ヨコアナ
19.銀涙
「まだ幼さの残るお前と初めて顔を合わせた時の、お前の様子を。私は忘れないだろう」
「いつからか、お前は自信に溢れた言動を。そして、そうすればそうする程に、狼族らしい振る舞い方ができる様になっていった。しかしそれは同時に、他種族を拒む事にも繋がった」
「私は知っていた。お前の苦悩を。実の兄を崇拝する気持ちを。それと同時に、己が狼族を率いる立場となった事で、思慕と同じ程にまで兄を憎んでいた事を」
「お前は、私に言ったな。族長ですらない、その苦労も何も知らぬお前になど、私の気持ちはわからないと。もはや立場が違うのだと」
「だから私も族長になったのだ。天からそのつもりのなかった私が、兄達を蹴落として。それが私の、お前への。友としてできる全てだと信じていたから」
「……それでも。狼族ですらない、兎族の私の思いでは。お前にはなんの足しにもならなかったのだろうか? お前の孤独を。苦悶を。理解はできたとて、私では和らげる事はできないのだろうか?」
「ガルマよ……」
一筋の光が、カーテンの隙間から部屋に射し込んでいた。それは俺の居る天蓋付きのベッドに届きそうで、届かなくて。さっきから俺は眠い瞼を薄っすらと開いて、それを見つめている。
「ゼオロ様。クラントゥース様が、これから窺うと使いの方が」
「そう」
「ですから、身支度を整えませんと。いい加減に、朝に弱いのは直していただけませんかね」
朝は、弱かった。きっと誰でもそうだと思うんだけど。少なくとも俺の目の前にやってくる赤狼は、そうではない様だった。俺が顔を上げると、長い髪を靡かせたハゼンが、丁度隙間から射し込むせいで棒状になった
光の前を通るところで。全身が一瞬だけ光に照らされる。靡かせた髪が、根本から毛先まできらりと輝いて。それにちょっと見惚れる。やっぱり髪を下ろさせたのは正解だった。
「ほら、お早く」
「やだ。もう少し待って」
そんな俺の懇願も虚しく、ハゼンの手が伸びて。俺が抱き締める様に被っている毛布を遠慮なく剥ぎ取る。途端に寒気が襲ってくる。春が遅いと言われたファウナックにも、いい加減に春は訪れていたけれど。朝は少し
冷えるとはいえ、今の俺には被毛があるのだから、そんなの平気なはずだけど。そういう問題ではない。毎晩俺を包んでくれる毛布が。
「返して」
「いけません。いつまでもこうしてだらだらとされていては。使用人達も、そろそろ痺れを切らしますよ。クラントゥース様の訪いともなれば、当然使用人同士の話題にも上る物。粗相があってはならないと、ゼオロ様が
起きるのを首を長くして待っているのでございますから」
元々長いじゃん。
「主とは、それに使える者達の顔でございます。もっと、しっかりとして頂かなくては」
俺が起き上がらないのを見て、ハゼンが俺の耳元に口を寄せて、くどくどと説教を始める。こんなに酷い拷問みたいな起こし方も、中々ないと思う。耳を震わせて撃退しようとすると、耳を掴まれて、続けてくどくど
される。その辺りで俺は抵抗を諦めて、大人しく起き上がった。いい加減鼻息がくすぐったい。
「おはよう」
「おはようございます、ゼオロ様。もう昼も間近でございますよ。夕べはまた、遅くまで読書をされて?」
「うん。まだまだ、知りたい事もあったから」
「そういうところは一向に構わないのですがね。クラントゥース様とのお約束がある日くらい、すぐに起きて、準備をしていただかなくては」
「ああ、わかった。わかったから。そんなに怒らないで」
最近ハゼンの小言が増えた気がする。そんなに手間がかかるだろうか、俺は。俺がベッドから起き上がると、ハゼンはもはや何も言わずにさっさと俺の寝間着を脱がせて、新しい服と取り換えてくれる。俺が自分でやるから、
服をベッドに置いて待っててくれと言ったのは、もう何日前の事だろうか。そのまま二度寝をしたのが数回。ハゼンが完全に切れて、笑顔で俺の寝間着をひん剥いて、着替えさせたのも数回。今では全てを諦めて、
任せていた。完全に子供だなこれ。
「自分で着替えられるのに」
「着替えられないから私がこの様に態々お手伝いをして差し上げているのですがね」
「急かすからだよ。別に予定も無い日まで、こんな風にするんだから」
「それでは示しがつきませんよ、ゼオロ様。今この館には、銀狼が大勢いらっしゃる。ゼオロ様があまりに自堕落だと、皆が困るのですよ。勿論私もですよ、私も」
「良いじゃない。言いたい様に言わせておけば。自堕落ではなく、親しみが湧いてくる族長候補。うん、大いにありだね。大体、銀狼というのを神様か何かみたいに崇めるばかりなのは良くない風潮だよ。ガルマ様だって、
あんなにエロ親父なんだから、私だってそれなりに自堕落、じゃないな。ゆっくりしたい部分があったって、当たり前なのだから。人より勤勉である事ばかりを求めて、それを褒め称えるのは、良くないな。その内無理が
祟ってしまうよ」
「こういう時に、その良く動くお口をお使いになられるのは、お止めください。それから、さり気無くガルマ様を悪く言うのも。どこで聞かれているか、わかりませんよ」
「種馬発言よりも弱いから、大丈夫だって」
「大丈夫じゃありません。さあ、いつまでも抵抗なさらずに」
全手動ハゼンの巧みな働きにより、俺の身形がこざっぱりとした物へと取り換えられる。袖を通したばかりの服は、被毛越しでもまだちょっと寒い感じがして。俺は不満の声を、ゾンビ声にする事で伝える。
「我慢してください」
「……それで、クランはもう来るの」
「ええ。まったく、昨日はお庭でいつもの様にお話されていて、そのままお約束なされたのでございますから。約束はきちんと守ってあげてくださいよ。先触れを出されているクラントゥース様は当然、準備はとうに済んでいるので
ございますから。年下のクラントゥース様に、何もかも後手に回る様では。他の方から軽んじられてしまいます」
夜会から日が経って、あの時初めてはっきりと顔を合わせたクランと俺は徐々に親しくなっていた。クランは最初に受けた印象の通り、少し気弱で。でも、それ以上に寂しさが募っている少年だった。俺が噂に聞いた様な、
恐れる必要のある人物じゃないとは思ってくれたのか、庭で一人本を読んでいると、今度はクランの方から声を掛けてきたのだ。それからは何度か会話を重ねて。クランが俺の部屋を訪ねる様になるまでは、時間は
かからなかった。夜会を区切りに、銀狼同士の接触も特に禁じられなくなったのも大きい。今では使用人達にも、本当の兄弟の様ですねと微笑まれたりもする。それを聞いたハゼンが、ゼオロ様は背の高い弟で
ございますねぇなんて言いやがったので、俺は大分憤慨して、その場でハゼンの髪を褒め称えてあげたけれど。
「髪、縛るの」
俺の身だしなみを整え終えると、ハゼンも自分の髪を気にしている素振りを見せたので、俺は口に出す。
「ええ。クラントゥース様がお見えになられますからね」
「そのままで、いいのに。今はもう、使用人達にもそのままで接しているんでしょ?」
「それとこれとは、別でございますよ。元々戦場で靡かせているものなのですから」
ハゼンは最初、俺と二人きりの時以外は決して髪を下ろした姿を他人に見せようとはしなかった。なんでも赤狼は元から髪が長い人が多くて。それは戦場では威嚇にもなり得るから、戦ではその髪を遺憾なく振り乱す
らしい。そんなエリマキトカゲよろしくな姿を、こうした場で見せつけるのは、よろしくないだろうというのがハゼンの言い分で。そんなのいいから似合うから下ろせというのが俺の言い分で。大分それは激突した訳だけど、
試しに髪を下ろした姿を使用人達に見せてみると、これはもう、かなり評判になっていた。特に女の使用人は、ハゼンが赤狼であるからと普段は決して黄色い声を上げたり、熱っぽい瞳を向けたりはしていなかったけれど、
その時ばかりはちょっと見惚れているのも居て。それらの反応を見て、嫌な顔をされると言って尻込みしていたハゼンは目を丸くしていて。俺は得意気にそんなハゼンの肩を叩こうとしたけれど微妙に届かないので、腰の辺りを
叩いてあげたのを、まだ憶えている。
その頃から、以前よりも更に俺付きの使用人とハゼンは、距離が近づいた様だった。今では時折、談笑に耽っている場面も見つける事ができて、俺はとても嬉しい。問題は主である俺がその場に居ると、ハゼンはともかく
使用人達はまだまだ萎縮してしまうらしく、話が中断してしまうところなんだけど。なんか狡い。主なのに蚊帳の外とは。不満を口にしたら、自業自得だとハゼンには言われてしまったけれど。俺の従者なのに反抗的。とはいえ、
主を前に私語で盛り上がるという訳にもいかないので、一概に俺が全部悪いという訳ではないのだが。
「ゼオロ様付きの者達ならまだしも、やはりそれ以外の館の者には、あまり見せたい物ではありませんからね。ただでさえ、ガルマ様に召し抱えて頂いた身分の私が、必要以上に目立ったりする事など、言語道断です」
「そういう物なのかな。クランなら心配いらないと思うけれど。ハゼンが赤狼だっていう事にも、もう慣れてきたのに」
初めて俺の部屋をクランが訪れた時、クランは赤狼の事を当然ながら知っていて、ハゼンの事を怖がっていた。こんなに幼い子でも知っている事を知らなかった俺の立場が無い、というのは置いておいて。ハゼンは自分が
クランに恐れられる事も予想していた様で、その時ばかりは他の使用人を呼び、なんなりと用事を受ける様にと頼んで、自身はさっさと引っ込もうとしていた。当然俺は、まるでそんな事は聞こえなかったと言いたげに、
ハゼンを名指しして、これを持ってくる様に、あれを持ってくる様にとこき使って。そして品物を持ってきたハゼンの応対を、最初は自分でして。そうしながらハゼンとの軽い会話を楽しんで。それを見たクランが、ハゼンに
多少は慣れてきた辺りで、クランがハゼンの持ってきた物を受けとってくれと頼んだ。その時のハゼンの顔は大分俺を責める様で、俺は素知らぬ振りを通すのに苦労した。
結果、クランは何度も接する内にハゼンにも慣れた様で、今では俺の部屋に来るとハゼンにもきちんと笑顔で挨拶をしてくれる様になったのだ。これにもハゼンは戸惑った様子を見せていて、俺は笑顔が止まらなくなる。
よって、次は髪である。解け。主の命令だぞ。
「嫌ですよ。二人切りの時は好きなだけ見せて差し上げますし、好きに結ばせてあげますから。もうこんな事は、お止めください」
好きに結ばせてくれるのか。じゃあ蝶々結びにしよう。え、駄目なの。
「いいじゃない。私が、そうしたいのだから」
「銀狼の酔狂だと、評判になってきていますよ。赤狼如きにかかずらって。あなた様はもう少し、ご自分が銀狼である事を。そして私が、赤狼である事を。きちんと理解なさるべきですよ」
「しているつもりだけど。私は誰からも良い目で見られる銀狼で。ハゼンは、同じ赤狼以外からはもとても嫌な目で見られる、赤狼だって」
ハゼンが、ほんの少し。きっと、初めて会った頃の俺だったら気づかないくらいの変化でもって、寂しそうな表情をする。自分で口にしながら、俺はそれを見て後悔した。ただ、話の流れで。そう表現したに過ぎないのに。
「ならば」
「それと私の振る舞いは、別だよ。どうしたのハゼン。こんな話、今更なのに。ハゼンが私に仕えるのも、私だからと見込んでここへ連れてきた事も、私がハゼンの事を、赤狼であろうと厭わないから、という部分があった
はずなのに。どうしてそれを今更になって、厭わない私を咎める様な事を言うの。ハゼンは」
「あなた様が、心配だからでございます。私の事を厭わずに。お優しく接してくださる事には、とても感謝しています。しかしそれを外にまで持ち出されては。それはあなた様に、多大な迷惑として返ってしまうのです。
あなた様の、そのお気持ちだけで。私には充分なのでございますよ、ゼオロ様」
「いいじゃない。どうせ、族長にはなるつもりもないのだから。精々がガルマ様の子飼い。その内、お稚児さんになってしまうかも知れないのだし」
「ゼオロ様。その辺りでお止めにならないと、私は本当に怒りますよ」
腕を掴まれる。いつもより、少し強くて。
「痛いよ、ハゼン」
俺がそう言うと、ハゼンははっとして、手の力を緩めてくれる。
「……あなた様は、本当に……こういう話となると、私の事を怒らせる事ばかり仰るのですね」
「ハゼンが私を怒らせるからだよ。ハゼンの言い分は、私はわかっているつもりだけど。けれど、だからといってなんでもかんでも、赤狼だからと言ってしまうのは良くない。きっと今、ハゼンは、それはお前が赤狼の事を
なんにも知らないからだって、思っているのだろうけれどね」
「その様な、事は」
俺が手を引こうとすると、ゆっくりとハゼンは俺の手を離してくれる。膝立ちで俺の身繕いを手伝ってくれていたハゼンの頭を、俺はそっと撫でる。整った被毛は、俺の手を迎えて、擽る様に包んでくれる。真っ赤な大地に、
銀の指先が走る。綺麗だと思う。俺よりも、この真っ赤な身体が。
「ハゼン。私、族長になってもいいよ」
「なんと言われましたか。それは、本当ですか」
「でも、条件がある」
「どの様な条件でしょうか」
「私が族長になった時に、居なくならないで」
「……」
ハゼンの表情が、なんとも言えない物へと変わる。ああ、やっぱり。そうだろうなとは思っていた。こんなに自分が赤狼である事を気にして。そうして赤狼であるハゼンを仕えさせている俺が、悪く言われないかと気に
しているハゼンだ。もし俺が族長になった時、自分は傍に居てはならないと、そう思っているであろう事は予想が付いた。
「それは、保証致しかねます。何より周りの者達が、決して許しはしないでしょう」
「なら、いいや。族長なんて私はならない。なる意味もないね。そんな物では」
「どうして、その様な」
「私は、自分が好きだと思った人と一緒に居たい。一緒に居て、色んな事を知って、好きになった人とね。だから本当は狼族だけではなくて、他の種族とも仲良くなりたい。猫族であろうとね。それと、同じだよ。ハゼンとも、
一緒に居たい。でも、族長になるために、好きな人皆と離れないといけないのなら。そうするのが、当たり前なんだって言われてしまうのなら。私はそんな物に一切の価値を感じないし、何より認めない。ギルスの血筋も、
銀狼も、くだらない戯言にしか聞こえない。どうしてただ、そう産まれたというだけで、こんな風になってしまうのだろうね。少なくとも私は、銀狼として何かを成したとは、到底言い難いのに。本当に、くだらない」
「ゼオロ様! 如何にゼオロ様とて、その発言だけは、してはなりません。それだけは。銀狼を否定する事だけは。それは、あなた様の身を、本当に滅ぼしかねないのですよ! ガルマ様を侮辱するよりも、或いは……。
狼族の全てを敵に回しかねない程の言葉だという事を、努々忘れてはなりませぬ……」
「……そうだね。少し、言い過ぎた。ごめんなさい」
最後に、ハゼンの耳の裏を少し擽る。ハゼンが片目を瞑って耐える表情を見せた。手を引いて、動かないままのハゼンの横を通り過ぎて、部屋の入口へと俺は向かう。
振り返った。
「そろそろ、クランも来てくれるかな? ハゼン。髪を結ぶのなら、早めにしないとね」
俺の方を見たハゼンが、黙って頷く。
俺が次の間であるハゼンの部屋を通り、更に応接間への扉を開くと。使用人達が恭しく俺を迎えてくれる。
「ゼオロ様。もう間もなく、クラントゥース様が」
「ああ、わかったよ。何か飲み物の準備を」
「整っております」
「流石、ハゼンだね」
それ以上指示をする必要は無い様で、俺は毎日丁寧に整えられているソファに座って、クランがやってくるのを待つだけになる。
「……というか、私の朝ご飯は」
「残念ですが、さっさと起きてくださらない上に、朝からクラントゥース様とのお約束を取り付けてしまったが故に。その様な時間はとてもとても」
「……お菓子、増やしといて」
朝ご飯が無いと知ると、途端に腹の虫が騒ぐ様な気がする。こんな事なら、ハゼンの言う通りにさっさと起きていれば。というより、昼過ぎから約束を取り付けるべきだった。朝に弱いのに、何故安請け合いをしてしまったのか。
そんな後悔も、長続きはしない。その内にクランがやってきて。俺は立ち上がって、俺よりも小さな銀狼の少年を迎える。
「ゼオロ様」
そう言って、周りの様子を気にも留めずに走ってきたクランが、俺に抱き付く。俺よりも小さいから、片腕しか動かない俺でも、特に問題はなくクランを受け止められる。そうすると、俺達を見ていた使用人達の目が、
一瞬にして和らいで。場の空気が柔らかな物へと変わる。銀狼同士がこうして戯れているのは、この内郭に通じる者達にはとんでもない効果がある様だった。唯一動じていないのは、ハゼンくらいのものだろうか。今日も
俺の気紛れに付き合わされると、内心では溜め息でも吐いているのかも知れない。
「おはよう、クラン。朝ご飯は食べたの?」
「はい。急いで食べました。ゼオロ様とのお約束に遅れたくないから」
「そうなんだ、とても偉いね」
「流石、クラントゥース様でございますねぇ」
畜生。朝食がまだなら、一緒にどう。そういう俺の計画が、木っ端微塵じゃないか。後ろで俺達を見守っていたハゼンが早速クランを褒めると見せかけて俺に攻撃をしかけてきている。なんという謀反。ちょっと振り返ると、
そのハゼンは髪を、いつもの三つ編みではなく、頭の後ろと、腰の二カ所で留めていた。編む程の時間が無かったから、そうしたらしい。それもいいと思う。程良く髪が靡いて、控えめではあっても主張ができて。
「さて、私の部屋でお話をしようか。ここでこうして、クランの可愛さを私の使用人に見せてあげるのも、大いに結構だとは思うのだけれど。せっかく、私の下に来てくれたのだから。私がクランを独り占めしたいな」
「はい。あ、でも。少しだけ、待っていてください」
そう言うと、クランは一度俺から離れて。自分の連れてきた従者に声を掛けていた。従者は少し心配そうな顔を見せたけれど、既に何度も行われているやり取りだ。渋々と頷いて、これは使用人の待機部屋の方で
待つつもりなのか、大人しく部屋から出ていこうとする。ただ、少しだけ気掛かりそうな顔で、ハゼンの事を見ていた。クランの従者は、主であるクランに似て穏やかな空気を纏い、ハゼンを睨む様な事は決してしなかった
けれど。それでも主であるクランを、赤狼の傍に残す事にはどうしても心配が前に出てしまうのだろう。俺はそれに安心させる様に、笑ってみせる。
クランを連れて、俺は自室へ。
「ハゼン」
いつも通り自分の部屋で待機しようとするハゼンを、俺はいつも通りに招く。クランが自分を見ていないのをいいことに、ハゼンは咎める目を俺に向ける。俺は無視してさっさと部屋へと入った。ハゼンは俺の命令に
背く訳にもいかずに、大人しく部屋へと。
「はぁ。やっと落ち着けるね」
自室のソファに座って、その隣にクランを。そうすると、クランは早速入口でした様にまた俺に抱き付いてくる。
「ゼオロ様」
「やれやれ。どうしたの、クラン。今日はとても甘えん坊で」
「だって、僕……。他に、お話できる人もいないから」
ちょっと顔を上げたクランが、すぴすぴと鼻を鳴らして。俺に懇願する様にそう言う。可愛いと思う。完全に目の前に居るのが、仔犬か何かだと思えば、とても愛らしいと思う。動物の赤ちゃんって、どうしてあんなに
可愛いのだろうな。特に被毛があるタイプは、もう全身もこもこの毛玉状態で。両手で救い上げる様にして、そのままずっと持っていたくなる。クランも丁度、そんな感じだった。とはいえ、クランは赤ちゃんなんてとうに
過ぎ去ってはいるのだろうけれど。それでも幼い身の上で、たった独りファウナックまで連れられたこの不憫な遠縁の銀狼にとって、寄る辺のない毎日はやはり辛く感じる時もある様だった。
「クランの従者はどうなの。あの人も、とても優しそうじゃない」
「優しい、けど……。でも、それは、僕が族長候補だから。銀狼だから、なんでしょ? 僕の気持ちを知ったら、きっと嫌がるよ」
「そうなのかな。私は、ハゼンになんでも、明け透けに物を語ってしまうけれど」
ハゼンが何か言いたそうに俺を見ている。が、クランの手前、俺とクランの会話を邪魔する訳にもいかずに、堪えている。もっと積極的に会話に参加してくれても、一向に構わないのだけど。まあ、あまりにそうすると、
部屋に戻ったクランが今日はこんなお話をした、と使用人や従者に伝えた際に、ハゼンの話題が出てしまうだろうし。それを恐れているのかも知れないな。
「ゼオロ様がいい」
「困ったクランだね。銀狼は、嫌なのではなかったの?」
「嫌なのは、銀狼じゃありません。僕が、僕の家族と、違っていたからなんです」
「そう。可哀想にね、クラン。まだこんなに小さいのにね。私で良ければ、好きなだけそうしてくれても、構わないよ」
離れた箇所から、ハゼンの鋭い視線が届く。またお前は誑かして、という声が今にも飛んできそうだ。違うから。全然違うから。大体こんな小さい子が、寂しさで泣いていて。その上で今は俺を慕ってくれているのに、
それを蹴っ飛ばせとか。鬼か。無茶言うな。程々の距離にしてくれと言いたいのだろうけれど、そんな器用な事できるはずないだろうに。
「いいんですか」
「勿論。こんな所に独りぼっちでは。いつ心を病んでしまうか、知れた物ではないじゃない。丁度、私は暇を持て余しているしね。私はガルマ様の後を継ぐ気もないし」
「ゼオロ様」
初めて、ハゼンからの鋭い声が届く。そういえば、クランにはこの事は話していなかったな。
「ゼオロ様は、ガルマ様の後継者にはならないのですか?」
とても驚いた顔で、クランは俺を見ている。やっぱりこの世界に生きる銀狼にとってガルマの跡取りになるというのは、とても名誉な事だし、ここに集まってる銀狼は、それなりに狼族の事を思って、銀狼である自分に誇りを
持っているのだろうな。俺には生憎、どれも無いと言っても差し支えない程だけど。かといって、自分の立場を利用してどうこうしたい訳でもない。
「どうだろう。でも、向いていないなという気がしてね。私には」
「そんな事ないと、思います。ゼオロ様は、こんなに綺麗なのに」
「皆、そう言ってくれるけれどね。でも、言ってしまえば、それだけでしょう」
「それだけが、どれだけ大変なのか、いい加減おわかりいただけないでしょうかね」
物凄い小声で、ハゼンの声が飛んでくる。俺の言葉にちょっと動揺しているクランには、届かないのに、俺には聞こえる。絶妙な声量で。
「私からしたら、クラン。クランの方が、族長には向いていると思うな」
「えっ。でも、僕。何も……」
「クランも、ハゼンの事をそれほど嫌ってはいないでしょう? 最初は、赤狼だから怖かっただろうけれど」
「ゼオロ様」
ハゼンの声を無視する。
「はい。ハゼンさん、最初は怖かったけれど。でも、今はもう、大丈夫です。ゼオロ様と一緒でした」
何が一緒なんだ。何が。突っ込みを入れそうになって、俺はそれを笑顔で押し殺す。まあ、俺が散々噂をされていた事を鑑みれば、その俺の傍に居て、何よりも赤狼であるハゼンが、俺とセットで噂になっているのは
当たり前の話だろうな。それどころか、俺を良い様に操っている、なんていう大分荒唐無稽な話もあるそうだし。私の方が弄ばれているのですよ、なんてハゼンに皮肉たっぷりに言われかねない。
「ほら。私が勝手に、これから族長にふさわしい銀狼を挙げるのなら、こういうタイプこそが族長にふさわしいと思うけどね。赤狼の事も、きちんとした一人の狼族として扱える様な。それに、クランは魔法の才がある様だし」
物凄く意外なんだけど、クランには魔法の才があった。しかも中々の才能の様で、今から将来が楽しみなんだとか。本人はそれを否定しているけれど。正直滅茶苦茶羨ましい。ミサナトで複数人からその才は無いと言われ、
諦めたけれどファンタジーが好きだからいまだに憧れだけは持っている俺にとって、クランのその話はあんまりにも眩しくて。そりゃ、それと比べて魔法なんてまったく、なんていう俺の方がクランより族長に向いているだなんて、
到底思えない。仮に魔法が駄目であっても、その分肉弾戦ができるならまだしも、そちらも片腕が動かない以上は一般人に劣る勢いであるし。
「それはそうと、クラン。こうして他に使用人の目が無い時は、もっと気安く話しても、いいんだよ。私はもう、そうしてしまっているし」
これ以上続けると、ハゼンが不機嫌になる気配を察知したので、俺は話題を変える。
「で、でも」
「大丈夫。私は怒ったりしないし。もし外に洩れても、私がそうする様に言ったのだと、私から言うよ。こんな所でまで畏まっていては、疲れるばかりになってしまうから。二人きり……まあ、ハゼンが居るけれど、ハゼンだしな。
ともかく、こういう時くらい良いじゃない」
「……わかり、ま……わかった」
「そうそう。名前も、呼び捨てで構わないし」
「お兄ちゃんって呼んでもいい?」
「えっ」
そこでそう来るの。俺は思わず素を出してしまって、途端にクランが泣き出しそうな顔をする。
「ああ、ごめん。別にいいよ。ちょっと驚いてしまったから。好きな様に、呼んでくれて。でも、私は兄として頼れる様な物は何も持っていないと思うのだけど」
「ゼオロお兄ちゃん」
きらきらした目でそう言って、また抱き付いてくるクラン。なんだこの可愛い生き物は。俺はつい自制も忘れて、その頭を撫でる。
「クランはとてもふわふわしているね。大きくなったら、手入れが大変だろうけれど。でも、とても触り心地が良くて、私は好きだな」
撫でながら、褒めながら。そうしていると、クランは尻尾を夢中で振っていて。緑の瞳を細めて、俺に身体を預けてくれる。完全に手懐けた犬状態である。とはいえ俺も、ここにきて色々と緊張が続いていたから、
今は遠慮なく撫でてモフって、癒される。なるほど、こういう事をしている俺達を見て、使用人達が喜ぶのもわかる気がする。少なくとも今の俺は、このウルフセラピーに大分癒されている。なんだか、懐かしい気持ちに
なれるという事もあって。
ハゼンの溜め息が聞こえた。
程々にクランをモフらせてもらって、朝食を抜いた事を素直に白状して、運ばれてきたお菓子を二人で頬張っていると、ハゼンに声を掛けられる。
「ゼオロ様。そろそろ、稽古の時間でございますが」
「ああ。そうか。もう、そんな時間なのか」
そう言われて、クランが寂しそうな顔をする。それを見て、つい俺は口元を緩ませてしまって。
「でも、せっかくクランが居るのだし。帰れとは言いたくないな。クラン、見ていく?」
二つ返事で頷くクランと、準備を始めたハゼンを連れて、俺達は庭へと出る。
「ゼオロ様」
ハゼンから、木で造ったナイフを一つ。ハゼンも似た様な物を持っている。最近の俺は、部屋で一日中だらだらしている事も少しは退屈に思えてきて。それでハゼンに懇願して、武器の扱いを少しずつ教えてもらっていた。
当初ハゼンは、俺の相手をするのを心底嫌がったけれど。でも、俺が頼めるのはハゼンしか居ない。ハゼンの腕は信用しているし。そう告げると、渋々と納得したハゼンが稽古を付けてくれる。とはいえ、稽古といっても
まったくお話にならない様な状態だけど。そもそも片腕が動かない俺は、そちら側から攻められるとかなりどうしようもない状態になるし。武器だって、人間だった頃に振るった事がある訳じゃないし。子供の頃に、伸びた草を
相手に木の棒を振り回して遊んでいたのが精々だろう。なんか必殺技の名前を叫びながら。あ、思い出したら顔が熱くなってきた。
そのため、きちんとした戦闘の態の訓練は程々に。それよりも、いざ襲われた時に相手の急所を狙う指導をされる事が多かった。今手に持っているナイフも、しっかりとした金属製の物ならば、首を掻ききる事で相手を
殺す事も不可能ではない。ただ人間と違って、俺達には被毛があるから、大分切りにくい。首回りの毛が特に豊かなタイプも居るし。そうなると、頭だろうか。殺すとは言わずとも、目などを攻撃すれば確実に相手は
怯むだろうし。だが身長が絶望的に足りない。股間を狙うしかないのか。ちょっと想像しただけでひやっとした。
俺がナイフを構えたところで、ハゼンは様々な恰好で、この様に襲われた際は、こうしろ、ああしろと、丁寧に教えてくれる。それも済むと、少しだけ戦闘訓練も。とはいえ、俺が繰り出す攻撃の全ては、あっさりとハゼンに
往なされてしまうのだが。格闘術を主としているハゼンだけど、こうした軽い刃物の扱いもお手の物で。ちょっとフェイントを入れるくらいではすぐに見抜かれてしまう。しかも持ち手をすぐに変えて対応してくる。恰好良い。
「もういいでしょう」
一頻りそうして、俺の息が上がったところで、ハゼンか止めてくれる。もっと厳しくやらないと駄目だと思うのだけど、ハゼンは首を振った。
「左腕が動けば、もう少しなんとかなるのかな」
「そうですね。どうしても、片腕だけでは限界がありますよ。それに、左腕を掴まれてしまうと、どうしようもありませんからね」
「いっそ、切り落としていた方が良かったのかな」
「怖い事を仰る。ようやく動かせる様になったのですから、その様な事は仰らずに」
毎日ハゼンが熱心に揉んでくれて、リハビリを促してくれるおかげもあって、俺の左腕は本当に今更だけど少しずつ動かせる様になってきていた。とはいえまだ、とてもゆっくりとした動作で掌を閉じたり、開いたりする事が
できる程度で、赤ん坊のそれと然程変わらないのだけど。形作る事ができるだけで、物を握って持ち上げたりのするのには程遠いし。
一息吐いて、座って観戦していたクランの下に戻ると、いつの間にかタオルを持っていて俺に差し出してくれる。俺はそれに顔を包んだ。緊張し続けていたので、汗は思っていたより掻いていて。今日は早めに
お風呂にしないといけないみたいだと思う。本当なら俺の今の身分だと、この後湯浴みに直行するけれど、それだとクランが退屈してしまうので少しだけ先送りさせて。
「ゼオロ様。少しずつではありますが、着実に進歩しておりますよ」
そんな俺とは対照的に、汗を掻いている訳でもなければ、息を乱した様子も見せずに。ハゼンが今日の訓練の成果について語ってくれる。体力の差がちょっとどうしようもないな。
「そうかな。なんだか毎回、ハゼンに往なされてばかりな気がするけれど」
「それでも、思い切りが出てきました。そろそろ、実際に武器を振るうのも良いかもしれません。いざという時、まったく握った事もない武器では、心許無いでしょうからね。とはいえ、あなた様がその様な物を振るう機会には
恵まれない事を、願うばかりでございますが」
「そうだね。ありがとう、ハゼン。……そういえば、クランは魔法の勉強はしているそうだけど、こういう事はするの?」
「ううん、してない。僕の従者は、ハゼンさんみたいには戦えないから。魔法の事は、少しは教えてくれるけれど。それももっとわかる人を呼んでるの」
「そうなんだ。ハゼン。クランにも、良ければ稽古をつけてあげてほしいのだけど」
「それは、申し訳ございませんが。私の腕は、ゼオロ様のためにあるものでございますから」
クランが嫌がるかも知れないと思って口にした言葉は、意外にもハゼンに阻まれる。俺に稽古を付けるのはいいのに、クランには駄目なのか。タオルを被りながらそっちを見上げてみると、先程までよりも更に峻厳な
軍人の様な表情を隠しもせずに、ハゼンが言う。あ、これは駄目だな。からかったりする余地の無い感じだ。よくわからないけれど、俺以外にはその腕を易々と見せる事すら嫌っている様だった。
「ハゼンがそう言うのなら、仕方ないか」
普段は軽口ばかり言い合っている様な仲になったから、俺はわかっていなかったけれど。ハゼンの、俺へと向ける忠誠心はしっかりとした物の様だった。そんな忠誠を誓われる程の事を、俺がしたとは思わないのだけど。
稽古を終えて、昼食の時間という事で今度こそはと俺は食事を運ばせて、それをクランと一緒に食べる。その前に再度ハゼンに捕まって、入浴しないのならせめてもう少し汗を拭えと、散々身体を拭かれたけれど。ハゼンの
方は一切息も上がっていないのが、悔しいと思う。汗もほとんど掻いてなかったし。本気のハゼンと戦える日は来るのだろうか。
昼食も済ませて、また部屋に戻ってごろごろとクランとベッドの上でくっついて。クランは最初遠慮を見せていたけれど、兄の言う事は聞くべきだと言うと、寧ろ喜んでベッドに入ってきてくれた。
「ゼオロ様の怠け癖が移らないとよろしいのですがね」
「大丈夫だよ、クランは。ハゼンも、どう? このベッド大きいから、三人くらいならなんともないと思うんだけど」
「遠慮させて頂きます。その様なところを見られたら、言い訳のしようもありません」
「気持ちいいのにね、クラン。クランも、ハゼンも、それから他の人も。そんなに張りつめてばかりいないで、休めばいいのに。私みたいに」
「皆がゼオロ様の様になっては、世界は回らなくなってしまいますよ」
「それはそうだろうけれど」
「少しは否定して頂きたいのですが」
「事実だからね。ぐうたらな私みたいなのが増えると、困る」
「……ゼオロお兄ちゃんと、ハゼンさんって、本当に仲が良いんだね」
俺の腕の中で、俺達のやり取りを聞いていたクランが、羨ましそうな顔で俺を見て言う。それに、俺は微笑む。
「そう見える?」
「うん」
「でも、ハゼンは嫌がるんだよね。中々手強くて。クランみたいに、素直だったらいいのにね」
ぎゅっとすると、クランがはしゃいだ声を上げて。それからぼふぼふと尻尾が、毛布の中で暴れる音がする。
「私には、ゼオロ様を止める役目もあるのです。その様な真似は、とてもできません」
「だってさ。私は、友達になりたいのにね」
「僕とは、もうお友達?」
「勿論。それに、弟でもある。こんなに可愛い弟が居るなんて、嬉しいな」
元々一人っ子で兄弟の居ない俺は、それにはちょっとした憧れを持っていた時期があった。同時にそれが居れば、俺が結婚や、孫の顔を両親に見せる事ができないでいる事すら、他の兄弟に任せる事ができたのにと
都合良く思ってしまう程。結局俺はそんな状態であっても独身であり続けて、両親を呆れさせてしまったけれど。
「ハゼンもお兄ちゃんになってくれればいいのにね。私は長兄なんて柄ではないし」
「うん」
「ゼオロ様。……クラントゥース様まで」
「ハゼン。一つだけ、いいかな」
ハゼンが、俺達が仲良く丸まっているベッドの傍へとやってくる。俺はクランの身体をもう少し強く抱きしめて、そのまま眠りに入りはじめる。
「赤狼かどうか、ではないよ。ハゼンが、ハゼンだから。私は傍に置いているし、一緒に居たいと思っているよ。どうか、私の言葉を、赤狼だからと片付けてばかりいるのは、お止めになってください。マカカル様」
「……お戯れを」
また、それか。それを聞きながら、俺は眠りに。俺に抱き締められているクランも、そのまま眠りにつきはじめる。
最後に、ハゼンが俺の頭を撫でてくれた気がした。
眠い目を擦って、起き上がる。そんな俺をハゼンが迎える。その日も、それは変わらなかった。
「おはようございます、ゼオロ様。早速ですが朝食の準備ができておりますよ。あとは、ゼオロ様だけでございます」
「そう。クランは?」
「申し訳ございませんが、本日は昼過ぎまでは、不用意に館の中を出歩いてはならないという触れが出ましたので」
「何か、あったっけ」
すっかり慣れ切った朝のやり取り。けれど、その日はいつもとは違う様だった。俺の言葉にハゼンが少し視線を泳がせる。
「申し上げても、仕方がないとは思いますが……かといって、気になるからと、ゼオロ様が抜け出しても困ってしまいますね」
「よく、わかっているね」
「流石に、もう慣れてしまいましたよ。本日は兎族の族長であらせられるリスワール・ディーカン様が、ガルマ様への面会に。そのため、申し訳ございませんが、他の方は内郭の正面には」
「ああ、そうか。入口が一つだからね。渡っている時に、向こうから来たら困る訳ね」
「左様でございます。ご不便をおかけします」
とはいえ、本当に入口が一つだとは誰も思ってはいないだろうけれど。少なくとも、正面以外から出入りするために、小舟の様な物はあっても不思議ではない。俺がそれを使える訳ではないから、意味ないけど。
「まあ、族長様が会いに来られるのだから、仕方ないか。図書室も駄目そうだし……今日は昼過ぎまでは、部屋に居るしかなさそうだね」
「ご入用の物でございましたら、なるたけ揃えられる様に善処致します故」
「うん、わかったよ。とりあえず、朝食だけ頂こうかな」
ハゼンに促されて着替えを済ませると、すぐに食事が運ばれてくる。今更だけど、こういうのって食堂みたいな場所で食べるのかと思っていたけれど、ここではそういう事はないのだな。
「銀狼の方々が互いにお会いになられるのを、最初は禁止していましたからね。それに、決められた時間にという事になると。ゼオロ様の様な方は起きるのがお辛いでしょうから」
「ありがとうございます」
ずぼらですみません。起きるの遅くてすみません。ミサナトに居た頃は、どうにか起きていられたのにな。ここに居ると夜更かしして本を読んでしまうから、毎日起きるのが遅くなってしまう。照明に使われている魔力も、
気にする必要が無いし。
「ハゼンもどう?」
「私はとうに済ませております」
「そうだよね。今度、早起きしたら一緒に食べようよ。部屋の中なんだから、それぐらいは構わないでしょ? 従者と朝食を共にするのは、珍しくないよね。クランもそうしているらしいし」
「クラントゥース様はまだ幼いですからね。……ええ、わかりました。あなた様がきちんと起きてくださるというのなら、ぜひともご一緒しましょう」
とりあえず今は朝食を片付けなければ。焼いたパンに、蜂蜜に。焼き菓子に。なんというか、今の俺は狼の顔をしている訳だから、肉を食べているのが似合うと思うんだけど。目の前に広がっているそれは、大分それとは
かけ離れている。パンに合う様に薄切りのハムの様な物はあるけど。それからチーズも。
朝食をさっさと済ませると、俺は一度庭へ。クランが来ていたら話そうかと思ったけれど、今は居ないみたいで、仕方なくハゼンと共に、庭の花を見つめる。
「大分、咲いてきたね」
俺達の見下ろす先、花壇の道には、ようやく咲きはじめた花々の姿があった。やっぱり名前もわからなくて。俺は、身を屈めてそれを見つめる。こうして花を愛でたりするのは、久しぶりな気がするな。働いていると、そんな
余裕は無くなってしまう。通勤も電車だったし。
「左様でございますね。ゼオロ様が庭によく足を運ばれると聞いて、多少は手入れが入った様です。本来ならば、その部屋の主が誰であれ、仮に居なくとも、手入れというものは行き届いて然るべきなのでございますが」
「今の銀狼の数だと、手が回らないと」
「ええ。何分、元々は族長であるガルマ様と、その親類の銀狼の方のための場所でございますからね。だからといって、外郭の、私もそう言われたらそうなのですが、あまり信の置けぬ使用人達を特別に連れてくる、
という訳にもゆきません。ガルマ様の安全が危ぶまれるおそれがありますからね」
夜会で集まっていた銀狼の数を思い返す。ぱっと見ても、十名は超えていた。それらの日常の世話をするために使用人がそれぞれ割かれる上に、庭となると、庭の専門が居るはずだけど。この内郭では元々あまり数を
雇い入れてなかったのだろうか。確かに正面と言い、生花が飾られている箇所は見当たらなかったけれど。やっぱり臭いのせいだろうか。
「ハゼンは、花は見ないの」
「さて。あまり、馴染みの無い物でございますね。こういうのは、生活に余裕がある者が見ているばかりでございますから」
「それはまあ、同意するけど。私も、今になってようやく見ていられるし」
一日中大変なハゼンにとって、確かにそういう余裕は無いのかもしれない。最近では使用人達とも打ち解けて、どうにかここに来たばかりの頃よりは、落ち着ける様になったとは思うけれど。
「それにしても、リスワール・ディーカン様か……ガルマ様に、どんな御用なのかな」
「リスワール様は、元々ガルマ様とは旧知。顔を合わせる事は、珍しい事ではないそうですよ。ただ、お二人とも族長でございますから、中々時間は取れない事も多いのでしょうけれど」
「ディーカン領っていうと、確か、ギルス領の西隣だったよね?」
「左様でございますね。ディーカン領は、兎族の地でございます。兎族は他種族とも友好的で、それから商売上手ですからね。ラヴーワ国内に止まらず、見込みがあるとわかればランデュスにすら足を運び入れる者も
居るとか。その関係で、ギルス領を通る事も多く、ギルス領で唯一、狼族以外でよく見かける種族と言っても良いかもしれませんね」
ラヴーワは八族のために、七つの領地に分けられている国だった。南側が、西から猫、兎、狼となっていて。残りの四つは北側に。そして少族だけは、元々そこに属する者がそれぞれ少数の部族の集まりであるために、
一ヵ所に集まったりはしないので、好きな場所で暮らしている。それから、中央近くに少しだけ少族の領地があるので、そこで暮らしているかだった。地図で見ると、ディーカン領はギルス領の西隣で。つまり、猫族と狼族に
挟まれる位置に、兎族は居る訳で。猫族と狼族の仲の悪さを取り持つためにここに放り込まれているのではないかと疑ってしまう程だった。狼族が猫族を忌避する様になったのは、グンサの一件以来だから、実際には
それほど長く仲を取り持っている訳ではないのだろうけれど。
そんなディーカン領、兎族の地からやってきたというリスワール・ディーカン。本で得た知識では、そこまではわかるけれど。どんな人なんだろうな。
「リスワール様って、どんな方なの?」
「そうですねぇ。兎族ですから、やはり明け透けに物を語る方でございますね。兎族に対して持たれるイメージが、そのまま表れた様な方であらせられますよ。詳しくは私も、知っている訳ではありませんが」
なるほど。確かにそれなら、ガルマと話は合うかもしれない。初対面でかなり突っ込んだ事を言った俺ですら、ガルマは許したし。ああいう寛大なところは良いと思うんだけどな。
俺とハゼンが、きっと今頃はガルマと話し込んでいるであろうリスワールについて話をしていると。何やら遠くで物音が聞こえる。
「どうしたんだろ」
「おかしいですね。リスワール様の件で、この様に騒いだりする事もないはずなのでございますが……ちょっと、様子を見てきます」
ハゼンがその場から離れて、部屋の中へと。一人取り残された俺も、仕方なく部屋へ戻る。そうすると、さっきよりも騒ぎが大きく耳に届いた。俺は耳を震わせて、とりあえずどういった会話のやり取りがされているのかを
把握しようと試みる。
「申し訳ございませんが、許可も無く立ち入られては」
と、ハゼンの声。
「いいから、この部屋に居る銀狼を出せ。私は急いでいるのだ。ガルマに会うために、協力してもらう必要がある」
これは、知らない声。
「例え我が主が手を貸されたとしても。ガルマ様がお会いにならぬと仰ったのならば、これ以上は無駄な事でございますよ。ディーカン様」
「ディーカン……」
ハゼンの言葉を捉えて、なるほどと俺は頷く。事情はまだ察してはいないが、とりあえずリスワールは俺に用があるみたいだ。俺が出ていこうとすると、ハゼンに命じられていたのか他の使用人が俺を止めに入る。
「大丈夫だよ。それに私、リスワール様にも会ってみたいから」
「しかし、ハゼン様は決して通すなと」
「責めは私が負う」
短くそう言うと、使用人達は頭を下げて俺を通す。悠々とその間を通り抜けて、閉められていた扉を少し開ける。向こう側に、ハゼンが居る様だった。
「ハゼン」
「ゼオロ様。申し訳ございません、もうしばらくお待ちいただければ」
「私が話をするよ。それでいいよね」
「ゼオロ様」
「ハゼン。お前にこういう事を言いたくはないけれど、相手はリスワール・ディーカン様なんでしょ。八族の長の一人が会いたいというものを、そう撥ね付ける物ではないよ」
そこまで俺が言うと、ハゼンも諦めたのか、溜め息の後に扉を開けてくれる。俺の目に飛び込んできたのは、黒だった。真っ黒な顔。真っ黒な瞳。真っ黒で、長い耳。でも耳の内側は、黒くはない。それから首から下も、
服に隠れてほとんど見えないけれど、白い物が僅かに見える。そんな黒い印象を押し付けてくる、兎の顔だった。フード付きの曇り空の様な色のローブから、袖の部分は切り取った様な状態で、黒い腕が露出していて。
それから首周りには、紐が何十にも巻かれて垂れ下がっている。確か魔法使いが使っている物だと、本で読んだ気がする。手首にもそれらしい腕輪が付いているし。
「リスワール・ディーカン様でございますね」
「そうだ」
若い男の声だった。背は、俺と同じくらいなのに。兎族でも背の低いタイプなんだろうか。ただ尊大な構え方からして、やっぱりそれなりに歳は取っているのだろうな。そこまで考えてから、俺は考えるのを止めて、
にこりと笑いかける。
「お初にお目にかかります。ゼオロと申します」
「ゼオロ。……ふむ、確かに。他の銀狼が言った様に、ガルマの様に美しい被毛を持っているのだな」
「恐れ入ります」
銀を褒められるのは嬉しいけれど、あの親父の様にと言われるのはなんだか癪だ。表には出さないけれど。俺が何を考えているのかわかっているハゼンは、僅かに視線を逸らしていた。
「それで、本日はどの様なご用向きでございましょうか。失礼ながら、ディーカン様は、ガルマ様にお会いになられるというお話を聞き及んでおりますが」
「うむ、話が早いな。部屋で休んでいるところを、邪魔してしまったのは申し訳ないと思う。すまなかった」
「その様な事は、どうかお気になさらず」
「うむ。私はガルマに話をしにきたのだがな、その……ガルマが、会ってくれんのだ。私は今、このファウナックで起こっている、狼族が独立の気運を高めている問題が気になって、ここまで来たのだが」
「独立、ですか」
素早くハゼンに目を向けると、ハゼンが若干申し訳ない顔をした後に、頷いてくれる。また知っていたけれど、教えてくれなかったパターンか。まあ、こんな事を俺に知らせてもと思うのは、無理もないけれど。結局、未だ
ファウナックの街に俺は一度も足を運んでもいないし。最近はクランと仲良く本を読んだり、話をしたりと遊ぶ事にばかり感けていたからな。
「それだというのに、ガルマは私と会おうともしない! こういう時、真っ先にそれを諫めるのが族長の役割だろうに! 約束はした癖に、いざ私が来ると門前払いと来たもんだ。だが、流石に私も兎族の長として、
これを見過ごす訳にはゆかぬ。しかし、私一人で狼族の群れに飛び込んでも、効果があるとは思えない」
まあ、それはそうだろうな。確かに兎族は、狼族とは仲が良い方だ。でもそれは、無関心に近い他種族と比べたら、いくらか話ができるというだけであって、無二の親友とかそういう訳ではない。兎族の族長である
リスワール・ディーカンが場を治めに来てくれても、とうの狼族達が相手にするとは到底思えない。
「そこでだ。今は、私と共にガルマに会いに行ってくれる銀狼を探している。聞けば、今は跡取りを探しているそうじゃないか? 事情は聞いたぞ。確かに、ギルスの血筋の事を考えれば、懸命な事だとは思うが。しかし
それはそれ、これはこれ。ファウナックで起こっている問題を無視して良い理由にはならない。ゼオロ。どうか、私と共にガルマに会いに行ってはくれないか? 私一人では、見張りの兵に追い返されてしまうし。これでは
ガルマの下まで辿り着いても、口を利いてくれるかわからん。あいつめ。昔はまだ話ができる奴だったのだが、どうも最近は……」
「他の銀狼の方では、駄目なのですか?」
「既に話をした、だが、断られてしまった。許可も無く、ガルマの所へ行く訳にはゆかぬと」
確かに。ガルマに会うには、いつだって許可が必要だ。こちらから申し出て、ガルマが受け入れるか。或いはガルマ側からの誘いが無ければ、おいそれと他の銀狼がガルマの部屋に近づく事はない。下手を打って、
ガルマに嫌われでもしたら、族長候補なんていう曖昧な地位はあっという間に崩れ落ちるのはわかっているのだから。
「そこで、お前の名が出てな。ゼオロ様なら、もしかしたらと言うものだから」
「それはそれは」
あ、リスワールの後ろの見えない位置に居るハゼンが、牙を剥きだしにして今にも唸りそうな顔をしている。そりゃそうか。厄介事を俺に向かって思い切り押し付けに来ている訳だし。これで俺がガルマに、決定的に
嫌われてしまえば、他の銀狼達はさぞ安心するだろう。実際はもうとっくに安心してもいいんじゃないかってくらい、俺にはやる気が無い訳だけど。他の銀狼が、それを忖度する訳ではない。
さて、どうしようか。リスワールを助けても、構わないのは確かではあるが。俺がちょっと面白がっている顔をしたのに気づいたのか、ハゼンが何度も首を振っている。よし、受けよう。
「お話はよくわかりました。私でよろしければ、微力ながら、ディーカン様のお手伝いを」
「本当か。助かった。お前なら、少なくともガルマの部屋の前に居る。煩い奴らはどうにかできるだろう。どうか、頼むぞ」
「では、どうか少しだけ、お待ちください。私もこの恰好のまま、という訳には参りません。それまでは、どうかこちらの部屋で」
「うむ。すまないな。ああ、それから。私の事はリスワールで良い。確かに私は兎族の族長ではあるが、それをお前にまでひけらかしてはな」
「ありがとうございます。リスワール様」
相好を崩したリスワールは、人懐っこい印象を受ける。元々兎だしな。どちらかと言うまでもなく、可愛い。
リスワールを応接間へと通して、俺は失礼して自室へと引き上げる。そこまで付いてきたハゼンが、とても盛大な溜め息を吐いて。思わず俺は笑い声を上げてしまう。
「どうしたの、ハゼン。まるで百歳も歳を取ってしまったみたいだね」
「ゼオロ様。いい加減に、私をからかうのをお止めにならないと、このまま部屋に閉じ込めさせていただく事になりますよ」
「それは困るな。せめて図書室から、あと数十冊の本を借りてからにしてくれないと」
「ゼオロ様!」
肩を掴まれて、ターンを食らって。両肩を掴まれて。目の前にハゼンの顔が迫る。目が回りそう。
「あなた様は、また厄介事を安請け合いされてしまって。何か、お考えでもおありだと言うのですか」
「別に。ただ、ファウナックで厄介な話が出ているとは、知らなかった。それに興味が引かれたからね。また、私に隠し事? 一体あといくつ、それがあるのかな。ハゼン」
「あなた様のお耳に入れなくとも良いと、判断したまででございます」
「いずれ私がファウナックに足を運ぶ事もあっただろうに。先に教えてくれても、良かったんじゃないの」
「あなた様を心配するが故です」
「過保護過ぎるよ、ハゼン。情報を聞くだけで、頭がどうにかしてしまう訳ではないのだから。それに、リスワール様をそんな簡単にお返しになるのも、良くない。リスワール様はそういう事を気にする様な方ではない様に
見えたけれど、兎族はそうではないでしょ。ただでさえ狼族は孤立しがちなのだし。しかも、独立の気運? また、御大層な問題が出たね。流石にこの問題を重く見てやってきてくれたリスワール様を無碍にするのは、
良くないよ」
「それは、そうなのでございますが……」
「それとも」
俺はハゼンを見上げる。ハゼンが息を呑んでいた。こういうやり取りも、もう慣れた物だと思う。
「それとも、ガルマ様のお考えはそうなのかな? 八族である事も止めて、狼族はラヴーワから独立して。狼族だけの国を作りたい。そういう意向なのかな? だとしたら、確かに私の今しようとしている事は、無駄な上に、
邪魔であるとも言えるけれど。ハゼンは、そこのところは知らないの」
「その様な事は……ございませんよ」
「ふうん。でも、そういう反応を示すって事は、やっぱりこの問題が大きくはあるんだね。……さて、いつまでもここで話していても、仕方ないな。ハゼン、私の服を、ガルマ様の前でも失礼の無い物を用意して。湯浴みは、
仕方ない諦めよう。今からのんびり入るのは流石にリスワール様に悪いし、お昼過ぎになってしまう。そうなったら、約束の時間は過ぎたとガルマ様が適当な事を言いはじめかねない。あの性格だからね」
「畏まりました」
俺を止める事を諦めたのか、ハゼンがてきぱきと準備を済ませてくれる。無駄な思考をやめたハゼンの動きは、とても早い。俺を脱がせて、身体を少し拭いて。それから少しだけ臭い消しの意味も込めた香水を
使って。手早く新しい服を用意してくれる。準備を済ませて鏡の前で自分の姿を確認していると、櫛を取り出して、俺の被毛を梳いてくれる。ハゼンと一緒に居る様になってから、ブラッシングが楽で助かる。頭だけなら
楽なのに、全身がモフいとそういう訳にもいかない。これがなければな。でもこれしないと、毛が抜けるからな。爬族や竜族が、ちょっと羨ましいと思う。特に竜族は、竜だしな。恰好良くて手間も掛からないとは、ずるい。
鏡の前で整えられた銀狼を見て、頷いてから。俺は待たせていたリスワールの下へと。リスワールは俺が現れると、即座に席を立っていた。元よりのんびりと待つつもりはなかったのだろう。
「おお。これはまた」
ちょっと整えただけだと思ったけれど、リスワールからすると、そうではなかったらしい。俺を見る目が、さっきよりもいくらか和らいでいる。
「その姿なら、確かにガルマにも話が通せそうだ。頼むぞ、ゼオロ」
「はい。参りましょう、リスワール様」
外に出て、俺はハゼンに先導を頼む。俺と、ハゼンと、リスワールと。それから、リスワールが連れていた数少ない兎族の護衛が一緒に、ガルマの館の中を進む。護衛の人は背が高いので、やっぱりリスワールは
背が少し低いのだな、なんて事を考えたり。でも、耳はとても長い。俺の耳と比べて、二倍とちょっと長いくらい。あれがそのまま身長に加算されていたら大勝利だっただろうにな。絶対耳を避けて測られるなあれは。
暢気な事を考えている間に、ガルマの部屋の前へとやってくる。訪れるのは、まだ二回目。ガルマはぜひとも夜に来いと言ってくれたけれど。行く訳ねぇだろと言いたい。言ったら流石にハゼンが禿げそうなので、
自重しているけれど。毛根は守られた。あの綺麗な長髪が損なわれる様な真似は、したくないと思う。思うだけで、実行しているとは色々言い難いけれど。今の状況といい。
狼族の兵は、リスワールを見て顔を顰めているところだった。一度追い払ったリスワールがまた来たので、困っているのだろう。ただその隣に居る俺を見て、慌ててその表情を消す。流石に俺の事を邪険に
するつもりはないのだろうな。
「ゼオロ」
「はい」
リスワールが何かを言うのかと思ったけれど、どうやらその段階も過ぎてしまった様で、申し訳なさそうな顔でリスワールが俺を促す。仕方なく俺は、一人で前に。
「ゼオロ様。何か、御用でございましょうか。でしたら、まずは先触れをしていただかぬ事には」
「リスワール様がお話をされに来たというのに、門前払いを受けたと聞いたのですが。それは真でしょうか」
「それは……その、ガルマ様に取り次ぎましたところ、今は会いたくないと仰られまして」
確かに、リスワールの話に嘘は無い様だった。それでいて、ハゼンも予めリスワールが来る事についての説明は受けている。それでも会わないとは、あの親父。
「では、ガルマ様にこうお伝えください。ゼオロも、会いたがっている、と」
「ですから、それは」
「お取次ぎください」
俺は少し目を細めて、相手の狼族を見る。狼族の兵は口を噤んで、しばし迷った後に、お待ちくださいと言い残してガルマの部屋へと消えていった。ほっと一息吐いて、俺はリスワールの下へと一度下がる。
「言うだけは言ってみましたが。ガルマ様が本当に嫌だと仰られたら、やはり無駄足になるかと」
「その場合は、仕方がない。日を改める。だが、ゼオロ。今のお前の物言いは、中々にすかっと来るものがあったな。ありがとう」
「いいえ。それに私も、今回の件でガルマ様がどの様にお考えなのかは、知りたかったものですから」
俺達の話を耳に入れながら、心配そうなハゼンを無視して、俺は話を続ける。ハゼンには悪いけれど。やっぱり俺は、守られているだけではいけないと思う。
「ゼオロ様」
そうこうしている間に、ガルマの部屋から取次ぎに走った者が出てくる。
「お待たせしました。ゼオロ様ならば、通っても良いと」
「では、リスワール様は私の付き人という扱いで、よろしいですか」
「そ、それは」
「ハゼン。ここで、待つ様に」
「畏まりました」
「リスワール様、行きましょう」
「ああ。なんだか、すまないな。ここまでさせてしまうとは」
「それは、もう仰らずに」
見張りの兵は、まだまごついていたけれど。俺とリスワールの二人が堂々と近づくと、道を開けた。俺はリスワールに頷くと、リスワールは俺よりも、少し後ろへ。俺の付き人としての位置に付いてくれる。実際身分から
考えたら、とんでもなく失礼な扱いだろうにな。こういうところは、好感が持てる男だと思う。
そうして、俺達は暗闇の中へ。ガルマの室内へと、足を踏み入れる。
ガルマの部屋は、相変わらず暗かった。引き篭もり適正のある俺といい勝負かも知れない。今は辛うじて、自分の周囲に何があるのかがわかるくらいで。暗闇の中に居るであろうガルマ・ギルスの姿は見えない。
「ガルマ様。ゼオロです。事前の許可も無く、足を踏み入れた事、申し訳なく思います」
「良い」
暗闇からは、すぐに応えがあった。ただ、ガルマの声を聞いた俺の後ろに居たリスワールが、それを聞いて飛び出してしまう。
「ガルマ! お前、どういうつもりだ! 己の民の暴走をあの様に放置しておくとは!」
その言葉から、今回の狼族の騒動というのが思いの外大きくなっている事を察する。独立の気運が、なんて曖昧に言われても正直よくわからないし。民衆があちこちで声を上げて、そうだそうだと騒いでいるのだろうか。
「リスか。お前は、呼んだ憶えが無いのだがな。せっかくゼオロが、自ら足を運んでくれたというのに。煩い奴が居ては」
「……それは、私からこのゼオロに頼んだのだ。お前がどうしても部屋からは出てこぬし、私と口を利こうともしないからな。致し方あるまい」
「なんだ。そうだったのか。せっかく今日こそは、ゼオロを我が物に。私の知っている全てで、振り向かせてやろうと思っていたのに」
リスワールが俺に視線を向ける。お前らどういう関係なんだよという目だ。割と傷つくなその見られ方は。とはいえ、ガルマの今の言い方では仕方がないのかもしれないけれど。
「ガルマ様。失礼ながら私も、リスワール様のお話はお聞きしました。どうして、何も事を起こされないのでございましょうか。それとも、それが今回のガルマ様の一手なのでございましょうか」
気を取り直して、俺は暗闇へと言葉を投げかける。リスワールの視線が痛いし。やめてそんな目で見るの。
「そう言われれば、そうかも知れぬな。どうせいずれは起こっていた事だ。休戦を経て、狼族の痛手は回復しつつある。ここに来て、独立をと民が望む声が上がるのは、当然の事だ。元々、狼族が八族に残り続けたのは、
独立ができぬ程の打撃をあの時スケアルガの企みにより、グンサと近縁の銀狼。そして主力となる部隊が壊滅した事により受けたからだ。そこまで見て、スケアルガは。あのジョウス・スケアルガは、狼族の方を
切り捨て、そして獅族、虎族の方を取ったのだ。こうなる事は、その時からわかっていた事だ」
「だが、ガルマよ」
暗闇の中から、饒舌に語るガルマの言葉に、リスワールが一歩前に進み出る。俺はといえば、ガルマの言葉を噛み締めていた。本を読んで得た知識に、ようやく事情が備わってゆく。ハゼンにも迂闊には
訊けなかった事。二十数年前の、あの日の出来事。皮肉な物だと思う。この一件に最も関係のある、ジョウスとガルマ。その二人に実際に俺が会ってしまっているのだから。
「ガルマ。お前の言い分はわかる。狼族の独立。確かにそれは、いずれは起こり得る事だ。狼族と他との仲を取り持っている私にも、それが避けられない事はわかっていた。だが、何もそれは今でなくとも良いだろう?
今の情勢は、とても狼族の独立を許す様な状態ではない事ぐらい、お前ならばわかっているだろう? それこそ先の、嫌竜派の爬族による反乱と、そして全滅の憂き目を見るだけではないのか。今どこの勢力であれ、
反旗を翻す様な事があれば。当然、それぞれその勢力の近くにある国は、それを放ってこのまま戦を続ける訳にはゆかぬ。休戦中の今の内に、それを排除する方向に動く事は想像するに難くはない。お前は、民が
望む事だと言う。確かにそれは族長の務めとして、正しい。ただ、時機を計る事。それもまたお前の務めだろう。少なくとも狼族の独立は今がその時期とは言い難い。それどころか、いよいよ最後のギルスの
直系となってしまったお前を絶やし、ギルスの血を絶やし。そしてお前が守るべき民の明日をすら、絶やす事に他ならないのではないのか」
「さて、それはどうかな。確かに、今は時機が良いとは言えぬ。だがそこまで悪いとも思わんな。休戦中。確かにそうだ。だがランデュスの方は、そんな物は容易く破る事ができる。何せあちらは竜族だけの
集まりだからな。決断から、行動に至るまでは迅速だ。それだというのに、ラヴーワというのは、そうではない。小国の寄り集まった様な物である以上、何をするにも後手に回る。今狼族が独立しようとし、そして私を
除いた八族がそれを重く見て、私の首を取ろうと内乱の動きを一度見せたのならば。ランデュスは、確実に攻めてくるだろう。それどころか、ランデュスは狼族を囲いに来るやも知れんな。狼族は数が多いし、それに、
リス。お前が言った通り、爬族の反乱は鎮められた。ランデュスは南への憂いを無くし、そしてそのまま、このギルス領へも手を伸ばす事が可能になったからな。お前の言う事は、多分正しい。だが、実際に事が
起こった時に、ランデュスが指を咥えて、狼族が滅ぶまで高みの見物を決めているとは思わぬ事だ」
「そこまでわかっていながら。お前は、狼族の独立を目指すというのか」
「目指すのではない。そうせざるを得ないのだ。そしてそれは、あの日に。グンサが死に、私の様な者が族長を継いでしまったあの日から、とっくに決まっていた事だ」
「考え直せ、ガルマ。私はお前の事は嫌いではない。お前の苦労も、よくわかっている。今回の、次期族長を探すという行動の目的も、わかっている。お前が族長で居る事に、とっくに倦んでいるのも、私は知っている。
だが、今は不味い。せめてこのまま、我々がランデュスに勝利を治めた後には、ならんのか」
「休戦を享受しているラヴーワが、ランデュスに勝利? それはまた、それまで私は生きていられるのかな。またスケアルガにいいようにされて、グンサ達の様に全てを呪いながら死ぬだけではないのかな。それも、
構わないが。あの呪われたカーナスの地に。いずれは私の魂も赴く事ができる。生きながらえたが故に倦み、何もかも呪いたくなっている私と。裏切られ死んだが故に、彼の地を呪われた地と変えてしまった彼らと、
呪いの比べ合いをするのも、悪くはないのかもな。兄にも、ようやく会えるだろう。恨み言の一つや二つ、言ったとて構わんだろうよ」
「ガルマ!!」
「リスワールよ」
重い、ガルマの声が響いた。腹の底から響かせた様なその声は、今までよりも、ずっと低くて。その声だけで、それを発したガルマの抱えている物が、俺の中に溢れてくる様だった。
「私はもう、疲れてしまったよ。すまないな。狼族でありながら、兎族に友を見出して。お前の期待に応えようとしていた時期も、私には確かにあったはずだというのに。そんな私も、自ら子を遺せぬと聞いて。どこかへ
行ってしまったよ。すまないな」
「ガルマ……」
リスワールが俯いていた。薄暗くても、その被毛が真っ黒でも。その瞳に浮かんでいる涙は、俺の目には見えた。ガルマが友と言う程に。この二人は、長い間共にラヴーワを支えていたのだなという事がわかる。
「私は諦めない」
それでも、リスワールが弱気な態度を示していたのは、ほんの短い間だった。涙を払ったリスワールは、暗闇の中に居るはずのガルマを鋭く見つめた。
「たった一度、お前にそう言われただけで諦める程。私の立場も、私自身も、弱くはない。お前が例えそうであっても、お前は狼族の族長。最後に残ったギルスの血筋。狼族の希望である、ガルマ・ギルスである事には
変わりないのだから。お前の代わりなど、どこを探しても見つかりはしない」
「今、探しているところだ。そしてもうすぐ、見つかるだろう。そうしたら、必要が無くなる身だ」
「私は、認めないぞガルマ。族長は、お前だ」
リスワールが一歩下がって、それから背を向ける。
「明日、また来る」
「無駄な事だ」
「それでも、だ。私もまた、お前を友と思っている事に変わりはない。……ゼオロ。すまなかったな。それから、ありがとう」
それで、リスワールはガルマの部屋から去っていった。俺はそれを見届けてから、さてどうしようかと考えていると。不意に、部屋の奥から物音が。そして、歩く音と尻尾を引きずる音が聞こえる。暗がりから、ガルマの
姿が現れる。前にこの部屋であった時よりも、服はだらしがなく崩れていて。もうガルマが、そんな事すら気にしている余裕が無い事が窺い知れた。
「酷い姿ですね」
「そう、見えるか」
この間夜会で見た時よりも、少し痩せた気がする。ガルマは豊かな被毛があるから、一見してわかりづらいけれど。それでもその顔もいくらかは肉が落ちて。そうすると余計に狼の、刃物の様な鋭さが剥き出しになる。本人の
状態はよろしくないというのに、その身体の銀と、それより少し透明感のある瞳の銀は、一睨みで誰であろうと萎縮してしまう程だった。確かに他の銀狼では、この部屋に許可も無く近寄りたくはないだろうな。
「すまないな。リスの我儘を、聞いてもらって。こんな所にまで足を運ばせてしまった」
「構いません。私も、何が起きているのか知りたかったのですから」
「ハゼンは、お前には知らせなかったのだな。夜会の時といい、あれは本当にお前を大事にしているのだな」
「私が望まぬ部分においてまで大事にしようとするのは、如何な物かと思いますがね」
「そう言うな。お前は確かに中々の跳ねっかえりの様だが。お前のその姿は、触れれば壊れてしまいそうな、精巧に造られた物の様にしか見えないのだから」
確かに、ある意味そうと言えなくはないかも知れないけれど。この世界に来た時に、光に包まれてできあがった身体。精巧に造られたといえば、本当にそうだった。
「それにしても、今日は随分と弱気ですね。ガルマ様は」
「これが本来の私だ。いつもの私は、飾り立てた私は、ただの偽物さ」
「最初からその様に接してくださっていれば、私もあんな事を言わずに済みましたのに」
「そうしていれば、お前は私の物になってくれただろうか」
「それは請け合えませんが」
初めてあった時と、今のガルマはまるで違っていた。瞳から光は消えて、あんなに輝いていた様に見えたはずの、銀の被毛も。何よりも美しい銀を持っていると賞賛されているはずなのに、今はくすんでいる様に
見えた。ガルマが掌に小さく青白い炎を灯すと、部屋が少しだけ明るくなる。物の散らばった部屋。朝から使用人を入れずにいたのだろうか。片付け一つされていない部屋に散らばる衣服に。奥のベッドも、
大分荒れていた。
「ガルマ様、本当に何もなされないおつもりですか」
「今の私に、何ができるだろうか」
「少なくとも、ご自分で出ていかれて、静まれと声をお掛けになられれば。それであっさりと治まるのではありませんか」
「だが、それも一時的な物だ。狼族の鬱憤は、溜まりに溜まっている。それがいつ爆発するのかはわからん。この間の、爬族の反乱が効いたな。あれは失敗したが、しかし今こそ立ち上がれという声は狼族には強く響いた様だ」
「爬族の反乱、ですか。そんな事まであったのですね」
「ああ。だが、新しい筆頭魔剣士であるヤシュバを軽んじたのは、良くなかったな。どうやら、ヤシュバの実力は本物の様だ。あっという間に、嫌竜派の爬族は殲滅されたそうだ」
ガーデルの読みは、外れていなかったと言えた。ただし、事を起こしたのはどうやら爬族側からの様だけど。
「でも、今狼族が独立をするのは良くないと私も思いますよ。さっきガルマ様は、今が良いという様な言い方をされておられましたけれど。ランデュスからの介入があって、よしんばランデュス側に付くような事があっても、
場所が悪い。狼族が大移動をするのなら話は別ですが。それに、ランデュスは竜族の国。今の爬族の様に扱われるのは、まず間違いない。その上で、狼族の気質が爬族のそれの様な扱いを肯ずるとは、私は到底
思えませんが」
「わかっている。あんな物は、リスを追い出すための方便だ。それに竜族に付くとなれば、いくら独立をしたがっている者が多いとはいえ、そこでまた割れる。ランデュスの力を借りては、到底独立とは言い難いからな」
「そう思うのならば、どうして」
「怖いのだよ。ここから更に、狼族を背負って立つ事が。私は」
ガルマが膝を付いて。それから俺に身を寄せる。一瞬、下がろうかと思ったけれど。思い直して、俺はそれを迎え入れた。大柄なガルマはそうしていても、俺よりも高い位置に頭があって。今はただ、虚ろな目で
俺の銀の被毛を見ていた。
「美しいな。本当に。そして、瞳も。お前の身体に流れるギルスの血が薄いとは。到底思えない。成長したお前は、きっと私よりも、素晴らしい銀になるのだろうな」
「私には、あまり興味の無い事ではありますがね」
「事も無げに、言うのだな。ともすれば族長になるかも知れないというのに」
「そのつもりがありませんから。それに、私にはこの身体だけ。それ以上の何かが、備わっている訳ではありません」
「そう言った物ではない。少なくとも、たった今状況を把握しただけで、そこまで口が回るのならば。お前の頭には、それなりの価値があると見てもいい」
「それでも。それだけですよ」
「だから、私の傍に置いておきたかったというのに」
ガルマが、俺を抱き締めてくれる。老いかけた、それでも今は、誰一人として追いつけぬ銀の被毛を持った男が、俺を強く抱きしめてくれる。
「私は、どうしたら良かったのだろうか。昔の私は、もう少しはましな奴だった。それも子が成せないと聞いて。この様だ」
「辛いのですか」
「ああ、辛い。どうしてこんなに辛いのだろうな。あの時、スケアルガのあの考えさえなければ。全ては丸く、収まっていたかも知れないというのに」
「カーナスの件について、ですね。お聞きしても、よろしいでしょうか」
「もう知っているだろう?」
「それでも、ガルマ様の口から直接聞いてみたくて」
「そうか。そうだな。本来ならば、そうしなければならないのかも知れないな。候補者の銀狼を集めて、私が見た事、聞いた事を伝えた方が、良かったのかも知れない」
「でも、そうはされなかった。本当は、ガルマ様も。いつまでもスケアルガの事で悩んでいても、仕方がないと思っているのではないですか」
それには、ガルマは返事をしなかった。ただ、俺を抱く腕の力を強くするばかりで。俺の背を弄るその手が、俺の身体を求めているのではなく、もっと別の物を求めている様に思えた。
「あの時、ラヴーワは二つの進路を前に意見が割れていた。一つはこの世界の中心である、カーナス台地を通る事。そしてそれとは別に、北に迂回して進むか。竜族の進攻は、その地を、現在の緩衝地帯を、
まさに抜けようとしていた。元よりあの地は奪い、奪われの繰り返し。北は翼族、南は爬族がそれぞれ、二国が通る事を許さぬ様にして。それに、南は沼地が多く、兵を進ませるのには向いていなかったからな。
その上で、軍師を一任されていた、あのジョウスは……ジョウス・スケアルガは。狼族にカーナス台地を進ませ、そしてそれ以外の。虎族と獅族の混合部隊を、北へ迂回させた。戦況が不利な方に、必ず援軍を送ると
言ってな。だが、戦況を見、そしてカーナス台地に竜族が多く居る事を察したジョウスは、躊躇いなく狼族を見捨て、北側からの進攻を取った。結果、援軍が来ると信じ続け、持ち堪えようとした狼族は。グンサの軍勢は、
ほとんどが全滅した。少なくとも、近縁の銀狼は綺麗に損なわれた」
「酷い話ですね。でも、狼族は八族を抜けられなかった」
「そうだ。多くの銀狼、主力の部隊、英雄であり族長であるグンサ。この三つの全てを失った狼族には、もはや単独で行動できる力は残っていなかった。あのジョウスは、そこまで見通してそうしたのだ。例えどれ程狼族の
反感が高まろうと、牙を抜いてしまえばそれまでだと言わんばかりに」
クロイスが言うのを躊躇うはずだ。こんな事を口にして、銀狼である俺に嫌われないと思う方が、どうかしていた。
「戦は勝った。しかし今、そこは結局休戦のために、軍の近づけぬ地となった。そして、多くの狼族が死んだ彼の地は、今は呪われた台地として。何人をも近づけぬ場所となっている」
「呪い、ですか。それは土地にも残る物なのですか」
「少なくとも、カーナス台地についてはそうだ。涙の跡地を覆う、結界のためだろうか。或いは魂すら、あの結界は通さぬのかも知れぬな。この地には、呪いが残りやすい。多くの戦死者を出した地は、しばらくの間、
死んだ者の怨みが憑りつき、到底近づけぬ地となる。大抵の者は近づいた途端に、その呪いに取り殺される。カーナス台地はそれが特に顕著だ。あの地に今近づけるのは、私ぐらいのものではないのかな。あの地に
散った銀狼達に、グンサに、怨まれずに居られるのは私ぐらいの物だ。その私も……もはや、生きているとも言えぬ様な状態だが」
「ガルマ様は、まだ生きていますよ。生きて、ここに居ます」
「死んでいないだけでは、ないのか。あの日から、グンサに後を頼むと言われた時から。そうして、そのグンサが死んだと聞かされた瞬間から。私は、私が生き残るべきではなかったと、そう思い続けていた。それでも、
私は銀狼だ。ギルスの、唯一の直系だ。そして、族長だ。何もしない訳にはゆかなかった。何かしなければならなかった。その思いで、ずっと耐えてきた。だが、最後の、最後で。やっぱり私は、族長には、
ふさわしくなかったのだ。あの時、生き残るべきは。私ではなくグンサだった。まさか、こんな形で。私がずっと押し留めていた思いが出てくるとは。そして、周りからも、そう思われてしまうとは、な」
俺を抱き締める、ガルマの身体が震える。俺は、何も言えなかった。ただ、気の毒そうに見つめるばかりで。一体この人は、どれだけの長い間、我慢し続けていたのだろうかと。そう思って。右手を動かして、ガルマの
腕から出すと。その首を抱き締める。
「すまなかった。私が、私が族長になってしまったばかりに。あの日、グンサを行かせてしまったがばかりに。何もかも、私のせいだ。私は、狼族を支える事が、できなかった。不甲斐無い身である癖に、次代へと
繋げる事すらできずに。お前の様に、族長になどなりたくないと思っている者や、例えなりたいと思っていても、多大な困難を極めるであろう道に、他の銀狼を、巻き込んでしまった。こんな重荷を、背負わせては
ならなかったのに。私があの時、出ていって、死んでいれば。グンサは残って、きっと、全て良い様にしてくれた。子供も、できた。すまない、ゼオロ。すまない……すまなかった……」
震えて、ガルマは俺の肩に、顔を寄せる。溢れた涙が、俺を濡らしていた。似ていると思った。昔の俺に。人間だった頃の、俺に。何もかも上手くいかなくて、誰かから寄せられる期待の全てを、裏切って。泣きながら、
全てに謝ろうとする姿が。もう許してほしいと。放っておいてほしいと、泣き続けている姿が。俺と、本当に一緒だった。けれど、この人はまだ、本当には逃げ出していないのだな。そこが、俺とは違っていた。さっさと
逃げ出して、今ここでぬくぬくと生きている俺とは、やっぱり違う。立派な族長なのだと、今更思った。動く右腕で、ガルマの首をもっと寄せる様にして。俺も、頬を擦り付ける。俺から流れていた涙が、ガルマの被毛に
吸われて消える。
「頑張りましたね。ガルマ様」
びくっと、ガルマの身体が大きく跳ねて。それから、嗚咽が漏れる。きっと、あの時の俺も、この言葉が欲しかったのだろうな。こんなに大きくても、強くても、立派でも。俺みたいに、何もできなくても。欲しい言葉は、
変わらないのだな。
抱き締め合って、俺とガルマは、そのまま泣き続けていた。ガルマが堪えていた涙が枯れるまで、俺はこうしていようと思った。