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21.ハゼンの復讐

 空を見上げた。晴れ渡る空が、俺を迎えてくれて。それを今眩しく見ている。そして、その下にある街並みへと俺は視線を移した。
「ゼオロ様。今、馬車を。しばしお待ちください」
 ハゼンがそう言って、駆け出す。しっかりと三つ編みにした髪が揺れていた。駆け出したハゼンを見送っていると、黒い兎が、兎族の族長であるリスワール・ディーカンが軽く咳払いをした。
「ゼオロ。お前の申し出は、有り難いとは思うのだが……本当に、良いのか?」
「構いませんよ。ガルマ様は、どうしても出る訳にはいかないみたいですから。それとも、私では不足がありますか」
「いいや。寧ろ、ガルマ以外では、お前しか居ないだろうなと思うぐらいなのだが」
「なら、私に異存はありません」
 リスワールは現在ファウナックで起こっている、狼族独立の気運の様子を見に態々ディーカン領からギルス領までやってきた。独立の気運と言われても、ぴんと来ないけれど。実際に狼族の若者を中心に、狼族が八族の
一つではなく、ガルマを王と仰ぎ、竜族のそれと同じく、狼族の狼族による、狼族の国を打ち立てるべきだという主張が日夜叫ばれているらしい。リスワールはその主張を退け、くだらぬ会合を中止する様にと、ガルマの事を
促しに来訪したものの。とうのガルマは乗り気ではなく。結局、ガルマが出てくる事はなかった。
 ガルマと交わした言葉を、俺は思い出す。
「ガルマ様が行かぬのならば、私が行きます」
 リスワールが退室し、二人きりとなった部屋で。一頻りガルマを支えていた俺は、そう口火を切っていた。身動ぎをしたガルマが、一度離れる。その顔は先程までの涙を流していたそれとは違い、はっきりとした族長の
厳しい顔をしていた。
「それは許可できぬ。自分の身すら守れぬお前に、その様な事はさせられん」
「ならば、あなた様が出るというのですか」
「それは……」
 俯いたガルマは、二の句が継げない。内心は揺れているのだと思う。それだけ、ガルマの今まで繰り返してきた苦労と、そして自分に子が遺せないと悟った時の衝撃と、周りからの目は、ガルマの正常な判断力と、決断力を
奪ってしまった様だった。自分が族長として懸命に生きてきた二十余年の全てが否定されたと思えば、それを責める気にもならないけれど。
 それでも、今はガルマが。ガルマでないならば、銀狼の誰かが出る必要があった。民衆の流れを変えたいのならば。
「本当に、腑抜けですね。今のあなた様は。……私は、今狼族が独立するべきだとは思いません。例え首尾よく、ラヴーワとランデュス、どちらにも手を出されずに、第三国となる事ができたとしても。この結界の中で
生き続ける限りは、いずれはなんらかの形でぶつかる事になる。八族が七族になろうと、人数で勝るラヴーワ。人数は少なくとも、圧倒的な戦闘力を持つランデュス。この二つに、狼族が勝てる要素がありませんからね。
かといって、翼族や爬族の様な態では、いつ脅かされるのかはわかったものではない」
 それに。それに、今狼族に八族から抜けられては、困る。ラヴーワの戦力が純粋に減ってしまうし。それから、和平を夢見て頑張っているあの人も、それは望まないと思うから。あの人と一緒になる事で、狼族とのパイプ役に
なる事はできなかったというのに。今は別の形で、銀狼という自分の身を利用して狼族の離反を防ごうとしているのだから、本当、どうなるかわかったもんじゃないな。
「すまない……」
「早めに立ち直ってください、ガルマ様。リスワール様も仰られてましたけれど。あなた様の代わりなんて、どこにも居ませんよ。あなた様は、ご自分がグンサ様の代わりで。そしてそれを務める事もできなかったと、そう思って
おられるのかも知れませんけれど。それでも今ここにあるギルス領は、ファウナックは。そして、狼族は。あなた様が居たから、全て今ここに、この様な形で存在している物なのですから。初めから、あなたは何かの代わり等では
なかったと、思いますけれどね」
 それだけ言って、俺はガルマの部屋を出た。そしてその後は、部屋に戻って今度はハゼンの説得。ハゼンはハゼンで、俺を行かせる事は大反対で。
「なりません。それだけは、絶対に。いくらゼオロ様が銀狼として、類稀なるそのお姿をお持ちであったとしても。ゼオロ様は、未だ族長ではない。ガルマ様が出られれば済む話ではあっても、ゼオロ様が出て、解決できる
訳ではありません。どうか、その様な真似は」
 ハゼンの言う通りだった。俺にガルマの代わりが務まる訳がない事は、百も承知だ。そもそも族長であるガルマと、次期族長候補の中の一人でしかない俺では、何から何まで違う。俺が出ていったところで、引っ込んで
いろと石を投げられても不思議じゃない。流石に銀狼が神聖視されているこのファウナックにおいて、民衆から石を投げられるとまではいかないとは思うけれど。
「ハゼン。狼族のその、集会というか。会合というのは、どのくらいの盛り上がりなの?」
「あまり言いたくはありませんが、ここ最近は少々破目を外しているところがあるのは、確かです。街中を歩きながら大声で独立を叫ぶ様な真似をする輩も、見られる事があると」
「何もしないガルマ様に、直接文句を言うくらいじゃないといけないとリスワール様が乗り込んで来る訳だ。態々隣の領地の事なんて、本当は首を突っ込みたくないだろうにね。ガルマ様は、あのご様子だし」
「それほどまでに、ガルマ様は?」
「本当はもう、何もしたくないんだろうなって、そう思えるくらいだったよ。無理も、ないのかも知れないけどね」
「そうですか。そこまで……。私は直接口を利く事もできませんで、ガルマ様がそこまで思いつめられておられるとは、とても把握できず」
「とりあえず今回だけでも、私が。私に何ができるのかは、わからないけれど。でも、リスワール様もこうして出てきたのだから。やるだけやりたいよ、ハゼン。少なくとも私は、今狼族に独立をしてほしいとは思わないし。
ハゼンは、どう思う?」
「私には、なんとも。とはいえ時機がよろしくないと、ゼオロ様や、リスワール様が仰られるのは、わかります。それに今は、次期族長を決めている訳でございますし。少なくとも次期族長が定まり、ガルマ様がその後ろ盾
となり、補佐となる形が整ってからがよろしいでしょう。そもそもガルマ様が後継を求めて、今この様な形で次期族長を決めている事そのものが、公にはされておりません。流石に銀狼を掻き集めている以上、噂には
なっているでしょうがね。この事だけでも、大分混乱が起こるのは必定だというのに。その上今すぐ独立だなどと。無謀と言わざるを得ません」
「そこまで言うのなら。私が出る事も納得してくれるよね」
「しかし……」
「駄目だったら、すぐに引っ込むよ。元より私が偉そうに演説をして、どうにかなる話ではないしね。今だけどうにかして、それでもいずれはガルマ様が、もしくは次の族長がどうにかしないといけない問題だ」
 俺にできるのは、ただ俺の銀を見せつける事による、はったり。それから、リスワールの族長としての影響力を利用した説得だ。ガルマとリスワールが旧知であるというのは、民衆にもよく知られている様で。その
リスワールが、ガルマに匹敵する銀である俺を率いてそれを諫めにゆく。まるでガルマからの使いか何かの様な素振りで。それだけだ。それ以上の事は、何もできない。そんな権限無いし、やろうとしたら当然、ガルマの
意見はどうなのだという話になる。
「あなた様のお気持ちは、わかりました」
「ハゼン」
「ですが、一つだけ。何故、突然その様な? ガルマ様の代わりに出る、などと。ゼオロ様は、その……ガルマ様の事を」
「少しだけ、気が変わった。それだけだよ」
 ガルマの涙を見たからだろうか。ほんの少しだけ、その心底に触れたからだろうか。とにかく今の俺は、ガルマを放ってはおけないと。そう思ったのだった。或いは、昔の自分をガルマと重ねて見ていたのかも知れない。
泣いて謝り続けているその存在に。今度は、俺が手を差し出したくて。
「左様でございますか。わかりました。私が止めても、止まる様な方ではありませんでしたね、ゼオロ様は」
「ありがとう、ハゼン」
「ですが。本当に危険だと思った時には、どうか。銀狼であるあなた様に手を出す様な輩は、中々居ないとは思うのですが。それでも、彼らは今気が高ぶっているでしょうから。水を差す存在には、やはりそれが誰であれ、
疎ましく思うものです」
 それで、ハゼンの説得も無事に終える事ができた。翌日、ガルマの部屋の前に許可を取って待たせてもらい、そしてもう一度ガルマの説得へとやってきたリスワールに事の次第を説明して、俺が出ると告げると。当然
だけど、リスワールもそれには反対した。そもそもリスワールはガルマに族長としてきちんと仕事をする様にと説き伏せにきたのだから、当たり前だけど。しかしガルマが、今は決して動かない事も感じていたのだろう。結局は、
まずは俺を連れて、一度やってみようという気になってくれた。
 そして、リスワールとハゼンを引き連れて。俺は今、ガルマの館から外へ。初めての、ファウナックの街中へ出ようとしていた。とはいえ、現場には徒歩で向かう訳ではなく、馬車を使うのだけど。
 馬車が館の入口に回されて。それに、俺とハゼンとリスワールが乗り込む。
「街の中央広場へ頼む」
 御者に、リスワールが目的地を告げて。馬車が動きはじめる。馬車の中で、俺とハゼンに向かい合う様にして、リスワールが座り込んだ。
「リスワール様。護衛の方は、よろしいのですか」
「要らぬ。私は私で、自分の身ぐらいは守れる。何より、狼族の中においてそれでは余計な警戒を招くだけだ。それにしても……」
 そこでリスワールは一度言葉を切って、俺の事をじっと見つめる。
「まさか、ガルマではなく。ゼオロ。お前と行く事になるとはな」
 そう呟いたリスワールの顔は、困窮しているというよりは寧ろ、不敵な笑みを浮かべていて。まるで今の状況を楽しんでいるかの様だった。その辺りは、流石に海千山千の族長だけはある。見た目通りの可愛い兎では
ないみたいだ。
「一層、族長候補の銀狼全てが出ていくっていうのも、面白そうですけれどね」
「許可なくガルマに会う事すら難色を示す奴らが、付いてきてくれるとは、私は思わんがな」
「まあ、そうでしょうけれど」
「それに、それではまだ公にされていない次期族長を探している事が知れ渡ってしまいますよ。とはいえ、集められた銀狼の方が街を出歩き、何をなされるかは不問とされているので、もうそろそろ、なんとなくは察している者も
居るかも知れませんが。それでもその様に集合されるのは、ガルマ様もまだ、望みはしないでしょう」
「確かに。……えっと、それじゃ、私はどういう扱いでいたらいいのかな」
「もし素性を訊かれた時は、ギルス直系の、誰かの隠し子。それでいいのではないか? その銀ならば、直系の内のいずれか。それこそグンサが密かに残した子の、更に子だと言い張っても、信じてしまうと思うがな。少々
怪しまれるが、ガルマの子だと言ってしまっても、その場だけならどうにか」
 またそれかよ。どんだけ隠し子設定好きなんだよ。昼ドラかよ。
「構いませんけれど……それは、後が怖いのでは」
「なに、別に後でバレてしまおうが、まったく構わん。今だけでいい。ガルマが持ち直すか、それとも次期族長が決まって、そいつが頑張るかすればいいのだからな。だが、今はとにかく困る。ガルマが気を病んでいるという
話ですら、漏れてしまえば止める奴が居ないのだからと勢いづきかねないのだから。何よりガルマが気を病んでいるのは、それこそスケアルガが発端だと、余計に同じ旗を仰ぐ事はできぬと増長しかねない。実際、
そうなのだがな」
「私やハゼンは、それほど今の集会の勢いという物はわからないのですけれど。やはり、そこまで切羽詰まっている物なのですか?」
「でなければ、私もここまで来たりはしなかったし、今お前だけを連れて出向こうともしていないさ。本来ならば、ガルマがどうにかするべき事だったのだからな」
 それはまったくその通りで。リスワールも大分苦労をしているのだなと、俺は内心で同情する。
「それにしても、独立ですか……グンサ様の件を考えれば、理解できない話ではないですけれど。もう少し時機を見てほしいものですね」
「民にそれを言っても、詮方無い。血気に逸る若い狼族が中心なのだから、尚更だ。もっともそれぐらい愛国……とこの場合言って良いのかはわからんが。とにかく、その様な心の動きがある方が、私は良いと思うがな。
それでも時機が悪いが」
 本当に時機が悪い。よりによってガルマがへたれている時に起こらなくても。そしてはったりだろうがなんだろうが、今ガルマ以外でこれをどうにかできそうなのが、俺とリスワールが組んだ状態くらいだというのが、
またなんとも言えない。とはいえ、他種族が踏み入る事のできる問題ではないしな。俺が出ても、単なる時間稼ぎでしかないのだけれど。
 馬車が、緩やかに進む。次第に喧騒が、馬車の中にまで届いてくる。何かの叫びに、それに賛同する声。凡そ俺が頭の中で考えているデモと、それほど違わない様だ。
「ゼオロ様」
 そこまできて、ハゼンが手を俺に。その手には、俺が片手でもどうにか扱えそうなナイフが握られていた。
「あなた様がこれを使われる事が、あってはならぬとは思います。それでも、お持ちください」
「ありがとう、ハゼン。……まさか訓練するよりも先に、持つ事になるとは思ってなかったけれど」
 受け取ったそれは、手にずっしりと重く。ちょっと鞘から引き抜くと、鈍い銀の煌めきが視界に飛び込んでくる。刀の部分には流麗な線が引かれていて。どちらかといえば、お飾りのそれに近い。それでも、切れ味は
保証されているみたいだけど。銀色の、ナイフ。狼男に特別に効きそうなそれを、狼男になった俺が今持つとは。なんだか皮肉。
「大分、近づいてきた様だな。どれ、ゼオロ。せっかくだ。まずは身を隠して、その時が来たらという事にしよう。その方が印象的だ」
 そう言って、今度はリスワールが自分の持ち物のローブを一着貸してくれる。なんだか段々芝居染みてきたな。実際、はったりで全力な作戦なんだけど。リスワールから黒の、光沢のある高級感溢れるローブを
受け取ると、俺は早速それを身に着けて。そのままフードをすっぽりと被る。銀が見えていない事をハゼンに確認してもらって、頷く。
「申し訳ございません。これ以上は、馬車では」
 御者から声が掛けられる。人が、狼族が集まっているのだから、それも当然だった。
「行こうか」
 リスワールが言うと、俺とハゼンは頷く。ハゼンが馬車の扉を開けた。途端に飛び込んでくる喧騒。
 馬車から外へと出た俺の耳に、それらがまた一段と強く、襲い掛かる様に音がはっきりと聞こえる。こうして自分の足で立って、初めて見つめるファウナックの街。それに、気を取られている暇も無かった。人々の声が、
聞こえる。
 いつもの様に、恭しい仕草でハゼンが手を。俺はそれを取って。狼族の人波の中へと、入ってゆく。

 ファウナックの人込みの中を。俺はまごつきながら、ハゼンが俺の手を引いてくれる事だけを頼りに歩いていた。
 街の様子を見る余裕は無かった。というよりもどこを見ても、狼族の、人だらけで。その先にある街並みなんて物は見えたもんじゃなかった。唯一見える狼族には、灰色の、一般的な狼として連想される被毛を持った者が
多い。顔で性別や年齢を上手く見分けられる訳じゃなかったけれど、そこに居るのはリスワールやハゼンの言う通り、若い狼族が多い様だった。服が皆、薄着で、露出が激しい物が多い。如何にも年頃の、それでいて
一般的な狼族という奴なんだろう。そしてその狼族達は、皆一様に、一心にある方向を見つめていた。俺が耳を澄ますと、その方向から声が聞こえる。狼族の、独立を叫ぶ声。このままの狼族でいいのか。このまま、
このギルス領の中で生きていていいのか。次にまた戦が始まった時、またいいように猫族の、あのスケアルガに使われるのを良しとするのか。家族を、恋人を、そして今度はガルマ様を。騙まし討ちの様な真似で、
失ってもいいのか。カーナスに眠る者達は、今もまだ苦しんでいる。彼の地が未だ呪われた地と恐れられ、何人たりとも近づけぬのは、狼族の戦士が戦に負けたからではない。信じていた仲間に、裏切られたからだ。
裏切られた無念があるが故に、戦士の魂は安らぎを得られぬまま。我々はそれでも、八族として居続けるのか。猫族と、手を取り合うというのか。もう、いいだろう。戦の傷は充分に癒えた。今こそ、今こそ。立ち上がる時
ではないのか。今こそ、長年の無念と、屈従の日々に終わりを告げる時だ。兄であり、英雄であったグンサ様を失ったガルマ様を、今度こそは、我々が支えるのだ。誇り高き銀狼であるあの方が、味わった屈辱を忘れては
ならない。今度こそ、今度こそは。立ち上がれ。立ち上がれ、狼族よ。立ち上がれ。
 後半は、嗚咽が入り混じっていた。声高に叫んでいたその狼族も、感じ入る物があったのだろう。途端に熱狂的な声が上がる。そして、それには及ばなかったけれど、涙を流す狼族の姿がちらほらと見えた。なんとなく、
今のこの様子を、ガルマに伝えたいと思う。ガルマがどれだけ苦渋を舐めさせられ、それでも自らの民のために八族であり続ける事を選択したのか。わかっている者は、きちんとわかっているのだった。そのガルマの苦悩も、
数十年に及ぶ壮絶な軌跡も。たった一人残ったギルスの直系であるその双肩に、どれだけの重荷が掛かっていたのかを。今泣いている人は、知っているのだった。
 皆、知っているんだよって。そうガルマに伝えたかった。兄であるグンサと比べて、劣る部分はあるのかも知れなくても。子供が遺せないのだとしても。ずっと悩んで、頑張って、一人になっても歩いていたあなたの
事を。皆が知っていて。皆が助けたいと思っているんだよって。
「ゼオロ様」
 声が掛けられて、俺は正気に戻る。ハゼンの声。振り返ったハゼンの表情は強張っていた。手を引かれて、俺はハゼンのすぐ隣まで歩み寄る。そうすると、ハゼンが屈んで、俺と目の高さを合わせる。
「泣いておられるのですか」
「ごめんなさい。この騒ぎを、治めに来たのに」
 ここに来るまで、俺は民衆の騒動というものをもっと軽く見ていた。それが、今の名前も知らない誰かの言葉と、それを聞いてすすり泣く人々を見て、馬鹿な思い込みだという事を思い知った。短慮で、考え無しの主張を
声高に叫んで、それですっきりした顔をしていられる様な人種が居るだけだと思っていた。でも、そうじゃなかった。皆が、ガルマの事を助けたかったんだな。
「ガルマ様の事、嫌いなままだったら良かった。なんにも考えないで、ただグンサ様の件で猫族が嫌いだから、独立を叫んでるんだって思ってた。そうじゃ、なかったんだね」
「ゼオロ様……」
「それは、当たり前だろう」
 俺達の所までやってきたリスワールが、沈痛な面持ちで頷いている。
「ただそうであったのなら、私も狼族の独立には断固反対だった。しかし、そうではない。銀狼でもなく、ただガルマという一人の男が、愛されているから。自分達を守ったガルマを、誰もが守りたいと思っているから。
だからこそ、今の騒ぎが起こっているのだ。燻っていたそれが、爬族の一件の事もあって燃え上がった。これは、止められぬ。決して、誰にも止められない流れなのだ。唯一止められるのは、ガルマ本人だけだ。
だから私は、ガルマに直接会いに来た。ガルマ以外では、絶対に止められはしないのがわかりきっていたからだ」
「どうしよう。やっぱり、私じゃ駄目かも知れない。この場を一時的に治める事すら、できないかもしれない」
 それも、違う。治められない方が嬉しいと思った。無鉄砲で、声高な、無心の愛情が。ガルマを案じる声が。この場に満ちていたから。俺なんかじゃ駄目で当たり前で。今はそれが、嬉しくもあった。
「だが、それでも時勢は見なければならない。流されるのは楽だからな。さあ、行こう。例え失敗しても、その時はその時だ。ガルマを蹴り飛ばしてやればいい。それでも今は、治まってもらわねばならんのだ」
 リスワールの冷静な言葉に、俺も徐々に冷静さを取り戻す。こういうところが俺はまだ子供で。そして目の前の、若そうに見えるリスワールが、きちんとした分別を持つ大人なのがよくわかってしまう。或いはそれは、
リスワールが兎族であって、狼族ではないからなのかも知れないけれど。俺も、狼族だから。元は違うかも知れないけれど、今の俺は、狼族だったから。
 そこまで考えて、ハゼンはどうなのだろうと、俺はそっとハゼンを窺う。その表情は俺とは違って、何も感じてはいない様だった。ただ取り乱してしまった俺を、案じてくれているだけで。
「ごめんなさい。私だけ、取り乱してしまって」
「いいえ。大切な事でございますよ。ゼオロ様には」
 そっと手を伸ばして、ハゼンは俺の涙を払ってくれる。ようやく止まった涙もそこそこに、また少し進む。少しずつ、少しずつ前へ。そうして、さっきの嗚咽交じりの演説をしていた声に近づいてゆく。今はその声の主も
持ち直したのか、さっきとは語り方を変えて、また狼族の今を、そして今後の事を述べていた。その口上が途中で止む。近づいてきたリスワールに、気づいたのだろう。
「ハゼンとやら。心配であろうし、すまないとも思うが。ゼオロを私に預けて、一度隠れてくれるか」
「畏まりました」
「どうして?」
「赤狼ですから、ね」
 ぱっと、ハゼンの手が離されて。代わりにリスワールが俺の手を取ってくれる。
「すまんな。だが、あいつの背の高さを隠せる程のローブは、持っていないからな」
「リスワール様、背が低いですもんね」
「私が低いのではない。狼族が必要以上にでかいのだ。私の護衛だって態々上背が高く腕の立つ者を選んでいるだけであって、決して私の背が低い訳では、ないのだ」
 そう言って、ちょっと背伸びの様な仕草をする黒兎が、なんだか可愛らしい。その中身はかなり老練な精神が宿っているので、見た目に騙されてはいけないのだけど。そうしている間にも、距離は詰められて。そして
リスワールは、演説をしていた男の下へと辿り着く。乱雑に積み重ねられた木箱の上、一段高い場所へ。リスワールは顔を隠しもしていないから、声を上げていた男は、リスワールを見て訝し気な顔をした後に、はっとする。
「あなた様は……」
「ほう。私が、わかるのか。狼族は他種族の事など、嫌悪以外では何一つ興味が無い者が多いのだが」
「ガルマ様が、唯一他種族で心を許された方でありますから。しかし、リスワール・ディーカン様。あなた様がいらっしゃるという事は、俺を止めに来たのですね」
 声を上げていた狼族の青年は、まだ随分と若かった。銀狼としての俺よりは年上だけど。それでも物腰は俺が思っていたよりもずっと柔らかで、リスワールに対する態度も随分と丁寧だった。やっぱり、あれだけの事を
口にして、その言葉で他人を涙させられる人となると、こういう人種になるのだろうなと思う。
「お前を止めるかはともかくとして、この様な振る舞いは、やめてもらいたいものだ。今この様に狼族に騒がれるのは、私は困るし、そして狼族にも良い結果となって返ってくるのかは、わからんのだから」
「あなた様の仰る事は、わかります。けれど、俺は、そして俺達は。もうガルマ様に、他種族に阿る事、他種族との間に立って盾となって頂く事を、止めて頂きたいのです。英雄亡き後、武器を手に取った戦は一旦は止まり、
それでも戦場とは別の場所でずっと戦い続けたあの方を。英雄が現れぬ時代に、英雄と呼ばれる事がなくとも戦っているガルマ様を、支えたいのです」
「それは、わかる。充分過ぎる程によくわかる。私もお前達のその気持ちを、踏み躙りたい訳ではない。それをすれば、狼族は死に体と化してしまう。それでも、今では困るのだ。皆、私の話を聞いてほしい」
 リスワールが、声を上げる。突然現れた、黒兎に狼族の若者達は殺気に近い物を送っていた。フードを深く被ってリスワールの隣に立っている俺にも、少しはそれが及んで。俺は息を呑む。足元近くの狼族しか、俺の
目には見えないけれど。それでも、鋭い狼の群れの視線が突き刺さる様は、俺の身体を震わせるのに充分だった。人の視線が嫌いな俺が、この広場を埋め尽くす狼族の、何十、何百という瞳に映っているというのだから、
正直逃げ出したい気持ちにもなる。ハゼンが赤狼であると聞かされた宿の時よりも、ずっとその場に居る人数は多い。その上に、乱入してきたリスワールに対する印象は、決して良い物とは言えなかった。
「私はリスワール・ディーカン。このギルス領の隣である、ディーカン領を治める者だ」
「兎族がなんの用だ!」
 誰かが、声を上げた。途端にそれに続く声が、リスワールを非難する声が上がる。それは当然かも知れない。さっきまでの、リスワールの隣で今は成り行きを見守っている狼族の青年の言葉が、あまりにも今広場を
埋め尽くしている狼族の心を捉えていたから。ともすれば俺も、それに同調しそうになってしまったくらいだから。少なくともこの場に居て苦い顔をされないためには、まず狼族である事が絶対条件といっても過言では
なかった。ただ、リスワールもそれは充分に心得ているのだろう。そう言われても、特に怒る様子も見せず。寧ろ少しの間は、相手の言いたい様にさせていた。
「君達の言いたい事は、このリスワール、よくわかっているつもりだ。それでも、私の話を聞いてほしい。誇りある狼族が、今ガルマ・ギルスのために立ち上がろうとしている。彼のために何かをしたいと思い、行動しようと
している。それは、私は大いに結構だと思う。それでこそ、狼族だ。いや、寧ろ。そうではなくては、狼族ではない」
 凛とした、リスワールの声が響き渡る。一瞬声が止んだかと思えば、次にはそれに頷く声が巻き起こる。そうだ。そうだと、続く声。しかし先程までの、熱狂的なそれとは違う。今その言葉を口にしているのが、リスワール
だから。兎族だから。狼族では、ないから。彼らはまだ、リスワールの様子を窺っているのだった。あえて乗せる様な発言をしたリスワールも、それで簡単に事が運ぶとは思っていない様だ。
「その上で、それでも今少し。この騒ぎを起こすのは、待ってほしいのだ。これはガルマの願いでもある。知っている者も居るとは思うが、私はガルマとはそれなりの年月、付き合いがある。気分を害する者も居る
かも知れないが、友と呼び合う関係でもある。その私が、ガルマの意志を知っている。もう一度言う。これはガルマの願いだ」
 はったりだった。ただ、嘘とも決めつけられない、という空気が蔓延した。声がぴたりと止み、全員がリスワールを見ていた。その少し後ろに控えている俺の事を、今や誰も見ていないのは明らかだった。リスワールの
声を聞いた狼族の全てが、まるでリスワールを推しはかろうとするかの様に、凄まじい形相で睨みつけている。その中でもまったく表情を変えず堂々としていられるリスワールは、流石に兎族の族長として今まで
やってきただけの事はあった。一方俺は自分が見つめられている訳でもないのに、さっきから足が震えそうになっている。それにこのまま行けば、俺にも出番が回ってくる。それを思うと、この場で吐いてしまいそうだ。
「信じられるもんか、狼族でない奴の言う事なんて」
 ぽつりと、誰かが零した。やめて、その言い方はしないで。早くもその声に賛同するかの様に、狼族が騒ぎはじめる。リスワールは得たりとばかりに、口元を綻ばせている。嫌な予感しかしない。
「そうだな。確かに、私は兎族だ。ならば、彼に登場してもらおう。ゼオロ、出番だ」
 そう言って、リスワールは俺のローブを掴んで、実に巧みにそれを取り払ってしまう。途端に光が目に飛び込んで、俺は目を瞑って。いや、そうじゃなかった。見たくなかったから、目を瞑ったのだった。リスワールに
寄せられていた視線が、俺へと全て移るところなんて。それでも、俺が姿を現すと。俺の身体の銀が、皆の目の前に晒されると。途端にどよめきがあがった。その時になって、ようやく俺はゆっくりと瞼を開く。俺を見ている、
沢山の瞳が。怯みそうになる。背を向けたくなる。じっと、堪えた。立っているだけでも、良いのだと、懸命に自分に訴える。
「銀狼だ」
「なんだ、あの色は」
「銀色だろ?」
「そうじゃない。ただの銀では、ないぞ」
「ガルマ様に、よく似ておられる。あの銀は」
「ガルマ様の、ご子息か?」
「いや、違うだろう。そんな話は、一切聞いた事がない」
「でも、あの銀はとても綺麗だ」
「おお、そうだ。あの銀は、他の銀狼とは、違う」
「綺麗だねぇ」
「あれは、誰だ」
「誰だ」
「誰だろう」
「誰なんだ」
「誰?」
 その問いを、もしかしたら俺も、自分に投げかけてみたいのかも知れない。ギルスの血筋でもないのに、この銀の身体はなんなのだろうと。自分は、誰なのだろうと。
「紹介しよう。彼は、ゼオロと言う。ガルマの後継者として集められた銀狼の中の、一人だ」
「後継者」
 リスワールの言葉に、また場が騒然となる。銀狼の後継者を探している。それは、まだ公にはされていない。リスワールは、それをあっさりとばらしてしまったのだった。ハゼンの言葉の通りなら、それはある程度察している者も
居るらしいけれど。でも、はっきりとこんな形で言ってしまうとは。ただ、リスワールの魂胆はわかっている。今俺を見ている狼族の人達を、冷静な状態にしておきたくはないのだ。冷静に考えたら、皆が今、リスワールに
求めているのは、本当にガルマの意志を知っているのか、という事だから。そしてリスワールは、次から次に見ている者を驚かせて、それをさせまいとして。そして満を持して俺を出しているのだった。
 兎というより狸だな。
「後継者だって」
「ガルマ様の、後継者」
「確かに。あの銀なら……なんと、言ったのだ? あのリスワールは」
「ゼオロ。ゼオロと、言った」
「ゼオロ様。あの方の名前は、そう言うのか」
「あんなにお美しい銀なのに、ギルスの直系ではないのか? あのお姿は、ガルマ様や、昔見たグンサ様のそれと、変わらないじゃないか」
「大きくなったら、きっと、お二人の様になられるだろう」
「あの方が、我々を導いてくださるのか?」
「いや、だが。後継者として集められた一人だというじゃないか」
「じゃあ、まだあの人に決まった訳ではないのだな」
「でも、あの銀。本物だというのなら、他の銀狼である必要はないのではないか?」
「それは、わからないぞ。まだ子供だ。グンサ様や、ガルマ様の様に、振る舞えるのかは」
「だが。あの銀は」
 あちこちから上がる声に、俺は完全に戸惑って、何よりも驚いていた。ただの、銀色。自分ではそう思っていた。勿論、他の銀狼と比べて、確かに優れている物ではあるのはわかってきたけれど。でも、この銀である、
というだけで。目の前の狼族達は、はっきりと俺に一目置いているのが伝わってくる。少なくとも、さっきまでリスワールに向けていた、ともすれば殺意とも言いかねない程の鋭い視線は、完全に消え去っていた。後継者の
一人として集められた銀狼という事もあって、既に彼らの中では、俺が彼らを率いて未来へ走り出す姿を浮かべた人も、居るのかも知れない。生憎と彼らが期待する様な、他人を先導する様な能力は俺には一切無い
のだけど。寧ろ、俺が他人に手を取って、引き上げてもらわねばならない程に弱いのだし。
「私の言葉は、信じずとも良い。だが、ここには、彼が居る。彼はガルマ・ギルスとも既に面識があり、ガルマの意志を知る者と言っても、良いだろう」
 ただ立っているだけで、完全に固まりきっている俺は、ぎこちなく笑みを浮かべる。そんな俺を他所に、リスワールはさっさと言いたい事を言ってしまう。俺はなるたけ、邪魔にならぬ様にと振る舞いながら、さっと視線を
動かす。感触は悪くなかった。リスワールが直接言った時とはやっぱり違う。銀狼の持つ存在感という物に、俺自身が発しているのにも関わらず、感服してしまう。
 でも、それでも。
「……確かに、お美しい。あのゼオロ様は。だが。それでも、ガルマ様の代弁者となる訳では、ないだろう」
「でも、あのお姿なら。ガルマ様と関係があるのは、確かだろう。ガルマ様の意志を知っていると、信じても、良いのではないか」
「そうなると、ガルマ様は今がその時ではないと。そう、思っていらっしゃるのだろうか」
「しかし……」
 思ってた通り。それで完全に、静まるという程には至らずに。それでも意見が割れている様だった。所詮俺は、候補者の一人であって、ガルマの後を継ぐ事が決まっている訳ではない。それでも俺の銀は、この騒ぎの勢いを
鈍らせるには充分過ぎる程ではあった様で。今は再び、ざわざわとあちこちで議論が交わされている。あと一押しが足りない感じだろうか。実際に俺は、ガルマの考えはわかっている。ガルマの気持ちはともかくとして、
その頭は決して耄碌している訳ではないから、今狼族が独立をするのは、決して妙手だとは思っていないだろうという事も。しかし、それでも。ここにガルマが居る訳ではなく。そして彼らが、その状態でははっきりと、
ここまで昂った感情を抑えられない事も、俺にはよくわかっているのだった。やっぱり、はったりだけでこの場を治めるには、事を起こすのが些か遅かったのだろうな。
 一歩、前に出る。リスワールが俺の顔を見つめてくる。大丈夫なのかと。俺は、静かに頷いた。
「皆さん」
 俺が口火を切ると、さっと議論は止む。一瞬にして、全てが静寂に包まれて。その場に居る狼族が、耳を立てて、俺の方へ向いていなかった狼の耳が、俺の声を聞こうと一斉に向く様は、面白い様な、怖い様な感じが
して。怯みそうになる自分を、必死に抑えた。
「初めまして。まずは、自己紹介をさせて頂きます。ガルマ様の呼びかけに応じ、次期族長候補の一人として、このファウナックまで来た、ゼオロと申します」
 何度も言葉を詰まらせさうになりながらも、俺はどうにか、まずは自分の紹介を始める。まずは、知ってもらう事だった。そして、はったりはここまでだった。誰かの隠し子だとかいうのも、止めにした。あとはただ、俺が
感じている事を、俺の言葉でぶつけるだけだ。
 俺がはっきりと、次期族長候補の言葉を告げると、僅かに声が上がる。狼族が、銀狼が、はっきりとそれを告げた事が、彼らにとっては、何よりも重要な事なのだろう。ようやくリスワールの言葉を信じた者も多く、食い入る
様に俺を見つめている。汗が、全身から噴き出しそうな心地になる。
「今日ここに私が参上したのは、所用により、ガルマ様が直接いらっしゃる事ができないためです。リスワール様の頼みもあって、私がここに来ました。当然、族長ではない私が、何を言っても、仕方のない事だとは
思います。ガルマ様のお考えを告げたとしても、皆様がそれを聞いて納得できるとは、思ってもいません。私も先程、この方の」
 そこで一度言葉を切って。リスワールの隣で、俺の姿を見てから、ずっと目を見開いて俺を凝視している狼族の青年へと視線を向ける。そうすると、青年は俺に一礼してくれた。それに笑顔を向ける。
「この方の、熱心な言葉を拝聴しました。私は故あって、ギルス領よりも外の生まれで。そちらから参ったがために、狼族の、そして銀狼の、本当の事情という物を、ここに来るまでは深くは知りませんでした。けれど、
ここで口にされた言葉には、はっきりと胸を打たれました。皆さんが、狼族が。ガルマ様を心からお慕いしている事。そのガルマ様のためになる事を行いたいという想い。支えられるだけではなく、支えたいのだという
願い。一つ一つが、とても胸に響きました」
 言いながら、さっきの光景が思い返されて、また少し涙が流れてしまう。ガルマが、ここに居てくれたらいいのにな。あの様子だと、もう随分と、こんな声を聞いてはいないのだろうか。自分が出ていくと、皆がそういう顔を
するのは当たり前の事で、本心がわからないという事もあるのだろうけれど。
「私がお会いしたガルマ様は、ご自分が、きちんと狼族の事を率いてこられただろうかと、とても悩んでおられました。兄であるグンサ様の様に、自分はしっかりと振る舞えていられるのだろうかと」
 一瞬、ざわっと声が上がる。これは、知らせていいのか正直迷うところだった。施政者の弱気な姿は、そんなに晒して良い物ではないだろう。ともすればそれは、その背中に付いてくる者に疑問と不安を抱かせてしまう。
「けれども。ガルマ様のそのお考えも、杞憂だという事が、よくわかりました。ここに居る人の、声が。ガルマ様の事を想って、涙する姿が。外から来たばかりの私にも、よくわかりました。その上で、私の言葉など、なんの
価値もないのかも知れませんが。聞いて頂けると幸いです。狼族の独立は、未だ、時期尚早だと思います。これは、ガルマ様とお話して、ある程度考えが一致する事でもありました。大きな理由の一つとしては、今私が
ここに居る事。つまりは、次期族長候補を探している事があるからです。ガルマ様も、リスワール様も。いずれは狼族の独立が。今この場に響く声が、押さえようも無く溢れる事を、よくよくわかっておられます。しかし、
それでも。どうか、お願い申し上げます。もう少しだけ、時間を頂けませんか。ただの候補者の一人に過ぎない私が、こうしてこの場に立って、こんな事を申し上げるのは、とても僭越な事だとは思っています」
 ゆっくりと、頭を下げる。あとはもう、どうにでもなれ、だった。これで騒ぎが治まらないなら、さっさととんずらするしかない。
 ざわめきが、聞こえた。それに、俺は身体を震わせる。ああ、駄目か。やっぱり、駄目か。そりゃそうだ。勝手にやってきた見知らぬ銀狼が、何を勝手に言っているんだと言われたら、本当に、それまでだ。
「ガルマ様だ」
「ガルマ様がいらっしゃった」
「え?」
 思わず、俺は顔を上げて。そんな声を漏らしてしまう。遠くを見れば、狼族の波が割れるのが、見えた。その先に、確かに見える、銀の輝き。遠目でも、はっきりと見える。俺と同じだという、銀の輝きを持った銀狼。前を
見ていて、鼻先以外自分の姿を確認できない今の俺にとっては、ただ一人の真の銀狼。本当の意味でも、たった一人残ったギルスの直系である、ガルマが。そこに居た。陽の光を受けたその姿は、まさに候補者として
集められた銀狼などは話にならぬ程に、輝いていた。
「ガルマ……」
 隣に居たリスワールが、ぽつりと零した。リスワールの表情は、痛々しい物を見たという顔をしていて。確かに、それはそうだった。陽の下に現れたガルマ・ギルスの姿は、夜会で見た時よりも、昨日薄暗い中で見た時
よりも、更にやつれた様に見えた。それでも上背があるから、決して老いぼれたという印象は受けなかったけれど。それは、道を空けた狼族も思った様で、皆が口々に、ガルマの心配をする声を上げた。
「静まれ」
 よく響く、低いガルマの声が上がる。ぴたりと、声が止む。息遣いすらも、大きな物は控えるかの様で。その中で、ガルマは立っていた。まっすぐに俺を見ていて。俺もまた、今はガルマを見ていて。見つめ合っている
俺達を、その間に佇む全ての人が、何度も首を動かしては見ていた。まるで今まで俺とリスワールが口にしていた言葉が、本当の事であったのかと推し計る様に。
「ゼオロよ」
「はい」
 静まりきった場では、大声を出さなくても、互いの声がよく聞こえて。ガルマが俺を呼んで、俺が短く答えた事も、よくよくこの場には響いていた。俺の返事を聞いて、ガルマは口元を僅かに緩める。
「すまなかったな。大事なお前に、厄介事を押し付けてしまった」
「その様な事は」
 ガルマの言葉で、場に僅かに活気が戻る。少なくともガルマは、俺の存在を認知していて。そして俺がこうしている事も、理解していた。それが知れ渡っただけで、状況は先程とはまったく別の展開へと移る。
「皆、聞いてくれ。少しの間臥せって、表にも出ていなかったが、私は大丈夫だ」
 誰かが、声を上げる。ガルマの名を呼ぶ声。それから、その身体を心配する声。俺がファウナックに来る前までのガルマの事はわからないけれど、ハゼンは、ガルマが子を遺せずに気を病んでいると言っていたから、
きっと表に出ずに、あの内郭の自室で動かずに居たのは、本当なんだろうな。
「その上で、皆に言っておく事がある。後ほど正式な発表をするつもりではあるが、私の後継者候補の件についてだ。そこに居るゼオロとリスワールが言った通り、今私は、それを求めて、このファウナックにこれはと思う銀狼を
集めている。その点は、相違ない。だが私は、まだ族長の座を降りるつもりはない。今日ここで上げられた声を、私も聞いた。遠くではあったがな。率直に、言った方が良いのかな。……とても、嬉しかった。館で一人
思い悩んでいたのが、馬鹿に思える程だ。私はまだ、お前達の族長であり続けたい。今まで、私は銀狼であり、族長であり。そして、英雄グンサの弟として振る舞っていたから、中々こうして、率直に物を言う場には
恵まれず。何かを報せるにしても、私自らという事はほとんど無かったが。今だけは、私の口から言わせてほしい。こんな私に付いてきてくれた事、本当に嬉しく思っている。ありがとう」
 その言葉を言い終えた時、周りからはけたたましい歓声が上がった。もう俺も、視線に晒される事はない。その場に居る誰もが、ガルマを見ていたから。歓声はやがて、一つの言葉へと集束してゆく。
「ガルマ様、万歳!」
「狼族の英雄! 狼族の王! ガルマ・ギルス!」
「ガルマ・ギルス、万歳!」
 一斉に、その言葉が唱和される。それを見て、俺はようやく自分の仕事が終わった事を悟って。ほっと一息吐く。ガルマにも、自分が今までやってきた事が無駄でも、誰かの代わりでもなかった事が、伝わった様だった。
割れんばかりの喝采の中、やがてガルマが、すっと手を上げると、唱和の声が止む。
「先にも言ったが、そういう事情もあり、私は今のところ狼族の独立そのものを、考えてはいない。それに私は、兄から。グンサ・ギルスからも、狼族の事を託された身だ。私を支えようとする声は、とても嬉しく思っている。
それでも、ゼオロが口にした通り、どうかもう少しだけ、待っていてはくれないか。皆が無念に思っている事は、何よりも私の無念でもある。それでも私にとっては、英雄グンサの事よりも、今を生きる者達の方が大切だ。
今回の事で、誰も罰する事はせぬ。私はお前達の事を、二十余年、牙を抜かれた態で過ごしても尚、自らの矜持を失わずに立ち上がろうとする狼族を、誇りに思っている。私からの言葉は、以上だ」
 再び巻き起こる、声。ガルマの名を叫び、ガルマを求め、ガルマを讃える声。それを聞いて、ガルマが背を向ける。
「上手く行ったのでしょうか」
「想像以上にな。ガルマの口からはっきりと、今はその時ではないと告げられた。これで、しばらくはなんの問題も無いだろう」
 隣に居たリスワールが、俺の手を取ってくれる。顔を上げて見遣れば、リスワールの顔は晴れ晴れとした笑顔を見せていて。そうしてると、やっぱり可愛い兎の印象を強く感じる。
「お前のおかげだ、ゼオロ」
「私は、何もしていないのですが。ほとんど立っていただけで」
「ガルマを引きずり出したのは、お前だろう。昨日、私か会ったガルマは、少なくとも今日ここに出てきてくれる様な状態ではなかった。お前が話をして、お前が出ていったと知ったから、ガルマはここまで来てくれた」
「ガルマ様の、本来のお力でございますよ。ずっと塞ぎ込んでおられたから、つまらない事で惑わされてしまっただけで」
「そういう事に、しておくか。さて、一度ガルマの館へ帰ろうか。いつまでもここで話をしていても仕方がない。ガルマが、次期族長についての発表をするというのなら、私としてはそれに一枚噛んでおきたいし、兎族の
族長として、それを後押しもしておきたい。狼族はやはり、他種族との軋轢があるのは確かだからな。独立を避けられた今、微力ながら、私にも橋渡しの役目はできるだろう」
「本当は、リスワール様が一番凄いと思うのですがね、私は。狼族の地まで、ほとんど単身で乗り込んできて。こんな所に平然と立って、まんまとやりたい事はやり遂げてしまわれるのですから」
 本当に侮れなくて、恐ろしいのは、結局のところ目の前の黒兎ではないのかと思う。俺がそう告げると、リスワールは返事もせずに、ただ口元で笑みを浮かべる。やっぱり怖いと思う。
 リスワールに促されて、一度会釈を済ませると俺達は積み上げられた木箱から下りる。下りる前に遠くを見れば、ガルマの姿が人波の向こうに消えるところで。ようやく視線から解放された事もあって、足早にその場を
後にしようとする。
 その時、だった。不意に聞こえた、耳を劈く叫び声。雄叫び。俺が耳と顔を同時に上げて、音の方を向いた時。俺に向かってくる、赤の被毛が見えた。一瞬、ハゼンかと思った。でも、そうではなかった。大振りの
剣を一振り、抜き身のまま構えて走ってくる赤の被毛の狼族。赤狼。目を血走らせて俺を見ている様は、狙いが俺である事を、何よりも雄弁に物語っている。
 リスワールが声を上げた。俺はといえば、丁度大地に降り立ったところで、声がした方を見たものだから、体勢を崩している。ずっと、待っていたのだろうなと思う。この時を。振り上げられた刃が、俺の下へと。その時に
なって、俺の腕が突然引かれて。そして俺を庇う様に、また赤の被毛が飛び込んでくる。
 赤と赤がぶつかって。そこからまた、更に赤が上がった。上がった赤を見て、炎の様な真っ赤な被毛と、飛び散る血の赤は、違うのだと思った。俺を庇う様に前に出たハゼンが、胴を切られて。それでもハゼンはそれで
黙ったままにはせずに、素晴らしい速さの蹴りを放つ。それは相手の赤狼の顎へ吸い込まれる様に入って、その一撃で相手は吹っ飛んで、そのまま動かなくなった。両足を地面に着いたハゼンが、そのまま
膝を着く。続いてそれを追うかの様に、その身体から血が流れて。石畳の上にいくつもの血痕を作っていた。

 ガルマを見送るための歓呼が、一変していた。遠くの方からも、声が聞こえる。
「ハゼン」
 腕を引かれて、そのまま尻餅をついた俺は慌てて立ち上がると、ハゼンへ近づこうとする。血が、まだ流れている。具合はどうなのだろうかと、手を伸ばす。
「お逃げください、ゼオロ様」
 ハゼンの言葉と、俺の腕がまた引かれるのは同時だった。顔を向けると、リスワールが俺を見ている。
「何をしている。早く逃げるぞ」
「ハゼンが」
「今は逃げろ。ガルマももう、この騒ぎには気づいたはずだ。向こうも襲われたみたいだからな」
 腕を引かれて、でも俺が動けないでいると、リスワールが舌打ちをしてから、ローブの中から短い棒を取り出してそれを振るう。そうすると一瞬にして棒はリスワールの身長よりも長く伸びて、リスワールが俺を突き飛ばすと、
たった今まで俺が居た場所で、金属のぶつかり合う音が響いた。俺が振り返ると、リスワールと、さっきの赤狼とは別の赤狼が、剣を持ってリスワールと対峙していた。
「ガルマの下へゆけ! ここでお前を怪我させたら、ガルマに文句を言われるのは私なんだぞ!」
「ゼオロ様、お早く」
 二人に促され、俺はようやく我に返って、慌てて走り出す。道が、空けられた。俺を見て道を空ける人も居れば、俺の後ろで、俺を追いはじめた相手を見て慌てた者も居たのかも知れない。いずれにせよ、今は走るしか
なかった。途中、一度だけ振り返った時。ハゼンは立ち上がって構えを取っていて、リスワールも自分の身は自分でと言ったのは本当の様で、まっすぐに棒で相手を突くと、何か特別な魔法が籠められていたのか、突かれた
相手がかなりの勢いで吹っ飛ばされて、木箱に激突しているところが見えた。大丈夫そうだ。でも、ハゼンは。
 俺が確認する事ができたのは、そこまでだった。人波に消えた二人の無事を願って、ガルマの下へ。それほど離れてはいないはずだ。ガルマの方は、大丈夫なのだろうか。それも背が低い俺は、確認する事はできないでいる。
「なんだ、なんの騒ぎだ!」
「赤狼だ、赤狼がガルマ様を。それからゼオロ様を」
「逃げろ」
「どこだ、赤狼は。お二人を守れ」
「ゼオロ様」
 人込みの中から、飛び出してくる狼族。一瞬俺は身構えてしまったけれど、それは館の使用人である様だった。
「こちらです。ガルマ様が、お待ちでございます。どうか、振り返らずに」
 走りながら俺は頷いて、指を差された方向へ。俺を迎えた使用人は、俺とは一緒に来る事もなくて、俺の後ろに付いていた追跡者を迎えている様だった。
 走りながら、情けないなと俺は思った。何かあれば俺はこうして、守ってもらうだけの立場でしかない事が、悔しく思う。強くなりたいと思っても、俺にはその素養なんて、何一つ無い事もよくわかっているから。俺にできるのは、
ひたすら邪魔にならない事だというのは、わかっているんだけど。方々で、声が上がっている。さっきまで俺を見つめていた人達の内の何人かも、今俺を追っている相手を押さえようとしてくれているみたいで。俺なんかの
ために。俺の事を知って、まだ間もないというのに。俺が本当の意味での銀狼ではないかも知れないのに。守ろうとしてくれる。なんなんだろう、俺。そんな事をしてもらう価値が、俺にあるのかな。
 それでも、足を止める事は無かった。今はただ、自分をここまで逃がしてくれた人達の努力を、無駄にしない事が大切だったから。それにしても、何故、赤狼なのか。見た限りでは、俺を、ガルマを今狙っているのは、
赤狼の集団の様だった。誰かの声も、赤狼だとはっきりと告げていた。赤狼の事は、わかっている。それも本で読んだから。ハゼンが俺に自己紹介したそれにも嘘は無く。でも、何故このファウナックで、なのだろうか。
 各地で銀狼が殺されている。赤狼であるから、疑われる。ハゼンの言葉を、思い返した。その流れが、ここにも及んだ。それだけの事なのだろうか。
 雄叫びが、聞こえた。咄嗟に振り返る。まだ残っていた赤狼が、そこに居る。俺に飛び込んでくるそれを見て、本当に、炎の様だなと思う。それが、いつかクロイスを庇った時に、炎の中から飛び出してきた狼族の
男を思い出させた。あの時とは、違うけれど。庇って倒れたのはハゼンで。俺は、庇われた方で。
 俺と男の間に、誰も居ない。俺は咄嗟に、腰に隠していたナイフを抜いた。でも、対峙は避ける。成人の立派な体躯を持つ狼族相手に、子供の俺が敵う物ではなかった。
「ゼオロ!」
 ガルマの声が聞こえた。近い。でも、まだ人が居る。周りには人が居て、俺の道を空けてくれる人が居て。いつの間にか、また俺を狙っている赤狼を止めてくれる人が居て。それでも自らの進行を止めようとした赤狼は
人を振り払って、俺へと飛び込んでくる。その弾みに足を滑らせたのか、倒れ込む。俺は更に逃げようとして、不意に目の前に壁が迫っているのに気づいた。ちゃんと、逃げていたはずだけど。人込みを抜けよう
としている内に、徐々に方向を誤っていた様だった。逃げられない。逃げられない。
 束の間、迷った。でも、それもすぐに止めた。鞘を投げ捨てて、右手でしっかりと柄を握る。掌に痛みが走る。それぐらいでないと、駄目だ。それぐらい強く握らないと、俺の力では。倒れた赤狼は、丁度立ち上がろう
としているところだった。目を見開いて俺を見ていて。その手にはしっかりと剣を握ったままで。全身から、俺への殺意が漲っている。
 そこまで、俺に死んでほしいのだろうか。銀狼が憎いのだろうか。訊いてみたくなった。でも、そんな余裕も今は無さそうだった。俺は地を駆けて。その赤狼の下へ。赤狼を迎える様に屈んで。
「ごめんね」
 ナイフをその下に滑り込ませる。被毛に邪魔されぬ様に、被毛の伸びる方向から、縦に当てる。首に当てる。そのまま、切り払った。刃がそれほどまでに、鋭かったのか。俺が期待していた以上の効果を、俺の振るうナイフは
上げてくれた。空気の抜ける様な音と、赤い被毛から赤い血が飛び散って、僅かに俺を睨んで、何か口を開けようとした赤狼の男は、それでがっくりと地に頭を落とす。首から飛び散った血が、俺を濡らしていた。一撃で喉を
切断したナイフも、銀色が赤で塗れていた。俺の身体中が、真っ赤に染まる。
 まるで、赤狼みたいだ。
「ゼオロ」
 いつの間にか、俺の傍へとガルマが来ていた。そして俺達を狙う様に、また別の追手も。それでも、ガルマが軽く手を払うと、あの青白い炎が広がって。思わず怯んだ追手がそれを剣で振り払おうとすると、触れた切っ先が
消滅する。
「下がれ。それに触れると、死ぬぞ」
 それに怯んでいる間に、ガルマの指図が飛んだのか、赤狼が取り押さえられる。こんな時だけど、俺はガルマの強さを理解する。兄であるグンサに及ばないと嘆いていたから、実際の強さはそれ程でもないのかと
思っていたけれど。まったくそんな事は無い様で。そんなガルマは俺と、俺の前で事切れている赤狼の男を交互に見つめていた。
「殺したのか」
「はい」
「そうか。お前に荒事ができるとは思っていなかったが、そうではなかったのだな」
「ガルマ様。ハゼンを、助けてください」
「ハゼンか」
 俺が逃げてきた方向を、見つめる。すると、そちらの方向からやってくる、ハゼンの姿が見えた。流れた血が、足に纏わりつく白を染めている。少し足取りは覚束なかったけれど、それでも俺達の下へと。ガルマが炎を
取り払って。そうすると、ハゼンが俺の前に辿り着いた。
「申し訳ございませんでした。ゼオロ様のお手を煩わせて、この様な真似まで」
「そんな事、いい。ハゼン。傷は、大丈夫なの」
「ご心配には、及びませぬ。この程度では、死にはしません」
 それに、頷く。ハゼンは俺が殺した赤狼を、じっと見下ろした。ハゼンは、何を考えているのだろう。ハゼンと同じ赤狼を、俺が殺めてしまった事を。
「また、無茶を」
 屈んだハゼンが俺の手を取る。そこで俺は、まだナイフを強く握ったままだった事に気づいた。ハゼンが俺の手をゆっくりと開いてくれる。強く握り締めていた俺の手は、中々動かなくて。それでもどうにか開くと、ナイフが
零れ落ちる。そうして、俺の手を包んでくれる。俺の手が、俺の身体が、震えていた。人を、殺してしまった。はっきりと手に、今でも肉を切り裂いた感覚が残っている。
「申し訳ございません。あなた様のお手を、汚させてしまうとは」
「ハゼン」
 手を取られて、ハゼンはそれに頬を擦り付ける。まるで、汚れた俺から、汚れを掃うかの様に。俺は手を引いて、それを止めさせて、まっすぐにハゼンを見つめた。
「私は、お前にだけ汚い事をさせるつもりはないよ」
 口では、そう言っていた。けれど、身体の震えは止まらない。人殺し。人殺し。頭の中で、何度もその言葉が躍っている。ハゼンにも、それは伝わってしまったのだろう。黙ったまま、ハゼンは俺を抱き締めてくれる。返り血
とハゼンの身体から流れる血で、俺はまた赤く染まる。少しずつ、俺の震えが治まってくる。こんな時でも、俺の事を優先してくれるんだな。傷が、痛むだろうに。
「ハゼン様……」
 どこかから、声が聞こえる。ハゼンがそっと俺から顔を離して、声のした方へ。俺もそちらを見ると、ガルマの炎に阻まれて取り押さえられていた赤狼が、それでも頭をもたげて、ハゼンを見ていた。狂おしい程に見開かれた
目からは、涙が流れている。
「何故なのでございますか、ハゼン様。憎むべき銀狼を、何故あなた様が、庇われるのでございますか」
 俺は僅かに身を震わせて、ハゼンを見た。ハゼンはただ、地に伏した赤狼を見つめている。
「私は」
 その口が、ゆっくりと開かれて。ハゼンの言葉が聞こえる。何かを詰まらせたかの様に、何かに苦しんでいるかの様に、ハゼンの声音はいつもとは、先程までとは違っていた。
「私は、ゼオロ様に仕える者だ。ゼオロ様に危害を加えようとする者を、見過ごす事はできない」
「裏切り者!」
 赤狼の男は、最後までハゼンの言葉を聞いてはいなかった。ハゼンが俺を取ったという事をはっきりと認識したその男は、そう、ハゼンを罵ったのだった。ハゼンの表情が、歪む。とても、辛そうな顔で。
 男が、そのまま連れられてゆく。立たされて、歩かされても、その赤狼の男は最後まで、ハゼンの事を睨んでいた。裏切り者。二度は、そう言わなかった。ただ、口にしていないだけで、その男の心がその言葉で
染まっているのは、充分にわかっていた。その男が見えなくなるまで、ハゼンは瞬きすらせずに、見つめていた。それでも、やがては見えなくなる。そうなると、ハゼンはただ、俺をまた抱き締めてくれた。
 その後は、ガルマに促されて俺達は館へと戻った。合流したリスワールも怪我は無かったのか、俺とハゼンを見て寧ろ心配そうな顔をしていた。血塗れの俺に、実際に切り付けられたハゼンに。とても、大丈夫には
見えなかっただろう。
 ガルマの館へ引き取ると、ハゼンは大急ぎで治療を受けて。そして俺は、自分が何をされているのかもわからぬまま、血塗れの姿を使用人達の前に晒して、彼らを心底驚かせてから、風呂場へと担ぎ込まれて身体を
清められた。一人で良いなんて言う余裕も無くて、いつもは嫌がっていた使用人の介助も受け入れて。気づけば自分の部屋で、ベッドの上に座ってぼーっとしていた。全てが、あっという間だった。一つだけ憶えている事が
あるとすれば。ハゼンが怪我を負った事で、従者としての務めを果たす事が難しいから、誰か他の者を迎え入れてはと言われた時に、黙って首を横に振った事だろうか。だから、夜を迎えた今も、隣の従者の一室は、
ハゼンが。治療を終えたハゼンが、いつもよりもずっと早く横になって休んでいる。様子を見たかったけれど、傷に障るからと、しばらくは会う事も許されなかった。やっぱり、無理をしていたんだな。
 綺麗になった自分の銀を見つめる。右手を上げても、そこに血の跡は見当たらない。残っているのは、見えないけど、この手に残っている確かな感触だけだった。それ以外は、何も。憶えてもいなかった。夢中で、
必死で。そして、何よりも。俺を庇って、そうして裏切り者と同じ赤狼から吐き捨てられて、傷ついた表情を見せたハゼンの事の方が、ずっと記憶にこびり付いていた。薄情なだけじゃなくて、残酷だったんだなと、自分の
事を少しだけ理解できた気がする。人を一人、殺してしまったのに。それを懺悔しようという気にもならない。もっと、違うのだと思ってた。もし誰かを殺してしまったら、もっと後悔して、もっと、自分がしでかしてしまった事の
大きさを痛感して。自分で自分を責めるのかと。そんな気持ちは、あの時、ごく短い間過ぎっただけで。今こうして、一人、暗闇の中でベッドに座る俺にとって気になるのは、隣できっと苦しんでいるハゼンの事ばかりで。
「優しい人だったら、もっと苦しんだり、するのかな」
 そう、ぽつりと零した。俺は、そうじゃなかったみたいだ。それでも俺を奮い立たせたのは、ガルマの言葉もあったのかも知れない。今を生きる者達の方が、大切だと。それは、そうだった。第一、俺が赤狼を殺めて
しまったのは、彼らが俺を殺すつもりで来ていたからだ。それを殺してしまったからといって、誰に責められる謂れも無い。事実、誰も俺を咎めはしなかった。それどころか、自分に降り注いだ厄災を、自らの手で切り開いた
として。身体を清められている時も、使用人に賞賛を受けた。それでも、無理はしないでほしいと小言ももらってしまったけれど。
 ハゼンは、どうしているのだろう。まだ、起きているのかな。痛みで、眠れないだろうか。ふと、自分はどうだったのかと考える。クロイスを庇って、倒れた時。痛みで、苦しんでいた。何よりも、熱に魘されて。隣の部屋
からは、ハゼンの呻き声一つ聞こえてはこない。様子を見たくて、でもそうしたら、ハゼンの傷に障るのもわかっていて。俺は悶々としたまま。クロイスも、こんな気分だったのだろうか。自分のせいで、俺が傷ついて
しまったと涙を流して、ずっと自分を責めて。
 今の俺は、どうなんだろう。自分の事だから、自分が一番わかる。そんな事は、自惚れた発言なのだという事が、よくわかった。俺には、今の俺の気持ちが、よくわからない。
 そのまま、ベッドに座ったままの俺を置いて、夜は去って朝が来る。いつもなら起こしに来るハゼンも、今は来ない。そっと立ち上がって、身支度を整えて、部屋を出て、ハゼンの部屋へと。とても申し訳ないけれど、
こうしないと、俺は応接間にも出られない。ハゼンの身体を気遣って、声を掛けないで行こうとした。けれど、駄目だった。視界の隅に、ハゼンの眠るベッドが目に付いたら。もう、そんな事を考える余裕もどこかへ
行ってしまって。傷に障るから、そう考えていたのに、俺は走り出してしまって。横たわるハゼンの下へと、向かっていて。
 ハゼンは横になったまま、眠っている様だった。長い髪は今は解かれて、枕の上に鮮やかに広がって、ベッドの上まで及んでいる。薄い布一枚を身体に被って、静かに眠るその様は、死んでいる様に見えてしまって。不意に
俺は、どうしようもない恐怖に襲われる。
 ハゼンが死んでしまったら、どうしよう。
 その手を、取って。手首に指先を当ててみる。脈がある。そんな事する必要無いくらい、俺の耳はハゼンの息遣いをさっきから感じているというのに。ハゼンが生きているのだという証拠が、もっと欲しかった。一つや二つじゃ、
足りない気がして。でも、それ以上は何も、できなくて。
 ベッドの横で跪いて、なるたけハゼンが痛まぬ様にして、その手に頬を擦り付けて。そうしていると、ハゼンから僅かな反応がして。ああ、生きているんだなって、そう思った。ハゼンの手が俺の頬を撫でてくれる。
 今更の様に、俺は泣いていた。泣くのを、我慢していた訳じゃなかったはずだ。そんな器用じゃないし、我慢強くもない。でも、ここに来るまで、どうしても泣けなかった。人殺しだと自分を責めても、泣けなかった。浅ましい
と思う。人を殺してしまった事よりも、何よりも。今目の前に居る存在が、生きている事を堪らなく喜んで、あっさりと泣いてしまう俺は。それでも、涙は止まらなかった。ああ、ハゼンが、生きていてくれた。
 ここにまだ、居てくれる。それだけで俺には良かった。

 ハゼンが臥せってから、十日程経った。俺はその頃になってようやく、いつもの冷静さを取り戻す事ができたと思う。意識を取り戻したハゼンは、俺を見て微笑んでくれて。
「あなた様がご無事で、何よりです」
 そう言ってくれたから、俺はまた少し、泣いてしまって。それでもハゼンにはまだ休息が必要だから、俺はハゼンが部屋で休んでいても良い様に、今までぐうたらしていた生活を改善して、自分でどうにかする様にと
務めていた。元々、そうする事が絶対にできない訳ではなかったし、そもそもただ一日を過ごすだけなら、なんの問題もないのだ。ハゼンがちょっと、俺を過保護にしていた事と。それからこの館での暮らしぶりが、俺に
そうさせる事を強制していただけで。それも、傷は負わなかったけれど、騒動に巻き込まれた俺の事を慮って今は何も言ってはこないから、特に従者としてのハゼンが居なくても、俺の生活に問題は無かった。
 そうして日々を送っている間に、ファウナックは、そしてガルマは、目まぐるしい状態に陥っていたらしい。第一に、ガルマは口約束の通りに、今銀狼の後継者候補を集めて、次期族長を選ぶ試みをしている事を
公言した。それは既に、街の人にとっても充分に予想されていたし、俺とリスワールとガルマ、三人の口から出ていた事でもあったので、そこまでの騒ぎとはならなかった。けれど、その次。ガルマが子が成せない
身体である事も告げられると、流石に多少の混乱はあったらしい。とはいえそれも、ガルマが後継者を求めているという恰好から、予想できる一つの事ではあったのは確かだ。何より、休戦に入って既に二十年。いくら
多忙であったとはいえ、その間一度も世継ぎの話が上がらなかったはずはなく、それもまた、民衆の間ではあり得る事の一つではあると話が上っていて。これもまた、程無くして鎮まりを見せていた。もっとも、ガルマの
方は話を聞く限りでは、子供を残したい気分ではなかったらしく色々と発覚したのはつい最近の事であったらしいけれど。だからこそ、気を病んでしばらく閉じ籠っていたのだし。或いは、兄であるグンサの事を考えて、
ずっとそういう気分ではないと突っぱねていたのかも知れない。ただ、ギルスの直系が途絶えるという事実は、やはり衝撃であった様で。また別の騒ぎが起こるかも知れないという懸念があるという。
 二つの発表によって、ファウナックの街で溢れていた狼族の独立を叫ぶ気配は、綺麗に途絶えた。重ねてガルマが、今はとても微妙な時であるから、その様な事をするつもりはないと断言をしたせいもあるし、主に
騒いでいたのは、あの日、あの広場に居た連中だ。もっとも騒いでいた連中に、ガルマが正面からはっきりと告げたのだから、彼らとしても、それ以上の騒ぎを見せる訳にはいかなかったのだろう。それでも、いまだに
狼族の独立という気持ちが、燻っている事には変わりない。いつかが今になろうとして、結局ならなくて。そしてまた、いつかに。そうなっただけだった。次にそれが爆発の気配を見せるのは、いつになるのだろうか。少なく
とも、次期族長が決まらない事には、そしてその次期族長の意向がそちらへ向いていなければ、いけないのではないかなと思う。
 そして、最後に。
「世話になったな、ゼオロ」
 更に数日後。俺の部屋の扉を叩いたのは、あのリスワール・ディーカンだった。しばらく姿を見ないと思っていたのは、せっかくギルス領に、ガルマの館に来たのだからと、色々な話をついでにガルマと詰めていたから
らしい。ガルマが後継者問題ではなく、自分の身体の事まで公表したのは、リスワールの助言があったからだった。俺も、それには賛成できる。ギルスの直系が重要視されている今、遠縁の銀狼を態々立てなくては
ならないという事態となれば、当然何故ガルマは子供を作らないのかという話になる。いずれわかってしまう事ならば、今の内に公表するべきだという意見は、もっともだろう。
「リスワール様は、これからディーカン領に戻られるのですね」
「ああ。なんだかんだで、色々とやる事を投げ出してきてしまったからな。狼族の騒動が大きくなる方が厄介だと言って。しかしまあ、それはなんとか、今回は治める事ができた。これで仕事を放り出した言い訳もできる
という物だ。本当に、助かったぞ。ゼオロ」
「いいえ。私は、何も。……ただ、困った事にはなってしまいましたが」
「困った事? ああ、そういえば。お前は族長になるつもりはないのだったな。それを聞いた時、私はまさかと思ってしまったぞ。その銀ならば、例え実際には遠縁であろうと、文句を言われる筋合いはないというのに。だのに、
継ぐ気はないと言う。なるほど、ガルマがお前を、別の手段で手元に置いておきたい訳だな。いざという時にお前は使えるかも知れないし、純粋に、行く末が心配だという事もある」
「今回の事で、よくわかりました。私は、そんな器ではないって」
「そうは言うがな。実際にあの場に出ていった銀狼は、ただ一人、お前だけだったのだ。そして、ガルマだがな。街ではガルマの人気は相変わらずだが、突然に現れたお前の噂も、かなりの物だぞ。特に、お前の銀。
そしてガルマの意志を伝え、それは勝手にやった事だが、ガルマはそれを認めたし。何よりガルマが、お前の事を大事だと言ったのだからな。あいつ、お前が族長の席を突っぱねる物だから、それ以外の方法でここに
残らざるを得なくしようとしているぞ。おお、怖いな。族長が権力を振り翳す等と、なんと横暴なのだろうか」
「そう思うのなら、そんなに楽しそうに言わないでほしいし、ガルマ様を諫めて頂きたいのですが。リスワール様」
「すまないが、私は無駄足を踏む程に酔狂ではない。今のガルマを見れば、わかる。ああいう顔をして、生き生きとお前が、ゼオロが欲しいと言い放っているガルマは、到底他人の意見など聞かんぞ」
「困りました、本当に」
 今回の事で、失敗だったと思うのは、街で俺の噂が広がっている事だった。衆目に晒されてよくよく思い知ったけれど、俺の銀の破壊力が、とんでもないらしく。所詮族長候補で、族長その物ではないというのに、まるで俺が
次期族長になるのではないかという程騒いでいる人も居るという。凄く困る。そんな事されたらまた他の候補から余計に睨まれかねない。勘弁してほしい。加えてガルマだ。あの時物凄いさり気無く言っていたから、
気にする余裕も無かったけれど。俺の事を大事だと、皆の前で言い放ってしまって。それでガルマもまた、俺を気に入っている事が知られてしまって。リスワールの言う通り、俺が族長になど興味が無いという事をその
目でしっかりと見抜き、また説得も無駄だと気づいたらしいガルマは、外堀をじわじわ埋めてくる大分汚いやり方をしてきている様だった。大人って本当に嫌。
「ところで、ハゼンの傷の具合は、どうなのだ」
 ガルマの事でうんざりしていると、不意にリスワールが表情を改めて話題を変える。それを聞いて、俺も姿勢を正した。
「……傷は、大分良くなりました。けれど、少し血を流し過ぎたみたいで」
「無理もない。傷が開いたままで大暴れして、並み居る赤狼を追い散らして、お前の下まで走ったのだからな。横で見ていて、ひやひやしたぞ。まるで自分の命など、なんでもない様に扱うのだな、あの男は」
「そうですね……。そこは、私も心配しているんです。ハゼンの事は」
「早く、元気になると良いな。あの赤狼は、中々貴重だぞ。赤狼でありながら、同じ赤狼から、お前を守り抜いた。中々できる事ではない」
 そこまで言うと、リスワールは早々に話を切り上げて、席を立つ。明日発つための準備が今から色々と必要なのだろう。俺は見送るために、部屋の外まで付いてゆく。
「ゼオロ」
 最後に、リスワールが振り返る。黒い兎の、兎族の族長が振り返って、俺を見つめる。
「私は、お前が族長になれば良いと思う。今の私の懸念は、今までガルマとは上手くやってこられたが、次の狼族族長と、上手くやっていけるかどうかだ。その点、お前ならば」
「私には、何もできません」
「そうとは思わない。或いはそうかも知れない。しかしお前の事を、私は信じられる。忘れるな。最後には、信じる事が大切なのだという事を。私は、ガルマを信じて、ここまで来た。これからも、ガルマが、私の信じる
ガルマである限り。私は、ガルマを支えたいと思う。例え猫族や、あのジョウス・スケアルガから、多少の小言を貰おうともな。お前の事を、信じて良かった。さらばだ。赤狼すらも従える、若き銀狼。いつか、また会おう」
 言いたい事だけ言うと、さっさとリスワールは行ってしまう。俺はただ、静かに頭を下げた。信じられる。俺を、信じてくれる。重い言葉だと思った。本当に本当のところで、このファウナックに居る全ての人を
騙し続けている俺にとっては。
 リスワールを見送って、部屋へと戻って。自室に戻ろうと、ハゼンの部屋を通る。その時に、ハゼンが起きているのを見つけてしまって、俺はハゼンに歩み寄った。ハゼンはベッドに座ったまま、身体を起こして。開け
放たれたカーテンから、まだまだ殺風景で花の少ない庭を見つめていた。相変わらず、庭の手入れはまだまだ行き届いているとは言えない。その表情は、俺を前にした時とは違っていて、何かを考えているのか
無表情のままだった。出会った頃の、ハゼンに似ている気がする。俺が素直になれなくて、困らせていた時のハゼンに。最近のハゼンは、こんな顔をしている事が多かった。俺と話していない時は。
「ハゼン。今日はもう、起きていていいの」
 声を掛けると、その顔が俺へと。そうすると、笑みが浮かんで。ああ、全然違うんだなって。思えば、馬車でこの街に来た時から、この世界に来て一番長い時間を共にしたのはハゼンだったのに。このガルマの館で、
更に数ヶ月が過ぎて。更に長く、一緒に過ごして。いつの間にか、最初は訝しんでいたハゼンが、こんなに大切に思える日が来るなんて、思ってもみなかった。
 胸の奥が、ちりちりと痛む気がする。それに気づいてしまったから、なんだろうな。そして、リスワールの言葉があったから。こんなに一緒に居るのに。こんなに俺のために、その身を賭して仕えて、守ってくれて
いるのに。俺はハゼンに、本当の事を告げられていないのだった。俺は本当の銀狼ではないかも知れないという事。別の世界から来た者で、厄介な奴だという事も。
 口に、したかった。今となっては。黙っている事が、後ろめたくて。でも、怖くて言えない。口にしてしまったら。ハゼンが俺の事を、見限ってしまうのではないかと。今は怖い。だって、ハゼンが俺に仕えてくれるのは、
何よりも俺が、銀狼だから。ガルマの下へ連れるに足る程の銀を持っているからだ。そんなハゼンが、俺の正体を知ったら。怒っても、呆れても、俺から離れてもなんの不思議もないし、文句も言えない。
 ハゼンの事を考えたら、言うべきなのに。
「大丈夫ですよ、ゼオロ様。もう、随分と休みましたから。もう数日で、日常生活ならばどうにか送れるとは思います。ご迷惑をおかけしました」
 ハゼンの言葉に、我に返る。大丈夫だという言葉が、俺の心を過ぎる後ろ暗い考えを払う様で、でも実際は、関係の無い事に対する言葉で。俺はただ、薄く笑う事しかできなかった。
「……どうやら、あの赤狼達は、銀狼をずっと狙い続けていたみたいですね」
 何を言おうかと、俺が迷っていると。一番言いたくないであろう話題を、ハゼンが切り出してくる。俺ははっとなって、その顔を見つめる。
「これで、おわかりになられたでしょう。ゼオロ様。赤狼が、どういう物であるのか。本を読み漁っているあなた様なら、とっくに、ご存知だとは思いますが。実際に見て、知って。その、恐ろしさが。まあ、私も赤狼なんですが」
「あの人達が、各地で起きている事件の犯人なの?」
「いえ、そうではないですね。話を聞けば、このファウナックの地では、まだ銀狼が殺されていないのだから、自分達がそれを成そうと。そう計画したそうでございますよ。なんとも、無謀な事でございますね。それで
ガルマ様を狙うのですから。あの方に、多少の不意打ちなどなんの効果も成さないのは、誰もが知っている事でしょうに」
「確かに、そうだったね。ガルマ様の、あの青白い炎は……どんな人でも、迂闊には触れてはいけない物に見えた」
 剣が一瞬にして、跡形もなく燃え尽きる。初めてあった時に、俺に怒りを見せてあの炎を出してきたけれど。俺の恐怖の対象になっている炎など、まったく比べ物にならなかった。熱して、焼いて、苦しめる。そんな
次元ではなくて。あの炎に抱かれたら、そのまま一瞬にして、消えてしまうのだ。今更ながら、そこまでの使い手のガルマにでかい口を利いた自分は、とんでもない事をしたのだと理解する。ハゼンが恐れ知らずなと戦慄
するのも、当然だった。
「しかしあの場に、あなた様がいらっしゃった。その場に居た赤狼達は、ガルマ様と、それからあなた様に狙いを定めた。ガルマ様のお命を奪う事は難しくとも、あなた様ならばと、踏んだのでしょうね。あなた様の銀は、
ガルマ様の様に美しく。そしてあなた様は若く。全てはこれからで、とても、赤狼の攻撃に耐えられる様には見えなかったでしょうから」
 その見方は、残念だけど正しい。束になってもガルマには到底敵わないのは明白で。その上で、俺ならば。実際、あと少しというところだった。今更ながら、かなり危ない橋を渡っていたんだな、俺は。
「赤狼は所詮、赤狼でございますよ。ゼオロ様」
 俺を突き放す様な事を、ハゼンが言う。俺がずっと、ハゼンが赤狼である事を、気にしない様に。気にならなくなる様にしようとしていたのは、ハゼンには気に障る事だったんだろうなと思う。でも。
「それでも、ハゼンは私を助けてくれた。私は、それでいいよ」
 あの時の、涙を流した赤狼の言葉が甦る。裏切り者だと、ハゼンの事を言う。確かに、ハゼンは裏切り者なのかも知れなかった。実際に触れ合ってみて、赤狼が如何に獰猛で。何よりも、銀狼を憎んでいるのかが
わかる。それは、仕方がない部分もある。そもそもが、赤狼がここまで忌み嫌われる様になったのには、確かに赤狼自身の問題もあるのかも知れないけれど。けれど、それを良しとしたまま放置したのは、長く狼族を
纏めてきた、銀狼側だ。銀狼に、何一つとして非が無い等とは、俺は思わない。銀狼を殊更に崇めて、身を託そうとする狼族には、到底理解できない考え方かも知れないけれど。けれど、俺は純粋な銀狼とは言い難いし、
何よりも、ハゼンを知ってしまった。ハゼンを知らずに、巷で口にされ、厭われる赤狼をただ知っていたら。俺もそれに同調していたかも知れない。
 裏切り者だと罵られたハゼンの、傷ついた顔が。今でも忘れられない。自分が赤狼である事に、しっかりとした自負と。何よりも誇りを持っているハゼンだから。あの言葉に、あんな顔をして。それでも、俺を守る事を
優先して。今もここに居てくれる。だったら、俺はそれで良かった。ヒュリカの時と、同じだ。俺が、それで良いと思っているのだから。だから後は、相手の気持ちの問題でしかないって。
「私は、ハゼンが赤狼であっても。ハゼンと一緒に居たいよ。私は、そうだから。だからもう、私の考えを曲げさせようとしないで。あとはハゼンがどうするのか、決めるだけでいいんだよ」
 ハゼンが、嫌だと言うのなら。こんないい加減で、族長候補として招かれた癖に族長になる気が無くて、いまだに自分の身一つ満足に守れないで、口だけ達者な俺が、嫌だと言うのなら。一緒には、居たくはないと
言うのならば。それは仕方がなかった。ハゼンの意思を尊重して、離れるだけだ。でも、ハゼンがいつも俺に言う言葉は。嫌なら自分を遠ざけろ、という物なんだよな。自分からは、遠ざかろうとはしなくて。だから俺も、
ハゼンを遠ざけたくなくなる。傍に、居てほしいと思う。
 ハゼンの座るベッドへと、俺は身を乗り出して、身体に巻かれた包帯へと視線を向ける。袈裟切りに近い形で胴に傷を負った今は、上半身は裸のまま。赤い被毛に、白い線がいくつも走っている。
「痛む?」
「もう、それ程は。流石に十全に動けるとは、申し上げられませんが」
「……ごめんなさい。私のせいで」
「何を仰るのですか。街に出て、成すべき事を成した。あなた様の働きは、銀狼として、賞賛されるべきものです。何かを成すのに、犠牲は付き物。あなた様はただ、頷いて。そうして謝るのではなく、労いを掛ければ、
それでよろしいのでございますよ。もっとも、族長にはなられないと仰るのが、残念なところではありますが」
「ハゼン」
 俺は、ハゼンに身を寄せて。その身体に縋りつく。僅かに戸惑いながらも、それでもハゼンは、俺を受け止める。
「そんな風に、言わないで。辛かったのに、辛くなかった様な振りも、しないで」
「私が、辛かった様にあなた様には見えたのですか」
「裏切り者って言われて、あんなに苦しそうな顔をしていたじゃない。私じゃなくても、わかったよ。ハゼンが、苦しんでいるのが」
「そうでしたか。私は、そんな顔を」
 気づいていなかったのだろうか。あんなに、苦しそうだったのに。だったら、尚更だった。今のハゼンの事を放っておきたいとは思わないし、その口車に乗って、尊大に、そしてぞんざいに扱いたいとも思わなかった。
「辛いなら、辛いって言ってもいいんだよ、ハゼン」
 俺がこう言っても、ハゼンはきっと、俺に弱味なんて見せないだろうなと思う。実際、いつだってそうだったし。ハゼンは、強いんだなって思う。子供の頃から苦労してきたから、こんなに強いのだろうか。
「……辛いですよ」
 耳を震わせて、俺は顔を上げる。頭上にある狼の顔が、俺を見つめていた。
「辛いですよ、ゼオロ様。とても、辛いです。同族であるはずの狼族から厭われるのも。身内であるはずの赤狼から罵られた事も。辛くて、苦しくて。仕方ありません。どうして私は、こんな風にしか生きられなかったのでしょうね」
「ハゼ、ン……」
 俺の顎の先を手に取って、角度をつけて。ハゼンが俺と口元を合わせる。僅かに口が開いて、伸びた舌が、俺の口を何度か舐め上げた。
「申し訳ございません」
 口を離して、ハゼンはただ、謝ってくれる。俺は少し俯いて、ちょっとだけ考える。そんなには、嫌な気分にはならなかった。どちらかと言うと、驚いた。
「ハゼン。何か、私にしてほしい事はないの」
「突然ですね」
 反応に困って、俺は別の言葉を口にする。あんまりにも突然に口付けをされた事で、多分俺も少し混乱しているのだと思う。
「私にできる事なら、するから。私の事を助けてくれたハゼンに、私はもっと、報いたい。ハゼンが辛いなら、辛くない様にしてあげたい。私に、何ができるのかな」
 俺はハゼンに、何かを。ハゼンが望む事を、してあげたいと思った。俺を助けてくれた事。俺に、辛いと打ち明けてくれた事。ずっと俺のために、この館の中で戦い続けてくれていた事。今更だけど、ハゼンは本当に俺に
尽くして、支え続けてくれていた。そして、辛いと弱音を吐いたハゼンを見て。俺はハゼンに、何もしてあげられていない事にも気づいてしまった。実際に、ハゼンに何かしてほしいのか、何かほしいのかと尋ねても、
にこりと笑って、そのお気持ちだけでと言われる事が、ほとんどだったけれど。けれど、今なら。ほんの少しだけ弱っているハゼンなら、何か、俺に求めてくれるのかも知れないと期待して。
「では、お言葉に甘えて。あなた様の、歌を。私は聞きたいですね」
「歌……?」
「こっそりと、歌っていらっしゃるではありませんか」
「聞いてたの」
 若干、冷や汗が流れる。俺が一人きりの時、手持無沙汰になって静かに歌っている声は、ハゼンにはしっかりと聞こえていた様で。俺は自分の顔があっという間に熱くなるのを感じる。ハゼンは俺の様子を見て、
くすくすと笑っている。さっきまでの雰囲気も、どこへやら。今はいつもの様に、それでも立場が逆転して、俺はからかわれる側になっている。
「聞こえてしまうのですよ。あなた様に、何かがあれば直ちに出ていける様にと、待機しておりますからね。私も、自室に居る時は静かに本を読んでいる事が多いですからね」
 確かに、そうだった。この身体だと、というより今の声は、普通の男の声より少し高くて。何より、歌いやすくて。俺はついつい、前の世界の歌を口ずさんで、一人で楽しんでしまう事がある。本を読んでいる時も、
そうだ。鼻歌が、次第にしっかりと歌っていて、はっとして慌ててむにゃむにゃと濁したりする。たまに、歌い終わるまで気づかない時も多々ある。この世界には無いはずの歌なのだから、あんまり無闇に歌うのは、良くない
のはわかっているのだけど。人間だった頃、声が低かった頃は、鼻歌が精々だったから、楽しくて仕方がないのだった。
「何が、聞きたいの」
 俺は努めて平静を装う。そんな事で襤褸は出さないのだぞと。同時に、もうハゼンには聞かれてしまっているのだからと、それにハゼンが聞きたいと言うのならばと、問いかける。歌を聞きたいと言われても、俺は結構、
色んな歌を歌っていたので、リクエストを訊ねる。
「そうでございますね。あの頭の痛くなりそうなよくわからないお歌は、まずあなた様の、それから銀狼のイメージも台無しでございますので除外して」
 撃沈。俺の努力は見事に水泡に帰して、耳まで伏せて、汗が誤魔化しようも無い程に流れていた。あんまりにも恥ずかして、目に涙が浮かんで。ハゼンはそれはそれは楽しそうに俺を見ている。歌うんじゃなかった、
アニメソングの中の、更に電波ソングなんて、歌うんじゃなかった。割と好きだけど、口に出すべきではなかった。なんという羞恥プレイ。割と死にたくなってくる。今すぐ忘れてほしい。
「どうかされましたか、ゼオロ様」
「……意地悪」
「たまには、よろしいではありませんか。この様に、私があなた様を、弄んでも」
「歌ってあげないよ」
「それは、困りますね。一度でいいから、はっきりと、目の前で歌っているあなた様を見たかった。私のために、歌ってほしかったのでございます。分不相応な願いだと思っていましたが。私は、あなた様の歌が、とても好きで
ございますよ。勿論、あなた様のお歌もね」
 やっぱり意地悪してるじゃないか。俺が睨むと、ハゼンがにこにこと微笑んで。でも、それも終わると、左手で俺の身体を抱き寄せて、背中をあやす様に軽く叩いてくれる。そうされると、なんだか心地良くて。恥ずかしいのも、
腹が立ったのも、どこかへ行ってしまう。
「ゼオロ様は、悲しい歌が好きなのでございますね。そういう歌が、多かった」
「よく、聞いていたから」
 俺の趣味、というよりは、気分の問題なんだろうな。精神的に辛い目に遭う事が多い日々ばかり送っていたから、耳に入れる歌も、そういう物が多くて。その中のどれかが、気に入ったのだろうか。今更だけど、曲名も
言わずにその中から目的の歌を探すのは、難しいのではないかと思う。
「けれど、数は少ないですが、とても勇ましい歌も歌っておいででございました。私は、あの歌が好きです。どうか、あの歌を聞かせて頂けますか」
 勇ましい歌。なんだっけそれとちょっと考えて、それでもすぐに思い当たる。ファンタジー物の主題歌として作られた歌だ。確かにハゼンの言う通り、勇ましいという言葉がぴったりで。それでいて、どこか物悲しい雰囲気の
ある歌。俺は小声で歌っていたから、悲しい様な気がしてしまったけれど。歌詞を噛み締めれば、そうではない事もよくわかる。ハゼンは歌詞の方を耳に深く刻んでいたのかも知れない。
 軽く、その歌のフレーズを歌ってみて。ハゼンがそれだと頷きながら、尻尾を揺らす。ハゼンがそんな風に尻尾を揺らす事は珍しくて、俺は少しだけやる気を出す。そんなに、この歌の事を気に入ってくれたのだろうか。
 いざ歌おうとして。でも、ハゼンにじっと見つめられていると、恥ずかしくて、歌い辛い。
「ハゼン。あんまり、じっと見つめないで。恥ずかしくて」
「あなた様が歌っているのを、見たかったのですがね」
 その言葉に俺が小さく唸ると、ハゼンの左手が俺の背中から、首に伸びて。そのままハゼンの胸へと押し付けられる。傷に、響かないのだろうか。そう思いながら、俺はハゼンの左胸に耳を近づけて、その心音を
探った。鼓動が聞こえる。俺を安心させる音が、そこから。目を瞑って、もうここでいいと覚悟を決めて。俺は歌おうとする。
 息を吸って、吐いて。そのまま、歌いはじめる。歌いながら、ハゼンが好きだと言う、歌詞を噛み締める。遠くまできて、もう戻れなくて。それでも強く生きてゆこうとする歌だった。考えれば、今の俺にも丁度良い歌だと
思う。作り物のファンタジーに相応しい様な仰々しさで、でもそれがあるから、勇ましくて。気持ちを奮い立たせる様な歌だった。あまり大声で歌うと使用人にも聞こえてしまうだろうかと気にしながら、それでもハゼンに
しっかりと届く様に、俺は歌う。俺が普段歌っている、しっとりと歌い上げる物とは、まるで違う。声に芯がある様に歌って、自分ではなく、遠くを見つめる様に歌って。そうして歌っていると、ハゼンが余った右手を伸ばして、
俺の動かない左手を。俺が歌って、曲に陶酔する事で、僅かに動いていた左手を掴む。掴んだ手は、そのまま祈りでも捧げるかの様に、指同士を組み合わせて。そうすると、そこからもハゼンの熱が伝わってくる
様だった。ハゼンの胸に身体を預けて。心音を聞きながら、手を繋ぎながら歌う。俺の視界に入るのは、顔を埋めているハゼンの胸と。それから繋いだ手だけで。そうしてそのまま歌い続けた歌も、いよいよ終わりが
近づいてくる。最後は歌によくある、サビの連続。伴奏も無いから、少し間を置いて。それから俺は、最後を歌いだそうとする。俺が声を出した直後に、ハゼンの声が聞こえた。ハゼンが、歌っている。この世界の住人
であるハゼンが、別の。俺が元居た世界の歌を。俺は驚いて、思わず口を噤んでしまう。俺の耳に都合良く聞こえているだけで、実際には言葉が違うけれど、歌もきちんと聞こえるんだなとか、そんな事を今更の様に
考えながら、それよりもハゼンが、歌っている事が衝撃的で。俺が歌を止めて身動ぎしたのに気づいたハゼンが、少し笑い声を上げて、急かす様に俺の背をぽんぽんと叩いてくれる。気にせずに、歌ってほしいという
合図。俺はおずおずと、また声を。そうすると、ハゼンの低くて、それでもしっかりと通る声が俺と重なって。変な気分になる。サビを、歌う。少し音が高くなるところでは、普段の話し言葉では絶対に聞けないハゼンの
声音も聞けて。しかもそれが、割と高い声である俺を上手く補助する様に、寄り添ってくるから。誰かとこんな風に歌うなんて初めての感覚だったけれど。俺はそのまま、詰まる事もなく歌い続ける事ができた。ハゼンの
声が、耳に心地よい。一回二回聞いただけで、歌詞と歌い方をしっかりと憶えたのか、ハゼンの口から淀みなく発せられる声。別々の世界に本来なら住んでいたはずの俺とハゼンが、同じ歌を歌っているというのが、
嬉しかった。こんな風に、前の世界の歌を歌って。ハゼンに怪しまれたらとか。そんな事を今だけは全て、忘れて。
 歌を、歌い終える。最後まで、力強く歌っていたけれど、ハゼンの声が加わった事で、それはより強い物になっていた。勇ましくて、力強い赤狼の声が、この歌によく合っていた。
「……ありがとうございました。ゼオロ様」
 歌い終えて、余韻を感じて。しばらくしてから、ハゼンの声が。その時になって俺は手を離されて、身体も解放される。なんだか、変な気分だった。一人でずっと歌っていたからだろうか。誰かと歌うなんて、精々が学生の
頃の、お遊戯の様な真似くらいで。あれだって嫌々だったから、大して真剣に歌っていた訳ではなかったし。でもこうして、誰かと、自分が歌を聞かせたいと思った相手と一緒に好きな歌を歌うのは、気持ちが良いんだな
と思う。
「緊張したから、上手く歌えなかったかも」
「いいえ。その様な事はとても。とても、素晴らしかった。惚れ惚れする様な心地でございました」
 そこまで手放しで褒められると、俺はまた顔が熱くなるのを感じる。銀を褒められるのには慣れてきたけれど、歌なんて、褒められ慣れている訳がない。
「あんまり褒めないで」
 とても満足そうな顔をしてくれているのは、嬉しいのだけど。そんなに風に見つめられるの、今は辛い。またハゼンの胸に顔を寄せる。
「あなた様の歌が、聞けて良かった。一度だけでも。そう思っていましたから。聞く事ができて、良かったと思います」
「聞きたかったら、また歌うよ。他の人が居ると、嫌だけど……クランなら、いいかな。でも、それ以外は嫌。ガルマ様も、駄目」
「大分、手厳しいのでございますね」
「歌い慣れている訳でも、誰かに聞かせ慣れている訳でも、ないからね」
「左様でございますか。最後に、あなた様の歌が聞けて、良かった」
「……最後?」
 顔を離して、俺はハゼンを見上げる。ハゼンは、何かを諦めた様な。それでいて、すっきりとした様な。そんな表情をしていた。俺は、慌てる。最後って、何が。
「ハゼンは、どこかに行ってしまうの」
「今回の、赤狼の件がございます。街での赤狼に対する風当たりは、より一層強くなりましょう。ガルマ様を、そして、あなた様を狙ったのだから、それは当然の事。私も、あなた様のお傍からは、直に」
「嫌だよ、そんなの」
 そんなのおかしい。だって、俺を守ってくれたのはハゼンなのに。他の誰でもなく、ハゼンなのに。そのハゼンでさえ、赤狼だからと言って遠ざけられてしまうのか。
「私は族長になんてならない。だから、関係無いよ。誰と一緒に居るのかなんて」
「それでも、時が過ぎれば族長が決まる。そうなれば、ここに住むのは選ばれた族長と、それからしばらくはその面倒を見て、支えて差し上げるガルマ様だけとなって、他の候補者は元の地へと戻られるでしょう。どの道、
それほど長い間、私とゼオロ様が一緒に居られる訳ではありません」
「その時、ハゼンはどうなるの」
「また外郭に戻るかと、最初はそう思っていましたが……これだけの騒ぎとなってしまうと、それも難しいでしょうね。ファウナックは、もう出た方がよろしいのかも知れません」
「そんな……」
 俺は、奪ってしまったのだろうか。ハゼンの居場所を。ガルマに召し抱えられて、ここで戦っているハゼンの何もかもを、結局俺は、奪って。
「その様な顔を、なさらないでください。そして、涙を流されずとも。少なくとも街の騒ぎを治めるために、誰かしら銀狼が、ガルマ様が出る事は、当然の事。その時に、赤狼の騒ぎは起こっていたのですから。ゼオロ様が、
責任を感じられる必要は、どこにもありませんよ」
 確かにそれは、ハゼンの言う通りの事なのかも知れなかった。赤狼が忌み嫌われている今に関しては、少なくとも俺がどうこうした結果でもなく。ただ銀狼と、そして赤狼の問題なのだろう。俺も、銀狼ではあるけれど。
「どうして、そうなんだろうね……。銀狼、赤狼って、馬鹿みたい」
「ゼオロ様」
「ハゼン。行く所が無いなら、私とどこかに行かない? ここを、出てさ」
「お戯れを」
「戯れなんかじゃないよ。私だって、族長にならないのなら。いずれはお払い箱。その時には、ハゼンもここには居られないんでしょ。だったら、もう。二人でどこかに行こうよ。銀狼とか、赤狼とか。そんな風に、言われない所に。
私は、狼族の事は好きだけど……けれど。この事でとやかく言われるのは、本当に嫌気が差した。ねえ、ハゼン。いいでしょ」
「ゼオロ様。どうか、早まらずに。あなた様には、まだまだ道がおありのはず。族長にならずとも、あなた様程の銀ならば、ここに残り続ける事はできる。ガルマ様の庇護を受ける事は、可能なはずでございます。ガルマ様も
また、あなた様を大事になさってくださる。街に下りても、ファウナックならば。あなた様は決して、貧困などとは無縁の生活が送れます。ガルマ様に匹敵する程の銀とは、それほどの意味を持ちます。あなた様がそこに
居てくださるだけで、狼族は、心安らかに日々を送れるのでございますから」
「そうだね。その通りだよ。赤狼以外の狼族は、心安らかで居られるだろうね」
「ゼオロ様」
「それでハゼンは、どこへ行ってしまうの。私が街に住みついたら。それこそ今回の事を鑑みて、殊更赤狼は排除されるんじゃないの」
「私は、またどこかへと流れるだけでございますよ。元々が、分不相応ながら。ガルマ様に召し抱えて頂いた身。本来ならば、この銀の館に、例え外郭であろうと踏み入ってはならぬ身だった。それだけの話でございます」
「そんなの、嫌だ。どこかに行くなら、私も一緒に行きたい」
 一緒に行きたい。どうして今、こんなにも強く思うのだろうか。ハゼンの扱いが、あんまりな物だからだろうか。ハゼンがガルマに召し抱えられた事だって、ガルマが赤狼の反抗心に、長年に渡る赤狼の問題に、多少なりとも
改善の手を施す事ができればと思い立ったがための行為に過ぎない。それも結局は、今回の件で水の泡になった。銀狼に、何よりも狼族を率いるガルマに赤狼が手を出した事で、この問題の悪化は避けられない。懸命に
ガルマに仕えて、そして俺に仕えて。俺を庇って、傷を負って。同じ赤狼からは罵られて。それ以外の狼族からは、疎まれて。やがてはこのファウナックからすら、出ていかなければならない。
 そんなの、あんまりだ。あんまりだよ。
「そんなの、酷いよ……。ハゼンが何をしたの。私を懸命に、守ってくれただけなのに」
「私は決して、そんなに綺麗な物ではありませんよ。ゼオロ様」
 ああ、またそう言う。そう言って。これは妥当な事なのだと、そんな顔をして。辛い癖に。さっき、辛いって言った癖に。それなのに、今のハゼンは。ただ泣いている俺を気遣うばかりで。一体誰が、ハゼンの事を気遣って、
守ってあげられるのだろうかと思う。俺では駄目だ。なんにもできない俺なんかじゃ、駄目だって、わかってる。けれど、他の狼族は誰一人として、手を差し伸べに来てくれはしないだろう。
「私はこれで良いのです。ゼオロ様を、お守りする事ができた。私は、弟を守れなかった。大切な弟を守れなかった私自身を、私は殺したい程に、憎んでいました。けれど、生き続けていて、今。再び守りたいという気持ちを
持って。そして今度は、守る事ができました」
 どうして、そんな事を言うのだろう。そんな事が言えるのだろう。悔しくなって、俺はハゼンの傷を軽く叩いた。そうしても、ハゼンはちっとも気にした素振りも見せない。
「ありがとうございました、ゼオロ様。私は、自分が赤狼である事を、誇っておりました。けれど、自分自身の事は、嫌いでした。あなた様を守れた事で、私は」
 最後まで言わせなかった。渾身の力でその身体を押して、ベッドに沈ませて。その上に跨って、ハゼンに身体を預けて。俺は何度もかぶりを振る。行かないでほしかった。どこかに行くのなら、俺も連れていって
ほしかった。一人で、誰からも顧みられる事無くハゼンが出ていかなくてはならないなんて。そんなの、納得できなかったから。
「駄々っ子の様でございますね、ゼオロ様は」
「それでも、いい。ハゼンがどこかに行くのなら、私も行きたい。私じゃ、なんの役にも立てないと思うけれど」
「私と、共に行きたいと仰るのですか。あなた様の銀狼、赤狼などと言われぬ場所が良いというご希望を叶えようとするのならば、ギルス領は、出なくてはなりませんよ」
「良いよ。元々私は、ミサナトに居たんだから。ギルス領なんて、馴染みもない。連れてこられただけなんだから。ハゼンが私をここまで連れてきたのだから、出ていくのなら、ちゃんと私も連れてって」
「これは、また。ゼオロ様らしからぬ、滅茶苦茶な物言いでございますね」
 この期に及んで、まだ俺をからかおうとする。本当に子供扱いだ。それだけ今の俺が、子供らしい振る舞い方をしているせいもあるけれど。自分で言っていても、よくわかる。実際に俺が出ていくとなったならば、それは既に
すんなりと決まる物ではなくなっているだろう。ファウナックの街にも顔が利く様になったし、ガルマともある程度の面識があって、気に入られてもいるのだから。それが出ていくと言って、しかもハゼンと、赤狼と共に行く
などと口にしたら。その時は、ハゼンが良からぬ事をしたのではないかと、また余計に謗られるのだろうなと思う。
「内緒で、行こうよ。いつか、ハゼンがここを出ないといけなくなった時には。皆には内緒で。出ていこう」
「それまでに、あなた様が心変わりをされている事を願っておりますよ」
「する訳がない。私の事を、甘く見てるね」
「そうはならないと思うから、願っている訳でございます」
 いつか、その時が来るのだろうか。その時は、躊躇いなく外に出る自信が俺にはあった。元々、このファウナックに名残がある訳ではない。俺の目的を果たせるかというと、そうではない気がするけれど。でも、結局は
俺が何をしたいと思って、そうしてそれを実行できるかどうかだ。少なくとも、今は。ハゼンと一緒に居たい。ハゼンを一人では、行かせたくはない。
「約束して。一人でどこかへ行ったりしないって。その時は、私も連れていってくれるって」
「仕方のないゼオロ様。ガルマ様がお聞きになられたら、私は焼き殺されてしまいますね」
「そんな事、させないから」
「わかりました、わかりましたよ。ゼオロ様。お約束しますから。あんまり、私の上で飛んだり跳ねたりなさらないでください。傷が、開いてしまいますよ」
 約束、してくれた。俺はそれが嬉しくて。ようやくハゼンの上に、行儀も何もかなぐり捨てて馬乗りになっていた体勢を止める。俺が下りると、ハゼンが身体を起こして、俺の頭を撫でてくれた。
「旅に出たら、色んな所に行こうよ。ハゼン」
「ゼオロ様は、何か見たい物、行きたい場所は、おありですか」
「なんでも、いいよ。本で色々知ったけれど、知っただけだから。実際に見るのは、きっと違う。自由に。好きな所に行きたい」
「困りましたね。この館でぬくぬくと生活されているあなた様が、到底その様な旅に耐えられるとは、私は思えないのですが」
「我慢する。少しくらい。それから、できる事も少しずつ増やすから。狩りとか、罠の造り方とか。ハゼンは知っているの?」
「心得ております。戦場に立つからには、その様な芸当が乞われる時も、ありますからね」
「凄いな、ハゼンは。本当に、なんでもできるんだね。私も、少しくらいそれができて、役に立てればいいのだけど」
「本当に、やる気でございますか。一日中本を読んでいる、あなた様が」
「二言は無いよ」
 旅に出る。ふと、ガーデルを思い出した。好きな場所へ行って、好きな物を見て。好きな物を、拾って。ガーデルの楽しみ方が、なんとなく今なら本当に理解できそうな気がした。あの時の俺はまだ、旅なんて自分には
無理だと思っていたけれど。でも、ハゼンが一緒なら。それでも、頼ってばかりにはしたくない。ここで生活する様に、頼り続けていたくはない。今度は俺が、ハゼンを助けたいんだ。ハゼンが俺を、助けてくれた様に。
 ミサナトには、戻る事はないかも知れないけれど。そこまで考えて、俺は少し、表情を曇らせる。ああ、でも。ミサナトで少し暮らすのも、いいかもな。あそこもギルス領じゃないのだから。スケアルガの影響下ではある
けれど、それでも猫族の領地の中ではないからか、それほど猫族に睨まれる様な事もなかったし。
「それとね、ハゼン。もし旅に出たら。そんなに仰々しく私と接するのも、もう駄目だからね。もっと気安く呼んでくれた方が、自然だよ。ハゼンの方が、年上なんだから」
「あなた様をその様に扱わなければならないというのは、私にとっては中々に考えさせられる物ではあるのですが」
「言葉遣いだけでも、いいから。そうしたら、きっと。友達になれるね。ここでこうして、主従の関係で居るのとは、また違って」
「友達で、ございますか」
「うん。私と、友達になって」
 初めて。このゼオロの身体になってから、初めて自分から、友達になってと言い出す事ができた。クロイスにも、言った事ではあるけれど。でも、それは、最初に友達になってと言い出したのが、クロイスの方だった
からだ。今度は、俺から。待っているだけじゃ、決してハゼンからは言ってくれないと思うから。それでも友達になりたいから。俺から、言い出した。ハゼンは笑って、俺をまた撫でてくれる。
「本当に、ゼオロ様はおかしな方でございますね。銀狼の後継者として。次期狼族族長として。このファウナックにお招きしたというのに。最後に手にされるのは、私の様な赤狼で。そうして、ここからも出ていかれると仰る」
「私は、それでいいと思っているよ。どの道私の考え方は、族長にはふさわしくない。少なくとも、今の狼族には受け入れてはもらえない事だと思う」
 狼族が、その中に居る赤狼が。もっと当たり前の物として受け止められる日が来たら、いいと思う。ハゼンの様な赤狼の存在も、知る事ができたのだから。或いは俺が成すべき事があるとしたら、それなのかも
知れないけれど。それでも、今の事情を見れば、俺の考え方では通用しない。赤狼もまた、銀狼を強く憎んでいるのだから。
「あなた様が族長になられる。私の願いも、ここまでの様でございますね」
「……そうならないと、やっぱり、ハゼンは嫌だった?」
「いいえ。今は、あなた様が望まれるままに。そう、思っておりますよ」
 ハゼンがそう言ってくれた事が、嬉しくて。俺は大袈裟に尻尾を振ってみせて、それからまたハゼンに抱き付いた。今だけ。今だけでいいから、子供の様に振る舞う事も、許してほしかった。

 薄暗い部屋で、俺は目を醒ました。いつの間に眠っていたのだろう。明かりを探そうとしたけれど、今眠っているのが見慣れないベッドだから、勝手がわからなくて。ああ、そうだ。これ、ハゼンの使っている奴だ。ハゼンに
抱き付いたまま、俺はそのまま撫でられて。それで多分、そのまま眠ってしまったのだろう。それにしても暗い。リスワールを見送って、それからハゼンと話をしていたから、その時はまだ昼過ぎくらいだったはずなのに、
どうしてこんなに長い間、眠ってしまったのだろう。閉められたカーテンから、微かに月明かりが漏れているのが見える。
「ハゼン……?」
 そういえば、ハゼンが見当たらない。俺が部屋に一人で過ごしていても、自室で待機するのは当然だといつも言っていて。だったら今は、ここに居てもいいのに。もしかして俺の部屋に居るのだろうか。例えば俺の寝相が
とてつもなく悪くて付き合っていられないから、俺のベッドを使っているとか。だとしたら申し訳ないけれど。でも仮にそうだとしても、ハゼンは俺のベッドは使わないで、ここにあるソファやらを使うと思ったので、やっぱりハゼンは
今、この俺が預かっている部屋のどこにも居ないのかも知れないと思う。もしかしたら、何か使用人と話をしているのかもしれないけれど。ファウナックでの騒ぎが、近頃ではようやく治まってきたし、もうすぐ仕事に復帰すると
言っていたし。何かしら打ち合わせをしているのかも知れない。仕事熱心だし。怪我は、大丈夫なのかな。
 とりあえずベッドから起き上がって、カーテンを開けて。月明かりを浴びる。丸い月が出ていた。綺麗だなと思う。狼の獣人となって、それを見て高揚したり、野生の血が騒いだりするのかと思ったりした時もあったけれど、
生憎俺には特になんの変化も見られない。ただ丸い月の光が、俺の銀を妖しく照らしている。そうしていると本当に誰でも誑かせそうだと、ハゼンに言われたっけ。そこまでの物だとは、持ち主である俺は思わないけれど。
 ベッドへ戻って、そっとシーツへと触れる。俺が寝ていた横に、まだ、ほんの微かに熱が残っている。それから、ハゼンの匂いも。ハゼンが眠る俺を置いて姿を消してから、そこまで時間が経っている訳ではなさそうだ。
 ベッドから離れて、俺は一度、自分の部屋の扉を開いて様子を窺う。人の気配は感じない。匂いも、強い物を感じない。やっぱりここには、今は誰も居ないみたいだ。踵を返して、ハゼンの部屋を通り抜けて。応接間へと
出る。ここにも今は、人が見当たらない。深夜に近いのかも知れないな。それから、俺がよくよく寝ているから、ハゼンが使用人も遠ざけてしまったのかも知れない。耳が良いから、軽い物音や話し声で起きてしまうという事を
考えて。
 すんすんと鼻を鳴らす。まだ、わかる。ハゼンの匂い。普段は匂いなんて態々憶えたりはしないのだけど、ハゼンとは、ずっと一緒に居るから、嫌でも憶えてしまう。お風呂上りとか、匂いから離れた後にハゼンに近づくと、
やっぱりその身体の匂いというのがわかる物で。一緒に居るとまったく気にならないのだけど、こうして意識すると、やっぱりそこにある物を、俺の鋭敏な嗅覚は捉えてくれる。ハゼンの匂い。ハゼンの匂い。
 でも、俺が尻尾を揺らしながらその匂いを追っていたのは、応接間の扉を開いて、廊下に出るまでだった。匂いに意識を集中させていたから、余計だった。俺の鼻に、飛び込んでくる臭い。なんなのか、すぐに
わかった。俺がこの間、赤狼の喉を切り裂いて、全身に浴びた、あの赤い血の臭い。廊下には、誰も居なかった。ただ明かりのための燭台と、明かり取りに造られた窓から、僅かに外の光が射しているだけで。夜の今、
ガルマの館は、銀狼が映える様にと設えられたその空間は、まるで闇そのものの様に俺の目の前に広がっていた。その暗闇の中から、俺の鼻へと漂う臭い。ハゼンの匂いに、それから今は、いつも俺の世話をしている
使用人達の匂いに。そしてそれらの中に、微かに、しかし確かな血の臭いが混ざっている。
「ハゼン?」
 暗闇に問いかけてみる。この際、他の誰かでもいい。そこに居たらって。でも、返事は無かった。どうしよう。怖い。夜のこの館って、かなり怖いんだよな。明かりが少ないし。でも、ちょっと静か過ぎると思う。いくら
夜だからって、真夜中だからって、使用人の中でも一人や二人は、不寝番というか。眠りかけていても、何かしら用事があった時に声が掛けられる様にと待機しているはずだった。それも、今は見当たらない。
 血の臭い。
 どこからだろう。どこから。鼻を何度も鳴らす。わからない方が一層、怖いからこのまま寝ますってできるのになと思う。流石狼族の鼻だった。どこから臭うのか、わかってしまう。館の正面の方。少なくともそっちの道から、
臭いがする。俺は、出ていくか少し迷って。それでも、暗闇に足を踏み出した。賊の侵入かも知れない。そんなところに、俺が出くわしても。そう思うけれど。でも、一人きりでこのまま部屋に閉じ籠るのも、嫌だった。何より、
ハゼンが居ない。
 皆、寝静まってしまったのだろうか。不気味なくらいに物音が感じられない。聞こえるのは燭台の蝋燭からの、じりっ、という燃え尽きる時の微かな音くらいだ。それ以外は、全部俺。足を踏み出して、身を捩らせて、服が
擦れて、呼吸をして、怖くなって、僅かに振った尻尾がまた擦れて。
 あの時に、似ていると思った。穴に落ちて、ガーデルと会った時。でも今は、あの時とは比べようもない程に恐怖を感じている。たった一人だから、なんだろうか。あの時俺を助けてくれたガーデルも、そしてこの館で
過ごしている間、常に俺を守ってくれていたハゼンも、今は居ない。どこに。どこに居るの。一人にするのなら、せめて声を掛けてからにしてほしかったよ。こんな暗い道、一人で歩きたくないのに。
 正面へと、回ってくる。遠くに、内郭と外郭を繋ぐ一本道へと続く扉が見える。でも、匂いは、臭いは。そっちからは感じない。だから、行かなかった。正面。少しだけ入り組んだ道を歩いて、更に、正面。
 知っている道だ。ガルマの部屋へと通じる道。歩きながら、俺は目に涙を溜めた。匂いがする。匂いが。行きたくない。でも、行かなくちゃ。行かなくちゃ、いけないんだ。
 少しだけ、速足になる。こんな気持ちのままずっと歩いているくらいなら。それでも、走り出す勇気は無くて。けれど、その内に道は終わりを告げる。ガルマの部屋の前。血の臭いがする。倒れている、狼族の兵が
見える。誰も、動いていない。微かな息遣いも、聞こえない。まだ温かくて、でも冷たくなってゆくのが、それだけでもう、わかってしまった。
 閉じられたガルマの部屋の扉を、俺は開けた。中に居た誰かが、はっとした様だった。身動ぎの音がする。構いもしなかった。中に、飛び込んだ。
 薄暗い部屋。それでも、今まで歩いてきた道よりはまだ明るかった。ガルマの力が満ちているからだろう。俺の視界に、ガルマが映った。いつもの様に気だるげに、ベッドを背凭れに利用して座っていたガルマが、
俺を見て目を見開く。
「ゼオロ」
 けれど、俺はそれを長い事見つめてはいなかった。そのガルマと対峙している、まっすぐに立ち尽くすその人の方が、余程ガルマよりも俺の目と注意を引いたから。それでも、ここに居るんだろうなって、歩きながら
わかってもいたけれど。
「ハゼン」
「ゼオロ様」
 ハゼンが、顔だけ振り向いて俺を見つめる。薄暗くてもわかる。匂いが臭いに潰されているのが、よく、わかる。赤い被毛だけを持つその赤狼の身体が、血に塗れているのが、俺にはわかってしまう。その手に握られた
一振りの剣が、赤黒く汚れている事も。
 俺が現れても、誰も騒ぎを起こす事はなかった。まるで初めから、俺が来る事がわかっていたみたいに。ガルマは座ったまま、俺を悲し気に見つめて。俺はただ、まっすぐにハゼンを見つめていて。
 そしてハゼンは、静かに、目を細めて。俺の姿を凝視していた。

 対峙する二人を、交互に見比べて。俺は一度だけ、俯いて。それでも、長くはそうしていなかった。走り出す。ガルマが俺を制止しようとする。ハゼンは、ただ俺を見ていただけだった。
 ガルマとハゼンの間に、俺は駆け込む。ハゼンを正面から見据えて。そこに立って、全身に怖気が走る。ハゼンから放たれる殺気が、俺を襲う。こんなに。こんなに、怖い物だったのか。本気のハゼンは。それでも俺が
殺気に当てられている事に気づいたハゼンは、それを収めて、口元で笑みを形作ってくれる。それでも俺の感じる恐怖は、微塵も無くならない。
「お早いお目覚めでしたね、ゼオロ様。よく眠れる様にと、慣れぬ魔法を使ってみたのですが。やはり、それでは上手くいきませんでしたか」
 血塗れのハゼンが、まるでいつもの調子で、そう告げてくる。息を呑んだ。いつもと、本当に変わらない様に見える。眠る俺を、ハゼンが溜め息交じりに起こして。そのまま、軽い話を始めたかの様な。それでも、いつも
通りなのはハゼンの口調だけで。俺の目の前に立つ赤狼の身体は、禍々しい程に血に塗れていた。何人、切り捨ててきたのだろうか。
「その様な目で、私を見ないで頂きたい物ですね。あなた様に、咎められると。私も覚悟が鈍ってしまいそうですよ。もう少し、今少しで。そこの、ガルマ・ギルスの息の根を止めるところだったのですから」
「そんな事、できる訳ない。ガルマ様には勝てないよ」
「勝つ必要は、ありません。そこの男は、私になら、素直に殺されてくれると言ってくれましたから」
 俺は驚いて、ハゼンの、殺戮者の前だというのに、振り返る。ガルマはただ、力無く笑っていた。
「ゼオロ。私の事は、いい。お前は離れていなさい」
「ガルマ様。どうして」
「その者が、ハゼン・マカカルだからだ。その者には、私を裁く権利がある。私は、抵抗をするつもりはない」
 せっかく立ち直ったというのに。俺がそういう意味も込めて少し睨んでも、ガルマは変わらない。
「だ、そうです。さあ、そこを退いてください。ゼオロ様」
 声を掛けられて、また正面。ハゼンを見上げる。今更ながらに、ハゼンが髪を下ろしている事に気づく。そして、ガルマに対する態度。もはやハゼンは、ガルマに仕えているという自分の立場をかなぐり捨てていた。
「駄目だよ、ハゼン。そんな事」
「お可哀想なゼオロ様。声が震えていらっしゃいますよ。けれど、私も引きたくはないのです。私には、この機だけなのですから。一度だけ、あなた様に無礼な口を利く事を、どうかお許しください。……そこを退け、殺すぞ」
 再びの、殺気。俺は呻いて。涙を流していた。それでも、退きたくない。ハゼンに、ガルマを殺させたくない。
「どうして、こんな事をするの。ハゼン」
「どうして? あなた様が、それを私に尋ねる必要がおありだとは思いませんが。私が銀狼を、心の底から憎んでいる事を。ゼオロ様。本当は、とっくにおわかりになっておられたでしょう?」
「それは……」
 わからない訳がなかった。周りがどれだけ銀狼である俺を見て、うっとりと崇拝の目で見ていても、ハゼンはそうではない。俺の事を褒めてはくれるけれど、他の銀狼に対しては何を言う事もない。その上で、狼族、
特に銀狼からは、いつだって蔑まれて、謗られているのだから。そんな状況で、ハゼンが銀狼を好きでいるだなんて思う方がどうかしている。どうかしていた。俺も、最初はそう思っていたのだから。それでも、見ない振りを
していた。俺の傍に、ハゼンが居てくれるから。特に優れた銀を持つ俺を、ハゼンがいつも甲斐甲斐しく世話して、助けてくれたから。
「一つだけ、あなた様に嘘を吐いてしまった事があります。弟を、死なせた時の事です。あの時、私と弟は、本当は自分達を救護してくれる場所へ一度は辿り着いたのですよ。しかし、そこに居た銀狼の指揮官は、私の姿を
見て、私が名乗ろうが、ただ嘲笑うだけで、決して私達を助けてはくれませんでした。赤狼など助ける必要は無いと。あの時助けてくれれば、弟は死ななかった。もっとも、私がもっとしっかりとしていれば弟が死なずに
済んだのは、きっと事実なのでしょうがね」
 その言葉に、俺は愕然とする。ハゼンが銀狼を憎まずにいられる訳がなかったのだった。寧ろ、このガルマの館に来て、これまでその感情を隠し続けてこられた方が、余程病的に思える程だった。
「それでも。それでも、ハゼン。こんな事は、やめて。今ならまだ」
「もう後戻りはできませんよ。こうしてガルマの寝所に入るために、何人か殺してしまいましたし。それに、私は元々銀狼を狩っていたのですから」
「……あれも、ハゼンだったんだね」
「ええ。全部、私ですよ。銀に生まれたというだけで、遠縁だというのに尊大に振る舞う、虫けらの様な銀狼共。私が近寄れば、嘲笑を浮かべるのがほとんどで。その癖、いざ私が手を上げて、殺す直前ともなれば、必死に
命乞いをするだけの様な奴ら。ああ、今思い出しても、胸がすく様な思いです。でも、そんな銀狼殺しの私に、まさかギルスの直系である、このガルマから声が掛かるとは。運命とは本当に、わからない物でございますね。
まさに運命だ。マカカルの直系、最後の一人である私が、ギルスの直系の、最後であるこの男を殺す機会に恵まれるなんて。そうは、思いませんか?」
 最初から、そうだったんだ。ハゼンと出会ってから。あの時点で、ハゼンはもう。
「あなた様に出会えたのは、その中でも、特に幸運でした。ゼオロ様。召し抱えられたのは良い物の、この内郭に足を踏み入れる事は、赤狼である私に許されるはずがありませんからね。そしてそれを承知しているからこそ、
そこの男は私に、銀狼の従者となればと言い放った。そんな事、できるはずもないのに。銀狼こそが、赤狼を蔑む張本人なのだから。怪しまれぬために、虫酸の走る銀狼を殺す事もできず、酷く鬱屈としてしまいました。
それなのに、あなた様が居た。ゼオロ様。あなた様の存在が、私をここまで導いてくださった。あなた様には、いくらお礼を申し上げても、感謝を寄せても、到底足りない程でございます」
 顔を伏せて、俺は溢れてきた涙を流れるに任せる。ハゼンはここに立っている俺の心を、挫こうとしていた。最初からそうだったんだ。全部、最初から。ガルマに近づくためだけに、ハゼンに見出された銀狼に
過ぎなかったのだ。俺という存在は。ハゼンを信用して、従者にして、この内郭に共に上がって。そしてハゼンはこの機会をずっと待ち望んでいた。だから後は、俺を置いて、ガルマを殺して。それで終わり。まんまと俺は、
ハゼンにいいように利用されていたのだった。
「さあ、ゼオロ様。もういいでしょう? 私も長々と語っていたい訳ではありません。早くしないと、人が来てしまう。早く、殺さなければ。そこのガルマを。種馬にもなれない、哀れな男をね」
 一歩、ハゼンが踏み出す。その一歩に、今すぐ退けと、気持ちが籠っている様だった。それでも俺は引かなかった。それどころか、俺も一歩前に踏み出す。俺を見下ろして、少し首を傾げて。ハゼンが口元だけで
笑う。ああ、もう駄目だ。狂ってしまっている。ハゼンは、もう。
「あなた様から、先に死にたいのでございますか。しかしそれは困ります。まずは確実に、ガルマを。できればこの館に集まっている、腑抜けた銀狼も全て殺してしまいたいのですが。でも、流石にそこまで私の命は
持ちませんね。さあゼオロ様。もう少しだけ、お待ちください。最後に、殺して差し上げますから」
「ゼオロ。下がっていろ。それから、ハゼンよ。殺すのなら、どうか私だけにしてほしい。その代りに、私は抵抗はせぬ。好きにすれば良い」
「黙れ。貴様に指図される謂れは、もはや無い。さあ、ゼオロ様」
 剣を僅かに上げて、ハゼンが。どうしたら、いいのだろう。どうしたら、良かったのだろう。俺がここに、このファウナックに、来なければ良かったのだろうか。そうじゃない。ハゼンが弟を死なせてしまった時から、全ては
始まっていたのだから。どうしようもない事だった。だったら、今の俺は、何をすればいいのだろう。
 ハゼンに、何をしてあげられたのだろう。
 この場を治める方法が、わからない。いや、治めても。ハゼンはここまで来てしまった。どんな結果でも、ハゼンの命はもう、長くはない。
「ハゼン……。死んでも、良いの。怖くはないの」
 目の前に居るハゼンに、問いかける。ついさっきまで、俺が安心しきって傍に居たハゼンではないのかも知れないけれど。俺の身体を抱いて、優しく背中を撫でてくれていたハゼンは、もうどこにも居ないのかも
知れなくても。それでも、ハゼンは、ハゼンで。そしてこんな姿になっても、俺を敬おうとしていて。眠る前に考えていた事が、俺の胸の中に溢れてくる。ファウナックを出たら、どこに行こうか。どんな街に行って、どんな物を
見て。その先でハゼンは嫌な顔をされないだろうか。それとも、銀狼である俺が逆に目立って、ハゼンの邪魔をしてしまわないだろうかとか。旅をするのに、きっと俺は足を引っ張ってばかりで、役に立てる様にハゼンから
色んな事を教えてもらおうと思っていた事とか。それでも、いつか。誰にも文句を言われない。銀狼も、赤狼も、嫌な顔をされたり、目立ったりしない様な場所を見つけて、そこで静かに生きてみるのも良いかも知れないと
思ったりとか。
 そんな事ばかりが俺の胸を過ぎってゆく。だって、ハゼンは赤狼だったから。赤狼で、あり続けようとするから。今まで辛くて、苦しかった分、ハゼンに生きてほしかったから。こんな所が、こんな世界が、こんな今が。全部
じゃないんだよって、それだけじゃないんだって。それは俺が何よりも知っていて。でも口でいくら言っても、俺がハゼンの事を頑張って褒めても。きっと、上手くは伝えきれなかったと思うから。ハゼンの赤も、長い髪も、俺は
大好きだけど。きっと、足りていないと思うから。時間が掛かっても、いつもの様に話を逸らされても。きちんと伝わるまで、そうしていたかったから。
 ハゼンが、微笑んだ。いつかの様に。
「もう、よろしいのですよ。ゼオロ様」
「殺すなら、私からにしたらいい。ハゼンをここに招いたのは、私でもあるのだから。……どうしたの。私の事は、殺せないの」
 素早く、ハゼンの持つ剣が揺れて、俺の喉元へと当てられる。殺したいなら、そうすればいい。けれど、少なくともすぐに殺されるという予感は俺にはなかった。俺の登場が邪魔で、ガルマを殺す事を優先するのなら、
話なんかしていないで、俺の事を切り伏せればいいのだから。
 俺の喉に当てられた切っ先が、震えている。見上げた。血に塗れたハゼンが、俺を見下ろしていた。血に塗れている以外は、今は、いつもと同じ様に見えた。
「私を、止めようというのですか」
「わからない。私にも、もう」
「私を兄と呼んで、縋りついてもよろしいのですよ。そういう止め方もあるでしょう」
「そんな事、しない。私は、ハゼンの弟ではないから。だから、私は銀狼の。銀狼のゼオロとして、ハゼンに言う。私は、もっとハゼンと、一緒に居たかった。私にできる事は、高が知れているけれど。ハゼン。私は、ハゼンの事が
好きだったよ。赤狼のハゼンが。自分が赤狼である事を、いつも誇り続けているハゼンが。本当は嫌だったのに、それでも私の事を、いつも守ろうとしてくれていたハゼンが」
 切っ先が、離れる。がしゃんと、剣の落ちる音がした。はっとして、床に落ちたそれを見つめて。そしてまた、ハゼンを見上げる。ハゼンが、僅かに声を上げて。笑った。
「あなた様の事を、嫌だなんて。……その様に思った事はありませんよ私は。勿論、最初は。いつもと同じ銀狼かと思いましたけれど。あなた様は、私の事を警戒していましたから。赤狼だからという訳ではなく、ただ、純粋に」
「……ハゼン……」
「大きくなられましたね、ゼオロ様。あなた様は、丁度背が伸びる時期ですからね。ここに来た時よりも、些か背が伸びて。あんなに、頼りなさそうだったのに。今のあなた様は、とても。ありがとうございました、ゼオロ様。
短い間でしたけれど、楽しい夢が見られた。弟の様だと思う事もありましたが、それもまた、違いました。ゼオロ様はやはり、ゼオロ様でございました。いつの時も、あなた様と言葉を交わしては、共に在ると。私はいつも、
あなた様の言う様に。銀狼とか、赤狼とか。そんな事が、とても小さな事に感じられて。それが、堪らなく心地良かった。心地良くて、自分が成すべき事を忘れてしまいそうで、怖かった」
 笑みを浮かべたハゼンの瞳から、涙が流れる。薄暗い中でも、僅かな光に照らされたそれが、輝いていた。初めて見た、ハゼンの涙。俺は泣いてばかりだったけれど、ハゼンはずっと、泣かないで。そのハゼンが、
今は泣いていた。一粒だけではなく、後から、後から。被毛に吸い込まれる限度を超えて、赤の上を涙が流れてゆく。
 すっと、鞘から刃が引かれる。ハゼンの手に握られている、銀の刃。俺はそれを凝視して、ハゼンを呼ぼうとした。
「どうか、あなた様が。銀狼ではなく、あなた様ご自身の事を。誇れる日が……いつか訪れます様に」
 柄を持ち替えて鋭く振り上げた刃の先が、ハゼンの左胸へと吸い込まれてゆく。俺は、駆け出した。刃が、ハゼンの胸を貫く。こんなに短い距離だったのに、俺の伸ばした手は、間に合いもしなかった。
 両腕でしっかりと、自分を刺し貫いたハゼンは、そのまま仰向けに倒れる。
「ハゼン……」
 駆け寄って、しゃがんで。近づいて。ハゼンはまだ、笑って、泣いていた。
「ハゼン、やだ。死なないで。死んじゃ、嫌だよ。一人にしないで」
 ゆっくりとハゼンが俺を見つめてくれる。けれど、そうしてから、ハゼンは自分の左胸に刺さるナイフを引き抜いた。血が、飛び散る。俺にもそれが、掛かる。温かいハゼンの血が。
「ハゼン」
 もう、俺を見てはいない。どこか遠くを見たハゼンが、目を細める。
「ああ、やっと。これで、やっと死ねる」
 それだけを言って。それきり、ハゼンは何も言わなくなった。

 ハゼンが起こした騒動から、ハゼンが死んでから、半月が経った。
 その間、俺はただ部屋に引き篭もって。俺の心配をして会いにきてくれたクランとも、ほとんど話もせず。どんな会話をしたのかも、憶えてはいないくらいで。
 一つだけ憶えてるのは、ハゼンの死体を、埋葬した事だった。ガルマは、他に亡くなった使用人達と共に、それを館の敷地内にある墓地で埋葬してくれた。手を組んだハゼンは眠っている様で、長い髪は下ろしたままで、
綺麗だと思った。そんなハゼンが棺に入れられて。それが穴に収められて。上から土が被されて、見えなくなるまで眺めていた事だけ。俺は、鮮明に憶えている。
 それ以外は、何も。朝が来たら、ゆっくりと起き上がって、着替えを済ませて。朝食を一口、二口。それだけで済ませて。あとはただ、自室に居るだけ。何もする気が起きなかった。
 それでも、ずっとここに居ようとは思わなくて。その内に俺は、ガルマにここを立ち去る事を告げる。ガルマは俺を見て、俺を引き留めたけれど、俺はただ黙って首を振り続けた。
「ここに居るのが、辛いのです。どうか」
 そう言うと、ガルマも諦めた。それに、ハゼンを、赤狼を従者にしていたのは、俺だ。例えハゼンの独断であって、そしてそれを止めたのが、俺であったとしても。赤狼が。赤狼が。その声があちこちから聞こえる。もう、
うんざりだ。聞きたくない。ここは嫌だ。
 自室に戻って、応接間を抜けて、誰も使わなくなったハゼンの部屋を抜けて、自分の部屋に入って。俺は黙々と荷造りを済ませる。来た時と同じで、荷造りに苦労する様な事はなかった。ハゼンの言った通り、少し背が
伸びた俺に新しく与えられた服だけが、ここに来た時とは違って、上等な物へと変わっていて。でも、それ以外は、何も。何も変わらないまま。俺は帰ろうとしている。
 何をしに、ここに来たのだろう。何が目的だったんだっけ。そのために、ここに来たんじゃなかったの。でも、いいや。もう、いい。ここには居たくない。この部屋も、もう嫌だ。ここに居ると、思い出してしまう。ずっと俺を
守り続けてくれた人の事を。守られるだけ守られて、最後まで、最期まで。俺からは一度も守る事ができなかった人の事を。ごめんなさい。なんにもできなくて、ごめんなさい。やっぱり俺は、嫌な奴で、駄目な奴で。自分に
手を差し伸べてくれる人に、なんにもしてあげられない様な奴でした。ごめんなさい。ごめんなさい、ハゼン。
 早く行かないと。ここに居ると、また泣いてしまう。何かをする度に、思い出して、泣いてしまうだけだから。
 荷造りを済ませると、部屋の外へと出る。そこで、ガルマが待っていてくれた。こんな俺の事を、きちんと見送ろうとしてくれる。ただ、黙って頭を下げた。ガルマに連れられて、内郭から外郭への通路を渡って、外郭に
入って。そこで使用人達が、俺を見て頭を下げてくれた。俺付きの使用人達も、今はここで。泣いてくれていた。俺が、何かできたんですか。俺のためにずっと尽くしてくれていたのに。俺は、何も。
 外に。館の敷地内に、馬車は待っていた。来た時よりも、更に豪華な奴。別に、どうでもいいけれど。酔わないかも知れないなと思って、少しだけ笑った。それも、どっちでもいい。帰りの馬車は、一人だから。強がる
必要のある相手も居ないのだから、酔っても酔わなくても、いいじゃないか。どっちでも。
「すまなかったな、ゼオロ。私はお前に、何もできなかった」
 ガルマが、心底から申し訳なさそうな顔で、そう言ってくれる。なんで、そんな顔をするんだろう。そんな風に、優しくしてくれるのだろう。優しく、してくれたのだろう。
「構いません。私は、族長になろうという思いに欠けていました。元々が、ガルマ様に何かして頂く様な存在ではなかった。それだけです」
「ゼオロ。これを」
 そう言って、ガルマが、エンブレムを差し出す。輝くばかりの銀。とても、眩しい物だった。ハゼンが持っていた物とは、違う。あれは、古びた金色だった。
「困った事があったら、これを。相手が狼族であるのならば、大抵は力になってくれるはずだ。他種族には、中々通らん事もあるとは思うが」
 じっと見つめる。ガルマや俺の被毛の様に、眩しい銀。しばらくそれを見てから、俺はガルマを見上げる。
「ガルマ様。一つだけ、我儘を言わせてください。ハゼンの持っていたエンブレムも、頂けますか。それと……」
「……これがあれば、あれは、必要無い物だが。それに」
「お願いします」
 俺が頭を下げると、仕方ないと言いたげに、ガルマは使用人に命じてそれを持ってこさせる。程無くして、金の。ハゼンの使っていた物が、俺の手に。ハゼンはずっと、持っていたらしい。それでもハゼンの流した血が
いつのまにか付いていたのか、表面には血の跡が僅かに付いている。二つをそのまま、俺は自分の服の中へと仕舞い込んだ。
「それから、これだ。本当に、良いのか」
 そう言って、ガルマが差し出してくる。銀のナイフ。俺が使っていた物。赤狼を殺した時の物。使い終わった後は、ハゼンに預けていて。そしてハゼンが最期に、自分を殺す時に使った物。
 黙って受け取った。全部受け取って、俺はまた深く頭を下げて。
「ガルマ様。ありがとうございました。短い間でしたけれど、ガルマ様にお会いできた事は、良かったと思っています。どうか、お健やかで。あなた様の双肩に、ファウナックの、狼族の運命が掛かっているのですから」
「私は、お前ならばと」
 首を振った。聞きたくない。そんな話は。
「ありがとうございました」
 馬車へ歩み寄ると、扉が開かれる。荷物を先に置いて、乗ろうとした時に、遠くから走り寄る足音が聞こえた。
「ゼオロお兄ちゃん!」
 振り返る。クラン。息を切らせて、走ってくる。目に涙を溜めて。それを見て、俺の無表情が崩れた。会いたくて、でも、会いたくなかった。どんな顔して会えばいいのかわからなかったから。
 それでも、来てくれたから。俺は荷物を置くと、クランへと。クランは俺にそのまま抱き付いて、そのまま胸に顔を埋め、泣きだした。俺はしゃがみ込んで、その身体を抱き締める。
「行かないで、お兄ちゃん」
「ごめんね、クラン。……本当は、クランと、もっと一緒に居たかったのだけど」
 本当は、まだ出ていくべきではなくて。クランの事を助けたかったと思う。こんな所で一人、寂しく生活を送っているクランの事を、支えてあげたかった。でも、クランもきっと、程無くこの館を出るんじゃないかと俺は
思う。銀狼を殺していた張本人は、既に死んでしまったのだから。もう親御さんの下に戻っても、大丈夫だろう。
「だったら、一緒に居て。僕と」
「……ごめんね。ここにはもう、居たくないから」
 本当に。もう、ここには居たくなかった。一日でも、長くは。帰る当ても無いのに。なんにも手に入れられずに戻った先で、俺の居場所なんて今更あるのだろうか。
 でも、もう。ここには。
「短い間だったけれど。クランと一緒に居られて、楽しかったよ。弟が居るって、こんな感じだったんだね」
 こんな感じ。それを、ハゼンも少しは感じてくれていたのかな。そうでもないか。俺は生意気だったし。ハゼンも、そう言ってたし。
 立ち上がって、最後にクランのふわふわとした頭を一撫でして、離れる。クランが泣きながら俺に縋ろうとすると、ガルマが屈んで、クランの身体を抱き締めてくれる。
「それでは、失礼します。ガルマ様」
 短い挨拶を済ませて、俺は馬車へと、一人乗り込む。馬車が動きはじめた。ファウナックの街へと出る。僅かに見えるカーテンの隙間から外を見ると、狼族が集まっていた。俺が出てゆく事は、何故か知られていたらしい。
 馬車が通ると、俺の名前が叫ばれていた。俺は、黙ってカーテンを隙間が無くなる様に閉めて。そのまま、豪華な背凭れに身を沈ませた。
 馬車が、揺れる。心地良く、揺れていた。ファウナックでの、ガルマの館での、後継者候補としての。そして、ハゼンと過ごした日々が、終わってゆく。
 もう、戻らない。この街には、きっと戻らないだろう。この街にだけ、ほとんど館の中ではあるけれど、あの赤狼と過ごした思い出が詰まっているから。約束は交わしたまま、結局俺だけが、こうして外に出る事になって、
そしてここにはもう、何も残ってはいないのだから。
 馬車の揺れが、思い出させてくれる。行きの馬車で、一緒に居た、俺をここまで連れてきてくれた人の事を。
 どこに居るの、ハゼン。
 ハゼンの言葉が、いくつもいくつも浮かんでくる。俺を気遣ってくれる言葉ばかりだった。優しくしてくれる言葉ばかりだった。そんな言葉を吐き出している裏で、一体どれだけ、苦しんでいたのだろう。俺は、何を、
してあげられたのだろう。
「どうか、あなた様が。銀狼ではなく、あなた様ご自身の事を。誇れる日が……いつか訪れます様に」
 ハゼンの言葉が、まるでその場で囁かれたかの様に。俺の心の中で甦る。
「誇れる訳がないよ、ハゼン」
 涙が、溢れてくる。さよなら、ハゼン。さようなら。
「俺はお前を、殺してしまったのに……」
 一度、馬車が大きく揺れた。その拍子に溜まった涙が、流れてゆく。後を追う様に、次から次へとそれは流れていった。

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