ヨコアナ
18.ともすればさようなら
がたがたと、悪路を馬車が行く。時折大きく揺れる度に、私はそっと体勢を直す振りをして、向かい側の席で腰を落ち着けるヤシュバを眺めた。
ヤシュバは俯いて、鞘に納めた愛用の剣に黙って目を落としている。何度見ても、前に見た時との変化は見られず、微動だにしていない事がわかるだけだった。
爬族の、反乱が起きた。
といってもそれは、それ程深刻さのある問題とは言えなかった。実際に決起したのは、爬族の中でも、やはり嫌竜派の連中であって。更にその中でランデュスの東から、南東側にかけて集結した一部の者に過ぎない
のだ。ランデュスの危機だとか、そういう意味での深刻さはまるで無い。
ランデュスの東は元々それほど開けた土地はなく、その内に海にぶつかり、そこから先は水族の支配する地域という事もあり、緩衝地帯の様にもっぱら兵の常駐せぬ、漁業としてのみ利用される地となっていた。その
周辺に居た爬族と、集結した爬族が、今回の主な敵勢といったところだった。
しかしヤシュバにとってこの反乱は、相当深刻な問題を孕んだ物となっていた。そもそも、爬族が決起する際に上げた声に問題があるのだった。
「ランデュスの勇者と知られたガーデルは去った。いずこから現れたとも知れぬ、胡乱な竜であるヤシュバ。腑抜けた彼奴を恐れる理由は無い。今こそ我々、爬族が立ち上がる時だ」
という様な宣戦布告をヤシュバはされてしまったのである。これに激怒したのはとうのヤシュバではなく、ヤシュバ直属である竜の牙の兵と、筆頭魔剣士の座をガーデルとヤシュバが争った際に、その場でその戦いを
見ていた者達だった。少なくとも、彼らはヤシュバに対して今のところは何一つ不満を抱く事もなく、自分達の頭と仰ぐ事を良しとしていたのである。無論、着任してそれ程の間が経った訳ではないのだから、これから
どんどん粗が出てくるというのはわかっているが、それでも今のところは、それ程大きな問題をヤシュバは起こしてはいない。そのヤシュバを名指しして、胡乱だの腑抜けだの散々に言い放った爬族に対するランデュスでの
信用は、地に落ちたと言っても過言ではなかった。ただ、爬族の長であるマルギニーは、あくまで親竜派である事を主張し、この反乱には参加していない。それどころか、東に集まった爬族が逃げられぬ様に、南東にある、
領地の一部を閉鎖する事で、どうにか体面を保っていた。
そして、ヤシュバである。そのヤシュバは、爬族の反乱と聞いても、自らが散々に貶されたその宣言を聞いても、なんとも言えない表情をするだけで。それでも私が、彼らを反乱の罪により処罰せざるを得ない事を伝えると、
明らかに動揺を見せていた。
「そんな手厳しい事をしなくても。話し合いで、なんとかなるのではないのか。それに、彼らはランデュスの国民とまでは言わないのだから、反乱だなどと」
と、なんとも間の抜けた言葉まで言い放つ始末で。それを聞いていたのが私だけで、本当に良かったと心から思った。ヤシュバがまったく怒りを見せずに、こんな事までのぼせていると知ったら、爬族は勢い付くし、味方は
ヤシュバに白い目を向けていただろう。
「確かに、反乱という言い方は少々大袈裟かも知れません。しかし爬族は、そう言われても仕方がない程に、竜の属国に近い状態でしたからね。爬族は国の態ではなかったとはいえ。それと、生憎ですが、そんな生易しい
状況は、とうの昔。戦役時代に過ぎていますよ。前にも言ったでしょう、爬族の半数は、ランデュスに立てついたと。あの時から、火種は既に燻ぶっていた。それがいつ燃え上がり、燎原の火となるのか……運が悪い
ですね。確かに彼らからしてみたら、ガーデルが居なくなって、実力のよくわからないあなたが筆頭魔剣士となった今は、絶好の機会という他はないでしょう」
「しかし、俺はガーデルの様に爬族には」
「もう忘れてしまったのですか、あなたは。マルギニーという親竜派の男と、個人的な面会を果たしてしまった事を」
その言葉で、ヤシュバの身体が震えた。遠回しに、しかしはっきりと、私も告げたのだった。今回の反乱の起因は、他でもないあなたなのだ、と。
「だが、マルギニーはガーデルの時にも似た様な事を」
「ええ、しました。けれど、ガーデルはあくまで会見という事にしたし、マルギニーが一人で訪う事は決して許さず、その会見には嫌竜派であっても爬族の重鎮を同席させる事をマルギニーに固く約束させました。そしてまた、
自分一人でそれを迎える様な事もしなかった。だからこそ、嫌竜派からもガーデルは一目置かれていたのです。少なくとも、騙まし討ちをする様な男ではない、という事を印象付けてね。しかし、あなたはそうしなかった。
勿論、あなたにそんなつもりがなかったという事を、私は知っています。しかし嫌竜派の爬族は、それを汲む訳ではない。新たな筆頭魔剣士であるあなたが、親竜派であるマルギニーと、非公式で、二人だけで会った。その
事実だけしか彼らは見なかったし、また見る必要も無かったのです。起こるべくして起きた出来事と、言えなくもないでしょう」
「そんな」
とはいえ、その後マルギニーと面会を果たしたのだから、遅れる事にはなるが嫌竜派とも会うべきだという案を献策しなかったのは、私だった。したところで、どうせ順番の件で嫌竜派が不満を持つのはわかりきっていたし、
はっきり言って今の私は、この展開を寧ろある程度は望んでいた。いい加減に、爬族の曖昧な態度と、あの虫酸の走るマルギニーの存在が鬱陶しいと思っていたのは、確かだった。
「心苦しいですが……あなたには、直接反乱の討伐に出向いてもらう他、ありません。何よりも連中は、あなたを挑発した。今後の事を考えれば、嫌竜派を大人しくさせるにしろ、註滅するにしろ、あなたが行動を起こした
結果でもって応えるしかない。そうしなければ、今度はランデュス国内であなたに対する不信感が生まれかねない。それだけは、絶対に避けなければならないのです。おわかりですね?」
言い放った言葉を受け止めた時の、ヤシュバの顔は当分忘れられそうにない。理不尽な仕打ちを受けた、という気持ちと、それでも自分が原因なのだ、という気持ちが綯い交ぜになり、しばらく何も言葉を発する事が
できないでいる。結局そのまま、私からヤシュバに、とにかく爬族の様子を見に行く必要はあると説き伏せ、支度をさせ、生憎ヤシュバの様な重量型の竜族を乗せられる馬は存在しないがために、馬車を用意させ、それに
飛び込んだのだった。手兵の方は、反乱の規模からそれほど必要ではなく、それらはヤシュバの馬車が城から出るのを見送り、歓声を送っていた。それを耳にしたヤシュバは、彼らが今まで自分の手下であり、それほど
回数を重ねた訳ではないものの、調練により打ち解けてきた存在であるという事を忘れたかの様に、異質で、異常な者を見る様な目つきで見ては、怯えていたのだった。私はそれを、ただ見つめていた。
何も心配する事はないはずだった。ヤシュバの力は、身を持って知っている。
それでも尚、爬族が決起したのは、結局のところ戦というのは一人でする物ではなかったからだった。ヤシュバはガーデルより強い。それは事実だが、しかし戦は、戦。用兵の腕に関しては、ガーデルに長がある事は
認めざるを得ないだろう。ヤシュバの戦略と戦術がどの程度の物なのか、それは私も駒遊びの範囲内でしかわからないが、少なくともそれを心得ているのなら、今の事態は引き起こしてはいない、というのはまず間違いが
なかった。或いは全ては計算の上で、爬族を決起させ、不穏分子を炙り出し、それらを掃討するという目的もあるのかも知れないが。休戦中の今は、その絶好の機会と言っても良い。もしそうだとしたら、私はヤシュバに
感服しただろう。筆頭魔剣士となって日が浅く、己の評価が未だ定まらない部分もある事すら利用したその一手は、決まればそれだけで己の存在と地位とを確立できる程の効果があるのは確かだった。だが、生憎と
人の好いこの男に、そんな事は期待できそうになかった。
それを献策してみるか、私はしばし迷った。ヤシュバさえ頷けば、今からでもそうする事はできた。このまま現地に赴き、一切の慈悲を捨て去って爬族を処断し、主だった者の首を並べ、それをマルギニー達の前に
差し出し、二度と今回の様な事を繰り返さぬ様にと言いつけ、凱旋し、全てはこのためだったのだとその口から報告させる。それで全ては、丸く収まるのは確かだった。長く悩まされた爬族との諍いは幕を閉じ、南の問題は
片付き、ヤシュバは更に支持を確かな物にして、その補佐をした私も、まあ悪い見方はされないだろう。二点、問題があるとすれば、今決起した爬族は全て死に追いやられ、そして戦に参加しなかったものの、嫌竜派の
疑いのある爬族は拘束され、似た様な結末を迎える事で爬族の半分が消えるという事と、それを経た事でマルギニー下の親竜派はこの件で評価され、ややもすれば竜族の末席に加えられ、長年の夢だった竜族を
名乗る事が許される様になる、という事だった。後者の方は、正直私としては心底気に入らない。この点だけを取り上げて、このまま口を噤んでおこうかと思う程だった。同族ともなれば、これはもはや、マルギニーにすら
迂闊に手出しできなくなるという事をも意味するのだから。束の間、あのマルギニーの貼り付けた様な笑顔が脳裏に甦って、虫酸が走る。そもそも、あのマルギニーが抜け駆けの様な真似をしなければ。たらればを
語っても仕方ないが、今回のこの流れをある程度予想していた者が居たとすれば、それはマルギニーに他ならなかった。爬族の長であるが故に、嫌竜派の状態も手に取る様にわかる。ヤシュバを利用して、嫌竜派が
決起する様に、糸を手繰った。そう、見て取れなくもないのだった。しかも、今嫌竜派の逃げ道を塞いでいるのが、他でもなくそのマルギニーなのである。説得をするなどの手段を講じているのなら、まだわかる。そんな事を
端から諦めているというのが、またなんとも気持ちの悪い、心象の悪さを拭えなかった。やはり、あいつを竜族とは絶対に認めたくはない。
「ヤシュバ様、そろそろです」
窓から外の様子をそっと伺い、声を掛ける。ヤシュバは黙ったままだったが、それでも弾かれた様に顔を上げた。ふと、馬車の速度が緩やかになる。
「お待ちを。……どうした」
「リュース様。南の道に、マルギニーの手下の姿が見えますが。如何いたしましょう?」
そっと、窓から言われた方を覗き見る。なるほど、身なりの整った爬族の者が見えた。直接会って、話はしたい。マルギニーの指示を受けてきたのだろう。私は振り返りヤシュバを見つめる。ヤシュバは悄然とした
様子のまま私の顔をじっと見ているだけで、それ以上何かを言う事はなかった。
「必要無い。出せ」
「はっ」
再び馬車は悪路を進む。素早く視線を送ると、マルギニーの手下達は僅かに動揺する様を見せたが、こちらに近づいてくる事はなかった。必要以上に手を出すなと、言われているのかも知れなかった。そもそも、
マルギニーが直接顔を見せようが、私は無視しただろうが。どうせ顔を合わせても、己の釈明しかしないだろう。それを聞くのは私には虫酸の走る事だし、またヤシュバにはただの追い打ちにしかならない事は、
よくわかっていた。
外の景色を見つめる。この辺りには人家などは無く、剥き出しの大地が、荒涼と広がっているだけだった。元々漁業以外には使われていない土地だ。最低限の道しかない。吹き込む風に、微かな臭いを感じ取る。流れた、
血の臭い。普段は漂わないであろうそれが、既に事態が全て始まってしまっている事を如実に伝えてきた。私は軽く自分の剣を持ち、改めてそれに不備がないかだけを確認した。
喚声が遠くから聞こえる。ヤシュバにも、それは届いただろう。窓の外へと、彼もまた視線を注いでいる。
「少し、様子を見ましょうか。そこの崖の下で、今はぶつかり合いをしている様ですから。あなたと私の手兵はもうそこで、爬族と交戦しているはずですよ」
指示を出し、崖の近くで馬車を止めさせる。扉を開き、まずは私が用心のために外へと出る。流石にここまで来ると、既に交戦の気配はありありと感じられた。叫び声、悲鳴、怒声、罵声、ありとあらゆる、戦場にふさわしい
声に交じり、剣の触れ合う音が、人々が大地を駆ける鳴動が聞こえる。崖っぷちに立って、私は眼下に広がる光景を眺めた。見慣れた、しかし久しい戦場の様子。最後にこれを見たのは、いつの頃だっただろうか。私は
後方支援が多かったから、尚更だ。
「ヤシュバ様、こちらですよ。ただ、あまり近づきすぎない様に。あなたと私の重さでは、崖が崩れても不思議ではありませんのでね」
後から来たヤシュバは、恐る恐ると言った様子で私と同じ様に、戦場を見て、それから低く唸り声を上げた。視線の先を追う。丁度、爬族が一人、切り倒されたところだった。不意を突かれぬ様にと、倒れた爬族の身体に
念入りに刃が振り下ろされる。びくんと一度だけ跳ねた身体は、それきり動かなくなった。僅かにその身体の周りに、流れだした赤の血が広がる。ああ、やはり爬族は、竜族とは違うな。
ヤシュバの視線が動いた。そちらでは、逆に竜兵が喉を切られ、倒れ伏すところだった。首が長いが故に、そういう部分は狙われやすい。鎧を着込んでもいいが、動きは制限される。そういう私も軽装だったし、
ヤシュバも似た様な状態だった。もっとも、ヤシュバの外殻の鱗は非常に硬く、下手な鎧などつけるだけ邪魔でしかないのだが。
「ああ、情けない。爬族如きに思っていたより苦戦している。やはり実戦経験に乏しいと、いざという時には頼りになりませんねぇ」
また一人、やられた。それでも戦況はこちらが有利な事には変わりない。所詮、爬族は爬族でしかないし。それでも被害が大きいのは、やはり気迫の差だろうか。自分達の領地へ向かう退路をマルギニーに断たれている事、
どの道勝利する事以外では生き延びる事が叶わぬという覚悟があって、爬族の戦士達は中々に目覚ましい戦いぶりを見せていた。
「た、助け、なければ」
絞り出した様なヤシュバの声。そして、一歩進む。
「ちょっと、ヤシュバ様。危ないですよ。参加したいなら、一度戻って回らなければ」
「このまま、行く」
ばさっと、音がした。続いて、風が弾き飛ばされる。黒い翼が広げられた。真下で、喚声が止むのが聞こえた。翼を広げた黒竜が、戦場をねめつけているのに、誰かが気づいたのだろう。瞬間的に、敵も味方も制止して、
その姿を見ていた。
「このままって。あなた、もう飛べるのですか。そんな練習する暇なかっ……うおっ!?」
ヤシュバの手が、私へ伸びる。思わず抵抗しようとしたが、腕が掴まれた瞬間に私はそれを断念する。どうせ膂力では逆立ちしたところで勝てないのはわかりきっていたし、その腕の力は、今は強く。私の声に反応を
してくれそうも無かった事が察せられたからだった。ヤシュバは私を抱きかかえ、跳躍する。翼が、更に大きくなった。その出番が与えられた時、竜の、というよりも翼を持つ者全般、他には翼族の類は、通常よりも翼が
大きくなる。自らに宿っている魔力が翼に行き渡り、質量を増す。そうする事で、通常時では身体の大きさをとても支えきれない頼りなげなお飾りの翼は、主を大地から、空へと導く手段となり得るのだった。今、ヤシュバの
背から広がる一対の翼は、本来よりも二倍は優に広がり、自身のとてつもない重さと、それと比べると控えめながら、それでも成人男性の重さは充分に持っている私の身体を支えていた。翼を広げた事で、私達はゆっくりと、
下へ、下へと降りてゆく。時折角度を調節しているのか、岩肌にぶつかる事はなく、少しずつ前へと進んでいる様だった。
「驚きました。あなたが、もう飛べる様になっているとは」
「いや、まだ飛べない。ゆっくり下りる事ができるだけだ」
「それは、また」
一所懸命高いところから飛び降り、着地して、首を捻ってからまた高いところへ走り出しているヤシュバの特訓の光景を想像して、こんな時だけれど、私はちょっと頬を緩ませる。地面は悲惨な事になっているだろうが。
ヤシュバは集中しきった糞真面目な表情をしていて、時折翼を羽ばたかせて微調整を利かせる時が一番神経を使うのか、私はその腕に抱えられながら、何も言わず戦場を見下ろしていた。一方、戦場は大変な騒ぎと
なっていた。広がりきったヤシュバの翼は、陽の光を遮り大地に巨大な影を作り出している。筆頭魔剣士が、現れた。それを察知した竜兵は歓声を挙げ、目敏く、そして一際臆病な一部の爬族の兵は、慌てた様子で
逃げ出していた。空から筆頭魔剣士と、その補佐が二人揃って降ってくるのだから、確かにその反応は適切かも知れない。
「見てください、ヤシュバ様。もう、何人か逃げ出しはじめていますよ。やっぱり見た目って得ですねぇ。そんな物騒な外見が、ここでは役に立ちますよ。私が同じ様に現れても、敵兵は一瞥するくらいで、なんにも反応を
示さないかも知れません」
「嬉しくないな、そう言われても」
それでも、火ぶたを切った戦場の混乱は治まらない。また一人、兵が横たわる。ヤシュバが辛そうな顔をしていた。
「仕方ない人ですね。この距離なら、もういいです。私を離してください」
「良いのか」
「これ以上の速度であなたが下りられない事はわかったし、いつまでもあなたに花嫁みたいに抱き締められているのも、私の沽券に関わるのでね」
ちょっと、もがく。ヤシュバがそっと戒めを解くと、私は身体を折りたたんで、空気の抵抗を弱める。それで、身体は重力に吸い込まれる様に一気に落ちた。ヤシュバから距離を取ると、体勢を変える。真下に落ちたから、
当然私の目の前には岩肌が迫ってきていた。最初の一歩。刹那の間に、私は足を踏み入れるべき箇所を判断し、一足を踏み出し、掻く様に岩肌を蹴った。続けて、二、三と同じ事をする。留まろうとしてはいけない。勢いを
つけている状態で、そんな事をしたら足を取られるだけだった。駆けるために出した足が十を超えた頃、傾斜が緩やかになる。更に三歩。それから私は、勢い良く壁を蹴って跳んだ。既に、大地からはそれほど離れては
いない。跳び込み、剣を抜き。そのまま壁の近くに居た不運な爬族を一人、全ての勢いを籠めて切り伏せた。ぱっくりと、身体が開く。それに、長く注意は払わなかった。多分、真上で見ているヤシュバは真底嫌そうな顔を
しているのだろうなと、ヤシュバには見えない角度で笑う。勢いを殺さず、そのまま走る。二人、三人。四人目は、流石に虚を突かれても充分な余裕があって、驚きながらも私を迎え撃とうとする素振りを見せた。
「遅いな」
剣を引き、代わりに左手に魔力を集める。崖を降りてからの一撃で、右手は痺れていた。私自身も、やはり平和に慣れてしまった様だった。集めに集めたそれを、爬族の男の一撃をかわしながら、その腹に
叩きつける。どん、と鈍い音がした。傍からは、そう。そして私の掌には、その身体の中で臓物の潰れる音が、届いていた。空気の抜ける様な音が、頭上の口から聞こえる。倒れ込むその身体を持ち上げてから、ゴミでも
投げ捨てる様にその辺りに放る。それで着地地点に居た爬族は居なくなった。残った竜の牙、竜の爪の兵達が、私を茫然と見つめている。
「なんだ貴様ら、その体たらくは。こんな雑兵如きに遅れをとって、恥ずかしくはないのか。竜の誇りが泣いているぞ」
「リュース、様」
「さっさと残りの爬族を片付けろ。今ここで役に立たねば、貴様らはただの極潰しだ。ヤシュバ様の前に情けない姿を晒す事は、この私が許さん。さあ、行け。行かねば、私が貴様らを始末するぞ」
大地が、揺れる様な音がした。振り返る。ヤシュバが、地上に舞い降りたのだった。広がりきった翼は役目を終えて、少しずつ縮み、折りたたまれてゆく。顔を上げた、ヤシュバの鋭い眼光。兵達が飛びあがり、駆け出すのが
わかった。
「酷い事を」
「ああ、やっぱり。そういうと思ってましたよ」
私が始末した爬族を見て、ヤシュバは言う。兵達はヤシュバが私と同じ気持ちで自分達を見たのだと思い駆け去ったが、やはりヤシュバの考えは、別だった。
「味方を助けるとは、敵を殺すという事ですよ。あなたは味方を助けたいと言った。私は、そうしただけです」
「殺さなくても、良いだろう」
「いいえ。今ここで死ねなければ、彼らにはもっと、惨たらしい死が待っています。今ここで、一瞬の内に息の根を止めてやる事が、一番の優しさなんですよ。そんな顔、しないでください。私の前ではいいけれど、他の者の
前では、特に。戦いたくないのなら、あなたは見ているだけでも構いません。今のあなたの登場する姿だけで、敵兵には充分な脅しにはなりましたし、兵達の士気も上がりましたから。自分の手が汚れるのが嫌なら、
下がっていてください。私達が、代わりに手を汚しましょう」
ちょっと、棘のある言い方。しかしいい加減、私もヤシュバのこういうところには、焦れていた。進まなければ。進むために、邪魔な者は切り伏せなければ。どんな願いも、夢も、叶いはしない。私はヤシュバに、筆頭魔剣士で
いてほしかった。そのためにできる事は、したい。剣を振った。べっとりとこびり付いていた赤い血が、地味な大地を陰湿に彩る。
遠くに、人影。戦況は押している。ヤシュバも現れた。しかし、ヤシュバが現れたという事は、その首を狙う者もまた当然存在する。連中の目的もまた、ヤシュバを誘き寄せる事に他ならない。そういう意味では、今回の
状況というのは芳しいとは言えなかった。ヤシュバが出なくては国内に不信を齎し、ヤシュバが出ればそれは相手の思う壺。決して、ヤシュバに連中を近寄らせない事だった。とはいえ、奴らがどれほど努力しようが、
簡単にヤシュバを殺せるとは思えなかった。少なくとも、ヤシュバが抵抗さえすれば、数十人居ようが無駄な事だ。それほどに、ヤシュバの戦闘力は図抜けていた。それ以外の、見た目を除いた全てが、今一つ足りて
いないのが残念といえば、残念な話だ。
「ランデュスの竜の爪団長、リュース」
声を上げた。ざわざわと、相手に動揺が走る。再び剣を構えて私は飛び込んで。先頭の一人を切り伏せ、続けてまた魔力を放つ。残念だが、私はヤシュバやガーデルの様には戦えない。彼らはその気になれば、
纏めて相手を焼き払う様な魔法すら行使できるだろう。私とて、炎ではないが、それに似た様な事ができない訳ではない。しかし、長続きはしない。戦闘はまだ、始まったばかりだった。無駄撃ちはできなかった。
「ヤシュバの首を」
言いかけた爬族の隊長を一人、屠る。ちらりと、後ろを盗み見た。ヤシュバはまだ、爬族の死体を見ていた。そして今は、座り込んでいる。何をしている。そう、叫びたかった。せめて、立っていろ。前を見ろ。それだけで、
大分違うのだ。座り込んでいては、その無駄にでかい図体も意味を成さず、首を差し出している様にしか見えないじゃないか。仕方なく、一度下がる。あまり距離をつけるとヤシュバが狙われかねない。下がって、しかし
充分に引き寄せたら、また前に出る。その繰り返しだった。軽快に大地を踏みつけては、身体を跳躍させる。少し、息が上がってきた。あと何人だ。下がりながら、数えた。五人。それほど多くはない。遠くには手兵の
姿も見える。鼓舞されたからか、そちらの心配はする必要が無かった。
「邪魔だ」
剣に力を籠め、それを大地に突き刺す。周辺の気温が一気に下がった。次いで、氷の柱が周辺に無造作に突き出た。三人程がそれに串刺しにされる。見守らず、走った。動揺している隙に一人を。それから、残った
一人には軽い攻撃を加えた。下がった。二度、三度。自分で作りだした力だから、見なくともどこに柱があるのかは理解している。更に二度後ろへ跳ぶと、ようやくヤシュバの傍へと戻ってこられた。呼吸を整えて、
ヤシュバの下へと。
「どうかされましたか」
屈み込んで、視線を合わせる。ヤシュバは、震えていた。縋る様な目つきが、場所が場所なら私の心を擽ったのだろうが、生憎今は溜め息しか引き出してくれそうにない。
「やはり、まだ早かったですか。あなたを戦場に連れてくるのは。申し訳ないとは思いますが……今回だけは、そうする他なかったのです」
「わかって、いる」
わかってはいる。それは確かだった。しかし、それだけだった。理解していても、気持ちの問題は別で、ヤシュバは上手く区切りがつけられなかったのだろう。
「大丈夫ですか、立てそうですか」
物音が聞こえた。私はそれに聞こえない振りをして、ヤシュバに優しい声を掛ける。ヤシュバが顔を上げた。にこりと微笑む。そうすると、ヤシュバの目が見開かれた。
「リュース、危ない!」
ヤシュバの声。私は、ちょっと困惑した表情だけを返した。剣を抜く音がした。ヤシュバが素早く、抜いたのだ。そして、突き出した。私の背後へ繰り出されたそれは、狙い過たず、私の後ろに立っていた爬族の男を
仕留めた。可哀想な事だった。例えどれほど嫌がっていても、一撃で相手を仕留めるために、どこに刃を繰り出せばいいのか。その身体は、自然とそういう風に動いてしまうのだった。だから、爬族の男は今の一撃で絶命した。
「あ……」
ヤシュバが、短い声を上げて、剣を離して手を引いた。死んだばかりの爬族が、仰向けに倒れる。私はさっきから、優しい笑みを向けたままだ。
「ありがとうございます、ヤシュバ様。私を守ってくださった。あなたに命を助けて頂けた。私の一生の記念ですね」
「お、お前……気づいて……」
「そんな訳……」
それ以上は言わず、私はまた笑った。ヤシュバが身体を折った。そのままびくんと跳ねると、その場に嘔吐する。口にした朝食が、大地に飛び散った。臭気が立ち昇る。それでも私は、身を引かず。ただにこにこして
ヤシュバを見ていた。ヤシュバは掌で必死に口元を押さえていたが、健闘虚しく次がまた吐き出される。瞳からはぼろぼろと涙がいくつも零れ落ち、不潔な水たまりの上に落ちては消えていった。
「誰か、居るか」
声を張り上げた。すぐに、それを聞きつけた竜兵が二人程駆け寄ってくる。片方はドラスだという事に気づいた。
「どうかされましたか」
「ヤシュバ様が、どうも体調が優れない様でな。すまんが、馬車まで案内してほしい。この崖の上に、まだ居るはずだ」
「畏まりました。……ヤシュバ様。大丈夫ですか」
竜兵達が、そっと手を指し伸ばす。ヤシュバは意外にも、自分で立ち上がっていた。私以外の他人の目を、気にする余裕はあるのかも知れなかった。
「大丈夫だ、一人で……歩ける」
「馬車まで、爬族が来ないか。それだけ注意してくれ」
ゆっくりとした調子で、ヤシュバは歩き出す。最後に、目が合った。その瞳はなんの感情も見せず。ただその目に浮かんだ涙だけが、私を責めている様に見えた。長くは、それを見てはいなかった。振り返り、また剣を
構える。足元に転がった爬族の死体にヤシュバの剣が刺さっている事に気づき、やれやれと引き抜く。今から届けに行くのも面倒で、私はそのまま二つの剣を構え、次なる獲物を探して乱戦状態の最中へと飛び込んだ。
馬車の扉を、叩いた。ある程度爬族の相手をして、頃合いかと一度離脱した私は、崖の上で止められたままのヤシュバの居る馬車へと戻ってきた。
「ヤシュバ様。入りますよ」
返事も待たなかった。どうせ、返事は期待していない。見張りに立っているドラスともう一人が、ちょっと怪訝そうな顔をしただけだ。
馬車へ押し入ると、私は素早く魔法を唱えた。僅かな間、部屋全体が淡い光に包まれる。これで、外に余計な音は聞こえなくなるのだった。ヤシュバはそんな様子も気にする事はなく、来た時と同じ様に、座り
込んでいた。ただ、現れた私の姿を、狂おしい眼差しが見つめていた。憎悪に似た感情を潜ませた、黒の瞳。私は背筋にぞくぞくとしたものを感じながら、それでもにこやかにヤシュバに声を掛けた。
「体調は、もうよろしいので?」
ヤシュバは答えない。
それでも手を上げると、それをそっと自らの口元へと運んでいた。まだ、吐き気が完全には治まっていない様だった。
「大丈夫ですか。また、戻してしまいそうですか。私が手でお受けいたしましょうか」
ヤシュバは、答えない。
私はちょっと溜め息を吐く。どうやら、本格的に嫌われてしまった様だった。それも仕方がない。それを覚悟して、ああしたのだった。自分から積極的に人を殺められないというのならば、背中を押してやるしかない。
いつまでも、今のままでは居られない。ヤシュバはもう、こんなところで足踏みをしている様な立場ではないのだ。それを私は承知していたし、またヤシュバもそうだろう。
「俺は……殺したく、なかった」
「またそれですか」
私が、言う。ヤシュバはそれを聞きたくないと言いたげに、頭を両手で抱えはじめた。構わず、私はそれを冷たく見下ろす。
「お前は、平気なんだろう、リュース」
「ええ、平気ですよ」
「だったら……お前が筆頭魔剣士になってくれ、俺は……もう、筆頭なんて、嫌だ」
ヤシュバの上げた、弱音。初めての、はっきりとした、自らの立場を拒絶する声だ。私はそれを、一字一句漏らさずに聞き届けた。
左手を伸ばした。ヤシュバの力の入っていない腕が上がる。ヤシュバが顔を上げて、私を見た頃に、私は余っていた右手で拳を作って、その顔を全力で殴りつけた。悲鳴も上げず、受け身も取らず、その身体が
倒れる。構わず、馬乗りになった。角があるために横向きになったヤシュバの顔を、二度、三度、黙って殴った。ヤシュバは、時折呻き声を上げるだけだった。
「甘えてんじゃねぇぞヤシュバ! てめぇがなんで今の立場になったのか、もう忘れちまってんのか? てめぇがそれを望んだからだろうが! 今更無かった事にしてくださいだ? 寝惚けんのも大概にしろ!! 自分が
したい事のために、俺とガーデルを押しのけて、筆頭になったんだよなぁ? 最初から、わかってた事じゃねぇか。筆頭魔剣士は、武官の要。武人の誉れ。ご立派な肩書に、ご立派な椅子に、名乗って座ったのは、てめぇだ!
そんなに俺を怒らせてぇのかよ? ああ?」
ヤシュバの顎を掴んで目を合わせる。ヤシュバが、目を見開いて私を見ていた。ああ、壊れてゆく。私が。私とヤシュバの関係が。いつの間にか好いていた、穏やかなやり取りが。ぶっ壊れてゆく。しかし私はもう、
自分を止められなかった。お前が筆頭になれ。その言葉だけは、私を止まらせる事はできなかった。私がこんな身体で、誰からも疎まれ、蔑まれ、それが故にどれほど実力があっても筆頭魔剣士にはなれず、補佐に
甘んじて、それをどれだけ悔しく、苦しく思っていたのかは、ヤシュバを筆頭として迎えた日に、全て伝えた。伝えたのだ。ヤシュバは私のその気持ちを知っていながら、たった今、それを踏み躙ったのだった。ヤシュバが
そんなつもりではない事は、わかっていた。ヤシュバの心もまた、限界だった。それでも、私の心を踏み躙ったのもまた、事実だった。更に何度か、殴りつける。何度、殴ったのだろうか。手が、痺れた。青い血が、
飛んだ。ヤシュバの血ではない。ヤシュバの硬い頬の鱗を殴りつけていた、私の手の皮膚の方が裂けていた。ヤシュバはもう、呻きもしなかった。ただ、静かに涙を流していた。泣きたいのは私の方だ畜生が。自分勝手に
椅子に座って、嫌になったらそれを投げ出して。そこまでしても私が甘い顔をするとでも思っていたのか、馬鹿が。本当に、うんざりさせられる。うんざりだ。うんざりなんだよ、お前は。
殴る手を止めた。止めたくて、止めたのではなかった。痛覚が、無くなっていた。だらりと垂れ下がった私の手からは、血が止め処なくと流れている。ヤシュバはそれを、気がかりそうに見つめていた。そんな風に
見るな。そう、言いたかった。なんなんだ。畜生。怒鳴り合いにでも発展すれば、私は受けて立つつもりだったのに。ああ。畜生。くそったれ。拳を、無理矢理振り上げた。最後の一撃を、自分の頭にぶち込む。鈍痛が走った。
「……リュース……」
弱々しい声がした。私はもう、殴ろうとはしなかった。ただ、その瞳を見つめる。
「……わかりました。あなたが、筆頭魔剣士である事が嫌だというのなら。ここから出てゆかれるとよろしい。西に行けば、やがては国境を超える。道を外れれば、戦時下ではない今、超えるのは然程難しくはないし、
あなたの翼は、やがてはあなたを空へ導く。そうすれば、容易くランデュスから出られます。そうしなさい。後処理は私がしますから。ただ、一つだけ忘れないでください。あなたは竜神様から、力を授かった身。ランデュスを
離れるという事は、竜神様からのお力を捨て去るという事になる。あなたの本来の力が、どのくらいの物なのか、それは私にもわかりません。背反したあなたから損なわれる力の具合によっては、あなたは死を
免れなくなる。けれど、恐らくは大丈夫だとは思いますよ。あなたの身体が特別に強いのは、竜神様から授けられた力ではなく、あなた自身の力であるはずですから」
「お前、は……」
「私は……。私は、お供する事はできません。私の身体は、竜神様の祝福を強く受けている。そうして、長くその庇護下に在り続けた。私が裏切る事は、決して許されない。そうした瞬間に、恐らく私の自我は失われ、完全に
この身体は竜神様の物になる。例えあなたと同道しても、きっと一緒には居られません。ですから、どうか、おひとりで。心細いかも知れません。ランデュスに背を向ける事で、あなたは本来の目的を達成できなくなるかも
知れないし、筆頭魔剣士の座を投げ出す事で自由になり、或いはその目的に近くなるのかも知れない。どうなるのか、それも私にはわかりません。ただ、一つだけ言える事は、筆頭魔剣士を投げ出すのならば、あなたは
この国を出なければならないし、私はあなたの傍には居られなくなるという事です」
そっと、立ち上がる。ぽたぽたと垂れた青い血が、存在を主張していた。爬族を葬って赤く染まった手を、私自身の青の血が塗り替えてゆく。赤と、青の血が床で混ざっていた。
「リュ、ス……待って……」
「一刻、見張りの兵を引かせます。立ち去りたければその間に立ち去ってください。ただ、爬族のための包囲網が敷かれていますから、ほとぼりが冷めるまでは息を潜めて。殴った事は、申し訳なく思います。しかし、私にも
我慢の限界はあります。許してほしいとは、言いません」
背を向けた。ヤシュバの弱々しい、私を呼ぶ声が、また聞こえた。馬車の扉に手を掛けて、私は最後に振り返る。
「それでは、ヤシュバ様……。ともすれば、さようなら」
笑いかけて、私は馬車を出た。外に居たドラスに、ヤシュバは一人で居たいからしばらく離れていろと命じる。長くは続かないだろう。今のヤシュバを本当に一人にするのは誰だって反対するからだ。
馬車に立てかけていた剣を取る。手は痺れていたが、無理矢理に取った。傍にはヤシュバの剣もあった。そういえば、返しそびれていた。そのまま立てかけておく。必要なら、持っていくだろう。
「私は戦場に戻る。まだ、いくらか爬族が居るだろう」
それだけ、口にした。歩き出した。振り返りは、しなかった。
何人切ったのか。何人死んだのか。そういう事を細かく数えてはいなかった。剣を払った時。辺りに立っていたのは、当然ながら竜族のみで。空を見上げると、昼過ぎに訪れたはずなのに、いつの間にか陽は傾き、爬族の血を
誤魔化す様に大地もまた太陽によって赤く染め上げられていた。そうした中で私は佇んでいた。
「申し上げます」
飛び上がっていた兵が地上に降り立ち、私の前に跪く。黙って頷いた。
「生き残りの爬族は、南西に。一丸となって、マルギニーの陣を突破する物と」
「そうか。まあ、予想通りだな」
爬族に対する包囲網は最初に指示した通りに行われ、そして成功していた。四方八方から囲まれ、数を減らした爬族には、もはや兵の居ない逃げ道は海しかない。しかし、荒れ狂う海に飛び込んで、どれほどの者が
生き延びる事ができるのかは、疑問だった。結局、爬族は竜の守りを突破する事を避け、同族であるマルギニーの下へと走った。降伏するにしろ、突破するにしろ、マルギニーから。そういう考えなのだろう。特に、突破した
場合は爬族の領地をそのまま通れるし、雲隠れも容易い。私としては、そのままマルギニーとぶつかり合って共倒れをしてくれる方が有り難いのだが。
「包囲を崩すと面倒だ。このまま、我々が行こう。負傷した者を除き、全軍進め」
指示を出し、引かれてきた馬に飛び乗る。ヤシュバに同道するために今までは騎乗を避けていたが、私の体格なら馬に乗る事は問題なかった。翼を持たぬ竜は、代わりに馬を駆る余裕があるのだった。それがまた、
蔑まれる理由にもなるのだが。それでも今は、疲れた兵を尻目に一番乗りをする事ができる。それで充分だった。馬を飛ばし、私は道を行く。ヤシュバはもう、馬車から逃れているだろう。ただ、遠くへは行けない。爬族を
逃がすまいとする包囲網に、そのまま不用心に近づけば、当然ヤシュバも捉えられる。今はどこかで、様子を見ている頃だろう。ヤシュバが居なくなった。それをいつ言うべきか、馬に揺られながら私は考えていた。そもそも、
次の筆頭魔剣士をどうするのかという問題があった。前筆頭であるガーデルは既にランデュス国内には居ないという報告を受けているし、ヤシュバに完膚なきまでに敗北したガーデルが、ヤシュバが嫌だと言って空けた
筆頭の席に戻る事はまずありえないだろう。ガーデルが筆頭魔剣士に戻るとしたら、それは腕を磨いて、ヤシュバを実力で退けてからだ。ガーデルはそういう男だった。では、私が筆頭魔剣士になるのか。それは、再三
考えたが、まず無理な話だった。私が筆頭補佐として存在していられるのだって、私の実力が充分な事と、竜神からの祝福を受けている身だから、という二つが揃って、どうにかなっているのだ。私の兵である竜の爪に
所属する者ですら、私に対して良い感情を持っている訳ではない。気持ちはわかる。立派な大将を仰ぎたい。その気持ちがわかるから、私はそれでもあえて、それらの声をどうにかさせようともしてこなかった。しかし、
筆頭魔剣士となると、これは無視できなくなる。どうにかしようとすれば、当然不満の声は高まる。しかし、何もせずにいると、あまりにも動きにくく、また自分を認める者と、認めぬ者の間での諍いの種にもなる。どう考えても、
私が筆頭魔剣士になるべきではなかった。だから、ヤシュバなのだった。無垢で、優しく、しかし何も知らぬ。子供の様なヤシュバが、私には希望の星だったのだ。
その星も、今は潰えた。
「難儀だな。新しい筆頭魔剣士を決めるために、何人か選出する必要があるか。竜神様の一存で決める事は、不可能ではないが……ヤシュバ様程の力を持つ逸材は、とても居ない」
居るとすれば、ドラスか。しかし、まだ若い。若すぎた。ヤシュバも若かったが、しかしそれ以上に強かった。ドラスは強かったが、それでもヤシュバと比べれば、大人と子供だった。私に勝てもしないのだ。
遥か遠くに、マルギニーの陣地と思しき物が見えてきた。おや、と思った。騒ぎが起こっていない。では、マルギニーは嫌竜派の爬族を通してしまったのか。そんな事はありえないと、私の中の私が告げる。そんな事を
すれば、マルギニー自身の首が飛びかねない。あまりにも二転三転すると、非難は免れない。では、何故か。更に近づいて、私は目を見開いた。逃げた爬族は、確かにそこに居た。しかし、生きてはいなかった。百前後は
居たと思われる最後の反乱軍は、皆一様に地に伏して、事切れていた。死屍累々のその中に、一人、立っていた。私は、息を呑んだ。黒い、竜。竜だった。爬族では、ない。その体格。その姿。見紛うはずもなかった。
ヤシュバ。立っている。爬族の屍の上に。まるで、山に立てられた旗の様だった。俯いて、ただ爬族を見下ろしていたその顔が上がり、その目が私を射抜く。電撃が走った。私は、馬から飛び降りて、走る。
「ヤシュバ……様……」
傍まで走り寄った。ヤシュバは、私をただ見下ろしていた。
「遅かったな、リュース。お前達が不甲斐無いから、俺が手を下しておいたぞ」
ヤシュバの口角が、動いた。なんだ。目を見張る。笑っている。ヤシュバが、笑っていた。初めて見る笑い方だった。全身に怖気が走る。汗が、どっと流れ出し、私の身体を伝うのを、私が感じていた。
「ヤシュバ様、あなたは」
「これで良いのだろう。リュース」
死体の山から下りてきたヤシュバが一歩、私へ歩み寄る。逃げたい。今すぐ、背を向けて走り出したい。堪えた。私はその場に跪く。遅れてきた兵達が、私とヤシュバを。いや、ヤシュバを前にして、同じ様に膝を
付いた。全員が、威圧されていた。ヤシュバの存在に。抗い難いその気迫に、真向から視線を送る事ができる者は、少なくともこの場には居なかった。
「さあ、帰ろうか。ここにはもう、何も無いしな」
軽い調子で、ヤシュバが帰還の命令を下した。弾かれた様に、その場に居た全員が従う。私は立ち上がったが、動けなかった。ただヤシュバを見ていた。
私は、間違いを起こしたのか。束の間考えた。間違いではない。ヤシュバは、戻ってきた。筆頭魔剣士としての充分な迫力を備えて、私が望んだ通りに動き、反乱した爬族を全滅させた。
では、何故今私は、釈然とせず、それどころか怯えながら、汗を掻き、ヤシュバを見つめているのだろう。あまりにも、今私を見ているヤシュバの瞳が、冷たい事に気づいたからだろうか。
もう一度、言い聞かせた。間違いは、しなかった。これで正しいのだ。筆頭魔剣士としてのヤシュバが、今ようやく目覚めた。始まったのだ。
それでも私は、気づいていた。これが最初の、過ちだったのだ、と。