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16.銀に届くまで

 

「貰われっ子だって言われる事が、嫌だったんじゃない」
「銀色なのが、嫌だったんじゃない」
「皆と違う色なのが、僕は嫌だった」

 跳ね上げた顔と同時に、涙が宙を舞っていた。俺は、はっきりと陽の下に晒された銀狼の少年の顔を、それからその銀を。じっと見つめる。見た感じ、俺よりもやっぱり若くて。十歳を少し過ぎたくらいだろうか。こんなに
小さくても、連れてこられたりするんだなと思ったけれど。そういう意味では、俺もまだまだ若いのだった。ヒュリカと大体同じぐらいだし。実際の年齢がどうなのかはわからないけれど、少なくとも俺の外見は、成人済みの
中身とは似ても似つかぬ程に若いのは事実だった。
 そして、そんな俺よりも更に若いその少年。その銀色は確かに綺麗だったけれど、俺やガルマ程ではないかなという印象を受ける。こういうと自画自賛みたいで、あれなんだけど。ガルマ自身が俺の銀には太鼓判を
押してくれたので、大丈夫だとは思う。別に被毛の良さだけで優劣が決まる訳ではないし。このガルマの館に招かれるためには、それなり以上の銀の被毛を要求されるのは確かだけど。しかし呼ばれた後は、まったく
別の事を要求される訳で。冷静に考えると俺はその部分がとても不利だなと思う。何もできない。何も知らない。その上片腕動かないであっては。
「誰か居るの?」
 俺が悶々と自分の考えに耽っていると、澄んだ声が聞こえる。少しだけ、泣き声交じりで。でも今は、恥ずかしそうに自分の涙を払っていて。それを見てから、俺は慌てて身を伏せて自分の正体が知られる危険を
回避する。今更になって、ハゼンの言葉を思い出したのだった。ガルマに発した暴言の事で、他の銀狼には避けられるかも知れないと。目の前の如何にも気が弱そうで、か弱そうな少年の銀狼は、まさにそうだろう。俺に
とってのハゼンの様に、従者から、あの銀狼はやばいから近づくな、くらいの事は言われていてもまったく不思議じゃない。
「ええ、ええと……申し訳ございません。私は、隣の者でございまして。泣き声が聞こえましたので、つい声を掛けてしまいました。申し訳ございません」
 とりあえず俺は自分が見えない位置をよくよく注意しながら維持して、声を出す。
「君は誰?」
「私は、そのう。ここの使用人でございまして。申し訳ございません。銀狼の方に、軽々しく口を利いてしまう等と。すぐに、ここから立ち去りますので」
「……待って」
 植物の隙間から、自分の銀が見えない様にどうにか四苦八苦しながらその場を離れようとすると、呼び止められる。俺はぴたりと身体を止めた。
「何か、御用でしょうか? それでしたら、そちら側の使用人にお声を掛けていただければ」
「ううん、そうじゃないの。ただ。話がしたくて」
「それでしたら、あなた様の従者に話された方が、よろしいのでは」
「そうなんだけど……。話しづらくて」
「私ならば、よろしいのでございますか?」
「……あの、泣いているところを、見られちゃったから。他の人には見られたくなかったけれど。でも、君には、もう泣いてるの知られてしまったし」
「そういう事でしたか。それでしたら……私でよろしければ。しかし、この様に、顔も合わせる事も叶いません。それでも、よろしゅうございますか?」
「うん。いいよ。それに、顔も見えないって、なんだかドキドキするし」
 そう言われて、俺はその場に改めて腰を下ろす。顔を見せる必要が無いというのは、俺が銀狼である事が、ゼオロである事が知られないで済む。銀狼である、という事はもしかしたら知られても大丈夫かも知れない
けれど。それは相手が、こちら側にどの銀狼が入っているのかを知っているかによるので、やはり使用人で通す方が無難だろうか。
「そうでございますね。お顔も合わせず、なんて。なんだか、秘密基地の様でございますね」
「……うん。楽しそう、だよね」
「ええ、本当に」
 俺は必死に、ハゼンの言葉を。聞いている俺の方がたまに呆れるあの話し方を思い出して、その真似をする。多分こんな感じだったはず。
「ところで、どうしてその様な場所で、泣いておられたのでございますか?」
「えっと……」
 話をしたいという相手の言葉を考えながらも、俺は先制攻撃を繰り出す。というより、話がしたいからと言って、何か楽しい話をして、とか振られても応えられそうにない。ファウナックについて教えてと言われても、
俺の方が多分知らないって勢いだろう。銀狼として接すればそれはなんともない問題であったとしても、俺はたった今、自分を使用人だと言ってしまった。流石に、何も知りませんでは話にならないだろう。
 だったら、少年の気弱な部分を利用して、こちらから話せる話題に引きずり落とすしかなかった。
「お話しづらい事でしたら、話されずともよろしいのですが。けれど、泣いているあなた様が、とても私は心配でございまして。申し訳ございません。差し出がましい真似を」
「そんな事ないよ。ありがとう。その……聞いても、怒らないでくれる?」
「怒るだなんて、そんな」
 何を言おうとしているのかと、俺はちょっと興味をそそられる。ガルマの悪口だろうか。大歓迎だな。仲間が増えるよ。
「あの、僕……ギルス領の、隅の方から来たんだけど」
「それは。とても遠いところから、大変でございましたね」
 俺はもっと遠いけれど。でも、この歳でそれだけの移動となると、俺よりももっと大変だっただろうな。乗り物酔いは大丈夫だったのだろうか。
「……帰りたいの」
「左様でございますか」
「怒らないの?」
「え?」
 思わず俺は素でそう返してしまう。俺からしたら、とても当たり前で、別に不思議とは思えない内容だった。他人に聞かれたら怒られてしまうと悩む程の事でもない。そもそも俺の場合は、ガルマには後継者同士の
争いは辞退して帰りたいと言い、俺を連れてきた張本人であるハゼンにすら、やる気が無いと言われては呆れられている状態だし。こんな小さな子供が、泣きながら帰りたいと呟く程度で怒られるのだったら、俺は怒られる
どころの話じゃ済まないだろうな。
「あー……そうでございますねぇ。怒るというか、困る、という気はしますけれど。それも理由次第ではないでしょうか。どうして、お帰りになりたいのです?」
「お父さんと、お母さんに会いたい」
「それは、また……。その、ここへは、お一人で?」
「うん。僕は、銀狼だからって。ガルマ様が後継者を探しているって、お父さんたちに話してて」
 この子の家族には事実が知らされていたんだなと、ぼんやりとそれを聞いて考える。俺の場合、爬族のファンネスの店で働いていたのが、やっぱり中々事実を伝えられない原因だったみたいだ。
「僕のお父さんとお母さんはね、銀色じゃないの。でも、ギルスの血が流れてるって言ってて。それで、僕はこんな色なんだけど」
「おお。稀に現れるという、銀の持ち主なのでございますね。とはいえ、今集められた銀狼の方は大半がそれに当たるのでしょうが。確かに、少し拝見した限りでは、とてもお綺麗でございました」
「そうなのかな。僕は、こんな色。嫌だと思うんだけど」
 こんな色って。まあ、同意するけど。俺も面倒に巻き込まれてここまで来てしまった訳だし。
「どうして、そうお思いになるのでございますか?」
「だって。お父さんも、お母さんも、こんな色じゃないよ。それに、僕にはお兄ちゃんやお姉ちゃんが何人も居るけれど、やっぱり銀じゃない。僕だけ、こんな色で……だから、僕は貰われっ子なんだって。本当は、僕と同じ色を
した人がお父さんとお母さんだったけれど、僕が要らないから、うちにきたんだって。……よく、そう言われるの」
「それは、また……お可哀想に」
 幾分声の調子を下げて、俺はそれに聞き入る。同時に、同情が芽生える。そうだよな。銀狼が銀の被毛を持たない狼族と一緒になると、銀が薄まったり、銀ではなくなったりする以上、すっかり薄まった血が、時々は表に
出て、こんな風に子供の内の一人だけが綺麗な銀を持って生まれる事だって、無いとは言えない。事実、今植物の壁の向こうで泣いている少年は、そうみたいだし。
「でも、帰りたいって言ったら、皆、怒るよね……。ううん。きっと、がっかりするよね。銀狼なのにって。そんな事言われても、僕……たまたま、こんな色になっただけだもん」
「左様でございますねぇ……。ご両親共に、銀狼であったのならばともかく。ある日突然訪ねられて、来いと言われても。困ってしまいますよね」
 俺は俺で、少年の言葉に、そして自分の言葉に、自分を重ねる。あのままハゼンが来なければ、ミサナトで今も平和に暮らせていたのだろうか。いや、銀狼だから駄目だな。銀狼じゃなかったら。そう考えたら、
なんとなく胸がすっとする。そうだったら、ハゼンは俺の事なんか見向きもしなかっただろうし。俺は自分の秘密だけを硬く守って、ひっそりと生きるという選択肢を取る事も、できたのかも知れないな。せめて犬族だったら、
ハンスと同じだから、一緒に居てもおかしく見られたりもしなかったし。
「あ、あの。僕の言った事。誰かに言ったりしないでね?」
 言ってしまってから、ふと気づいたのか。声しか聞こえないのに、その声の持ち主が慌てた様子を見せているのが感じ取れる。俺はつい、笑ってしまった。
「大丈夫でございますよ。少なくとも、ガルマ様のお耳に入る様な事は致しませんから。私とて、そのお気持ちはよくわかります」
「そうなの?」
「ええ、私も。その……」
 困ったな。つい、はずみで口にしてしまった。
「家の事情で、働きに出ていまして。本当は、残してきた家族が心配なのですが。幸いこのガルマ様の館で、内郭にまで上がりましたので、お金の心配はないのですが、如何せん今度は帰れなくなってしまいまして」
「そっかぁ。今は僕達が居るから使用人の人は忙しいっていうし、大変だね。やっぱり、皆が大変なんだ……僕だけ弱音を吐いてちゃいけないのかな」
「そんな事はないと思いますが。あなた様は……まだまだお若いのですし。それに本来ならば、まだまだご両親に甘えていたい年頃でございましょう。それを、たったお一人でここまで連れてこられたとあっては。
寂しく思わぬ方が、どうかしているという物でございますよ」
「弱虫じゃ、ないのかな」
「いいえ、いいえ。この様な時に自分の家族の事を思わぬ方が、薄情という物でございますとも。ですから、どうかご安心なさいませ。……ええと、銀狼様」
 慰めながら、俺は誰からも見えていないのを良い事に、自嘲気味に笑う。家族の事を思わぬ方が、薄情。本当に、その通り。今の俺にぴったりな言葉だった。この世界に来て、この姿になって。家族の事なんて
ほとんど思い出す事はない。思い出すのは、自分を責める気持ちが極限まで高まった時だけで、父や母をただ胸の中から取り出して、今どうしているのだろうと案じたりとか、そういう事はまったくしようとはしない。自分で
振り返ると、本当に薄情だな俺。とはいえ、心配してももう文字通り済む世界が違うのだから、考えても仕方がないという事でもあるのだけど。今の俺は自分の事で精一杯どころか、自分の面倒すら満足に見ているとは
言えない状況だし。
「あの。銀狼って呼ぶの、止めてほしいな。僕、そう言われるの、好きじゃないから」
「これは、ご無礼を……。では、どの様にお呼びすればよろしいでしょうか」
「……クラン。僕は、クランって言うの。そう呼んで」
「畏まりました、クラン様」
「君は、なんていう名前なの?」
「それは……」
 ここで、また詰まる。どうしよう。正直に答える訳にはいかないし。
「申し訳ございません、クラン様。私は、しがない使用人に過ぎず。あなた様に、名を名乗る程の価値もありはしません」
「そんな事ないよ。僕と話している事、誰にも言わないから」
「……申し訳ございません」
「そう……じゃあ、いいや。僕は君の事を、君って、そう言うから」
「ありがとうございます」
 なんとかその場を切り抜けて、俺は安堵の息を。正直謝りながらこの場を去っても良かったけれど。ただ、そうするにはクランという名前の銀狼は、あんまりにも幼くて。なんだか、邪険にしづらかった。こんな子でも、
俺がゼオロだって知ったら、やっぱり避けられてしまうのかな。そう考えるとガルマに暴言を投げたのは、失敗だったかも知れない。ガルマからどう思われようが別にいいけれど、こういう所で問題が起こるとなると、
今後の俺のファウナックでの生活が危ぶまれる。長居もせずに帰りたいと思っているけれど、出られないなら出られないで、必要な知識は修めたいと思っている訳だし。
「どうにか、早く帰る方法ってないのかな」
 俺の考えを他所に、名を名乗らなかった事をもう忘れた様に、クランは話題を続ける。
「早く、ですか……そうなると、中々に難しいでしょうね。それこそガルマ様が、候補者の中から、次期族長を誰かにお決めになられない限りは。しかしどうやらそれも、すぐにお決めになるつもりは無い様でございますし。
族長を決めるという事は、とても大変な事でございますから、それは当たり前と言えば、当たり前なのですけれど」
「そうだよね、やっぱり……。僕には、族長なんてとても務まると思えないし。ガルマ様も僕の事なんて、さっさと候補者から外してくれれば良かったのに」
「ガルマ様とはもう、面会なされたのですか?」
「うん」
「ど、どの様な事をなされたのですか?」
 ふと気になって、俺はそれを訊いてみる。だって、こんな小さい子ももしかしたらガルマが手を出していないかと、物凄い心配になってしまった。手掴まれたら一発アウトだし、傍から見てもアウトだわそれは。これだから
権力者は。
「どの様な事をなされた……って?」
「あの、その。ええと……何か、お話をされたりするのでしょうか? 私は使用人でございますから。無論、その様な場に居合わせる訳にもゆかず。少し、興味がありまして」
「えっと……挨拶をして、僕の話を聞いてくれて……それくらいだったかなぁ? あ、撫でてくれたよ。ガルマ様。まだ小さいのに、ここまで来て偉いって」
「そ、そうでしたか。ガルマ様の事でございますから、とてもお優しい方でいらしたのでしょう?」
「うん。僕、ガルマ様は好きだな」
 事案発生、とまでは言い切れない感じだろうか。それから俺の時とは随分と扱いが違うと思うんだけど。なんなの。なんで俺だけいきなり手を掴まれて、やらせろとか迫られてたの。俺の方がよっぽど事案
じゃないか。俺だってまだまだ子供のはずなのに。あいつのストライクゾーンはどうなっているんだ。
 一人脳内でガルマの事を罵りながら、それでもクランが手を出されていない事に俺は安堵する。こんな子供に手を出すのは、流石に人としてちょっと、きつい。顔を見るのもきつい。俺はまだ、中身が子供じゃないから、
なんとなくわかるけれど。言いたい事は言ってしまったし。言いたい事を言う前に迫られたのはやっぱり問題だったと思うけれど。でもこの世界の警察かそれに当たる組織は、きっと仕事はしないだろう。権力者って怖い。
「ガルマ様は、僕の事とても心配してくれたんだよ」
 俺の事も心配してほしかったよ。
「だから、今すぐに帰るのは危険だろうって。ほとぼりが冷めるまでは、ここに居た方が良いって言ってくれて。僕も、それはそうだとは思うんだけど。でも、やっぱり帰りたいな……」
「え? ほとぼり?」
 突然に飛び出した、何かの話題の尻尾に、俺は思わず声を出してしまう。どうやらガルマとクランの間では成り立っている話題みたいだけど、断片的な言葉では、俺は理解できそうにない。
「何か、あったのでございますか?」
「え? 知らないの?」
「えっと、私はあんまり、外の事には疎くて」
「ああ、そっか。家に帰れないくらいなんだよね。それじゃ、知らなくても仕方ないのかな……あの、あのね」
 そこまで言うと、クランの声が更に小さくなる。俺も身体を少し寄せて、耳を傾けた。
「銀の被毛を持つ人がね、今……色んなところで、殺されてるんだって。そういう、事件があるんだって。だから、僕のお父さんとお母さんも、僕の安全を考えて、ガルマ様の所に行きなさいって」
「え? えぇ? 殺されて……銀狼の、方が、ですか?」
 なんだそれ。聞いてない。俺は一言も、そんな話を聞いていない。思わず俺は我を忘れて、身を乗り出して。見えもしないのに、茂みの奥に居るであろうクランの座る場所を見つめる。
「うん、そうなの。でも、この街の近くではそんな事はないからって。僕の家は、お金持ちでもないし、いざという時、僕の事を守れないだろうからって。だから本当は、僕、すぐには帰っちゃいけないんだけど」
「そんな。銀狼の方を、態々狙うなんて。一体どうして、その様な事に」
 呟きながら、しかし俺の注意は、何故俺にそれが知らされていないのかという事にばかり向いていた。ハゼン。
「何をされているのですか。ゼオロ様」
 俺が、心の中でその名前を呼んだのか、悪かったのだろうか。背を向けていたのも悪かったのだろうけれど。気づかぬ間に俺の後ろに立っていた相手の声が、聞こえた。それに、俺は全身を震わせる。
「あ、ハゼン……」
 振り返って見上げると、呆れた様な顔をしたハゼンがそこに居て。溜め息を一つ吐いていた。
「茂みに向かって何を独り言を仰っているのですか。それを見つけてしまった使用人が、慌てた様に知らせてきましたよ。暴言だけならまだしも、奇行にまで及ぶとは、などと。程々にしてください。ゼオロ様」
「ハゼン、静かに」
「……ゼオロ……様?」
 茂みの向こうの声が、明らかに変わる。ああ、やってしまった。次に聞こえたのは、立ち上がって、駆け去ってゆく足音だけ。クランは行ってしまった。
 俺はその足音が遠ざかるのを確認してから、仕方なく立ち上がって。いまだに俺の前に立ち竦んでいる赤狼を思い切り睨んでやる。そうすると、流石にハゼンも申し訳なさそうな顔をした。
「今のは……向こう側、でしたか」
「そうだよ。私の事が知られると困るから、隠していたのに」
「それは、至らない事を。申し訳ございません」
「……いいけどさ。ずっと騙したまま話すのは、限界があるし。相手にも悪いし。……それよりも、ハゼン。聞きたい事があるのだけど」
「なんなりと。しかし、このままここで立ち話というのはいけませんね。一度、中に入りましょう。意外と向こう側と近い事もありますからね。声が聞こえるのは、よろしくない」
 そう言われて、確かにそうだと頷く。内緒話をしていた事が向こう側に知られれば、クランが叱られてしまう。ハゼンに促されるまま俺は自室へと戻って。運ばれた蜂蜜入りの紅茶にすんすんと鼻を鳴らした。こういうの、
人間だった頃はまったく無縁だったので、ちょっと引っかかる。飲めない訳じゃないんだけど。かといって炭酸飲料を寄こせと言ってどうにかなるものではないし、舌や鼻が鋭敏になった今、ああいうのを口にしたら、多分
咽るどころの話じゃなくなるだろうな。
 紅茶を飲み終えた俺がベッドに座って話を聞こうとすると、ハゼンが割り込む様に先に座って、手招きをしてくる。仕方なく俺は、ハゼンが股を開いて座った所に遠慮がちに座る。そうするとハゼンは、俺の左腕を早速
手に取って、ゆっくりと揉みはじめる。
「話をするっていうのに。今する必要があるの」
「小まめにして差し上げる方が、よろしいかと思いましたので。あなた様も、それでお忘れになったり、余裕が無かったのだと言い訳する事ができないでしょう?」
「意外と根に持つね」
「ええ。赤狼は、残忍で、執念深いのですよ」
 仕方なく俺は揉ませるのに任せて、そのついでに腕を軽く動かそうと努力してみる。昨日の今日で、そんなに改善される訳はないけれど、揉まれるのは悪くはない。血行も良くなると思うし。動かさない、というより、
動かせないから余計に悪くなるんだよな。なんとなく、左腕が温まった様な気がする。そうしてハゼンが熱心に俺を助けてくれるのを見ていると、不意にクロイスの事を思い出した。左腕を動かす様に特訓するから、
手伝ってと言って、クロイスはそれを受けてくれたけれど。結局あの約束は、果たされないままだった。クロイスの事情があったのだから仕方ないけれど。
「隣の銀狼の人と、話してた」
 本題の前に、先に別の話題を俺は口にする。ハゼンは何も言わないけれど、俺が誰と話していたのかは気にしているだろうし。
「左様でございますか」
「クランって言ってた。ハゼンは、誰だかわかる?」
「クラン……ああ、それなら。クラントゥース・ティア様でございますね。恐らくは。私は名前しか、存じ上げませんが」
「長い名前だね」
「ええ。だから、愛称の方を名乗られたのでしょう」
「とても素直そうで。それに、私よりももっと若かったよ。あんなに小さい子も、ここには来るんだね」
「左様でございますねぇ」
「ギルスの血で言うと、遠縁みたいで。両親や兄弟は銀じゃないのに、自分だけが銀狼なんだって言ってた。そういう風に生まれてしまうのも、大変だね」
「ゼオロ様は、そうではないのですか? 今集められている銀狼の方は、そういう遠縁の方が中心ですが」
「私は、親の顔は知らないから」
 嘘は言ってない。この身体に親が居るとしても、俺は知らない。かといって、元の人間の両親が関係しているとは到底思えないし。
「そうだったのですか……。ずっと、苦労されてこられたのでございますね」
「そうでもないよ。ハゼンに会った時に働かせてもらっていた所も、とても親切にしてくれたし」
 それに、ずっとって言う程、この身体も長い付き合いじゃないし。二ヶ月ちょっとだし。生後二ヶ月。首もまだ完全にすわっていない勢いだな。
「幸い、身体を売る様な事もせずに済んだし」
「ゼオロ様」
「別に、いいじゃない。ガルマ様だって私に手を出してきたし。何度か、そういう事になりかけた時もあったんだから。物好きだなって思うけど」
「ご自分の魅力を、少しは理解された方がよろしいと思いますがね。その内、本当に誰も助けが来ずに、縛り上げられてしまう事があるやも知れませんよ」
 そう言われても。元の俺の感性からすると、俺の身体が魅力があるっていうのも、よくわからないし。顔、狼だし。身体は確かに綺麗かも知れないし、銀色も、最近は前よりも更に綺麗になってきた気もするけれど。欲情
するっていうと、なんか違う様な。どちらかと言うと、撫でてみたいとか、触ってみたいとか。動物に関する感想の比重が大きいな。
「けれど、ハゼン。今更なんだけどさ。そうやって遠縁の、その、言い方は悪いけれど。偶々銀狼として産まれた人が族長になったとして。その、ガルマ様の様に子供を求めたとしてもさ。その時に、都合良く銀狼が
産まれるとは、限らないんだよね?」
「左様でございますね……それが、一番の問題でしょうか。結局のところ、今回の事は問題の先送りでしかありません。かといって近縁の者とて、銀を薄めて、今回集められた銀狼と大きく違う訳では。いずれにせよ、
次の族長になった者は、銀狼の男児が産まれるまで何度でも銀狼の女を抱く事になるのかも知れませんね。それを繰り返して、本来の血筋に近づけようとするのかも知れません。いつか、真の銀に届くまで」
「銀に届くまで、か……。本当、種馬の様な扱いだね。大変そう」
「あなた様も、族長に選ばれれば、そうなる定めですよ」
「おお、嫌だ。より一層族長になりたくなくなったよ。族長になったら、お嫁さんも銀狼に限定されてしまうんじゃね」
「別に嫁は誰でもいいと思いますよ。それとは別に、銀狼の妾を複数人宛がわれるだけで」
「尚ごめんだね」
「あなた様の、この美しい被毛なら……もしかしたら、遠縁の者とは違い、銀狼のお子をすぐにでも望む事ができるやもしれませんが」
「ただ、綺麗なだけだよ。私はギルスの血に近い訳じゃないでしょ」
「さて、それはどうでしょうか。ガルマ様……は無いとして、グンサ様の隠し子の、更に子供。そういう線があるのではないかと、私は思っているのですが。多分、ガルマ様も」
「見た目がグンサ様に似た銀だからという理由で、そこまで行くのは、発想の飛躍が過ぎると思うけれどね。それに、買い被り過ぎだよ」
「それだけ、あなた様の銀が素晴らしいのでございますよ。ゼオロ様。あんなに小さい子、とクラントゥース様の事を仰ったのなら、クラントゥース様の被毛もご覧になったのでしょう?」
「うん。茂みに、少し隙間があってね。確かに、被毛はそうかも知れないね。被毛だけならね」
「また、その様な事を仰る。もっとご自分に、自信を持たれるべきですよ」
「左腕が動いていたら、まだ多少は前向きだったかも知れないね。生憎だけど、今の私はあの小さくて、か弱そうなクランと、それほどの差があるとは思えない」
「そうとも言えませんよ。その状態で、既に何人もの方を誑かしておられるのですから」
「褒めるのか、貶すのか、どっちかにしてほしいな」
「程々にしてほしいと、言っているのですよ。いつか本当に身を滅ぼしますよ、その様な振る舞い方では」
「肝に銘じておくよ。……ハゼン」
 腕を揉み終えた頃に、俺は堪えきれなくなって。声を掛けて振り返る。ハゼンは俺の腕に向けていた目を、すっと俺の目に。
「銀狼が、狙われているって。聞いたんだけど」
「ええ、そうですよ。ゼオロ様はご存知無かったのですか? これは、申し訳ございません。てっきり、とっくに知っている物とばかり」
「嘘つき」
「……どうして、そう思われるのですか」
 僅かにハゼンの目が、鋭くなる。俺は身を乗り出して間近に迫った。
「馬車の中で、私は後継者にはなりたくないし、帰りたいって言ったよね」
「そうでしたっけ」
「そうだよ。あの時も、ハゼンはこの事を言わなかった。私を帰らせないために、既に私が知っていたと思っていても、あの時点で言うべき事だよ。銀狼が狙われている。それも、殺されている、なんてね。
しかも、ファウナックの方ではそんな事はないんだって? だったら、尚更だよ。私を保護するとその口で言ったのだから、今まで居た場所が危険かも知れなくて、ファウナックが安全である事が主張できたのに、
何も言わないのは……おかしいよ、ハゼン」
「……確かに、そうでございますね。あなた様の仰る通りでございました。申し訳ございません。あなた様を、不安にさせたくなかったのです。それに、私は赤狼ですから。あなた様に身の危険が迫っていると告げて、
連れてゆくにせよ、それが私では……赤狼では。余計に怪しまれてしまうと。そう思ったのでございます。あなた様が赤狼の事をご存知無い事は、本当に知らず。途中の宿で、ようやく知る事となった訳ですし」
「確かに、そうだったね」
「あなた様が、まさかまったく、私を……赤狼を恐れてはいない事を、知っていたら。きっと申し上げていたと思います。これで、よろしいでしょうか」
「……うん。わかったよ。それじゃあ、その銀狼が狙われている事件について、知っている事を教えてくれる?」
「あまり、聞いて気分の良い物ではないと思うのですが……。それに、私もそこまでの事を知っている訳ではありませんよ」
「ガルマ様に仕えているのに?」
「それは、私が赤狼でございますから。赤狼の扱われ方はご存知の通り。その上で、銀狼が狙われるとあっては。それも、ギルス領の中でも起こっている事であるのならば。赤狼が疑われるのは、当然の事。私には、
市井の人が知っている以上の情報は、伝えられておりません」
「そう。でも、それでもいい。教えて。他の人に訊く訳にはいかないから」
 訊くとしたら、ガルマだろうか。しかしガルマとそういう話題を交わせる程、親しくなったという気はしない。確かに俺の事をある程度は認めてくれているだろうけれど。かと思いきや、俺の評判を落としにかかってきたりと、
正直信用できない部分も多い。それだけ強かな男なんだろうけれど。
「被害に遭っているのは、やはり銀狼に限られている様でございます」
「それはギルス領の中でのみ?」
「ギルス領の外でも、多少は」
「多発している場所は? 同時期に、別々の場所で発生したりは?」
「ございません。万遍なく、と言ったところでしょうか。時期は……さて、そこまでは。ただ、それなりに前から、起こっているみたいでございますね」
「ファウナックでは、起こっていないんだよね」
「ええ。まあ、ここは何よりも銀狼が神聖視される地でございますからね」
「被害に遭った銀狼って、被毛の色はどうなの? 後継者候補になれる様な銀狼だったの?」
「まちまちだったそうでございますよ。多少くすんだ色合いの者も、居たそうですから」
「ふうん……。これだけだと、よくわからないな。ファウナックで起こっていたら、調べにでも行ったのに」
「危険な事に首を突っ込むのは、申し訳ございませんが、ご遠慮願います。ただでさえ、狙われるのならばあなた様だと言いたい程だというのに」
「確かに、そうだね。ガルマ様に認められる程の銀を持っているのに、なんの取柄も無くて。しかも片腕が動かない。恰好の的だな、今の私は」
 俺の腕が引かれて、特に抵抗もできずに倒れ込むと、ハゼンの腕の中へと俺が収まる。そのまま背中を何度か撫でられた。なんとなくそれが、昨日までとは少し違う様に感じて。俺は顔を上げて、そうすると
ハゼンの顎の辺りに、俺の鼻先がぶつかって。微妙に表情が窺い辛い。あとくしゃみが出そう。
「どうしたの、ハゼン」
「心配しているのでございますよ。あなた様の事を。ここにきて、まだ数日だというのに、ガルマ様に喧嘩は売るわ、そのせいで銀狼の方々には避けられているわで……。もっと、ご自分を大切になさってください。今日だって、
お隣の銀狼がクラントゥース様だから良かった物の。あなた様を傷つける様な銀狼の方であったらと思うだけで、寿命が縮まる思いです」
「大袈裟だね。ほんの少し、話をしただけじゃない。私はそんな事で傷ついてしまう様に見えるの」
「そんな事を仰るのなら、私の目の前で、泣き崩れたりする姿を見せるべきではありませんでした。お強くて、しかし脆い。だからこそ、心配されてしまうのですよ、ゼオロ様」
「そう言われると、そうなのかな」
 強いのかどうかは置いておいて、脆いのは事実だった。割と生意気な口を利いてしまう癖に、何かあるとすぐに泣いてしまう。駄々っ子だな、本当に。
 ハゼンに心配を掛けるのは、程々にしようと思う。とはいえ、既に充分過ぎるくらいに、心配を掛けてしまったと思うけれど。

 ファウナックに来てからの日々の流れは、早かった。既に、十日過ぎただろうか。その間俺は、ただ自室でだらだらと過ごす事が多かった。
「長旅でお疲れでございますし、腕の事もあります。後継者候補として振る舞う事がお嫌ならば、今は静養なされるべきでございますよ」
 と、ハゼンは言って。俺に睨みを利かせる日々が続いていた。というよりも、俺がどこかに行って、心配事を増やしてくれるなと言いたかったのだろうな、多分。仕方ないので俺は図書室と自室を往復して、今まで
満たせなかった知識欲を、この世界の知識を得る事で存分に満たしていた。ミサナトに居た頃にもやるべきだっただろうと思ったけれど、早々に大怪我を負って、あとは治療に専念している間にハゼンが来てしまったの
だから、仕方がなかったという事にしておく。書物を開く度に、自分の知識が増えてゆくのは、面白い。とはいえ本だけではどうしても知識は偏ってしまうから、その度にハゼンとたわい無い会話をして。今日はこんな事を
学んだと口にしては、ハゼンから実際のところはどうなのかとか、今はそういう風にはあまり言われていないだとか。知識の骨組みに、実際的な肉付けをしてもらう事が多い。ただ、ハゼンはハゼンで、世情にそれほど
聡いという訳ではなかった。何せ、赤狼であるという事で、どうしても目立ってしまい、入れない場所などはあるのだという。それに、銀狼を探していた頃とは違って、今のハゼンは俺の面倒を見るためにこのガルマの館に
一緒に住んでいる身だ。外の情報を得る事も、少しやり辛いらしい。勿論、必要な情報はきちんと上げられてくるそうだけど、それも外郭で取捨選択をした後であるというから、実情、という部分になると中々把握できて
いない部分もあるんだとか。
「もう少ししたら、外にも出てみようか。別に、外出は禁じられている訳ではないのだし」
「左様でございますね。ずっと本を読んで、眠ってでは。息も詰まってしまうでしょう。そのぐらいの息抜きは、私も反対しませんよ」
「いや、別に。息が詰まる事はないんだけど」
 起きて、寝て。本を読んで。ハゼンと話をして、リハビリをして。そうしているだけで食事は滞りなく、三食運ばれてくるし、おやつも出るし。飲み物も種類は多くないけれど、頼めるし。はっきり言って、この生活を退屈と
切り捨ててしまえるのは、普段からこういう生活に慣れ親しんでいて、その上で外に対する好奇心が人一倍強い人だけではないかと思う。俺にとっては至高の引き篭もりライフはここに存在していたのかと、思わず
長旅での疲れを労わるためにと理由をつけて、とりあえず数年くらいは満喫してしまいたくなる程だ。だって、後継者候補として呼ばれたのに、その候補としての何かを課される事もなく、のんべんだらりと生活を送らせて
もらえるとは正直思っていなかった。一人立ちをするためにあれこれするはずだったのに、何をしているんだと冷静になると自分を責めてしまうくらいに。しかし俺がここに来たのは、ガルマに怪しまれて自分の正体を
知られぬ様にするためと、あわよくば狼族の、ガルマの後ろ盾を得るためでもあるんだよな。それはそれで、一人立ちとは言えないのかも知れない。とはいえ、自分一人の腕でどうにかできる問題の範疇を既に超えているの
だから、そこは仕方がないと思ってほしいところだけど。もしこんな身の上でも、一人の力でどうにかしようというのなら、それこそ魔道士にでもならないと駄目なのだろうな。魔法使いにすら、なれない訳だけど。
 そして、後ろ盾を得るためにガルマの下へと顔を見せに行ったのに、まさかの暴言ぶちかましである。本来の目的の達成は一体どこへ行ってしまったのか。不可抗力も多分にあったとはいえ、結局今の俺は、こうなっては
仕方がないのだからと、残りの目的である、怪しまれない、この世界の知識を深める、の二点を重点的に攻める選択を取っていた。決して、食っちゃ寝が魅力的だからとか、最近食っちゃ寝も板に付いてきて、食事が用意
されてもただ頷いて平然と口にしている様になってしまったとか、そんな事はない。ないはず。とはいえ、流石にこの状態で豚みたいになってしまっては、ハゼンからも呆れられてしまうから、量は少な目にしてある
けれど。運動だって碌々していないのだし。食事って、少なくても済むんだなと、自分の今食べている量と人間だった頃を振り返って、よく思う。外で大量に発生するストレスをどうにかするために暴食に走っていた
あの頃とは、何もかも違う。少なくとも、ストレスが積み重なってどうかしてしまいそうな感じとは、無縁だ。一歩間違えれば破滅しかねないとはいえ。
「そういえば、ゼオロ様。明日の夜会でゼオロ様がお召しになる服が、届きましたよ。一度、着てみましょうか。何か不備があっては困りますから」
 読み終えた本の感想を言っていると、にこやかに微笑んだハゼンが、用意していた服を持ってくる。俺はそれを心底嫌そうな顔をしていて見つめていたんだろうな。振り返って俺を見たハゼンが、とてもとても困った
顔をしているのが、よくわかる。
「夜会って。確か、ガルマ様が出てきて、他の銀狼の方も揃うっていう、あれ?」
「ええ。つい先日、候補者が充分に集まり、またこれ以上はそれらしい被毛の銀狼も望めないという判断が改めて下されまして。ガルマ様は、揃った銀狼の中から次の族長をお決めになられるご意向です。そして、これまでは
顔を合わせる事を禁止されていた銀狼の方々でしたが、この館に招かれた全ての銀狼の方とガルマ様の面会もお済みになったという事で、これを機に顔合わせをと」
「これ以上、候補者は増えないんだ。抜けがないと良いけどね」
「そこは、余程の事がない限り大丈夫だとは思いますよ。皮肉な事ですが、銀狼の方が襲われるという事件の影響で、各地では銀の優れた銀狼を守ろうという動きがありましたし、私の様にそれを迎える者も、探すのは
楽でしたからね。その上で、お誘いしても断られにくい状況に持っていく事もできましたし」
「まあ、そのまま残っていたら殺されるかも知れない様な状況なんだから、族長になれなくてもここに来るか。確かに、保護の目的もあった訳だ。クランもそんな感じだったし。それにしても、あれだけ顔を合わせない様にと
していたのに、今度はこの館の中ではっきり顔合わせをさせてしまうんだね」
「面会が終えるまでで良かった事でございますからね。でしたら、一度集めて、知り合わせた方がよろしいだろうと」
「ああ。そうだね。どうせ水面下ではやり取りをしている銀狼も居るだろうし。だったら全員一度集めて睨んでおいた方が、いいのかも知れないね。蚊帳の外になっている銀狼の方には、良い機会なのは違いないし」
「また、あなた様はその様な事を」
 困った顔が、更に困った顔になって。ハゼンが呆れた様に俺を見つめている。俺はそれを、笑って迎えた。
「最低で一人、最大で二人。銀狼同士の部屋が隣り合っていて、しかも庭の区切りは植物だからね。声も充分に届くし、穴も開けられる。何も起こらないと思う方が、どうかしているんじゃないの?」
「はぁ。本当に、見た目通りの方ではありませんね。あなた様は」
「私に、見た目通りにしてほしいの、ハゼン。遠い所から連れられてきた私が、怯えて。赤狼であるハゼンとは、目も合わせないし、口も利かないで。そうしたら満足?」
「これですからね、あなた様は……。本当に、夜会では大人しくして頂きたい物です。これ以上問題を起こすのなら、外出許可も取ってあげませんよ」
 すっかり呆れ果てたハゼンに、俺は笑いかけて、夜会の服を着せてくれる様に頼む。それほど目立ちはしない、白い絹の服。絹自体はかなり上等な物の様だけど。初めてガルマに会いに行く時に着させられた物も
そうだったけれど、余計な事はするなという警告が籠っているかの様な服だった。何かを隠す様なポケットも付いてはいないし。まあ、いくら族長候補の銀狼が集まるとはいえ、ガルマが来るというのなら、主役は
ガルマだ。変に目立つ様な服は、どの道着てはいけないのだろうな。
 鏡の前で、俺は自分の様子を手早く確認する。特に、言うところはない。痩せた銀狼が俺をじっと見つめている。俺なんですけど。鏡の前でこの突っ込みを入れたくなる衝動に駆られるのは、いまだに慣れない。
 被毛程には輝いていない銀の瞳が、じっと俺を。次には、俺の後ろでじっとしていたハゼンを見る。振り返ると、ハゼンは満足げに頷いていた。俺はそんな赤狼の様子を、ちょっと見つめる。こうしてみると、ハゼンも
やっぱり、整った容姿をしているなと実感する。というより、俺よりしっかりしている。赤狼でさえなかったら、こんな所で、俺なんかに構っていないで。もっと自由に、好きに生きられただろうのにな。なんだか、勿体ない。
「尻尾の穴はどうしましょうか。出さなくてもいいと言われておりましたが」
「開ける。押さえつけられてると嫌だし」
「では、少し失礼しますね」
 ハゼンは俺をまっすぐに立たせてから、俺の腰に手を当てて、それから尻尾の付け根を何度も探って。丁度良い場所を摘まんでから、そこにほんの僅かな印を付けた。
「では、これを再度出しておきますので。遅くとも、明日の夕方には届きます」
「頼んだよ、ハゼン」
「……ゼオロ様。その腕輪は、付けていかれるのですか?」
 ハゼンが、俺の腕に付いている腕輪に目を留める。クロイスからの贈り物。ガルマと会う際は流石に外したし、それからも付けるか悩んだけれど、今は付けていた。思い出さなくなるのが怖くて。だったら、身に付けておこうと。
「駄目?」
「少々、その……あなた様には。もっと良い品なら、いくらでもご用意できますが」
「これがいいの」
「失礼ながら、それはあなた様の荷物に入っているコートと、同じ方からの贈り物でございましょうか」
「言ったつもりはないけれど、目敏いね。でもこの腕輪は、私が自分で買った物かも知れないじゃない」
「あのコートも、今のあなた様には大きすぎる物でございますから。それから、あなた様がそういう物を態々買う様な性格ではない事は、もう充分にわかっていますよ」
 バレバレかよ。まあ、確かに。ファンネスの店で働いてお金も貰ったのに、いつまでもこのお金は貰える訳ではないのだからと、自分の物を何一つ買わなかったのは俺なんだけど。
「駄目だって言うなら、いいよ。外すから」
 左腕に付けていた腕輪を外して、棚の引き出しにしまう。外すのは明日でも構わないけれど、まあ慌てて外してどこかへやってしまった、なんて事になると困る。なまじ、部屋が広いし。見ないで放り投げたら見つけるのに
少し時間が掛かりそうだ。
「その様に大切な物なのでございますか。必要であれば、私がもっと良い物を見繕う事もできますが」
「要らない。それから、勝手に捨てないでね。コートもそうだけど。友達から貰った、宝物なの」
「畏まりました。では、私は服を出してきますので」
 部屋からハゼンが出ていって、一人きりになった隙に、俺はまた鏡に自分を映して自分を観察する。
「やっぱり、前と違う気がするな」
 鏡をまともに見たのは、ミサナトに来てすぐ。あの時一度切りだったけれど。今とあの時では、やっぱり受ける印象が違う。なんというか。銀が、前より綺麗になっているというか。美味しい物を食べて、念入りに身体を
洗って、嫌々ながらもオイルを塗ってもらって、健康的な生活を送って、精神的にも落ち着いたからだろうか。それとも俺の身体に、特殊な変化が。いや、誰がどう考えても、前者の至れり尽くせりの方が原因だな。ミサナトに
居た頃からも良い暮らし振りだったと思うけれど、ここにきてそれが更に加速している訳で。この世界に来てすぐに見た姿と何もかも変わってしまっても、不思議じゃないだろう。あと、睡眠時間も全然違うし。何かしらの用事が
無い限りは、たっぷりと寝かせてくれる。綺麗な銀を維持するのも大事な事なのだと言い張ったハゼンは、その辺りは特に甘い。睡眠不足と戦っていたあの時代がなんだか懐かしい。
「銀狼、か」
 呟いてみる。やっぱり、実感が湧かない。皆が俺を、そう言って褒めてくれるけれど。単なる生まれの問題でしかないのにな。生まれですらない気がするが、俺の場合。
 もっと、普通の身体になっていたら良かったのかな。自分の身体を、ぎゅっと抱きしめてみる。若いというより幼くて、華奢で、銀色で。やっぱり、自分の身体じゃないみたい。俺は俺の秘密を守るために、知られてしまっても
なんとかできる様にするために生きようとしていたはずなのに。今は、この新しい身体のせいで引き起こされる問題を往なすので、精一杯だった。この先、どうなるのだろうかと、不安にもなる。結局、後ろ盾は得られそうに
ないし。
 もっと、普通の。犬族とか。獅族とか。その辺りになっていたら。もっと違う様に、歩いていられただろうか。そうなったら、クロイスは、俺の事を気にかけてくれていたのかな。どうなんだろう。たらればを語っても、
仕方ないけれど。でも、できるのならば。この銀狼の身体は、今からでもお断りしたいという気がしてしまう。見た目は良いみたいだけど。後継者候補としてこんな所まで連れられてしまう時点で、ちょっと。
「ただいま戻りました」
 鏡をじっと見つめていた俺の下に、ハゼンが戻ってくる。俺は何も言わずに、体勢もそのままで、鏡を眺めたまま。足音が、近づいてきて。鏡の中で不安気に目を伏せている俺の後ろに、大きな身体の赤狼がやってくる。
「どうか、されましたか。寒いのですか」
「……ううん。なんでもないよ。鏡の中の自分に、見惚れちゃったのかな」
 冗談めかした俺の言葉は、ハゼンにはまったく通じなかったのか、振り返って見上げた顔は、無表情に俺を見下ろしていた。

 次の日の夜。俺はどうせならとさっさと会場に行こうとするのをハゼンに止められて、ぎりぎりの時間まで待ってから行くべきだと言われて、大人しく部屋で待っていた。
「待ってるの面倒なんだけど」
 緊張に弱い俺は、緊張しながら待つくらいなら、さっさと飛び込んでしまいたいタイプで。そんな俺をハゼンはさっきから窘めてくれる。
「いけませんよ、ゼオロ様。こういうのは、格が大事なのでございますから。ゼオロ様は既に、集められた銀狼の中であってさえ、燦然と輝いておられるのでございます。こういう場では、格が低い者から先に到着し、
そして少しずつ格の高い者が。最後にガルマ様がお見えになられるのですから」
「ガルマ様はともかく、別に今揃っている銀狼に優劣なんてないでしょ。寧ろ何もしていない私が、というよりガルマ様に失礼な事をした私が、格が高いなんて言われても」
「その様な事は、関係ありませんよ」
 にこりと微笑むハゼンに、なんだか俺は少し呆れて首を傾げてしまう。というより、ハゼンにとってもやらかしたと思っているであろう、俺のあの暴言が、何故か今はマイナスになっていないらしい。どういう受け止め方を
ハゼンがしているのか、本当にわからない。待つ必要はある様で、仕方なく俺は自室から出て、ハゼンの部屋で椅子に座って待っていた。
「……そういえばハゼン。あの、ガルマ様の使いだって証明に使った物、持ってる?」
「ええ、まだ持っていますが。それが、どうかしましたか?」
「もう一度、見せてほしいのだけど。その。本であれについても少し触れられていて。また見たいなって」
「どうぞ」
 いつも持ち歩いているのか、ハゼンは懐からあのエンブレムを取り出す。適当な理由をでっち上げてそれを受け取った俺は、掌にあるエンブレムをじっと見つめる。出てこい。と思ったけれど、何も起きない。竜族のツガに
掛けられた、あの魔法。すっかり存在を忘れていたけれど、まだ使えないかと思って、以前にきちんと効果が出たエンブレムで試してみたくてハゼンにお願いしてみたというのに。やっぱり、魔法を掛けてくれたツガから
大きく離れすぎると、もう使えなくなってしまう様だった。それか、時間が流れて魔法自体が切れてしまったのか。いずれにせよ、中々便利だったあの魔法とは、いつの間にかさよならをしていたみたい。
「ありがとう、ハゼン」
「いえ。……さて、ではそろそろ参りましょうか。もう半数以上の銀狼の方が、お揃いのはず。ガルマ様も出番をお待ちのはずです」
 先導されて、俺は部屋から、廊下へと。銀狼が映える様にと薄暗くされた廊下を歩く。図書室との往復以外では通らないから、見知らぬ場所へ移ると、もうハゼンを頼りにするしかない。
「ハゼンは私と同じ様にここに入ったのに、道に詳しいんだね」
「何も知らぬままでは、ゼオロ様にご迷惑をお掛けしてしまいますからね。とはいえ私も、この内郭の全てを把握している訳ではありませんよ。何かしらの儀で使われるであろう区画などは、到底足を踏み入れる事を
許されませんからね。ゼオロ様ならば、いつか赴かれる時もありましょう」
「それが、私が族長となる日ではない事を願うばかりだよ」
 正面とは反対側の方へと向かうと、次第にざわざわとした喧騒が俺の耳に届いてくる。重厚な両開きの扉の前で、見慣れた兵士姿の狼族が立っていた。
「族長候補者の一人、ゼオロ様をお連れしました」
 先に立っていたハゼンが告げると、恭しく兵が一礼して扉が開かれる。光が、俺の目に射し込んできた。思わず目を細くしていると、ハゼンが俺を促した。ここからは俺が先だと。頷いて中に入ると、同時に喧騒が止む。光に
慣れてきた俺の目に映ったのは、既にほとんど揃っていた銀狼達の姿で、それが一斉に俺を見つめていた。思わず、たじろぎたくなる。
「ゼオロ様」
 小声で、背後に居たハゼンが声を掛けてくれなかったら、そのまま帰っていたかも知れない。その声で俺は平常心をどうにか取り戻して、涼しい顔でその会場に混ざる。
「……銀狼ばかりだね」
「今回は内々の宴でございますからね。ここに招かれる形で居るのは、銀狼と、その従者。それから使用人の中でも位の高い者達がいくらかだけでございますよ。次期族長を探しているのは、まだ公にはされておりません
からね。これだけ銀の多い会場は、とても珍しい物です。良い眺めでございますね」
 俺への直接的な視線が大分薄れて、喧騒が戻ってきた頃に、俺は背後に居るハゼンに話しかける。ここに居るのは、後継者候補の銀狼と、その従者ばかりだ。従者は常に一歩引いた位置で主を見守っており、
目立たない。それと比べて、俺と、それから俺の従者であるハゼンの目立つ事。ただでさえ俺が目立つのに、ハゼンはハゼンで、赤狼だ。他の銀狼の従者である狼族の、くすんだ灰や茶の被毛が多い奴らと比べても、
如何にハゼンが目立つのかが、よくわかってしまう。
 銀狼の方はといえば、これは俺よりも少し歳を取った、青年と呼ぶにふさわしい年齢の銀狼が多かった。一応上は、ハゼンと同じくらいの、三十を過ぎたくらいの感じの人も居るみたいだけど。犬、ではなくて、狼顔から
年齢を推測するスキルを俺はまだ完璧に身に着けてはいないので、はっきりとした年齢はわからない。
 そんな銀狼の群れの中に、一人。小さい子の中に、俺の目についた銀狼の少年が居た。俺の隣の部屋に入っている、クランだった。
「ほら、ハゼン。あれがクランだよ」
「ええと……すみません、どの銀狼様でございますか」
「あの隅の、捨てられた仔犬みたいなの」
「ああ、あの方でございますね」
 割と酷い特徴の上げ方をしたけれど、それにはハゼンも同意らしい。実際、銀狼の群れに混ざってはいるけれど、隅の方で。誰とも話す事なく俯いているのがクランだった。尻尾も耳も下げたままで、とてつもなく
この夜会を満喫していないのが伝わってくる。まだ子供だし、そもそも他の銀狼とは違って、自分が銀狼である事を嫌に思っているのだから、話しづらいのかも知れないな。そんな事を考えていると、クランが顔を上げて、
俺の事を。お互いに視線が絡み合って、俺がにこりと笑いかけると、クランは顔を伏せて、人込みの中へと行ってしまった。逃げられた。
「私、そんなに顔怖いのかな」
「まあ、恐ろしい方であるというのは、否定しませんがね」
 さり気無く追い打ちを掛けてきたハゼンに、俺はごく自然な動作で片足を上げて、ハゼンの足を踏もうとすると、これも余裕のある動作で避けられる。
「遠慮しなくていいんだよ、ハゼン。どうも私は、目立ってしまうみたいだし。私の代わりに目立って、しばらく注意を引き付けてくれると、ありがたいのだけど」
「その様な大役、私にはとても、とても」
 追撃もかわされて、仕方なく俺は手近にある料理を口に運ぶ。
「ゼオロ様。あまり、口に運ばれません様に。がっついていると思われてもなりません」
「わかってるけど、でも、このくらいしかやる事ないんだもの。誰も私に近づいて来ないし」
「だから、それだけの事をしてしまったのですよとご忠告申し上げましたのに」
「言い触らした奴が悪いよ、言い触らした奴が」
 これでは本当に、ただ出てきて、料理やお菓子を摘まんでいるだけだった。仕方ないからお菓子を引っ手繰って、従者故に食事を取るつもりはないと気取っているハゼンの口にジャンプしながら突っ込む。ハゼンは
戸惑う様子は見せたけれど、俺がそうする事はある程度予想していたのか、仕方なくと口にしていた。続けてやろうとしたら程良い距離を取られたけれど。こいつ手強い。格闘術は間合いが命。なるほど納得した。
「ガルマ・ギルス様の御成りでございます」
 俺とハゼンが熾烈な戦いを繰り広げていると、そう声が掛けられて。その場に居た人達が一斉に入口の扉へと向き直る。俺は無視していたけれど。慌てたハゼンが俺を捕まえて、そのままその場でターンさせられる。
 扉が勿体ぶって開けられて、そこから長身の、銀狼の大男が現れる。服は、いつか見た時と、そこまで変わった様子は見られない。ただ上半身の露出は流石に避けたのか、薄物が一枚追加されていて。その分
食み出した銀が、余計に際立っている様に見える。ガルマがその場に現れると、周りから溜め息が漏れるのが聞こえた。俺は素早く目を動かして、それらを観察する。居並ぶ銀狼だけでなく、その従者までもが、
うっとりとした視線をガルマに送っている。あんなエロ親父のどの辺りを見込んでそんな顔ができるのか、かなり不思議に思う。しかもブラコンだ。きついわ。そう思っていると、一斉に頭が下げられて、俺もハゼンに
背中を叩かれて、慌てて一礼する。
「皆、揃っている様だな」
 恍惚とした集団と、それには混ざりもしない俺を置いて、ガルマが口を開く。
「長旅で疲れている者も居るだろう。今宵はどうか、気と身体を休めて。それぞれに親睦を深めてほしい。もっとも、既に何人かは懇意にしている者も居た様だがな」
 何人かが、俯く。そんな露骨に釘刺さなくてもいいだろうと思うし、そんな露骨に俯かなくてもいいだろうに。一方不可抗力な部分もあったとはいえ、一応一歩先にクランと知り合っている俺は、無表情でその言葉を
聞いている、はず。
 堅苦しい挨拶をするつもりはないのか、その後もガルマは二言三言だけ告げると、存分に楽しんでくれる様にと言って、自分もさっさと宴に混ざる。とはいえ、早速我先にと挨拶をする候補者の銀狼に呑まれていた。銀と銀が
重なって、わかり辛くなるかと思ったけれど。そこはやっぱり、ギルスの血の直系である事を示していて。群がる銀狼と、ガルマのそれは、そうして間近で見比べてしまうと一目瞭然だった。確かに、あれでは本当の銀を
求めようとするのもわからなくはないと思うし、もっとくすんだ銀や、そもそも銀狼ですらない近縁の狼族を頭にする事も、難しそうだ。
 自分に群がる銀狼達の相手を丁寧にしていたガルマが、その内に一息吐いたのか、俺へと顔を向けてくる。当然俺は素知らぬ振りをして、既に挨拶を終えて、ガルマから離れて、それでもまだガルマを見ている集団に
潜り込もうとする。そうしようとすると、ハゼンに腕を取られた。
「ゼオロ様。お気持ちは、わかりますが」
 流石にガルマと一度も顔を合わせないのは不味いと、ハゼンが言う。仕方なく俺は足を止めた。もうすぐそこまで、ガルマが来ているし。ガルマの方からのしのしと歩いてこさせてしまっている辺り、周囲の俺に対する
目がまた一段と厳しくなった気がするけれど、気にしない。
「こんばんは、ゼオロ。夜会は楽しんでもらえているかな」
 微笑んで、ガルマがそう挨拶してくる。え、何そのフランクさは。俺の記憶に居るいやらしい親父と全然違うんだけど。
「これは、ガルマ様。ご挨拶が遅れてしまい、申し訳ございません。こういう宴に出席させて頂くのは、何分初めての事でございまして。田舎者故、不調法なところは、どうかお許しください」
 俺が丁寧に答えると、後ろでハゼンの溜め息が聞こえた。何が不満なんだハゼン。
「おお、そうなのか。そなたの様な美しい被毛の持ち主ならば、この様な場は、慣れた物だと思っていたのだが」
「とんでもない事でございます。ガルマ様の様に、何もかもを知り尽くしたとは、言い難く」
「そうか。では、今夜でなるべく、慣れて欲しい物だ。お前の銀は、いつ見ても眩しい物だ。こういう場にこそ、ふさわしいと言える」
「お戯れを」
 本当にこいつ嫌味だなと、笑顔で迎えながら内心ぶん殴ってやりたくなる。今の発言で、周りで耳をそばだてていた奴らの顔があからさまに険しくなったぞ。そりゃ俺の所に来るまでに散々銀狼に囲まれていたのに、
態々こっちに来てお前の銀が良いなどと上せたら、そうなっても少しも不思議じゃない。こいつ本当に俺の事を困らせたいんだな。
「さて、他の者とも、話をせねばな。ゼオロ、また会おう。……できれば今度は、私の部屋でな」
 少し顔を寄せて、後半は小声でガルマが言う。俺達を見つめている奴らには、聞こえなかっただろう。唯一、ハゼンには聞こえていた様で、また別の場所へと向かったガルマを見届けてから振り返って見上げた
ハゼンの顔は、厳しい物になっていた。
「どうしたの、ハゼン。そんなに怖い顔をして。他の人が、怖がるよ」
「……どうなる事かと、心配でしたよ。あなた様はあなた様で、あの様に一切感情を見せずに話してしまわれて。ガルマ様はガルマ様で、あなた様を寝所に誘うなどと」
「あれ以外、対応しようも無かったじゃない。すり寄ったらここぞとばかりに触ってきたよ」
「お願いですから、そういう話は部屋に戻ってからにしてください。今は、どうか」
 まだ俺を見る目があるのだと言われて、仕方なく俺は押し黙る。
「でも、少し意外だな」
 少し人込みから離れて、俺は小声で、独り言の様に呟く。当然、後ろに付いているハゼンにはそれは届く。
「何がでございますか」
「ハゼンがそうやって、怒るのが。私が族長になる気が無いのだから、それこそその次は、ガルマ様の御気に入りにさせた方が、ハゼンとしては嬉しいんじゃないの」
「あなた様が望まぬ事を、させようとは思いませぬ」
「それも、意外だ。ガルマ様はそれを望んでいるのに。ガルマ様と、私ならば、ガルマ様に付くのが筋ではないの、ハゼン。ガルマ様は、お前の主なのだから」
「あなた様の従者となったからには、そういう訳にはゆきません。ガルマ様は、確かに私の主ではありますが。あなた様も、また。そうなのでございますよ、ゼオロ様」
「それでいいの、ハゼン。私はお前に、何もしてあげられないよ」
 振り返って、ハゼンを見上げる。ハゼンは相変わらず、無表情の様で。それでいて俺がじっと見つめていると、その内に柔らかな笑みが浮かんでくる。
「何を考えているの?」
「あなた様を、好いているのでございますよ。私は。好いているから、あなた様のためになる事をしたいと、そう思っています。利害の一致故に。あなた様は、そう仰られましたね。ですが、それとは少し、違います。あなた様を
好いているが故に、見返り等無くとも、ただあなた様の手助けをしたいと思う者の気持ちも、どうかご理解ください、ゼオロ様」
「そんな人、居るのかな」
 俺の事を好いてくれているのは、わかる。でも、なんの見返りも望まないのだと言われると。俺は、どうしたらいいのか、わからなくなってしまう。自分に期待を掛けられて、それに応えられなくて、離れてゆく人に
怯えてばかりの俺には。そんな風に、一心に思ってくれるという存在は、とても。
 有り難くて。そして、怖い。
「少なくとも私は、そのつもりでございますよ。もっと上手く立ち回って、あなた様を、もっと利用する事もできますから」
「そうしてよ、ハゼン」
「お断りします。……さあ、あまり長く、こんな所で話していては、また妙な噂をされかねません。戻りましょう」
 手を引かれて、また人込みへ。俺の手を引く、赤狼の男の事を俺は見上げた。今は、背を向けていて、顔は見えない。ただ、編んだ髪と、優雅な尻尾が揺れる度、俺を誘う様に踊るだけで。引っ張ってやろうか、なんて
気分になる。そんな事しないけど。
 人込みに戻ると、途端に向けられる視線。俺じゃない、ハゼンに、だ。使用人の人達程に、この視線の暴力は優しくはない。それに、ハゼンの振る舞いは、決して礼儀を失する様な物ではないし、丁寧だし、怒る訳でも
ないから、最近では俺付きの使用人達とは大分打ち解けている。寧ろ俺が自由気まま過ぎるので、俺への仲介を引き受けてくれるハゼンは、使用人達にはとても頼れる人と見られている様だった。
 でも、ここでは違う。集められた銀狼も、それに従う者達も、遠慮も無しにハゼンの事を睨みつけている。その後ろに居る俺に対しては、ちょっと複雑な。でも、俺の銀色に関しては素直に賞賛するつもりなのか、
傍を通ると、美しい、なんて独り言が聞こえたりもしている。認めるべきところは認める、という潔い部分は持っている様だ。それでも、ハゼンを見る目はやっぱり。
「ハゼン。辛くは、ないの」
「何がでございましょうか」
 わかっている癖に。目敏いハゼンが、さっきから自分に向けられている嫌悪の視線の数々を、気づかぬはずがないのに。こんな所、さっさと出ていきたいだろうに。
 それで、いいの。本当に。
 今更そう思ってしまうのは、直前の、ハゼンの言葉のせいなんだろうか。見返りもなく、手助けをしたいと。そう言われては、俺もなんだか調子が狂ってしまう。ハゼンが今感じている視線なんて、気にもならなく
なるくらいに、からかったりしたかったのに、そんな気分じゃなくなる。俺も、さっさとここを出たくなる。俺が残っているから、ハゼンもここに居るだけなのだから。俺がハゼンを従者にしているから、ハゼンはこの内郭で、
一日中戦っているのだから。
 それでもハゼンは、俺が出ていこうとすると止めるのだろうな。それもわかっているから、俺はまだ、引かれた腕が離されて、またハゼンが後ろに付いても、何も言えずに残っている。このお菓子美味しい。
「気に入らないな」
 その言葉だけ、抑える事もせずに言い放った。俺の周りに居た人達が、びくりと身体を震わせる。いい気味だと思う。後ろに居るハゼンの顔は、見なかった。
「……あの。ゼオロ、様」
 そうして俺が適当に、自分の周りを牽制していると、ふと声が掛けられる。振り返って、見上げようとして。見上げる程相手が大きくなかったので、俺は視線を下げる。大体見上げてばっかりなんだよ最近は。
 目の前に居たのは、あのクランだった。おどおどとした様子に、ちょっとだけくすんだ銀に。ただ、瞳は深い緑を湛えている。純粋な銀狼ではないという証拠の様だった。被毛はふわふわとしていて、俺やハゼンの様な、
さらっとした感じとは違って、撫で心地が良さそうだな、なんて勝手な事を思ってしまう。
「あなた様は……」
「く、クラントゥース・ティア。クランです。あの、えっと。この間は」
「これは、どうもご丁寧に。初めまして、ティア様。私は、ゼオロと申します。自己紹介をするよりも先に、私の名前を憶えてくださるとは、感激致しました」
 クランが余計な事を言う前に、俺は自己紹介へと移る。今ここで、既に知り合いでしたと公言されるのは、流石に不味いだろう。俺の意図を、なんとなくクランも察したのか、慌てて頭を下げてくる。まだ小さいのに、
頭は良い子なんだな。
「ゼオロ様の事は、その……色んな人が、お話されていましたので」
「それはそれは」
 周囲に居る奴らが、またびくりと震える。さり気無く爆弾落としてきたなこの子は。そんなつもりはないのだろうけれど。
「ティア様の様な、幼い方まで、この様な場所に呼ばれていらっしゃるのですね。さぞ、お心細い事でございましょう。何か、私で相談になれる事があったら、遠慮なく、ご相談くださいね」
「あ、ありがとう、ございます……」
 少し屈んで、程々に仲良さげに挨拶をする。こういう距離感って、どうしたらいいのだろうな。今の爆弾発言と、元々幼いという事もあって、クランの立場はあんまり良くないだろうし。そんなクランが、俺とここで
だらだらと話をすると、余計に目を付けられそうだ。でも、だからといって、このまま放置してもそれは変わらなさそうで。とりあえず何かあったら話に来いという部分を強調させておく。これでなんとかなるだろう。
「良かったら、またお話しましょうね。クラン様」
 耳元で、そっと囁く。そうすると、クランは何度も頷いてくれた。良かった。びっくりしてあの時は去ってしまった様だけど、別に嫌われている訳ではなかった様だ。顔を離すと、にこにことしているクランが居て、
思わず俺は手を伸ばして、その頭を撫でてみる。ふわっとした感触が、掌に広がる。何これ、俺と全然違うんだけど。どうすればこんなにふわふわもこもこするのだろうか。ぬいぐるみか。
「ゼオロ様。撫で過ぎです」
「……ああ」
 ハゼンから注意が飛んできて、仕方なく俺は手を離す。とうのクランはというと、存分に尻尾を振り回して、俺に撫でられるに任せてくれていたので、俺が手を離すと寧ろ残念そうな顔をしていた。
「では、また」
 触れ合うのも程々にして、俺はその場から離れる。その後は、ガルマが来るまでと同じだった。ガルマは何度も俺に接触するつもりはないのか、俺の所には来なかったし、それならと、俺も適当に珍しい食べ物に
舌鼓を打って、退室しても失礼に当たらないくらいの時間を会場で過ごしてから、静かに部屋へと戻った。
 結局、最後までハゼンに対する周りの視線は厳しいままだった。

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