ヨコアナ
23.独り
遠くに街並みが見える。懐かしい風景とは、思わなかった。街の外から、街を眺めるなんて。見慣れた程でもない。
それでも。その街で過ごした時間は確かに俺の中にあった。
俺が最初に、現れた街。ミサナト。
今それが、すぐそこまで迫っている。馬車に揺られてながら、俺は窓からそれを眺めていた。
ファウナックを発って、順調に馬車の旅は進んでいた。来る時とは違う。乗り物酔いも、もうしなかった。注目を集める事は、ギルス領の中ではやっぱり俺は銀狼だから、それなりには人目を引いたけれど。でも、それだけだ。
宛がわれる部屋も、一人で泊まるだけで。来る時とは全然違うんだなって思う。今思えば、あれは。俺の警戒心を解こうとしていたのかも知れない。少しでも、俺に信用されて。そして、俺を利用しようとして。
なんのために。ファウナックまで。
馬車に揺られている間、帰路を辿る間。俺の脳裏には、それが幾度となく浮かんでいた。けれど、どんなに平静さを失って、泣き崩れて。そうして一人になってしまったとしても。その状態で、数十日も静かにしていれば、
嫌でも冷静になっている自分が居た。それがまた、歯痒い様な。冷たい様な。そんな気がする。
俺の目的は、俺が銀狼であるが故に、そして胡乱な存在であるが故に、ハゼンに目を付けられてしまったが故に。ハゼンを。そして、銀狼を集めているガルマに、正体が知られぬ様にその目を欺いて。それでも、
可能ならば狼族の後ろ盾を得て、無事にファウナックから抜け出す事だった。
そう。そう思えば。俺は、上手くやったんだと思った。正体が知られる事はなく、族長などという何かの弾みで正体が知られたらとんでもない騒ぎになる事が容易に想像できて、交友関係が制限されたり、それどころか
銀の血筋を伝えるために、銀狼の女を無理矢理に抱かされる様な目に遭う立場になる事もなく。そしてガルマからは気に入られながら、俺の服のポケットに入ってる、エンブレムを。狼族に対しては、ある程度の信用が
得られるというそれを頂戴して。それは、ハゼンが使っていた物よりも効果があるもので。ギルスの象徴だから、そのエンブレムも銀色をした家紋が一番効果があるんだろうなと察せられる。そして、一番後々にまで響く、
この世界についての知識も。断片的で一方的な物が多かったけれど、得る事ができた。今の俺はもう、狼族として大手を振っていられる。怪しまれる事もない。銀狼としてやっぱりちょっと目立つし、身体を狙われる事は
あるかも知れないけれど。
それから、左腕。帰りの馬車の中でも、ガルマの館からいくつか頂戴した本を読むくらいで退屈だったから、熱心に取り組んだ結果。弱弱しいけれど、何かを握る事ができる様になってきた。軽い物なら、どうにか持ち
上げられそうで。だから、これも。もう少し。腕を動かす事を、習慣づけてもらえた成果だ。
全てが順調だった。俺は実に上手く、俺のできる限りの事をして。そして、その全てにきちんとした対処をする事ができた。暗殺されそうになったガルマの事だって、俺が出たから阻止する事ができて。そして、いつか
起こるかも知れないという可能性を根元から断つ事ができたと言ったって良い。それどころか、狼族の独立の気運も、リスワールと手を取り合う事で治める事ができた。八族を束ねる族長の内、狼族の長ガルマ・ギルスと、
兎族の長リスワール・ディーカンの二人と知り合い。そしてその二人に、気に入られる事さえできた。普通だったら、ありえない事だ。きちんとした後ろ盾とまでは言えないかも知れないけれど。それでも、花丸を貰っても
いいくらいの結果だ。ラヴーワの内部分裂を未然に防いで、そして塞ぎ込んでいたガルマを、ある程度は元気づける事だってした。
凄いじゃないか。今まで、人間の頃も含めて。生きていて、こんなに何かをして。そして成果を上げる事なんてなかった。その全てが俺の力とまでは言えない事は、わかっているけれど。けれど、俺のこの、銀の身体を
利用して、成し遂げられた事も確かにあるはずで。自惚れたっていいくらいの功績を上げたんじゃないか。俺は、上手くやったんだ。何もかも俺の力の及ぶ範囲で。上手くやれたんだ。
「上手く、やったのになぁ……」
たった一つの事だけで。どうしてこんなに、胸が詰まりそうになるのだろう。泣く事は、もうしなかった。悲しくない訳じゃない。涙が、枯れた訳でもない。ただ、どれだけ泣き続けても。死んだ人は、もう戻ってはこないのだと。
そんな事、俺はよくよくわかっていたというのに。それなのに中々吹っ切る事ができないでいたのだった。
「しっかりしないと」
もう、ミサナトが近づいている。そうしたらその中には、ハンスが居て。ヒュリカが居て。ファンネスが居て。ツガが居て。また、色んな人と会える。再会を喜ぶ事ができる。こんなに暗い顔をして戻ってはいけない。無事に
戻ってきた俺の事を、どれだけ快く迎えてくれるのかはわからないけれど。それはちょっと心配な気もする。だって一人で生きてゆく程の力を得る事は、残念ながらできなかった。そりゃ片手は相変わらず、きちんと
動く訳ではないのだし。一年すら経っていないのに、そんな完璧な人物になれという方が無理があるけれど。また、ハンスの家に厄介になろうか。クロイスが、根回しはしてくれていたそうだし。ちょっと申し訳ないけれど。
もう少しでミサナトに。馬車の生活も、もう終わる。それを振り返る。そういえば、ファウナックを発って少し経った頃に、黒猫の魔道士であるアララブが俺を訊ねてきた事を今更の様に思い出していた。泣き疲れて眠っていた
俺が、ふと目を醒ますと。相変わらず馬車はなんの異変も無かったと言いたげに走っていたというのに、俺の向かい側の、誰も居ないはずの席にはあの黒猫が居た。以前とは違って、黒いローブを纏っていて。
相変わらず襤褸を纏っている様だった事だけは、ぼんやりと憶えている。でも、あとは。何しろ俺は、ファウナックを出たばかりで。目の前に突然にアララブが現れた事すら、それほど驚く余裕すら無くて。ただアララブが色々と
俺に話しかけてくれていた事しか憶えていない。内容まではほとんど。ただ、落ち込んでいる俺を励ます様な事をよく口にしてくれていた気がする。あと、ファウナックをすぐに離れたのは良かったと、言っていた様な。
「自分が、何もできなかっただなんて思わないで。負けないで、ゼオロ」
消える間際に、アララブは確かにそう言っていた。俺はそれを聞いて、何も返さずに。またうとうとと眠っていて。次に目を醒ました時には、見慣れた、俺以外は誰も居ない馬車の光景が広がっていた。
夢だったのかな。嫌に、はっきりとした夢だったけれど。ちょっと鼻を鳴らしてみたけれど、匂いも感じられなかった。
馬車の中で起こった出来事らしい出来事といえば、その程度だった。あとは本当に、何もなくて。乗り物に酔うどころか、馬車に揺られながら読書をするスキルまで会得してしまった。そんな事を考えていると、いよいよ
馬車は目的地へと着く。数ヶ月振りのミサナト。出る時と同じ様に、門で少し待たされる。過ぎる日に、ハンス達に見送られた場所で馬車は止まって。俺は少ない荷物を持つと、馬車の扉を開いた。先に出ていた
御者の狼族が、恭しく俺の手を引いてくれる。
それに、誰かの姿を重ねながら。俺はミサナトの街へと戻る事ができたのだった。
去ってゆく馬車を、見送った。これで本当に、一人になった。
久しぶりのミサナトの街並みを、俺はじっと見つめる。既に昼は過ぎているから、人込みは多くて。行き替う人々が、俺の姿にちょっと目を向けている。やっぱり銀狼は目立つな。街を出る時よりも更に銀が良くなったのだから、
当然だ。前の時ですら、ファンネスの店で猛威を振るっていたというのに。これじゃ、ファンネスの店でまた店番をさせてもらえるか、不安だ。
懐かしいとまでは、思わない。ミサナトの街並みに慣れ親しんだとは言い難い。クロイスと一緒に歩いたのが、精々だし。それでも、故郷と言うのなら。きっとここなんだろうなと思う。馴染の無い故郷なんて、変だけど。
さて、どうしようか。とりあえず、それほど重たくはないけれど、荷物もある。ハンスを尋ねてみるしかないだろうか。その上でまた一緒に生活するのかは、もう一度話し合う必要もあるだろう。やっぱり一人で生活する方が
良いと言われたら、まったくそれまでだし。心の中では嫌がられているのに、厄介になるのは俺も嫌だし。
下町を、歩いて抜けてゆく。道を行く人々が。とくに、その中でも狼族に、やたらと注目されている気がする。ギルス領から出ている狼族は、それこそファウナックに住む狼族の様な、熱狂的にガルマを、そして銀狼を
崇拝する様な存在ではないらしいけれど。それでも銀狼というだけで、優しくしてもらえたりもする。それが効いているのかも知れなかった。じっと見つめられて、目が合った相手に微笑むと。相手の方も静かに頭を
下げてくれる。
下町を何事もなく抜けて。スケアルガ学園へ続く大階段ではなく、ハンスの家の方へ繋がる富裕層の地へ出ると。久しぶりに見る白い階段の連続にうんざりしながらも、俺は懸命に足を前へと踏み出した。規則正しい
生活をファウナックでは送っていたけれど、運動はそれほどする事はなくて。その上で、馬車に長々と揺られていたのだから尚更だ。身体がちょっと痛い。
それでも。歩いている内に、見慣れた景色が広がってきて。でも、それはいつかの記憶とは少しだけ違っていて。そういえば、背が伸びたんだなって、今更の様に思う。子供の頃に歩いていた道を、大人に
なってから歩いても。あんなに慣れ親しんで、友達とはしゃぎながら歩いた道とは思えなくなってしまう様に。ほんの少し背が伸びて。それから、一人になっただけなのに。違和感を覚えてしまう。
違和感を拭えないまま、俺は階段を上り終えて。そして、目に映る景色に、しばし茫然としてしまう。ハンスの家。そこには、確かにそれがあって。けれど、扉は開け放たれて。家の外に飾られていた観葉植物の植木鉢は、
横倒しにされたままだった。辺りに人気はなくて、そっと家の中を窺えば。中が荒れている事が、すぐにわかった。そこまで察すると、俺は長い事そこでそれを見つめてはいなかった。今は、たまたま誰も居ないだけかも
知れない。けれど、ここに居るのは良くない。咄嗟にそう判断して、俺はそのままハンスの家を後にした。
今の光景は。すぐに思い至ったのは、俺の存在が知られてしまったのかも知れないという事だった。そうでなければ、ハンスの家があんな風に荒らされている説明がつかないし、何より、人の手がしばらく及んでも
いない様だった。仮に泥棒やらの仕業だったとした場合は、とっくに片付けられているだろう。下町ならいざ知らず、ここはスケアルガ学園のすぐ近く。富裕層が住まう土地である。そんな場所で起こった通常の事件が、
長い間放置されているとは思えない。何かがあって、ここに立ち入る事を誰もが避けている。そんな感じだ。俺がファウナックを出た後に、俺の事で何か不味い事が知られてしまったのだろうか。
いや、それよりも。ハンスは、どうしたのだろう。いつもなら、この時間はまだスケアルガ学園で教鞭を取っているはずだ。けれど、こうなってしまっては。
歩きながら、俺はどこへ行こうかと思案する。とにかく今は、事情を把握しなければならない。一番事情に詳しく、そしてハンスについても知っていると思われるのは、クロイスの父親であるジョウスだろう。でも、俺は
ジョウスの家には行った事が無いから、詳しい場所がわからない。それに、ジョウスに今近づくのが、良い事なのかもわからなかった。俺は銀狼の事をよく知って。そして、スケアルガについても知ってしまった。ガルマを
散々に傷つけてしまったスケアルガの事を。だからといって、クロイスの事を嫌いになる訳ではない。クロイスは、スケアルガの血を引いているというだけで、直接的な関係は無いのだから。けれど、ジョウスは違う。ジョウス
こそが、銀狼に、そして狼族に、多大な影響を及ぼした張本人なのだった。全てを知った上で、それでもジョウスの前に出て話をする勇気は、どうしても今の俺には無かった。それに、もし俺の事が知られてしまって、そして
そのためにハンスに迷惑が掛かってしまったというのならば。当然、ジョウスは俺が異世界から来た事を、見通している可能性がある。クロイスは、その事については話してはいないと思うけれど。ジョウスもまた、自力で
その答えに辿り着いてしまう可能性があった。その上で、クロイスの様に味方で居てくれるのかが、わからない。スケアルガは元々魔導を学ぶ一族であり、それだからスケアルガ学園の経営もしていて。軍師というのは、
ただ招かれたから手を貸しただけに過ぎないのだから。やはり今ジョウスに、なんの情報も持たずに近づくのは得策とは思えなかった。
仕方なく俺はファンネスの店へと足を運ぶ。ジョウスが駄目という事は、ヒュリカも当然駄目だ。ジョウスの家に厄介になっていて、その内学園の寮に住むはずだったけれど、いずれにせよジョウスの家の場所は
わからないし、近づきたくない。そしてスケアルガ学園もそれは同じ。迂闊に近づいて良いのかがわからない。今、ヒュリカと接触する事も難しいだろう。それに、こう言ってしまっては申し訳ないけれど。ヒュリカに頼って、
助けを求めても、どうなる訳でもないだろう。ヒュリカは翼族で、言ってしまえば、なんの関係も無いのだから。それに、俺の正体を知っている訳でもない。もし、俺の事を知ってしまったら。ヒュリカも、やっぱり対応を
変えてしまうのかな。そうして、唯一残った選択肢のファンネスはというと。実はこれも、ちょっと博打の部分があるかなと思ってしまう。そもそもファンネスは爬族の身であるのだから、スケアルガの言う事など聞く立場では
ないのは確かだけど。でも表立って見せられない患者などの面倒事を担当していると言っていたし、スケアルガとの繋がり自体は持っているんだよな。だからこそ、俺がクロイスを庇って刺された時に、ファンネスが
引っ張ってこられたのだから。
そういう意味ではファンネスと会うのも、と思ってしまう。けれど、今の俺に事情をきちんと説明する事ができそうで、その中でもっとも危険性が少ないと思われるのは、ファンネスだった。そこまで考えて、俺は頭を
抱えたくなる。ミサナトを出る前は、こんな風に今から会いに行く人が大丈夫なのかどうかなんて、考える必要は無かったのに。今、そんな事を考える必要があるだなんて。
でも、今はファンネスを信じるしかなかった。それに、ファンネスは俺の正体を知っていて、それでもジョウスには伏せてくれていた人物だから。俺の事が公になっていたとしても、なんとかなるだろう。そこまで考えて、
俺はとりあえず荷物の中から、コートを。クロイスから貰った物に袖を通す。一応フードが付いてて助かった。ただ、ちょっと大きい。背が大きくなったっていっても、ほんの少し伸びたとか。その程度だしな。ちょっと匂いを
嗅いでみる。特に、何も。洗ってしまったし、時間も経ったしな。でも、今はこれが俺に勇気をくれる様な気がした。季節柄と俺の被毛を考慮するとちょっと暑いけれど、仕方ない。これと、俺の腕に付いている銀の
腕輪。それから荷物の中の、銀じゃなくて、金の方のエンブレム。銀のナイフ。初めてこの世界に現れた頃の俺は持っていなくて。俺が歩いている間に、俺の手に握られていた物。今の俺には、これだけだった。
スケアルガ学園の入口に回る事は避けて、ハンスの家からそのまま階段を下りて。大階段へ続く道を曲がる。スケアルガ学園に続く大階段。昼の今は、昼休みを満喫している学生と、それを狙った商売人と。それとは
無関係に、ただ人込みの多い場所で騒ぎたい人々でごった返していた。あちらこちらのスペースでは、床に座って愉快に昼間から飲んでいる酔漢が居たりするし。買い食いを楽しんでいる学生の姿も見える。なんとなく、
それに交ざる事ができないのが、昔の自分を思い起こさせた。今も、交ざれそうにないけれど。足早に階段を下りて、下町へ近づいた所でファンネスの店に続く小道へと入る。やがて、ファンネスの店が見えてくる。相変わらず
外観は殺風景で、ファンネスの性格を表した様な状態だ。近づいて、俺は注意深くそれを見つめた。ハンスの家の様に、なってはいないだろうか。その心配で胸が潰れてしまいそうだ。ファンネスにまで、そういった事が
及ぶとは思ってはいないけれど。けれど、俺の心配を他所に、ファンネスの店はいつも通りに開かれている様だった。俺が出ていってしまうと聞いて、確か二人で、時間のある時は店を開けると言っていた気がする。ツガを
一人で出す訳にはいかないし、かといってファンネスが一人だと客が怖がって逃げるので、二人で営業をするかと、そんな話をしていたはずだった。そして、今。店の扉が開かれて、購入した薬を大事そうに抱えた人が
丁度出てくるところだった。どうやら無事な様で、俺はほっと、溜め息を吐く。
少しだけ店の近くで、様子を窺いながら。近づいても大丈夫か悩んだ後に、俺はおずおずと、ファンネスの店の扉を開いた。
「お邪魔します」
丁度、店内には他に客が居ない様だった。そして、俺が店に飛び込むと。棚の整理をしていた、懐かしい竜の姿が見える。ツガがそこに居た。相変わらず、翡翠の輝きを持つ鱗が、薄暗い店内でも眩しく見える。ファンネスは、
カウンターの奥で何か片付けをしている様で。大丈夫な事を確認すると、俺はフードを下ろして顔を露わにする。
「いらっしゃいませー。……ああっ。ゼオロさん!」
俺を見たツガがそう叫ぶと、ファンネスも俺へと顔を向けてくる。もっとも、それよりも俺が気になったのは。俺を見て笑顔になってくれたのはいいものの、そのままツガの尻尾が振り回されて、棚がどつかれて。薬品が
いくつか倒れたり、床に落下してゆく方だったけれど。俺は咄嗟に口を開けて手を伸ばしたけれど、どうなる事もなく。虚しく薬の入った瓶が床で砕け散る。
「ツガ。お前のおやつは抜きだ」
無情な宣告がファンネスから飛んできて、ツガはがっくりと項垂れる。そんな二人の様子を見て、俺は思わず笑ってしまって。そのまま崩れ落ちかねないツガの身体を支えた。
「ああー……で、でも。ゼオロさん。戻ってきたんだね」
「はい。今、戻ってきたところで」
「そこで話し込むな。裏に来い。ツガ。店を閉めろ」
俺がツガと思わず話を続けそうになると、鋭くファンネスから注意が飛ぶ。それに少し驚きながら。けれど俺は安堵した。少なくともファンネスは俺を、別の世界から来た俺を。どこかへ突き出す気は無さそうだった。
店を閉めて、そして裏手の診療のために使っている部屋へと通される。簡易椅子に座らされた俺は、椅子に座るファンネスと、そして診療のためのベッドの上で転がっているツガ、それぞれに視線を送った。
「お久しぶりです。ファンネスさん。ツガさん」
「お久しぶり、ゼオロさん」
「その様子だと、どうやらギルス領での事は、片付いた様だな」
「はい。私の銀が珍しいという事で、ガルマ・ギルス様にも会いました。私の秘密は、特に知られなかったと思います」
ギルス領での出来事を、掻い摘んで俺は話す。とはいえ、それ程話せる内容は多くなかった。狼族の独立の事だとか。次期族長候補だったとか。そんな事を、ラヴーワの国民でもないファンネスにつらつらと語る訳にも
いかないし。ガルマは俺に口止めをする事はなかったけれど、狼族について、ギルスについて知った事の一部は、あまり軽々しく誰かに話して良い内容ではないだろう。ガルマの身体の事も、ファウナックでの発表は
あったけれど、それがギルス領の外へと伝わるのも、きっともう少しだけ掛かる事で。今の俺が口にして良い事ではなかった。
ガルマの事を思い出す。ガルマは、俺の事を次期族長として、ある程度は見込んでくれていた様だけれど。それもファウナックを出たから、もう関係無いだろう。どんな理由があれ、次期族長をガルマが選ぼうとしている
時期に、ガルマの手を振り切って出てきてしまったのだから。あとは、残された銀狼の問題だ。そういえば、クランはどうしたのかなと少し考える。もう、両親の下に戻っているといいけれど。あんなに幼くて、か弱いクラン
なのだから。俺も居なくなって、きっとまた、独りぼっちになっているのかも知れないし。
「あとは、そうですね。少しファウナックに残っていたのですけれど。やっぱり、肌に合わなくて。それで、戻ってきてしまいました」
自分で口にしていて、苦しい言い訳だなと思いながら。俺は苦笑する。ガルマ・ギルスの使いが態々迎えにきたのに、そんな簡単な話で済む訳がないのだけれど。だからといって、まさか次期族長候補として
招かれていて。ガルマと同じ館の、内郭で生活を送って。狼族の前に姿を現して名を上げて。ハゼンの凶行を止めて。俺を迎えに来てくれたあの赤狼は、もう生きてはいなくて。そして傷心の内に、引き留める手も
振り払ってファウナックを出てきてしまった、なんて事を言える訳がなかった。
「そうか。大変だった様だな」
ファンネスは俺の話の全てに納得したという仕草はしなかったけれど。ただ、そう返してくれた。そこはやっぱり、自分が爬族であるという事を。ラヴーワの民ではないという事を、よくよく弁えてくれている様だった。ツガは
俺の話を半分も聞いていないのか、さっきからうつ伏せでベッドに横になって、その美麗な、翡翠の輝きを持つ鱗を散りばめた尻尾を、獲物を狙う猫みたいにふりふりしている。
「私からも、お訊ねしてよろしいでしょうか。先程、ハンスさんの家に行ったのですが……」
「ハンスの家に行ったのか。よく、無事だったな」
「そう言われるという事は。やっぱり……」
「ああ。別の世界からの珍客が出たと。お前がミサナトを出てすぐの事だ。その場に居なくて良かったな」
「そんな……。私のせいで、ハンスさんは」
「いや、それは違う」
「え?」
突然の否定に、俺は首を傾げてファンネスを見つめる。ファンネスはどう話したものかと、少し思案する様で。顎に手を掛けてから、長い灰色の蜥蜴の尻尾を波打たせていた。
「私はその場に居た訳ではないし、その上で爬族。つまり、ラヴーワの国民ではない。故に、あまりこの件に関して詳しい情報を得た訳ではないのだが。それでも、わかる事はある。どうも、此度の件。その、例の異世界
からの珍客というのは、お前の事を指した騒ぎではなかった様なのだ」
「ええ?」
俺じゃない。その事実に少し安堵する。でも、それなら。誰が来たんだろう。そんなのわかるはずもなかったけれど、考えてしまう。
「ハンスは、とばっちりに近い物を受けた。とはいえ、実際にはお前を匿っていたのだから、決して冤罪とか、そういう訳ではないと思うがな。確か、事の発端はこうだったな。旅立つお前を見送って、ほんの数日後。スケアルガ
学園内で、異世界人を召喚してしまったという話が広まったんだ」
「私が出て行った後に、また別の人が来たという事ですか?」
「いや、それも違うな。お前が旅立つよりも、前の話だろう。要は水面下ではその様な話になっていたのが、お前が出て行った後に、表へと出てきたのだ。私に調べられる範囲で調べてみたが、お前と同じ様に魔法陣から
出てきたその特別な異邦人は、周りの生徒や教師が唖然とする中。大暴れをして、出ていってしまったらしい。お前の時とは違って、教師が居て。そして散々に暴れた結果、それが知れ渡ってしまい。結果、それについての
調査団が結成され、関連していると思われる学園の生徒や教師が取り調べを受けた。そして困った事に、そこでみっちりと油を絞られた内の生徒の一人が、お前が召喚された時にも居た生徒で。あろう事か、ハンスの名前を
漏らしてしまったのだそうだ。その逃げた奴は、お前と関わりがある相手なのかもわからんというのに」
「ハンスさんは。ハンスさんは、どうなったんですか」
「連れていかれた。ただ、その辺りはジョウスが根回しをしてくれたはずだ。ジョウスはハンスとは親しいからな。ハンスが酷い目に遭う訳ではないだろう。ただ、魔導の探求をする者達からすれば、そうやって異世界人を
独り占めする様な事は、憚られる。いくらスケアルガ学園を経営するジョウスでも、その流れは変える事はできない。それに、ジョウスの事だ。お前の事を怪しいとは思っていたが、今回の件で、それがわからん馬鹿では
ない。ジョウスはジョウスで、ハンスと何かしらの話をしているだろう。ハンスは、今は恐らく取り調べを終えて。ほとぼりが冷めるまではどこかに隠れているだろうな」
「そんな……」
俺のせい、なんだろうか。半分くらいはそうだろうな。俺が来なければ、ハンスはこんな目に遭う事はなかっただろうし。最後の引き金を引いたのが、その見知らぬ相手であるとはいえ。
「それからもう一つ、悪い報せかはわからんが。言っておく事がある」
「……なんですか?」
「ヒュリカが、翼族の谷へと帰っていった」
この期に及んで悪い報せがあるのかと思っていた俺に告げられた、突然の言葉。俺はまた、馬鹿みたいに固まってしまう。数年はミサナトに居ると、ヒュリカ自身が言ったから。てっきり俺は、ヒュリカがまだこの街に
居ると思っていたのに。そのヒュリカも、もうここには居ないとファンネスは言う。
「どうしてですか」
「親族から。火急の用事である故に、すぐに谷に戻る様に。そういう旨の手紙が届いたそうだ。それ以上の事は、ヒュリカ自身もわからない様だった。これは、つい数日前だな。せめて、お前が戻ってくるまでは。そう言って
いたが。入れ違いになってしまった」
ハンスに続いてヒュリカも居なくなってしまったのか。ただ離れただけだというのに、俺は自分が、独りぼっちになってしまった様な気分になる。
「酷な事を言う様だが、ゼオロ。お前も、あまりこのミサナトに長居はしない方がいい」
「そう、ですね。ハンスさんの事が知られたというのなら。当然、ハンスさんの家に居た私を、憶えている人は居るでしょう。私は銀狼ですから」
「ああ。この際ハンスは良い。実際いくら調べようが、異世界からどの様な手段を用いてやってくるかとか、そういう事をハンスは知らんのだろうからな。だが、お前はそうではない。いくらお前の口から、そんな事は知らないと
言っても。別の世界から来たというお前の身体そのものが、魔導に携わる者にとっては、喉から手が出る程に欲しい存在だ。実際、銀の被毛。或いはそれに近い色の狼族が、取り調べを受けたと口にしていた話も聞いた。
このミサナトの街に、お前は居ない方が良い。その方が、お前の身の安全にも繋がるだろう」
「そうですね……」
「ちょっと、ファンネス。いくらゼオロさんの事だからって。そんな言い方しなくてもいいでしょ?」
ずっと黙っていたツガが、ベッドから飛び出して。そのまま椅子に座る俺を、抱き締めてくれる。
「それに、それじゃまるで追い出すみたいだよ。そんなの可哀想だよ。なんとかしてあげられないの?」
「無理を言うな。異世界からの珍客などと。普段は大人しくしている魔道士ですら、目の色を変える奴すら出ないとは限らないのだぞ。その上で、調査団はラヴーワから。この国からの物だ。例えスケアルガ学園が、ジョウスが
庇おうとしたって、どうにかなる物ではない。しかも私達は、ラヴーワの国民ですらない。その上で、私は爬族を。お前はランデュスの助けを乞う事のできる立場ですらない。私達個人の力では、どうする事もできん。
気の毒だとは思うが。ゼオロはこのまま、このミサナトを落ち延びる事が一番良い。そういう意味では、ファウナックに留まっていた方が良かったかも知れん。魔導についての研究は、猫族。そしてスケアルガが先導を
するもので。猫族もスケアルガも毛嫌いしている狼族は、そういう決定にはまったく従うつもりがないからな。ゼオロがどれ程あそこで信用されたのかはわからんが、ガルマと会ったのならば、そこに留まった方が、
安全だったかも知れんな」
今更そんな事言われても。もう出てきてしまったというのに。まさか身の安全のために早くガルマの下から、正体が暴かれる前に離れなければと思ってミサナトに帰ってきたはずが、とうのガルマの近くが安全かも
知れないと言われる日が来ようとは。あまりの展開に、目が回ってしまいそうになる。
「でも……」
「いえ、いいんです。ツガさん」
尚も縋ろうとするツガを、俺は止める。ツガが、俺の顔をじっと見つめていた。
「だって、ゼオロさん。やっと戻ってこられたのに。なのに、ここからも出ていかないとなんて、そんなの……」
「いいんです。それに、お二人にご迷惑は掛けられません。ハンスさんにさえ、とても酷い事をしてしまったのに」
後に残ったのは、この二人だけだった。この二人にまで、迷惑を掛ける訳にはいかなかった。二人とも、ラヴーワの国民ではなくて、だからこその苦労だってあるというのに。
これ以上、俺のために、誰かに迷惑を掛けるのが、迷惑を掛け続けてしまうのが。辛かった。俺からは、何もしてあげられないのに。
「すぐに、出ていきます。ありがとうございました。本当なら、私を店に上げる事だって、危ないかも知れないのに」
「私は構わんよ。それでも。そうなったら、また別の土地へ移るだけだからな。ただ、お前と一緒にどこかへ行く訳にもゆくまい。私の身体は、呪われているからな。旅路となると。寧ろ足を引っ張る。それに、私もツガも、
このラヴーワではお前と同じか、それ以上に目立ってしまう。それぞれに異なった目立ち方をする者が、三人も固まる訳のは得策とは言い難い」
「そこまで考えていただけただけで。私には、充分です。ファンネスさん」
「泊まっていくか。今日ぐらい。疲れているんだろう」
「いいえ。今すぐに出ていけば、客として銀狼がきて、少し長話をした。それだけで、済みますから」
早く。早く、出ていかなければ。これ以上、迷惑を掛けてはいけないんだ。立ち上がると、荷物を。申し訳ないけれど、少し整理させてもらう。ハンスの家に戻るつもりだったけれど、この街からも出ないといけないと
いうのなら。余計な物は処分しなければならない。せっかくガルマの館で与えられた上等な服もいくつかはここで諦める必要があった。
荷物を更に少なくして。本も、気に入った数冊だけにして。俺は足早に、ファンネスの店の入り口へと。振り返ると、ファンネスとツガが、揃っていた。ツガがまた、俺がファウナックへ旅立った時の様に、目に涙を
湛えている。
「ごめんね、ゼオロさん。俺、なんにもできなくて」
「そんな事、ないです。ツガさん。ツガさんと、ファンネスさんの優しさがあるから。私はまだ、前を向いていられますから」
短い言葉を交わして。俺は、店を出た。
独りになってしまった。本当の、独りに。
ミサナトの街並みを、当てもなく彷徨っていた。
外に、行かないと。この街に居るのは、危険だ。でも、街の外も危険なんじゃないのだろうか。そもそも、外に出るって事は、旅をするって事で。俺にはそんな知識も、道具も、なんにもないというのに。やっぱり
ファンネスの所でほんの少しだけでも匿ってもらって、準備をするべきだっただろうか。でも、迷惑が掛かる。そう思うだけで、俺の思いは木っ端微塵に砕かれていた。
結局俺は。この世界に現れてから、今の、今まで。ああ、違う。それも違う。そうじゃなかった。前の世界から、そうだった。誰かに迷惑を掛けて、本当に、掛けるだけ掛けて。自分からは何も返せない奴なんだな。ずっと、
そう思っていたけれど、今回ばかりは、つくづくそれを思い知った。俺を匿ったが故に、ハンスには迷惑を掛けて。今は行方もわからないという。この上、誰かに迷惑を掛ける事なんて、できるはずがなかった。
どこに行けば良いのだろう。当てもなく、ただミサナトに帰ればそれでいいとすら思っていた。馬鹿だな。そんなはずがないというのに。まるでミサナトに戻れば、なんの問題もなく以前の様に。ファウナックでの
辛かった出来事なんて全て忘れて、暮らせるんだと。そう、漠然と期待していた。本当に馬鹿だと思う。そんなはずないのに。その生活だって、ハンス達の安全を犠牲にして成り立っていたものでしかなかったのに。相手が
それを口にしないから、俺がそれをわざとらしく口にして、いいんだよ。大丈夫だよ。その言葉を相手に吐き出させて、それで、ここに居てもいいんだと勝手に勘違いして、居座って。馬鹿な上に、最低な奴だな。
そんな事、あるはずがないのに。だからハンスは、一人でも生きていける様になるべきだと、言ってくれたのに。それすら満足にしないまま、俺はこんなところで、独りになってしまって。
道を、とぼとぼと歩いていた。下町に出て。でも、人込みが。人の目が怖くなって。路地裏へと入っていた。フードを深く被ったけれど、それでも僅かに食み出している俺の銀が、怖くて。どうして、こんな身体になって
しまったのだろう。俺には、何もかも不釣り合いで、分不相応な身体でしかないのに。どうして皆は、こんな俺に、あんなに親切にしてくれたのだろう。
どうしてあんなに、あの人は。俺を、大切にしてくれたのだろう。何もできないのに。一貫して、俺は何もできなかったのに。
「どうか、あなた様が」
またあの言葉を。思い出しそうになって、俺はかぶりを振った。あの日から、俺はよく、あの言葉を思い出す様になっていた。そして、炎に焼かれる夢は、見なくなった。代わりに見る夢は、ファウナックでの、楽しかった
日々ばかり。辛いとか、怖いとか。最初はそう思っていたはずなのに。俺のそんな考えを取り上げて、ずっと傍に居てくれた人との、日々ばかりだった。そして、最期の、あの言葉が。俺の耳から離れないでいる。今の俺を
見たら、どんな顔をするんだろうな。自分を誇るどころか、やっぱり、なんにもできないでいる俺の事を見たら。今、どこに居るんだろうな。あの人は。どこかに居たりするのかな。もし居るのなら、幸せになってくれれば
いいのに。こんな俺の分まで、幸せになってほしい。逃げ続けてきた俺とは違って、ずっと戦い続けていた人だったから。例え、そのために沢山の人の命を奪っていた人であっても。
辺りが、薄暗くなっていた。いつの間にか、陽は傾いて。そして、路地裏なんて歩いているから、余計に陽が射し込まなくて。人目を避けようなんて、咄嗟に思ってしまわなければ良かった。大通りの方へ戻らないと、
この街だって、大して詳しくはないのだから、外にも出られない。道を戻ろうと、振り返って、俺は身体を震わせた。いつの間にか、俺の後ろに数人の男が居たのだった。一様に、汚らしい恰好をしていて。人目でそれが、
堅気な人物ではない事がわかってしまう。そして彼らは、俺を見て、口元に笑みを浮かべていたのだった。
「どこに行くんだい、兄ちゃん」
その中の一人。一番前に居て、如何にも他の男達を率いている風の、牛族の男が俺へと声を掛けてくる。俺は応える事もなく、ただ辺りをさっと見渡した。走れば。そう思っていた矢先に、思っていたよりもずっと素早く、
男の腕が伸びて。俺の手を取る。そのまま腕を引かれて、路地裏の中の、更に細い小道へと。俺の身体が投げ出される。痛みを感じている暇もなかった。倒れた俺の身体の上に馬乗りになった、その牛男が、荒い息を
吐いて。本当に牛みたいだなと思ってしまう。俺は咄嗟に、荷物へと。小さな手提げの袋の中にある、短剣へと手を伸ばそうとするけれど、それもやっぱり、男の手に阻まれてしまった。荷物が、少し離れた位置へと。俺の
手の届かぬ場所へと押しやられる。それを見届けた後に、男は刃物を取り出して。俺の着ているコートを掴み取った。
「やめて」
俺の制止の声は、相手の耳にはまるで聞こえていない様に。鋭利な刃が、群青のコートを切り裂いてゆく。コートが取り払われて。隠し続けていた、俺の身体が晒されて。
「あっ……」
牛族の男は舌なめずりをしながら、現れた俺の顔を見たけれど。その途端に、目を丸くして、固まっていた。俺はただ、黙って俺に跨るその男を睨みつけていた。けれど、男の時が止まっていたのは、ほんの少しの間
だけだった。無骨な黒い手が。俺の銀へと触れてくる。首筋に、意外な程優しく、その手が触れる。
「ちょっと中身がはみ出してたから、綺麗なんだろうなとは思ってたけど……こりゃ、とんでもねぇ上玉だな」
巨体が、圧し掛かってくる。俺は顔を背けた。鼻息が、頬へと掛かって。それから、俺の首を、牛男の開いた口から飛び出した舌が舐め上げる。ぞくりとした感覚が、俺の身体を突き抜けた。今までとは、違う気が
していた。押し倒されりする事も、なかった訳じゃなかった。クロイスやヒュリカと、似た様な真似をした事もあった。けれど、今は違う。俺の中に純粋に、恐怖が芽生える。俺が抵抗のために前に出した右腕は、
掴まれて。そして軽く握られただけで、俺の悲鳴を引きずり出して。それを聞いた男が、とても満足そうに微笑んでいた。男が少し身体を起こして、腰を突き出してくる。視線を下ろせば、充分に膨らみきった股間が、
そこにあった。中にある物が、俺の今の姿を見て欲情しているのだという事が、うんざりする程に伝わってくる。男が、また刃物を取り出して。今度はコートではなく、俺の服を切り裂いた。腕や足に纏わりつく部分を残して、
俺の身体が露わになる。男が、ますます息を呑んで、笑みを浮かべるのがわかった。他人には見られたくないところを見られている羞恥も、今は感じない。そんな事よりも、ただ、逃げたくて。逃げられなくて。ああ、
これが強姦っていう奴なんだなと、ちょっと考えてしまう。俺は男なのに。でも、この姿だと、仕方がないのかな。自分の身体が、そういう目で見られている事なんて、とっくに知っていたというのに、不用心にこんな所を
歩いていたのだから、文句も言えそうになかった。人間だった頃も含めて。他人との経験なんて、男女を合わせてもありはしないのに。それが、ここに来て。名前も何も知らない。見るからにゴロツキの様な男とするのか。
嫌だと、そう思って口を開けようとすると。わかっていたけれど、口が塞がれて。そうしている間に男の身体が、俺へと降ってきて。俺の身体と、牛の身体が擦りあわされる。熱く滾っている男のそれが、俺の被毛に
擦り付けられて、短く男が呻き声を上げていた。
こんな所で。ああ、でも。死ぬ訳ではないのだろうか。死ぬまでこんな風に扱われるのかも知れないけれど。抵抗も止めて、俺は茫然と、俺の身体を犯そうとしている男を見ていた。浅ましくて、汚らわしくて。でも、
こんな風になれたのなら、俺も楽に生きられたのだろうか。俺の身体を隅々まで汚そうとするかの様に、その手が俺の銀に触れてくる。男は殊の外、俺の銀を気に入った様だった。いっそ、さっさと突っ込んで、泣き喚く
俺を無視して事を終わらせてくれた方が楽なのに。嫌がる俺の顔を見て。俺の目に浮かんだ涙を舌で拭って。そして俺の身体を汚す事に、どうしようもなく興奮している様子で。やっぱり俺は、男相手は嫌だなぁなんて、
今更の様に考えてしまう。
それでも。いつまでもそれが続く訳ではなくて。男の腰が引かれた頃に。遠くから、何かの叫び声が聞こえる。俺を襲っている男は、俺の身体に夢中で、それには気づきもしない。けれど、気づかなくても。それは
男の下にも、その内にやってくる事だった。俺が完全に抵抗を止めた事を悟った男は、いよいよ俺の腰を抱えて、中へ入れようとしたけれど、突然にその身体が吹っ飛ぶ。男の身体が動いた事で、俺にも僅かに
痛みが走るけれど。俺も、それを気にする余裕は無かった。細道だから、吹っ飛んだ男の頭がそのまま、横の壁にぶつかって。立派な角が折れて、一撃で男は気を失ってしまう。死んでないといいけれど。
大きな、多分、男が。俺を見下ろしていた。服を切り裂かれて。突っ込みやすい様に脱がされて。だから隠す所なんて何一つなく、露わになったままの俺の身体を。その人はただ見下ろしていた。
「大丈夫か」
そう、問いかけられて。俺はその人の事を、思い出す。深くフードを被っているから、顔が見えなくて。声がとてつもなく低くて。そして背がとんでもなく大きくて。前に一度だけ、この街で会った事がある人物。俺が
ミサナトを発つ直前。ファンネスの店で働いていた時に、客としてやってきて。存分に周りの客を怯えさせていた男が、そこに居た。
「カハル、さん……?」
「そうだ。カハルだ」
驚いていた俺は、次にはカハルの後ろへと視線を送る。そちらにも、やっぱり俺を襲っていた牛男と同じ結末を迎えた光景が広がっていた。一瞬の内に、カハルは男達を殴り倒してしまったのだろう。
「お前は、こんな所で何をしているんだ」
「……何、してるんでしょうね。私」
率直なカハルの物言いに、俺は自嘲気味に笑った。本当に、何をしているんだろう。当てもなく彷徨って。ゴロツキに押し倒されて、犯されそうになって。抵抗も途中で止めてしまって。そんなに肉便器になりたいのか俺は。
カハルが膝を着いて、俺の身体を抱き起す。大きな手だった。手の先まで、手袋がしっかりと付いていて。カハルがどんな種族なのかが、やっぱり俺にはわからない。
「行く所が、無いのか」
「そうかも知れませんね」
「もっとはっきり言え。それでは、わからない」
「一人になってしまったんです。行く当ては、なくて。けれど、この街からは出ていかないといけないんです」
「そうか。なら、明日からにしろ。今日はもう、陽が暮れる。行く所が無いのなら、俺が取っている宿に来い。歩けるのか」
咄嗟に、立ち上がろうとする。けれど、身体に力が入らなかった。カハルが来てくれて、安心したけれど。俺の身体はまだ、強張ったままだった。情けないな、本当に。
その様子を見て察したカハルは、手早く俺の落とした荷物を取って、それから俺自身を抱き上げると。その場を後にしようとする。俺はそうされながら、それに抗議するよりも。ただ首を伸ばして、路地に残された物を
眺めていた。
切り裂かれた、群青色のコート。クロイスから、貰った物。こんな形で駄目にしてしまうなんて。
「どうかしたのか」
「いいえ」
「俺の首に抱き付いていろ。この時間なら、馬鹿な娼婦で誤魔化せるかも知れない。顔は、見るなよ」
見るなと言われても、深く被っているフードは、こんなに間近でもカハルの顔を窺えないくらいだ。どうやら、フードの中で更に、顔に軽く布を巻きつけている様だった。本当に酷い傷があるのだろうか。それでもカハルが
歩き出すと、俺はそれ以上の事を考えるのを止めて、おずおずと、カハルの首に手を伸ばす。
「左腕はどうしたんだ」
「実は、あまり動かなくて。少しずつ、動かせる様になったところなんです」
俺の言葉に、そうか、と短く返事をするだけで。またカハルが歩を進める。どうにか両手で、カハルの首に抱き付いてみたけれど、首回りも太くて、少し距離もあるから、手が回りそうにない。そうしながら、俺はカハルの
胸に顔を埋めて。カハルが行く先に広がる景色に。その中に居る人の目に。自分が映らない様にした。知り合いとすらいえない間柄かも知れないけれど。今はただ、この男に身を預けようと決める。危ないところを
助けてもらったのは、事実なのだし。
「着いたぞ」
どれくらい歩いていたのか。カハルの歩みは、下町の中の一角。少し人気の少ない場所で止まった。顔をそっと上げると、少し殺風景な木賃宿だった。宿に入っても、がらんとしていて。別に俺達に対して視線を向ける人も
いない。ただ、宿の店主だけが、少しカハルを見たけれど、カハルが客である事を心得ているのか、それ以上の事は何もしなかった。カハルがそのまま、宿の廊下を。廊下といっても、剥き出しの地面であって、お世辞にも
整った印象は受けないけれど。その上を通って、自分の部屋へと俺を連れ込んでくれる。通された部屋は、いくつかの粗末なベッドがあって。カハルは俺をまずベッドに下ろすと、それから部屋の入口にある扉代わりの布を
閉じてくれた。
「これで、大丈夫だろう」
「相部屋の方はいらっしゃらないのですか?」
「居ない。その分の金は、元から出している。顔を見られたくないからな。だから、金の事は気にするな」
「すみません、カハルさん。突然の事なのに、助けて頂いて。それから、ここまで連れてきてくださるなんて」
「それは、いい。それよりも。いい加減に服を着たらどうだ」
そうだった。ここに来るまでは、カハルが纏うコートと、その太い腕が俺を守ってくれていたけれど。今の俺はまた、強姦される直前の状態で。着替えてから連れてってもらうべきだっただろうか。でもあんまりもたもたして、
新手が来てしまうのも困っただろうしな。とにかく、カハルが一緒に運んできてくれた袋から、残り少ない着替えを取り出して。俺はそれに袖を通す。これでどうにかカハルに小言を食らわずに済みそうだった。
服を着て。またベッドに座って。それから俺は、カハルを見上げた。さっきからカハルは、微動だにせずに、俺を見つめている。なんというか、気まずい。初めて会った時の印象も、そうだったけれど。この人はただ、俺の事を
じっと見つめている様な感じで。それが怖い様な。でも口を開くと、別にそこまで怖がる必要もないんだなって印象を受けるから、なんというか。そう。どういう対応をすれば正解なのかが、とてもわからないと思う。
「何か、訊いたりしないのですか」
「訊かれたいのか」
「そういう訳じゃ、ないけれど」
「久しぶりだな」
「……はい、お久しぶりですね」
なんだろう。この絶妙に会話が噛みあわない感じは。今まで出会ってきた誰よりも、なんとなく違う。カハルが何を考えているのかが、わからないんだ。
「どうして、助けてくれたんですか?」
「襲われていたお前を、見捨てる様な事はしない」
「……ありがとうございます」
「怪我はないのか」
「ありません。幸い、その前にカハルさんが助けてくれたので」
「そうか。良かった」
僅かに、息を吐く音が聞こえた。大男の表情は窺えないのに。その小さな、とても小さな仕草が。俺の言葉を聞いて、男が安堵を示した事を伝えてくれる。知り合いとすら言えないくらいの付き合いで。何を考えているのか、
よくわかりもしないのに。それでもなんとなく、カハルの事を信じたり、ここまで身を預けて連れられてきてしまうのは、きっとこういう部分があるからなんだろうなと思う。種族すら窺えないその格好も、何も。とても怪しいのは、
確かなのに。そんなカハルの中から、俺を気遣ったり。俺に注目している気持ちが伝わってくるから、なんだろうな。
この人に、頼ってもいいのかな。でも、そう考えると。途端にこの街で出会った人々に、悉く迷惑を掛けてしまった事を、思い出してしまう。
「あの。私、この街から、出ていきたいのですが」
「そうか。だが、今日は止めておけ。ここで寝て、明日の朝にしろ。夜から旅に出る事もないだろう」
「……はい。そうですね」
「当てが無いと、言っていたが。本当に何も無いのか」
「はい。だから、その。旅をしようにも、誰かを頼るしかないなとは、思ってはいるのですが」
ぼんやりと、それはわかる。俺にサバイバル技術なんていう物が備わっているはずもなく。それだって、交わされたままの約束の中で、学ぼうと思っていた事に過ぎない。今の俺には、何もできはしないだろう。その上で、
魔法もまったく扱えないときたもんだ。せめて火の魔法が使えれば、それだけで大分楽になっただろうにな。
「そうか。なら、傭兵を雇うと良いのではないか。何も、自分で戦う事だけが全てではない」
「傭兵、ですか」
確かに、それはもっともな意見だった。でも、今の手持ちで足りるのだろうか。しかも俺には、行く当てがない。とりあえずミサナトから出たい。まあ、そのために雇うというのも、ありなんだろうな。ミサナトから出て、どこか、
落ち着ける様な場所に連れていってもらう。ようやく、現実的な案が俺の中に芽生えてくる。
「傭兵なら、雇える場所を知っている。俺も、傭兵だからな」
「カハルさんも、そうなんですか」
「腕っぷししか能が無いからな」
「だったら、あの」
どうせなら、知っている相手にそれを頼みたい。そう思って、俺はじっと、カハルの。見えもしない顔を見上げる。それに、傭兵を金で雇ったとしても。その傭兵が信用できるのかは、わからない。手持ちの金と、行先と、
そしてその後の事も考えたら。雇うにしたって、精々一人だろう。そして、こう言ってはとても失礼なのはわかるのだけど。傭兵というと、ゴロツキ上がりもかなり多いだろう。それどころか、都合良く傭兵と、それ以外の仮面を
付け替えている様な奴だって居るはずだ。そんな相手と、二人きりになってしまう。傭兵だから、魔法使いでもない限りは、ほぼ確実に俺は力でねじ伏せられるだろうし、魔法使いだったらそれはそれで、どうしようもない。
さっきまで俺の上に跨っていた牛族の事を思い出して、思わず俺は震えてしまう。良い傭兵の選び方なんて、わかる訳はないし。もし居たとしても、俺の手持ちで足りるのかも、ちょっと自信が無い。
その点、カハルなら。少なくとも俺を助けてはくれたのだからと。俺は淡い期待を込めて見ていたのだけれど。
「……俺はお前と一緒に行く事はできない。代わりに、明日そういう相手を見つけられる場所に案内しよう」
「そう、なんですか」
きっぱりと断られてしまって、俺は落ち込んでしまう。けれど、仕方ないか。カハルにだって事情があるし、それに、こんなに頼りない契約相手では困るだろう。明日案内すると言ってくれただけでも、感謝しなくては。
話が纏まると、カハルは一度席を立って。外に出ると、その内どこかで見繕ったのか、食事を用意してくれる。今まで食べた中でも、特に質素な物だった。木賃宿だから、宿の方で食事を用意してくれる事もない。それでも
量だけはしっかりと揃えてくれた様で、部屋の、これまた質素な机の上に置かれた物を見て俺は目を丸くしてしまう。
「カハルさんは、食べないのですか」
「俺は済ませてきた」
そういえば、顔は見られたくないと言っていたっけ。なんだか、俺が宿代も払わずに乱入してきたというのに、とても気を遣わせてしまっている気がする。
食事を済ませると、今度は桶に組んだ水と、手ぬぐいを持ってきてくれて。風呂の代わりだという。大分原始的だなと思うけれど、こういう宿だから、きちんとした浴室が付いているはずもないので諦めるしかなさそう
だった。それに、旅をするなら尚更だ。馬車での旅も、そういう日はあったけれど。それでももうすぐ街に着くとか、そういう目処が立っていたから、まだ良かった。旅となると、そういう訳にもいかない。泥に塗れて、
塗れた身体を洗うのもいつになるのやら。そんな状態だろう。確かに、ガルマの館でぬくぬくと、手厚く持て成されていた俺が、そう簡単にそれに馴染める物とは思えなかった。
俺は牛男が擦り付けてきた部分を念入りに拭くと、それから身体中を一通り自分で拭いて。その間にカハルはまた別の場所へ行って、身を清める事も澄ましてしまったらしい。俺が廊下に出ようかと提案したけれど、
黙って首を振られてしまう。まあ、今の俺の身体だと、目立つし。また迷惑を掛けてしまう事も充分に予想できたので、大人しく好意には甘える事にした。
その内に、夜が訪れて。相変わらずカハルは、もう一つのベッドに座って、腕を組んでいる。身体を俺の方に向けているから、俺を見ているのだろうかと思うけれど、少し俯いている様にも見えるから、考え事を
しているのかも知れない。顔が見えないって、表情が窺えないって、不便なんだなと思った。言葉を投げかければ、それはきちんと返ってくるけれど。今まで出会った誰よりも、単純明快で、それでいてその言葉に
あまり感情が伴っていない様に聞こえるから。本当はどんな事を考えて、俺の事をどう思っているのかがわからなくて。居心地が悪い訳ではないのだけど、なんとなく、ここに居ていいのかなって思ってしまう。
ガラスの無い窓から、月明かりが射し込んでいる。それ以外は何も。隣の部屋からの、鼾とか。その程度だろうか。
「カハルさん」
沈黙を破る様に、俺は口を開く。じっとしていたカハルが、僅かに顔を上げた。
「何か、お礼を差し上げたいのですが。私にできる事は、ありませんか」
「無い」
物凄く簡潔に。それでいて俺の心を打ちのめす言葉が降ってくる。そこまではっきりと言われると、いっそ清々しい。
「お金は……」
「それはお前が、これから使う物だろう。俺へ渡すべきではない」
それはまあ、そうなんだけど。でも、それでいいのだろうか。助けた見返りとか、もっと要求してくれてもいいのに。俺にしてあげられる事は、あんまりないとは思うけれど。
「俺に何かを返す必要は無い。お前は、お前の事だけを考えていろ」
優しいんだか、拒絶しているんだか、よくわからない言葉が俺へと向けられる。俺は黙ったまま、静かに服に手を掛ける。
「私の身体でも、お返しにはなりませんか」
「お前は。俺に、抱かれたいのか」
「……いえ。でも。何かをしてもらって、ただそれだけ。そういう生き方が、嫌になってしまって」
人間の時から、そうだった。あの時の俺は、結局は何もしなくて。何もしない俺自身も、嫌いだったけれど。この身体になってからは、それとはまた違っていた。何かを返したい。そう思って、実際に行動に移そうと
しても。その時にはもう、恩返しをしたい相手は居ないのだった。ハンスも、クロイスも、ヒュリカも。そして、ハゼンも。残っていたファンネスやツガには、俺がここに残り続ける方が迷惑が掛かってしまいそうで、やっぱり
何もできそうになかった。
「私はずっと、誰かに助けられて、こうして生きてきました。私に差し出せる物なんて、もう、この身体ぐらいしかありません」
銀の身体。ファウナックに居た頃は、毎日の様に褒めそやされていた。元の俺からすると、とんでもない身体だと思う。
男としたいのかというと、正直よくわからない部分が多い。ただ、経験はしておくべきではないかと、今日の事を経て、なんとなく思わずにはいらなかった。だってこの先、旅に出るのだから。一体どこでまた、あんな事に
なってしまうのか、わからない。ファウナックでガルマに誘われた時も、そうだったし。だったら一層、経験しておくのも良いのではないのかと、そんな気分になってしまう。旅の空で、ズタボロになって途方に暮れて
しまうくらいならば。今から、経験を積んで。こんな事の経験を積んでどうするのかとも、冷静な俺は言っているけれど。それでもいざという時に、多少は心構えを持っていられそうで。
それに。俺にできる事は、やっぱりそのぐらいだった。金はそれ程持っていなくて。魔法の才もなく。力が優れている訳でもなく。筋力に関してはこれから、もう少し鍛えてみようかとは思っているけれど。それよりも先に、
左腕の事もあって。つくづく、自分が本当に何もできないのだという事が、よくわかる。見た目には優れているけれど、中身は結局、だらだらと無為に生きていた俺のままだから。特別な知識なんて物もない。
「お前の気持ちは、よくわかる。だが、そんな風に自分の身体を、粗末に扱おうとするな」
「でも」
「誰かに、何かを返せない事を、悔やまなくても良い。お前の傍に居た奴らは、皆、本当はお前から様々な物を貰っていて。そうして、お前の傍に居続けようとした奴らなのだから」
カハルのその言葉に、俺は言葉を詰まらせた。そんなの、嘘だと。そう言いたかった。狼狽える俺の前に、ベッドから立ち上がったカハルがゆっくりと歩み寄ってきて、俺の目の前で跪く。そうする事でようやく、
大男のカハルとは目の高さが合うくらいだった。
「お前が、どんな奴と顔を合わせてきたのか。俺は、それを知らない。けれど、ゼオロ。別れる時に、そいつらは嫌な顔をしていたのか。別れても尚、お前は、そいつらの役に立ちたいと、自分には何もできはしなかったと、
お前自身が悔やんであげられる様な相手だったんだろう。自分の思いにばかり、囚われるな。それは、お前の悪い癖だ。相手は、お前にどんな顔を向けていたんだ。どんな言葉を、遺していったんだ」
俺の脳裏に、途端に甦る。旅立つクロイスが。ミサナトを出ると決まった時に、名残惜しそうな顔をしたハンスが。ヒュリカが。ツガが。ファンネスは、そこまで気持ちを向けてはくれなかったかも知れないけれど。それでも
相談には熱心に乗ってくれて、俺を店にも立たせてくれた。ファウナックで知り合った、クランや、ガルマも。それから。それから、俺の前に跪いて。俺をまっすぐに見上げていた、あの赤狼は。
「私が、私自身を。誇れる日が訪れると、良いと」
笑い声が、聞こえた。俺は顔を上げて、カハルを。でも、やっぱりその顔は、見えなかった。それでも、カハルが笑ったのがわかった。
「どうしてそれで、自分には何もできなかったと。そう思えるんだ」
「だって。私は、何もできなかった。あんなに苦しんでいたのに。私にできたのは、少しの間、一緒に居られただけで」
ただ、一緒に居ただけで。たった。たった、それだけの事しか、俺にはできなくて。
「どんな顔をしていたんだ」
泣いていて。それから、笑っていた。
そこまで思い出すと、俺はもう、限界だった。馬車の中で、気持ちを懸命に切り替えて、泣かない様にしていた努力も、全部水の泡になって。またあの時の様に、止め処なく涙が溢れてくる。慌てて、拭おうとした上げた
右手を、カハルに掴まれた。大きくてしっかりとした手が押さえているから。俺の涙は何にも阻まれずに。あの日の、最後に見たあの顔の様に。滴が落ちてゆく。
「ハゼン……」
生きていて、ほしかった。俺が大切にされた以上に、ハゼンの事を、大切にしたかった。例えハゼンが、決して許されぬ事に手を染めていたとしても。身勝手な俺の思いが、もう止められなくて。けれど、そうしようとした
矢先に、全ては終わってしまって。取り残された俺は、身を乗り出しては遠くへ伸ばした手が、何も掴めずに。そのまま、その勢いで大地に叩きつけられたかの様だった。
俺の身体が、大きな手に引き寄せられて。そのまま、抱き締められる。顔が見えるかどうかなんて、どうでもいいくらいに。視界は滲んだままで。
「どうして、カハルさんは。そんなに、私の事を」
「……アララブに、少し聞いたからだ」
意外な名前が挙げられて、俺は驚く。確かにアララブは、俺の事を。よく知っている様な口振りだった。少なくともファウナックで何があったのかは、知っていただろう。けれど、そのアララブと、目の前のカハルに繋がりが
あるとは知らなかった。或いは今日、俺をカハルが助けてくれたのは。アララブがそれとなくカハルに伝えてくれたのかも知れなかった。
「それに。お前が、そんな顔をしているからだ。何もかも失くしてきた。そう、顔に書いてある」
「そんなの」
そうかも知れない。ボロボロになって帰ってきて、そのまま、この街からも出ていこうとしているのだから。
カハルの身体に縋って、俺はただ、泣き続けていた。見た目がどれだけ変わっても。やっぱり、中身は俺なんだな。人間の時と、変わらない。なんにも。
「泣き虫だな……」
カハルが、小さな声でそう囁く。
「ごめん、なさい。……でも、私。本当に、なんにもできなかった。ごめんなさい……ごめんなさい」
「……ゼオロ。お前の考え方が、すぐには変えられない事は、わかる。それがお前の良さでもあるのだろうから。それでも、忘れないでほしい。お前を思っている、誰かが居てくれた事を。そして、どうか。自分の気持ちに
負けないでくれ。負けないで、生きてくれ。俺から言えるのは、それだけだ。生きろ。ゼオロ」
生きろと、カハルが何度も呟く様に。言い聞かせる様に、言い続けている。こんな俺が、ここでは生きてゆけるのだろうか。そんな不安を払うかの様に、何度も、何度も、何度も。
涙を流れるままに任せながら、次第に意識が遠くなって。それと同時に。俺の中に居た赤狼も、少しだけ、遠ざかってゆく。俺がまだ、生きているから。生き続けようとしているから。それに向けて、改めて、さよならを告げる。
本当に、短い間でしかなかったけれど。俺と一緒に居てくれて、俺が前を向いていられる様にしてくれて、ありがとう。
さようなら。
翌日。俺が眠い目を擦って起き上がると、既にカハルは支度を済ませていた様で。俺が目覚めたのを知ると、朝食を運んできてくれた。
「それが済んだら、傭兵を探しに行く。もう、やり残した事はないな」
「はい。ありません」
朝食も、何もかもが、非常にスムーズに進んでゆく。迷う事なく宿を後にして、カハルに連れられて、ミサナトの街並みを行く。下町を通った先の、少しだけ人通りの少ない小道の途中に、それはあった。看板があって、
カハルはその前で足を止めると、振り返って俺を見下ろす。
「すまないが。俺は、ここまでだ」
「……わかりました。ありがとうございました、カハルさん。本当に、お世話になりました。ほとんど、面識も無いと言っても良かったのに。こんなに良くしてくださって」
「そうだな。本当に。では、俺はもう行こう」
カハルは軽く手を振って。そして、去ってゆく。また会えるだろうか。とても短い間だったのに、とてつもない事をカハルは俺にしてくれたという気がする。
それを見送って、改めて建物を見上げる。息を呑んで、古びた外観と見事な調和を果たしている、ボロボロの木の扉を開いた。
「すみません。傭兵を雇いたいのですが」
声を掛けながら、中に入ると。すぐに返事がやってくる。入ってすぐは、酒場の様な造りになっていた。如何にも傭兵が呑んだくれてそうな、そんな感じ。けれど、今は早朝だから、人気はほとんどなくて。俺の言葉に
反応を示してくれた人だけの様だ。扉を閉めてそちらへ顔を向けると、丁度、席から立ちあがる虎族の姿が見えた。さっきまで俺と歩いていたカハルに負けないくらいに、背が高い虎族の男だった。
「いらっしゃい。……なんだ、あんたか」
「え?」
突然の事に、俺は首を傾げてしまう。前に、会っただろうか、この人と。
「憶えていなくても無理はない。俺はただの虎族だからな。でも、あんたはそんな見た目をしているから。……路地裏で一度、会っただろう。あの時は、随分急いでいる様だったが」
「……ああ、思い出しました。あの時は、ありがとうございました」
思い出した。スケアルガ学園に留学生として来るはずだったヒュリカが、行方不明で。そのヒュリカを捜している時に、俺に声を掛けてきた虎族だ、この人は。この人の言葉通り、俺にとっては、相手はただの虎族で、でも
あちらからしたら、俺は銀狼だから。それもファウナックでよくよく学んだけれど、特別な銀だから。記憶に残りやすいのだろうな。外を出歩くなら、もう少し銀を隠した方が良いかも知れないと、今更思う。今の俺は、カハルが
見繕ってくれた黒いコートを着ていたけれど。やっぱり食み出す銀は目立っているし。顔が露わになっているのなら、尚更だった。
「それで、傭兵が欲しいのか」
「はい」
考えるのもそこそこに。俺は伏せられる部分は伏せて、この街から出て、他所に行きたい事。俺の能力や力では、とても一人では旅ができそうにない事を告げる。そうすると、虎族の男は何度も頷いてくれた。今更だけど、
傭兵と一口に言ったところで、俺の目的に沿った傭兵でないといけないのだよな。勿論基本的な、サバイバル技術などは押さえてくれてはいるだろうけれど。それでも得手不得手という物があるだろうし。そういう意味で、
今虎族の男が相談に乗ってくれているのは、助かる。カハルが残ってくれていたら良かったのだけれど、流石に行ってしまったカハルを呼び止めて、お願いする訳にもいかない。
「そうなると、少し厄介だな」
俺の話を聞き終えた虎族が、顎に手を当てて、そう告げてくる。
「厄介……なんでしょうか」
「あんたは、銀狼だろう。下手な傭兵を付けると、どうなるのかなんて想像するまでもない。俺はここで仲介もしているから、それはよくわかる。それに。今、銀狼がこの街では少し騒がれているからな」
それは、多分俺がハンスの下に居た事が、知られてしまったからだろうな。その上で、街から出たいと言う銀狼。今更だけど、それは確かに怪しい銀狼だと言わざるを得ない。だからといってこの街に留まる事も、一人で
外に出る事もできないのだから、仕方ないけれど。
「となると、あいつしか残っていないな。何を考えているのか、俺にはよくわからんが」
大丈夫なのかそれは。思わず俺が目を丸くすると、虎族の男は人が悪そうな笑みを浮かべる。そういう顔をされると、凄みが出て俺はちょっと泣きそうになる。恰好良い虎のあくどい顔は、結構迫力があった。
「丁度、あいつなら今ここに居る。どれ、少し呼んでみるか。気に入らないなら、断ってくれてもいい。ただ、そうなると少し待ってもらわないといけないがな」
虎族の男が、建物の奥へと入ってゆく。俺はそれをそわそわしながら見つめていた。どうしよう。とんでもない人とか出てきたら、どうしたらいいのだろう。それにお断りしたとしても、俺の銀をはっきりと目の前で見せて
しまったら、また新たな危険に陥ったりしないだろうか。傭兵は信用ができるのか、よくわからないし。読み漁った本の中では、どうしても旗色が悪くなると裏切るとか、そんなイメージが付き物なんだけど。しかも腕っぷしは
強いから、逆らえそうにない。
大丈夫だろうかと俺がひたすら考え込んでいると、その内に二人分の足音が戻ってくる。緊張して顔を上げた俺は、少し拍子抜けしている自分に気づいた。虎族の後ろに、もう一人居る。虎族の男と同じ様に、背が高い
傭兵が来るのかと思っていたのだけど。後ろに居たのは、俺と然程背丈も変わらない男だった。俺よりは、少しだけ背は高いのかも知れないけれど。でも俺もまだ伸びるだろうから、いい勝負ができそうな、そんな感じの。
茶色い鬣が、歩くのに合わせてさわさわと揺れていた。それから、黄褐色の被毛。ライオンが居る。いや、ここで言うのなら、獅族か。
獅族の少年が、そこに立っていた。その黒い瞳が、俺を見つめていた。