top of page

21.嘴落とし

 豪華に設えられた室内に、ふわりと、香が鼻に付いた。
 席に着いて、もうどれくらいの時間が経っただろうか。私はとっくに会議の雰囲気にも飽きて、腕を組み、さっきから向かい側で今も元気に口を開いている竜族の老人を眺めている。
「……過ぎてしまった事は、もはや諦めていただけませんか。ご老体」
 何度目かも忘れた、繰り言。それにも嫌気が差してきて。私は相手が自分よりも格が上だという事も捨て置いて、言いたい事を言う。そうすると、くわっと目を見開いたその男が、私を睨み据えた。
「わかっている。過ぎた事だ。だが、爬族とは今後の事もある。ヤシュバ殿には、少しはご自重して頂きたいと言っておるのだ。リュースよ」
 爬族との、今後。くだらない事だと思った。穴蔵に住んで、そこから卑しく領土を掠め取る以外は、精々が薬の知識に多少秀でている程度の卑しい輩の事など。心底からどうでもいい。少なくとも私には。
 私のその考えを見透かしているのか、老いた男の目は依然鋭い。
 ランデュスの現宰相。ギヌス・ルトゥルーは、老いた見た目に反してまだまだ意気盛んだった。その隣で大人しく席に着いては、さっきから上司を静観している副宰相のユディリス・トワリスとは豪い違いである。
 月に二度の定例会議。城の会議室に集まって、今向かい側の席に座るのは、宰相のギヌス、副宰相のユディリス、そしてその子飼いと言っても良い連中達だった。ただ、立場の違いもあって、基本的に発言を許されて
いるのはユディリスまでだ。要は、文官の連中が今、向かい側で怖い顔をしている。
 一方、武官の席に居るのは、私の隣に居る筆頭魔剣士であるヤシュバ。そして、筆頭補佐たる私、リュースだけ。一応、私達より下の隊長なども居るには居るのだが、発言が許されないのならば来なくていいと、追い払って
しまった。そんな事をしている暇があるのならば、各々自主訓練なりなんなりしろと私が思っている事もある。この間の爬族との戦いで、実戦に乏しいが故に、大変に失望したのを忘れた訳ではない。その点は口を
利かなくなったヤシュバも同意見なのか、ヤシュバの調練も最近では激しさを増している。ただ、それでも。ヤシュバという存在にもはや陶酔しはじめた兵達は、文句の一つも言わなかった。唯一文句が出るとすれば、
ヤシュバが兵に、自らの寝所に誘う様な真似を一切していない事の方だった。その辺りは、相変わらず。私が初めてヤシュバを向かえた時から、変わらない。
 そして、武官と文官の間。奥まったところにある、一層豪奢な席。椅子に施された意匠が、天井まで連なっている。そこは、空席となっていた。竜神ランデュスのために設えられたその席は、長い間、そこに座るべき
主を迎える事ができずにいる。大昔は竜神が姿を現してはそこに鎮座していたというが。少なくとも私は、そこに座る竜神の姿を見た事はない。今の竜神は姿を持たず、ただ強い意志の塊の様な存在だからだった。
 会議で上っているのは、ヤシュバの爬族に対する、例の討伐。いや、虐殺だった。あの一件から、会議が開かれるのは二度目。前回は当面の方向性と、それからマルギニーを、つまりは親竜派の爬族を竜族として
迎えても良いのかという主題があったので、そこまで議論にはならなかったが。その件も済んでしまうと、宰相であるギヌスの目には、やはりヤシュバの行動はやり過ぎと見えたのだろう。実際、私もやり過ぎという点に
ついては、同意見ではあるのだが。ただ胸がすっとしたから、何も言う事はしないだけで。何よりヤシュバを、ああいう結果になるとは思いはしなかったものの、行動させたのは私なのだから。責めを負うのならば、私だろう。
 しかし私とヤシュバの、つまりは私が竜神の指示通りにヤシュバに接し続けて。そしてあの時は、私の判断で、ヤシュバが筆頭魔剣士としてふさわしい男になる様に、それが無理ならば、もう出てゆけと振る舞ったのは、
今のところは私とヤシュバの他、誰にも知られぬ出来事となっていた。とうのヤシュバも、それについては一切漏らす事はなかった様だ。知られたら知られたらで面倒になるのはわかりきっているので、今私はヤシュバが
攻撃されているのを知りつつ、そしてそれを申し訳なく思いつつも、やんわりとギヌスを諫めたり、挑発するに留まっている。その度にギヌスは怒って背の翼を少し広げたりするものだから、正直見ていて面白い。
 宰相である老ギヌスは、緑の鱗を持つごくごく平凡な見た目の竜族だった。角を持ち、翼を持ち。それでもすらりとしたその体躯の特徴は、仕事から来るのか、老いから来るのか。もはや解き明かせない謎と
なっている。宰相として既に二百年の時を生き、ラヴーワ連合国が成立する瞬間よりも前から、その席に座ってこのランデュスの政を支えている。いわば、実質的なランデュスの支配者と言っても良かった。ただ、当人は
あくまで竜神のしもべである事を望むのもあって、決して私利私欲では動かぬ男として、国民からはもはやそこに居るのが当たり前の物と思われている節がある。本人の苦労を思えば、少し気の毒なところだろうか。
「確かに爬族の問題は憂慮していた事だ。それは、認めよう。だが、あの様に振る舞っては……親竜派の爬族とて、どういう行動を起こす物か、知れた物ではないではないか」
「そうお思いの割には、親竜派を竜族として迎えるのには反対されていましたね。まあ、誰も賛成なんてしませんでしたけれど」
「それはそれ。まったく別の話だ。そもそも見た目が多少似ているからといって、それ以外は何もかも違う爬族と、我らが竜族を同種と見做すのは、混乱の素だ。マルギニー本人も信用ならんからな」
「流石です。その様にきっぱりと分けて考えられるところは、感服致します。ギヌス様」
 上げていたギヌスの指先が、私の返答で僅かに下がる。立場的には、私よりもギヌスの方が圧倒的に上で。というより、ギヌスよりもこの場で上の者は居ないだろう。役職から考えるとヤシュバはそれにふさわしいのかも
知れないが、それでもヤシュバはまだまだ新参。定例会議に何度も出席し続けてはいるものの、いつも立場の低い者達と揃って、黙って会議の成り行きを見守っている。そうなると武官の方でまともに口が利けるのは
私だけになってしまうから、こういうやり取りも慣れた物だった。ただ一人、ギヌスと対等なやり取りが許される者が居たとすれば。それは出奔した前筆頭魔剣士のガーデルに他ならない。
「爬族の事だけならば、私もここまでは言わぬ。だが、事はそれだけには留まらぬ」
 そして、今ここでも。責められているのはヤシュバだが、とうのヤシュバは黙ったまま。仕方なく私が返答をしている。それは或いは、当然の事かも知れなかった。ここに居る者、少なくともギヌスとユディリスは、竜神と会話を
しているのがヤシュバではなく、私である事を知っている。そして文官側でそれができるのもまた、今口角泡を飛ばしているギヌスだった。要は何かがあっても、互いが竜神にそれを伝えられるので、私とギヌスで会話を
するのが一番無駄が省けるのだ。ガーデルが居た頃は、ガーデルは軍については把握していたし、ガーデルの様な武人肌の実直な性格の者をギヌスは好いていたから、それでも会話はしていたのだが。もっとも、
戦以外にはそれほど強い関心をガーデルは示さない関係上、結局は私とギヌスのやり取りはその頃も行われていたのだが。
 その関係で、私は兵や使用人からすら軽んじられる傾向にある見場ではあるものの、この会議の間ではその様に扱われる事は一切無かった。文官、武官のどちらか一方だけではどうしても足りぬ事柄がある時、
それぞれに橋渡しの役目を担うのも、また私達なのだから。本来ならば圧倒的に年下であり、立場も下であり、その上で我が事ながらこの様な身である私を、ギヌスはもっとぞんざいに扱っても良い。それこそ一切の
会話を用いずに無視していようが、誰も咎める者とて居ないだろう。ギヌスはそれでも、私との不和は望まずに、接してくれる。そういう意味では、私はこの老ギヌスの事は好いていた。もっとも文官と武官であるから、
やはり考え方に違いは出てしまうのだが。
「ええ。それは私も、重々承知しております。ギヌス様。周辺の部族……これはまあ、目を瞑るとしても。翼族の事で、ございますね」
「そうだ。翼族は今回の件を、決して軽く見てはいないだろう」
「ですが、今回の件は爬族が決起した、その結果でございます。確かにヤシュバ様は、そのう。少しはやり過ぎたかも知れませんが。翼族とてそれは理解しているはず」
「わかっている。それも。だが、それでも。何も、全滅させる必要はなかったのでは」
「ギヌス殿は、俺に不満があるのだろうか」
 突然、黙っていたヤシュバが口を開いた事で、場が騒然となった。私もそうだった。驚いて、思わずギヌスと話していた事も忘れて隣に座るヤシュバに顔を向けてしまう。口を噤んでいるはずの者達からも、ざわめきが
走っていた。それもそうだ。今までずっとヤシュバは沈黙を貫いていた。自分が新参である事もあるし、何よりランデュスの事を詳しくは知らぬ身の上であって、私はただ会議には顔を出してくれるだけで良いと
言い続けていた。会議の後にわからぬ事があればと、ヤシュバの質問に一つ一つ丁寧に返すのも、いつもの事であったし。
「それは、その」
 ギヌスが、あからさまに狼狽えていた。ただヤシュバが口を開いただけならば、この様な事はなかっただろう。しかし今のヤシュバは。嫌竜派の爬族を滅ぼしたヤシュバは、事に文官にとっては、畏怖の対象だった。
 それまでのヤシュバは、はっきり言えば案山子も同然の扱いだったから、尚更だ。いくらガーデルを実力で退け、筆頭魔剣士の席に座ったとはいえ。新参である上に、ヤシュバ自身はずっと筆頭魔剣士として振る舞うために
勉強の日々を送り、会議に出ても黙っているだけ。時折見せる事務仕事などの評価はからっきしで、筆頭補佐の私の助けを常に借り続けている様な状態。これではいくらガーデルより強くても、見た目だけの男と陰で
嘲られていても、仕方がなかった。武官はそれを然程気にする事はないが、流石に文官となると、そういう訳にはいかない。それでもその腕っぷしは確かであるから、武官からの評価はとてつもない物だったが。少しずつ
調練にも顔を出す様になった事もある。
 しかし、今のヤシュバは。
 会議の間は黙っていて、それでいて腕は立つが普段は穏やかで。だから文官達は、ヤシュバが嫌竜派を殲滅した事に大層驚き、そして戸惑っていたのだ。そのヤシュバが、初めて面と向かって、宰相であるギヌスに
意見をしている。ギヌスは当然驚いただろうし、それの下に居る者達が色めき立つのは仕方がない事だろう、唯一静かだったのは、ギヌスの隣に居るユディリスくらいの物だ。この副宰相は私とそれほど歳が変わらぬ
というのに、一番落ち着いていて。今もヤシュバの発言に閉じていた瞼を開いただけで、何も反応を示しもしない。流石にギヌスが早くから才能を見出して、副宰相に付けているだけの事はある。
「行き過ぎた行動があった。そう、仰られるのだな。ギヌス殿は」
「そ、そうだ。ヤシュバ殿。私はいずれ、爬族を以前の様な、爬族が竜族に朝貢し、仕える様な形に戻したかった」
「ならば。それはこれからの課題とすれば良いのではないかな。そもそも爬族の態度が曖昧になったのは、嫌竜派が、というよりも。その起こりはランデュスの進攻に異を唱えたからだ。彼らの根本的な考えが、そうで
あったのだから。休戦中の、つまりは戦は手を休めただけであり、互いが剣を取って睨み合いの小康を保っているだけである以上、どの道嫌竜派は何をしても、ギヌス殿の望む様な形を肯じなかったと思うのだが」
「う、うむ。それは、ヤシュバ殿の言う通りだ。だが、事態は爬族の事だけではない。翼族の事もあるのだ。その事を、もっと考えて」
「翼族か。それは、考えが及ばなかった。申し訳ない。だが俺も、あの時引く訳にはゆかなかった。名ばかりの筆頭魔剣士。胡乱な竜。そう、言われてはな。俺にも我慢の限界というものがある」
 また、場がざわつく。あからさまに、小物達が怯えはじめていた。ヤシュバの眼光だけが、鋭くなっている。私も、息を呑んでいた。こんな風に語るヤシュバを見るのは、初めてだ。そもそもが、自分の部下以外とは、あまり
口を利かぬヤシュバであるし。文官となどは縁遠いのが常だから。
「ヤシュバ殿の立場は、私にもわかる。功を焦る気持ちも、おありだったとは察するが。翼族の問題は、まだまだ微妙な物だ。翼族は爬族の様に二つに、というよりも、もっと多岐に渡って様々な意見が交わされている。
最大勢力のヌバ族が一応纏め役を担う形を取ってはいるものの、その内部はかなり複雑だ。今回の事で、我らにとってはかなり悪い方向に傾いた事は、想像するに難くない」
「翼族を、敵に回しかねないだろうか」
「そうだ。だが、今のところは敵と見做す訳にもゆかぬ。僅かばかりとはいえ翼族との繋がりはあるのだし、その上で彼らは嫌竜派の爬族の様に、表立って我らに敵対した訳でもないのだから」
「では翼族がそうなればよろしいのだな」
 ギヌスが、馬鹿みたいに口を開けたまま固まっている。多分、私も同じ様な顔をしてヤシュバを見ているだろう。
「そ、それは。どういう意図として発言されておられるか。ヤシュバ殿。翼族を、翼族までも、敵に回すと言うのか」
「そうは言っていない。ただ、一層、翼族が竜族を敵視すれば。この様にギヌス殿が粒粒辛苦する必要はないのだなと、そう思っただけだ。敵ならば、我らが竜神ランデュスに仇する輩を、まさか竜族でありながら
見逃す者は、この場に居るはずがないのだからな」
 ヤシュバに驚きながら、慄きながら。それでも私は、その黒い竜を見て、上手い返し方をするものだと内心感じていた。竜神の名を出してそう言えば、大抵の竜族はそれに逆らう事はできない。結局のところここに居る
全ての者は、各々が自分の考え方を持っていたとしても、その上には竜神という存在が居るからだ。それは私とて例外ではない。例えどれ程この場の意見が纏まろうとも、竜神がそれを否と言えば、それまでだ。故に、
ヤシュバの物言いは本人の凄みも合わさって、文官の連中を相当怯ませるに足るものだった。それに、身も蓋も無い言い方をするのならば、この涙の跡地を併呑するために、竜神が進攻を命じたから、戦争が
起こったのだ。そういう意味では、翼族であろうと、最終的に望む形は服従以外はありえない。また、それは爬族の親竜派の発端でもある。最終的に、竜族以外は敵と見る。竜神の意向がそうであるからして、爬族の中には
己が竜とある程度は似通った見場をしているが故に、竜族の末席に加わろうとする動きが活発になり、そうしてそれが盛んになればなる程に、その反対派である嫌竜派も頭角を合わらす事になり、それは今日の問題へと
発展したと言っても良い。ただ、それであっても。いきなり全てを敵に回すのは得策ではない故に、ギヌスはこれまで散々苦労して、爬族や翼族との関係を保っていたのだった。そういう意味では、少し気の毒にも思える。
「竜神様のご意向を、改めて伺うべきなのかも知れませんね」
 ヤシュバの言に、誰一人言い返せずにいるのを見て、仕方なく私が言葉を吐き出す。
「翼族の、延いては、今後のこの国の動きについて。確かに爬族の問題は、この様な形にはなってしまいましたが、ある程度片付いたと言ってもいい。爬族や翼族とは良好な関係を保ち続けていたいという、ギヌス様の
お言葉もわかります。しかし今ヤシュバ様が仰られた通り。いずれは敵対する相手でもあります」
「待て、待てというに。何も、服従か否かを迫る事だけが、選択ではないだろう。例え我々がラブーワを下し、あの獣共を地に伏せさせる時が来たとしても。翼族とは上手くやれないとも言えまい。爬族は、今少し時間を
くれれば、なんとかしよう。その前に、あのマルギニーには長であってもらっては、困るのはそうだが」
「それはいくらなんでも、悠長と言わざるを得ませんね。ラヴーワが滅ぼされるのを横で見ている翼族が、自分達にその災厄が降りかからぬ事はないと暢気に考えるとは、私には到底思えませんが。ラヴーワを攻めている
時に、横っ腹を突かれたら、堪った物ではない。特に、翼族は我らを除けば、唯一空を制する者。ラヴーワに与する形になるのは困る。今回の爬族の件で、それはより顕著になった。ギヌス様はそこのところで
ヤシュバ様を責めておられるのはわかりますが、しかし嫌竜派の件は、やはりこれも、似た様な形を辿るのはわかっていた事でしょう。全滅させるとまではゆかずとも、親竜派だけで爬族全体を動かせる様に、それとなく
補佐したりとか。いずれにせよ、爬族には何かしらの対処をする必要があり、そしてそれを見たのならば、翼族はランデュスよりもラヴーワ寄りになるのは明白。なので、私はそろそろ、休戦も終える準備をするべきだとは
思いますがね。それも、竜神様にお伺いしない事には、なんとも言えませんが」
「リュースよ」
 私の言葉の直後に、ギヌスが口を挟んで来る。まっすぐに、私を見つめていた。
「急に、どうしたというのだ。今までお前は、そこまで好戦的な意見を口にする事はなかったというのに。何がそこまで、お前を変えてしまったのだ」
「別に。ただ、今回の爬族の件で、膠着状態は終わりを迎え。束の間の平和も終わりを告げるのだと、私が感じているまでです。ならば、翼族に余計な時間を与えるのはよろしくない。それに、神声を聞く者が、二人とも
同意見とあっては。公平ではなくて、面白くないじゃありませんか」
「リュース」
「老いられましたね、ギヌス様」
 がたんと、音を立ててギヌスが立ち上がる。翼が、広がっている。怒った時の癖だ。
「私は、この国を、竜神様を思えばこそ」
「そのお気持ちは、お察ししますが。しかし少々、休戦の、まやかしの平和に浸り過ぎたのではありませんか。我らは神の先兵に他ならず。それでもギヌス様がその様に仰られるのは、宰相として。この国に、竜神様に、
ずっと尽くしてこられたからだという事も、わかりますがね」
 開いていたギヌスの翼が、少しずつ閉じてゆく。それでもその顔は、落胆を示していた。
「今日はこの辺りで、お開きにしましょうか。翼族についてどうするのかは。竜神様の意見を改めて仰ぐべきだという事にまでは、ギヌス様も、異議は無いでしょうから」
「ああ、わかった……」
「ヤシュバ様も、それでよろしいですか」
「俺も、それで良い。竜神ランデュスが決めたのならば、俺は、俺にできる事をするだけだ」
 そのまま、ギヌスが解散を告げ、ヤシュバが頷くと。それで会議は終わりになる。私が席から立ちあがり、部屋を後にしようとすると。向かい側のギヌスは俯いたまま、空席のままの竜神の座へと視線を向けていた。
「ツェルガ。こんな時、お前が居てくれれば……」
 ぽつりと零されたその言葉に、私は反応を示さずに。会議室を出た。

 会議を終えて、三々五々散ってゆく文官達を私は見送る。そうしていると、未だ怖い顔のまま、通り過ぎてゆくギヌスの姿があった。ギヌスは私を一度、鋭く睨むと、そのままのしのしと速足で姿を消す。あんな風に
睨まれたのは、初めてかも知れない。それぐらい、ギヌスは今まで私を買ってくれた存在だった。少し、申し訳なくも思う。しかし今私が仕えるのは竜神であり、そしてヤシュバなのだった。私が仕えるヤシュバの事を
とやかく言われて、そのまま全てを受け入れる様な真似は、できそうにない。
「リュース」
 その場から、立ち去って。自主訓練を命じた兵の様子を少し見てから、竜神との謁見に臨もうかと思っていた私に、声が掛けられる。振り返ってそちらを見遣れば、若い竜の姿。私よりも、少し年下で。紫紺の鱗に
覆われ、その鱗をゆったりとした青のローブに包んだ男が居た。
「何か用か。ユディリス」
「そう、嫌そうな顔をして僕を見るのは、止めてほしいのだけど」
「そんなつもりはなかったのだがな」
 ユディリス・トワリスは、副宰相であり、そして私の同期と言っても良い間柄だった。私がまだ筆頭補佐ですらなく、新兵だった頃。同じくまだ副宰相ですらなく、雑用を押し付けられる程度だったユディリスと出会ったのは、
この城の中で、道に迷って途方に暮れていたユディリスを、仕方なく私が案内したのが切っ掛けだった。私の事を差別しないギヌスが見込んだだけあり、ユディリスも、私の身体的な特徴を嫌がる事はない。
 ユディリスの身体は紫紺の鱗に覆われ、翼こそない物の、角は紫紺を更に濃くした様な、ほとんど黒に近い色をした物を持っている。陽に照らされると、それは僅かに元の紫の存在を思わせる輝きを見せていて。決して
目立つとまでは言わないものの、私はユディリスの性格ともよく合う、その控えめな美しさが好きだった。
 以来、共に研鑽を積み、武官、文官と領分は違えど、私達はそれなりに親しい間柄と言えた。ただ、それも互いの身分が上がるにつれ、疎遠になる。一つには、今私がヤシュバや、そしてドラスに対して懸念している
様に。あまり私に感けてばかりいると、周囲の者からはよろしくないと思われてしまうという事があった。特に、ユディリスはヤシュバ達とは違い、文官だ。武官達が騒ぐ分には、私から多少は注意を飛ばしたりはできるが、
それが文官ともなれば、そうはいかない。そしてもう一つは。私が、ユディリスに甘えてしまうからだった。筆頭補佐という今の地位ですら、私のこの身体は、厭われ、蔑まれ、謗られる。今となっては随分と慣れきっては
いても、新兵だった頃はそうではない。その上で、立場すら持ち得ない新兵ともなれば、その扱われ方は今思い出しても悲惨の一言に尽きる。竜神の予言と祝福を受け、周りから期待されながら生を受けた私は、腹の
中からひり出された途端に、まず両親を失望させ。それでも竜神の祝福を受けた存在なのだからという建前でどうにか面倒だけは見てもらったものの、周りの目はいつも、私がそんな存在ではあるはずがないのだという
悪意と、そして確信に満ちていた。幼い頃から私は、必死に自らの腕を磨いた。自分は竜神の祝福を受けたのだから。竜神は、いつか私が、傅いて仕える事を待ってくれているのだから。それがあるから、私はまだ
かろうじて、私として、扱ってもらえるのだから。そして逃げる様に兵に志願し、家を出て、城へと上がった。しかし、その先でも。ユディリスと出会ったのは、そんな時だった。私が誰も居ない所で、ようやく一人の時間を
満喫していたところに現れた、邪魔な奴。最初の印象は、そうだった。誰にも嫌な顔をされない所で寛いでいたというのに。突然に現れた、私よりもいくらか年下のユディリスの顔を思いきり睨みつけてしまった時の事は、
今でもしっかりと憶えている。ただユディリスの方はそれどころではなかったのか、道に迷いに迷い、ほとほと困り果てていたのだろう。泣きながら飛びついてきて、私に必死に道を訊ねるものだから、仕方なく教えて
やってさっさとどこかに行けと言うと、また迷いそうだからどうか付いてきてほしいと言われ。結局そのままずるずると、共に歩いて、ユディリスを送り届けて。後日にこにこ笑いながらお礼に来ましたと言い放ったユディリスは、
避けようとした私を捕まえて。そうして触れ合う内に、私の方が今度はユディリスに絆されてしまったのだった。元々、誰とも交友関係など持てない私だ。持たないのではなく、持てない。友人などという物も、ユディリスが
初めてだった。私を避けようとしないユディリスの存在に、私はいつの間にか、依存する様になっていた。投げかけた言葉が、素直に返ってくる事すら、新鮮に思えた。そんな私は、ユディリスからすれば、滑稽な程に
哀れに見えただろうに。ユディリスはそれでも、私に接する時はいつも、朗らかで。鼻に掛ける様な仕草は一つも見当たらなかった。
 それでも、出世を重ねる様になると。私もユディリスに頼り切るのは止めたのだった。私と親しくする事で、ユディリスが仲間であるはずの文官から冷めた目で見られているのは、知っていたから。身を引かなければと
何度も思い続けて、ようやく離れられたのは、私が兵の一人から、隊長を補佐する、副隊長として取り上げられた日だった。私を祝おうとしてやってきてくれたユディリスを、追い払って。それから、今まで、それきり、そのまま。
 だから今。ユディリスに引き留められて、嫌そうな顔をしていると言われて。私は自分を恥じた。少なくとも、今の私はもう、筆頭補佐になったのだから。大手を振ってもいいはずだ。何よりユディリスも、また。今より
上があるとすれば、それはギヌスが引退をして、その後を継いだらという事になる。もう、それを気に掛ける必要も無くなった。それでも、ヤシュバやドラスには、あまり近づきすぎてはと思ってしまうのだが。
「すまないな。少し、考え事をしていた。それで、どうかしたのか」
「どうも何も。せっかく久しぶりに会えたのだから、今度、飲みにでもいかないか」
「そうしたいのはやまやまだが。場合によっては、私は忙しくなる。約束はできそうにないな」
 それに、久しぶりに会えたというのは、嘘だ。いくら武官と文官の違いがあるとはいえ、そこまでまったく、顔を合わせないというはずがなかった。私がユディリスを追い払ってから、ユディリスもまた、必要以上に私に
接触する事を止めたのだった。
 私がやんわりと断ると、ユディリスは寂しそうな顔をする。それでも、いつまでもそのままではいなかった。表情を元に戻すと、またその口が開く。
「それにしても、さっきは驚いたよ。リュースも、あんなに好戦的な事を言うんだね」
「少なくとも、それが今の、ヤシュバ様のご意向ではあるからな」
「ヤシュバ様、か……僕はあまり、あの方の事は知らないのだけど」
 それは、当然だろう。ヤシュバの事を詳しく知っているのは、竜神に限られる。それから、共に過ごしたという意味では、私だろうか。ギヌスなどはほとんど知りはしないだろうし、そういう点では、内心は穏やかではない
だろう。宰相の身でありながら、突然に現れたヤシュバ。そして、そのヤシュバがガーデルを破り、筆頭魔剣士の座についてしまった事。これに関しては、ギヌスに充分な説明がされたとは言えない。とはいえ、竜神がその様な
意向であると言われて、頷かぬ訳にもゆかぬのは事実だが。ランデュスとはまさに、竜の神であり。そして我々竜族は、その神から与えられる場で、神に尽くす事が当たり前なのだから。
「それほどまでに、君の事も変えてしまう様なお方なの」
「そうだな。何せ、ずっと私が待ち続けていた、筆頭魔剣士だ」
「ガーデル様とは、あまり仲がよろしくなかったしね、リュースは」
「そう見えたか」
「外から見ても、そう見えたよ。確かに、今のリュースは、あの頃よりは幸せそうに見える」
 そこまで、私は顔に出ているのだろうか。いや、そうではないのだろうな。あの頃が。新兵としてこの城に来て、自らの身体を厭い。確かな強ささえあれば、文句は言われまいと腕を磨いたその先で。結局は私より
弱いガーデルを、仰がねばならぬと決まった瞬間。結局、この身体では。私はそう、全てを諦めてしまったのだった。それでも私に祝福を与えて、導いてくれた竜神のために。ずっと焦がれていた竜神の声を聞く者としての
役目も任されたのだからと、懸命に耐えていた私の前に現れたのが、ヤシュバなのだった。私より強くて。私より美しく。私とは違って、誰からも好かれていて。そして私が欝々としている原因のガーデルを、あっさりと
退けてしまって。それでも。それでも、こんな見場の私では、軽々しく口を利く事も良くはないかも知れないと接したあの時も、そんな事はないと言い放って。私の青を褒めてくれたヤシュバが。
「好きだからな。あの方が。あの方のためになる事を、して差し上げたい。立派な筆頭魔剣士になるために、私ができる事は、してやりたいんだ」
 それが、あの人にためになると信じている。もっとも、そのために今、私とあの人の関係は冷え切ってしまったのかも知れないのだが。それでも良かった。寄る辺もない世界に、ヤシュバを一人で解き放ってしまうくらい
ならば。筆頭魔剣士として、ふさわしい男になってほしかった。それがヤシュバの目的を達成する事に繋がるのかは、わからない。それでも、ヤシュバには筆頭魔剣士としての力が紛れもなくあって、その上で、筆頭魔剣士で
いる限りは、竜神はヤシュバの目的に協力すると告げたのだから。ならば私にできる事は、ただ筆頭魔剣士のヤシュバに尽くす事だけだった。
 本当は。本当は、あの時。ヤシュバの手を取って。一緒に行きましょう。そう、言いたかったのかも知れなかった。しかし私は、そうする訳にはゆかなかった。多分に祝福を受けた、この身体。神の祝福を受けた私は、
もはや竜神を裏切る事は許されはしない。それは首脳部に名を連ねているのだから、当然といえば、当然だった。ギヌスや、そして今私の目の前に居るユディリスも。それは例外ではない。国の重要な情報を握っている
私達が、そんなに簡単に、国を裏切って単身でどこかへ行く事が、許されるはずがないのだ。唯一お咎めすらなかったのは、ガーデルくらいのものか。あれは、ヤシュバを筆頭魔剣士に座に就かせるために、残っていては
困る事になったし、その上でガーデル自身も、ヤシュバに負けたままランデュスに残り続けようとは思わなかったのだから、例外の様な物だが。
 それでも、許されるのなら。そう思ってしまう。ヤシュバを見ていると。何故そう思うのかは、わからなかった。ただ、ヤシュバと居ると。ヤシュバを見ていると。ヤシュバに触れていると。私は自然と、何かしてあげたく
なってしまう。もっとも、今の私は、ヤシュバにそれ程必要とされる事はなくなったから。今はただ、陰ながら応援しているに過ぎないが。
 大恩ある竜神に背いてまで、共に行ってみたいと思ってしまった。それも今の私には、負い目だった。こんな身体で産まれた私を取り立ててくれたのは、他でもない竜神だというのに。生ある限り、その恩に尽くしても、
到底返せぬ程の扱いを受けているというのに。しっかりしなければ。ヤシュバの事は、大切に思っているが。そのために竜神を蔑ろにする様な事は、あってはならない。
「そこまでヤシュバ様の事を好いているんだね」
「当たり前だ。待ち望んだ筆頭魔剣士なのだから」
「ガーデル様も、筆頭魔剣士だったじゃないか」
「それはそうだが」
 私の気持ちは、ユディリスにはわからないだろう。そもそも、ガーデルよりも私の方が強い事を理解しているのは、竜神とヤシュバくらいの物だ。それ以外の者は、ガーデルは私の上を行くと思っている。今となっては、それも
歯痒い気がする。私がこれからどの様に強さを示そうとも、姿を見せなくなったガーデルの方が強いのだと囁かれ。そしてそのガーデルが目の前には居ない事から、私の方が強いという事を、決して証明できはしないのだから。
 それでも、ヤシュバが。ヤシュバが、知ってくれているから、それで良いと思った。遠くない内に、ドラスもまた知る事になるのかも知れない。ドラスがどの程度、ガーデルと剣を交えていたのかは、わからないが。
「そういえば、ユディリス。ギヌス様のあの言葉を、お前も聞いたか」
「はて。どれについてかな」
「わかっている癖に」
 ユディリスは、聡明な男だった。武官でありながら平時は澄ました顔を装っている私のそれとは違って、聡く、思慮深い。私が何を気にしているのか、わかっているだろうに。
「会議が終わる時に、ギヌス様が呟かれた事だ。ツェルガが居てくれたら。確かに、そう聞こえた」
「聞こえていたんだね。リュース」
「当たり前だ。やはりお前も、わかっていたんじゃないか」
「そうだけど。でも、できれば知らない振りをしたかったよ。現在の筆頭補佐である君の前で、前の筆頭補佐が居てくれたら、なんて。態々君に聞かせたい訳がないし、ギヌス様にしては珍しくちょっと失礼な物言いだったな」
「ギヌス様は、それだけ私にご不満なのであろうな」
「そうではないと思うけれどね。ただ君が。急に好戦的な主張をしはじめたから」
「では、前の筆頭補佐であるツェルガは、そうではなかったと。そういう訳なのか」
「それは」
 少し、ユディリスが怯む様子を見せた。ユディリスがそうして顔を曇らせる事は珍しく、私はついその表情に見惚れてしまう。
「ユディリス。知っている事があれば、何か。教えてはくれないか。前筆頭補佐、ツェルガ・ヴェルカについては私も前に、調べた事はあるのだが。ほとんど記録らしい物は残ってはいなかった。ギヌス様が求めるという事は、
もっと平和的に物事を解決しようとする人物だったのだろう?」
 私が問いかけると、ユディリスはしばし迷った様子を見せてくる。私に伝えて良いのか、迷っているのだろう。それよりも私は、ユディリスが何故そこまで、ツェルガの事を知っているかという方が気になるのだが。
「君にはあまり、言いたくないな」
「頼む」
「……仕方ないな。君の頼みは、断りたくない。といっても、僕もそれほど詳しい訳ではないよ。ツェルガについての記録は、抹消されているし」
「そもそも、何故そんな事に? 私が調べた時も、名前ぐらいしか、まともに出てこなかったのだが」
「ツェルガは、裏切り者だからさ。竜族の、裏切り者」
「裏切り者……? 筆頭補佐の地位まで得ていながら?」
 ユディリスの言葉に、私は少し驚く。とはいえ、呆気にとられるという程ではないだろうか。調べても一切の情報が出てこないというのは、結局のところ竜神にとっては都合の悪い、或いは苦々しい記憶になっている可能性が
高い。竜神に忠誠を誓い、その上で大恩ある私からすれば、そこを竜神に問い質す訳にもゆかず。自分で軽く調べるだけが精々だったのだが。やはりツェルガの情報が伏せられているのには、そういう絡繰りがあったのか。
「僕も、さまで詳しくはない。ただ、君が筆頭補佐になった時に、ギヌス様がね。ツェルガの後を継いだのは、リュースか。そう、仰っていて。だからその時に、ツェルガはどんな人物なのかって、訊ねたんだよ。ギヌス様は、
そのツェルガとは多少は知り合っていたみたいだね。まあ、宰相を二百年以上続けてこられた方だから。ツェルガと面識があるのは当然だけど。ツェルガの件は百三十年くらい前の事だし。それで、裏切りの件だけど。どうも、
ツェルガは当時、筆頭補佐という事もあって、爬族の件を担当していたみたい」
「当時というと。戦争中で、爬族は親竜派と嫌竜派に別れはじめていた頃か」
「そう。ツェルガは嫌竜派の説得をしていたんだよ」
「説得? 何を馬鹿な事を。そんな甘い事をしているから、今日に至るまで、我々が苦労しているというのに」
「確かに、そうかも知れないけれどね。でも、ツェルガも最初は、君と同じ様な意見だったらしいよ。それでも実際に爬族と接して、何かがあったみたいで。嫌竜派の説得に当たりたいと、当時ギヌス様は相談を受けたんだって。
でも、結局は。最後には、ツェルガは裏切り者と言われる様になって。嫌竜派も説き伏せる事もできずに、行方を眩ましてしまったそうだよ」
「よくわからんが……馬鹿な男だな、そいつは。なるほど、その様な経緯があっては、代わりの筆頭補佐がすぐに立てられなかった事も、納得できる。竜神様も、慎重になられていたのだな」
 その後で、私が筆頭補佐として選ばれた。そう思えば、少しだけ私も、心安らかになれる気がする。竜神から乞われて今の席に座り続けているのだという事は、これ以上も無い程に幸福な事であったし、何よりも、
その大恩に報いるという事でもある。ヤシュバに筆頭魔剣士を続けさせる事には成功したとはいえ、現在の関係は良好とは言えず。そういう意味で、私には失態があった。もっと、精進せねば。
「だが、ギヌス様はその様な男が居たらと、そう仰るのか。……差し出口だが、あれは少々、軽率な発言だったのではないか? その様に裏切り者、売国奴と罵られている様なツェルガが、居てくれたらなどとあの場で
口にしてしまうのは。その様な裏切り者、さぞ竜神様の怒りを買ったに違いない。宰相を長く務めておられるギヌス様の言葉なら、竜神様も許してくださるとは思うが」
「確かにね。戻ったら、少し注意はしておくよ。それに、居なくなった者を求めても、詮方ない。僕達は、僕達に与えられたこの場しかないのだからね」
「まったく、その通りだな」
 ツェルガの話を終え。それからは軽い雑談をしてから、ユディリスは別れを告げてくる。
「リュース。いつでもいい。君の気が向いたら、また昔みたいに話そうよ。最近の君は、少し張り詰めてもいる様だから」
「申し出はありがたいが。お前になんでもかんでも頼ってしまいそうになる自分が、嫌なんだ。私は」
「泣いて縋る君も、可愛いと思うんだけど」
「やっぱりお前は駄目だ。あっちに行ってしまえ。……ではな、ユディ」
 背を向けて、歩き出したユディリスを見送る。その姿が見えなくなる頃、背後から足音と、そして気迫が。
「ヤシュバ様」
 振り返り、私は姿勢を正す。ヤシュバは最後まで会議室に残っていた様で、そのまま扉を閉めていた。
「リュース。これから、竜神の下へ行くのか」
「ええ。先程の事を、翼族に対するこれからを。改めてお話して。その上で、決めなければなりませんからね」
「俺の言い分は、きちんと伝えてほしいものだ」
「当然です。私があなたの代わりとして、話をしに行くのですから」
「俺では、務まらんか」
「そういう訳では。ただ、ガーデルが居た時から、この様な形を取っていたが故。ご不快と思われるお気持ちは、わからぬ訳ではありません。ヤシュバ様も話に加えて頂ける様に、申し上げてみます」
「俺は、竜神と話をしたのは、最初だけだ。あれは、不思議な存在なのだな」
「ええ。長きに渡り、竜族を守り続けた神ですから。我々とは、何もかも違っているのでしょうね。私とて、詳しいという訳ではありません。それでも、大恩がありますので。竜神様に仕えている事は、私の誇りです」
「一つだけ、訊いても良いだろうか、リュース」
「なんなりと」
 一度、ヤシュバが押し黙る。そうしながら、周りに視線を送って。他には誰も人が居ない事を確認していた。
「お前は、俺と竜神。どちらかを取れと言われたら、どちらを取るんだ」
「それは……」
 突然の事に、私は目を見開いて。しかし即座には、返答ができずにいる。嘘でも、ヤシュバをと言っておくべきだった。それで、この竜は安心するだろう。
「……申し訳ございません、ヤシュバ様。とても、選べそうにはないのですが……。それでも、私は竜神ランデュスを。斯様な身でありながら、それでも筆頭補佐として私が居られるのは。全てが竜神様のおかげなのです。
竜神様に見出されなければ、私は不吉な青い竜族として、ここには。いいえ、外にでも追い出されて、野垂れ死んでいても、不思議ではないのです。今の私の全てが、竜神様による物です。その上で、あなたの事を、
筆頭魔剣士としてお慕いしているのも、事実ではあるのですが」
「そうか」
 ヤシュバは、私のその返答に気分を悪くした様子を見せる訳でもなく。そのまま、背を向けてしまう。その背を見送りながら、私は軽く頭を下げた。

 広い大地を、馬が駆ける。
 通り過ぎる木々も、山々も。空の青さも。今の私の心に何かを響かせる事はない。軽快で単調な馬蹄の響きと、喘ぐ馬の荒い息遣いだけが、私の耳に飛び込んで。それ以外は、何も。
 そんな中で、ひたすら私は馬を駈っていた。
 馬から起こる物音以外は、何も聞こえない世界。無人の荒野。こんな風に遠乗りをするのは、いつ以来だろうか。このまま、どこまででも行けそうな気がする。私を運ぶ馬に身を預けて。前へ、前へと。
 それでも。頭上から時折聞こえる音が。それはできない事を。そして私が一人きりではない事を、教えてくれる。私の近くの大地に、影ができて。影は次第に大きくなる。私はそれに構わず、馬の具合を確かめた。まだ
いける。しかし、そろそろ休ませた方が良い。全力を出し切ると、馬は潰れてしまう。そうしては元も子もないし、それほど急いでいる訳ではなかった。ただ、今私を見下ろしている奴を、馬に頼んで離せはしないかと。そう
思って、ちょっと無理をさせてみただけだった。一人きりになれない事がわかると、私は馬の走りを緩めさせて。片腕を上げた。
 影が大きくなる。私が馬を止めると、影はそのまま少し先のところで。また更に大きくなって、それから、その影の主が大地へと降り立つ。陽射しを浴びて、その金色の鱗が眩しい程に輝いている。
「どうか、されましたか。リュース様」
「休憩だ」
「俺はまだ平気ですが」
「私の馬はお前とは違うのだぞ、ドラス」
「これは、失礼しました」
 辺りを少し見回して、大きな岩がいくつも突き出した場所に当たりをつける。
「今日は、あそこで休むか」
「はい。では、俺は一足先に行って、様子を見てきます」
 そう言って、ドラスは充分な距離を取ってから、翼を広げる。私はそれに怯える馬の首を何度か叩いて、宥めてやる。竜族に世話されている馬であっても、竜が大地から飛び立とうとすれば、流石に怯えてしまう。いくら訓練
しようとも、竜族と馬では、自ずから生命の強さという物が異なっている故に、馬は本能的に、竜族のそういう仕草を恐れるのだった。そういう意味で、私は羽ばたく事もできないので、馬からは好かれる事が多い。翼が
無いから、馬を頼っている私としても、その点は助かっている。落ち着いた馬に、もうひと頑張りしてくれと声を掛けると。私はドラスが向かった岩の連なる場所へと向かう。野宿をするのには決して良い場所とは言えないが、
無人の荒野だ。風が凌げるだけでも、良しとせねばならない。それ以上の贅沢を望んでも、どうしようもないのだから。
 岩場へ入ると、先に入っていたドラスが丁度良さそうな穴蔵を見つけ出して、手招きしていた。
「特に、何かしらの動物が使っていた訳ではない様です。臭いもありませんから」
「そうか」
 携帯していた秣と水を馬に与えると、私も一息吐く。とはいえ、それほど疲れたという訳ではないのだが。
「お前は、疲れてはいないか。正直に答えて良いぞ。私はその様に飛ぶ事ができないので、どうしても空兵の疲れには鈍感だ。はっきりと言ってくれた方が助かる」
「今のところ、問題はありません。リュース様がお急ぎになられた時は少し驚きましたが、それでも大丈夫です。良い飛行訓練にもなります」
「そうだな。空兵の訓練は、今は少々おざなりだからな」
 それは、一つにはヤシュバがまだ空を飛べないという事に起因している。筆頭魔剣士という立場であるヤシュバであるから、立派な翼があるのに、空を飛べないでいるという事を冷やかす訳にもゆかず。かといって、
筆頭魔剣士をそんな初歩的な訓練をしている所に送り込む訳にもゆかず。仕方なく今は、空を飛べる竜族の何人かに、内々に事情を話して、ヤシュバの面倒を見てもらっているところだった。ヤシュバは筆頭魔剣士となるに
ふさわしい身であろうとするために、相変わらず多忙で。飛行訓練などは大分後回しにされていたが、それでも爬族の討伐に向かった時に、のんびりと馬車で向かう事になってしまった事態を考えていたのか、最近では
それにも精を出す様になっていた。ヤシュバ程の体格となると、まず一頭の馬では身が持たない。故に、その翼が使えなければ、どうにも移動の面では差し障りがあるのだった。私一人ならば、遠慮なく馬に乗れるのだが。
 そしてドラスもまた、ヤシュバの飛行訓練に駆り出されている一人だった。剣を交える内に、ドラスはヤシュバの信頼を無事に勝ち取る事ができた様で。また生真面目な性格をしているから、当然ドラスはヤシュバを
笑ったりはしないし、その飛行訓練の手本となる事も喜んで頷いてくれた。ただ、この関係で空兵の訓練には私とヤシュバ、どちらも同席できないという事態になっている。私は元々翼を持っていないので、竜の爪の
中に居る空兵にはきちんと、翼のある竜族を隊長として立てているが。ヤシュバの方はそうではない。ガーデルは空兵として優れた才能を持っていたので、当然竜の牙の中に居る翼持ちの竜族は、ガーデルが直々に
訓練を施していた。だが、ヤシュバに代わってからはそれができないでいる。或いはヤシュバが翼を持っていなかったのならば、兵も納得しただろうが。ヤシュバには立派に一対の、黒い翼があるのだった。空兵の
竜族以外には絶大な支持を受けているヤシュバだが、空兵の者からは少し距離を置かれている部分がある。とはいえ彼らも、ヤシュバの強さは充分に承知しているので、軽んずる様な真似はしないのだが。
 ヤシュバはその辺りも、改善したいのだろう。ただ、そのせいで、ドラスは空兵の訓練には最近顔を出せていない。通常の調練ではヤシュバが顔を出さぬ訳にはゆかず。そうなると、空兵の調練をしていて、その上で
ヤシュバの時間が空いた時となる。久しぶりの空を、ドラスは満喫している様だった。
「だが、それも私の護衛では、満喫できないだろうに。ヤシュバ様も、他の者に頼めばよかったろうにな」
「俺は、不満はありません。それに、リュース様を一人で翼族の谷に送り込むなどと。ヤシュバ様が心配されるのは、当然の事。及ばずながら、俺自身も、俺が行くべきだと思いました」
「そうは言うがな。まったく、ヤシュバ様も困った物だ」
 翼族の谷への、訪問。竜神との謁見で纏まったそれは、私へと一任され。今私は、竜神の命を受けて一人翼族の谷を目指して、ランデュスから出て、北西へと突き進んでいた。その旅の護衛となるのが、ドラス
だった。私は最初、己の手下である竜の爪の中から、誰かしらを選ぼうと思っていたのだが、竜神との謁見を終えた私の下に、ヤシュバから遣わされたと言い、ドラスが断る余地も無くやってきたのだった。会議すら
通さずにここまで来てしまった事に、ギヌスへの後ろめたさを覚えるが。その説得は竜神自らがすると言われては、逆らう訳にもゆかず。付いてくるドラスを仕方なく伴いながら、私は北西へ、北西へと。翼族の谷へと
近づきつつあった。街に寄る事は最低限に留め、宿なども基本的に取る事はない。事をあまり大っぴらにしたくはなかったし、私だけならいざしらず、私の護衛として押し付けられたドラスは、かなり目立つのだった。
 陽が、傾きはじめる。それを見送り、羽織っていたマントを敷いてその上に座り込むと、携帯していた食糧を取ってから、私は壁に身を預ける。私の反対側で、ドラスもまた同じ様に。ただ、その翼は邪魔になるのか、壁に
寄りかかる事はしていなかった。
「随分邪魔そうだな。その翼は」
「そうですね。こういう狭い所では、どうにも。入口にも少しつかえてしまいました」
「持っていたら、それはそれで不便という奴なのかな。私には、わからん物だが」
「リュース様の様に、身軽に動く訳にはゆきません。空兵として別の役割は与えられますが、白兵戦の戦力としては、余程訓練しなければ些か問題ではないかと」
「そうか。今はまだ、翼の有無でそれほど分けてはいないが。そうするべきなのかな。ただ、そうすると。どうしても兵の感情としては芳しくない物が出てしまうので、避けているのだが」
「そうですね。そうされるのならば、改めて個人の身体に合った役割があるのだと強く説いて。それから、翼の有無などできちんと部隊を分けられる必要があるとは思います」
 翼の有無。それもまた、竜族にとっては気にする事の一つでもあった。同じ竜族でありながら、空を飛べる者と、それを決して許されぬ者も居る。それもまた、燻ぶった問題の一つだと言えた。
 話ながら、私はドラスが思いの外、こういう話にも興味を示す事を感じていた。それは、有り難い事だった。ヤシュバに徹底的に稽古をつけられて、ドラスの腕は益々磨きが掛かっている。最近では、まだまだ新参だと
いうのに、隊長の一人として任命も受けた様だ。若くともその腕前と人柄の良さで、思いの外他の兵からの反発は浮けていないらしいと聞いて、安堵したのを憶えている。私と剣を交えていても、良い勝負をする様に
なってきた。それでもまだ及ばないのは、経験の差がやはり大きい。補佐に回る事が多いとはいえ、私もそれなりに、少なくともドラスよりは長生きしている分、経験はずっと積んでいる。ドラスに足りないのは、
あとはそれだけだと思った。目の前に居る、この金竜ですらかなりの逸材だというのに。同じ様に経験が無いのに、あっさりと筆頭魔剣士の座をもぎ取ってしまうヤシュバは、やはり怖い。傑物とは、ああいう人物の事を
指すのだという事が、よくわかる。ヤシュバになんの経験も無いのに、今も筆頭魔剣士としてあり続けられるのは、やはりその部分が大きかった。文官でさえ、ヤシュバのその腕を見込んでいるのだ。爬族に対する残虐な
仕打ちに怯えながらも、その強さには魅かれている。それが、竜族だった。例え事務仕事に追われて、剣など取る事がない様な者であったとしても。燦然と輝く雄姿には、心を揺さぶられずには居られない。
「リュース様」
「なんだ」
「ヤシュバ様とは、その……何か、あったのでしょうか」
「何故、そんな事を訊く」
「ヤシュバ様が、大分お変わりなられましたので」
「わかるか。他の奴らには、あまり以前と変わらなく接している様だし、寧ろより強く崇拝されている様に思えるが」
「それでも。なんとなく、以前の様なお優しい方ではなくなった様な。そんな感じがします」
 爬族の一件以来、変わってしまったヤシュバの事をドラスは心配している様だった。
「それに、リュース様も。あまりヤシュバ様とはお話をされなくなりました」
「それは仕方がない。私がそうさせたのだからな。だからその分、私にはあの方を支え続ける責任がある。今回の事も、そうだ。本来ならば、ギヌス様にも相談するべき事だが。竜神様が仰る事もあって、こうして私が
出ている。何よりも、ヤシュバ様が望む事だからな」
「そうですか」
 それきり、ドラスは黙り込む。私も必要以上に口を利こうとは思わなかったので、そのまま瞼を閉じる。
「リュース様」
 うとうとと、眠りかけていた頃に声を掛けられて。私は顔を上げる。いつの間にか、陽は沈んでいた。穴蔵の入口に射し込んだ月明かりが、視界の端に。そして薄暗い中でも、ドラスの金はその存在を主張していて。そこに
不思議な存在が居るかの様に思われた。美しい竜だと思う。しかし、それだけだ。今のところは。
「どうした」
「稽古を、つけて頂けませんか」
「今からか」
「はい。移動だけでは、腕は鈍ってしまいます」
「物は言い様だな。それで、今度は何日我慢しているんだ」
「その様な事は。最近はきちんと、適当に相手を打ちのめして、処理していますから」
「そうか。ヤシュバ様もそうなられたら、良いのだがな」
 ドラスは私と身体を重ねた事である程度吹っ切れたのか。今では兵同士の決闘の後に、相手の身体を貪る事を覚えた様だった。ドラスの実力ならば、大抵の者に負けはしない。ヤシュバと同じく、見場に優れ、そして
武勇にも優れたこの金竜からの誘いを断る者は居ないだろう。ヤシュバも、そうなってくれれば良いと思うのだが。会話もあまりしなくなったというのに、それでもヤシュバは、夜になれば私を求めてくる。嫌な訳では
なかった。寧ろ、堪らなく、嬉しいと思う。私がヤシュバにした事を思えば、それこそ、筆頭補佐の座から追い出され様が、文句は言えない。それでも私がヤシュバを筆頭魔剣士であり続けられる様にしたのは。ヤシュバに
代わる人材が居ないからだった。それは、延いてはランデュスという国にとっても問題となってくる。ガーデルが居なくなり、その上ガーデルを下したヤシュバまで居なくなってしまっては。そのために、私はヤシュバを、
ヤシュバに筆頭魔剣士を続けさせなければならなかったのだった。その結果で、例え私がどれ程憎まれ、怨まれ様と。
 そんな事は、もう慣れきった事だ。大切なのは、私ではない。ランデュスであり。そして、筆頭魔剣士である、ヤシュバなのだから。
「ヤシュバ様は、いまだに、その……リュース様と?」
「ああ。困った物だな。お前の様に、さっさと別の相手を見つけられる様になってくれれば良いのだが。なにくれとなく面倒を見たのが、仇となったのかな。私の様な者にかかずらっていては、せっかくの評判も、また
落としてしまう」
「その様な事はないと、俺は思うのですが」
「気休めは、良い。お前の様な見場の奴らにその様に言われる方が、私は不愉快であるし、そんな物はただの慰めに過ぎぬ事も、今まで生きてきて私はよく知っている。さあ、稽古をつけてほしいのだったな。外に出ろ」
 私の顔をじっと見つめているドラスを急かし、その背を蹴りつけて、外へと出る。
 月の浮かんだ空。闇の中に、一つだけそれは浮かんでいて。そしてこの荒野を、優しく照らしている。街の灯りも、何も無く。煌々と大地を照らして、そして大地の上に立つ、私とドラスを照らしていて。ヤシュバが来てから、
ヤシュバと共にずっと城の中に閉じ籠っていた私にとって、それは新鮮な物に感じられた。
 月が、照らしている。私を。青い鱗が、照らされる。なんとなく、自分の存在に、たった今気づいてしまった様な気分に陥って。私は片腕で、身体を抱いた。顔を上げれば、私と同じ様に照らされて。それでも、同じ月に
照らされているのが信じられない程に輝く金色の鱗を持つドラスは、夜の中でもその存在を、まるで世界に主張しているかの様だった。その辺りは、ヤシュバとも違う。ヤシュバの黒鱗なら、こんなに主張は激しくはない
だろう。それでも、夜その物が動いている様な気配には、圧倒される。黒でありながら、決して地味ではないし、目立たぬ訳でもなかった。
 私は、そのどちらでもなかった。地味で。そして、地味な癖に、悪い意味で目立ちはする。
 抑え込んでいた、胸の中がざわつく気配に。私は束の間、狼狽えた。ずっと抑え込んでいたはずなのに。城を出たからだろうか。一時的にとはいえ、竜神の支配下から、ある程度脱したからだろうか。竜神に
仕えている。竜神にこの身を捧げている。その幸福感が、私の心をいつも支えてくれていた。どれ程他人から蔑まれ様が、笑われ様が。そんな事は、瑣末な事だと割り切れた。そして、ヤシュバだった。私の青を、
綺麗だと言う。今でも、時折思い出しては。その度に、少しだけ胸の痛みが消える気がした。嫌いで仕方がないこの身体を、ほんの少しだけ、好きだと思わせてくれた。私がヤシュバに仕える理由は、それだけで良かった
のかも知れない。
 その二つと、切り離された今。目の前に居る金色の竜を見て、私は顔を伏せた。どうして、こうなのだろうか。私は。長年抑えて、もう忘れたはずの思いが、今更の様に出てくる。
 振り切る様に、剣を抜いた。さっさと稽古を済ませて、もう眠ってしまいたい。
 だが、私が剣を構えても。ドラスは剣を抜く事もせずに、ただ私をじっと見つめていた。
「どうした、固まって。お前が稽古をつけてほしいと、言い出したのではないのか」
 私の言葉に、ドラスは身体を僅かに震わせて。思わず私は、その顔を見つめてしまう。
「すみません、リュース様」
「やる気が無いのなら、私は帰るぞ」
「申し訳ございません。その。とても、お綺麗だと思いまして」
「あぁ?」
 全力で大地を蹴って、固まったままのドラスの懐へ飛び込むと、私は切っ先を喉元に突きつける。いつも以上の速度が出たと、我ながら拍手を贈りたい気持ちになる。
「貴様まで、私を馬鹿にするのか。くだらん事を言うのなら、その首切り裂いてここに捨ててゆくぞ」
 慌てた様にドラスが数歩下がり、両手を前に出して。それでも、その内にゆっくりと、ドラスは剣を抜いた。
「失礼しました。参ります」
 その言葉を皮切りに、打ち合いが始まる。だが、ドラスの方はそれほど本気を出そうとはしていなかった。ヤシュバとの訓練を見ていれば、ドラスの力量が、今よりももう少し上だという事はわかる。どこか、上の空なの
だろうか。それでも、私もそれをあえて指摘する事はしなかった。どの道、今は旅の途中。本気でぶつかり合って、つまらない怪我をしている余裕は無い。竜神の命を受けて動いているというのに、そんな事が許される訳が
ないのだから。程々に相手をして。それでも、勝負を決める時は一瞬で。私は再び、ドラスの喉元に剣を突きつけていた。降参を示す様に、ドラスが剣を手放して。それが冷たい大地の上に、乱暴に落ちる。
「気が済んだか。戻るぞ」
「ありがとうございました」
 私が剣を引くと、ドラスが手放した剣を拾おうとして。私はそのまま、背を向ける。
「ドラス。お前、このまま更に腕を磨くつもりなのか」
「そのつもりですが」
「そうか。ならば、いずれはお前が、筆頭補佐となるやも知れんな」
「俺には、そんなつもりはありません」
「そのつもりがあるのかどうかではない。前にやり合った時よりも、お前はまた腕を上げた。どこまで行けるのかはわからんが。そういう事もあると、弁えておけ」
「俺は、リュース様には勝てません」
「私に勝でずとも、私の席が空く事もある」
「それは」
 足音が聞こえる。腕を引かれて、私は振り返った。ドラスが、私の顔を覗き込んでいる。
「どういう、意味ですか」
「さて、な。或いはそういう事も、あるだろうと。仮定の話をしただけだ。爬族の事が終わり、そしてその余波で、翼族がにわかにざわついている今。決して無い事だとは、私は思わない。それだけだ」
 それに、私はヤシュバに嫌われてしまった。勿論今でも、身体を重ねる事はあるが。しかし、それだけだ。話をしても、以前の様に会話が弾む事もなく。どちらからともなく、軽く挨拶をして、離れるだけ。或いはヤシュバは、
私の身体に馴染んでいるから。私の事を嫌っても、まだ私の身体を使っているのかも知れなかった。それでも、一向に構わないが。使われる分には、だが。
 掴まれた腕を、乱暴に払って。私は背を向ける。月が、変わらずに私とドラスを照らしていた。
「できれば、お前には。私を下して、筆頭補佐になってもらいたいものだな」
「リュース様……」
「だが、その前に。お前にはもう少し色々と勉強をしてもらわねばな。ただでさえ、筆頭魔剣士がガーデルからヤシュバ様になって。その実力は確かに素晴らしい物だが、それでも経験が浅い。上に立つ二人が揃って
経験が浅い様では、流石に危うい。時間が空いた時で良い。時々、私の仕事を手伝ってくれ」
「それが、功を奏さぬ事を願うばかりです。俺は」
「そうだな。今のままが続くのが、良いのかも知れんな」
 穴蔵へと、戻ってくる。念のため魔法で保護していた馬は、無事の様で。私はそのまま中に入ると、最初の様に床に座り込んで、眠ろうとする。ふと、目の前に気配を感じて。ドラスが膝を着いて、私を見つめていた。
「どうした」
 何かを言うよりも先に、ドラスの身体が迫ってくる。壁に預けていた身では、かわす事もできずに。ドラスが私を抱いた。
「リュース様に、また負けてしまいましたから。身体が、疼いてしまいました」
「……酔狂だな、お前は。ヤシュバ様とは、また違う。他の者に手を出して、それでも尚、私にも手を出そうというのか」
「竜は、強欲ですから。それに、俺も経験を積みました。前よりも、いくらか上手くリュース様を抱く事もできます」
「お前、負けたんだから私に抱かれるのが筋じゃないのか?」
「そうされたいのですか」
「いや、面倒だ。勝手にしろ。ただし、明日に響く様な事はするなよ」
 にこりと微笑んで、ドラスが口を合わせてくる。どうしてだろうかと、私はただ、それを考える。ヤシュバも、ドラスも、似た様な印象を最初は受けて。しかし、今はそうではない。あれ程優しく、お人好しだと思っていた
ヤシュバは、今は酷薄な面を顔に張り付けて、筆頭魔剣士としての畏怖を相手に抱かせる様になり。あれ程初々しく、ともすれば臆病とも思えたドラスは、頭角を現しては、他の竜族をも遠慮なく組み敷いていて。そして、
二人とも、何故か私を求めようとする。何も無いどころか、汚点に塗れた私に触れる事が、当人にとって良くない誤解や偏見を招くであろう事も、わかっているだろうに。
 ドラスが、入ってくる。気持ち良いとは、あまり思わない。ヤシュバとは違う。ヤシュバならば、無条件でこの身体は悦ぶというのに。心が離れようとしていても、身体はそうではないのだから、不思議な物だった。
「リュース様。翼族とは、どの様な種族なのですか」
 行為の後。余韻に浸っていると、ドラスがそう声を掛けてくる。ドラスの身体に身を預けていた私は、気怠さに襲われながら、少しだけ首を動かした。
「臆病。そう言ってはなんだが、しかしそれが一番しっくり来る種族だな。爬族の様に、その思想に違いはあれど戦に加わった者達とも違うし。かといって、水族の様に。ほとんど完全な不干渉を貫いた訳でもない。
ランデュスとラヴーワ。それぞれに良い顔をして、そして当時はその所有する資源を餌にして、無傷で生き残ろうとしていた」
「翼族の谷へ赴いても、歓迎はされないのでしょうね」
「そうだな。今は、爬族の事もある。かなり警戒されているだろうな」
「仲良くやれたらいいと、俺は思うのですが」
「お前。竜族なのだから、そういう事を軽々しく口にするのではないぞ。今はまだ、良いが」
「すみません。でも。せっかく色んな種族が居るのだから、見てみたいなと。まだ兵にもなる前、実家で畑を耕していた頃に、思った事がありまして」
 鍬を持ち、泥に塗れた、眩しい金色の竜。大分滑稽な姿だな、それは。
「もう、寝るぞ。私は眠いんだ。お前のせいでな」
 頭上から、ドラスの笑い声が聞こえる。
 次の日の朝。私は腰の痛みを感じて。そのまま起き抜けのドラスを殴り飛ばした。

 厳しい寒さが、身を刺す様だった。季節は春を既に終えて、夏に入る頃だというのに。それが、この翼族の谷では通用しない。
 見上げた高い山を、しばし眺め続けた。時折、空を優雅に飛びまわる翼族の姿が見える。山頂は、白色で彩られていた。年中を通して雪に覆われるという、霊峰イルス山だった。
 ドラスと共に、ひたすらに翼族の谷を求めて旅を続け、数十日が経過していた。谷に近づくにつれて、気温はどんどんと下がり。寒いと愚痴を零すドラスを引きずって。どうにかここまで来た。
「俺の故郷は道中にありましたけれど。それでも、こんなに寒くはなかったですよ」
 ランデュスの国境を抜けて、翼族の谷に向かうにつれ、凍える様な寒さに襲われて、ドラスはそう言う。翼族の谷と、それ以外では、まるで世界が違うのだった。もっとも、私にとっては少し魔法で細工をすれば、
然程苦も無く歩ける場所ではある。ドラスはまだそういう事には不慣れなのか、懸命に身体を震わせていた。
「お前はもう少し、魔導を学べ。ガーデルの飛翔術を使いこなせるのならば、その素養は充分にあるはずだ。膂力では目の前の相手しか殺せないが、魔導も備われば、そうではなくなる。応用もできる」
「それで、リュース様はまったく寒そうではないのですか」
「当然だ。我々には基本的に被毛など無いのだからな。その分寒さには弱い。弱点を弱点のままにしておくなど、怠慢だろう? お前、帰ったらその辺りもみっちり仕込んでやるから、覚悟しておけ」
「一緒に来るんじゃなかった……」
「あれだけ私を好き勝手に抱いておいて、よくそういう事が言えた物だな」
「帰りもまだ冷えます。リュース様の身体で、暖を取らせてほしいものですね」
「丁度良い。お前、ここで待っていろ。そして自分の力でこの寒さに耐えていろ。お前にはそれがふさわしい」
「そんな、殺生な」
「冗談だ。だが、待っていろ、というのは本当だ。すまないがな。翼族は今、酷く竜族に怯えて警戒している。谷に入るのは、私一人。そう伝えてある。そうでなくば、あの門は閉ざされたままだ」
 山から視界を外して、下ろせば。谷へと続く入口にぴたりと閉められた門が目に付いた。イルス山に続く道は、こちら側と、そしてラヴーワ側にあるだけ。谷から南側は、小イルスの連山があり、傾斜は過酷で、
歩くのにはまったく適してはいない。それどころか天候も非常に悪く、翼族すら避ける場所だという。故に翼族は、平時はラヴーワ側、ランデュス側に門を設け、何かしらの用がある時だけ、それを開いているのだ。爬族の
一件もあり、いまはランデュス側の門は基本的に閉ざされている。私が訪うという旨の使者を寄こしたから、尚更だ。破壊して入る事はできなくもないが、そんな事をすれば当然話し合いとはゆかず。たった一人で戦う
破目になる。まずは、中に入る事だった。
「それ程、長くは掛からんはずだ。耐えていてくれ」
 私の分のマントを、震えているドラスに被せてやる。そうすると、ドラスが身体を震わせる事をやめて、私をじっと見つめた。
「本当に、お一人で行かれるというのですか。あの門の中へ。いくらリュース様であろうと。もし、翼族がその気になれば」
「まあ、首は取られるかも知れんが。それはそれで、翼族を潰す口実にはなる。もしそうなったら。お前は生き延びて、ヤシュバ様に全て伝えろ」
「リュース様」
「まあ、そうはならん。襲われようが、私は生き延びて戻るつもりだ。私には竜神様の祝福もある事だしな。多少の事で、負けはしない」
 引き留めようとするドラスを無視して、私一人で門の前へと向かう。既に門前には、十名を超える翼族の男達が、怖い顔で私をねめつけていた。私は努めてにこやかに、歩み寄る。
「出迎えごくろうさまです。翼族の勇士の方々。先にご連絡差し上げた通り、私がランデュスの現筆頭補佐にして、竜の爪の団長である、リュースです。ヌバ族の長であられる、ヴィフィル・ヌバ様に、お目通り願えますか」
 一礼してそう告げると、翼族の方からざわめきが起こる。
「……リュース様、ですね。本日は、どの様なご用向きでございますか」
 翼族の中から、一人の青年が出てくる。体格も大きく、鷲の外見を持つ事から、それがヴィフィルに近しい者だという事が察せられた。私は笑顔を作って、その青年を見つめる。
「率直に申し上げます。爬族の一件により、翼族の皆様には非常な混乱に襲われている事と思われます。それでも竜族は、翼族とは仲良く手を取り合っていきたいと。そのために、私が。本来ならば、宰相か副宰相が
出るべき場面なのやも知れませんが。今はラヴーワとの戦争は休戦中でございます。手の空いている、私がその任を受け賜りました。私は、宰相と並んで、竜神ランデュスの声を聞く者。不足は無いとは思うのですが、
如何でしょうか。ヴィフィル様にも。その様に申し上げては頂けないでしょうか」
「しばし、お待ちください。それから、ここでお待たせする訳にもゆきません。今、門を開かせます」
 青年が振り返り、片手を上げる。そうすると、重苦しい門が開かれてゆく。案内されるがままに、私は単身でその中へと。翼族の巣へと入り込んだ。
 中に入ると、遠巻きながらも他の翼族が私の様子を窺っていた。見上げれば、遥か遠くまで見える大イルスの山肌。その途中途中に、穴や、篝火が目に付く。そこへ至る道はなく、それらは全ての翼を持つ者達にのみ
許された場所であるのだろう。こんな時とはいえ、私はそれが歯痒く思える。私に翼があれば、あの中を少し見学する事もできたかも知れないというのに。
「ヴィフィル様は、この大イルスの山頂の方に居られるのでしょうか」
「いいえ。リュース様がいらっしゃると聞いて。先程から、奥で待っておられます。そこには、飛んでゆく必要はありません」
「それは。翼族を束ねる方に、窮屈な思いをさせてしまいました。申し訳ございません。私に、翼が無いばかりに」
「その様な事は」
 もっとも、私に翼があったとしても、ヴィフィルの居場所は変わらなかっただろうとは思う。敵とまでは言わないが、しかし同盟相手とまでも言えない関係だ。翼を持った竜が、翼族の谷の中を飛び回り、その全容を
推し計ろうとするなどと、許される事ではないだろう。翼族はそのほとんどが、空を飛ぶ事ができる。鳥の外見をしているから、それは当然なのだが。そういう意味では、竜族ともまた違った種族だった。ただ、竜族の、
翼を持つ者達からすると。同じ様に空が飛べても、身体の造りでやはり劣る翼族は、あまり歓迎された相手とは言えないらしい。私には、よくわからない事ではあるが。翼を持つ竜族は、翼族の事を、嘴持ち、或いは羽持ち
と呼ぶ。同じ様に翼を持ち、空を飛ぶ存在であるが故に、その様な呼び方をしているのだろう。
 高いイルス山から目を離して、私はまた別の方へと目を向ける。そちらでは、隊商があり、その前で商人と思しき恰好の者達が頭を揃えて、雑談に興じていた。面白いのは、丁度三人で話をしている商人達の種族が、
それぞれ異なっている事だろう。竜族の商人は寒さが苦手なのが、よくよく服を着込んで着ぶくれしており、その向かい側に居る兎族の商人は、ふわふわとした被毛を持っているからか、それほど厚着はしておらず、その
両者を取り持つかの様に、翼族の若い男が、にこやかに何かを口にしていた。少なくとも商人にとっては、貴賤も、種族も、関係はなく。儲かるのならば、西へ東へ、容易く国を超えて来てしまうのだった。その商魂の
逞しさから来る姿は、或いはランデュス、ラヴーワ。そしてその二つに属さぬいずれか。その全ての者が望む姿ではあるのかも知れないと私は思う。もっとも、思うだけだが。私が力を尽くすのは、竜神の意向の
ためであって。そしてその竜神が望むのは、この様な光景ではないのだった。また、ランデュスがそうであるからして、涙の跡地の中で生きる全ての者達の中で、唯一神を頂いているとして、竜族にとって、
他種族とはやはり、自分達よりも下の存在に見えてしまうものだった。実際の強さも、そして生きる時間も、竜族の方が優れているのだから、それは充分に頷ける事ではあるのだが。
「お待たせしました。リュース様」
 商人達の話が聞こえはしないかと、気にしていた頃に。声を掛けられる。先程の青年が、丁寧に一礼して、私を見ていた。
「ヴィフィル様との面会が、整いました」
「ありがとうございます。親切な、翼族の若者よ」
 微笑んでそう言うと、少し、戸惑った様な顔を青年はしてくる。ランデュスとの商売上の取引はあるものの、それ以上の付き合いは無い故に、あまり竜族の印象は良い訳ではないのかも知れなかった。それはラヴーワも
また同じではあるものの、ラヴーワには空を飛ぶ種族は存在しない。魔導の一つとしてなら、余程極めればそれは成せるが。しかしそれ以外ではありえないし、そうであったとしても、そこまで魔導を極めた者は国という物に、
自分がそこに属している事にすら、関心を失う事も多い。そういう意味では、竜族との方が翼という共通点があるのかも知れない。獣とは、被毛という共通点があるのだが。竜族には、あまり被毛も持つ者は、多くはなかった。
 通されたのは、谷の奥。どんどんと狭くなる道の先に、地味な色合いの谷の中でも一際目立つ、赤い布が掛けられた場所だった。布を退けると、穴蔵となってその先に道が続いている。中に入ると、私をここまで導いた
翼族の青年は、中には入らなかった。入ると同時に、温かさが私を包み込む。魔力で照らされた道を進むと、すぐに行き止まりへと。その空間の中で一人、床に毛皮を敷き詰められた上に胡坐を掻いて座っている、老いた
翼族の男が居た。鋭い目の、鷹の男。いくつもの鮮やかな色合いの絹を羽織り、鷹の焦げ茶色の被毛と、鮮やかな絹の中に潜む、険しく鋭い金の瞳が私を見つめていた。その場で、私は跪く。
「お初にお目にかかります。ランデュスの筆頭補佐、並びに竜の爪団長の、リュースです」
「……ヴィフィルだ。リュース殿」
 重苦しく、ヴィフィルか応える。ゆっくりと頭を上げると、私はヴィフィルと束の間、見つめ合った。老いてはいても、その身体から漲る気力は、衰えていない様に思える。今も、私の事を睨むだけで殺しかねない程だ。
「突然の訪問、どうか、お許しください」
「構わない。一応、使者の方もあなたよりも先に来られた事だしな。それに、そうしてくれた方が、我が方としても助かる。翼族は、他とは違って、いくつもの部族の集まりだ。ラヴーワのそれに近いが、しかし私はその中でも、
翼族を率いる者として立っている。あまり長い事放置されてしまうと、他の部族の声は、私では抑えるのに限界があった」
「爬族の事ですね」
「そうだ。此度の、竜族と爬族の諍い。我が翼族の中では、これは非常に大きな事として見ている」
「仰る事は、わかります。今日はその事で、お話が。まず、第一に。竜族は翼族に対し、爬族と同じ様に接する事はないと。それだけでもお伝えできればと思い、ヴィフィル様の下へ参じました」
「そうか。それがどれ程信じられるのかはわからんが。それでも皆に説明するのには使えそうだな」
 そう言われて、思わず私は、笑みを浮かべてしまう。
「裏表の無い方なのですね、ヴィフィル様は」
「そういえば、リュース殿とは、初めてだったか」
「ええ。こういう事は、宰相であるギヌス様か、もしくは副宰相であるユディリスが当たる事が、多かったでしょうから」
「その二人とは、会った事がある。ギヌス殿は中々信じられるが、ユディリスというのは、よくわからなかったな。悪い奴ではないとは思ったが」
「これはこれは。確かに、私もそう思いますがね」
 その返答に。私は大分、このヴィフィルという男を気に入った。普段は竜族以外と接する機会には恵まれていないから、尚更だ。こういう男も居るのだなと、素直に感心する。
「そして、リュース殿も。中々にわからぬ方の様に思える。竜神ランデュスの声を聞く者だというから、信用するには、足るのかも知れぬが」
「ありがとうございます。この様な場ではありますが……ヴィフィル様の様な方は、私は好ましいと思っていますよ。お会いできて、良かった」
 思っていたよりも、ヴィフィルは話せる人物だった。老いてはいても、話のわからぬ人物ではない様だ。まあ、年齢だけで言うのなら、私の方が上ではあるのだろうが。
「一つ、訊いておきたい。翼族を、これからどうなさるおつもりか」
「それは、先程申し上げた通り。爬族と同じ様には、と」
「今まで通り。そう、言いはしないのだな」
 そう言われて、私は少し、俯く。一度目を瞑った。途端に、瞳がかっと熱くなる。
「申し訳ございません、ヴィフィル様。私には、それをどうにかする事は、できないのでございます。あなた様とこうしてお話するのは、中々に楽しいと思っているところなのですが」
「そこまで言われては、リュース殿を無事にここから帰す訳にはゆかなくなるな」
「ええ。私も、そのつもりです。無事で帰れるとは、思ってはいなかった」
 その言葉を皮切りに、私は身を投げ出す。座っているヴィフィルの下から、這い上がる様にして。その顔を。金の瞳を。私の目と合わせる。ヴィフィルは僅かに戸惑う様な表情をして、私から目を逸らそうとするが、
それでは間に合わない。目に力を入れて、瞼を大きく開けて。私はじっと、ヴィフィルの目を見つめる。
「お許しください。そして、どうか。死の先があるというのなら。私とあなた様が、同じ場所へ行き着く事があるのならば。その時に、私を好きなだけ責められればよろしい」
 ヴィフィルの声が、聞こえる。しかしそれは、言葉にはなっていなかった。私の瞳から解放された力に呑まれて、前へと倒れるその身体を、私は抱き留めた。

 ヴィフィルの居た部屋を後にする。外に出ると、翼族のあの青年が待っていて。そしてそれ以外の翼族は、私がヴィフィルに何かしなかったかと、確かめる様に布を退けて中へと入っていった。
「今日は、ありがとうございました。有意義な話ができました」
 私がそう言うと、青年は硬い笑みを浮かべて私を案内する。帰り道は、何事もなかった。ヴィフィルにした事も、見抜かれる心配はないだろう。例え今すぐ見抜かれても、飛ぶのは私の首一つだ。
 外へ出ると、再び門が閉ざされる。本来ならば隊商の行き来もあり、昼の間は開かれているはずだが、私に戻るなという無言の圧力を示すために、そうしているのだろうと思う。そのまま、私は歩いた。
「リュース様」
 とぼとぼと歩き続けていると、その内に声が掛けられる。ドラスの声がした。声音だけで、その気持ちが察せられる程に動揺している。
「ドラス。私の手を引け。引いて、そのまま進んでくれ。頼む」
 腕が引かれた。視界が、滲む。腹の底から、違和感が生じて。それが上ってくる気配がする。
「急げ」
 速足で、翼族の谷を後にした。堪えた。歩き続けて、その内に谷から離れ。ドラスと、ドラスが引いている馬だけが私の傍に居る事を充分に知ると。私は膝を着いて、両手で顔を押さえた。
「リュース様!」
 瞳から、激甚な熱が伝わる。思わず呻いて。そして、我慢できずに叫んだ。両目から、何かが溢れて、流れている。
 叫んで、暴れてしまいそうだった。全身に力が漲って、周辺の全てを、壊してしまいそうになる。それでも、私の身体を支えているドラスが居るから、堪えた。私と同じ様に膝を着いて、ドラスが私の身体を抱き締めている。
「どうして、こんな……こんな事に」
 その言葉に、私はある程度の冷静さを取り戻した。ああ、そうだった。ドラスは、何も知らずにここまで来たのだった。
「ドラス。私は、今、どうなっている」
 手を下ろして、私はドラスに尋ねた。ドラスの顔は、見えない。
「血が。瞳から、血が流れています。青い血が、涙の様に」
「そう、か」
「リュース様。一体、何があったのですか。これは、翼族から受けた物なのですか」
「そうではない。私は、竜神様の魔法を、預かっていた。それを、ヴィフィルに使ってやっただけだ」
 私の力だけで使える物よりも、ずっと強力な魔法。私はそれを、ヴィフィルに届けるために遣わされたに過ぎなかった。だからこそ、今機能しなくなっては困る宰相、副宰相ではなく、信用ができて、それでいて魔法に長けた
者が必要なのだった。それでも、私の身体でも危ういところだった。私の身体を通して、竜神の魔法を発動しただけだというのに。その負担は、容赦なく私の目を潰そうとするかの様だった。
「すまないが、ドラスよ。このまま、私を連れていってくれるか。今の私には、何も見えないのだ」
「そんな。リュース様、元に戻るのですよね?」
「そのはずだ。私の力なら、治療は可能だ。ただ、時は掛かる。とにかく、ここを離れてくれ。今翼族に見つかるのは、不味い。ここまでどうにか耐えていたが、これ以上は、誤魔化せない」
 それに、ヴィフィルも。今頃は、ヴィフィルの目からも、これが動いているはずだ。目を合わせた物を、次々に誘う。呪いの様なこれが。
「どうした。早くしろ」
 ドラスが動かずに、私を抱き締めたままなのを感じて。私は、声を再度掛ける。ドラスはただ、私を強く抱きしめるだけだった。
「知っていたのですか。リュース様は、こうなる事を」
「無論だ。そして、この役目は私でなければならなかった」
「ヤシュバ様は、知っておられたのですか」
「……知っている」
 束の間、ドラスが息を呑んだ様だった。それでも、再びドラスが語気を荒らげる。
「知っていながら、あなたにこんな事をさせたというのですか!? ヤシュバ様は!」
「言うな。ドラス」
「しかし」
「私が望んだのだ。私ができる事は、ヤシュバ様にして差し上げなければ」
「どうして。どうしてそこまで、なされるのですか。いくら、ヤシュバ様のためとはいえ」
「それだけの事を、私が、ヤシュバ様にしてしまったからだ。お前には、わからんだろうがな」
 爬族を、ヤシュバに殺させた。たったそれだけだった。それだけの事でしかなかった。それでも、ヤシュバの心に深い傷をつけてしまった事は、間違いなかった。それでも、戻ってきてくれた。筆頭魔剣士としての役目を
担うために。
 私にできる事は、私の全てを、ただヤシュバに捧げる事だけだった。竜神に咎められぬ範囲で、私にできる事を。私の持っている物を、ヤシュバに渡す事だけが、私のできる事だった。
「リュース様……」
「もう、いいだろう。早くしろ。いつまでもここで、無様に蹲っている訳には、ゆかんのだぞ」
 ドラスの腕が、私の背中に回されていた。それとは別に、背中に触れてくる物がある。広げられた、ドラスの翼なのだろう。今はそれが、私を何者からも隠すかの様に、包んでくれているのだろう。見えなくとも、私には
それがわかった。
「……リュース様。俺は、筆頭補佐になります」
「そうか」
「いつか、あなたを負かしてみせます」
「できると、いいな」
「だから、どうか。元に、戻ってください。そして、俺と決闘に臨んでください。俺は、あなたを負かして、筆頭補佐になって。あなたを、守ってみせます」
「そんな事は、しなくていい。筆頭補佐を追われたら、どの道私など、城に置く価値も無い。ただの、醜いだけの、青い竜でしかないのだから」
 それには、ドラスは答えなかった。
 遠くで、風の音が聞こえる。冷たい風が、私達にも。しかし、ドラスの翼に守られている私には、届かないでいる。
「馬鹿な事を」
 こんな風に、守ろうというのか。ただの、青い竜である私を。あまりにも、馬鹿げていた。筆頭補佐になれば、ドラスには、もっと別の道がある。輝かしい竜族として、生きていられるというのに。
 また、瞳から何かが零れる。竜神の魔法を行使したせいだろう。青い血が、また流れているだけだ。

戻る

© 2023 by Name of Site. Proudly created with Wix.com

bottom of page