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3.竜なる器

「鍵は三つ。その内の一つが、今我らの下へ」
「そしてその鍵が、恐らくは他二つなど比較にならぬ程の力を秘めている」
「しかし所詮、鍵は鍵。その形の合う、鍵穴が必要なのです」
「それがなんなのか。そうして、どこにあるのか。今はまだ、誰にもわからない事なのでしょう」
「……あなたに、期待していますよ。ヤシュバ」

 窓から差し込む夕陽が、徐々に弱まっていた。
 昼の間、燦燦と世界を照らしていたそれも、やがては傾き、そうして没し。それに代わる様に月が昇る。
 丁度今は、その間。昼でもなく、かといって、夜でもなく。それでも間もなく、夜にとって変わられる世界。
 そんな中、私はやたらと質感の良い絨毯の上で、片膝を着いて、さっきから待ちぼうけを食らっていた。
 陽が完全に落ちるのと、どちらが先か。そんな事を考えていた頃、待ち望んでいた足音が、ずしり、ずしりと聞こえる。それは音だけでなく、辺りを僅かながらに震わせて、その音の発信源が、中々に重量感に溢れている事を
教えてくれた。
 扉が、開かれた。
 入ってきたそれは最初、床に屈んでいる私を見て、息を呑んだ様だった。私は顔を上げて、充分な余裕を持たせてから、予め閉じていた瞼を開く。
「おかえりなさいませ」
「あ、ああ。戻りました」
 その返しに、私は少しだけ視線を鋭くする。
「その様に畏まられては困る。私は、そう言いましたよね」
「……ああ。わかったよ」
 それで相手も、少しだけ肩の力が抜けたらしい。溜め息を吐かれるのは心外だが、場の空気は先程までよりも大分和らいだ。
「それで、どうしてお前がここに居るんだ」
「また、そんな事を言う。あなたが、私を負かしたからではありませんか。ヤシュバ様」
 ヤシュバと私が呼んだそれは、そう呼ばれてもどこか他人事の様な反応を示した。僅かばかりの夕陽に照らされて、薄紫の室内の中に現れたその男の肌は、まもなく訪れるであろう夜のそれと同じく漆黒で。そうして
頭部は、私と似ている、竜の形をしていた。ただ、角の様に鱗が尖った私とは違い、ヤシュバからは黒よりはまだ幾分脱した様な、グレーの角が一対、弧を描く様に生えていた。しなやかというよりは、ごつい身体つきで、
それもやはり、私とは異なっている。私はもっと、すっきりしているし。だからといって、細い訳ではないが。そんなごつい身体でも、隠れきれずに背中からは、これまた黒い翼が存在を主張していた。それもやはり、私には
無い物だった。黒い身体を覆う様に身に着けている服も、また黒く。僅かに金の刺繍が施されたそれは、着る者によっては成金趣味の様にも見えたが、ヤシュバが着ていると、自然な形に見えた。やはり、黒い鱗に合うから
なのだろう。瞳もまた、その身体に合わせた様に、黒に近かった。幾分、灰色がかってはいるものの。
 束の間、私は羨望を抱いてそれを見つめ。しかしその後に慌てて視線を逸らす。
「鎧は、もう外されたのですね」
「飾り物でも、邪魔で仕方がない。翼だけで、鬱陶しくて仕方がないのに」
「そう言わないでください。私からすれば、それは羨ましい物なのですから」
「そういえば、お前には翼が無いんだな」
「そういう風に、生まれてしまいましたから」
 そう言った私の鱗は、青色。これもまた、よろしくない色合いだった。
「その黒い鱗も、大きな翼も。私には、羨ましいと思える物ですよ」
「俺には、お前の方が身軽で、良いと思うが。それに、黒は不吉だ」
「残念ながら、ここでは黒は不吉ではありません。ですが、青は不吉なんですよ」
「……それで、どうして、お前がここに?」
 会話を打ち切る様に、ヤシュバがそう言う。
「お前、というのもやめていただきたいですね。いえ、たまになら構いませんが。ご存知ないかも知れませんが、私にも、名前という物が。実はありましてねぇ。失礼ながら」
「……リュース」
「おお。新たな筆頭魔剣士様から、直に名前を呼んでいただけるとは!」
「だから、言いたくなかったんだ」
 ヤシャバはそう言って、苦々しい顔で視線を逸らす。それを見て、一頻り笑ってから一呼吸をして。再度ヤシュバを見上げた。今度は、笑ったりもしない。
「もう一度申し上げますよ、ヤシュバ様。あなたは御前試合にて、わたくしリュースを打ち破りました。それから、それに続いて筆頭魔剣士たるガーデルさえもね。ああ、あなたが彼を負かしたから、もう前筆頭魔剣士
ですけれど。ふふ……。したがって、今日より我が身はあなたの物となります。これは、試合をするよりも前にあなたに一度説明はしましたし、あなたも納得した事ですよね?」
 一切の洩れが無い様に、私は懇切丁寧に説明をする。そうしている間、ヤシュバは心底からうんざりした様な顔を、隠そうともしなかった。私はそれを、無視する。
「それは、わかっている。だが、別に、部下になったからといって、今どうこうする訳でもないのだろう」
「それは違いますよ。あなたは、私を下してしまったのだから」
 そこで言葉を切り、私は一度立ち上がると、一歩下がってから身に着けていた黒い稽古着を脱ぎ捨てる。現れた上半身には、真新しい包帯が巻かれていて、身体を動かした事で僅かに痛みが走る。もっとも、それを
ヤシュバに見せようとは思わないので、平静を装ったが。
「傷は、まだ痛むのか」
「おかげさまで。跡は残るそうですよ」
 傷は、ヤシュバから受けた物だった。つい先程まで、この男と剣を取って、切り結んでいたのだ。剣を避けきれずに切り捨てられ、そこで勝敗は決してしまった。思い返すと、舌打ちをしたい気分に駆られる。もう少しだけ、
この男と剣を交えていたかった。
「申し訳ない事をした」
「いえ、構いません。私も全力で、殺す気でいきましたから。咄嗟にあなたが剣で薙いだのは、良い判断でしたよ。全力で、私は戦いました。さっきの熱が、私の身体に残っています。あなたもそうして涼しい顔をしています
けれど、本当は熱に浮かれさているのではありませんか?」
「それは……」
「熾烈な、命のやり取り。私達竜族は、それに身をやつすと、昂ってしまう。だから、戦いが終わった後に、勝者が敗者の身体で熱を発散するのは、当然の事ですよ。寧ろ、そうしないと熱が籠って、良くないと言われて
いますからね。また、敗者も勝者と交わる事、その精を頂く事で、より強くなれるとも言われています。まあ、これは合意を得るための、建前の様な物ですけれど」
 一歩、歩み寄る。ヤシュバが、後ろに下がった。自分で閉めた扉に、その翼が当たる。その姿とは対照的な、おどおどとした仕草がおかしくて、私は思わず笑みを浮かべてしまう。
「そんなに、怖がらないでください。あなたは私より、ずっと強いのですから。怯える必要なんて、ないでしょう? あなたは何も考える必要はありませんよ。だって、あなたが勝ったんですから。だから、私の身体を好きにして
良いんです。あなたがしたい様に、使ってくださればよろしいのですよ」
「でも、それは」
「それとも、私の身体はお気に召しませんか? 身体つきだけは良い、とはよく言われているのですが。色は、よくありませんがね。……ああ。そういえば、あなたは竜とするのも、初めてでしたよね。怯んだりする気持ちが
あるのは、当然かも知れませんね」
「そ、そうだ。だから、今日のところは」
 適当にぶら下げた餌に、ヤシュバが引っかかる。私は口角を吊り上げて、にぃっと微笑んだ。
「なら、それこそ丁度いい。私の身体で、慣れましょうよ。私はあなたの格好悪いところを見ても、なんとも思いませんけれど。他の者はそうとは限りません。あなたが失望されると、あなたの部下になった私も、困ります。さあ、
服を脱いで」
 また、一歩。ヤシュバはもう下がれない事がわかっている癖に、下がろうとしたのか、扉が悲鳴を上げた。それが面白くて、私もつい笑い声を上げてしまう。本当に、からかい甲斐のある人だ。
「まさか、まったく経験が無いなんて事はありませんよね?」
 ヤシュバは、答えない。
「おやおや。こんなに立派な身体つきで、誰からも好かれる様な姿をしているのに。まったく、なんて事なのでしょうね! こんなに雄渾な身体を、そして先程のあの戦いぶりを見たら、男でも女でも、夜にあなたが裸になって、
どの様な姿を晒して、どの様な息遣いをして、どの様に乱れて、どの様な叫び声を上げるのか。知りたくて、知りたくて。気が狂わんばかりでしょうに。役得というのも、たまにはあるものなんですねぇ。あなたのそんな姿を、
最初に見てしまうのが、私だなんてね」
 一歩。二歩。三歩。それで、もうヤシュバの目の前。扉を開けて逃げない辺り、彼の律儀なところが感じられる。私から逃げたい癖に、本当に背を向けて逃げ出したら、私に失礼だとか、そんな事でも考えているのだろうか。
困った顔をしていても、その顔は、その視線は、私から外されもしない。
「リュース、俺は、その……」
「わかっていますよ、ヤシュバ様。あなたの気持ちぐらい。けれど、今は私を助けると思って。それに、今言ったのは、本当の事なんですよ。あなたには恥を掻かないくらいに、このランデュスで世慣れてもらわない事には、
あなたの望みも叶わないし、筆頭魔剣士の椅子にだっていつまで座っていられるか、わかったものじゃないのですから」
「俺は、筆頭魔剣士であり続けなければ、ならないのか?」
「今のところは、そうですね。というより、あんなに簡単に、私とガーデルを衆目の前で打ち破ってしまったのですから、やっぱりやめときますなんて言っても誰も納得しませんよ。特に、ガーデルはね。まあ、ガーデルに
関しては、心配しなくても良いでしょうけれど」
 ガーデルの名前を聞いて、つとヤシュバの表情が曇る。私はそれをじっと見つめていた。その考えを、透かし見るかの様に。
「ガーデル、か……。そういえば、彼はここには居ないんだな」
「負けず嫌いですからねぇ。あなたに、あんまりあっさり負けたから、大分傷ついたみたいですね。彼はもう結構長い間、筆頭魔剣士でしたから。ああ。それとも、ああいう方がお好みでしたか? 確かに私と比べれば……いえ、
あなたよりも。体格は勝っていますからねぇ。そういう者を組み伏せる……初めてなのに、随分と大それた事をお望みなんですね。それとも二人同時に、というのも、良かったでしょうか」
「そんな事を俺が言っている訳じゃない。……ガーデルには、大分、恨み言の様な事も言われてしまった。そう思って」
「気にしなくて良いですよ。勝負に負けて、妙な復讐心を燃やしても、それは私がなんとかしますから。まあ、ガーデルは武人肌ですし、そんな考えは一時の物だと思いますがね」
「一つ、訊いてもいいかリュース」
「なんなりと。私から逃げる様な事でなければ」
 私の誘いから、次第に話を逸らせている事に安堵したのか。少しずつヤシュバが饒舌になってゆく。私は素知らぬ顔をして、それを迎えた。もっとも、逃がすつもりはないが。
「ガーデルが、筆頭魔剣士だったんだよな?」
「ええ。あなたが倒してしまったので、前筆頭という事になりましたが」
「お前は、元はガーデルの部下だったのか?」
「形式的には。ただ、そりが合わないのと、実際には私とガーデルは別々に部下を持ち、担当も違っていた状態ですね。今回あなたは私達を下したので、あなたは更にその上、という事になります」
「それでも、部下ではあるんだな? なら、おかしいな。俺は、ガーデルよりも、お前の方が強いと思ったのだが」
 その言葉に。私は身体を強張らせる。視線を鋭くするのは、どうにか堪えた。ただ、目の前に居る黒鱗のヤシュバの姿を、改めて見つめるだけだった。
「……ご冗談を」
「冗談じゃない。最初、お前は手加減していただろう。でも、最後の一瞬だけは、本気を出したな。あの時だけは、ガーデルよりもずっと手強かった」
「……困りますね。そうやって、見透かしてしまわれるとは」
「では、やはり?」
 興を削がれて、一度背を向ける。どうせ、ヤシュバは逃げはしないだろう。
「そこまでわかっていては、あなたに隠し事をしても、私があなたの信用を失くすだけですね。お話しましょう。ガーデルは、確かに腕は立ちますが、実際は私よりは弱い。それは、事実です。本人は、わかっていない
でしょうけどね。手合わせをしたのは一度切りだし、ガーデルが居る前では、私はあなたの言う様に、手加減をしていますから。あなたに負けそうになったから、あなたの腕を試す目的もあって、全力も出しはしましたがね」
「何故、ガーデルを?」
「神輿は軽い方が良い。そういう事ですよ。ガーデルは竜神様にとっては、扱いやすい駒として存在しているものでしたから。それに、私は色が悪い。青色は、竜にとっては、血液の色です。縁起が悪く、忌避される。私では、
どう足掻いても筆頭にはふさわしくない」
 胸に手を当てる、白い包帯は、薄っすらとその中に隠した傷から滲み出た青い血に、僅かに染まっていた。
「その点、ガーデルは赤い鱗。私とは対照的です。それと、ちょっと暑苦しいですが、ああいう方が人気も出ますからね。だから私は、竜神様の命で、ガーデルを補佐する形をとっていたんです。それも、あなたが現れて、
ガーデルが用済みになりましたけど」
「酷い話だ」
「そうでもありません。あなたに勝てなかったのは、単にガーデルの腕が悪いだけなのですから。もっとも、私も勝てませんでしたが」
「そんなに、俺は強いのだろうか」
「嫌味ですか?」
「違う。すまない」
「……ええ、わかっています。あなたは、あなた自身の強さにもまだ慣れていないのですね。竜神様のお力もいくらかはあなたにはある様ですし」
「俺は、本当に強い訳ではない」
「それは、違いますよ。確かにあなたの身体は、そうかも知れません。でも、あなたの心は、あなたの強さです。身体が強くても、胆力も無いのでは、話にならない。あなたは私が手加減をするのを止めて襲い掛かっても、
驚いたのはほんの一瞬で、あとは軽く私を往なしていた。それは、あなたの心の強さです。どうか、自信を持ってください。あなたは、強いですよ」
 振り返る。ヤシュバは、困惑した様な表情をしていた。それが、心細いとも言える様で、私はなるたけ優しく笑いかける。まるで、子供の様だった。頑是ない子供を前にしている様な。もっとも、その体躯は到底子供とは
言えなかったが。
「リュース。どうして、お前はそんなに俺の肩を持つんだ? ガーデルは、初対面でも俺をずっと睨んでいた。お前達の立場を。そして唐突に現れた俺の事を考えれば、それはまったく正常な反応だと思う。なのに、お前は
初めて会った時から、俺には親切にしてくれる」
「筆頭魔剣士にふさわしい方が現れた。ただ、それだけですよ。あとはまあ、竜神様の命もありますがね。ガーデルがああですから、私の役目は変わりません。私ではできない事を、あなたがしてくれますから」
「そんなにも、身体の色は大事な事なのか」
 痛い所を突かれて、私は僅かな間口籠ってしまう。どうにも、この話題となると。私はいつもの様に即座の反応を示す事ができないでいた。
「……色だけではありません。私には、翼も、角もない。その点、ガーデルは色や翼も揃っているし、角もあります。そうしてそれは、この竜の国であるランデュスでは、強い竜の象徴なんです。私には、何も無い。どれ程衆に
優れた力を持っていても、私は不吉な青の色。決して、先頭に立つのにふさわしくはない。しかし、見場が良くてもガーデルは私より弱い。どちらも足りていない物がありました。そこに現れたのが、あなたですよ、ヤシュバ様。
見場は申し分なく、それでいてガーデルの様に己の力だけを求めたりもせず。何より、私よりも強い。本当を言えば、私だって、用済みの様な物ですよ。ガーデルが補佐だと頼りなく、また彼の性格を考えれば、あなたの
補佐に甘んじる心根は持ち合わせてはいないでしょうから、仕方なく私がまだここに居る事が許されているだけでして」
「悔しくは、ないのか。後から来た俺が、お前の居場所を奪って」
「居場所なんて、最初からありませんでしたよ。いつか現れる、本当の力を持った方が私を打ち負かすまでの、仮初でしかなかった。悔んだり、怨めしく思ったりするのは、もっとずっと若い頃に、私の中を通り過ぎていきました。
今はただ、私より強いあなたが生まれた事が、嬉しい。唯一心に燻っていた、自分より弱い奴が、自分の上に居る。剣士として、拭い様の無い欝々とした気持ちを、あなたは払ってくれました。だから」
 また、歩み寄った。今度は、ヤシュバは下がろうとはしなかった。
「こんな風に言っても、あなたには迷惑なのはわかっています。それでも、私は……あなたが好きですよ、ヤシュバ様。そして、こんなに醜い私でよろしければ、どうかあなたの身体の熱を鎮める手伝いをさせてください。
あなたに打ち倒されて、私の身体も、どうしようも無い程に熱に浮かされているのです。あなた以外と及んでも、納得できないのだと叫びたい程に」
「俺は、お前が醜いとは思わない」
 ヤシュバが、素早くその言葉を返す。私はまた、言い淀んだ。そんな返事を、求めた訳ではなかった。
「醜い、青の色です」
「綺麗だと、俺は思う。空の色だ。俺はいつも、空を見ていたよ。だから、これからは空を見ればお前を思い出すんだろう」
「忘れてください。空は、もっと綺麗ですよ。私なんかより。それでいて、もっと色んな表情を見せてくれる。今、丁度外が、茜色に染まっている様にね。それから、やがてはあなたの色に。美しい、あなたの漆黒になる。本当に、
綺麗な色です。私も、こうありたかった。色も、角も、翼も無い。何か一つくらい、私も欲しかった」
「黒と青に、そんなに違いは無い。空を見ていれば、わかるだろう」
 そう言って、ヤシュバが笑った。じっと見つめて、ふとある事に気づいて、私は慌てて顔を横に。その動きで、滴がぽたりと床に落ちる。
「ごめんなさい。私」
 何を、泣いているのだ。そう思った。自分がするのは、新しい筆頭魔剣士になったヤシュバを支える事だった。何をしている。自分に戒める様に、小さく呟いた。とっくに通り過ぎていったはずの苦しみが、ヤシュバの言葉で
簡単に掘り出されてしまったかの様だった。苦痛に思う。それなのに、苦痛を与えている当の本人の事は、不思議と嫌いだとは思わずに。
 寧ろ、好ましいと。より強く私は思ってしまうのだった。
「つい、話し過ぎてしまいました。忘れてください。新しい筆頭魔剣士の誕生に、こんなにも浮かれているだなんて、気づかなかった。こんな……こんなに、我を忘れて、自分の事を話してしまうだなんて。竜神様が知ったら、
即刻処断されかねませんね」
「俺は、良かったと思うよ、リュース。やっと、お前の考えている事がわかった。なんとなく、俺に親切にしてくれる。それくらいしか、今まではわからなかった」
 涙を乱暴に拭う。胸が痛んだ。違う。今は、こんな想いを抱いている場合ではない。
 それでもしばらくは動けなくて。涙を何度か払った後、軽く深呼吸をして。それでようやく、私はヤシュバの顔が見られる様になった。
「申し訳ございません、ヤシュバ様。取り乱しました。さて、これでお話は終わりですよ。すっかり時間が過ぎてしまいました。私を……抱いていただけますね?」
「それは」
 ヤシュバの態度が、元に戻る。それでも、もう構わなかった。これが、ヤシュバなのだ。微笑んで、その手を取る。びくっと跳ねたその反応が、愛らしいと思う。
 じっとその顔を見上げる。私は背が低い方ではないけれど、それでもヤシュバは、頭一つ分以上は大きかった。本当に、類稀な姿だった。
「どんな風にしていただいても、構いません。笑ったりは、しませんから。勿論、激しいのがお好みだと言うのなら、そうしていただいても構いません。私のこの胸の傷に手を掛けて、泣き叫ぶ私を嘲笑いながら犯そうが、
今だけは、誰もあなたを咎めません。ああ、ただ、組み敷いてもそれほど抱き心地は良くないかも知れません。そこは、お許しください。どちらかと言えば、私もあなたと同じ様に、最初から強かった方でして。だから、
組み敷く事はあっても、組み敷かれる事は、それほど経験が無いのです」
「俺は、乱暴な事はしたくない。それに……」
「やりたくない。なんて事は、ないのでしょう? さっき私が脱いでから、何度か視線をそらそうと努力されているみたいですけれど、じろじろ私の身体を見ているのは、わかっているんですよ。それも、露出したところと、
それと……」
 空いた片手で、そっと腹に手を添わせて、そこから下へと進んでゆく。
「ここが、どうなっているのか。知りたいんでしょう? 自分のを触れば、わかるでしょうけれど。でも、他人がどうなっているのか、気になるものですからねぇ。あなた、口では嫌がっているけれど、本当は興味津々なんでしょう。
言い訳しても、私にはわかりますよ」
 服越しに、何度か股間に指を這わせる。ヤシュバの視線が、そこから外されていない。それで、反応としては充分だった。
「ああ、それに。私の身体に、あなたの剣により一足先に刻まれたこの傷。私を傷物にした責任は、取っていただけますね? もっとも、傷を治せなんて、つまらない冗談は言いませんけれど。ただ、もっと別なあなたの剣で、
この傷なんか忘れるくらいに、私の心に傷をつけていただければ」
「少し、待ってくれ。まだ心の準備が」
「……まあ、良いでしょう。それに、私の傷を抉る事はしたくないと、あなたは言いましたからね。確かにこのままでは、私も情けない姿を見せてしまう。ちょっと失礼して、もう少し治療をしてきますから。月が昇った頃、また
ここに来ますよ。逃げないでくださいね、ヤシュバ様」
 脱いで投げ捨てていた服を、尻尾で引っ掛けて跳ね上げ、それを手で受け取る。部屋を出ようとすると、ヤシュバが道を空けた。結局、ずっと入口で立ち尽くしていたのだった。擦れ違いざま、ヤシュバの口元に指を
伸ばして触れる。驚いたヤシュバの反応を楽しみながら、指先を自分の口元へ動かして、舐め上げる。
「本当は、私の唾液を差し上げたいのですが。今そんな事をしたら、本当に逃げてしまいそうですからね。では、また夜に」
 何も言わずにいるヤシュバを残して、部屋を出る。扉に背を預け、一息吐いてから、歩きはじめた。
「まったく、なんていう人なのでしょうね。あれじゃただの、生娘じゃありませんか! あんなにごつい生娘だなんて、趣味の悪い。あれでは、人によっては幻滅してしまうでしょうよ。ええ、まったく」
 足音を立てながら歩いて、少し振り返る。部屋の中からは、なんの物音も聞こえない。恐らくヤシュバはまだ、立ち尽くしたままなのだろう。
「私が、お守りして差し上げなくては……」
 廊下を歩き続けて、その内に一度、外に出る。橋が掛けられる様にして作られた通路からは、ランデュスの城下町の美しい姿が見えた。衛兵の間を通り抜けて、私はそれにしばし見惚れる。
「リュース様」
 橋で待っていた手下が、足早に近づいてくる。身分の低い物-者が立ち入りを許されるのは基本的にここまでで、ヤシュバの寝室には侍女や小姓を除いて、気軽に近寄れるのは私ぐらいのものだろう。
「なんだ」
「ガーデル様が、出奔されたとの報告が」
「そうか」
「ご存知でしたか?」
「いや。だが、ガーデルは、ここには来なかった。明日になれば、ガーデルはヤシュバ様を前に膝を着かなくてはならなくなる。出ていくのなら、今だろうと予想はついていた。ヤシュバ様に手出しできぬ様に、私がついて
いたからな。……よろしい、お前はそれを、先に走って私の副官にでも伝えてくれ。既に、準備はしてある。ガーデルが居なくなったのだ、このまま、ガーデル派の連中には早急に手を打つ必要がある」
「心得ました」
 走り出した兵の姿を見て、思わず口元を綻ばせる。残っているのは、ヤシュバ付きの者だけだ。
「ああ、これでようやく動きやすくなる。ヤシュバ様。やはり、あなたで良かった。私が待ち望んだ。私の筆頭」
 少し歩いて、周りに人が居ない事を確認してから、胸に手を当て、爪を立てる。包帯が青に染まり、痛みが全身に走り、束の間、ヤシュバと対峙していた時の高揚を思い出す。勝負は、本当に一瞬だった。ヤシュバの刃を
かわしきれず、胸を薙ぎ払われ傷を受けた。もう少し反応が遅れていたら、真っ二つになっていたかも知れない。それほどの、素晴らしい剣捌きだった。ぞくぞくとした感覚が全身を走り抜けて、私は思わず力が抜けて、
その場に頽れてしまいそうになる。あの剣は、素晴らしかった。そして、今宵はヤシュバの、また別の剣の味を知る事にもなる。
「私はこの傷を見る度に、あなたを思い出しますよ」
 治療をするために、歩き出した。傷は、残るだろう。それが、堪らなく嬉しかった。

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