ヨコアナ
13.彼は赤狼であるが故に
がたんごとんと揺れている馬車の中。俺は物憂げな表情のまま、用意されたクッションに身を委ねていた。これ凄いふかふかしてる。
「ゼオロ様。大丈夫でございますか」
「……うん……」
向かい側の席に座るハゼンは、心配そうに俺を見つめていた。馬車に乗りはじめた時は隣だったけれど、想像以上の馬車の揺れに俺はやられて、ハゼンを向かい側へと追い出していた。
ぐったりとする俺にクッションが宛がわれ、俺はそのまま瀕死の態で馬車に揺られている。正直、こんなに揺れると思ってなかった。ある程度整備された街道の上といっても、長い年月、人や車輪、その他様々な物が上を
通るせいで、元の世界の道路の様な、平な状態を維持している訳ではない。その上で、今揺られているのが馬車だという事も重なって、揺れは割と大きい物が来るし、たまにがたんと何かに乗り上げたり、或いは窪みに
嵌りかけて、その度に俺の快適と思っていた旅を幸先の悪い物にしていた。
「……ごめん。こんな風に、乗り物に乗った事がなくて。思っていたより、ずっと揺れるんだね」
「左様でございましたか。しかし今は、耐えていただかなければなりません」
「わかってるよ、ハゼン」
俺のハゼンに対する口調は、ミサナトを出て四日程経った今、大分砕けた物へと変わっていた。というより、他人行儀を貫いていたら、どうかお願いしますと懇願された。そこまで辛かったのかと困惑して、仕方なく
それからはきちんと、年上相手とは到底思えない言葉で話しかけている。あれ、なんか違うのではこれは。でもハゼンの方はそれで大分楽そうな顔をしてくれた。
ああ、早く夜にならないだろうか。そしてどこか適当な宿場に着かないだろうか。揺れに揺れている馬車から解放される一日の終わりが、待ち遠しい。どうしても宿場や街が離れている時は、野宿の時もあるけれど。それでも
俺はこのまま眠っていて良いそうなので、もうそれでもいい。とにかく揺れ、治まらないだろうか。
とはいえ、それでももう旅も四日目だ。多少はハゼンと話をする余裕も出てきた。初日と二日目は本当に酷かったと思う。何度も謝って馬車を止めてもらって、草陰まで走って吐いていたし。ハゼンもまさか俺がここまで
乗り物酔いをするとは思っていなかったらしく、ひたすらおろおろと狼狽えていた。俺も思ってなかったよ。車と全然違うよ。車でなんともないから、他も問題無いだろうという大した根拠の無い幻想は木っ端微塵に砕かれて
しまった。三日目からは、大分ましになって。とりあえず吐く事は無くなったのは良かったと思う。ハゼンもげっそりとしてきた俺を見て、少し宿に長く泊まろうか、なんて気遣いまで見せてくれるし。気遣いが身に染みるけれど、
俺はあえてそれを断って先を急いだ。まずは馬車に慣れた方が良いと思ったし、ここで数日宿になんて事になったら、再開した時にまた吐くのがなんとなくわかっていたし。そんな俺の提案は見事に功を奏して、とりあえず
三日目、そして四日目の今に至るまで、俺は吐き気と格闘するだけで、吐瀉物とは疎遠になる事に成功したのだった。
「おいたわしい、ゼオロ様……。あなた様を守ると誓ったばかりだというのに。このハゼン、何もできない事を恥じ入っております」
「いや、そんな恥じ入らなくていいと思うけど。悪いの大体私だし」
吐き気からどうやって守るんだっていう冷静な突っ込みを拒否しそうな程、ハゼンは無念そうな顔をしている。とはいえ、旅は無理そうだからミサナトに帰して、という意見は取り入れてはもらえないだろうけれど。そういう
意味で、俺はハゼンの事をまたまだ本当に信用しているとは言い難い。ハゼンが俺に恭しくしているのは、俺が銀狼だから。そして保護するべき対象だから。というのがハゼンの主張だろう。しかしそれも正直なところ、
怪しいという他ない。そういう事を差し引いても、俺は所詮、ハゼンから見たらただの子供。しかも身元を調べようとして、よくわからないという結果しか返ってこなかった様な胡乱な相手だ。ハゼンの様なしっかりとした大人の
狼族が、そう易々と俺に頭を垂れるとは到底思えなかった。
「……ハゼン。そろそろ、話してほしいのだけど」
「何を、でございましょうか」
「私が、特別な銀狼である。だから迎えに来た。ハゼンはそう言ったね」
「左様でございます」
「それで、私をどう使うの。ミサナトで話をした時は、その辺り、適当にはぐらかしていたけれど」
とりあえず面倒になって、お前の目的をはっきりさせろと訊いてみる。とうのハゼンは困った様な顔をしながらも、その赤の被毛と同じく、深紅の瞳は鋭さを漲らせていた。その気性が、決して今表情に貼りつかせている
柔和なそれだけではないという事を、物語るかの様だ。雄々しい狼族の男なのだから、当然か。
「使う、などと。恐れ多い。私はただ、御身をお守りするために」
「マカカル様。ファウナックに着くまで、その言い分を続けられるおつもりでしょうか? 私としてもいい加減、何もわからぬままに、この様に街を離れ一人連れられている事に、不安を覚えております。私を案じていると
その口で仰られるのであれば、私の疑問を解き、真に安心させて頂きたいものです。それとも私はやはり、態の良い虜囚か何かなのでございましょうか? 見ての通り、今の私は片腕も動かず。それがなくとも、とても
あなたの様な力のある方には、まったく無きが如き力しか持っておりません。私が何かを知っても、到底、何ができると言える状況でもありません。それでしたら、少しぐらいあなたの考えを私に伝えて。多少なりとも私と
あなたが信じあえる様にした方が、有意義かと思います」
かっと、ハゼンの目が見開かれる。口にしてからちょっと後悔する。大分煽ってしまった事に。でも、いい加減に俺も何もわからないまま馬車に乗せられて、気分が悪くなったら道端でゲーゲーしてるだけの旅路には、
飽き飽きしていた。気分が悪いから食事は喉を通らないし、それ以外はひたすら馬車に揺られるだけだし。ハゼンは恭しいといっても、必要以上に俺に会話を持ちかける訳でもない。正直割と精神的に辛い。この旅は。この
調子で片道一月以上。俺が体調を崩すせいで更に数日から十日近くが追加されるであろう旅を、俺は持ち堪えられるのだろうか。
「……その様に、あなた様はお考えなのですね。ゼオロ様」
ハゼンはまっすぐに俺を見つめている。口は笑っていたけれど、その目はちっとも笑っていないし、俺の事を睨んでいる様にすら見えてしまう。俺はただ、薄く笑ってそれを迎えた。それ以上何かしたら吐き気がぶり返して
会話どころじゃなくなりそうだった、というのが大きいけれど。
「別に、このままでもいいけどね。今言った様に、私の力じゃ何もできない。したい様にして、勝手に私を使ったら良い」
大分投げ遣りな事を言って、俺はまたクッションに沈む。ハゼンともっと仲良くなって、狼族の事を学ぼうとしたかったはずなんだけど。生憎そんな気分になれそうにない。それに狼族の事を知りたいからと言って、あんまり
根掘り葉掘り訊ねるのは危険だった。狼族であるのならば、当たり前に知っている事柄というのはどうしても存在するだろう。不用意にハゼンに物を訊ねて、それに引っ掛かる事も、危険と言えば危険だった。この男、
にこにこしているけれど、目があんまり笑わないし。仕草が一々大袈裟で、なんとなくまだ、頼りきってはいけないという気がしてしまうし。
「それがあなた様のお考えであるのならば、わかりました。もう少しお話いたしましょう」
ハゼンの言葉に、俺は目を見開く。
「……その様に、驚かれる事なのでしょうか?」
目敏くそれを見て、ハゼンが問いかけてくる。俺はちょっと笑みを零す。
「黙ってろって、言われるのかと思った。さっきも言ったけど、こうやって情報を伏せて、私の身だけを運んでいる様な状況だから」
「その様な事は。しかし、確かにそう思われる様な状態では、あるのでしょうね。申し訳ございませんでした。……もう、良いでしょう。ここには、御者も含めて、狼族しか居りませんし。ゼオロ様の勤めておられていたお店は、
爬族と竜族が居たが故に、どうしても軽々しく口にする訳にはゆかなかったのです。どうか、お許しください」
そう言って、馬車の中だというのにハゼンは身を乗り出して、投げ出されていた俺の左腕を手に取ると、軽く口付ける。そういうの、狡いと思う。右手にしようとしたら振り払えるのに、動かない左手にしようとするのは。
「今回あなた様を保護するのは、あなた様が銀狼であり、その上で銀狼の中でも特別な銀狼であると思われるから。それは、間違いありません」
「色が特に綺麗だから、その特別な銀狼に当たるんだよね?」
「ええ」
「どうしてその特別な銀狼が、必要なの」
「……ガルマ様の、後継者となられる方を探しているからです」
びくっとなって、俺は起き上がる。ハゼンが俺の手を離した。
「後継者? そんなのは、ガルマ様の子供がなるものでしょ?」
銀狼の一族が昔から狼族の中心となっていたというのなら、そうだろうと思って声を掛ける。間違ってはいないのか、ハゼンも頷いてみせた。ただその表情は、とても難しそうな顔をしていて。この問題がそれで済んでは
いないのだという事を教えてくれる。
「そのう、大変言い難いのですが……それ故に、他種族の居る場では、とても口にはできなかったのですが。ガルマ様は、お子の作れない身体なのでございます」
「子供が、作れない」
「この様な話、とても他種族には……いえ、それどころか。同族にすら、軽々しく話せる事ではありません」
無精子症だろうか。あれは確か、実際には精子が作られているけれどそれが出せていない状況なのと、そもそも精子がまったく作られていないので相手を妊娠させる事ができないのに分かれていた気がする
けれど。とはいえこの世界の医療水準では解決できない事の様で、ハゼンは沈んだ表情をしていた。
「何度女を宛がっても、女は孕まず。宛がう女を替えるという事も、勿論。……申し訳ございません。ゼオロ様には、あまりお聞かせして良い内容ではありませんね」
「理解できる事なので、構わないよ。それで、いつまで経っても相手が孕まないから、恐れ多い事ながらもガルマ様の方に問題があると。そういう結論に達したんだね」
「ええ」
即座に俺が話に対応する様に、ハゼンはちょっと目を丸くする。そういえば、子供らしく振る舞うのって大切なんだろうか。その辺り、俺は今まであんまり考えていなかったけれど。クロイスとだって、普通にやり取りして
いたし。でも今更ハゼンの前で幼く見せても、遅いだろうな。それに幼い振りだけでは、とても切り抜けられそうにない。今の状況は。物のわからない子供だから。そう見られたら、ハゼンだって何も言わなかった可能性が
高いのだし。
「でも、そういう時って、近縁の人が後を継ぐんじゃないの? その、本家に対する、分家というか。ガルマ様は本家なんでしょ?」
「ええ、その通りです。しかしその、分家が、居ないという状況なので」
どうして。と言いそうになって、俺はちょっと考える。あんまり疑問に思った事をすぐ口にするのは、危ない。
「……戦争で?」
「ええ……。グンサ・ギルス様は、弟であるガルマ様を自分の後継として、死地に赴かれました。主だったギルスの血を持つ達も、その後を追って。当時、ガルマ様はまだ若く、その上で族長であるグンサ様の弟である
という事で、浮き名とは無縁でして。自分が戻らぬ事になろうと、弟が居るのだからとグンサ様は仰られたのですが……。まさか、とうのガルマ様が、女を孕ませられぬ身であるとは……」
なるほど、そりゃ大騒ぎになる訳だ。
「でも、流石にギルスの血が濃い人達が、全て居なくなってしまった訳じゃなかったんでしょ? 幼い子だって、居たんだろうし」
「それはそうなのですが。しかし分家となると、銀狼以外を婿や嫁に取る事も多く。そうなると、確かに血はそれなりに濃いものの、彼らの被毛は銀ではない者や、銀であっても、色が大分落ちる者がほとんどでして」
ああ、そういえばハンスもそんな事言ってたっけ。違う色と混ぜると、銀じゃなくなるとか。その状態で稀にとても綺麗な銀色が産まれるのだとか。
「ここまで来ると、もはや銀狼を立てるにしても、遠縁の者ばかり。ですから今は、そのう。形振り構っていられないと言うと、とても言い方は悪いのですが」
「跡を継いでも問題無いくらいの銀の被毛を持つ狼族を探していると」
「はい。その通りでございます。ゼオロ様は、とても美しい銀の被毛をお持ちでございます。その身体にどれほどギルスの血が流れているのか、それは定かではありませんが。しかし流れているのは間違いない事」
流れてないです。
「ガルマ様はまだ現役ではありますが、子が作れぬとあって少々焦りもございまして。そのために今、各地から銀狼が、ファウナックへ集められております。ゼオロ様は、その後継者候補の、一人という事ですね」
「えー……」
露骨に嫌そうな顔をする俺に、というか顔だけじゃなくて声まで出した俺に、ハゼンかおろおろとして手を揉み絞る。
「後継者じゃなくて良いので帰れませんか」
「そ、それは。何卒、ご勘弁を……」
「それに片腕の動かない後継者なんて、駄目でしょ」
「で、ですが。あなた様の銀が、私が見た中で、一番に美しい物なのです。他の者など、まったく及びもしない程に」
「そうなの……? 私はミサナトにずっと居たから、自分がどれくらいの物なのかは、わからないのだけど」
さり気無くミサナトに昔から居たのだぞというアピールを潜ませながら、俺はそう続ける。もっと別の所から来たんだと言っても良かったけれど、ミサナト以外の知識に乏しい今、そういう事をすると襤褸が出てしまう気がして、
無難なところに落ち着いている。
「ええ、そうですとも。その眩いばかりの銀。柔らかな毛並み。まさに奇跡の存在です」
ここぞとばかりに持ち上げてくるハゼンに、俺は白い目を向ける。俺の事を褒めようと出てくる言葉は、確かに俺を褒めてはいるのだろうけれど。でも最初から俺が持っていた物ではないので、反応に困るし、その上で
俺の心には響かない。
「とにかく、まずは一度。ガルマ様にお会いください。自ら子が成せぬ事と、銀狼の跡継ぎが現れぬ事に、ガルマ様はとても気を病んでおられるのでございます。例え次期族長とならずとも、これだけ美しい銀狼達を集めた
ならば、きっとガルマ様のお心も安らぐ。どうか、そのためだけにでも、ファウナックへ。ゼオロ様、何卒、お願いいたします。勿論、ゼオロ様を保護するという話も、決して嘘ではございません。あなた様も仰った様に、身の
危険を感じた事がおありなのでしょう? 少なくとも、あなた様ならば、望むだけガルマ様の館に。そうでなくとも、ファウナックにお住まいになられる事は、当然の事として受け入れられます。銀狼を求める狼族の姿を見れば、
お考えもいくらかはお変わりになられるはず。ゼオロ様……」
「わかってるよ。それに、もうここまで来ちゃったし。今更、手ぶらでハゼンも帰る訳には行かないんでしょ」
「おお! 私の事まで、気遣ってくださるとは。なんと慈悲深い。このハゼン、ガルマ様の命というだけでなく、あなた様に忠誠を誓いましょう」
感激した様に、瞳をきらきらとさせて。ハゼンは俺の手を取る。そしてまた、口付ける。左手やめてほしい。大袈裟に、そしてなんにも考えてない様な行動だけど、結局のところ俺がどう受け止めているかなどはよくよく
把握しているのだろうな。俺はただ、疲れた様に溜め息を吐く。
ファウナックまでの道は、まだまだ長かった。
旅を続けて、十五日目。ファウナックまでの道中にあるという街や宿場を経て、俺は少しずつ目的の街。そこに居る、ガルマへと近づいている。最初の街であるセルマはとうに過ぎ、そこからしばらくすると、ようやく俺達は
ギルス領へ入る。ラヴーワの中央部は連合の要という事もあり、首脳部はあれど、種族色を出す事は禁じられている様で、その管理も異種混合で行われているが、今入ったギルス領は狼族の族長であるガルマ・ギルスが
八族の一人として預かる地であるだけに、やはり狼族が多い様だった。中央に属するミサナトでもそれなりに狼族が居た様に思えたけれど、ここではそれが更に顕著だった。まず、街道を行き来する人が、本当に狼族しか
いない。ここは狼族の国だったのかと言いたくなる程だ。狼族でないのは、商人や観光客などの風体の奴ばかりで。ギルス領に入る前に立ち寄ったセルマの街でさえ、多少は狼族が増えてきたかな、なんて思っていた
のに。それとは比べようも無い程だった。狼族の盛り合わせ状態だった。
「本当に、狼族ばかりなんだね」
「ええ。素晴らしい眺めでしょう、ゼオロ様。ミサナトで育ったゼオロ様には、馴染まぬ眺めかも知れませんが。狼族にとってはやはり、信頼できるのは狼族という物」
「そういう物なのかな」
ミサナトしか知らない俺には、なんとも異質に見える眺めだ。しゅっとしていて、鋭い瞳の狼。お前もそうだと言われたらそうなんだけど。それが勢揃いしているのは、ちょっと怖い。
「どうにか今日はルーニルースへ辿り着けそうですね。宿場でも泊まる事はできますが、やはりゼオロ様をきちんとした部屋にご案内するには、街中に入らなければ」
「別に、いいよ。贅沢言う気はないし」
「いけません。ゼオロ様は、銀狼なのでございますから。それも、次期後継者候補。馬車に酔うのは仕方がありませんが、このまま酔って、お食事もままならぬのでは、ファウナックでガルマ様の御前に立つ頃には、
やつれ果ててしまいます。それではこのお美しい被毛にも、翳りが出てしまうやも知れません。どうか、しっかりと食事を取り、存分にお休みください」
金掛かってる方が気になってゆっくりできねぇよ。貧乏人舐めんな。と言いかけたけれど、言っても無駄なのはわかっているので、仕方なく俺は頷く。
陽が傾いた街道を、馬車はひた走る。外の景色は街が近づくにつれ、少しずつ文明の色を滲ませてくる。とはいえ、元の世界とは比べようもない景色なんだけど。収穫を前にしたかの様な畑が、一面に広がっているし。汚い
身形の農民の姿もちらほらと見える。あんな風に土の匂いをさせて農業に勤しむのも、面白そうだとは思うけれど。でも、毎日続けるのはやっぱり大変なんだろうな。その辺りは親から子、子から孫へと受け継がれていて、
大変だと思う余地も、選択の余地もなく。仕事に取り掛かっているのだろうけれど。
俺とどちらが幸せなんだろうか。束の間、そう考える。今俺の目の前に居るハゼンの様に、誰かを傅かせて。その上で、特別な身体だと、美しい被毛だと褒めそやされて。今ガルマ・ギルスの下へと招かれている俺と、
一介の農民。こういうのって大抵、自分の持っていない物を持っている、相手を羨んでばかりなんだろうけれど。お互いが日頃感じている苦労も何も、知らないのだから。
ぼんやりと考えながら、畑仕事に精を出している人を眺めている内に、ハゼンの言ったルーニルースの街へと辿り着いた。そのまま馬車は、今日の宿の場所へと進み続ける。
街についても、俺ができる事は何も無い。街の観光をしたいだとか、そんな話は上がってこないし、俺から口にしても許されないだろう。ハゼンにとっては俺を無事にファウナックのガルマの下へ送り届ける事が使命で
あるのだし、その上で俺は自分の身を守れないどころか、片腕の動かない存在ときた。少なくとも先に通ったセルマの街では、ただ宿に通されてそれで終わりだった。確かにハゼンの言う通り、宿の食事は豪勢な物
だったし、ベッドも今まで眠っていた物とは比べ様にならない程しっかりとした高級品だったけれど。でも、それだけだ。朝になったら、また馬車に乗って。街を後にして。正直、旅をしている、という感じではない。連行されて
いるという表現がぴったりだった。
予めこの街ではこの宿を取る。それすら決まっているらしく、馬車は迷う事なく、一つの宿の前で止まる。かなり立派な外観に、俺は息を呑んだ。旅人などはまず泊まらないであろう、どっしりと構えられた門の
向こうにある、西洋風の屋敷。出入りしている人々も、襤褸を纏っている様なのは一人も居なかった。さわさわとしたドレスを着た、女っぽい狼族の姿も見える。女っぽい、と思ってしまうのは、仕方が無かった。だって
いくら女の人でも、顔は狼のそれな訳であって。一応胸が出ていたりはするんだろうけれどはっきり言って全員顔が凛々しい。あの姿で可愛い仕草をされても、正直きついなと思ってしまうのが悲しい事実だった。恰好
良いのは、まあいいんだけど。それはファンタジー読み漁り組の俺からすれば、当たり前だし。でも本やアニメだと、そこに出る可愛い担当の女の子と言えば、人間に動物の耳や尻尾を付けた子がほとんどだったから、
なんとなく違和感を覚えてしまう。慣れが必要だなと思った。なまじミサナトでは、女の子の知り合いが居なかったし。
「さあ、ゼオロ様」
先に下りたハゼンが、恭しく手を差し出してくる。俺は軽く頷いて、その手を取った。夕陽の中に立つハゼンの姿は、いつもよりも更に赤々しく。輝いている様に見える。銀狼ばかりが褒められているのが、ちょっと
おかしく感じられるくらいだ。少なくとも俺よりも、ハゼンの方がずっと綺麗で、モテそうだなと思ってしまうのだけど。
ハゼンが先導をして、宿へと入ってゆく。馬車はそのまま走り去っていった。御者を務めるおじさんは、こういう時俺とハゼンとは別行動を取っている。一度話しかけた事もあるけれど、やんわりと会話は断られてしまった事が
あったのを思い出す。恐れ多い事だからとハゼンが取り成してくれたけれど、そんなに俺に対して畏まる必要があるのかと、疑問に思わざるを得ない。
「話を付けてきますので、しばしお待ちください」
宿に入ってすぐに、そう言われて。俺はハゼンの後ろを遅れてのこのこと歩く。途端に気づいた。俺に突き刺さる視線の数々に。驚いて辺りを見渡すと、さっきまで多少は活気があって、耳に届いていたそれが、今は
ぴたりと止んでいた。なんだこれはと、不思議に思う。少なくとも、セルマの街で入った宿ではこんな事はなかった。視界を埋めるのは、ほとんどが狼族。鋭い目が一斉に俺へ向けられるのは、はっきり言って
怖かった。びくびくと怯えながらも、俺は情報を求めて、俺を見る人達を見つめてふと気づく。別に、俺を見て悪い顔をしている訳ではなかった。寧ろ、にこにこと笑っている人の方が多かった。もしかして、これが狼族の中で、
銀狼であるという事なのだろうか。ただそこにどんな感情が含まれていたとしても、大勢から一心に視線を向けられるというのは、落ち着かなかった。それでも悪い感情を籠めて見ている者は少ないのだという事もあって、
俺もにこりと、ぎこちなく笑みを返す。そうすると彼らは満足そうに更に笑みを浮かべてくれた。どうやら、正しい対応ができた様だ。
「お待たせしました、ゼオロ様」
しかし、空気が和らいでいたのは、そこまでだった。俺の前に、部屋を取ったハゼンが優雅な足取りでやってくると。俺は身体をびくつかせた。俺から離れはじめたはずの視線が、再び集まる。それは、別に良かった。でも、
それだけでは済まなかった。さっきまでとはまるで違う、威圧感が溢れてくる。何故。そう思って、もう一度辺りを見渡した。さっきまでにこやかな顔をしていた人も、そうでない人も。今俺を見て、厳めしい顔を隠そうとも
しなかった。瞳は細く鋭くなり、そうなるともはや男女の別もなく、狼族の恐ろしい殺気がありありと感じられる。
「ゼオロ様。こちらへ」
俺が視線に怯えている事に気づいたハゼンが、俺の手を取る。そうすると、余計にその、殺気交じりの視線が強くなった。そこでようやく、俺は気づいた。この目は、俺を睨んでいる訳ではない事に。俺の傍へとやってきた、
目の前のハゼンに注がれている事に。ハゼンはそれをまるで気づいてすらいないかの様に、ただ微笑みを浮かべていた。ホールを通り過ぎて、大きくて、手摺には細やかな意匠が施されている階段を上って、廊下に入り、
奥の方まで歩いてから、預かった鍵で部屋に入ってようやく、俺は威圧感から解放される。知らない間に息を止めてしまっていたのか、思い出した様に再開した呼吸は酷く乱れていた。
「申し訳ございませんでした。ゼオロ様を、怖がらせてしまいました」
「どうして……?」
他人の目が無い場所になってようやく、ハゼンは笑顔の仮面を捨て去って。振り向いて跪くと、心底から申し訳ないと思っている様な顔で俺に謝ってくる。俺はただ。どうしてこんな風に睨まれるのだと、それを口にする事
しかできなかった。
「ゼオロ様は、赤狼の事はご存じないのですか?」
ハゼンが少し意外そうな顔をしてくる。そこまできて、俺は墓穴を掘ってしまった事に気づいたけれど。生憎今はそれを気にしている余裕も無かった。ミサナトを発つ時に、ハンスがハゼンを見て、赤狼と呟いた事を
ぼんやりと思い出しただけだ。
「ご存知、ないのですね。それは、重ねてお詫び申し上げます」
「ハゼンが、何か、悪い事をしたの?」
俺がそう言うと、ハゼンはとても辛そうな顔をした。なんとなくそれが、初めてハゼンが俺に、本当の顔を見せてくれた様な気がして。俺はその顔をじっと見つめる。
「赤狼……赤い狼は、狼族の中でも忌むべき存在なのですよ」
「でも、ミサナトでも、赤色の被毛は見た気がするけれど」
「ただ赤い。それだけでは赤狼とは言えません。赤狼とは、私の様な、炎そのものの様な色をした者を指すのです」
そう言われて、納得する。確かに俺が今まで見てきた赤い被毛の狼は、ここまで見事な、深紅の色合いをしてはいなかった。ハゼンの被毛は、例え遠くからでも、一度視界に入ればはっとするほどの色をしていた。それこそ、
炎の中から産まれたと言えそうなくらい。
「銀狼が特別な存在である様に、赤狼もまた、特別な存在なのですよ。もっとも、銀狼とは違って、忌むべき存在としての特別ではありますがね」
「どうして?」
「赤狼とは、血の気が多く、野蛮で、信ずるに値する相手ではないからです。我が事ながら、この様に言わねばならぬのは、お恥ずかしい限りではありますが」
「でも、ハゼンは……そんな風には、見えないのに」
そこまで言うと、ハゼンの口元が和らいだ。目元が綻んで。それが今までの笑い方とは、やっぱり違っていて。
「ゼオロ様は、何も知らぬよりも前に、お優しいのですね。銀狼でありながら、赤狼である私に、事情を知ってもその様なお言葉を掛けてくださる。最初は、私が赤狼である事を厭うて、私に他人行儀に話をされているのかと
思っていたのですが」
「それは、違うよ。ただ私が、不機嫌で、投げ遣りだっただけ」
「……素直な方ですね、あなた様は」
「赤狼である事は、そんなにいけない事なの?」
「そう、言わざるを得ませんね。赤狼は、同じ狼族が相手であろうと、平気で乱暴を働く。戦争の時は、それが敵に向くから、まだ良かったのかも知れません。ただ、それであっても狼族を束ねる銀狼に。そして、英雄である
グンサ・ギルス様に背く者も多かった。休戦となった今、その暴力は敵に向く事も無くなり、英雄であるグンサ様も不在。そうなれば、赤狼は狼族の中で問題を起こす厄介者として、忌み嫌われるのは必定でございます」
「そうなんだ」
あの時、ハンスが呟いた言葉の意味を訊いておけば良かっただろうか。とはいえ、そんな暇は無かったけれど。ハゼンの特徴を、もっとハンスに伝えた方が良かったのかも知れない。結局俺は、ハゼンとここまで平気な
顔をして旅をしていた時点で、赤狼である事に嫌な顔をしなかったという理由で、物を知らぬ奴だと思われてしまったのだった。とはいえ、ハゼンがそれに対して不信感を抱いた訳ではないのだから、良かったけれど。
「申し訳ございません、ゼオロ様。ゼオロ様が赤狼の存在を知らなかったとはいえ、ここまで赤狼である事に触れもせずに連れてきてしまった事をお詫び申し上げます。ですが、どうかファウナックに着くまでは、
耐えて頂く他ありません。ファウナックへ着いたら、すぐに私の様な赤狼ではなく、もっとあなた様にふさわしい者を従者に付けさせますので」
そう言って、ハゼンは頭を垂れる。背の低い俺よりも、更に低い位置で。俺はそれをじっと見つめていた。
「別にいいよ、ハゼン。ファウナックに着いてからも、ハゼンに不都合が無ければ、私の事はハゼンに任せるよ」
俺の言葉に、ハゼンの身体が震える。続けて上げられた顔には、はっきりと混乱した表情があった。
「ゼオロ様? 何故、その様な事を……」
「何故って。私をここまで連れてきて。これからファウナックに連れていくのは、ハゼンなんでしょ。私はガルマ様の呼びかけに応じてミサナトを出たけれど、それはハゼンの事を信じて身を託したという事でもあるの
だから。寧ろ、向こうでハゼンが離れて、知らない人とまた一から、という方が嫌だな」
旅も続いて。多少はハゼンとも打ち解けてきた。はっきりいって俺は他人との意思疎通を取るのが、得意ではない。ミサナトでは大抵が俺の事を察してくれる様な、優しい人ばかりだったけれど。ハゼンとは中々折り合いが
つかなかったし。それも、何日も共に馬車に揺られて、ハゼンが俺の生意気にぶち切れたりしないおかげもあって、きちんと話ができる様になったのだ。この上、ファウナックに着いてハゼンと別れてしまっては、俺が口を利く
相手が居なくなる。相談する相手も、居なくなる。ハゼンを信用できるのかというと、それはまだまだ足りないという気もしてしまうけれど。けれど、だからといって他の人と代えられてしまっても、正直困る。少なくともハゼンは
俺が多少物を知らなくても、丁寧に教えてくれる気がある様だし。その気がある、というのは今の俺には大切な事だった。今の俺の立場は、ただ銀狼であるから、片腕が動きもしないのに丁重に扱われているに過ぎず、
それは人によっては妬みや嫉みの対象にもなるのだから。
それに、ハゼンにとって、赤狼である事を語るのは勇気と覚悟が必要な事だったはずだ。俺が赤狼の事を知らないのなら、尚更。適当にはぐらかしてしまえば、それで良かったはずだ。その場限りの事で、ばれたら
それでおしまいだと。そう思っているのなら。
「それに、ハゼンは赤狼の事を、野蛮だと言ったけれど。少なくともハゼンはそうではないでしょ」
ここまで俺を連れてきて、俺が見てきたハゼンに、野蛮という言葉はとても似合わなかった。どちらかと言えば、狡猾とか、その辺の方が似合う。褒めてないなこれ。
「ですが、私は、赤狼です。到底、あなた様と肩を並べられる様な身分ではありません」
「じゃあ、どうしてハゼンがガルマ様の使いなの? 全部嘘だったの?」
「い、いえ……。ガルマ様は、赤狼ではあるものの、私が、その……評判だった物で、召し抱えてくださったのでございます」
「なら、それでいいよ。私もそれで。とにかく、今更新しい人をと言われても、私が困るよ。ハゼン」
「で、ですが」
「私は、ハゼンの赤い身体も、とても綺麗だと思うよ」
面倒になって、本音を言う。赤くて、本当に赤くて。それから身形に気を遣っているハゼンは、到底野蛮な、という言葉がしっくり来る様な印象は受けない。均整の取れた身体に、燃える様な被毛と、被毛よりも少しだけ
薄暗く、その分強い意志が見えるかの様な鋭い瞳。そんな見た目なのに、俺に接する時は、とても丁寧で恭しい。その丁寧な仕草にも、嘘は見当たらなかった。俺を心配している時は、本当に心配してくれて。気分が
優れないと横になっている時は、いつも気がかりそうに俺を見つめていてくれた。お互いに、立場があって。それから俺には、隠さなければならない秘密があるから、ハゼンに全てを打ち明ける訳にはいかないけれど。それでも
ここまで一緒に来て、少なくともハゼンが、嫌な奴ではない事はわかっていた。
ハゼンは俺の言葉を聞くと、しばらくぽかんとした顔をしていた。思わず俺は、それを見て笑ってしまう。今まで笑みを見せても、目は笑っていなかったり、表情や本音を隠すのが上手い奴だと思っていたけれど。今は
違う様だ。もしかしたらこれも、演技かも知れないけれど。そうだったら、いっそ俳優にでもなったらいいだろうな。見た目も良いし。そういえばこの世界にそういう職業はあるんだろうか。
「ゼオロ様……」
俺が頭の中で俳優になって薔薇を咥えたりしているハゼンを妄想しはじめた頃に、ハゼンの声が響く。妄想から引き戻されて、俺は再びハゼンに視線を送る。そこに居るのは、まっすぐに俺を見上げるハゼンだった。さっき
までの、おどおどとした様子は、既に無くて。
「ゼオロ様のお望みは、このハゼン、しかと胸に刻みました。これよりは、より一層、あなた様に全身全霊で仕える所存でございます」
「そんなに、堅苦しくしなくてもいいのに。さっき、従者ってハゼンは言ったけれど。私はそういうのは好きじゃないな。友達とかじゃ、駄目なの」
「それは、いくらなんでも」
「そう。残念だね。ハゼンとなら、いい友達になれそうだったのに」
「お戯れを。……ゼオロ様。あなた様に会えて、良かった。今、心からそう思っております」
ハゼンはそのまま、ゆるゆると手を伸ばす。伸ばした手が、俺の手を。左手ではなく、右手を掴む。掴んでから、ハゼンは少しの間俺の様子を窺っていた。俺は薄く笑って、手を前に少しだけ。そうすると、ハゼンは俺の手を
頂いてから、俺の手に口付けた。俺は黙って、それを見ていた。
「卑しい私が触れて、あなた様を汚す事を。どうか、お許しください」
「ハゼンが卑しいかどうかは、知らない。でも、私がそんなに綺麗な奴だとは、思わない方がいいよ」
「……恐ろしいお方ですね、ゼオロ様は」
お互いに、笑みを零す。ようやく少し、打ち解けた様な気がした。
立ち昇る湯気に、ほっと一息吐く。夕食を済ませてからのバスタイムを、なんだかんだで俺は満喫している。
「ゼオロ様。湯加減は、どうですか」
「丁度良いよ」
浴室の外から、ハゼンの声。ここの宿の風呂は、ハンスの家の物よりも、いくらか原始的なそれで。浴室の外に湯を沸かす場所があって、沸かした湯を浴槽に入れる物だった。割と豪華な宿だと思ったけれど、そういう
ところはハンスの家よりも劣ってしまうのは、なんとなく不思議な感じもする。狼族だからだろうかと思った。排他的であるという事は、それだけ他所の文化を取り入れる事も忌み嫌う。新しい物には、真っ先に警戒を
抱いてしまう様なところは、あるのかも知れない。実際、ミサナトの周辺と比べると、馬車から見える景色はいくらか田舎臭い物が漂っているのは、否定しようのない事実だった。これがガルマの下へ辿り着いたら
どうなるのかわからないけれど。とはいえ、ここは宿屋。一個人の自由にできる家と比べて、多種多様な客が利用する事から、壊されたりしては困るので金を掛けられない箇所というのは存在するので、一概にここが
悪いからどうこう、とは言えそうにないけれど。
「左様でございますか。湯が冷めたら、いつでもお申し付けください。私が温めております故」
「ありがとう、ハゼン」
ハゼンは、炎の魔法を少しだけ扱える様だった。一番の武器は、その優れた体躯から放たれる格闘術の様だけれど。それだけではやってはいけないと、少し恥ずかしそうに俺に言っていた。その他、手先の器用さを
要求される短剣などもお手の物だそうだ。俺はそれを聞いた時、思わずハゼンを羨望の眼差しで見つめてしまって、とうのハゼンは俺がそんな反応をすると思っていなかったのか、大分困惑させてしまった。だって、明らかに
恰好良いと思う。見た目も恰好良いのに、できる事も恰好良いとか、どんだけ。それと比べて俺の涙ぐましい程の低性能っぷりはなんなんだろうか、一体。いや、でも。俺はまだまだ、これからだろう。そもそも武器の扱いとか、
そんな物だって、まだ習ってすらいないのだから。魔法は駄目だったけれど、せめてナイフの一つくらいは。でもその前に。湯を被っている、左肩を俺はじっと眺める。被毛で隠そうと思えばなんとか隠せるけれど、少しずらすと、
いまだに痛々しい傷跡が残っていた。そもそも、切り裂かれたのはまだしも、そのまま熱された刃物で焼かれたのだ。どう頑張っても、これ以上傷は綺麗になりそうにない。左手に、少し力を入れようと試みる。動いたのは、
やっぱり指が微かに、震える様に。それだけだった。まだ、早いのだろうか。それとも、もっと意識して、動かした方が良いのだろうか。とりあえず、傷が染みる事が無くなったのは幸いだった。まずは傷を気にならなくなる
程度まで回復させなければ、何一つとして始められないのだから。
ファウナックに着いて、もう少し身体が良くなったら、ハゼンに頼んで何かしら護身のための術を学んでみようかなと思った。片手でできる事は、限られていると言わざるを得ないけれど。
「それで、ゼオロ様。いい加減に、私を中に入れてくださいませんか。片腕では、ご不便でしょう」
「一人でいいよ」
前の街でもやったやり取りを、また繰り返す。俺が片腕である事を察して、ハゼンは一日中、傍に居る時は俺を助けてくれる。当然、入浴の介助もしようとやる気を見せてくれたけれど。俺はそれを丁重に
お断りした。そうすると、ハゼンは心底驚いて、お一人ではと心配そうな顔つきになっていて。ああ、もしかして俺はまたクロイスやヒュリカの時の様に、相手をその気にさせてしまったのだろうかと一瞬思ったけれど。でも、
ハゼンはそうではなかった様だ。ハゼンにとっては、俺は守護するべき相手で。そのために顎で使われるのは、当たり前の事だと、そう言いたげな様子なのだった。それはそれで、どうかと思ってしまう。立派な大人である
ハゼンが、ただの小僧よろしくみたいな俺に、従っているのは。当然、ハゼンにもハゼンの都合があるのだけれど。この場合は、ガルマの命で俺を連れていっているところとか。
ただ、ハゼンも無理に俺の世話をしようとはしないところは、助かった。俺が頑なに断ると、それならばと、今もしている様に浴室の外でいつでも湯を足せる様に待機してくれている。それはそれで落ち着かない
けれど、湯船に浸かっているところを見られるよりはましか。じっと見つめられていたら、心地良い気分で入浴してリラックスなんて、できるはずもない。俺は高貴な身分なんて物とは、まったく無縁なのだから。
「とんでもない。ゼオロ様は、充分高貴でございますよ」
俺が最初にそう言って断った時に、ハゼンが目を丸くして、そう言ったっけ。残念な事に、高貴なのは銀狼であって、俺自身ではないんだなこれが。そこのところを説明できないのは、なんだか歯痒い。ハゼンと
出会ってから、それほどの月日が流れた訳ではないけれど。でも、共に過ごした時間は、既にこの世界で出会った誰よりも長いから、そう思うのかも知れない。ミサナトを出てから、来る日も来る日も、馬車の中で
向かい合う。でも、これといって話題は無い。というか、あんまり話をすると、俺があまりにも世間知らずである事が伝わってしまいそうで。だから最近は乗り物酔いにも慣れてきたというのに、いまだに酔った振りをして
逃げている部分があったりする。それも、今日結局赤狼についての事などを通して、ハゼンに俺か物を知らない奴だという事がばれてしまったけれど。ただ、ハゼンはそれを知っても、特に俺を責めたり、もしくは
訝しんだりする様子を見せたりしないのは、助かった。一番困るのは、俺の素性をもっと調べてみようだとか、そういう流れになる事だった。狼族として存在しているのならば、当たり前に知っている事を知らない。ただの
狼族であるのならば、親に捨てられたとか、適当な事を言って誤魔化す事はできただろう。しかし俺は、銀狼なのだった。しかも被毛は綺麗な方だと言う。そんな俺に、見知らぬ狼族は親切に声を掛けてくれたりする。流石に
その状況で、まったくなんにも知りません、は怪しまれても不思議ではないだろう。
「ねえ、ハゼン。ファウナックって、どんな所なの」
何気ない質問のつもりで、俺はハゼンに問いかける。それに今は、馬車の中とは違って、扉越し。俺の表情を読み取られる事もない。その代り、ハゼンの表情を読み取る事もできないけれど。
「ファウナックでございますか。とても、素晴らしい所ですよ。何せ、本当に狼族しか居りませんのでね。とはいえ、ラヴーワ全体からすると、隅の方と言わねばならぬのは、口惜しいところですが」
「ギルス領は、隅の方だもんね」
「ええ。本来ならば、もう少しだけ領土は広がったのですが。それも、グンサ様の一件で……。なんとも、悲しい話でございます。あのスケアルガの猫族め」
「スケ……」
扉越しに話していて良かったと、俺は心底から思った。今の俺の顔を見られたら、クロイスと友達なのだという事が知られてしまったかも知れない。この間告白されました。
「ええ。ゼオロ様は、ミサナトでお育ちになったのでしょう? でしたら、あの忌々しいスケアルガ家については、ご存知ですよね?」
「う、うん。スケアルガ学園を運営している、軍師さんの家系なんでしょ」
「そうですね。元々軍師ではなく、学園の営業と学業が本分なのでしょうけれど。ああ、しかし。忌々しい。あいつらさえ居なければ、今のこの、狼族の凋落も無かったでしょうに。グンサ様さえご存命ならば、ガルマ様も、
様々なお悩みから解放されたでしょうに。おいたわしや、ガルマ様。本当に、あのスケアルガの連中ときたら。何が軍師だ。疫病神め」
「そ、そう……」
「ゼオロ様は、あの様な輩と付き合ってはなりませんよ。あなた様は、高貴な銀狼。あれらは、その銀狼を貶めた存在なのですから。スケアルガの者がにこやかに手を差し伸べてきても、腹の中では、グンサ様を陥れた時と
同じ様に。いえ、それどころか。もっと上手く利用してやろうという腹積もりに、違いないのですから。あなた様の身が、私はとても心配ですよ。あんなミサナトなんぞに居て、目を付けられていたのではないのかと! 私が
あなた様に食い下がったのも、偏にそれがあったからでございます。あの街は、確かに悪くはありません。スケアルガが居るという事を、除いてはね」
扉閉まってて良かった。本当に、良かった。今顔を見られたら、大分落ち込んでいる俺が、丸見えだっただろうな。それにしても、まさかここまで猫族が、というかスケアルガ家が嫌われているとは、思わなかった。クロイスと
交流がある事は伏せておいて良かったと思う。別れ際のハンスも、それを察してクロイスの事は煩い奴と言ってくれていたし。これに関してはハンスの方が詳しかったから、流石の配慮と言わざるを得ない。
「そ、そんなにスケアルガの人って、信用できないのかな。ミサナトに居た時は、評判は悪くなかったけれど……」
さり気無く俺はスケアルガを推してみる。それに、ミサナトで評判が悪くないのは、事実だった。学園を運営している以上、街の根幹を担う一家である事は疑いようも無いのだから、表立って悪口を言う人も居ない
だろうけれど。
「とんでもない! 狐よりもよっぽど人を騙す事に長けた奴らでございますよ、あの豹めらは! まったく、頭だけはよく回ると言いますが、回るのは悪知恵の方ばかりでございます。ああ、ゼオロ様。どうかゼオロ様だけは、
あの様な連中とは、お付き合いの無い様にとお願いしたいところです。あなた様が、狼族以外にもお優しい事は、このハゼン、よくよくわかっておりますが。何よりも、あなた様のために。それに、ガルマ様は当然の事ながら、
スケアルガの者達を嫌っておりますからね。無理からぬ事だとは思いますが。実の兄を、あの様な騙まし討ちも同然の方法で死地に赴かせてしまったとあっては……。そして、そのために兄を失い。今度は自分が子を
遺す事ができぬと、苦悩されている……。それこそまさに、グンサ様を失い多大な負担を強いられた事が原因と言えなくもないでしょう。まったく、狼族にとって、あれほど厄介事を持ち込んでくる種族は、他には居ませんよ」
うわぁ、思ったよりもスケアルガ、嫌われてるんだな。嫌われているのは、わかっていたつもりだけど。これから会いに行くのが、狼族の中でも最もスケアルガを嫌っている人物なのだという事を自覚すると、俺はなんだか
憂鬱な気持ちになる。当然、クロイスとは友達です、なんて言える訳がない。というか、ここまで嫌われていて、よくクロイスは銀狼である俺の事を好きだと言ってくれたなと思う。ハゼンにそれを言えば、それこそが
スケアルガの者の狙いなのだと、確実に言われそうだけど。でも、クロイスがそこまで考えて、俺を口説いていたとは、思わなかった。いや、考えていた部分は、あったのだろうけれど。でも、それとは別に、純粋な気持ちが
あったんだって。なんの根拠もないけれど。俺はクロイスの事を、信じたいんだなと、離れて、今更になってしみじみと思った。
というか、本当に今更だけど。クロイスと結婚するのって、あらゆる意味で正解だったんじゃないかという気がしてきた。まず俺はスケアルガという強力な後ろ盾を得る。八族に匹敵する程の後ろ盾かはわからない
けれど、少なくともミサナトでの影響力は抜群だろう。その上で、俺の正体を知られても、問題が無い。クロイスはまずそれを知っているし、俺の事を調べたい、という事態に陥っても、恐らくは魔導を通してだ。そして、
魔導もまた、魔導についての学園を運営するスケアルガの領分だ。つまり、色々と融通が利くだろうし、俺の負担も少なく済むのかも知れない。その上で俺とクロイスが意見を一致させた様に、今扉越しに一人
憤慨しているハゼンの様な、狼族に対する対応も、銀狼、それも今となっては、特別な銀狼であり、次期族長候補とまで言われた俺が当たる事ができる。懐柔は流石に怨みがあるから難しいだろうけれど、少なくとも
矛先を鈍らせる事ぐらいは、可能なはずだ。何よりクロイスは、グンサの一件の後に生まれたスケアルガの者で、その上で次期スケアルガの当主になる予定。外にも内にも、今までのスケアルガとは違うのだという
主張ができる。そこを重点的に伝えれば、クロイスの父であるジョウスも、狼族との確執が取り除けるという利点には目を瞑る事はできないだろう。狼族との関係が良好になれば、八族の結束は強まり、延いては
竜族にもきちんと備えられて、その上で、クロイスが夢見る和平にも一歩踏み出す事になる。クロイスの夢の手伝いをしたいという俺の望みも、叶う。なんという事だろう。俺がクロイスと結婚すれば、実際に上手く
行くのかは別として、全てに対する備えができてしまうのだった。結婚一つするだけで、後ろ盾、正体明かしても平気、狼族懐柔、夢の手伝いが全て成せるとは。なんという最善の一手。結婚怖い。
ただ一つだけ問題があるとすれば、俺の気持ちの問題なんだろうけれど。やっぱり俺は、今の気持ちのままでは、クロイスとは一緒にはなれないと思ってしまう。もっと、自力を付けないと。
そのためには、今はひとまず、狼族の族長であるガルマの下へ。俺はもっと、狼族を知って、何よりも俺を、今の身体の事情を知って。きちんと一人で生きられる様にならなければ。
考えを纏め終えると、湯船から出て、予め用意してあったタオルで身体を拭く。これも片手では辛いだろうと言ったハゼンから、無理矢理引っ手繰ってきたものだった。ただ、こればかりは中々上手くいかない。そもそも
両手が使えても、全身毛だらけ水だらけ。そんなに簡単に、綺麗さっぱり水分が取れる訳がなかった。
「ああ。だから、申し上げましたのに。それでは風邪を引いてしまいますよ」
どうにか片手でできる事を済ませて外に顔を出すと、困った様に笑うハゼンが居て。屈んで、俺の身体の状態を確かめる。
「少し火に当たれば、なんとか乾きそうですかね。お待ちください」
ハゼンがなんでも無い様に掌を掲げる。それを見て、俺は嫌な予感を覚えて。咄嗟に止めようとした。けれど、間に合わなかった。ハゼンの掌に現れる、炎。けれど、俺にはそれで、充分過ぎた。俺の肩の、忘れていた
熱が、また俺の脳裏に甦る。呼吸を忘れて、一歩後退った。ヒュリカの時よりも、俺に近く。何よりも大きな炎は、一瞬にして俺の思考を焼き尽くす。
「ゼオロ様……?」
ハゼンが訝し気な顔を見せたのは、僅かな間だった。それよりも、その掌に掲げた炎は不意に大きくなって。炎を灯したハゼンが、目を丸くしていた。炎がハゼンの意思を無視して、更に大きく、背を伸ばそうとした途端に、
ハゼンは掌を伏せ、炎を消し去った。
「申し訳ございません!」
ハゼンが、その場で平伏する。いつもなら、そんな大袈裟な事はしなくていいと言っている俺も、今は間近で見てしまった炎に、動揺していて動けない。
「ゼオロ様は、炎が恐ろしいのですね。ゼオロ様。そうとは知らず、ご無礼を。どうか、如何様にも罰を」
「いいよ、ハゼン。私が、言ってなかっただけだから」
「ですが」
「顔を、上げて」
恐る恐るといった様子で、ハゼンが顔を上げる。俺は無意識に、肩の傷を押さえていた。
「失礼ながら……。肩が動かぬ事と、関係がおありなのでしょうか」
「……うん」
隠していても仕方がないと、俺は傷を披露する。どうせ、ハゼンとはこの先も一緒だ。片腕が動かないとは言ったけれど、どこでどうして片腕が動かなくなってしまったのかは、今までずっと黙っていた。それを、いつまでも
黙ったままでは居られないだろう。余計な事を口走りたくないと、口を閉ざしていたのが、仇になった。どうせ後で知られてしまうのだから、このくらいの事は言っておけば良かったのに。
鋭い目で、俺の傷をハゼンが見つめる。
「これは……確かに。切り傷の様ですが、火傷の痕も」
「熱されたナイフで、刺されたの」
「なんと……さぞ、お辛かったでしょうに。申し訳ございません。ゼオロ様の傷口に塩を塗る様な真似を……なんとお詫び申し上げたら良いか」
「いいよ。私が、もっと早く言っておけば良かったから。ハゼン、気にしないで」
「そう言っていただけると、私も、助かります。……では、身体を拭きましょう。とにかく、このままでは風邪を引いてしまいます。よろしいですか」
黙って、俺は頷く。裸の俺の身を、ハゼンに預ける。ハゼンは熱心な顔と所作で、俺の身体を丁寧に拭いてゆく。優しく、少しずつ身体を包んで。俺が拭けなかった部分を重点的に。それも済むと、着替えを俺に
渡してくれる。ミサナトから持ってきた地味な服は、相変わらず俺の主力装備のままだ。
「この服も、ファウナックに着いたら新しくしませんとね」
「しないと、駄目?」
「当然ですよ。公の場で着られる物が、無いじゃありませんか。今は余計な荷物を増やす余裕は無いから目を瞑っていますが、本来ならば、こんなみすぼらしい恰好をさせたくはありません。さて。それでは私も、少し失礼して、
湯を浴びてきます。あなた様にばかり感けて自分が不潔とあっては、先導する事ができませんからね。ただでさえ、私は赤狼なのに」
そう言って、さっさとハゼンに浴室から追い出されて、俺はそのまま部屋へと戻ってくる。部屋にあるのは、僅かな光だけだった。机の上や、ベッドの横、棚の上にある淡い光。魔法に寄る物だそうだけれど、俺には
よくわからない。魔力が感じられるのなら、もう少しは別なのにな。俺はそれも、よくわからないのだった。ぼんやりと灯った光をしばらく見てから、窓際へと歩いていって。窓を開けて、バルコニーに、そこから空を
見上げる。月が、空に昇っていた。あの月は、俺が元の世界で見ていた月とは、違うのだろうかと考える。多分、違うのだろうな。地球との距離を考えると。俺の目に映っている月は、人間だった頃に見慣れていたそれと、
然程の違いもなかったけれど。ただ、それでも新鮮に見える。月に掛かるのは、白い雲と。それから高く伸びた木の梢ぐらいの物で。ビルとビルに挟まれた狭い空は、どこにも見当たらない。煩い車の音も、
聞こえない。喧騒は、さっきまでは聞こえてたけれど。宿だしね。でも、流石に今は夜も深くなって、静かになってきた。元の世界との違いは、たったそれだけなのに。それがどうして、こんなにも違っている様に感じられて、
今俺の胸を打っている気がしてしまうのだろう。そっと手を差し出すと見える。俺の姿もまた、月の白に照らされて銀の輝きを放っているからだろうか。風呂上りだから、尚更だ。決して強くはない月光なのに、
俺の腕は、俺の身体は、その持ち主の俺でさえ戸惑う程に怪しく煌めている。なんだか、前よりもこの感じは強くなっている様な気がする。
「ゼオロ様。風邪を召されてしまうと、あれほど言ったのに」
月に見惚れていると、いつの間に風呂を済ませて出てきたのか。怒った様なハゼンの声が届く。振り向くと、あの上から下までお洒落が歩いてそうな恰好ではなく、上下共に質素な白の衣服だった。寝間着姿の
ハゼンを見るのは、初めての様な気がする。前の街では、俺はまだ、ハゼンの事を警戒していて。それからハゼンも、ギルス領に入るまではいつでも武装を整えていたかったのか、着替えもせずに、ベッドも入らず、
壁に凭れて眠っていたのだ。
「平気だよ。それに、熱いし。全身毛だらけっていうのも、考え物だね」
「何を仰っているのですか。産まれた時から、そうでしょうに」
「そうだった」
うっかり零した言葉に、鋭い突っ込み。ただそんな事よりもハゼンは俺が風邪を引かぬ様にと、さっさと俺の手を引っ張って部屋に戻ると、窓も閉めてしまう。
「ハゼンの髪、綺麗だね」
三つ編みにして長く真後ろに垂らされていたハゼンの髪は、今は解かれて。まっすぐに落ちては、持ち主の肩にいくらか流れていつもよりも人目を引く様に見えた。後ろに一纏めにしていないから、前にもいくつかそれは
残っていて。時折ハゼンは鬱陶しそうに眼に掛かる髪を掻き分けている。よく見ると、ハゼンの被毛は俺と違いすっかりと乾いていた。多分、俺には使えなかった炎の力を、存分に使ったのだろうな。いつか克服できたら
俺もやってもらいたい。じめっとしたまま寝るのは嫌だし。
ハゼンは俺の言葉を聞いて、少し視線を逸らす。
「あまり、そういう事を口になさらないでください。他の誰かが聞いていたら、あなたの品位が疑われてしまいます」
「赤狼、だから?」
「ええ、そうですよ。血塗れの様で不吉だと、他の狼族からは忌避される物ですし。それに……容姿を褒められる事には、慣れていないのです。どうか、私を困らせないでください」
「そうなんだ」
容姿を褒められる事に慣れていない、という言葉に俺は親近感を抱く。今の俺も大体そうだから。銀狼になって、褒めそやされているけれど、元の俺はとてもそんな賛美を受ける様な姿はしていなかった。突然褒められても
困るというのは、確かに共感できる。違いがあるとすれば、ハゼンの身体は、しっかりとハゼンの物なところだろうか。俺のは、なんだか借り物っぽい感じがしてしまうけれど。
「勿体ないね。それに、ハゼンは私と違って、身形にとても気を遣っているのに」
「そんな事はありません。私は赤狼なんですよ」
「嘘が下手だね。いつもの服だって、自分の赤い色に合う様な服なのに」
「……それが、何か?」
「本当に嫌だったら、隠そうとするんじゃないの? でも、ハゼンはそうしないで、寧ろ目立つ様にしているから。髪を伸ばして、編んでいるのもそうだし。ハゼンは、自分が赤狼である事に、誇りを持っているんだね」
ハゼンの耳が、震える。それきり、ハゼンは何も言わないで、俺を黙って見つめている。
「私は、銀狼である事を、誇れる様な気がしない。ハゼンは、凄いんだね」
突然与えられたこの身体。銀狼だと、特別だと。何度そう言われても、正直面倒だなという気持ちの方が強い。だっていくら褒められても、実際の俺にはなんの能力も付いてきていないのだし。実際の俺は、何も
できないし、何も知らないし。その上で、片腕も動かないと来たもんだ。見た目だけがよろしくて、本当に、それだけで。中の俺は駄目なままなのだから、それは当たり前なんだけど。
「お戯れを。この美しい銀の被毛。今に誇れる時が、来るはずです」
「醜い傷ができて、早速ケチを付けてしまったのに?」
「それは。……いえ、例えそうであったとしても。そういえば、まだ聞いておりませんでした。何故、その様な傷を?」
「……友達を、庇ってね」
「なんと。それならば、何も悪びれる必要は、無いではありませんか。身を挺して、誰かを庇う等と。例え身体に傷があろうとも、その銀の美しさに負けぬ程の心の美しさまで、あなた様は備えているではありませんか」
「そんなに、褒められた物かはわからないよ。そもそも庇う切っ掛けを作ったのは、私だった。その上で私が庇わなくても、その人の腕なら、何事もなく済ませていたのかも知れない事だから」
「どうして、その様に仰るのです。立派なご自分の行動を、もっと、誇っても良いはずです。大切な者を、ご自分で守ったのですから。あなた様は、守りきったのですから……」
「それが」
俺は、口を噤んだ。
「狼族にとって、唾棄すべき、スケアルガの次期当主であったとしても? ハゼンが、ガルマ様が、心の底から憎んでいるであろう相手であっても? それを知っても、ハゼン。お前は、そう言ってくれるの?
私が、私を。銀狼として誇っても良いのだと。誇れる様な事を、したのだと」
それが、言えなかった。その言葉は、今は、まだ。
「ゼオロ様?」
「ううん。なんでもない。ごめんなさい。もう、疲れてしまったから。早く寝よう」
「……そうしましょう。明日の朝にはまた、馬車に乗るのですから。少しでも、休んで頂かないと」
ベッドに横になると、毛布をしっかりと被らされる。
「おやすみなさいませ、ゼオロ様。良い夢を」
「おやすみ。ハゼン」
寧ろ、悪い夢の方を見そうで、ちょっと怖い。ハゼンの炎を見てしまったし。俺の考えを知るはずもないハゼンは、少し離れてから、もう一つのベッドに横になる。俺は枕に頭を置きながら、しばらくハゼンを見ていた。今は
背を向けていて、その大きな背と、流れる髪が、見えるだけで。何を考えているのか。どんな顔をしているのか。窺い知る事はできなかった。その内に俺も、眠くなって。次第に目を瞑ってしまう。揺られっぱなしの馬車の
旅は、俺が想像していたよりも、疲労となって俺の身体に蓄積していた様だ。正直まだちょっと湿っている被毛の事とか、朝になったら凄いぼさぼさになっているんじゃないかとか。そんな事を考えながらも、俺はその内に
眠りに落ちていった。
がやがやとした喧騒が、外から聞こえる。俺はそれを、ほんの少しだけ開けたカーテンの隙間から見ていた。
「ゼオロ様。あまり覗いて、気づかれません様に。先に話した通り、銀狼を各地から集めている事は、まだ公表している訳ではございません」
「うん。でも、そういうのって言わなくても、わかってしまう物なんじゃないの」
「そうでございますね。確かに、多少の事は民にはわかってしまう物です。ですが、今は、まだ」
そう言われて、俺は渋々とカーテンを閉じる。
ガルマ・ギルスの治める街、ファウナック。今俺は、ようやくその街に足を踏み入れていた。ちらっと覗いてみた街並みは、どこか古ぼけていて。狼族が狼族だけで固まって、本当に外の物を拒絶しているのが僅かな間
見つめただけでもわかる様だった。ただそれでも、空気が淀んでいるとか、歩いている人達の表情が暗いとか、そういう訳ではなかった。そんな事より、狼がてんこ盛りなところの方が気になるくらいだ。一緒に行きたいと
言ったヒュリカを置いてきたのは、間違いではなかった。目立つって勢いじゃなかっただろう。
「ああ、ついにファウナックまで辿り着けましたね。この匂い。まさに狼族だけの世界です。なんと素晴らしい事か」
「そ、そう」
そんなに臭うのだろうか。確かにちょっと犬臭い気もするけれど。犬臭いとか言ったら殴られそうだな。なんか普通に狼族に対する揶揄として成立するみたいだし。
「とりあえずは、このままガルマ様の館へ」
「ファウナックの街を見て回るのは、駄目?」
「……申し訳ございません、ゼオロ様。今はまだ。何分御身は尊く、おいそれと下々の前に行かせる訳には。私とて、あなた様の従者としてあるからこそ、お傍でお仕えできるのでございます」
「そうなんだ。じゃあ、いいよ。我慢する」
ミサナトから、ファウナックまで。いくつもの街を経由してきたというのに。結局俺が自由に歩けた場所は、一つとして無かった。それも仕方がないのかも知れないが。保護するという名目なのだし、その上で、ガルマの跡を
継ぐ者かも知れないと言うのだから。確かにそんな身分の者を、おいそれと出歩かせられないのは理解できる。問題なのは氏素性もよくよくわからない俺が、今そんな扱いを受けてしまっている事なのだけど。
「後継者としてふさわしくないとわかったら、歩いてもいいかな?」
俺がそう訊ねると、ハゼンは呆れた様な、それでも苦笑を浮かべて。それからちょっと大仰な仕草で、俺へ懇願するかの様に両手を前に差し出す。
「その様な事は、どうか仰らないでいただきたいのですが。あなた様こそがふさわしいと、私は思っていますのに」
「でも、ハゼンは他の銀狼の人も、連れてきたんでしょう?」
「それは、そうですが」
「その中にも、いくらでも族長にふさわしいと思える人が、居たんじゃないの」
その言葉に、ハゼンは束の間なんとも言えない表情を浮かべる。
「さて、それは、どうでしょうね。少なくとも、私には……あなた様こそが。その思いが、ありますよ」
「どうして。私には、何も無いのに。それに他の人は、やる気もあったんじゃないの」
「そうでございますね。一つだけ、ゼオロ様に欠けていて、他の候補の方が持っている物があるとすれば、族長の任に大層なやる気を持たれている事でしょうか」
「ほら。だったら、私はふさわしくない。こんなにやる気が無いのに」
本当にやる気はない。狼族について詳しくなれるかも、それからあわよくばミサナトから外の世界の事も知る事ができるかもと思っていたのに、その辺りは今のところはかが行かぬ状況となっている。
「それでも、あなた様の方が。私はそう思うのですよ。あなた様なら、族長になった姿を、私に見せてくれると。……いえ、逆ですね。他の方では、私にはその姿を見せてくれるはずがない。何人もの銀狼と顔を合わせ
ましたが、皆一様に、私が赤狼である事を厭うばかり。それが、間違っている訳ではありません。寧ろ、正しいとすら私も思います。本当に、稀有なお方。どうしてそんな風に、そんな目で、私の事を見ておられるの
でしょうね。それだから、私は俄然、あなた様を族長にと思ってしまうのですが」
「赤狼は悪い狼だね。やっぱり駄目だよ」
「今更そう仰られても、遅いですよ。それに、お顔がちっとも嫌そうではありませんから」
遅かった。
「さあ、そろそろ、御覚悟なさってください。ガルマ様の館では、この様な軽口も、どれだけ叩いている余裕があるのか、わかった物ではありませんよ」
微笑んで言うハゼンに、俺は最後の抵抗を諦める。こうなったらもう、自棄になるしかない。ガルマだろうが、他の銀狼候補だろうが、会って、必要な情報だけ毟り取ってやろう。
そう思いながらも、俺は遠くに置いてきた、自分を受け入れてくれた人達の事を。今更の様に思い出すのだった。
先に馬車から降りたハゼンが差し出した手を取って、外へ出る。光に包まれて、俺は少しの間目を閉じていた。目が光になれるよりも先に、何か、俺の手を取るハゼンとは別の誰かが、それも複数が。溜め息の様な音と、
声を漏らすのを聞いた。それで、ふとあれを思い出す。初めてこの世界に現れた時の事を。
それでも光が治まると同時に、俺の意識が混濁する事もなく。俺は辺りの様子をそっと伺う。目に映ったのは、ハゼンの傍に居る、鎧を着込んだ狼族だった。銀でも、赤でもなく。頭部だけは何も装備を着けていない
それらは、ただ俺を見て、にこやかに微笑んでいた。
「なんと、お美しい」
その向こうから、今度は声が聞こえた。メイドの様なお仕着せを身に着けている、狼族の、多分女の人達。声だけが男とは違って高いから、多分、そうなんだろうなと思う。
「ゼオロ様。長旅で、さぞお疲れでございましょう。今、あなた様のお部屋にご案内致します」
これまでよりも、より一層恭しい仕草でハゼンは微笑んでから、俺を案内しようとする。
「……ガルマ様に、御目通りはしなくていいの」
「とんでもない。到着したその日に、という訳には参りません。既に夕刻。まずはあなた様の旅の疲れを癒し、その上でその身を清めなければ。とても、今日お会いしている時間はございませんよ。さあ、こちらへ。あなた様の
お部屋は、既に用意してあります。少し、歩く事になりますが。ここはガルマ様の館の中でも、外郭と言っても良い場所。あなた様や、ガルマ様。それから、他の銀狼の方々などは、内郭へ御住みになられるのでございます。
さあ、参りましょう。ゼオロ様」
手を離してから、ハゼンが先導をする。俺は黙って頷くとその場を後にする。周りをもっと確かめたかったけれど、生憎俺を見てうっとりとした顔をしている館の使用人が邪魔で、そんな余裕は無かった。仕方なくハゼンの
背と、その先にある物を見上げる。大きな館。俺が下ろされたのは、館の敷地に入ってすぐの場所だった様だ。ここに来るまでの街で泊まった豪勢な宿も、大層立派な物だと思っていたけれど。ガルマの居城であるここは、
更に輪を掛けて、という表現がぴったりだった。外観は白い壁に包まれていて、なんとなく病院や、それからスケアルガ学園を思い出す。学園と違って、屋根も白かったけれど。
「白いね」
「銀のイメージでございますから。外観は全て、その様に。内部はまた違っておりますがね」
建物へと入る。すると、そこまでも待ち構えていた使用人達が、一斉に頭を下げて、俺は思わず頭を下げそうになる。
「気にせずに、歩いてよろしいのですよ、ゼオロ様。寧ろ、おどおどとされる方が、彼らには首を傾げさせる事になります」
「本当、私には合いそうにないね。この空気も、何も。誰と親しくなっても、一緒にご飯も食べられなさそう」
「実際、そうですがね。身分の違いという物が、ありますから」
「本当、厄介」
小声で会話をしながら、頑張って肩を怒らせては、のしのしと歩いてゆく。外郭と言われた区間は使用人こそ居るけれど、それほど華々しい場所ではなかった。正面のみはそれなりの飾りつけがされてあったけれど、
道から外れた箇所は、逆に余計な物は何一つ置いてはいない。
「外郭は使用人や、身分の低い者が使う場所でございますから。それから図書室や倉庫などの、まあそれほど重要ではない部屋でございますね」
「図書室。行きたいな」
情報を知るのにようやく手頃な物が出てきたと、俺はそれに食いつく。ミサナトにも図書館は当然あっただろうけれど、行く余裕がありませんでした。
「その内、でございますね。申し訳ない事ですが、今はまだ」
「わかってるよ」
やがて、外が見えてくる。橋が架かる様に、一本の廊下がそこでもずっと続いていて、両側は池になっている様だった。池といっても、規模が大分大きくて。湖の様な状態になっているけれど。水の中に魚が泳いで
いるのを見て、俺はちょっと嬉しくなる。後でじっくりと眺めてみたいな。
「あちらが内郭でございます」
声を掛けられて、顔を上げる。内郭は、今渡っている廊下の向こう。池の中央にある物の様だった。まるで監獄か何かの様だと思ったけれど、やっぱり大きさはかなりの物だ。そもそもガルマと、その後継者候補の銀狼が
住むというのだから、そこだけでもう途中途中で泊まった宿といい勝負と言ったぐらいの規模だった。近づくと、これまでとそこはまるで違うのだという事がよくわかる。壁に施された幾何学的模様の象嵌に、窪みに嵌められた
怪しい色の石。床にもいつの間にか、描かれたモザイク模様が地味な主張をしている。幾つも伸びている柱には灯りのための窪みがあって、もう少ししたらそこに火が躍るのだろう。
橋を渡り切って、内郭へ。入って広がる景色も、外側から見た物と違わず。ただ、その代わりに。中は白色ではなく、少し暗めの青色で統一されていた。その上で飾られている物は、銀色ばかり。
「ここは、白くないんだね」
「内郭は、その全てが尊き銀狼のための場でございます。白色で統一されているのは、外郭で充分なのでございます。街の者からも、そこが銀狼の、ギルスの在る地だと主張する事ができますから。しかし、ここは
違います。主として認められるのは、銀狼のみ。白と銀では、目立ちませんからね。ですから、少し暗めの色を用いるのでございます。おお、ゼオロ様」
振り返ったハゼンは、俺を見て眩しい物でも見るかの様に目を細めた。
「今のあなた様こそ、まさにこの場にふさわしい。まるで夜空に突如現れた、吉兆を報せる巨星の様でございます」
「痒くなる様な事言うね」
「……あなた様の心も、もう少し、そのう。情緒というものを、感じて頂けると嬉しいのですが」
「ごめんね、がさつで」
「がさつとは、違うとは思いますが。ただ、あなた様は、あなた様自身に向けられる好意や賛美を、あまり快くは思っておられぬご様子」
「ハゼンも綺麗だよ。赤いハゼンも、ここでは目立つね。太陽みたい」
「また、そうして逃げてしまわれる。困ったお方でございますね。とはいえ、もう、お互い様だと思う事にしましたが。私とて、その様に言われるのは、とてもとても」
「実際、そう思うんだけどな」
暗めの、青。そんな色で統一されたここでは、俺は目立つ。けれど、それと同じくらいに、ハゼンもまた目立つのだった。赤い髪が俺を誘う様に揺れているし、赤い尻尾は、この青の中を泳いでいるかの様で。赤狼だからと
これをきちんと見ないのは、勿体ないと思ってしまうくらいだ。
気を取り直して、更に進もうとする。そうすると、ハゼンは俺の前から、隣へと移動する。
「ここからは、私では先導の役目は果たせません。銀狼の地でございますから」
緊張した面持ちで、ハゼンが言う。俺は頷いて、遠くを見た。既にその先の広間では、俺達が来るのを待っている使用人達が居る。その使用人達も、表よりも数段身形を整えている者が多かった。銀狼は、見当たら
なかったけれど。
「ハゼン、緊張しているの?」
「申し訳ございません。本来ならば私の様な者は、何があろうとこの内郭に足を踏み入れるべきではないのです」
「ガルマ様に召し抱えられたのに?」
「それでも、私が許されるのは外郭まで。無論、特別にガルマ様からお呼び出し頂いた際は別ですが。今私がここに居られるのは、全てゼオロ様のおかげでございます。……もっとも、とても居心地が良いとは。恐れ多くて、
どうしたらと、そう思っています」
「気にしなくていいよ。行こう」
やり取りを済ませて、また歩く。程無くして、使用人が俺を迎えてくれる。誰一人としてハゼンに目を向けてはいない事が、ハゼンの言葉の意味を俺に如実に教えてくれる様な気がした。
堅苦しい挨拶は聞き流して、俺のために用意されたという部屋へと。ハゼンの代わりに案内をする使用人に導かれて向かう。部屋に通されて、俺は口をしばらく開けたまま、その場に立ち尽くしてしまった。後ろに居る
ハゼンが声を掛けてくれなかったら、もう数分はそうしていたかも知れない。
「こんなに広い部屋が、他の人にもそれぞれ宛がわれているんだね」
「左様でございます。ここは応接間でございますから、これが全てでありませんが」
「え? まだあるの?」
既に目の前に広がっている、綺麗で、それから華麗で、きらきらしているお部屋だけでも俺はもうお腹一杯なんだけど。
「まだ、奥がありますよ。ここには侍女や小姓の内誰か一人は待機しておりますから、御用があればなんなりと。次の部屋に行きましょう」
豪華な部屋の感想を述べるよりも先に、ハゼンが案内をしてくれる。部屋に入った時点で、鬱陶しい視線も無くなっていた。ただ、数人は部屋の入口で待機しているけれど。凄い落ち着かない。
次の部屋は、応接間と比べると少し質素な物だった。とはいえそれでもここに来るまでのどの宿の客室よりも整えられた部屋だったけれど。
「ここは従者の部屋でございますね。つまり、私の部屋という事になります」
「ハゼンも、ここに住むんだ」
「恐れ多き事ながら。本来ならば、誰か別の者を付けて頂く予定だったのですが……」
「他の人を呼ぶくらいなら、ハゼンがいいよ」
「これでございますからね、あなた様が。本来ならば、私のお役目はあなた様をこの部屋にご案内した時点で、終わっているはずなのですが」
「……嫌だった?」
俺が訊ねると、ハゼンが振り返る。僅かな間を置いてから、ハゼンがその場に屈み込んで、俺と目の高さを合わせてくれる。ハゼンは、よくそうしてくれる。優しいと思いながら、俺はつい、自分の背が低い事を
自覚してしまう。早く背、伸びないだろうか。
「そんな事は。ただ、あまりにも恐れ多くて……。銀狼だけが正当な主であると言われるこの館に、まさか、赤狼である私が……なんだか、信じられません」
「一度だけ、訊いておきたい。ハゼン。本当に、いいの。きっと、嫌な目で見られたりするよね」
一つだけ気掛かりがあるとすれば、それだった。使用人はよく躾けられているのか、ハゼンを見て嫌な顔を見せたりする様な人は誰も居なかったけれど。でも、その外面と内心はまったく別だろう。嫌な顔はしていない
けれど、俺に対する溢れんばかりの敬意が、ハゼンに対してはまったく感じられなかった。まるでそこにハゼンが居ないかの様な、そんな感じ。行儀の良いやり取りの中でも、それは充分に感じられる事だった。
「その様な事。瑣末な問題でございます。とはいえ、いつまでご一緒に居られるのかは、わかりませんが。ガルマ様とお会いになる時、当然別の者を付けてはと訊かれるでしょう。その時までに、お心を決めて頂ければ。私は
それで、構いません。あなた様のご意思に、ただ従いましょう」
どうしてそこまでするの。
つい、口にしたくなって。でも俺は、黙って頷くだけだった。今のハゼンには、訊ねても、きっと銀狼に仕える事が云々と言われるだけの様な気がしたから。
「ところで、ハゼンは銀狼をここまで案内する仕事をしていたんだよね。私の従者になるのなら、それはもうしなくてもいいの」
「左様でございますね。何も私だけが、その任を仰せつかった訳ではありません故。とはいえ、私が態々ミサナトまで足を運んだのは、ギルス領内では既にめぼしい銀狼の方々にはお声をお掛けした後であるから、という
事情もございます。どの道、そろそろこの仕事も終わりを迎えるはずでした。その様な時に、まさかゼオロ様をこうして見つけ出す事ができたのはまさに僥倖でございますし、その上でこの様に内郭にまで住まわせて
いただけるとは……」
なるほど。本当にぎりぎりのところで、俺はハゼンに見つけてもらえた。いや、見つけられてしまったといえるのだな。それがハゼンにとっては良い結果になったのなら、俺も見つけられてしまった事を多少は
前向きに受け止められそうな気がする。
「ここが、ゼオロ様。あなた様がお使いになられるお部屋でございます」
次の部屋へと通されて、俺はまた固まる。何から何まで豪奢と言っても良い部屋だった。大きくて、その上に毛皮の敷かれたソファに挟まれて、物を置くのも躊躇ってしまいそうな巧みな象嵌を施されたテーブルが
あって。部屋の中央近くの壁には、今は使われていない暖炉と、その近くで寛ぐための腰掛けが。部屋の奥には俺の身体には不釣り合いになりそうな大きな椅子と机があって、その近くに、天蓋付きの巨大なベッドが
置かれている。ネットでたまに拡散されている、趣向を凝らしたラブホテルの一室を映した画像を、ふと思い出す。台無しな感想だな。それであっても、ここまでの物は中々無いだろうに。
「落ち着けなさそうだね……」
「慣れれば、すぐでございますよ」
そういう問題なんだろうか。いや、そういう問題じゃないな。ギルスの血を引いている、後継者候補。俺の正体が真実そうだというのなら、きっと今はうきうき気分で、ベッドに突撃して、はしゃいだかも知れない。でも、
そうじゃないんだよね。俺。どうしよう。ばれたらやっぱり首が飛ぶのではないだろうか。もう情報がどうとかそういうのを抜きにして、如何に上手くここから逃げ切るかが勝負みたいになってきている気がする。しかし
ここは広い池の上に鎮座している。なんという監獄。なんという終身刑。更に俺が逃げ出そうとしたら、多分全力で止めるであろう、優秀な赤狼も傍に居る。詰んだ。リセットボタンは一体どこに。
「ごめん、ハゼン。疲れたから今日はもう、寝ていいかな。お風呂も、明日起きてからでいい?」
「構いませんよ。お疲れでしょうから。お食事は大丈夫ですか?」
「疲れたから、食欲無い」
お疲れというか、ベッドの中で一人丸まって、作戦会議をしたい。途中から脱線して現実逃避になるのはわかった上で。
「私は私で、準備がありますので。今日のところは、これで失礼します。隣の部屋には居ますので、何かありましたら遠慮なく。もしくは、手を叩いて頂ければ、私なり小姓なりが駆けつけますので」
「ああ、うん……。わかったよ。おやすみ、ハゼン」
「おやすみなさいませ」
一礼すると、ハゼンが出てゆく。それを見送って、扉が閉まるのをたっぷりと待ってから、俺はとりあえず全速力でベッドに走って、ダイブしておいた。
明日が来るのが怖い。
ふかふかしてる。