ヨコアナ
抱愛
大きなスクリーンの中で繰り広げられる大活劇を見ながら。僕は時折、自分の隣で同じ様にそれを見ている人の事をそっと盗み見る。
スクリーンの光に照らし出された、ちょっとボサボサした鬣が。それを持つ彼自身の動きに合わせて微かに揺れる。
頷く様に軽く首を振る。気に入っている時の仕草だ。だから僕はほっとして、視線を正面へと戻して引き続き上映されている映画を楽しむ。
「いや、良かったわ今回のは」
「そうだね。子供向けの物って切り捨てちゃうの、勿体ないくらい」
そんな風に言ったところで、僕と彼の前をぞろぞろとはしゃぎながら出てゆく人影を見つめれば。そこに居るのは子供と、その付き添いの
お父さんや、お母さんばかりなのだけれど。熊なので身体の大きい僕や、僕程ではないにせよ成人の体格を持つハイエナの彼は、親御さんに睨まれるのを避ける
ために、いつも最初か最後にそうして映画館を出る事が多い。特に僕は我ながら身体が大きいので、あんまり下手に動くと泣かれる。すごく困るし、申し訳ない。
見ていたのは子供向けの戦隊物の映画だった。数ある戦隊物と同じかと思いきや、最近は寧ろ珍しいとまで言われる程に骨の髄まで悪に染まった悪役が
人気を博している物だった。所謂、悪の美学という奴だ。それから、年配の。大学生の僕や彼よりも、更に上のマニアな人も唸る様な細やかなカメラワークや、
小道具もまた光っているらしい。僕達はそこまでの領域に至ってはいないので、純粋にストーリーや。それから悪をばったばったとなぎ倒す戦闘を楽しんで
いたけれども。
映画館を出たその足で、近くのファミリーレストランへと向かう。映画を見た後は、いつもそのままどこかの飲食店に立ち寄るまでがセットだった。
彼と一緒に居る時間は、いつも楽しい。楽しみな物を語って、その楽しみな物を一緒に見に行って。見終わったら、あそこは良かったとか。ここはもうちょっと
とか。勝手な感想に花を咲かせる。ありきたりな物だった。そんなありきたりな会話が、僕は堪らなく好きだった。こんな風に素敵な大学生としての生活を送れるとは
思ってもみなかったので、尚更だ。食後の飲み物をとりながらも、目の前で楽しそうに話している彼を見て。多分僕も今、同じ様に楽しそうにしているだろう。
そんな視界の隅や、そもそも伸びた口吻で僅かに見える僕自身の白い体毛が、不意に僕を現実へと。一人きりだった頃の僕へと引き戻す。
大学に入るまでは。入ってからも一人ぼっちでいたしばらくの間からは、想像もつかない状況にあるのだと改めて思い知る。
恥ずかしい話だけれど、僕はずっと友達を持てずにいる様な奴だった。それは僕自身の体毛の色合いが、原因ではあったと思う。
ツキノワグマとして生まれた僕の体毛は、周りの黒やこげ茶の仲間達とは異なって、白いそれだった。遺伝に欠損が見られる、所謂アルビノというものらしい。
だから僕の身体は生みの親や、同じ胎から出てきた兄弟のものとは違う、雪の様に白い色合いをしていた。それから、瞳の色も深い赤色を示していて。子供の
頃は白い毛色よりも、その赤い瞳の方で色々と苛められもしていたのだった。白いだけなら、それは白熊だと割り切れる。ツキノワグマとしての自慢の一品である
胸の月も、僕にはほとんどあってないような物であったけれども。それもまた、とても残念であったけれども。それでも白熊だとでも言っていられた。
けれど、この瞳は。
流石に大学生になるまで生きれば、周りに居る人達も分別という物を弁える。相手の持っている物を殊更に取り上げて、少なくとも表立ってからかう様な真似をされる
事は減ったと思う。けれど、子供というのは残酷な物だった。それに安堵する頃には、幼い時分に散々にからかわれた事が、どうしても胸の内に消せない傷となって
残ってしまうのだった。
ちゃんと生まれられなかった証。
誰かが言ったのだろうか。僕の内から出てきたのだろうか。気づくと僕の胸を締め付けるその言葉が、どれだけ身体が大きくなったとしても。身体が大きくなった
からこそ外側から言われる事が無くなったとしても。僕の内側から響いてくるのだった。
耳を塞いでも、目を閉じても。他の誰でもなく、自分が自分に向ける、心が囁く声だけはどうする事もできない。
「なんだよ。なんか、つまんなかったか? あの映画」
「えっ。あ、違うよ。凄く良かったよ。特に悪役がやっつけられる時の台詞とか……」
目敏く彼に見咎められて、僕は大慌てで。身振り手振りまで加えて、必死に誤魔化そうとする。
「ふーん……」
やってしまった。今は楽しい時間なのに。とても、楽しい時間なのに。降って湧いたかの様な幸せを喜んでいたのに、それを自分で台無しにしてしまいそうに
なるなんて。
「……だよな。あそこであの台詞も良かった。そんで、情け容赦なくそのままやられちまうのもな」
僕の慌てた様子に、彼はそれ程納得した様子を見せた訳ではなかったけれど。すぐに話題に乗ってくれる。こういう所、優しいと思う。
当たり前だ。こんな僕に、一人ぼっちだった僕に声を掛けてくれたのも、楽しい物を見に連れ出してくれるのも、彼ばかりであるのだから。
どうにか軌道修正を終えた僕は、改めて彼の事を。今風と形容すれば、やや軟派過ぎるきらいがあるそのハイエナを見つめる。大き目のハイエナの耳には、
風通しの良さそうな穴が空いていて。僕の様な奴はそれを見ただけで悲鳴が出ちゃいそうだけど。でもそれは、子供の頃にやんちゃをした痕らしい。まだ
大学生なのに子供の頃のやんちゃって、一体いつ頃の話なんだろう。とにかく僕には、想像もできない様な話だ。穴を空けるの、痛くなかったのかな。
そんな事を考えながら、改めて今、こんな生活を送れている事に感謝をする。一人きりであったとしてもどうにか奮闘をして大学にまで入ったのは良かった
ものの、その大学でも僕は一人きりだった。一人きりというか、人との距離感とか、そういう細やかで、微妙な部分をどうしたらいいのかが、さっぱり
わからなくて。誰かに声を掛けようにも、容姿のせいもあって声を掛ける事からして良いのかがわからなかった。体毛や瞳の色もそうだけど、そもそも熊で
あるという事だって、人によっては怖がったところで少しも不思議じゃなかったのだし。
そんな僕の前に現れたのが、彼だった。言っちゃなんだけど、服装も、言動も。どれ一つとっても僕とは共通点の無い、同じ場所に居て同じ空気を吸っていても
尚、別世界の住人の様な相手だ。正直最初はカツアゲされると思ったし、震えながらも僕は図体だけは大きいのだから、頑張れば追い払えると勇気を振り絞ろうと
したけれど。どうにか会話を始めると、彼はそもそもそんな気はさらさらなく。単に一人きりでぽつんとしていた僕がどんな奴なのか気になって声を掛けてくれた
だけの人だった。そこから打ち解けてしまうというのが、なんだか不思議だけど。たまたま僕と彼の趣味が共通していたのが、大きかった。初めて彼の好きな物を
聞いた時、僕は、彼が態々僕の趣味に合わせてくれたのかとちょっと疑ったくらいだったけれど。そもそもその時僕の方がまだ何が好きだと言いもしていなかった
ので、それは本当の事で。子供向けの戦隊物やら何やら、彼の外見からすればとっくに卒業していて、今でもそういった物を好きな人の事を。僕の様な奴の事を
しこたま馬鹿にしてきたって不思議じゃなさそうなのに。人って見た目だけじゃないんだなって思った。
「あ、あと俺は男が好きだわ。……安心しろ。お前は趣味じゃない」
ある程度話した所で唐突にそう言われて、僕は口に含んでいた水を盛大に噴き出しそうになったのを今でも憶えている。びっくりした。こんな事を、事も無げに
言う人が居るだなんて。世界のどこかには居るのかも知れなくとも、それが僕の前に居るだなんて。
突然の告白に、けれど僕は自分の驚きを前面に押し出しながらそれを流した。自分にもその気があるのを、僕は知っていて。けれどすぐにそれを。僕も同じなんです
と言って彼と分かち合う訳にはいかなかった。僕は、彼とは違う。今まで一人きりだった僕だから、男が好きといったところで、それはどちらかと言えば男が好きとか、
その程度の話だ。僕の気質的に、女の子をリードするとか、そんな真似事は到底できないと思っているから。同性ならまだしも安心して話せるというのもあるから、そう
思っているだけであって。彼はきっと、色んな経験があるんだろうなと思うし。僕は一生かかっても、そんな風にはなれない様な気がした。
「じゃあ、また後でな」
食事を済ませて、別れ際。背を向けた彼が、一度振り返ってそう告げる。僕は軽く手を振って。そういう仕草が子供っぽいと、以前にからかわれた事を思い出すけれど、
こういう癖というものはどうにもすぐには直せそうにない。
彼の背中が見えなくなるまで見送ってから、僕も踵を返す。二人とも、大学に入るためにアパートを借りて一人暮らしを始めた身であって、徒歩でも家の行き来ができるくらいだ。
一人きりになって、その内に景色が見慣れたそれへと変わってゆく。彼と出かける事に慣れた今も、僕は彼と居る世界にはどうにも慣れたとは言い難かった。彼そのものにも、
慣れた気がしない。今見ている景色ですら、大学生になってからの物だから、本当には慣れていないけれど。
帰り道は、少し寂しい。けれど、その寂しさもまた真新しい物だった。寂しさなんて、今までずっと一人きりであったけれど、感じた事はないように思う。
本当に感じていなかったのか。ずっとそれに自分が浸かっていたから、ただ僕の目には寂しさなんていう物が映らなかったのか。それは、わからなかったけれど。
それでも、またいつか。そう約束を交わす事のできる日々は、確かに僕には心地よく。そして以前までとは何もかもが違う事を教えてくれていて。
だから今の僕は、ほんの少しの寂しさを覚える事もできる様になったのだった。
彼と話をする様になってから、半年が経った頃だろうか。
何もかもが順風満帆とまでは言えなかったかも知れなくても、それでも僕の心は羽が生えたかの様だった。
楽しい話をして、どこかへと足を運んで。一人きりだった頃には考えられなかった日常だった。一日が終わると同時に逃げる様に自宅へと足早に帰って、その自宅も、
自分の部屋も、本当には自分の心を安らがせる事のない日々。振り返れば、僕はずっとそうだった様に思う。
今は、そうではなくて。それから。
彼以外にまた一人、僕の目に映る人が一人。
最初はなんとなく気になるとか、そんな程度の物だった。内に塞ぎ込んでいた僕は、彼と一緒に居て。少しは大学生らしくなれと言われて、色々と直せそうな部分を直そうとしていて。
そうすると、僕に話を掛けてくれる人も出てくる様にもなって。だけど僕は、そういう時まったく話せない、なんて事は流石になくなってきたけれど。それでもぎこちなくなって
しまって。なんとなく意固地になってしまうのだ。僕が変わりはじめたから、それを見てからようやく近づいてくる人だと。そう思ってしまう自分は、性格が悪いなともわかって
いるけれど。だって、少し前までの僕を遠目から見て、からかう様に笑っていた人も居たから。何を今更と、どうしても思ってしまう。そう思う度に、自分の器の小ささを理解して、
がっかりもしてしまう。でかいのは図体だけ、なんて陰口叩かれているのが本当にその通りだった。
けれど、僕の目に留まったその人は。少なくとも僕の記憶の中では、僕を笑う事もなく。かといって、僕に接していた訳でもない。そんな人だった。たまに道ですれ違ったりして、
図体の大きい僕に微笑んで道を譲ってくれる人。慌てて頭を下げて、その人の前を通り過ぎる。そんな関係。名前も知らないし、なんなら声とかも聞いた事がない人。
授業の後に、僕の足元にあった落とし物を拾って。少し辺りを見渡せば、必死の形相で辺りを首を振っては床を確認している虎の男の人が居て。だから僕は、ああこの人がこれを
捜しているのだなとすぐに理解した。
「あ、あの」
その上で、勇気をもって話かける事もできた。彼のおかげだと思う。多分、以前の僕なら落とし物として届け出るか、近くの机の上にそっと置いて、上手く見つけてくれる事を
祈って自分はさっさと立ち去るかしていただろう。
「落とし物、捜してるんですか? 僕の所にこれがありましたけれど」
差し出したのは、なんの変哲もないただのペンだった。鮮やかな緑色をしていたけれど、でも言ってしまえばそれだけの。ただそれは、この人の黄色や白の体毛にはよく似合うなとは、
なんとなく見ていて思う。僕が差し出したそれを見て、ぱあっと喜色を浮かべるその人を見て、僕も驚く。きらきらとした黄金の瞳が、綺麗だった。こんな風に笑う人が居るんだなって思う。
「それ! あ、あの。落としちゃって」
「はい、どうぞ」
特に取り上げる理由もないし、そんな事もしたくないので素直に僕はペンを渡す。それを、とても大切そうに両手で受け取って。そのままうっとりとした表情で胸に抱く様は、やや
過剰な反応ではないかと思ったけれど。その目尻に浮かんだ涙が、それがこの人にとっては大切な物なのだと教えてくれる。僕ほどではないとはいえ、それなりに体躯を持つ虎が
そうしている様は、どことなくおかしかったけれど。
「大切な物なんですね」
「うん。……あ、ごめん。見つけてくれてありがとう」
今更の様に虎は僕に何一つお礼を言っていなかった事に気づいたのか、恥ずかしそうに俯いてから深く頭を下げてくれる。なんというか、廊下ですれ違う程度の仲だったとはいえ、
想像していた中身がまったくその通りな感じの人だった。
それから、しばらくそこで軽い話をして別れる。
僕としては、それきりの仲だと思っていたのだけど。次の日から顔を合わせると、その虎の人は僕に笑顔で声を掛けてくるようになった。周りからすれば、ハイエナの彼も含めて、
お前ら何があったんだと言いたげな目で見てくる物だから少し困ってしまった。実際、そう訝しがられても不思議ではないくらいに、虎は明るく社交的な人だった。
なんというか、ハイエナの彼も充分に社交的ではあるのだけど、それでも僕とも話が合う様な。言ってしまえばやや暗い部分もあるというか。仲間内で馬鹿をやっているだけでは
どこか物足りない物も持っているというか。上手く言えないけれど、ともかくその上で皮肉屋な彼と比べると。同じく友達に虎は囲まれてはいても、笑顔を振り撒いては、また親切も
惜しみなくする事で、男女を問わぬ人気という物を持っていた。この辺が特に、ハイエナとは違う。自分の性的趣向まで割と周囲に暴露してはへらへらしているハイエナは、女友達は
居ても、女の人からモテるとかいう訳ではないし。それと比べると虎はモテモテといっても過言ではなかった。容姿がとてつもなく秀でているという程ではないけれど、それでも
身だしなみには気を遣っているのか、体毛がいつもきらきらとしていて。その性格の明るさをそのまま示すかの様で。確かに人気が出るのも頷ける。
そんな相手に親しげに話しかけられて、正直なところ僕は最初かなり戸惑った。当然の如く嫉妬するかの様な視線まで飛んでくる。そりゃそうだ。皆から人気があるって事は、
それだけ虎を狙っている人も居る訳で。そんな虎が、相手から来るに任せるではなく、自分から声を掛けに行く相手というのは却って珍しいのだろう。そんな事をしなくても、
相手の方から話しかけてくれるのだから。残念な事に僕はその大半の人物にはまったく含まれず、一度は話した仲であったとしても易々と二回目の会話を始める気もなかった。
人気者の輪の中に自分が混ざれるだなんて思っていないし、ただただ気疲れするだけだ。僕は唯一の友達と楽しい会話をするだけで充分に満足をしていたし、また贅沢な思いも
しているとよくよく自覚していたのだから。
そのはずだったのだけど。
「へぇ、特撮や戦隊もの好きなんだ。俺は小さい頃に少し見ていたくらいだけど、面白い趣味だね」
目の前でにっこり笑って僕の話を聞く虎には、仕方なく聞いてやっているという様子は一切なく。ただただ僕と話す事を楽しんでいる様に見えた。
それに戸惑いながら、僕は少しだけまた新たな楽しみに出会えた事に驚く。自分の話を、他の誰かが興味深そうに聞いてくれる。ハイエナの彼とも、勿論そういう話はできる
けれど、それは共通の趣味を通すからであって。だから今目の前に居る人とは違ったものがあった。自分が普段は興味を惹かれない物事や、相手の勝手な事情であったとしても、
親身になって耳を傾けては、生返事ではなくきちんとした返事をする。簡単そうに見えて、中々できない事だ。しかもそれを、次に会った時に忘れる様な事もない。
虎が皆から好かれるのがよくわかる。この人にとっては自分の周りの皆が大切で、その話を聞く事も、励ます事も、それ程苦に感じる事もなく。寧ろ喜んでそれを
しているのだった。今まで僕が見てきた世界の中では、初めてのタイプと言っても良かった。僕と話が合うという点を除けば、ハイエナの彼だって、視界の隅に映るくらいの様な
タイプであったのは確かなのに。
「あんまり僕と一緒に居ると、変な風に言われるよ」
一度だけ、そう口にした事がある。虎にだけではなく、ハイエナにも。ハイエナの方は周りの言う事に左右されない、自由すぎる気風があるのでなんともなかったけれど。
ちょっと悪く言っても良ければ、目の前の虎は八方美人だったから。それを悪く言いたい訳ではなくて、そうしたいと願うからこそ、僕と一緒に居る事を陰でとやかく言われては
気の毒に思ったし、傷つくとも思って、僕はそれを口にしたのだった。
「でも俺は、君とも一緒に居たいから。それに、とても綺麗な色をしているから」
そう言われた時、僕はなんとも言えない感情に苛まれた。嬉しい様な、悲しい様な。全てを話したとは言えないけれど、僕の人生がこの身体のせいでどんな風であったのかは、
それとなく伝えてあった。伝えずとも、ある程度は察せられるだろうけれど。旧式過ぎる一部の教育関係者からは、特に瞳の色はコンタクトか何かを使っているのだろうと槍玉に
上げられる事だってあるし。僕自身はツキノワグマのアルビノで、白熊にも似ているから。白い体毛の方を指して、染めているだろうとは流石に言われなかったけれど、通常では
ありえない色に対しては例え自前の物だと弁明した所で、釘を刺すような事を言われる事も場合によってはあるのだから。
そんな僕の体毛を、綺麗だと言う。白い体毛も、赤い瞳も、この人は綺麗だと言う。嬉しい気持ちが生まれて、それから悲しい気持ちも生まれる。
褒められても、今更な言葉は僕の心には素直には響かない。なんの皮肉なんだと、そんな気分になる。また自分が嫌になる。
わかっている。それはただ、自分が自分を認められないからそうなってしまうだけだって。目の前の虎は、素直な称賛でしか僕を見ていないのだって。けれども、僕は強くは
なかった。身体的なハンデを背負う人の一部には、自分のそれをチャームポイントの様にいう人も居る。これがあるから私なのだと。だからそれを悪く言われる筋合いはないのだと。
立派な心掛けだと思う。けれど、立派だと思うだけで、僕は同じ様にできるとも、またしたいとも思わなかった。他の誰でもなく、僕自身が。僕のこれを嫌っているのだ。
自分がそれを"嫌な物"だと認めて、そう思っている癖に。誰かが僕のそれを見て"嫌な物"だと。そう思うのはやめてくださいと。
そんな都合の良い事が、言えるはずもなかった。
今もそうだった。子供の頃のそのままが、今もまだ続いている。周りが大人になって、石を直接的に投げる事がなくなったとしても、傷つけられた僕自身はそれを忘れられずにいて、
そうして誰も投げない代わりに冷たい視線を送られる様になった僕に対して、僕自身が今は石を投げている。こんな身体で。こんな瞳で。それらを経てすっかり歪んだ心で、と。
だから今目の前に居る虎の言葉が。例え軽い気持ちから飛び出した物であったのかも知れなくても簡単に沁みて、揺らいでしまう。
親身になって僕の話を聞いてくれるその姿に、期待をしてしまう。もう期待なんかしないと、ずっと言い聞かせていたのに。大学に入って、ハイエナの彼とも友達になって、
楽しい日々が続いていたから余計だ。本当は僕にも別の道があって、それを歩む事ができたんじゃないかって、甘い期待がまた僕に寄り添う。高望みをしなければ、期待をしなければ、
それが叶わずにがっかりする事もないのに。期待を乗せた分だけ、失意に沈む事もなければ。期待していた自分が、自分自身に嘲られる事もないというのに。
「せっかく綺麗な色なんだから、隠してたら勿体ないよ」
牙を見せて、にこりと笑う虎が眩しかった。外見も、内面も、眩しくて。僕は苦笑をするだけだった。言っても無駄の様だった。誰と付き合うのかは、自分で決める事だから。
だから、また期待をしてしまう。
二人の友達に囲まれて、僕の大学生活はより一層充実した物へと変わっていた。
ハイエナの彼一人であっても、充分過ぎるくらいに贅沢な思いをしていたと、日々の喜びを噛み締めていたのに。今は虎が。虎の、あの人が居る。
彼と、あの人の二人が居て。二人とも、僕の事を考えながら話をしてくれて。とても嬉しくて、とても申し訳ない。本当は僕なんかより、いくらでも楽しく話せる相手が居るんじゃ
ないのかと。今は居なかったとしても、その気になれば見つける事だって簡単なんじゃないのかと。そう思わずにはいられない。
例えいつかそうなってしまって、僕と疎遠になったとしても。僕は恨む事できないと思う。楽しい時間を僕にくれる事を、一日、一日と。感謝する事しかできない僕だから。
「大分いい感じになってきたね」
「そうだな」
僕に対する、今風大学生イメチェンチャレンジも、最近はやや恒例化してきたきらいがある。彼とあの人が二人揃って、僕のファッションや、それから今までは散々やけ食いを重ねてきた
身体を少しずつ生まれ変わらせようと、あれこれと意見を口にする。ファッションに関しては二人とも明るかったけれど、その上であの人の方は肉体改造に関しても中々に造詣が深かった。
伊達に人の輪の中心に普段は居るだけの事はある。当然ながらあの人の方も、ある程度トレーニングという物を重ねて自分の身体をよりよくしているのだった。そして、そちらの方向での
話題が、ハイエナの彼とはまた違う話題として盛り上がるようにもなった。
二人からの意見を聞いて、僕は見る見るうちに変わってゆく。服の選択は鮮やかな色合いの物が多少は混ざり、それでも主張が激しすぎはしないものになった。僕は身体が大きいから、
あまりにも派手な色合いだと人目を引きすぎるから、程好い物が良いのだと。それであったとしても、今までの僕の着ていた服とは段違いだったけれど。安くて、目立たず、丈夫。僕の
ずれた審美眼から選ばれていた服とは、本当に何もかも違う。
服が変わって、アパートの部屋には苦情がこない程度にトレーニングのためのアイテムまで置かれて。置くのとトレーニングのための場所の関係で家具が邪魔だから、改めて場所を
決めなおして。それから食事も見直して。
全てが新しく、別物に変わってゆくかの様だった。そんな日々が、僕には快かったと。僕一人だったら、面倒臭い、しんどいで片付けられる様な事柄が、どうしてこんなに楽しいのか、
不思議なくらいだった。過食の制限すら、快い。あれはただ、一人きりの僕が。それでも満たされたい気持ちのままに、暴食を繰り返していただけだから。満たされた様な錯覚を覚えるのが
精々のそれと、友達が二人も居て本当に満たされた日々とを比べれば、どちらを取るのかなんてわかりきっていた。
楽しかったのだった。毎日が、とても楽しかった。二人と別れて帰路に着くのを寂しく感じて、来ないでくれと願っていた明日が来るのが待ち遠しくなって、目を覚まして視界に飛び込む景色が、
僕一人では絶対にありえなかったそれになっていて。少しも苦じゃなかった。全てが楽しい事で、意欲的に取り組む事ができたと思う。
だからこれは、幸せな事なのだと僕はすぐに理解した。別段、自分を不幸な奴だと思っていた訳でもない。不幸な生い立ちであったとしても、その後もくさくさと生きていたのは僕の責任であって、
それは僕の不幸ではないから。だったら不幸に見える僕のそれは、ただの自業自得でしかないのだから。だから僕は本当には不幸な訳ではなかったと思う。自分の力ではどうしようもない不幸に今も
苛まれている人が他にもっと沢山居て。本当に不幸で、本当に助けの手を必要としているのはいつだってそういう人だ。意気地なしの僕じゃない。
けれど、鏡の前で笑う僕自身を見て。ああ、幸せそうな人が居る、と。僕は自然にそう思ったのだった。だから僕は、自分が不幸なのかがわからなかったとしても、自分が今幸せである事だけは、
それを確認する術だけは、理解したのだった。例えその視界に白い体毛と、赤い瞳が広がっていたとしても。それでも鏡に映る僕の身体は逞しくなって、それから照れくさそうに、幸せそうに笑う僕が
そこに居た。最近では、友達と言える相手もほんの少し増えて。僕が変わるにつれて、世界も変わってゆくかの様だった。
「………………だから、その。好き、なんです。君の事」
そうしていつか、自分は絶対に口にはしないだろうなと考えていた言葉を僕は口にしていた。虎に、あの人に。僕の変化を一番に喜んでくれた人に。勿論ハイエナの彼も、僕の変化を楽しんでは
いてくれていたけれど。どちらかと言えば彼とは楽しい趣味の話を相も変わらず続けて、時には夜通し騒ぐかの様な、そんな関係の方でしっくりくるといった感じだった。
けれど、目の前に居る虎はそうではなくて。持ち前の包容力という物で、いつも僕の変化を見守ってくれていた。何よりも、僕の持つ物を。何も持っていない上に、他人と比べて普通ではない、
普通にすら決して届く事もない僕の持つ物を、まっすぐに受け止めてくれたこの人の事を、僕はいつの間にか好きになっていたのだった。
好きになる、という事すら。僕には最初は到底理解できない物だったけれど。友達としての好き、ですら最近ようやく二人に教えられてきたとか、そんな程度だ。それなのに恋とか、愛情とか、
そういう意味で好きになる事すらあるだなんて、僕はまったく思っていなかったのに。それでも気づけば目で追ってしまうのだった。沢山の話をしたのに、別れた後何をしているのか気になったり、
なまじ虎の方は人気者なだけに、もしかしたら他の人となんていつの間にか考えてしまって、その度に溜息が出そうになって。実際、一緒に居れば虎が誰かに告白されていた、なんて話を聞くのに
事欠きはしなかったし。一体いつから、この人はモテるんだな、なんて当たり障りのない感想を抱くだけの出来事が、胸を締め付ける程になってしまったのだろう。
鈍い僕でも、その辺りでようやく気付いた。これは友達としての好きだけではないものが含まれているのだと。
嬉しくて、悲しかった。普通にすら届かない癖に、こんな気持ちを持ってしまった事を、もっと素直にたった一つの感情で受け止めていたかったのに。
言い出さなければ、ずっと友達のままでいられる。
そう思っても、結局僕は気持ちを口にしていた。一つには、ハイエナにそれを相談したというのもある。彼は僕の気持ちを聞いて、かなり微妙な反応を示した。
「……まあ、やれるだけやってみりゃいいんじゃないか」
強く背中を押された訳ではなかった。それはハイエナが、弱い僕の心を心配していたのかも知れないし、色恋沙汰という目で見ればそれこそ虎は酸いも甘いも経験してそうな、少なくとも
多数から言い寄られるなんていうのは日常茶飯事の様な相手だ。爽やかなスポーツ体形に、勇ましい虎の顔に、優しい内面に。一体どこにケチをつけたらいいのかが、わからない。あえて
ケチをつけて良いのならば、周りの皆に優しくし過ぎているくらいだろうか。それで余計に人気が出て、時には迷惑を被る事もある。虎自身がそうだし、時折僕に飛び火もする。その度に虎は
何度も僕に頭を下げてくれていたけれど。
つまるところ僕と虎では大分つりあわないというか、レベルが違うというか。レベル1とレベル99くらいの差がある訳で。最近ちょっとあれこれ頑張っていくつかレベル上がったのが
精々の僕では、色んな意味で上手くはいかないだろうと、ハイエナは見通していたのかも知れなかった。
それでも僕は結局、虎に告白をした。夕陽に赤く照らされた帰り道に。夕陽に照らされた黄金の体毛が、とても綺麗で。ああ、こんな人と一緒に、生きてゆきたいと。そう、
切実に思ってしまったから。不思議な物だった。ハイエナや、虎に会うまで一人ぼっちで生きてきて、だからこれからの人生もずっと一人きりだと思っていて。その上で、それが別に
嫌ではないと思っていたのに。寂しいと、周りからは言われるのかも知れない生き方が、僕にとってはもはや当たり前の事で。寂しいのかも知れないが、同時に気楽でもあって。だから
ひとりで居るのを苦だと思う事もなかったはずなのに。それなのに今目の前に居る虎と、一緒に居たかった。どこかに行ってしまう、という事が。無性に悲しく感じられて、胸が痛かった。
僕の言葉を聞いて、虎がしばらく固まって。それから。
「……ごめん。ごめんなさい、俺」
不意に、その瞳に大粒の涙が浮かんで。それを見て僕は、告白が断られた事なんかよりも。虎を泣かせてしまった事。傷つけてしまった事の方が余程自分の胸に突き刺さるのを感じた。
僕は大慌てで辺りを見渡して、人目がない場所へと虎と一緒に。僕の瞳にも、既に涙が浮かんでいた。大の男二人が泣きだしているところなんて、誰にも見られたくなかった。僕はまだいい、
虎の姿は見せたくなかった。
何度も謝りながら、虎は一頻り泣いていた。それから鼻声で教えてくれる。虎にも好きな相手が居るのだと。僕の気持ちを嬉しいと感じたのに、それを受け入れられないのだと気づいて、
涙が流れてしまう事も。僕もまた泣きながら、大丈夫だと何度も口にした。そうしながら、僕はこの人の事を好きだと思いながら、けれどそう思うばかりで深くは理解していなかったのだと
思い知る。虎と親しく接する様になっていたのに、僕は虎にそんな思い人が居るだなんて知りもしなかったのだから。きっと自分の事に。自分が初めて味わう幸せにばかり気を取られて
いたのだろう。そんな僕に、他人をしっかりと見る余裕なんて物があるはずはないのかも知れなかったけれど。それでも事実として、僕の安易な告白で虎には傷がついた。
僕にも、傷がついた。けれどそんな物はもう、どうでもよかった。既に無数にある物の中にたった一つ増えただけ。それだけだ。謝り続ける虎に、大丈夫だと言い聞かせて。ああ、きっとこれは、
僕が僕自身に囁く言葉でもあるのだろう。
大丈夫。大丈夫だから。僕は大丈夫。ね。
「何が大丈夫なんだよ」
全てを終えて、ハイエナの彼の下へと報告に戻った際に、そう言われた。本当にそうだと思う。一体どこを見て、僕は大丈夫だなんて言っていたのやら。虎から見たとしても、
そう口にする僕は少しもそんな風には見えなかったのだろう。そう見えたから、尚泣いて謝っていたのだろうに。
けれど、僕の心は意外にも早く立ち直っていた。立ち直るというか、少なくともそれで虎との友達としての関係すら放棄してしまうのは、とにかく嫌なのだと。悲鳴を上げる
様に、胸の中から突き上げてくる物があった。だから僕は、振られたにも関わらず虎との関係もそのまま続けて。それどころか、教えてもらったその恋を応援する事にした。
二人とも、そんな風に振る舞う僕を見てなんとも言えない顔をしていた。虎は僕に対して申し訳ない気持ちを抱いていたのだろうし、ハイエナの方は鼻で笑っていた。多分、
馬鹿だと思われたと思う。僕自身も、そう思う。こんな事をしたって、なんにもならないって。それでも僕は虎を応援していたかった。それはいつか虎が、虎の好きな人に振られるかも
知れないからとか、そんな淡い期待をするものでもなくて。そうではなくて。
それに、虎に好きな人を教えてもらってその相手を見たら。少し冷静になれた僕が居た。虎が好きになるのも頷けるくらいに、立派な人だった。虎よりも硬派ではあるけれど、文武両道の人で、
自分の夢や目的に直向きな人だった。虎はそんな相手を好きになって、少しでも追いつきたくて努力をしていたのだった。そんなまっすぐな姿勢が、僕の目にも留まったのだった。
お似合いの二人だと思った。それから、僕は真底から馬鹿な真似をしたと思い知った。自分が調子に乗っていたんだって、今更の様に気づいた。鏡を見て自嘲気味に笑う。多少は
マシになったとはいえ、それは以前の僕と比べたらマシになったと、ただそれだけの話であって。まだまだだらしがない体形の、そして変わる事のないアルビノの特徴を残した僕がそこに居た。僕は
一体何を勘違いしていたのだろう。どんなに努力したって、虎と、その思い人の様な。皆が好いてくれる様な人物になるには自分は程遠いって。そんなのすぐにわかるはずなのに。大体今更の様に頑張った所で、
周りはずっと前から頑張っているのだから。そんな彼らに僕が敵わない。釣り合う事がないなんて、至極当然の事なのに。その上で、これなんだから。赤い瞳から、静かに涙が流れる。元々赤いのに、
更に充血して、気持ちが悪い。こんなに気味が悪い。いい迷惑だったろうに。そんなの最初からわかっていたはずなのに。また期待してしまった。また。
それでも僕は、虎の恋を応援し続けた。とても行動力が強いのに、好きな相手にはどう接したらいいのかと迷ってしまう虎の背中を押して。押して。
それはそれで、不思議な日々だった。大学に入るまでの空虚で、無味無臭であるかの様な日々とも、大学に入って、ハイエナや虎と知り合ってからのキラキラと輝く様な日々とも、また違う。
胸の痛みを覚えているはずなのに、歩みを止める事もできない様な。それでいてハイエナとの趣味の付き合いは変わらずに続けられて、それは楽しい事であるのは変わりがなくて。けれども
家に帰れば、やっぱり以前とは違っている様な。鏡の前に立つ時だけが、恐ろしいかの様な。そんな日々だった。
そしてそんな日々もまた、過ぎてゆく。
虎の想いが通じた日だ。スマホにかかってきたその連絡を受けて、雨の降る路地に僕は一人で入っては、静かに泣いて聞いていた。必死に声に涙がにじまぬ様にして。
一つだけ、虎と決めていたというか、僕が宣言していた事があったのだ。虎の恋が上手くいったら、もうこんな風には連絡をしないと。少なくとも、以前の様に会う事はしない様にすると。
それぐらい、虎もまた僕の傍に居てくれたのだった。ハイエナの彼と同じ様に、そうしてくれていた。今後はそんな僕の存在が、邪魔になってしまう。邪魔にならずとも、きっと僕の方が
それを受け止めきれないかも知れないと思って。ずっと虎の事を大切に思って、その幸せを願っていたのに。いざ幸せになった姿は見ていられないだなんて、変な話だけど。それが無理なら、最初から
応援しなければよかったのにって。
けれど、電話の向こう側で僕よりもずっと泣いている虎の声を聞く度に、この選択が正しかったのだと、僕は必死に思おうとしていた。虎は人気者だから、誰かを振るなんて事もしょっちゅうだ。けれど
そんな時、確かに申し訳なさそうな顔はするけれども。それでも流石に何度もそうしていれば慣れる物もある。だから泣きはしない。虎がこんなに泣いてくれるのは、他でもなく僕の事を案じてくれていて。
それが、今は僕には幸せな事だった。惨めな奴だと、普通の人には。周りの人からは思われてしまうのかも知れない。けれど自分が大切に思う相手から、自分自身が大切に思われているのを理解する事ほど、
僕にとって幸せだと思える物はなかったのだった。
僕が誰かを大切に思う事があったとしても、誰かが僕を大切に思ってくれる事があるだなんて。
「幸せになってね」
良かった。おめでとう。そんな言葉と、最後に切り出したその言葉。僕がまともに言えた物なんて、それくらいだった。それでも中々頑張ったと思う。その場で泣き崩れて、虎を放って泣き喚く事もなく通話を終えて。
差していたはずの傘も忘れて、雨に打たれながら自分の家へと歩き出した。どうしてこんな事をしているんだったかと、思い返す。そうだった。ハイエナを待たせているのだった。今日は、二人で夜通し好きな番組を
見ようって。それで、つまみを買い忘れていたから買いにきて。ああ、それを用意するのも、結局は忘れてしまった。けれど、こんな姿ではどこへもゆけなくて、とぼとぼと家へと。
雨に打たれながら、僕は静かに振り返っていた。僕の抱いていたはずの恋を。これが、恋だったのだろうか。愛情と言えるそれであったのだろうか。よくわからなかった。僕はずっと一人ぼっちでいたから、
降って湧いたようなこの気持ちがなんなのか、実の所計りかねていた。誰かがこれを、愛であったのだと。虎や、ハイエナがそう言ってくれれば、そうだという気もする。惨めな僕の、哀れな依存だと誰かが嗤えば、
それもそうだという気もする。けれども虎が大切だったのは、本当だ。好きだっていうのも、本当だった。虎と、それからハイエナ。この二人に支えられていた日々は、あまりにも幸せだった。幸せ過ぎたと思う。
あまりにもあっさりと、自分が幸せなんだって。そう思わされてしまったのだった。鏡に映る僕はいつだって嬉しそうで。僕の知らない僕が、いつの間にかこの身体を覆ってそこに立っていた。だから僕は、
その気持ちに素直になるしかなかった。虎が振り向いてくれないとか、そんな事ははっきりいって小さい。あまりにも小さな事だった。そうじゃない。そうじゃないんだ。
僕が幸せだと思わされてしまったのだから、僕もまた相手が幸せに思える様に行動したかったのだった。それができない僕なんて、僕自身必要が無かった。僕自身が、虎の幸せになりたかったと思う。だけど、
そうはなれなかった。僕にとっての幸せは虎であったとしても、虎にとってはそうではなかった。だから、足を止めずに虎を応援した。応援する度に、僕自身の胸が痛んでいたとしても、どうでもよかった。不思議な事だと
思う。ずっと、傷つけられて。傷つくのに疲れて、一人きりでいようとして、それが楽だと思ってもいたのに。そんな自分なんてどうでも良くなるくらいに、虎の事を好きなのだった。愛して、いたのだった。多分。今の僕には、
よくわからない。この気持ちの正体が愛情のそれであったのかが、わからないから。確かめようとした。食事を変えて、生活を変えて、服装を変えて。変われば変わる程に、何かを成し遂げられれば成し遂げられる程に、
胸が痛めば痛む程に。痛む胸を自覚する度に。自分の気持ちが証明できると信じていた。証明したかった。他の誰でもなく、虎にですらなく、僕自身に。それを教えたかった。こんな僕でも。何もかも間違えて生まれてきて
しまったかの様な僕でも、誰かを愛する事ができたのだと。大切にする事ができたのだと。例え愛されなかったとしても、愛する事はできたのだと。
証明、できたのだろうか? こんな事で?
行きつくところまで行ってしまった僕の想い。今ではただ、雨に打たれて、濡れた身体の感覚を味わうばかりだった。季節柄の、生暖かい雨。僕の大きな身体の、白い体毛にそれは沁みて、傍から見たら、
ぞうきんの様だろうな、なんて思う。汚れをふき取って、汚れ切ったら捨てられるかの様な。水と汚れをたらふく吸い上げて、用済みになったそれの様だった。
沢山の雨の中に、涙も交ざって。まだ自分が泣いているのかも、僕自身はわからなくて。
それでも、自分のアパートに。ハイエナの持つ部屋の扉を開ければ。しとどに濡れて、それでもその上からまた僕の涙が流れている事に気づいた。雨のせいにできないぐらいに流れ続ける涙は、ハイエナが
僕を出迎えてくれても止まる事はなかった。僕がどうしてこんなになってしまったのか、ハイエナはそれ程苦にもせずに理解した様だった。彼にだけは、虎の事を話していた。この恋が上手くはいかないかも
知れない事も、きっと僕よりも彼の方がよくわかっていたただろう。僕と違って、ずっと経験が豊富な彼なら。こんな風に傷つくよりも先に見切りをつける事もできたのかも知れなかった。
滲んだ視界の中で、何度も何度もハイエナが立てる物音が。呼吸をしたり、かぶりを振って鬣が揺れたり、溜め息がしたり。何かを言い出そうとして詰まったり。そんな音が、何度も何度も続いた。
優しい人だなって思う。僕の抱いた想いの終着点を、僕よりもずっと彼は見通していた。僕も、彼程ではないけれど理解していた。だから自業自得だと、頭が悪いと。そう笑ってくれたっていいのに。
慣れるまで僕は目を白黒させる事もあったけれど、いつもは僕の事を平気で馬鹿だと言ったりもしていた癖に。こんな時ばかりは、決してそうは言わない。虎とはまったく違う表現の仕方だけど、やっぱり
それも優しかった。こんな時だけど、僕は改めてハイエナの事を好きになって。
「悪い。……ごめん」
けれど、その内彼の様子がおかしくなって。僕が声を掛けた後に、ハイエナは身を乗り出すと僕を軽く手で払う様にすると、部屋を出ていってしまった。
僕は最初、茫然とそれを見て。というよりは、聞いて。ハイエナが立ててくれた物音の全てが、遠ざかってゆく。僕自身の立てる音が、耳にやってきて。だから。ああ、僕は結局また、ひとりになってしまったの
だと。そう思った。
追いかけたい気持ちが溢れて、扉に手を伸ばそうとした。けれど、それ以上僕の身体は動かなかった。予想していた虎との別離よりも、予想し得なかったハイエナの行動の方が、僕の胸を苛んで。
けれど、よくよく考えればそれは当然の事なのかも知れなかったと遅れて理解がやってくる。だって、彼はずっと僕の話を聞いてはいたけれども、応援もしていたのかも知れずとも。それでも僕の事を
案じてくれていたのだから。それなのに、今こんな風になって戻ってきた僕に呆れたとして、なんの不思議があるだろうか。例え僕がほんの少し持ち直したところで、楽しい趣味の話に以前の様に興じる事も
できずに、うじうじと悩んでいるのが僕自身にも手に取る様にわかる。そんな奴の相手をしたくないと彼が怒ったところで、そんなのは当たり前の事だった。
理解をして。それから、とうとうこの日が来てしまったんだな、なんて僕は思った。
いつも、いつも。ハイエナや虎がまた後でと言って、次にまた僕に話しかけてくれる度、思っていた。まだ僕とこうして一緒に居てくれるんだなって。ずっと幸せな日々を送っていると自負をしていながら、本当は
いつだってそれに怯えていた。またいつか、がもう来なくなる日に。いつかはどうせやってくる日に。話しかけられる度に安堵しては、その後楽しい話をして幸せを噛み締める度に、いつか訪れるであろうその時に
対する恐怖ばかりが芽吹いて。
ああ、それが今日だったのかと。そう思った。
しばらくの間、茫然として。それから僕はふらふらとしながらもどうにか立ち上がると、靴を脱いで。服をほとんど破り捨てるかの様に剥いでは。もう周りなんて気にしなかった。その辺りに投げ捨てた。裸のまま、
ベッドに倒れ込んだ。ふわっと全身を包んだ感触が、次の瞬間に僕の体毛から水分が移動したせいで消えてゆく。もうどうでもよかった。寒くなかったはずなのに、身体が震えて。胸の中というよりも、身体全体が
空洞になってしまったかの様だった。当たり前だ。あんなに胸の内が温かかったのだから。それだから幸せだとも思っていたのだから。そんな温かさも、二人と共に出ていってしまったのだから。
一度倒れると、もう一切の力が入らない。沈む様に、意識が落ちてゆく。
もう目覚めたくないなと、そう思った。明日が待ち遠しかった日々が今となっては懐かしく。そうして本当に懐かしさを覚える、朝日の訪れに怯える日々がまた始まるのだった。慣れ切っていたはずなのに、
それもまた辛く思えるのは。それだけ僕が幸せだった証拠でもあった。それだけが、冷たくなった身と心にはまた少しの温かさとして灯った。
僕が誰かを大切に思うだけではなく、誰かが僕を大切に思ってくれて。
僕が誰かを大切にするだけではなく、誰かが僕を大切にしてくれて。
そんな日々が、一体どれ程大切な物だったのかを。ずっと理解していたはずだけど、それでも改めて思い知った。
次に目覚めるのが怖かった。模様替えをしたせいで一人きりだった時よりずれて見える天井も、改めた服装も、鍛えるために揃えた器具も、鏡に映る少し引き締まった僕自身も。
変われば変わる程に誇らしく、達成感を覚えさせてくれた全ての目に映る物が、明日からはただただ僕を苛んでゆくのだろう。虎どころか、ハイエナからも見限られた僕の事を。僕自身と共に嘲笑ってくるのだから。
疲れた、と思う。疲れたと思う事も、久しぶりだった。ずっと、こんな事が僕にもできた。嬉しい。もっとこうしていたい。そんな気持ちで前に進んでいて、疲れたなんて思う暇もなかったのだった。
こんなに疲れ果てていたのか。僕は。
もう疲れてしまった。
最悪な気分で眠りについて、目覚めた後は何も見ない様にして、それでも空腹感には負けて詰められる物を口に詰めて。それから一人きりの日々がまた始まる。僕の下へと戻ってくる。
あなたが居なければ生きてはゆけない、なんて大層な事を思っていた訳ではないけれど。また一人きりになっても回りだしてしまう時間も、覚えてしまう空腹も、ただただ恨めしかった。
肩の荷が少し下りたとも感じてしまうのは、長い間ひとりきりであったせいだとも思えた。やっといつも通りに嫌われて一人になる事ができたと。訳のわからない充足を覚えてしまう辺りが、本当に惨めだと思う。
けれども、後悔はしていなかった。傷ついたのかも知れない。若い人は。いや、僕も若いんだけど。若い人は傷つくのを怖れて最近は恋をしない。少なくとも攻める様な恋はしないというらしいけれど、そういう所は
僕には一切無かったなと思う。どれだけ傷つこうが、壊れる日々も糞もないのだから当然だけど。深く傷つく事を怖がる必要もないし、アプリを通して知り合ったそれ程知りもしない相手とセックスでもして、
浅い付き合いの上で楽しさだけを味わう事にも興味が無かった。どれだけ傷つこうが、一人きりで生きてきた今までよりも下なんて無いのだから。
そういう意味では、力いっぱいやれることはやったのかな、と思う。
一つだけ気になるのは、ハイエナの事だった。虎の事は、もう良かった。良かったというか、良くはないのだけど。全然良くないけれど。それでも虎は幸せになりにいったのだから。もう僕にしてあげられる事が
何もないのがわかりきっていて。けれど、ハイエナの方は僕には気がかりだった。ハイエナにも見捨てられてしまった。それだけだったら、それも良かった。楽しかった日々を振り返って、また一人で沈んでゆく
日々に戻るだけだった。ただ、あの時は錯乱しきっていてわからなかったのだけど。よく考えたら、ハイエナが僕に対して怒りや、呆れを覚えて見限ったとしても。外は結構な雨が降っていて。その上でハイエナは
飛び出す様に僕の部屋から立ち去ってしまったのだった。ハイエナが差してきた傘が、そのまま置いてあって。ただ怒っていたり、呆れていたり。言ってしまえばそれだけであるのなら、そんな風には出てゆく事も
ないだろうと思う。その上で、風邪を引いていないかなんて心配もしてしまう。僕も少し引いた。引いたけれど、最近痩せて健康的になったので治るのも早かった。なんだかちょっと恨めしい。
二日程は寝た切りになってから、大学へと顔を出して。元々休みだったのでそれ程穴を空けずには済んだのだけど、そこにハイエナの姿はなかった。虎は来ていたのを、遠くから確認して。近づかなかった。
心配になって、何度もハイエナには連絡を取ろうとした。もう嫌われてしまったというのなら、ある意味では気兼ねなく連絡をできる。その癖足を運ぶのは中々躊躇われて。けれども結局は一度足を向けて。だけど
アパートの部屋の前でインターホンを押しても、ハイエナが出てくる事はなかった。
心配なのに、できる事がないというのは苦しい物だった。それから、まだハイエナに対してそう思う事ができる自分が、ほんの少し嬉しかった。もう嫌われてしまったのかも知れないけれど。嫌われていても
良かった。せめてハイエナが元気にやっていると、それだけ知る事ができたのなら、それで良かったのに。
すごすごと家に帰って、ぼんやりと過ごしていた頃。不意にスマホが音を出して。その着信音がハイエナ専用の物だと知って、僕は大慌てでスマホに飛びつく。
「もしもし!? 大丈夫!?」
「……」
自分で思っていたより、僕はハイエナの事を心配していたんだなって思った。心臓が飛び跳ねて、声が震えて。こんなになっていたのは、虎に告白した時以来だと思う。それで確かにハイエナもまた僕にとって
大切で仕方がない相手だったのだなと、改めて理解をする。虎の恋が実って、ハイエナが僕の部屋を出ていってから今の今まで止まっていた僕の時間が、また動き出したかの様だった。
「今から会えるか」
ハイエナの話を少しでも聞こうとしたところにそう切り出されて、僕は遅れて承諾をして。通話を切ってから、慌てて部屋の掃除をする。流石に脱ぎ散らかした物とかはずっと置いておくと下手をすればそこからカビでも
生えかねないから片付けたけれど、だからといってそれ以外の物は随分とおざなりな有様だった。そうしてその途端に、僕の視界に全ての物が飛び込んでくる。幸せだった日々の残滓の何もかもが。
「……」
急いで片付けなくちゃいけないのに。僕はその場に座り込んでしまう。あんなに心地よかったこの光景。何もかも失った日にはあまりにも居心地の悪く感じたこの部屋。今は、どうだろう。ただ大切な日々が、
僕の中に確かにあって。不思議だった。思っていたよりも、辛くない気がする。
きっと、ハイエナのおかげだった。もうこれで終わりだと思っていたのに、連絡が取れた。嬉しかった。もしかしたら、先日の事はあまりの怒りに我を忘れて傘もささずに飛び出してしまって。そうしてこれから、
本当に僕は全てを失くしてしまうのかも知れないけれど。だけど少なくとも今の間だけは、僕はハイエナのためにと改めて気持ちを持ち直して、見るのさえ避けていた物に手を伸ばした。胸が少し痛んだ気がするけれど、
僕にもまだ大切な物があるから。自分以外の、大切な物が。そう思えただけで。そう思えた日々が確かに僕の中にあっただけで。その日々が幸せであっただけで、もう充分だった。
充分なはずなのに、また期待をしてしまった僕自身に、苦笑をする。苦笑をして、けれどやっぱり悪い気分ではなかった。楽しくて、幸せな日々だったのだと。そんな日々をくれた人に感謝の念が湧き上がるくらいだ。
掃除をどうにか終えた頃に、インターホンが鳴って。思っていたよりも、ハイエナが来るのは遅かった。そのおかげで掃除の手が鈍っていた僕も間に合ったけれど。ハイエナとはずっと連絡が取れていなかったし、
大学にも来ていなかったみたいだから。インターホンが鳴った瞬間、僕は緊張をして身体を強張らせたけれど。それでも会いたくて、すぐに飛び出していった。
「久しぶり。……大丈夫?」
扉を開けた先に、いつもの彼が居る。なのに僕はそれを見て、思わず固まってしまった。いつもは彼なりのスタイルがあるとはいえお洒落に気を遣っているはずなのに、服はくたびれて、鬣も普段よりずっとボサボサで。なんだか、
そう。憔悴したという言葉が合うかの様な。どうしたのだろう。僕も似た様な物とはいえ、何かハイエナに良くない事があったのかと心配が募る。まさか僕の失恋を聞いて、僕を心配してこうなってしまった、なんて事はないだろうし。
それであったのなら、あの日僕を押しのけて出ていったりするのはちょっと違うと思う。じゃあ、何にこんなに疲れ切った様な顔をしているのだろう。
とにかく立ち話をしている場合ではないと。僕は部屋の中へと彼を促す。まだ僕と友達で居てくれる気があるのなら。流石に、そんな事をまっすぐ言いはしなかったけれど。そう考えて、少し僕は内心で怯えた。二人とも
失ってしまった。そう思っていたけれどハイエナは今戻ってきてくれた。嬉しくて、けれどまた失う気持ちを味わうのかと、躊躇いも生まれた。
だけどやっぱり、そんなのは小さな事だった。僕が幸せだと思えた日々を形作ってくれた、もう一人の人なのだから。例えどんなにこの後傷ついたって、また一人ぼっちになったって、それはもう慣れ切った世界に、
僕が帰ってゆくだけの話でしかない。大丈夫だ。虎を見送る日がいつか来ると覚悟していた様に。また一人きりになる日が来る事だって、もう覚悟している。
一人になったって、彼らを恨む気になんてなれない。彼らにとっては沢山居る友達の一人でしかなかったのだとしても、少なくとも僕の今までの人生の中では、何よりも幸せな日々だったのだから。
変わってしまった何もかもをも、大切にしてゆけるはずだ。
「訊いていいのかわからないけれど……どうしたの?」
気持ちを切り替えて、僕は部屋に通した彼へと問いかけた。僕の気持ちも、今はいい。そんなのは、彼が帰ってからいくらでも構っていられるのだから。
だけど僕がそう問いかけても、彼の答えは芳しくなかった。彼らしくないと思う。いつだってはっきりと僕に物を言ってくれるのに。わかりやすい同情の様な言い回しもせず、けれど僕の事を大切にする様に
してくれる。だから僕も、今こんな状態になっても彼を気遣えるのだった。
大切にされたと思うからこそ、また大切にする事もできるのだった。
けれど、僕が冷静にそう考えていられたのは、そこまでだった。僕の言葉を遮るかの様に、ハイエナが僕に抱き着いて。僕は一瞬、何がなんなのかわからなくて息を詰まらせる。彼からのスキンシップは珍しい訳では
ないけれど、不意打ちは流石に驚く。じめじめとした湿気に覆われた中を歩いてきた彼の身体から、土の匂いと、汗の臭いが立ち上っては、僕の鼻腔を突いた。いつもだったら僅かに香るはずの香水の匂いも、今はしない。
僕はどうしたら良いのかわからなくなって、ハイエナの様子を少しだけ観察する。軽い冗談を言い合って、抱き着いてくる。そういう物だったら、それはいつもの事、とまでは言わないけれどたまにはある事だ。
だけど、やつれた上に身体を震わせたハイエナにそんな物は微塵も感じられなかった。だから僕は、本能的に彼の身体に腕を回してしまった。よくわからないけれど、今彼が僕の事を必要としてくれているの
だけはわかったから。だったらまずは、ハイエナを落ち着かせてその話を聞くためにも、僕はそうして。そうしていると、僕はハイエナの頭を抱えた僕の胸に冷たい物を感じて、ぎょっとする。
泣いている。彼が、泣いていた。
一瞬にして僕の思考がそれに覆いつくされた。どうしたのだろう。彼が泣く所なんて、僕は見た事がなかった。僕は彼の前で、主に虎の事や。それから趣味の方でも感動的な場面などを見て時折泣いたりも
していたけれど。ハイエナはいつだって泣く事はなかった。思えば僕はなんでも明け透けにハイエナへと語ったりしていたけれど。ハイエナはあんまりそういう、自分の弱味の様な物を僕には見せなかったなと思う。その分
苛立ちの様な物は遠慮もなく表面に出したりもするけれど。
「好きなんだ。お前が」
籠った声が告げる。それを聞いて、僕の方が身体を震わせた。
聞き間違ったのかと思った。聞き間違いではなかったとしたら、それは友達としての方かと。でも、今の彼を見て。その上でこんな状態で言う事ではない事も僕はよくわかっていて。
「愛して……」
彼の言葉が、胸に突き刺さる。頭の中が一瞬で真っ白になって。それから色んな言葉が溢れてきて。けれど最後に残ったのは、どうして、と。それだけだった。僕は彼にとって趣味ではない相手のはずだったのに。
僕が変わったからだろうか。彼にとって、好ましく思える程に僕は変わる事ができたのだろうか。
だったら僕の答えは、たった一人目の前に残った人を傷つけない。大切にする物だと決まっていた。
決まっていた、はずだった。なのに、途端に胸の中に虎への想いが溢れてくる。
ハイエナの事が嫌な訳じゃない。大切だし、好きだ。きっと僕に唯一残された、少なくとも僕の目の前に居てくれる人だ。
でも。それだからといって、虎の事を忘れるとか。そんな事はできなかった。忘れるためにハイエナを利用するのも嫌だった。だったら真底からハイエナを愛せばよかったのかも知れない。
だけど、今の僕にはそれもできなかった。ハイエナから好きだと言われて、急にハイエナを意識して。確かに僕の中で、彼の位置が動いた気がする。けれど、同時に苦しくなった。
僕は虎の事を、まだ好きでいたかったのだ。まだ一番に想っていたかったのだった。あんな風に別れて、傷を負って。もう僕との縁が切れてしまって。僕となんの関係のない人になってしまったとしても。
まだ好きでいたかった。愛していたかった。胸の一番大切な部分に、仕舞っていたかった。
だけどここで、ハイエナを傷つける事になると思うと。僕はもっと苦しくなった。どちらかが苦しむのなら、僕の方なのに。すぐにそれを受け入れる事ができないでいる。ハイエナにだって、沢山の恩があるのに。真っ先に
僕を見つけてくれた人なのに。僕が我慢をするくらい、なんて事はないのに。苦しいのなんて慣れていたのに。ああ、でも。こんな苦しみには、僕は慣れてはいなかったのだった。一人ぼっちの苦しみに慣れていただけで。
大切な人と居て感じる苦しみになんて、慣れているはずがなかった。
どうしたら良いのだろう。どうすれば、彼を傷つけずに。彼が幸せになれるのだろう。わからない。
誰か助けて。
彼を、助けて。