはないからな」
「言わなくても、わかっていた癖に」
「すまんな。だが、ギヌス様に早々にご退場頂くには、ああして怒らせてしまう方が、手っ取り早いと思って」
「君の事を、とても心配して態々来てくださったのに。相変わらず君は、他人の好意を素直に受け取る事ができないんだね」
「相手の立場を考えれば。そうするべきか、そうせざるべきか。自ずと見えてくる物だ。ギヌス様は、老いてはいても、まだまだ聡明であらせられるし、ランデュスのために居てもらわなければならぬ身だ。私の事で妙な考えを
起こされるのは、私の本意ではない。それは、ユディリス。お前とて同じなのだぞ」
また、溜め息が聞こえる。ユディリスがどんな顔をしているのか、見なくても伝わってくる様だった。
「それで。本当のところは、どうなの? その目は」
「まったく見えない、という訳ではない。ただ、日常生活を支障なく送れるとまでも言えない。今は自分で治療を続けているところだ」
「楽しそうに言うんだね」
「筆頭補佐の仕事をしている時は、あまり魔導に触れている暇はないからな。丁度良い機会だ。目の様な、繊細な器官を治療するというのは。中々に私の魔導の腕と、そうして自負を疼かせる。一歩間違えれば、
潰してしまうがな」
「僕だったら、怖くて。到底できないな。例えそこまで魔導の腕があったとしても」
まるで自分は何一つ魔導を扱えない様な事を、ユディリスが言うから。私は思わず笑みを浮かべてしまう。確かに文官は剣を握る機会には恵まれないし、そんな暇もないだろうが。しかし魔導に長じている者は
多い。特に上位の者ともなれば、その長であるギヌスがそうだが。ランデュスの声、神声を聞くために相応の腕が要求される。現副宰相であり、順当に行けば次期宰相でもあるユディリスが、魔導を不得手としている
はずはなかった。
「勿論失敗した時の事も、考えてある」
掌に光を。私の目には見えないが、それでも掌に感じるそれで、私には充分だった。そこから、微細な魔力の波動が伝わる。
「……随分弱い力だね。これは?」
「極微弱な、魔力による波動だ。目が見えなくとも、目の代わりとして、超音波を発しては周囲の状況を探る生き物が居るだろう? やっている事は、それと同じだな」
「君は筆頭補佐より、魔導の権威になるべきじゃないの」
「それも、悪くはないが。竜神様に求められてこの席に座った以上はな」
お遊びに等しい物だが、試しに編み出してみると、これは意外と面白い物でもあった。闇を闇とも思わず、迷わずに進む事もできる。もっとも目に細工を施せば、ある程度夜目が利く様にもできるので、布教には
至らないだろうが。波動を飛ばすのはまだしも、飛ばしたそれが返ってきて、それを正確に読み取るのは中々に神経を使うし、他の事に気を取られる様な状況では尚更だった。単純な動物の様に、本能によってそれが
成せる様に造られている者と、態々魔法でそれを実現しようとしている私では、やはり違うのだった。
「その調子で、人の心の怒りを和らげる魔法を頼むよ。できれば僕がこの後戻って、ギヌス様にお説教を受けるよりも先に」
「間に合いそうもないし、私はそんな物を使うくらいなら催眠を掛けるな。代わりに怒られておいてくれ」
足音が聞こえる。それが私の傍へと近づいてきて。そして、先程のギヌスの様に私の手に、ユディリスの手が触れてくる。ただ、先程は上の方から、摘まみ上げられる様に腕を掴まれたが、今はそうではなく。寧ろ
椅子に座っている私よりも低い位置から、私の片手を、両手が柔らかく包み込んでいた。
「本当に、見えないんだね。君はこんなに無防備で、そんな君に、簡単に触れられてしまうなんて」
「そんなに私はお前を、避けていただろうか」
振り返って、しかし確かに、ユディリスの言う通りだと私は思い至る。友と呼び合っていた頃は、飲みに誘う事もあれば、愚痴を言い合う事もあって。自然と触れ合う機会もあったが。今となっては、それも昔だった。
「あまり、無茶はしないでね。君の事が心配なのは、僕も同じなのだから」
「翼族に対して、上手くやれたかどうかが、か?」
「また、そうやって。……まあ、それも気になっていないと言えば、嘘になるけれど」
「お前のそういう、正直なところは、私は好ましいと思っている。……それは、ギヌス様に伝えた通りだな。程無くして、翼族は驚異とは言えなくなる。もっとも、そのままでもそれ程の相手ではないがな。それでも空兵の
手を煩わせる相手が居なくなるというのは、大きな事だろう」
「それ程までに、強い魔法を?」
「でなければ、今私が、こんな状態になっているはずもないだろう。もっとも、私の身体を介した以上、本来の威力をそのまま伝えきれたとは言えないがな。この辺りはやはり、私の未熟さ故だろう」
「君で未熟だったら、僕やギヌス様でも、まったく同じ結果にしかならなかったよ」
「そうかも知れないが。或いは、ヤシュバ様なら……と考えないでもないが。しかし、竜神様や、ヤシュバ様が直接、翼族の谷に向かえる訳がないからな。少なくともヤシュバ様では、ヴィフィルは出てこなかったであろうし」
元々の、戦争の意思を持っていた竜神。そして、爬族を散々に打ち破ったヤシュバ。この二人では、まず翼族の谷へ続く門が開かれる事はなかっただろう。私でさえ、かなり際どいところだったと言わざるを得ない。それでも
私が翼族の谷に足を踏み入れられたのは、単身で向かった事と、翼族との決別があの時点では決定的ではなかったから、という状況があったからだった。表向き、翼族はいまだにラヴーワとランデュス、どちらとも
繋がりを持っている以上、私の訪いを強く撥ね付ける訳にはゆかなかった。翼族との、その長であるヴィフィル・ヌバとの、最後の機会を。竜神はその力で華々しく飾ったのだった。
そして、ヤシュバなら、或いは。そう、私は本気で思っている。あの身体は、あまりにも優れていた。頑健というだけではない。私が全力で催眠を掛けても、持って一日といったところだろう。本人に魔導を学ぶ時間が
無いのだから仕方がないが、結局ヤシュバに秘められている可能性というのは、ほとんど無限大と言っても良かった。だからこそ竜神も、なんの経験も無く、その上その心もまた筆頭魔剣士にふさわしからぬものと
知りながら、ガーデルではなくヤシュバを取ったのだから。もっとも、それを踏まえたとしても、ガーデルが負けたのは実力でしかない。
「いつまで触っているつもりだ」
咎めるために出した手も、包まれて。今は私が両手を膝の上に差し出している様な状態になっていた。ユディリスは跪き、私の両手を包み、押し頂く様にしているのだろう。
「不便な事は、ない? 困っている事があったら、相談してよ」
「今日のお前はおかしいな」
「心配、したんだけど。勝手に出ていって、どうしているんだろうと思ったら、ふらっと戻ってきて。そしたら、こんな状態で、会議にも出てこないで。前に君が出た時の会議が、あんな終わり方だったから、余計だよ」
「心配を掛けたのは申し訳なく思うが。私を心配する必要などない。それから、その辺りの説明は竜神様自らが、ギヌス様になされると」
「そりゃ、説明は受けたよ。でも本人からでもない言葉で、全て納得するなんてできないよ。例え竜神様であってもね」
「驚いたな。ギヌス様と言い。文官連中はどうにも反抗的な様だ」
「そういう訳ではないけれど。でも文官は、政をするものだからね。例えどれ程、その全ては竜神様へ続く物で。自分達の身体一つでさえ、竜神様の物であると言い聞かせたところで。僕達が見ているのは、市井の名も
知らぬ民である事には変わりない。そして彼らがいなければ、ランデュスという存在はあっても。ランデュスという国は、成立しないのだから」
「お前と、こういう話をするのは初めてだな。私には、不埒な考えに聞こえてしまうが。確かに国が国の態を保つには、民は必要だ。だが竜神様がそこに在るのならば。民もまた、そこへ在るべきだろう」
「君は、本当に全身全霊で、竜神様に仕えているものね。君から見たら、ギヌス様でさえ。腹に一物ありと見えても不思議じゃないだろうね。それから、僕の事も」
「私が知っているお前は、私とそれほど、変わらなかったと思うのだが」
「それだけ、月日が流れたんだよ。リュース。こうして君に触れるのも。公的な、つまらないやり取り以外で君とたわいなく言葉を交わす事も。もう何十年も前の事になるじゃないの。最後にこうしたのは、いつだったかな。
君が筆頭補佐になると知って。また追い返されるかも知れないと不安になりながら、勇気を奮い立たせて。君を訪ねた時以来かな。あの時も、君は念願だった筆頭補佐になれた事を、大層喜んでいたけれど。でも、
決して浮かれてはいなかったね。だから結局、あんまり話もできなかったけれど」
「そんなに、昔だったか。お前が私の傍に居てくれたのは。私が、お前を追い出してしまったのは」
筆頭補佐になるよりも前から、ユディリスとの関係はほとんど断たれていたが。私が筆頭補佐になったのは、決定的だった。その時の私は、己がその様な立場に立ったのだと言う自覚よりも。私が産まれるよりも
前から、私の存在を察知し、祝福を与えてくれた竜神の傍に仕える事ができるという事実の方を、もっと重く見ていて。そうして、どうすればその期待に沿えるだろうかと。その事ばかりで、それ以外を見ている余裕も
無かった。月日が流れれば、それを見る余裕もあったのかも知れないが。月日が流れれば、今度は自分の腕が、ガーデルをすら凌ぐという事実を知り。そして同時に、この身体では、筆頭補佐よりも上に行く事は
許されはしないと知り。竜神に仕えているという幸福感に浸らなければ、己の身体に対する失望で、どうにかなってしまいそうだったのだ。そうして私は、いつの間にか。ただ竜神に仕え。ガーデルの部下でありながら、
心の中ではガーデルを罵り続け。全てを遠ざけ、また全てから遠ざかっていたが故に、鬱屈とした気持ちを吐き出す場もなく。ただ。ただ、いつか。私が本当に筆頭魔剣士だと認められる男を、待ち続けていた。
そこへ、現れたのだった。あの黒い竜が。
「リュース。このままで、いいの」
「と、言うと?」
「自分の姿を、冷静に見つめてみるべきだよ。ギヌス様も、言っていたけれど。今の君は、まるで」
「捨て駒の様か。使えなくなったら、それで捨てられるだけの。まあ、適任ではあるな。お前の様に家柄もなく。私はただの、卑しい。下町の商人の息子だ。一番居なくなっても問題無いのは、私だろう」
「どうしてそれを肯うの。まだ会って、一年すら経っていない筆頭魔剣士の言う事にすら、そんなに簡単に君は頷いてしまうの」
「ユディリス。如何にお前とて、ヤシュバ様の事を悪く言うのは私も看過できんぞ」
「彼は、ここに来たの? 自らの発した言葉によって、君がこんな目に遭っているのに。会議の時も、そうだ。君が居ないから、当然ギヌス様は彼を問い詰めた。彼は取り合おうともしない。全ては竜神ランデュスの
命ずるままに。今回の件で、彼はそれだけの事しかしていない。僕は、彼の事は別に、好きでも嫌いでもないけれど。でも、あんまりにも、あれは。君の事を、軽んじているよ」
「それだけの事を、私はしてしまったのだ。お前に、全ては話せないが」
「どうしてなの、リュース。自分が、顧みられていないのに、どうして君は、そんな風に。笑っていられるの」
私の手が、強く握られる。それよりも。ユディリスからの指摘で、私は自分が笑っている事に今更気づいた。ヤシュバの事を、口にしていると。考えていると。不思議と、今は笑みが浮かんでしまう。片手を少し動かして、
ユディリスの手から逃れると。その手を、ユディリスの手の上へと重ねる。優しく撫でながら、私は少し頷いた。
「あの方を。ヤシュバ様を見ていると。不思議と、何かして差し上げたくなってしまうのだよ。これが、恋という奴かな。私にも遅い春が来たという訳だ」
「誤魔化さないで」
「半分は、本気なのだがな」
ヤシュバの前に立つと。今でも、慕わしさが底から湧き出てくる。それは初めて会った時から、少しも変わらない。ヤシュバが成した事が、それだけの事であったのは確かだが。それよりも尚、私はヤシュバに、ただ
魅かれているのだった。不思議な程に。しかし、ユディリスにそれを口にしても、納得はしてくれないだろう。事実、誤魔化していると言われてしまった。仕方なく、私は少し呼吸を整えて、口を開く。
「私が、何も持っていないからだよ。ユディリス。私には、何も無い。どれだけ己を鍛えても、何も持たない私では。筆頭補佐が限界だった。例え。……例え、私がガーデルより、強くなっても」
「それは」
ユディリスは、息を呑んだ様だった。初めてこれを知ったのだろう。残念ながら、魔導に長じていても、剣技には疎く。また私も、公の場ではそれを隠し続けていたから、尚更だった。
「ユディリス。お前には、わからないだろう。お前はきっと、私と、お前自身を。同じ立場だと。それぞれに武官、文官という、道の違いはあれど。その長を補佐する役職にお互いが就いた今、思っているのだろう。しかし、
それは違う。ギヌス様がいずれ、本当に老いられた時。お前を宰相にと推すであろうし、周りもそれを当たり前の事だと受け入れるはずだ。私も、それを支持するだろう。その時まで、私が筆頭補佐であれば、だがな。だが、
私は違う。私はどうあがいても、ここまでなのだ。私のこの身体が、私がこれ以上の高みを目指す事を、決して許されぬ様にしている。それに気づいた時の私の気持ちは、お前にはわかるまい。生まれたその瞬間から、
ともすれば、あとは死ぬるだけが己の成すべき事だと、囁かれる者の気持ちなど。お前には。……そんな事は、お前にわかってほしいとも思わないが。だから、だからこそ。私は、私を取り立てて、この居場所を
設けてくださった竜神様に忠誠を誓うのだ。そしてガーデルを退け、その実力でもって私すら退けたヤシュバ様に。筆頭魔剣士になれぬ事を呪っている私を、実力で捻じ伏せたヤシュバ様に。私自身を捧げるのだ。
私は、何も持ってはいないのだから。私自身を捧げるしか、道はない。顧みられぬ。そんなのは、当たり前の事だ。顧みてほしいなどと、私は思わない。私はただ、ヤシュバ様に。私が差し出した物を。当たり前の顔をして
受け取っていただきたいだけだ。あの方と共に行くのではなく。あの方が立つべき場の、礎の、一片となりたいだけだ。そうして私がいつか、使い物にならなくなったら。ただ捨ててくれるだけで良い。いや、
捨てるなどと。それも違うな。私にできる事が、何一つ無くなった時。私の方から、去るべきだろう」
「……それでは、君は、どうなるの。その後は」
「さて。今のところは、何も考えていないな。口でこう言ってはいても。どうなるのかはわからないものだ」
私の手が、また強く、ユディリスに握られる。その上に重ねた私の手の甲に、不意に、水が掛かる。少し温かい水が。
「僕は、君の事を諦めようと思っていた。君が、ヤシュバ様の事を好いているのは、知っていたから。だから君が、ヤシュバ様と一緒に生きてゆきたいと。そう願っているのだと思っていたよ」
「それは、違う。あの方には、きちんとした想い人がおられるのだから。私など、ただの間に合わせに過ぎない」
最初から、そうだった。ヤシュバを筆頭魔剣士として務めさせるために、差し出されたのは私自身。私はあの手この手を尽くして、ただヤシュバを持て成していたに過ぎない。そうして、いつかヤシュバは、ヤシュバが
本当に望む相手を見つけるだろう。そのためにヤシュバは、筆頭魔剣士をしているに過ぎないのだから。そのために、今まで散々我慢をして。そして今も、耐え続けているのだから。やりたくもない筆頭魔剣士を、嫌々
やっているに過ぎない。それでもヤシュバが筆頭魔剣士を続けていたのは、竜神との約束事もありはするだろうが。少しだけ自惚れても良いのならば。私が、ヤシュバの傍に居たからだった。今は、どうなのかは、
わからないが。
「ヤシュバ様が来てから、リュース。君はとても幸せそうだ。それなのに。どうしてこんなに、傷ついているの。僕にできる事は、何もないの」
「お前は、もう充分、私に良くしてくれたじゃないか。ユディリス。初めての相手がお前で、良かったと。今でも私は思っているくらいだ」
私がただの一兵卒だった頃。その頃も、当然竜族同士の試合は行われていて。そうして、勝者と敗者の間で身体を重ねる事も、珍しい物ではなかった。しかし私の身体は、周りから厭われており。それを充分に
承知していた私も、一人で懸命に腕を磨く程度で。剣を交える事は避けていた。それでも、避けられぬ事もあって。結局は私も、あのドラスの様な状態に陥っていたのだった。他人と身体を重ねるのが、怖いのでは
なかった。私の身体を見て、嫌悪を露わにされるのが、私は怖かった。戸惑い、思い悩んでいた私に、ユディリスは駒遊びを持ちかけてきたのだった。そうして見事に私を打ち負かして。盤上の勝負であろうと、負けは
負けだと。私の手を引いたのだった。
「お前が居てくれなかったら。私はきっと、筆頭補佐にはなれなかっただろう。もっと低いところで、とっくに限界を迎えていただろう。あの時、お前が私に手を伸ばした時。私は確かに、救われたと思った。束の間で
あったとしてもだ。それは今でも、とても有り難く思っている。だからこそ、ユディ。今のお前にしてもらう事など、何もない。あの時の私は、自分の事を優先して。お前に依存しきってしまった。今の私はもうそんな事はしたくない」
ユディリスは、何も言わなかった。何も言わぬまま、また新たな雫が、私の手に掛かっている。ユディリスが私の顔を見ているのかはわからなかったが。私は努めて、明るく微笑んでみせた。
「おかしな物だな。皆が私の身体を厭う。青い、不吉な竜だと。そうして、それ以外も何一つ持ってはいない。醜い竜だと言う。侍女も小姓も、良い顔をしない。それなのに、私のすぐ近くに居る者達は、不思議と私の事を
認めてくれるのだな。お前も、ギヌス様も、ヤシュバ様も、竜神様も。ほんの少し前まで、ガーデルが居た頃は。そんな事は、思いもしなかったというのに」
「君に、それだけの余裕ができただけだよ。ガーデル様が居た頃の君は、本当に苦しそうだったから」
「そうかも知れないな。それから、もう一人居たな」
「あの、金竜の事?」
「知っていたのか。ドラスの事を」
「すれ違ったからね、さっき。ほとんど顔も合わせず、ただ僕とギヌス様が通る時に、頭を下げていたけれど。そうか、あれも君の事を」
「その内、知り合わせようと思っている。あれは、強くなる。筆頭補佐になると、意気込んでもいる」
「筆頭補佐まで新参になってしまうのは、僕はご遠慮願いたいのだけれど」
「そう、急いでは代わるまい。私もまだ、負けるつもりはないからな。それでも。できれば、ユディリス。あれの事も、いざという時は支えてやってほしい。純粋で、素直な青年だ。話のわかる奴でもある。ギヌス様は、
あんな青二才ではと言うかも知れないが。お前は、そんな事はないだろう。お前も私も、若くしてこの様な地位について。あれこれと言われながらも、ここまでやってきたのだから」
「……わかったよ。けれど、今は君が、筆頭補佐なんだ。今からそんな風に、もう筆頭補佐を下りるみたいな言い方はしないでほしい」
「そうだな。あれにも、まだまだ教える事が山ほどある。お前やギヌス様に会わせても、恥ずかしくない男にしてやらなければな」
私が、そう言うと。ユディリスの手が、ゆっくりと離れてゆく。もう話す事はないのだろう。足音が遠ざかって、部屋の扉が、開く音が。
「リュース。一つだけ、約束してほしい。僕の物にならなくてもいい。どうか、幸せになって」
「馬鹿な事を言うな。私は今、充分に満たされている」
「……それなら、いいけれど」
扉が閉まる音がする。続いて、遠退く足音が。私はしばらく、椅子に座ったまま。目隠しをしたままだというのに、遠くを見つめる様に顔を僅かに上げていた。
それから、鈴を鳴らす。扉が開かれて、小姓がやってくる。それに、ドラスを呼ぶようにと伝えて、行かせた。
「ヤシュバ様……」
ドラスが戻ってくるまで、私はここには来ない、筆頭魔剣士の男を。束の間想った。