ヨコアナ
14.狼の都
「私にとって、兄は憧れだった」
「他人は兄を、英雄と呼ぶ。しかし誰かが英雄と呼ぶ以前から、私にとって、兄は英雄だった」
「私はいつも兄より一回り、二回り劣っていた。劣っていても、気にする事はなかった。だって、兄は英雄だから。それは仕方がない事だと」
「兄を亡くした後、残された者達の目は、私を見ていた。私の庇護を受ける事を求め、私が先導する事を促す。期待に満ちた目」
「兄の代わりを務める様になって、気が付けば、あれほど憧れていたはずの兄を妬む私が居た。兄と比べて 何もかもが劣っている自分が、許せない私も居た」
「それでも私は兄の代わりを。例え及ばずとも、私の代わりは居ないのだと、私を頼る者達が居るのだと、自らに幾度となく言い聞かせた」
「二十余年、そうして生きてきた。ようやく多忙な日々から解放された私は、忙殺されていたが故に今までできなかった事を。自らの欲を満たすためではなく、次代へと繋げるために、子を遺そうと思い立った」
「しかし、何度交わろうと。どの様な女を抱こうと。私が抱いた女が身籠る事はなかった。元からそうだったのか、族長としての重圧に押し潰されてしまったからなのか、定かではない。確かだったのは、私は子を成す事の
できない身体であるという、事実だけだった」
「その事実を告げられた時。私は、振り向いてはいけなかった。振り向いた私が見たのは、これまで共に歩いてきた者達の、失望に満ちた目だった」
「私は」
「グンサ。お前が生き残るべきだったんだ。私ではない。私などでは、いけなかったんだ。全部お前のせいだ」
「もう、許してください……」
闇の中に、炎が浮かぶ。
まただ、まただよ。俺は心底からうんざりした顔をする。そんな俺の顔を見る誰かも、今は居ないのだろうけれど。第一、夢の中だし。
ちょっと、油断していただろうか。馬車に揺られに揺られて、ファウナックを目指している間はこの夢を見なかったし、道中の宿でも、幸いにも見る事はなくて。だから、油断をしてしまった。
それでもほんの少し、嬉しい様な。けれどそれと同じくらいに罪悪感を覚えるのは、この炎を見る度に思い出す、あの豹の男を。それから、ミサナトで顔を合わせた人達の事を、いつの間にかそれほど思い出さなくなっている
自分に、気づいたからだろうか。
離れていても、心は繋がっている。よくある定型文だった。生憎、俺にはそれは当て嵌まらない様だった。離れていると、どんどん思い出さなくなってゆく。忘れた訳じゃない。今だって、大切。それだけは確かだった。大切で、
大切で。でも、いつの間にか。大切だというラベルが付けられたみたいに。あれは大切だった。そう思うだけで、思い出さなくなってゆく。そんな物、なのだろうか。そうかも知れなかった。だって、それよりも更に前の。同じ様に
大切属性の付いている者の事を、俺は最近、思い出さなくなっていたから。
だからこの炎の夢は、甘んじて受け入れようと思った。炎が俺の身体を包んで、その度に、あの日に受けた痛みを思い出して。夢の中で叫ぶのも、悪くはない。痛みが、思い出させてくれる。俺の見送りを受けて、
自分の夢を追いかけていった人を。その人と短い間だったけれど住んでいた街で、俺に優しくしてくれた人達の事を。思い出させてくれる。
そう思えば。この夢も、悪くはない。そう思った。そう、思っていたかった。そうしないと、この夢はいつまでを尾を引いて。俺の心を焼き切ってしまいそうだった。
「ゼオロ様!」
左肩から広がった炎が、俺の間近に迫って。今まさに、本当の俺ではない銀の被毛を舐めるかの様に燃え盛ろうとした瞬間。夢は無理矢理に醒めた。途端に俺を焼き焦がそうとした炎は掻き消えて。けれど、
俺の視界に映ったのは、また炎だった。薄暗い部屋に灯る炎。炎なのに、明るくはないし、熱くもない。真っ赤な、炎。明るく照らす事のない、炎の、被毛。
「……ハゼン……?」
「ゼオロ様。どうか、お気を確かに」
眠る俺の顔を、ハゼンは覗き込んでいた。棚の上に置かれた魔法の照明と、少しカーテンを開けておいた窓から射し込む月明かりが、俺の目の前に居る赤狼を照らし出す。いつか宿で見た、髪を解いた、質素な
寝間着姿。でも、今は少し違う。上半身は裸のままだった。こんな時だけど、俺はそれをじっと見つめた。やっぱり赤以外の色がその身体に混ざってはいないんだな、なんて思ったりする。本当に、生粋の赤狼
なんだな。ハゼンは。
「一体、どうされたというのですか」
「私、何してた?」
「突然、魘されて。何度か声をお掛けしても、そのままでしたので。勝手ながら、入らせて頂きました」
「そう。ありがとう。たまに魘されるんだ。この傷のせいで。自分が、黒焦げになる夢を見る」
「それは、また。お可哀想に」
ハゼンが説明をしてほしそうな顔をしていたので、俺は夢の事を打ち明ける。この夢の事を誰かに話すのは、初めてだった。居候先のハンスにすら、話した事はない。誰かに話しても、どうにもならない問題であるという事は、
わかっていたし。説明しながら、俺は手を上げて溢れてきた涙を指で払う。
「申し訳ございません。きっと、私があの時炎でゼオロ様を驚かせてしまったから」
「そんなの、もう随分前の話でしょ。ハゼンのせいじゃない。今回は、たまたまだよ。最近はあんまり見なくなっていたから」
それでも胸の中で、炎の光景は続いていた。払ったはずの涙が、また溢れて。俺はゆっくりと身体を起こす。
「ごめん、ハゼン。こんな時間にまで迷惑掛けて」
「とんでもない。その様な事は、決して」
「……そんな寝間着姿だと、説得力無いよ」
「これは、失礼しました。私は、そのう。少し体温が高い性質でして。人目が無いと、どうも」
あ、これは完全に一人だと全裸で寝るタイプだな。俺がパン一でぎりぎり自制をしているその先を、あっさりと行ってしまうタイプだ。この姿になってからはそれも自重しているのに。
「銀狼の住む場所がどうとか言ってたのに、意外と大胆だね。ハゼン」
「申し訳ございません。以後、再発防止に努めます」
「別に、咎めている訳じゃないよ。ああ、もう。中々止まらないな」
涙が、何故か止まらない。胸の中に溢れた大事な物を放って、今また、目の前に居る新たな繋がりと楽し気に会話を弾ませているからだろうか。
「ゼオロ様。その様に、何度も擦られては」
ハゼンが俺の手を取って、目を擦るのを止めさせる。細い片腕を押さえられると、俺はどうしようもできなくなって。ただ静かに、涙が頬を伝って。少し俯いているせいで、顎の先へとそれは流れていった。
「そんなに、お辛いのでございますか」
「そんな事は、なかったはずなんだけど。それに、痛くて、熱いけど。少し安心するんだ。私がミサナトに置いてきてしまった物の事を、思い出せるから」
「たったお一人で、ここまでいらっしゃったのですものね。心細く思うのは、無理もない話です。申し訳ございません」
「謝らなくていいよ。来るのを決めたのは、私だから。もう、下がっていいよ」
「ですが」
「その内、泣き止むから。ごめんなさい。こんな夜中に」
ハゼンは少しその場に留まって、俺の様子を見ていたけれど。その内立ち上がると、一礼して去ってゆく。扉が閉まっても、俺の涙はやっぱり止まらなくて。
何が嫌で、こんなに泣いているのだろう。また独りになってしまった事なんだろうか。馬車に揺られて、赤い瞳に常に見つめられていた時は、思い出す余裕も、自分が心細いと気づく余裕も無かったからだろうか。その
せいで、最近泣いていなかったからだろうか。
きっと、全部なんだろうな。すっかり忘れていた。元々の俺の事を。外に出る度にボロボロになって、家に帰る度に泣きじゃくっていたのに。いつの間にか、そんな事が無くなっていたから。でも、人の本質なんて
そんなに簡単に変わる物じゃない。全てを置いてこの世界に来て、どうにかしようと思い立ったのに。今度はミサナトに、何もかも置いてきてしまったというのが、こんなにも今、心に引っ掛かっているとは。自分でも、
気づかなかった。そう自分に問いかければ、そうだと納得できる事なのに。俺は結局、また。自分に好意を掛けてくれた人達に、なんのお返しもできず。迷惑だけを掛け続けて。こんな所にまで、来てしまったんだな。
しっかりしないと。ここはもう、ファウナックなのだから。帰りたくても、それすら許されはしないのだから。俺がしっかりしないと、今度はハゼンに迷惑を掛けてしまう。もう、大分掛けてしまったと思うけれど。
扉の開く音がした。涙をまた払って、次の涙が出てくるまでの、僅かに視界が開けた状態の間に、俺は顔を上げて扉を見遣る。ハゼンが居た。今度はちゃんと上も着てる。
「忘れ物?」
「ええ。度々ご迷惑をお掛けします」
「あんまり見られたくないから。早く行って」
ちょっと、言い方がぶっきら棒になってしまう。それも仕方がない。ぼろぼろ泣いているところなんて、誰かに見られたい訳がない。鼻水ちょっと出てきてるし。
「それは、それは」
歩いてきたハゼンが、俺の前で屈み込む。何かハゼンが持ってきた物でもあったのだろうかと、俺は上手く見えもしない癖に、床や棚を見ようとすると、突然、ハゼンに抱き締められた。
「ですが、申し訳ございません。すぐには出ていけそうにありませんね」
「……嘘つき。忘れ物なんて、無かったじゃない」
「重ねて、謝罪させて頂きます。しかし。あなた様の、その様なお姿を見て、そのまま裸で眠れる程私も図太くはありませんので」
裸で寝るのを止めるつもりはないのかよと心の中で突っ込みを入れつつ。俺はハゼンに身体を預けて、涙をその胸に擦り付ける。
「困ったな。本当に、止まらない。どうしてかな」
「その様な時もございますよ。まだまだ、ゼオロ様はお若い。そういう難しいお年頃だという事です」
すみません。中身はとっくに成人済みです。へたれですみません。
「でも、少しだけ安心しましたよ。ゼオロ様は、なんだかいつも物静かで。なんでもおわかりになっておられる様に見えますから。ようやく、歳相応のあなた様を見る事ができました。いつもはなんだか、私の方が
気圧されてしまいそうな程に、聡明であらせられますからね。あなた様は」
「可愛げが無くて生意気だって、素直に言いなよ」
「また、そんな事を言って」
笑ったハゼンが、俺の身体を抱き上げて。優しく背中を撫でながら、ベッドの中へと戻してくれる。
「失礼させて頂いても?」
「駄目」
「そうですか。では申し訳ございませんが、勝手に入らせて頂きますね」
大きな身体が、俺の隣へとやってくる。毛布を被ると、そのまま俺の身体を、またぎゅっとしてくれる。ハゼンの言う通り、ハゼンの身体は温かかった。夢の中の様に熱くはなくて。ただ、温かくて。
「嫌じゃ、ないの」
「嫌かどうかと訊かれれば、まあ。早く寝たいなとは思っていますがね」
「今日のハゼンは、正直だね」
「もう、真夜中でございますから。私とて、いつも従順な従者という訳ではございませんよ、ゼオロ様。もっとも、ゼオロ様だから、という事もありますが」
涙が、少し治まる。そう思っていた矢先に、ハゼンの手が、再び俺の背中を優しく撫でると、また涙が。撫でられるのって、気持ちいいなと思う。ハゼンの手つきも、なんだか手慣れた感じだし。
なんか、変な気分。泣いているところを抱き留められて。背中を擦られたり、ぽんぽんと軽く叩かれたり。とても小さい頃になら、そんな思いもしただろうけれど。今になってまたそんな事を体験するだなんて。
「ここに上がるまでは、子守の仕事でもしていたの」
「どうしてその様な事を?」
「手慣れてる感じがするから」
「こういう時でも、ゼオロ様はやっぱりゼオロ様でございますね。そういうところをよく見て、その様な事を仰って」
「身体を預けて、わんわん泣いた方がいいの?」
「困ったお方だ。……子守の仕事はしていませんが、それとは似た様な物でございますね。私には、弟がおりましたので」
「私と、同じくらいだった?」
「もう少し、下でしたね。こうして泣いている時に渋々相手をしていたのは」
「泣き虫だって言いたいの」
「ふっ、ふふふ……ゼオロ様、止めてくださいよ。そうやって、一々仰るのは。笑いを堪えるのが、大変なんですから」
あやす様に、また背中を撫でられる。なんでだろうな。こうして全力で子供扱いされると、反抗したくなってしまうのは。実際俺の心の方が、ずっと子供子供しているのは、事実なのに。
とうのハゼンは、堪えきれない笑い声を零したまま。いつも馬鹿丁寧なのに、それよりも更に優しい手つきになって、俺を撫でてくれる。気持ちが良い。犬って撫でられるの好きみたいだしな。狼だけど。
「……今は、居ないんだね。その弟さん」
「ええ。大分前に、亡くなりました」
「どうして? ……あ、ごめん。言いたくないなら、いい。こんな風に言うのも、狡いけど」
「そんな風に、仰らないでください。本当に言いたくなければ、弟が居るなんて事も口にはしませんよ。私と弟は、戦災孤児だったのです。戦争で、親を亡くしましてね」
「……そっか。ランデュスとの、戦争があったもんね」
「ええ。それも終わった訳ではありませんが。赤狼は、既に話した通り野蛮な一族ではありますが。それでもその蛮勇は、戦時では重宝された物です。私は、それには参加しておりませんが。私がまだ、ゼオロ様ぐらいの
頃でしたかね。本来なら、私も両親と共に戦に向かうはずでした」
「子供だったのに?」
「その様な事は些細な問題ですよ。赤狼は、と言われるだけあって、私も幼い頃から相当にやんちゃでしたし。格闘術や、刃物を扱う事も覚えていましたから。幼過ぎる子供や、老人でもない限り、赤狼は男女を問わず、
押し並べて戦士なのでございます。ですが、幼い弟を一人残す訳にはゆかず。止む無く私が残されたのです」
ハゼンの言葉が胸に染みる。やっぱり苦労してたんだな。それと比べて、俺のなんて甘えた事か。改めて、自分は駄目な奴なんだなという想いが、強くなる。
「ですが……必ず帰ると約束して出ていった両親は、戻ってはきませんでした。それどころか、赤狼の大半は。私は震える弟を抱き締めて、しばらく家に閉じこもっていましたが、やがては食べる物も無くなって。仕方なく
家を出て、救護を受けようとしました。しかし、そう簡単に助けを受ける事はできませんでした。周りもまた、自分と同じか、それ以上に酷い有様。とても、他人の事までは構う余裕が無かった。仕方なく私は、ラヴーワの
中央部へと、足を向けました。元々赤狼は、好戦的な者が多く、戦線の近くに住んでおりましたから。道はとても長く。何度も諦めそうになりましたよ。ですが、その道の途中で、弟は……。幼い上に、元々身体が
弱かったのです。それなのに、何日も飲まず食わずを強いられて」
「間に合わなかったの」
「はい。私が、もっと早く決断をしていたら良かった。そうでなくとも、どこに人が居て、そこで救護が受けられるのかもっと頭に叩き込んでいれば。我武者羅に歩いていた私は、結局救いの手を差し伸べてくれるはずの場所が
近くにある事にすら気づかずに、歩いていたのです。なんと愚かなのでしょうね。所詮、私も。こうして気取ってはいても、愚かと蔑まれる、赤狼でしかなかった。私の至らなさ故に、私が死ぬのならまだしも。私は、
両親だけでなく、弟まで失ってしまいました」
涙が、いつのまにか止まっていた。こんなに苦労して、辛い目に遭っているハゼンが目の前に居るのだ。そんなハゼンが、なんの苦労もしていない俺を今、支えようとしてくれている。申し訳ない気持ちが、今更の様に
溢れてきた。そういう自分が、嫌だなって思う。今更それに気づく自分が。だって、赤狼が忌み嫌われているのは、もうわかっているのだから。その赤狼であるハゼンが、やっぱり嫌な顔をされて。それでもこうして、
今俺の目の前に居るって事は。きっと、俺にはとても想像できないくらい大変な苦労の連続があったはずなのに。今こうして打ち明けられるまで。そんな事すら、理解しようともしない。気の利かない自分が、嫌で。
「結局その後、私は近くを歩いていた同じ赤狼の方に助けられました。死んだ弟の身体も、どこかへ置いて。ふらふらと歩いていたところを。そんな私が、銀狼であるガルマ様に目を掛けて頂いて、今はこの様な場所で
次代を担う方のお世話をさせて頂けるとは。運命とは、本当に、どうなるのかわからない物でございますね。……本当に、わからない」
「ハゼンは……辛くは、なかったの」
ハゼンが言葉を言い終えると同時に、俺は問いかけた。ハゼンは少し目を細めるだけで、柔らかな笑みを崩さない。
「私が辛くはなかったと。そう思われるのですか」
「……ごめんなさい」
笑みを浮かべながら、しかし確かにハゼンは、俺を咎める言葉を発した。俺は俯いてただ謝る。今のは、言い方が悪かった。口にしてから後悔が募る。
「私は、ただ。ハゼンが、どうしてそんなに強いのかなって。そう思って」
「私が、強い様に見えますか」
「だって。もし、私が同じ目に遭ったら。きっと、ハゼンみたいにはなれないと思う。私は、甘ったれだし」
「そういう言葉を、他人ではなく、ご自分に向けられてしまうあなた様も、弱い訳ではないと私は思いますがね。他人を責めるのはいつだって簡単で、自分を責めて、そうして改めようとするのは、いつだって困難が伴う事で
ございます。それから、不当に自己評価が低いのは、あなた様の悪い点ですよ」
「ハゼンに言われたくない。ハゼンだって、自分が赤狼である事を、良くない事の様に何度も私に言う癖に」
ハゼンの腕の力が、不意に強くなった。ハゼンの口元から笑みが消えて。俺の事を睨むかの様に、目が鋭くなる。
「それは、あなた様が何も知らないだけですよ。赤狼の恐ろしさも、何もかも。我々がその様に扱われるのは、それだけの事をした事実が。そうして、歴史があるのですから」
「ハゼンは、何もしていないじゃない」
「止めてください。そんな風に言うのは」
撫でていた手も、俺の身体に添えられて。両の腕が俺にぴったりとくっついて、そのまま強く抱きしめられる。苦しくなって、俺が呻くくらい。
「苦しいですか、ゼオロ様。苦しいでしょうね。こうしていると、私は自分が赤狼である事を、強く実感できますよ。守るべきあなたの悲鳴ですら、私には心地良く聞こえるのですから」
ぱっと、解放される。俺は止まっていた呼吸をどうにか再開して、息を荒らげた。
「申し訳ございません。ゼオロ様。でも、どうか。私をそんなに、信用なさらないでください。私はあなた様の優しさに取り入っているだけの、下賤な、赤狼なのでございますから」
「ハゼン」
「……明日になったら、従者を取り換える旨を、ガルマ様にお伝えください。そうしたら私は、また新しい銀狼を探すか、その任が無ければ外郭の隅にでも。いずれにせよ、あなた様を苛む様な事はもうしませんから」
「絶対にハゼン以外の従者は取らないよ」
息を整えてから、俺は一度身体を離して。それからまっすぐにハゼンを見つめて言う。ハゼンがまた、目を丸くした。赤狼であると最初に告げられた時と、同じ様に。それから、諦めた様にまた笑う。
「……敵いませんね、あなた様には。やっぱりあなた様は、歳相応には見えない。弄ばれている様な気分になりますよ。一番腹立たしいのは、それが然程不愉快ではないと思っている自分に気づいてしまった事なのですが」
「私は、一人では何もできないよ」
「だからそうして、相手を手玉に取るというのですか。まったく。今まで何人くらい、そうして籠絡されてきたのやら」
「人を悪女みたいに言うのは止めてほしいな。まだ二人くらいだよ」
「呆れて物が言えませんね。本当に。……わかりましたよ。私も、お供して差し上げますから。ですから、そんなに服を引っ張らないでください。駄々っ子の様ですね、ゼオロ様は」
またぎゅっとされて。今度は苦しくない程度にされて。俺はようやく人心地付く。そうして身体をくっつけていると、やっぱりハゼンは体温が高くて。また眠気がやってくる。
「ハゼン。私は、もっと強くなりたい。今はまだ、頼ってばかりだし、泣いてばかりだけど。私が今頼っている人に、いつか私も頼られる様になりたい」
「そうお思いならば、もっと意欲的に族長の座を狙う事です。あなた様ならば。私がそう思うのは、贔屓でもなんでもない事ですから」
「なれるのかな。私なんかで」
そもそもギルスの血が流れていないのだけど。ここまで来るともはや詐欺だな。
「それは、あなた様次第でしょう。さあ、もう眠ってください。泣き止んだのでございますから。朝になれば、ファウナックでの一日が始まるのですから」
「……朝が来るまで、このままでもいい?」
「まったく。少し大きな弟ができた気分ですよ、こんなに色が違うというのに」
「兄ちゃん」
「そういう悪ふざけはお止めください。いい加減にしないと、怒りますよ」
ハゼンが首を少し伸ばして。俺の頭の上に乗せて、顎を下げてくる。ハゼンの表情を窺っていた俺の顔はそれで、自然と下がって。仕方なく、ハゼンの胸にまた鼻先をくっつける。仄かに、汗の臭い。暑い季節
じゃない。だから、ハゼンがほんの少しだけ、焦ったりしていたんだって理解する。
「おやすみなさいませ。ゼオロ様」
その言葉を皮切りに、深い眠気が。今度は、もう悪夢を見ないだろうと思った。俺を燃やす事のない炎が、既に俺に寄り添っているのだから。それが不思議と、俺を落ち着かせてくれた。
遠くから鳥の囀りが聞こえる。それに俺は、耳を何度も震わせる。遅れて、耳がそんな風に動くのも慣れてきたなって。そう思いながら手を伸ばす。伸ばした手は、何も掴む事はなく。その内に伸ばしきってから、
下ろされて。シーツに沈んだ。
「ゼオロ様。朝でございますよ。昨夜は湯浴みもされませんで眠ってしまわれて。支度ができていますから、お早く」
声が聞こえて、今更の様に目を開けると。そこに居たのはもう、いつもの。行儀が良くて、恭しくて。見慣れたお洒落モデルになったハゼンだった。朝日を浴びた赤い被毛が、本当に燃える様で。俺はゆっくりと身体を起こす。
「おはよう。ハゼン」
「おはようございます、ゼオロ様。早速ですが、すぐにでも湯浴みを。確認をしたところ、本日ならばガルマ様との面会が可能です」
「随分、急だね」
「申し訳ございません。昨日は既に、ガルマ様はお休みになられておりました故。他の後継者候補との面会もあって、ガルマ様は中々お忙しい身でございます」
「そう。なら、お待たせするのは悪いし。ガルマ様との面会以外特にする事もない私が合わせるのが筋ではあるよね。それじゃ、案内して」
「畏まりました。朝食はその間に用意させます」
ハゼンに手を引かれて、俺は歩き出す。向かったのは、今の自室から目立たない場所にある扉だった。あんなのあったのか。昨日は即座にベッドに突撃したから、気づいてすらいなかった。
扉を開けると、それまでの部屋と比べたらこじんまりと。それでもその部屋だけを見たら充分に広い浴室があった。基本的な造りは道中の宿と変わらずに。それでも整えられた室内と、そこに並べられた器具は、やっぱり
かなりの高級品の様だ。白く磨き上げられた浴槽には、既に湯が張られていて。湯には名前も知らない青い花がいくつも浮かんでいた。映画のセットか。
「では私はこれで」
「うん。ありがとう」
ハゼンが下がるのを待ってから、俺はいそいそと服を脱ぎはじめる。丁度、そんな時だった。
「失礼します。ゼオロ様」
高い声が。つまるところ、女の人の声が聞こえて。俺ははっとなる。しずしずとした仕草で、狼族の女の子が三人同時に入ってくる。使用人の女の子だった。
「え?」
「まあ、ゼオロ様。私達がお手伝い致しますので、どうか。楽にしてくださいませ」
「え、待って。ちょっと、待って」
俺今、服脱いでるんだけど。なんでそんなに冷静なの。
「そう仰られましても。これが私共の、仕事でございます」
「えっ。でも。私、男なのに」
「申し訳ございません。今は、人手不足でございまして。本来ならば、湯浴みの介助は同性がする事ではあるのですが。ですが、ご安心ください。女手であろうとも、ゼオロ様のお世話はしっかりと私達が。さあ、どうか、力を
抜いてくださいまし」
「で、でも」
え。これいいの。いや、よくない。いくら狼族で、顔が狼だからといって、女の子に触られるのはちょっと。だってそんな経験無いし。困る。
「ひ、一人で良いから。私は」
「それでは、私達が困ります。ゼオロ様を、きちんとお綺麗にして差し上げる様に。そうハゼン様からも、言い付けられております。さあ、ゼオロ様。服をお預かりしましょう」
手が、伸びてくる。それに俺は、本能的な恐怖を感じる。だって、嫌って言ってるのに、手が伸びてくるのは。正直怖い。俺が後退ると、女の子達は首を傾げはじめる。ああ、そうなんだな。ここではそれが、普通
なんだよな。貴人の扱いというか。俺には一つも理解できない。いや、理解はできるけど。ファンタジーな小説を読み漁る上で、一度も無かった光景だなんて言わないけれど。でもそれが俺に降りかかるのはまったく
別の話だ。そもそも使用人で、俺付きの侍女だからと言って、ほとんど面識も無い相手に身体をべたべた触られるのが、まず嫌だ。これは相手が男だろうが女だろうが、関係無い。まともな会話一つした事がない相手に、
突然触られるのは、少なくとも俺は平気じゃない。偉い人や高貴な人はそれを当たり前の顔をして受け入れたりするのだろうけれど。
結局俺は、そのまま逃げ回って、浴室から飛び出す。すると、その先で立ち竦んでいた男にぶつかった。
「……何をされているのですか、ゼオロ様。侍女を追った追いかけられたで遊ぶのは、あなた様にはまだ早いと思うのですが」
俺を見下ろしているハゼンが、呆れた顔をしている。俺はそれにむっとした顔を向けてから、すぐに我に返って、ハゼンの後ろへと回り込む。そうしていると、ぱたぱたと足音を立てて女の子達もやってくる。
「ハゼン。私は、一人が良い」
「そう仰られても。片腕が動かせない以上、どうしても綺麗にできぬ部分もおありのはず。今までは見逃して差し上げましたけれど、ガルマ様とお会いになるのならば、流石にその様な我儘は、私としても聞き入れかねます。
どうか、この場は」
「でも……」
困った顔の女の子には、とても申し訳ないのだけど。俺がハゼンを見上げると、ハゼンは溜め息を吐く。
「仕方のない方ですね……。すまないが、少し下がっていてくれるか。どうも、事情がおありの様だから」
「畏まりました。御用の際は、お声を」
「ああ」
ハゼンに追い払われる様にして、女の子達が去ってゆく。ただ、ハゼンを見る目は、やっぱりあまり良いとは言えなくて。俺はハゼンに申し訳ない気持ちになる。
「ごめん、ハゼン。でも、助かった。ありがとう」
「何が、ご不満なのでございますか?」
「だって、全然知らない相手に……それも、女の子に触られるなんて」
「欲情してしまいそうで?」
「いや、それはない」
これを聞いたら、あの女の子達は怒るかも知れないけれど。正直なところ、顔が狼そのものの女の子を、可愛いとは思えない。そもそも可愛いという前に、凛々しくて、恰好良いんだよな。狼族の女の子は。恰好良いの
延長線で、惚れてしまう事はあるのかも知れないけれど。しかし恰好良い顔で、でも中身は女の子な訳で。可愛らしい仕草だとか、女の子特有の会話をされても、違和感がとんでもない。この世界で女の子を
好きになるのって、結構難しいんだなと実感する。元からこの世界に居る人だったら、こんな事、まったく思わないで居られるのだろうけれど。
「つまり……見知らぬ相手に触られるのは嫌だし、女にベタベタ触られるのも、嫌だと。ゼオロ様。それでは、貴人としてやっていけませんよ」
「でも、こういうのは、同性がするものじゃないの」
「それは、そうですが。しかしながら、人手不足でございますからね。何せ、内郭に務める使用人は、かなり厳選されておりますし。その上で、今は族長候補の銀狼の皆様にそれぞれ使用人が割かれております。男手が
丁度、足りませんので。あなた様ならば女人に手は出されても、自ら出す様な真似はしないだろうと、頼んでみたのですが……駄目でしたか」
ちょっと待って、出されるのはいいの。
「事情はわかったけれど……ごめん。一人でできるから」
「はあ。わかりました。あの者達には、私が話を付けてきますから」
「ありがとう、ハゼン」
やれやれと言った様子で、ハゼンが背を向ける。その様子は、なんだか昨夜の様で。朝起きたら夢だったんじゃないかなと思ったけれど、そうじゃなかったみたいだ。本当のハゼンの姿を、少しだけ見せてもらえた様な、
そんな気分になる。それを見送ってから、俺は再び浴室へ。服を脱いで、目に付いた籠に突っ込んで。全裸になって、浴槽に近づくと桶を手に取って、湯を掬おうとする。
「お待たせいたしました」
浴室の扉が開かれて、ハゼンが当然の様な顔をして現れる。服はシャツとパンツの、つまり濡れても良い状態で。俺はそれを、白い目で見つめる。
「どうしてその様な目で私を見るのでしょうか」
「どうして一人で良いって言ったのに、入ってくるの」
「先程、ご説明して差し上げた事が、おわかりになっておられない様でございますね、ゼオロ様。本日はガルマ様との面会がおありなのでございますから、あなた様の我儘は、聞き入れられぬと」
「だから、私は一人で」
「見知っている相手で、それから女でなければ、よろしいのでございましょう? それでしたら、僭越ながら私が。とはいえ専門外でございますから、とても行き届いた事ができる訳ではごさいませんが。そこは、お許しを」
「一人で、良いの! 一人に、させて!」
「お断りします」
ハゼンは俺をさっさと椅子に座らせて、手を濡らしてから、手早く石鹸とは違う粘性のある犬用シャンプーか何からしき物が入った壺から中身を手に取り、両手で合わせて泡立ててから、俺の後ろで屈んで両側から手を
突き出して、とてもとてもわざとらしく両手をわきわきさせる。
「さあ、ゼオロ様。綺麗にして差し上げますよ。あなたは昨夜、随分私を小馬鹿にしてくださいましたね。悪いゼオロ様には、おしおきが必要なご様子。大変心苦しく思うのですが、主を諫め、素行を正す事も、時には従者の
使命であると、私は常々から思っておりました。そうしないと、ガルマ様にも失礼が及んでしまいますからね。覚悟は、よろしいですか」
「あ……」
怒ってた。ハゼン、凄い怒ってた。昨日から怒ってた。
「ごめんなさい。私が悪かったです」
「そうですか。ではいきます」
無慈悲なハゼンの両手が、俺の頭へ伸びる。観念して、それを受け入れた。ただ、実際に洗われてみると、それ程嫌な感じはしない。怒っているというから、手荒に扱うのかと思ったけれど、そんな事はなくて。指先で、
爪は当たらない様にして、俺を上から下まで優しくマッサージするかの様に洗ってくれる。
「ハゼン。右手で、洗えない場所だけでいいよ。私も自分で洗うから」
「申し訳ございませんが、それではむらが出てしまいます。こう言うのは憚られるのですが、あなた様はご自分の事となると、どうにも無頓着であらせられる。洗っていると言っても、充分だとは私には見えませんもので」
最後の抵抗も虚しく。俺は全てを諦めて、されるがままになる。頭に泡が行き渡ると、湯が何度も掛けられて、汚れと泡が落ちてゆく。
「ああ、やはり。きちんと洗うと、見違えますね。この銀の輝き。もっと大事になさってください。少なくともここに居る間は、あなたにとっては最大の武器となるのでございますから」
頭を綺麗にして、俺の目の周りの水分を払い終えると、それから首へ、肩へと下りてゆく。左肩に触れる時に、ハゼンは一度手を止めた。
「痛みますか?」
「大丈夫。もう、平気だよ」
ハゼンが顔を覗かせて、俺の肩の傷を見ながら手でも触れる。軽く触れられたけれど、もう痛みはなかった。
「腕が動かぬと、そう仰られましたね。それは、もう決してという事でしょうか?」
「努力次第だって、言われたけど」
「どうして、もっと早く仰ってくださらなかったのですか。旅の間、あなたがその様な努力をされているところを見た事はありませんでしたよ」
「そんな気分じゃなかったんだもの。一人で連れられて」
「……痛いところを突いてきますね。今は、どうですか。動かせそうですか」
言われて、俺は左腕に力を籠めてみる。ともすれば、左腕に力を入れて生活する事を今はもう忘れてしまっているから。身体の一部なのに、思い出した様に動かすだけというのは、変な気分だと思う。頑張って力を
入れてみると、僅かに指先が動いた。以前からすると、半歩くらいは前に進んだだろうか。
「なんとか、動かせる様になりませんと。腕が動かせる様になれば、もはやゼオロ様に、他人からとやかく言われる筋合いなどはありませんから」
ギルスの血が流れていないという最大の問題があるんだよなぁ。
そんな俺の考えを知る由もないハゼンは、俺の左肩を両手で包んで、やわやわとマッサージを施してくれる。
「どうすれば、よろしいのでしょうね。私にできるのは、このくらいの事なのでしょうけれど」
洗うついでに、俺の左肩から左手まで。両手で包み込みながら揉んでくれる。そうされると、なんだか心地良い。
「こういうのは、毎日続けるのが大事だって言うね。無理しない程度に、腕を動かしたりとか」
「わかりました。毎日こうして、身体を洗うついでに揉んで差し上げますよ」
「それは困るんだけど」
せめてガルマと面会がある日だけにしてほしい、風呂にまで付いてくるのは。左腕を終えると、右腕に、それから背中に。ハゼンの泡立った手が、滑ってゆく。
「前は自分で洗うからね」
「気持ちはわかるのですが。しっかりと洗ってもらわないと、困りますよ」
「そもそも脱いだりしないんだよね? 別に程々でも大丈夫なんじゃないの? それとも全裸で私はガルマ様に会うの?」
「流石、ゼオロ様。第一印象を強くするために、その様な作戦をお考えだったのですね。このハゼン、感服しました」
「ハゼン。そろそろ、機嫌直してほしいんだけど」
「これは失礼を。ですが、長旅の後でございますからね。一度はきちんと洗いたい物です」
「丁寧に洗うから。見逃して」
「そこまで仰るというのなら、お任せしますが。別に、そこまで嫌がらずとも、良いと思うのですがね」
俺は既に泡立っている部分に付いている泡を手に取ると、胸から下へと掛けて自分の手で洗ってゆく。あんまり、こういう所を他人に触られたくはない。それは当たり前の話なんだけど、何よりも、ミサナトを出る前に、
ヒュリカと過ごした夜の事を思い出してしまうからだった。あの時は、本当に危なかったと思う。もう少し動くのが遅れていたら、俺はされるがままにしてしまったかも知れない。
俺が手早く洗い終えると。その間にハゼンも、俺をからかうのを止めて残った部分を綺麗にしてくれる。最後に俺の足を取って、足先を。指の間や、足の裏にある肉球にまで触れてくるのは、くすぐったくて、俺は笑いを
堪えるのに必死だった。そこまで済んで、また湯を被って。ようやくお風呂に入って。温まったら、お風呂からあがって。これはもう完全に諦めていたので、ハゼンに身体を拭いてもらって。
「よし。あとはご飯を食べるだけだね」
「何を仰っているのですか、ゼオロ様」
ハゼンが脱衣所に下がって、壁際に置いてあった台を動かしてくる。大人でも問題なく乗れそうなそれに、俺は首を傾げる。
「さあ、ゼオロ様。次はこの上に。お風呂上りのマッサージをして差し上げますよ。狼族の鼻でも大丈夫な、優しい花の香りがするオイルがございますからね」
にこにこ笑いながら、ハゼンが俺の方へと歩いてくる。
やっぱり、従者を替えてもらうべきだろうか。
全身に緊張が走る。俺の後ろに控えているハゼンも、それは同じ様だった。
浴室でハゼンの魔の手から解放され、手早く食事を済ませて、被毛の具合もよくよく確かめて。それらが全て済んでから、俺は上等な絹の服に包まされて、ガルマの御座所へと案内される。部屋の入口には、
厳めしい顔の狼族の兵が、複数居て。俺達を、というよりも俺の後ろに居るハゼンを睨んでいた。そこまできて、ハゼンは膝を付く。
「申し訳ございません、ゼオロ様。私がお供できるのは、ここまででございます」
「……そう。わかったよ。行ってくるから」
本当は、付いてきてほしかったけれど。でも、ハゼンがここに居るのも、本当にぎりぎりなんだろうな。これ以上近づいたら、厳しく咎められそうな雰囲気が、さっきからとんでもない。
「ハゼン。ここが嫌だったら、先に帰ってもいいよ」
「いいえ。私はここで。ゼオロ様を、お待ちしております」
「ハゼンも、気を付けてね」
「ご心配には及びませぬ」
俺の気掛かりを察したのか、ハゼンは笑顔で俺を見送ってくれる。俺は頷くと、そのままガルマの下へと向かう。
「お待ちを。ゼオロ様で、ございますね」
「はい」
「しばしお待ちください。ガルマ様に、お取り次ぎますので」
兵の一人が、ガルマの部屋へと入ってゆく。残りの兵は、俺にも厳しい目を向けたけれど。すぐにその目が、和らいだ。これが銀狼の効果という奴なんだろうな。
「ゼオロ様。ガルマ様のお許しが出ました。お待たせして、申し訳ございませんでした」
「いいえ。ありがとうございます」
扉が開かれる。入るのは、俺一人だけ。既にここに立つまでに一度俺の身体は検められ、武器などを所持していないかの確認も受けていた。元から持っていないけど。
中へと通される。部屋は、少し薄暗かった。カーテンを閉め切っているのか、見えるのは魔法の照明だけ。それは壁にある窪みだったり、棚の上の石だったり。それから乱雑に、床に光そのものが放り投げられても
いた。なんとなく、だらしがない様な印象を受ける。
「失礼します。ガルマ様」
「誰だ」
薄暗い部屋に目が慣れなくて。どこにガルマが居るのかもわからなくて。それでも俺は、声を出さねばと、呼びかける。すると、すぐに鋭い応えが、俺に浴びせかけられる。
「本日、ガルマ様の仰せにより罷り越しました。ゼオロにございます」
緊張しながら、一字一句を紡ぐ。これ間違ってないだろうか物凄い心配だ。なんちゃって言葉が精々の俺に、こういう事をやらせないでほしいと心から思う。
「しばし待て」
言われた通り、俺はその場で待つ。すると、不意に薄暗い世界から青白い炎が舞った。俺は咄嗟に、また炎の事を考えてしまって。しかし俺がそうしても、目の前の炎は何も変わらなかった。青白い炎が、ほんの一瞬、
眩く輝いてから。やがては消えてゆく。すると同時に、部屋に散らばっていた照明の光が強まった。そして、部屋の中央の、少し奥まった場所にある広いベッドから、身を起こす人物が見える。立ち上がったそれを、俺は
呆気に取られて見つめていた。背が、大きいなと思う。俺が小さいだけなんだけれど。初対面の人と会う時は、大抵大きいなと見上げる事が多くて困る。
ゆっくりとした仕草で立ち上がったそれは、これまたゆっくりと、一歩ずつ俺の下へとやってくる。何かが擦れる様な小さな音が、その度に俺の耳に聞こえる。
暗がりから現れた人物の姿が、ようやくはっきりと見えてきた。まずはっきりと見えたのは、この薄暗い中でも輝いている、銀の被毛。俺と同じ、銀の色だった。それから、その身を包んでいる、灰色の装束を
上下に。なんとなく、和服の様な印象を受ける。ただそれは交差する事もなく、袖も無く。まっすぐに垂らしたままだった。羽織っているのはそれだけで。だから、顔から下にも、露出した銀の線が見えた。現れた顔は、
物憂げな表情をしていて、俺の姿をじっと見つめている。
「ほう。中々に、見事だ。こちらへ来るが良い」
「はい」
ゆっくりと、俺の前に現れたガルマが手を上げる。俺が近づくと、その手は俺の腕を引いて。俺を抱き寄せる。
「ガルマ様……?」
「ああ。良いな。手触りも、申し分無い」
そう言って、ガルマが屈んだのか、顔が近くなる。物憂げな表情に、今は皮肉そうな笑みが加わっていた。ガルマは、壮年の男で。そういう表情を見せると、更に歳を取っている様に見える。
「私が抱くのに、丁度良い。お前、経験はあるのか」
「ガルマ様。何を、仰っておられるのですか。私は、ガルマ様の後継者を探していると言われて、ここまで」
「お前こそ、何を言っている。私は、そんな話は知らん。私が望んだのはそんな物ではない。見目麗しく、抱き心地の良い。男の銀狼だ」
ガルマの言葉に、俺の思考が停止する。え。ここまで来たのに、俺、騙されてたの。咄嗟にガルマの腕を振り解こうとすると、強い力で阻まれて。結局ほとんど動けずに徒労に終わる。
「片腕が、動かぬそうだな。まあ、それを考慮してもお釣りがくる程だ、お前ならば。さあ、来い。見た目通りに何も知らぬのか。それともその銀の下で、私を値踏みしているのか。確かめてやろう」
腕を引かれて、ベッドへ引き込まれそうになる。この時になって、俺は全力でそれを振り払って。もう失礼だとかそんな事を考える余裕もなく、後ろへ一歩身を引いた。そうしても、ガルマの表情は変わらないで、
俺を見ている。怒りを滲ませてもおかしくはないのだろうけれど、静かなままだった。
「私の手を、振り払うとは。つくづく躾の必要な子供だな。そういうのもまた、趣があって、私は嫌いではないがな」
「何故、この様な事を」
「それは、何に対して言っている事だ? 男でありながら、男のお前を招いている事か? そう、嫌そうな顔をするでない。私とて、本来ならば、女の方を余程好いていたのだからな。お前、私の身体の事は、もう耳に
入れたのであろう? 私が、子を遺せぬ身体であると」
「存じております」
「そうだろう。しかし、それを知ってから、私は女を抱けなくなった。どれ程女を悦ばせようが、喘がせようが。狂わせようが。幾度精を放っても、女が孕まぬのでな。女を抱いて、その中に出す度に、もしかしたら、今度こそ
子ができるのではないか。そんな淡い期待を、抱かされて。そしてその度に、それは落胆に変わる。もう、沢山なのだよ。相手の女がまた、私を憐れんだ目で見てくるのも、堪らなく嫌だ。だから私は、もう女には触らぬ。
初めから、いくら交わろうが、そんな物に期待をせぬ男の方が、余程気楽という物だ。さあ、私はお前の問いに答えたぞ。お前の身体を、私に差し出せ。私がお前に求めるのは、その身体と、奉仕と、善がるお前が私に
向ける、懇願の声だけだ」
再び手が、伸びてくる。でも、生憎俺も、そんな簡単に酔狂なおっさんに手籠めにされるつもりはなかった。再度振り払い、距離を取って。それからガルマを睨みつける。
「生意気な餓鬼が」
ガルマの目が、大きく開かれた。そこに居たのは確かに、狼族の族長としての威厳と迫力を備えた男だった。ホモに転校してきたそうだけど。ガルマの怒りに合わせて、その身体の周りに青白い炎が、また現れて。それが
一つでも俺に触れれば、俺なんか簡単に消し炭にしてしまいそうだった。それでも俺は、ガルマを睨んだまま。
「くだらない。そんな事のために、私を態々お呼びになったというのなら。私は帰ります。種馬にもなれない男の性欲処理をするために、ファウナックくんだりまで来た訳ではありません」
青の炎が、大きくなる。あ、死んだなこれ。でも、良いか。どの道外に出ても、兵が待っていて。手籠めにされるか、そっちで死ぬか。どちらかしかない。だったらこの場で潔く死んだ方が良かった。外にはハゼンも
居るのだから。ハゼンがこの事を知っているのかはわからないけれど。もし俺の身をまだ案じてくれているというのならば、ハゼンにも危害が及ぶ可能性は否定できない。
元々鋭かった目が、更に目だけで他人を殺せそうな程に細められると、ガルマの身体が淡く光りはじめて。辺りを舞う炎も大きくなる。その後ろに今まで存在を隠していた大きく、長い尻尾がゆらゆらと揺れていて、
引き摺っている音は、あれだったんだなと今更理解する。やっぱり族長だけあって、強いんだろうなと、俺はぼんやりと考える。そう考えるとやっぱり俺には族長って、ふさわしくない気がする。絶対強くなれないだろうし、
寧ろ弱いし。
黙ったままそれを見つめている俺の下へ、ガルマが歩いてくる。俺はもう、逃げもしなかった。逃げた方が数秒くらいは長生きできそうだけど、炎が変な風に飛んだら、外で待っている人まで巻き込まれかねない。
目の前までやってきたガルマを、見上げる。そうしていると、このガルマという男は、本来はもっと体格が良かったんだなというのがわかった。今も、充分に成人男性にふさわしい体躯をしているけれど。でも、羽織っている
服が、ちょっとサイズが合ってないというか。肩周りも含めて、服に着られてる感じが出ている。気を病んでいるとハゼンが言ったのは、この事なんだろうか。病み過ぎて男に走るくらいだから、仕方ないかもしれないが。
ふと、炎が全て消える。それと同時に、部屋の照明も。一瞬にして視界を奪われて、俺は余計に身動きが取れなくなる。
その内に、目の前から噴き出す様な音が。続けて、豪快な笑い声が響いた。
「ガルマ様……?」
「ははは。久しぶりだな、こんなにも、動じない奴というのも。さて、茶番は終わりだ」
手を叩く音がすると、途端に消えたはずの照明が、今までよりもずっと明るくなって。最初の薄暗さもどこへやら、窓を開けて光を取り入れている状態と変わらない程の明るさになる。その光の中から現れたガルマは、
にこやかに微笑んで俺を眺めていた。
「少し変わった奴だと言うから、どんな物かと思っていたが。いや、想像以上だな、お前は」
「試されていたのですか」
「すまぬな。だが、半分は本気だったぞ、ゼオロ。お前の被毛は、とても美しかった。小さい頃に見た、兄とよく似ている。兄はもう少し、身体付きはしっかりとしていたがな。最初にお前を見た時、思わず、後継者候補として
扱うよりも、私付きの、手の届く小姓にしてやろうと思ってしまってな。大抵の奴はあれで、私の手元に落ちてくると思うのだが、残念だな」
「帰っても良いですか」
「おお、それは困る。こうして無事、お前は私の後継者候補になったのだからな。いや、残念な事だな」
思わず俺は、隠しもせずに溜め息を吐く。そういうところを見せても、ガルマはまったく気にせずに声を上げて笑っていた。さっきまでの話の通じなさも何も、演技だったのか。ホモな部分も演技だったら尚良かったのに。
「重ねて詫びよう。何せ、お前はあのハゼンを従者にしているというからな。なるほど、確かに。あれもお前に付くのは、わからんでもないな。他の銀狼ならあれを従者にはせんだろうし、今の様に私が声を掛けたら、
喜んで身体を差し出す者も多かっただろうに」
「前者はともかく、そう簡単に身体を許すとは思えませんが」
「それが、そうでもない。なれるかわからん族長の座よりも、私の寵愛を受ける方が、良しとする者も多い。私が女に手を出さなくなったのは、事実だしな。そして手を出さなくなっても、性欲という物はどうにも持て余して
しまうからなぁ。いやはや、男という生き物の、悲しい性という奴よの」
本当、嫌なところだけ事実だなこの人は。
「まあ、座れ。話したい事が色々とある。椅子なんぞは無いがな」
そう言ったガルマも、少し下がると床に座って、自分のベッドを背凭れ替わりにして、かなりだらしがない姿勢になる。でも、その様子は俺にはちょっと親近感を抱かせた。人間だった頃の俺は、よくそんな風にベッドを
背凭れ替わりにして、本を読む事も多かった物だ。ガルマが落ち着くのを見て、俺もその場で正座をする。
「さて。改めて、名乗ろうか。私が現在の狼族の長である、ガルマ・ギルスだ」
「ゼオロです」
「……うむ。それにしても、若いな。子供と言っても差支えない。その形で、よくぞハゼンを連れて、私の下まで辿り着いた物だ。実際、それだけで私の手元に置いておきたいものだな。そうすると、あのハゼンにはまた一人に
なってもらわねばならんが。私はあれに、あれ一人では内郭に入る事を禁じている。何せ赤狼であるからな。それ故に、族長候補の銀狼の内、誰でもいいから、その従者となる事ができたのならばと、言ってやったのだ。
どうせ誰もあれを連れる事はないと思ったのだが、まさか、お前があれを連れてくるとはな」
「趣味の悪い方ですね」
俺はもう、遜る事もどこかへやって、言いたい事を言う。今更恭しく振る舞っても、俺がさっきガルマに吐いた暴言は無かった事にはならないし、ガルマもまた、そういう俺の方を求めている様だったし。
「ははは。実に痛快な物言いだったな。思わず演技だという事も忘れて、殺してやろうかと思ってしまったぞ。種馬にもなれぬ男、か。まさにそうだな。今思い返しても、腸が煮えくり返りそうになる程の物言いだ」
「……申し訳ございません」
「いや、いい。事実だからな。それに……そう言いたげな目で見られるよりも、ずっとましだったよ。胸がすっきりした。同時に、情けなくもあるがな」
少し、寂しそうにガルマが微笑む。そういう顔をされると、咄嗟に言ってしまった事とはいえ申し訳なくなるので、そんな顔しないでほしい。もっと悪い顔していてほしい。
「まあ、この件は水に流そう。私もついからかってしまった。それで、よいな?」
「ガルマ様さえ、お許しくださるのなら」
「よい。さて、本題に入ろうか。私の後継者候補として、今回お前を。それから、お前以外の銀狼も、多数このファウナックへ呼んだ。それは、間違いではない。だが、私は何も、今すぐに族長の座を退くつもりはない。そもそも、
いくら遠縁からであろうと族長を取るとはいえ、私はお前達の事を、何一つ知りはしないのだからな。今日の様に、一人ずつ話を聞く事も、まだ始めたばかり。これでは、誰を後継とすれば良いのか、わからぬ。実際、
大抵の者は私に恭しく接して、言ってしまえば、皆同じ様なものであったしな。おっと、お前は違っていたが」
そこまで言って、ガルマが一人で腹を抱えてわははははとまた笑う。なんか煩いなこの人。煩いのはあの猫野郎だけでいいのに。意外と合いそうだな。俺は笑いもせずに、それを見守っている。
「それ故に。私はまだ、お前達の内、誰を。そういう気持ちではない。それは、これからのお前達次第だ。しばらくは、このファウナックに留まるが良い。そうして、お前を、お前達の事を、もっと私に見せてほしい。手段は
問わぬ。禁ずる事があるとすれば、他の候補を武力で脅す事、暗殺する事であろうか。それ以外は、特には禁じぬ。あとは私がお前達を見て決める事だ。何か、言う事はあるか」
「おおざっぱですね」
また、ガルマが声を上げて笑う。なんか言うとこうなるのはなんとかならないだろうか。
「仕方ないではないか。そもそもが、遠縁の銀狼なのだぞ。本来ならば族長を継ぐためには、もっと近縁である必要があったし、もっと細やかで、鬱陶しい条件もあった。その基準で言えば、今回集めた銀狼は、
皆それを満たしているとは言えぬのだ。銀狼としての体裁を保つために、その辺りの全てを不問にして、銀の被毛の美しい者を集めた。となれば、あとはもう私の目で見てやるしかない。それ程に、銀の被毛とは、
大切な事だ。自らが銀狼であるのだから、お前もそれは、充分に感じている事だろう?」
「そうですね」
確かに、そうだ。この世界に現れて、二ヶ月と少しくらいの俺だけど、それでも銀狼の持つ特殊性というのは充分に理解している。ミサナトで道を歩いていたって、顔見知りでもないのに狼族からは親し気に声を
掛けられたし、クロイスも心の中ではそれを考えていたし。ハゼンにしても、そうだった。そもそもが、銀狼だから、俺はここに来る事になったのだし。
「私が子を遺す事ができれば、こんな事は、必要無かった。それに関しては申し訳なく思う。……すまないな」
ガルマが、軽く頭を下げる。現族長が頭を下げるというのも、中々珍しい事なのだろうなと、それを見つめて思う。同時に、ガルマという人物が少し見えた気がした。思っていたよりも、厳格な人物なんだな。ホモい部分も
無ければ良かったのに。
「さて、そんな訳だ。私からとやかく、こうしろ、ああしろ。そういう事は言わぬ。先に言った通り、ただお前が、どの様な人物であるのかを見せてほしい。まあ、できるのならば、何か派手にやらかして、私以外の目にも族長に
ふさわしいと見てもらえた方が、後々楽ではあるのかも知れぬがな。いくら私が族長であって、その上で英雄グンサを兄に持ち、正統なギルスの血を引く者であっても。私の一存が全てという訳にもゆかぬ。寧ろ、今回
この様な手段を取った事で、近縁の者からはいくらか疎んじられる様になってしまった。かといって、奴らでは不足があるのだから、仕方がないのだがな。私達がまだ、ラヴーワとなる前。それぞれの部族を率いる者が、
族長であり、同時に王であった時代であるのならば。族長の一存で全てを決める事も、不可能ではなかったのだが。この様に連合国となった今、王の意味は薄れ、それと同時に銀の被毛が持つ意味は強まった。特に、
対外的な銀狼の価値は相当な物だ。狼族を一纏めにするための銀狼、ギルスの血筋であったのだからな。それが損なわれたとあっては、八族の中での狼族の発言力は弱まるし、一人一人の狼族の誇りにも影響が
出る。ただでさえ、スケアルガの事でギルスの血を色濃く持つのは私と、既に子を作る力も無い程に年老いた連中ばかり。いずれ本家の血筋が途絶えるのは、火を見るよりも明らかな事。事ここに至り、遠縁で
あるなどと、とやかくは言っておられんのだ。せめて、銀狼である事。もっともわかりやすいその部分だけは、どうにか守らねばならぬ」
「……お話は、よくわかりました」
「そうか。何か、訊いておきたい事はあるか」
「族長候補を辞退する事はできますか?」
「許さん。……という訳ではないが。ああ、やはり。お前はそれを口にするのだな。お前だけが乗り気ではないと、ハゼンが嘆いているのはもっぱらの噂であったが、あれは本当の事だったのだな」
「私にも、事情があります」
「そうか。いつか、それもぜひお前の口から聞きたい物だな。だが、今は。私からも頼む。しばらくの間だけでも構わない。ここに、居てくれぬか」
「その様に引き留める程の理由が、おありなのでしょうか」
「当然だ。お前は、我が兄に似ている。特にその被毛がな。ギルスの血筋とは、中々に侮れぬ物だ。私を見てもわかるだろう? 街を歩く普通の、血の薄れた銀狼とは違う事が」
それは確かに、その通りだった。今のガルマは、食み出している被毛の全てが光り輝いている。大柄な狼のその姿は、まさに伝説にでも語られていそうな存在だった。痩せ細って、まだ子供である俺とは違い、既に大輪の
花を咲かせているガルマの姿は、彼が銀狼を率いる狼族の長である事と、その身体に色濃くギルスの血が流れている事を、疑う余地を許さぬ程で。改めて見ると、俺はそれに見惚れてしまう。第一印象が悪かったから、
今までじっと見つめる事もできなかったけれど。
「お前もいずれ、こうなるはずだ。その被毛は、染めた物ではない様だからな」
「え?」
「先程、お前に一度光を浴びせただろう。あれは、被毛を染めている様な小細工を看破するための物だ。私には、そういうまやかしの類は通じぬ。私以上の使い手となると、話は別だが。そうそう居るものではないぞ」
そうか、被毛を染める手があったか。しかも魔法で染められるという。さっさと銀以外の色にしてしまえばよかったな。
「おっと、よからぬ事を考えるのは、よせ。もう私はお前の事を、しっかりと憶えたのだからな」
遅かった。遅かったよ。知ってた。
でも、それよりも一つ気になったのは、こうしてガルマが認める程に、俺は生粋の銀狼であるという事だった。さっきのガルマの放ったという魔法で、俺の銀が無くなったり、そもそも狼族の姿ではなく、人間だった頃の
姿に戻ったりもしないところを見るに。この身体は、本当に狼族の銀狼として機能しているんだな。なんだか、ちょっと安心した。誰かの好意を受けたり、誰かと一緒に居るのが、もう少し気楽になるというか。だって、
いつか人間に戻ってしまう、なんて事があったら。築いた関係なんて、きっとあっという間に壊れてしまう。銀狼として、外見を褒められれば褒められる程に、それは俺の心の中に、俺の肩を焼いた様に小さな炎となって
燻ぶり続けていた。それも、あまり気にしなくていいというのはありがたい情報だった。それだけで、ここに来た価値はあったのかも知れない。もし化けの皮が剥がれていたら、死んでたかも知れないけれど。
「さて、私からの話はこんなところだ。できるのならば、ここに残ってくれる事を期待しているぞ。とはいえ、逃げ出そうとしても、お前の忠実なハゼンが、逃がしてくれるとも思えんが」
「私も、そう思います」
「腕が立つからと、召し抱えてみたが。やはり赤狼であるという事は、他の者も良い顔はしなくてな。あれは召し抱えた私に、一心に仕えようとはしてくれるが。それも、傍に置く事もそのままではできぬ。今回はあれにも、
機会をくれてやったのだよ。銀狼の従者となる事ができたならば、とな。まさか、従者となるだけでなく、この様にお前を一途に慕うとは、思っていなかったが。手駒を一つ取られた様な気分だ」
「本人が納得するのであれば、お返しして、私もお暇しますが」
「本人が納得するはずもない事を、さらりと言うな。あれもまた、より自分が上に行くために、後継者候補を利用している部分はある。それとは別に、お前に忠誠を誓ってくれているのならば、私からは何も言うまい」
ああ、そうか。だからハゼンは、俺をどうにかしてここに連れてきたかったのだろうか。他の銀狼は、ハゼンの事を、赤狼の事を、とても嫌がっている様だし。ここに居る事ですら、ハゼンの力だけではどうにもならない
というのは、なんだか歯痒い気がする。最初から、もっとはっきり言ってくれても良かったのにな。それは流石に、嫌われてしまうからと避けていたのかも知れないけれど。
「それでは、私はこれで失礼します。本日は、ありがとうございました」
「なんの。機会があればまた話そう。お前は、中々に面白い。ああ、それから。その気になったら、私の物になれ。どうせ、族長の席には興味が無いのだろう?」
「お断りします」
「まったく。ハゼンもとんだ逸材を見つけてきた物だな。族長にも、私の物にもなりたくないなどと。その銀が泣くぞ」
「銀狼である前に、私は、私ですから」
言ってから、自分でも自重めいた笑いを零してしまう。本当に、そうだな。身体が変わったけれど、中身の俺はそのままだから。銀狼である前に、狼族である前に、ゼオロである前に。俺は、俺でしかないのだな。
「また会おう」
一礼して背を向けた俺の背中に、ガルマの言葉が届いた。
「ゼオロ様!」
外に出て、扉の前に控えていた兵に挨拶をしていると、ハゼンが慌てた様子で走り寄る。そのハゼンを、兵達は厳しい顔をして咎めるのを見て、俺は慌てて自分も走り出して、扉から離れた。
「ハゼン。無理しないで」
「申し訳ございません。しかし、心配で。大丈夫でございましたか?」
「笑い声、聞こえなかった? ガルマ様の」
「いえ。ガルマ様の部屋には、魔法が掛けられておりますから。ガルマ様も、かなりの使い手であらせられるので。外にはおいそれと音が漏れる事はございません。当然、ゼオロ様と、ガルマ様が、何を話していたか、
などという事はわかるはずもなく。しかし、笑い声と今、仰りましたね。それでは?」
「うん。とりあえずは、そうだね。恙なく。そう言ってもいいのかな」
実際は全然そうじゃなかったんだけど。特に会ってすぐが。その直後の俺の暴言が。まあ、聞こえていなかったのなら、いいか。特に俺の暴言がもし聞こえていたら、今扉の前に居る人達が黙ってはいない気がする。
「それは重畳でございましたね。では、お部屋へ戻りましょう。いつまでもここに居ては、いけませんから。私達のために割かれた時間も、短いので」
「時間、決まってたの?」
「ええ。この内郭には、他にも族長候補の銀狼の方がお泊りになっているのは、おわかりですよね? けれど、他の銀狼の方は、お見えになられないでしょう? これは候補者同士では、直接顔を合わせぬ様にとの配慮で
ございまして。ゼオロ様が本日こちら、ガルマ様の御座所に向かわれるという事で、他の銀狼の方は立ち入りを許可されてはおりません。ですので、私達も速やかに戻らねば」
「そうだったんだ。どうりで、誰も見ないなって思った」
来た時と同じか、それ以上に足早に。ハゼンの先導を受けて部屋へと戻る。自室に戻って、待機していた小姓にハゼンが飲み物を言い付け持ってこさせると、すぐに下がらせる。俺があまり他人の目を良い物と思って
いないという事を知って、使用人も呼ぶまでは姿の見えない場所に居る様にしてくれる。退室をハゼンに命じられた使用人の方々は、とても残念そうな顔をしているけれど。そんなに俺に仕えるのって、面白い事なの
だろうか。最初に俺を迎えてくれた時も、狼なのを差し引いてもわかるぐらいに、目がきらきらと輝いていたけれど。
「さて。ゼオロ様。まずは、お疲れさまでございました」
「うん。ありがとう」
「それから……申し訳、ございませんでした」
それを言い終えると、ハゼンはベッドに座る俺の前で、平伏する。
「どうしたの、ハゼン」
「ガルマ様から、私の事はお聞きになられたのでございましょう? 当然、ゼオロ様を己の立身のために利用した事も、ご存知のはずです。その様な私欲のために、あなた様を足掛かりにした事を。お詫び申し上げます」
「別にいいよ。というより、少し安心した。ハゼンにも、そういう目的があって」
「また、その様に仰るのですね。あなた様は」
「私欲の無い人が、理由もなくそこに居てくれるより。利害の一致故に一緒に居てくれる人の方が、わかりやすいでしょ? それに。私は馬車の中で、言ったはずだよ。勝手に私を使ったら良いって」
「そこまで、お考えがあっての言葉だったのですね。感服致しました」
「いや、どうせ私が何かしてもどうにもならないから、適当に言っただけの気がするけど」
実際、今もそうだけど。俺はまだ、選択権も無く、連れられてきただけの身であるのは確かだった。自分でここに来る事を選んだと、口では言っているけれど。ミサナトに残る訳には、いかなかった。その上で、自分の
意思で今戻る訳にもいかない。ガルマに目通りを済ませて、ガルマにここに居る事も許された。今飛び出すと、今度はガルマの顔に泥を塗ったと言われかねない。ああ、どんどん詰んでゆく。逃れられない。少なくとも、
後継者問題に何かしらの動きがあるまでは、もう出られそうにないな。ハゼンも俺をある程度利用する腹積もりなのがわかったし。言い換えればそれは、説得をしようがここから逃げるための協力を取り付けるのは難しい
という事なのだから、尚更だろう。
「ゼオロ様?」
声を掛けられて、我に返る。いい加減、考えに没頭するのは一人の時にしないとなと思う。とはいえハゼンも俺の様子をよく見に来てくれる方だから、難しいかもしれないけれど。
「如何されましたか」
「……ごめん。ちょっと、怖くなって」
「私が、でしょうか」
そうハゼンが言うものだから、俺は思わず笑ってしまう。
「違うよ。ガルマ様にここに居る事のお許しは頂けたけれど。これで本当に、私も後継者争いの渦中に居るんだなって。困ったね。私は別に、自分が族長になりたい訳ではないのだけど」
「またその様な事を」
「ごめんね、ハゼン。ハゼンからしたら、こんな私は、嫌で仕方がないのに」
「……いいえ。先に申し上げた通り、他の銀狼の方では、私はお傍でお仕えする事も敵う物ではございません。全てが、あなた様だから。ゼオロ様だから。私はただ、ここに居る事が許されているに過ぎません。その
あなた様が、族長となるのにあまり意欲的でない、というのは。そのう。確かに困った物だと、思わないではないのですが……。けれど、そんなあなた様だからこそ、私を傍にも置いてくださるのでしょうね」
「ちょっと無理矢理納得しようとしてない?」
「そういう事は、仰らないで頂きたい物ですね。私もまだ、自分の身に訪れた好機に、戸惑いもあるのですから」
「そっか。ハゼンも、そうなんだね。考えてみたら、ハゼンだってまだまだ若いのだし。そうなると、これからお嫁さんを探したりもするんだね」
「嫁、でございますか……。その様な事は、まだとても。それに、赤狼でございますからねぇ」
「内郭に入る事まで今回許されたのだから、このガルマ様の館の中はともかく、ファウナックではとても評判なんじゃないの? 赤狼の狼族って、私は他に会った事もないけれど。そういう人達からすれば、こうしてガルマ様の
下で務めを果たしているハゼンは、きっと誇らしいと思うのだけど」
「そうであれば、よろしいのですがね」
少し微妙な顔をして、ハゼンが俺の言葉をそう閉める。俺は少し首を傾げてその顔を見つめた。赤い狼は、何か考える仕草をしていて。それもその内に止めると、また俺に向かって笑いかける。
「ですが。嫁だのなんだの、今は取る余裕はございませんよ。それに、ここからが大事なのでございますから。しっかりと、ゼオロ様を支えて。あなた様が族長になりたいというのなら、その座へ、そうでないとしても、あなた様の
望む事をするのが、この私の望みでございます。私の事はそれらが済んだ後の事ですよ」
「そんな事してると、婚期を逃しちゃうよ、ハゼン。せっかく恰好良いのに」
「……ありがとうございます。ゼオロ様」
それで、その日は終わりだった。なんだかんだで俺はガルマに威圧された事で、あまり元気が出ない上に、かなり精神的に疲れていたのだろう。それに夜中に起きて泣いていたのだし。そんな俺をハゼンも察して
くれたのか、俺が心地よく眠れる様に室内を整えると、俺を横にさせて、自分の部屋へと戻っていった。
翌日。俺が部屋から出ようとすると、鬼の形相をしたハゼンがやってきて。ガルマに対してとんでもない暴言を放ったのは確かかと、詰め寄られた。
「どこから漏れたの、それ」
「ガルマ様が、大変機嫌がよろしいというので、周りに居た者が何か良い事がおありになったのかと訊ねたのですよ。それで、ガルマ様はその事を。ゼオロ様、昨日私に、確かに恙なく面会を終えたと、仰ったでは
ありませんか。あれは嘘だったのですか」
「いいじゃない。ガルマ様が、怒ってなかったんだから。寧ろ笑われたんだけど」
「とんでもない! とんでもない事でございますよ、ゼオロ様! あのガルマ様を、その様に罵ってしまった等と! それも、その……ああ、なんという言い種で」
「種馬にもなれない男」
「おおお、なんという事を……なんという、恐れ知らずな……」
ハゼンが俺の目の前で、頭を抱えて蹲っている。あれ、そんなに不味かったかな。
「そんなに不味かった? ガルマ様は、はっきり言ってくれる方が良いって、笑ってくれたし。また来いとも言われたけれど」
「それは、まだ良かったと言わねばなりませんが……。しかしガルマ様をその様に言われては、納得できぬ者達も、多いのは事実でしょう」
「どうせ、自分達だって心の中では思っている癖にね。そういうのが嫌なんだって、言ってたよ」
「ゼオロ様!!」
「ああ、わかったわかった。ごめん。私も、つい言っちゃったんだよ。状況が、状況だったから」
「どういう事でございますか」
仕方なく、俺は黙っておこうと決めた事を。ガルマの部屋で、ガルマに手籠めにされそうになった事を伝える。すると、またハゼンが頭を抱えはじめた。
「な、なんという事を……ゼオロ様とて、決して軽んじて良い相手ではないのは、おわかりになっておられるはずなのに。この銀の美しさに、目が眩んでしまわれたのか、ガルマ様は」
「ハゼン。あんまり頭を掻きむしると、禿げてしまうよ」
「誰のせいですか、誰の。ああ、もう……ガルマ様もガルマ様ですが。その様に立ち向かってしまうゼオロ様も、ゼオロ様でございますよ。似た様なところが、おありなのかも知れませんね……」
「兄のグンサ様に似ているから私が欲しい、なんていうブラコンと一緒にされるのは嫌だな」
「ゼオロ様!」
怒られた。でも、俺の本音はそうなんだよな。ガルマ自体は、別に悪い印象は受けなかったけれど。寧ろ俺の吐いた暴言に笑ってしまっている辺りは、かなり寛大で、そこは好ましいとも思うけど。
「ああ、なんという事を……。これでは他の後継者候補から目を付けられても、文句も言えませんよ」
「別に私は族長になるつもりがないし、いいんじゃない。私を蹴落とすために掛ける手間暇は、全て無駄になるのだから。ガルマ様は、後継者候補の銀狼の事をよくよく見るおつもりの様だし。足の引っ張り合いにばかり
終始している様な奴は、決して認めやしないよ。どうせ族長になるつもりがないなら、そうやって私が囮になる事を望まれたのかもね。ガルマ様も」
「まさか。その様な事は」
「そういう意図か。或いは、本心ではやっぱり私を気に入らないから消えてほしいか。とにかく、何かしらの理由がないと私が暴言を吐いた事を、態々吹聴される方には見えなかったな。ガルマ様がそのつもりなら、私は
構わないけれど。実際、やる気も無いのに私がここに居るのは、事実だし。かといって今すぐに出ていけないのは、歯痒いけれど」
「はあ。まだ、ファウナックへあなた様をお連れして、三日目だというのに。どうしてこんな事に」
ハゼンがますます頭を抱え込む。ガルマの目的がわからないのだから、そうしたい気持ちもわかるけれど。
「大変だね。ハゼン」
「どの口が、そう仰るのですか」
「……私は、私のしたい様にするよ。ハゼン。とても、申し訳ないけれど。それが嫌なら」
「それ以上は、仰らないでください。このハゼン。あなた様に仕えると、決めたのは確か。今更、離れる等とは。しかしながら、できれば何かをする前にご相談頂きたい物でございます」
何かする前に相談しろ。ハンスにも、確か似た様な事を言われたっけ。そこは申し訳なく思う。
「それは、ごめん。ただ、昨日はそういう事をする余裕も、無かったから」
「確かに、そうではございますが……」
ハゼンを立ち上がらせて、そのまま部屋を出る。使用人を呼んで、朝食を出してもらおうと思ったら、昨日まであんなににこやかだった使用人が俺を怖がる様な目で見ていた。あれ、なんか様子がおかしい。
「どうしちゃったの、あれ」
「ゼオロ様の発言のせいでございますよ! あなた様の銀に見惚れていたというのに、あの様な暴言を吐いてしまわれるから。彼らもすっかり怯えてしまって……。美しい花には、棘があるという事でございますかねぇ」
「あまりそういう言われ方は、好きじゃないんだけど。まあ、別にいいよ。何か一つの事柄を見聞きしただけで、簡単に距離をころころ変えてしまう人は、私は好きじゃない」
「もう少し、危機感を持って頂きたいのですがね。……まあ、仰る事は理解できますがね」
「危機感は持っているよ。それでもこんな風にしていられるのは、ハゼンが居てくれるからだね」
ハゼンが、頭をまた抱えた。
朝食を済ませると、俺はハゼンを連れて、早速後継者候補にふさわしい行動をする事を全力で放棄して、図書室へ向かい、興味を引かれた本を手にとってはハゼンに押し付けて、悠々とそれを借りて部屋へと戻って、
前世よろしく快適な引き篭もり生活を始める。
「ゼオロ様……」
大変恨みがましいハゼンの視線を他所に、借りた本を乱雑に机の上に置く。
「そういえば、こうして出歩くと他の銀狼の人ともその内会ってしまうと思うのだけど。それはいいの?」
今更だけど、この内郭に何人居るのかは知らないけれど銀狼が居て、いつかばったり会う事もあるのではと問いかける。
「それは、最初の内だけ。ガルマ様との面会を済まされるまででよろしいのですよ。要は、ガルマ様が一目見て話をするまでに、余計な事をされては困るというので。それに、ガルマ様は街に出て精力的な活動をされても
良いとされておりますからね。街中で候補者同士が偶然出会ってしまうところまでは、どの道面倒は見られません」
「それも、そうか。その内に他の銀狼に会うかも知れないんだね。睨まれないと、いいけどな」
「余程の事がない限り、ゼオロ様を見たら他の銀狼の方は避けると思いますがね」
「私、そんなに怖い?」
「あの様な事を、ガルマ様に仰っては。それに、その銀の美しさには偽りがありませんから」
偽りしかないんですが。
「まあ、いいや。本を読もう。物知らずともこれでさよならだね」
「適当に見繕った本で、十全な知識が得られるとは到底思えませんがね。当たり前の事ですが、書物というのはいつだって。今、には決して追いつけぬ物でございます」
「そこは、ハゼンに任せよう。私が物知らずなのは、もう知られてしまったし。とても頼りにしているよ」
「頼られるのは、嬉しいのでございますが……」
せめて族長候補として目を向けてもらえる様な事をしてくれと、ハゼンの目が語っている。
「無知を晒していては、それもできる物ではないよ。ハゼン。私を信じて」
「信じられませんね。やる気が無いと公言されてしまう様な方は」
確かにそうだった。俺もハゼンの立場だったら、俺自身の事は到底信じられそうにないな。そう考えると、ハゼンってやっぱり凄いと思う。ぶち切れて出ていかれても、正直不思議じゃない。
「ゼオロ様。せっかくですから、お庭で読書をされては如何でしょうか。今日は晴れておりますし、日差しも穏やかでございますよ」
「庭? あったの?」
「ええ。応接間の方から、出られますよ。部屋ごとに庭も区切られておりますから、他の銀狼の方と会う様な事もございません」
「なら、そうしようかな。どういう所か見ておくのも、良いだろうし」
自室からハゼンの部屋、応接間へと移動して、窓へ近づく。確かにそのまま、そこから外に出られる様になっていた。そういえば部屋の探索も、あんまりしていなかったんだよな。特にこの応接間は、たまに使用人達が
来る場所でもあるから、下手に探検気分で見て回る訳にもいかないし。俺が人嫌いと公言したり、ガルマに対する暴言で彼らから恐れられていなかったら、基本的にここで待機しているそうだし。
庭に出ると、まず飛び込んできたのは花壇だった。ただ、その中はあまり手入れされているとは言い難い。花に交じって、雑草が少し見える。少し遠くを見ると、厚い壁が立ちはだかっていて。あの向こう側がこの内郭を
包んでいる池なんだろうなと察する事ができる。壁伝いに辺りを見ていると、その内植物によって造られた壁が見える。丁度、隣の部屋の方向だった。
「あの向こう側にも、私以外の銀狼が居るんだよね」
「左様でございます。ガルマ様の御座所が内郭の中央に。後継者候補の銀狼の方々が住まうのは、この内郭の外周部をそれぞれ区切ったお部屋となりますね。ゼオロ様は入口に一番近いお部屋でございますから、
隣り合うのはあちら側だけです」
「ふーん。どんな人が居るんだろう。会うのが楽しみだね」
「私は今から、胃が痛くなりそうな思いですがね」
とりあえず、本を持って適当に庭を歩いてみる。庭といっても、正直殺風景な光景だった。まだ少しだけ寒いからかな。花壇の道も、今はほとんどが土色で。見ていて楽しい物でもない。
「あんまり、花も咲いていないね」
「ファウナックの周辺は、少しだけ気温が低いですからね。今は四の月の末でございますから、それでももう間もなく、ここにも春が訪れます。待ち遠しい物でございますね」
「春、か」
そういえば、この世界も四季という物があるんだな。地域によっては無い事も多いそうだけど。確か翼族の谷はかなり寒いらしくて、春も短いと何かの本で読んだ気がする。
「ゼオロ様は、春はお嫌いでございますか?」
「どうして?」
「なんだか。あまり喜ばしいお顔をされませんでしたので」
「……好きだよ。春はね。花も、綺麗だよね。私は、花の名前まで憶える程ではないけれど。でも、見るのは好きだよ」
春と聞くと、もっと別の事を考えてしまうけれど。慌てて考えを戻す。花は、好きだった。でも、名前はほとんど憶えられない。個人的には憶えていない方が好きなんだけど。名も知らぬ花。そう思っていた方が、どんな花も
自然と愛でられると思う。花言葉とか、中々に洒落ていて良いとは思うのだけど。
「ハゼンは、春の事、好き?」
「ええ。とても。冬はやはり、冷えますしね。夏は暑すぎますし。丁度、今ぐらいが、私の被毛の具合だと過ごしやすいですね」
「確かに。これ以上暑くなると、少し困るね」
モフいのも考え物だと思う。夏は地獄だな。この辺りは気温が低いそうだから、避暑地としては最適なのかも知れない。
「さて。話してばかりいないで、本を読もうかな。ハゼンも、自由にしていていいよ。何かあれば呼ぶから」
「畏まりました。私は少し、ゼオロ様の身の回りの物などを、もう少し見繕ってきます。服も、まだ足りるとは言えませんからね」
できる従者はそう言って、髪と尻尾を風に靡かせていってしまう。それを見送ってから、俺はとりあえず本を一冊手に持ったまま庭の壁際まで行くと、そこに座り込んで本を読みはじめる。シートも何も無しに直に座るのは、
良くないかも知れないと思ったけれど。今更中に戻るのも面倒臭くて。深く考えずに、広げた本に目を落とす。この世界で書かれた、冒険小説。ハゼンが見たら怒るだろうな。それらしい本の中に紛れ込ませておいたので、
ばれていないはずだ。情報収集はどうしたのかと憤慨されそうだけど、これはこれで、この世界の知識が盛り込まれている部分もあるので、大丈夫だと思う。それにファンタジー限定で本の虫の俺が、まさかファンタジーな
世界にあるファンタジーな本を読むのを諦められる訳がなかった。ハンスの家にあった物も、大体読破したし。
広がる本の世界を、そのまま黙々と読み進める。展開とか、そういうのは元居た世界とそこまで変わる訳じゃない。魔法に関する情報だけが、少し変わっていたけれど。傷を癒す魔法が、簡単な物ではない、という辺りが
特に。この世界だと、そうなんだよな。なるべく傷は受けたくないところだ。受けたけど。
古びているが故に、幾分黄ばんでいる紙の上で躍る文字を眺め続けていると、その内に声が聞こえて俺は読書を中断する。なんの音だろうと耳を震わせて、まず方向を断定しようとせわしなく動かして。とはいえ、
これは簡単な作業だった。俺の部屋から音がしない事さえわかってしまえば、あと音が立つ場所と言えば、唯一隣り合っている部屋なのだし。そちらから聞こえる音をもっと耳に入れると、それはすすり泣く声だと
いう事に気づく。本を閉じて、立ち上がって。そちらへと歩き出す。植物の、木と蔦と葉の絡まる壁が、通せんぼしていた。その先にある物も、見えない。ただ、少し高い位置で隙間がある場所があって、そこからなら
どうにか向こう側が見えそうで。俺は少し背伸びして、その穴からどうにか向こう側の様子を観察した。外壁に身を預けて、蹲っている人が見える。狼族の。それも銀狼の、少年だった。俺よりも、更に若い。蹲った
銀狼の少年は、目に涙を浮かべていて。それが何度払っても、後から、後からと溢れてきてしまうのを、鬱陶しそうに払い続けていた。
「どうしたの?」
自分の立場も、ハゼンの言葉も忘れて。俺は声を掛けてみる。すると、びっくりした様にその銀狼は身体を跳ね上げて、辺りを見渡していた。