ヨコアナ
11.遊びに行こう
ランデュス城の渡り廊下を一人、私は歩いていた。昼を過ぎた今、遠くに見えるランデュスの城下町からは炊事の煙がいくつも上がり、ここにまで食欲を擽る匂いがしてきそうな程だ。抱えた書類に一度目を落としながら、
今日の昼は何を食べようか。そんな事を考えていた時だった。
「リュース!」
背後から声が掛けられる。ここまで傍若無人に私の名を呼ぶ者は、一人しかいない。
「ヤシュバ様。どうか、されましたか」
振り返る。遠くから手を振って走ってくる、黒鱗のヤシュバの姿。ああ、なんてはしたない。その上威厳の無い走り方でやってくるのだろうか。だらしが無く相好を崩し、走る身体に合わせて、尻尾と翼が揺れている。まるで、
犬の様だ。見た目だけは威厳たっぷりのヤシュバは、それをぶち壊しながら走ってくる。私はちょっと顔を背けてから、溜め息を吐いた。相変わらずだなこの人は。
「これがなければ、まだましなんですがねぇ……」
「何か、言ったか?」
目の前にやってきたヤシュバは、私の独り言に気づいて。それを受けて、私はつい苦笑を浮かべてしまう。
「なんでもありませんよ。それで、どうかされたのですか」
「この後は、暇か?」
「暇……という程ではありませんが、まあ、そこまで立て込んではおりませんね。この書類を検めていたので、直接渡しに行けば、あとはそれほど」
また、身体が疼いているのだろうか。そんな事を考えて、じっとヤシュバを見てみる。疼いているには、疼いている様に見えた。ただ、熱が籠っているというよりは、遊びに行きたい、という気持ちが滲み出ていた。なるほど、
だから、声を掛けてきたのか。まるで少年の様だと思う。
「なんですか。遊びたいのですか。駒遊びくらいしか、私は知りませんが」
「城下町に、行きたい」
「……それは、また。難しい事を仰るのですね」
よくよく見れば、その腕には大き目の布が抱えられている。それは多分、ヤシュバが被って姿を晦ますための物なのだろう。ヤシュバの容姿は目立つし、筆頭魔剣士として華麗な登場を果たしてから、それ程日が経った
訳でもない。城下町には新たな筆頭魔剣士であるヤシュバの似顔絵が出回っているし、何も隠さず外に行けば、誰にでも見咎められてしまうという事は、流石にヤシュバも理解している様だった。
「駄目、だろうか」
しゅんとしたその表情。私以外には、見せてほしくないと思う。幻滅必至だろう。
「お付き合いしたいのはやまやまですが、書類を渡すついでに、少し話もしなければなりません。またの機会にしてください」
「そうか……」
ますます縮こまったヤシュバに、ちょっと可哀想な事をしたかなと思ってしまう。が、私が今受け持っている仕事は、ヤシュバがまだまだ不慣れだからこそ私が預かっている物に過ぎない。ここで私が放り出しては、結局は
ヤシュバに返ってくる物なのだ。今は、甘い事を言ってはいられない。
「……リュース!」
立ち去ろうとして、数歩。向こう側に、私の部下が待ち構えている事に気づいた頃、また呼ばれる。
「なんですか。用があるなら一度でえぇっ!!」
腕を引かれると、視界がぐるっと一回転する。投げ技を掛けられたかの様に私の身体は宙に舞った後、ヤシュバの腕の中に納まった。あまりに突然の事に眩暈がして、ちょっと間が空く。そっと瞼を開くと、申し訳なさそうな、
それでも瞳をきらきらとさせたヤシュバの顔が目の前にあった。両の腕に抱え込まれた私は、それに気づくと慌ててそこから下りようとする。
「ちょっと、何してるんですか! 早く下ろしてください!」
「やっぱり駄目だ。またの機会なんて、次にいつ来るのかわからないじゃないか」
「それはそうですけれど。というより、下ろしてください! 見られてるじゃないですか!?」
何事かと、部下が騒ぎ出して走ってくる。やめろ。こっち来るな。来るんじゃない。見るんじゃない。ぶっ飛ばすぞ。
「さあ、行こうリュース。午後が終わってしまう」
そう言って、ヤシュバは私を抱えたまま。どこにそんな力があるのかと疑いたくなる程身軽に、渡り廊下の手摺を跳び越えた。
「えっ」
私は思わず声を漏らした。ここには窓はない。そして、三階だ。
「馬鹿、戻れ!」
思わず相手が誰かも忘れて罵倒する。ヤシュバは意に介さず、楽し気だった。私は盛大に舌打ちをして、手に持っていた書類を急いで丸めると、それを元の廊下へと投げる。本来ならばそんな簡単にそちらに届く訳は
ないのだが、ヤシュバに抱えられた際、咄嗟に私は力んで廊下に僅かな魔力を残してしまったので、それを目標とすればそれ程難しい事ではなかった。
「お前達! こいつを代わりに持っていけ! 頼んだぞ!」
私の声が彼らに届いたのは、多分途中までだっただろう。そのまま、私達は真下へと落ちてゆく。ヤシュバの翼が、広がった。しかしまだ飛び方がわからないのか、それほど落下が遅くなる事はなかった。寧ろ、
風の影響を受けて危うい角度になりそうになる。それでもどうにか下りる、というより落ちると、ヤシュバの両足と尻尾が、大地に激突した。凄まじい音を立てて、庭へと私達が落ちたのだ。辺りの木々に止まっていた小鳥が、
大慌てで逃げてゆく。遠くから、誰かの騒ぎ声と、何かの引っ繰り返る音までした。ああ、なんて事をしてくれたんだ。いや、それよりも。
「ヤシュバ様。足は、大丈夫なのですか」
「うん?」
その言葉を聞いて、心配をしたのが馬鹿だったと私は悟る。どういう身体の造りをしているんだこいつは。私一人で下りても、充分に準備してからでないと足腰痛めそうな状態なのに、私を抱えたまま、まっすぐに
落ちて平気だなんて。ヤシュバが足を上げると、くっきりと足の形が残っていた。ただし、履物は無残な姿になってその場に残されている。当のヤシュバの足には、怪我一つ見当たらない。
「さあ、行こう。リュース。ここまで来たら、今戻っても、後で戻っても、どうせ怒られる」
太陽の様に笑ってヤシュバが言う。私はそれを眩しそうに見つめながら、仕方なく溜め息を吐く。
「わかった。わかりましたよ。……下ろしてください。いつまで抱えているつもりですか」
それから。どうにか、それだけを返したのだった。
道を行く人々は、そのほとんどが竜族だった。それも当然だ、ここはランデュス。竜による、竜のための国なのだから。
だから、そこを歩くのは基本的には竜でなければならないし、また竜であるのならば、どこを歩いていても目立つ事はない。
愚かにも、ヤシュバはそう思っていた様だ。
「どうして皆、じろじろ俺を見ているのだろう」
「あなたが規格外に馬鹿でかいからですよ」
特注のローブを深々と被っても、頭は角があるから露出したままだし、背中の切り込みからも翼が飛び出していて、とても隠し通せている様には見えない。ヤシュバは首を傾げていて、私は呆れてしまう。竜かどうかを抜きに
しても、これだけの偉丈夫がうろうろとしていて、目立たない方がどうかしている。
「そうか……。確かに城の中に居ても、同じような体格の奴に会わないなと思っていたが。そういえば、ガーデルは俺より大きかった気がする」
「あなたの様に、本当に身体が大きいタイプは少し珍しいですからね。私もガーデルぐらいしか、知りませんねぇ」
「でも、だからといって皆、こっちを見過ぎじゃないのか」
「それは、仕方がないですよ。ヤ……あなたは筆頭になった。街では大分治まりましたけれど、ガーデルを退けたあなたは、当時は大変な評判でしたし。それから似顔絵だって売られていますよ。それほど似てはいませんがね」
「そういえば、お前の部屋にもあった気がする」
「妙な物が出回ってないか、確認する必要がありましたからね。まあ、そこそこの品でしたね。ですから、彼らは今ここに居るのが、まさかその筆頭だとは思ってはいないでしょうが、似ているなぁと思っている節もあるの
でしょうね。身体が大きいから、ただでさえ目立つのに。お忍びなんてまったく無謀な」
「どうしたらいいのだろうか。バレてしまうと、流石に騒ぎになってしまうだろうし」
「そうですね。それは流石に……。城の方ではもう抜け出した事は騒ぎになっているでしょうし。仕方ない。こちらへ」
ヤシュバの手を引いて、共に路地へ入ろうとすると、ヤシュバがつっかえる。白い目で私が見ると、ヤシュバは身体を横にして、それから翼を畳んでどうにか通れる様にする。なるたけ人を避け、誰も見ていないところまで
来ると、私は手を離し、向き直る。
「私が軽く魔法を掛けます。少し違和感があるかも知れませんが、我慢してください。よろしいですね。……偽りよ、真実を塗り潰せ」
少しぶつぶつと口籠ってから、私は最後の言葉を言い放つ。掌から放たれた光がヤシュバの身に宿ると、見る見るうちに黒の鱗は、緑へと染まる。
「おお、凄いなリュース。これで普通の竜っぽくなったぞ」
「ああ、一時的にとはいえ……。勿体ない。美しい黒色が」
喜ぶヤシュバに、私は頭を抱えたくなる。こんな事が城に知られたら、なんて言われるか。今から帰り道が憂鬱になってきた。それを見て、ヤシュバが表情を曇らせる。
「リュース。やっぱり……怒っているのか?」
「よくそんな事が言えますね。私を無理矢理連れてきた癖に。……ああ、申し訳ございません。言いすぎました。大丈夫。大丈夫ですよ、ええ。今日はなんとかしますから」
悄然としたヤシュバの顔が見ていられないという事もあって、私はつい優しい言葉を掛けてしまう。とはいえこれは、ある程度計算尽くの事でもあった。確かにヤシュバに無理矢理城から連れ出されたのは、腹が立ちも
したが、どの道ヤシュバの気分転換と見聞を広めるために、街に下りる事は計画していたのだった。筆頭魔剣士になってから、ヤシュバはずっと城に閉じ籠ったまま。唯一出たのは、筆頭魔剣士になったその日に、民衆への
顔見せのために屋根の無い豪奢な馬車に揺られて街を軽く回った時だけだ。筆頭魔剣士とはなんであるのか。また仕事の上で必要な事など、細かな事の全てを私が教えている最中であり。本来ならば出なければならない
兵の調練にすら、出る余裕も無い状態で。そんな缶詰の様な状況を長く続けていては、ヤシュバも嫌気が差してしまう事は重々承知していた。今までは私が、己の身体を差し出し、それを褒美の様に見せて釣る事もして
いたが、流石に限界だろう。だから、今回の事は確かに予想外の行動ではあったものの、丁度良い展開になったとも内心は思っていたのだ。勿論、それをヤシュバに悟らせる事はしないが。
「城下町を見たい。そう、仰られましたね。どこか、行きたいところはあるのですか?」
「ううん。そう言われても……」
「そうでしたね。申し訳ない。では、ぶらぶらと歩きましょうか。あなたがご自分の居る国を見て回る事は、私は賛成ですし。ただ、この魔法は掛け続けている間私にも負担が掛かりますから、今日の夜までですよ。それ
以上は、明日に響くので嫌ですからね」
「わかった。リュース、俺の我儘を聞いてくれて、ありがとう」
「そういう事は、言わなくても良いのです。ただ、頷いて頂ければ。さて、私も少し……」
上着を一枚脱いで、身軽にする。今の服はちょっと仰々しい。下に着ていた黒の稽古着で、丁度良さそうだ。あまり人前でこの青い鱗を露出させたくはなかったが、この際開き直るしかない。どの道、一年を通して気温の
高いランデュスであまり肌を隠すのは、不自然になる。不自然なのは隣に居る図体のでかいのだけで充分なのだ。
路地から出て、先程までこちらを見ていた者達が居ないかだけを確認して、素早く出ると足早に移動を済ませる。一先ずは安心だろう。振り返り、緑色になったヤシュバに、魔法を自分で掛けた癖になんだか違和感を
覚えてしまって、つい笑ってしまった。
「そうしていると、本当にただの大きい竜族ですね、あなたも」
「良かった。これで、気兼ねなく街を歩ける。さあ、行こう」
ちょっとローブを着崩して、ヤシュバが言う。そうされると目立つから、止めてほしいのだが。
再び道へと戻る。ヤシュバは改めて見た城下町の様子に、ちょっと息を呑んだ様だった。
「本当に、竜ばかりなんだな」
「そうですよ。城の中だってそうなのだから、わかるでしょう」
老若男女問わず。道を歩くのは、竜族ばかり。私にとっては極有り触れた光景だが、ヤシュバにとってはそうではないのだろう。ここには爬族の姿も無い。ここはまだ、ランデュス城の近くだ。他種族の姿が見えるのは、
もっと外周部に近い方だった。こんな所を竜族以外が歩いていたら、かなり白い目で見られるのだろうな。
「それはそうだが。実際に見てみるのとでは、やっぱり違うな」
「ここに居る一人一人が、あなたが守る、ランデュスの国民でもあります。あまりこういう事を言ってあなたに負担を掛けたくありませんが、今ここで、一度だけ言っておきますよ」
「そうか、頑張らないとな」
なんでもない事の様に、ヤシュバが言う。私が気になって見上げると、にこにこと微笑んでいた。こういう所の器は、本当に大きいと思う。お人好しな部分を除けば、やはりこの男は筆頭魔剣士には向いていると
言えた。甘ちゃんだし、まだまだ事務仕事にも不慣れなのが問題だが。
「さて、どこへ行きましょうかね」
その辺をぶらぶら歩く。そう言ってみた物の、こうして態々出向いてきたのだ。ヤシュバには、退屈な思いはしてほしくないなと、私は今更考えてしまう。丁度その時、隣の巨漢が、特大の腹の虫を響かせた。私が呆れて
視線を向けると、照れた様にヤシュバは腹を摩る。
「昼食は、召し上がらなかったのですか」
「抜け出す隙を窺っていたので……そういうリュースはどうなんだ」
「遅い昼食にしようと思ったら、乱暴な竜族にかどわかされてしまいましてねぇ。なんて可哀想な私」
「すみませんでした」
「構いませんよ。別に。さて、そうなるとあなたを空腹で泣かせる訳にはいかないので、私は面倒ながらも食事のできる店を探したいのですが」
「おお。ぜひ、頼む」
「生憎、手持ちがございません。ああ、どうして私は、こんなにも気が利かないのでしょうか。申し訳ございません、ヤシュバ様。せめて、前もって一言頂けていたら、このリュース、あなた様の望む物を、あたう限り用意させて
頂きましたのに。あなたのお考え一つ、察する事ができないでいる駄目な私を、どうかお許しください」
「リュース。そろそろ、機嫌を直してくれないだろうか。空腹とは別の理由で、泣きそうだ」
とっとと泣けよ。
「あら、そうなんですか。そんな図体の癖に、泣くのはすぐなんですねぇ。それで、あなたもやはり、手持ちは無いと?」
「城の中では、まったく必要が無い物だからな」
若干開き直る様にヤシュバは言う。だが、確かに言う事は正しかった。筆頭魔剣士であるヤシュバだ。望めば大抵の物は手に入るし、手に入らなければならない。権力を振るう、等という事は無縁だが、それでも竜神に
次ぐ地位と言っても、過言ではない。もっとも休戦をしてしばらく経っている今は、武官の影響力は些か落ちているのは否めないが。
「仕方ありませんね」
私は一度、辺り見渡して周囲を探る。目に入ったのは、有り触れた装飾を商う店だった。有り触れたと言っても、ランデュス城に近い店なのだから、こじんまりとしたその外観で甘く見ていると痛い目に遭う様な店では
あった。別に、今は買う訳ではないのだから構わないが。
「……と、ヤシュバ様。私からあなたに命令する様で、少々気が引けるのですが……。今から私が言う事を、していただけますか」
「なんだ? 俺にできる事なら、構わないが」
店に入ろうとして、私は立ち止まり、ヤシュバに細かい指図をする。それを追えると、私はヤシュバをその場に置いて、一人で店へと入った。
「いらっしゃいませ」
店主の出した朗らかな声は、そこで止まった。予想済みとはいえ、内心舌打ちをしたくなる。笑顔で客を迎えようとしていた店主は、私の姿を見て、あからさまにその態度を変えた。そのまま唾でも吐きそうな勢いだ。私は
気にせずに、指輪を一つ差し出す。青玉の指輪は私の鱗とは違い、鮮やかに光を照り返し、見る者を怪しく魅了するかの様にそこにあった。
「引き取ってもらいたい」
「盗品じゃないだろうな」
「我らの神、ランデュスにかけて」
私の言葉に、店主が鼻で笑う。盗品である訳がない。私の私物なのだから。そのまま顔を掴んで壁に叩きつけてやりたい衝動を堪えながら、私は指輪を店主にちらつかせる。最高級の品である事は間違いなく、店主は
顔色を変えた。
「3000だな」
「6000ユランは出せるだろう」
「厄介な物を引き取るにはそれ相応の見返りが必要だ」
「そうではないと言っているだろうに」
「嫌なら他を当たれ。買い取り拒否をする奴も多いだろうよ」
溜め息一つ。ああ、やっぱり。わかっていたものの、この身体では駄目だな。自分の色を変えるべきだっただろうか。しかし今ヤシュバに掛けている魔法は、どうも私の身体とは相性が悪く、上手く効果が出ないのだった。
筆頭補佐という身分が無ければ、ランデュスでの私の扱いなどこんな物だった。
仕方がない。私は何度か、咳払いをする。すると、背後の扉が開き、示し合わせた通りにヤシュバが入ってくる。
「おい。いつまで俺を待たせるつもりだ」
地の底を這いずる様な、低い声。ヤシュバの声は、低い。それが意識して更に低くなったのだから、私からやらせている事とはいえ、私も身体を少し震わせた。何も知らない店主は、余計だ。さっきまでの私を小馬鹿にした
表情などどこかへ行って、今はただ現れたヤシュバを前に震えている。
「すまない。中々、交渉が上手く行かなくてな」
「いつまで待たせるつもりだと、俺は言ったんだが」
「すまない……」
そこまで言い終えて、私は前を向く。いつのまにか、目の前に6000ユラン分の硬貨が置いてあった。私は黙って指輪をその場に置くと、金を受け取って、ヤシュバを連れて店を出る。実際にはこれでもかなり安いが、即金で
手に入ったので良しとする。
「ああ、よかった。どうにか上手くいきましたね」
少し離れてから、私は安堵の息を吐く。とうのヤシュバは、たった今まで見せていた凄みは一体どこへ忘れてきたのやら、私の後を追いながらも、何度も申し訳なさそうな顔をして店を振り返っていた。まるで、別人の様だ。
「俺はこんな風に誰かを脅すのは、嫌なのだが……」
「仕方がないじゃないですか。あの店主、私だとまともに相手にしてくれないのですから。かといって、こういう事にまったく無知で無関心なあなたに、交渉を任せようなんて思いませんし」
「それは、そうなのだが」
「さて、そんな事はもう忘れましょう。金は、手に入ったのですから。美味しい物でも食べましょうよ。ほら、あそこの飯屋なんて、丁度良いんじゃないですか」
そう言って指を差したのは、そこそこに行列のできている店だった。そこかしこから良い匂いは漂っているが、あそこから漂う匂いが、一番良い。私が促すと、ヤシュバは瞳を輝かせた。昼を過ぎた今、酒と何かがこんがりと
焼ける香ばしい匂いに満ちたその場は、昼飯を食いそびれている私にも魅力的な物に見えた。
「本当だ。なんて良い匂いなんだろうか。きっと美味しい物が沢山あるんだろうな」
「……まあ、あなたはあまり、期待しない方がいいと思いますがね。何しろあなたが城で食べている物と比べたら、かなり劣ると言わざるを得ない」
それでも、出来立ての熱い料理は出てくるだろう。貴人の食事には付き物だが、調理場から部屋まで持ってゆくにも、毒見をするにも、時間は掛かるので。出来立ての上手さとは言い難い部分はある。その点、この様な、
言ってはなんだが下々の利用する場ではそういう事を心配する必要はなかった。毒見は無論、私が務めるつもりではあるが。
「そんな事はないぞリュース。気取っていない、簡単な料理。俺はそういうのも好きだ。寧ろそっちの方が好きだ。というかそっちばっかりだった。城の料理もそうしてくれないか?」
「今の発言は聞かなかった事にして差し上げます。あなたの偏食に日夜血の涙を流している城の料理人達が不憫でなりません」
扉を開いて、店内へと足を踏み入れる。少し薄暗い雰囲気と、漂う香辛料の香り。運ばれる料理と酒の強い匂い。どちらかと言えば、酒場に近いか。腹を満たせるのなら構わないが。入ってすぐは広場で、いくつか
囲める様に卓があり、カウンターもあったが、それとは別に奥の方に、人目を気にする者達が使う個室に近い部屋も用意されていた。
「親父、今日は何がある」
店主に声を掛ける。この店の店主もやはり私を見て困った顔をしたが、それでもすぐに営業顔になると私達を案内しようとする。両手を揉み絞り、にこにこと私を迎える。
「へい。今日はシンバ鳥が入りましてね。今朝絞めたばかりですから、きっとあなたのご主人も、ご満足いただけると思いますがね」
「ではそれと、いくつか適当な物を頼む」
「お席は奥の方がよろしゅうございますか」
「……そうしてくれ」
店主の無駄な気遣いに少し顔を顰めながらも、甘んじてそれを受ける。さっきから店主は良いが、他の客があんまり良い顔をしていない。私の後ろに居るヤシュバのおかげで、それ以上の騒ぎにはなっていないが。
「さあ、ヤ……ああ、そろそろ名前を言うのは控えるべきですね。では言い換えましょう。ご主人様、こちらでございますよ。どうぞ、席にお付きになってくださいまし」
「凄いな。さっきと全然違ってて、怖いぞ」
「良いから座れデカブツ。ただでさえ私一人でも馬鹿みたいに目立つのに、お前が居るせいで余計なんだよ」
小声でさっさとヤシュバを席に座らせる。椅子が悲鳴を上げたが無視した。
「さて、もう大丈夫ですね。ここからはお互いに名前を呼ぶのは止めましょう。ですので、あなたは私の事を、お前、そう言っていただいて構いません。ご主人様」
「それはわかったが、何故ご主人様なんだ?」
「そんな事。周りを見れば、わかるでしょう?」
そう言われたヤシュバが、辺りを見渡す。鈍い。まだ気づいていないのかこの人は。
ヤシュバの視線を受けると、こちらに視線を注いでいた酔漢が大慌てで顔を逸らす。ただ中にはそれでも私の方を睨んでいる様なのが居て、観察を止めたヤシュバの表情は曇り切っていた。
「おわかりいただけましたか? 私は、ここにはふさわしくない身。そんな私が、どうしてここに居るのか。そういう目です。ですから、私はあくまで、あなたの付き添い。あなたの召使か何かの態を装わないといけない訳ですね」
「そんなに。そんなに……青い竜は、いけない事なのだろうか」
「そんな顔、しないでくださいよ。私はもう慣れていますから、大丈夫です。私みたいなのは、外周部に本来ならば居なければなりません。そちらには、私の様な見た目の者や、それから竜族以外の連中も居ます
からね。私としてはそちらの方が、余程馴染めますが、かといって何も知らぬあなたを、今日連れてゆく訳にはいきません。そういう場所はあなたみたいに恵まれた方の事なんて、気に入らない奴ばっかりですからね。
……私はそんな風には思ってませんけど。ですから、そんな顔しないでくださいよ。お願いですから」
「同じ竜族じゃないか。それにお前はとてもよく、頑張ってくれている。ランデュスの声を聞くのは、いつもお前なのだし」
「それとこれとは別ですよ、ご主人様。それに、竜神様の声を。神声を聞けるのは、何も私に限らない。宰相のギヌス様でも充分に聞けます」
「俺は、ほとんど聞こえないのだが」
「それは仕方がありません。だってご主人様に直接指示しても、細かい部分がわからないですからね。二度手間は省かれて然るべき、ですよ」
「ご主人様と態々呼んでくれているのに、話している内容が俺を馬鹿にしている様にしか聞こえない」
「とんでもない。事実だから、僭越ながらもこうして口にしております。お怒りでしたら、どうかこの卑しい私を、今夜抱く時にお好きな様にいたぶってください。あなたの心が満足するまで、誠心誠意、真心を込めて、あなたを
受け入れて差し上げますよ。ええ、本当に」
そう言ってヤシュバを見つめると、慌ててヤシュバは視線を逸らす。やり過ぎたな。若干臭いが変わってしまった。
「へい。お待ちでさ」
僅かな無言の隙を突いて、主人が出来上がった料理を運んでくる。一目に付かない一角へと案内してくれた辺りといい、この主人はやり手だ。目の前に置かれたシンバ鳥の丸焼きに、ヤシュバが目の色を変えている。既に
手に取りやすい様にある程度は切り分けられており、焼かれてパリッとした質感の鳥の皮に塗された塩が、薄明るい光に照らされてきらきらと輝いている様は、空腹のヤシュバには相当応えた様だ。香ばしい匂いに、
思わず私の口内にも唾液が溢れてくる。飛びつきそうなヤシュバを押さえて、失礼して私が毒見を先にと一口。ぱりっとした皮を突き破れば、その奥からは豊富な肉の汁が溢れてくる。思っていたよりも、良い物を
出しているなと思う。
「さあ、いつまでもこんな話をしていると、怪しまれてしまいますし。まずはあなたの空腹を満たさなければ。どうぞ、お好きに頂いてください」
無言のまま、ヤシュバが肉に手を伸ばす。まずは腿肉から、齧りついて。それから幸せそうな顔をしていた。城の者には絶対に見せられない程に緩んだ顔。思わず、私も笑ってしまう。
「味わって食べてくださいよ。シンバ鳥は結構貴重ですから。城の中の様に好きな物を、好きなだけお代わりなんて、できませんからね。食べたいと言う人に行き渡る様に、こういう店では、注文できても一つまでですから」
「美味いな。リュースも、もっとどうだ」
「私は、こちらで」
店主がそれと一緒に持ってきた魚の揚げ物に私は手を付ける。頬張ると、軽く噛むだけで皮は破けて、中から温かさと共にほろほろと崩れる魚の身の触感と味が、口内に広がる。
「魚か。ランデュスではそういえば、魚もよく見られるんだったな」
「そうですね。小麦と魚がランデュスにとっては主な食料とされていますから」
一年を通して雨の少ないランデュスでは小麦の収穫量は多く、最も竜族の口に入る物と言えば、当然パンと麺類だった。続けて多い物があるとすれば、それは今私が食べている魚で。ランデュスの東側はそのまま海に
ぶつかる事から、漁業も盛んに行われている。ただしこの魚が私達の口に入る様になったのは、実は久しい事だったりする。原因は先の戦役だった。涙の跡地の全ての海は、水族の支配下にあると言っても、過言では
ない。とはいえ結界の内にある海自体がそれほど広くはないので、水族の数もさまで多いとは言えなかった。水族は基本的に、争い事には無関心と言っても良い種族だった。しかしその水族も、流石に陸地を併呑しようと
するランデュスの動きには、重い腰を上げたのだった。漁獲量はあっという間に目も当てられない程になり、水族をどうにか追い払おうにも、彼らには海が味方していた。海中深く逃げられてしまえばそれまでだったし、何より
水族を本気で殲滅するというのは現実的な案とは言えなかった。全滅させられるのならば話は別だが、それは流石に難しい。そして水族の怨みを買うという事は、今後戦が終わっても、漁獲量は決して元に戻らない事を
意味していたがために、結局当時のランデュスは、そして私や、文官の連中は、食料問題にかなり頭を悩ませる事になっていた。そんな物は戦をしない奴が用意するべき物だと言い放ったガーデルの意見は、間違っている
とは言わない。戦は竜神の意向なのだから。しかしガーデルを補佐する私は当然糧道の確保と、糧食の管理についても管轄であるために、あの時のガーデルは殴りたい男一位の座を占めていたと言っても過言では
なかった。当時の事を思い出して、苦い顔をする。
「どうかしたのか」
鳥の骨を音を立てて噛み砕いているヤシュバが、私に問いかけてくる。
「いいえ。何も。ただ、魚が無事に食べられる様になって、良かったなと思いましてね」
現在、水族との関係は良好とまでは言えないまでも、戦時よりも前の状態程度には回復している。小麦の生産量も増えたから、今ならば、魚の供給が途絶えてもある程度の無茶は通るだろう。とはいえ、それでも
生きてゆく上で絶対に必要な、口に入る物の話だ。無いよりはあった方が良いのは自明だった。
魚を頭から食べ進めると、その内独特の苦味が口に広がる。腸の苦味も、今は美味しく感じられる。
「そうなのか。なんだか、少し怒っている様な顔をしていたが。また、俺は何かしてしまっただろうか」
そんなに私は、顔に出していただろうか。ガーデルを殴り飛ばしたいと思っていた事を。
「ご主人様の事ではありませんよ。安心してください。前筆頭の事を、思い出してしまいましてね」
「前筆頭……。ガーデルの事か」
「ええ。あれも中々に問題児でしたからね」
言外に、お前も問題児なのだぞという意味を籠めると、ヤシュバが少し申し訳なさそうな顔をする。
「ガーデルは、どういう奴だったんだ?」
「戦馬鹿でしたね。溜め息が出る程に」
「戦が、好きなのか」
「間違ってはいませんね。ただ、武力を振るう事を何より好むとか、そういう訳ではありませんでしたが。要は、戦には出るけれど、そのために必要なあれこれという物は、戦に出ない者が用意するべきだ、という考えでして。
つまり、戦闘以外の事に、積極的に手を貸そう、首を突っ込もうとはしない性格だったのですよ。勿論、それが都合の良い時もありましたから、一概に悪いとは言いませんが。私欲の無い、真面目な筆頭魔剣士でしたから、
ランデュスの国民からはとてつもない支持を得ていましたし」
「本当に今更なのだが……」
私の話を聞いて、ヤシュバが表情を曇らせる。その内に、小声でおずおずと続きを発する。
「そんなに必要とされていたガーデルと取って代わってしまって、良かったのだろうか……? 俺は、ガーデルの様に戦がどうこうなどという事は、まるきりわからないのだが」
「これからおわかりになられればよろしいのですよ。これからね。誰だって、最初からできる訳じゃありませんから」
「これから……戦争が、始まるのか?」
「始まりませんよ。だって、既に始まっている事ですから。今はただ、互いに矛を収めているに過ぎない。……怖いですか」
「怖いな」
「怖がる事など、何も無いと思いますがねぇ。あなたの様な方を捻じ伏せられる相手なんて、居やしないでしょうにねぇ」
私の言葉に、ヤシュバが黙り込む。深刻な表情をしていた。手に持っている食べかけのシンバ鳥を一度置いてくれていたら、もう少しそれっぽかったのだが。
「ほら、冷めてしまいますよ。せっかく私の手持ちを売ったお金で払うんですから、きちんと口に入れてくださいね」
「……そういえば、そうだったな。申し訳ない事をした。それにしても、あの指輪は手放して良かったのか? どうも、随分良い物に見えたが。俺の目には」
「あれは、筆頭補佐になった日に、ガーデルと顔合わせをした後に頂いた物ですよ。かなり古い物ですが、物は良いから、どうにか売れてよかった」
「大切な品だったのではないのか? いつも、付けていた様に思うが」
「いいんですよ、もう。それに、あれはガーデルと対になる指輪。ガーデルには、紅玉。私には、青玉。筆頭魔剣士と、筆頭補佐がめでたく揃ったからと、祝いに造られた物なんですから。ガーデルが筆頭でなくなり、姿を
消した今、私だけが持っていても意味の無い物でしたから。外そうかと思っていたくらいですよ。それが、現筆頭であるあなたの役に立った。これ以上の有効活用も中々ないでしょうね。ですから、気にしないでください」
「そうなのか」
答えながらも、私が再度促すと、ヤシュバは肉に被りつく。ローブから食み出した翼が、ぱたぱたと揺れていた。それから床から物音がする。尻尾が、揺れているのだろう。本当に、そういう仕草は子供の様だった。私も
それを確認してから、残っていた揚げ物に被りついては空腹を満たす。城で食う物と比べれば、味は確かに落ちる。しかしヤシュバと食事を囲むというのは、中々に新鮮だった。立場上それをしてもおかしくはないし、たまに
ヤシュバは誘ってくるが、あまり堂々と一緒に居るのは、ヤシュバにとって良い噂とはならない。青い竜である私と一緒に居ると、余計な陰口を叩かれかねなかったからだ。とはいえ、そうして程々の距離に居ようとする私の
努力は、今日の事も含めて、大体が目の前のデカいだけの子供の手で散々にされているのだが。
「もっと他の者にも手を付けてくれると、ありがたいのですがねぇ」
「何か、言ったか」
「いいえ。喉に詰まらせないでくださいね。あなたのこの図体を介抱するなんて、私には無理なんですからね」
適当に誤魔化す。ヤシュバの周りには、小姓、侍女といった者達でさえ、見場の良く、器量の良い者が配されていた。ヤシュバはそれらに、いつでも戯れに手を出しても何も言われないのだが。今のところ手を出す気配は
見られない。今はまだ筆頭になって間もなく、余裕が無いから。そういう風に誤魔化しているが、これが長く続くと、正直なところ私は困る。ヤシュバが誰にも手を出さないのならば、良かった。しかしヤシュバは、私には手を
出すのだった。勿論最初は、それで良かった。何一つ経験の無いヤシュバに、手解きをする。その名目でヤシュバを誘い、身体を差し出し、好き勝手に抱かせていたのは私なのだから。ただ私は、それはいつまでも
続く事ではないと、間違った予想をしていた。竜族は、好色だった。表向きは、同じ種族であるが故に同性間の付き合いはあまり良い顔はされないが、それもヤシュバの様な戦士の立場ではまた違う。昂った身体は相手を
求め、そうして決闘をすれば、勝者は敗者を組み敷き、敗者は勝者に阿り、その精を身体に受けようとする。好色な竜が、憚られる同性との繋がりのための、建前。ヤシュバには既に、充分な物を仕込んでいた。
だから私は、その内ヤシュバに身体を差し出す事は無くなるだろうと思っていた。小姓、侍女、護衛。そのどれもが、ヤシュバには熱い視線を送っている。華やかな服に豊満な胸を持つ侍女に、未成熟で儚く華奢な身体の
小姓に、屈強な身体を持ち激しい交わりにも耐えうる護衛。選り取り見取りとはこの事だ。最低限の人数で、あまり私には近づかぬ様にしている、私付きの者達とはあまりにも違っていた。私はそれを咎めようともして
いないが。なのに、今日までヤシュバが手を出したのは、私だけ。流石に頭を抱えたくなる。なんだ、何が不満なんだこの男は。もしかしてあれか、しわくちゃなのが好みなのか。老け専か。確かに、先に挙げた奴らには
無い物だ。しかし流石にそれはすぐには用意できそうにない。いやちょっと待て、だったら何故私は抱けるのだ。私の扱いはそれらと一緒なのか。それは流石にふざけるなと言いたい。これでも身体だけならその辺の
奴らには負けない自負があるのだから。いや、もしかしたらゲテモノ趣味なのか。普通じゃない方が、好きなのか。それだと認めざるを得ない。なんという事だ。
「どうしたんだ。そんなに、怖い顔をして」
「い、いいえ。なんでもありませんよ。ええ。大丈夫です」
「そうか。ところで、気になっていた事があるんだが」
「なんでしょうか」
ヤシュバが話題を変えようとするので、私も頭を切り替える。
「ガーデルの話が良く出るが……つまり、前筆頭の話がよく出るんだが。前の筆頭補佐というのは、どんな人だったんだ?」
「前の、筆頭補佐、ですか」
「俺が筆頭になった時の様に、お前も筆頭補佐を打ち負かしたんだろう?」
「……いいえ。そうではありませんよ。筆頭補佐の座は、空位でしたから。私は竜神様に見出されて、その座に着いたのです。先程、めでたく筆頭魔剣士と筆頭補佐が揃った、そう言いましたよね。筆頭補佐は、長い間
空いていたのですよ。その間、ガーデルは一人で筆頭をしていました。ガーデルよりも、更に前の筆頭の時に居た筆頭補佐が、問題を起こして罷免されたんでしたかね、確か。何分もう百年以上も前の話ですし、私も
詳しい訳ではありませんが」
「へぇ……百年以上も前なのか。前の筆頭補佐は、どんな人だったのだろう」
「名前だけなら、わかりますよ。私も筆頭補佐という役職を得た以上は、前の筆頭補佐の様に問題を起こす事は、私を取り立ててくださった竜神様に申し訳が立ちませんからね。前筆頭補佐の名前は、ツェルガ・ヴェルカ。
具体的に何をしたのかは……調べても、よくわかりませんでしたけれど。彼が起こした問題を、自分が筆頭補佐をする上で反面教師にしようと思ったのですが、結局名前しかわかりませんでした。まあ、それでも、筆頭補佐の
任を恙なく六十年は続けられましたし、これからも続けてゆくつもりですけれど」
「そうなのか……。えっ、六十年?」
最後に残った骨を少しずつ食べていたヤシュバが、驚いた顔をして私を見ている。
「何か?」
「六十年って……お前、一体いくつなんだ」
「私ですか? 確か百はまだだったと思いますが。数年前に八十五を超えたくらいでしたね」
「全然、そうは見えないのだが……」
「それは、まあ。竜族ですからね。寿命にはかなり個人差がありますよ。持っている魔力の量がかなり違いますから」
そう答えながらも、老けている様に見えないと言われ、内心私は小躍りしていた。よし、しわくちゃと一緒にはされていないな。
「獣の連中だと、私達よりずっと劣りますから、彼らは魔法を学ぶ者は魔法使い、そこから抜け出して、寿命を延ばした者は魔道士と呼ばれますけれど。私やあなたには関係の無い話ですね。今の私でも、数百年くらいなら
問題なく生きられますし。魔導に全てを捧げれば、更に長く生きられるかも知れませんね。まあ、そこまで生きていても仕方ないし、いい加減に死んでおくべきではないかと思いますが。あまり一人の人物が同じ役職に
留まるのは、歪みの原因にもなりかねませんからねぇ。もっとも、現宰相の様な例外もありますがね」
「俺も、長生きできるのかな」
「あなたは私よりも強いですからねぇ。勿論剣を取ったらの話で、魔力はまた別の話ですが。でも、私の目で催眠を掛けても、あんまり効かないですし、そう考えるとやっぱりそれなりの精神力と魔力が備わっているの
でしょうね。私と同じく、数百年くらいなら、なんの苦も無く生きていられると思いますよ」
「そんなに長く生きられても、困りそうだなぁ」
「そうですね、本当に。今はまだ竜神様のお役に立てるという喜びがありますし、あなたも居てくれるからいいけれど。私一人だと、竜族とて、さまで守りたいという存在ではありませんからねぇ……」
「まあ、あんな目で見られてはな」
「ええ、まったく」
話が途切れたところで、また店主が顔を出してくる。私は適当に酒を頼んで、店主が去るのを待ってから、食事の感想をヤシュバに求める。
「どうでしたか。庶民の食べる物は」
「とても、美味しかった。また来よう」
「それは困るのですが……」
「じゃあ、城に居る時も、一緒に食事を取らないか。どうもお前は、そういう事は避けているみたいだが」
「避けている、なんて事が、ご主人様の目にもわかるんですねぇ」
「リュース」
鋭い声が飛ぶ。私は居住まいを正して、目の前の筆頭魔剣士を、私が剣を捧げているヤシュバを見つめる。名前を口にした事を咎める隙も、見当たらない。
「お前は、とてもよくやっている。だったら、恥じ入る様な真似はしなくていいと、俺は思う。堂々と、俺と一緒に居てほしい」
「しかし」
「お前の姿を、悪く言う奴は居るだろう。けれど、お前の仕事を悪く言う奴は、居なかった。もっと、胸を張っていいと思うぞ」
「……困りましたね。こっちは、丁度良い距離を模索しているところですのに。あなたにそんな風に言われては」
離れる訳には、いかなくなる。私がそうすれば、目の前の筆頭魔剣士は簡単に傷ついてしまうだろう。本当に、困った男だ。
「リュース」
「わかりました。わかりましたよ。ですから、名前を軽々しく呼ぶのは、どうかおやめください。ここがどこだか、忘れてもらっては困りますよ。ご主人様」
「……すまない」
酒が、運ばれてくる。金色に、泡の王冠を乗せた酒を見て、ヤシュバは相好を崩した。
「お前は、飲まないのか」
「一口だけにしておきますよ。大体さっきから、私がいくつ魔法を使っていると思っているのですか」
ヤシュバの鱗の色を変えて、今は会話が必要以上に外に洩れない様に、防音の魔法も使っている。それでも名前など、耳に付きやすい物には用心を重ねて、口にはしない様にしているのだ。ここで酒を飲んで泥酔でも
したら、それらの維持ができなくなる。音はまだいい。ここでヤシュバの黒鱗が衆目の前に晒されるのは、困る。それでは隠さなくてはならない事情があるという事まで知られてしまう。
ジョッキで運ばれたそれを、ヤシュバはがぶがぶと飲み込んでゆく。とりあえず五つ程頼んで、私はその内の一つを預かっているが、あっという間にヤシュバは飲み乾してしまった。
「酔わないでくださいよ? 介抱するのは無理だって、私さっき、言いましたよね」
「ああ、そうだったな。そういえば」
遅かった。ジョッキを置いたヤシュバの目が、ちょっと怪しい。私自身がかなり酒に強いので、雑に頼んでしまったが、失敗したか。
「しかし、金は大丈夫なのか」
「大丈夫ですよ。余裕で購えます。大体城でご主人様が口にされている物と比べたら、本当に些細なお値段ですからね」
「そんなに、違うのか」
「小麦は下々の間ではまず取引されぬ高級品。パンに塗る蜂蜜は、翼族の谷の周辺にある極寒の地に住む氷蜂の蜜の輸入品。茶葉も同様に山間部からの特別な物が使われています。あなたの朝食一つで、今私達が
食べている分の三倍は余裕でいきますよ。ああ、酒代も込みですからね」
ヤシュバが、目を丸くしている。まさか軽い朝食に、そこまでの物が使われているとは思っていなかったのだろう。
「そ、そんなに……。そんな贅沢をしては、いけないのではないのかな」
「いいえ、まったく。贅沢は身分の高い者にとっては、当然の事ですから。まあ、私は趣味ではないので、程々にしていますがね」
「だったら、俺も」
「いけません。筆頭魔剣士がその様な真似、下々に知られたらどうなるか」
「お前だって、そうじゃないか」
「生憎私は、あの様な姿で贅沢をしてと陰口を叩かれる方ですからね。贅沢をしない方が、丁度良いのです。私の性根にも合ってますし」
「俺は、そんなに贅沢をしたいとは思わないがなぁ」
「いいのですよ、誰も、咎めません。その代り、責任が付き纏いますから、そこは頑張っていただかないといけませんが。偉い人は、好きなだけ偉ぶって、贅沢をしていいのですよ。ただ、有事の際には、きちんと責任を
果たす事。ご主人様がそのお役目を果たされる限り、誰もあなたを、咎めたりはしませんから。大体、それが許されぬというのならば、一体誰が好きこんので地位を得て、身を粉にして働くというのですか?」
「責任と義務、という奴か」
ちょっと難しい顔をして、ヤシュバはうんうんと頷いている。酔っている事もあって、きちんと理解しているとは思えない。
「頼みましたよ。私の筆頭」
「おお、任せておけ」
ついでなので、言質も取る。よし、これで何かが起きたら、虐める口実ができたな。
案の定。酔い潰れたヤシュバを介抱して、道を行く。さっきから身体中から汗が噴き出していた。
「ヤシュバ様、もう少し自分で歩いてくださいよ。あなたの身体を、私が支えられる訳がないでしょう」
「ああ、駄目だ。歩けそうにない。仕方ない、休んでいこう。リュースの家があるんだったな?」
「ありませんよそんな物」
「実家があるだろう」
「止めてください。あの家に帰るくらいなら、ここであなたを置き去りにして、今日の事に私は一切関与せず、あなたに城から攫われたけれど一人で帰ってきたと言いますよ」
「ご挨拶しないといけないな。息子さんはこんなに立派になって、今俺の事を支えてくれて、昼も夜もお世話になっていますと、言わなければ」
「止めろぶっ飛ばすぞてめぇ」
酔っているせいか、ちょっとヤシュバの言動が怪しい。普段ならばそっち方面の話題なんぞ、生娘の様な反応を見せて耳を傾けないくらいなのだが。
ああ、これだから酔漢は。酒を頼み過ぎた私も、私だが。私自身はかなり酒に強いので、まさかヤシュバがあんなに弱いとは思っていなかった。これではジョッキ一杯で良かっただろうに。
「さあ、帰りますよ。もう。あなたが中々動かないから、陽が暮れてしまいます」
空を見上げる。夕陽が、眩しかった。元々城を抜け出したのが昼過ぎなのだから、食事をして、酔ったヤシュバをどうにか立たせて歩かせていると、あっという間に陽は沈んでしまう。
「リュース。俺はもう、駄目だ。置いていってくれ」
「そういうのは戦場で活躍してから言ってください。あなたまだ何もしてませんよ」
「ううー……」
ふらふらとしたヤシュバを、どうにか支える。正直かなり辛い物がある。背は私よりも頭一つ分高い。そして横にもでかい。体格がまるで違う。そんなヤシュバに肩を貸して歩くのは、至難だった。せめてもう一人欲しい。
「リュース。あれは、なんだろう」
「はいはい。それはあなたが酔っているせいで見ている幻覚ですから。お願いですから暴れないでくださいよ」
「いや、違う。あれだ。あれ」
面倒臭くなって適当に往なしていた私の言葉にも構わずに、ヤシュバは手を上げて、ある方向を指す。顔を上げてそちらを見遣ると、確かにそれは居た。道端に蹲っている、人の姿。
おや、と思ったのは、その姿が竜族の物ではなかったからだ。かといって、爬族でもなく。道を行く人々も、怪訝そうに。ある者は心底嫌そうに見ていた。
「あれは、なんだろう。俺と同じで、黒いな」
「今は緑ですけれどね。……あれは、どうも獅族の様ですね」
「獅族? ラヴーワに居る、種族だったな、確か」
「ええ。獣は大体、ラヴーワですよ」
「獅族にしては、随分と色が、黒いんだな。もっと黄色い感じだと思っていた」
「そうですね。さあ、ジロジロ見てないで、行きますよ」
「助けないのか」
「助ける?」
「行倒れの様に見えるのだが。それに、子供にも見える」
「ご冗談を。竜族ならまだしも、こんな所に居る獅族なんて。どうせ外周部の方に居る卑しい傭兵か何かが連れてきた子供でしょう。そんな輩を、私やあなたが拾うべきではない。厄介事にしか、なりませんよ」
「でも」
「でもも何も。止めてくださいよ。敵国の民ですよ。いくらこの場に居てもね。何かしらの接点や、保証があるのなら別ですが、そんな物ある訳ないのですから」
ヤシュバが、足を止めてしまう。ああ、酔ったヤシュバに気を取られて、あの子供に気づかなかったのは私の失態だった。ヤシュバがあれを見て、なんの反応も示さないはずがないのに。さっさと道を変えていれば良かった。
「リュース……」
「行きますよ」
私が声を掛けると、まっすぐに見つめてくる、竜の姿。私は、睨んでやった。それでもヤシュバは、私を見つめたまま。
結局、折れたのは私の方だった。
「わかりました。わかりましたよ。後でちょっと、様子を見ますから。とにかく今は、あなたを城に連れて戻ります。二人とも面倒なんて、見られません。それでよろしいですね?」
「ああ。ありがとう、リュース」
それでヤシュバは足を動かす気になったのか、またとぼとぼと歩きだす。まったく、酔っていても、こういう所は何一つ変わらないのだな。
その後どうにか城まで辿り着いて、城の入口で唖然とする兵達に泥酔した筆頭魔剣士を叩きつけて託してから、私はこのまま素知らぬ振りをして帰ろうかとも思ったが、後で顔を合わせたヤシュバが確実にあの獅族の事を
口にするのは見当が付いていたので、結局走ってあの獅族の下まで戻る事になる。
獅族は、獅族の少年は、変わらずそこに居た。黄色がかった通常の獅族とは違い、全身が黒い。鬣も、黒かった。
「おい」
蹲る獅族に、話しかける。反応は無かった。
「俺の言葉が、聞こえるか餓鬼。聞こえているのなら、顔を上げてみろ」
反応無し。なら、それで良かった。死んでいるのなら、それでいい。しかし私が踵を返そうとしたところで、その顔が、ぼさぼさの鬣が、静かに動いた。酷く緩慢な動作で、獅族は顔を上げた。
黒い鬣。黒い被毛。黒い瞳。光の無い、瞳。
私は束の間、その少年を見つめてから、溜め息を吐いた。
「死んでねぇじゃねぇか。仕方ねえな」
周りを歩く者達が、私達に侮蔑の目を向けていた。敵国に居る薄汚い獅族。自国に居ても、謗られる青い竜。嫌な組み合わせもあったものだ。
「こんな所で座って。行く当てが、無いのか」
道端に蹲ったままの獅族は、ゆっくり、ゆっくりと頷いた。
「親に、捨てられたのか」
また、頷く。そこまで確認して、私は溜め息を吐いた。これを聞いたヤシュバが、私に何を指示するのか。そんな事は、わかりきっていた。
踏み出して、距離を詰めて。しゃがみ込むと顔を見つめる。獅族は、微動だにしなかった。私が手を伸ばしても、それは変わらない。
そのまま、襤褸を纏った身体を抱き上げた。身体に触れて、よくわかる。骨が、浮き出ていた。本来ならば、もっと重かっただろう。極限のところで、私とヤシュバはそれを見つけてしまったのだった。もう数日遅ければ、
死んでくれていただろうに。
人々が道を開けた。汚れと汚れが一つになって、向けられる侮蔑の視線は一層強くなる。
私はそのまま、城へと戻った。離れの一角、誰も使っていない寂れた部屋に、その獅族は入った。
赤い血が、黒地に広がっていた。私はそれを、冷ややかに見下ろしている。地面に倒れていた獅族は、死んだ様に動かない。
「期待外れだな。傭兵の息子だと言うから、腕は立つのかと思ったが。所詮、獣の子は獣か」
私が持っているのは、木の棒。そして獅族の少年が持っているのは、剣だった。たった今まで、打ち合っていた。
「所詮、雑魚は雑魚。どうしようもないな、お前」
獅族が、勢い良く顔を上げる。凄まじい形相で、私を睨んでいる。私はそれを、口角を吊り上げて迎えてやった。良い顔をしている。しかし、腕前は到底それに見合う物ではない。
私が拾った獅族は、傭兵の息子だった。口数は少なく、私がヤシュバに言われて、仕方なく様子を見に行くと、自分を鍛えてほしいと懇願してきた。だから時間を見て連れ出して、様子を見てやっているというのに。これが
また、使えなかった。ラヴーワでなら、まあそこそこにやっていけるのかも知れないが。生憎ランデュスでは、まったく話にならない程度だった。今から成長をするのかも知れないが。
充分な食事を取らせた獅族の身体は、見違える様に逞しくなった。そうしてきちんとした食事を済ませて回復した姿は、もう少しで少年を脱して、大人になるところだったのだろう。しかし、少し背が低かった。栄養不足が
祟ったのだろう。通常よりも背が低い事を気にしているのか、私が見下ろしていると、少し居心地悪そうな顔をしている事が多かった。
「もう終わりか。それともラヴーワにでも行って、魔法使いにでもなった方がいいんじゃないのか、お前」
獅族が飛びあがる様にして起き上がり、また剣を構える。
獅族は、思っていたよりも、魔法の才能があった。ただそれも、特段優れているとは言えない。やはり竜族と比べると、あらゆる意味で獣は劣るのだった。とてもランデュスでやっていける様な腕前ではない。それでも
才があるならばと、いくつか私が使える魔法も覚えさせてみたが。しかしやはり、それだけを利用して生きてゆけるとは思えなかった。だから、剣の稽古をしている。だが、それも。所詮はこの程度なのだった。
溜め息を吐いて、私から仕掛ける。二度、三度と打ち合う。正面から剣を受け止めれば、当然私の持つ木の棒は切られる。私がしているのは、もっぱら剣を受け流すか、刃先に当たらぬ様に当てるかだった。打ち合う
といっても、私が好き勝手に打ち込んでいるという方が正しい。獅族は、ある程度の剣術の稽古は施されていた様だった。しかしそれも、結局はあの道端で行倒れになる結果を見るに、こいつの親もそこまでの腕前では
なかったのだろう。隙を見つけて、その手を打つ。剣がその手を離れるのを見てから、私は地を蹴って、そのまま獅族の身体を蹴り上げた。ふわりと木の葉の様に、黒い被毛が舞う。
「ああ。つまらんな。まさかこんなに、弱いとは。弱い癖に、私の指導を受けたいなどと、身の程知らずとは恐ろしい物だな」
宙に舞った獅族が、そのまま落ちるかという辺りでびくんと身体を刎ねさせて、素早く体勢を変える。猫特有の動きという奴だろうか。私はまったくそれを見もせずに、そのまま木の棒を突き出して、落ちる猶予も与えずに
その腹に一撃を加える。蹴り上げる時にある程度自発的に獅族の方から身体を跳ねさせたので、何かしようとしているのはわかっていた。棒の先端に軽く魔法を唱えてあったので、そのまま獅族は吹っ飛ぶ。吹っ飛んだ先で、
また、動かなくなった。
手心など加えずにやっているので、その黒い被毛は、赤い血で汚れていた。被毛の上からであろうと、何度も棒で打ちすえれば、皮膚が裂ける所もある。死んだ様に横たわっている獅族が、荒い呼吸をする事でだけ、
まだ生きている事を伝えている。その様は、一層哀れみを誘うかの様だった。所詮、どれだけ研鑽を積んだところで、才能には。何より、種族の差には勝てはしない。
竜族だったら良かったな。お前。
「もう、終わりだ。次に会う時には、もう少しまともになっていろ。まったく話にならなくて、つまらんぞ」
背を向けようとした。視界の端に、立ち上がろうとする姿が映る。足を止めて、それを見守った。震える足を一歩ずつ前へと出しながら、鬣を振り乱した獅族は、まだ私を睨んでいた。
その身体が、倒れそうになる。膝を付いて、しかしまた立ち上がる。今にも倒れ込みそうになりながら、私の下までやってくる。
また蹴り上げてやろうかと、束の間考えた。
「その執念だけは、見事な物だな。兵を鍛えていても、そこまで立ち上がる奴は、中々居なかった」
私は何もせずに、近づいてくる獅族を待っていた。私にまだ仕掛けてくるつもりなら、蹴り上げてやろうかと思っていた。
目の前まで来た獅族が、ゆっくりと、覚束ない仕草で頭を下げる。私はそれをしばらく見てから、その肩を引いた。呆気なく、その身体は私に倒れかかる。
「頑張ったな」
獅族の身体が、震える。私の胸に顔を押し付けている。その頬に伝う涙を、私はじっと、見下ろしていた。
数日後、城内を歩いていると、また廊下の途中でヤシュバに声を掛けられた。
「リュース。ここに、居たのか」
「ヤシュバ様。……なんですか。また、外に行きたいなんて、仰りませんよね。あなたの我儘は叶えて差し上げたいところですが、あまり頻々にとは、いきませんよ」
「そんな事は言わないさ。ああ、でも。この間はとても楽しかった。今度はきちんと休みを合わせて、また行かないか? 結局俺も、酔い潰れてしまったしな」
「……そうですね。きちんと手順を踏んでからなら、構いませんよ。酔い潰れさせてしまった私が言うのもなんですが、あなたにはもっと、色々と街を、そして民を見てほしいとは、思っていますからね」
「そうか。良かった。今から、とても楽しみだ」
そこまで言い終えると、ヤシュバが少しそわそわした様子を見せる。私はそれを察して、私に付いていた者達を先に行かせて、人払いをする。
「あの子の様子はどうだ?」
「あの子? はて、なんの事でしょうか」
「惚けなくて、いいだろう。お前が拾った子だ」
「あなたが拾わせた子の、間違いじゃないですかねぇ」
「でも、その後の面倒を見たのは、お前だ。俺ではない」
「そりゃそうですよ。あなたにあんな、どこから来たのかもわからない胡乱な獅族の相手なんて、させられる訳がない。あなたが遅れを取るだなんて、到底思いませんけれど。それでも何かしら問題になってからでは、
遅いのですから」
「だったら、なんの事だなんて言うのは、やめてくれ。あの子は、お前にとても懐いているのに」
「懐いている? あれが?」
睨まれていた記憶がほとんどだったのだが。そう言うと、ヤシュバは嬉しそうに笑った。
「本当に嫌っていたのなら、とっくに逃げていたんじゃないか。身体の調子は、良かったのだろう」
「……ええ。栄養不足で、背は少し足りないでしょうけれどね。それ以外は特に、言う事はありませんよ」
「そうか。それで、あの子は元気なのか?」
「出ていきましたよ」
「え?」
驚いた後に、ヤシュバが寂しそうな顔をする。
「どうして」
「見込みがありませんでしたからね。私が言うと、自分の足で出ていきました。ああ、路銀の方は多少持たせましたよ。何も持たせずに行かせたとあなたが知ったら、どうせ怒るでしょうから」
「それで、良いのか? 名前も、付けてあげたんだろう? あの子が名乗りたがらないからって」
「仮の名前ですよ。名前も名乗らないのでは、こちらから呼びかけにくいですからね。あれがランデュスを出るまでの、仮の名前。外に出たあれには、もう必要の無い名前です。そういう意味を籠めてつけただけの、名前でした」
「でも……」
「もう、この話は止めにしましょう。私はあなたに言われて、あなたの望んだ事を一通りしました。これ以上、私に何かを望むのですか。薄情だと、私を謗りますか」
「そんな事を、言うつもりはない。ただ」
ヤシュバは表情を曇らせた。私に話しかけてきた時の朗らかな様子は、既にどこかへ行ってしまった。
「ただ、お前も……あの子と一緒に居て、嫌な顔は、していなかった様に見えた」
「医者にかかる事を、勧めますよ。私はあなたと、竜神様のために居るのですから。それ以外の事に、必要以上に時間を割くつもりはありません。お話は、それだけですか」
「……ああ」
「では、失礼しますよ。生憎、あなたのための仕事が、まだ残っていますからね」
ヤシュバの、隣を通ろうとする。
「私が、嫌な顔をしていなかった様に見えた? ……ご冗談を。獅族とは、ラヴーワ建国の祖である、ラヴーワその人の種族だ。爬族と同じか、それ以上に、唾棄すべき種族ですよ、あれは。勉強不足のあなたの目には、
私はそんな風に、見えていたのですか」
「リュース」
通り過ぎた私をヤシュバが呼んだ。私は、振り返らなかった。