ヨコアナ
24.夢追い、歩いて
「道を行く人々が、俺を冷たく見下ろしていた。それも、当たり前の事だ。敵国の民だと言われてもおかしくない場所で、見捨てられて蹲っている俺なんて、ゴミか何かにしか見えないだろう」
「来ない迎えを、待っていた。俺にはそれしかできなかった。誰も来ないと、わかっているのに」
「ああ。どうして。俺はここに生まれたのだろう」
「生まれて、しまったのだろう」
長閑な風景が、広がっていた。さっきから俺は、それを少し高い位置から眺めている。
通った道を振り返れば、小さく。本当に、小さくなったミサナトの街が見えた。懐かしいとは、やっぱり思わない。昨日見た風景に似ていたけれど。ファウナックから馬車に揺られて、この街に戻ってきたのがまだ昨日だと
いうのに。もう俺は、そのミサナトから脱出を果たしていたのだ。
ミサナトの周辺は、その中心にミサナトという魔導に長じた街がスケアルガの根城として存在するにも関わらず、物静かで、自然豊かな風景で満たされていた。ラヴーワの中央に近く、少族の領土とまでは言わずとも、
様々な種族を内包するが故なのかも知れない。或いはそれは、そこにミサナトという存在があって。周囲の魔導に興味のある者達、魔導に関係する事柄の全てを、その街が呑みこんでいるからなのかも
知れなかった。そんなミサナトの街であっても、スケアルガ学園から離れて暮らす分には、然程魔導の色が濃い街という印象は受けなかった。とはいえ、それは俺だったからなのかも知れないけれど。俺の知っている
街なんて、ミサナトと、ファウナックが精々で。ファウナックへと繋がる街は、宿を取りに一日腰を落ち着けた程度で、碌々その風景すら見ている余裕は無かったのだから。ただ、それでも背後にミサナトが控えているからか、
あまり田舎という感じはしない。ファウナックは、ファウナックへ続く道は。割とそう思う事も、多かったのだけれど。それは狼族が、やっぱり閉じ籠りがちだからなのかも知れなかった。ラヴーワの中央に近いミサナトに、
猫族の英雄と讃えられる事があって、そしてラヴーワ軍の軍師を務めているスケアルガが居るのだから。その中央から見れば地方であり、また田舎でもある場所から、猫族やスケアルガを毛嫌いする狼族が出てこないのは
当たり前の事なのだろう。とはいえ狼族自体の数はそれなりに多いのか、然程銀狼やギルスに対する信の厚くはないタイプの狼族は、かなり見たけれど。
ぽくぽくと、一定の感覚で蹄の音が真下から聞こえる。辺りに広がる景色から、目を移して。俺は目の前の鬣を見つめる。ライオンのではなく、馬のそれ。さっきからそれは風に靡いてゆらゆらと揺れていて。そして
それと同じ様に俺は馬上の人となって、馬の背でゆらゆらとしている。轡を手に取って馬を先導するのが、今朝知り合って、その場で契約を交わした獅族の少年だった。
「ヒナだ」
獅族の少年が初めて発した言葉は、それだった。虎族の男に連れられてきた獅族の少年は、俺を見てそう言ったのだった。あまりに唐突なその言葉に、俺は一瞬、なんの事を言ったのかわからなくて首を傾げて
しまった事をまだ憶えている。虎族の男が苦笑いをしながら仲介をしてくれて、結局それが、その獅族の名前だという事を遅れて理解する。少年の名前は、ヒナというらしい。なんとなく、可愛い。
ただ、ヒナが可愛いのは名前だけだった。とうのヒナはというと、かなり不愛想で。俺と顔を合わせて自己紹介をするなり、あとは黙って俺の事をじろじろと見つめていて。とても居心地が悪かった事を思い出す。
それでも俺はヒナを傭兵として雇い、ミサナトを後にしたのだった。それは結局のところ、他の傭兵の都合がつかない事。都合のつく傭兵が居ても、今ミサナトでハンスの家に居たと、半分はとばっちりの状態で捜索
されているのが銀狼である事が、ある程度知れ渡っているからだった。
「ヒナ以外の奴で、あんたに回せそうなのは。今すぐとなるとちょっと居ないな。あんたは銀狼だから、わかるだろ? あんた自身の価値が。虎族の俺から見ても、あんたは随分とお綺麗だ」
加えて、昨日もばっちり押し倒されたばかりで。つまりそうなると、ミサナトの騒動で俺を引き受けてくれる傭兵の数は減って。更に引き受けてくれる傭兵であっても、その中から更に俺に危害を加えないと思われる傭兵を
となると、虎族の男は他に思い当たらなかったらしい。俺は覚悟を決めて、運否天賦とばかりに紹介されたヒナを傭兵として雇ったのだった。数日待てば他の傭兵がと言われても、俺はさっさとミサナトから出なくては
ならず。とても待っていられる余裕は無かった。次に何かあった時に、カハルがまた助けてくれると都合の良い事を期待して、それで来てくれなかったら終わりなのだから。
ヒナは俺が胡乱な人物である事、そしてミサナトからとにかく早く出たいという、怪しさしか感じられない要求を聞いても特に動じる事もなく。あとは俺の返事を待つだけだと言い放って。だから俺も、その場で頷いて
しまったのだった。この選択が吉と出るか凶と出るかは、まだまだわかりそうにない。それでも、もう俺は充分に自分の銀の事を理解している。ハンスの家が検められたのならば、当然俺についての話はどこかで。本題は
俺ではなく、ハンスでもなく。俺とは別の異世界人であったとしても、当然上っているだろう。そこに、今になって通常の銀狼の銀とは違う俺が、ふらりと戻ってきた。噂に上がるのは時間の問題で、そして俺の下に、
結成されたという調査団がやってくるのも時間の問題としか思えなかった。
俺の前で、速足で歩いているヒナの背中を、俺はじっと見つめる。俺はカハルから貰ったコートを。そしてヒナも、旅人が使う様な茶色のマントを纏っている。馬の背が足されている分、その姿は小さく見えた。俺とは、
あまり身長が変わらず、正面から向き合ってもほとんど同じくらいだ。ただ、身体は。その体躯は、ぬくぬくと育ってきた俺とは違って、かなり鍛えられているのは確かな様だった。虎族と引き合わされた時は、マントも
付けてなくて、着ている物は袖なしの服に、膝までのズボンで。充分に鍛えられた身体を更に締め付ける様に巻かれた革のベルトには、数本のナイフがあって。それ以外は特に目立つ物もなかったけれど、だからこそ、
その服から食み出した腕や足の筋肉に俺は少し羨望に似た物を感じていたりする。俺もこれくらい鍛えないと、いい加減危ないんじゃないかと思ってしまう。身体にぴったりと服が張り付いているから、胸周りも、腹周りも、
きちんと筋肉があるのがわかるし。一方俺はどんな服を着ても、残念ながらそんな状態にはなれそうにもない。腕も足もほっそりとした状態である。
歳は、十七ぐらいだという。それでも背があまり高くないのは、環境のせいなのだろうか。傭兵に、この若さで身をやつしているのだから。当然恵まれた環境で育ってきた訳ではないだろうし。それとも鍛え過ぎなのかも
知れないなと思う。確か、あんまり小さい頃から鍛え過ぎて筋肉を付けすぎると、背が伸び悩む、なんて事を昔聞いた気がする。
ヒナは、俺がヒナで良いと言うと。早速ミサナトから脱出するための算段を立ててくれた。ミサナトで立て続けに起きたと今話題にもなっている、異世界人の出現。このため、今ミサナトは入るよりも、出る方が難しいと
言われる様になってしまっていた。特に、その異世界人の特徴を持った人物は尚更だ。そして見事に俺はその、銀狼に当て嵌まっているのだった。なんでそんな、間の悪い時期に戻ってきてしまったのだろうか。そんな事を
考えても、仕方ないけれど。ちょっと不満なのは、もう一人居ると思われる異世界人の特徴の方は、俺と違ってあまり噂になっていないというところだろうか。話に聞くと、犬族だった、狼族だった。なんか黒っぽかった、
がたいが良かったから多分男、物凄い腕っぷしだったから多分男。そんな話を聞くくらいで。どうやら俺の様に、そこまで目立つという見た目じゃないみたいだ。一方の俺はといえば、半分とばっちりの態だというのに。銀狼で
あるせいで、疑われているハンスの家に出入りしていた事が知れ渡ってしまっているみたいで。どう足掻いてもミサナトで暮らし続ける訳にはいかないし、一度入ってしまったミサナトから出る事も、正面からでは中々と、
そう言われる勢いだった。間が悪い。本当に、間が悪い。
ただ、その辺りは傭兵として手慣れている虎族の男が手引きしてくれていた。正面以外にも出る道はあると、抜け道を用意してくれて。思わず俺は、どうしてそこまでと訊ねてしまった。
「まあ、あまり悪い奴には見えないからな。あんたは。それに、ヒナを雇ってくれた。ヒナは、俺もあまり付き合いが長い訳ではないんだがな。どこで、どんな目に遭ってきたのか、あんなぶっきら棒に育っちまってな。
悪い奴じゃないのは確かなんだが。俺は結構、ヒナの事も心配してるんだよ」
そう言ってくれて。脱出のための準備をしに席を外していたヒナの事を、俺は少しだけ思ったのだった。
程無くして、ヒナは馬と、食料と、その他諸々の旅に必要な物を纏めて戻ってきてくれて。俺とヒナは、虎族の男の好意を素直に受けて、首尾よくミサナトの街を後にしたのだった。
そして、さっきから延々と俺は馬の背で揺られている。俺に体力が無い事を、ヒナはよくよく理解していたのだろう。それからもしもの時のためにと、態々馬まで用意してくれて。ただ生憎、俺は馬に乗るなんて、初めて
なので。ヒナに乗せてもらった時も、かなりおろおろとした恥ずかしい姿を見せてしまった。ヒナは俺がそんな状態でも、まったく構いもせずに、さっさと轡を取って歩きはじめるから、最初の内、俺はバランスを取る事にばかり
夢中になっていて。結局ミサナトの街を出た感慨も何も覚えている暇は無かった。腿でしっかりと馬の身体に掴まる様にして。それから鞍についている取っ手を掴んでいた。
「あまりそわそわするな。目立つだろ」
俺が馬の上で悪戦苦闘していると、一度ヒナにぴしゃりと言われてしまって。俺は懸命に平静を装いながら格闘を続けている。
馬に乗るなんて、元の世界だったら貴重な体験なんだろうけれど。この世界だと、そうではない。元の世界だったら、牧場に行くか、騎手にでもならないといけなかっただろうな。馬で移動するなんて、まるで西部劇か
何かの様だった。
ある程度馬に慣れると、俺は街道を行き交う人々へと視線を移した。この辺りはまだミサナトの近くという事もあって、人気も多い。隊商もあれば、俺と同じ旅人、それから何かの巡礼と思しき集団も見える。俺みたいに
深くローブを被っている奴は目立つのではないかと思ったけれど、特に巡礼の団体は、俺と同じ様にローブを纏って、顔も見せずに移動しているから、それと比べると俺もそこまで浮いている訳ではなさそうだった。ただ、
ヒナに先導をさせている関係で、やはり少しは目立つだろうけれど。
「ヒナ。これから、どこに行くの」
前を歩くヒナに、俺は声を掛ける。本当はまだ出会ったばかりだし、もっと畏まって会話をするべきだと思うのだけど。それは目立つから止めろと言われてしまった。確かに、言葉遣いがそうで、それでいてヒナが俺に恭しく
接していては、貴人か何かのお忍びの様に見えるのかも知れないと思って。俺も早々に、砕けた様子でヒナに話しかける事を頷いていた。
「まずは、ミサナトの勢力外へ出る」
「ミサナトはもう出たのに?」
「出たと言っても。それは街から、というだけの話だ。ゼオロ。お前は、今ミサナトで騒がれている異世界人の件に、巻き込まれたくないのだろう」
「う、うん。私は、その。こんな身体で、目立つから。捕まったら何をされるのか、怖くて。スケアルガ学園の人との関係なんて、無いのに」
大分苦しい言い方をして、俺はヒナに賛同する。ヒナは何も言わずに、黙って頷いていた。そんな目立つ銀狼が、なんで態々ここに居るんだよとか。他に頼る奴は居ないのかよとか。だから余計に怪しいんだよとか。多分
色々と言いたい事はあるのだろうけれど。今のところ、ヒナは黙って俺を導いてくれる。
「一つ訊きたい。お前は、どちらに行きたいんだ?」
「えっと……」
そう問いかけられて、俺は言葉に詰まってしまう。とても無計画な事だけれど、そこまで決める余裕はなかった。ただ、ミサナトから出たいというだけで。少なくともラヴーワの中心からは立ち退いた方が良いだろう。
「お前が狼族だという事を考えるのなら。俺は、ギルス領に行く方が良いと思うが」
「それは……できれば、他の所が良いんだけど」
もっともなヒナの意見を、断らなければならないのは歯痒い。ミサナトに居る事ができずにギルス領の中を彷徨う、なんて事をしたら。ガルマの耳に入りかねない。そうなったら、俺はまたファウナックへ連れられてしまう
かも知れなかった。或いはそれが、一番安全なのかも知れないけれど。ファンネスも言っていたけれど、狼族は八族の中でも浮いているし、他の種族にも簡単に阿る様な真似はしない。その頭であるガルマは、
尚更だ。ガルマ自身の考え方はもう少し柔軟に見えたけれど、狼族全体としてはそうで。だから例え、俺が怪しいという意見が広まっても。ガルマは狼族の族長としての立場も利用して、調査団の介入などは容易く
跳ね除けてしまう事もできるかも知れない。ただそこまで行くと、それはそれで俺が何者なのだという話が浮かびかねなくて。今度はガルマの方で俺の身元が検められかねない。
それに、やっぱり。ファウナックにはもう戻らないと。俺はそう決めていたのだった。
「他の所が良い。それに、ギルス領に入るのなら、ヒナとも別れないといけないんでしょ」
「そうかも知れないな。ギルス領の中では、俺は目立つ」
半端な位置では、ガルマと異世界人に対する調査団、二つから見つけられてしまう可能性がある。かといってそれより中央に近いのは論外。ファウナックに近いのは、今度はヒナの方も目立ってしまう。やっぱり、
ギルス領は避けるべきだろう。そうなると、次はどこへ行くべきか。ラヴーワの南側は避けた方がいいかも知れない。このまま真南なら、兎族の。あのリスワール・ディーカンの治めるディーカン領で。南西なら、猫族の
領地になる。狼族と猫族の確執を考えて、余計な問題を起こさないために、南西は除外するとして。ギルス領に近いディーカン領も遠慮したい。
そうなると、やっぱりラヴーワの南ではなく、北になる。
「ラヴーワの北が、良いな。でも、私は北側はあまり詳しくないのだけど」
「……なら、ミサナトの勢力外に出たら、そのまま北東に行こう」
北東というと確か、獅族と虎族の領が、横に長く伸びていて。そのまま国境にぶつかる様になっていたはずだった。
「そっちなら、俺も目立たない。お前は少し目立つかも知れないが、それでも南に行きたくないのなら、丁度良いだろう」
「それじゃ、お願いしようかな」
虎族はともかく。獅族の領地ならば、確かに俺とヒナの二人組なら、一番良いのかも知れなかった。ラヴーワの建国のために、当時八族を纏めたのが、獅族であるラヴーワなのだから。その流れを汲んで、獅族は兎族
程ではないけれど、他種族との交流を。交流というよりは、調和を図ろうとする姿勢らしいし。同じ獅族であるヒナが居る分にはまったく問題ないし、その上で狼族の俺が居ても、そこまで睨まれる事もないだろう。
行先も決まって、改めて俺達は街道を進む。とはいえ、ヒナは徒歩なのもあって、そう簡単に移動は捗る物ではなかった。その日はラヴーワへ続く道だからと、街道の途中にある宿場に入って。宿場にも何かしら手が
回されているのではないかと、ヒナが先に入って調べてくれたけれど、そういう気配は無かったみたいで一息吐く事にする。俺はとりあえずはミサナトから出る事ができたという安堵を胸に眠ったけれど。朝になればまた、
足早にその場を立ち去る逃亡者でしかなかった。その実感が、俺にはあまりないけれど。確かに俺は、逃亡者なんだよな。今頃調査団は、血眼になって異世界人である俺と。それからもう一人居るというそれを捜している
だろうし。
馬に揺られて、ヒナに連れられて。俺は旅の空を見上げる。長閑で、爽やかな青が広がっているだけだ。空が、とても広かった。
こんな風に、自分の知らない世界に来て。ただ空を見上げて旅をするなんて、なんだかおかしいなと思ってしまう。誰かと交わした約束を果たす事もなく。今俺の隣を、というか前を歩いているのは、赤い竜でも、
赤い狼でもなく、ごく普通の獅族で。
こんな時に、こんな状況だけど。なんとなくそれに、俺はやっと胸を撫で下ろす様な気分になる。考えてみれば、ミサナトに最初に現れたその時から。異世界人だ、銀狼だ、なんて事になって。とても我武者羅に生きてきた
気がする。それは今でも、変わらないのは確かなんだけれど。
明確な目的地も無く、当てもなく彷徨う。誰かと話していた上では盛り上がっていたそれに、今浸ってはいるけれど。不思議と、それ程実感という物は湧かなかった。
ただ、流れてゆく。自分が、どこかへ。それだけは確かに、強く感じている事でもあった。
街道は、どこまでも続いていた。
どこまでも、どこまでもそれは続いていて。切り開かれた道は、ラヴーワの全ての領へと通じているらしい。一応、ランデュスへ続く物もあるそうだけど。その場合、途中でラヴーワを抜けて緩衝地帯へ出る事から、
利用する人も少なくて。荒れている箇所も多いそうだった。ラヴーワや、ランデュスに属さぬ少数部族も居て、一部は盗賊の様な真似を働く事もあるという。そう考えると、この辺りはまだ安全な方なんだろうな。街中で
押し倒されてたけれど。
ミサナトを出て、数日。俺とヒナは、ようやくミサナトの勢力外から出ようとしていた。以前、ファウナックへ向かう時はまったくなんの障害にもならなかったというのに。今はそれが恨めしい物に思える。どこに俺へと
伸ばされる手があるのか、わからないのだから。
心配顔の俺を他所に、ヒナはいつも通りに馬を進ませてくれる。もう数日の間、一緒に旅をしているけれど。会話らしい会話はいまだに無かった。宿に泊まっても、野宿をしても。ヒナは俺への最低限の世話をして
くれるけれど、それ以上は口を利く事もなく、話掛けてくる事もない。傭兵って、こういう物なんだろうか。本を読み漁れば、いくらでもそんな物はあったけれど。けれど、目の前で見るのは初めてだし、関わり合うのも
当然初めてだ。唯一、カハルという例外が居るけれど。あれ、そう考えると割とこれが普通なのだろうか。正直身長が変わった以外は同じ気がしてしまう。
「ヒナは、傭兵さんなんだよね。普段は、どこかの街で暮らしたりするの」
「その時に仕事にありつけそうな場所だろう」
「す、好きな食べ物って、ある?」
「口に入ればそれで良い」
「ご、ご趣味は……」
「そんな物を持つ暇は無い」
それでも流石に耐えかねて。俺はおずおずと、慣れないながらも何度か声を掛けてみたけれど。かなり一方的な会話がなされるだけで、俺はとても、とても挫けそうになる。相手にまったくやる気の見られないお見合いの
席の様な会話しかできそうにない。
どうしよう。これ、どうしたら仲良くなれるのだろう。仲良くなる必要なんて無いのかも知れないけれど。でも、いざという時に親しくしていると、やっぱり違うと思うし。何よりこんな空気のままひたすら旅を続けるのは、割と
精神的に来る物がある。けれど、これが普通なのかもな。ヒナと接していると、俺は人間だった頃の事をなんとなく思い出してしまう。他人との付き合い方が上手くいかなくて、そして俺自身も、他人に期待をする事を
その内にやめて。あとはただ、家を出たその瞬間から、ああ、帰りたい。そんな事をひたすらに考えて仕事に勤しんで。何も感じていない振りを必死に貫いて。
なのに、この世界は違っていた。それが、今また昔の様だと思ってしまうのは。やっぱり、会話が上手く弾まないせいなのだろうか。確かにそれはあるけれど。この世界の方が人間味に溢れているというか、人間じゃ
ないけれど。でも、少なくとも俺が今まで出会ってきた人達は、俺に良くしてくれた人が多かったんだなって思う。ヒナが、良くしてくれないとか、そんな事でもないけれど。寧ろ、良くしてくれているだろう。ミサナトから急いで
出たいと言う銀狼。怪しいと思わない方がどうかしている。厄介な俺を、どんな考えがあるのかはわからなくても、引き受けてくれたヒナが、嫌な人だとか、悪い人だとか。そんなんじゃない事はわかっているのだけど。それでも、
まごついていた俺に、優しく手を差し伸べて、口を開いてくれた今までの人達とは、やっぱり違っていた。それが、普通なのかも知れない。俺も、いつまでも受け身のままで居てはいけないのだなと思う。
ヒナと、仲良くなりたい。そこまで行かなくても、少なくとも普通に会話ができる様になりたい。
揺れる鬣を見つめている内に、俺は、そう思う様になっていた。或いはそれは、ただ自分が寂しかったからなのかも知れないけれど。初めて現れたミサナト、その次に滞在していたファウナック。二つの街で知り合った、
全ての人と、今は離れ離れで。今の俺は、初めてこの世界に来た時のそれと、同じだった。左腕も、もう少しすれば、ほとんど元に戻りそうで。そうなったら、本当に。ここにただ現れた時と、変わらない。
それでも、今はもう、この世界の知識を得ている。狼族としての振る舞い方も、ある程度は。まだまだ足りない所はあるけれど。何よりも、ここで。この世界で生きている人を、好きになる事ができたから。たった
それだけで、もう今までとは違うのだと、胸を張って言える気がして。だから、そう。ヒナとも仲良くなって、もっと胸を張りたいのだった。俺は。
とっても、今更だけど。元の世界と比べたら、何もかもが不便で、危険で、不自由だけれど。辛い事も、あったけれど。それでも俺は、こっちの方が好きなのだぞ、と。そんな気分にさせてくれた人が、居たからね。
俺がそんな事と、それから次のヒナと会話をする時間ができたら、何を話そうかと考え込んでいると。不意に、ヒナの足が止まって。少し遅れて俺を乗せる馬も止まる。現実に引き戻されて、俺は顔を上げた。
「どうしたの」
そこで、俺の言葉は途切れる。少し先に、人だかりができていた。昼の今、相変わらず街道には俺達以外にも行き交う人々が居て。その人達が足止めを食らって、不満の声も上がっていた。いや、それよりも。俺の眼に
止まるのは、厳めしい顔で、人々に当たる複数人の男の姿だった。
「あそこを乗り越えれば、ミサナトから完全に出た事になる」
「でも、あの人達は……」
「異世界人の件で来た、調査団の一員だろうな。ただ、そこまで執拗ではないみたいだ。まあ、あの件からもう数ヶ月は経つし、ほとんどはミサナトの街でのやり取りだから、それほど気にする事はないだろう」
そういう問題じゃないんだけど、と言いたいけれど。ミサナトの騒ぎで銀狼が少し怪しまれているから、俺はそれには関わりたくない。ヒナが承知しているのは、多分その辺りまでで。まさか彼らの捜しているのが、まさに
俺だなんて、今はまだ考えてもいないだろう。
「どうした」
「えっと……」
どうしよう。もし、捕まってしまったら。いや、俺の銀を考慮するのなら、十中八九、とりあえず捕まえられると思う。少なくとも、すんなりとは通れないだろう。でも、今から引き返す訳にもいかなかった。この状態が解除される
まで、どこかに身を隠すのもいいけれど、いつ終わるんだって話だし。それにここまで来て、調べられているのを見て踵を返したら、多分それは向こうからも見えるだろう。
どうしようかと俺が思案していると、ヒナが馬の横へと回り込んでくる。
「心配なのか。自分が、捕まるのかと」
「……うん。自慢する様な言い方になるけれど、私の銀は、とても目立ってしまうから」
本当に、目立つよな。目立つからこそ、ハゼンの目に留まって、ファウナックにも連れられた訳だけど。その銀が、今は特に困る。ファウナックへ誘われた時も、大分困ったとはいえ。
俺を見上げたヒナを、俺は見て。そうしていると、ヒナが馬の上に飛び乗ってくる。慌てて俺は、少し下がって。そうすると、俺達は馬の上で向かい合う事になる。二人とも、大柄ではないから、そうされても馬はそこまで
動じた様子も見せない。ヒナは、自分の手に目を落として。ぶつぶつと何かを呟いてから、また俺を見る。
「俺は、銀狼も、狼族についても、詳しくはない。その俺から見ても、お前の銀は綺麗だ。お前がそう言うのなら、確かにこのまま行くのは良くないのかも知れないな」
「どうしよう。ヒナ」
怯えた俺を落ち着かせる様に、ヒナの両手が、俺の肩へと。ヒナからの接触に、俺は少し身体を震わせた。ヒナから俺に触れるなんて事は、滅多に無い。俺も、ヒナに必要以上に触れる事はないけれど。
「じっとしていろ」
肩から離れた手が、そのまま俺の深く被ったフードの中へと。そして、俺の頬を包み込む。ヒナが、俺をじっと見つめていた。まるで、俺の隠し事を推し計るかの様に。一頻りそうしてから、ヒナは俺から手を引いて、
そして馬をまた進ませる。
「ヒナ」
「堂々としていろ、ゼオロ」
「でも」
それ以上の事を言いかけて。手を伸ばしかけて。そこまでしてから、俺はゆっくりと手を下ろした。ヒナが、そうしろと言う。俺の護衛として雇ったヒナが。
「……わかった。信じるよ」
信じてみようと思う。どの道、俺にはもうヒナと居る道しか残されてはいないのだから。俺一人では、どこへも行けないし。その上でミサナトとその周辺に留まる訳にもいかないのだから。腹を括らないといけない。
ぽくぽくと、暢気な馬の足音が。それが、不意に遮られる。丁度、素性を検められていた人達が居なくなって。人々を調べていた調査団の男達の眼が、俺とヒナへと向けられたところだった。鋭い声が、ヒナの足を
留まらせる。
相手がヒナへと言葉を投げかけてくる。ヒナは、俺とヒナの二人は、ただの旅行者だと告げる。疑い深そうに、調査員の男が俺を見上げた。
「こいつは、足が悪いし、身体も弱いんだ。あまり陽に当てたくはない」
「それなのに、旅なんぞをしているのか」
「長くは生きられないかも知れない。どうせなら、見たい物を、見せてやりたいんだ」
ヒナのその言葉を、相手は信じた様には思えなかった。コートを着て、深くフードを被っている言い訳もヒナはしてくれたけれど。流石にそれで何事もなく通してくれるというのは甘い。
「すまないが、顔を見せてはくれないだろうか。軽く見せてくれるだけで、構わない。他に待っている者も居るから、時間は取らせない」
「ああ、構わない。おい。顔を、見せてやれ」
促される。それに、俺は躊躇いを見せた。けれど、俺の様子を見て、男の眼が鋭くなった事に気づくと、もう自棄とばかりにフードを取り上げる。途端に飛び込んでくる昼の光が、少し眩しい。目を慣らしてから、俺は男へと、
視線を向ける。
男は俺を見て。俺の、銀を見て、目を丸く、してはいなかった。あれ。
「なるほど。ただの狼族か。なら、いい。もう通っていいぞ」
ヒナが軽く会釈をして、馬を。俺は何が起こったのかわからなくて、それでも大丈夫なのだとフードを被ろうとして、両手を上げた所で。ようやく何が起こっているのかを理解した。
俺の両手が、真っ黒になっていた。それから、すっかり無意識になっていた、俺の視線の真ん中にある俺のマズルも。これは、魔法に寄る物だ。思わずヒナへと視線を向けるけれど、ヒナはただ、いつもと変わらぬ様に
前を見つめていて。
ある程度、道を進んでから。俺はようやく言葉を吐き出す事ができた。
「ヒナ。これは」
「魔法だ」
「やっぱり。あの時、私に掛けたんだね」
馬上で向かい合って、ヒナが俺の頬に触れてきた時。あの時に、ヒナはそれを掛けたのだった。俺は動揺していて、そんな事にも気づいてはいなかったけれど。
「悪いが。もう少し、静かにしていてくれるか。自分に掛ける分にはそれ程難しくないが、他人に掛けるのは、難しいし、消耗するんだ。これは」
「わかった」
「それから、しばらくは顔を隠さなくても良い。その姿で居る所を、周りにも目撃させた方が良い」
もっと話しかけたかったけれど、そう言われてしまって。俺は渋々と頷く。俺の両手は、まだ黒かった。俺の全身が、そうなのだろう。ヒナはまだ警戒を緩めてはいなかった。それに、俺の前後にも、同じ様に調べを
受けた人が居る。すぐに魔法を解く訳にもいかないのだろう。
そのまま、陽が傾くまで歩き続けて。宿場を見つけて馬から下ろされると、一度人目の無い所まで連れていかれて。俺の魔法が解かれる。
「……ヒナ、大丈夫?」
「ああ」
そう言ってくれたけれど。ヒナはかなり、消耗した様だった。他人に掛けるのは辛いと言ってたし、本当に辛かったのだろうな。
「ごめんなさい。私のせいで」
「護衛を引き受けたのは、俺だ。気にするな」
ヒナは、汗を掻いている様だった。息も荒くなっている。魔力の消耗って、一切魔法の使えない俺には理解する事もできないけれど。やっぱり負担の掛かる物なんだな。それでもヒナは息を整えると、再び俺に魔法を
掛けてくれる。
「宿の中でも、部屋に入るまではその姿の方が良いだろう。移動中は、悪いが手袋も付けてもらう」
「わかった」
俺の手が、再び黒く染まってゆく。このおかげで、俺は顔を隠す必要も無くなった。もっと早くできていればと思ったけれど。目の前のヒナの様子を見ると、そういう訳にはいかない様だった。やっぱり、辛そうで。それでも
何度か呼吸を整えると、ヒナは何事も無かったかの様な顔をして。俺を連れて、宿を取ってくれた。部屋を預かって、二人揃ってそこへ治まると。再びヒナが盛大に呼吸を。喘いで、その内に俺の身体が銀へと戻ってゆく。
「ヒナ」
倒れそうになっているその身体を、俺は思わず支えようとして。俺まで倒れそうになる。身長は同じぐらいだというのに。ヒナの筋肉に覆われた身体を、俺は上手く支える事もできそうにない。体重も、大分違うんだろうな。
ヒナの身体を支えて、少しずつ移動をしてから。俺はベッドへと、その身体を落とす。ごめん。重くて、ゆっくり置く事ができませんでした。それでもヒナはそれを気にする様子もなく、仰向けになると、激しく呼吸を
繰り返して。逞しい胸を、何度も上下させていた。
「ごめんね、ヒナ。……でも、ありがとう」
俺がベッドの横で跪いて、その手を取ると。ようやく落ち着いてきたヒナが、僅かに頷いて。けれど、やっぱり無理をしていたのか。そのまま眠ってしまう。無防備な寝顔を晒しているヒナの乱れた鬣を、俺は手で
梳いてから。隣のベッドに横になる。馬に揺られていただけの癖に、疲れの溜まっている自分が、なんとなく情けなくて。それでも襲ってくる眠気には敵わなくて。俺は眠ったままのヒナを見つめたまま、
自分もその内に眠りに落ちていった。
気怠さに包まれて、俺はゆっくりと目を開いた。部屋の中は、暗くて。窓から、外の闇の中に浮かぶ月明かりだけが、薄っすらと射しているだけで。
それが、なんとなく。あの時の事を俺に思い出させてしまう。あの日の、あの夜を。その中で起きた出来事を。
けれど、俺はもう動じなかった。辛い事が、沢山あったけれど。それと同じぐらい、あの日々は楽しかった。最初は、嫌で嫌で堪らないと。どうしたらいいのだろうかと。そう思っていたのに。そう考えると、笑みも
浮かんでくる。いつの間にか、こんなにもこの世界に順応していたんだな、俺は。あの日から、一月以上が過ぎて。ようやく俺は、そう考えて前を向ける様になっていた。一番大きいのは、カハルが俺を諭してくれたから
だろうけれど。そのカハルとも、ほとんど会話もできずに、また離れてしまった。
この世界は、不思議な物だと思う。いや、元の俺の世界と、あまりにも何もかもが違うから。俺がそう感じるだけなんだけど。学校へ行って、友達を作って。卒業をしたら、働いて。あとは家と勤務先の行き来が基本で。
それが、悪い訳ではなくて。ただ、一つの形が出来上がってしまったら。そこにはもう、新しい物が入る余地が無くて。そんな日々の繰り返しで。そういう生き方が当たり前で。それ以外の生き方は、基本的には
ありえなくて。普通に生きている人には、まず許されはしない事で。でも、この世界に現れた、今の俺の境遇はそうじゃないんだなって、そう思う。この世界に現れて、俺はまだ一年も経っていないというのに。元の世界
だったら、数年以上は経過しているんじゃないかってくらいに、色んな人と出会った。出会うだけではなくて、別れもあって。最初に出会った人と、いつまでも一緒に居る訳でもない。勿論、この世界でそういう生き方が
できない訳じゃないけれど。今の俺の、ゼオロとしての生き方は。自分の隣に居る人でさえ、いつも違っていて。それがなんとなく不安で、なんとなく新鮮で。なんとなく、面白いのだった。例えそのせいで、悲しい別れを、
幾度となく繰り返していても。どの別れを手に取り上げても、仲違いした訳じゃなくて。もっと一緒に居たかったよって、言える物だったから。
だから今俺が目覚めて。そして視線の先で、静かにベッドに座って俺に背を向けている獅族を見て、俺はまた、考えてしまう。この人との別れもいつかは来るだろうけれど。その時に、俺は何を、考えているのかなって。
それを見つめながら。俺はゆっくりと、起き上がる。そうすると、ヒナも俺に気づいたのか、振り返った。束の間、無言で見つめ合う。
「ヒナ。もう、大丈夫?」
「ああ。情けないところを見せた」
「そんな事、ないと思うけれど。私は魔法はまったく扱えないから、ヒナの苦労もわからないし」
「魔法の手助けはできるのに、不思議な奴だな」
そう言われて、俺は薄く笑う。俺の妄想力の強さは、ヒナの魔法にも作用する様で。野宿する時に、ヒナが火を点けようとした時に、俺はまたやらかしてしまったのだった。ファウナックでの生活は、そんな物とはあまりにも
無縁だったから。すっかり油断しきっていた。俺の知らない所で、俺に供される物が用意されて。椅子に座っている俺の前に運ばれてくるだけのあの頃とは、何もかもが違うのだという事に、いい加減に慣れなければ。
火に対する恐怖は、ある程度克服できたけれど。それでも俺の心は、見た物を強く意識してしまう様で。ヒナの掌に現れた炎も、ヒナの意思を無視して成長してしまって。俺は慌てて、ヒナに謝ったのを憶えている。ヒナは
あまりそれに対して反応を示した様でもなかったけれど、やっぱりきちんと憶えていたみたいだった。
今更だけど。ヒナはその見た目に反して、魔法も得意だった。しっかりと鍛え上げられた身体は、身のこなしも素早いのに。その上魔法をきちんと扱えて。それどころか、今日は俺の危機を救ってくれさえもした。
「今日は、ありがとう。ヒナのおかげで、どうにかミサナトから、きちんと出る事ができたよ。ヒナを選んで、良かった」
「旅は、このままで良いのか」
「うん。北東へ。あんまり、当てはないんだけどね。せっかくだから、自分が嫌な顔をされない所へ行こうかなって」
ラヴーワの南は駄目だから、北側。北側というと、南を省いた八族が。犬族、牛族、獅族、虎族の領地がある。犬族は北西の方で、牛族はその隣にあるので。俺の行先は、やっぱり北東になりそうだった。狼族と犬族も、
やっぱりあまり仲が良い訳ではない。それは狼族が、犬族と一緒にされるのを嫌がっているせいで、一方的に距離を置こうとしているからで、犬族自体は穏やかな気質であるそうだけど。実際、ハンスもそうだったし。
ただ、その犬族に接するのが、ただの狼族ではなくて。俺の様な銀狼となると。やっぱりちょっと、難しいのかなって思ってしまう。態々犬族の領に入ってまでは。
「そうか。俺は、どこでも構わないがな。金を貰った分、働くだけだ」
「そうだね。私の手持ちも、そこまで多い訳ではないけれど」
元々の手持ちと、ファウナックで少し頂いた分があって。ヒナを雇うのに、それは半分以上も使ってしまった。とはいえ今の時点で、ヒナは充分に働いてくれているけれど。怪しまれる事もなく、無事にミサナトから。ラヴーワの
中央から脱出できたというだけで、満点を上げても良いくらいだろう。
「なら、今の内に聞いておくか。ゼオロ。お前は、何者なんだ」
不意に、ヒナは核心を突いてくる。ベッドから起き上がり、俺の前へとやってきて。俺は少し顔を上げて、ヒナと目を合わせる。
「ただの、銀狼だけど」
「嘘が下手だな。大して俺の事を見定める事もせずに、ミサナトで雇ってしまった。俺は、お前がそんなに軽率な奴だとは思えない。そうするだけの理由があったんだろう。それに、今日の事もある。お前はあの時、
少しばかり、怯え過ぎた」
僅かな間、俺はどうしたものかと、考えを巡らせる。けれど、早々にはぐらかす事を諦めた。ヒナの黒い瞳は、確信に満ちていて。俺の嘘を見透かして。俺の正体を暴くかの様に、炯々と輝いていたから。
「正直に言った方が、良いんだろうね。今ヒナに見捨てられてしまったら。私は何もできそうにないし」
結局のところ、行き着くのはそこだった。ここはもう、ミサナトでも、ファウナックでもない。俺の知っている、この世界の全ての人物を浮かべても。その誰一人として、目の前のヒナを除いては、決してここには現れない
だろう。いや、もしかしたらアララブだったらそんな事もあるかも知れないけれど。でも、俺の事を助ける事はできないって、確か言っていたしな。
今ヒナに見捨てられては。俺は本当に、なんの当ても無くなってしまう。こんな街道の途中にある宿で、たった一人になった俺にできる事なんて、何もない。残っているのは、この銀の身体だけなのだから。
「お前が、あの調査団の奴らが捜している相手なのか」
ヒナの眼が、食い入る様に俺を見つめている。言葉の落ち着きとは裏腹に。ヒナが俺に注目している事が、よくわかる。
「……そう言っても、良いのかな。私と、それからあと一人らしいけれど。そっちは知らない」
「異世界人を捜しているんだったな。ゼオロ、お前は別の場所から来たのか」
「そんな話、信じられると思う?」
「俺は、信じない。普段だったらな。だが、お前を見ていると、なんとなくそんな気分になるのはわかる。お前は、ふわふわしているからな」
「毛並みはそんな感じじゃないと思うけど」
「そういう意味じゃない。わかるだろう」
わかるけど。ふわふわしているっていうか。浮世離れしている、と言いたいのだろうな。元々、人間関係に疲れて冷めた部分もあった俺だから。どことなく、そういう雰囲気があるのだろうな。ここに来て、色んな人と
出会って。ほんの少し、それは改善されたけれど。ヒナとはまだ、仲良くなったとも言い難くて。だから俺も、自分の考えに耽る事も多かったから。
「ヒナ。信じてもらえるのか、わからないけれど。正直に言うね。私は、別の世界から来たよ。私のこの身体も、本当は私の物じゃない。私はこの世界には居ない種族の外見をしていたからね」
自らの正体を明かしながら。俺は少し、不思議な気分に陥る。こんな風に、自分について語るなんて、変だなって。でも、具体的にどこどこに住んでいた。これこれこういう人間でしたと言っても、それはそれで、
伝わらないだろうし。そもそも人間ってなんだよって言われたし、クロイスに。見た目も中身もある程度チャラチャラしてるけれど、それでも軍師として、学ぶべきところはきちんと修めたクロイスが知らないのなら、
人間という存在は、恐らくこの世界には居ないのだろう。或いは、存在しないからこそ。この世界に現れる時に俺の姿もまた、書き変えられる様にして、今の様になったのかも知れなかった。
ヒナは、黙って俺の言葉を聞いていた。俺は続けて、ある程度自分の身の上を話す。まさか、こんな街道の途中の、宿の一室でこんな話をする事になるとは思っていなかった。それから。話していると、やっぱり
俺の中には、あの赤狼の影がちらついてしまう。結局俺は、ハゼンの事を、最期まで騙し続けていたんだなって。今、素直にヒナに自分の事を打ち明けてしまっているのは、それもあるのかも知れなかった。俺ももう、
自分の秘密を、自分の物だけにする事に、疲れてしまっていたのかも知れない。どれだけ、誰かと、どこまで。親しくなれたとしても。自分の正体を伏せたままというのは、苦しかった。本当の自分ではない部分を、相手が
見込んで傍に居てくれたのだから、尚更だった。信じられれば、信じられる程に、根底から俺は相手を騙しているのだった。もっともあの赤い狼に関しては、騙した反面騙されてもいたので、お互いさまという気もするが。
これを、ハゼンに伝えたかった。今更そう思ってしまう。そうしたら、ハゼンは。やっぱり俺から離れていったのだろうか。けれど、今はそうではない気もしてしまう。ハゼンの目的を知ってしまったから。ハゼンの目的と
照らし合わせたら、結局のところ、俺が真に銀狼でなくても良いのだから。ガルマに近づく口実となれば、それで。そして俺は、俺の都合で。見事にファウナックに居る全ての人を欺いた。ハゼンの事すら。それが、ハゼンの
目的に沿う結果になってしまったのは、皮肉だったとしか言い様がないけれど。
俺が知りたいのは、それを聞いたハゼンが。俺に、どんな態度を。どんな顔を見せてくれるのかという事だった。今はもう、何もかも遅いけれど。
自分の事を口にしながら、心ここにあらずといった風で。それでも俺は、やがてはヒナに伝え終える。ファウナックの事などは、伏せたけれど。俺の手元にあるエンブレムの事も、そうだ。あくまで俺は別の世界から
やってきたという事だけを口にして、この世界に来てからのあれやこれやは、伏せている。また秘密が、増えてしまうのだろうか。
「話は、よくわかった」
俺が話し終えたと知ると。ヒナは、ただそれだけを口にして、頷いていた。俺はそれをじっと見つめる。
「それで、どうするの。私を、調査団へ突き出す? 謝礼くらいは貰えるかも知れないね」
「そんな事はしないし、俺には興味が無い」
「興味が無い」
意外な言葉だと思った。だったら、どうして俺の事を問い詰めたのだろう。てっきりヒナも、異世界からの客人に、興味があるのかと思っていた。魔法もある程度は使いこなせる様だから、まったく理解できない事柄とは
言えないだろうし。
「俺は、ただ。お前の隠し事を知りたかっただけだ。依頼人に欺かれているというのは、傭兵にとっては不安の種でしかないからな。お前が望むのなら、明日からも、俺はお前の護衛のままだ」
「それは、願ってもない話だけれど。今言った様に、そういう理由で私は狙われていて。ミサナトから出なくちゃいけなかったし。その上で、秘密を秘密のままにしないと、今のところは生きていけそうにないし」
或いは、秘密を明かしても大丈夫な程に力を付けるか、なのだけれど。当然、そんな力は俺には無いも同然だった。そもそも国を挙げての調査団が組まれたというのに、それに個人の力でどうこうという訳には、到底
いかないだろう。それができるとしたら、それこそ竜族の様な元から強い存在に生まれて。それでいて、更にその中でも抜きんでた才能を持っているしかないのかも知れない。新星の様に現れたという、ガーデルの
後任の筆頭魔剣士の様に。
あとは。もしかしたら、ランデュスに行けば良いのかな、とも思う。ラヴーワでは、異世界人をこうして求めているけれど。ランデュスではどうなのかはわからないし。ただ、戦争の切っ掛けや領土の問題も考えると、
それは望み薄と言わざるを得ないだろうな。それに、俺がランデュスに行ったら。それこそ隠れようがない。あそこは、竜の国。竜だけの国なのだから。ガルマ・ギルスを思い起こす様な銀狼が居る、なんて噂にでも
なってしまったら。まず確実に逃れる事はできないだろう。エンブレムも持っているし。人質にでも使われかねない。そういえばこのエンブレム、結局ミサナトで困っていた時には使わなかったな。ミサナトでは、狼族は
居ても、力のある狼族は居なかったからだけど。なんといってもあそこは、スケアルガの根城の様な物だし。そんな所でガルマから直接手渡されたこれを使ったら、目立つだろう。それに、使い過ぎるとガルマにも
知られてしまうかも知れない。やっぱりこのエンブレムは、本当に必要になった時に使える様に、取っておくべきなんだろうな。
「お前がそう言うのなら。俺はお前の、護衛のままだ」
千々に乱れる俺の心を正気に戻そうとするかの様に、ヒナの短く、まっすぐな言葉が聞こえた。俺はそれを聞いて、思わず笑ってしまう。
「ヒナって、不思議だね」
「お前にだけは言われたくない」
「そうかも知れないけれど」
「どうして、そう思う」
「だって。そんなの、傭兵らしくない。私はあんまり、傭兵について詳しくは知らないけれど。でも、傭兵はお金の匂いに敏感なんでしょ。少なくとも私のこの身体と、それから。異世界人であるという事実は。どちらも
簡単に大金に代わる物ではあると思うけれど」
自惚れた言い方かも知れないけれど。しかし俺という存在には、価値がある。異世界人としての価値。そしてこの身体、銀狼としての価値。その二つが俺を縛り付けて、一つの所に留まる事すら良しとはさせてくれない
のには、それだけの価値があるからだった。もっとも俺はその価値の恩恵に預かれはしないけれど。銀狼として評価されるには、異世界人という事実はきっと邪魔になる。異世界人として身売り、もしくは相手の劣情を
刺激するためだけの銀狼では、少なくともそんな事俺はしたくないと思ってしまうし。だからこそヒナの様な傭兵が事実を知って尚、今までの様にただ俺の護衛をするというのは、不思議な事だった。例え今からヒナが
態度を変えて、俺を縛り付けて、どこかに売りに行くかも知れないとしても。俺はそれでもヒナに縋るしかない状況で。だからヒナとしては、もっと強く出たって少しも不思議でも、やり過ぎでもないのに。
「確かに、金は必要だ。でも俺は、金持ちにはなりたくない。俺はただ、強くなりたいだけだ」
「もう、そんなに強いのに?」
街道を進んでいると。どうしても時折、人気の無い所で野盗紛いの男に襲われたりもする。特に、宿を取った翌日はそうだった。この宿では俺は正体を隠しているけれど、道中は銀のままだったから。どこで目を
付けたのか、次の日になると、狙われる事もあって。幸いな事に、それ程の人数という訳ではなかったけれど、それでも数人は居て。そしてヒナは、それらを簡単に往なして、片付けてしまう事ができるくらいには強いの
だった。流石、傭兵だ。正直初めて野盗に狙われた時は、ここでもう旅も終わりかと思った物だけど。ヒナはナイフを器用に扱い、素早い身のこなしで攻撃をする事もできれば、魔法で遠くの物を撃ち抜く事もできるので、
その辺に居る野盗などではまず歯が立たなかった。結局のところ、そういう状態に自ら陥ってしまう様な人種というのは。よっぽど誰かと居る事に馴染めない等の理由が無い限りは、一人で正面きって何かをする
力を持たない事が多くて。そしてそれと比べると、この若さで傭兵としてきちんと生き抜いているだろうヒナには、まったく敵う道理がなかった。実際、俺がぼーっと見ている前で、ヒナはさっさと野盗をぶっ飛ばして
しまって。そのまま息の根まで止めようとするから、それは可哀想だと俺が止めた事も何度かあった。
なんとなく、そういうのを見ると。世界観が違うな、なんて思ってしまう。ファウナックで一人、赤狼を殺めてしまった事もあったのに。本当に、自分に危害を加えてくる者を始末するのは、当たり前なんだなって。正当防衛
は元の世界でも充分に認められてはいたけれど。それと、実際の気分は違うのだし。
そんな訳で。俺はヒナの強さは充分信用していた。だから、これ以上強くなろうとするヒナの発言にも思わず目を丸くしてしまう。
「こんなのは、強いとは言わない。俺は、もっと。もっと、強くならないといけないんだ」
「どうして?」
好奇心に駆られて、訊いてみる。少なくとも、この腕前なら。自分の口を糊するなんて事は容易くて。もっと良い暮らしもできるだろう。それでも、お金よりも強さを求めようとするヒナの姿勢。今はそれが有り難いけれど。俺の
事情を知って、俺に手を出すというまではいかなくても。金はもう少し欲しいと言われても、まあそうだろうなと俺は思うし。ヒナは、そういうつもりも無い様だった。
訊ねられて、ヒナは僅かに迷う様に視線を彷徨わせていた。薄暗い、月明かりだけの部屋で、その表情は上手くは見て取れないけれど。それでも、その顔を覆う雄々しい獅族の鬣の動きは、首の動きをよくよく
知らせてくれる。
「俺は、強くなって。もっと強くなって、役に立ちたい人が居るんだ」
しばらくの間を置いてから、おずおずと、そうヒナが続ける。それを聞いて、俺はまた笑ってしまう。ヒナが瞳を鋭くした。
「そんなにおかしいのか」
「おかしいというか……。凄い事だと思って。誰かの役に立ちたいって、そう思うだけで。今ここで、こんな風に傭兵にまでなれるなんて」
楽な暮らしぶりでは、決してないだろう。定住するそれと比べたら、毎日毎日今後の行く末に頭を悩ませる事も多いだろう、丁度、今の俺みたいに。
「強くなるために、傭兵をしているの? 強くなるだけなら、他にも方法はありそうだけど」
傭兵じゃなくて。どこかのお金持ちのお抱えになって、護衛を務めるとか。それだって危険かも知れないけれど、少なくとも寝る場所くらいは確保できるし、腕を磨くのは正統な理由として受け入れられるだろう。俺は
それを口にしてみる。すると、ヒナは首を振った。
「俺は、あの人以外に仕える気はない。お前にも、仕えるという考えでは接していない」
「それは、いいけれど。そこまで言うのなら。その人の下に、今からでも行ったらいいんじゃないの?」
「駄目なんだ。あの人は、とても強いから。今の俺なんかあの人は必要としてくれない。居るだけで、足手纏いになるだけだ」
ヒナの言う、あの人というのが。どんな人物なのかはわからなかったけれど。ヒナの言葉から察せられるその人物は、あまり良い印象を受けないなと思う。ヒナの言葉が真実ならば、ヒナはその人の事を、とても慕って
いるのだろう。それでも、そこから出てきてしまったのは。その人が、必要とはしてくれなかったのだろうかと。そんな事を、俺は考えてしまって。
「必要としてくれないって……。ヒナが強くないと、まったく相手にもしてくれないの?」
「そういう訳じゃない。ただ、俺はあの人に、恩がある。今の俺では返せないと思うから、腕を磨いているだけだ」
「もっと、別な形で何かが返せれば良いのにね。今のヒナだって、私は充分に強いと思うのに。もっと、強くならないとなんて」
そこまで、強くなれるのだろうか。ヒナの求める強さが。そしてヒナの言うあの人、が。どれだけの強さであるのかは、わからないけれど。とてつもない強さであるという事は、察せられる。それから、俺は言葉を探す様に、
ヒナをじっと見つめた。ヒナのこの言い方からして、あまりからかう様な言い方は良くないのだろう。それは、ヒナの顔を見つめれば、確信へと変わっていた。出会ってからずっと、俺の眼に映っていたヒナは。俺と少し
似て、冷めた様な目をして。そして俺以上に冷静な振る舞いをしていたけれど。今のヒナは、瞳を輝かせて、そしてここには居ないその人を求める様に、僅かに眉根を寄せては、切なそうに言葉を口にしていたから。
たったそれだけで。その顔と言葉だけで。目の前の獅族が、その口が上せている人物を、とても大切に思っている事が、手に取る様にわかってしまう。
「別の形では、駄目だ。というより、無理なんだ」
「どうして?」
「それこそ、必要とされない。他に俺が差し出せる物なんて、この身体と、命ぐらいしかない」
「そんな言い方しなくても」
と言いつつ、今の俺も大体同じだけど。カハルにこの身体を抱けと言ってしまった事を、今更の様に思い出す。大分精神的にやられていたからとはいえ、ちょっと早まり過ぎたなあれは。でも、だからこそ。ヒナの気持ちは、
俺にも理解できる事だった。恩があって、それを返したくて。けれど、自分には何も無くて。唯一差し出したそれすら、不要だと言われて。だったらどうしたら良いんだよと、叫びたくなる様な。叫びたくなるくらいに、相手は
良くしてくれたのに。自分からは何もしてあげられない事が、苦しくて。いっそ嫌って、何もしないで、放っておいてほしいと思ってしまう事とか。
「駄目なんだ。俺では。この獅族の身体では……。こんな物は、あの人を苛立たせるだけでしかないんだ。俺が弱いだけなら、まだ良かった。なのに。こんな、獅族では。せめて、あの人と同じだったら」
僅かな間、ヒナは目の前に俺が居る事すら忘れた様に。頭を抱えてぶつぶつとそう呟いた。獅族では、駄目。相手が、よっぽど獅族が嫌いなんだろうか。その胸に渦巻く苦しみが伝わってくる様だった。俺の胸の
中にも、銀狼が嫌いだったというあの姿が甦る。同時に、今は深くそれを愛おしく思う気持ちも湧いていたけれど。大嫌いな銀狼だった癖に。あんなに俺に、優しくしてしまって。優しくし続けて、さっさと居なくなって
しまって。俺だってもっと色んな事してあげたかったよ。馬鹿。
「ヒナの気持ちがあれば、私は大丈夫だと思うけどな」
目の前のヒナへと、頭を切り替える。ヒナは不安そうに、俺を見つめていた。鬣に手を突っ込んでいたから、乱れた鬣が前に掛かっていて。その合間から、黒の瞳が俺を見ている。それも、普段は見ない顔だ。旅をして、
もう十日以上経っているから、流石に表情の少ないヒナの事も、少しはわかる様にはなってきていた。そして、そんな顔を普段は見せない事も。俺はまた、思わず笑ってしまう。仏頂面だと思っていたのに、
そうじゃなかったんだな。ヒナには大切な人が居て。その人にヒナの心が、全部向いてしまっていて。だから俺に必要以上に構う余裕も、必要も無いのだろう。
なんとなく、応援したくなってくる。だって、ヒナの言うその人は、生きているのだろうから。俺はもう、何も。何一つ、できなくなってしまったけれど。俺の手の届かない所へ、相手は行ってしまったけれど。
でも、ヒナはそうじゃないから。
「強くなって、役に立ちたいって気持ちは、わかるよ。私も、そう思う事が多かった。生憎、私はヒナみたいに、強くなれもしないけれど。魔法も扱えないし」
お前で弱かったら俺はどうなるんだよって気持ちも、若干出てきてしまう。魔法は駄目、武器は一応程度に。でも膂力が無い。左腕も大分良くなってきたけれど、万全とは言い難い。日常生活に支障が無いくらいには
なってきてくれたけれど。それでも、そんな俺とヒナを比べたら。何もかもヒナの方が勝るに決まっている。ヒナの片腕一本で俺なんか軽く捻る事ができるだろう。
「お前も、そう思う事があったのか」
「うん。でも、私が役に立ちたいと思う人は、もう死んでしまったから。私はもう、何もしてあげられないんだよね」
「死んだ、か」
「余計な事を言う様だし、不吉かも知れないけれど。ヒナが思っているその人も、いつまでも生きている訳じゃないかも知れない。役に立ちたいって思って、それを実行しようと腕を磨いているヒナは、私は凄いと
思うけれど。でも、もっと別の事でも、ヒナの言うその人の役には立てないの。一緒に居て、できる事とか」
「わからない。あの人は……ただ俺を強くしようとしてくれていたから。けれど、俺は弱くて。何もできなかった」
「不憫だね」
それは、俺もだけど。
それから、ヒナはしばらくの間、考え込んでいた様だった。悪い顔をしていない事だけは確認して、俺はまた寝直す。慣れない馬の背に揺られていたから、歩いていない癖に、無駄に疲れていて。眠気が限界だった。
朝になって起き上がると。朝食をヒナが部屋に運んできてくれた様で。その顔は、昨夜の様子をどこにも滲ませない、いつも通りの仏頂面だった。そうしていると、まるで昨日の出来事は夢だったのではないかと
思ってしまう。凛々しくて、鬣もしっかりと生え揃っていて。でも、まだほんの少しだけ、子供っぽくも見える様な獅族の顔がそこにあった。
じめっとした空気が、被毛に纏わりつく。虫の声が聞こえた。夏の夜の風物詩とも言えるそれは、この涙の跡地でも変わらない様だった。
旅を続けて、俺とヒナは獅族の地へと向かっている。今は、その道中で野宿をしていた。
夏の夜。ふと、この世界に来る前も、それを感じていたなと思い出す。暗くて、でも、その暗闇の中に沢山の命があって。だから本当は怖くはなくて。怖いのは、ただ、自分と同じ人間の中の、悪意を持った人
でしかなくて。それも、ここではやっぱり変わらないんだなって。魔物も居ないしね。ここでは、人間とは言わないけれど。
それでも、前の世界の様にならないで済んでいるのは、色んな人が俺に手を差し伸べてくれたからだと思った。これでもし、この世界に現れてすぐに、奴隷商人辺りに目を付けられでもしたら。きっと俺は、ずっと、
あのままだったんだろうな。幸いそんな事はなくて。寧ろ、優しくされる事が申し訳なく思えるくらいの事が続いているけれど。色んな人が居て。色んな事を考えていて。それでも俺に親切に接してくれたから。
虫の鳴き声が、聞こえる。前の世界とは、ちょっと違う声が多かった。けれど、慣れればそれも、今までと同じ様に聞く事ができる。ただ俺の耳が、狼のそれになって。だから、よく聞こえる様になって。こんな風に、
野宿をしていると、とても煩く聞こえる事もあるけれど。それにしても、こんな風に野宿をする日が来るなんてと思ってしまう。ファウナックへの行き来で、野宿という態で、道中眠る事はあったけれど、あれは馬車の中
だったし。俺はただ、ふかふかのクッションに身を預けているだけで良かったから。だから、なんとなく不思議な気分になる。だって、野宿って。前の世界だったら、考えられなかっただろうな。ホームレスになるか、もしくは
何かのイベントの深夜組として参加するか、くらいだろうか。俺はオタクに足は突っ込んでいても、そういうイベント参加はする気力が無かったから、経験無いけれど。迷惑になるっていうし。
旅行用のマントを敷いて、その上で転がって眠るだけ。間もなく九の月に入る今は、まだまだ日中は暑くて。夜の今は丁度、過ごしやすい感じがする。夜風が心地よいし、土の匂いも、俺は好きな方だし。意外と
自分の野宿適正が高い事に、正直驚いている。まあ、他人の眼も憚らずにごろんと横になれる様な場所が、前の世界では中々無いから、というのも大きいのかも知れないけれど。トイレの事さえなければ、あとは
それほど問題はなかった。ただ、野宿続きだと。食料の問題で、野兎を捉えたりして。そのまま皮を剥いで、血を抜いて、焼いて、頂かなければならないのは。大分堪えたけれど。ヒナには、なんでそんな事が
辛いのかわからないという顔をされてしまったし。傭兵として、一人で充分に生きてゆけるヒナからしたら、俺なんて鼻で笑えるくらいだろうな。
星空が、頭上に広がっていた。夏の夜空。月はどこかへ行ってしまって、俺の眼に見えるのは、暗い夜空に瞬く星の数々だった。思わず手を伸ばす。薄暗くても、やっぱり俺の銀は存在を主張していて、我ながら
目立つなと思ってしまう。星に向かって、銀が伸びて。でも、届く事もない。
「眠れないのか」
俺の身動ぎを感じ取ったのか。少し距離を置いて横になっているヒナから、声が掛かる。
「ごめん。起こしちゃったかな」
「気にするな。それに、深く眠っては外敵の存在に気づけない。どの道、浅く眠っているだけだ」
よくそれで身体が持つな。というか、浅く眠ろうとして、実際に浅く眠り続けるなんて事を実行できるのが、俺からすると大分とんでもないなって思ってしまうけれど。
獅族のヒナとの旅は、ミサナトを抜けてからは順調だった。道なりに進むだけで、特に障害に遭う事もなく。ただ俺が旅慣れている訳ではないから、その点ではヒナに大分迷惑を掛けてしまっているけれど。それでも
ヒナは、それを含めて俺の面倒を見る事を決めたのだからと、文句を言ったりはしてこない。宿がある時は、きちんと取ってくれるし。ただ、いまだに宿を取る時に被毛を染めてくれるから、その度に少しヒナには負担が
掛かっているのが、気になるけれど。
「お前がただの銀狼で。ミサナトの騒動と関係が無いなら。こんな事はしなかっただろうが」
そう言われると、俺は丁寧に礼をして、ヒナの好意を受けるしかなかった。獅族領に入ったら、こんな事も終わるといいのだけど。
「眠れない訳じゃないけれど……空が、気になって」
「何か、おかしいのか」
「おかしいっていうか……空が、広いなぁって」
「意味がわからないな」
ヒナにつっけんどんに言われて、俺は思わず笑ってしまう。空が広い。確かにこの世界では、そんな感想はあんまり抱かないよな。ビルに囲まれた場所から見る空と、街道の途中、道から少し外れた草の上で、
寝っ転がって見ている空が、全然違うんだよって言っても。
「お前の元居た世界の空は、狭いのか」
それでもヒナは、その内に俺の言葉の意味をある程度理解したのか。そう訊ねてくれる。それがなんとなく、嬉しく感じる。
「高い建物が、多かったんだよね。なんというか、そう……塔。塔が一杯あるんだよ。細長い塔がね」
ビルをなんと形容したらいいのか、思わず詰まって。俺はどうにか伝わりそうな言葉で、伝えようと試みる。意味合いとしては同じはずだけど、元の世界でビルを見て、塔がある、とは普段は言わないよなと、ちょっと
苦笑いする。なんとかタワーとかは言うけど。
「家から出て、仕事に行くとね。塔に囲まれてばかりで。木々なんて、申し訳程度のお飾りであるくらいで。高い塔ばかりなんだよ。だから、空がとても狭く感じる。きっと、今の半分も見えない」
「想像しづらいな。そんなに空が狭く感じる程に、高い建物というのは」
「そういえば、この世界だと。高い建物って見ないね。あんまり」
建築技術などを考慮しても、そういう水準に達していないのかも知れないけれど。こういう世界だったら、誰が建てたのかもわからない、神の所業による、世界一高い天に届く塔とか、あっても良さそうだけど。
そんなの無かった。
俺がそれを口にすると、ヒナが僅かに頷いたのか。横眼で見ていた鬣が揺れていた。
「結界があるからな」
「ああ、そうだった。弾かれてしまうんだね、高いと」
「そこまで高く造り上げられるかは、俺にはわからないが。ただ、結界があるから。必要以上に高い建物を造るべきではないという意見は多いな。人に依るが、あの結界は壊してはならない物、触れてはならない物だと
主張する連中も居るからな」
「そうなんだ。確かに、結界の外に何があるのかなんて、わからないもんね」
今までこの世界で生きていて意識した事はなかったけれど。そういえば結界に囲まれているのだったな、ここは。元の世界であった様な、世界一高いビルを建てる、とか競ったら。結界にぶつかって終了してしまいそうだ。
「でも。あの結界が無ければ、戦争も無かったかも知れないのにね。絶対とまでは、言えないけれど。最近はまた物騒な雰囲気になったっていうし、心配だな」
「ランデュスの筆頭魔剣士が、爬族を打ち破ってからだな」
「私はそれ、あまり詳しくはないのだけど。爬族の反乱があったんだよね?」
反乱って言うのも、ちょっと違うと思うけれど。爬族は別に、竜族と一体とまではいかないのだし。実際ランデュスにも中々住まわせてもらえないらしいし。
「ああ。筆頭魔剣士であるヤシュバが、名指しで誹謗された事で自ら出向いて、嫌竜派の爬族を悉く殺したんだ」
「嫌な話だね。もう少し、話し合いでもすればいいのに。確か、その補佐をする人も、あんまり良い噂は聞かないんだよね」
クロイスが言っていた気がする。物凄い性悪だとかなんだとか。まあ、立場的にスケアルガは、先の戦で筆頭補佐に煮え湯を飲まされ続けた立場だから、良い印象を抱いている訳がないのだけど。それにしても、
その筆頭補佐が性悪なのに、ガーデルと取って代わって筆頭魔剣士になったっていうヤシュバも似た様な性格をしているのなら。確かにクロイスの懸念は現実の物になりそうだな。実際に、爬族がこういう形になっている
訳だし。ガーデルは、そんな感じではなかったのにな。といっても、ガーデルと話したのは、ファウナックの外で、たった一度。暗がりの中でだけだから。俺がガーデルの全てを知っているとは、到底言えないけれど。少し
話した限りでは、決して悪い人物には思えなかったとはいえ。それでも先の戦争で、筆頭魔剣士の座に就いていたのは、あの赤い竜だったんだよな。今更だけど、全然そんな感じはしなかったな。単に武人肌である
というのは、頷けるけれど。そういえば、ガーデルの事はクロイスも評価していた気がする。実直な人だと。
「……だが、爬族にも問題はあった。親竜派と嫌竜派で別れて、そのままずるずると過ごしていたからな。自業自得だ」
「そうかも知れないけれど。でも、そんなに殺し尽くすのは、ちょっとな。私の考え方が、甘いのだろうけれど」
そうなる前に、もっと色々できなかったのかな、なんて気がしてしまう。こっちは一人の命でどうだこうだという状態なのに。別の場所では、そんなに簡単に沢山の命が、大して省みられる事もなく消えてゆくの
だから。今はまだ対岸の火事と見て、こんな風に口にもしていられるけれど。それをしたのは、ランデュスの。敵国の、筆頭魔剣士なんだよな。その手がラヴーワに伸びる時も、いつか来るのだろう。到底、話し合いの
できる様な相手とは思えないけれど。竜族にとって、爬族は見下す対象だから、そんな風にできるのかも知れないな。
そこまで考えて。俺はふと銀狼と、赤狼の事を思い出してしまう。こっちも、そんなに変わらないのかなって、少し自嘲気味に笑ってしまう。赤狼の風当たりがとても強いのは、沢山見てしまったから。もっとも、赤狼が
全面的に被害者とまでは言えないのは、その気性の荒さからも、わかってはいるけれど。でも、だからといって。今回の爬族の様な事は、起こってほしくはないな、やっぱり。あちらは竜族と爬族の問題だけど、こちらは、
例え色が違っていても、同じ狼族なのだから。こんな事を、銀狼の俺が口にしたら、きっと双方から嫌な顔をされてしまいそうだけれど。
「戦争になるのかな」
「それはまだわからないな。けれど、俺にもわかる事があるのなら。戦の匂いがするという事だけだ」
「匂い、か。傭兵の勘って奴だね」
「国境付近はかなりピリピリしているし、緩衝地帯も、そこに住む少数部族はかなり警戒しているからな。爬族があんな事になったんだから、当たり前だが」
「そんな所まで、ヒナは足を運んだの」
ヒナの言葉よりも。そっちの方が気になって、俺は驚いてしまう。
「傭兵だからな」
そんな簡単に、片付けてしまっていいのだろうか。俺と。ゼオロとしての俺と、そこまで歳が離れている訳ではないというのに。
「苦労してるんだね」
「お前には、負けると思うが」
「そうかな。私、こっちの世界の方が好きだから。そんなに苦労したって気分じゃないよ」
本を読んで、ずっと憧れていた魔法は見られたし。使えないけれど。それから、動物は好きだから。色んな動物が、というか動物顔が見られるのは、楽しいし。不便さは不便さで、心地良い部分もある。勿論、ここに来た
ばかりの頃は。その不便さが苛立ちになったりする事も多かったけれど。でも、便利過ぎるからこそ味わえない物が、ここでは味わえもする。外を歩く事も、楽しいと思えた。俺が直接出向いて、俺の足で歩いて、俺の眼で
見なければ、全てはわからないのだから。画面越しに見たんだからと、知らない様な、知っている様な、よくわからないふわふわとした知識を得て。中途半端に知識欲を満たす様な事もない。一つの街に留まって、
安らかに生活を送っている訳じゃないから、尚更だ。俺が見て、聞いた物が知識になって。直接触れたからこそ、そこに生きている人の気持ちも、よくよく理解できて、知る事ができて。だからこそ、そんな人達のために
自分のできる事をしたいと、ほんの少しだけ思える様になれたのだから。もっとも、それで実際に何ができたかというと、まだまだとしか言い様がないけれど。
「ヒナは、戦争がまた始まったら。やっぱり、戦争に参加するの?」
傭兵なら、やっぱりそうするのかなと思って、俺は訊ねてみる。戦争。それも、知らない事だ。目の前でそれが繰り広げられている場所へ、俺もいつか足を運ぶ事があるのだろうか。
「そのつもりだ。その時こそ俺は、今まで腕を磨いた分、それを活かしたい」
「ヒナが好きな人も、戦争に行くの? それとも、巻き込まれやすい様な場所に居るのかな」
相槌を打つように、俺はそう言ったけれど。途端に、ヒナは押し黙ってしまう。俺は思わず身を起こして、ヒナへと視線を向けると。ヒナも、俺を見つめていた。
「……どうしたの? ヒナ」
「好き……? いや、それは。違うと、思っているが」
「好きじゃ、ないの? その人の事。嫌いなの?」
「……わからない。そんな風に、考えた事がなかった」
意外過ぎるその言葉に、俺は少し笑ってしまう。ヒナが気分を悪くした様に、瞳を鋭くする。薄暗い闇に包まれたこの世界でも。その瞳の黒は周りとは違っていて。睨まれると、俺は思わず怯んでしまいそうになる。
「だって。その人の役に立ちたいって思って。今こうして、頑張って腕を磨いているんでしょ。それに、戦争が起きたら。その人が身が危なくなりそうだから。ヒナは、その人を守るために行くんでしょ。そんな人の事を、
好きなのは当たり前の事なんじゃないの」
「俺は。あの人に受けた恩を、返したいだけだ」
本当に、それだけなのかと口にしてしまいそうになって、俺は思わず口を噤む。自分を鍛える事に直向きなヒナは、自分の気持ちには無頓着みたいで。ここで俺がどうこう言っても、納得してくれそうにない空気を
纏っていた。ある意味天然なのかも知れない。
「そっか。それじゃ、ヒナともあまり、長くは居られないのかもね」
大々的に戦とはならなくても、小競り合い程度なら発生しそうな空気に既になっている。今はそれが、まだ両者とも相手に直接向かってはいないだけだ。ランデュスは既に、爬族に手を掛けて。そのせいで、周囲は
色めき立っている。その時が来たら。ヒナとも、お別れになるのだろうな。いつか別れが来るのはわかっていたけれど。ヒナは、傭兵なのだし。それが来るより先に、俺の金銭が尽きてお別れしそうな予感もしている
けれど。それでも、こんな風に俺の正体を口にして、尚気安く会話が交わせる相手が居なくなってしまうのは。やっぱり寂しいなと思ってしまう。
「あの結界が、無ければいいのにね。そうすれば、こんな風に戦う理由なんて無くなるのに」
勿論結界の外がどうなっているのかなんて、わからないけれど。
「ゼオロ。お前は、あれを壊す事はできないのか」
「壊す? ……そんな、無理に決まってるでしょ。私は魔法も何も、使えたもんじゃないし。力だって無いのに」
ヒナの突然の言葉に、俺は目を丸くしてしまう。結界を壊す。そんな事が、簡単にできるとは思えなかった。それができるのなら、とうの昔に、誰かが壊してくれているはずだ。今も尚、この涙の跡地を包み込む結界が存在
しているからには。結界を破ろうとした計画も、野望も、全ては潰えていると考えるのが妥当だろう。実際、俺が今まで出会ってきた中で、あの結界を忌々しいと口にする人は居たけれど、それをどうにかできるとは
思っている人はいなかったし。それはクロイスも同じだった。俺が異世界人である事から、何か方法はないかと口にしたくらいで。けれども俺の事を考えて、それ以上の事は、何もしようとはしなかったのだった。
「それに。あの結界を壊すのって、二人の使者なんでしょ?」
「ユラの託宣、か」
「そう。それ」
預言者と言われる魔道士のユラが告げた、白と黒の使者が現れて、いずれは結界を壊してくれるという伝説。ファウナックで本を読み漁っている時も、いくつかそれについての本があったはずだ。ただ、結局伝説は伝説、
という扱いになっていたけれど。そもそも託宣だの偉そうに言ったところで、表現が曖昧過ぎてよくわからないし。なんだよ白と黒って。何をもって白と黒なんだよ。見た目なんだろうか。でもそれはそれで、別にどっちの色も、
そんなに珍しい訳じゃないし。様々な色の被毛があるし、竜族も竜族で、やっぱり色があるらしいし。だからこそ、白と黒は縁起が良い、なんて言われる事もあるそうだけど。黒は縁起が悪いって印象が俺は強いけれど、
託宣のおかげなんだよな。
「あんなのは、迷信だろう」
「それは否定しないけど。ずっと昔の物みたいだしね。いつかその使者が現れるから、使者でもなんでもない自分達は、何もしなくていい。そんな風にも、なりかねないだろうし」
「来ない迎えを、期待しても仕方ないか」
「そうだね。本当に、そう。現実的にならないと」
「だが、お前は外から来たのだろう。ここではない世界から。だったら、やっぱりお前は、何かしらの事ができるんじゃないのか。だからこの間も、結界の一部が壊れたそうだし」
「え? 壊れたの? いつの話?」
また驚いて、俺は訊ねてしまう。結界が、壊れた。そんなあっさり壊れる事があるのだろうか。今までずっと、どうする事もできなかったというのに。俺の視線に、ヒナは僅かに首を傾げる。
「いつも、何も。お前が丁度、この涙の跡地に来た辺りの話だ」
「私が来た頃……? ああ、そういえば。結界に揺らぎが生じたって話なら、私は聞いたけれど。それの事?」
「俺は、結界の一部が壊れたと聞いたが」
ヒナの顔をまっすぐに見つめる。嘘は吐いていない様だった。情報の出所が違うのだろうか。俺は、クロイスが読んでいた新聞からそれを知ったけれど。ラヴーワの外にも居るヒナだから、そっちの方では結界が
壊れたという報せがあったのかも知れない。
「それで、その壊れた部分はどうなったの」
「元に戻ったと聞いた。そこまで大きな物ではなかったから、今までと変わらないと。俺はお前が来たから、そういう事になったのかと思った」
「ううん。私じゃないよ、多分。絶対とは、言えないけれど」
光に包まれて、こんな身体になって。俺にとってのこの世界の始まりは、そうだった。結界をどうこうしたとか、そんな記憶はさらさら無いし、ヒナにそう言われても俺はそれを肯定する事もできない。それこそもう一人の
異世界人なんじゃないのかと思う。そういえば結局その人は、無事なんだろうか。スケアルガ学園で散々暴れてそのままどこかに行ってしまったそうだけど。
「そうか。お前が、そう言うのなら。別の事だったのかもな」
「そうだよ。それに、私が如何に戦えないか。ヒナはもう、わかっているでしょ」
「そうだな」
あ、すんなりと同意されてしまった。割と傷つく。でも、事実そうなのだから、仕方ないか。旅をする途中で、ヒナにも少し稽古をつけてもらったけれど、まったく話にならなかった。ハゼンはよくこんな俺を熱心に教えて
くれたなと思う。ヒナは相手をしてはくれるけれど、かなり退屈そうな表情を隠そうともしない。その気になれば一瞬にして俺の持つ武器なんて取り上げられてしまうのだから、仕方ないけれど。
「私もヒナみたいに、魔法が使えたら良かったな。そういえばヒナは、どこで魔法を習ったの?」
「少し教えて貰っただけで、残りは自分で必要な物を修めただけだ」
「じゃあ、野良の魔法使いなんだね。不便ではないの?」
「俺は傭兵だからな。魔法使いを名乗るつもりはない。それに、俺の魔法は小手先だけの、手品の様な物だ。攻撃にはあまり向かない」
「だから、その分身体を鍛えるんだね」
「ああ。俺に、もっと才能があれば良かったんだが……。あの人は、武器を取っても、魔法を使っても、本当に強くて。やっぱり、今の俺なんかじゃとても役に立てそうにない」
また、あの人か。それにしても、今のままで充分に強いヒナが、そう言うって事は。本当にとてつもない相手なんだな。というか、それこそそんなに強いのだから。やっぱり別な事で何かできないかを考えた方が良いのではと、
俺は思ってしまうのだけど。自分が獅族だからと、ヒナはそれ以外の方法を探そうとはしないのだろうな。その相手が、獅族の事が嫌いだと言うから。
本当に嫌いなら、ヒナが恩を感じるくらいの事をしてくれるとは、俺は思わないけれど。
「いつか夢が叶うといいね」
「夢、か」
また、ヒナが詰まる。本当に、ただ恩を受けたから返したいと。ヒナの心は思っているのだろうか。驚くくらいに、こういう所は純粋なんだな。
「……そうだな、夢だ。俺の、夢。今はまだ、見ているだけの」
「叶うと、いいね」
「叶うだろうか」
闇の中に、不安な声が響く。そうしていると、歳相応のヒナの姿が、見える様だった。
「自分の夢のために、自分が何をすれば良いのかがわかっていて。そのために努力をしているのなら。叶うと信じ続けるしか、ないんじゃないのかな」
「ああ、そうだな」
諦めなければ、とか。絶対に、とか。いい加減な言葉で飾って最後に、叶うよ、なんて言いきるのは。俺には到底できそうにない。もうなんだったのかも思い出せそうにないくらいの、小さな頃の夢も、そのままなのだから。
せめて、ただ夢見るだけではなくて、そこに手を伸ばす事ができれば、いいと思う。どこへ手を伸ばしていいのかもわからなかった俺と、ヒナは。やっぱり違うのだから。
「もう寝よう。明日も、旅は続く」
「そうだね。その次も、その次も。獅族領に入るまでは、続くんだね」
会話を終えて、眠りはじめる。また、夢を見ようとする。今の俺は、どんな夢を見て、どんな夢を抱くのだろう。今思えば、ファウナックで抱いたあの気持ちは。今の俺が抱いた夢だったのかも知れなかった。誰にも
脅かされる事のない場所で、自分の好きになった人と、ただ生きていたいと。結局それも叶う事はなくて。そうして、ファウナックでの生活も、ミサナトで再び始まるかと思ってた日々も、夢の様に醒めて、消えてしまったけれど。
俺は、どこに行くのだろう。漠然とした思いが、去来する。今ただ、逃れて。逃れ続けているだけだ。きちんとした目的地を定めた訳でもなかった。その先でもまた、何かを見て、何かをしたいと思うのだろうか。
「お前の夢も、叶うといいな」
眠りかけた頃。ヒナの言葉が、俺へと届く。俺の夢。次は、なんだろうか。何を見るのだろうか。今度夢を見たら。それを叶えるために、自分が何をしなければならないのか。きちんと見極めようと思った。何もできないまま、
その場を後にするのは、もう沢山だから。
今度は、今度こそは。そう思いながら、眠りはじめる。いつの間にか、虫の声も気にならなくなっていた。