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12.フラグパキポキ

「一層、誰かがお前を殺してくれていたら。時々、そう考えてしまう」
「そうすれば俺は、復讐のために生きて、復讐のために腕を磨き、いつか復讐を遂げて、俺自身も終わる事ができた」
「現実はそうじゃなかった。お前を殺したのは、俺だった。無知で、無力な、俺だった」
「あの日から俺は、俺自身を許す事ができずに」

 薄暗い店内に、燃え盛る炎の様な、眩しい太陽の様な。そんな赤い被毛に覆われた狼族の青年が、膝を付いて俺を見上げていた。
 俺はそれを、じっと見つめていた。尖る勢いの長い耳と比べると、頭頂部は大人しい。後ろで髪を束ねているから、跳ねる部分が少ないのだろうなと思う。
「ゼオロ様……?」
 暢気に考え事をしていると、ハゼン・マカカルと名乗った男は、少し不安そうな声を出した。
「……ああ、ごめんなさい。突然の事でしたので」
「ご無礼を、どうかお許しください。しかし、あなた様を保護する事こそが、私の、延いてはガルマ・ギルス様のご意思なのでございます」
「どういう事なのでしょうか。マカカル様」
 突然やってきて、お前を連れてゆく、お前を保護すると言われても。正直何言ってんだお前感が凄い。寧ろお前が来たからたった今ファンネス達に保護されたいわと言いたい。まさか、俺の秘密が伝わってしまったの
だろうか。ちょっと考えるけれど、流石にそれは無いだろう。俺の秘密を知っている者は数名居るけれど、皆口は堅いし。一人だけ問題そうなのが居るとしたら、スケアルガ学園に通っていて、あれから顔も合わせていない
ササンだろうか。ハンスは仕方がないとはいえ、ササンに関しては問題を起こした当人が足繁く俺の下へ通うのは目立つという事もあって、ササンとは連絡一つとっていない。それに、責任は大分感じて、反省していた
様だし。俺としてはそれで、あとは秘密さえ守ってくれているのなら、何も言う事がなかった。
「詳しくは、そのう……あまり表立っては言えない事なのですが。あなた様は、銀狼、でございますので」
 少し言いよどんでから、ハゼンが続ける。それに、俺はとりあえずの納得はした。
「銀狼であるから、保護する。そう言われるのですか」
「……ええ。それが我が主の意思であります。この様な場所に居られては、ゼオロ様の身に危険が及ぶという物」
 正直それは否定できない。既に身の危険はやってきたし。肩の傷はクロイスを庇っての事だけれど、ヒュリカとの騒動では俺自身にも目を付けられていて。別の世界からやってきた、というだけでも厄介なのに、その上で
俺はこの身体の価値を、今更の様に理解していた。本当に、寿命全うできなさそうだなと思う。
「そんな私を、保護していただけると」
「ええ、その通りです。ぜひとも、共に」
「お断りします」
「……えっ」
 赤い狼の表情が、驚愕した事で崩れる。にこやかに優しそうだった表情はどこかへ行って。まさか、俺が断るとは思わなかったのだろう。目を見開いては、そんな事を言われるとはまったく予想していなかったと言わん
ばかりになって。続けて、おろおろとして、とても困った様な顔をされる。そういう顔をされると、如何にも端正な顔立ちの青年がする物としては意外な程に愛嬌があるなと思わされる。
「ど、どうしてでしょうか。ゼオロ様。理由を、お聞かせ願えますか」
「沢山ありますが……。まず、突然そんな事を言いに来られても、私としても困ります。その上で、あなたの身元がはっきりとしていない事もあります」
「ですから、ガルマ・ギルス様の使いで、ハゼン・マカカルだと」
「それは、マカカル様。あなたがそう名乗っただけの話であって、身元が証明されたとは言えないでしょう。先程あなたは、銀狼であるから。そう言われました。確かに、銀狼である私は、危険な目にも実際に遭いましたし、
保護して頂けるというのなら、それはとてもありがたいお話なのでしょうね」
「でしたら」
「ですが、あなたと一緒に行く事が、本当に保護される事に繋がるのか。私にはわかりません。保証も証明も、何もされていませんから。ですので、お引き取りください」
「……弱りました。その様に、返されてしまうとは」
「何か、ガルマ・ギルス様の使いだと証明できる様な物は、ないのですか」
「それでしたら」
 そう言って、慌てた様にハゼンは懐を探る。あるなら最初から出せばいいのに。口振りからして銀狼を保護するという行動は手慣れている様で、そうなると今まで実際に保護したと思われる相手は随分あっさり口車に
乗ったのだなと思う。危機感が足りない。と片腕を動けなくした身で言うのは、説得力が無いけれど。
「こちらでございます」
「これは……」
 差し出されたのは、古びた金のエンブレムだった。
「ガルマ・ギルス様の使いである事を表す物でございます」
 そう言われてもこんなのいくらでも偽造できそうだなと思いつつ、差し出されたので手に取ってみる。それから、もしかしてと思って、それを更にじっと見つめる。すると予想通り、ツガの掛けてくれた魔法が発動した。狼族の
長であるギルス家の家紋であり、これはその中でも長当人の何かしらの名代である事を示す物であると、教えてくれる。この場合、銀狼の保護を任せているという、目の前の赤い狼族、ハゼン・マカカルの身元を証明する物と
見て、良さそうだった。もっとも本物をどこかからくすねてきたという可能性も、否定できないけれど。流石にそこまでは、ツガの掛けた魔法でも見通す事はできなかった。とはいえ高性能っぷりには相変わらず感動して
しまうくらいだけど。
「本物の様ですね」
「勿論でございますとも」
 エンブレムを返しながら、俺はちょっと安心する。目の前のハゼンがとりあえずは信用できるという事実もそうだったけれど、渡されたエンブレムの真贋自体はきちんと確認できたという事が大きかった。ツガの魔法も
無しでは、なんだこの古びた物は、という感想しか出てこないから、仮にこれが狼族なら誰もが知っている様な物だったりすると、俺の秘密の方に響く。
「これで、信用して頂けるでしょうか? これ以外に身分を証明する物はございませんので、あとは私が何かして差し上げるくらいしか、ないのですが……」
「そうですね……いくつか、質問をしても?」
「ええ、構いません。それは当然の話ですね」
「保護という事は、私はその、ガルマ・ギルス様の下へと連れていかれるのでしょうか?」
「その通りです。ここから南東、ギルス領に入り、ガルマ様が住まうファウナックの街へ、ご案内いたします」
 言われて、俺は手元にある地図へと視線を下ろす。涙の跡地の地図が、そこには広がっていた。暇な時に眺めては勉強する内の一つに、この国の地図も含まれているのは当然の話で。俺がそれを見ているのに気づくと、
膝を付いたままだったハゼンが立ち上がり、断ってから覗き込んでくる。
「今我々が居るのは、ここでございますね。ラヴーワの首都から南西に位置する、ミサナト。そして、ファウナックは南東のこちらでございます」
 赤い指が、するすると地図の上を滑る。その先で、区切られた線を超えた。この先が、ギルス領。つまり狼族の長であるガルマ・ギルスが治める土地なのだろう。その領地の中央よりやや北よりの場所にファウナックという
街があった。俺はそれよりも、ギルス領がそのまま緩衝地帯にぶつかっている事の方が、気になったけれど。ギルス領自体が、ラヴーワ全体から見ると、かなり端の方にあると言ってよかった。
「馬車を使って、片道で一月と少しといったところでしょうか。早馬でしたら、その半分くらいでしょうね」
「そうなんですか」
 地図はそれなりに見たけれど、実際の距離は街から出た事すらないから、よくわからない。馬車の旅って実際に一日にどの程度進めるのかよくわからないし。そもそも昼夜兼行なのかどうかという問題もあるし。
「ミサナトから出たら、あとは街道をそのまま南東へ。この通り。セルマ、ルーニルース、トルガスなどの街と、宿場を巡って、ファウナックを目指します。ファウナックはこの街とは違い、ガルマ様のお膝元でございますから、
当然ながら住むのは狼族ばかりの街。この街に居るよりも、安全でございますよ」
「そうなんですか」
「ですから、ぜひともゼオロ様も。この街に長居するのは、危険でございます」
「そうなんですか」
 必殺そうなんですかが炸裂する。だって、経由する道だの街だの説明されても、そこまでわからないし。その上で狼族なら安心と言われても、それもわからない。俺を刺したのも狼族でしたよと言いたい。
「それで、保護した私を、何に使われたいのでしょうか?」
 俺がまったく歯に衣着せずにそれをいうと、ハゼンは目を見開捨てから、困った様に強張った笑みを浮かべた。
「その様な、使う等と。ただ我々は、銀狼の方の御身をお守りするべく……」
「私は、片腕が動きません」
 そう告げると、ハゼンが絶句する。俺は右手で、左肩を軽く摩った。
「もし私を何かに利用されるという思惑があるのでしたら、それがなんであるのかはわかりませんが、諦めて頂きたいと思うのです。少なくとも今の私は、その様に守られても、あなたに何かをして差し上げられる様な
状態ではありませんから」
「その様な事は。先程申し上げた通り、ただ銀狼であるゼオロ様を、お守りしたいだけなのでございます。どうか、私を信じてください。ゼオロ様」
「そうですか。では、最後に。どうして私なのですか」
「それも、申し上げました。銀狼であるから、と」
「本当に、それだけなのですか? 銀狼なら、この街には他にも居ますよ」
 道を歩いていてなんとなくわかる。決して多くはないが、銀狼の一種と思われる狼族が居る事に。ただそれらは、俺の被毛とは、少し様子が違う事が多かった。銀狼の血筋を引くと言っても、違う被毛の色を持つ狼族の血が
混ざり合う事で、その銀の被毛も薄れてしまうのだろうなと思う。それでも彼らもまた、銀狼である事に変わらないと、俺は思うのだけど。
「……わかりました。お話できる分だけは、お話しておきます」
 観念した様に、ハゼンが溜め息交じりにそう告げる。こんな面倒な奴を連れていくのはごめんだと、さっさと帰ってくれる事を期待したのだけど。ハゼンは引くつもりは無い様だった。
「一つには、あなた様の被毛が、銀狼の中でも特別に優れた物であるからです。この目で見て、それは確信に変わりました。そういう意味では、あなた様は普通の……というと語弊がありますが。あなた様が仰る、
他に居る銀狼の方々とは、明確に違う訳でございますね」
 まあ、実際違うけれど。ギルスの血筋にすら当たらない訳で。
「そして、もう一つ。失礼ながらあなた様の事を少しだけ、調べさせていただきました」
 そう言われて、俺の身体に緊張が走る。それでも、表面だけはどうにか取り繕った。ここで慌てたら、例え相手が何も知らずとも、俺に何かしらやましい隠し事があるのだと肯定するに等しいと言わざるを得ない。
「しかし、何もわからず。途方に暮れてしまいましてね。そもそも銀狼というのは、狼族にとっては、英雄であるグンサ・ギルス様の持つ血筋に連なる事を意味するのですから、ギルス家は、銀狼の血筋に連なる者達の事を、
ある程度は把握しているのです。とはいえ、その全てを、とは流石に言えませんが」
「私は、把握されていなかった。その上で、この銀色が目立つから、やってきたと。そういう訳ですか」
「はい。この様に鮮やかな銀色が出るのは、余程ギルスの血が濃い事を意味します。しかしそれを持つあなた様を、ギルス家は知らない。あなた様を保護するのは、あなた様を、特別な銀狼として、お迎えするためでも
あるのです」
「特別な、銀狼……」
 それに、俺は露骨に顔を顰める。銀狼である事がある程度特別な事なのに、更にその中で特別とくると。正直困る。しかも英雄にも連なる血筋だと言う。一番嫌なのが、そういう由緒ある血筋だと言われているのに、
実際のところまったく関係が無い上に、特別特別と特別の盛り合わせを食らっている癖に俺には特別な能力が何一つ備わっていないところなんだけれど。能力どころか片腕の機能が損なわれているんですが。これ保護
されたとして、もしギルスの血筋と関係無いのが知られたら、騙しただとか言われて首でも取られるんじゃないか。保護されに行ったらそこで人生終了とは、ちょっと遠慮したい。
「ご安心ください。ゼオロ様の事は、この私。ハゼンが、命に代えても、守ってみせます」
 目の前に居る燃える様な赤い狼は、俺が身の危険を感じて不安に表情を曇らせていると、暴漢から襲われる事に怯えているのだろうと勝手に勘違いして、今俺の右手を、無骨な大きな両手で包み込んで、微笑んで
いる。俺が気にしているのは寧ろ狼族側から滅多打ちにされる事なんだけれど。
「……時間を、頂けますか。すぐには、決められない事です」
「わかりました。何度か、この店には足を運びます故、色好い返事をお待ちしております」
 俺が検討してみると言うと、ハゼンは満足そうに笑って、手を離す。俺が想像していたよりもずっと慎重に事を運んでいるのを見て、無理強いを避けたのだろう。優雅に一礼してから、ハゼンは赤い髪と、赤い尻尾を揺らして、
店を出てゆく。扉が仕舞ってしばらくすると、俺は盛大に溜め息を吐いた。
 しばらくすると、おずおずとした様子で客が顔を出しはじめる。どうやら、人払いをされていた様だ。
 酷い営業妨害だった。

 店番を無事に終えて夕方に帰ってくるファンネスとツガを迎える。
「どうした」
 俺の顔を見て、ファンネスが即座にそう問いかけてくる。そんなに、顔に出ていただろうか。
「それもあるが、昨日よりもいくらか売り上げが落ちている。それだけならそういう事もあると流してやるが、お前の顔を見てしまってはな」
「どうかしたの? ゼオロさん」
 ファンネスの言葉に、それを聞きつけたツガも寄ってくる。俺は仕方なく、今日出会ったハゼン・マカカルの事と、その目的を話す。話している内に、ファンネスが考え込む仕草を始めた。
「話したい事はあるが、その前に。まずはお前をハンスの下へ送ろう。ツガ、お前も来い」
「はぁい」
「いいのですか?」
「ハンスを交えて、話がしたい。その上で、そのハゼンという男も、気に掛かる。少なくとも私はそんな男は知らないしな。お前が躊躇した通り、本当にガルマの使いかどうかもわからん」
 手早く用意を済ませて、ファンネスとツガの間に入ってミサナトの街を歩く。道を行く人々は、ツガに一瞬見惚れたかと思うと、大慌てで道を開けた。まるで、海が割れる様に。ツガは自分が目立っている事など露程も
気にしていない様だった。俺の右手を無遠慮に持って、さっきから楽しそうに振り回しているツガは、やっぱり子供の様だと思う。
「ツガ。もう少し抑えろ。お前とゼオロが並んでるだけで、どうしようもなく目立つのだから」
「えー。気のせいでしょー? ねー」
「いえ、目立ってると思います……」
 夕陽に照らされて、俺の身体は銀の輝きを増して。それだって目立つ方なのに、俺の隣の竜の鱗は、よくよく光を反射して、まるでそこから光が発せられている様だった。視界に一度入ってしまえば、しばらくは絶対に
そこから目を離せなくなる様な。歩く先々で人々はツガを見つめて、そしてツガとは反対側で恐ろしい形相で睨みを利かせているファンネスの存在に気づいて、慌てて視線を逸らす。その繰り返しだった。というか、
どうしてツガまで連れてきてしまったのだろうか。とてつもなく目立っている。目立ちたくないのに。
「置いてゆく訳にもいかなくてな」
 俺の視線を受けて、ファンネスが力無く笑う。まあ、ツガを一人にしたらそれはそれで怖いし、ツガはツガで絶対にファンネスから離れたがらないだろうな。呪いの件もあるのだから。
 結局俺達はそのまま、ただ歩いているだけなのにどうしようもなく目立つ状態のまま、ハンスの家まで戻った。ファンネスの苦労が、なんとなくわかる気がした。これはもう袋でも被せておかないとどうしようもない
レベルだろう。そりゃ店がまともに開けられない訳だ。
「おや、ファンネス。それに、ツガさんも。どうかされたのですか」
 程無くして戻ってきたハンスは、ファンネスとツガがこの時間に家に上がり込んでいる事に微笑を浮かべて迎えたけれど、すぐに何かがあったのだと察して、冷静な表情を見せた。そこで俺は、ファンネスにした話を、
ハンスにもする。ハンスもまた、難しそうな顔をしていた。
「ガルマ・ギルスの使い……真実ならば、これはまた中々に容易ならぬ展開ですし、対処に困りますね。八族の一つである、狼族の長。軽々しい真似は、できそうにない」
「だから目立つなと言ったんだ。余計な奴を、招くだけだ」
「すみません」
「いえ。しかし、いつかは起こる事でしたよ。話を聞く限りではね。ゼオロさんが銀狼の中でも特別である、という事らしいですから」
「そもそも、そこだ。それは本当の事なのか? 私は爬族であるが故に、あまり八族については詳しくはない。そこのところは、どうなのだ」
 ファンネスの問いに、ハンスは苦々しいと言わんばかりに顔を顰める。
「残念ですが、私とてさまで詳しいという訳ではありません。犬族ですからね。狼族が排他的になり、他種族との関わりを避ける様になって、二十年と少し。私が知る銀狼とは、英雄グンサ・ギルスが現れるよりも前から、
銀狼という存在自体が、彼らにとっては一つの誇りであり、支えとして存在する象徴の様な物であったという事だけです。それから、銀狼は銀狼以外と結ばれた際、大抵はその銀の被毛を損なった子が産まれたり、稀に
正反対に美しい銀狼として産まれる事があるだとか、そんな話ばかりでして。ただ、その関係からか。狼族とは例え親しくなっても、その相手が他種族である場合、狼族は自分達の話題を口にするのは極力避けると
言います。まあ、グンサの件を鑑みれば。個人で親しくする事はできるし、また許されてもいるけれども。種族の話を持ち出すのは避けているのでしょうね。故に、やはり他種族にはわからぬ部分が多い」
「グンサ・ギルスという銀狼の英雄を失い、他種族を避け続けて、更に歳月を経た狼族の今はわからんという事か」
「ええ。銀狼の保護、ですか。それも、ゼオロさんが特別な銀狼だからと。確かに、とても綺麗な身体をされているなとは、思っていましたが」
「だが、もう傷物だ」
 にやりとしながら、ファンネスが言う。絶対肩の傷じゃなくてクロイスと何かあったんだろって言っている顔だ。何もしてないから。キスはしたけど。
「その傷物でも良い。そう仰る訳ですね、先方は」
 ハンスはハンスで、にこやかにそれを拾う。二人揃って笑いながら俺を見るのは、とてつもなく威圧感がある。大人組の本気が怖い。クロイス戻ってきて。
 ちなみにツガはハンスが出してくれたお茶菓子に、さっきから尻尾を振り回してご機嫌で齧り付いている。俺の秘密を知っているはずだけど、多分頭に入っていない気がする。気楽で良いな。
「そう考えると、選択肢なんて無いのではないか? それこそ力付くでそいつ、連れていきかねないぞ」
「そうですねぇ。一人ならこう、ちょっとした事で、お引き取り願う事もできますが」
 にこやかに物騒な事を言うハンス。そんなハンスは、知りたくなかったと思う。俺のためとは言え。そういえばハンスも魔法使いの首輪を付けているはずなのに、そんな荒事に参加できるのだろうか。
「私は教師ですから。首輪は一応付けてますが、それほどの効果はありませんよ。そうじゃないと、生徒が暴走したり、魔法が暴発した時に、鎮められる人が不在となってしまいますからね」
 俺が訊ねると、ハンスはそう返してくれた。確かに、何かがあっても教師がそれを止められないのでは、話にならないだろう。
「ツガの手は貸さんぞ。竜族は問題を起こしたら、ラヴーワから追い出されても、文句は言えん。ただでさえ突っ立ってるだけで面倒を起こすのに」
「ええ、わかっていますよ。それに、その男一人ならまだしも、その後ろにガルマが、つまり狼族が控えているとあっては、とても実行できそうにない。……ですがこれは、言い換えれば好機と言えるかも知れません」
「ああ、そうだな。私もそう思うよ」
「好機、ですか?」
 二人がわかった様な口振りで話しているので、俺は説明が欲しくて、尋ねてみる。
「ハンスは言い難そうだから、私が言おうか。まずはっきり言って、いい加減お前の身柄を、そしてお前の秘密を、何よりもお前の価値を。一人で預かるのには無理が出てきた」
「……そうですね。そう言われると、その通りです」
 そもそも別の世界からやってきた、という秘密だけで一人の手に余る。秘密を秘密のままにしていられれば良いが、どこからそれが広がるのか、わかったものじゃなかった。だからハンスは、例え秘密が秘密でなくなる日が
来たとしても、俺に伸ばされる悪意のある手を、俺自身が払い除けられる程の力を付ける事が大切だと言っていたのだ。そして結果は、ご覧の有様。力を付けるなんて、とんでもない。それどころか、弱体化している
始末。その上で、俺に銀狼という別の価値があって。更に今回、銀狼の中でも特別だという話があって。更に更に、その裏には、そもそも銀狼の血筋ではないのだから、結局のところ特別な銀狼として今俺を求めている
ガルマ・ギルスと、その使いであると口にしたハゼン・マカカルに、それが知られても、知られなくても、厄介事になるという事実だった。なんだかどんどんややこしくなってきた気がする。設定を憶えるのは得意とはいえ、
特徴は二つくらいまでにしてほしいと自分の事ながら思った。
「私がその、特別な銀狼とやらではないのだという事を、説明する訳にはいかないのでしょうか」
「何一つ確証の無いその主張に、相手が納得して引き下がると思うのか。お前の銀の美しさを指して、相手はお前を求めているのに」
「……いえ」
「それに、それは悪手と言わざるを得ませんよ。仮にそれで、相手が納得してくれたとしましょう。つまり、銀狼の血筋ではないと。ギルスとは、無関係の存在であると。しかし次に考えるのは、何故何一つ関係性も無いのに、
あなたという存在が居るのか? という事です。しかも、調べても素性がよくわからない、というところまで相手は辿り着いています。この際、銀狼の血筋であるかどうか。そして、特別な銀狼であるかどうか。そんな物は、
気にするなと言えば無理でしょうけれど、まったく無視して、適当に頷いてしまって良いと思いますよ。それよりも、相手方が本当にあなたの存在を胡乱な物として受け止め、本腰を入れて調べ上げ、あなたの秘密に
辿り着いてしまう事こそ、避けなければ。狼族は魔導に対しては疎い方ではありますが、異世界人相手にまったく何もしないのかというと、それはわかりませんからね」
「怪しまれない様に振る舞うべきだと。そういう事ですね」
「ああ。それに、そうした方が色々と得だ。さっき私が口にした話題に戻るが、ガルマ・ギルスからの招待ならば、言い換えればガルマ・ギルスにさえ気に入られれば、それは強力な後ろ盾になる。一人でお前の存在を
預かるのに無理が出てきた今、ガルマ・ギルスを。つまりは、銀狼を、ややもすれば、狼族全体を味方に付ける事ができるかも知れない今回の一件は、そう悪い話ではないはずだ。元々銀狼は狼族の中では神聖視
されていると言っても過言ではないのだからな。もっともお前という銀狼が、本来の銀狼とはまったく関係が無いなどと知れ渡ってしまえば、八つ裂きで済むのかわからんがな」
「他人事だと、思ってますね」
「事実、他人事なのだから仕方がない。残念だ。私は爬族。八族ですらなく、竜族にすら嫌悪される存在だからな。ああ、残念だ残念だ」
「……すみません。言い過ぎました」
「謝るな。おどけた私が悪いみたいじゃないか?」
「今のはあなたが悪いですよ、ファンネス」
「そうだよー、ファンネス。小さい子を虐めちゃ駄目って、教わらなかったの?」
「お前に言われると腹立たしいな。その菓子は没収だ」
 ファンネスとツガの攻防を後目に、ハンスは溜め息を吐く。
「さて、今のはまあ、こうした方が良いというだけの話です。実際のところは、ゼオロさん、あなたの判断に任せましょう。……あなたは、どうしたいですか?」
「私が、どうしたいかですか」
「他でもない、あなたの人生ですよ。私達ができるのは、あなたがきちんと考えて、決断を下す事ができる様に、お手伝いして差し上げる事くらいです。それに、完全なあなたの独断だと、良くない結果を招くのは記憶に
新しいですからね」
 こんな時でもハンスは俺の傷の一件を掘り下げる事を忘れない。あんまり表には出さないけれど、相当心配させてしまったし、怒ってもいる様だった。
「私は……この話、乗ってみようと思います」
「その心は?」
「叱られるのを、覚悟で言います。ご迷惑をお掛けしたくないのです」
 俺がそう言うと、ハンスは笑った。けれど、悲しそうな笑い方だと思った。それから、椅子に座った俺の前に来て、俺の身体を抱き締めてくれる。抱き締め方は、優しかった。籠めた力も、腕の回し方も。純粋な好意という
物が、伝わってくる様で。
「困りましたね。そんな風に言われると、叱れなくなってしまうじゃないですか。あなたがきちんと考えた上で、そうまで言ってしまったら」
 ガルマ・ギルスの誘いを断るのは、簡単だった。しかし先程の話の事がある。俺自身が怪しまれて、俺の秘密が暴かれてしまったら。それはもはや、狼族との関係どころか、このミサナト自体が騒動に巻き込まれる事も
ある。その上で、それを匿っていたハンスにも、かなりの迷惑が掛かるのは想像するに難くない。だから、結局のところ俺はこの誘いに乗ろうとしている。
「沢山、迷惑を掛けてしまいました。これ以上は、迷惑を掛けたくないのです」
「何を言っているんですか。迷惑は、掛けて当たり前の物なんですよ。生きるという事は、自分以外の誰かに。周りに。迷惑を掛ける事と同じなのですから。大切なのは、迷惑を掛けた分、自分が周りの迷惑を受け持って、
支えてあげる事です。迷惑を掛けるなと声高に言う者は、自分が他者に対して迷惑を掛けているという事すら自覚せぬ、そうして己が子供である事すらわからぬ者なのだから」
「とても、素晴らしい考え方だと思います。けれど、私は、迷惑を掛けるだけでした。今も。……昔も」
 迷惑を掛けて、掛け続けて。一体俺はそれに、どれだけ報いられたのだろう。何一つしなかった。そう言っても、間違いじゃない。そんな自分が嫌なのに、本当にどうにかしようとは、本当に自分を変えようとは、
思わなかった。ただ、申し訳なく思うだけ。本当に、大嫌いだった。
 だから、ここでも前と同じ自分になってしまう事が、嫌だった。けれども、今の俺は、下手をすれば前の俺よりも、誰かに迷惑を掛けられても、それを支える様な力を持っていない。片腕が動かない俺は物理的に役に
立たず。そしてその存在自体が、ハンス達に迷惑の掛かる物でしかないのだと、今日の事で、よくわかったから。
「だから、出ていくと。そういうのですか」
「勿論、それだけではありません。私はいい加減に、自分の事だけでなく、この世界の事をもっと知る必要があると思います。狼族の、ガルマ・ギルスの下へ行くのは、その手始めには、丁度良いのではないでしょうか。自分が
狼族であるというのに、私は狼族の事を、何も知らない。けれど、狼族は今、他種族には心を開こうとしないのでしょう。ここに居ては、狼族の事は本当にはわからない。狼族と知り合いになれば、多少の事はわかるかも
知れませんが。しかし、それだけです。だったら、もう、開き直ります。狼族の事を知るためにも、この誘いには乗ってみようと思います。どの道、あのハゼン・マカカルという方は、随分と私に執着されている様にも
見えましたから」
「それだけ、特別な銀狼、とやらを求めているという事なのかな」
「それは、わかりませんが。……どうでしょうか、ハンスさん。許可を頂いても」
「許可も、何も。あなたがそれを決められたのなら、私に止められる事ではありません。あなたが、自分でその道を選んだ事。それだけを、しっかりと胸に刻み、忘れないでいてくれるのならば」
「忘れません」
「ここには、もう、戻ってこられないかも知れませんよ。何が待っているのかはわからないし、ガルマ・ギルスに気に入られて、傍を離れられぬ事態になるかも知れない」
「……覚悟の上です」
 本当は、ちょっと覚悟はできていない。けれど、このままここで手を拱いて、俺の秘密という一番に守りたい事柄が露呈してしまうのは避けたかった。一番賢いのは、夜逃げかも知れないけれど、生憎まだ、体力が戻っては
いない。こんな状態で夜逃げなんて、とても実行に移せそうになかった。結局のところ、どの道を選んでも茨の道と言っても差し支えなく。だったら、これからも生きてゆく上で必要な、狼族の事を深く知る機会であると捉えて
動こうと思った。
 本当は、とても不安だけれど。この世界に来て、俺はずっとこの家に居たから。なんだかんだで、もうここが自分の家なんだって、ちょっと思ってた節もあったから。
「あなたの覚悟は、よくわかりました」
 ハンスが、更に強く俺を抱き締めてくれる。それから、俺の首に、頬を擦り付けてくる。それに、俺はちょっと驚いた。ハンスがこんな風に、動物らしい仕草で俺に接してくるのは初めてだ。
「これも銀狼として存在してしまったが故の、定めなのかな。竜族には、竜族の定めがあった様に。なあ、ツガ」
「え? なーに?」
「……なんでもないさ。ああ、どうせなら、クロイスの嫁にでもなって、さっさとスケアルガの後ろ盾を得ていた方が良かったかもな」
「嫁は、嫌です」
 確かに、安全性という意味ではそれが一番かも知れないけれど。からかう様に言ったファンネスの言葉は、確かに冗談の様だったけれど。ファンネスの顔は、笑ってはいなかった。

 次の日。俺はハンスに伝言を頼んで休みだという事をヒュリカに伝えてもらい、元々休みだったヒュリカは意気揚々と俺の部屋へとやってきた。本当は俺が直接、ヒュリカの居るスケアルガ家に乗り込みたかった
けれど。ジョウスに会いたくなかったのと、狼族の一件で今スケアルガに何かしら口を出されるのはハンスもよろしくないと思ったのか、態々お使いを頼まれてくれた。
 笑顔で俺に会いに来てくれたヒュリカに、ハゼン・マカカルの手を取って、狼族の長であるガルマ・ギルスの下へ行く事を告げるのは、正直かなり迷った。黙ったまま出ていってしまおうかと思うくらいに。
「それだけは絶対にやめてあげてください。可哀想です」
「一応あれも私の診ている患者だぞ。精神を不安定に陥れる様な真似は止めろ」
 大人二人から至極真っ当な意見を頂いたので、俺の逃げを打つ作戦は、阻止された。俺は薄く緑色に色付いた部屋にヒュリカを迎える。部屋の色は結局ずっと白いままだったけれど、最後に我儘を言って、落ち着く様な
色合いにハンスに色を付けてもらった。
「部屋は、このままにしておきますよ。とはいえ、あなたは本当に物を持ち込まないから、掃除をしたら、この部屋の色しか、残らないのですが」
 ハンスはそう言ってくれたっけ。こんな風にハンス達の言葉を思い返しているのは、予想通り、俺の話を聞いたヒュリカが悲しそうな顔をしてしまったからだった。そんな顔を見たくないし、させたくもなかった。ああ、
でも。これを見たくなかったから、何も言わずに行こうとしたというのは、やっぱり、俺の最低の我儘だったなと思った。
「今度は、ゼオロも行っちゃうの……?」
 ヒュリカがそう言うのは、無理からぬ事だった。ついこの間、俺も見送る側に立って、泣いてクロイスを送り出したばかり。なのに、今度は俺が行くという。ヒュリカからしたら、ミサナトに来て、最初に知り合った二人が、
揃いも揃って居なくなってしまうのは、やっぱり辛い事なのだろうか。
「その内、戻ってくるよ」
「その内って、いつ?」
 わかりません。流石に言えなくて、俺は曖昧に笑った。だって、本当にどのくらいで戻ってこられるのか、そもそも帰してもらえるのか、わからない事だった。凄く事が上手く運んで、ガルマ・ギルスに嫌われたりしたら、
即座に返却されるかも知れないけれど。ただそれも、あんまりにも嫌われるとそもそもあちらで処分されてしまいかねない気もする。権力者だしな、相手は。
「行かないで、ゼオロ。ゼオロが居なくなったら、僕……一人になっちゃう……」
 瞳に涙を浮かべて、俺に抱き付く鷹の子供。純白の翼が半端に広がっては閉じてを繰り返している。それを見て、とてつもない罪悪感を覚える。こんなに小さくて、純粋な子供を泣かせているというだけでもかなり
辛いのに。イヤイヤしながら抱き付かれては。
「ヒュリカはもう、一人じゃないでしょ。友達も、できたじゃない」
 そう言っても、ヒュリカは俺の胸に顔を埋めて、イヤイヤを繰り返すだけ。硬い嘴がたまにぶつかって、ちくりと胸に走る痛みが、そのまま俺の心の痛みの様にも思えた。そんな様子のヒュリカを見つめながらも、俺は内心、
自分がそこまでヒュリカに好かれていたという事実に、少し戸惑っていた。確かに、ヒュリカを助けたのは俺だ。でも、俺が助けなくても、いずれは助かっていたのでは。そう思ってしまう。クロイスを庇った時と、同じ様に。それが
今は、他の友達とは違うのだという態度を明らかにしているヒュリカを見て。ようやくヒュリカの気持ちがわかった様な気がした。
「そうだけど。でも……でも、行っちゃ、やだ」
 ヒュリカの俺を抱く腕の力が、更に強まった。とはいえ相手も子供だから、別に痛くもなんともないけれど。ただ俺は、困った様に笑う事しかできなかった。行く事はもう決めてしまっている。あとは明日以降に店に出て、
やってくるであろうハゼンに返事をするだけだった。
 ヒュリカに話をするのは、大分骨が折れた。そもそも俺の本当の秘密を、ヒュリカはまだ知らない。それが騙している様で、秘密はいまだに俺を苛んでいるけれど。これは仕方がないと割り切ろう。その上で、銀狼である
俺が求められているという話だけは、どうにか伝える事ができた。それから俺の身を保護したいという、相手の思惑も。ヒュリカに伝えられるのは、この辺りまでだろう。
「僕も一緒に行きたい」
「それは、絶対にできないよ。ヒュリカ」
 ガルマの住む街、ファウナックについて、改めてハンス達に尋ねてみたところ、そこには狼族以外の種族はほとんど見当たらないというのは、事実の様だった。狼族の今の状態を鑑みれば、それは当然だろう。そんな
場所に他の八族を連れてゆく事すら躊躇われるというのに、ラヴーワの国民でもないヒュリカを同行させる訳にはいかなかった。狼の群れに鶏を放り投げる様な物だ。いくら俺が取り成したところで、どうにもならないだろう。
「それに、それは流石にヌバ族の人も、黙っていないんじゃない?」
「そう、だけど……」
 ヒュリカは翼族の谷で、最大勢力を誇るヌバ族の子供だと、クロイスは言っていたっけ。だから名前がヒュリカ・ヌバな訳で。
「スケアルガ学園に留学するために来たんだから、勝手に街から離れちゃ駄目だよ」
「……うん、わかってる……。父さんも、きっと凄く怒ると思うし」
「お父さんが?」
「族長なの。僕はその子供の中で、末っ子」
 わお。と言いそうになって、俺は慌てて口を閉じた。そういえば確かにクロイスも言ってた気がする。その時の俺にとってはそんなに大した事ではなかったから気にも留めなかったけれど。だだ、その情報で魔導を学んで、見聞を
広めるためにスケアルガ学園に留学に来るというのも、その面倒を見るのが他でもないスケアルガ家であるというのも、面倒が起こると困るから面倒を起こすなら街に入る前にしてほしいと言ったクロイスの言葉も、全部
納得してしまった。翼族は国という訳じゃないから厳密には違うけれど、ヒュリカ自身は王子様の様な物だと言っても、それほど間違ってはいないという事だ。そんな王子様に気安く接していた俺って一体。
「そんな事気にしないで。それに、どうせ僕は末っ子で、ヌバ族の族長になる訳じゃない。そういうのは全部、僕よりも上の人がする事だから」
 まあ、だからこそこうして留学生としてここに居るんだよなと、少し無理に納得する。そうじゃないとヒュリカと対等に付き合える気がしないし、俺が一瞬余所余所しい態度を見せた事に、ヒュリカはかなり傷ついてしまった様
だった。俺が大丈夫だとその肩を抱き寄せると、ようやくヒュリカは安心した様に鷹の鳴き声を出す。ただ威嚇する様な鳴き方とは違い、犬が恋しい時に泣くような、あんな感じに似ている。それでも鷹の鋭さは交じって
いたけれど。
「行っちゃうんだね、ゼオロ……」
「ごめんね。私がここに居ると、迷惑が掛かってしまうから。今は行くよ」
「僕が、もっと強かったら良かったのに。今の僕じゃ……自分の身も守れない僕じゃ、なんにもゼオロにしてあげられない」
「そんな事、ないよ。ヒュリカが友達になってくれて。私はとても嬉しかったよ」
「僕も。嬉しかった」
 ようやく落ち着いたヒュリカを、しばらく抱き締める。羽毛の感触が、被毛越しにでも、ふわふわとしているのが伝わる。純白の羽毛に、銀の被毛がぶつかる。温かいなと思った。クロイスの豹の被毛とは、また違う。クロイスは
短毛だから、どちらかというとさわさわした感じがして。ヒュリカはなんていうか、俺が身体をぶつけても、そのまま柔らかな羽毛に全部受け止めてくれる様な感じだった。ちょっと癖になりそうな、そんな感じ。鳥に触れるなんて、
人間だった頃はなかなか叶わない事だったし。いや、豹もそうだけど。元々動物は好きだから、思う存分その被毛や羽毛に身体を預けられるというのは、今更ながら俺には心地良かった。相手が俺と同じくきちんとした一つの
人格を持っているのだとう事を、つい忘れてしまいそうになる程に。
「ヒュリカ。いつまでもこうしているのは止めない? 一緒に居られる時間は、もうあんまり無いかも知れないけれど……。だったら、もっとヒュリカと、色んな事をしたいよ」
「うん。そうだよね。ごめんね、めそめそしてばかりで。男の子らしくないって、谷に居た頃も、よく言われてたのに」
「そんな事ないよ。ヒュリカは、優しいからね。それで、その、お願いがあるんだけど」
 俺がヒュリカに、秘めていたお願いを告げると。呆けた顔をした後、ヒュリカはにこりと笑ってくれた。

 ヒュリカを連れて、外に出る。時刻はまだ昼頃といったところか。外に出ると、風が快かった。俺の被毛が撫ぜられて、尻尾が揺れて。ヒュリカの翼と尾羽も、揺れていた。肌が露出していたら、まだまだ寒かったかも
知れないけれど。生憎俺もヒュリカもふわふわしているから、平気だ。
「ゼオロ」
 ヒュリカが手を差し出す。俺はおずおずと右手を出すと、掴まれて、引き寄せられて。抱き締められる。
「しっかり掴まって」
「左腕、動かないんだけど。どうしよう」
「右手だけでもいいよ。でも、強く掴まってね」
 ヒュリカの首に、腕を回す。顔が近いと思う。そんな俺を他所に、ヒュリカの翼が広がる。平時のそれよりも広く、大きく。純白の鷲の持つ、美しい両翼が広がりきった。
「普段より大きく見えるんだけど、どうしてだろう」
「竜族もそうだけど、僕達の翼は、大きさをある程度変えられるんだよ。それにも魔力が必要だけど」
「つまり、魔力が無い翼族や竜族の人は、飛べないって事?」
「まったく無いって人は、居ないと思うけれど。少なくとも、翼族の谷では、そういう人は見た事なかった」
 まったく無い俺が、ここに居るんですけど。とはいえ翼族でもないのだから、仕方ないのかな。そうこうしている内に、ヒュリカは一度目を閉じて、意識を集中しはじめる。
「風」
 呟いた言葉。俺はそれで、風が吹く様を頭の中に浮かべる。途端に、ヒュリカを包む様に風が吹きはじめた。
「やっぱり、違うな……」
「え?」
「ゼオロと居ると、風が強く吹くんだ。初めてゼオロと会った日に、飛ぼうとした時も思ったんだけど」
「それって、何か関係あるの?」
 ヒュリカはなんだかうんうんと頷いているけれど、俺には何故そうしているのかがわからない。魔法に関する知識の様だけれど。俺にはそれが無い。
「あるよ。魔法は、イメージが大切だから。だから僕みたいに、魔法を使い慣れていない人は、これから使う魔法のイメージに合う言葉を口にするんだよ」
「そうなんだ」
 ああ、だから、クロイスも似た様な事をしていたのか。でもクロイスはかなりの使い手だった様に見えたから、単に気分を出すために口にしていたのかもしれないな。俺がきらきらした目で見ていた訳だし。火柱をいくつも
出して、誰かを丸焼きにしてしまう様な程の魔法の使い手だったのだし。あの時のクロイスはちょっと怖かった。でも、やっぱり恰好良い。物騒なのは事実だけど、自分一人の力であんな現象を引き起こせるというのは、
やっぱりロマンに溢れているなと思う。
「このイメージは、何もその時、魔法を使う人の物だけじゃないんだ。周りに人が居て、同じ様にイメージをする事で、魔法がもっと強くなるんだよ」
「私が、ヒュリカの言葉を聞いてそれを考えたからって事?」
「そう。ゼオロは魔法は使えないみたいだけれど、想像力が豊かなんだね。だから、僕一人で風を起こすよりも強い風が吹く様になる」
 想像力が豊か。とても素晴らしい褒め言葉だと思う。言い換えれば妄想力が激しいという事なので、俺は見ない振りをする。ファンタジーな小説を読んで妄想を膨らませていた悲しい黒歴史とはさよならしよう。今はもう、
そんな世界そのものに居るのだから。
「だから、魔法使いは首輪が必要なんだよ。どんなに非力な魔法使いでも、人込みの中で、大声でこれから使う魔法のイメージに合う言葉を叫んで、周りの人と意思を一つにしてしまったら、本人の実力に見合わない
魔法すら使えてしまうから。いや、正確には、扱えないけれど。多分、暴発すると思う。だから魔法使いの首輪は、大事な物なんだね」
 ヒュリカの説明に、なるほどと何度も頷いた。魔法使いの首輪についてはクロイスからも説明を受けたけれど、そこまでする必要があるのかと思わないでもなかった。でも今のイメージの話を聞くと、随分と印象が
変わる。ちょっと魔法を扱えるだけの様な輩が、大事故を引き起こす可能性すらあるというのだから。なるほど、野良の魔法使いは、ラヴーワでは認められないどころか、非常に危険な存在と見做されてしまうの
だろうな。そして魔法使いの上位の存在であるという魔道士のヤバさが改めてよくわかる。大丈夫なんだろうか。
「イメージが大切だから、魔法使い同士で戦う様な場合は、常に相手の使う魔法とは反対の物を強く想像したりするらしいよ」
「そうなんだ」
 そこまで話して、周りに人が居たらどうなるんだろうなと思ってしまう。お互いにこれから自分が使う魔法をイメージできる物を大声で叫んで、集団のイメージの取り合い合戦をするんだろうか。何それ凄いシュール。もう魔法の
勝負じゃなくて大声の勝負だなそれは。客引きのバイトか何かかな。
「でも首輪付きの魔法使いは、基本的には喧嘩しないからね。首輪がついてるから、そういう事はしづらいし。それに一般の人は、やっぱり魔法使いや魔道士みたいに想像力が豊かじゃないから。腕の立つ魔法使いや、
それ以上の魔道士同士でのぶつかり合いだと、流石にもう居ても居なくても、そんなに変わらないみたいだよ」
「そ、そうなんだ」
 説明を受けるけれど、その熟達した魔法使いや魔道士の勝負が今一想像できそうにない。炎やらいきなり出せる時点で俺にはもう感涙物の光景だけど、それよりももっともっと上の次元の話みたいだ。
「ゼオロと居ると、風が本当に強くなる。きっとゼオロなら、魔法を使う人から好かれるね」
「えっ。それは、嫌だな……」
 これ以上狙われる理由が増えるのは、いくら魔法が好きでもお断りしたい。しかもそれってつまり、他人を強くするのはできるけれど、俺自身はどうしようもないままじゃないか。ゲームでよく揶揄される置物、案山子的な
扱いじゃないか。凄いやだ。一人で操作するゲームで、操作対象のキャラクターの性能としてなら成立するそれも、生身となるとなんともつまらないと言う他ない。見てるだけなんて。実際魔力が無いそうだから、見てるだけに
なるんだけど。そういう意味ではまだ役に立てるだけ、良かったのだろうか。
「飛ぶよ」
 魔法についての説明も程々に、ヒュリカがそう宣言する。俺はしっかりと右手でヒュリカの首に抱き付く。他人から見たら抱き付いて、キスをせがんでいる様にしか見えないと思う。更にヒュリカも俺を抱き締めている
訳だし。でも背中に回る訳にもいかない。ヒュリカの広がった翼の動きを邪魔しては、そもそも飛べないのだから。これに関しては、いつかヒュリカが膂力も付けて、俺を抱っこしたら改善される様な気がする。いやちょって
待って、それはそれで問題のある恰好だ。どうしよう。どう足掻いても恥ずかしい恰好なのか。残るは飛びあがるヒュリカの足に捕まるとかしかなくなる。恥ずかしさに間抜けっぽいも足されてしまうのは辛いと思った。
 ふわりとした感覚が、俺を襲った。自分の足が大地から離れて、がくんと、重力に引かれて落ちそうになる。ヒュリカがそんな俺を、支えた。飛んでいる。俺は、掴まっているだけなんだけど。でも、飛んでいる。ちょっと顔を
離すと、俺の顔を見たヒュリカが、笑っていた。
「そんなに喜んでもらえると思わなかった。あの時のゼオロは、泣いていたし」
「ヒュリカ、凄く苦しそうだったから。飛ぶの大変だったんだよね」
「大変だったけど。ちょっと飛びあがるくらいだったから。それに、あのままあそこにゼオロを残していくのは、絶対に嫌だった」
 ヒュリカが最後に大地を蹴り上げて、同時に翼を羽ばたかせると、風が巻き起こる。すかさずヒュリカは翼を広げて、それを翼全体で受けた。ばさっと音がして、ヒュリカの羽根が抜けて、俺の目の前をお先にと言わん
ばかりに、天高く宙に舞った。真下から巻き起こる風に、ちょっと股間が涼しくて、ヒュリカに身体を押し付ける。まるで展望台や、高い場所に架けられた橋の上で、風を感じているみたいで、それと同時にあっという間に
俺とヒュリカの身体が浮きあがるのだから、俺はもう瞳を輝かせるしかなかった。
 飛んでいる。
 さっきまで立っていたハンスの家の入口が、もう遠く見えた。風に揺られて、気分で揺れている俺の尻尾が視界に何度もちらつく。ハンスの家よりも高く上昇したところで、ヒュリカは風を真下ではなく、やや横から吹く様に
操作する。そして、それを受けて少しずつ移動を始めた。
「本当は、もっと風を受けて、素早く移動できないと駄目なんだけど……僕は、まだ飛ぶのも上手くできなくて」
「そんな事ない。凄いよ、ヒュリカ。凄い。いいな。こんなに、あっさり飛べるなんて。きっと、気持ちいいんだろうな」
「気持ちいいよ。高い所から、風を受けて飛んでさ。あとは風に任せて、行先も決めずに飛んだりするの、好きだな。……行き過ぎて、風向きが悪いと、歩いて帰ってくる破目になるけど」
 ヒュリカの言葉に、俺は笑ってしまう。魔法にもっと詳しくなって、自分で起こした風に乗る事ができる様になるか、もっと自分の身体をよくよく鍛えないと、中々自由に飛び回る訳にはいかないのだろう。あっさり飛べる、
なんて口にしてしまったけれど、実際は凄く大変なんだろうな。優雅に見えるのは、やっぱり見上げているだけで、実際にそこに立ってはいないからなんだろう。
 やがて、ゆるゆると移動していたかと思うと、ゆっくりと降りてゆく。俺は足をちょっとばたつかせたけれど、ヒュリカが落ち着かせてくれた。先にヒュリカが足を着いて、俺も足を着く。
 降りたのは、ハンスの家の、屋根の上だった。棟の部分が平たくて、丁度俺達がどうにか立てる様な造りになっている。
「……屋根、壊れたりしない?」
「平気だよ。でも、あんまり動かない方がいいかもね」
 ここで壊したら、流石にハンスになんと言い訳したらいいのやら。苦笑いを浮かべてヒュリカが座ると、俺もその場に座り込んだ。柔らかな風が、俺達を撫でてゆく。飛んでいる間は、飛んでいる事に感激して、離れてゆく
地面ばかり見つめていたけれど。今は遠くを見据える事ができた。蜂の巣の様な区画の連続である。富裕層地帯が、下町の方まで連綿と続いて。昼を迎えて、小奇麗な服を着た子供の姿が各々の家の庭から、丁度家へ
入るところが見えた。ここだけを切り取ったら、とても綺麗な街並みだと思う。本当はその先に広がっている下町という世界も、あるのだけど。結局、あちらにはあまり行かなかったなと思う。元気になったら。身の危険を自分で
切り抜けられる様になったら。そんな風になる前に、俺はここから出ていかなくてはならなくなってしまった。
 しばらく無言で、俺は街の様子を眺めていた。遠く、僅かに見える下町の入口では、行き交う大勢の人々の姿が見える。屋根に上って、行儀悪く遊んでいる今の俺達は、寧ろあっちの方が似合いそうだと思う。
「ヒュリカとも、あんまり街を歩けなかったな」
「え?」
 俺の呟く言葉に、ヒュリカが反応を示す。
「クロイスとは、一度下町の方を歩いただけでさ」
「それは、仕方ないよ。ゼオロは怪我をしたんだし。今だって、元通りになった訳じゃないんだから」
「そうだけど。だから、さ。ヒュリカとは、行きたいなって思ってて。……でも、それも、お預けになっちゃうんだな」
「そんなに……。すぐに、行ってしまうの?」
「わからない。でも、明日か明後日には、多分あの人は店に来る。私が行くと告げたら、きっとすぐに準備が始まって。それが済んだらきっと」
 学園に所属している訳でもない俺は、そういう意味ではとても身軽だ。行くと決めたら、さっさと行ける訳で。勿論多少は引き伸ばしてもいいのかも知れないけれど。
「でも、引き伸ばしたら、行く決心が鈍ってしまいそうだから」
 今だって、そう。ヒュリカに抱き締められて、空を飛んで。舞い上がっている。とても楽しくて、とても、自由で。気を抜いたら、俺はなんだか負けてしまいそうだ。見知らぬ世界に来て得た知己の全てを捨て去って、新しい
場所へ連れられる。片腕も動かないまま。不安にならない方がどうかしている。でも、ここでいつまでも立ち止まっても居られないのだろうな。
「だったら、行かなくていいじゃない」
「それは、できないよ。私もいい加減に色々知らないといけないみたいだしね」
 狼族の事すら、詳しく知らないでいる俺。自分の身体と同じ者達の事を、知らぬ存ぜぬで過ごす事が、そして銀狼である事が、俺が何も知らぬまま生き続けるのを、ついに許さなくなった。何より、狼族の長であるガルマ
からの招待なのだ。おいそれと蹴っ飛ばせるはずがないというのは、狼族でありながら狼族の事情に疎い俺でも、なんとなくわかる。ハゼンの後ろに控える狼族の事を慮って、ハンスが難色を示すくらいだ。その上で、
行かなくても良いのだと俺に判断をさせてくれるハンスは、かなり無理をしている事は見て取れていた。そこまでされて、お言葉に甘えて行きませんなんて言える訳がない。
「だから、ヒュリカ。また、いつか。戻ってきたら。その時に」
「戻って、くるんだよね……?」
「うん。そのつもりだよ」
 今更ながら、しっかりとした約束ができないのが、心苦しい。夢を追って旅立ったクロイスも、こんな心境だったのだろうか。俺はただ、見送るのに必死で。クロイスの事まで考えてあげられなかったけれど。
 風が、少し強くなる。俺が思わず目を閉じると、その内に風を感じなくなる。それでも耳には、風の強い音が聞こえていた。目を開けると、俺の目の前で、俺と同じ様に座っているヒュリカの翼が広がり、そしてそのまま俺と
ヒュリカを包む様に丸く閉じられていた。
「綺麗だね」
 ヒュリカの翼が、俺達を包み込む。真上と、前方以外が、ヒュリカで包まれていて。陽の光も、翼の先にあって。だから陽に照らされた翼は、とても温かそうに見えた。事実、バランスを崩さぬ様にゆっくりと伸ばした手が、
翼の壁に触れると、そこからは温かさが伝わってくる。ヒュリカの腕が、俺の身体を引き寄せた。ちょっと体勢を崩しそうになっていたのを、見て取ったのだろう。そのまま俺は、身体を預けて、翼のカーテンに守られる。
「落ち着くね。ヒュリカに抱き締められていると」
 純白のカーテンはあまりにも綺麗で。自分がどこに居るのかなんて事を、忘れてしまいそうになる。それで身体を動かし過ぎたら、屋根から落ちるけれど。
 しばらく俺達は、そのままの状態で居た。それでも流石に、ヒュリカは疲れるのだろう。やがては翼が開かれる。それと同時に、また風が俺へと触れてくる。自分が思いの外うっとりとしていた事に気づいて、俺は少し
恥ずかしさを感じていた。温かな翼に包まれる経験なんて、初めての事だったから。白い鷹の羽毛は、本当に俺を温めてくれたから。
 翼が引かれて、しばらくはその場で談笑していたけれど、次第に風が強くなるのを皮切りに、俺はまたヒュリカに抱き締められて、屋根から下りる。これ以上風が吹くと、確かにちょっとした事で俺が落ちかねない。もう
少しだけ堪能していたかったけれど、渋々と諦めて家へと戻る。少しだけ遅れた昼食をヒュリカと取りながら、また会話の続き。それから、魔導についても少しだけ教えてもらった。
「ヒュリカって、いつまで学園に居る予定なの?」
 ある程度話が進んだ辺りで、俺は新しい話題を口にする。俺の言葉に、ちょっとヒュリカが目を丸くした。
「特には決めていないけれど。でも、長くても二年くらいかな。どの道、僕は谷に帰らないといけないし……」
「そっか。二年かぁ」
 それまでに、俺はここに戻ってこられるだろうか。早かったら行きと帰りで九十日くらいで終わってしまいそうな気もするけれど。そんな都合良くガルマに嫌われて、更に疑われずにあっさりと帰してもらえるとは到底
思えない。それに、そこまでとんとん拍子で追い返されてしまうと、それはそれで狼族について知る事ができないだろうし。
「翼族の谷って、どんなところ?」
 そういえば、肝心の話を口にした事がなかった。ヒュリカの生まれ育った場所。口にしてから、俺は興味が湧いてきてヒュリカをじっと見つめる。でも、とうのヒュリカはあんまり良い顔はしていなかった。
「ここからだと、北東にある所だよ」
「それは知ってるけれど……。確か、ラヴーワとランデュスの丁度真ん中辺り、緩衝地帯からは北で。ラヴーワ、ランデュス共に、そのまま行き来できるんだよね?」
「そう。翼族は、どっちつかずだから。……だから、あんまり他種族の人とは親しくできなくて」
「そうなんだ。竜族の人とも、やっぱり交流があるんだよね?」
「うん。元々、翼族の谷で取れる鉱物は、他の場所の物より質が良いって言われてるから。だから、ラヴーワとランデュスが戦争をしていた時も、その中間に居る翼族は中立だった。中立を保って……でも、武器や防具に
使う鉱物だけは、高値を出す方に売ってたんだ。そのお金で、更に必要な物をそれぞれの国から買い取っていたんだよ」
 目の前の鷹の表情が、更に暗くなる。あ、これはあんまり聞いて良い話題じゃなかったみたいだ。どちらにも与しないが、物は売る。二国と比べて、国と名乗れる程の力が無い翼族は、
そうやって国と国に挟まれながらも、どうにか生き残ってきたんだろう。ただ、その在り方が、やっぱり良くない風にも見られているのだろうな。
「ゼオロは……翼族の事、やっぱり嫌?」
「うーん」
 嫌も何も。他所から来た俺だから、別に嫌な気持ちは無い。翼族の立場だって、翼族だけで存在し続けようとするのなら、別に責められる行為とも思えない。それと感情はまったく別だから、そりゃ嫌な目で見られたリも
するのだろうけれど。そういう意味で、爬族とは似た位置に居るけれど、その動き方は対局にあると言っても良かった。爬族は竜族の傍に居ながら、その半数はラヴーワに味方したと言われているし、今もそれを引きずって
いるそうだから。自ら戦いにまで赴いた爬族と、あくまで中立として、武器を振るう真似はしなかった翼族。翼族に対する態度は、爬族よりはいくらかまし、という程度なのも頷けた。爬族がラヴーワでも少し恐れられて
いるのは、結局休戦中の今、爬族のほとんどがまた竜族の近くに、一つに戻っているという事もあるのだけれど。
「私は、別になんとも思わないけれど。でも、嫌な人は、嫌なんだろうね」
「そう、だよね……やっぱり、嫌だよね」
 なんとも思わないって言ったんですけど。ヒュリカはそんな事より、嫌な人が居る、という言葉の方を重く受け止めている様だ。相当、嫌な事もあったんだろうなやっぱり。友達になった時だって、俺が狼族である事を
気にしていたみたいだし。
「ヒュリカ」
 食器を片付けながら、俺は俯くヒュリカに呼びかける。ヒュリカが顔を上げた。
「私は、翼族の事は詳しくないし。好きなのかって言われたら、詳しくないのもあって、好きでも嫌いでもないって、そう言うしかないけれど。でも、ヒュリカの事は好きだし、話をしたいって思うよ。私は、そう思う。だから、
あとは。ヒュリカが私と、話がしたいか。一緒に居たいか。それだけで、良いんじゃないのかな」
 狼族だから、翼族だから。ここに居ると、それはよく聞く。それは、仕方がない事だと思う。狼族は他種族に距離を置くのはよくよく見ているし。その上で、俺の振る舞い方は、狼族のそれとは言い難い事も、わかって
いた。他種族を忌避するはずの狼族なのに、俺と交友のある人は、犬族、猫族、翼族、爬族、竜族。そして狼族は今のところ一人も居ない。唯一、あのハゼンという男くらいのものだけど。今はまだ、交友とまで言える代物
でもない。
「私が翼族の事を好きじゃないと、ヒュリカは私とは、一緒に居たくない?」
 もし、ヒュリカがそう思っているのなら。確かに俺とヒュリカは、相容れないのかも知れない。ヒュリカ以外の翼族を知らないのに、翼族をとにかく好きになるなんて、できる訳がないし。せめて八族に属して、同じ国の民だと
いうのなら、まだ共通点があるとも言えるけれど。翼族は、そうじゃない。ラヴーワの国の、外の種族だから。
「僕は……」
 ヒュリカは、それ以上は続けなかった。俺もその返事を待つ事はせず。ヒュリカの分の食器も預かると、それを台所へと持っていった。
「お風呂にしようか」
 食器を片付けて戻ると、さっきまでと同じ様に椅子に座っていたヒュリカに声を掛けた。ヒュリカは顔を上げて、頷く。俺が案内をすると、風呂場へと向かった。まずは水を浴槽に溜める。今更だけど、この家の場所で水を
豊富に使うのは、かなりの贅沢なのだなと思った。ハンスに許可はもらったけれど。ここから下町に行くのも、スケアルガ学園から行くのも、結局は階段塗れな訳で。なるほど確かに、荷運びの需要はあるのだなというのが
わかる。スケアルガ学園に持ち寄られる物の中からいくつかを卸してもらっているそうだから、それほどの金は掛かっていないそうだけど。でも、水を風呂に使う分だけ運んでくるのは、とても大変だろう。誰が運んでいる
のかはわからないけれど、俺はその荷運びの仕事をしている人達に一方的な感謝の思いを馳せながら、水を贅沢に使う。
 問題は、その後だった。今回は、薪が割られていない。薪自体はなんとか用意して頂いたけれど。ハンスも忙しいので、流石に割ってもらえなかった。仕方なく俺は斧を引きずって、構えて、振り下ろす。
 割れる、訳がなかった。そもそも片手だし。しっかり構えて、なんてできる訳がない。勢いで持ち上げて、勢いで振り下ろすしかない。立てた薪に、斜めに入った斧は、案の定そこで止まって。持ち上げると薪も持ち
上がった。どうしようこれ。
「どうしよう……」
 そのまま突っ込むべきだろうか。でもそれだと燃えにくい気もする。適度に隙間が必要みたいだし。
「大丈夫だよ」
 俺が悩んでいると、俺の隣に居たヒュリカは、薪に指先で触れて、一瞬だけ魔法を使った。すると、薪があっという間に両断される。
「……風?」
 薪が割れた後に、木屑と木の匂いが辺りにふわりと舞う。それで、風がそこでだけ発生したのだと気づいた。
「凄い。そんな風にも、使えるんだね」
「薪を割るのは、谷でもしていたからね。でも、危ないから。ゼオロは離れてて」
 そう言われて、仕方なく俺は少し下がってヒュリカを応援する。ヒュリカは次から次へと薪を半分にしてゆく。指先でぴっと触れるだけで薪が割れるのは、完全に手品にしか見えない。割れた後に風の名残がある事で、
どうにか魔法が使われていた事がわかるだけだ。
「ゼオロ。あんまり、風の事を考えないでいてくれると助かるんだけど」
「え?」
 そう思って薪を見つめていると、半分に割っているはずなのに、少し中が抉れていた。最初の方の薪は、そんな事はなかったのに。
「あ……そっか。イメージが、今は邪魔なんだね」
「ごめん。本当は、僕が制御できていないだけなんだけど。急にイメージが増えたりすると、調整が難しくて」
「ううん。それじゃ、私は薪を入れてくるから」
 邪魔をしてはいけないと、俺は薪を片手で少しずつ運んで、クロイスが入れていたのを思い出しながらたどたどしく組み上げてゆく。そうか。イメージが大事な魔法だから、余計な物が混ざると、制御がしづらくなるのか。
燃え盛る火柱の中から、自分の服を燃やしながら出てきたクロイスの事を、俺は思い出す。あれもきっと、そうだったんだろう。火柱を見つめた人のイメージが、炎に侵されて、そうなると調整がどんどん難しくなる。クロイスは
自分が火傷しない様にする事に集中して、自分の服は諦めたんだろうな。出せればそれでいいと思っていた魔法だけど、調整が難しいというのがよくわかる。
 俺が薪を運ぶのに四苦八苦していると、ヒュリカが薪割り終えたのか、残りを持ってくる。さっきから俺、とても役に立っていない気がする。こういう肉体労働は片手だと本当に役に立たなくて辛い。ヒュリカは俺が入れた
薪を微調整すると、続けて火を指先に灯す。
「ヒュリカは、炎も使えるんだね」
「少しだけね。火を起こすのは、どこに居ても大事な事だから」
 確かに。向き不向きがあっても、灯火の一つが使えるかどうかというのはとてつもなく大きい事だろう。
「ゼオロ。今度は火をイメージしてみて」
 ヒュリカが組んだ薪の方に手を向けているのを確認して、俺は炎の頭に浮かべようとする。それは、浮かんだ。けれど、同時に俺の肩が燃える映像も脳裏に浮かんで、俺は顔を顰めて、肩を押さえてしまった。
「ご、ごめん。ゼオロ……僕」
「いいよ。それより、火は大丈夫みたいだね」
 ヒュリカの指先に灯っていた火は、途端に膨れ上がって。ヒュリカが慌てて手を離す破目になった。俺の脳裏に過ぎった、自分が燃え尽きる想像は、かなり強くヒュリカの魔法に作用したのだろう。薪が燃えはじめるのを
確認すると、その場を後にして。しばらく待ってからお湯が沸くと、いよいよ俺とヒュリカは風呂に入る事になる。揃って入るのって、ちょっとどうかと思ったけれど。でもヒュリカのはただ火を点けただけで、クロイスの時の様に
炎の維持はできないから、あんまり長引くとお湯が冷めてしまうかなと思って、俺から誘ってみた。ヒュリカはちょっと困った様な顔をしたけれど、その内に頷いてくれる。
 服を脱いで、浴室へ入ろうとする。そういえばヒュリカ、翼があるけど服は脱ぎ難くないのだろうか。俺ですら、尻尾穴に大分苦戦しているのに。今穿いているのは穴の上を縛るタイプだから、着るのも脱ぐのも楽な方
だけど、穴空き型は辛い。俺の尻尾は割と長い方だし。ヒュリカは尾羽がそれに該当するのに、その上で、翼なんだよな。そう思ってヒュリカを見ていると、翼がいつもより僅かに小さくなっていた。大きくできるんだから、
小さくもある程度はできる。そういう事なのだろうか。伸び縮みしている様な翼は、なんか別の何かではないのかと疑ってしまいそうになるけれど。でも空を飛ぶ時に三倍、四倍に広がっているんだから、少し縮むくらいは
確かにとやかく言ってはいられないなと思った。ヒュリカ曰く、肉体の一部である事は確かだけど、魔力に大きく左右される部位が翼らしい。詳しい事はよくわからないと言われてしまったが。
 浴室に入ると、俺はさっそく風呂桶にお湯を取って、身体を手早くお湯で濡らす。ヒュリカも桶を使うだろうからと急いでいると、よく見たらそれとは別に小さい桶を発見してしまう。まあ、これだけ大きい、複数人で入れる様な
風呂なら、備品も複数個あってもおかしくはないよな。
 久しぶりに浴びる温かな湯に、ほっと一息吐く。傷のせいで、本当にここしばらくは風呂に入れなくて。その分念入りに身体を拭いたりしていたから、決して汚かった訳ではないのだけど、やっぱり全身毛だらけだと、
きちんと湯を浴びて、泡立てて洗わないと、本当には綺麗にならない気がしてしまう。とはいえ、元々この家では毎日風呂に入る様な習慣は無かったけれど。元々ハンスは学園に浴場があるそうで、そちらを使う機会が
多いのだという。そんな訳で、ハンスがこの家で風呂を沸かすのは、今のところ休日の時だけ。俺一人のために、そんなにおねだりはしていられなくて、その上で怪我を負って臥せっていたから、尚更だ。この大きくて
ゆったりと入れる風呂もしばらくはさよならだと思うと、ちょっと寂しくなった。
 俺が身体を洗い終えると、ヒュリカはまだ途中の様だった、丁度、翼を洗おうとして、四苦八苦している様だった。
「ヒュリカ。嫌じゃなければ、翼、洗おうか?」
「いいの?」
「うん。付け根のところは大変そうだし」
 一番大変なのは、付け根から少し先の辺りだろうな。どう頑張っても手が届かない箇所があるだろうし。その辺りまで見てしまうと、なるほど翼があるというのも、不便な物なのかも知れない。俺に新しく追加されたパーツ
である尻尾は、最初こそ洗うのが大変だったけれど、今はもう根元から包んで片手で洗って、先の方は両手か、身体で挟んで揉む様にして洗えばいいものだったし。手間は増えたけれど、洗うのに不都合がある訳ではない。
 ヒュリカが嬉しそうに笑うと、おずおずと背を向けてくる。翼に少しずつ湯を掛けて、それから俺は泡立てた手を、その翼に埋める。スポンジが要らないのは、良いと思う。片手なので、適当に胸や腹の辺りに擦り付けると、
その内に泡立って。俺の手はスポンジの役目を果たすようになる。
「翼、重くない? 水にまで濡れると」
「ちょっと重いけど、大丈夫だよ」
 ヒュリカの背に、指を触れさせる。羽毛も今は水を吸って、そうなると、ヒュリカの背にきちんと作られている筋肉がはっきりと見えた。これ子供のそれじゃないよなってくらい、それこそ違和感を覚える程にそこには筋肉が
ついている。飛ぶのに必要だから、仕方ないのだろうけれど。
「思ってたより、ヒュリカって身体鍛えてるんだね」
「飛ぼうとすると、どうしてもね。太っても飛べなくなっちゃうし」
 華麗に飛ぶのには食事制限が必要だというのか。それを聞いて、俺は翼を持つ種族への憧れを、ちょっと減らす。食事の楽しみが減ってしまうのか。悲しいと思う。
 翼を丁寧に洗ってゆく。こんな経験をするとは思っていなかったので、かなり楽しい。でも大変だった。多少は小さくなったとはいえ、それでもまだ、ヒュリカの背にぎりぎり隠れる程度だ。洗うために広げさせると、片方だけで
五分以上は覚悟しなければならないくらいの広さがある。俺も片手だし。身体を洗うみたいに、力強くごしごしして良い訳ではないし。
「ごめんね。洗い難いでしょ」
「うん。洗い難い。でも、この翼があるから、今日はとっても楽しかったから。いいんだよ。いつも洗ってるんだよね、大変そう」
「慣れたら、そうでもないんだけどね。まあ、面倒な時はどうしても水浴びで済ませちゃうけど」
 烏の行水だろうか。現実の鳥は、確かに水溜りなどで身体を洗っても、即座に出てきては水を飛ばして、それで終わりだろうけれど。
 一頻り泡立ててから、ゆっくりと湯を掛けて、流してゆく。これが一番大変だと思った。泡が残った状態で風呂に入ったら、せっかくのお湯が台無しだし。
 どうにか洗い終えると、ヒュリカがこちらを向く。その拍子に、俺はまたちょっと気になって、その身体をじっと見つめてしまう。いつもはふっくらとした羽毛が、今は水を吸って、その顔と身体を引き締まらせている。それは俺も
同じだけど。ああ、自分の身体、今は見たくないな。ただでさえ痩せてて運動不足なのに、怪我したせいで余計だ。腹だけ出てる、なんて事になってないといいけれど。
 そんな事よりも、俺はヒュリカをじっと見つめている。白い鷹の、金の瞳は眩しくて、何よりも鋭い。俺が見つめていると、ちょっと首を傾げているのが、威圧感を和らげて。どことなく動物的な可愛らしさを滲ませている。そして
視線を下げれば。
「やっぱりなんにも無いんだね」
「ぜ、ゼオロ!?」
 俺がヒュリカの股間をじっと見つめてそう言うと、ヒュリカが大慌てで、自分の手でそこを隠す。それから俺の事を、なんとも言えない表情で見つめていた。羽毛が無くて、人間だったら、真っ赤な顔が見られただろうか。生憎
俺もヒュリカも、赤面を晒す様な構造はしていないけれど。
「見られるの、恥ずかしいんだ」
 そう言う俺は、別に隠してはいない。俺の意識があるけれど、俺の身体だとはいまだにしっくりと来ていない物だからというのもあるけれど、ヒュリカのをじっと見つめていながら、自分のだけきちんと隠すのも、不公平かなと
思って。ヒュリカはしばらく恥ずかしそうにしていたけれど、その内に俺の方をじっと見つめてくる。
 子供同士の、稚拙な性への欲求と、知識への探求。丁度今、そんな感じ。問題なのは俺の中身が子供ではないところだろうけれど。変態と言われても、多分仕方ない。でも俺は俺で、ヒュリカの身体が、というより、翼族の
身体がちょっと気になっていたのは事実だった。そもそも自分の身体に訪れた変化ですら、大分目新しい。平時は人間の様に亀頭が露出している訳ではないそれにも流石に慣れたけれど、そうしたら今度は、ヒュリカ
みたいに、まったく外側に何も無い身体があるのだから。種族による差って、面白いなと思った。
「それって、普通の鳥と同じなの? 総排出腔って言うんだよね」
「翼族は、ちょっと……違うよ。その……お尻の方は、別にあるから」
「そうなんだ」
 知的探求心が満たされて、俺はちょっとにっこりする。冷静になって考えるとド変態を通り越している気がするけれど、それよりも気になったのだから仕方がない。でも今の話を聞いて、それって女の子みたいだなと
思ったけれど、流石にそれは口にはしなかった。下品だし、何よりヒュリカは確実に傷つくだろう。
「ヒュリカも、気になるの?」
 相変わらず手で隠しながらも、ヒュリカは俺の物をじっと見つめている。俺が言うと、びくりと身体を震わせていた。確かにこうして形が外に出てきているのは、ヒュリカには見慣れない物なんだろうな。翼族の住む谷には、
翼族ばかりみたいだし。その上で他種族と裸の付き合いをする機会も中々無いだろうし。そういえば、ちょっと違うって言って、肛門が別にあるって言ったけれど、という事は陰茎はやっぱり本来の鳥と同じく、無いの
だろうな。それを考えると、ちょっと翼族にならなくて良かったなと思ってしまう。形が違うとはいえ、狼族になった俺には付いていて、まあこのくらいの変化ならと思ったけれど。完全に無くなっていたら、流石にショックで
言葉を失うと思う。
「さっきから、凄く見てるけど」
「ち、ちが……う……。見てない」
 慌ててヒュリカが視線を逸らすものだから、俺はおかしくなって。つい笑ってしまう。とはいえ、からかうのもそこそこに、俺は立ち上がると湯船に身を沈めた。ヒュリカの身体を洗っていたから、ちょっと寒くて。いい加減に
温まりたかったのだった。身体を沈めて、それから慎重に左肩を沈める。湯が、僅かにあの焼ける痛みを想起させたけれど、俺は堪えた。元より傷は塞がって、痕が残っているだけだ。あとは俺が、しっかりと耐えていれば
いいだけの話だ。
「ゼオロ。大丈夫?」
 ヒュリカもそれが気になったのだろう。俺がからかっていた事などもう忘れた様に、俺の顔を覗き込んでくる。静かに頷くと、ヒュリカも断ってから、おずおずと浴槽へと入ってくる。二人並んでも、別に窮屈ではない。そもそも
クロイスと入っても、なんともなかったのだし。全身を湯で温められて、俺はようやく一息吐いた。とても久しぶりのお風呂は俺の心を芯から温めてくれる様で。隣にヒュリカが居る事も忘れて、心地良い溜め息を吐く。
 なんというおっさん。
「お風呂、気持ちいいね」
「うん。久しぶりに入れた。傷があるから、ずっと入れなくて。やっぱり身体を拭いているだけとは違うね」
 水面に、さらりとヒュリカから抜けた羽根が一つ流れてくる。ちょっと大きめのそれは、なんだか風情がある様な、ない様な。そんな気分を俺に起こさせた。
「……ねえ、ゼオロ」
 しばらく俺が湯の感覚を楽しんでいると、その内にヒュリカが声を掛けてくる。俺は閉じていた目を開くと、ヒュリカは少し俯いて、何か言い難い事を言いたそうにしていた。
「……ファンネスさんから、僕の事聞いた?」
「ヒュリカの事? 何を?」
「何って……」
「ヒュリカが、ファンネスさんに診てもらったって話? 監禁されていたんだから、当たり前の事だと思うけど。何か、身体の具合でも悪いの?」
 他に何か、ファンネスは言っていただろうか。なんとも渋い顔をしていた事くらいしか、思い出せない。大体いつも渋い顔だけど。大体ツガのせいで。
「う、ううん。大丈夫だよ」
 それきり、ヒュリカは何も言わなくなる。俺は首を傾げてヒュリカを見つめる。そうすると、なんとなく居心地悪そうな顔をされてしまったから、仕方なく俺はそれ以上の追求を諦めて、お風呂に専念する。心地良い湯に
包まれる感覚に、その内眠くなってしまって。気づいたらヒュリカに寄りかかって、ヒュリカに起こされてしまっていた。すっかり上せてしまって、それでもすっきりした身体に俺が上機嫌になっても、ヒュリカはまだ何かを
考えている様な顔をしていた。

 夜。戻ってくるハンスを迎えて、三人で食事を取る。もうすぐここでの夕食を囲む事も無くなるのだと思うと、やっぱり寂しさを感じてしまう。ハンスは相変わらず、そんな俺の事を察しているのか優しい笑みを浮かべている
けれど。本当にできた人だなと思った。夕食を手早く済ませると、その後はヒュリカと一緒に寝室へ。別室があったら良かったけれど、流石にそこまでこの家も万能ではない。というより、お客様用の部屋を今まさに俺が
使っている訳で。幸いベッドは大の大人が寝ても問題ない大きさだ。子供の俺とヒュリカなら、何一つ問題の無い大きさになっている。
「ヒュリカ、どうしたの」
 さっきから、ヒュリカはそわそわしっぱなしだ。そういう俺も、友達と一緒に寝るってあんまり経験無いけれど。クロイスともそういう事はしなかったし。クロイスが泊まるなんて言ったら、ハンスが全力で阻止していただろうから、
クロイスがいくら頑張ろうとしても無駄な努力に終わっていたとは思うけれど。まだ人間で、そして小さな子供だった頃に、タカヤが家に泊まり込みで遊びに来た時くらいだろうか。身体が大きくなって、流石にそういう事も
しなくなったけれど。
「なんでも、ない」
「もしかして、怖い? やっぱり他種族といきなりだと」
「そうじゃ、ないよ。それに、泊まりたいって言ったのは僕だから」
「そう? 無理してないと、いいけれど」
 とはいえ、今更帰らせる訳にもいかない。既に夜は深く。外は暗く。空に昇った月が、前の世界とは違ってとてつもない存在感を放って、外に出た者を煌々と照らしてくれるだろうけれど、それでも暗い事には変わりない。
 それでもやっぱり、本当に怖いのは、そんな暗闇から出てくる、悪意を持った何かである事には変わりないのだけど。
 毛布を退けて、ベッドに乗って。俺はヒュリカを手招きする。なんというか、自分でも積極的になったなと思う。ここに来た頃の俺はこうじゃなかった。そもそも友達を作ろうともしなかったけれど。友達第一号があまりにも
強引に友達にさせてくれたので、その辺りは吹っ切れてしまった感じがある。その上で、あれとは違ってヒュリカは俺と同じくらいの子供。なら、そんなに意識する必要も無いんじゃないかなって。子供同士がくっついて
よく寝るのは、別に不思議な事でも、いかがわしい事でもないのだし。
「おやすみ、ヒュリカ」
 二人揃って毛布を被る。左手で横になっているヒュリカに声を掛けると、ヒュリカもまごつきながら、挨拶を返してくれた。
「……ゼオロ」
 俺がうとうととしだした頃に、ヒュリカの声が聞こえる。閉じかけていた瞼を慌てて開いて、少し擦る。
「どうしたの?」
 毛布の中で、ヒュリカの手が動いて、俺の左手に添えられる。動かない手に、ヒュリカの手が重なる。
「行っちゃうんだよね、ゼオロ……」
「そうだね」
 眠いのと、それから何度目かの話題という事もあって、俺はちょっといい加減な返事をする。正直なところ、かなり眠い。
 再び瞼が落ちてきた頃に、ヒュリカが起き上がる気配がした。トイレでも行くのかと思っていたけれど、そのままヒュリカは俺の被っている毛布を退けて、俺の上に馬乗りになる。その頃になってようやく俺は、少しだけ
眠気が飛んで。ヒュリカを見上げた。
「どうしたの? ヒュリカ……さっきから、変だよ」
 ヒュリカは、息を荒らげていて。それから、困った顔をしていた。落ち着かせる様に俺が笑いかけると、その身体が俺に覆い被さってくる。
「行かないで、ゼオロ。僕と、一緒に居て」
「それは、無理だって。何回も言ったでしょ」
「やだ。行かないで……ゼオロ……」
「困ったな」
 本当に困った。そんな事を考えていると、ヒュリカが手を伸ばして俺の身体に触れてくる。触れられながら、俺はちょっと驚いて。でも、余裕を持ってそれを迎えている自分に、気づいた。気づいて、しまった。だって、
ヒュリカの目が。仕草が。あの時のクロイスに似ていたし。それから、店番をしている時に俺の顔をじっと見つめてくる客にも、似ていたから。
 困った様に溜め息を吐く。前の、誰からも求められない様な状態も悪かったとは思うけれど。この身体はこの身体で、ある意味悪い物だと思う。友達として接していたら、こうなってしまうのだから。
 そういうのは俺がモテたいと思った時だけ発揮されてくれればいいのだけど。なるほど、爆発しそうな人にも、そういう悩みがあったのだなと今更頷く。俺もその内に爆発してしまうのか。
 こういう時、どう対処するのが良いのだろうか。生憎俺にはそういう経験がまったくと言って良い程足りていなかった。
「駄目だよ、ヒュリカ」
 とりあえず、服の中に突っ込まれた手を退かそうとする。すると、ヒュリカの背にある翼が、開いた。屋根の上に居た時と同じ様に、開いた翼が、俺の逃げ道を塞ぐように広がって。俺の視界一杯が、ヒュリカの存在で
埋まる。綺麗だと思った。月明かりが、翼の合間から僅かに覗くだけになって。隠されていないヒュリカの表情だけが、真白い月の様に照らされていて。自信が無くて、辛そうで、悲しそうな鷲が、目に涙を浮かべていた。
 まるで、襲っているのは俺の方なのではと錯覚してしまう程に、頼りなげな表情だった。
 ヒュリカは俺の手から逃れると、その代わりに顔を寄せて俺に口を寄せた。俺か口を逸らそうとするけれど、強引にヒュリカか嘴をくっつける。硬い嘴が無理矢理当てられるのは、痛みが走った。俺が抗議しようと口を
開けると、ヒュリカも口を開けて、そこに舌を少しだけ入れてくる。けれど、それ以上の事はわからないのか、すぐに口を離してしまう。
「ヒュリカ」
「ごめんね、ゼオロ……。僕、駄目なんだ。もう、駄目なんだよ」
「何が、駄目なの?」
 それには、ヒュリカは答えずに。身体を起こすと服を少し着崩す。それから下着を脱いで、あんなに恥ずかしがって俺には見せていなかった部分を露わにする。ヒュリカが翼を引くと、そこにも窓からの光が射し込んで、
見える様になる。白い身体に、縦に入った一筋の割れ目が。それを見て、俺は思わず息を呑んだ。男相手に。そうは思うけれど、そこはどちらかと言えば、男よりも、女のそれに近い。ただ、女のそれ。ともすれば
グロテスクにも思えてしまう性器と比べると、ヒュリカのそれは、本当にただの割れ目という感じだ。或いはそれは、ヒュリカがまだまだ若く、本当の成長を遂げてはいないだけかも知れないけれど。
 鳥は雄と雌で穴を擦り合わせる事で一瞬にして交尾を済ませるというから、一見したそれは、とてもその持ち主が男である事を示している様には見えない。
「ゼオロが、欲しいの。ゼオロじゃないと、嫌だから……」
「どうして、そんなに」
「あの時僕を助けてくれたのが、ゼオロだったから。僕、あの時……」
 そこまで言うと、ヒュリカはぶるっと身を震わせていた。それでもそれは長く続かずに、指先を、自分の割れ目へと持っていく。やんわりとそれに触れてから、続いてその先、別に肛門があると言った方にも、指先は
伸びて。キスも満足にできない知識なのに、今のヒュリカは、精一杯の誘惑を俺に試みている様だった。それでも俺は、特別な反応を示す事はない。勿論ヒュリカのそれは気になるけれど、単に気になるというだけで。別に
ヒュリカを襲いたい訳ではない。というより襲われているのは俺なのだけど。
 俺がただそれをじっと見つめていると、焦れたのか、ヒュリカは俺の下着に手を掛ける。俺が制止するよりも早く、ずり下げられて、俺の物が露わになる。ヒュリカは手早く俺の物を掴むと、流石に痛みが走って、俺は呻いた。
「ゼオロ。気持ち良く、するから。僕と、してほしい」
「ヒュリ、カ……」
 手を伸ばして、ヒュリカを退けようとする。でも生憎、片手しか動かない俺では分が悪かった。ヒュリカは少し下がりながら、俺の手を片手で受け止めると、そのまま顔を埋めて、俺のまだ顔を出していないペニスを
咥える。途端に身体が跳ね上がる程の刺激が走って、俺は尻尾の先まで固まった。嘴の中に納まっていた柔らかな舌が、俺を捕らえようとする。俺は、快感の波に流されそうになって。声を上げた。ヒュリカが満足そうに
目を細める。それでも、そこまでだった。手で駄目ならと申し訳なく思いながら、俺は足を動かす。ばたつかせると、足の先がヒュリカの肩を捉えて、そこで、思い切り蹴り飛ばした。ヒュリカが僅かに悲鳴を上げて、
俺から離れる。
 俺は起き上がると、慌てて下着を元に戻した。既に俺の亀頭はしっかりとした硬さと質量を持って、そこで何度も跳ねている。何度も呼吸をして、落ち着かせた。せっかくヒュリカを離したのに、このままじゃ俺の方が
どうにかなって、ヒュリカを襲ってしまいそうだったから。
「ごめん、ヒュリカ」
 蹴り飛ばしたヒュリカを気遣う余裕が、ようやく出てきた。ヒュリカは茫然としていた様だった。それでも、ヒュリカもまた我を忘れていたのか、その内表情を強張らせて、それから泣き出して。俺に何度も謝ってくる。
「ごめんなさい」
 震えて許しを請う鷲の身体を、俺は全部水に流して、抱き寄せてから頭を撫でた。下着の中で窮屈に存在を主張しているそれも、次第に大人しくなってくる。
 とりあえず、大騒ぎにならなくて良かった。こんなところをハンスに見られたら、言い訳の仕様が無い。居候の身で相手を連れ込んでギシアンとか、それまでの信頼も何もかもが壊れる様な事態だけは、絶対に
避けなければならなかった。思い切り蹴っ飛ばしてしまったヒュリカには悪いけれど。でも、手を出してきたヒュリカだって悪いのだから、それくらいは甘んじて受けてほしい。
「大丈夫だよ、ヒュリカ。ほら、もう寝よう? ヒュリカも、疲れてるんだよ」
 どうにか諭して、そのまま強引に毛布を被せて、俺は目を瞑って必死に眠ろうとする。ヒュリカは眠ってはいない様だったけれど、俺に手を出すつもりは、もう無くなくなった様だった。
 俺は。俺はというと。さっきまでの眠気は、どこかに行ってしまって。ただ自分の、今まで自分から自分にしか与えた事の無い刺激を、僅かな間とはいえ他人から与えられた事に、何故だか強い衝撃を受けていた。それが、
友達だと思っていた相手だったからだろうか。それでもその内に、考える事を止める。何度も思い返していると、俺の身体が反応してしまいそうだったから。臭いが強く出たら、俺程に鼻が利かないとしても、きっとヒュリカにも
感付かれると思ったから。
 無理矢理、目を瞑って眠った。ちょっと怖かった。でも、あの時。どうしようもなく気持ちが良いと俺が思ってしまったのも、また事実だった。

 次の日。俺はちょっとふらふらとしたままのヒュリカを見送りながらも、自分もファンネスの店へと顔を出して、店番をする。予想通り、それほどの間を置かずに、赤い被毛に包まれたハゼンは、ハゼン・マカカルは店へと
やってきて、俺に返答を求めた。俺はやや迷った素振りを見せた後に、渋々といった態でハゼンと共に行く事を告げると、ハゼンか顔を綻ばせて、真っ赤な尻尾を揺らしていた。準備が済み次第出発すると、更に数日の
時間を貰って。俺はファンネスとツガ、それから家に帰ってハンスにそれを告げる。ハンスはただ頷いて、荷造りを手伝ってくれた。とはいえ、俺の私物なんて本当に何も無い。クロイスから貰った腕輪とかコートとか、
そのぐらい。生活用品の一部と、服。俺が持たされたのは、本当にそれだけだった。思えばここに来て、本当に色んな事に振り回されていたから私物を買うなんていう余裕が少しも無かったんだよな。元々ズボラで、
服なんて目立たず長持ちすれば良いなんて感じだったから、ここに来てもそれが変わる訳もなく。クロイスはそんな俺を見て、しきりに何か着せたそうだったけれど、残念ながらその辺りは全部お断りさせて頂いて
いたし。だって、絶対貰ってばっかりになるのが目に見えていた。今はファンネスの店で働いて多少はお金があるから、今こそクロイスが居てくれれば、良かったのにな。
「明日の朝。ミサナトの南門でお待ちしております。ゼオロ様。だ、そうだ」
 準備が済んだ頃に、店に来たハゼンから伝言を預かったファンネスがやってきて教えてくれる。なんでも俺が出ていってしまうという事で、最近は二人揃って店番をする日を作って、どうにか薬を販売している
らしい。ファンネスの苦労が、その表情から伝わってくる。
 いつもより少しだけ贅沢な夕食をハンスが出してくれた。それからその場には、ファンネスとツガも居てくれて。残念なのは、ヒュリカが居ない事だろうか、ヒュリカは、あの日から、俺の家には来なくなった。
 それでも寂しい顔を見せたくなくて。大人三人に囲まれて、俺は向こうでもなんとかやってみせると意気込んで見せた。どの道、もう戻れない。いずれはぶつかる壁だった。もしかしたらの道も、他には無い。
 旅立ちの日。
 朝早く家を出た俺を見送りに、やっぱり三人は来てくれた。下町を通らなければならない以上、早朝とはいえ心細いという事もあったので、俺は助かったけれど。
「ゼオロ!」
 家を出ようとした時、息を切らせたヒュリカがやってくる。俺は、それを笑って迎え入れた。
「来ないのかと、思ってた」
「クロイスさんの時に、ゼオロを引っ張り出したんだから。そんな事しないよ」
 そう言うヒュリカの顔は、あの時俺にした事を後悔しているのか。とても、晴れやかな物とは言えなかったけれど。それでも俺は、嬉しくなって、その身体を抱き締める。
 俺と、ヒュリカと、ハンスと、ファンネスと、ツガ。五人揃って、ハンスの待つ場所へと歩いてゆく。ミサナトの南門へ辿り着くと、今朝も変わらずに、優雅な恰好をしたハゼンが、丁寧に一礼して出迎えてくれた。それを見て、
初めてハゼンを見るハンスは、眉を顰めていた。
「赤狼、ですか」
 ハンスの小さな呟きは、隣を歩く俺にだけ聞こえた。それが何を意味するのか聞こうとしたけれど、ハゼンは既に目前に迫っていて。結局黙ったまま、俺達はハゼンと向き合う事になる。
「お待ちしておりました。そして、何よりも。この日が来る事を望んでおりました。ゼオロ様」
 ハゼンは最初、現れた顔触れに驚いていた様だった。ただ、その顔もそれほど長くは続かずに、にこやかな物へと変わる。
「お出迎え、ありがとうございます。マカカル様」
「恐悦至極にございます。ですが、これからは私の事は、どうぞ、ハゼンと。そうお呼びください。これより私が、皆様に代わり、あなた様を守る盾となりましょう」
「その割には、何も無い様だが」
 ファンネスが、特に畏まる様子も見せずに口を出す。流石ファンネス。一切ぶれない。寧ろ安心した。
「ご安心を、今、馬車をお持ちします。何分、ここにずっと止めているのは目立ちます故に。しばし、お待ちを」
 そう言って、ハゼンが駆け出してゆく。残された俺達は一塊になって、俺はみんなの顔を見つめる。
 次にハゼンが来た時、それが別れの時だった。
「ゼオロ」
 何を言おうか。そんな事を考えていると、ヒュリカが一番に口を開く。それから、俺の両手を掴んでそれを少し強く握った。
「元気でね。ゼオロが居てくれて、僕は本当に嬉しかった」
「ありがとう、ヒュリカ」
「ゼオロの事、忘れないから。ゼオロも忘れないで」
「忘れられる訳、ないでしょ」
 この間の事も含めてな。とは言わなかったけれど、俺の言いたい事はなんとなく伝わった様でヒュリカはちょっと顔を伏せる。
「僕、もう行くよ。ずっと一緒に居たら……また、泣いちゃうから」
「いいんじゃない? 泣いても」
「泣くだけじゃ、済まなさそうだから」
 説得力のある言葉に、俺か苦笑する。ヒュリカは最後に、俺の手に嘴の先を、ちょっとだけつけた。ちくりとした痛みが走る。
「ゼオロが、幸せになれます様に」
 ほんの短い間の接触。それが済むとヒュリカは俺の手を離して。一度頷くと、そのまま駆け出して。振り返りもせずに去っていった。
「男たらしめ」
「そんなつもりは、無かったのですが」
 ヒュリカが見えなくなってから、鋭いファンネスの声が飛ぶ。俺はただ、笑うしかなかった。
「つもりが無くても、結果がこれだ。まったく、ツガと言い。どうしてこういう輩というのは、いつの時代も居るものなのかな。まったく悪びれた様子を見せずにやらかすのだから、始末に終えん。それで困るのは、いつだってその
周りに居る者達だというのに。ああ、嫌だ嫌だ」
「ファンネス。あまりそう、責めるものではありませんよ。彼らはまだまだ若いのだから。百歳を超えるあなたが言う事ではありませんよ」
「煩い。お前だって、私からすれば小僧の様な物だぞ」
 百歳以上と聞いて、俺はファンネスを慌てて見上げる。全然そんな風には見えないのにな。
「ハンス。先に、私に話をさせろ」
「どうぞ」
 ファンネスが少し表情を厳しくする。それで俺も、ファンネスの歳の話を深く考える事を止めた。
「ゼオロ。ヒュリカの事で、言っておくべき事がある。今からこの街を出て、金輪際ヒュリカと会わないかも知れないお前には、言わない方がいいかも知れないが」
「教えてください」
「ほう。随分あっさりと言うな。何か、あったのか」
「無かったと言えば、嘘にはなりますね」
「可愛げの無い。まあ、良い。とはいえ私も、あれから口止めされている。ゼオロには、決して言わないでくれと」
 ああ、それか。ヒュリカが、ファンネスから何か言われなかったかと確認していたのは。結局あれ、なんだったんだろう。
「患者からの願い。当然私はそれを守らなければならない。なので、口止めされなかったところだけでお前にわかる様に言ってやろう」
 何それ酷い。思わず俺が呆れた顔を見せると、隣で聞いていたハンスも苦笑いを浮かべていた。
「それだけ、お前には伝えておいた方がいいかも知れないと、そう思ったからだぞ」
「はい」
「では。……ヒュリカを捕らえていた者達。お前も、見ただろう。下町のごろつき共。あいつらは、純度の低い麻薬にも手を出していた。まあ、ごろつきならその程度だがな」
「麻薬、ですか」
 この世界にも、そういうのあるんだなやっぱり。まあ、無い方がおかしいのかも知れないが。
 いや、それよりも。あいつらがそれを持っていて、そしてヒュリカがそこに監禁されていたとなると。
「ヒュリカは、大丈夫なんですか」
「お前が助け出してくれたのが、幸いしたな。それ程重い症状ではないし、問題は無いはずだ。ただ、それと本人の受けた心の傷はまったく別の話だ。あれは今、自分がもう綺麗な身ではないのだという事に、思い
悩んでいる。それから、お前が行ってしまう事にもな」
 知らなかった。ヒュリカが、そこまで辛い目に遭っていたなんて。俺はヒュリカが去っていった方向をじっと見つめる。ヒュリカの姿は、とっくに見えなくなって。その痕跡も見当たらない。
「お前はヒュリカの好意に、戸惑っているだろう。だが、お前はそれだけの事を、ヒュリカにしてやったんだ。別に気持ちに応えろとは言わないが、何故自分がそこまで好意を持たれているのか。それぐらいの理解はしてやれ」
「……わかりました。ありがとうございます、ファンネスさん」
 丁寧にファンネスに頭を下げると、遠くから、馬車の立てる音と思しい物音が聞こえる。迎えが来た様だ。
「ゼオロさん! また、戻ってきてね! お店、手伝ってね! じゃないと俺のお菓子が危ないから!」
 大慌てでファンネスを押しのけて、目に涙を浮かべたツガが俺の手を握ってぶんぶんと振り回す。この人はファンネスよりもっとぶれないなと思う。
「は、はい。ツガさん、お元気で」
「あー。寂しいなぁ……。とってもいい子だったのに。俺もお菓子が一杯食べられたのに。ねえファンネス。今からでも取りやめにできない?」
「できなくはないが、それをやると店も続けられなくなる」
「そっかぁ。じゃあ、諦める。ゼオロさん、またね」
 ぱっと手を離して、ツガはそのままファンネスの後ろに隠れる。隠れると言っても、二人とも同じくらいの身長だから、そこまで器用に隠れられる訳ではないけれど。ツガはハゼンの事を警戒しているのか、ハゼンが
にこにこしながらこちらへやってくるのを見ると、ファンネスを挟んで反対側を陣取っていた。
「お待たせしました、ゼオロ様。さあ、どうかこの馬車へ。ここからファウナックまで、私が責任を持って、あなた様をお連れいたします」
 現れた馬車は、想像していたよりも豪華な物だった。馬二頭立ての黒塗りの上品な馬車は、思っていたよりも少し後ろの箱が長めで。クーペに近い印象を受ける。御者も別に居るらしく、既に前の席に座っている姿が
見られる。そちらもやっぱり狼族の男だった。
「ゼオロさん」
 最後に、声を掛けられる。ハンスだった。馬車から視線を戻して、ハンスを見上げる。それから俺は、深く深く、頭を下げた。
「ハンスさん。今までずっと、私の面倒を見てくれた事。とても、感謝の言葉だけで足りるとは思いませんが。それでも、ありがとうございました」
「いいえ、いいえ。私はただ、あなたを預かっていただけ。あなたがいつか、外の世界に出るまで。けれど、それがこんな形でとは、思わなかった。ですが、良い機会なのかも知れませんね。あなたが言った様に、
あなたはもっと、自分の境遇を知る必要があるでしょうから」
「いつか、またお会いできたら。その時は、ハンスさんの事も、手助けできる様になりたいです」
「お待ちしていますよ。いつまでも。……寂しいものですね。あなたや、それからあの煩いの。若い人が、行ってしまうというのは。けれど、それもまた運命でしょう。あなたと出会ったのも、そんな運命の存在を信じたくなる様な
出来事からでしたから」
 ハゼンが居る手前、ハンスはある程度表現をぼかす。それでも俺には、充分に伝わる。別の世界から突然にやってきて、当ての無い俺を引き取ってくれたハンス。確かに、一番運命的な出会い方をしたと言えば、
そうなのかも知れなかった。それから煩いの呼ばわりされているクロイスの事もよくわかった。
「さようなら、ゼオロさん。でも、また。お会いしましょう」
「はい」
 それきりだった。俺は一歩踏み出して、ハゼンの下へと。ハゼンは恭しく一礼をして、馬車の扉を開けて。先に乗り込み、改めて俺を乗せるのに不都合が無いかの最後の確認を済ませる。
 それからそっと、俺へと手を伸ばす。
 伸ばされた、赤い手。この手を取って、今日俺は、この世界に現れてから一度も出た事がないミサナトの街を出てゆくのだった。
 ゆっくりと伸ばした手は、しっかりとした手に掴まれる。俺の身体が、引き上げられた。とくになんて事もなく、俺はそのまま馬車の中へ。それを確認して待っていた御者が、扉を閉める。俺は馬車の窓から、外を
見た。三人がまだ俺を見ている。俺は頷いた。ハンスは頷き、ツガはファンネスの後ろから食み出させた尻尾を振って。ファンネスは、ただ何もせず、それでも俺の目をじっと見つめていた。
「行きましょうか」
 ハゼンが声を上げると、馬車がゆるゆると進みはじめる。そのまま、南門へ。早朝という事もあり、それほど待たされる事もなく、馬車は外へ。俺にとっては初めての、ミサナトの外へと走り出した。
 明るい街並みはすぐに牧歌的な、街の外の風景へと切り替わる。街道を走る馬車の窓からは、朝早く農業に勤しむ人の姿や、旅人の姿が見えた。大きく広がった街道の隅を、馬車は進んでゆく。
「ゼオロ様」
 隣に座るハゼンが、俺を呼ぶ。
「なんでしょうか、マカカル様」
「ハゼンで、よろしいのですよ」
「……なんでしょうか、ハゼン」
「その様に、お辛い顔をなされるのですね。あの者達の中には、一人として、狼族の者は居なかったというのに」
 ハゼンはそれが、信じられない様だった。狼族は、他種族とは。もう何度目かもわからないこの言葉。ハゼンもまた、そう思うのだろう。狼族であるが故に。
「狼族以外と、あの様な関係を築かれる。このハゼン、感服致しました。ですが、我らが向かう、ギルス領は」
「わかっています。狼族の地なのでしょう」
「ええ。彼の地でならば、皆があなた様を見て、頭を垂れる事でしょう」
 そこまでかよ。と言いそうになる。今から憂鬱だ。
「ご安心ください。私が、ついております。何があろうとも、決して、あなた様をお一人には」
「……ええ。よろしく、お願いします。マカカル様」
 ハゼンが、僅かに眉根を寄せた。
 馬車が揺れたせいだと、俺は思う事にした。

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