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17.竜は帰らず

「高みを目指す。男児として産まれたならば、それは宿命の様な物だ」
「俺には、何もかもが揃っていた。そう思って疑ってはいなかった。あの男が、俺の前に現れるまでは、だ」
「自分が本当は何も持っておらず、ただ好い気になっていたのだと気づかされた時。俺は全てを捨てた。元より、俺には過ぎた物でしかなかったのだ」
「道を行く先で、何を見つけて、何を拾うのか。わからなかった。わからない事がまた、快かった」
「さらばだ、ランデュス。俺が産まれ、俺を育み、俺を愛してくれた国」
「俺が、愛した国」

 馬車の扉が開かれる。開いたその先に居た赤狼の男が、恭しく俺に手を差し出してくる。
「さあ、ゼオロ様。着きましたよ。お手を」
「ありがとう、ハゼン」
 ハゼンの手を取ると、ゆっくりと引かれて。俺はそのまま身を外へと翻す。途端に吹き付ける風と、俺の被毛と同じ様に風に撫ぜられた草が、さわさわと揺れる音が聞こえる。
 視界に広がるのは、細長い小道以外は全て緑色の世界だった。小高い丘があって、その上までも緑に包まれている。風が吹く度に、それはしなやかに波の様に揺れて。目視できない風の居場所を、伝えてくれる。そんな
風が吹く中に、俺と、ハゼンの二人が立っていた。
 遠くに目を凝らせば、小さくなったファウナックの街の壁が見える。
「結構遠くまで来たんだね」
「ええ。ですが、これ以上は流石に。この辺りでもよろしゅうございますか」
「うん。ありがとう、ハゼン。我儘を聞いてくれて」
「とんでもない。館にいつまでも籠っていられては、あなた様の気が塞いでしまわないか、心配だったのですよ。私は」
 早速俺は、草原に足を踏み入れる。細かく揺れる伸び放題の草の先端が、俺の身体にちくちくと刺さろうとするけれど、生憎と被毛のおかげでその程度の攻撃はなんともない。数歩進んで問題無く歩けるとわかると、
俺は駆けだした。奥へ進む度に、草の背は高くなって。最初は脹脛の辺りだった草が、その内に腿の辺りまで延びてくる。そうなると流石にくすぐったくなってきて、俺は思わず笑ってしまった。
 ガルマが開いた夜会の、数日後。とりあえず外見だけはしっかりしていたという事で、目出度くハゼンを頷かせた俺は、ハゼンに外出許可を取ってもらい、街中ではなく、街の外にある丘に連れてきてもらっていた。
 こんな所に遊びに来るのも、許可が必要なのがちょっと面倒だと思う。ハゼンの外出許可が必要で、その後で更にハゼンから、館に外出許可を乞う訳で。やっと許可が下りた時にはもう夜だったものだから、朝になるのを
待ってから、ハゼンに馬車を出してもらってここまで来たのだった。御者はハゼンが務めているので、今は本当に、二人きり。
 自然の中を走っていると、なんというか、忘れていた感覚を取り戻せそうな気がしてくる。こんな風に、何も考えずに走り回った記憶が、オタクかつ引き篭もり気質な人間だった俺の子供の頃にも、ほんの少しだけ
残っていた。夏になると、暑いのに態々外を走り回って、カブトムシとクワガタを探しに行ったり。転んだりなんだったりして、身体も服も汚して夕陽に照らされる中を帰ったりだとか。そんなに多くはないけれど、俺にも
確かにあった、人生の優しい一幕。目的も無く外に行くのが堪らなく馬鹿みたいに思えて、何もしなくなったのは、いつの頃からだったのだろう。本当はそんな風に思ってしまう自分が、嫌で堪らなかったのに。とはいえ、
それでも愛犬の散歩の事があるので、まったく外に行かなかった訳ではないけれど。
「お待ちください、ゼオロ様」
 背後から、かなり荒々しく草を掻き分ける音が聞こえて。振り返ると、ハゼンがそこに居た。
「遅かったね、ハゼン」
「馬車を、少し隠しておりました故。流石に、無人の馬車をそのままというのは、不用心ですからね」
「確かに」
 そうなると、馬車を隠してからハゼンは俺を追っていたのか。そう考えると、遅くないどころか、凄く早いな。やっぱり、足も速いのだろうな。というより、今の俺が遅いのかも知れないけれど。走っても、左腕は動かないから、
腕を振って走る事ができなくて。どうしても全力疾走という形にはなれない。
「ゼオロ様。あまり奥に行くと隠れてしまうので、程々にしてくださいね」
「いいな、ハゼンは背が高くて。私もそれくらい、背が高くなるかな?」
「さて、どうでございましょうか。でも、ゼオロ様はまだまだお若い。これからでございますよ」
「伸びなかったら、今の発言を責めるからね」
「それは、困りましたね」
 ちっとも困ってなさそうな顔でハゼンが言う。風が、また吹いた。俺とハゼンの被毛が、風に遊ばれて。俺は思わずハゼンの事をじっと見上げる。
「ハゼン。髪、解いてみて」
 俺が何を期待しているのか、ハゼンはすぐに読み取ったのだろう。仕方がないなと言いたげな仕草をしながら、指先を編んだ髪の付け根へと持っていくと、手を払う。それで、あっさりと長い一本の三つ編みは綺麗に
ばらばらになる。自由になった長い髪は、即座に風に浚われて。はたはたと靡いている様は、本当にそこで炎が燃えている様だった。
「魔法って、便利だね。結ぶのも、解くのも、一瞬で」
「まあ、そうでないとこういう長い髪を態々結んだりはしませんね。毎朝編み直しでございますから」
「私もそんな風に伸ばせるかな」
「どうでしょうね。赤狼は髪が伸びやすく、私はその中でも特に伸びる方でしたから。切る余裕が無い時期も多くて、伸ばしっぱなしで。流石にガルマ様に伺候する際に、そのままではいけないと思いまして、こうして
編んでみたのですが」
「凄く似合ってるよね。切らなくて良かった」
「そう言っていただけると、とても嬉しいです」
「部屋に居る時は解いたままにしてみない?」
「ちょっと考えさせてください」
 元の世界だったら男の長髪はかなり鬱陶しいなと思われただろうし、俺も思っていただろうけれど。目の前のハゼンからは、そんな感じはしない。整った赤狼の顔の造形に、しっかりと合っているからなんだろうな。服も今は、
いつもとは違って群青の色合いで、まるで軍隊か何かに所属してそうないでたちだけど、赤い被毛がとてもよく似合っていて、赤狼自体が悪い印象さえ抱かれていなかったら、きっと遠目から見てもはっとする様な見た目
なのになと俺は思う。対する俺は、部屋着からそれ程の進化を遂げたとは言い難い。流石に真っ白な絹の服はどうかと思ったので、身軽に動けるシャツとズボンを貰ってきたけれど、到底ハゼンには及ばないと思う。こういう
時、元々のセンスの無さが浮き彫りになってしまうのか難しい問題だった。お洒落にしろと言われても、何をどうしたらいいのかがわからない。かといってハゼンに見繕ってもらうのも、お母さんが息子に買ってきた
パンツをそのまま穿いてますみたいな印象が俺の中であって、割とお断りしたい。というかした。
「ですが、せっかく外に出られたというのに……ファウナックの街を回らずとも、よろしいのですか」
「いいよ、別に。それに運動不足だったから、こうやって、走り回ってもみたかった」
「左様でございますか。……ゼオロ様、ありがとうございます」
「なんの話?」
 問いかけても、ハゼンは柔らかな笑みを向けてくるだけ。ああ、やっぱり、バレバレなんだな。
 ガルマの館の中で、日がな一日、緊張に晒され続けているハゼン。室内でなら多少は落ち着ける様にはなったのかも知れないけれど、それでも俺のために、俺のためにと、何かと気を遣ってくれて。夜会では、
はっきりとした敵意と嫌悪を孕んだ視線を浴びせられて。だから俺は、せっかくハゼンが外出許可を取ってくれたのに、行先を街にする事はできなかった。だって、街に出てもきっと、ハゼンは同じ様な目で見られる。道中の
街ですら、そうだったのだから。ガルマの館で、そうなのだから。ファウナックでハゼンが温かく迎えられるはずがない事は、確かめるまでもなかった。一体、どこへ行けば、この赤狼が人目を気にせずに休めるのだろう
かと思案した結果が、街の外だった。ここには、俺達を見ている誰かは居ない。それだけで、多少は楽になれるんじゃないかと思って。
「ハゼン。疲れていない? ごめんね。本当は、私が居てもいけないんだよね」
 他の人の視線は、遠ざけられた。でも、俺はまだハゼンの傍に居て。一日二日くらい、そんな事を何一つ気にしない世界にハゼンを置いておきたいのに。そういう事ができないのが、歯痒い。というか、休みはないのか、
休みは。
 俺は日がな一日まったり引き篭もりライフだというのに。ブラックか、ブラックなのか。
「疲れてなどいませんよ。きちんと睡眠は取っていますから」
 そういう話じゃないんだけど。寝ている時以外、ずっと緊張しっぱなしで、疲れてはいないのかと訊いたのに。そう考えると、人間だった頃をふと思い出してしまう。家に帰るまでずっと張り詰めたままで、家に帰ったら
泥の様に眠って。休日にどうにかやりたい事を、ほんの少しする様な。そんな生活。今思い出しても寒気がする。向いてなかったと思う。俺には、人間は、とても向いていなかったと思う。今の生活は、嫌々ながら始まった
ものだけど、満喫しているし。でも、俺の目の前のハゼンの様に、やっぱりここまで来ても、大変な人は居るんだよな。
「ハゼンは、お休みって取れないの? というか、たまには私の事を放っておいても、いいと思うんだけど」
「いいえ、いいえ。それに、あなた様がお隣に居るのに、まったく顔を見せずに居るというのも、とても気が休まるとは言えませんしね」
 馬鹿ばっかりやっててすみません。
「ハゼンは、家は無いの? 今は、私と一緒に住んでいる様な感じだけど」
「前は外郭に一室お借りしていたのですよ。あなた様の従者となった事で、そちらの方は既に引き払ってしまいましたから。召し抱えられる前に使っていた住処も、同じ様に引き払ってしまいましたし」
 そうなのか。でも、それだと本当に、お休みをあげても気分的にはあんまり休めなさそうだな。それこそ深夜でもない限り、この赤狼はいつ出会っても身形は整えてあって、少しも隙が無さそうだし。
 また、俺は考える。せっかく外に出てきたのになんだけど。俺は別に外を満喫したい訳じゃなかった。勿論、満喫するのも悪くはないなって思うけど。今はただ、目の前に居るハゼンの事を考えていたい。
「ハゼンは、何か、やりたい事はないの?」
「やりたい事で、ございますか」
「うん。だって、部屋で休んでいても、いつでも出られる様にって考えてそうだし。従者だからって、そこまで気を張らなくてもいいと思うんだけど」
 寧ろ、俺には使用人が居るのだから、そちらに任せて一人でごろごろする時間があってもいいんだよな。それができないのは、俺がやらかした事と、ファウナックに着いた時点でハゼンとはある程度親しくなっていた
関係で、他の者が間に入るのを俺が嫌がってしまったせいなんだけど。そうすると、やっぱり俺って、嫌な主なんだなとしみじみと感じてしまう。
「今度、お休みを取ろうよ。私の面倒を見るのは、他の使用人でも大丈夫なのだし。それに、どうせ私は本を読んだりして、ほとんど用事なんて」
「ゼオロ様。その様に、気を遣って頂かなくとも、大丈夫でございますよ」
「でも」
「その様なゼオロ様のお気持ち一つで、私には勿体ない程でございます」
「やりたい事は、何かないの」
「さて。あるかも知れませんが、態々しようとする程の事は」
「駄目だよハゼン。やりたい事があるのなら、やらないと。自分がやりたい事をするために仕方なく生きて、仕方なく生きるために、仕方なく働くんだから。ずっと働いてるだけじゃ、私は認めないからね」
「これはこれは」
 ハゼンが口を押えて、身体を震わせている。明らかに笑っている。口元を押さえても、長いマズルのせいで、掌から漏れる口角が上がっているのが見える。おかしい。俺は正しい事を言ったはずなのに。尚、人間だった頃に
自分が実行できていたとは言い難い模様。
「本当に、素直な方でございますね、ゼオロ様は。素直過ぎて、ちょっと困ってしまいますよ、私は」
「思っている事と、実際に口から出る事が違いすぎるのは、私は好きじゃないよ。そんなの、疲れるだけでしょ」
「ええ、そうでございますね。……本当に」
 ハゼンが屈んで、俺の身体を抱き締めてくれる。それから、俺の頬に、自分の頬を合わせて摺り寄せてくる。くすぐったくて、俺はちょっと目を細める。
「どうしたの、ハゼン。いつもはしないのに」
「人目が、ありませんから。やりたい事はないのかと、訊かれましたから」
「そんなので、いいの」
 再度擦り寄られる。こんなに大きい、大人の狼族でも、擦り寄ったりするんだなと内心考えてしまう。そういえば別れが決まった時に、ハンスもしてくれたっけ。ちょっと顔を離したハゼンの頬に、俺から抜けた銀の
毛が付いていて、思わず俺は笑ってしまう。そりゃ銀と赤だから、くっついたら目立つよなって話で。そんな俺を懲らしめるかの様に、またハゼンが顔を寄せて。それから俺の背を撫でてくる。そうさせると、ぽかぽかとした
日差しの中、草の匂いに包まれているから、ついつい眠りたくなってしまう。
「私が、本当にやりたい事。それはきちんと、できていますよ。ゼオロ様。何も、ご心配して頂かなくても」
「そうなんだ、良かった」
 俺はハゼンの首に顔を埋めて、滅多に俺からはしないというか、不慣れだからしていないのだけど。頑張って頬を擦り付けてみる。
 一頻り擦り付け合ってから、顔を離す。ハゼンの赤毛も抜けて俺に付いているのか、ハゼンが手を伸ばして、それを払ってくれる。
「少し、運動したいな。走ってもいい?」
「ええ。ですが、あまり私から、離れすぎない様にしてくださいね、ゼオロ様。あまり奥に行くと、見えなくなってしまいますし」
「大丈夫だよ」
 ハゼンから離れて、俺は背を向けて走り出す。草を掻き分けて、草を踏んで。緑の海と、大空だけが広がる世界を、走る。遠くで交わるその二つ以外に、本当に、なんにも見えない。凄い。前に踏み出す足も、久しぶりに
走ったのに、耐えてくれた。この身体は、やっぱり獣の色が強いのだなと思う。足が前に出て、草を踏む音が聞こえて。弾んだ息遣いが聞こえて。その連鎖の途中で吹く風と、揺れてぶつかる草の音が、俺を励ます様に
後ろから駆けてきては、俺をあっという間に追い越して遠く、遠くへ走っては、消えてゆく。走るのが、楽しかった。動かない片腕だけが、なんだか恨めしい。こんなに楽しいのに。どこまでも行けそうなのに。その部分が
まるで、俺が本当にどこかへ行ってしまうのを、引き留めるかの様で。
「ゼオロ様」
 遠くから、ハゼンの声が聞こえる。そろそろ止まった方が良いだろうか。段々草も伸びてきたし、このままじゃ本当に隠れてしまいそうだ。それも、いいかもな。隠れん坊をするのも、いいかも知れない。駆けっこだと、
どう頑張ってもハゼンには勝てそうにないし。歩幅が違う。長い足が恨めしくて、羨ましい。
「ハゼン」
 振り返って、俺はそう言おうとしたはずだった。口を開いて、顔を後ろへ向けようとして。最後の一歩が届いたら、声を出そうとしていた。
 けれど、その最後の一歩は届かなくて。俺は足元から一気に恐怖が昇りつめてくるのを感じていた。俺の身体が、少し傾いている。足が、地面を踏んでいない。草は、踏んだ。でも、その草の先に、地面は無かった。
 そのまま俺は、ハゼンの見ている前で地面に吸い込まれる。

 薄暗い場所で目を開くと、僅かに差し込む明かりが、目に入った。
「ゼオロ様! 大丈夫でございますか!?」
 必死なハゼンの声が聞こえる。何が起こったのか俺は理解して、そのまま両手で顔を覆った。
 穴に落ちた。しかもなんか深い。凄い良い笑顔で走ってたら、足元にあった穴に落ちた。恥ずかしい。死ぬ程恥ずかしい。穴があったら。もう入ってたわ。
「ハゼン、大丈夫。まだ生きてるから」
 俺が気を失っていたのは一瞬だった様で、俺は慌てて、光が見える場所から上を見る。そこで、俺が落ちたのは穴ではなく、亀裂だという事に気づいた。光は僅かに届いていたけれど、見上げても、恐らく今亀裂を
覗き込んでいるはずのハゼンの姿や、青空は見えない。草が生い茂っている中に亀裂が入っていたから、それがあるのにまったく気づかずに、俺は突撃してしまった様だ。恰好悪い。俺と一緒に落ちてきた草が
いくつかぱらぱらと散らばっているのが見える。
「お怪我はありませんか?」
「大丈夫」
「ゼオロ様。どうにか、上がってこられそうですか? 私の体格では、とても入れませんので」
「うーん、上るのはちょっと」
 亀裂が俺の身体にぴったりだった様で、ハゼンに声を掛けようと振り返りかけていたのは不幸中の幸いだった。そうじゃなかったら、このマズルの形を考えたら、顎を強打して悶絶していても不思議じゃなかっただろうな。
 俺が落ちてきた部分を観察する。壁は掴めそうな場所はほとんど見当たらず、試しに手を掛けてみると、ぼろぼろと音を立てて崩れた。思わず溜め息を吐いて辺りを見渡す。暗い。でも、暗闇を見つめている内に、風が
吹いている事に気づいた。
「ハゼン。風が吹いてるよ、ここ。どこかに繋がってるみたい」
「方向はわかりますか?」
「えーと……多分、落ちたところから、右側かな?」
 ハゼンの姿が見えない上に、方角なんてわかるはずもなく。俺はどうにか当たりを付けて、それだけを告げる。
「畏まりました。今から私はそちら側を探してみます故、ゼオロ様はどうか、無理はなさらず」
「無理の無い範囲で頑張ってみるよ」
 ハゼンが来るのを、ずっと待っていても仕方がない。出口があるのならと、俺は歩き出す。それにしても、丘の下がこんな風に空洞になっているとは思わなかった。崩れたりしないだろうか。なんかモンスターとか
居ても不思議じゃない雰囲気だ。幸いな事に、この世界にはそういう類は居ないそうだけど。ゴブリンやオークは居なかった。安心だ。コボルトも居ない。犬の頭を持っているそうだから、もし居たら仲良くなれたかも。
 そんな事を考えながら、踏み出した俺の足は、数歩進んだところで止まる。暗い。どうしようもなく、暗い。落ちてきた所ですら、かろうじて光が届いていただけなのに。そこから進んだら、律儀に明かり取りの穴が開いている
訳ではないのだから、真っ暗になってしまう。夜目が利けば良いのにな。というかこんなに真っ暗でも、見えたりするんだろうか。どちらにせよ、今の俺の視界は真っ暗で。仕方なく臭いを嗅いでみる。土の匂いがする。雨が
降り出してすぐに、臭い立つ土の匂い。好きだな。いや、そんな場合じゃない。仕方なく、壁を手探りで進む。変な虫とか触ったらどうしようかと思うけれど、もう贅沢言っていられない。
 風の音も、草の音も遠くなって。真っ暗の中を歩く。聞こえるのは俺の立てる音ばかり。なんだか、変な気分だ。自分がどこに居て、何をしているのか、わからなくなりそう。怖いけれど、同時に、少しほっとする様な、
眠くなってきそうな、そんな感じ。やっぱり怖いけれど。
 どれくらい、進んだのだろう。ハゼンは今、何をしているのだろう。必死に駆けずり回ってそうな様子は、想像できる。下手したらこれ、今日中に帰れないしな。俺が叱られるのは当然だけど、ハゼンも何かしら、
咎められてしまうかも知れないと思うと、俺は慌てて速足になる。速足になったら、こけた。学習しないな俺。
「誰だ」
 転んだ時に立てた物音に、暗闇から声が掛かる。とても、低い声。俺は身体を震わせた。寧ろ俺が言いたい台詞だ、なんでこんな所に、自分以外の誰かが居るのかと。
「えっ。あ、あの……どなたか、いらっしゃるのですか? 私、穴から落ちてしまって。こんな所に」
 身体を起こしながら、とりあえず下手に出る。暗闇に向かって話しかけるのは、変な気分だった。前後も何も無い空間で、それでも今の俺は前方から明らかに、人の気配という物を感じていた。なんとなく威圧感にも
似たそれに、圧倒される。何か、良くないものが居る様な気がして。
「そうか」
「あの、あなたは……? あなたも、落ちて?」
「いや。俺は、ここで少し休んでいた」
「休んで……?」
 なんでこんな所で、と思ってつい口にしてしまう。
「俺は、狼族ではない。狼族に見つかると面倒だからな。お前は、狼族なのだな」
 束の間、俺はそれにどう答えるか悩む。だって今、狼族に見つかると、面倒だって言われてしまったし。
「えっと……はい、そうです。でも、あなたをどうこうしたい訳じゃありません」
 結局、威圧感に負けて素直に応える。どうして何も見えない暗闇から、こんなにも抗い難い程の圧迫感がするのだろうと、ちょっと首を傾げながら。
「魔法は、使えないのか。それでは何も見えないだろう」
「私は、魔法の才はからっきしで。……あの、それよりも。あなたは、ここで休んでいるのですよね。それから、穴に落ちた訳ではないと。それなら、出口を知りませんか。私は外に出られれば、それでいいのですが」
 暗闇からの声が途絶える。俺は身体を震わせて、相手の言葉を待っていた。やがて、軽く息を吐いた様な音が聞こえる。
「付いてこい。ここは、思ったよりも広い。案内しよう」
「あ、ありがとうございます」
 俺がその場でおろおろとしていると、俺の肩に何かが触れて、思わずびくっとする。それでも相手もすぐに、俺がどういう状態なのか察したのか、俺の手を引いてくれた。
「小さいな」
「あなたが、大きいのだと思うのですが」
「違いない」
 俺の手を取った手は、俺よりもずっと大きくて。大人のそれ、というよりも、もっと大きくて。それから、ごつごつとしていて、被毛が生えていない。鱗に覆われている様だった。
「あなたは、爬族の方なのですか?」
「そんなところだ」
「あ、あの。お名前をお聞きしても、よろしいでしょうか。私は、ゼオロと申します」
 また、沈黙。俺の手を取った何かは、考えている様だった。硬い鱗の手からは、何も伝わってはこない。
「……プツェン」
「プツェンさんですか」
 なんだろう。何かで聞いた気がするけれど、思い出せない。とりあえず可愛い感じの名前だな。声はおっさんなのに。
「可愛らしいお名前ですね」
「そうだな。俺も、そう思う」
 可愛らしいと、つい口にしてしまってから、やばいと思ったけれど。プツェンは、特に気にした様子は見せなかった。腕が軽く引かれて、俺は一歩踏み出す。すると、プツェンも一歩。そうすると、どしん、という音がした。え、
何これ。足音なの。この人どれだけでかいの。名前と体格が合ってなさすぎるんじゃないの。というか、こんな洞窟の中で、歩けるんだろうか。
「プツェンさん、凄く大きいんですね。こんな所で、歩けるんですか?」
「大丈夫だ、少し頭をぶつけるくらいだ」
 全然大丈夫じゃないんだけど。天然なのだろうかこの人は。心配していると、上から土が落ちてくる。今絶対擦っただろ。
「それに、俺が通れる道と、小さすぎて、通れない道がある。俺が通れる道を歩いていれば、その内外には出られるはずだ」
「そ、そうなんですか……。あの、明かりって、ないでしょうか。真っ暗だと、何も見えなくて」
「悪いな。俺も、そういうのは苦手なんだ」
「苦手なのに、こんな暗い所に?」
「落ち着きたくてな。外に居ると、狼族に見つかる」
「……確かに、そうかも知れませんね。ここはギルス領で、すぐそこにはファウナックがありますから。同じ八族ですら、狼族には相手にされない事が多いのに、他所の方では」
「お前は、随分俺の知っている狼族とは違うのだな。狼族は、竜族と同じぐらい、誇りが高いと聞いていたが」
「狼族といっても、八族の一つですから。あまり他種族といざこざを起こしていては、いざという時、何もできませんよ。狼族一人で戦が回る訳ではないですし」
「それもそうだな」
 ガルマの館である程度の本を読み漁った俺にとって、今の狼族の立場というのは、危ういという印象は拭い難かった。何故狼族がそうなってしまったのかも、今はもう知っている。クロイスが俺に、自分の口からは
言いたくないと口を噤んだ、その内容も。今なら、どうしてクロイスが俺に何も言えなかったのかが、よくわかる。それを口にして、俺に嫌われてしまうと思い悩んだのも。そういえば、クロイスって今、どの辺りに居るの
だろう。確かハンスは、南側から戦線を巡る、みたいな事を言ってたけれど。だとするのなら、ギルス領の東の方には立ち寄っているのかも知れないな。猫族であり、その上スケアルガ家の者であるクロイスだから、
ほとんどこっちの方には立ち寄らないだろうけれど。会うのはまだまだ先になるだろうか。
「プツェンさんは、よくこちらに来るのですか?」
 道が細くなって、プツェンの手が離されると、見失わない様にと代わりに俺は声を掛ける。それに、こんな暗い中を、ずしんずしんという音楽だけを頼りに進むのも、味気ないし、何より怖い。
「いや。まだ、三度か四度目だ。それに、前に来たのは、もう数十年も前の事になる。久しぶりに来たが、多少は持ち直した様だな」
「数十年前……それじゃ、戦争中だったんですね。爬族なら、嫌竜派としてラヴーワに味方をしてくれた人なんですか?」
「まあ、そんなところだ。お前、まだ若そうなのに、物事をよく知っているな」
「実は最近、学んだばかりなんですけれどね。今までは、そういう余裕が無かったのですが、今はご厚意で、勉強もできる様になって」
 族長が所有するだけあって、ガルマの館にある図書室の蔵書数はかなりの物だ。必要だと思った本は、探せば大抵は手に入る。ただ、それでも本から得られる知識は偏るし、狼族にとって不都合な物の記述の本は、
多くはない。一部の本は、あくまで事実のみを読み取り、それを書いた者の見方などはある程度無視する必要があって、ちょっと読み難い。とはいえそれは、元の世界の新聞などでも、大いにありえる事なので、
今更という他ないけれど。あえて言うのなら、他の人物が同じ事柄を書いた書物があれば良かったのになと思う。現代だったら、ネットでそのぐらいはできて、ある程度は多角的に物を見た気分にはなれるというのに。
「プツェンさんは、今は何をされているのですか? 数十年振りに来たって、言ってましたけれど」
「少し、自分を見つめ直そうかと思ってな」
 それはひょっとして自分探しという奴だろうか。青臭くて、それでいてなんだか眩しい言葉だ。自分探しをしに海外に行っちゃうとか、たまに聞くけれど。ああいうのって結局、見つかるんだろうか。見つけるも何も、自分は
いつでもここに居るだろうと、ちょっと冷めた考え方をしてしまうけれど。俺の場合。多分俺が自分探しにでかけても、三日くらいで疲れたからと家に帰ってそうだな。
「自分を見つめ直す、ですか」
「ああ。俺は、戦争にも参加したし、他人の命も奪った。それを今更どうこう言うつもりもないのだが、ちょっと、切っ掛けがあってな。そうして、暇ができたから、今は各地を旅しているんだ」
「旅ですか。いいですね。楽しそうです」
「楽しいぞ。でも、そんなに良い物だという訳ではないな。食う物にも、割と困る。今は段々と温かくなってきたから良いがな」
「確かにそうですね。野生の動物も、冬の間はあまり見かけないでしょうし、植物などはほとんど期待できないですね。これからはそういうのは期待できる反面、夏になったら、また暑さが厳しいでしょうし」
「ああ。だが……食物さえ確保できれば、あとは自分のやりたい事に打ち込める。それは、悪くはない」
「やりたい事って、なんですか」
「自分の、剣の腕を磨く事だ。俺は、以前は自分の力に絶対の自信を持っていた。しかし、素性もよくわからん奴に、ある日負けてしまってな。それで、旅に出たんだ。以前の俺は、自分の腕を磨く機会に恵まれては
いなかった。それ以外は、何もかも揃ってはいたのだがな。負けて、よくわかった。もっと直向きに、俺は自分が強くありたいと思っていた事に」
「強くありたい、ですか。なんだか、とてつもないですね。私にはとても」
「ゼオロ。お前は、そうありたいとは思わないか。男として、産まれたのならば」
 なんだその熱血丸出しの発言は。と、思わず閉口してしまう。確かに、強くありたいとは思うけれど。でも、今の俺は。
「思います。けれど、今の私は……左腕が、動かなくて」
「そうなのか」
「はい。その上で、私には魔法の才も無いみたいで。今はただ、私を守ろうとしてくれている人達に、甘えてばかりです。それでも、少しずつ動かない腕を動かそうと頑張ってはいるし、今度、片手でもいいから
武器の扱い方を、教えてもらおうとも思っています。ただ、それよりも今は、勉強の方を優先してしまっていますけれど」
「そうだな。学ぶ事も、大切だ。学ばなければ、力を振るう意味も損なう。ただ強いだけでは、いつかは道に迷う時も来るだろう。俺も、迷っている様な物だが」
「なんだか、プツェンさん、恰好良いですね」
「そう思うか。負け犬が、必死に腕を磨いているだけなのだがな」
「何かに直向きになれるのは、大切な事だと思いますよ。強い人と戦って、負けてしまっても。もっと強くなってやろうって頑張れるのですから。私も、頑張らなくちゃって、そう思います」
 そう思って、実際にどれだけ頑張れるのかは、甚だ疑問な訳だけど。それが長続きしなくて、いつも放り出して、結局いつもの駄目な自分に戻るまでが、前の俺だった。今の俺は、どこまでやれるのだろうか。
 無事に帰る事ができたら、ハゼンに少し、稽古を付けてもらいたい。ハゼンは武器の扱いも手慣れた物だろうし。
「そう言ってくれると、なんとなく、嬉しいな。そういう言葉も、思いも。誰かから貰えずとも、一人で。そう思って、打ち込んでいるのだが。俺も、まだまだ甘いのかな」
「努力家なんですね、プツェンさんは。私だったら、逐一褒めてもらわないと、投げ出してしまいそうです」
「素直な奴だな」
 暗闇の中から、笑い声が聞こえる。豪快な、それでも声を押し殺した笑い方。それでなんとなく、俺はこのプツェンという、声と、大体の体格しかわからない男に、好感を抱いた。如何にも俺の一番苦手な、精神論、
根性論でどうにかなると断言してきそうな体育会系かと思いきや、それだけではなくて。俺の様な、軟弱な奴の言葉にも、しっかりと耳を傾けてくれる人だと思う。相手の意見如何ではなく、それを口にしている相手に
よって聞き入れるかどうか、態度すら変えてしまう様な、俺の嫌いなタイプとは正反対の様な人だ。こんな暗闇の中で、体格差がこれだけあって。軟弱なのははっきりとしていて、その上で片腕が動かず、それでいて
本人は避けていると明言している狼族の俺の言葉を、こんなにはっきりと受け止めてくれる人。お前の様な餓鬼に、お前の様な軟弱者に。いくらでもそう言って、俺の意見を突っぱねる事は容易いだろうに。
「プツェンさんは、旅をされているのですよね。もう、この涙の跡地の、ほとんどの部分を訪れた事があるのですか?」
「ほとんどという程ではないな。ランデュスの周辺には、頻々に訪れはしたが。結界に近い箇所は、それほどは。それから、ラヴーワも、奥の方までは足を踏み入れた事はない」
「爬族の方ですものね。今なら、歩くくらいなら、なんとかできるかも知れませんが」
「そうかな。きっと、大騒ぎになりそうだが」
「そうなんですか? 私にも、爬族の知り合いは居ますけれど、ミサナトっていう、中央に近い街でも普通にされていましたよ」
 ファンネスは、まあそれなりには受け入れられていたはずだろう。問題なのはその横に常に居る、きらきらと輝くツガの方だった訳で。
「そうか。爬族も、そうして受け入れられる様になったのだな」
「八族ではなくても、ラヴーワには水族や、翼族の方が居ますしね。私も、翼族の人とも友達が居ますし」
「お前は、狼族だというのに、随分と他種族との交流があるのだな」
「やっぱり、そう思います? 今私と一緒に居てくれる、狼族の人にも、最初は驚かれたのですけれど。私は、色んな人とお友達になれた方が、良いなって思いますね。せっかく種族という物があって、色々違う訳ですし」
「竜族が相手でも、そう思うのか?」
「思いますよ。というより、竜族も、お友達が居ます。ちょっと天然で、面白い人でした」
 ちょっとどころじゃなかった気がするけれど、ツガを悪く言うつもりはないので、程々にしておく。
「驚いたな。竜族ですら、知り合いが居るとは」
「猫族や、犬族も居ますよ。こうして挙げてみると、狼族にとっての天敵と言われる方ばかりですね」
 狼族にとっての天敵と言える三種族。同じ様に見られるのは我慢ならない犬族。グンサが死ぬ要因となった、スケアルガ家が属する猫族。そして戦争の相手であり、グンサを殺した竜族。現在狼族が閉鎖的であり、
他種族には近づかないし、靡かないと言われている中で、特に顔も見たくないと言われるのがこの三種族だった。こうして並べると、猫族、竜族はともかく、犬族は不憫な気がする。戦争とはまったく関係の無いところで、
日々嫌がられているのだし。猫族は猫族で、そうだけど。スケアルガが嫌われるのはまだしも、猫族まで嫌われてしまうのは。ただ猫族にとっては戦争中に軍師として活躍したスケアルガを英雄として見ている節が
あるから、仕方ないのかな。
「よく、それだけ他種族の知り合いが作れる物だな」
「実は、同じ狼族よりも、他種族の知り合いの方が多いです。私はまだ、知り合いが数える程しかいないせいもありますけれど」
「しかしそれでは、このギルス領、狼族の中では、暮らしにくいのではないか」
「そうですね。私が、他の種族と仲が良いという事は、今のところ語る必要も無いからと、特に公言もしていませんけれど……。きっと、知られてしまったら、良い顔はされないですよね」
 特に、先の三種族は尚更だ。しかも猫族に至っては、忌避される原因であるスケアルガ家の直系と友達だし。そう考えると、やっぱり俺は狼族の族長にはならない方が良いのだろうな。今からでも本気出して、族長の
座を狙って。狼族の後ろ盾どころか、自分が狼族を率いる、という案も無くはないのだろうけれど。でも、そうしてしまったら、きっともう、ミサナトでできた全ての関係は、断たなければならないだろう。そもそも戦時下でも
ない限りは、基本的にはファウナックに居て、ギルス領を治めるのが仕事になる訳だし。そう考えると、それは絶対嫌だなと思った。その上で、もし関係が知られてしまったら、族長としての仕事にも影響は出るだろうし。
 銀狼であるから来てくれと乞われて、ガルマの後継者候補として数え上げられていると知った時。もしかしたらの道として、取るべき手段の一つとして、考えたけれど。やっぱり、ならない方が良いだろうな、狼族の
族長は。そもそも、俺の器量でなれるとも思えないけれど。そもそも何もできないんですが。神輿は軽い方が良い、なんてふざけた言い回しもあるけれど、いくらなんでもちょっと軽すぎると思う。
 ふと、そこまで思い至って、ハゼンはよく俺を見限らないなと思う。俺に他種族の知り合いが多い事は、クロイスを除いて知っているし、しかも俺は族長になんてなりたくないとはっきり言ってしまっているし。族長候補
だからと俺を招いたはずなのに、肝心の俺がこんな有様で。どうして今、俺に、あんなに尽くしてくれるのだろうな。好いているから。そう、言ってくれたけれど。でも、俺には、なんにもない。偽りのこの身体しか、
ないのにな。俺にできるのは、ハゼンが赤狼であっても、ハゼンの事を、ただそこに居る一人の狼族の男。俺の傍に居てくれる、ハゼンとして見ている事くらいだった。
「……プツェンさんは、他種族のお友達って、多いですか? 爬族だと……竜族ですかね?」
「竜族は、爬族の事をあまり好くは思ってはいないがな」
「それでも、竜族の中にも、お話ができる人が居るんじゃないですか? 私みたいに、変な人が」
「自分の事を変人と言い切ってしまうとは。もう少し自分を大事にするべきだぞ」
「いいんです。変わり者ですねって、よく言われてますから。慣れました」
 この間、ハゼンにも言われたし。あなた様は本当に、お変わりな方でございますねって。割と傷ついた。泣き真似は無視された。
「そうだな……竜族にも、知り合いは居る。あまり、仲が良いとは言えないが。友人とまではいかないな。向こうは俺の事を、とても嫌っていた。付き合いは長かったが」
「プツェンさんは、どう思っていたんですか」
「嫌いでは、なかった。ただ、俺には絶対に、本心を見せようとはしない奴だったな。だから俺も、必要以上には近づかなかった。腕は立つし、頭も切れる奴だったが。俺が近づくと、いつも、嫌そうな顔を。……いや、違うな。
辛そうな顔をするんた、あいつは。俺と居るのが、延いてはあいつ自身を、とても苦しめていたのだろうな」
「どうしてそんな風に」
「俺には、はっきりとはわからなかった。近づくだけ、辛い思いをさせてしまうのがわかってからは、相手にしなかったからな。ただあいつは、あんまりにも自分が何も持っていないと、思い込んでいたからな。だから、なんでも
持っている俺が、嫌だったのかもな。それだって、あいつがそう思っていただけで。俺は本当には、何も持ってはいなかったのだが」
「そうなんですか」
「あいつは、子供みたいだった。普段は大人びているんだがな。気の毒な境遇だったから、仕方ないのかも知れないが」
 話を聞いてみたけれど、言い方がちょっと抽象的過ぎて、よくわからない。ただ、ブツェンがその竜族を、気にかけていた事だけはわかった。
「それ以外は、あまり居ないな。爬族や、竜族を含めても。どちらかと言えば、強い俺を、慕ってくれる奴の方が、多かった。それは、友人とは言わないだろう」
「慕ってくれる……。なんだか、凄いですね。そういう関係も。私には縁が無さそうです」
「そうかな。お前の、他種族とあっさりと友人になってしまう様なところは、人によっては慕ってくれると思うぞ」
「そうですかね。嫌がられるんじゃないかなって、心配なんですけれど」
「狼族が今のままなら、そうかも知れない。だが、八族としてやっていくのなら、今後もそういう訳にはいかないだろう」
「確かに、そうですね」
 誰かが、慕ってくれる。そういう関係って、なんだか凄いな。プツェンは力があるから、その姿に惚れ惚れとして、慕う人も居たんだろう。力の無い俺には、なんだかとてつもなく無縁な物に感じる。
「だが、俺は結局、負けてしまった。負けた俺の事など、もう誰も気にはしないだろうな」
「そんな事は、ないとは思いますけれど。プツェンさんは、プツェンさんを慕ってくれた人達に、その後会ったんですか」
「いいや。自分の腕を磨きたくて、飛び出してきてしまった。何も言わずにな」
「きっと、残念がっていますよ。今頃」
「だと、いいのかな。俺の事など、もう忘れてくれても構わないのだが。どうせ、戻るつもりはないしな」
「戻らないのですか」
「最初は、戻るつもりだった。腕を磨いて、強くなって。俺を負かした、あの男を、今度は俺が打ち負かしてやると。そう思っていた。だが、今は……もう、それほど気にならなくなってきた。それよりも、自分の産まれた場所を、
捨ててきてしまった事の方が気になってしまうな。俺に、とても良くしてくれた場所だったから。思い出す度に、少しだけ、帰りたいと思ってしまう」
 旅の空で、故郷を思って。でも、もう帰らないと決めて。そんな生き方をしているプツェンが、なんとなく、羨ましいと俺は思う。俺にも、そんな力があったら。なんにも気にせずに、気ままに旅をする生き方もできたのかな。
「だが、戻ったらきっと、前と同じだ。俺は、今のままが一番気楽で、楽しいのだと、もう気づいてしまった」
「良いですね。そういう生き方も。逃げているって、言う人も居るかも知れませんけれど。私は、賛成ですね」
「実際、逃げている事には変わりない。ただ、逃げるのも悪くはないなと、俺がそう思える様になっただけだ。昔の俺なら、そんな事は恥だと、喚いていたかも知れないな」
「楽しそうですね。自由で、自分の好きな物を、見に行けるというのは」
「お前はそうしないのか。ゼオロ」
「私が、ですか」
「さっきから聞いていれば、お前は、そういう事をしたがっている様にも思える。そうしないのか」
「私には、力がありませんから。自分の手で、自分の道を切り開く力が。私一人じゃ、自然の中ではとても生きてはいられません。今は、片腕も動かない身ですし」
 一層、全てを放り投げて自由に生きる。そういうのもありなのかな。孤独かも知れないけれど。ただ、やっぱり今の俺には、無理だった。まずは食べるために動物を捕まえる事と、涙と吐き気を我慢してそれを解体する事を
学ばなくてはならないし。難しそうだ。動物は、好きだから。絞められて、調理されて、できあがったそれは平気で食べられる癖にな。
「それに、今はまだやりたい事もあります。これからやりたい事が見つかるかも知れません。それから、一緒に過ごしたいと思える人も、居ますから」
 ハンスに問われた言葉を、今更の様に思い出す。やりたい事はないのかと。やりたい事を見つけるためにも、この世界の事をまずは知るべきだと。今は、大分知った様な気がする。気がするだけだろう。まだ一年も
過ごしていないのだから。それでも、やりたい事がいくつかは見つかって。やりたい事とは別に、一緒に居たい人も見つけられた。今で言うなら、ハゼンだろうか。ここに来てしまった事を、後悔するとまでは言わない
けれど、時々、疲れたり、嫌に思ってしまう事はあるけれど。それでもハゼンと出会えたのは、良かったと思う。ハゼンはそう思ってくれているか、わからないけれど。やっぱり俺は、ハゼンが本来望んだ様な、自分が立派に
族長としての務めを果たす事を夢見ている様な銀狼ではないし。
「そうか。残念だ。何もかもが嫌になったと、そう言うのなら。俺の旅に、付き合ってもらおうかと思った」
「お邪魔になってしまいますよ。私では」
「それでも、いいさ。昔の俺は、来る物をなんでも受け取って、いつの間にか、身動きが取れなくなっていた。だから、全て捨てた。今はただ、自分で見つけて、自分で必要だと思った物があれば、それでいいと思う」
「私では、お話相手しか、務まらなさそうですがね」
「それは大切な事だろう。本当の一人旅では、言葉は不要な物だからな。たまには、寂しくもなる。旅は何も、一人でなければできない事ではない」
「ありがとうございます。そう言って頂けると、嬉しいです。もし、いつか。そんな風に自由に旅をしてみたくなったら。その時は、プツェンさんの事を、頼ろうと思います」
「そうか。そう、言ってくれるか。楽しみだな。それが、いつになるのかはわからなくても。一人で歩いていると、楽しみはいつも、目先の事になる。自分以外は、関係無いからな。たった今、遠くの物事が、楽しみになった」
 どうして、自然とそんな約束を口にしたのか。俺にもわからなかった。或いはそれは、決して叶わない約束であると、知っていたからかも知れない。俺の秘密も、俺の今の身体も。俺が本当に一人きりになる事を、
許さない物だからだと思うからだろうか。秘密が知られたら、逃げるか掴まるかになるし、それでいて今の銀狼としての自分も。求められて、こんな所まで来てしまったから。
「ああ、でも。今はとにかく、外に出ないと。きっと今、上では私の事を必死に捜していますから」
「一人ではなかったのか」
「はい。もう一人、居るんです。私がうっかり落ちてしまったから、とても心配させてしまってますね、きっと。戻ったら、凄く怒られそうで今から憂鬱です」
「その割には、随分嬉しそうに言うのだな」
「彼も、一緒に居たい人の中の、一人ですから。最初に顔を合わせた時は、何を考えているのかよくわからないし、少し怖いと思っていたのですけれど。今は、大切な……友人、なのかな」
「違うのか」
「本人は、そうは言ってくれないかなと。私とは、主従の関係ですから。でも、私は、友達になれたらいいなって思っています。きっと、そう言っても。恐れ多いとかなんだとか言って、逃げられてしまうと思いますが」
「言ってみたらいい。どうせ駄目だと言わないよりも、良いと思うぞ」
「そうですね。機会があったら、言ってみたいと思います」
 実際にそう言ったら、ハゼンは、なんて応えるだろうか。とはいえ、これは既に一度はやった事だな。お戯れを、なんて澄ました事を言って逃げるに決まっている。どうしたらあの気取った赤狼を追いつめられるだろうか。
 洞窟は、まだまだ続いている様だった。どれだけ奥深くに、このプツェンと名乗る男は籠っていたのやら。というより、よくこんな長い洞窟があったな。暗闇の中を会話しながらだから、とてもゆっくりと歩いているし、実際の
ところはそこまで広いとは言えないのだろうけれど。それでもかなりの体格と思われるプツェンが歩ける箇所が多いのだから、やっぱりそれなりではあるのだろうな。時々、土や小石が落ちてくるけれど。多分、また
頭をぶつけている。とうのプツェンは、そういう事が起こっても一切気に留めていないみたいだけど。痛くはないのかな。爬族なら鱗があるから、そうでもないのだろうか。
「プツェンさん。あの、訊いてもいいですか。こんな事を訊くのは、良くないかも知れないって、思うのですけれど」
「言うだけ言ってみるといい」
「その……。ラヴーワとランデュスの戦争って、今後はどういう情勢になると、プツェンさんは思いますか」
「何故、それを俺に訊く」
「ラヴーワの方ではなくて。それでいて、戦争を経験していて、竜族とも面識があるというので。ごめんなさい、突然。けれど、このギルス領では、他種族。それも、他所の方のお話は中々聞く機会にも恵まれなくて。こんな話は、
したくはないでしょうか」
「いや、構わない。続けてくれ」
「ありがとうございます。それで、今は休戦中で、それがもう二十年も続いていますけれど、私は休戦に入ってから産まれたので、戦争の事も深く知っている訳ではありません。けれど、このままずっと休戦状態のままだとは
思えなくて。確かランデュスの筆頭魔剣士も、最近変わられたんですよね。名前は、私は知りませんが」
「ヤシュバ、だな」
 即答に、俺は思わず感心してしまう。戦争にも参加したとはいえ、今は自由に旅をしているプツェンが、それを知っているだろうかと思ったのだけど。情勢には聡い様だった。俺はといえば、書物を漁る事で
得られる知識という物はあるとはいえ、それには最近の事柄は含まれていないし、あまりこういう事をハゼンに訊ねるのも気が引けてしまうので、二国の情勢について話ができる相手が欲しかったのだった。ハゼンに
話を振れば、まず間違いなく、銀狼について、そしてその銀狼に災難を持ってきたスケアルガに対する恨み節が飛んでくるだろうし。ハゼンの事は好きだけど、真向からクロイスの事を否定されるのは、流石に
良い気分ではなかった。正確には、否定されているのはクロイスの父であるジョウスや、クロイスの祖父なんだけど。
「ヤシュバ。新しい筆頭魔剣士の方は、そういうお名前なんですね。前の筆頭魔剣士である、ガーデルという人の名前は、知っているのですけれど。本にも、よく名前が、でて……きて」
 そこまで暢気に話しかけて、俺はふと、自分の目の前に居るであろう男をまじまじと見つめた。とはいえ、見えるのは暗闇なのだから、実際に俺がその男を見ている訳ではないのだけど。
「どうかしたのか」
「あ、いえ。その……なんでも、ないです。ええと、話の続きでしたね」
 俺の動揺が、誤魔化せたのかはわからない。それでもプツェンは、俺の言葉を待っている様だった。
「……新しい筆頭魔剣士であるヤシュバという人は、この休戦の事をどうお考えなのでしょうね。その人次第では、休戦を終えてしまう事もあるのでしょうか」
「そうかも知れないな。ただ、ランデュスには、竜神のランデュスが居る。最終的な決定権は、全てがランデュスにあると言っても良い。新しい筆頭が現れたとて、それは変わらないのではないだろうか」
「それも、聞いています。けれど、筆頭魔剣士の言葉も、決して軽んじられる物ではないと」
「それもそうだ。ランデュスは、どちらかと言えば、大いなる意志その物だと言ってもいい。実際に剣を振るうのも、政を行うのも、それらに頭を垂れる竜族だからな」
「そう言われると、竜神ランデュスというのは、とても不思議な存在なんですね。神様だから、当たり前なのかも知れませんけれど」
 神様が、目の前に居る。どんな気分なんだろうか。神様といえば、困った時に頼み込んだり、宗教ではよく扱われているけれど、基本的に無宗教、それどころか色んな神様集まれ状態の場所で生きていた俺には、
なんとなく馴染みがある様で、しかし目の前に居て、実際に何かしらの意思を持って接してくると言われると、これはもうどうしたらいいのやらと思ってしまう。とりあえず下手に出てしまうかもしれない。だって、神様
だし。便利だな、神様って。
「それが、竜神ランデュスだからな。或いは、この涙の跡地において、一番王の称号にふさわしいのが、ランデュスかも知れないな。ラヴーワは連合した結果、王の意味は薄れたし、八族の内の一人だけが王を
名乗る事などはありえない。爬族は、族長が竜族に擦り寄っていて、とても王と呼べた物ではない。残るのは精々、翼族と、水族くらいの物だ。ただそれも、実力者である事が前提で、やはり族長と呼ぶべきもの
だな。王とは、そうではない。王は己に傅く臣に命じ、臣はその命を全うして成果を王へと差し出す。それを頷きながら受け取ってこその、王だ。神であり、王でもある。ランデュスには、それだけ崇められる理由がある」
「神であり、王である……。とても、よくわかりました。ランデュスが、竜神として振る舞っていられるのが。ありがとうございます、プツェンさん。この話をして、良かったと思っています」
 ランデュスの事を、ここまではっきりと言い表せられるのは、恐らくラヴーワ側には居ないだろう。竜神であるランデュスと接する事ができるのは、竜族だけ。その竜族と接する事すら、八族では誰であっても厳しい
だろう。これは、とても有意義な事を聞いたと思った。
「でも、そのランデュスも……結局は、戦争を起こすのですよね。なんだか、ちょっと悲しいですね。ランデュスはあくまで竜の神であって、私達を導く神ではないのだから、仕方がないですけれど」
「そうだな。ランデュスが導くのは、竜族だけだ。竜以外の神は、ずっと昔にこの世界を去っていった。どうして去ったのかは、俺も知らないがな」
「竜神ランデュスは、知っているのでしょうか」
「知っている、とは思うが。ただ、その事についてランデュスは語らないという。或いは自分だけが、唯一存在する神であるという事を、強調したいのかも知れない。いずれにせよ、今のこの、涙の跡地に居る神は、
ランデュスだけなのだから、どうこう言っても仕方がない事だとは思うがな」
「確かにそうですね。他の神様が居たら、もっと色々、違っていたかも知れないと。考えても仕方ないけれど、時々、思ってしまって」
 例えば、狼族にも当然、神様が昔は居たんだよな。クロイスもそう言っていたし。もっと神様が居たら、何かは変わっていたのだろうか。でも、実際に目の前に神様が居ると、それはそれで大変そうだけど。
「だが、結局はランデュス次第とも言えるな。筆頭魔剣士の意見は、確かに大事だが。基本的には神であるランデュスに逆らう物ではない。それに、戦争をけしかけたのは、ランデュスの考えだ。そういう意味では、
やはり今は予断を許さぬ状況と見るべきではないかな。その前にいくつか、小競り合いがあると俺は思っているが」
「小競り合い? どこの、ですか?」
「爬族だ。ゼオロ、お前も爬族が二つに割れているのは、知っているな」
「はい。戦争の事は、多少は学べましたから。爬族の中でも、竜族に味方をするかどうかで、割れているのですよね。それで、親竜派と、嫌竜派に分かれていると」
「ああ、そうだ。もしこれから、ランデュスが事を起こそうとするのなら、まず南は爬族のせいで不穏だろう。何かしらの手を打つのではないかな。それから、北の翼族。これも、そうだろう」
「翼族は、確かこの争いには中立で。けれど、質の良い鉱物を両方に流していたのでしたね」
「そうだな。だがその鉱物とやらも、流石にこれだけ長く戦争が続けば、枯渇もする。そうなると、ラヴーワも、ランデュスも、翼族の顔色を窺う必要は無くなる訳だ。次にこの二国が衝突する時、翼族も決して、
今までの様に他人事の顔はしていられないと思うぞ。北の翼族。南の爬族。いずれも、決断を迫られる時が来る。ランデュスだけではない。ラヴーワとて、後顧の憂いは断たねば、戦に集中できはしないのだからな。
まったく関係が無いのは、水族くらいの物だ。彼らは海で生きて、海で死ぬのが当たり前で。陸に上がるのは酔狂でしかないからな」
「翼族も、ですか……。そう考えると、どこも、気が抜けないんですね」
 或いは、ヒュリカがミサナトに留学生としてやってきたのも、それが関係しているのかも知れなかった。翼族の最大勢力であるヌバ族の、族長の息子。ヒュリカの身柄は、その点で考えれば翼族がラヴーワの
信頼を得るために差し出した人質となり得るのかも知れないし、差し出されたヒュリカはヒュリカで、ラヴーワの内情を大っぴらに見る事ができる、間諜の役割が果たせるのも確かだ。とうのヒュリカは、そんな事は少しも
考えてはいない様な素振りだったけれど。でも、その身元を引き受ける先が、スケアルガだというのが、今更ながら気にならない訳でもないな。裏で何かしらの取引があっても不自然じゃない。
「色々、お勉強になりました。プツェンさんに訊ねて、良かったと思います」
「そうか。それならば、俺も応えた甲斐があった」
 一呼吸。
「……けれど、プツェンさんは本当に物知りな方なんですね。何もかもを捨てて、旅をしていると、そう仰られましたけれど。とても、隠居をしている身とは思えない程、最近の事にもお詳しいのですね」
「俺が隠居してから、まだそれほどの時が経った訳ではないからな」
「それでも。竜神ランデュスの事といい、書物を漁ってもわからない事を教えて頂きました。きっと、直にランデュスに足を運ばなければ……竜神ランデュスと会わなければ、わからない様な事まで」
「何が言いたい」
「そんな事まで教えてくれる、竜族のお知り合いに恵まれた、爬族の方なのだと。そう、思いました。私は」
「そうか」
 プツェンが立ち止まっていたのは、僅かな間だった。再び、のしのしと足音が聞こえてくる。俺も、立ち止まってはいなかった。
「そういえば。私、爬族の事も知りたいです。確かランデュスの南の辺りに、居るのですよね?」
 話を、また続ける。
「そうだな」
「竜族に憧れている人が多い。私は、それくらいしか知らないのですが……何か、特徴ってありますか?」
「特徴か。竜族と比べると、血の色が違うな。というより、竜族が他とは違うのだが。竜族の地は、青色だ」
「青色……なんだか、不思議ですね」
「だが、竜族はそれが故に強いとも言われるな。その青い血には、ふんだんに魔力が含まれているというし。それが身体中を巡る事で、他種族とは、その強さにおいて一線を画すると言っても過言ではない」
「寿命も、長いのですよね。竜族は。もしかしたら、竜神ランデュスが居るから、血が青いのかも知れないですね」
「そういう説も、確かにあるな。確かめる術もないが。竜神が、居なくならない限りはな。……おっと、これでは竜族の話だな。爬族の話か。そうだな。先の通り、爬族の血は、赤い。強さも、竜族には及ばないな。それから、
穴蔵に住む者が多い」
「穴蔵ですか。丁度、今みたいですね。だからプツェンさんは、ここでゆっくりしていたんですね」
「これは爬族が、竜族にある程度従うために定住を避けているからだな。従うというより、ランデュスの国境に沿って、爬族が領土を広げている様な物だが。あと、爬族は薬学に優れている。魔法の腕はそれほどでもないが、
竜族に少しでも肩を並べられる様にと、薬の知識を求めたからだというな」
「薬学ですか」
 爬族のファンネスの事を、思い出す。確かにファンネスは薬師で、その腕と作り出す薬は、他国であるラヴーワにおいてもよく求められていた。結構、名のある蜥蜴なのかも知れない。
「爬族の族長様は、どの様な方なのでしょうか? それも、聞いてみたいです」
「族長か。爬族は、翼族の様に部族同士の上下関係が無いので、今はマルギニーという男が一人で爬族を纏め上げているな。とはいえ、それも戦の折に親竜派と嫌竜派に別れた事で、苦労していると聞くが」
「苦労人なんですね」
「マルギニー自体は大の親竜派だからな。でなければ、長く竜族に従おうとしていた爬族の長にはなれなかっただろうが。ただ、先も言った通り、ランデュスの都合で今後爬族は選択を迫られる可能性が高い。食わせ者と
評判のマルギニーも、どうなるか、見物だな」
「プツェンさんは、マルギニー様の事は、あまりお好きではないのですか?」
「いや、好きな方だ。主張は合わない事も多いがな。手練手管を用いたり、強かだったりと、信用できない部分も多いのだが、それでも出る時は自ら出てくる男だ。あれはあれで、爬族の族長にはふさわしい男だと思うな」
「そうなんですか。色んな族長様がいらっしゃるんですね。ガルマ様とも、また違う」
「狼族の、ガルマ・ギルスはどうだ。お前は、あった事があるか?」
「少しだけ。そうですね……まだ、私にはわかりません。ああ、でも。強かだっていうのは、私も思いますね。族長様は皆、あんな感じなのでしょうか?」
 むっつり助平親父だったよとは言えなくて、とりあえず濁す。強かだったのは、確か。
「まあ、それは否定できないな。一族を背負って立つとは、そういう事だろう」
 そう言われると、確かにそうかも知れない。そう考えると、あの嫌味な上にとりあえず俺を誘おうとするブラコンの親父にも、何かしら見るべきところがあるのは確かだろう。それに、銀狼の後継者についての見解は、納得
できる部分はあった。それを行使したが故に、近縁の者からは疎まれる事も甘んじて受け入れている。それでいて、いざ集めた候補者に関しては、かなり慎重な目で見ている事も、わかる。やっぱり、あれも食わせ者だな。
 それから後は、ぽつぽつと思いついた事を、プツェンに話しかける事が多かった。プツェンは曖昧な言葉は返さずに、常にはっきりと物を言う。非常に話しやすかった。
 やがて、少し開けた場所へ出る。そして、ずっと暗闇の中だったからこそ、よくわかる。遠くに見える、微かな明かり。
「外でしょうか」
「どうやら、その様だな。多少の壁なら、この際俺が壊せるし。出口ではなかったら、あそこを出口にしようか」
 出口に向かってるんじゃなかったんですか。いや、確かに出口に向かっているけれど。
「すまないな。話すのが、楽しくてな。つい長話をしてしまった。まあ、安心しろ。出口は作れるのだから」
 出口は作る物だった。
「ゼオロ。悪いが、先に行ってくれるか。爬族は穴蔵を好むが、そのせいで激しい光の変化には、弱くてな」
「……わかりました。様子を、見てみますね」
 プツェンをその場に残して、俺は後ろ髪を引かれる思いで、先へと向かう。角を曲がると、そこにはもう、ぽっかりと穴が空いていて。落ちる前に散々見ていた草と、その向こうにある空が見えていた。
「プツェンさん。外ですよ」
「そうか」
 外へと出る。確かに、プツェンの言った通り。散々暗闇の中を歩いていたから、外の光はとても眩しい物に感じられた。目を閉じて、閉じても飛び込んでくる光にまずは慣れてから、少しずつ、瞼を開いてゆく。
「ゼオロ様!」
 声が聞こえた。随分久しぶりに感じる、ハゼンの声。眩しさを堪えてそちらを見れば、髪を振り乱したハゼンが息を切らせて、俺の下へと走り寄ってくるところだった。長い髪が靡いているせいで、一瞬誰かと思って
しまう。そういえば俺から頼んで解かせたのだった。縛っている方を散々見慣れていたからな。
「ハゼン」
 俺の前に来ると、ハゼンは膝を付き、俺の身体を確かめる様に触れてくる。
「ご無事で何よりです。お怪我は、ありませんか」
「大丈夫だよ。どこも痛くはない」
「ああ、よかった。本当に。それにしても、お一人で外まで出られるとは、流石でございます。これでは私の立つ瀬がありませんね」
「一人じゃなかったよ。一緒に、中を歩いてきた人が居る」
「え?」
 俺が第三者の存在を仄めかして、ハゼンが慌てて俺の後ろを見ようとした時。強い風が吹いた。この丘に来て感じていた風よりも、更に、ずっと強い。俺の後ろから吹き荒れる風。思わずハゼンは俺を庇う様に抱き
締めて、位置を入れ替わる。俺は、されるがままだった。一陣の風が、俺とハゼンを襲って、やがては去ってゆく。次に、視界が暗くなった。大きな影が。俺達を刹那、陽の光から遠ざける。
 翼が空を掻く音が聞こえた。ハゼンが息を呑んで、それを見上げている。俺も、今更の様に空を。その頃にはもう、影は俺達の上から移動していて。大きな翼だけが、ただ目に入った。
 赤い翼。赤い鱗。赤い姿。赤い、竜だった。
「馬鹿な。あれは、もしや。ガーデル……?」
「違うよ。プツェンさんだよ」
「同じ事ではありませんか」
「そうだね。あれは、ガーデル・プツェンだった」
 空を飛んだ竜族は、俺に何かを言う事もなく。ただそのまま、空の彼方へと姿を消した。

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