ヨコアナ
萌愛
雑多な匂いと臭いの中、ボサボサに乱したままの鬣を指先で梳いて、欠伸を一つ。
眠たい目尻に浮かんだ涙を払って、俺はふと顔を上げる。
行き交う人々の、種々それぞれな頭部を視線は辿って、その内に頭ではなくその図体のでかさの方で俺は目的の人物を見つける。
声を掛けようかと思って、少し戸惑う。そうすると、そいつは辺りをうろうろ見回していて。なんとなくそれがおかしくて、口角を吊り上げる。
俺からは一目瞭然のそいつなのに。そいつからは俺を探すのは中々に困難らしい。まあ、ハイエナ特有の鬣を除けば、そんなに目立つとは言えないかも知れないしな。
加えてあいつはちょっと目が悪いから。裸眼で過ごせるとはいえ、こんな風に誰かを探すのは得意とは言えない様だった。
「おーい、こっちだよ。こっち」
腕を上げて、かざした手を旗の様にひらひらと。そうすると、そのでかい図体のてっぺんから生えた、その巨躯とは対照的に小さな耳がわかりやすく震えて、
続いて音を探しあてた奴の顔が向く。それから、のしのしと。そんな音が聞こえそうな程の歩みがはじまって。別に威圧的な訳ではないはずだが、山の様にと
例えられそうなそいつが動くと、周りは静かに道を空けていた。
「良かった。見つからなくて、どこかに行っちゃったのかと思った」
「席とっとくんだから、そんな訳ないだろ」
「でもこの間トイレ行ってたよね」
「……まあ、生理的な物は仕方ないだろ。催したんだから」
そういえばそんな事もあったな、なんて思いながら。俺はそいつが持っていた盆の上にある紙に包まれたそれを手に取って。すんすんと嗅ぐと、独特のチーズの香りが
鼻腔を擽る。人によってはこいつが嫌いな事もあるそうだが、生憎と俺には大好物だ。
俺の仕草を見た白熊はにこりと笑って、それからようようと俺の隣に座る。ただ座っただけなのに、圧巻な体躯からはどしんという音が聞こえてくる。周りの視線を
少しだけ集めてから、集めた当人も僅かにそれを恥ずかしそうに見て、それから気にしていないと言いたげに、俺と同じ様に手を伸ばした。
一足先に咀嚼していたものを飲み込んで、早めに飲み物を口に含みながら。俺は白熊を見つめる。
野暮ったい服装に、ずんぐりな体形に。なんていうか、如何にも風采の上がらなさそうなこいつだが。ハンバーガーを美味しそうに頬張り細めているその瞳だけは、
鮮やかな深紅に染まって、なんとなく現実離れな印象を受ける。所謂アルビノというらしく、本来は白くはないらしい。というのはこいつと知り合ってしばらく経ってから、
スマホに収められた家族との写真を片手に教えてもらった。黒々こげ茶な熊の中に一人だけ映る白いこいつは、なんとなく居心地悪そうな顔をしている様にも見えた。
ツキノワグマらしいのだが、真っ白な見た目のせいでその名の由来ともいえる胸の月は、ぱっと見ではわからない。
「本当はじっと見つめればわかるんだよ」
とは当人の言だが、少なくとも俺はまじまじと見た事もないので判断は保留をしたのを憶えている。
「……聞いてる?」
考えに耽っていると、ふとそいつの声が聞こえて。
「ああ、悪い。なんだっけ?」
食べかけだったハンバーガーも忘れて、俺は思考に蓋をする。
「映画の話。ほら、今度新作がね?」
「ああ。わかったわかった。一緒に行ってやるから」
「やったぁ」
ほとんど生返事に近い俺の言葉に、ぱぁっと白熊が笑う。それを見て、俺も苦笑いを。
こいつと出会って、もう一年は経っただろうか。正直それ程イキイキとしたキャンパスライフとやらを夢見ていた訳ではなかったけれど、まあそこそこに遊べもする大学生活を
思い浮かべていた俺の前に現れた、なんというか、すげぇぼっちな白熊。それがこいつだった。
俺だってそれ程社交的、外向的とは言えないけれど。こいつはそんな俺よりも数倍上を行くくらいの一人きりだった。まず、でかい図体がどうしようもなく人目については、
恐れられるらしい。まあ、熊って怖いしな。でかい図体で大らかさをアピールできる奴は結構な事だが、反面黙ってる熊は怖い。そしてこいつは後者である。
喋れるブサイクはとりあえず人気者にはなれるが、喋れないブサイクは色々とヤバいに通じる物がある。いやその判断の仕方だと俺も後者に近い気がするが。少なくともイケメンではないので。
で、そんなぼっちよろしくなこいつとなんの因果か今では親友と言っても差し支えの無い仲なのだから、世の中わからない。少なくとも以前の、こいつと知り合うまでの。こいつに話しかける
直前までの俺だったら。ぼっちがうつるからこっちくんな、くらいは平気で思っていたはずなのだが。
ひょんな事から知り合ったこいつとは、驚くぐらいに話があって。正直俺にとってもこれは幸いな事だった。当たり障りのない話題を取り上げて、まあまあ楽しく話すなんて芸当ができない
訳ではないけれど、それでもやっぱり自分の好きな話題で盛り上がれるというのは、中々に魅力的だった。例えそれが碌に人と会話した事のないような奴との間での物でさえ。
そんな訳で、たった今俺はやれやれだぜと言わんばかりにこいつと映画に行く事を承諾したのだが、内心ではその映画を主題とした会話が、見る前も見た後も続く事に喜んでいた。正直俺やこいつ、
大学生という身分ではとっくに卒業してそうな、子供向けのヒーロー物の奴だ。だからこいつも一人で見に行くなんていう考えは持っていないので、俺に相談をしにくる。そもそもこいつ一人
だったらどんな映画でさえ、上映されたそれを見に足を運ぶなんて事すらしないのだろうが。
「楽しみだなぁ。助かったよ、あっちはこういうの、乗ってくれないし」
「趣味の合わない奴との関係は大変だなぁ」
「それは言わない約束でしょ」
あいつ、というのは。今の話の流れから察すると恋人か何かに思えるが、こいつはぼっちである。というよりは元ぼっちである。故にそれは恋人ではなく、片思いの相手だった。
その相手の性別が男であるというのを、こいつがもじもじとしながら話すのを聞いて。ああ、こいつもそうなんだなと俺は思った物だった。俺はこいつと知り合った後にさっさとカミングアウト
したのだけど。そういうの気にしながら話をするのが面倒臭いし、趣味の上での仲が良い相手だし。
俺はこいつと仲良くなったあと、あまりにも野暮ったいその見た目に心底から辟易して、お前ちょっと少しは今風の大学生になる努力をしろと連れ回して新しく服を見繕ったりしたのだが、
そんな流れの延長線上で、こいつはその内恋に落ちたらしい。今まで外に向ける目を持たなかったからこそ、大学生になって、俺とあちこちに行く様になったから、見える物も増えたのかも知れなかった。
が、そこは元ぼっち。絶賛片思い中である。といっても、そこそこには頑張ったらしく、告白には漕ぎつけた様だが。ただ間の悪い事に、相手もまた別の奴が好きらしい。
今でもその時の事を思い出すと、俺はちょっとこいつの事が気の毒になる。前日までやたらとそわそわしながら、俺に恋の悩みを。俺にそんな相談するなよと言いたかったが、俺以外にまともに
友達もいないのを考えると、まあ順当にそうなるよなと渋々納得して相談を受けていた物だが。とにかくとしてやるだけやってみると送りだしたそいつは、見事な玉砕に今にも倒れんばかりだった。でかい
図体がしぼむんじゃないかってくらいに意気消沈する様は、もはや呆れを通り越してただただ哀れだった。流石に慰めてやった。
そんな恋の話も終わって、そんな奴を忘れ去ってまた何事もなかった日々へと戻るかと思ったが、何故だかこいつは自分を振った奴の元へ今でも足繁く通っているらしい。正直理解できないんだが。
「だって、好きな人には幸せになってほしいし」
と、いつだったかこいつが言い放った言葉に、俺は心の底から溜息を吐いた。つまりは片思いして告った相手がこれまた片思いしていたもんだから、今度はそれを応援しているらしい。どうやら
こいつの漂白されたかの様なアルビノの白い被毛のそれは、こいつの心の中まで真っ白白助にしちまった様だった。正直なところ俺は、これはそういうポジションで攻めて、相手が玉砕したら
迅速にその傷心に寄り添う事でいずれは自分に振り向かせるつもりなのではと思ったのだが、実際にこいつは相手の片思いしているこれまた別の奴との接点などを態々用意して、至極真っ当に応援
しているらしい。何こいつ怖い。お前それでいいのか。マジでそれでいいのか。
そこまで考えて、俺はなんとなくむしゃくしゃした気分になってハンバーガーを口に放って飲み物で流し込む。
なんていうか、こいつの事を親友だとは確かに思っているんだが。そういうお人好しな性分というのは俺にはどうにも理解できないというか、ちょっと受け入れがたい部分があるのは確かだった。
「どうしたのー?」
さっさと店から飛び出して歩き出すと、慌てた様子で白熊も追ってくる。俺が考え事をしている間にこいつの方はとっとと食べ終わっていたので、それ程の遅れもなく。その巨体を揺らしながら追ってくる。
「なんつーかなぁ」
「え、何」
「なんでそんな趣味も合わない奴の事いつまでも好きな訳?」
「ええっ」
赤い瞳をぱちぱちとさせる。そういう仕草が、なんとなく年相応とは言い難くて、他人との接点の乏しさというものを改めて認識させられる。そんなんだから、こんなんなのかなこいつ。
「だって……好きになっちゃったら、仕方ないじゃん?」
「意味わかんねー」
「君だって、誰かを好きになったらわかるよ」
いや、多分わかんねぇと思うんだが。少なくとも俺の過去を軽く振り返っても、白熊の言に肯定を示せる様な思い出は特になかった。それっぽい出来事っていったら、高校生の頃にちょっと
憧れてた先輩が居て。火遊びがてら色々と経験させてもらった事くらいだろうか。確かに憧れていたし、ヤるのは気持ちよかったけど。先輩が卒業したらそれでさようなら。別に胸が痛んだという
程でもなく、それからは気に入った奴とはやる事やって、それなりに楽しい生活を送っていた俺だ。唯一趣味の合う奴がちょっといなかったので、今はこいつと居るけれど。そうしたら性欲は発散できる相手がいて、
それとは別にこいつとは楽しく話ができて。案外充実した日々だし、俺って今結構幸せなんだなって思うばかりで、恋がどうだとか、好きだとか。そんな風に考えたりもしない。
「そんなもんかね。これ系の話ばかりは、お前とは合わないっていうか、さっぱりだけど」
「そうだよっ。恋をしないと、こんな気持ちわからないよ」
こんな気持ち、というのがどんなもんなのかと、いつだったか訊いた気がする。次の瞬間吐き気がする様なクソ甘ったるい言葉がぽんぽん出てきたので、軽く手を振って押しやったのを思い出す。
「悪かったな。そんじゃその調子で、その大切な恋の相談とやらも俺以外にしてくれよ」
「すみません。助けてください」
途端に耳まで伏せて、その巨体が俺の腕を引く。どうしてか、こいつは俺以外にはその相談をしないのだ。
確かにぼっちではあったけれど、最近では多少は友達とも言える間柄の奴も増えた様にも思える。そもそもこいつの巨体にいくら怯えようが、蓋を開ければそこにあるのは上から下までお人よしな
白熊の姿だけだった。その上でその身体も、ただの脂肪の塊という訳ではない。いや、出会った頃は割とそんな感じだったが、恋を知った白熊へのアドバイスと、お洒落のために少し痩せろという事に
なった後、こいつは結構真面目に筋トレをして食事にも気を遣ったのか、身体のでかさは相変わらずだが、結構筋肉質のそれになっている。正直その部分だけ見ると結構そそる。中身がてんで駄目だが。
そんな訳で、中肉中背で種族的にモテる方とは言い難いハイエナの俺より、今ではよっぽどこいつの方がモテる様になったと思う。実際、何人かから声を掛けられる事もあった様だった。恋をすると人は
変わると言うが、確かにこいつに限ってはその通りだ。少なくとも見た目は変わった、見た目は。元々体格には恵まれていたのだから、脂肪が減って、その分筋肉が増えれば。そりゃ見違える。主に下あごの
丸々とした二重どころか三重顎な部分が改善されるだけで大分印象変わる。ふわふわな被毛に掌を当てて、沈んだ指先がぶにょっとせずにかちっとした物に当たれば。ちょっとくらい、おってなるだろ。その上で
話をすれば案外いい奴だとわかるのだから、それならって奴は確かに多いだろうさ。けれど、話を聞く限りでは芽が出そうにない意中の相手なんか放ってしまえばいいものを、こいつは律儀に自分に声をかけてくる
奴らに「好きな相手が居るんだ」なんて言って、丁重にお断りしてしまうのだった。
「もしかしてその相手って……」
と、振られた奴らが親切心も込めて、その後やや鋭い目つきで視線を送るのが俺だった。言いたい事はわかるがお前らそれは流石に失礼だと思う。そりゃ俺は結構遊んでるのでそっち方面では噂になってるし、
そんな俺の事を白熊が好きだと言っていると勘違いしたら、自分と付き合うのかはさておきこいつは止めておけと、親切心の一つも出てくるのもわからないでもない。俺が俺以外の誰かで、白熊を見ていたとしたら、
多分俺も似た様な事思う。
「あの人はやめておいた方が」
「え? あ、違うよ。他の人だよ」
慌てて白熊が訂正をするのを、なまじ具合の良い俺の耳がぴくぴくと拾い上げてしまったのも、何度あった事なのか。もう今では気にしたり、苛立つ事もなくなった。それで八つ当たりされるのは白熊の方に
なるし、こいつはこいつで俺がそういう風に貶されるのが好きではないのか、俺は良い奴なんだよとその後とりなしてくれるけれど。俺はそれもやめてくれと言いたいくらいだった。余計惨めだ。
「わかってるっつーの、それぐらい」
「え、何が?」
「……なんでもねー」
そんな言葉を皮切りに、あとは無言で俺は速足で歩いてゆく。
どすんどすんという足音だけが、なんとなくささくれた俺の心に差し込むのだった。
雨が降っていた。
梅雨も過ぎて、夏がやってくる。そんな頃合い。ちょっと迷惑な雨だった。
そんな迷惑な雨に打たれて、ずぶ濡れでやってきた白熊を見て、俺は何度溜息を吐いたのだろうか。
なんだったっけか、なんでこうなったんだっけか。確か今日は、明日が休みだからこいつの部屋で夜通し昔のアニメや映画でも見ようかとか、確かそんな事言ってたはずだ。
俺は見る物を用意して、アパートのこいつの住む部屋に上がり込んで。こいつはつまみを切らしていた事を忘れて、慌てて買ってくるって、確か傘差して出かけてったはずだった。
けれど部屋に戻ってきたこいつは、傘をどこにやってきたのやら。雨に身体を打たれて、しっとりと水分をその白く輝いていたはずの被毛が吸って。その上で涙を流していた。雨で誤魔化せもしない程に、
既に濡れた被毛の上をその涙が滑ってゆく。
何かを言おうとして、けれどその度にえずく様にして。上手く言葉を吐き出せないそいつを外の廊下から中に入れて。とりあえず、バスタオルだけは被せてやる。
けれど、そこから先をどうしたらいいのかが、俺にはわからなかった。何があったのかは、想像がつく。それから、ついにこの日が来たんだな、なんて哀れみだけが湧いてくる。
大好きだった相手の想いが無事に通じて、その人が結ばれた。そんな連絡を、受け取ったのだろう。それをできるだけ祝福して、ただ帰ってきた。言われなくてもわかる。途中からこいつが、いつかは
そうなるとわかっている様な微妙な表情で、それでも相手を応援してたのも知ってる。
すげぇ。字面にしてあまりのアホさ加減に噴き出しそうだわ。お前上から下までお人よしどころか魂の底までお人よしかよと、吐き捨ててやりたくなるくらいだわ。
それでもボロボロになったこいつを見ていると、それを実行する気にはならなかった。過呼吸になるんじゃねぇかってくらい荒い呼吸をしつづけて、行き場のない両腕を胸の前辺りで留めて、
だだただ珠の様な涙だけが、あとから。あとから落ちては、雨に打たれる外の様に玄関の床をしとどに濡らしてゆく。身体と同じ様に、心がずぶ濡れである事を教えるかの様だった。
気の毒なくらいに、可哀想な奴だった。
どうやって声を掛けたらいいのか、なんて切り出すべきなのかがわからなくて、俺は途方に暮れる。俺にそんな顔、見せるなよ。俺が恋愛なんてさっぱりわからないの、知ってるだろ。お前が恋の
アドバイスを求めてきたって、当たり障りのない事しか返さなかったの、いくらぼっちだったお前でもわかってただろ。その度にありがとうとにこにこして、それでも上手く行かないだろうなって、
それだってわかってただろうに。
なんの対策も練らずに、最終的に自分がそうなるのがわかっていてただそれに突き進んだなんて、ただの馬鹿野郎だ。
「……その……」
二の句が継げない。どうしたら良い。「だから言ったじゃねぇか」「さっさと次の恋しろよ、俺なんかよりモテるだろ」「次は良い奴見つけられるさ」
駄目だ、到底言えない。目の前で鼻水啜って、呻いてるこいつに言えそうにない。何言っても、傷つけてしまう未来しか見えない。
どうしろってんだよ。俺に。俺みたいな奴に。なんかちょっとむかっ腹が立ってくる。
屈んで、相変わらず玄関から動かず座り込んだそいつと高さを合わせる。被せたまま大して役割を果たす事もなく、また果たしたとしても到底力不足なバスタオル越しに、白熊の頭を撫でる。既に吸った水分が、
俺の指先にも伝わってくる。あまり、体温という物を感じない。夏を目前にした雨だけど、冷たくて。それから、白熊の身体が震えている事にも、俺はようやく気づくいた。
真っ赤な瞳からは、依然として涙が溢れて。けれど俺が動いた事で、その眼が俺を見つめる。滲んだ視界でそれがどこまで見えているのかは、甚だ疑問ではあるけれど。真っ赤な瞳が、今は充血して、
更に赤い。血の涙が流れている様だったが、流石にその被毛が赤くなっているなんて事もなかった。
また口を開けて、俺の方から何かを言おうとして。その繰り返しだ。俺もこいつも、言葉を吐き出す事ができないでいる。事情を把握する程度なら、既にそんな言葉は不要なくらいの付き合いだから
というのもあるが。
ただ、見ているのもしのびないと。そう思っていた。いつの間にか、俺の心もざわついているのに気づいた。なんだろうと、そう思って。ああ、俺はこいつが泣いているのは、嫌なんだなぁ、なんて
今更悟る。話が合う奴だから、色々気に食わない部分もない訳ではないけれど、応援してやるか。そんなつもりでもいたけれど。今はただ、泣いているこいつを見て、俺も悲しくなってくる。
「……そんなに、好きだったのかよ」
今更確認する訳でもない言葉を、今更吐き出す。それにだけは、白熊は迅速に頷いた。その気持ちの大きさを何よりも雄弁に物語るかの様だった。
例え自分がどれ程に傷ついたとしても、好きな気持ちは変わらなかったのだと。今でも好きなのだと。嫌でも伝わってくる。
それからまた、しばらく白熊の涙が流れ続けて。
その内に俺は、沈黙に耐えかねる様になってくる。段々と、むかむかした物が胸に、衝動的に込み上げてくる。
「そんなに辛いならよ……」
俺にしろよ。と、自然と言いそうになった。何故なのか、よくわからなかった。今までこいつの事を、そういう風に見た回数なんて数える程しかない。こいつは趣味が合う奴だ。そう思って割り切っていた
というのもあるし、何よりこいつが俺ではなく、誰かの事を好きでいて。多分、愛していただろうから。
いつの間にか俯いていた顔を、また白熊が上げる。俺が何を言おうとしているのか、いつものアドバイスでも受けるかの様に待ち受けていて。けれどその瞳からは、変わらずの涙が流れていて。
それを見て、俺はまた何も言えなくなってしまった。それから、なんとも言えない気分になった。こんなに傷ついた奴に、俺は何しようとしてんだ。傷心を慰めるにせよ、少なくとも今俺が口にしようと
したものは、慰めるなんて物ではなく。このまま裸になってやる事やっちまおう、なんていう方向の物だった。
俺はこいつの親友だろ。自分でそう思っていたのに、何してんだ俺は。こいつはそんな奴じゃないのに。俺みたいな奴とは、何もかも違うのに。
不意に込み上げた気持ちの悪さに、俺は慌てて白熊から離れる。白熊の方が驚いていた。俺が今どれだけ狼狽えているのか、物語るかのように。
「あれ……?」
急に理解できない感情に包まれて、今度は俺の方が妙な気持ちになってしまった。さっきまで、こいつの事を心配していたんじゃなかったのか。なんでちょっと、上手く行かなかったみたいだから、
俺が身体で慰めてやるよなんて、ある意味俺みたいな奴にとっては月並みな言動が、却って俺の胸を苛んでしまうのか。
「どうしたの……?」
溢れた涙で碌に見えもしない癖に、傷ついているのは自分の癖に。俺を気遣う声がする。それが余計に、俺の胸を痛くさせた。
「悪い。……ごめん」
不意に、どうしようもなくその場に居たくなくて。こいつの前から堪らなく姿を消したくなって。俺は押し退ける様に白熊の横を通って、そのままその部屋を飛び出した。
変わらずに降る雨に今度は自分が打たれる事も構わずに、走った。
走って。走って、疲れた頃に咳き込んでから歩いて。しばらくしてからまた走って。靴の中まで水浸しになる。一歩踏み出す度に、ぐじゅぐじゅと水が溢れて、その内雨水の中に何もかも溶けだしてしまいそうだった。
胸が痛い。痛いってなんなんだよって思って。それからその辺りで、ようやく俺は自分の気持ちを少しだけ理解した。
俺、あいつの事が好きだったんだって。
どうやって自分のアパートに戻ったのかもわからず、その日俺は自分の部屋に飛び込んで。多分白熊のあいつと同じか、それより情けない状態で、ただベッドに沈んだ気がする。シャワーを浴びるとか、そんな
賢明な判断すらできなかった。
何度も白熊の姿を脳裏に反芻しては、俺はあいつの事を。あいつに恋をしていたのだと、最終的には結論づけた。
そう断定するには、とても時間が掛かった。だって恋なんてした事がない。恋をする余裕なんて俺には無かった。恋の様な何かが、ただ俺に近づいて、通り過ぎていった事があって。だから俺には、それはただ
そんな物でしかないという認識が残っていただけで。それだけだった。素通りされた俺が、ただ取り残されていただけ。
碌々外にも出られずに、食事も喉を通らない日々が続いた。自分でもまったく理解が及ばないくらいに、頭の中に白熊の姿ばかりが浮かんでは、消えて。それから最後に見たあの傷ついた姿が。そんなあいつを
押し退けて帰ってきた後ろめたさが、ただ胸を刺した。
だったら今からでも会いに行けばいいだろう。そう思う。だってもう、あいつの恋は終わったのだから。相手の幸せを一番に願うあいつなら、もう自分が好きだと思った相手の邪魔すらしないだろう。
だから俺にチャンスが回ってきたんだ。今から会いに行けばいい。
そう都合よく思う度に、心底からの自己嫌悪と吐き気に苛まれた。悲しむあいつの姿を思い出す度に、まるでそれを喜んでいるかの様な最低な自分を自覚する度に、胸が苦しくなった。
「理屈じゃなくて、ただ好きだなって思うんだ。でも、僕じゃ釣り合えなくて。釣り合えそうになくて……。悲しくて。だから、せめて何かしてあげたいって思うんだ」
いつだったかあいつが口にした、好きって言葉を思い出す。俺なんかとは何もかも違う、綺麗な言葉だった。馬鹿な奴だと思った。でも、綺麗だった。
それから、それ以外の言葉も胸に去来する。周りの幸せそうな人を見るのが、少し辛くなると。それと自分を照らし合わせて、苦しくなると。
それを今、引きこもりながら俺は思い知っていた。どうしようもなく身体が動かなくて、けれど時間を持て余してつけたテレビの画面の向こうでは、流行の恋の歌も、恋愛ドラマも、頭がおかしくなりそうな
くらいに繰り広げられていた。
今までだったら、そんな物はなんとも思わないで暇つぶしにでも聞いて、見ていられた。
自分とは関係が無かったから、そうしていられただけだと思い知らされる。画面に映る芸能人の様に、俺が知ってはいても、相手は俺を知っている訳ではなくて。自分と接点がある訳でもなくて、
ただ俺の視界の中を、俺の傍を通り過ぎてゆくだけの物だった。自分には関係の無い恋がそこら中にあって。あいつの中にもそれがあって。ただ、俺の中にはなくて。それだけだったと。通り過ぎてゆくばかりなのだと。
そうではなかった。俺の中にも確かにそれがあった。だから今は、あいつの言葉が嫌という程に理解されてしまって、それから悲しかった。
すっかり汚れ切ってしまった自分が。幸せそうな歌や物語とは対照的な自分が。どこを切り取っても、あいつにふさわしくない自分が。
悲しかった。ただ、悲しかった。
「あいつはやめといた方がいいと思うよ」
白熊が振った誰かが、また白熊に対してそう言う。ああ、わかってる。そんな事はわかっていた。ふさわしくないなんて、今更。
そう思う度に涙が流れて。俺はそんな状態のあいつに、何をしようとしていたのか。
そう考えるだけで、また悲しくなった。
どれくらい俺はそうして、蹲っていたのだろうか。
少なくとも数日は経過していた。ようやく取り出したスマホには、あちこちから着信やメッセージが届いていて。
その中には当然、あいつも居て。あいつの物が、一番多かった。心配する様なメッセージが入っていた。
ほとんど衝動的に、あいつの名前を選んだ。然程待つ事もなく、繋がって。
「もしもし!? 大丈夫!?」
「……」
電話の向こうから、思っていたよりも元気な声が届いた。なんだよ、失恋したのはお前だろ。なんでそんなに元気なんだよ。そう、言いそうになった。
けれどしばらくの間碌に飯も食わずに、喉も渇いたままだったから、すぐには俺は何かを言う事もできなくて。そうしている間に、また白熊の心配する言葉が続いて。
俺の微かな息遣いだけは聞こえているのだろう。そうしていると、白熊が心配して俺の家に来てくれた事とか、色々な事を教えてくれた。俺はあんまりにも自分の思いに引きこもっていたし、
その上で合わせる顔もなかったので全て無視していたけれど、随分心配をかけてしまっていた様だった。辛いのは、こいつの方だったはずなのに。
「……今から、会えるか」
「え? うん、大丈夫だけど」
窓の方へと目をやって、今が夜なんだと今更理解する。スマホの時刻を見る余裕すら持っていなかったのだった。
短い話で約束を取り付けると、ともかくこんな惨めな姿では会えないとシャワーを浴びて。やや痩せてみすぼらしくなったのはこの際諦めて、外へと出る。
久しぶりの外だった。大学もしっかりとサボって何をやっているんだと思いながらも、今はそれすらどうでもよかった。どうでもよいと思える程に強い別の気持ちが自分の中にある事に、また驚いた。
まっすぐに白熊の居るアパートに向かって。呼び鈴を鳴らすとすぐに扉が開かれた。
「久しぶり。……大丈夫?」
そんなに久しぶりでもねぇよ、という言葉を呑み込む。以前までのこいつとの会う頻度を考えたら、確かにそれは久しぶりではあったけれども。
扉を開けてくれた白熊は、俺を見て嬉しそうな顔をしたけれど。俺の様子を理解して、すぐに表情を曇らせた。思わず苦笑してしまう。そりゃ、一番酷い状態で外に出たらそうなるよなと。いつもだったら
拘っている鬣のボリュームも今日は酷い物だし、毛並みもボサボサというか、パサパサしてる。大分栄養が足りてない。
「とにかく、入って」
きびきびとした仕草で、白熊が俺を案内してくれる。あの日泣いていた事も、まさにこの場で泣き崩れていた事も、本当は何も無かったのだと錯覚させる様で。けれどその代わりに俺の胸の中にある気持ちが、
それがただの事実としてあって。それから過ぎ去っていったのだと教えてくれる。
「えっと……まず。訊いていいのかわからないけれど……どうしたの?」
部屋に通されて、座ったところで、白熊の方は我慢の限界とばかりに俺を問い詰めた。そういえばこいつはなんにもわかってないんだよなと、今更俺は理解する。白熊の恋が上手くいかなかったのを
聞いた俺が、ただ取り乱して出ていった。それだけだ。何がなんだかわかるはずもなかった。
「あー……その」
流石にここまで来ると、俺の方も冷静さを大分取り戻してきて。なんだか随分取り乱してしまったなと反省をする。あんな風になると思ってなかったわと言いたいが。
「お前は、もういいのか」
「え。あ、うん……。大分、落ち着いたかな」
どちらかと言えば、俺は白熊の方が気になって、問いかけてみる。そうすると白熊は、あの時の様になるかと心配してしまう程に表情を曇らせたけれど。それでも笑みを。いつも俺に見せる様なそれではなく、
諦念の上に成り立つそれを浮かべて。また少し、胸が痛んだ。ほんの少し、いつもより瞳が赤い様にも見える。
「こう言うと、相談にも乗ってもらってたのに悪いけど……。上手く行かないだろうなって、そうは思っていたから。だから自分で思っていたよりも、受け止めやすかったかな」
「そっか」
確かに、俺でさえこいつの恋が上手く行くかというのは疑問だったし。その上であの日泣いて現れたこいつを見て、すぐに察せた程だった。近況をこいつから聞いていたので、当人からすればそれは最も
あり得る未来という奴だったのだろう。そもそも好きだと伝えた相手とくっつくのではなく、その恋を応援していたのだし。
つくづくお人好しだなと思う。俺と違って。
「でも、多分君が居てくれたのが大きいなって思う。僕一人だったら……上手く受け止められなかった」
「そもそも告白できてないだろ」
「そ、それは……そうだけどね……?」
思わず俺は自分の想いも無視して、いつも通りの突っ込みを入れてしまう。俺が居なかったら多分お前今もおデブでぼっちのままだぞ、多分。
「……とにかく。僕はもういいの。でも、君の方は……何があったの?」
咳払いをして、白熊は話題を切り替える。こいつからすれば、俺はどうしてしまったのかと。いまだに疑問なのだろう。問われて、俺はまたなんて答えたらいいのか、迷ってしまう。
好きだと、そう伝えればいいのだろうか。でも失恋したばかりのこいつに、なんというかそういうアピールをするのは気が引ける。なんかずるい気がしてしまうし、それで今まで散々迷っていた訳であって。
「僕に言えない事……?」
考えている間に、どんどんと白熊の表情が暗くなってゆく。落ち着け。言えない事だったらそもそも俺はここに来てないだろ。ただ、タイミングがわからない。なんとなく電話して、準備を済ませて、ここに来てしまったから。
まごついていると、白熊の方が立ち上がってから、俺の隣へと。その表情は、ただただ俺を心配する色を湛えていて。それから近くでみると確かに少し、白熊の方もやつれていた。当たり前だ。あんなに泣いて
いたのだから。
「何か、僕にできる事はない? あ、それと……言い忘れてた。ずっと僕の相談に乗ってくれて、ありがとう。君が居てくれたから、沢山頑張れたよ。上手く行かなかったけれど、好きな人のために何かをするのも、
君と一緒に居るのも、とても楽しかった。というより、幸せだった。ありがとう。だから。僕にできる事があったら……」
堪らなくなって、俺はその胸に飛び込む。なんで今そんな台詞が出てくるんだお前は。コミュ障ぼっちだった癖に。
ずっとそう思って、どこかで小馬鹿にしていたのかも知れない。こいつはこいつで、もう立派な大人になりかけてるんだなって思った。ガキなのも、情けないのも、俺の方だったと思う。
石鹸の香りに、僅かな汗の臭いが混ざる。こいつも俺と似た様な感じに慌てて準備でもしていたのだろうか。まもなく夏を迎えるが故の薄着が、白い被毛の海と、そこに浮かぶより白い月を覗かせる。
「えっと……」
動揺した白熊が、それでも俺の背に腕を回してくれる。少しやつれて、その分いい感じに脂肪が減ったのか。俺を支える胸も、背を抱く腕も、硬く感じた。今のこいつなら、皆好きになってくれるだろうな。
そんな奴に、今抱き着いている。やっぱり俺は、駄目な奴だと思う。けれど、俺自身ももう、自分の気持ちを抑えられなかった。身勝手だと思う。傷心しているこいつに、こんな風にするのも。これから言おうとしている言葉も。
薄っすらと浮かんだ涙が、薄着の胸の被毛に吸われてゆく。冷たさに気づいたのか、ぎょっとした白熊がまた心配そうな声を上げた。
「好きなんだ。お前の事が」
何度も呼吸を整えて、俺はそう告げた。途端に、白熊の身体が震えた。顔を見るのが怖い。今、どんな顔してる。涙がまた溢れて、今の俺にもそれは窺えそうにない。
それでも伝えたい事だけは、伝えなければならなかった。俺に正直であったこいつに倣う様に、俺もまた正直に。
ただ、正直な気持ちを伝えようとした。
愛している。
「愛して……」